SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

神戸編(23)

 ありえませんから。
 先輩、ほんまに、ありえませんから、って言われてもうたで。瑞希に。ものすご呆れ果ててるみたいな、わなわな震えた青い顔で、俺の顔をまっすぐに見ての、真っ正面からの、先輩ありえへん宣言。
 俺は正直それにちょっと、グサーッて来てた。幻滅されてもうた。ありえへん言われてた。いつも先輩すごいなあて言うてた奴に。俺のこと、憧れてますっていう目で見てくれてた瑞希に。ありえへんて言われたで!!
 格好悪いんや俺! そんな衝撃のインパルスが全身を駆けめぐる。雷に打たれたようなもんや。今まで、何とかしてそれだけは避けなあかんと内心思ってたのに、結局、お前はアホかみたいな目で瑞希に見られたで!
 そうや。俺は実はアホやったんやで瑞希。知らんかったやろ。三万三年の恋も醒めたやろ。俺のこともう忘れられるようになってきたやろ。それでええねん。涙が出そう!
 今後はただのご主人様と犬で、お前は誰か良さそうな相手がおったら、新しい恋をすりゃええから。大体、俺は三日後にはもう、どないなってるか分からんような男なんやから。お前はお前で幸せ探しを頑張ってくれ。
 すまんかった瑞希。俺は俺でほんま言うたらお前のこと、ものすご好きやったんやけど、結局ほとんど何も応えてやれんままやったな。でも、しょうがない。水地亨が強すぎる。俺はこいつを愛してんねん。もうどうしようもない。
 お前が俺に幻滅してくれて良かったわ。これで俺もちょっと肩の荷が降りる。その割に泣きそうやけど、胸の奥がズキズキするけど、でもきっとお前のこと、幸せになれよって優しく笑って送り出してやれる。それぐらいのエエカッコやったらできる程度には、俺も大人のつもりやわ。先輩やからな!
 でも、あいつ、まさかその足で出ていくやなんて……。よっぽど幻滅したんやで。
 亨と俺の無計画すぎる話を聞いてもうた直後に、あいつは、ありえへん言うて、逃げるように部屋から出て行った。ほんまに走って出ていったで。声かける間もなかった。たとえ間があっても、どうせ気まずすぎて、俺は声なんか出えへんかったけどな。
 俺はめちゃめちゃクヨクヨしていた。ベッドで裸で、水地亨と抱き合いながら。
 まだ真っ昼間やで。もろに飯時や。せやのにパン食いながらベッドでお医者さんごっこや。布団でパン食うなんて。せやけど亨がパン食いたい言うし、食い終わるまでいちゃつくの我慢できへんて言うから、しょうがない。同時にやるしか。
 瑞希は亨のノー・プラン作戦の堂々たる宣言を聞き、度肝を抜かれたようやった。感心したわけやない。悪い意味でのカルチャーショックで、腰抜けそうなったらしい。
 死ぬか生きるか、伸るか反るかの危険な局面で、ぶっつけ本番。アイデア無し。基本アドリブ。出たとこ勝負。それでええやん。愛があれば大丈夫みたいな、亨の突き抜けたノリを見て、それでええのか先輩と、瑞希は必死で俺に訊いてた。
 それでええのかどうか、正直俺には分からん。どうすりゃええのか、もう分からん。めっちゃ一杯悩んだよ。悩んでたやろ。その話は延々したやろ。紆余曲折あったよ。ここは潔く俺が死のう。やっぱあかん。水煙、あかん言うてる。いや、でも、やっぱここは男らしく俺が逝こう。いや、そんなん許さへん。亨、あかん言うてる。ほんならどないすんねん。堂々ノー・プラン宣言。そういう経過やないか。
 もう訳わからんのや。真面目に考えんのアホくさなってきた。
 もちろん真面目に考えなあかんのやけど、アホの考え休むに似たりや。いっぱい考えたけども、結論出ない。出たと思ったら崩される。俺がどんなに英雄的決意を固めても、水煙出てきてあかんて一喝。亨が出てきて、許さへんでと回し蹴り。その攻撃に、気の弱い俺の決意は脆くも崩れ去る。
 迷ってんねんから。俺かて死にたい訳やないから。怖いねんから。それでも必死で覚悟決めてんのやないか。
 なんで誰も賛成してくれへんの?
 俺も自分なりに、よくよく考えた結果の決意やのに。
 止めてくれるのは嬉しいよ。亨や水煙に、ああそうかアキちゃん、ほな死ねば、とか言われたら、それはそれでションボリやからな……。そうやけど、俺にも、もうちょっと、英雄性を期待してくれてもええんやないのか。一応やけど、俺も英雄の息子なんやから。顔そっくりなんやで、おとんと俺は。靴のサイズまで同じなんやで。なんであのアホみたいなおっさんが人々のために潔く死ねて、俺にできへん訳がある。
 瑞希はそれでええって言うてたで。義のために死ぬ。それでこそ男みたいな世界はありますねって言うてた。そうやろ。俺もそう思う。
 まあ、あいつはな、俺のこと、ほんまに死ねばええわと思ってたみたいや。とっととくたばって、地獄へ堕ちろと。まあ、思われてもしゃあないわ……。
 それに、瑞希はほんまに、死ぬのが怖くないらしい。経験者やから?
 死ぬことそのものは、もう平気なんやって。めちゃくちゃ苦しいけど、一回死んでるからな。どの程度、苦しいもんか分かってる。せやからそれはもう覚悟決められるんやって。強い子すぎやな、あいつ。
 それより怖ろしいのは、死んだ後のほうらしい。冥界や。
 もしも地獄に堕ちてもうたら、死ぬより怖い苦しみが、永遠に続く。罪業を燃やす猛火に焼かれて悶え、でももう死んでるから死んで終わりにはできへん。熱いし痛いし、息もできへんのに、死なれへん。腹減っても食うもんはない。それももう、死んでる身やから、餓死して終わりにはできへん。まさに地獄。ほんまもんの地獄やから当たり前。
 でも、自分と逝くんやったら先輩も何とかなるやろと、瑞希は思うらしい。スタッフやから、冥界の。堕天使やしな。地獄の眷属や。あいつに魂売ったらええねんて。ただし永遠に成仏できへんで。生まれ変わったりもできへん。ずうっと悪魔の下僕のままや。
 でも、それでいいですよね。それでいいって言うてください。次は俺の番やないかと瑞希に例の調子でかき口説かれ、俺は何となくなし崩しに、それでいいと言うてた。神戸の街で鬼のように買い物しながら。そんなストレスもあって、バイ・ナウ病の発作が止まらん止まらん。現実逃避やから。
 瑞希はなんでか、スカウトされるたちらしいなあ。顔、可愛いからか?
 お前、顔可愛いなあ言うて、天界からスカウトされて天使になってたんやんか。それだけやのうて、冥界からもスカウトされてたらしいで。引く手あまたやな、まさに。
 お前、顔可愛いなあ。それに悪い子バッド・ボーイっぽい。いけるんちゃうか。邪悪系。今、いい新人おらんか探してんのやけど、囚人なんかやめてスタッフならへんか、って、地獄の鬼だか悪魔だかに、優しゅう言うてもろてたんやって。
 それ、ついていったら本間先輩にまた会えますかって、あいつは訊いたらしい。
 いや。会われへん。鬼やから。会うたら斬られる。相手はそういう家の子やから。でもほら。そんなん、気にせんほうがええよ。ええ男なんか、地獄にもいっぱい居るで? 乗り換えたら? 閻魔様も格好ええしさ、西洋系がよかったら、地獄の侯爵様とか伯爵様とかも、いてはるで? そんな人らの犬になればええやん? なんぼでも可愛がってもらえるで?
 と、言われたらしい。どうも、仏教系の人らからのスカウトやったんやなあ。地獄って……宗教とか地域性関係ないのかな。共有エリアなんか? みんな一続き?
 そしてその親切なお申し出を受ければ、自分も地獄の眷属や。火が燃えようが、針の山があろうが、関係あらへん。それも楽園みたいに思えるようになる。せやからもう苦しむこともないんやで。ええ話やろ、という事やったんやけど、瑞希は断ったらしい。俺ともう会われへんのは嫌やから。
 それやったら天使系の人らの話のほうが、契約条件ええわと思えたらしい。配属先、メッセンジャー・ボーイやで。シフト表によれば、えーと神戸で、本間暁彦に伝える予言がひとつふたつある。何やったら、それ、君にやってもらってもええよ? どうかなあ。うちと契約してみいへん? みたいな話。
 ほな行くわと、瑞希はそれで決めたらしい。
 力抜けそうな、可哀想な話や。二回も会えるんやって、瑞希は思ったらしいねん。それを希望に、三万年耐えたらしい。これ我慢したら、本間先輩に二回も会える。また、顔見れる。ちょっとくらいは話もできるかも。そのためやったら、何でも我慢できるわって、あいつはほんまに我慢強い犬やで。しかも健気や。
 そんなあいつに俺が内心、激萌えやからって、それが不実と言えるのか。何とも思わんほうが、よっぽど異常やで。
 居直る訳やないけども、逸材が揃いすぎてんのや。俺はただでさえ面食いやのに。それが顔いい奴らに寄って集って好きや好きや言われて、フラフラせえへん訳がない。顔だけやったら我慢もできるが、皆それぞれ、ほんまに可愛かったり魅力的やったりで、悪魔で神様。ほんまにもう、地獄みたいなパラダイス。
 もしも世界が今とは全然別のコースを走ってて、俺が亨と出会ってへんような、そんな位相があったとしたら、そこではきっと俺は迷わず瑞希に行ってたやろう。
 いや……水煙か。
 瑞希か。
 水煙か。
 正直、おぼろ様も捨てがたい。
 ……結局それか。今と大差ない。結局のところ、そのコース。愛の悶絶パラダイス。それが俺の運命やったんや。
「何考えてんのやアキちゃん。もっと気合い入れて、いちゃついてくれへんか」
 がつがつバゲットのサンドイッチ食いながら、亨は俺に文句を言うた。
 どこの世界にバゲット・サンド食いながら自分も食われる奴が居るねん。そんなこと俺にさせるな。食うてからにしろ、食うてからに!
「ビゴさんのバゲット、美味いわぁ……」
 しみじみ言いつつ、亨は固い歯ごたえのあるパンをばくばく食うてた。
「アキちゃんも、これ味見してみ。一緒に食おうよ」
 裸で長いパン持って、すりすり近寄ってきて、亨はご機嫌良さそうに、俺の口にバゲット・サンドを押しつけてきた。食うしかあらへん。腹も減ってくる時間帯やしさ。腹が減っては戦ができぬやで。
 俺が囓ってるパンの、反対側に食いついて、亨はにこにこ俺を見た。ラブラブみたいやった。
 お前、ほんまに調子ええやつ。アキちゃん好きやは嬉しいけども、ノー・プラン宣言のどさくさで、お前の藤堂さんとの浮気については、もうチャラか。俺は、なんでか知らん、確かに怒ってない。これで引き分けドローやという亨の無茶な話に納得でもしてもうてんのか、なんかもう、しゃあないと思ってる。
 中西支配人、亨に言わせりゃ、藤堂さんやけど、あの人はほんまに格好いい。あれに負けてもしょうがない。なんかそんな気分やねん。
 それでも亨は俺のほうがええんやって。どういう価値判断で、そんなこと思うてんのか。どうせ亨は外道やし、俺の神通力が好きなのか。それとも絵を描く男がええのか。一体俺のどこが、あの中西さんよりイケてるなんて思うてんのか、全く理解に苦しむわ。
 それでも、本気でそう思うてくれてんのやったら、なんか嬉しい。そんな嬉しさで誤魔化されてる。
 胸のどこかでチリチリ妬けてる。そういう感じはするけども、でも、なんでか知らん。それが甘い痛みに感じられる。お前は俺のもんなんやって、ものすご熱く思う。
 前も思った、その執念みたいなのは、痛くて格好悪い、俺の心を焼け爛れさせるような怖ろしい熱やったけど、今はなぜか、芯から燃える情熱でしかない。
 亨はほんまに俺を選んでくれたんや。こいつは俺の神さんで、死ぬなら一緒に逝きたいって、亨は本気で言うてくれてた。そうしろって誘わん俺が薄情やと、本気で怒ってくれてた。ほんまにそう思うてんのや。不実で多情な、蛇で悪魔サタンの、水地亨が。
 それが、ものすご嬉しいねん。きっと俺は、ほんまにドのつくアホになってもうたんや。いっぱい悩みすぎて、脳みそ壊れてもうたんかなあ。
 俺はもう、悩むの嫌やねん。悩んで苦しんで、つらい顔して、お前と居りたくない。どうせやったら俺も、にこにこしていたいんや。
 もしかしたら、俺が亨と居れるのは、あとちょっとの間かもしれへん。たぶん、そうなんやろうと思う。亨が見てる、にこにこ笑ってるこの世の俺は、もうあとちょっとの間だけ。その先どうなんのか、わからへん。天国行くのか、地獄へ堕ちるのか。
 自分はたぶん地獄へ行くんやと、俺はそう思うてた。悪い子やから地獄行き。地獄怖いでって、瑞希が言うてた。苦痛に満ちてる。にこにこ笑うてられるような所やない。まさしく阿鼻叫喚あびきょうかんの世界や。
 脅しと違う。たぶん事実やろ。そんなところへ、亨を連れていかれへん。行こうったって、同じところへ逝けるという気も、実はあんまり、してへんかったんや。
 一緒に死んだところでどうせ、俺と亨は別れ別れになるに決まってる。俺は地獄へ。亨はどこか遠い、神々の世界へ行くんや。
 だからもう、死んだら会えへん。生きてる間だけの、縁やねん。
 神楽さんも結婚式の時に言うてた。儀式の決まり文句で、深い意味はなかったやろけど、結婚の契約条件は、死が二人を分かつまでや。分かたれたら終わり。そういう約束してもうたんやからな。それに誓うアイ・ドゥて言うてもうた。
 せやから今生の別れというのを、惜しんでおかなあかんやんか。
 そんなら、せめて、憶えておいてくれ。一緒に過ごして、楽しかった時のアキちゃんを。たぶん、猛烈な数あるやろう、お前の心の小部屋に、過去の相手のひとりとして、しばらく棲ましとしてやってくれ。かつて一時期、お前のナンバーワンやった男として。
 俺はもう、それでいい。それで満足せなあかん。そういうさとりの世界やった。
 いつまでも、水地亨は俺のものって、一人でせしめていようとするには、俺は条件悪すぎた。世界でいちばんお前が大事と言う割に、浮気はするしやな、家のため、国のためやて死ななあかん。そんな血筋の男やねん。そしてそこから逃げる気はない。
 俺は自分では、亨を幸せにしてやられへん。それやったら、誰かもっと、こいつを幸せにしてくれそうな、俺の目で見て、申し分ないと思える相手に、引き受けてもらったほうがええやん。
 ご執心やった藤堂さんと寝て、亨は嬉しかったらしい。かった言うてた。そんならもう、藤堂さんでええやん。誰とでもやれ。俺は結局、亨が幸せやったら、それでいいわ。そういう心境に、とうとう到達した。
 それでも、俺でない誰かと、亨が幸せに過ごしてるのを、つらい地獄の底から見たら、それはまさに地獄の責め苦やろ。でも、その時見える亨の顔が、幸せそうやったら、きっと耐えられる。アキちゃん死んだてメソメソ泣いてるよりは、ずっといい。俺は亨の、にこにこ笑ってる顔が好きやねん。
 お前のその、美しい微笑を守るために、俺は耐えるわ。
 お前に耐えろと強要せなあかんような出自の俺や。浮気するけど耐えてくれ、血筋の定めやねん的な言い訳ひとつで、我慢してくれ言うてきた訳やから、こっちも我慢せな、フェアやないやろ。
 そんなことするなとは願うけど、もしそうなった時は、俺も耐える。めちゃくちゃ耐える。ものすご耐える。我慢強さには自信あるねん。
 たとえそれが永遠に続く地獄でも、俺は耐えなあかん。たぶんそれが、当然の報いやねん。俺のせいで死んだ人らにも、愛しい相手はいたやろう。誰かの愛しい相手やったやろ。それを殺した罪は、自分も死んで、地獄で償うような罪なんや。本来は。
 だって瑞希がそうやったんやから。あいつは罪のあがないとして、三万年も地獄の業火に灼かれていた。そやのになんで俺だけが、平和に現世で楽しい人生を引き続き過ごしていける?
 結局それや。俺はなんの罰も受けてへん自分が許せてなかった。自分だけ卑怯に逃げ延びてもうたと思ってた。いつかきっと罰当たる。それが今やと、怖れながら、安堵もしてた。
 俺はとうとう、この夏に犯した罪のつぐないができる。自分の命と引き替えに、大勢救って死んだら、なんとか許してもらえるんやないかと思って。
 まあ、なんというかやな。俺は大人ぶって、自分を殺して大義をとったつもりやったんやろな。でも、それは、突き詰めれば結局、ただの我が儘やったんや。死というのは、大いなる逃避やで。何からって、俺はたぶん無意識に、生きることから逃げようとしていた。
 俺のおとんは、やむをえぬ事情があって、人を救うために自分は死ぬ羽目になった。それは英雄的やと俺には思えた。おとんは死にたくて死んだわけやないやろうけど、それは格好いい死に方やと俺には見えていたんや。
 俺もそんなふうでありたい。秋津家の最後の当主として、血筋に恥じない英雄でありたい。そうでないと俺はあかんと思いこんでて、おとんと違う道を歩くのが怖かった。それを踏み外したら、お前はあかん、期待外れやと、おかんや水煙様にがっかりされるような気がして、ご先祖様にも世間様にも申し訳が立たへん。
 この期に及んでも俺はまだ、これが俺の絵や、おとんとは違う独自性があるんやというのを、人に見せるのにビビってた。その絵があまりに、駄作に思えてたんや。
 それはなあ。自信はないよ。アホそのものやから。ダディと違うて、ジュニアのほうの実情は。おとんのツレは結局誰やったんや。おかんか、それとも水煙か、あるいはおぼろ様か。
 その、どれをとっても、俺と水地亨みたいにアホやない。もっとずっと情緒ある。もっとマシそう。アホでなさそう。
 俺が悪いんか、亨が悪いんか、それとも愛し合う二人のステキな共同作業なんか。とにかく俺らはアホそのものやから。世間様が、うっかりそれを見てもうたら、三都の巫覡ふげきの王がこれって……と、遠い目しはるに決まってる。瑞希も、ありえへんて言うてた。俺もそう思う。俺もほんまはそう、思うんやって……。
 ルームサービスで頼んだ紅茶を飲んで、亨は、美味いわあって言うてた。お行儀悪く、素っ裸でベッドに座り、ルームサービスの白いワゴンから、白いカップで飲んでいる。アールグレイの花のような、紅茶独特の匂いがしてた。それの良さが、俺にはよう分からんのやけど、でも、亨が好きなら俺も好き。機嫌良さそうに、にこにこ紅茶飲んでる亨の様子は、久々にくつろいでいて可愛げがあった。
「さあ、アキちゃん。そろそろ本格的にいちゃつこか」
 パン食うて満足したらしい顔で、亨はベッドに寝転がっていた俺の腹の上に抱きついてきた。どーんとか言うて情け容赦なく鳩尾みぞおちに来てる。重い重い! ぐふってなるわ。
 でもその重みと温かい甘い衝撃が、ほんま言うたら心地いい。そんな亨を抱き留めて、俺はもう抱き慣れたつもりやった白い体を、ぎゅっと抱きしめた。
 いい匂いがした。いつもと違う石鹸の匂い。
 でも、それも、いっぱい喘いで汗かけば、消えてしまうやろうと言って、亨は俺を誘った。
 抱いてくれアキちゃん。ずうっと抱いてもらってない。もう丸一日以上も、抱いてもろてへんで。そんなに長いこと離れてたことない。寂しいわあ、って、ほんまに寂しそうな顔をして言うてた亨がめちゃめちゃ可愛い。
 たらし込まれてるだけなんかもしれへんで。亨も百戦錬磨らしいから。けど、それが嘘や演技ではなく、こいつの本心やと俺は思いたい。だましてんのやったら、ずうっとだましといてほしい。俺が死ぬまで、ずっとだましといてくれ。
「どしたん、アキちゃん。まだ何かつらいんか……?」
 俺の上に乗っかって、唇を甘くついばみながら、亨は心配げに訊いてきた。
「つらい。お前が好きすぎて、つらいねん」
 ほんまにそうやで。俺が暗い顔してそう言うと、照れたんか、亨は身をくねらせて、可笑しそうにくすくす笑った。
「お惚気のろけか、アキちゃん。そんなん言えるんや。誰に習うたんや」
 お前やろ。俺にそんなアホみたいなこと言う奴、お前しかおらへんもん。お前と会うまで、俺はそんなこと言えるようなキャラやなかった。人格改造されてん。悪い蛇に。
 亨はぎゅうっと強く抱きついてきて、甘い声して俺に強請ねだった。
「抱いて、アキちゃん。お願いやから抱いてくれ。ほんまに寂しいねん」
「浮気しといて、まだ腹減ってんのか」
 切なそうな顔して言うてる亨に、俺は思わず意地悪言うてた。怒ってる訳やないけど、ちょっと憎くて、虐めてやりたい気持ちやったんやろなあ。
「そんなん言わんといてくれ。腹減ってるからしたい訳やない。アキちゃんが好きなだけ。抱いてほしいねん。それだけなんやで。浮気したのも、お前が抱いてくれへんかったからやで。焼き餅焼かせようと思て、やっただけやんか」
 俺の鼻に自分の鼻をくっつけて、亨は白い両手で俺の頬を包み、切なくかき口説く口調やった。その、辛抱堪らんらしい淡い茶色の目を見上げ、俺はまた思った。なんて綺麗な奴や、なんでこんな奴が、俺のもんになってくれたんやろ。それだけでも、平成の奇跡やで。俺はなんて、幸せな男なんやろか、って。
「一日も休んだらあかんのか」
 俺が笑って言うと、亨はますます切なそうに答えた。
「あかん」
 囁く声で断言されて、俺はますます笑えた。
「休んだら浮気されるんや」
「そうやで。絶対に浮気する。嫌なんやったら、毎日抱いて。ずっと抱いといて。こいつは俺のもんやって、皆に教えてやってくれ。そしたら俺も、アキちゃん一筋やで」
 切なく微笑む顔のまま、亨は俺の胸に指を滑らせていた。それがゆっくり滑りおりるうちに、だんだんたわむれかかるような愛撫の手つきになり、いつもの巧みな、誘う指使いに変わっていってた。
「怖いなあ、お前、実はほんまに悪魔なんやないか?」
 恥ずかしなってきて、俺がそう罵ると、亨はどこか妖しく、婉然と笑いかけてきた。
「そんなら早う、成敗してよ。成敗、成敗……」
 甘く誘う声で、亨が言うてた。俺やのうて、下の人のほうに。熱い舌が触れる感触がして、もともとあったやる気が、俄然盛り上がり、俺は熱く震えるため息やった。
 亨の舌使いが、巧いのかどうか分からへん。こいつに舐められてるっていうだけで、めちゃめちゃ萌えてるから。綺麗な顔で、俺のを舐めてる。それ見ただけで頭真っ白やねんから。
 喘ぎそうになって、俺はそれを我慢した。亨の喋る歯が、触れる感触がした。
「アキちゃん、我慢せんといて……」
 強請ねだられて、俺は頷いたけど、恥ずかしすぎてそれは無理。もう、我慢すんのが癖になってるから。俺がどんだけ燃えてるか、亨に知られるのが恥ずかしい。お前は俺がそんなに好きかと、めちゃくちゃイイ気になられそうで、怖いというのも、あったり、なかったり。こいつはもう、骨の髄まで俺のとりこやと、亨が確信したら、どんなことになるのか、怖い想像しか湧いてけえへん。
 嘘でもまだ、アキちゃんには未征服地があると、こいつには思っといてほしい。亨が俺に、飽きへんように。俺が生きてる最後の瞬間までずっと、アキちゃん好きやって、もっと愛してくれって、切なく悶えて言うてくれるように。ずるいけど、たぶんそれが、俺の作戦やねん。無意識やけどな。
「アキちゃん、どんな体位でする? 前から? 後ろから? アキちゃんの、好きなのでええよ……」
 でも、とにかく早うしてくれという空気で、亨はもじもじ俺に訊ねた。見上げると天蓋の鏡に、俺に迫る白い体が身を捩り、美しく絶妙なカーブを描いているのが写っていた。可愛いお尻も。見てまう見てまう。目が心以上に正直やから。
 そして、うわあ入れたい入れたいみたいな衝動が沸き上がってくる。
 見たらあかん、見たら。平常心平常心。呪文を唱えて俺は鏡から目を逸らした。
「お前はどれが好きなんや。お前が一番、気持ちええやつでやるよ」
「俺はなんでも気持ちええんやで。いつもそう言うてるやんか?」
 耳舐めながら、苦しそうに言われ、俺も頷くのがやっとやった。亨の指が、待ちきれんように絡みついてた。
「そうやけど……ほんまにそうなんか?」
 おぼろ様が言うてた。せやから亨には話の出展を明かされへんのやけど、人それぞれ、気持ちいい体位と、そうでもないのがあるらしい。好みがあんのや。相手によっても違うけど。
 おほろ様の場合、おとんとやるときには正常位。虎とやるときは背後位バックがイケてる。そこや、そこ、みたいな接点が、うまく得られる体位でないと感じへん。
 重要なのは、デカいとか、そういうことやのうて、力加減と、そして角度。テンポやリズムも大事やし。ムードも要るやろ。適当にやってたらあかんのやで先生。
 そんなことを、やってる真っ最中に教えてもらえた俺は可哀想。でも、勉強になります。なにごとも勉強。そんなこと考えて、やったことないと思う。無意識に、相手が気持ちよさそうなところは狙ったやろけど、そんなことはっきり意識してやってへん。
 恥ずかしないんか、おぼろ様。愛の交歓やのに。気持ちよければそれでええんか、あの人は。身も蓋もない。ムードも大事やいう話を、ムードぶち壊しで言うてええんか。本末転倒やんか。それとも、本間先生やし、別にええかという事か。おとんやったらムードありありなんか。一応気になる。
「ほんまにそうか、って?」
 不思議そうに、亨は俺の目を見た。
「俺に気遣って、気持ちいいふりしてんのやないか」
「そんなんしてへんよ。ほんまに気持ちええんやで」
 俺がうっすらひがんで訊くと、亨はちょっと頬染めて、むっとした顔をした。疑われんのが、嫌やったらしい。
「嘘であんなに喘ぐわけないやん……俺かて恥ずかしいんやで。あんまり乱れると」
「知らんかった。お前にも羞恥心があるとは」
 俺は半ば本気で思わず言うてた。亨はそれに、顔を背けて、フフッて黄昏れる笑い方をした。
「俺をなんやと思うとんのや……」
「恥知らずのエロエロ妖怪」
 俺が笑って正直に言うと、亨はムカッときてる赤い顔で、俺を睨んだ。
「なんやと……言わせておけば」
 涙出そうに情けない。せやけど否定できない面もある。それが悔しいという顔で、亨はどさりとまた俺に抱きついてきて、その腹いせを俺ではなく、下の人にした。めちゃめちゃ強く握られて、ひいってなった。
「お前も今はそうやで。エロエロ妖怪やないか。よう言うわ、俺が好きやて言いながら、他に何人抱くつもりやねん。そんな余りがあるんやったら、それも全部、俺に食わせろ。いくらでも食うてやるから……」
「く……亨、それはヤバい」
 余りの件ではないです。指で激しく責めすぎなんです。最近、とても敏感なので、あんまり虐めんといてほしいんです。せめて、そうっと優しく。
「悪い子や。浮気なんかしてからに。こいつはほんまに、悪い子どすわ。めっ! お仕置きどすえ!」
 亨は、俺のおかんみたいな口調で、自分がいま虐めてるもんを叱りつけていた。
 怒られてはるわ、下の人。すみません。アホなことしてて。二人っきりやから見逃してくれ。
 もちろん亨はお仕置きもした。蔵に閉じこめたわけやない。もっと悲鳴の漏れるようなこと。でも、当たり前やけど、悲鳴あげてんのは下の人やのうて、俺のほうやで。
「堪忍してくれ、亨……壊れそう」
 ぼんやり泣き言言うてみたら、亨は気味良さそうに笑っていた。でも一応、虐めんのはやめてくれた。
「よしよし。反省したか、下の人? 反省したんやったら、亨ちゃんが気持ちようしたろ……」
 頼むし、下の人に話しかけんのやめてくれへんか。正直恥ずかしい。そんなんする奴、この世にお前だけやったらどうしよう。とりあえず今んところは会うたことない。聞いたこともない。おぼろ様、そんなんせえへんかった。たぶん普通はせえへんねんで。こんなアホみたいなこと。
「アキちゃん、下の人、ごめんなさい、早うやりたい言うてはるで」
「そうやろか。そういうことは何でまず俺に言うてくれへんのやろなあ」
 愛撫する手つきに戻った亨の指にため息つかされつつ、俺は毎度のその疑問を伝えた。それに亨は真面目に悩んだような表情を作った。
「しゃあない。下の人はアキちゃんより俺のほうが好きやねんから。亨ちゃんのケツに早う入りたい入りたい言うてはるで。聞こえへんか?」
 聞こえたら俺もほんまに終わりやと思う。
「可哀想やから、早うしたろか……?」
 早うしてくれという、とろんと濡れた目で、亨は俺の顔を覗き込んできた。やっと上の人の意見も聞いてくれるんや。
「どうやってやるか、お前が決めてくれ」
 隣に寝転がってきて、キスしてほしそうな顔の亨にキスしてやりつつ、俺はそう頼んだ。そしたら亨は、嬉しそうにデレデレ悩む顔になった。
「ええ。俺が決めんの? そうやなあ……ここはオーソドックスに正常位もいいが。後ろからも萌える。困るなあ。間をとって、側臥でいくか」
 間をとるんや。別になんでもええけど。お前がしたいやつで。あんまり鬼畜なネタでなければ。
「横でして、アキちゃん。それは最近やってへんかったやろ」
 苦笑して、俺は頷いた。そんなん、チェックしてんのや。どれでやったとか。
 まあ、時間タイム測ってるような奴やしな。それくらいチェックしてるかもしれへんよな。その辺までやったら、俺かてもう驚きはせえへん。言うても亨と八ヶ月付き合うてんのや。この恥知らずな蛇と。
「前にやったの、いつやったかな。手帳見たらわかるんやけど」
 ものすご普通にそう言われ、俺はぎょっとしていた。
「な……なに、手帳って……?」
 まだ何も聞かされてへんのに、俺の声はすでに上ずっていた。これが予知能力やな。
「書いてんねん。スケジュール帳に。どんな体位で何回やって、タイムは何分とか、そういうの」
 亨はちょっと恥ずかしいなあという顔で、心持ちくねくねしながら、そう言うた。でも、ちょっとだけやった。恥ずかしい言うても、ちょっとだけ。ちょっとだけやで?
「なんで書くねん、そんなこと!」
 俺、また絶叫や。久々で絶叫や。顔真っ青や。いや、真っ赤やったか。自分では見えへんし、わからへんけど、普通の顔色でないことは確実や。亨はちょっと驚いた顔やった。
「えっ。書いとくと、後で反省できるやん。いろいろ分かるし」
 便利やで、これ豆知識みたいに亨に言われ、俺は汗が出てきた。もちろん冷や汗。それとも脂汗?
「なにが分かるねん! というか、何をお前が反省してんのや!?」
 俺は思わずベッドの上で起きあがっていた。寝てる場合やなかった。亨はちょっと、びっくり顔やった。
「ええ……例えば。アキちゃん、正常位好きやなあとか。そういうのが分かるねん。統計的に見て。いつも基本は、向かい合わせ系やんか? やってる時に、顔見たいんやろ?   めちゃめちゃ喘いでる時の、俺の顔が」
 いやあん見んといてくれアキちゃんのエロ、みたいに、冷やかす口調でもじもじ言うてる亨に、俺は、口ぱくぱくしてた。
 なんでそんな深層心理を分析されてんのや、俺は。手帳に書いてまで。書くな、そんなもん。その手帳どこにあんねん!
「見る? 亨ちゃんの愛の手帳。いつも持ってるよ。いつどこでエッチするか油断ならんしな。すぐ書いとかんとタイムとか忘れるやんか?」
「今も持ってんのか!?」
 頭抱えて俺は訊いてた。どんな手帳か見るのが怖いけど、見ずには居れん。
 お前が死んだらどないなんねん、その愛の手帳は。誰が処分するんや。
 絶対あかん、生きろ! 論外やから、その遺品は論外!!
 トラッキーや『ガラスの仮面』の漫画本どころの騒ぎやないから。ほんまに死ぬつもりなんやったら、今すぐ焼き捨てなあかん!
 ていうか生きてるつもりでも焼き捨ててくれ!!
「持ってるよ。荷物に入ってる」
 亨はわざわざクロゼットの中にある鞄をとりにいき、そこから手帳を取り出して見せてくれた。
 クオ・ヴァディス・クラシック・ビソプラン。手帳のブランド名や。
 俺、文房具フェチやねん。その名前は、公式ウェブサイト情報によると、ポーランドの作家シェンキェヴィチという舌噛みそうな名前の人が書いた、キリスト教ネタの小説に出てくる、「Quo Vadis domine?(主よ、何処へ行くのですか?)」というラテン語の台詞に由来するらしい。あなたはこの一年、どこへ行くのかというコンセプトで作られた、この製品プロダクトに、ふさわしい名や、ということらしい。
 まったく。俺はこの一年、どこへ行こうとしていたんや……。
 でも今は、そんなこと、何も関係ない。問題はその赤い革の表紙の手帳の中身が、身の毛もよだつようなエロエロ日記やということや。
 見開きマンスリーの記入欄に、びっくりするような小さい字でびっしりと、あんな事やこんな事が刻銘に記録されていた。おおまかにいって、俺の恥の記録やったわ。
 亨にとっては恥やないらしい。せやから俺だけの恥。こいつにとってはそれはただの愛の日記やねんからな!
「やめといてくれへんか……俺に無断で、こんなもん書くの!」
 力一杯くずおれて、俺は亨に頼んだ。
「なに怒ってんの、アキちゃん。こんなの飯ログみたいなもんやで? 俺にとっては。今日はソバ食うたとか、おやつにホットケーキ食うたとか、そういうのと一緒」
「それは観念論や」
 うっとり手帳を眺めている亨に向かって、俺はなるべく断固とした声を作った。
「カンネンロン?」
 亨はいかにも意味わかってへんように、きょとんと鸚鵡おうむ返しに言うてきた。
「考えようによっては飯ログかもしれへんけど、大多数の目で見て、それはエロのログ!」
 怒鳴ってる俺の話をにこにこ聞き流しつつ、亨は何度も頷いていた。
「そうそう、エロログ。めっちゃ言いにくいな、エロログって」
 エロログ、エロログと、何度もその言葉を舌の上で転がしながら、亨はまだ嬉しそうに手帳を見てて、鞄から出したモンブランの万年筆で、何か書き付けようとしていた。
「書くな言うてるやろ! 何を書くんや、まだ何もしてへんのに! いつからこんなん書いてんのや!」
 俺はけっこう必死で訊いてたな。亨は書きかけていた手をとめて、前のほうのページをめくり、一月のところを俺に見せた。
「一月からやで。アキちゃん、忘れたんか? この手帳を俺にくれたの、アキちゃんやんか。どの手帳にするか決められへんで、二つ買うてもうたし、要らんほう使うかって言うて、俺にくれたんやんか?」
 そんなことあったっけ。もう忘れたわ。今年の一月のことなんて。買うたもんなんか、いちいち憶えてへん。買うてんの忘れておんなじもん買うてもうたりするもん。
「万年筆もアキちゃんがバイ・ナウ病の発作で買うたやつ、全然使う気配もないから、代わりに俺が減価償却してやってんのやで?」
 そうなんや。俺が四条通りにできたモンブランの路面店で発作買いしたやつ、お前が使うてくれてたんやなあ。ありがとう。
 そして、そんな無駄な買いもんのツケで、俺はこんな死ぬほど恥ずかしいエロログ書かれるハメになってんのや。そうか、そうか……。
「よかったよ、アキちゃん、使い道があって。今年のスケジュール手帳なんてさ、今年使わへんかったら、あっても意味ないやんか? 来年なったら未使用でもゴミなんやで? なんで二つも買うの。アキちゃん絶対、変やで。勿体ない勿体ない」
 そうやな。理屈ではそうや。俺もまさか自分に、お前に変やでと指摘される部分があるとは、今まで思ってへんかった。自分はマトモやと思うてた。少なくともマトモさにおいて、水地亨に負けることなんかありえへんと思うてたわ。
 でも、今その、ありえへんことが起きてるよな。いろんな意味でありえへん日や。
「まあ、でもさあ……お陰でけっこう楽しいよ。普通やったら忘れてまうやん。こんだけ毎日やりまくってたらさ」
 しみじみ嬉しいみたいに、毎日やりまくっている月間スケジュールのページをぱらぱらめくり、亨はうっとり回想シーン入ってる顔つきやった。
「でもこうやって書いてるお陰で、この時、アキちゃんイキそうなって、こう言うてたみたいなのも、ちゃんと憶えてられるやん? 俺の宝物やねん」
 いかにも大事そうに、亨は手帳を見てた。幸せそうに見えた。
「そんなん憶えとかんでくれ……」
 泣いてええんか笑えばええんか。他人事やったらええのに。それやったら笑うのに。つらい、つらい。そんな記録が残されているなんて。やっぱり我慢しといて正解やったんや。こいつにノーガードでめちゃめちゃ惚気のろけたりしてたら今ごろ、それが全部ここに書いてあったんや。そんなん見せられたら舌噛んで死ぬよ、俺は。
「偉業やで? だって、夏に俺が死にかけとった三日間と、犬が死んでもうた日以外、アキちゃん皆勤賞やで? 一日として、やってへん日はない。そんだけ俺らが愛し合ってるということやんか?」
 ものは言い様。ただエロなだけやんか。
 そんなん恥ずかして誰にも自慢でけへんねんから。記録なんか残す必要ないから。
 亨は、はぁと切なそうにため息をつき、また何か書く仕草をして、万年筆を握り直した。そして、俺の見ている目の前で、八月二十二日のところを、ぐしゃぐしゃと荒っぽく塗りつぶしていった。
 黒いインクの染みのある、その一日分の枡目を、亨は俺に突きつけて見せた。
「この日はしてへん。ワンワン感謝デーやったから。アキちゃん……」
 ちょっと言い淀む気配を見せてから、亨はあんまり元気のない声になり、しょんぼりと俺に言うた。
「こんな日、この先はもう、あんまり無いようにしてくれへんか。気がついたらページが真っ黒なんて、俺は嫌やねん。我慢せなあかんわと思うけど、でも、想像したら悲しいねん。頼むしな、なるべく俺をそんなめに遭わせんといてくれ」
 ひらひら手帳を振って、インクを乾かしながらブツブツ言うて、亨は手帳と万年筆を、また鞄に放り込んでいた。
 そしてちょっと、困ったなあという顔で笑って、亨は気を取り直したように言うた。
「さあ……やろか? アキちゃん、すっかり萎えてもうたな。俺もやけど」
 苦笑して、亨はやんわり腕をのばし、俺の首に抱きついてきた。ほぼ条件反射でその体を抱き返しつつ、俺は何となく呆然としていた。そんな俺の耳に唇を押し当てて、亨は熱い息とともに囁いた。
「我が儘なんか、アキちゃん。それは俺の、我が儘やと思うてんのか? 俺にも、ほんまのこと言うてくれ。ほんまは、たまには俺やのうて、他のと寝たいなあと思うてんのか?」
 どんな顔して言うてんのか分からへん、亨の声が、ちょっと泣きそうみたいなのを耳に感じて、俺はめちゃめちゃつらい。ものすごく胸痛い。許さへんて半殺しにされるよりも、これのほうがずっと痛くて怖い。
 どうしてええかわからへん。それで仕方なく、俺は一生懸命、亨を抱いてた。ぎゅうっと強く抱き返し、白いクッションに埋もれるベッドに押しつけて、必死で亨にキスをしていた。
 こういう時に、どんなことを言えば、気が利いてんのか。俺にはさっぱり分からへん。なんで分からへんのやろ。何かこいつが、うっとり嬉しくなれるようなこと、言うてやれるような男やったらよかったのに。
 おぼろは、おとんはもっと口が上手かったような事を言うてた。なんでそれは俺には遺伝せえへんかったんやろ。他はみんな、ほんまにクローン人間みたいに、そっくり同じでイヤんなるのに、一番、肝心要かんじんかなめの、ええとこは似てへん。恋愛がらみの甲斐性であるとか、伸るか反るかの正念場での、男らしさとか。
 どうせやったら、そこも似といてくれてたら、良かったのに。そしたらきっと、亨にも、もっとええこと言うてやれるんやろけどな。
「そんなん……思うてへん。俺はお前と毎日やりたい。お前とだけでええねん……」
 言うてるそばから嘘みたい。そんなん言うてる舌の根も乾かんうちに、あれとかこれとかにフラフラ来てたらどうしよう。今夜もしまた瑞希が舞い戻ってきて、先輩抱いてくれと俺に迫ったら、俺は一体どうするつもりなんやろ。
 俺は時々、ほんまにつらい。ものすごい力を持った神の手で、心を三つに引きちぎられてるような気がする。俺はひとりしか居らへんのに、神はなんでか三人もいる。亨と水煙と瑞希。強いて言うなら朧《おぼろ》もか。あいつが滅茶苦茶引っ張らんでくれるから、ほんまに助かる。もしも四人がかりで引き裂かれたら、俺はきっと今度こそ生きてられへん。気が咎めてもうて、自分の不実に狂いそうになる。
 ほんまのことを言うてくれと、亨に強請られても、どれが自分のほんまの心か、もう自信ない。自分がこれが本当と、信じてることが、ほんまにほんまか、胸を張って保証できへんねんもん。その場限りの、調子のええ嘘かもしれへん。俺はそんな、嫌な男なんかもしれへん。自分が信用できへんねん。
「どうしたらええんやろ……俺は。全然分からへん」
 重い苦悩にのしかかられて、俺はぐったり縋り付くように、亨に抱きついていた。抱いてんのか、抱いてもらってんのか、よう分からん。亨もすごく強い腕で、俺に縋り付いていた。
「アキちゃん、好きや。俺のこと、好きやって言うてくれ」
 甘く囁く声で強請られて、俺は切なくなって言葉に詰まった。
「どうしたんや、アキちゃん……それも分からんようになったんか?」
 そうやったらどうしようっていうふうに、亨の声は怯えてた。なんでこいつはそんなことを思うんやろう。何度それを確かめて、俺が好きやと答えても、また同じことを訊いてくる。不安そうな目で。
「分からんことない。分からんわけないよ。お前が好きや。でも、どうしてええか分からん。俺は一体、どうしたらええんやろ。どうやって生きていったらええのか。いつ、どうやって死ねばええのか、全然分からへん。どうすんのが一番いいか、どうしたら自分の勤めが果たせんのか、分からんのや。俺はな、逃げたくないねん。ちゃんと自分の責任果たしたいんや。でも、どうするのがそれか、全然分からへんねん」
 言うてるうちに、力抜けてきて、俺はぐったりした。あかん。水濡れアンパンマン状態。まったく力が出ないから今の俺は。へこたれてるから。
 泣き言やないか、それ? なんか俺、このところ、泣き言ばっかり言うてへんか?
 それも嫌でたまらへん。餓鬼くさい。弱いしヘタレ。なんも知らんアホのボンボン。そんなん、もう嫌やねん。俺もそろそろ大人になりたい。水煙を引き留めたくて、口から出任せ、俺は永遠に大人にならへんなんて、そんなこと口に出して言うてもうた罰が当たってんのか、ほんまにどうやったら成長できんのか、さっぱり道が見えてへん。
 俺が守ってやるからと、にこにこ言うてた亨にほだされたんか、俺はすっかり泣きつく構えで、それも相当情けない。俺はこいつを守ってやろうと思ってたんやないんか。その逆やのうて、いつも亨を守ってやりたいと思ってた。自分にそれだけの力があったらええのになあと、いつも願ってたのに。
 結局こいつも幸せにはしてやられへんかった。俺は誰も幸せにはしてへん。ただ人の世話になるばっかりで、泣き喚かせたり死なせたり、そんなんばっかり。実は生まれて来んほうが、良かったんやないか。ほんまにもう自信ない。俺が生きてる意味って、一体なんなんやろか。
 俺には全然分からん、そのことが、亨にはよう分かってるらしかった。全然悩む気配もなく即答やった。
「アキちゃんはただ、絵、描いとけばええんやない? それと、お前の勤めは俺と毎日エッチすることやから……」
 抱きしめた、俺の守護神・水地亨大明神に、腕の中からそう言われ、俺は泣きながら笑ってた。泣ける。そんなん、アホそのものやんか?
「藤堂さんがなあ、アキちゃんは天才やって言うてたで。絵をくれてやったんや。有り難がってたわ。ホテルの廊下に飾りたいらしい。別にええやろ?」
 俺の背を抱きながら、亨はちょっと気まずげに笑い、そう訊いた。
「あのオッサンに言わせれば、アキちゃんみたいな大天才に愛されて、俺は幸せなんやって。浮気されるくらいで愚痴愚痴言うたらあかんのやって。天才画家を支えてやんのが、俺の勤めらしいわ。よう言うで、あのオッサン、他人事やと思て……」
 ぶつぶつ恨む口調になって、亨は険しい顔をした。そして、まるで恥ずかしいみたいに、俺の胸に頬を擦り寄せて、亨は自分の顔を隠した。
「でもな……アキちゃん。その話は俺にとっては、説得力がある。アキちゃんの絵を見たら、お前はほんまに天才やと俺も思う。アキちゃんの絵を見たら、みんな、何か感じる。感動したり、元気が出たり、見てへん時よりもずっと幸せになると思う。そんな絵が描ける子は、難しゅう考えんと、ずうっと絵だけ描いてりゃええんとちゃうの? せやからもう、アキちゃんは、勤め果たしてると思うで」
「そんな……アホみたいなことで、責任果たしたことになんの? 好きで描いてるだけなんやで?」
「別にええやん。お前のおかんかて、踊り好きやし踊ってるだけやんか。それで人の役に立ってて、お屋敷の登与様やて言われてる。お前もそうすりゃええやん、アキちゃん。好きな絵描いて、お屋敷の暁彦様やればええやん。それで誰も文句はないよ」
 それがいかにも当然みたいに話す亨の声を聞きながら、俺はますますぼんやりしてきた。
 そんなんで、ええの。
 だって、なんかもっと、血の滲むような努力とか、死ぬような修行とか、通過儀礼とか、そういうの要らんの?
 俺はほんまに絵が好きで、ただ楽しいから絵描いてるだけやねん。それが何かの役に立つとは、全然思うてへんかった。今までずっと、自分が描いた絵のせいで、迷惑かけることはあっても、それが役に立ったことはなかったからな。
 写生した絵で桂川を暴れさしたと言うて、おかんに怒られた話もそうやし、夏に疫神の絵を描いて、あんなことにもなってもうた。俺はもう、絵描いたらあかんのやないか。そういう気もするのに、筆を折るのはどうにも無理で、自分の我が儘だけで描き続けてる。息をするのはやめられへん。それと同じで、絵を描くのをやめられへんねん。
 毎日毎日、心の奥底からあふれ出すみたいに、描きたい絵が湧いてくる。それを描かずに我慢してたら、それこそ頭がおかしくなりそう。生きてられへんような気がする。
「鳥さん喜んでたやん? アキちゃんが描いた絵のお陰でさ、あいつもほんまの不死鳥や。実は悪魔で、虎的にはなんか予定と違うっぽかったけど、でもまあええやん。不死鳥、不死鳥。上出来やったやんか?」
 にこにこ言うて、亨はよしよしみたいに、わざわざ腕を伸ばして、俺の頭を撫でてくれていた。
「夏の疫神の件かて、確かに元はアキちゃんの絵やったかもしれへんけど、それを解決したのかて、アキちゃんの絵やったんやんか? 豚の丸焼きの絵、めっちゃ美味そうやったで」
 よだれ出そうみたいに言うて、亨はほんまに口元を手で拭ってた。こんな話の時にほんまによだれを出すな……。
「アキちゃんの絵のお陰で、水煙様かて穴無し治ったしさあ」
「見たんか!?」
 俺は思わず叫んでもうてた。亨はむっと意地悪いしかめっ面になった。
「見てへん。そうなんとちゃうかなあ、という話や! 大体お前はどこまで想像してあの絵を描いたんや。脱いだらどんなんなってんのか、想像しながら描いてたんか!?」
 想像しながら描くよ! それは!
 言い訳ちゃうで。ほんまにそうやで。人の絵を描くときは、骨格とか考えながら描くもんなんやで。だから中の骨とか内臓入ってるのとかも、ちゃんと想定して描くもんなんや。それで普通やねん。俺がエロなんやないよ。絵師の常識!
 でも、それを亨には口に出して言われへんで、俺はあわあわしていた。言わんでも知ってんのとちがうんか、お前。亜里砂……やのうて、トミ子の画才をイタダキしたんやったら、あいつかて絵師なんやもん。それくらいのこと知ってるはずやで。美大にいた奴なんやから。
「想像してたんや……」
 ジトッと言われて、俺はぶんぶん首を横に振っていた。嘘やった。でもそれは何を否定してんのか。想像したけど、それはあくまで純粋に絵を描く上での何やかんやや。決して変な妄想を抱いた訳やない。そうやと思いたい。
 進退窮まった顔をして、ぐっと押し黙っている俺の頭を、亨が突然、腕振り上げて、ぽかっと殴った。俺はそれに、びっくりした。
「この、浮気者! そんなん想像すんなら俺のケツにしろ! ぼけっとしとらんで、いいかげんにいちゃいちゃしろ! 何をすっかり平常心なっとんねん。人生相談しとる暇あったら、もっとムラムラしろ!」
「痛い痛い!」
 ぽかぽか殴られて、俺は必死で避けていた。亨に叩かれたことなんかない。本気で殴ってるわけやない、ふざけて叩く程度なんやけど、亨がそれを、遊びやのうて、焼き餅焼いてほんまに殴ってることは確かやったわ。
「アキちゃんのアホ」
 さんざん叩いて気が済んだんか、脚をからめて抱きついてきて、亨は俺に長いキスをした。ちゅうちゅう吸われて、俺は必死で応えてたけど、そうするうちに、なんか熱い安らぎに浸れてた。
 何も考えんと、亨と抱き合うてる時が、いちばん幸せ。それは何となく、夢中で絵を描いている時の感じと似てる。楽しい楽しいって、のめり込んでて、時の経つのを忘れてしまう。
「アキちゃん、抱いて。抱いてほしい……」
 俺を奮い立たせようとする指で愛撫してきて、亨は切なげにそう囁いた。
「お前の絵が好き。顔も好き、体も声も、性格も、全部好き。めちゃめちゃ好きやねん、アキちゃん。俺とひとつになって……ずっと抱いといてくれ」
 ずっとは無理や。でも、できるだけ長く。
 早くひとつになれるように。でも、焦ったらあかん。俺はなるべく、ゆっくりと、亨の体を開く愛撫をした。並んで側臥した片足抱えて、中を撫でると、亨は俺の胸に擦り寄って、すぐに甘く喘ぐ顔になってた。
 よっぽど気持ちいいのか、亨はいつも、あられもなく乱れて喘ぐ。それが俺には当たり前。すでに慣れてて、いちいち何とも思わへん。でも、ほんま言うたらそれにはすごく癒やされてる。俺はお前を幸せにしてやれている。そんな実感のある瞬間やから。
「アキちゃん、気持ちいい……いっぱいしてくれるか?」
「うん……いっぱいしてやる……」
 甘く強請ねだる舌に応えてキスをして、無言でなぶりあってると、だんだん熱い沈黙に溺れ、胸が詰まるような興奮が押し寄せてくる。みるみる潮が満ちるみたいに。
 それに押し流される。理性も苦悩も。面子も弱気も、しがらみも。ただ夢中で思ってる。お前が欲しい。好きや好きやで、何も考えてへん。どっぷり浸る深い深い陶酔感で、頭の芯まで酔うてきて、感じる愉悦と愛だけが、世界の全てみたいになってる。
「アキちゃん……俺、今、ものすご幸せ……」
 言うてやらんと、お前は分からんのやろうと、どこか責めるような切ない顔で、亨は俺に教えてくれた。確かに俺は、分かってなかったかもしれへん。そう言われて、ものすごく感激していた。
「亨。お前とずっとこうしてたい。百年でも、千年でも……」
 泣きつく声で頼むと、亨は喘ぐ顔で笑って、切なそうに背を反らした。
「できれば俺は入れてほしい」
 そう言う亨が可笑しいてしゃあない。情けないというか、現実的というか。ムードの欠片もない。でも、それが正直すぎて可愛いような気がして、俺はうんうんと頷いていた。
 そんなら入れようか。そろそろ。俺も早くしたい。お前の中に押し入って、震えるような愉悦に酔いたい。気持ちよすぎて、すぐ極まりそうになる、そんな激しい愛をこらえて、お前をいっぱい喘がせてやりたい。
 すでに、ぐったり悶える姿勢の亨を、そのまま側臥で横たわらせて、さっき聞いてたご要望通り、間をとった体位で入れた。膝で亨の白い腿を、後ろから割って脚開かせて、ゆっくり入ると、ぞくぞく怖気立つように、亨が背を震わせて、短く切なそうに喘ぐ声を上げていた。
 それがすごく、気持ちよさそうに見える。
「あ……っ、たまらん。めっちゃえとこ当たってる……気持ちええよう……幸せすぎる……」
 そうなんや。喘いで涙目になった亨が、ほんまに辛抱たまらんように、小刻みに震えて言うのを、俺は不思議に眺めてた。
 なんでなんやろ。たぶん単なる偶然なんやろうけど、亨と俺は、ほんまに体の相性がいいらしい。作戦要らへん。ただ入れただけで毎回ジャストミート。たまらんたまらんて、亨は頬染めて喘ぐ。我慢せんかったら、あっと言う間に上り詰めていく。
 嘘で感じてるふりはできても、嘘で絶頂は無理やから。いくらなんでもそれは、無理やろうから。ほんまに感じてんのやろ。
 不思議や。おぼろ様とは、あんなに大変やったのに。実はあれが普通なんやないか。そういうもんやと湊川怜司は言うてたで。ただやるだけで気持ちええなんてのは、よっぽど合うてるんやで、その蛇と。それが先生の、運命の相手なんやでと、俺とやりつつあいつは言うてた。ようそんなこと言うわ。普通で言うても変やのに、よりにもよって自分がやってる真っ最中の相手に、そんなこと言うなんて。
 俺は正直、訊いてみたかった。お前は、うちのおとんと、どうやったんや。運命の相手みたいにかったんか。それで今でもずっと、おとんのこと待ってんのかと。
 鳥は虎に抱かれると、気持ちよすぎて泣くらしい。亨がそんな、要らん話を俺にしていた。その時、泣くほどすごい快感を感じてんのが、体のほうなんか、それとも別のところか。あくまでそれは、俺の想像で、センチメンタルな妄想やけども、こういうのは相手のことが、好きやから気持ちええんやないか。たとえ行きずりの、ちょっと寝てみただけの相手でも、基本、嫌いやったら寝たりせえへん。好きな相手と深いところで触れ合うている。その感覚が気持ちいいんやないか。
 少なくとも、俺はそう。誰とやっても実は感じる。そういうもんなんやろうけど。でも、俺が今、抱き合うている相手は誰あろう、俺の守護神、水地亨大明神やからと思うと、その事実だけで気持ちいい。亨とやってる。そう思うだけで辛抱たまらん。ほんまそういう面がある。
 どうしよう俺は、めちゃめちゃ好きな相手とやってる。それが嬉しいと相手も言うてくれている。めちゃめちゃえわと喘いでる。そんな心地よいことが、この世に他にあるやろか。
 そう思うと、すでに若干、いきそうなんです。
「アキちゃんの、今日、めっちゃ固くないか……? 当社比で、1.25倍くらい……」
 ひいひい喘ぎつつ枕を掴み、亨はものすご具体的なことを言うてた。
「そんなんまでチェックしてんのか……?」
 また書かれんのか。エロログに。アキちゃんと亨の、明日はどっちだダイアリーに。絶対嫌や。絶対に書かんといてくれ。どうしても書くんやったら、お前にしか読まれへんような謎の暗号文で書いてくれ。そうでないと俺は、気が気でない。もし万が一、誰かにそれを読まれたら、俺はどうしたらええんや。八月二十三日のアキちゃんは、普段より固め。体位は側臥位でした。タイムは何分何秒。そんなん書かれんねんで!
「アホなこと言うてんと、もっとしてえな、アキちゃん! なんでやめんの!」
 怒られた。元はといえば自分がアホなこと言うて、俺を若干萎えさせたのに。
 それでも何とか持ち直し、また責めにかかると、亨はのたうつ白い蛇のようになっていた。悪い大蛇おろちや。成敗、成敗。
「ああ……気持ちええよぅ、めっちゃいい……やっぱアキちゃんが、最高やわ……」
 何と比べてんのか。俺が微妙になるような事を喘ぎ喘ぎ言いながら、亨はもう汗びっしょりやった。反らした白い背に、きらきら汗が浮いている。悶えるような腰使いに揺れて、その汗が、滴り落ちる雫に変わる。
 汗まみれで励む、その顔の、美しいことといったら。ほんまにもう、絵に描いて残したいくらい。でもそれは、今まではずっと我慢してきた。
 それはあかん。
 いくらなんでも、あかんと思う。
 亨が別によくても、俺が恥ずかしい。だいたい、いつ描くねん。
 今か。
 変態すぎる。うちのおとんやあるまいし。セックスしながら絵を描くな。
 その考えに、めちゃめちゃ恥ずかしなってきて、俺は勝手に赤面していた。あかんわあ。恥ずかしなったらあかん。精神状態、如実に出るから。下の人のコンディションに。
「どしたん、アキちゃん。もう、いきそうなんか? 早ない?」
「いけない想像をした……」
「どんな想像?」
 責められて、苦しいみたいな愉悦の顔で、亨が訊いてきた。俺の手を握って。
「話したら、エロログに書かれるから嫌や」
「書かへんて約束するから、こっそり教えて」
「嫌や。教えへん」
 俺は必死で首振って拒んだ。自分の変な妄想を振り払いたくて。
 変すぎる。それは俺が裸にした亨の肌に絵を描いている夢やねん。寝てるわけやないけど、夢みたいやった。筆が滑ると亨が喘ぐ。
 たぶん、おぼろ様に聞いたおとんの武勇伝のパクりなんやけど、でも、想像すると、つらい。自分もそれが好きなような気がして。
 要らんとこばっかり似てる。悪いとこしか似てへん。
 淫らな白日夢の世界で、筆が白い足指の間をなぞると、亨が悶えた。代わりに本物のほうの足指を舌で嬲ると、想い描いたのと、ほとんど変わらん敏感さで、亨が悶えた。それが俺には、むちゃくちゃこたえた。下の人も、もうあかんて言うてた。たぶん言うてたやろ。もし俺に、そんなヤバい声がほんまに聞こえていたら。
 そんな妄想に悶絶しつつ、気がついたら俺は、ものすご激しく亨を責めてた。それとも自分を責めてたんか。亨の中の、熱くて狭いところで、もう死ぬって悶えてんのは、俺のほうかもしれへん。
「もう我慢できへん……」
 情けない気分になって、追いつめられた俺は、小さく叫ぶ声やった。でも亨は、それを全然聞いてへんかった。今にも極まりそうな顔をして、熱く悶えて、はあはあと身を仰け反らせてた。もう何も耳に入ってへんような、赤い夢中の顔やった。
「イクよぅ……アキちゃん、もう、あかん……もう、ダメ……あ……っ」
 釣り上げられた魚みたいに、亨は激しく身を捩ってた。とどめをさしてくれと、喘いで苦しげにのたうち回る体に、俺は夢中で追撃をかけていた。
 それはやっぱり、亨を責めてるんやない。自分を責めてる。亨を責めてる。どっちでも同じこと。俺がければ、亨もえらしい。やりたいように暴れるだけで、亨は悶える。アキちゃん好きやって、いつも甘くすすり泣いてくれる。
「アキちゃん好きや……好き、好きやねん、いっしょにイって……!」
 必死で言うてる亨に、俺も好きやって言いたかった。でももう、それどころやない感じで、もう言葉にならん声あげて、最後の愉悦を極めた亨の体を抱きしめて、俺も必死で果てていた。
 ものすごく満たされて、混ざり合う感じがする。
 きつく抱き合いながら、喘ぐ亨の唇をキスで塞いで、その甘い声を震える舌から直に舐めると、亨が強い指で俺の背を掻き抱く。その溶け合うような抱擁と、その時感じる愉悦の深さに、ほんまに魂まで溶け合っているような気がする。
 それも俺の妄想かもしれへん。でも、この瞬間が、このまま永遠に続けばいい。きっと天国って、逝けるとしたら、そういう所やという気がする。何も考えんと亨と熱く抱き合うて、好きや好きやって朦朧として、蕩ける愉悦の中にいる。誰にも分かたれないぐらい、どろどろに溶け合って、混ざり合っている。そういう感じ。
 だけど、もし、それが本当に永遠に続いたら、きっと頭おかしなる。幸せすぎて耐えられへん。たぶん、ほんの何十秒か。せいぜい一分かそこら。長い一生の目で見れば、そんな一瞬で過ぎる世界やねんけど、でもその瞬間にだけ語り合える言葉でない何かが、あるような気がする。
 やがて過ぎ去った、そんな熱い波の名残に、まだ揺れているようなかされた目で、亨は俺と抱き合ったまま、うっとり間近に目を見つめてきた。
「好きや、アキちゃん。ほんまに愛してる。ずっと俺を、離さんといて……」
 甘く囁く声で、熱っぽく言うて、亨はそれで気が済んだみたいに、とろんと目を閉じ、小さく唇を合わせるだけのキスをした。
 そのまま身を寄せてくる白い裸体は、深く満足したような、しどけない弛緩しかんの中にいて、ぐんにゃり俺に体を預けてる。
 ずっと離さんといてくれと、亨は時々俺に頼んでる。俺はそれに、ずっと離さへんと答える。いつもやったら、そうやねんけど。この時ばかりは、目が惑った。甘い息をして、まだ胸を喘がせている、汗をかいた白い体を抱いて、お前は俺のもんやという、強い恋着は感じたけども、それを口に出していいのかどうか、自信無かった。
 いつか。それも、そう遠くない先に、俺には、今抱きしめているこの体を、握った亨の手を、離して別れなあかん瞬間が来るんやないのか。死によって分かたれ、冥界の神が支配する位相へ、俺の魂を連れ去る容赦のない手が、俺と亨を引き離す。その時に、嫌や、離れたくないと言うて、俺は無様に抵抗すんのか。それを思うと、情けない。きっとそうなるような気がして。
「アキちゃん……かったか?」
 伏し目に開いた目のまま、亨が俺の胸に頬を擦り寄せて、ひっそり訊いてきた。亨は日頃、そんなこと訊いたことがない。俺も自分からは言わへんけども、そんなの、言うまでもなく分かってるはずやった。
「なんでそんなこと訊くんや」
「知りたいねん。アキちゃんにとって俺は、今でも美しい神か。それとも、今やったらもう、惚れへんか?」
 本気で心配してるらしい顔を見て、俺はぽかんと聞いていた。
 なんでそんなこと言うんやろ。アホちゃうか、こいつ。俺がどんだけお前に必死になって、つらいつらいで七転八倒してるか、ほんまに全然知らんのや。言わんと分からへんのや。アホやわあ水地亨。どないなっとんねん、お前の脳は。
 そんな呆然感の中、俺は相当長い間、亨を抱いて、ポカーンと顔を見ていたようや。亨はだんだん、居心地悪そうに俺に抱かれていた。
 でもさ。俺は口が悪いねん。思うたことを、そのまま口に出してたら、ヤバい時が多いと思わへんか。今の、言うても平気な台詞やったか。あかんよな?
 そやから俺は、ちゃんと翻訳して言うた。
「お前は美しい神やで。今初めて会ったとしても、きっとお前に惚れてる」
「なんで?」
 なんで惚れんのか、その理由を言えと、亨は甘く囁く声で、それでも厳しく強請ってきた。
 なんでか分からん。お前がなんで俺のことを好きなのか、俺には分からん。それと同じ疑問が、亨の中にもあるらしい。
 そんなん、考えてみたことなかった。亨に自信がないかもしれへんなんて。自信ないということが考えられへんのやもん。
 皆は、見たことないやろ、水地亨。綺麗やでえ。アホやけど。ほんまに美しい。黙って立ってたら、あるいはちょっと微笑んで、婉然と見つめられたら、頭沸いてもうて、清水の舞台からでも笑いながら平気で飛び降りられる。それくらいのアホになれる。
 絵にも描けない美しさや。
 俺は絵師やし、それを描こうと何度も試みたけど、でも、本物には及ばへん。生きて動いている水地亨が一番美しい。あんまり綺麗で、まるで絵のようやと、思うことはあるけど、でも、実を言えば、いつも目の前にいる亨より美しい、水地亨の絵姿を、俺は描けた試しがない。追っても逃げる蜃気楼みたいなもんで、描いても描いても、満足いかへん。また描きたい。そんな永遠のテーマやで。
 何か可笑しなってきて、俺は笑った。たぶん自分が思いついた答えがアホみたいやったから、恥ずかしなって、先回りして笑ってもうたんやと思う。
「なんでって。分からへん。お前が俺の、運命の相手やからやろ」
「……アキちゃん、ほんまにそう思うてる?」
 今度はこっちがぽかんとした顔で、亨が俺に聞き返していた。二度も言わせるな、アホ。聞こえたやろう、お前は耳ええねんから。絶対、俺を虐めようと思って聞き返している。リピート要請は断固拒否。恥ずかしいのでよそ見して、頷いただけで済ませてもうた。
「おいおい、そういう事はやな、ちゃんと相手の目を見て言わなあかんやろ! なに視線逸らしてんねん、アキちゃん」
「恥ずかしいもん。いちいち言われへん」
「そんな性格で、よう浮気なんかするわ!」
 ぎゃあぎゃあ言うてた。亨大明神。あれ。そこに戻ってくるんや。それは困ったなあ。もう終わったネタやと思うてた。
 両耳掴まれて、こっち見ろと引き戻されながら、俺はくよくよと、亨と向き合っていた。
「アキちゃん、どうせ、俺以外には、ええこと言うてやってんのやろ。お前みたいな奥手な男にいてこまされているアホが、俺以外にいてると思われへんのや」
「言うてへん! ええことなんか言うてへんよ」
 ぐいぐいやられて、耳痛い。でも叱られてるっぽいから、やめろって言われへん。いててて。サザエさんVSカツオ君みたいになってる。怪談「耳無し法一」やったら、次のシーンで耳とれてそう。
「嘘や。湊川怜司になんて言うてやったんや。美しいなあて言うてやったんか。亨よりお前のほうが好きやて言うたんか?」
「そんなん言うてへん……」
 許してくれたんやと思うてたのに、実はこれから反省会やったんや。仲直りエッチやと思うてたのに、実は違うたんや。めっちゃ大誤算。
「ほんなら何て言うて口説いたんや」
「何て、って……一発やって、俺のしきになって、生け贄なってくれへんかって」
 正直者な俺の答えを、亨はちゃんと真面目に聞いてたようやったけど、聞いた話の内容が、空耳に思えたんか、険しい顔のまま、えっ、て言うてた。
「何、それ?」
「何って。だから。そう言うて頼んで、事情話したら、湊川が大爆笑して、ほんなら可哀想やから俺が逝ってやろう、って……」
 ダイジェスト的にはそうやんか。気まずいところはカットしたけど。カットしたとこが、たぶん一番の見所やけど。
「えっ……実はアキちゃん、あいつとやってへんのか?」
 亨に本気の目で訊かれて、もちろん俺の目は泳いだよ。嘘はつけへん性格やねんから。嘘つくよりええやろ? やってません言うたほうが良かったか?
 言えばよかったかな。亨は俺の無言の回答に、わなわな来ていた。目が怖かった。ちょっと金色がかってた。たぶん、肌を探ればどこかには、白い鱗が浮いていたやろ。
「やったんか……」
「お前もやったんやろ、藤堂さんと」
 だから引き分けドローという話なんやろ。殺さんといてくれ。俺も今は一応、秋津家の当主として、生きとかなあかん義務がある。
「また、そんな手か! お前はずるい!」
 そう!? そうやろか?
 俺もずるいかもしれへんけど、そもそも、その論法で来たんはお前なんやで、亨。
「俺はちゃんと言うたやん。藤堂さんよりアキちゃんが好きやって、ちゃんと言うたで。せやのにお前は曖昧やねん。誰でもええんとちゃうのか。水煙でも、ワンワンでもラジオでも、お前は誰でもええんやろ?」
 それが憎いみたいに、亨は焼き餅焼いてる顔をして、俺を睨んだ。それが何か、ずいぶん切なそうに見えて、俺は焦った。
「アキちゃんは俺のこと、大したことないと思うてんのやろ。もう、釣った魚やしな。蛇やけど。とにかくもう、亨は骨の髄までたらし込んであるから、餌なんかやらんでええわと思うてんのや。どうせ俺は、ワンワンみたいに可愛ないしな、水煙みたいにお高くもないし、アホやし、アキちゃん大好きなエロエロ妖怪ですよ! せやけどラジオよりマシやろ。あいつ藤堂さんまで口説いとったで。アキちゃんと寝た翌朝にはもう、他の男なんやで!?」
 涙目なって、亨は吠えてた。めちゃめちゃ悔しそうやった。
「お前、それで悔しなって、藤堂さんコースやったんか……」
 その光景が目に見えるようやった。もともと未練たらたらやった藤堂さんに、湊川が粉かけてるの見て、ブチッと来たんやろ。どうせそんなとこやねん。
「違う! そうやけど……そういう話やない。あいつはな、水煙言うてたけど、乱交する妖怪やで。男でも女でも上でも下でもええねんで。三人でも四人でも十五人でもええねんで!? そんなんが好きなんか、アキちゃん。アキちゃんのおとんに妬かせるために、他のと寝てみせるような男なんやで!?」
 お前もそうやん?
 俺は思わずそうツッコミそうになったけど、我慢はしたんやで。でも、さすがに亨は俺と気心知れてるわ。目を見ただけで、俺が何て言おうとしたか、わかってもうたらしい。それだけで、真っ赤になって怒っていた。
「違う!! 俺はアキちゃんの目の前で藤堂さんとやったわけやないやんか。あいつは目の前でやるねんで。最低やろ!?」
 最低かなあ。
 俺、今、たぶん、想像したらあかんと思うねん。それでもし、萌えるわあみたいな結果が出たら、ヤバいやんか。いろんな意味で。今、裸なんやし。アキちゃん、それもアリかと水地亨が勘違いしたら悲しいし。
 お前はあかんねんで。亨は俺のモンやし。絶対そんなんしたらあかん。陰ですんのも、ほんま言うたら絶対あかん。相手が一人でもあかん。十五人なんか当然あかん。
 ラジオやからええねん。おぼろ様は俺のモンやないし、泣くの俺やのうて、おとん大明神やしな。ざまあみろ。それに、なんというか若干、湊川怜司は俺の心の中で、セクシー系アイドルみたいになってきてる。なんかもう、エロの偶像やから。
「アキちゃんちょっと想像してみろ、ラジオの十五人総受けとかを! ドン引きやろ!?」
 想像させるな。必死で考えんようにしてんのに。舐めたらあかん、俺の想像力を。良かったほんまに、事前やのうて事後の話で。下の人、めって言われるだけやのうて、水地亨に殺されてたかもしれへん。二度と悪さできへんように。
「悪い奴やで。昔、軍部の偉いおっさんとか、ガイジンの接待とかともやってたんやで。今はイイ子みたいにしてるけど、元々は男娼なんやで、あいつは。しかもワールドワイドやで。ナチのゲシュタポとも寝てたんやで。悪い子なんやで、節操なんか耳クソほどもない奴や!! そいつが何で駆け落ちやねん。キャラの辻褄合うてへん!!」
 そんなことない。遊郭の女郎が足抜けして客と駆け落ちする話なんか、ようあるネタやで。案外そういう奴が根は純情やったりするパターンやんか。
「そんなんでもええの……アキちゃん」
 つらそうに訊いて、亨は苦しいという顔をしていた。
「せやから俺でもええんやな……別に誰でもええんや、アキちゃんは。顔さえ良ければ、蛇でもナチでも、なんでもええようなキャパの男やから、俺でもええんや。あいつも好きなんか。ラジオも。水煙や犬より好きか。俺より好きなんか。どういう順番になってんの、アキちゃんの中で…………俺って、何番目?」
 くよくよ言うて、亨はほんまに悔しいみたいに、眉間に寄せた皺を、俺の胸に額をくっつけて隠していた。
「俺はなあ、いくら堕ちてもナチと寝たことはないで……あいつら、人の脂で石鹸作るような悪魔なんやで? アキちゃん若いし、よう知らんのやろけど……人間のすることやないよ。そもそも戦争するように煽ったのかて、ラジオみたいな奴らやんか。マスメディアやで。鬼畜米英とか言うて。えらいことやったんやから。お前のおとんが死んだのかて、遠回しには、あいつも一枚噛んでんのやないか。戦争にならへんかったら、おとんは死なんで済んだんやで?」
 いつの世も、マスメディアは両刃もろはの剣や。人々のメディア信仰はいつの時代も強くて、メディアが求めるテンポで、右へ左へと人は巧みに操られて踊る。時には、自分たちが踊っているということにさえ気付かへんと。
 もしもメディアが愛を知らない悪魔やったら、世の中どんなふうになっていくやろ。ラジオやテレビやインターネットが、あるいは友達の友達から携帯のメールで伝わってくるクチコミの噂が、あいつを憎めと教えたら、それが正しいもんやと信じて、純粋についていく層はいてる。その行き先が地獄やということに、全く気づくこともない。実際そこへ辿り着いてみて、これは地獄やないかと思うまで、分かってへん。
 そういう、怖ろしい神さんや。うわさは。
 しかしそれも神なれば、まつ巫覡ふげきの器量次第で、なごみもすれば、すさみもするやろう。
 野放しにしといたらあかん式神や。湊川怜司は。なんとかして調伏して、あいつがいつも和んでいるよう、愛を知るよう、大事にたてまつってやらへんかったら、とんでもないことになる。
 船で人を助けた時に、あいつは言うてた。俺はなんでこの人間たちを、助けたんやろかって。分かってへんねん。あいつは。自分にも人が救えるということが、自分も人を愛せる神やということが、理解できてない。
 でも、湊川怜司は俺のおとんを今でも待っていると思う。信太の代わりに死んでやろかというのも、別に伊達や酔狂やない。せっかく幸せそうにしてんのに、虎と不死鳥が死によって分かたれるのは可哀想やって、そんな単純で深い愛情のなせる技やねん。
 あれも決して悪魔サタンではない。水地亨が悪魔サタンやのうて神やというなら、湊川怜司も神の一種や。あいつを崇《あが》めたてまつってやる巫覡ふげきが要るわ。もしくは、神なら神らしく、ちゃんとせえと躾ける主人が。それがあいつに、なにとぞ人に尽くし給えと、かしこかしこみお頼み申せば、ちゃんと、ええ神さんになる。どんな神にも、荒れてる時はあるねん。結局、そういう話やろ。
「俺には分からへん、亨。その時代に生きてへんかった。自分の目で見てへんしな。けど、あいつが鬼やと思うてたら、おとんは湊川を斬って捨てたやろ。でも、あいつはおとんの恋人やったんや。今でもそうかもしれへん。おとんに訊かんと分からへんけど。お前も悪魔サタンと呼ばれたこともある神なんやろ。それでも今は違うやんか。俺の神さんで、ええモンなんやろ。自分のことは棚上げで、人のことばっかり言うたらあかんで」
「やっぱ好きなんや……湊川」
 がくっと肩を落として、亨は独り言みたいに言うてた。
 あれ。そういう話?
 俺、もっと真面目に考えてたけど。めっちゃ深いテーマで掘り下げてたけど。お前にとっては、それっぽっちの惚れた腫れたの話やったんか。ほんまアホやな水地亨。もうちょっと世界を深めていかなあかんよ、お前は。
 まあ、そうやって逃げてみたところで、返事せなあかんのやったら、結局言うこと同じなんやけどな。
「好き……かも、しれへんけど……でも、それはお前より好きという訳やないで」
 歯切れ悪いなあ、俺。格好つかへん。
「ほな、水煙・俺・ワンワン・ラジオか。それとも、水煙・俺・ラジオ・ワンワンか。まさかと思うけど、水煙・ラジオ・ワンワン・俺、やないやろな?」
「順位なんかないよ……それにお前は別格なんやから。そんなしょうもない事、心配せんといてくれ」
 言い逃れくさい、その話は、いつも俺の本音やねん。口に出したら嘘くさい。適当な嘘みたい。でも、ほんまなんやで。
 もしも、本気で、瑞希が亨に害を成そうというんやったら、俺はもう一度、あいつを殺せる。泣いて斬る羽目になる。それが瑞希やのうて、水煙や湊川でも、他の誰でも変わらへん。もしかしたら俺のおかんや、おとん大明神でも、そうかもしれへん。俺にとっては亨は別格。この世で一番、大事な相手やねん。
 せやからお前には誰とも喧嘩せんといてほしい。もしもそうなったら、俺はその相手を自分の人生から切り捨てることになる。おとんがおぼろと別れたように。泣く泣くか、それとも粋に大人っぽくかは分からんけども、とにかく捨てることになる。どちらか選べとお前が本気で迫ってきたら、俺は選ばなあかんようになる。その時に、迷う余地はない。
「なんで水煙が一位やねん。どのパターンでも……」
「何か、そうかなぁと思って。アキちゃん、あいつが自分好みの姿に変転して、さらに萌え萌えなんやろ。水煙様、もう無敵やろ」
 俺より好きかと、悲しいような悋気りんきの顔で、亨は俺が、そうやと答えるものと、信じて怖れてるような顔をしていた。その顔は、なんとなく、俺に水煙を連想させた。あいつはいつも、そういう顔をしてる。凛として誇り高いけど、でも臆病そうな剣や。戦う前から負けてるみたいな。
 あいつも、おとんに言うてみればよかった。亨みたいに。瑞希みたいに。俺のことを一番に想うてくれ、離さんといてくれって。そしたら、おとんは困ったやろけど。俺が困ったように、死ぬほど悩んで地獄みたいやったやろけど、でも、それくらい困らせてやればよかってん。理解してやったりせず。
 湊川怜司も、一度は駄々をこねている。俺と駆け落ちしろと迫って。おとんは困ったやろう。水煙か、あいつか、選ばなあかんようになってもうて。
 どっちとも巧いこと付き合うていきたいというのが、ずるい男の本音やったやろ。そんなずるい男、めちゃめちゃ駄々こねて、死ぬほど悩ませてやったらええねん。それで因果応報や。
 水煙が駄々こねへんのは、たぶん、亜里砂が俺に唯々諾々の女やったのと同じ理由やねん。逆らったら嫌われると思いこんでんねん。駄々こねたら愛してもらわれへんと思うてる。
 でも別に、そんなことはないと思うよ。
 はいはい、亜里砂やのうて聖トミ子。俺はあいつの事も、付き合うてた時にはもちろん好きで惚れてたけども、でも、もしかすると今のほうが好きかもしれへん。怒鳴って俺を罵って、泣きべそかいてた時のほうが、実を言うたら可愛いと思う。顔無かったけどな。
 そのほうが、人間味があるやん。お人形やのうて。ちゃんと心のある一個の人間やねんから。いや。天使か。その前は黒猫で。その前は死体に憑いてる自縛霊やったけど。ええと。とにかく、お人形さんみたいな愛され方やと、ほんまには幸せになられへんのと違うか。やっぱ、どっか醜いくらいでないと、手応えないねん。
 まあ、そんなこと思うようになれたというのは、俺も多少は成長したということか。
 亜里砂と喧嘩して、キレて、別れて、やけ酒飲んでた去年のクリスマス・イブから、遠いような近いような波瀾万丈の道のりやった。まだまだお子ちゃまやけども、俺も前進はしてる。
 よかったなあ。もう死ぬかっていう時に直面して、キレて暴れる餓鬼のままやのうて。
 それもこれも、水地亨大明神のお陰やと俺は思うてる。もちろん他の皆々様のお陰様でもあるけども、亨がおらんかったら、俺には無理やったやろ。だって俺は、いつもこいつのために頑張ったり耐えたりしてた。亨が俺のツレでなければ、何も頑張ってへんかったやろ。
 だって、しんどいもん。俺、甘えん坊のボンボンやしな。努力できへん。努力なんかしたことないもん。勉強もスポーツも、努力せんでも何でもできたし、顔もええし背も高いんやで。食いモンに好き嫌いないし、アレルギーもない。持病もない。めちゃくちゃ健康優良児で、家は金持ちやし、おかんは美人や。女にもめちゃめちゃモテたしな。ほんまに、思い返せば、愚痴らなあかんようなつらいことなんて、なぁんもない人生やったわ。
 今もないんかもしれへん。別にない。つらいことがない人生なんか無い。皆、何かに耐えて生きている。その中で、自分の勤めを果たしてる。誰かを守ったりしてる。それが大人の一生や。俺もそうして生きていくことに変わりはあらへん。
 その上で、俺には愛しい俺のツレ、水地亨大明神がいるわけやから、ほんまに幸せな男やで。ありがたや、ありがたや。
 でも、それ、本人に言うとかなあかん?
 言わなあかんかなあ……。
 言わなあかんのやろなあ。
 嫌やわあ、恥ずかしいやんか。言いたくない。
 もう言うたやん。お前は別格やって。それで終わりにしよ?
 ああもう、何で水煙が一位と思うんやなんて、訊かんかったらよかった。また話がループしてもうた。無限ループやったらどうしよう。ハメられてるんとちゃうか、俺。エロエロ妖怪の、俺に恥ずかしいことを言わせてよろこぶ羞恥プレイに。そういうのもあるからな、亨のレパートリーには。ほんま情けない……。
「水煙の、今の姿は、しょせん俺の絵やんか。俺の想像を絶してない。お前は……いつも俺の想像越えてるから。先の見えへん絶叫マシーンやから。俺はもう、それにハマってもうてるから。無敵なのは、水煙やのうて、お前のほうやで」
 一応そう言うといた。でもそれはちょっと、リップサービス入ってたかもしれへん。ここだけの話。ほんま言うたら俺の中では順位はないねん。誰か一人と迫られれば、悩む余地なく亨やねんけど、それは俺にとって亨のほうが、水煙よりイケてるという意味やない。
 怒られるんやろなあ、そんなこと言うたら。
 でも、神様に優劣はないよ。たとえ、ちっぽけな鉛筆削り大明神でも、神は神や。大事にせなあかん。どっちの神が偉いかなんて、そんな話したらあかん。戦争なってまうからな。片方が神で、もう片方が鬼になってまう。そんなんあかんねん。どっちも尊い神さんやねん。
 ただ俺は、水地亨大明神を主神として奉る神官やという事やねん。俺が命がけで守らなあかんご本尊はあいつやねんで。でも、それは、亨が他の神より優れているからではない。俺にとって、愛しいツレやというだけのこと。ほんのちょっとの、運命の悪戯。偶然の結果や。だから結局、どれも皆、客観的に見れば、優劣はない。皆、麗しい素晴らしい神さんばっかりなんやで。
 水煙の、新しい姿は確かに好きやけど、でも、俺がほんまに震い付くような魅力を感じるのは、あいつの元々の姿のほうやろうと思う。あれがほんまの神の姿や。たとえ、醜い鬼が潜んでいても、それが水煙の本当の姿や。俺はそっちを愛してる。だから人にも、それを愛してほしい。だけど、いきなり見るには、刺激が強すぎるからな。げきではない、一般人には。
「俺が好きなん? 俺を一番愛してる?」
 ジトッと疑わしそうに、それでも亨は甘えた声で、俺に訊ねた。
 頷いてみせながら、俺は亨を抱きしめて返事した。
「お前を一番愛してる。お前のためやったら何でも捨てられる。でも、それやと生きていかれへんやろ。お前も、俺も。お前かて、俺がおったら藤堂さんは死んでもええわとは思わへんのやろ?」
「……そんなことない。選べというなら、あいつを殺して、バラした死体をお前に見せてやってもいい」
 暗く思い詰めたような目で、腕の中にいる亨が俺を見上げてきたので、俺は焦った。そんな目してたら、ほんまにやりそうに見えるで、お前は。
「そんなんせんでええねん。そんなんしたらお前は悲しいやろ。俺も悲しい。なんでか知らんけど、俺はあの人好きやねん。お前が中西さんのこと好きでも、しょうがないと思う。でも、できたらいつも俺のほうを選んでくれ」
 抱きしめて頼むと、亨はしばらく黙っていた。うるんだような沈黙やった。なんか泣きそうなってるらしい。まさか怒ってんのかと俺がビビる頃、亨はやっと、ぽつりと答えた。
「いつもお前を選ぶ。せやしアキちゃんも、いつも俺を選んでくれ」
 ぐにゃっと脱力して甘えてきて、亨はほっと安心したように、俺の腕の中で和んだ気配を見せた。
「うん……」
 うん言うてもうた……。
 大丈夫か、俺。その場の勢いでそんな約束をして。嘘にならへんか。
 でも、そう答えると、なんでか自分も安らいだ。そういう一生やとええなあと思った。いつも亨と一緒に居れて、俺はいつでも、こいつを選ぶ。亨はいつでも、俺を選んでくれる。そしてずっと二人で固く抱き合うてられたら、きっと俺は幸せなんやろう。
 そして、抱き合いながら絵を描いて?
 なんでそうなるねん、俺。また妄想復活してきてる。
 せやけど、決して変な意味でなく、俺はおとんがなんで寝床で絵を描いていたか、実はちょっと分かった。ずっと抱き合うときたい相手が居って、しかも絵も描きたかったら、抱きながら描くしかない。しょうがないねん、それは。新聞読みながら朝飯食うみたいなもん。ベッドでいちゃつきながらパン食うようなもん。お行儀悪いし、変やけど、でもおぼろはそんなん気にせえへんのやろ。
 時にエロくさくはあるかもしれへんけども、にこにこ楽しそうに絵を描いている、おぼろと、おとんを想像すると、それはちょっと和やかで、楽しそうな絵面えづらやった。肌に描かれて、くすぐったいわあって、くすくす笑う、あの美声とか。やんわり悶えて、先生は絵が上手やなあと褒めてくれる時の、優しい目とか。それを、うっとり眺めて、おとんも得意げやったろうか。その時には俺と大差ない歳の、ただの小僧やったんやから。
 でも、そんな妙な遊びの情景に、癒やされていたんは、俺のおとんの方だけか。
 おぼろ様の話では、おとんがあいつに絵を描く時には、俺が風呂場で遊んでもらったような、ああいうのやのうて、ほんまに画材使って絵を描いたらしい。日本画の、にかわと顔料と、墨と筆でな。
 去り際の朝いつも、入れ墨みたいに絵を描いていき、そのまま服着て仕事行けと強請ねだってゆくらしい。そして、その人肌の絵にも、ちゃんと雅号は入れてある。暁雨ぎょううと。落款らっかんまで捺してある。ハンコやで。
 俺は思うんやけど、おとんは絵もやけど、実は自分の名前を書きたかったんやないか。おぼろ様の肌の上に。これは俺のもん。誰にもやらんて名前を書いておき、それを口には出さへん。
 たぶん恥ずかしかったんや。
 おとんは口の上手い男やったかもしれへんけど、どうせ俺のおとんやで。きっと、ちゃんと伝えていない、肝心要かんじんかなめのところがあるわ。
 だけどそういうのは、ちゃんと言わんと伝わらへん。伝わるけども、確信がない。
 おぼろはおとんの我が儘を聞いてやり、ほんまに軍服の下に、おとんが描いた絵を着ていってやってたらしい。それはなんとも、淫靡な話やで。そんなんしてやるのは、おぼろもおとんを愛してたからやないのか。式やし、そうせえと命令されたからか。そうやないと思いたいんやけどな。あいつも愛を知ってると。
 俺もやりたい。肌の上に絵描いてみたい。ほんま言うたらしたい。おぼろ様やないで。それも思い描くとなんでか少々胸がそわそわするけど。亨にやで。
 何を描くかは思いつかんけど。とにかくなんか一筆描いて、そして俺の雅号を入れたい。この蛇は俺のもの。ちゃあんと名前書いてあるやろ。見りゃわかるやろ。誰も触らんといてくれって。
 でも、そういえば、俺にはまだ、雅号がないんやった。思えばそれも、心残りや。
「なあ……アキちゃん。さっき言うてた、いけない想像って、なんやったん?」
 忘れへんなあ、お前は。そういう気まずい事は絶対に憶えてる。
 抱きついた俺に、猫みたいにゴロゴロ甘えて擦り寄りながら、亨は汗の乾き始めた俺の胸を、名残惜しげに指でなぞってた。
「エロログ書かへんか?」
「書かへん、書かへん」
 信用できない安請け合いで、亨はにこにこ言うていた。
 絶対嘘やと俺には見えたが、でもちょっと思うところがあって、しゃあないし話すことにした。
「おとんは、湊川の肌の上に絵描いてたらしい。入れ墨みたいに」
 俺が教えると、亨はぽかんとした。何か思い出しているような目つきやった。たぶん、おとん大明神を回想してるんやろう。そんな人やったんやと。
「えっ。マジで? 若干、変態みたいやで、おとん」
「若干やのうて、あいつはほんまもんの変態絵師なんやと思うで」
 そして俺はその息子なんです。しかも生き写しやから。要らんところは似てるから。
「上手に描けたし、消さんといてくれって頼まれるらしいわ。雅号と落款も入れてあって。そのまま服着て出かけろって強請ねだられるんやって」
「浮気防止やろ」
 皮肉に笑って、亨はぽつりとそう言うた。
「お前もそう思うか……」
 しかし果たして、あんな性格の奴に、服を脱いだら絵が描いてあるくらいのことで、他のと寝るのは今日は止そうと、思いとどまってもらえんのやろか。それを見られて恥ずかしいと思うような奴には見えへん。
 でも、絵が消えるのは惜しいとは、思うてくれるかもしれへん。その絵が、よう描けた、上手な絵やったらな。
 せやから、おとんは案外、ほんまに一生懸命描いて仕上げたんやないか。
 やりながら、夜にも描くけど、おとんはいつも、後朝きぬぎぬの、朝靄立ちこめる早朝に、一緒に風呂浴びて、湯上がりの肌にも描くらしい。それがいつも、逢瀬の最後の一作や。
 おとんも手の早い絵師やったらしい。気合い一発の集中力で、見る間に仕上げる。そして雅号を入れながら、おぼろ様に頼み込む。どうか一日、風呂入って絵が消えるまでの間でええから、俺の絵に、お前を抱かせといてくれ。離れていても、忘れんといてくれと、冗談めかして頼む。
 でも、それは、俺のおとんの、二十歳そこらの秋津暁彦君の、本音やったんやろか。
 お登与どこいってん、おとん。水煙様は。その他、両手の指でも数えられへんような、お前の式神の皆さんは。
 ええかげんな男やで。そらまあ、俺のおとんやしなあ。もしや本気でハマってて、順位なんか関係無くなってもうてたんかもしれへん。おぼろのことも、本気で愛してた。誰にでも本気。いつでも全力投球。皆さん、それぞれ大好きやねん。お登与だけは別格で、俺のおかんが運命の女と決めてはいたけど、でも、それと同じ頭で悩んでもいたんやないか。水煙好きや、おぼろも好きやで、七転八倒、大弱り。
 そう思うと、めちゃめちゃ可笑しい。おとん大明神にも、人間味がある。その、ええかげんさというか、気の多さというか、どうしようもない男なところが、俺とそっくり。情けない、そんな男が俺のおとんかと、がっかりしている自分も居るけど、でもちょっと、親しみも覚える。
 おとんも実は、俺と大差ない、フラフラのぼんで、それでも必死で当主を務め、運命の波に押し流されて、しょうがなしに英霊になってもうたんやないか。
 せやけど、その正体は、英雄でもなんでもない。ただの変態絵師やんか。
 はあはあしやがって、おとん。おぼろ様の軍服剥ぎながら、はあはあしてたとは。気持ちは分かる。でもそれ、めちゃくちゃ格好悪いで。情けない、エロ丸出しやから。我慢できへんかったんか、おとん。俺もできへんかった……。
「まさかアキちゃんも、絵描きたいの? 人肌に?」
 険しい顔して、亨が不意に訊いてきた。いろいろ考えてたようやった。
「えっ。何? 描きたいよ」
 視線逸らして、俺は答えた。とても目を見て言われへん。恥ずかしすぎて。
「ラジオとまたやりたいんか!?」
 叫ぶように訊いてくる亨は、たぶん鬼みたいな形相やったやろうけど、見てへん見てへん。
「ラジオやないよ……お前に描きたいねん」
 蚊でも、この時の俺よりは大きい声で鳴ける。
「……えっ」
 絶句したみたいに、亨は短く呻いて、押し黙った。盗み見したら、険しいままの真顔やった。でも綺麗な淡い色合いの目が、なにか空想してるみたいに、ちらちら視線を惑わせている。そこに何が映っているのか、気になるところやけど、たぶん変な想像や。
「そんなんしたいの……?」
 批判的に訊かれ、俺はすでに顔赤かったかもしれへん。照れ屋なんやし、しゃあないよ。頷くまでは返事したけど、でももう無理やし。限界やしな。
「いや……ええねん、忘れて。お前が嫌なんやったら、そんなんせんでええしな」
 やっぱりもう終了終了と、俺は必死で話を打ち切る口調になってた。亨が乗り気には見えへんかったんやもん。
「えっ、待って! 嫌やないよ、びっくりしただけ! してええよ、それくらい。なんでもない、俺も嬉しいよ。なんでも描いて!」
 ぎゅうっと抱きついてきて、亨は愛しそうに俺の胸に擦り寄ってきた。恥ずかしい恥ずかしい。それで俺はなんでか、じたばた逃げてた。でも亨に、ものすご強く抱きつかれていて、逃げるに逃げられへん。
「ええかもしれへん。想像するだに萌える! 縛って体に絵描かれるなんて……」
 縛るなんて言うてへんで? そんなんせなあかんの? 変態や!
 亨はなんか空想してるような悶える伏し目で、はあはあ微かに喘ぐような熱い息やった。
 そして、不意に我に返り、ぽつりと付け加えていた。
「何でもええけど、ドラえもんとか描くのやめてな……?」
 どんなオチやったんや、お前の空想の世界では!
「アホか! そんなん描くわけないやろ!!」
 情けななって、俺はまた絶叫や。とにかく絶叫。亨と居ると、いつも絶叫。
 でもここで、キレてる場合やない。まだ話終わってない。肝心のところがまだやねん。
「俺の雅号、お前が考えてくれへんか?」
 照れ隠しもあって、真面目なような早口で、俺は亨に頼んだ。亨はそれに、またびっくりしたらしい。ほんまに、俺の腕の中でびくっとしてた。
「えっ。そんなん、俺、考えたことないよ。どんなんにしたらええか、分からへん。もっと絵に詳しい人に頼んだほうがええんやないか?」
「なんでもええねん。お前につけてほしいんや」
 誰でもええねん。雅号を授けるのは。だって自分でつける人もいるくらいやしな。他人に頼むんやったら、師匠につけてもらうのが普通らしいけど、俺の師匠って、誰?
 …………あっ、苑先生?
 忘れてたわあ。
 って、嘘、嘘。忘れてへん。忘れてへんて。
 苑先生にも、たくさん世話になった。感謝はしてる。俺に日本画の絵を描く技法を授けたんは、誰あろう、あの気の弱いオッサンなんやで。あの人の技は一流や。その絵に全然オーラが無いだけで。
 でも、俺は、雅号は亨に付けてほしいねん。堪忍してください、教授。だって俺はまた教授に会うまで、生きてられへんらしい。夏休み終わるまで、命保たへんかった。後期始まって、本間君死にましたって聞いたら、あの人、腰抜かすやろけど、でもしょうがない。お暇乞いとまごいの挨拶する間もなかったわ。
 いっつも作業棟の鍵取りに行くとき、お菓子くれてた教務課のおばちゃんにも、いつも通り普通に別れてそれっきりやったわ。俺、甘いモン好きやないのにと思いつつ、いつも苦笑いで、ありがとうて言うてたけど、でも、それも、今にして思えば有り難い世間様の愛やった。縁も義理もない学生に、いつもわざわざお菓子用意してくれてはったんやしな。まあ、おばちゃん、単に俺の顔が好きやっただけと思うけど。
 叡電えいでんの、出町柳でまちやなぎの駅のおっちゃんも、いつもお帰り言うてくれてた。けどもう会うこともない。
 下鴨署にご出勤なさるコロンボ守屋刑事さんにも、あれから時々、朝の駅ですれ違うたりしたけども、うわあ本間さんやて縁起悪そうに、笑って挨拶してくれた。それにももう会うことがない。
 いつも俺の絵を高く評価してくれていた、画商の西森さんにも、そういや挨拶無しで逝くことになる。もうすぐ死にますって電話すんのも変やし、気まずいしやな。なんて話してええかわからへん。
 実は俺はずっと前から、西森さんに訊きたい事がひとつある。顔合わせるたびに、思い切って訊こうかと思うねんけど、どうしても切り出せずに今まで来てもうた。
 でも、もう、ええか。俺、死ぬんやし。そんな奴が訊いても、しゃあないような事やねん。忘れよう。このまま墓まで持って行こう。
「ほんなら、アキちゃん。暁月ぎょうげつにしたら?」
 にこにこ、ちょっと照れたように言うて、亨は眩しそうに俺の顔を見ていた。
「なんや、それ。どっから出てきたんや」
 思いつかんという割に、いやに即答めいてたと思えて、俺は不思議やった。亨はますます照れくさそうに、にこにこしていた。
「アキちゃんが描いた、俺の絵のタイトルからの、パクりやで。知らんやろ。大崎先生が勝手にタイトルつけて、藤堂さんに売ってやってたらしいわ。蛇神じゃしん暁月ぎょうげつを愛でる、って。あの絵の俺は、アキちゃんを見てんのやろ? せやから、俺が蛇神なんやし、アキちゃんが暁月ぎょうげつ……」
「でも、それやと、俺の雅号って大崎先生がつけたことにならへんか?」
「そうなるかなあ。でも、ええやん。合うてると思うけど?」
 何か嫌やなあ、それ。なんで俺が海原遊山に名前つけてもらわなあかんねん。そんな雅号にしたら、あの爺さん、どんだけイイ気になるか知らん。
 ただでさえ、お前はわしが見出してやった絵師やみたいな、パトロン乗りで来んのに、あの爺さん。
 見出してへん。あんたは、俺のおかんの策略にモロにハマってただけやんか。おかんにウケたいばっかりに、言うこときいて息子の俺の絵を買うてやろうて甘い顔したのが始まりで、絵見てみたら、たまたま気に入ったかなあ、ていうだけやんか。そういうの、見出したって言うの?
 それを言うなら西森さん辺りやろう。あの人が俺の絵を見たのも、偶然といえば偶然の、何や妙な縁でやけども、最初にその、蛇神が暁月を愛でている、川原の古代絵の売買を仲介して、それっきり切れても不思議ではない縁やったところを、あの人が、俺の絵がいいと言うてくれて、描いたらなんぼでも持ってこいと、うるさく強請ねだってくれるもんで、そのまま続いてるんやで。
 祇園で長年画商をやってる目利きのオッサンに、お前の絵は売れると言うてもろて、俺にはどんだけ自信がついたか。実はそうやねんで。亨にも、当の西森さんにも、言うたことはないけど、俺はあの人には感謝している。
 大崎先生も俺の絵に目はかけてくれてはるし、それには感謝してるけど、どうも色々と下心が匂うやんか。その点、西森さんは商売や。それに、俺にええ顔してやる義理も全然ないしな。その人が、俺の絵が好きやて言うてくれるんやから、ほんまに好きなんやろう。売れるて言うし、実際売ってる。
 それがなければ、俺は案外、決心ついてなかったかもしれへん。画家になりたいなあなんて、餓鬼くさい、アホみたいな夢かと思えて。
 美大出たやつが、全員画家になるわけやないで。むしろ、ならへん奴のほうが多いかもしれへん。デザイン系の会社に就職したりとか、あるいは全く関係ない仕事したり。卒業と同時に結婚してもうて、家事と育児と仕事に追われ、まったく筆持ってませんていう女の先輩なんかもいて、学祭に来たとき、深いため息をついてた。
 好きな絵描いて生きていくというのは、簡単な話やないねん。
 本間君やったらできるやろうと、苑先生は言うてたけど、それは俺の絵が上手いという意味やない。家が金持ちやからやで。
 俺は食うには困らへん。いくら囓っても囓りつくせないほど強靱なすねを持った親がいる。先祖代々、世襲してきた相続財産がある。実は俺も地主さんやねん。知らんかったやろ。言うてへんかったもなんあ。
 その金は、俺がまだ一人前やないからということで、名義だけは俺のもんやけど、管理はおかんがしてる。おかんというか、おかんに仕えてる誰かがやけど。式神やないで。会計士さんとかやで。
 確か、田島たじま先生とかいう、白髪のお爺ちゃんやで。最近はその息子やいう、田島ジュニアが実務をやってるらしいけど、うちに来るのは、おとんのほうや。爺さん、秋津の登与様の顔見たいねん。そんな、名前の後に先生の付く、エロオヤジばっかりなんやで。
 まあ、そんな感じで、おかんが田島先生親子に管理を委託している俺の資産も、学校出たら名実ともに俺のもんになるらしい。実感ないけど、でもそれで、食うには困らんやろうということで。好きな絵だけ描いて、蝶よ花よと生きていく事も、本間君やったら可能やろうというのが、苑先生の読みや。
 もちろん教授はそれについて、深く落ち込んでいる。
 でも、言うとくけど、あの人かてそうやで。ボンボンなんやで、苑先生は。おとんが地主なんやで。めちゃくちゃ余談やけども、苑 惣一郎その そういちろうさん言うて、代々、政治家で地主で、地元の名士やで。苑先生の弟さんも政治家や。苑 次郎その じろうさん。選挙ポスター見たことあるもん。「そのじろう」やで。その時期だけ苑先生、学生から「そのたろう」って呼ばれてたもん。CG科の奴らに嘘の選挙ポスター作って学食に貼られてたもん。めっちゃ凹んではったわ。
 弟、賢いのに、兄貴のほうだけ、絵描くしか能がないアホやってん。せやから教授は、おとんに頭あがらへん。惣一郎、ハジメはアホか言うて怒ってるらしい。しゃあない、ハジメはアホやねんから。
 それで苑先生、本間君は一人っ子やのに、暢気に絵なんか描いててええのかと、なんかそんな話で、身の上話を聞かされてん。俺、なんも訊いてへんのにやで。そんなん知ってどないすんの。知りたない、担当教授の詳しいプロフィールなんて。見合いやないから。それに、なんで俺の家庭環境とかまで知ってんの。気色悪すぎやで教授。学生のプライバシーを侵害しすぎ。
 一回生の時に、学祭に来たうちのおかんが、アキちゃん偉いわあ、なんて絵が上手なんやろう、きっと天才やわあて言うて、うっとり見てるのを眺め、苑先生は泣いていた。たぶん一種の理想像やったんやろ。おんなじ旧家のボンボンやのに、絵描いといたら家族に認めてもらえる。天才やわあ、この調子でおきばりやすっていう、美人で若すぎの優しいおかんがいてる。うんうん。まあ、控え目に言うてもパラダイスやな。それで俺がダメな子になってもうたんやんか。
 苑先生は初め、俺と連れ立って歩くおかんを、俺の年上の彼女かと思うたらしい。実はそれにも傷ついてたんかな。寒っ。そんなん言うたら、あかんか。一応、俺の師匠やねんから。
 そんなんもあって、苑先生は勝手に沈没しはってな、本間君やったら、好きな絵だけ描いとけば、生きていけるやろう、って言うてたんやと思うで。
 俺に絵描きとしての才能が充分にあるという意味ではないんやと、俺はずっと、そう思てたんやけど。
 要するに、素直に聞かれへん。才能がどうのこうのという話は。それを求めて歩く道の上にいる奴らには、ナーバスな話やねん。自意識過剰と、自己否定の間を、いつもフラフラ、行ったり来たり。自分では、才能あると思いたい。だけど自信はない。他人に褒めてもらいたい。お前は才能あるからって、断定してもらいたい。だけとその他人の話を、鵜呑みには信じられへん。嘘や、絶対に裏があるんやと疑ってしまう。
 面倒くさい、それは。学生のうちは、ただ楽しく絵描いとこうと思って、俺はその問題をずっと先送りしてきた。アキちゃん、すぐ逃げてまうからな。この問題からも逃げ回ってきた。だけどそんな卑怯な鬼ごっこにも、とうとうオチがつく。
 卒業したらどないすんねん、本間君と、いろんな人に訊かれ、俺は鬼さんに追いつかれた。どの程度、自分を高く買ってるか、それとも全然自信無いのか、俺は自分の進路によって、それを人に示すことになる。世間様に向かって、俺の絵を愛してくれって、告ってみんのか。それとも、自信ないしって、やめとくか。
 でも、それも、このまま宙ぶらりんなんやろうなあ。
 正直ちょっと、ほっとするような。寂しいようなやで。
「おとん大明神が、暁雨ぎょううさんやろ。ほんでアキちゃんが暁月ぎょうげつやったら、親子っぽいし、それに区別もつくやん」
 良かったなあ、て言うふうに、亨は俺に微笑みかけていた。俺はそれに、ちょっと気まずく笑い返していた。
 確かに俺はめちゃめちゃ気にしてるよ。おとんと同じ名前やということを。もしも秋津の姓を継いだら、ますます同姓同名や。それが嫌やし、コンプレックスやから、その件についても踏ん切りつかんで、未だに本間暁彦やからな。
 俺はその件について、亨になんか話したことはないけども、バレバレやったか。なんでもご存じ、水地亨大明神。
「ほな、もう、それでええか。お前がそれでええわと思うんやったら」
 使う機会もなさそうな雅号を、一生懸命考えても、アホみたいと思えて、俺はもう、適当でええわという気分やった。でも、ほんま言うたら、それは単に照れ隠しのポーズで、大崎先生が、こっそり俺につけてくれてたらしい名前を、そのままもらうのが、恥ずかしかっただけかもしれへん。
「アキちゃんて、ほんまにお月さんみたいやなあ……」
 月を愛でてる視線で俺を見て、亨は俺の首に回していた手で、やんわりとうなじを撫でてきた。俺には見えへんのやけど、亨には俺は、ぼんやり光っているように見えるらしい。時にはそれは、暗がりを照らすほどの光らしい。
 たぶん、俺を通して天地あめつちの力が漏れ出ていて、それが光のように見えてんのやろ。ほんまに俺が光ってるわけやない。
 そういう意味では、確かに月かもしれん。自分で発光してる訳やないけど、夜空では、明るく輝いて見える。
「満ちたり欠けたりして、アテにならんし。時には雲隠れ」
 あれ。そういう意味か。
 亨は嫌みったらしく言うて笑い、それでもまだ、愛でている目のままやった。
「お月さん欲しいて、いくら泣いても、俺だけのモンにはならへん。アキちゃんは結局、みんなのモンなんやろ……?」
 それでも欲しいていう目をして、俺を見ている水地亨を、俺は見つめた。
 俺はほんまに、亨と最初に会うた時のことを、酔いつぶれてて、ほしんど憶えていない。ホテルのバーで酒飲んでた。それの酌してくれてた、バーテンやった亨のことは。
 でも、全く何にも憶えてないわけやない。
 亨は最初も、こんな目をして俺を見ていた。欲しいなあ、欲しいなあという、静かに求めるような目をしてた。それは俺には、愛してほしそうに見えた。俺にやのうて、誰かに、かもしれへん。誰でもええから、愛してくれっていう目をしてた。
 寂しそうで、ものすごく飢えてるように見えて、それに魅入られた。血でも肉でも、お前が欲しかったら、俺のをやろうって、なんでかそんな気がしてもうて、この、誰だか知らん美しい神さんと、永遠に離れたくないと、じんわり強い執着を覚えてた。
 口説き文句の常套句で、使い古されすぎてるけども、なんだか懐かしい感じがしてん。こんな綺麗な奴を今まで見たことがないという驚きとともに、初めて出会った訳ではないような、これは俺のもんやという、変な確信があって、俺は焦って口説いたんやと思う。もう閉店やし帰れという時になって、ひとりにせんといてくれ。一緒にいてくれ。もう二度と、離れたくないって、駄々っ子みたいに亨に頼んだ。
 それは口説いたわけやないと思う。そのほうが自然やと俺は思ってた。酔っぱらった、ぐでんぐでんの頭で。何か感じてた。これは俺がまつってやらなあかん神さんで、俺といれば和む。それで幸せになれる。亨の飢えを俺が満たして、俺の飢えを亨が満たす。そういう、深い結びつきがあるはずやって。
 俺もげきやで。潜在能力あるんやで。それともただ面食いやっただけか。桁外れの美貌を前にして、酔った勢い。正気やなかっただけか。
 どっちでも結果的には同じやけども。
 でも、亨とじっと見つめ合うと、いつも思う。俺の魂の欠けた半分は、こいつの中にある。亨の魂の破片を、俺が持ってる。出会った瞬間からそうやった。その後、深く抱き合って、入り交じる前から。お前が居らんと、俺は永遠に欠けたままの人間で、完成されてない。二人揃って、はじめて完全になれる。そんな相手と俺は出会ったんやって。
 なんやろう。それは。まあ、単に、俺が亨に惚れてるというだけか。一目惚れやねん。理由はないねん。最初に出会った瞬間から、俺は亨が好きやった。お前は俺のモンやと思ったけども、こうも思った。俺をお前のモノにしてくれって。お前をいつも幸せそうに微笑ませるため、俺は尽くしたい。俺をそのための、下僕にしてくれって、そんな気がして。
 ……いや。ちょっと待って。言うてて、なんか恥ずかしい。あかんあかん。我に返りかけてる。なんやろ、気が散ってもうて。
「どしたん、アキちゃん。何も言うてくれへんのか」
 切なそうに言うてくる亨に首根っこ捕まえられたまま、俺はめちゃくちゃ照れていた。無理無理。狙っては、なんも言われへんから。天然やったら言えるけど。意識してもうたら終わりやねんから。もう終わり。
「何もって、これ以上何を言うねん……何遍言わせんねん。俺はもともとお前のモンやんか」
「そんなん目を合わせて言えって、いつも言うてるやろ」
 目を逸らそうとする俺の照れてる顔を、ぐいぐい両手で引き戻してきて、亨は鬼みたいな怪力やった。痛いわあ。首とれる……。
「言え、ちゃんと言え。何か、うっとり系のことを言え!」
「あかん、無理やし、言われへん……思いつかへん……許してくれ」
 情けない、祝詞のりとも無しかって、亨大明神、ぷんすか怒ってる。でも、しゃあないなあって、呆れたようなため息ついて、それだけで大目に見てくれたらしい。
「ほんなら、せめてキスして」
「うん……」
 申し訳ないです。甲斐性無しの神官で。
 ごめんなさいという顔で、俺は目を閉じ、亨にキスした。暖かい唇やった。手も足も、抱き合った熱の名残で温かい。うっとり甘い息でキスされている、亨の体を抱き寄せて、俺はもっと深いキスをした。ゆっくり熱く、また溶け合えるような。
 ものすごく、気持ちいい。めちゃくちゃ安らぐ。亨もそうか、抱いた背中がゆっくり安らいだような深い呼吸をしていた。
 いつもやったら、このまま、ゆったりもつれ合って、熾火おきびが掻き立てられ、また燃え上がる頃に、もう一回。疲れて眠りに引き込まれるまで、果てしなくアンコール。
 そのはずなんやけど。今、何時なんやろう。
 俺は急に、そわそわしてきた。なんやろう、これは。虫の知らせか。ものすごく胸騒ぎがして、キスどころやなくなってきた。
 もっとと強請ねだる亨の唇を逃れて、俺は部屋の中を見回した。
 見慣れ始めた白い部屋やった。カーテンを引いた窓からこぼれてくる、まだ昼間の光。静まりかえった部屋には、俺と亨の二人きりやった。しんと静まり返ってる。
 でも何かが、猛烈な速さで近づいてくるような気配を、俺は感じてた。まだ視界には入らへん、ずっと遠くから。何か来る。ものすごく、でっかいものが。
 真下から。
「来る、なんか来るで……」
 俺は亨を抱きしめて、それを教えた。亨はまだ、ぽかんとしていた。
 囁くような何かの気配が、俺にそれを教えてた。
 来るぞ、来るぞと。言葉ではない何かで。その声を聞いたのは、初めてのようでいて、初めてではない。俺は子供のころからずっと、その声を聞いていた。
 暗くうねる、熱い闇のような世界で、俺が祈れば、どおんと低く唸る、波濤のような音で、それは答える。天地あめつちの力の渦巻く、この世の隣の世界から。神か鬼か、それとも竜か、まだ名前のない怪異。名前のない神威。人がまだ名付けていない、形のない力の渦巻く、地下を流れる巨大な暗い水脈のような世界からの声や。
 それが俺に警告していた。
 人の子よ。身構えよ。深淵より来たれり。
「アキちゃん、どしたんや」
 怯えた顔した亨を、さらに強く抱き寄せて、俺は見ていた。この世ではない、別のところを。
 ものすごい力の波が、吹き上げる水柱のようになって、地中からやってくるのが見えた。
 地震やないのか。これは。
 今まで、ここまではっきり見えたことはないけど、地震が起きる直前に、なにか虫の知らせめいたもんを感じることは、時にはあった。
 やってくる力が近づくにつれ、その震動が身を震わせるような気がした。そうなるともう、亨にもそれが分かるらしかった。どっちがどっちを守ってんのか、よう分からんような抱き合い方で、亨は俺に抱きついて、アキちゃんと、強ばった声で俺の名を呼んだ。
 大丈夫。俺が守ってやるからと、俺は亨を掻き抱いた。
 それとほとんど同時やった。その波が、打ち寄せてきたのは。
 どおんと叩きつけてきて、激しく吹き上げるような、猛烈な衝撃波やった。
 地震のはず。でも一日早い。予知が外れたんや。
 俺はそう思って、激しく震えて行き過ぎる何かに耐えていたけど、ふと見ると、何も揺れてへんかった。ルームサービスのワゴンに乗った、クリスタルのグラスの中の水面も。しんと静まりかえったまま。
 俺と亨だけが、身を震わすような衝撃を感じてる。
 なにこれ。
 何やっけ。確か、前にもあった。
 確か、まだ出町柳のマンションにいた。風呂場で俺が水煙を抱き上げていて、そこに亨が鉢合わせてもうた時に。気まずい気まずい、そんな瞬間に。ずしんと叩きつけるような、なまずが目覚めた身じろぎが、地下深くから伝わって来たときと同じ。
 でもそれよりも、ずっと強い。桁違いに強い。でっかい手で全身を掴んで揺さぶられてるような、すごい衝撃やった。
 一分、二分程度やったんやろか。それとも、もっと短かったのか。怒濤のように通り過ぎ、それははるか上空に突き抜けていった。ずっと上のほう。その、うねる柱のような力の塊を追いかけて、俺の意識は大気圏を突き抜けて飛んでたかもしれへん。
 跳ねる魚みたいに、大きな孤を描き、それはまた舞い降りていった。はるか遠くの海の底へと。そこで、ふっと霧消して、俺の追跡できる場所から出ていった。集中が途切れただけかもしれへん。
 大丈夫かと、亨が呆然としている俺を、激しく揺さぶっていた。
「アキちゃん、平気か? しっかりしてぇな!」
 青い顔した亨の、ひやりとした手に頬を撫でられ、俺はどっと冷や汗をかいた。
 何やろう。今、俺は何かしたと思う。何したんか自分でも分からんのやけど、身構えよと警告してきた何か、いつも俺に湯水のように潤沢な力を分け与えている何かと繋がって、いまだかつて使ったこと無い規模の力を使った。
 それが体を通り抜けて放たれていく感覚が、まだ残ってる。それに背筋が怖気立つ。もしも能力が及ばんかったら、体が千切れ飛ぶような力やったんやないか。
 俺は自分にそんな、火事場の馬鹿力みたいなのがあるなんて、知らんかった。今までも、使ってるつもりやった神通力なるもの。それは壊れた水道から水が細く滴っている程度のもんで、使ってるうちにも入ってへんかったんやないか。
 ヘタレやヘタレや言われるはずや。素養あるのに使えてへんて、首傾げられるわけやわ。ほんまに使えてへんかったんや、俺。
「なんか言うてくれ、アキちゃん。魂持ってかれてもうたんか!?」
 泣きそうな顔して、亨ががくがく俺を揺すって訊いてきた。その慌てようが可笑しい気がして、俺は薄く笑った。大丈夫やでと、言うてやる代わりに。
 実はすぐには言葉が出て来えへん程度には、俺もブルってもうてた訳やけど。それは決して、悪い気分やなかった。身震い出てる。今まで閉じてた水門が、突然開いたような感覚がして、天地あめつちのもたらす力が、乾いた土地に流れ込むように、ざばざば満ちてきてたんや。
「うわっ、なんやこれ……」
 俺に触れてた手に、なにか付いてるみたいに、亨はびっくりして、自分の手の平を見てた。だけど生憎、俺にはなんも見えてへん。
「アキちゃん……」
 驚愕と、困惑の入り交じる、つらそうな顔をして、亨は自分の手と見比べらがら、俺を見つめた。
「アキちゃん……お前は、ただの人間やないのか? なんでこんなに力があんの。まるで……まるで神様みたいやで……」
「大げさやなあ、ただの神通力やって……」
 やっと歯の根が合ってきた口で、俺は亨を宥めた。
 たとえどんなに力があっても、言うてみれば俺は月。それは自分の力やのうて、俺を通じて発露する天地あめつちの、名もない神の力やねん。それは闇。それは鬼。それは竜で。熱い流れであって、姿も声もない、善でも悪でもない、古い古い神さんや。うちの血筋と繋がっている。秋津家が代々受け継いできた、血の力やで。
 その異界の力のことを、昔の人は、ただカミと呼んでいた。そこから粘土をこねるみたいに、いろんな神さんが生まれ出てきたんやろう。激しく萌え出ずる春の萌芽のように。次々とかえる無数のおたまじゃくしみたいに。枯れ谷に現れる雨後の大河のように。大きな源流から流れ出た、新しい流れは、それに与えられた名に相応しい姿形をとって現れる。だけど元を辿れば、全てひっくるめて、カミはカミや。
 おかんはそれのことをいつも、天地あめつちと呼んでいた。つまり自然のことや。宇宙のこと。この世の全て。そこにはたぶん、人間も含まれている。人もカミの一部や。ひとつひとつは、ちっぽけな命やけど、地を這う虫や、田のすみに泳ぐ小魚の、生きとし生けるもの全ての力も、その流れに連なっている。誰しもそこから、生きる力を与えられて生きている。生命の湧き出る泉のようなもの。
 俺とおかんも、たぶんそこを介して繋がっている。ずうっと昔、ずっと長いこと、へそで繋がっていたみたいに。そのはもう断ち切られて無いけども、天地あめつちを経てある繋がりは、今も消えてへん。
 そこには誰でもいてる。おとん大明神もいてる。俺の死に絶えた血族たちも。遠い遠い昔に、それこそ角髪みずらを結ってたような古代の祖先も、そこにはいてる。数知れない巫女やげきたち。田の神と舞った。歌を歌って桜を咲かせた。そして、東海トムヘに身を投げた。そんな人らや。
 俺はその、最新版のひとり。
 皆が俺を見ている。天地あめつちが。祖霊それいが。人と人とを繋ぐ無意識が。神が見ている。俺が宇宙を見つめ、宇宙も俺を見ている。祈る声を聞いている。その言霊ことだまを。愛してくれと求めれば、それは答える。声ではない声で。お前を愛していると。なんでもしてやる、ただ祈れと。
 アキちゃんほんまに、拝み屋の子やったわ。この瞬間に、俺はそれを悟った。そしてそれが、自分の中にいるもう一人の別人やと思ってた、絵を描く男と、実は同一人物やったということにも、気がついた。
 そして、それはもちろん、この俺とも、全くの同一人物や。俺がそれやねん。今この話を物語っている男。げきで絵描きの、秋津暁彦や。どうも初めまして。アキちゃんです。
 かくして俺は目覚めた。深淵からの一撃で。ピシャーンみたいに殴られて、うわあってビビったどさくさで、完全に目が醒めた。居眠りしていたボンボンが、なんや知らん、通りすがりの霊威にシバキ倒されて、びっくりして起きたみたいなもんやった。
 そして内心、七転八倒してた。新たに開けた世界の、あまりの自由さに。
 確かに俺が祈れば、雨が降るやろう。田には稲が、たわわなを垂れるやろう。花は咲き乱れ、川も浮かれて暴れるやろう。俺は天地あめつちに愛されている子や。そういう実感がある。駄々をこねれば何でも叶えてもらえるのかもしれへん。
 しかしそれは、あまりにでかい力やねん。迂闊に使えば人が死ぬ。山が崩れて、川が溢れる。俺は自分の力を畏れなあかん。天地あめつちが、俺を通じて振るう力の強大さを、おそれてあがめなあかん。この力を使いこなしていくには、覚悟が要るわ。これは俺が自分の我が儘勝手に使ってええような力やないねん。三都を守る巫覡ふげきの王として、その責任を果たすためにある力や。
「水煙はどこ行ったんや……」
 頭くらくらしながら、俺は朦朧と亨に尋ねた。亨はそれに、ぎょっとしていた。
「どこって……アキちゃん。忘れたんか? あいつは竜太郎のところやないか」
「もう返してもらわなあかん。俺には太刀たちが要る。水煙に相談せなあかん……どうやって力を抑えるか、わからへん……」
 とにかく服着よう。その前に水浴びたい。みそぎして、一皮剥けた古い自分を洗い流さへんと、脱皮した皮がまだ、体にまとわりついているような気がしてた。
 ぽかんと青い顔してる亨をベッドに残して、俺はフラフラと、シャワーを浴びにいった。ほんまに水浴びた。冷たい水が灼けたような肌に気持ちよかった。なんか自分が、灼熱のから、たった今抜き取られたばかりの、打ち終わった剣のような気がした。水が触れると、じゅうっと音が鳴りそうな。
 暑い暑い。熱くてたまらへん。俺ってもともと暑がりやったけど、そういうわけやったんか。力漏れてた。暗い異界から流れ込む熱が暑すぎて、燃えて燃えて堪らへん。
 この、開いてもうた水門て、どないして閉めたらええの。開けっ放しなんか、このまま。焼け死にそうなんやで。
 それでも永遠にシャワーで滝行たきぎょうしとく訳にもいかへんしな。どうしよう、どうしようって思いつつ、俺はまた、フラフラとバスルームから出てきた。体を拭いた覚えがないねん。まさかと思うけど、じゅーって乾いてもうたんかな。とにかく、この時の俺は普通やなかったんや。
 ぽかんと見てる亨の横で、ベッド座って、クロゼットから適当に出した服を着つつ、俺はジーンズのボケットに入ったままやった電話がびりびり振動してるのに気がついた。
 出てみたら、湊川怜司やった。俺のエロの偶像やんか。なんというタイミング。ちょっと前やのうて良かった。
『先生、無事か。さっきのは何や。ずれてるで、このホテル。位相がずれてる』
「そんなん言われてもな……知らんよ。そうやとしても、俺のせいやないもん」
 ぼけっとしたような声で返事をしつつ、俺はごそごそジーンズはいてた。
『俺のせいやないもんて、ボケてんのか先生。お前がずらしたんや』
「そうなん? ほな、戻しといてくれ……」
 ぼんやりしたまま、俺は何の気なしに、そう返事した。そしたら電話の向こうから、げっていうような、嫌そうな声がした。
『何を言うねん、いきなり酷使か! つい今さっき、街じゅうにスピーカー設置して戻ってきたとこやで。寝かせてよ。いらん心配して電話なんかせえへんかったらよかった』
 ぼやく口調で言うてんのが可笑しなってきて、あははと声あげて俺は笑った。
 そうやった、湊川。俺の式神なんやった。命令されたら逆らえへんのや。嘘みたい。
「どうやって位相ずらしたんやろ。そんなことした覚えないけどなあ。やり方も分からへん」
『なんか飛んで来たから、とっさに避けたんやろ。単にそれだけや』
 なんや、単にそれだけかあ。って、全然分からへんから。
 俺なあ。全然知らんかったけど、位相を行き来できるらしい。大崎先生とか、湊川がやってるのと同じ。神隠しやで。別の言い方するなら、平行宇宙パラレルワールド的なもんに行けるわけ。SFやなあ。
 結界張ってるつもりで、俺はどうも、違う位相へ移動してたらしいねん。四条大橋で亨とキスしてた時とかに、人が大勢通ってんのに、誰も俺らを見てへんかったやろ。せやけど、能面のお巡りさんとか、八坂さんに行く異界の奴らには、ちゃあんとガン見されてたやろ。あれは通常の人界から、俺らだけ一枚隣の別位相に行ってたという事らしいねんなあ。手繋いでたら連れていけんねん。
 人間同士でも、全員がまったく同じ位相にいてるとは限らんのやで。皆、何枚か貫通してんねん。せやからたまに、こいつは俺とは違う世界にいてるんやないかと思うような、異様な世界観の人とかいてるやろ。あれやん。あれです。世界が違うんです。
 それでも生身の一般人パンピーが、うろうろできる位相は知れてる。霊感強くて霊界が見えるとか、そういう人もいてるけど、基本、それは見えてるだけで、行けるわけやない。行ったら死んでるやんか。死後に行く世界やねんからな。
 おおよそ普通の人間が生息できる、幾つかの位相のことを、人界と呼んでいるらしい。それ以外の位相もあると知ってたり、そこへ実際行けたりする神さんたちはな。
 そして人界の中にも、未使用の位相はある。既存の位相と位相との間に、ちょっとした小部屋的に、新しい位相を作ったりもできる。四次元ポケットや。絵を描くのも、その方法のひとつやねん。もちろん、それ相応の霊力は要るけどな。
 せやし俺は、実はもともと、位相を作れる男やったんや。知らんかったなあ。俺もびっくりしたわ。
 大崎先生が俺の絵に目をかけていたのは、その力が見えてたからやねん。あの人、自分では絵を描かへんけども、絵を入り口にして、その中にある別の位相へ入ることもできる。絵やのうても、普通にそこらへんにある別位相の入り口を、かぶせてあるサランラップをくみたいに、ぺらーって剥がせるんやで。それについては、後で見せたる。異界って案外、あっちこっちにあるんやなあ。
「めちゃめちゃ熱いねんけど、どないしたらええの?」
 電話の相手に、俺はとりあえず訊いた。ダメもとで。
『ええ? 知らんよ、そんなん。クーラー入れたら?』
 めっちゃ面倒そうに、湊川に言われた。しかもガムまで噛んでた。
 怒ってんのか、仕事頼んだから。怒らんといてくれよ。一応ご主人様やのに。
「部屋が暑いんやないねん。なんか、目覚めてもうてな、力ありすぎで、自分が熱い」
『知らんわ、そんなん。かき氷でも食うときはったらどないです? もう切るで、先生。仕事増えたしな、また寝られまへんわ!』
 めっちゃ冷たい。お陰様でちょっと冷えた。京都弁も怖いなあ。怒ったら京都弁なるんや、湊川。気をつけよう。
「待って、待ってくれ。お前の件で、蔦子さんとこ挨拶入れにいかなあかんねん。水煙も返してもらいたいし。相談もしたいし。電話繋がったついでやし、今から一緒に行ってくれ」
『なんで俺が同伴せなあかんねん。さらしもんか!』
 マジギレしてたで。声。
 そう言えば、湊川怜司は海道家に出入りしているしきやったわけやから、蔦子さんの他の式神連中とは顔見知りなんやろうなあ。当たり前やわ。信太とデキてて、鳥ともデキてて、雪男ともデキてたんやったら、他にもいろいろデキてたに決まってる。
 それが、本間先生にほだされちゃったわというのは、まさか恥ずかしいんかなあ。何か、そんなニュアンス感じたんやけど。やっぱり、こいつにも一応、恥ずかしいことというのは、あるんやなあ。
「そんなん言わんと、一緒に来てくれ……じゃなくて、一緒に来い」
 命令しといた。そのほうが、話が早いし。そしたら電話の向こうから、ものすご鋭い舌打ちの音が聞こえた。
『何を言うねん、お前はほんまに……あんだけ言うといたのに、さっそく偉そうに主人面しくさって……わかりました!!』
 ブチッて切れた。イメージ的には切れたというより、携帯を地面に叩きつけてぶっ壊したから、切れなしゃあないみたいな切れ方やった。
 怒ってるわあ。
 俺、ひとりで蔦子さんに頭下げに行くの、ちょっぴり怖かったんやなあ。せやし一緒に行ってもらおうみたいな逃げ腰やったんやけど、もしかして蔦子さんより湊川のほうが怖いんとちがう?
 亨にも付いていってもらおうか。
 俺はジト目でこっちを見ている水地亨を、ゆっくり気まずい横目で見つめ返した。電話はもう切れてたんやけど、なんとなくそれを耳に当てたままやった。真正面から蛇と向き合うのが、いろいろな点で怖すぎて。
「今の誰?」
 亨は一応訊いてくれた。どうせ聞こえてたくせに。
 え。誰やったっけ。忘れたわ。と俺は言いたい。でも嘘やし言えない。
「湊川怜司」
「なんでラジオが電話してくんねん!」
「なんでって……心配してくれたらしいわ、俺のこと」
「それは仲がよろしいなあ!!」
 めっちゃ怒鳴ってたわ、水地亨。
 でも、俺、なんか悪いこと、した? 怒られなあかんような事、なんかしたっけ?
 電話かけたの、俺やないで。向こうがかけてきたんやで。俺はそれに出ただけなんやで。
「何を親しげに甘え声出しとんねん、アキちゃん。そんなん俺か、せいぜい水煙までにしろ。俺の見てる前で、平気でラジオといちゃつくな。ぶっ殺すぞテメエ」
 めっちゃめちゃ怒ってるわ、水地亨。俺はビビって硬直していた。
 その割に亨はすぐふにゃふにゃになって、ベッドに丸くなって両手で顔を覆ってた。うわあ、泣かんといてくれ。なんで泣いてんのやお前。まさか泣いてんのか?
「いちゃついてへんやん……ただ電話で話しただけやんか?」
 まだ裸のままで、ごろんと寝てる亨の背中をごしごし撫でて、俺は慌てて慰める口調になっていた。まったく、また修羅場やで。
「ほんまに俺が別格なんか? 畜生……。アキちゃんのアホ。すまんと思うてるんやったら、ごめんなさいのキスをしろ!」
 すまんと思う必要あるのか確信ないけど、しゃあないので俺は亨にキスをした。亨はめそめそ抱きついてきて、正直ちょっと可愛かったけど、いちゃついてる場合ではなかった。
 バアン、て蹴破るようにドアが開く音がした。
「どこや、暁彦様!! クソでもしてんのか!」
 とにかく、言うてることに品はないけど、上品みたいな美声やった。間違いない。ラジオが来たんや。めっちゃ早い。どこから電話してて、どんな近道通ってきたんやろ。
 ずかずか床を踏んでくる、大股の足音がして、でかいベッドを居間から隠す飾り壁の向こうから、すらりとした細身の長身が現れた。もちろん、激怒してますみたいな美貌を乗っけて。
 そして湊川怜司は、素っ裸の亨と抱き合っている俺を、じろじろ見たわ。ものすご見た。
「俺にもやらせろ。一発抜いて三時間ぐらい寝たいわ」
 まさか俺を狙ってるわけやないやろう。亨のほうやろう。それもやめてくれ。俺のツレがラジオに犯される!
 ぎょっとしたように、亨が奴を振り返っていた。
「お……お前、両刀なんやっけ」
「そうや。俺は両方いける。上でも下でも、ええ仕事するで。そいつよりテクニック的には確実に上や!」
 そいつ呼ばわりされた。指まで指された。俺がご主人様やのに。
「三人がかりで寛太が気絶するまでやったことあるで。お前もしたろか!?」
「やめて言わんといて悪魔の誘惑すぎる!! 有害な放送電波や!」
 耳を塞いで、亨は俺の胸でじたばたしていた。亨。お前という奴は。羨ましいんか! そんなお前がどうやって、このラジオを罵れるんや。どう見ても気が合いそうやないか。どう考えても瑞希や水煙より気が合うタイプやないんか!
「いくじなし! てめえの調教がヌルいから、先生、へったくそやないか。いくのに三十分もかかったわ!」
 湊川怜司は、今度は亨に怒鳴ってた。
 お前も時間測ってたんか!?
 普通測ってるもんなんか!?
 ていうか、そんな話いきなり暴露せんといてくれへんか!?
 亨、口開いたまま、愕然みたいな顔なってきてるやないか。殺されるの俺なんやぞ。
「そ……そんなことないもん。アキちゃん、めちゃめちゃ上手やで?」
「お前ちょっと淫魔気味なんちゃうか? 話聞いてて思うけど。そんなチョロい体やめとけ。入れときゃええわみたいなヌルい体やから、ナメられんねん。難度も味のうちや! お前も外道なんやったら、もっと相手が悶絶するような複雑怪奇なことをしてやれ」
「えっ、たとえば……?」
 真面目に聞いてる。言いながら歩いてくる湊川を見上げて、正座みたいになってる、水地亨。話し込むな、妻と妾で。
「あのな、湊川」
 俺は一応、口を挟んだ。でも、うるさいなみたいに亨に顔を押しのけられた。
 湊川は、よいしょとベッドに座ってきて、優雅に脚を組み、素っ裸のままの亨に、ひそひそ耳打ちしてやっていた。それを聞きつつ、亨はくすぐったいみたいに、もそもそ落ち着き無かったけども、やがて恥ずかしそうにくすくす笑った。
「ええー……それはちょっと化けモンすぎへんか?」
「ええのええの。それぐらい化けモン地味てるほうが燃えるから。ところで今夜、暇?」
 にこにこ口説く笑顔と口調で言うて、湊川はシャツの胸ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。
「ええー……って、俺、アキちゃんのツレやしな」
 亨はなんでか、口説かれてもじもじしていた。嬉しいのか。何やってんの、お前。ラジオやで。それが、お前がさっき罵っていたラジオや。気がついてるか?
「ほな三人でしよか。今から先生と俺と、二人がかりで、お前のこと、十回くらいいかせよか? マジで死にそうなるで? ほんまに死んだら、どうしよか?」
 ふわあっと甘い煙を吐いて、湊川はにっこりと亨に訊いた。
 そして二人は、あははははー、と和やかに笑った。まさか合意ってことはないよな。俺は嫌やで。一応嫌や。たぶん嫌やと思います。
「こいつ、ええ奴や、アキちゃん」
 ちょっと困ったみたいに、亨は俺にそう言うた。
 世界人類が全員、もしも水地亨みたいやったら、今後一個も戦争なんか起きへんから。エロがあればミサイルいらへん。
 というか、それは、水地亨のふやけたピンク色の脳のせいだけでなく、たぶんラジオが何か、すごい話を耳打ちしたんや。俺が、おとんが人肌に絵を描く話にぞくぞく来てたみたいに、亨にもきっと萌えツボがあって、そこを狙い撃ちされたに違いない。
 なんでそれが化けモンすぎる話なのか、俺は正直怖いけど。お前のその部分は永遠に知らないままでいたいような気がするんやけど。
「可愛い蛇やなあ、先生。これも気に入ったわ。後でほんまに貸して」
「貸さへん!!」
 俺は慌てて返事した。本気で言うてるようにしか見えへんのやもん。
「なんで貸さへんのや。ケチやなあ、ほんまに。てめえのケツも貸さへんし、ツレのケツでも嫌なんか」
 それは人に罵られるような事か? それとも俺に常識がないのか?
「ほんなら俺への報酬はなんやねん?」
 にやりと笑って、おぼろ様は俺を見た。
 困ったなあ。ほんまに困った。まさかこんなアホみたいなエロ話が、契約交渉やったなんて。
「何って……血でよければ」
「血でいいよ」
 ますます、にやりとしたおぼろ様の意地悪い笑みは、それでええよと許してるみたいな感じやった。俺はそれに、ちょっと、ぎくりとした。どきりとしたというか。
 また抱いてくれ言われたら、困るしな。
「血だけやで?」
 ジトッと卑屈な目をして、亨がそう念押ししていた。それに湊川は、可愛い蛇やなあみたいな目で、にこにこ頷いてやっていた。
「今、吸おか」
 にっこり笑って誘うように言われ、亨はきょとんとして、ベッドの端で足を組んで煙草吸うてる湊川を見つめた。
「吸おか、って?」
「一緒に吸おか。先生、今、みなぎってるっぽいし。二人がかりで、ちょっと抜いたろか?」
 亨はまだ、きょとんとしていた。俺もちょっと、ぽかんとしていた。頭の切り替えが追いつかへんから。
 血、吸えるんや、湊川。って、そんなことを考えていた。吸血するのは外道の基本やと、以前、亨が言うてたけども、ラジオも血吸えるんや。知らんかったわあ。怖いラジオやで。吸血ラジオ。小学生向けのアホな怪奇特集みたい。
 などと思ってるうちに、俺は湊川怜司のモデルっぽい細腕に、ひょい、ぽい、みたいにベッドに投げられていた。お前ちょっと怪力すぎやで。外道そのものやないか。
「いただきまーす」
 吸いかけやった煙草を、ぽいっと背後に投げやって、湊川は襟首を掴んだ俺の頸動脈を狙っている顔やった。料理番組に出てくる試食係の綺麗なタレントさんみたいな、にっこり笑顔の口元に、しっかり鋭い牙が生えてた。ほんまに吸うんや、こいつも。
 ていうか煙草! 亨はびっくりしたのか、投げ捨てられた煙草のほうを、キャッチしに行っていた。アホか亨、俺はええのか!
 自分も大概、腕力強くなったと思ってたのに、湊川には全く勝たれへんかった。マスメディアの力をなめたらあかんかったわ。夏に狂犬病騒ぎがあった時にも、俺はマスコミの前には無力やったしな。今も無力やで。やめてくれと言う間もなく、ガブーッて首噛まれてた。
 怖いいっ。なんでか脚割られてるから。なんでそんなことする必要あるねん、お前は! 紛らわしいねん、ツッコミ担当なんかどうか曖昧やから。俺はやらせへん。そう言うてるのに! 亨と俺と、二人まとめてこいつにられたら、今後の人物相関どうなるねん!
「……めっちゃ美味い!」
 貪るようやった血を吸う唇を、必死で離したような、赤く濡れた口元を覆い、湊川が鋭く響く声でコメントしてくれた。ものすご美味そうやった。こんなんテレビでCMしてたら誰でも血吸うようになるから!
「蛇も吸え! 美味いもんは皆で食うたほうが楽しいんやから」
 俺はゴハンか。
 こいつらにとっては、少々そういう節はある。
 いきなり誘われて、亨はびっくりしていたが、結局来たで。マジで来た。拾い上げた煙草を、ベッドをごそごそ這っていって、枕元のナイトテーブルにあるクリスタルの灰皿に置いてきてから、押さえ込まれてる俺の顔を、じっと覗き込みに来た。
「す……吸うてもいい? アキちゃん?」
「助けようという気は全くせえへんのか!」
 俺は虚しく助けを求めた。でも、たぶん、血の臭いに酔うてもうたんやろう。亨はすでに、爛々と光る目やった。舌なめずりするラジオの唇から匂う、俺の血の臭いに、腹減ったって顔をしていた。
 どんだけ吸うんやお前は。ついさっき抱いたばっかりやのに。それに今朝は中西さんからも頂戴してきたばっかりなんやろ。なんて貪欲な蛇や。俺はほんまに情けない。まさか蛇とラジオと、二人がかりでられるような羽目になるとは。
 湊川が食いついていたのと、反対側の首の動脈に、亨は結局、自分の鋭い牙を立てていた。それには背筋が怖気立つような、独特の快感があって、俺はひいってなってた。
 しかもまた、湊川まで吸いに来たから、俺もちょっと、二人がかりで食われたバゲット・サンドの気持ちがわかったよ。これもお行儀悪い、ベッドでバゲット・サンドのラブラブ食いなんかしてもうた、俺のアホな行いへの因果応報かな。
 血を吸うとは言うものの、ほんまにちゅうちゅう吸うわけやないねん。牙でできた傷口から漏れる血を、舐めてるだけ。せやから二人がかりで首舐められてる。しかも気持ちいい。痛いのもちょっとある。痛気持ちいい。微妙! 俺は微妙な気分になってきています!
「アキちゃん、美味い……いつもより、美味くなってる。やめられへん……」
 必死でぺろぺろ舐めながら、亨は俺に済まないみたいに言うていた。でも止めてはくれへんかった。傷口が塞がりかけたところに、もっと血を出せと、また牙を突き立てていた。
 まさか死なへんよな、これで。これが俺のご最期やったら、ひどすぎる。
 でもちょっと、パラダイス気味かも。
 はあはあ喘ぐような、ふたりぶんの熱い息遣いがして、貧血なってくる程ではないはずやのに、俺の頭はくらくらしていた。たぶん変な世界すぎ。これはどうやろ……あかんのと違う? 当家では一応、吸血は性行為ではない、ゴハンやと、そういうカテゴリ分けになってるんやけど、ほんまにそうかなあ。これゴハン? 先生、吸血はゴハンに含まれるんですか……?
 言うてる場合か俺。蛇とラジオに食い殺される。俺を貪り食うてるで、こいつらは!
「痛い……痛いで、やめてくれおぼろ!」
 肉まで食うてんのやないかという噛みつき方をされて、俺は慌てて、自分に抱きついている、湊川怜司の背中を叩いた。藻掻くような手で。
 それにはっとしたふうに、湊川は血まみれの顔を上げた。そのまま、とっさに、袖口で唇を拭ったんやろう。真っ赤に染まった、夏でも長袖のままの白いシャツのカフスを見て、湊川は困ったように眉をひそめた。
「あ……っ、やってもうた。先生、服貸してくれ」
 俺の怪我よりシャツの袖なんや。優しいなあ、おぼろ様。
 まあいい。優しすぎると惚れてまうから。それに俺の怪我はどうせ、すぐに治るんやし。シャツの袖は洗濯せな直らんもんな。
「最悪や。血の染みって取れへん」
「すぐにホテルのランドリーに出したら落ちるで。たぶん。このホテルの職人はハンパないのを入れてるはずやから」
 いかにも親切げに言うてる亨に、そうかなあと、ぼやく口調で答えつつ、湊川はもう脱ぎはじめてた。脱ぐな。雰囲気ますます怪しくなっていくから。
 上半身裸になって、湊川は何の遠慮もなく、ナイトテーブルの上にある内線電話から、ホテルのランドリーに電話をかけていた。
 どうも服とか靴とか、そういうもんに、異様な執着のある奴らしいと、その話してる声を聞きながら、俺は思った。まあ、流行とかファッションとかも、京雀きょうすずめの好むところやろうしな。
 今すぐ洗濯モノとりに来てくれと、まるで親が危篤みたいな哀れっぽい口調で、湊川はランドリーの人に泣きついていた。袖に血がついたくらいで、そんなんなるとは。人にも式にも、どこに弱点が潜んでいるか、わからんもんや。
「血なんか吸うの久々やったし、必死になってもうた」
 それが、ものすご不覚という、苦虫かみつぶした顔をして、湊川はベッドのヘッドボードに背を預け、片膝を抱いて、所在なさそうに座っていた。その手には脱いだシャツを持ったままやった。そんなに気になるか、その洗濯物。
「ええやん、別に……服なんか、また買えば」
 これはアキちゃんの、バイ・ナウ病なボンボン的発言。
 そんな、ほとんどまだ寝たままの、ベッドの上にいる俺を、湊川はじろりと冷たく見た。なんか、恨みがましい目やった。
「これはどこにも売ってへん」
「同じのなくても、他に気に入る新しいのがあるやろ」
 俺ってやっぱ鈍いんやろなあ。ふん、みたいに澄まして怒っている湊川が、そっぽ向いてるのを、ぽかんと見てるだけやった。
 なんやねん、もう。なんで俺が怒られなあかんねん。外道に二人がかりで血吸われてやで、がつがつ噛まれて、袖に血付いたわって、そんなん自分のせいやんか。つんつんしやがって、昨夜ゆうべとえらい違うなあと、俺もちょっとムッとした。
「遅いなあ、ランドリーの人。代わりの服借りるで、先生」
 イライラすんのか、たった今電話したばかりの相手がまだ来ないことにまで、湊川は文句を言い、ベッドの脇にあるクロゼットの扉を勝手に開けに行っていた。そこには俺と亨の服が半分ずつ入っているけど、湊川は割と長身やしな、亨の服では小さいんやろ。それとも趣味が合わへんだけか。そっちには見向きもせずに、ハンガーに吊してある半分は新品のままの服を、指でなぞって選んでいた。
 新品のほうを取るもんと、俺は信じて見てたんやけど、おぼろは俺が一回着たことあるほうの、クリーニングされたナイロンのカバーを破って、特に飾り気はない白のシャツを選んで着ていた。半袖から出る、生白いような腕が、なんか眩しかった。
 ベッドの上に残されていた、血のついたシャツの、比翼ひよく仕立ての身頃のすそを見ると、裏側に小さく、臙脂《えんじ》色の糸で、蜻蛉とんぼの刺繍がしてあった。それはたぶん、名前の代わりや。そういう刺繍を入れてくれる仕立て屋が、京都のどっかにあったんやろう。
 おかんがいつも持っていた、古びた男もんのハンカチにも、同じ蜻蛉とんぼが一匹だけ、隅のほうに飛んでいた。今思えばあれは、鞍馬天狗の形見やったんやろな。蜻蛉とんぼは飾りかと、俺はずっと思うてたんやけど。
 それも名前の代わりやったんや。仕立てたシャツには名前入れるしな。俺のスーツ着るときのシャツにも、入ってるよ。イニシャルやけど。「A.H.」って。
 おとんは、それやと、つまらへんかったんやろう。文字やのうて、蜻蛉とんぼの刺繍を入れさせた。京の着倒れって言うけども、おとんも着るもんには執着のある男やったんかなあ。ボンボンやしな。
 そういえば、カフスのあるシャツは、なんとなくレトロっぽいというか、たぶん昔の流行なんやった。それは今見ても、イケてる仕立てやったけど、まさか六十年以上も前のモンとは。物持ちのええ奴や。
「着いへんかったら良かった。滅多に着ないのに。畜生、アホみたい」
 ベッドに戻ってきても、湊川はまだくよくよ愚痴っていた。くどいなあ。
「おとんは、お前んちから持ち物を引き上げていかへんかったんか」
 訊いたらあかんかとは思うたんやけど、何となく、今やったらラジオが返事するかと思って、訊ねてみた。
「引き上げる間もあらへん。どうせ捨てていったんやろ。ボンボンやしな。また買えばええわと思うたんや。気に入る新しいのが、いくらでもあるんやろからな」
 嫌み言われてるで、俺。俺はなんも悪くないのに。言葉尻とられてる。
 でも、なんでか知らん、俺が悪いわけではないのに、すまんかったなと、言うてやりたいような気がした。
 やっぱり、おとん大明神は、すでに死んで英霊なってもうたとはいえ、今ではお登与一筋とはいえ、いっぺんくらいはこいつにちゃんと顔見せて、挨拶入れとくべきではないのか。そうでなきゃ、卑怯やないのか、人として。
 俺はそんなふうに思うたけども、それも複雑なとこやった。仮にも実の子である俺が、実の父に向かって、浮気しろとは勧めにくい。会うだけ。話するだけ。お前のこと好きやったって、過去形で言うてやるだけ。それならギリギリセーフやろうか。おかんキレるか。アキちゃん悪い子や、許しまへんえ、って、鬼みたいな顔して言うて、三十年くらい蔵に閉じこめられてまうかな。俺もおとんも。おとんはもっと刑期長いか。それとも俺のほうが長いんやろか。怖いわあ。
 けど、何か俺には、おぼろ様は可哀想に思えてならへんのや。
 惚れてへん。惚れてません。俺には水地亨が世界一。二番はないです、別格ですから。
 でもな、それでもやっぱり可哀想やねん。こんな綺麗な奴が、なんでこんな惨めったらしい憂い顔で、待ちぼうけ食わされてんのやろ。
 恋もできへん。もう、おとんの式神でもない。俺の使役に答えるんやから、もう俺のほうに来てもうたんやろ。それでもまだ好きなんやったら、こいつは相当、おとんが好きなんやで。
「もう……遅いわ! 先生、なんとかしてくれ。ランドリーの人を今すぐ召喚!」
 寝転がっている俺の肩を素足でとはいえ、湊川は遠慮無くげしげし蹴ってきた。お前という奴は。そんな奴やったんか。癒し系どこいったんやラジオ。
 それに、そんなしょうもない事に神通力を使わせようとするな。神やのに、シャツの染み抜きもできへんのか。万能やないなあ、神も。
 どんどんと、ドアをノックする音がした。湊川がそれに、ぴくっと反応した。待望のランドリーの人が来たと思うたんやろ。
 でも、それにしては、今のノックの音は、一応ノックしましたからね的な、言い訳めいた忙しなさやった。
 そして誰もドア開けてへんのに、部屋のドアはバーンて開いてた。そういえば湊川も、開けてやらんでも部屋に入れた。ただの鍵なんて、外道にとっては意味がない。こいつら締め出そうと思うたら、結界張るとか、お札を貼るとか、霊的な施錠をせなあかん。
 ずかずか入ってきた奴も、当然ながら、そういう手合いやった。鍵なんか意味あらへん。堕天使やから。
「先輩、どこですか?」
 むっちゃ必死で息を切らして、勝呂瑞希は走ってきた。
 そしてまるで、ベッド手前に結界でも張ってあったみたいに、ギクッと棒立ちになっていた。
 そんな瑞希の視界にあったもん。
 素っ裸でケツ出てる、ベッドに寝転がっている水地亨と、それを胸に縋り付かせてベッドに寝転がっている本間先輩。そして、血の付いたシャツ持って、やっと来たよね、あれれ、みたいな期待はずれの顔してる、ベッドに座って素足で本間先輩を、やんわりげしげししている湊川怜司。
 確か、瑞希はこのとき初対面やったよな。ラジオとは。
 よかったわあ、血吸うてる時とか、上半身裸の時やのうて。俺も服着てて。それに、もっと前の、亨とがっつりいちゃついてる時やのうて。お前が帰ってくるかもしれへんて、1ミリも思いついてへんかった。そんな俺も大概、鬼というかアホやなあ。
 ほんまにどうしよ。なんで亨はいつまでも服着ない奴なんやろう。お行儀悪いわ。俺なんか風呂入って服まで着たのに。なんで着といてくれへんかったんや。
 気まずい気まずい。気まずすぎ。水地亨が。
 俺はそう身構えていたけど、瑞希はあんぐりして、ラジオのほうを指さした。
「増えてる?」
 そうやでって、亨とラジオは頷いていた。しょうがないから俺も頷いた。
 でも、それは、今初めて知った訳やないよな。俺がやってもうた話は、当夜のうちにお前も聞いてたんやろ。まさか知らんてことはないんやろ。まさか何も話してやってへんかったんか、水煙も亨も。意味わからへんうちに俺がおらんで、それが泥酔して帰ってきて、何や訳わからんうちに亨と三人でベッドインさせられてたんか。
 まさかな。
「誰です、これ?」
「ラジオ」
 ついつい指さしたまま俺に訊いてる瑞希に、亨が端的な返事をしてやっていた。
「お前に訊いてへん。先輩に訊いてんのや。誰です、この人?」
 まるで瑞希は俺の嫁みたいやった。どう見ても怒ってた。
 おかしいなあ。ありえへん言うて出ていったんやんか。俺はお前に、もう捨てられたんやと思うてたわ。違うんかなあ。どないしたらええんやろ。
「ラジオの精や……」
 亨と大差ないことを、俺はやむをえず答えてた。あんまり詳しく言いたない。
「誰これ。洗濯屋? 王子様ルックの?」
 そうやないやろ、どう見ても違うやろと思えることを、湊川は平気で訊いてた。お前は勝呂瑞希のヤバさを知らんから、そんなこと平気で言えるんや。洒落の通じる相手やないんやで。
「誰が洗濯屋や! 俺は先輩の……」
 叫んでもうてから、何やっけって、急に泳ぐ目になって、瑞希は俺とか亨とかを見た。
「式神」
 台詞忘れた人に教えてやる係の人みたいに、亨が囁いてやっていた。瑞希はそれがちょっと、悔しいらしかった。そうやないと思いたいんやろな。しきやない、恋人なんやと思いたいんやろ。でも実際そうやから。堪忍してくれ。
「……式神です」
 しょんぼり痛恨の顔をして、瑞希はがっくりそれを認めた。
 呆気にとられて、湊川は瑞希を眺め、ふと思い出したような顔をして、ああ、と嬉しそうな顔をした。
「わかったわかった。やっときゃよかったケツ可愛い犬や」
 お前は俺を殺しに来た刺客やったんか。泣きそう。俺もうほんまに泣きそう。何を話したんやろう、俺はこいつに。テンパってもうてて、詳しく憶えてない。
 亨と瑞希はすごい怖い顔をしたが、完璧には意味わかってへんらしかった。俺は一リットルくらい汗出た気分がしたわ。
「誰がケツ可愛い犬や……」
 言われたくなかったんか、瑞希は低く唸るような声やった。いや、事実やで、それは。
「何やねん先輩、このモデル系。こんなんがええんですか。めっちゃ背高いですよ、こいつ。先輩とあんまり変わらへんで」
 そうやなあ、そうやそうや。ほんまにそうやと、俺はうんうん頷いていた。下手すりゃ俺に突っ込もうという男や。無謀やな、おぼろ様と戯れるのは。
 確かにお前の言うとおりやから、ワナワナすんのやめてくれ、瑞希。それは亨の担当やないか。お前がやってもうたら、水地亨はすることなくなる。ぼけっとしてるで、亨。ポカーンとしてる出遅れすぎて固まっている。
「なんで……なんでこいつが先輩の服着てんの?」
 悲しそうに、瑞希はそう訊いた。
 あれっ。そうやったっけ? もうええか。そんな気絶寸前リアクションは。
 よう見てるわあ、瑞希。なんで知ってんのやろ、戻ってきたばっかりやのに。俺が着てた服なんか、なんで知ってんの。クロゼットの中見たな、お前。何を見てんねん、チェック厳しすぎやで。
「あー、なんでもないよ、これは。服汚れたし、借りただけやで。部屋帰って自分の着たら、すぐ返すしな」
 にこにこ言うて、湊川は、これがそうやというふうに、瑞希に血の付いているほうのシャツを振って見せていた。
 それを見て、瑞希の瞳孔が、急に開いたような気がした。そして、くんくんと、匂い嗅いでるみたいな仕草をして、見る見る真っ青な顔色になった。
「先輩の血や……」
「鼻ええなあ、さすが犬」
 感心したふうに、湊川は褒めたが、瑞希はなんでか喧嘩腰やった。
「うるさいっ。何したんや、先輩に。なんで血なんか出てんのや!」
 場合によってはぶっ殺すみたいな口調やった。そして、むらむら霊威を発する瑞希は、今にも変転しそうに見えた。
 俺はぽかんとそれを見て、瑞希がなんで怒ってんのか、ぼんやり理解してきた。こいつ、俺のこと心配してくれてんのや。
「なんもしてへん、血吸うただけ。式神なるし、給料代わりやで。お前ももらえば? 精力足りてへんやんか。別に抱いてもらわれへんでも、血飲めばええんやで。つまらへんけどな?」
 たぶん親切で言うてんのやろけど。湊川。
 にこにこ余裕の笑顔で言われ、瑞希は顔真っ青やったのに、見る間に真っ赤になっていた。でも、照れてるわけやないと思う。怒ってんのやろ。恥ずかしかったんやろけど、でも頭に来てもいる。図星やったし、そんなん言われたくないよな。
 すんません。全部俺が悪いです。先輩ありえへんから。殺してええから。地獄へ堕ちろやから。全部その通りです……。
「吸わへん……血なんか。そんなん、外道そのものやないか!」
「外道そのものやもん」
 必死で喚いている瑞希に、けろっと応じて、湊川は、なぁ? みたいに小首を傾げて、いかにも親しげに亨に同意を求めていた。でも亨は、話振らんといてくれみたいに、ブルブル首振って拒んでた。巻き込まれたくないよな。俺も嫌やわ。できれば修羅場は嫌や。せっかく蛇VSラジオは奇跡的に回避されたのに。結局、犬VSラジオでアキちゃん血まみれになるんや。
「格好つけんでええやん。我慢しすぎて人食うてまうよりマシやで。本間先生の血吸うの恥ずかしいんやったら、別にげきやのうてもエサはやれるで。俺でもやれるし、信太も夏場は食い放題やしな。冬場は冬場でかき氷がおるわ。寒いけどなあ」
 あっはっはと笑って言うて、ねえ先生て、湊川は今度は俺を巻き込んできた。ねえ先生やないから。俺の口から言うたら鬼すぎるから。お前ほんまに俺の話ちゃんと聞いとったんか。理解してんのか。しててもこれか、湊川。
「抱いたろか。飢えてんのやったら」
 首を傾げて、湊川はそれが、何でもないことみたいに訊いた。
 俺にもそんな態度やったわ。やるか、やらんのか、俺はどっちでもええけどみたいな、欲があるのかどうか、よう分からんような、捌けた感じで。
 俺にはそれが気楽やったけど、でも瑞希にとっては腹立つだけやろ。馬鹿にされてるとしか思えへんやろ。湊川にはそんな悪気はないんやろけど。むしろ親切心なんかもしれへんのやけど。こいつちょっと邪悪系入ってるからなあ。
 瑞希は末期的にワナワナしていた。好き勝手に喧嘩できるんやったら、もう殴ってる。変転して飛びかかってる。そんな感じやったし、俺ははらはらしてたけど、忘れてたんや。こいつも俺の式やから、戦うのにも主人の命令がいる。増して相手も俺の式やし、一種の財産やからな。勝手にはドツキ倒されへんのや。
「……死ね!」
 めっちゃ憎いみたいに、瑞希はそれだけ捨て台詞を吐いていた。でも、顔を覆って耐えてる姿やった。
 そういえば、俺はこいつにエサやってない。実はもともと、戻ってきた時点で腹ぺこやったんやないか。しんどそうやったもん。なんで気がつかんかったんやろうか。亨が元気ないときに、どうすりゃええか、よう知ってるはずやのに。
「言われんでも、もうすぐ死ぬよう。ざまあ見ろやろ? なあ、先生」
 可笑しそうに、くつくつ笑って、湊川は新しい煙草に火をつけていた。モク中やなあ、こいつ。信太もそうやし、二人で居るとひっきりなしに吸うてる感じなんやろなあ。きっと、そんな悪い影響で、不死鳥まで煙草吸うんや。
「その件やけど……」
 今言うような事やろか。でも、せっかく話題に出たし。言うなら早う言うてやらんとと、俺は思った。
「お前はもう、生け贄行かんでええしな……」
「なんでや。信太か? あんなん、言うてるだけや。俺にも電話してきよったけどなあ、余ってんのが死ぬのが合理的やで。アホか、お前のためやない、寛太が好きやねんて言うといてやった。そしたら黙ってたで?」
 くすくす皮肉に笑って、湊川は俺の話を押しのけていた。
 電話したんや、信太。なんでしたんや。最後にええ格好したかったんか。アホみたい。
 けど俺も、ある意味そうかもしれへん。俺の代わりに死んでくれとは、格好悪うて頼みたくない。俺が逝くからって、ええ格好したいだけなんやないか。
 せやけど、どうせ男なんて、そんなもんやで。モテたいだけ。格好ええなあって思うてもらいたいだけ。それで俺のこと、ずうっと憶えておいてくれって、必死になってるだけ。本能やねん、たぶん。自分が犠牲になってでも、愛しいものを守れたら、それで本望と思うのは。腹減ったら飯食うのと同じ。
「いや、信太も違う。心配せんといてくれ。俺が頼んだことは、もう忘れてくれてええから。変なこと頼んで、悪かったな」
 詫びを入れてる俺の顔を、じいっと見て、湊川は煙草を吸うてた。ふうっと吐き出される煙の文様が、ゆらゆらたなびいてきて、俺の胸に当たって乱れた。
「ふうん。逝かんでええなら、別に生きとくけど……」
 もう一息、香炉の煙のする煙草を吸って、湊川はちょっと、考えているふうやった。
「でも、信太はマジやで。あいつのアホは、死なんと直らへん。神として、民を救って死ぬんでなきゃ、生きてる意味ないと思うてる。負け犬ならぬ、負け虎や。自信がないねん。お前は俺を愛してへんて、そればっかり言うてる。それは自分にそれだけの価値がないからやと思うてんねん」
 でもそれは、ほんまの話やんか。虎の価値はどうか知らん。でもお前はほんまに、あいつを愛してなかったんかもしれへんで。その手前で止まってた。自分の心の中の、おとんの棲んでる部屋に鍵をかける気が湧かんまま、虎と寝てやってたんやろ。
 そういうのはバレるよ。特にお前はバレバレなんやもん。天然なんかなあ。気がついてへんのか、湊川。めちゃめちゃ鈍いんとちゃうか。知らんと虎を傷つけている。俺も傷つくで、下手したら。もしもお前に惚れてたら、たぶん胸痛い。今でもちょっぴり切ないもん。おとんのシャツは六十年持ってたくせに、俺の服は本日中にご返却なんや。せめてクリーニングに出すとか無いんか、礼儀として。俺はそこまでどうでもええ相手か。別にええけど、そんな細かいことは。
「お前が愛してやりゃあよかったんやんか、信太を」
 俺が責めると、おぼろはけらけら笑った。
「誰が愛してやっても無駄や。あいつは民に愛されたいねん。現に寛太はあいつをめちゃくちゃ愛してやってるやろけど、それでもあかんのやないか? そんな相手を後に遺してまで、生け贄なって死のうという虎や。恋愛やないねん、先生。信太が欲しいのは。先生のおとんが死んだのと、同じ理由や」
 にやにや笑って、おぼろはやっぱり、俺でも虎でもなく、六十年前の男を見ているような顔つきやった。こいつの心の中では、時間が止まっているんやないやろか。おとんと別れた時のまま、ずっと止まってる。
「大義やろ。お国のためや。民のため。そんな、誰かわからん相手のためやねん」
「おとんはお前のためにも死んだと思うで。生き残ってほしい人らのために、命がけで戦ったんやないか」
 ちょっと、むっとして、俺は言うてた。湊川がいかにも、おとんの気持ちを理解してないようやったからや。自分のおとんのことを、意味がわからん、アホちゃうかみたいに言われ、俺はなんか例えようもなく不愉快やった。腹立つというより、悲しい気がして。
 おとん大明神は、俺のためにも死んだんや。本人がそう言うてたもん。おかんも大事やったやろうけど、俺のことも一応考えてたらしい。自分は死ぬけど、俺には息子がひとりいると、おとんは死ぬ時考えたと、そう言うてたで。
 おとんは実は、俺にもええ格好したかったんやないか。死ぬの嫌やて、生きて日本に帰りたいしな、お登与の顔をまた見たい。産まれた息子も見たい。懐かしい京都をまた歩きたい。そんな理由で、自分の尽くせるベストを尽くさず、生きて戻ると格好悪い。死力を尽くして頑張るほうが、男らしいし、おとんみたいやろ。そんなアホみたいなこと考えてもうたんやないか。
 俺はそう期待してんのやけど。そしてそれがアホみたいやとは、ほんまは思うてない。俺のおとんて格好ええわあと、ほんまは嬉しい。生きて戻ってくれてたら、たぶんもっと嬉しかったやろけど、まあ一応、戻ってきたしな。幽霊やけど。あれって幽霊やろ、たぶん。
 そんな引き際の悪さはあるけど、それはしゃあない。あの人、めちゃくちゃやから。心残りがありすぎたんやろ。それもまた、期待を裏切らん、優しいおとんやで。
 あれであと変態でさえなければ……。アホでなければ。俺のおかんの夫でさえなければ。俺と名前や見た目がカブってなければ。ええ人やのに。もう神の部類やけど。
「先生、ロマンティストやなあ」
 にこにこ笑って、湊川は懐かしそうに俺を見ていた。暁彦様にそっくりやという言葉を、こいつが呑んでることは、俺には良く分かってた。水煙にはなかった部類のデリカシーが、湊川にはあるらしいで。
「信太もそうやねん。俺も好きやなあ、そういう男。忘れられへんのやって、虎は。大陸で見た、戦争で死んだ子供らの顔が、幸せになりそうなると、今でも頭にチラつくらしいで。餓鬼の死骸がな。甘っちょろいねん、あいつは。てめえが殺したわけやないやろ、人間がやったんや。それに自分も人食うといてやな、餓鬼まで死んでた可哀想って、それは変やないか。辻褄合うてへん。てめえが食うた奴の顔を思い出すべきやないか?」
 ふふん、て笑って、湊川は今度はちゃんと、虎の顔を思い出してやっているような表情やった。風呂で俺と抱き合うて、恩知らずな虎やと罵っていた、その時と同じ目やった。
「それもまあ、思い出すんやろけど。餓鬼どもまで死んでもうた。なんで守ってやられへんかったんやろうって、あいつはそれで狂ってもうたんやろう。我が身を呪って化けモンなってた。神でなけりゃあ鬼なんやからな。今はけっこう落ち着いて、まあまあマトモやけども、でもまだ呪ってる。罪の報いを受けたがっている。そんな罪なんか、別にないのに。人間は元々、殺し合う生き物や。戦争無かった時代はないで? 今もどっかで餓鬼が殺されてる。それに虎が人食うんは、罪やないでしょ、先生。腹減って食うてるだけや。食わんと死ぬから食うたんや。先生かて牛とか豚とか食うでしょ。それと同じやで。あいつも分かってへん。アホやしな、いっぺん死なんと治らんのやろ。それが治らんと、あいつも誰も愛されへん。自分が幸せになられへんのに、相手を幸せにはできへん」
 言いながら、何見るともなく、にやあっと笑ってるおぼろは、自嘲の笑みやったかもしれへん。
 それは俺にも何か、痛いような話やったわ。自分のこと言われてるようで。瑞希や亨も、横っ腹痛そうな顔やった。身に覚えでもあるんやろか。あるんやろうなあ。
「そんなんやしなぁ、あいつに死んでもろてもええんやけど、でもやっぱ寛太が可哀想やろう。ほんまに好きみたいやしなあ。虎の我が儘も俺には分かるんやけど、でもやっぱ、悲しいもんやで。遺されるほうは。耐え難い、苦痛やで、本間先生。一緒に死んだほうが、なんぼかマシやっていうくらいやで」
「だからって、後追い自殺には遅すぎやろ。おとん生きてないけど、でもうちの家に居るで。今は旅行中で留守やけど」
 黙って聞いてんのが、つらくなってきて、俺はついつい口を挟んだ。会えるねんで。秋津暁彦には。死んでるけど、幽霊でもよければ。会われへんより、ええやんか。
「何の話してんの、先生。寛太の話やで」
 淡い微笑で、おぼろは俺をじっと見つめた。
「遺されて辛いんやろ?」
「一般論やで……?」
 煙吐きつつ、けろっと言われて、俺はまたムカッと来てた。
 素直やないな、お前はほんまに。可哀想オーラみなぎってんのに、俺はそんなんやないと言い張るつもりか。そんな奴が、他のに抱かれて暁彦様って鳴くか。おとんの形見の服が汚れたくらいで、フラフラなったりするんか。
 どうせ変な意地張ってるだけやんか。意固地やねん。可愛くないなあ。それが可愛いといえば可愛いけど、あんまり片意地すぎてもムカッと来るで。水煙もやけど、おとん由来の奴らって、ちょっと意固地すぎへんか。昔気質なんかなあ。俺由来の亨や瑞希を見ろ。正直困るぐらい正直者ばっかりや。困るぐらいストレートに可愛い。ほんま困る。そんな、しょんぼりするな瑞希。今ちょっと慰めてやりづらい雰囲気すぎるから。もうちょっと頑張っとけ。
「話つけにいこか、蔦子さんとこ。姐さんも虎のほうが可愛いやろからなあ、ラジオ逝っとけ言わはるで。元々、本家から押しつけられた厄介者やしな、俺は。式神言うても、仕えてんのかどうか分からんような、はぐれ者やったんやから。被害無しやで」
 ほな行こかと、腕を伸ばして灰皿で煙草を揉み消して、湊川は俺を連れて出る気配やった。
「ちょっと待てアキちゃん、俺も行く」
 亨ははっと我に返ったように言うてた。
「素っ裸やんか、白蛇ちゃん。どうせすぐ終わる話やで。部屋で待ってりゃええよ」
 湊川は可笑しそうに言うて、それにも、ああそうやったと、はっとしている亨を眺めていた。それは随分、優しそうな目やった。ラジオは誰にでも優しい奴らしい。
「俺も忙しいしなあ。先生がずらしてもうた位相を元に戻してやらなあかん。寝る間もないで。心配せんとき。先生食ってる暇なんかないから」
 からから笑って俺を連れて行く湊川を、亨は恨めしそうに見ていた。置いていかれるのが嫌なんやろう。部屋に瑞希と残されても、気まずいもんな。せやから早うシャワー浴びて、服着とけばよかってん。だらだらしてるからあかんねん。家ならそれでもええねんけど。
 また湊川と二人っきりになってまうやんか。
 なんか微妙や。暁彦様とおぼろ。二人っきりの時には、そういう趣向やと、こいつは言うてた。いきなり甘ったるく豹変されたら、俺はどないしたらええんやろ。
 せやけど、そんな心配するなんて、俺の自意識過剰やったやろ。若造にはよくあることや。
 部屋を出ようとしたときに、ちょうどノックの音がした。
 ドアを開けてみると、そこにはホテルのランドリーから来たらしい紺色のメイド服みたいな制服の女の人が、遅くなりまして申し訳ございませんと言うて立っていた。なんでかランドリーのドアが開かんようになっていたらしい。そうは言うてはらへんかったけど、後から思えばきっとそうなんや。俺が狂わせた位相の境目にぶつかると、なんでか行き来ができんようになってたからや。
「これね。血の染みなんやけど、ちゃんと落ちるかな?」
 乾き始めてる赤黒い血のあとを、メイド服のお姉さんに見せて、彼女がカフスを開いて確かめているのを、湊川は心配そうに、首を倒して覗き込んでいた。
「すぐに染み抜きをかけてみます。たぶん大丈夫かと思います」
 任せておけみたいな口ぶりの相手を、湊川は淡くにっこりとして、ランドリーから来た天使でも見るような目つきやった。
「ありがとう。大事な服やねん、気をつけてやってね。できれば明日までにお願いします。落ちへんかっても明日の夜には返してくれ。俺は明後日、チェックアウトやねん」
 自分の部屋番号を伝えて、湊川は念押しをする、歯切れの良い口調で話した。ランドリーの天使は何度も頷いて、かしこまりましたと言うて、俺らとは反対の方向へ、すたすた小走りに去っていった。
 その手が持ち去る白シャツを、廊下に突っ立ったまま、湊川はじいっと眺めていた。戻ってくるのか心配やという、待つ身の顔して。
「あれって、おとんの服やろ?」
 訊かんでも、分かってたけど、言うことなくて、俺は訊ねた。気まずかったんやろう、たぶん。
「そうや。ほんまに寂しい夜には抱いて寝るねん。アホみたいやろ」
 淡々と、まだ廊下の先を見送りながら、湊川はぼけっと言うてた。
「アホみたいってことはないよ……お前はおとんが好きなだけやんか」
「いいや。好きやない。昔好きやったけど、今はもう違う。俺は頭がおかしいねん。アホになってる」
 にこにこ言うてる湊川は、確かにちょっと、一本抜けてるみたいな顔やった。ちょうど赤い鳥さんが、ぽやんとしてる時みたいな顔やねん。
「なんで認めへんのや。愛してんのやろ、おとんのこと」
 そんなん俺かて言いたくはないわ。だって色々微妙やもん。
 そんな奴と寝てもうたしさ。それに何とはなしに妬けもする。可哀想やなあって思えてくるし。
 それで何となく、片手をジーンズのポケットに入れて、うじうじ立って待ってる俺を、おぼろはくるりと振り向いた。にこにこしてた。ほんまに、その笑うてる顔つきが、寛太にそっくりやった。
「愛してないよ。分からんねん、俺にはその、愛というのが。ちょっとな、おかしいねん。信太に訊いてみ。湊川怜司はおかしいやろ、って。これから行って、蔦子さんにでもええけど。そしたら教えてくれるで。俺はほんまに狂ってるんやって」
 一本抜けてる。というか、キレてる。頭の奥のほうの、あるいは心のずっと深いところで、肝心な何かが。昨夜ゆうべは全然分からんかった、そのことが、暗い廊下で二人っきりで、おぼろと向き合うてると、よう分かるような気がした。
「あのなあ、先生。耐え難いねん。愛してたら耐えられへん。捨てられたんやで、俺は。愛してたら、笑って生きていかれへん。頭おかしなる」
 すでにもうおかしい。
 そういう顔して、にこにこ笑うてるおぼろを見ると、俺はちょっと怖かった。可哀想すぎて。
 俺の悪い癖やろか。大丈夫やでって、俺が何とかしてやる、守ってやるからって、抱きしめてやりたいような衝動が、心のすごく奥深いところで湧いたけど、でも手は出えへんかった。目の前に居る相手やねんけど、なんでか全然別の位相にいてるように、手を伸ばしても触れられへんのやないかと思えた。
 こいつが待ってんのは俺やないやんか。蜻蛉とんぼついてるシャツ着てた、別のボンボンなんやろ。それ以外はみんなまぼろしおぼろにとっては誰でもおんなじなんやろ。どうでもええ奴らばっかりやねん。
 水煙みたいに、俺も秋津の当主やからと、そっちに乗り換えられる奴は、まだしも救いがあったんかもしれへん。俺はおとんの代わりに、水煙様を幸せにしてやれるやろう。その可能性はある。
 でもおぼろはおとんが秋津の当主で、げきやったから好きなわけやない。主を変えたぐらいでは、未だに心が変わらんらしい。こいつには希望はないわ。暁彦様が現れて、抱きしめてやらん限りは。
「信太がな……ほんまに好きやってん。好きになろうと思ってん。あいつも俺が好きみたいやったしな。でも、何が足りんのやろう。俺が時々間違えて、あいつのこと暁彦様って呼ぶからか。古いシャツ抱いて寝るから? でも、それは、しゃあないやん。そうせんと死にそうなんやもん。虎が人食うのと同じやろ?」
 湊川はその暴論に、筋が通ってると思ってるらしかった。俺を見つめて淡く微笑み、ものすご真顔やった。
 俺にはもちろん、異論があった。それは全然違う話やろと、いつもやったら言うてたかもしれへん。
 せやけど、さすがにノー・デリカシーな俺でも、この時のおぼろ様はまじで怖かったわ。それは違うと否定するのが、痛々しく思えて。
 俺はうんうんと、思わず頷いていた。言葉は出えへんかった。ぐうの音も出ない。
 俺ひとりの時で良かった。こんなん大勢に見せたらあかん。可哀想すぎる。
 なんとかせなあかん。あとたったの一日、二日しかないけど。俺には何かできることないんやろか。行きがかり上とはいえ、俺の式神になってくれた、このイカレた神さんに、なんかお心安らかになれるような事を、してやられへんやろか。
「暁彦様、今頃どこに居るのん?」
 さあ行こうかって、やんわり俺の腕引いて、優雅に歩き出しながら、おぼろ様は、なんでもない世間話みたいに、俺に訊いた。
「わからへん……最後に手紙来たときには、ブラジルにいた」
「そうかぁ。アマゾン見たいて言うてたから……良かったなあ」
 言わんかったら良かった。知らんて言うとけばよかった。
 俺は何でも言うてもうてから気がつくアホなんやけど、おぼろ昨夜ゆうべ話してた。おとんを駆け落ちしよかと誘った時に、なんて言うたか。
 どっか遠い遠いとこへ行って。ブラジルとか。モロッコとか。そこで二人で暮らそうかって、そう言うて誘った。一緒に行こうって。
 ほんで、それきりおとんはおぼろのとこには現れへんかったんや。たぶんそうやと思う。
 別れを惜しむ一言くらいは、ちゃんと自分で言うたんか。まさか、おとんも言いにくいことは、水煙に代わりに言うてもろてたんか。
 アキちゃんはもう来ない。お前は身を引け。出ていけ、二度と戻ってくるなと、鬼みたいな水煙に、きっぱり言い渡されたんか。言うときゃ言うしな、水煙は。なんせ刃物や、ばさっと斬りつけるような言い方なんやで。
 プサン、ソウルに上海に、北京、モスクワ、ウィーンに、イタリア・ローマ、そしてモロッコ、ブラジルか。おとんの今さらハネムーン・ルート。神業みたいな強行軍やけど。まるっきりおぼろの言うてた話そのまんまやんか。
 ひどすぎへんか、おとん大明神。さすが俺の親。蛙の子は蛙て言うけど、俺って、きっと、鬼の子やから鬼なんや。
 その旅、ほんまはお登与やのうて、他のと行かんとあかんかったんやないか。鬼畜やわ。死んで神さんになってるはずやのに。俺にはとても、そんなことはできへん。
「他にはどこへ行ってんのや。蔦子姐さん、俺には教えてくれへんねん。ケチやわあ」
 ちらちら惑うおぼろの目が、笑う口元とは裏腹に、深く傷ついているように見えた。そう思うのは、感情移入しすぎやったかな。こいつは外道で、愛も知らん悪魔やし、傷ついたりせえへんのやろか。
「知らん、俺も。忘れてもうた……」
 嘘ついといた。嘘も方便やろ。こういう時には。
 でも、ものすご一杯、脂汗出た。慣れてへんから、嘘つくの。バレバレなんやで。
 おぼろは、くつくつ喉鳴らす、鳥の鳴くような声で笑った。
「本間先生、優しいなあ……優しいついでに、俺に引導渡してくれへんか。もうな、しんどいねん。面白可笑しく生きるのが。終わりにしたいんや。俺にもなあ、泣きたい夜はあるんやで」
 酔っぱらってるみたいに、湊川はくすくす笑っていた。
 ほんまに酔うてんのかもしれへんかった。久々に血吸うたんやしな。酔うようなもんらしい、食いつけへんやつが食うと。俺みたいな覡《げき》の血肉というのは。
「あのな……おぼろ。俺のこと、暁彦様って呼んでええで。顔は一応似てるやろ。おとんの代わりにはならんやろけど、でも……それでちょっとは気が紛れるんやったら」
 気が咎めながら、俺がそう許すと、おぼろは嬉しそうに、にっこりと笑った。
「いいや。本間先生は全然似てへんわ。血の味も違うしな、画風も違うてる。暁彦様はもっと、嘘も上手についてた。俺もほんまに騙された。あんな坊やに。たらし込まれてたんは俺のほうやったんやないか。俺のこと、好きやって言うてた。愛してるみたいな目で見てた。けど、それが、嘘やったんや……愛ってどんなもんなんか、俺にはほんまに分からへん」
 お前は違うと言いながらでも、おぼろは俺と腕組んできた。ぎゅうっと強く、もう離さへんというように、鷲づかみにする猛禽のかぎ爪のような指で、俺の肘のあたりを掴み、そしてもう片方の手で、俺と手を繋いだ。指を絡めてくる手は、いつも亨がそうするような優しい仕草で、まるで俺のこと愛してるみたいやった。
「来ると思うてたんや。お前がほんまに来ると信じてた。おかしいなあ、ほんまに行くんやと思って、船の切符まで買うてあったで。今でも持ってるわ、それ……シャツ抱いて寝たら、今でも夢見るわ。遅なって悪かったって、お前のおとんが来る夢や」
 恨んでんのや。おぼろも俺のおとんを恨んでる。水煙が恨んでるみたいに。結局こうなるんや。一人を皆で分けるのは、ありえへんのやから。
 俺の指を優しくまさぐるおぼろの指が、いつ鬼の手に変わるのか、俺は震え上がりながら待っていた。そうならんといてくれと心底祈りながら。
 こんなんも斬らなあかんのか。見なかったことにしたい。いつも鬼なわけやないやんか。酔うてるからや。今だけや。酔いが醒めたら、けろっとしてる。きっとそうや。昨夜ゆうべの癒し系か、さっき見たようなツンツン愛想ない、ええかげんな奴に戻ってる。きっとそうなんやから、見逃して。
 見逃してくれ、亨。これは浮気とか、そういうレベルの話やないで。これはこれで、俺のげきとしての、正念場やで。そんなこと思うてる俺は、おぼろ様をナメてたか。
みじめやろう、俺は」
 しみじみと、まるで他人事か、可哀想な物語でも読んでるみたいに、おぼろは俺に訊ねた。
 先行公開の映画観て、出口でアンケートされるときみたい。どうでしたか、この映画。惨めやろう。そんな感じ。
 でも、これがフィクションでないことは、俺には分かってた。ほんまもんの話や。おぼろは作り話なんかしていない。ほんまに鬼気迫る何かが、優しく指を撫でる手から、肘を鷲づかむ強い手から、伝わってくる。いくら歩いても終わらへん、ここはどこなんやろうっていう迷い道みたいな廊下が、まだまだどんどん薄暗く続いていくのが、もう、明らかに異界の風景や。
 俺はまた、かどわかされてる。神隠しや。今度こそ、帰らせてもらえへんのかもしれへん。鬼みたいになったおぼろに、俺と来いって、世界中あちこち引き回されるんかもしれへん。親の因果が子に報いるわけや。
 俺には責任ないはずやけど、でも、もう、そうなってもうたんやったら、どうしようもない。俺にはまだ、ここから自分で出る方法はわからへんのやから。
「お前は可哀想や」
 観念して、俺は思ったとおりのことを言うてた。おぼろはそれに、同感やというふうに、深く頷いていた。
「そうやろう。ほんまに俺は時々、死んだほうがましなくらいみじめな奴やねん。そんなふうになるねんで。捨てていかれたら」
 なんか急に、諭すような口調でぼんやり言われて、俺は静かにびっくりしていた。並んで歩く、隣にある白い横顔を見ると、鬼ではなかった。相変わらずの白い顔やった。ただもう微笑はしてへんかった。遠くに見える、どこまでも続く廊下の先を、おぼろはじいっと見つめていた。
「可哀想やと思うんやろう。俺のこと。あの可愛い白蛇ちゃんも、ワンワンも、こんなふうになるんやで。先生に捨てていかれたら。俺に任せて、先生は生きといたらええやん。俺はどうせ、いつ死んでもかまへんような奴や。もう何の希望もないしな、死にたいねん。でも、暁彦様に死ぬなて言われて、自殺もできへん。せやからなまずのエサにして、死なせてやったほうが親切やで。そう思うやろ?」
「そんなん思わへん」
 俺は断言したで。だって全然そんなふうには思われへんかったんやもん。
 確かに惨めかもしれへんけども、そのまま死んでもうたらもっと惨めやろ。
「お前もそんなこと思うてへん。ほんまに死にたいんやったら、きっととっくに消えてもうてた。そういうもんなんやろ、お前ら物の怪は」
 俺がガミガミ言うと、おぼろは楽しげに、くすくす笑うて聞いていた。
「アホやなあ……先生。論破したらあかんやないか。せっかく俺が、ええこと言うてやってんのに?」
 俺の手を引き、足を止めさせて、おぼろは微かに眉寄せて、心配そうな顔で俺を見た。
昨夜ゆうべ、俺はなにか、変なこと言うたやろか。気にせんでええんやで、先生。俺はほんまに、死ぬのが嫌やとは思うてへん。それで信太も助かるし、寛太もそのほうが嬉しいやろう。先生もまだ若いんやしなあ、それにモテモテみたいやんか。蛇も可愛いけど、ワンワンも可愛い奴や。ほんまにそうやなあ。もうちょっと生きといたら? きっと楽しいこと一杯あるよ?」
 俺は脳みそクラクラ来てた。それはほんまに、誘惑する悪魔の囁き声や。こいつの声には魔力があんのやろ。そういう物の怪やねん。
 でも俺は、それに素直に付け込まれたら、あかんのやないか。
「自分で生け贄行きたいんやったら、行ったらええわって、亨が言うてた。一緒に死んでくれるんやって。それに俺のこと、あいつが守ってくれるらしい。守護神やから。それを信じて、突き進みたい。行き着くとこまで、行きたいねん」
 もう、ほんまの話するしかない。
 おぼろは俺の話を、どことなく、とろんした目で聞いていた。
「そうなんや……」
 そして呆然みたいに相づち打って、それからおぼろは、笑いを堪えている顔になった。でも結局、堪えきれへんかったらしくて、身を揉むほどの大爆笑やった。よう笑う神さんや。しかも俺と笑いツボが違う。なにが可笑しいんか、分からへん。俺、めちゃめちゃ真面目やのに。亨も大マジやのに。
 ひいひい笑って、身を折って、それでもおぼろはまだ俺と手を繋いでいた。
 さんざん笑いきった頃、おぼろはちょっと泣いていた。笑いすぎて涙出たんやろ。
なまず見たことないから、そんなこと言うんやなあ。でも、まあ、ええんやないか。そういうつもりでいても。あかんかったら土壇場で、俺が代わってやるからな」
 白い手で、涙を拭いて、それでもまだ、くすくす笑ったまま、湊川は俺を見ていた。何かちょっと、眩しいもんでも見てるような顔やった。もしかしたら、亨に見えてるという、月光みたいなアキちゃんオーラが、こいつにも見えてんのかもしれへん。外道やからな。
「先生、あの子を愛してんのか?」
 笑って訊いてるおぼろは、どうも亨のことを言うてるらしかった。
 俺は頷いた。迷いもしてへんかったと思う。おぼろはそれに、にっこりしていた。
「そうか……若いって、ええなあ。無茶苦茶で。暁彦様も、俺のこと、愛してたんやろか」
「わからへん。それは、おとんに訊いてみいへんと。でも……」
 憶測で、もの言うてええもんやろか。それは俺の願望ではないか。そうやと、ええ話なのになあって、物語の先行きを期待して読むような、そんな話やないか。
 でも、当のこいつが言うてたやん。人生なんて、フィクションと大差ない。適当にやっといたらええねんて。
 せやし俺も、この場においては、適当にやってみることにしよか。
「おとんはお前を愛してたはずや。俺もお前のこと好きやもん。似たもの親子やからな。そのへん絶対、同じなんやで……ほとんどクローン人間やから」
 うっとり笑って、おぼろ様が俺を見ていた。鬼のようでは全然なかった。美しい神や。後光さしてきそう。
「優しいなあ、本間先生は。優しいついでに、もういっぺんだけ、キスしてくれへんか。キスだけやしな。俺はあいつに、言い忘れたことがあった。ずっと気になってんねん。お前が代わりに、聞いといてくれへんか」
 あかんて言われへんやんか。すみませんが、それはちょっと。水地亨がいますんで、なんて。
 ごめんごめんて、心の中で水地亨大明神を、平身低頭拝み倒してはいたよ。堪忍してくれ。ここで嫌やて言えるほど、俺は鬼やない。おとんにそこまで似てないらしい。
 というか、むしろ、やる気まんまん?
 なんも答えへん、ほとんど硬直してるような俺の目を、おぼろは様子をうかがうような、心を透かし見る目で、じいっと見つめた。長い睫毛のある目の奥に、昨夜ゆうべは無かった、かすかなおびえのようなもんを、俺は見つけた。
 なにをおぼろは怯えてたんやろう。俺の何が怖かったんや。
 そうっと触れた俺の頬が、熱いかどうか探るような、用心深い指先やった。
 触れたその手を捕まえて、俺は目の前で躊躇うふうな痩身を、抱き寄せてキスをした。おとんはどんなふうに、やったんやろかと思ったけど、そんなん俺に分かるわけない。どうせ下手なんやろう、俺は。おぼろに言わせりゃ、あかんあかん先生、下手やなあ、なんやろう。
 でも、贅沢言わんといてくれ。俺はほんまは、おとんやない。俺も秋津の暁彦様やけど、おとんとは別人やねん。俺がおとんと全然似てへんと言うたやつは、おぼろが初めてやないやろか。皆、似てる似てる、そっくりやって言うねん。
 だけど、おとんに抱いて欲しい奴にとっては、俺がおとんと違うとこばっかり、気に食わんで仕方ないんやろ。ヘタレやなあジュニアはと、こいつも思うんや。俺と最初に会うた頃の水煙様とおんなじで。
 背を引きつけて舌を絡めると、おぼろは少し顎上げて、かすかに喘ぐような息使いやった。きっと、俺のおとんとキスしてんのやろ。それでもええねん。ちょっとでも、幸せな気分になってくれたら、それでええしな。さっきみたいなのは、怖すぎるから。嘘でも幸せになってほしい。ほんのちょっとの間でも。
 息がきれてもうて、俺が唇を離すと、おぼろは溺れたような荒い息やった。そして俺を見ている目は、なんとなく、正気でないようやった。
「暁彦様……」
 俺に言うてる訳やない。そう思うけど、なんでかそれが、ちくりと痛いような気がした。
「好きや……好きや。一緒に行って、俺と幸せになってくれ。お前が居らん世界では、俺は生きていかれへん……捨てんといてくれ……」
 胸苦しいんか、おぼろは心臓のある、貸した俺のシャツを着た左胸のあたりを、長い指で掴んでいた。目を伏せて苦悶するような顔なのが、ほんまにつらそうで、物の例えやない、ほんまに心臓痛いんやないかと俺は心配になった。
「捨てんのやったら、殺してってくれればええのに。俺は悪い鬼やったやろ?」
 俺に縋り付くような目を、おぼろはしていた。でも、それは俺に縋り付いてる訳やない。そうやと思う。なんでやろう。そのはずやのに、俺を見ているような気がする。俺は今、誰なんやろう。ふと自分が、自分やのうて、昔生きてた秋津のぼんのような気がしたわ。そうやったらええのにと、俺は思ったんやろ。
「殺してくれ……先生。暁彦様の代わりに、お前がやって」
 もっと強く抱いてほしいみたいに、おぼろは俺の胸に頬を擦り寄せてきた。俺はその背を、もっと強く抱いた。強い抱擁に、おぼろが熱いため息をついていた。その息が白くこごって、月をおぼろに霞ませる、ぼんやりとしたもやが見えそうなほど、はっきり聞こえる切ない息遣いやった。
「あかん。お前を斬るのは無理や。悪い鬼やないよ。俺のこと助けてくれたやろ? おとんのことも、信太のことも、助けてやったんやろ。船で結婚式してた人らも、助けてやったんやんか。なんで助けたんや、悪い鬼なんやったら」
 俺が訊ねると、おぼろは俺の指に乱された髪のまま、ぼんやりと顔をあげて、見つめてきた。ぼけっと安らいだような顔やった。
「死んだら惨めやと思って……せっかくゴールインやのにさ……新婚旅行、ベガスに行くって言うてたし。張り込んでビジネスクラスの席買うた言うてたし……それで死んだらアホやなと思って」
 そんな世知辛いこと思うてたんか、お前。想像を絶してた。
「俺も行きたかった、暁彦様と……どこでもええから。どこか二人で……」
 切なそうに言うおぼろは、疲れたふうな顔やった。皆ヘトヘトや、水煙もおぼろも。悪い不実なぼんのせいで。
「そんなん俺が連れていってやるやん、どこでも一緒に行ってやるから!」
 いつもは凛として綺麗に延びてた背中が、今はぐんにゃり哀れっぽいのが耐え難く、俺はそれをまた抱きしめて、思いつくまま言うてやった。
「明後日、蛇と心中やのに……? 変やないか、それ?」
 論破したらあかんやんか。適当でええんとちゃうの。汗出るやんか、俺も。
「ええかげんな男やなあ……先生。おとんにそっくりや」
 泣きそうな目で俺を見て、おぼろは愛しそうに、おとんとそっくりな俺の顔を両手で撫でた。
「惚れそう……俺もまた、恋ができそう。可愛いなあ、先生。ほんまに可愛い……」
 すべすべのお肌ですりすり頬ずりされながら、俺はオタオタした。
「えっ。ちょっと待って。それはどうやろ。お前まで参戦したら、俺はどないなるんやろ……?」
「平気や、先生。どうせ本命ちゃうんやもん。それに信太も寛太も好きやし、啓も夏ならひんやりしてて気持ちええしな。白蛇ちゃんも可愛いし、ワンワンも使わへんのやったら、マジで俺にくれへんか。腹減ったままやと可哀想やしなあ。それから、ここの支配人もええと思わへん? 蛇が邪魔せえへんかったら、今夜あたり案外いけたんやないか……もういっぺん、トライしとく?」
 お前ほんまに、おとんのこと好きなんか。ほんまに元々、操は立ててなかったんやな。おとん絶対泣いてたで。見てる前でも十五人総受けって。俺なら死んでる。
「きっと暁彦様も、そんな感じやったんやろうなあ。ええかげんな男やったんや……。でも、しんどいしんどい言うてたしな。皆に愛してくれって迫られて、しんどいって。それで言われへんようになってもうたんや。愛なんて……なくてええねん。あいつが幸せやったら。俺って、やっぱ、アホなんやろか……?」
 照れくさそうに自嘲して、おぼろ様は、ほんまにそう思うてるようやった。
 確かにちょっと、アホなんかもしれへん。自分が幸せになれるかどうか、もうちょっと考えたほうがええよ。それに、おとんが自分を愛してへんなんて、なんでそう思ったんやろ。アホちゃうかラジオ。意味ないところで控え目すぎ。奥ゆかしいのも、そこまで行くと罪やから。エロを控えろ。どうせなら。それに、しんどいぐらい重いのも、言うなれば愛の重みやろ。お前ももっと、重い恋人になってやればよかったのに。
「そんなことない。お前は優しいだけや」
 笑うてるときが一番綺麗やなあと思えて、俺は正直ちょっとトキメいていた。胸がずきずきした。それはたぶん、俺が暁彦様やのうて、おぼろ様とは違う位相にいるらしい事への痛みやった。
 俺はおとんが羨ましい。おぼろは一瞬俺を、本気の目で見てた。俺をおとんやと思うて話してたんやろう。その時のおぼろの顔の、美しかったことといったら。何も言葉にしなくても、その顔を見たら、おぼろが俺を愛してることは、ようく分かった。俺をではない。暁彦様をや。
 おぼろ様は情け深い、優しい神さんや。そしてその優しいとこに、俺もおとんも、深く癒やされている。二人っきりの時だけやけどな。
 きっと恥ずかしいんやろ、こいつも。誰か他のが見てる時には、悪魔みたいなふりをしている。ほんまにそういう邪悪な面も、あるのかもしれへんのやけど、それでもこいつは深情けやし、すごく優しい。身を捨てて、助けてくれる。踏みにじられても、笑って見てる。そんなアホなんやけど、そんなおぼろが、俺はすごく好き。
 え。あかんあかん。それは、あかんから。その結論やと、あかんのとちがう? ちょっと待ってくれ、今のとこ、ちょっとだけカットさせて。水地亨に殺される。
「先生のお父さんのこと、好きなままでもええか? 遺品捨てろって、言わへんか? 信太みたいに?」
 俺の胸に手を置いて、おぼろ様は婉然と微笑んでいた。それがあまりに美しいので、俺は背中にだらだら汗をかいてきた。
「言わへん……いや、そうやのうて。なんでそんな話になんの?」
 汗だらだら。必死で無表情。
「今は先生の、しきやから」
 ああそうや。そうやった、そうやった。辻褄合うてる。
 なにを焦ってんのやろ、俺。焦るほうがヤバい。いつまでも抱き合うてんのもヤバいけど。
「また、隠れてしよか。位相のめくり方、教えてやるしな。バレたら修羅場やろ。バレへんようにしよか」
 俺の頬にキスをして、おぼろは触らんといてほしいところを触ってくれた。なんで触るの。キスだけや言うたやんか。
 そしてほんまにキスだけやった。
 やっぱ鬼やん……。悪い鬼やない?
 俺はちょっと、その場に膝ついてへたりそうになった。でも、それはさすがに格好悪すぎやから、がっくり項垂れるだけで何とかすませた。
「抱きたかったらでええねん。嫌やったら別にええんや。俺は何も食わんでも平気なんやし。エロの相手なんか誰でもええねん。適当に自分で調達するしな。でもな、先生。また、ちょっとでええから顔見せてくれ。電話でもええよ。声聞くだけでも。俺はなあ、時々ほんまに、寂しいねん……寂しくて、死にそうなるねん」
 照れくさそうに言うているおぼろ様は、めったやたらに可愛かった。しかも、この可愛いオーラはたぶん天然と思えた。
 さすがにその打撃は激しかった。脳天ガツンやった。
 俺は諦めて、廊下で膝ついた。しょんぼりやった。もうひざまずくしかない。ありがたすぎるから、おぼろ様。昔、どっかの寺で見た、弥勒菩薩みろくぼさつか観音様みたい。
「どしたん、先生」
「なんでもない……」
 ちょっと顔見るだけなんや。電話だけかもしれへんのや。エロの相手は他で探すんや。俺とは、ちょっと話すだけやのに……。
 いや。待って待って。そのほうがええから。助かるんやろ、俺。そうやろ。そういう話やろ。全然問題ないやろ。
 我慢せなあかんのや。もう、水地亨と約束したもん。エロログ皆勤賞を目指すって。
 それに、明後日には死ぬ男やで、俺は。がっかり落ち込むようなこと、なんもないんやで。なんもない。なんもないで。俺には亨が居るしな、そしておぼろはおとんが本命……。
「先生、なに凹んでんの……?」
 心配そうな顔をして、おぼろは俺を気遣ってくれた。
 どうもほんまにおぼろ様は、俺のこと愛してへんらしい。おとんのことが好きらしい。ずうっと好きらしい。おとんの居らん世界では、生きてられへんくらい好きなんやって。実はそれが本音なんやけど、おとんに言うてやったことないらしい。
 ずうっと黙っとけ。言うたらあかん。うちのおとん、もう隠居してるから。今はもう、俺のしきやから。おぼろ様。
 式神なんか要らんやろ、おとん。要らんよな!
 畜生、どこをほっつき歩いとんのや、おとん大明神。さっさと戻ってこんか。そしておぼろ様に詫び入れろ。無様に逃げ廻っとらんで、すまんかった、お前のことも好きやったって、ちゃんと言うてやれ。愛はしんどい言うたけど、ほんまは愛してほしかった。お前は俺のもんやって、思わせて。
 そう言うてやれ。おかんには黙っといてやるから!
 おかんも俺のもんやしな。ほんまにもうぶっ殺す。秋津暁彦、暁雨ぎょううのほう! 死んでるとはいえ居るんやったら、俺に何もかも押しつけんと、手伝いに来んか!! 可愛い息子が死ぬほど悩んで苦労してんのに、てめえはお登与とブラジルか! 寒いねん。寒すぎる! 戻って働け、おとん大明神!
 俺は心の声で、声を限りに絶叫したよ。久々祈った。天の声に。頼ったらあかん、頼るもんかて意地張って、無視しつづけた相手やったけど、もうこうなってもうたら無視はできへん。おぼろ様、可哀想やしな。てめえも修羅場に戻って来やがれやで。
 水煙、元鞘モトサヤやったらどうしよう。おとんに会うて、やっぱりおとんやと思われたらどうしよう。それでも泣いたらあかん。俺はそれに泣いたらあかん立場やねんけど。
 でも泣ける。
「行こか……蔦子さんとこ。お前をください言うてこなあかん。それに水煙も、返してほしいねん。俺なあ、蓋が開いてもうたみたいや。めちゃめちゃみなぎってんねん」
 俺はくよくよ言うた。
「先生、かっこええわあ……」
 うっとり舌なめずりする声で言い、おぼろくずおれている俺の鼻先で、身軽にしゃがみ込んで頬杖ついていた。その、まるで俺が好きみたいな目つきは、式神やった時の亨の目やった。うっ。職場の上司か、俺は。
「できたら次は後ろバックでやってみてもらえます? 暁彦様と形がいっしょでも、動き方にも人それぞれの癖とかあるしな。先生がイケてへんのは体位のせいやったんかもしれへん。いろいろ試せば、ヒットすんのが見つかるよ!」
 何の話してんのやろ、おぼろ様。ものすご爽やかな笑顔なんやけど。
 そして俺はぐいぐい腕を引いて立たされた。
 おぼろは長い指を何もない、暗い廊下の空中に伸ばして、確かに何かをつまみとり、めくるような仕草をした。
 そこから、貼り付けてあった絵ががれるみたいに、ぺらあーっと別の世界が拡がった。その先はまだまだ真昼の、ヴィラ北野の華麗な、午後の廊下の景色やった。眩しい光があふれ出してきて、俺は目を細めて、それを眺めた。
 そしてまた、話は異界から人界へと戻る。無限ループする暗い廊下ではない、ちゃんと先へ進む時間のある、正常の位相へと。
 俺はおぼろ様をちゃんと、そこへ連れ戻してやれるんやろか。猶予は、あとたったの一日半。それは俺の仕事やのうて、俺のおとんの食い残し。おとんがやらねば誰がやる。
 そんなわけでな、おのおっさん戻ってくんで。出てこんでええのに、おとん。待ってた人には乞うご期待。ダディ今ごろ何してんのかなあ。それはまた、後の話のお楽しみやで。では諸君、また次回! いろいろ試せば、ヒットすんのが見つかるよ!


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