SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

神戸編(22)

 アキちゃんも大概、鬼やで。
 俺はもう、呆れ果てるのを通り越して、燃えカスみたいになってたわ。
 アキちゃんに、何言うても無駄や。俺がいくら何を頼もうが、全然聞いてへん。優しいみたいな顔をして、お前が好きやって言うけども、アキちゃんほんまは俺のこと、どうでもええわと思うてんのと違う?
 舐めてんのや、俺のこと。
 もう、自分のもんやし、結婚してくれ言うたらしたし、抱きたい時にはいつでも抱けるし、なんの有り難みもない。顔が好きやていうけども、顔ええ奴なんかいくらでもおる。水煙様もお美しいし、瑞希ちゃんかて可愛いしやな。水地亨は大したことない。アキちゃん絶対そう思うてる。
 俺はほんまに、悲しいわ。何が悲しいて、アキちゃんがそんなふうやという事も、そりゃあもちろん悲しいけども、そんな男がめちゃめちゃ好きな自分のことが、いかにもアホみたいで切ないわ。
 俺はしんどい。アキちゃんのこと、なんで好きなんやろ。もはや理由もわからへん。頭では分かってるけど、なんか心がついていかれへん。それでも好きや、めちゃくちゃ好き。せやのになんでか、水に落ちた墨の雫のように、ぽつりと小さく、アキちゃんが憎い。
 こんな黒い一滴一滴が、ずうっと溜まりに溜まったら、俺はきっと真っ黒になるで。また悪魔サタンに戻る。アキちゃん憎いわ、可愛さ余って憎さ百倍。いっそのこと食うてまえって、そんな虚しい振り出しに戻る。
 わからへん。何でこんなことになってんのか。これが水煙様の言う、血筋の定めというやつか。あいつは、ようそんなもんに、何年、何十年、何百年と耐えてきたわ。正常やないで。きっと頭がおかしいねん。
 そうでなきゃ、やっと巡ってきた千載一遇のチャンスやっていうのに、酔った勢いでアホみたいになったアキちゃんが、お前もおいで、抱いて寝てやろうっていうのを、拒んだりするもんか。
 あいつはお高い。三人まとめていっとけみたいなのには、混ざりたくないんやろ。誰かて嫌や。本気で惚れてたら、自分だけを抱いてほしいもんや。それで正常。
 せやけど、秋津の血は異常。基本、乱交らしいで。なんかそんな話やわ。アキちゃんのおとんは、そうやったらしい。なんせ相手が多いもんやから、一晩に一人やと追いつかへん。
 ローテーションは組むけども、そんなん守ってられへんていう、がっついた奴もおる。そのへんは臨機応変に。そんなに焦れてるお前は可愛い奴やなあって、順番抜かしもさせてやる。その辺は駆け引きや。元々俺の番やったやつと、二人まとめてやっとけば、俺を見ろ俺を見ろってお互いに競い合うやろう。愛してくれって必死になるわ。妬いたり妬かれたり、なおいっそう熱く燃え上がる。
 勝ったり負けたり。そんなもんが愛にはあるのか。
 あるやろうなあ。俺はずっとそんなことばっかり考えて生きてきた。俺は犬に勝ったやろか。それとも負けたやろかって、ずっとくよくよ気にしてた。
 それでも俺が勝ったんやって、俺はそう信じてきたし、アキちゃんは俺を選んだ。俺のほうが好きやった。せやから大阪では、犬を殺してもうたんや。
 可哀想やなあ、犬。アキちゃんも可哀想。愛しいワンワン手にかけて、しばらく死んだようになっていた。それを見て俺は、こんなんせんかったら良かったと思ってた。
 俺が嫉妬に狂ったりせず、寛大に許してやって、俺が一番、犬は二番で、あんじょうやっといたらよかった。そしたらアキちゃんはきっと、幸せやったやろ。
 そんなことを思いはしたけども、それは犬が死んでて居らんからこそ思えたことやったわ。実際、そいつが舞い戻ってきて、先輩抱いててアキちゃんに言い寄る。そして抱いてもろて、可愛い声で鳴く。そんなん耐えられへん。やっぱ無理やねん、実際それに直面すると、死にそうにつらい。イメージトレーニング全部チャラ。その痛いこというたらな、もう、想像をはるかに超えてもうてるから。
 でも俺は、それを寛大に見過ごしてやらなあかん。水煙が、そうしろって言うんやもん。それが俺の甲斐性で、そうせえへんかったらアキちゃんには式が増えへん。俺はもう式神やない、指輪をもろた連れ合いでしかなく、いざというとき死ぬ気で行くのが怖いというんやったら、アキちゃんは自分のために喜んで死ぬような、忠実なしきを、俺とは別に囲っておかんとあかんのやって。
 そうでないと死ぬような事が、げきの世界にはあるらしい。
 アキちゃんのおとんも、いくさの時にはそうやった。ご神刀を振りかざし、斬った貼ったで事の棲む、鬼やら物の怪やったらええけども、相手が強大な神ともなると、刀や太刀で武装したかて、心許ない。体を張って守ってくれる、式神が必要や。桃太郎かて一人で鬼ヶ島に特攻はせえへんかったやろ。犬と猿ときじと連れていってたやろ。それはあいつもげきやったからや。だって桃から生まれたんやで。まともな人間やない。神仙の類やわ。
 覡と覡との戦闘は、いわば闘犬みたいなもん。式と式とを戦わせるんや。手持ちがないわでは、勝負にならへん。犬が要るやろ?
 怖いと躊躇うその一瞬で、アキちゃんの首が吹っ飛ぶかもしれへん。そんなん怖い話やなあ。それを迷わず身を盾にしてかばう勇気が、俺にはあるんか。
 わからへん、それは。その時が来てみないと。
 あるわと言いたい。でも俺はほんまに、死ぬのが怖いねん。だから自信ない。もし万が一、俺が愛しいアキちゃんよりも、自分の身が可愛いようなことがあったら、その時はどうなるんやろ。
 しかし、あの犬やったら、命は惜しむまい。健気やし、それに思い詰めている。アキちゃんのためやったら、あいつは何でもしよるやろ。生け贄にもなる。身を捨てて庇う、生きた盾にもなるわ。水煙が剣やったら、あいつが盾で、それでアキちゃんは完全武装やわ。
 式神とはそういうものや。そのために飼うておくんや。戦いに臨むための、武器や防具を揃えておくようなもんやねん。怖いわ言うて逃げるような、なまくらな盾やったら役に立たへん。
 アキちゃんが、可愛いんやったら、せめて身を守る盾を飼うておくぐらいのことは、許してやれと、水煙様は俺を躾けた。
 それはもちろん、許してる。ただそれと、いちいち寝る必要はないってお前が言うから、俺も納得してたんやないか。えらい話が違うんやないんか、水煙様よ。
 瑞希ちゃん、抱いてくれな嫌やて言うてるで。抱いて欲しい。愛してるから。好きやって言うてほしい。アキちゃんに、それに応えろって、無理を言うてる。なんちゅう我が儘な犬や。
 そら、抱いてほしいやろなあ。俺も抱いてほしい。好きやったら、それで正常や。それを血をやったくらいで誤魔化せるやろというほうが、土台おかしいねん。あいつはただげきとして、アキちゃんを慕っている訳やない。惚れてんねん。抱き合うて愛し合う相手としてアキちゃんが好きなんや。それは心の問題で、理屈ではない。我慢せえ言われても、我慢はできへんやろ。好きな相手のことを、好きや好きやと思うのは。
 俺はアキちゃんの血を吸うてても、抱いてほしくなる。腹減るからやない。愛してるから。抱き合いたいねん。ただそれだけ。手を触れていたい。あいつの存在感を、肌で感じたいねん。それかて理屈やないわ。我慢できへん。好きでたまらん。力一杯抱き合うて、お前が好きやって囁き合いたい。ひとつになって、心地よく溶け合う感覚に溺れたい。切り果てのない愉悦と快楽。それが愛やろ。それが愛の、自然な形や。
 それが全てとは言わへんわ。でも、それ抜きには語れないもんが、愛にはあるわ。
 俺には無理や。好きな男を前にして、指一本触れへん。ただじっと見てるだけ。そんな苦しい愛が百年続く。そんな欲求不満の我慢プレイに耐えて、平気そうなお高いつらでいる。そいつが他のを可愛がるのを、ようやった偉いと言って褒める。そんな水煙みたいなことは、到底できへん。
 あいつ、変態なんと違う? 絶対、頭沸いているで。
 元々、穴無しやったのかて、あいつの意志やで。抱こうったって抱かれへん、そういう体になってもうて、相手を拒んでたんや。俺は他のみたいに、淫乱やない。妾はやらへん。見損なうなという意思表示やろ。
 たぶん、つらかったんやろ。ああいう性格やから。ひとつ寝床で抱き比べられる、そういうのは我慢ならへんねん。醜い掴み合いの乱闘みたいなのには、混ざらへん。いっそ気高く身を引いて、おとなしくしてたい。なるべく傷つかんように。塔に住む深層の姫君よろしく、蔵に囲われてる、拝んで崇めるのはええけど、抱いたらあかん神さんとして、寄らば斬るぞと拒む姿勢やった。
 アキちゃんはその、奥ゆかしいところが萌えるんやろけど、俺に言わせりゃ、やせ我慢やで。
 水煙かて、穢れを知らぬ身やないで。だって肉食うてんのやから。タマゴも食うたんやで。鳥さんとおんなじもん食うたんやから。ほんまやったら、あれくらいの性欲があるんやで。ただそれを隠してるだけで。
 だって、おとんとは一緒に寝たらしいやんか。ほんまに、ただ抱いて寝るだけなんやろけど。剣やしな。それでもとこに入る時、おとん大明神は他のを余分に連れ込んだりはせえへんかったらしいで。潔斎けっさいして抱いた。水煙を、崇めてたんや。それを拒まん程度には、水煙もおとんに惚れてたんやろ。本音を言えば抱かれたかったんや。そうに決まってる。
 もしもおとんがアキちゃん並みに破廉恥で、水煙を太刀からサーベルに作り替えるだけやのうて、抱いて可愛がれる体に作り替えてやって、もっと身のある抱き方で愛してやってたら、あいつかて、アキちゃん好きやて寝乱れた。そうに決まってるわ。抱いてほしいて、毎日毎晩もじもじしてたで。その味を、いっぺん体で覚えてもうたら、我慢できへんようになる。自分から跨って励むようになるわ。
 俺と大差ないねん。水煙様も。ただちょっと性格違うてるだけ。俺は自分の欲に正直なだけで、正直者の亨ちゃんやねん。
 一晩に最低二回はしたい。三回でもいい。それが淫乱やて言うんやったら、我慢に我慢を重ねて、一日一回でもええわ。一回はしようよ。健康のためにも。禁欲は体に悪いから。
 ああもう、ほんまに泣きそう。
 アキちゃん、俺と素っ裸の犬をベッドに連れ込んで、その後どないしたと思う?
 寝てん。エロやないで。眠ったんや。ぐうすか寝たんやで!
 嫌な予感はしたわ。眠い眠い言うてたし。眠そうな顔してた。もう明け方近くやったしな。ほぼ徹夜やんか。
 それでも悪いと思うたのか、アキちゃん俺とやろうとはしたわ。素っ裸の俺を抱いて、お前と抱き合うのは気持ちええなあ、安らぐわ、みたいな事を言うてた。
 酔っぱらって視野狭窄やからな、反対側に瑞希ちゃん居るの、忘れてんのとちがうか。もう、べろんべろんやったみたいで、にこにこ言うてた。
 綺麗やなあ、亨。俺はお前の顔が好き。体も好き。全部好き。お前がめちゃめちゃ好き。世界一好きやって。ほんで、恥ずかしそうにキスをして、そして、ぐうー、みたいな。寝てます、みたいな。嘘やあ、ほんまに寝てるう、みたいなな。
 気まずい気まずい、瑞希ちゃんに最高に気まずい。抱きついた俺の肩に頽れて、ぐうぐう寝てるアキちゃんを見てるあいつの顔は、真っ白けの顔面蒼白やったから。
 まあ、見たらあかんかったよな。愛を囁くアキちゃんは。自分に囁くんやったらええけど、蛇に囁くアキちゃんはまずい。ワンワン発狂するからな。
 お前、発狂してまた飛びかかってくるんとちゃうんか。蛇ぶっ殺すモードで。俺を八つ裂きにするんと違うんか。勘弁してそれは。とりあえず全裸やし。せめて服着てから喧嘩せえへんか。それか変転するとか。外出るとかしてな。ホテルの備品壊したら、藤堂さんに怒られるからな。
 俺はそれを目で訴えたけど、ワンワンは喧嘩する気はないらしかった。なんでやろ。ぶっ殺すみたいな目は一瞬したくせに。すぐ泣きそうなって背を向けていた。俺に負けたと思うたらしい。戦う気はない、しとうてもできへんて、そんな顔やった。
 まあ確かに負けてたけど。アキちゃん鬼やし、お前のことアウト・オブ・眼中やったよな。
 素面やったらもっと気遣うてくれたやろうけど、酔いつぶれてた。
 それにアキちゃん俺と抱き合うと、なんや頭の回路おかしなるから。水煙様が横たわるソファででも、それが剣やった時には、平気で俺といちゃついてたから。辛抱堪らず俺が、ひいひい喘いでる声聞かせても、ぜんぜん平気やったんやから。犬居るわって事を、あの瞬間、忘れてたんやないか。
 寝こけてへんかったら、犬がいようが水煙いようが、忘れて俺とやってたんやないか。俺はええけど別に。ギャラリー居っても平気やし。むしろ見やがれみたいな感じやもん。アキちゃん俺を愛してんねん、めっちゃ気持ちいい、身悶えて喘ぐ、それをとっくり拝んどけって、そういう性格やけどな、俺は。アキちゃんは違うやん。そんな子やない。素面やったら、さすがにありえへん。そこまで自由やないで。
 何をそんなに酔うててん。どこで飲んできたんや。
 俺は一応、レストランもバーも探したで。他にどこで酒飲めるねん。
 絶対に湊川怜司の部屋や。だってアキちゃんの髪からは、ぷんぷん煙の臭いがした。香炉で焚く聖なる煙のような、ええ臭いやけど、あいつの臭いや。信太や鳥も同じ臭いがする。あいつら同じ煙草を吸うてんのやからな。
 でもまさかアキちゃんが、鳥と虎と3Pやってたというのは考えられへんやろ。絶対ないとは言い切れへんで。アキちゃん何するか分からん男やからな。真面目やけど、ブチキレたり突き抜けたりすると、はぁ!? みたいな事、平気でしよるからな。気つけなあかん。
 でも今回に限っては、それはない。湊川怜司や。だってアキちゃん本人がそうゲロってたやんか。あいつをしきにしたって。
 それって、あいつと寝てきたって事なんとちゃうの。よう平気で言うわ。こいつ酔うてる時なんでも平気やで。そもそも俺を最初に口説いた時も、酔うてたからこそやった。酔うてへんかったら男と寝ようなどと、思いつきもせんような子やったんや。
 それがどうなん、一年も経たんうちに、平気で男のケツに萌えるようになってもうた。ちょっと調教しすぎたよ。俺だけでええのに。なんで萌えんの。通りすがりみたいな奴のケツにまで。
 確かにええよ。湊川怜司。あいつ、ええ体してる。言いたないけど、美しい。背は高いけど、アキちゃんよりは低いし、モデル体型というか、すらり細身で、肌も綺麗や。何を食うたらああいうのになるんやろ。血肉を食うてるようには見えへん。あれは神やで。神様系や。カスミ食うてるような奴や。つまり信仰によって維持されている奇跡の肉体や。
 俺も昔、ああいう感じやったような気がする。別に血肉を食らわんでも、祭壇の煙と、神官たちが持ってくる捧げ物なんかをちょっと摘んで、あとは人々の強い信仰によって生きていける。ぜんぜん平気。ノーブルで余裕。お上品やねん。
 そんなんやったのに。時代って変わる。
 今や、いにしえの都の川辺の王やった俺よりも、メディアの王のほうが信仰されてる。人は蛇よりも、ネットの噂やテレビのアナウンサーの声のほうを信仰してる。情報や。新聞が伝える、ラジオが伝える、友達の友達から聞いたという、そんな噂を信じてる。自分の目で見たわけでもないのに、それがほんまの事やと信じてる。
 それがあいつの力の源や。湊川怜司。
 そりゃあ品も良かろうよ。腹減らんのやから。貪欲さの欠片もないわ。飯食わんでも生きていける。モデル体型かて楽々維持できますよ。まあ、それを言うなら俺も太りはせえへんけどさ。それでもアキちゃん欲しいてハアハアするのは止められへんやんか。いつも空きっ腹ですよ。貪欲やねん。切ないんやんか。俺を愛してくれよって。
 まったく、むかつく奴が来た。
 あいつ、アキちゃんを愛してないらしい。アキちゃんのおとんに惚れているらしい。それも、アキちゃんのおとんがげきやからやない。アキちゃんがげきやから仲良うしてやったんやない。ただ気に入ったからや。人として。人間が人間に惚れるように、アキちゃんのおとんに惚れていた。しきやけど、それは上辺で、ただ好きやから付き合うてただけ。死ぬほど好きやも呪縛ではない。ただ好きなだけ。
 そんな自由でいてええもんか。俺や犬や水煙が、アキちゃん好きやでウンウン言うてんのに、お前はフリーセックスか。エッチすんの気持ちええなあ、って、そんな理由か。憎い。死ねばええのに湊川。あいつ上でも下でもええし、男でも女でもええらしい。何でも来いや。無節操やで。なんて恥ずかしい奴や。はしたない。
 こうなるともう、ワンワンのほうがマシに思えてくる。結局アキちゃんには抱いてもらえず振られたようや。やってへんねん、なぶられただけ。俺が藤堂さんとやってへんのと同じ。そんなん、やったうちに入らへんから。やってへん。なんでやってへんの俺。しゃあないそれは、オッサンが俺とはやりたないて言うてたんやから。
 やっといたら良かったわ。ヴィラ北野に到着した日、抱いてやろかて誘われた時に。俺はなんで拒んでもうたんやろ。
 あの時は確か、アキちゃんに悪いと思って、義理立てしたんやで。操を立ててやったんや。アキちゃん傷つくやろなて思って。
 だって嫌やって言うてた。自分以外と寝んといてくれってな。
 けど、そんなん俺も言うたで。言うてたやろ? 何遍も言うたわ。
 嬉しいわけない。俺のもんやと執着してる相手が、他のに食われんのは嫌や。アキちゃんは徹頭徹尾、俺のモン。俺のごはんで俺のおやつ。勝手に食うたら八つ裂きや。
 なんでお前は俺に操を立てへんねん。嫌やと思わへんかったんか。あいつとやるとき。
 まあ、しゃあない。男の子やから。ってもうたら前後不覚や。それは俺も分かるよ。俺も男やねんから。やりたいよ、ほんまの話。藤堂さんと!
 それで元鞘戻ろうなんて、そんなことは思ってない。ただの性欲。興味というか。腹いせや。
 俺はお前のためにオッサン食うのを我慢したんやでアキちゃん。ほんまやったら我慢なんかせえへんのやで、俺は。オッサンに飼われてる時にでも、平気で他のと寝とったで。しゃあない面もあったからやけど、それでも躊躇いはせえへんかった。愛してないのに、やっても虚しい。好きやと思うてる相手が居るのに、そいつには抱いてもらえず、こいつ食うとけって他のを買って寄越す。そんなあいつを恨みながらガツガツ食うたよ。
 でもな。我慢しようとは思わへんかった。俺はもともと、そんな真面目な蛇やないねん。二股三ツ股かけますよ。何股でもかける。
 アキちゃんと会う前、俺の携帯にいったい何人のパパや下僕が登録されていたことか。爺から若造まで。俺を崇めて跪く、犬畜生どもや。そいつらの蓄財を食い荒らし、時には血も啜り、飽きたらポイで踏みにじってきた。抱きたい言うたら抱かせてやったけど、基本俺は自分がければそれで良しやったしな。相手もくしてやるけども、それはあれやん。精を啜りたいからですよ。愛やないねん。牛みたいなもん。乳搾りたいから飼うてんのやろ。それと同じや。優しく搾ってやるよ。でもそれは、愛やないねん。牛乳飲みたいだけ。
 これ以上詳しく言うまい。え。もう言いすぎてるか。まあええか。
 とにかく、それですよ。食欲。俺の性欲は、食欲と非常に近い。食いたいねん、藤堂さん。美味そうやねん、あのオッサン。イケてるやろ。今でもイケてる。癌でしおしおやった時でもイケてた。それが今や吸血鬼ヴァンパイアで、いろいろみなぎってる。めちゃめちゃイケてる。めっちゃ食べ頃。いただきまぁすって食らいつきたい。それが本音や俺の。どうや参ったか。貞淑さなんか欠片もないで、亨ちゃんには。
 それが我慢してんのやないの。アキちゃん可哀想やわって思て。
 それを何やねん。てめえは浮気か。お前もどうしようもない奴や。俺の血やろう。アキちゃん前より我慢が効かないのよ。性欲むんむんしてるのよ。我慢強いから涼しい顔はしてみせるけども、内心のたうち回ってんのよ。
 だって俺を拒まへんようになった。
 前は三度に一度は拒んだよ。慎み深く。俺らはちょっとやりすぎや。夜やったんやったら朝はやめとこ。昼間はやめとこ、恥ずかしいからって、そんな事を頻繁に言うてたよ。
 それが今は朝となく昼となく、やりたい言うたら組んずほぐれつやった。我慢できへんのよ、アキちゃんも。俺が相手で、場所が出町の家でなら、我慢せなあかん理由もないしな。愛し合ってんねん。抱き合うて何が悪い。後ろめたい理由も、アキちゃんにはもうないわ。亨は男やないかなんて、そんなアホみたいな事も、もう言わへん。
 可哀想になあ、アキちゃん。犬食うの我慢して、つらかったんやろ。誰でもいいから食いたいぐらいやったんやろ。そんなん俺を食えば良かったよ。お前をめちゃめちゃ愛してる俺が、いつでもカモンみたいな気持ちでお待ちいたしておりますのに。なんでそっちにお預けで、ラジオ食うてんの。美味いか、ラジオ。蛇のほうが美味いって。絶対そうやって。
 でもアキちゃんな。あいつにも惚れてもうてるみたい。湊川怜司。またチーム秋津にメンバー増えた。せやのにアキちゃん好きすぎるチームには増員なしやで。それってどうなん? そんなんアリか!
 なんでそんな奴がええの。俺は悔しい。まだ水煙とエッチしてくれたほうがマシ。まだ理解できる。
 水煙が萌えるというのは、俺でもわかる。あいつお高く澄ましてるしな。抱いてひいひい言わせたったら気持ちええやろなあみたいなのが、アキちゃんの中にあるのは分かる。澄ました奴ほど乱れた時にすごかったりするからな。俺も澄ましとく? 無理無理、アホやからできへん。デッレデレしてまう。それは水煙様の担当や。
 実を言うたら俺もちょっと見たい。アキちゃんを相手にやるのは微妙すぎやけど、あいつがめちゃめちゃ悶えて喘ぐのを見物してやりたいわ。ええ気味やで。お前も俺と大差ない。淫乱な蛇やねん。どうせそうやでって、言うてやりたい。
 だって、それを認めりゃ幸せになれんのやで。せっかく穴無し治ったかもしれへんのに。誰かと新しい恋をしろ。ジュニアはもう諦めろ。俺のもんやしな。誰か他のに突っ込んでもらえ。絶対気持ちええから。スカッとするから。数千年来の欲求不満が晴れたら、お前もきっと、可愛いだけの蛇になれるから。
 怖いねんお前のキャラは。アキちゃんブルッてもうてたやんか。お前ちょっと邪悪系入ってる時あるねん。それが怖いのよ、アキちゃんには。せやから抱いてもらわれへんのよ。アキちゃんは基本、癒し系が好きなんやから。鳥さんとかそうやんか。ほわわぁん、みたいな。ふわぁ〜ん、みたいな。俺のどこに癒やされてんのか知らんけど。アホなところか。何言うとんねんマジ殺すぞ。まあ俺はいい。別格やから、アキちゃんにとって。
 とにかくな。何の話や。アキちゃんは基本、癒し系が好き。それかちょっと、守ってちょうだいみたいな、弱っちいやつが好き。ケツ可愛い奴が好き。色白い奴が好き。ノーブルな奴が好き。おかんに似てる奴が好き。それで全部なはずやで、アキちゃんの萌えツボは。顔綺麗は基本中の基本やから、敢えて言うまでもないしな。
 邪悪系は敬遠やねん。それは打たへんねん、アキちゃんは。ストライクゾーン外してる。イイ子にしてなあかんねん。鬼嫌い、邪悪系はあかん。善良なのが好きなんやから! 俺のことかて、悪魔サタンやのうて、イイ子なんやって思うてるから好きなんやで。あいつ信じとんねん、惚れた弱みの沸いた脳みそで。水地亨は優しい神様やって、本気で信じてる。有り難い話。それで俺も神様で、俺はそれを裏切ったらあかん。アキちゃんに、萎えられたら困るから。そんなことなったら死んでまうから、俺は。
 下手すりゃ嫌われてまうんやで、水煙。あんまり邪悪なこと言うてたら。
 瑞希ちゃんかて、悪い子しすぎてぶっ殺されてたんやんか。悪い鬼斬るザマス、言うてな。アキちゃん真面目なんやから。ふざけたらあかんのやで。斬られるで。
 ほんまに水煙も鬼みたいなところあるからなあ。必死やし。アキちゃんにそんなとこ見られたら、どないなってまうのか。あいつ惨めやでえ、アキちゃんに嫌われでもしたら。行くとこないやん。自分ではどっこも行かれへんのやし、行きたいとこかて無いんやもん。囲われモンやで。哀れなことこの上ない。
 まったくもう。むしゃくしゃするわ。
 水煙は俺の、恋敵やし。でも家族。もはや憎いと思えへん。あいつがアキちゃんに嫌われてもうて、鬼やし斬るわなんて事になったら、俺は複雑や。そら、しゃあないなあとも思うけど、でも何か、見たくはないな、それは。アキちゃんが水煙を、泣いて斬るところは。もう、見たくない。
 基本3Pでもええんと違う?
 あっちやったら平気やで俺は。サトリを開いた。瑞希ちゃんはお断りやけど。水煙やったら、混ぜてやってもええわ。何をどうすんのかはまだ考えてへんけど、あいつキスすんの好きらしいし、俺とやってるアキちゃんと、キスくらいならしてもいい。俺と一緒にアキちゃんの血吸うくらいなら、してもいい。ただし吸い過ぎには注意。二人がかりで必死やと、さすがにアキちゃんの健康を損なう怖れがあるからな。
 もう、そんな神のごとき寛大さで愛してやってる俺やのに、なんでアキちゃんは裏切るんや。許せへん。我が儘すぎる。おかんにチクったらなあかん。アキちゃん、ご神刀を踏みにじってる。俺のことも、虚仮こけにしてる。犬に至っては言うに及ばず。ボロ雑巾かなんかと思うてんのと違うか。あいつを振っておきながら、返す刀でラジオと寝てる。そら泣くで瑞希ちゃん。俺も泣きそうや。
 お仕置きしたらなあかん。あいつがギャフンと言うような。痛うて死にそうな目に、遭わせてやらんと気がすまへん。
 アキちゃんがこの世で最も恐れてることって、なに?
 一番痛い、痛点は。
 おかんか? でも、おかんは今ここには居らんしな。
 そんなら俺か。
 アキちゃん俺のこと、愛してるしな。他のと寝んといてくれって、悲壮な顔して頼んでた。もう、随分前のことに思えてくるけど、去年の年末に言うてたあれは、今でも有効か。俺が他のとよろしくやったら、アキちゃんは痛いんか。
 それにアキちゃんは俺が居らんようになったら、生きてられへん。そう言うてた。嘘やないと思う。本気みたいな顔で、嘘つける子やない。それに、嘘で惚気るような、器用な男やないわ。本心やと思う。少なくとも本気で言うてる。現実にそうか、それは分からんけどもや。あいつに俺が必要や。
 俺が居らんようになる。他のに寝取られると思うたら、心底ビビるはず。泣いて頼むはず。俺の足に縋って、行かんといてくれって、嘆くはず。
 今までそんな男はいくらでもいた。藤堂さんくらいや、知らん顔して俺を行かせて、探しもせえへんような鬼は。みんな泣いて縋ったし、俺が消えたら自殺までした。元々そういう悪魔やねんから、俺は。抱く者に強運と愉悦を与えるが、去り際にはそれを全部奪っていく。元の普通に戻るだけ。せやけど人はそれに普通は、耐えられへんのやで。
 アキちゃんは普通の男やないけど、藤堂さんみたいな鬼畜ではない。恋愛面では、まだまだ初心うぶなボンボンや。俺が居らんようになると思ったら焦る。反省せえ言うたら反省するはず。ごめんなさいて土下座するはず。
 それで留飲下げたろか。悔しいけども、俺は別れる気はない。あいつが好きやねん。ぎゃふんと言わせて、心底悔い改めてくれたら、それでええねん。
 まあ、男の子やしな。浮気すんのも甲斐性や。アキちゃんモテるしな、いい男なんやから、しゃあない面はある。美味そうな飯はみんな食いたがる。それを独り占めして食うから美味いねん。誰も見向きもせんようなのを、いくら一人でせしめたところで、美味くはないわ。皆が欲しいて涎垂らして、必死でのたうち回るようなのを、俺だけが食えるっていうのが、ええんやないか。
 変な話、俺は今回の件に不思議な満足感もある。くたばれアキちゃんと思うけど、でも、アキちゃんやっぱりモテんねんなあ、みたいな、嬉しい気もする。どうや、ええやろ俺の男は世界一。アキちゃんほんまにイケてんのやから。抱いてもらえて嬉しかったやろ、湊川怜司。アキちゃん上手いしな。力もいっぱいあるし、辛抱堪らんかったやろ。
 しかもそれが俺のモンやねん。配偶者ですから俺は。俺の嫁やからアキちゃんは。それとも夫? どっちでもええけど。
 とにかく、褒められたもんやないけど、ギャフン言うたら勘弁してやろ。もう悪い子したらあかんえ、って、おかんみたいに優しく、めって言うてやって、芯からビビらせといたろ。それで水に流したる。そんな俺は、めちゃめちゃ優しい神さんやろ?
 というのが、俺の言い訳やったかもしれへん。
 男ってずるいんやでえ、皆。信用したらあかん。
 お前が先に浮気したんや。俺はそれに報復しただけや。ほんの一回、味見だけ。藤堂さんといっぺんだけやらせて。俺の罪やない。アキちゃんが悪いねん。しょうがない。嫌やったけどやっといた。これもアキちゃんを懲らしめるため、自業自得や。教育的指導。
 まあ、そんな、ご都合よろしい話。今やったらアキちゃん、俺を怒れへんやろうっていう、打算もあったし、単純に腹立つ。お前がするなら俺もするわっていう、意地の張り合いのつもりでやった。
 うんうん。そうやねん。過去形やなあ。
 もうやってもうてん。やったもんはしゃあない。話聞く?
 聞くなあ。聞かへん訳ない。俺は相方と違て、これは避けようなんて寸止めせえへんしな。がっつり話すで。トイレ行っとかんで平気か。長い話かもしれへんで。お茶とかお菓子とか用意するんやったら、亨ちゃん、ちゃんと待っといたるで。
 迂闊やったわあ、後になって思えば。アキちゃんの意表を突く性格を、俺は見逃していた。あの子は天然やねん。いつも真面目やねんけど、ちょっとズレてて天然で、それが転じて人の裏をかく。俺が思うたとおりに行くわけがない。
 時はまた、少々過去に遡る。
 その朝目覚めると、俺はまだアキちゃんの腕の中にいた。
 戸を叩く音がして、目が醒めたんや。
 まだ素っ裸のままやった。眠ったような気がせえへんかった。時計を見たら、まだ朝の七時。非常識やわ。早朝やないか。普通まだ寝てる時間やないか。それ程やない?
 せやけどアポ無し訪問には、少々早い。
 アキちゃんは、まだ酔いが醒めてへんのか、ぐうすか寝てた。犬もフテ寝や。気づいてんのやろけど、来客なんて、俺が知るかという態度やった。
 そして水煙様は窓辺の車椅子に鎮座したまま。なんで俺が行かなあかん理由があんのやという、澄ました顔して俺を見ていた。
 なんで俺なん。全裸ですよ、俺は。服着てる人が行ってくれへんか。たとえ車椅子でも、もう動けるやろ。ちょっと仕事してくれよ水煙様。ドアぐらい開けられへんのか。
 無理か。ほんなら、しゃあない。
 俺はホテルのバスローブを取りに行き、それを素肌に纏っただけの格好で、辛抱強くドアの外に待っていた来客に、ドアを開けに行ってやった。
 眩しい奴が立っていた。信太や。ひとりやった。
 今日は今日とて、ショッキングピンクみたいなアロハを着ている。ピンクに極楽鳥花。ろうけつ染めらしい、太い白抜きで縁取られた花が、大胆な構図でババンと描いてある。
 めちゃめちゃ派手で、極彩色やけど、虎には良う似合うてた。眩しい眩しいてアキちゃん言うけど、確かに眩しいけどもや、でも似合うてんねんから、ええやん? 何を着ようと自由なのよ。着たいもん着ればええのよ。俺もアキちゃんの趣味なんか、これっぽっちも頓着してやらず、着たいもん着ることにしよう。今日も蝶々のアロハ着るから。しかも錦蛇パイソンのパンツ履くから。派手やから俺は。お前好みのイイ子服なんか着てやらへんから。ガラ悪う生きていくよ、今日は。
「お早う。悪いな朝から。真っ最中やった?」
 にこにこ笑って、虎は嫌みを言った。それが嫌みに聞こえるのは、俺の心の僻みやけどもな。
「真っ最中なわけあるか。お前んとこと一緒にすんな」
「なに怒ってんの、亨ちゃん。水煙様、借り受けに来たんや。竜太郎がまた元気出たらしいんで」
「なにやっとんねん、あのチビは。朝っぱらから元気やのう。まったく、宿題終わったんか……」
 ぶつぶつ言いつつ、俺は信太を部屋に引き入れた。
 ドアから見えるリビングの、正面の窓には車椅子に乗った、水煙様がいたけども、信太は一瞬、それが誰だか分からんようやった。
 そういやそうやった。水煙は例の、アキちゃんが描いた絵の姿のままやったんや。どうもこの線で行くことにしたらしい。もう、宇宙人には戻らへんのか。昨日変転してからというもの、ずっとこの姿のままやで。
 つまり、こいつも着替えの服が要るんや。
 見たとこ、俺と大層変わらん体格のような気がするけども、まさか俺の服は着たくないやろ。俺は別にかまへんけども、でも水煙は嫌やろ。少なくとも蝶々のアロハは着ない。そんな気がするな。どうせアキちゃん好みの服を着ようという魂胆や。そうに決まっている。
「水煙?」
 びっくりしたような真顔で、信太は車椅子の麗人に訊いていた。水煙はそれに、何も答えへんかった。ただじっと見上げるだけで、真顔のままニコリともせえへん。
 言うても意味ないと思ったんやろ。水煙はアキちゃん以外に興味がない。にっこりすんのはアキちゃんにだけで充分やと思うてる。
 それに、相手の本性が何かなんて、いちいち訊かんでも分かる。信太も盲目やない。見れば分かるわ、それが水煙やということは。
「もう日数がない。今日明日が勝負やな」
 虎を見上げて、水煙はぽつりと確信めいた口調やった。
「蔦子さんは何で、自分では予知しようとしないんやろうか。竜太郎には荷が重いんやないか。ずいぶん参ってるようやけど、このまま続けて大丈夫なんか、うちでは皆、心配しとうわ」
 虎は黒い革パンのポケットに手を突っ込んで、いかにも嘆かわしそうにそう言うた。暑くないんか、お前。まだまだ残暑厳しいのに、そんんもん履いて。
 しかしこの虎は、暑さ寒さを実はほとんど感じてへんらしい。そうやなかったら、燃えてる不死鳥抱かれへんしな。普通の人間とは違うんや。
「蔦子がやっても、危ないことには変わりない。今回やってる事は、ただの予知やない。未来を選択しようしてんのや」
「選択」
 びっくりしたように、信太は答えてた。つまりこいつは、自分のご主人様がどういう仕事をしてんのか、ようは知らんかった。占い師やと思うてた。未来を予知する巫女で、それが全部やと思うてたんやな。
 蔦子さんは、そう度々は、未来を作り替えようなんて、せえへん人や。ひとつ変えたらその余波が、あっちこっちに及ぶ。それがどういう意味を持ってんのか、よう知ってる人や。
 死ぬ運命の誰かを助けるということは、別の誰かを殺すということや。往々にして、そういうもんらしい。誰が死ぬかを変えることはできても、結局、誰かが死ぬことには変わりない。神ならぬ人の身で、誰が死ぬかを選ぶというのは、しんどいことや。ある人を救えても、身代わりに死んだ人を殺したのは自分やという、自責の念の責め苦を味わう。
 蔦子さんは、アキちゃんのおとんの戦死を予知した。それを変えたいと思った。でも、変えられへんかった。暁彦様は、気にするなと許嫁を励まして、再び帰らぬ航海に旅立っていったわけや。その時に、俺も戦う、お前も戦えと、蔦子さんを励ましていった。
 それは、自分の持ってる力で、お前もこの島国の、三都の人らを守ってやれという、そういう意味やで。蔦子さんはそれで、頑張ったらしい。
 でかい新型爆弾が、日本に落とされるのを予知した。どえらい悪魔みたいな新兵器やった。空襲も、バカスカあったしな。蔦子さんはそういうのんが、京都に落ちるのを予知して、その未来をねじ曲げた。結果、よそが燃えた。結局、誰かが死ぬことには変わりないんや。
 未来に手出せへんかったら、蔦子さんにとって、それは悲しくても、自分には責任のない厄災やった。敵の攻撃や。自分のせいではないわ。
 そやのに未来の行く先を変え、飛んでくる爆弾の攻撃目標を自分が逸らしたんやから、蔦子さんの自責の念は深い。その厄災がどんなもんやったか、皆も知っているかもしれへんけども、蔦子さんはそれが実現する前から知っていた。
 人を逃がさなあかんて、蔦子さんは偉いおっちゃんらに掛け合うたけど、鬼道の小娘が何言うとんねんて、相手にしてもらわれへんかったんやって。大和魂があれば、爆弾なんか避けていく。そういう信仰が、当時はあったんや。しかし残念ながらこの時は、大和魂だけやと、あかんかったな。
 その後、予知した悲惨な現実が、ほんまに現実になるのを眺め、蔦子さんはくたびれた。未来なんか視たくないって、まあ思うわな。そこに、暁彦様戦死の報もあり、すっかりへこたれてもうたんやって。がっくり来すぎて、三年寝太郎。それを、アキちゃんのおかんが看病してやったらしい。自分の血をやって、従妹の姉ちゃん養ってやった。
 だからあの二人は、親友らしいで。恋敵やけど、蔦子さんにはおかんは命の恩人で、可愛い幼馴染みでもある。おかんはお兄ちゃん好きやったけど、その許嫁やった蔦子さんのことも好きやった。優しい従妹のお姉ちゃんやった。そやから助けたんや。それに
深い意味はない。子供のころから一緒に遊んだ、ありきたりの絆があるだけで。
 しかし蔦子さんはそれを恩に着ている。今さらもう、アキちゃんのおとんに手を出そうとは思うてへんわ。今でも好きは好きなんやろうけど、あれは登与ちゃんのもんやと思うてる。
 せやから自分には、違う未来を選択した。アキちゃんのお嫁さんになる未来を捨てて、もっと別の、また違う幸せを探そうとした。幸せに至る道は、ひとつではない。未来にはいくつもの可能性がある。諦めたら負けやって、気の弱い逃げ腰なりに、歯を食いしばって頑張ってはったんやろな。あの人にはあの人の、プライドがあるわ。自分も秋津家の巫女として、成すべき事を成す。惨めな負け犬にはならへんでって、幸せ探して生きてきたんやろ。
「蔦子は不幸を視る傾向がある。破滅と幸運と、ふたつの道がある時に、なぜか破滅を引き寄せる相の女や。それはもう、仕方のないことや。天性のもんやからな」
 信太を見上げて、水煙は真顔で話した。どことなく鳥さんに似たとこもある面差しやけど、実は全然似ていない。ほわぁん、みたいな所が全くと言っていいほどに無い。厳しい暗い目や。底知れぬ闇を見つめてるような。
「蔦子にとって最良の選択は、自分の力を使わないことやろう。不幸な未来を引き寄せて視るくらいやったら、いっそ盲目でいるほうがいい。誰か他のが、もっとマシな未来を視るかもしれへんのやからな。何を視ようが押し黙り、自分の中に抱えた秘密にしておくほうがええわ」
「蔦子さんは、俺がなまずに食われる未来を視たと言うてた」
 信太はにこりともしない真顔で答え、水煙に話してた。
「その未来は、どうあっても視えるらしい。十年前から視えてるけども、前にはそれを拒んだ。それでもまだ視える。きっと避けがたい運命なんやろうと」
 それは、覚悟を決めて見つめてるような目ではあったけど、暗くはあった。そらそうやろう。死にたくはないわ。可愛い不死鳥かて、やっと変転したばかり。まだまだ雛やって心配やろうし、なにより一度掴んだ幸せを、あっさり手放せる奴はおらへん。
「未来はまだ確定していない。うちのぼんはお前やのうて、おぼろを生け贄に出すつもりでおるわ」
「怜司を?」
 どこか気味良さそうに言う水煙の話に、信太は初めて顔をしかめた。
「なんでそんなことになっとうのや。そんな話、俺は聞いてない。蔦子さんはなんも言うてへんかった」
「蔦子はまだ知らんのやろう。予知者でも未来を全て知っているわけやない」
「なんで怜司が生け贄なんて。そんなこと承知するような奴やない」
 拒む口調で訊ね、信太はイライラすんのか、訳もなく部屋のあちこちを睨むような目で見た。それが何や、檻の中でうろうろしてる、囚われた虎みたいやった。
昨夜ゆうべ、アキちゃんと寝たんや。それでしきになったんやろう。もしもそうなら、なまずに食われろと命令されたら、さしものあいつも逆らいはせんやろ。性悪でも、式は式やから……」
 水煙は湊川怜司が嫌いらしい。気が合うなあ。俺も嫌いや、あいつは。俺からアキちゃん寝取ろうやなんて。逝ってよし。
「どういうことやねん。本間先生は、どういう了見なんや。蔦子さんは俺を、生け贄にやると言うとうのやで。それを選りに選って別の、蔦子さんの式を、なんの断りもなく手込めにしてやで。いくら本家のぼんや言うても無礼やないか。それで礼節をわきまえてると言えるんか」
 ぎゃあぎゃあ言うてる信太は、俺や水煙とは気が合わんようやった。ラジオ好きらしい。そういやこいつ、ロビーでラジオとディープキスしとったしな。まんざらでもないようやった。不実な虎やで。鳥さんにデレデレしとるくせにや、他の鳥もええなあ、みたいな。そんな信用ならん奴やったんやで。
「知ったことかやで。分家のもんは本家のもんや。お前はそのお陰で命拾いすることになるんや。素直に喜んだらええやないか」
「俺は怜司には、借りがあるんや。昔、いろいろあって荒れとう時に、あいつには世話んなった。その上、身代わりに死んでくれでは、俺の男としての面子が立たん」
 お堅いなあ、信太。案外真面目や。死なんでええんやラッキーみたいに思えばええのに。俺やったらそう思うけどなあ。
「それに、あいつ……やっぱり本間先生に惚れとったんか。そうやないかと思ったわ」
 それが痛恨の極みというふうに、信太はぼやいた。
 何で、ぼやくの。
 お前にとってそれに、どんな痛さがあんの。
「そっくりらしいな、本間先生は。暁彦様に」
「生き写しや」
 憎そうに訊ねている信太に、水煙はさらりと答えてやっていた。せやけどその目はどことなく、横目に逃げる流し目で、水煙は誰からも目を逸らしてた。気まずいんやろう。自分もアキちゃんがおとんにそっくりなのに萌えている。その件について、ちょっとばかし後ろめたいんやろう。
「あいつな……めちゃめちゃえとな、いくとき暁彦様って呼びよるねんで」
 いきなりな話に、俺もブッて吹いてた。水煙は、むかっとしたんか、ものすご怒った顔をして、虎を睨んだ。
「なんの話や、そんなん誰も聞いてへんやないか」
「惚れとうのや。後悔しとんねん、ずっと前から。暁彦様といっしょに死んどいたらよかったなあって、あいつは腹の底では思うとんねん。可愛げないから、口を開けば憎まれ口ばっかりやけどな、死のうか生きようかフラフラしとんねん。それでも何とか生きとうのやで。殺さんといてやってくれ」
「ちょっと待って信太。お前の本命は鳥さんなんやんな?」
 口挟んでゴメンやで。でも一応、確認させて。大事なところやから。
 信太はそう言う俺を振り向いて、苦しいような顔をした。
「そうや。そうやけど。俺はあいつにマジで惚れとったこともあるねん。今はもう寛太一筋やけどな、それでも、怜司が死んでもええわとは思わへんわ」
 二股ちゃうの、それ。二股に分かれてない?
 ほんまにお前といい、アキちゃんといい、一体なんぼ枝分かれしたら気がすむんや。八岐大蛇やまたのおろちやあるまいし、アキちゃんいったい、頭何個あんの。俺のことで一杯なってるメインの頭の他に、水煙様とか瑞希ちゃんとか、神楽遥とか鳥さんとかやな、他ので一杯になってる大小の頭がたくさん枝分かれしちゃってない?
 まさか虎まで、そんなんとはな。聞いたことない。双頭の虎なんて。そういう無節操なのはウロコ系の得意技やと思うてた。水煙かて、おとんと息子に二股やしな。もしかしたら、そのジジイとか、さらにその父とかにも、俺が知らんところで枝分かれしてんのかもやで。
「可哀想やで、怜司。ちょっと本間先生、どこに居てはんの。話させてくれ」
 奥のベッドに居るんやろうっていう気配がすんのか、信太はずかずか部屋の奥まで入って行こうとした。
 ああ、あかん、行ったらあかん。アキちゃんまだ酔うてんのかもしれへんで。お前のその枝分かれしてる頭が好きらしい、怜司ちゃんと、つい何時間か前まで組んずほぐれつやっとったんや。それで何発抜いてきたのか、すっかり満足してもうて寝てんねん。殺していいけど、俺より先に殺さんといてくれ。
「先生、寝てる場合やないですよ。起きて。起きてください」
 わめいてる虎の声がして、水煙は、うんざりみたいに俺を見上げた。でもそれは、車椅子押してくれという意味やった。放置でけへんらしい。放っときゃええのに。アキちゃんなんか、どないなってもええやん。虎に食われてまえ。
 でもまあ、知らん顔はできへんわな。
 しゃあないから俺は、水煙の車椅子を押してやり、まだ昨日のルームサービスのワゴンが残ったままになっている、新婚さん仕様の天蓋付きベッドのほうへ行った。
 そしたら信太、がっつりアキちゃんに馬乗りなってた。ほんで、ほっぺたバシバシ叩いてた。そうでもせんと起きへんかったんやろうけど。アキちゃん熟睡型やから。
 世にも珍しい朝寝坊のアキちゃんは、虎にシバかれて、うううん、て、いかにも眠そうに呻いてた。
「先生。起きてくださいったら。怜司とやったんか。たらし込んで生け贄にするなんて、やめといてください。あいつは待ってるんや。暁彦様が帰ってくんのを」
 寝てるアキちゃんの耳に、信太は遠慮なく、そのセンチメンタルな話をしていた。アキちゃんはそれに、うんうん唸ってた。それでも起きへんなんて。こんな寝起きの悪い男やとは知らんかった。
「先生が暁彦様に似とうから、妥協しそうになっとうだけなんや。先生がモテてる訳やないんです。勘違いしたらあかんのですよ」
 信太はめっちゃ酷いことを平気で言うてた。そうか。アキちゃんまた、おとんの身代わりモテか。格好ええもんなあ、おとん。俺も思いだしただけで、何やモジモジしてくるわ。
「妥協したらあかんねん。せっかく生き延びてんのやから。あいつも幸せにならなあかんのです、先生。どうせ抱くんやったら幸せにしてやってください。聞いてんのか先生?」
 アキちゃんは信太に両肩を掴まれて、ゆっさゆさ揺さぶられていた。酔うんやないかと思うぐらいやった。なんせ船酔いする子やからな。
 さすがにその騒ぎには、フテ寝の瑞希ちゃんもお目覚めになっていた。起きたら虎がアキちゃん襲ってて、ビビったみたいやった。
 それでも信太に害意がないのは分かるんか、険しい顔はしたものの、ただ睨むだけで、ベッドに半身を起こした格好のまま、軽く唖然としているだけや。虎はふと気づいたように、布団から裸の上半身出てる美少年をじっと見た。
「あれ。なに。先生。乱交明けです?」
 それが普通みたいに言うなやで、信太。そんなん、うちではせえへんのやで。少なくとも、一昨日まではな。
「ほんなら、なおさら一緒やないか。この際、一人増えようが二人増えようが同じですよ。先生んとこで飼うてやってください。あいつ我が儘は言わん奴やしな、見かけよりずっと、ええ奴なんです。優しいで。フェラ上手いしな。イクとき可愛かったやろ?」
 何の話してんのや信太。勢い余って、えっらい話になってるで。瑞希ちゃん、わなわな来てるで。俺も若干来てるけどやな、今はむしろ、犬がぶっ殺すモード入ったらどっちに加勢しようかなって、決めかねていて、それどころではない。
「先生、俺があいつの性感帯教えてやるから、幸せにしてやって」
 信太はどうも真剣に言うてるらしい。アキちゃんはそれに、うわあって言うてた。やっと気がついたらしい。誰に乗っかられているか。
 それで、めちゃめちゃ逃げていた。目醒めたら虎が乗ってた。それだけやない驚き方やった。まるで今から犯されるみたいな逃げ方や。
「あれ……先生。もしかして、下やったですか? 突っ込まれちゃった?」
 聞き捨てならへん話やった。瑞希ちゃん、可哀想にな、ドン引きしてるわ。声もなく、険しい驚いた顔になっていた。俺はもう、驚こうという気がせえへんかった。水煙は、聞いてないふりしてた。情けないんか、泣いてるようなため息やった。
「突っ込まれてへん! なんの話や!」
 なんの話か分かってるっぽいのに、アキちゃんはとぼけてた。そして、ベッドのヘッドボードに背がつくくらい、虎から逃げてた。よかったなあ、全裸やのうて。裸やったら、虎にオールヌード見られてた。でも、服着たままやったんや。脱ぐ間もなく寝てもうてたから。
「そうやろなあ。あいつ、暁彦様には突っ込んでへんらしいから。あいつは下のほうが可愛いですよね。俺はそういう趣味なんやけど。まあどっちでもええんやけどな、それは先生んとこの趣向しだいで……ここの面子からして、先生ひとりやと大変やろから、あいつは上でもええやろうけど」
「何の話してんのや! 何でお前がここに居るねん!?」
 アキちゃんめっちゃ絶叫してたわ。めくるめく何かが頭をよぎったんかな?
「水煙借りにきたんです」
「貸さへん! なんでお前に貸さなあかんねん!」
「先生、テンパってません? 竜太郎に貸すんやで。ほら、予知の介助に……」
 虎に言われてアキちゃんは、やっと我に返ってきたらしかった。ええと何やったっけみたいな目で、きょろきょろ不安そうにシーツの上を視線で舐めて、それから俺と水煙を眺め、くらくらしたような二日酔いの顔になり、また虎を見た。
「予知」
「そうや。竜太郎がまた借りたいそうです。俺は遣いです。心配せんでも水煙は俺のタイプやないから。どっちか言うたら亨ちゃんのほうが?」
 そうなんや。ありがとう虎。俺に一票入れてくれて。仲良うしよか。今、お前でもええからやりたいわ。お腹ぺっこぺこやから。
「貸さへん!!」
 アキちゃんはますます、玩具おもちゃせしめる駄々っ子みたいに、必死で言うてた。やっぱりそうやんな。アキちゃんは、自分のもんやと思うてる奴を、他のに触らせとうないねん。水煙も、俺も、勝呂瑞希も、もしかしたら新しいラジオもそうや。俺のもんやと思うたら、誰にも貸さへん。
「いやいや、平気ですって先生。俺はもう寛太に根こそぎ搾り取られてもうて、一滴も出えへんみたいな、バリ気の毒な虎やから」
 そんな惚気も挟みつつ、アホ丸出しの虎は、それでも真面目にアキちゃんに言うてた。
「竜太郎がなあ、先生のこと好きみたいやねん。モテるんやなあ、先生。怜司も案外、先生にやったら本気になれるかもしれへん。だって先生、お父さんにそっくりなんでしょ? それに、今この近辺に居るやつで、あいつにイクとき暁彦様って鳴かれて、平気で萌えられんのって、先生くらいやないです? 俺は正直、あれには萎えるんです。悲しなってくるやんか……」
 ほんまに悲しい顔をして、虎は話し、ベッドに膝で立ったまま、アキちゃんに小さく頭を垂れていた。
「でもな、先生やったら、何とかなるかも。何と言うてもげきやしな、あいつも先生んとこで、生きる目的見つけられるかもしれへん。生け贄になんかせんと、気長に付き合うてやってくれませんか。あいつが暁彦様忘れて、新しい恋ができるようになるまで」
「……なんで俺がお前に、そんなこと頼まれなあかんのや」
 アキちゃんは呆れたみたいに、そう信太に訊いた。
「え。だって一応、元彼やから?」
「元彼なんか?」
「そうですよ?」
 知らんかったんかって、信太はそんな口調やった。てめえ鳥さんの前では、あいつは友達やみたいな事言うとったくせに。やっぱりデキとったんやないか。
「まあ……そうは言うても、マジ惚れしとったんは俺だけやったけどな。振ったつもりが、振られたんか。捨てんといてくれみいな話、いっぺんも無いです」
 苦笑の顔になって虎は言い、それでも今度ははっきりと分かるぐらいに、アキちゃんに頭を下げた。
「殺さんといてください。今はもう、赤の他人やけど、俺の代わりにあいつが死ぬなんて、そんなん耐えられんのや。殺るんやったら、俺にしといてください、先生」
 鳥さんどないすんねん、この虎め。あんなに好きや好きやのくせに。今の恋人のために、前のラジオはすっぱり諦めろ。それも甲斐性やで信太。どっちもにええ格好はでけへんのやで。鳥さん泣いてもええのか。
 アキちゃんも、そう思ってんのか、呆れたままの難しい顔をして、信太を見ていた。
「頭なんか下げんでも、生け贄にはせえへん。信太、お前も、湊川も……お前もやで、瑞希」
 ふと横にいる犬に、アキちゃんは目を向けて、そう言うた。それと見つめ合い、犬は不安げな戸惑い顔やった。
「誰か他のが見つかったんですか……?」
「そうや。見つかった。せやから心配せんでええねん」
 二日酔いで頭痛いみたいに、アキちゃんは項垂れて、眉間を揉んでいた。
「それでも、居ていいんですか、先輩のところに」
 生け贄にするから、連れてきた犬で、そうやないなら追い出されんのかと、瑞希ちゃんは心配したらしい。アキちゃんはまだ目を揉みながら、笑っていた。
「居てええよ。何やったらこれから首輪買いにいくか」
 犬にそう言うてやってる、アキちゃんのその声が、えらい優しい気がして、俺はカチンと来てた。アキちゃん、ほんまに、誰にでも優しいんやなあ。
「買い物、行こうか……。水煙の、服も要るんやし。お前も街行って、好きなん買えばええよ。車出すしな」
 そんなんしてもええ程度には、酒抜けてんのやろか。飲酒運転で捕まるで、アキちゃん。
 やれやれと、頭振ってる顔でベッドから這い降りてきて、アキちゃんは虎と見合った。
「水煙は、次いつ戻してくれるんや」
「分かりませんけど、夜にはいったん、お返しします。竜太郎も夜は寝なあかん。まだ参ってるようやしな、夜までにするという約束で、また潜るんや」
 つまり、時間の流れに逆らって潜るということらしいわ。未来へ向かって泳ぐ。
 それをずっと、あのチビは、何度も試みてるんやろうけど、なんで何にも言うて来ないんやろうか。水煙も、それについては黙りやしな。たぶん、成果がないんやろう。水煙は、難しい顔をしていた。
「寝てる場合やないと思うけどな……」
 冷たく言うてる水煙の、車椅子のところまで来て、アキちゃんは急に、水煙の頬を撫でた。俺はそれに、びっくりした。
 でも、一番ビビってたんは、水煙やないかと思うわ。頬にアキちゃんの指を触れさせたまま、ぎょっとしたように見上げ、ぼんやり見てる目と、混乱したふうに見つめ合っていた。
 アキちゃんの目は、上手いこと描けた自分の絵を見てる、絵師の目やった。もしくは愛しいものを見る、優しい恋人みたいな目やった。
 それに俺の胸は、相当に痛んだ。アキちゃんがそんな目で水煙を見るなんて、今までにない事やったし、少なくとも俺は見たことがない。そんな目で見るな。それは俺にしか、向けたことない目のはずや。
「竜太郎に、無理させたらあかんのやで、水煙。未来なんて、慌てて視んでも、どうせすぐ来るんやから。そん時、びっくりすりゃええやん」
 投げ遣りみたいな事を言うてんのやけど、アキちゃんはすごく、落ち着いて見えた。何かから、解放されたみたいやった。
 いつも難しい顔をして、苦しそうに悩んでる子やったのに、アキちゃんは何か、憑き物が落ちたみたいに、すっきりした顔をしてた。半徹明けで、二日酔いでも、今までにないくらい、充実してる顔やったわ。
「備えるためや、アキちゃん……竜太郎の予知は、ただ未来を知るためのもんやない。有利な未来を選択するためにやってるんや」
「そうか……ほな、程ほどにな。お前にも、竜太郎にも、何かあったら俺は嫌やしな。無理はせんといてくれ。予知ができへんかっても、なるようになるさ」
 風呂行くみたいな気配をさせつつ、アキちゃんは淡く笑って、そう言うた。
 なるようになるさケ・セラ・セラか。まるで、藤堂さんみたいやな。
 アキちゃん、偶然やのうて、ほんま言うたらそのことを、意識してたかもしれへん。ふっと思い出して、可笑しいなあと思ったらしい。なんや、まるで、藤堂さんみたいなことを自分は言うてる。パクってんのかなあ、って、思ったらしい。
 でも、それは結局、真理やねん。悩んでも、頑張っても、なるようにしかならへん。未来をどんだけ予知できたかて、その次の瞬間に起きることは、結局わからへんままや。下手に知るより、ぜんぜん知らん、行き当たりばったりのほうが、ええこともある。
「そうや……水煙。お前、どんな服着たいんや?」
 ふと思いついたように、アキちゃんはバスルームに行く途中で、こっちを振り向いた。
 訊かれてるとは気づいてるんやろうけど、水煙様は黙ってた。かすかに息を飲むような、困惑してる沈黙で。
 それでもアキちゃんは返事を待ってて、水煙は焦ってきたらしい。しばらく困り続けてから、絞り出すような声で答えた。
「わからへん、そんなん。何でもええわ」
「ほな、俺が適当に選んでもええか?」
 優しく訊いてるアキちゃんに、水煙は照れてるんか、それを押し隠したいような険しい顔してうつむいて、好きにせえと、無言で小さく頷いていた。
 どんなんがええかなあと、考えるような顔をして、アキちゃんはふらっとバスルームに入っていった。
 すぐにシャワーを使う音が聞こえた。風呂入ってるらしいわ。出かける気やなと、俺は思った。アキちゃんはいつも、お出かけ前にはシャワー。何かっつうとシャワー。とにかく水浴び。お湯やけど。
 気分を変えたい時に、水浴びてるらしい。もしくは、俺と寝る前に、必ず水を浴びてくる。
 たぶん、げきの本能やろう。みそぎをしてる。俺も一応神様やからな。それに触れようという時には、身のけがれくらい祓っておかんと不作法やって、アキちゃんは思うらしいよ。おかんの躾やないか。無意識にそれが、染み付いている。
 そんなことには、俺は正直、こだわらへんのやけど。どこぞの偉い大明神ではない。アキちゃんが俺に触れるのに、みそぎが要るとは思わへん。
 そんなん気にせず、抱きしめて。俺にも何か、言うてくれても良かったんやないのか。犬や水煙様には、優しく声かけてやったのに、俺は無視やで。悪気はないのかもしれへんけど。気がつくともう、あいつには何回笑いかけてやったのに、俺には少ないって、数えてもうてる。
 俺だけのモンやったのに。思い返すと、切ないわ。
「ほな借りていくで、水煙様」
 しれっと車椅子に寄ってきて、信太はそのハンドルに手を触れた。
「お前はおぼろとデキとったんか。汚らわしいわ」
 つんと顔を背けて、水煙は信太に言うたけど、虎は笑っていた。
「心配いらんで、水煙。向こうもお前が嫌いらしいから。気ぃつけろよ。ひとつ屋根の下なんてことになったら、エグい仕返しされるで」
 面白そうに言う信太に、水煙はぴくりと目蓋を震わせ、伏し目になった。
「それこそ心配いらん。アキちゃんが、守ってくれる」
 真顔で言うてる水煙の、縋り付くような信じてる目を見てもうて、俺は内心、ドギマギしていた。
 ええ。そんなアホな。戦わへんのか、水煙様は。武器のくせしてアキちゃんに、守ってもらうんか。
 あは、と呆れたのか、びっくりしたような短い笑い声を、信太が漏らした。
「可愛いな、案外。そら、怜司が負けるわけやわ。あいつはほんまに可愛ないからな。口は悪いし、言いたい放題ずけずけ言いやがるしな」
「そんな奴のどこがええんや」
 不愉快そうに、暗い目をする水煙の顔をわざわざ覗き込んで、信太は教えてやっていた。
「自由やねん」
 笑って言われたその答えに、水煙はますますムッとしたようやった。
「軽いんや、あいつは。どんな我が儘でも許すし、浮気しようが怒らへん。ひとりで生きていけるしな、守ってくれなんて言わへんで。守ってやるとも恩着せへん。それが気楽やねん。お前みたいなのと違うてな」
 にやにや軽薄そうに、信太は教えていたけど、言うてることには何か、本気の愛が滲み出ていた。
「まあ、それが嫌なわけやけど。手応えなくてな。でも、ほんまにこっちがしんどい時には、ラクでええねん。暁彦様も、ラクやったんと違う? 案外、秋津の大恩人かもしれへんで。お前ら見てたら、怖いもん。必死やし。癒し系がおらん」
「俺が癒し系や」
 聞き捨てならん信太の説に、俺はすぐ異論を唱えたよ。
 そうやろ。亨ちゃん、アキちゃんのこと、めちゃめちゃ癒やしてやってるよ。それに言わせてもらえばやな、アキちゃんの我が儘かて、めっちゃ許してやってるよ。浮気したら、怒るけど、でも結局は許してやってるやないか?
 それで気楽やなかったら、どんなんが気楽やねん。いくらボンボンや言うたかて、アキちゃん我が儘にも程がある。
「癒し系かなあ? 絶叫系やのうて?」
 俺はテーマパークのアトラクションか。でも信太は真面目に言うてた。
「うちで蛇なって暴れたときの亨ちゃん、最高にホラー系やったで。ちょっとキスしたくらいでな、どこに相方ぶっ殺す癒し系がおるねん?」
 そんなこと、ありましたっけねえ?
 俺、自分に都合の悪いことは、さっさと忘れる主義やから。憶えてへんなあ。
 確か、まだ天使やった頃の勝呂瑞希と、アキちゃんがこっそりキスしかけてたという話を聞いて、ブチキレてもうてん。ほんで変転して暴れてん。アキちゃんぶっ殺すモードやってん。でもな、しゃあない。だって、ムカついたんだもん。えへっ。
「怜司はそんなん怒らへんで。俺が寛太好きやて言うたときにも、ええ子やなあて言うてただけや。そんな浮気が本気になってもうたんや。面目次第もございませんけども、それでも、怒られへんかった。幸せなってよかったなあて言われただけやで。軽い軽い……まるで何事もなかったようや」
 そんなん愛やない。お前は愛されてへんかったんや。それが結論や信太。
「あいつは俺を、好きやなかったんかな。どうでもええわって思われてたんかもしれへん。でも、なんでそんな奴が、代わりに死んでくれんの?」
「よっぽどアキちゃんにほだされたんやろ。たらし込まれて前後不覚や」
 どんだけジュニアが好きやねん。水煙は、つんと澄まして、いかにもそれが当然のように言うてた。虎はそれを聞いて、にやにや笑っていたわ。
「それはない。あいつに限って」
 何をそんな自信を持って言うてんのや信太。
「あいつは俺に惚れてたはずや。代わりに死んでやってもええわという程度には。まあな。暁彦様の後追い自殺にちょうどええ口実なんかもしれへんけども、そんなんさせへん。それが嫌やと思う程度には、俺も惚れてたんやで、亨ちゃん。真っ向から否定せえへんと、お前らちょっと怜司に学んでみたら? 癒しの極意みたいなのを」
 そんなもんが、あのラジオにあると思われへん。
 ていうか信太。てめえは何を惚気とんのや。許せへん。
「寛太好きやはどないなってん、虎」
 俺は、お前を見下げ果てたというニュアンスを眼力を籠めて、信太をジトッと見つめてやった。それを信太は、なんでかちょっと可愛いというように、細めた目で振り返って見た。鳥さん見るような、ドロッドロに溶けた熱いバターではないけども、やや溶けてる。常温放置で三時間後くらいか。
「好きやで、寛太。あいつは俺の理想にめちゃめちゃ近い。ほぼ完璧や。でも気がついてみたらな、怜司がこんなんやったらええのにっていう、そんなご都合のいい改造モンみたいな感じやわ。そんなモンにハマってもうて、恥ずかしいけども、運命的な相手やと思うてる。あいつは俺の不死鳥で、そんな寛太に夢中になられへんかったら、俺の相手はどこを探しても見つからんやろ。感謝してるで、亨ちゃん」
 ではひざまずけ。ひれ伏して感謝せえ虎。
 ふん。別にええけど。どうせ俺は恋のキューピッドさんや。他人ばっかし幸せにしてやって、自分はツレに浮気されまくり。それでも皆さんがお幸せなんやったら俺も幸せです。そんな犠牲的精神に溢れた、じつに有り難い蛇なんです。
 って、そんなわけあるかい。むかつくわ!
 なんやねんラジオ。モテモテか。虎にもモテモテか。そのうえアキちゃんまで食らうのか。どんな妖怪や! きっと悪魔サタンに違いない。神楽遥に退治させよう。それか絶対、なまずに食わせよう。
 あいつしかありえへんやないか。信太が死ぬのは論外やないか。今ちょっと俺は、お前も逝ってよしと虎が憎いが、それでも寛太が可哀想やからな。ほんまに死ねとは思うてない。ラジオが逝けばよし。
「言うといて。本間先生に。怜司殺したら、虎が永遠に恨むって。力ずくでも俺が生け贄行くから」
「死ぬ気まんまんやな虎」
 ほんまに呆れ果てて、俺は虎を見た。それに信太は笑っていた。
「まんまんやで。もう覚悟は決めてある。ほんまはな、亨ちゃん。それは十年前にもう起きてるはずのことやったんや。前の地震の時にな。それとも……もっともっと前に、俺は死んどかんとあかん虎やったんかもしれへんわ。城を守護する霊獣やったしな。それに、民を守護する霊獣でもあった。守って死んでりゃ、遠いあの世に逝ってもうても、今もどこかで有り難く、神様やって、御霊みたまを拝んでもらってたやろう」
「今も神やん、お前。虎虎タイガースの」
 熱気みなぎる甲子園球場の、あたかも神殿のような霊気を思い返しつつ、俺は教えてやった。あれが信太の神殿なんやったら、この虎もカスミ食うてる神みたいなもんや。それで死ぬのが怖くないんと違う? 穢れてへんから。
 そやけど焼き肉食うてんのやったけ。パスタも食うてたしな。ほんなら穢れまくりやな。そらまあ、このエロくさい虎が、穢れていない訳はない。そんならお前かて、俺とおんなじ煩悩まみれや。卑しい外道やねん。死ぬのは怖いはず。
「その虎でも、ええご身分やと思うてるけどな。でも亨ちゃん。俺はもっと、イケてる虎やった。ほんまに人は俺にひれ伏した。朝な夕なに祭祀して、平身低頭、叩頭礼こうとうれいや。もう、大昔の話やけどな。でも、そこで俺はタダ飯を食ってきた。それのツケを払う時が、とうとう来たんや」
 大昔言うほど前やないやんか。確か信太は、元は紫禁城の虎やったと言うてた。たぶん、映画の『ラスト・エンペラー』とかの時代やで。主役の俳優ジョン・ローン、めちゃめちゃエロ格好良かった。抱かれたい。巻き付きたい。せめてキスくらいはしたい。
 それはええけど、となかくそれは、二十世紀半ば頃の話や。アキちゃんのおとんが死んだ、前のいくさの前までは、中国には皇帝がほんまに居って、その居城である紫禁城は現役の王城やった。この虎は、そこで飼われている霊獣やったわけやから、昔やいうても、まだ百年経ってへん。
 そんなん、ちょい前、ぐらいですよ。百年一昔なんやから、俺にとっては。右見て左見たらもう百年過ぎてるのよ。あれえ、おかしいなあ。みたいな感じよ。生まれた人間があっというまに成長し、ジジイになって死ぬ。そういう感じ。食べ頃やなあと思ってた桃が、うっかり放置してもうて、気がついた時には腐ってる。そういう感じよ。俺にとっての時の流れは。
 人間が、愛しいけども、愛したところで虚しいばっかり。皆、ぼろぼろ死んでいく。戦争に病気に飢えに、事故死に自殺。運良く天寿を全うしたかて、百年も生きる奴は滅多におらへん。愛したところで明日には、死に別れる運命や。それでもやめられへん。俺は人が好き。因業やと思いつつ、それでも人を虜にして食おうとしてしまう。俺を愛してくれよ、って。
 懐かしいからやねん。俺を生んだのは、人間どもや。こんな神さん、居ったらええなあって、遠い昔の遠い川辺に住んでた人らが考えて、俺が生まれた。俺も俺の民を愛していたはずや。あんまり遠い昔すぎて、もう、よう思い出されへんけども、それでもその愛は、今も胸の奥底に残っているんやろ。遠い過去の想い出として。
 忘れがたい沢山の顔が、俺の記憶の中には残っている。そのひとつひとつの名前を憶えているかどうか、正直言うたら心もとない。ほとんどの顔は、漠然とした愛しい思いを胸の奥に醸し出す、甘い一瞬の残像のようになっている。
 かつて川辺の神殿で、ええ匂いのする乳香ミルラを焚いて、俺を拝んでくれた男か。それに有り難い霊威を垂れていた頃の俺は、紛れもない神様やったなあ、とか。藤堂さん、あんたは俺のことを悪しき蛇やと恐れてたけど、お前は美しい子やなあと俺を見つめる時の目には、あの川辺の神官を思い出させるような、熱っぽい何かがあったわ、とかな。そんな感じや。
 俺の脳内の愛しい男ライブラリーに、百年千年、関係ないです。記憶は色あせても、愛は色あせへん。ふと思い出せば、それが何百年前であろうとも、何千年前であろうとも、いつも胸苦しいような甘さを滴らせた、芳醇なネクタリンの香り。
 まあ、俺はそんなふうに、ちょっとばかし恋愛体質なんやけども、虎はもうちょっと真面目やった。エロとは別の意味合いで、かつて自分が守るべきやった民のことを愛してた。それは、おおざっぱに言うと、中国語で喋る人らや。そこが信太の出自やからな。
 時代の波に激しく揺さぶられ、崩壊していく中国の、古い世界と連れ落ちしかけた虎は、命からがら逃げてきて、とりあえず日本で命拾いはしたものの、そこから眺める愛しい土地での出来事に、心を痛めてた。色々あったんや、海の向こうでは。侵略されたりとか、内乱あったりとかな。人がいっぱい死んだ。そんな動乱期を場外から見るだけで、なんもできへん自分のことが、虎は情けなかったらしい。
 俺はあの民を守るべく生み出された虎やのに、一体何をやってんのやろと、くよくよくよくよしていた。負け犬ならぬ、負け虎や。それでどんどん、自信のうなってきて、今ではまたパワー漲るタイガーのくせに、ヘタレやねん。寛太の本命が自分やということを受け入れるのにも十年かかったし、それよりもっと可愛くないラジオに至っては、きっと気のせいやと逃げていた。愛してほしいけど、でも、俺にはそんな価値はない。
 もう傷つきたくない。愛してくれよと見つめた相手が、お前なんか死ねばよしと突き放して来るのが怖い。さらば愛しき中国で、民に棄てられた傷を、めっちゃしつこく引きずっている。今年こそ虎優勝やああ、みたいな気合い入ったファンが居るのに、なんか負けてまう。それはこいつのせいや。虎キチの皆さん、信太を恨め。いや、そうやのうて。励ましてやって。自信持て。お前はイケてる。虎、イケてる。ものすご格好いい。抱かれたいリスト上位ランクイン。それは俺だけか。そうでもないか? 皆はどんな感じ?
 俺的には、そうやなあ。今の気持ちで、抱かれたいリストは上から順に、アキちゃん、藤堂さん、ジョン・ローン、虎、ぐらいやな。四位か。微妙やな。俺がジョン・ローンのこと思い出してへんかったら三位やったのになぁ、惜しい。
 本人には言わんといたろ。自信なくすやろから。ええねん別に、鳥さんにとっては永久不滅の、抱かれたいリストのダントツ首位やねんから。ぶっちぎりですよ、ほんまに。ええんですよ、ラブラブしてくれる相手なんて、一人居ったら充分なんです。いっぱい居ったらアキちゃんみたいになるんです。悪い男に!
 信太は、ほなまたなー、と、軽い調子で水煙連れて出ていった。
 アキちゃんが風呂から出てきたのは、それとほとんどすれ違いみたいやった。
 水煙、居らんようになっちゃったって、アキちゃんはちょっと探すような切ない目をしてた。俺はそれに、もちろん、イラッと来てた。俺もいますが気づいていますか、アキちゃん。
「飯食って、街行こか」
 それはたぶん俺に言うてくれてるんですよね。そう思うのは俺の自意識過剰ですか。
 いや。そうではなく。アキちゃんは俺に訊いてた。
「街行って何すんのん」
 俺、寂しいんですけど。アキちゃん、朝チュー忘れてへんか。
 そんなニュアンスを眼力にこめて、俺はジトッと横目にアキちゃんを見てやった。でも、この男は鈍い。そんなん、耳クソほども気がついてへん。
「瑞希に首輪買うてやろうと思って。それに、服も。水煙も着替えがいるし」
 俺は?
「お前も暇やったら来るか?」
 ついで?
 アキちゃんの、心の抱きたいリスト、今の気持ちで言うと、水煙、瑞希ちゃん、そして俺? 三位?
 微妙……。
 ラジオか鳥さんか神楽遥居ったら四位やったんちゃうか。まさかな。まさか、それはないよな、アキちゃん。俺がダントツ首位なんやろ、アキちゃんにとって。
 そうやって言うてくれ!
 そうでないなら、俺は死ぬ。負けたくないねん、誰にも。そのリストではいつも、二位以下をはるかに引き離した、ダントツ首位でいたいねん、俺は。
 二位以下が、居ってもええよ。それはもう、仕方ない。俺にも居るしな。というか、俺のそのリスト、たぶん余裕で地球を七回り半ぐらいできるニョロニョロさやし。そっと心に仕舞っておくのにも、若干場所とりすぎてるような長さや。アキちゃんのこと、とやかく言われへん。たぶんまだアキちゃんのは、手で持っても足に届かへん程度の可愛い長さなんやろうからな。
 でも。でもな、重要なのは、そこに書いてある名前の順位や。お前の愛しい蛇が一位でないなら、許せへんのやで。
「連れて行きとうないんやったら、誘わんといて……」
 俺は必死でそう訊いた。そんなことない、お前が居らんと俺は死ぬって、アキちゃんが返事するのを期待しつつ。ちょっとばかし、祈るような気持ちで。
「連れて行きたくない訳やないけど。でも、お前は何も用事ないやろ。来たくなかったら、無理に付き合わせんのも、どうかなあと思って」
 遠慮したように、アキちゃん言うてた。
 どうも、俺が怒ってると思うてるらしい。ビビってる。
 俺はその顔を見て、ピンと来た。酔うてへんかったんや。昨日も、ラジオと一発やったこと、憶えてんのや。俺を口説いた時のことは、全然憶えてへんくせに、ラジオ口説いた時のことは、憶えてる。それで後ろめたいんや。
「そうか……アキちゃん。ほんなら俺は行かんわ。犬連れて行け。俺はお前のペットと違うしな、うろうろ後付いて歩いたりせえへんねん」
 うわっ。何言うてんのや俺は。言うてもうてから、自分の声が、めっちゃ恨んでるようなのに驚いた。アキちゃんはそんな俺を、困ったように悲しそうに見て、タオルでごそごそ髪拭きながら言うた。
「ごめんな……」
「ごめんで済むか……」
 ごめんで済む済む! アキちゃん愛してる! 素直になれ俺。
 昨夜ゆうべ、どんだけ必死で探したか。
 水煙が、アキちゃん中々帰って来えへんかったんで、まさか神隠しではと心配していた。俺がアキちゃんはもしかすると、ラジオ狙いやないやろかと話したせいやった。そんなことをメリケンパークで、アキちゃんの耳に吹き込んでもうたのは俺やしな。
 ラジオは昔、アキちゃんのおとんと何やかんやあったらしい。しきの一人や。そらまあ、何かあるやろ。せやけど奴は、ただ時々抱いてもらえるローテーション組やのうて、アキちゃんのおとんがストレス発狂したときに、シケ込んで逃げ隠れする隠れ家みたいな相手やったらしい。
 アキちゃんのおとんも、大概悪い子やったんやわ。
 何か耐え難いことがあると、ふらっと消える。さすがげきやというべきか。誰にも気づかれずに、ふわあーっ、と消えられるらしい。水煙ですら、気づかんかったらしい。とにかく居らんという事になって、皆、必死で探す。それでもどこにも居らんらしいねん。
 アキちゃんも前はそうやったけど、おとんも京都から出られへんかったらしいねん。結界があって、それに囚われていた。せやから京都盆地からは出られへんはずやのに、どこ探しても居らんらしい。
 消えたんや。おとん。消える魔球や。
 それをやってたのが、あの湊川怜司らしい。おとんを別の位相に隠してやってたんや。一時、別の位相に逃げ込んで、ふわあーっ、と魂抜いてくる。他にもいろいろ抜いてんのやろけど。それでリフレッシュして戻ってくるらしいけど、でも、いつか戻って来んようになるんやないかと、水煙はビビっていたらしい。
 戦争なって、もうじき出征やという時に、アキちゃんのおとんは水煙に訊いたらしい。
 おぼろに駆け落ちしよかと誘われた。俺はそれについていきたいが、行ってもええかと。本気のような目で。
 もちろん、行ったらあかんと、水煙は厳しく止めたらしい。お前は家を捨てる気か。一族を捨て、しきたちも捨てて、逃げる気なんかと。お前は俺を捨てていくのかと、水煙は訊き、おとんはちょっと考えてから、それは無理やなあと、にやっと笑って答えたらしい。そして実際には、駆け落ちなんかせえへんかった。
 おぼろを追放しろと水煙はおとんに命じ、おとんはそれに唯々諾々と頷いた。ほんで、湊川は本家を出されて、神戸に追放されたらしい。あいつがもう京都盆地に入れんように、おぼろ様あっちいけ結界が張り巡らされた。念入りに。
 その結界は、今はもう無いらしいけど、そんな必要無いからやろう。それに、その結界を張っていたのは、もしかしたら水煙なんやないか。二度とアキちゃんに近づくなって、そんな怨念が、その結界を生み出す力の供給源やったに違いない。
 とにかく水煙はおぼろが嫌いやった。嫌いというより、恐れてたんやと思う。
 ヤバいところやった。紙一重やった。アキちゃんのおとんは、なんで水煙に、駆け落ちしてええかなんて訊いたんやろか。あかんて言われるに決まってる。
 たぶん、止めてほしかったんやろ。止めてもらわんかったら、行ってまうんやないかと、自分でも怖かった。それがあかんと思う程度には、おとんには責任感はあったんや。けどそれは、頭で出した結論で、ほんまは行ってみたかったんやろう。京都盆地の外へ。戦争でなく、物見遊山で。それが駆け落ちでないとあかん程度に、朧様が好きやったかどうか、それは俺にはわからん。でも水煙は、そうなんやと思うたらしい。
 それで水煙は、傷ついたわけ。その傷をつけたんは、アキちゃんのおとんやのうて、おぼろやと、水煙は思ってた。それで恨んでんのや。用心している。おぼろは機会があれば、またアキちゃんをさらいにくる。今度こそ二度と出られん、誰にも見つけ出せないような、深い迷宮のような位相に、アキちゃんを閉じこめて、自分のもんにしようとするかもしれへん。
 今がその時やったらどうしようかと、昨夜はずいぶん取り乱していた。見た目にはわからへんけど、探しに行けと俺に命令してきた時の、水煙の目は、完璧テンパっていた。心配すぎて、また頭おかしなってた。その目と見つめ合ったら、俺も訳もなくアワアワなってもうて、アキちゃんどこやって、必死で探し回ったわ。
 でも、ほんまに見つからんかった。
 ホテルの人に、湊川怜司の部屋を教えろと頼んで、部屋番号は聞き出したんやけど、その部屋が無いねん。どこにもない。ヴィラ北野の廊下という廊下を、全てウネウネ走り回ったけど、その部屋はどこにもなかった。
 アキちゃん、ほんまに神隠しに遭ってたんやで。俺もう、泣きそうやったわ。というかマジで半ベソやった。泣きながらウロウロしてたんやないか。
 俺、アキちゃんに、許さへんて言うてもうてたしな。犬と寝たこと、許さんて、めっちゃ憎そうに言うてもうてた。ほんまに憎かったんや、あの時は。
 せやけどあれは、アキちゃんが、悪かったわけやない。やれって言うたの俺やしな。それに水煙もやろうけど。そうでないならアキちゃんは、そんなこと、せえへんかったかもしれへんのやで。
 あいつ浮気者やしな、犬が好きやは、ほんまそう思ってたやろ。でも夏に、可愛い瑞希ちゃんがまだ大学の後輩やった頃には、それを我慢してた。手を出そうなんて、せえへんかったで。キスもしたことなかったんやで。なんもしてへん。それはほんまに、そうやったんやろう。
 だから今でも、俺や水煙がけしかけへんかったら、手は出さんかったかもしれへん。ずっと我慢してたかもしれへん。
 その背中を押したんは、他でもない、俺やしな。ほんまは許さへんなんて、罵れる立場ではなかった。アキちゃんも、困るやろ。ほんなら、どうせえ言うねんて、文句言いたくもなるやろ。
 でもアキちゃん、なんも言わんかったで。ただ黙って責められていた。俺と水煙と、二人がかりで好き勝手言うてんのを、黙って聞いてたで。
 帰ってきてくれ。許さへんて言うたんを、どういう意味で聞いてたんや。嫌いやっていう意味やないんやで。めっちゃ好き。それは前と全然変わらへん。帰ってきてえなアキちゃん。どっこも行かんといて。このまま消えて、二度と見つかりませんでしたなんて、そんなオチ嫌や。つらすぎる。
 そんな思いで探し回ってな、それでも、どうしても見つからへんから、泣く泣く部屋戻って死んでたんやで。そこへ、あの酔っぱらい……鼻歌まじりで帰ってきやがって。
 舐めとんか、俺を! ぶっ殺す。
 でも、泣きそうに嬉しかったんやで、ほんまのところ。
 せやのになあ。皆。ちょっと前のページまで記憶プレイバックしてみて。アキちゃん部屋帰ってきて、まず誰に声かけた?
 水煙や。それから犬や。俺は最後やで?
 許せへん……。まず俺やろう。心配かけたな亨。許してくれ愛してる、キスキス、とか、そういうの無いの!?
 俺は妬いてる。焼き餅だらけ。お餅屋さんみたい。焼けたお餅の皿で心の中が足の踏み場もない。こんがり。いい匂い。もう食えん。もう焼きたくない。アキちゃん好きやって甘えたいねん。しかし己の意地と悋気りんきが邪魔をして、頭ん中ごっちゃごちゃになってる。
 アキちゃんが、何とかせえよ。亨、怒らんといてくれ、反省してる、お前を愛してる、世界一愛してる、俺はなにより蛇が好き、お前がおらんと生きていかれへんて、ちゃんと言え。昨日の夜には言うてたけど、あれは酔った勢いなんやろ。ちゃんと素面で言え。酔うてへんかったら、そもそも俺を口説いたりせえへんかったなんて、そんなん酷いしな。なんや、物のついでにそんな事まで思いだしてきて、むっちゃ切ない。そして腹立つ。
「ホテルに残っとくか?」
 アキちゃんは俺と、どんな距離とったらええか分からんという顔で、気まずそうに離れたとこから訊いてきた。
「そうするわ。他人のもん買うのに連れていかれても面白うないし。少女漫画絵も描けたしな。聖トミ子光臨図、大司教にくれてやれって、遥ちゃんとこ持っていっとくわ」
 べらべら答える俺の声は非常に暗かった。アキちゃんラブー! みたいな心の実情とは裏腹に、鋭く拒むような響きやった。そこまでで満足して黙ってりゃええのに、俺はなおも付け加えた。
「アキちゃんは犬と神戸デートでもすりゃええよ。良かったなあ、犬殺さんで済んで。嬉しいやろ。腕組んで、いちゃいちゃ歩いて来い。港神戸は恋の街やからな!」
 それで俺は、つかつかバーンみたいにバスルームに籠もり、ぷんすかキレながらシャワー浴びて、浴室びっしょびょにしたまま、ガーッと戻って服着てた。
 瑞希ちゃんは、どうしてええやらという感じやったんか、俺がベッド横のクロゼットに服取りに現れた時にも、まだ素っ裸で呆然みたいに、ベッドの中にいたわ。
「お前もいつまでヌードで寝てんねん。とっとと風呂行け。ご主人様が首輪買うてくれるらしいで。街行ってハアハア言うて来い!」
 俺はとにかく腹が立ちましたので、使い終わったバスタオルなどを、ワンワンに投げつけておきました。そんな亨ちゃんは、大人げなかったでしょうか。お前はいったい何千年生きてんねん、でしょうか。犬、可哀想やったでしょうか。
 ええんです、犬は。俺はこいつに死ぬ寸前までドツキ回されたことありますから。小出しに復讐してもええんです。これもその一部なんです。こんな程度で許してやるんやから、亨ちゃんは神様なんです。優しいんです!
 俺が風呂入って、あがって、服着て、出かける支度までしたというのに、アキちゃんはまだ裸やった。風呂上がって、下だけジーンズで、濡れ髪にタオルかぶって、それこそ雨の日に拾われてきた犬っころみたいに、惨めそうな顔して俺がうろうろ支度しに歩くのを、目で追いかけてただけやった。
 ほんまはな、俺が何か言うてやらへんかったら、あかん話やったんかもしれへん。アキちゃん気にしてんのやしな。怒ってるやろなあ、って。実際怒ってたけどな、怒ってたからこそやけど、俺が、もうええわ気にすんなって、話向けてやらんかったら、アキちゃん手出しでけへんかったんやろな。自分が悪いんや、怒られても当然やなあという、そういうシチュエーションやったからな。
 でも亨ちゃん、百パー気づいてませんでした。くっそ俺を遠巻きに無視しやがってと、内心、ハンカチ噛み裂いてました。餅だらけの心の部屋で。
「ほな先行くしな。俺は俺で遊んでくるしな! 文句ないやろな、アキちゃん?」
 ギャオーンみたいに俺が戸口からえると、アキちゃんはじっと俺を見て、しんどそうに頷いた。なにをそんな、しんどい顔すんねん。俺が癒し系やないと言うんか。今はそうかもしれへん。でも、それは、てめえのせいなんじゃ。お前が全部悪い。
 お前がややこしい家の子やから悪いねん。お前が普通のなんてことない自由な男で、家がどうの血筋がどうのて言わんでよければ、俺は幸せになれたんや。今ごろお前とのんびりラブラブで暮らしてた。夏休みの楽しい残りの日々を、組んずほぐれつで満喫していた。ふたりっきりで旅行も行けたやろうし、アホみたいな道場通いで時間とられたり、犬でモメたりもせえへんかった。
 そんな男やったら良かったのに。アキちゃんがそこらへんの一般人パンピーで、神通力とかそういうの何もなしで、ただ俺が好きなだけの、普通の大学生とかやったら良かった。それでも俺はお前が好きやったと思う。どんな男でも別に良かった。秋津の跡取りの、大事な大事なぼんでさえなければ。
 畜生、泣ける。
 がつーんてドア閉めて、持って出た絵を挟む画板カルトンを引っつかみ、ずかずか廊下を歩いていく間、俺は必死で泣くのを我慢していた。泣くもんか、これっぽっちで。男の子やねんから。強いねんから亨ちゃん。神様やねんから。
 言うとくけど俺はもともと、ここまで涙もろくはないで。というか、むしろ、血も涙もない奴やった。アキちゃんと会うてからや。めそめそ、うえーん、みたいなのは。めちゃめちゃ涙腺ゆるくなってもうた。壊れちゃったのよ、亨ちゃんの涙腺。アキちゃん好きやで辛抱たまらず、悲しかったり切なかったりで、やたら泣けんのよ。
 アホか。少女漫画か俺は。せめて少年漫画ノリで行け。努力、友情、勝利やで。本日はもう、愛は休業。愛はないから。あるのは餅だけやから。こんがり、ふっくら焼けてるで!
 藤堂さんとこ行って、一緒に飯食おうって誘おう。俺は藤堂さんと朝飯食うたことない。寝坊キャラやったから。というか、朝はいっつも喧嘩みたいやったから。
 オッサン早朝からお目覚めで仕事行きよるしな。せやのに病状深刻で、具合悪いし。俺の御利益を持ってしても、けろっと健康にはならへんわ。死相出てたもん。実はやっと生きてるだけやったんとちがうか。ほんまは死体やったんや、歩く死体リビング・デッドやで。
 それで心配なのもあったんかもしれへんけど、俺はとにかくオッサンを引き留めたくて、仕事行くな、俺と居れ、お前は俺の下僕なんやろと、朝っぱらから毎度毎度の大げんかやで。俺がキレとるだけで、オッサンは耐えとるだけやけどな。
 朝飯ブレイクファストどころやないよ。
 藤堂さんが朝飯に哲学のある人やったなんて、ほんまに知らんかった。なんも知らんままやった、あの人のこと。喧嘩ばっかりして。仲いいのは、なぶってもらって悶えてる時だけで。それも切ない。抱いてほしいって、苦しみ悶える生殺しの蛇やで。
 こいつがヤハウェのしもべやのうて、嫁はんも娘もおらんで、ホテルの支配人でものうて、癌でもなくて、そして俺を愛してくれてたら、どんなにええやろって、ずっと鬱々と恨んで過ごしてた。無い物ねだりやな。我が儘やねん。
 でも、そんな我が儘を、優しく受け入れて聞いてくれるのが、相手が俺を愛してるってことなんやと、俺には思えた。それで余計に我が儘やったんかな。自分でもアホかと思うような我が儘言うてみたり、欲しくもないような贅沢品を、これ買え、あれ買えって強請って貢がせてみたり、それにあっさり飽きてみせて、こんなもん要らんてポイ捨てしてみせたり。それでも嬉しいやろ、俺に尽くせて、幸せやろって、まだまだ強請る目で見る。
 藤堂さんは、耐え難かったやろ。あの人、締まり屋やしな。贅沢するけど、本来、無駄なもんは買わへんで。必要性のある、ええもんを手に入れて、ちゃんと減価償却。それがあの人の美学やろうけど、俺は浪費家やったしな。俺、誕生日がないねん。俺に誕生日をくれって強請って、何千万かするダイヤの指輪を隠した白いイチゴのショートケーキを作らせて、指輪んとこの一切れが、当たった人には幸運がやってくる。それを上手く引き当てたら、今夜こそ抱いてくれへんかと強請る。でも、その一切れが、なんでか見つからへんで、ぶち切れてケーキを窓から捨てる。指輪入ってんのに……って、藤堂さん若干遠い目やったしな。それに俺が投げつけてやった捨て台詞がな。
 イチゴがすっぱい。
 ギャグやで。今思うと。でもその時は、なんでか修羅場やねんなあ……。
 藤堂さん、内心笑ってええか、泣けばええのか、分からんかったんやないか。俺のこと、アホやと思ってたに違いない。でも、俺のご機嫌そこねたら、自分は死ぬんや。魔法のお薬もらわれへんようになる。アホに命を握られて、怖かったやろうなあ。
 それでも俺を愛してたなんて、変態やであのオッサンも。そんなこと、あるわけないって思うてたけど。俺には自信がなかったんや。愛してもらえるようなこと、なんもしてへん。可愛げもないし。品は悪いし。我が儘やし。金遣い荒いし。寝相悪いしな。
 寝相悪いのは俺のせいやない。わざとやないもん。お前が抱きしめて寝てくれへんからや。アキちゃんとこでは、俺は寝相ええで。アキちゃんに抱きついて寝てるもん。せやから寝ながら暴れたりせえへん。怖い夢も見ない。いつも満たされて眠ってるんやから。アキちゃん、優しいんやもん……。
 って。あかんあかん。どうしても涙出そうなほうに考えが向いてまう。
 アキちゃん今日はもう許してやらへんのやから。干してやる。指一本触れさせてやらへん。そして俺は、浮気をしてやる。もう、そう決めた。決意固いで。意固地になってるからな。断固として浮気。絶対に浮気。
 どうせやったら藤堂さんと。それが無理なら誰でもええわ。アキちゃん以外の誰かやったら、誰でもええねん。藤堂さんやったら理想的。アキちゃん、それが一番、痛いやろうから。
 別にそれだけやで。藤堂さんでないと、あかんという事ではない。俺がオッサンとやりたいからではない。あいつはもう、捨ててやった男やしな。過去やから!
 ざまあみろ生殺しオヤジ。
 そう思いつつ、俺はロビーの一角で、くどくど話しているスーツの男の後ろ姿を見つめた。藤堂さんは今日も、ブルーグレイのスーツ着て、めちゃめちゃ決まっていた。ええ男やなあって、痺れるような後ろ姿。そして、その格好で、軽く腕組みをして、話していた。茶髪の男と。
 湊川怜司。
 それを見た瞬間に、俺の中で、ブチッ、ていう音がした。なんやろ。何がキレたんやろうか。オッサンが誰かと話していて、なんで、ブチッ、なんやろう。効果音、間違えてんのと違う?
 でも俺は、そのままブチキレ後の静かに沸騰した脳みそで、しずしずと、音もなく這い寄る蛇のごとくに、藤堂さんの背後に忍び寄っていた。
「ケーブル片付いたのはええんやけどね、これは、どないなってんのやろ? 床に、穴開けたんやないのかな?」
 どうしても、意味わからんという訊き方で、藤堂さんは困ってるように、ダルそうに収録機材にもたれて聞いてる湊川に訊ねていた。
「穴は、開けてない。ちゃんと元通りになるから、ウダウダ言わんといてくれへんか。眠いねん俺は。寝たと思たら、あんたに朝っぱらから叩き起こされて、ヘットヘトやねん……」
 ほんまにもう、この場でもええから眠らせてって、そんな感じの顔で、軽く身を捩りつつ、ラジオはぼやいてた。
 なんで眠いんやあ、おのれは……恨めしや!!
 俺の悪魔度、たぶん一瞬で復旧してたで。アキちゃんの優しい愛に抱かれて神様モードなってたはずが、一瞬で悪魔サタン降臨やから。
「何言うてるんや。仕事やろ。ちゃんとしなさい、しゃきっと立って!」
 藤堂さんに叱られても、湊川は、なんというウザいオヤジやという、すげない態度で、知らん顔して機材にもたれたままやった。
 信じがたい。藤堂支配人マジックが通じへんやつがおるとは。誰でも胸キュンで甘くて切ないドキ☆ドキ☆イリュージョンやのに! 俺も意地張って悪い子なって、必死で抵抗してたけど、結局めっちゃ胸キュンやったのにいっ!!
「しゃきっと立っても、だらっと立っても、俺はちゃんと仕事するから……」
「居住まいも仕事のうちや。君は、ちゃんとしてれば美しい子なんやから、もっとちゃんとしなさい」
 また、いつもの天然いてこましトークで、藤堂さんはおぼろが美しいと言うてた。
 何を言うねん、ぶっ殺す。
 お前、ちょっと前までは俺のこと、崇めるような目で見て、美しい美しい言うとったやないか。誰でもええんか。遥ちゃんでも。ラジオでも。見た目よければ、猫も杓子も美しい言うてやるんか。それは日常会話か。愛の囁きやなかったんか!
「説教せんといてくれへんか。俺は肉体関係の無い相手の指図は聞かんようにしてるんや。俺に偉そうにしたいんやったら、せめて一発やってからにして」
 それは日常会話か、おのれ!!
 許せん、ラジオ! 一度ならず二度までも、俺の男に手出しおってからに。
 アホなこと言うな、はしたないって、藤堂さんは汚らわしい悪しき蛇蝎だかつを見るように、男らしい凛々しい眉をひそめて言うた。……はずやった。
 でも、言わへんかった。照れてるような難しい顔で、眉間掻いてた。
「あのねえ。そういう事、言わんほうがええよ。本気にとる人もいるから」
 おっさん案外好き系なんか、このラジオ!! お前のタイプか! なんでそんな解放されてんねん。居直ったんか、遥ちゃんと結婚までして。もうええわ同性愛でも全然かまへんオッケイやわあ、毒を食らわば皿までや、みたいな気分か、おのれも!! 毒食らいすぎ!
 食うたらあかん。食うたらあかんて! 遥ちゃん居るやろ。それに食うんやったら、俺にしとけ、俺に!
「本気にとってくれても別にええけど。今夜は暇やと思うし、寝酒代わりに一発やっとく? 嫁はん怖うてできへんか?」
 けっけっけ、みたいに笑って言われ、それが図星か藤堂さんは、やれやれみたいな疲れた顔をした。なんやねん遥ちゃん怖いんか。それが好きなんやろ、この変態め!
「よしなさい。もっと自分を大事にしなさい。そんなんしてたら不幸になるで」
「心配いらへん。もう、なってる」
 にっこり笑って、俺は不幸やねんみたいなオーラを、おぼろは発した。それはなんというか、一瞬、オッサンが幻惑されるようなオーラやった。可哀想。俺が幸せにしてやりたい、みたいなな。
「藤堂さん……」
 俺はさすがに声かけた。あんた、ハメられそうになってんで……。
「うわっ! なんやお前か……びっくりしたわ。誰かと思うた」
 なんでそんなビビってんの。藤堂さんは冷や汗かいたみたいな顔で、俺を振り向いた。それでも格好良かったけど、若干格好悪かった。それにも俺は嫌な気がした。
 一分の隙なくダンディやったのに。なんでそんな、やんわりアホみたいになってもうたん、藤堂さん。遥ちゃんのせいか。それとも俺のアホな血が、あんたを毒してもうたんか。
「気配がせえへんねん、お前は。もっと足音する靴を履け」
 俺の足もとを見て、藤堂さんは咎めるような目をした。スニーカー履いてたからやと思う。藤堂さんの美学では、俺は革靴。そして絹シャツ。間違ってもユニクロの休日フリースとか着てはいけない。それは罪やから。だらだらする時でも、綺麗系美青年は絹を着ろというのが、おっちゃんの世界観やねん。
 でもさ、絹ええけど。肌触りええねんけど。汗かいた時、嫌やない? 家で洗濯でけへんしさ。うっかり乾燥機かけてもうたら、えっらいことなるねんで。いちいちクリーニング出すの面倒くせえしさ。ホテル居る時はええよ、いつでも専門家が居ってクリーニングしてくれるから。でも出町の家ではさ、自分で洗濯するか、店持っていって洗ってもらうかやんか。面倒くさいねん、絹なんて。
 俺はもともと、着るモンなんて大して興味ないほうやねん。裸でもええくらいやからさ。服は下僕が貢いで着せるモンなんやんか。神官どもが。今も結局アキちゃんが選んでるようなもんやんか。俺は突き詰めれば何でもええわってなるけど、あいつは、亨にはこれはあかん、あれはあかんていう、拒絶反応があるからさ。アロハも嫌なんやんか?
 藤堂さんも、嫌なんやろな。赤い蝶々さんのアロハ。それに、グレーの錦蛇パイソンのパンツ。そして靴は適当にはいた白いスニーカーやし。
 なんちゅう服をお前は着てんのや、って、そういう目で俺を見てるんやんな?
「なんちゅう服をお前は着てんのや……」
 思ったとおりのことを、藤堂さんは俺にぼやいた。俺は思わず、目がしょぼしょぼした。あんたにそれを言われるために着たんやないねん。アキちゃんへの、あてつけやってんけど。あいつ気がついてたか。たぶん気づいてなかったで。あいつに爆弾投げつけてやるつもりが、うっかり自爆のためのネタになってもうてるやんか?
「ほっといて……諸事情あるねん……」
「本間先生、元気出てたか、白蛇ちゃん?」
 気まずいという言葉はお前の辞書にはないんか。おぼろは遠慮無くくちばし挟んできて、悲しく藤堂さんと話している俺の話の腰を、ぼきっと折ってくれた。
 俺に話しかけないでくれる? 雀ちゃん。焼いてバリバリ食うてまうわよ?
 俺はそういう目で見てやったけど、湊川は平気なもんやった。機材に肘ついて、頬を支え、眠そうな睡眠不足の青白い顔で、にっこにこ俺を見てた。
 そうしてると確かにちょっと、寛太に似てた。鳥さんに。
「先生なあ、相当キてたで。あんまり虐めんといてやったら? 折れてしまうで。寄って集って、あんまり追いつめたら」
「貴重なご意見、ありがとうございます……」
 俺は呆然と殺意をこらえ、雀にそう言うといた。
 いや。ほら。藤堂さん居てるしね。うるせえ何言うとんねんワレ、どの面提げて俺にもの言うとんじゃボケエ、とか言われへんやん? 亨ちゃん、お品が悪いて思われたないから、このオッサンには。お上品にいきたいねんから。
「仲良うしてなあ、亨ちゃん。短い間やけど、一応、仲間やねんから」
 にっこりして、おぼろは俺にそう挨拶した。
 仲間! よう言うわ。お前なんか、仲間やないから。アキちゃん好きすぎるチームのメンバーはもう、俺と水煙と犬の、三人だけでも超満員やから。
 すらりと品のいい体に纏う、砂色のパンツのヒップポケットから、煙草出してるおぼろの手を見て、そこに指輪がないことに、俺は気がついた。指輪の跡は残っていたけど、信太がくれてやったという、銀の髑髏はなくなっていた。
 捨てたん。指輪。信太のこと、もう、どうでもええのか。あいつ、お前のこと好きらしいで。今でもちょっと好きらしい。未練たらたら、あるらしい。どうせやったら、あっち口説いてくれればええのに。アキちゃんとか、藤堂さんとか、俺の縄張りにいる男に、つまみ食い感覚で手出すの、やめといてくれへんか。俺にとっては遊びやないねん。
「なんの話?」
 わからんという顔で、藤堂さんは顔をしかめ、俺でなくおぼろに目を向けた。煙草の先を銀のライターで、ゆっくりあぶりつつ、おぼろは皮肉に笑っていた。その火種は、ずいぶん古いように見えるオイルライターやった。そしてその古びた銀には、彫られた蜻蛉とんぼが一匹、とまっていた。
 なんでか俺は、それにちょっと動揺した。
 貰ったもんやろうか。こいつは仲いい男に物を強請るタイプらしい。つんけんしてるようでいて、そんな甘ったるいところも隠し持っている。アキちゃんのおとんに、ライターくれって強請ったんやないか。それは形見の品ではないか。信太の指輪は捨てたのに、蜻蛉とんぼさんは捨ててない。それはあんまり、虎が不憫やないのか。
「こっちの話。とにかくロビーの床に、傷はつけてませんから。ケーブルは確かに床下に片付けたけど、それは俺の魔法やし。支配人」
「納得いかへん。君といい、大崎先生といい、今回の客は無茶苦茶しやがる」
 ぼやく藤堂さんに、おぼろは何が可笑しかったんか、あははと声あげて笑っていた。屈託ないふうな、しかし底意地の悪い感じで。
「こんなんで参ってたら、支配人。本番なったら体保たへんで」
 そうやな。地震が来て、なまずが現れ、巫覡ふげきや式がそれと戦うのを見たら、藤堂さんはどう思うやろ。俺のことも、どう思う。蛇に変転した俺を見たら、お前は醜いって、また言われんのかなあ。
「俺は行きます。もう、叩き起こされたついでやし。街にスピーカー設置せなあかんねん。面倒くさいわあ……早く休みたい」
 愚痴愚痴言うて目をこすり、湊川は立ち去る素振りを見せた。
 そして、ふと思いついたように、藤堂さんを見つめた。
「支配人、神戸が地元の人なんですよね。神の戸の、岩戸って聞いて、どこやと思う?」
 煙草ふかして、湊川は訊ねた。藤堂さんはまた、なんの話やっていう、不可解そうな顔をした。
「岩戸?」
「そう。岩戸。化けモンの出現地として、そう予言されてるんです。神の戸の岩戸に、死の舞踏が現れる、って。なんか予兆があるはずなんです。俺も噂は集めてんのやけど、なんせ噂やし、アテにはならへん。骨は洋上にも出たし、山の手にも出た。でも、なんとなく、骨出たっていう話は、山の手のほうに偏ってるような気がする」
「骨って、なんの話?」
「幽霊みたいなもんや。震災で死んだ人の幽霊が、出てるんです。嫁はんに、仕事の話、なんも聞いてへんのか」
 今はもう神楽遥が何者か、ようく知ってる口ぶりで、湊川は藤堂さんをからかっていた。どっかで噂話でも、聞きつけて知ったんやろか。このホテルの支配人には、結婚してるツレがいて、それが神父やという話は、前に天然のアキちゃんが暴露してたけど、それ以上に詳しく、今は知っているようやった。
「人間には、動物や外道にもやけど、予知能力があるんや。ごく、うっすらとやけど。予感とか、第六感とか、虫の知らせというやつや。そうやって予知したもんが、人の噂になって現れることがある。何となくの予感でええんやけど、神の戸の、岩戸がどこか、ぱっと思ったイメージを、教えてもらえへんやろか。それがすごく、役に立つんやけど」
 丁寧に話す湊川の、品のある美声に、藤堂さんは大人しく、耳を傾けていた。それは何となく、楽器か古い名盤レコードの、音を聴いてるような様子やった。
 オッサン、レコード集める趣味がある。真空管ついてるステレオ持ってる。蓄音機まで持っている。音楽聴くのが趣味やねん。仕事でくたびれて、しんどいなあって思った時にやる、限られた趣味。クラシックの名盤を聴く。ビートルズの名盤を聴く。そして、部屋で飼うてる綺麗な子の歌う、綺麗な声の歌を聴く。
石の庭ロックガーデン?」
 目を細め、自信ないけどという、おぼつかん口調で、藤堂さんは答えた。この人がそんなふうに、断言しない言葉で話すのを、俺は今まで聞いたことがない。
「そうかもしれへん。その答えを返してくる人が多い。何か予感があるんやろう。六甲山のロックガーデンね……」
「六甲山に、骨の幽霊?」
 藤堂さんは、ピンと来えへんかったらしい。おぼろは、煙草をくわえ、うっふっふと笑った。
「人食うてる山やで、六甲山は。山はもともと、そういうもんです。異界に通じてる。人の世界やないねん。今でも、六甲山で遭難して死ぬ人はいてますよ、冬とかね。夏でも。軽いハイキング・デートのつもりで、可愛いパンプスはいて行って、道に迷って地獄谷とかハマって、彼氏と凍死した女の話とかね。都市神話やろけど、あながち嘘やない。気つけなあかん。岩一個周り間違えただけで、神隠しに遭うて、外道に骨まで食われてまうかもしれへんのやから」
 山を舐めたらあかんのやでえ、いう話や。温暖化したとはいえ、氷雪系も棲んでんのやから。ほんまに居るで。居るやんか、蔦子さんとこの啓太とか、そうやねんから。神隠しにする神もいてる。今、喋ってる奴がそうやんか。気つけなあかん、藤堂さん。邪悪なのは蛇だけやない。世の中、実は妖怪だらけなんやから。
 薄気味悪そうにしている、常識派の藤堂さんを見て、おぼろはくすりと笑った。
「それはええけど。男前やなあ、支配人。ほんまに今夜にでも、抱いてもらいたい。ここまで眠くなければ……」
 くよくよ言うて、おぼろは藤堂さんの、質のいいサマーウールのスーツの肩に、煙草を持った指で触れた。触るなボケエ!! 俺でも我慢して触ってへんのに!
「熱いコーヒー飲みたいねんけど。近所にイケてるカフェないですか」
「あるよ。コンシェルジュに聞きなさい。ひとりで行くのか」
 ひとりで行って何が悪い。俺はそう思うたね。藤堂さんが心配げに、おぼろにそう訊くのを、すぐそばで聞いて。
 銜え煙草で頷いて、おぼろは歩み去っていった。
「ひとりで行くよ……寂しいけど。カフェにええのがいたら、今夜のおかずにお持ち帰り……」
 ほんまか嘘か、ぼんやり歌うような声で言い、おぼろはふらあーっ、と消えた。明るくなりはじめたエントランスから出て、白い光の中に溶けていくような、おぼろな影になった。
 藤堂さんはじっと、それを見ていた。ちょっと、感激したふうに。
「綺麗な子やなあ……」
 抱きしめたいみたいやった。それは俺の被害妄想か。
「何を言うねん、このエロオヤジが! 萌えとる場合か。遥ちゃんに言いつけてやるで」
 地団駄踏みたい気持ちで呻き、俺は藤堂さんをビビらせようとした。遥ちゃん言うといたらビビるやろうという、そんなひがみもあって。
 あんた神父が怖いんやろ。神父やから怖いねん。罪を咎められそうで。よくも神聖なる僧衣の男を犯しやがって。罰当ててやるって、ヤハウェが言うてくるんやないか。今にもキレた天使が、神罰当てるザマス言うて、光臨するんやないかって、そんなふうに思えるんと違うか。稲妻ビカーン、で心臓止まるんや。そういう話、キリスト教には多い。破戒したやつに、罰当たる話。
「平気や。今日は、遥ちゃん居らへん」
 苦笑いして、藤堂さんは答えた。
 留守なん、お宅の嫁。
「なんで居らんの。もう離婚されたんか」
「浮気しとうのや。仕事の手はずで、今夜は三ノ宮の教会に泊まるらしい。ヴァチカンから荷物届いたんやって」
「きっと懺悔室で先輩の神父に強姦されてる」
「されてへん……」
 情けないみたいに笑う藤堂さんは、アホかという目で俺を眺めた。でも、そんな話、ほんまにあるで。教会ネタには。生臭坊主はどこにでも居るねん。同性愛あかんて言いつつ、お前がホモやないかっていう神父や牧師も、中には居るねんで。そいつが懺悔室で信者の綺麗な男の子やら女の子やらに、お医者さんごっこを強要する場合もあるらしいで。そんなんしてへんと神父さんごっこしろ、神父。
 せやから神楽もどうかわからんで。あいつも解放されてもうてるしな。パパいっぱい居てるような奴やねんから。ファーザーに無理矢理犯されてるかもしれへんでえ。
「今日は、本間先生は?」
 話そらしたかったんやろ。藤堂さんは、さっさと話題を変えてきた。上手い逃げっぷりやった。お前には彼氏が居るやろと、思い出させるネタ選び。
「居るで、部屋に。浮気してるわ。可愛いワンワンと」
「犬?」
「犬みたいな、十代の餓鬼や。ケツが可愛いねん。他もいろいろ可愛いけどな。案外今ごろ、昨日食いそこねたケツに、突っ込み入れてる頃かもしれへん」
「何言うてんのや、お前は」
 微かにビビった顔で、藤堂さんは眉をひそめて、俺を見下ろした。
 言うてもしゃあない。愚痴なんか。このオッサンが俺に同情してくれる訳ない。
 どうやって誘おうか。遥ちゃん留守なら丁度いい。今夜はお前も干されんのやろ。俺と一発やらへんか。
「藤堂さん……大司教に頼まれた絵を、描いたんやけど。遥ちゃん留守なんやったら、預かっといてくれへんか」
 画板カルトン見せて、俺は頼んだ。お強請りの目で。
 このオッサン口説くの、久しぶり。八ヶ月ぶりやな。懐かしい。
 前は毎日こんなことばっかりしてたけど。
 キレて暴れたり、可愛い顔して口説いてみたり、飴と鞭とで、なんとかオッサン籠絡しようと、俺も励んだもんやったけど。
「お前が描いた絵?」
 見たそうに、藤堂さんは半笑いやった。俺も笑った。恥ずかしそうに。
「そうやで。でも、ここでは見んといて。恥ずかしい絵やねんから。家で見て。笑わんといてくれよ。俺がこんな絵描けるようになったんは、訳ありやねんから」
 渡された画板カルトンの中身を、ものすごく見たそうな目をして、藤堂さんは苦笑していた。
「どんな訳やねん」
「話そうか。せやけど、ここじゃなあ……」
 首を傾げて、俺は悩んでるようなフリをした。そして、まだ効くんやろかと悩んだ。俺の魔法は、まだこのオッサンに効くのか。いちかばちか、やってみるか。ダメ元で。
 そう思って、顔を上げ、俺は藤堂さんの耳元に、囁いた。誘いをかける、熱い息で。
「社長椅子の、お膝抱っこでやったら、話そうかなあ……?」
 俺がそう言うと、藤堂さんは、むっちゃ微妙な顔をした。むすっとしたような、何か堪えている顔や。俺には見憶えのある顔。
 まだ京都のホテルの、インペリアル・スイートに棲んでいた頃、忙しくホテルの中をうろうろ働き廻っているオッサンが、俺のご機嫌をうかがいに来る。時々顔出さへんと、俺はキレて暴れたり、火付けたりする、怖い蛇やったから。
 そんなんされたらたまらんと、蛇詣でに来た藤堂支配人に、抱いてほしいて耳舐めてやって、ねっとり誘うと、オッサンはこの顔をした。
 そして大体、前は拒んだ。すまんけど、会議があるねん。重要な来客が。電話せんとあかんねん。次の企画のセッティングがある。嫁や娘がやってくるからと、何やかんや理由をつけて、オッサンは断ってきた。
 寂しいんやったら、誰かお前の遊び相手になるような、好みの男を買うてやろうか。それとも、せめて、優しくなぶって、少しは満足いくように、ご奉仕したろかと、オッサンは怖れる目をして、俺を見た。
 なにが怖かったんやろう、俺の。優しゅうしてやってても、オッサンはどこか、心の奥深くで、俺に怯えていた。
 今もそうかと、俺は耳から毒を仕込んでやったつもりの男の顔を見た。その目はじっと俺を見ていた。
「暇やないんやけどなあ、俺も」
「そうやろなあ。お前はいつだってそうやった。しょうもない仕事ばっかりして、俺を放置してたわ」
 また振られたわ。スカされた。俺はそう思って、悔しくなり、目を逸らして背を向けた。もうええわ。服がまずかった。本気で誘うつもりなんやったら、遥ちゃんルックで来ればよかった。
「三十分でええか」
 そう言われて、俺はぼんやり、振り向いた。
 このオッサンが、部下によく言うようなフレーズやった。
 支配人、ちょっとお時間頂戴できますかと、困った顔の奴が来て、あるいは情けない声のする電話が、ガンガン部屋にかかってきたのを受けて、しゃあないな、十分でええか。三十分でええか。今は一時間しかないわと、自分の時間を切り売りしている。
 三十分コースか、俺は。短いなあと、俺は自虐的に笑えてきて、その顔のまま、また藤堂さんを見た。
 ほんまに忙しかったんやろ。そんな暇ない。懐かしい蛇といちゃついてる暇はないんや。ホテルは何か、大急ぎで準備してるようやった。藤堂さんは大崎先生たちと連んで、何か手伝うてやるつもりらしい。
「三十分もくれんの。何ができるやろ。三十分あったら」
 俺は楽しい空想をしながら、藤堂さんに訊いた。オッサンは目を逸らし、苦しいような、静かな皮肉めいた微笑の顔やった。
「さあなあ。色々やれるんやないか。お前が嫌やないなら」
「嫌やない。抱いて……」
 癖みたいになっとんのかな。俺は藤堂さんに、過去何千回と頼んだ同じことを、また強請ってた。無意識みたいなもんやった。
 それに藤堂さんは頷いて、くるりと俺に背を向けた。
 歩き出すスーツの背を、俺は一瞬、ぼけっとして見た。捨てられたんかと思って。
 でも、そういう訳やない。ついてこいという事やった。このオッサンは、俺の手を引いて歩いたりはせえへん。アキちゃんとは違う。当然、腕なんか組ませてくれへんで。部屋スイートを出たら、俺に触るな。赤の他人のふりをしろやで。He is a sweet guy only in a suite room. おっさんが優しい男スウィートなのは、スイートルームの中でだけ。
 そのはずやけど、今日は優しくしてくれるんか。アキちゃんの代わりに。とうとう優しく激しく抱いて、俺にもエサをくれるんか。
 食いたいなあ、藤堂さん。俺も食いたい。腹減ったなあ。朝飯も食うてへん。昨日の夜飯も、昼飯も、朝飯も食うてへん。丸一日、断食してた。そろそろ俺にも朝飯ブレイクファストを。朝飯食わな、力出えへんやろ?
 ちゃんと食べなさいって、昨日の朝、廊下で会った湊川に、藤堂さん言うてたやんか。今朝は、俺にも言うて。亨、ちゃんと朝飯食べなさい。俺が抱いてやるからって。
 地下にある、支配人室に降りていき、藤堂さんはデスクと応接セットのある部屋の、立派な革張りの社長椅子に、ほんまに座った。
 そして画板カルトンを開いて、中に挟まれていた絵を、見てるようやった。
 くすりと笑って、オッサンはすぐに、画板カルトンを閉じた。そしてちょっと、気まずそうに躊躇ってから、ぼけっと立っている俺に差し招く手をした。
「おいで」
「ほんまにやんのか、社長椅子抱っこ」
 ちょっと呆れて、俺は一応訊いた。本気としか見えへんかったけど、そんなんすると思うてなかった。時々、変な趣向のある人やったけど、社長椅子も実はツボやったんや。
 やっぱりな……。
 俺はそう噛みしめつつ、ふらふらドアの前から、藤堂さんのいるチェアの前まで行った。
 前なら何も思わんかったかもしれへんけど、今はなんでか、ためらいがある。なんでか、ってことはない。アキちゃんの顔が、脳裏にチラつく。
 傷つくやろか。俺のツレ。知らんかったら平気やろ。でも俺は、アキちゃんに言うてやるつもりでいた。藤堂さんと、やってもうたわ。気持ちよかったわ。アキちゃんより、良かったわ。俺がどんな目に遭わされようと、惨めに堪えて、お前だけのもんでいるとは、思わんといて。アキちゃん。俺にも価値があると思うてる男は、いっぱい居るで。ぼやぼやしてたら、盗られるで……。
 スーツ男のお膝に跨り、向き合った胸に、俺はそうっと用心深く縋り付いてみた。暖かい、逞しい胸板やった。
 前は痩せてた。頑強やったけど、でも、やつれてた。病気やったしな。
 今はもう、元気になったんや、藤堂さん。触れあった胸の、力強い胸の鼓動が、微かに早く、俺の胸を打っていた。
「これ、ほんまにお前が描いた絵か?」
 藤堂さんの胸から直に聞こえる声に問われて、俺は顔を上げた。デスクの上で藤堂さんは、画板カルトンの中の絵を開いて見ていた。
 そこに挟んである何枚かある絵が、重なって見えていた。
「いいや。それはアキちゃんの絵や。俺のは一番下のやつ」
 そう教えてやったけど、藤堂さんはじっと、アキちゃんが描いた、このホテルの絵を見てた。妖しく美しい泊まり客。その背景にあるヴィラ北野の風景を。
 それは確かに落書きなんかもしれへんけども、才能のある画家が描いた落書きや。きちんとした額にでも入れて、壁に飾れば、オーラを放つ。俺にはそれが、分かってた。
 アキちゃんの絵には魔法がかかってる。それは俺みたいな絵には素人の奴が見ても分かる。見ただけで吸い寄せられるような絵や。絵の中に、入っていけそうな。あるいは、その絵の中にいる人物や動物が、ふらりと出てきてしまいそうな。それがただの妄想とは思えんような、存在感を放っている。
 増して絵には多少の理解のある目利きが見れば、一瞬で確信するやろう。この絵を描いた奴には、才能がある。こいつは天才やって。
 西森さんも、目の色違った。アキちゃんの絵を最初に見せたとき、いつもなら快活でお喋りなあのオッサンが、十分くらい押し黙っていた。
 藤堂さんもじっと黙って、アキちゃんの描く世界を、しばらく見つめてた。でもこの人は、西森さんほど、絵に魅入られてはいない。すぐに笑って、また俺を抱き寄せた。
「お前の彼氏は天才なんやないか」
「そうやで。末はピカソかシャガールや」
 オッサンの頬に頬擦り寄せて、俺は甘えた。心ゆくまで。そしてそのまま絡みついて、渋いコロンの香るスーツの胸に、顔を埋めた。
 気持ちええわ。藤堂さんに抱いてもらうと、すごく守られているような気がする。もう何も考えんでええし、この人に言われるまま、操り人形みたいになっときゃええねんて、そんな甘い虚脱感がある。
「このホテルも、そんな大先生に描いてもらって、光栄な話や」
 嫌みではなく、藤堂さんはほんまにそう思ってたらしい。なんか、うっとりしていた。
「気に入ったんやったら、受け取っといて。アキちゃん、この絵をあんたにくれてやるつもりらしいから」
 俺がそう言うと、藤堂さんは苦笑したようやった。胸がゆったり震えてた。
「何枚あるねん。一枚いくらや。お前は次から次へ自分の男の絵を俺のところへ持ってきて、それを買えとは。困った子やなあ」
「買え言う話やないで。アキちゃん、タダでくれるらしいで。部屋に他にも、もっと沢山ある。落書きやねんて。あんたが受け取らんかったら、焼いて捨ててまうらしいわ。いつも、そうやもん……」
 俺の話にぎょっとしたふうに、藤堂さんは抱いてた腕をゆるめて、俺の顔を見た。
「なんという怖ろしい話や。この絵を焼くなんて。西森が聞いたら気絶するで」
 深刻そうに言う藤堂さんが可笑しくて、俺は笑った。
 するやろなあ、西森さん。アキちゃんの絵、落書きでもええから何でも持って来いって言うてるもん。売りたいのもあるけど、単に見たいねん、あのオッサンは。アキちゃんが描いた絵を、全部見たい。苑先生もそうやし。大崎先生もそうや。ぶっちゃけ、オッサンどもはファンやねん、アキちゃんの絵の。
「ありがたく頂戴しとくわ。ホテルに飾ってもええんかな。廊下がどうも殺風景でなあ。せやけど気に入る絵がなくて……久々に西森にでも電話しよかと思うてたとこやけど。どうも気まずい。いっぺん死んでから、連絡とってへんのや。あいつ俺の葬式で泣いてくれたらしい」
 そうなんか。知らんかった。西森さん、俺には教えてくれへんかったで。あんたが死んでたなんて。言うてくれてもええんやないのか、俺の前の男やねんし、西森さん、俺とはアキちゃん絡みで何遍も会うてたんやから。こっそり耳打ちしてくれたかて、罰は当たらんやろうに。
 言いたくなかったんか。藤堂さん捨てて、新しい男といちゃついてる俺には。言うてもしゃあないと気を遣ってくれたんか。それとも、言うてやらへん不実な蛇やと、ちょっと呆れて怒ってたんか。最近の俺、西森さんにモテへんもんなあ。あいつ、アキちゃんのほうが好きなくらいやで、今は。
「これがお前の絵か?」
 どことなく裏返ったような声で、藤堂さんが俺に訊いた。手には、確かに俺が描いた、聖トミ子光臨図を持っていた。少女漫画みたいな、乙女チックな薔薇だらけの絵やで。絵の天使も黒の巻き毛で、睫毛もめっちゃ長いしな。でもほんまに、こんな顔なんやもん、姫カット。
 失笑したような堪えた笑い声を、藤堂さんは上げた。俺はむすっと照れて、またオッサンの胸に抱きついた。
「話せば長いけど、俺はある女を食うたんや。そいつが絵を描く女で、その画風が俺のもんになったんや。せやから女みたいな絵やねん。しゃあないやんか」
「怖ろしい蛇や、お前は。まだ人食うてんのか……悪魔サタンそのものや」
 言われた通りや。胸痛い。俺は愉快ではなかったけども、うんともすんとも言わず、藤堂さんの胸に縋り付いていた。ほんまに俺は悪魔《サタン》やけども、アキちゃんところでは忘れていられるそのことを、あんたのところに来ると、また思い出す。
 絵をさらりとデスクに落として、藤堂さんは俺の頬に触れてきた。温かい手やった。
「キスしていいか」
 俺の顔を上げさせて、藤堂さんは訊いた。間近に向き合う顔が、キスしてほしそうに俺を見てた。
「してええよ。もっといろいろ、してええんやで。三十分やろ……急いでせな、時間切れやで。ちゃんと俺が、いくまでやって」
「娼婦のようやなあ、お前は」
 見つめた真顔で教えると、藤堂さんは苦笑いした。
「娼婦やったら、話逆やろ。お前がいくまで、やらなあかんの違うんか。どこに舐めてもらって、客は干しとく娼婦が居るねん?」
 我慢プレイの女王様か、俺は。欲求不満で三日放置か。でもそれは、最後に出させてやるために、我慢させてんのやで。まあ基本はな。
 俺も相当我慢させたよな。オッサン、一年我慢してた。俺のせいやないと思うけど、全部自分のせい。強いて言うならヤハウェのせいや。あるいはヨーコのせい。
 ヨーコというのは、オッサンの娘の名前やで。藤堂さんが、世界でいちばん愛してる奴の名や。洋子と書くらしい。藤堂洋子。オッサン、オノ・ヨーコのファンでな、あんな一本芯のある、格好いい女に育ってくれって願いを籠めて、ヨーコと名付けたらしい。
 それが、お父さんホモやし死んでこいって言うんやから、確かに一本芯のある、強い娘に育ったんかもしれへん。あるいはその名に相応しくない、弱い娘になってもうたんか。
 お前のお父さん確かに蛇と仲良うしてたけどな、それでもお前のこと愛してたで。ヨーコに悪いと思って、めちゃめちゃ我慢した。それでも相手も悪魔サタンやからな、あともうちょっとで食われるわっていうところまでは、ハマってもうてたよ。でもそれは、しょうがない。人の身で、外道である俺のフルパワーの誘惑に、一年逆らった事のほうを、評価してやってほしい。
 何のために我慢したんや、藤堂さん。アホみたいやったな。結局バレて、ヨーコに振られ、その上、俺にも振られやで。惨めやったよなあ。
 やっといたらよかった。どうせヨーコにバレるんやったら、蛇に突っ込んどいたら良かったよなあ。そしたらきっと、気持ちよかったでえ。イケてる冥土の土産になってた。そもそも、死ぬこともなかった。そんな苦しい思いせんでも、良かったかもしれへんのやで。
「キスして……早う」
 お強請りしながら、俺はアキちゃんが抱いてた犬の喘ぐ声を、ふと思い出してもうて、苦しい気分になった。早うしてください先輩。早う早うて強請る犬に、アキちゃんはなんで、我慢したんやろ。やりたかったやろ。ムラムラ来たやろ。なんであいつと気持ちええことせえへんかったんや。
 藤堂さんが迷ってるふうやったんで、俺はどうにも待ちきれず、早うしてくれって、自分からキスをした。とっととやってくれ藤堂さん。やりたかったんやろ。俺を犯してくれ。最初にこの部屋で、やろうとした時みたいに、無理矢理みたいに抱いてくれ。
 何度か触れるだけの唇で誘うと、藤堂さんはそのうち、我慢できんようになったのか、それとも覚悟を決めたんか、俺の背を抱き寄せて、舌で唇を割ってきた。
 気持ちいい。熱いキスやで。背筋がぞくぞく怖気立つ。熱いような。怖くて凍えそうな。俺はそれに震えてきて、ああどうしようと思った。
 抱かれたい。ほんの一年前に、抱いてほしいて毎日悶え苦しんだ、憎い愛しいオッサンや。滅茶苦茶なるまで突いてほしい。
 でも、そしたらアキちゃん、どう思うやろ。傷つくやろうな。傷つけようと思って、やってんねんから。それでいいはず。でもアキちゃん、傷つくんやろうなあ。
 ふん。知るかやで。そんなこと。あいつもラジオと寝たんやで。俺を日干しにしておきながら、すっきり爽やかに熟睡してまうぐらい、いっぱい抜いてもらったんやで。
 むかつく。そうや、その意気や、俺。アキちゃんギャフンと言わせたれ。オッサン呑んでやって、気持ちええわあ狂いそうって、身悶えて叫べ。
 でも、なんて叫ぶの。
 俺はいつも、極まってくると言うてるらしい。自分では無意識なんやけど。
 アキちゃん好きや、アキちゃん好きやって。
 でも今、俺の体を抱きしめて、肌をまさぐる手の持ち主は、アキちゃんではない。藤堂さんや。
 藤堂さんに、そんな睦言を囁いたことはない。俺はベッドでも、結局、悪魔サタンのままやったし。気持ちええわって悶えても、甘く名前を呼んだりはせえへんかった。ただ愉悦に浸るだけ。気持ちええわあ、もっとやれ。もっと気合いを入れて、ご奉仕しろって、命令するだけ。
 果たしてそこに、ほんまに愛はあったのか。
 俺がこのオッサンを愛してたのは、エロくさい事してる時やない。ふとした機嫌のいい時に、オッサンが話す、好きな歌の話。可愛い可愛いヨーコの話。その時の優しい目。それを俺にもくれって、切なくなるときの。ビートルズは俺も好きって、歌歌ってやるときの俺を見る、このオッサンの嬉しそうな目に見られ、抱いてくれって切なく思う時の心の中に、一瞬過ぎって消えただけ。それが愛で、抱き合うてる時には無かった。ひとかけらも。
 俺が今、それに気がつくようになったのは、たぶんアキちゃんに抱いてもらったからやろう。アキちゃん好きやって泣いて喘いで、毎晩抱いて寝てもらったから。
「愛してる……亨。お前が好きや」
 裸に剥いた俺の胸に、頬擦り寄せて、藤堂さんは言った。目を合わせずに。
 それは結局、後ろめたい睦言やった。デスクの写真立てにはもう、俺の写真はなくて、からっぽのままのフレームが、ひっそり立てられていた。
 遥ちゃんの写真、入れてやらへんのか、オッサン。ヨーコももう、あかんしな。おとん嫌いやって、拒まれたし、オッサンは誰を愛していいやら、わからんようになってもうた。
「愛してない、俺は。浮気やねん、ただの。それでもええか」
 乳首舐めてるオッサンの舌に喘いで、俺は使用上の注意を伝えた。気持ちいい。ほんまに上手い。ヤバいから、これは。俺はそれに弱いねん。感じちゃうのよ、亨ちゃん。でもアキちゃんが舐めてくれる時が、一番気持ちいい。口も利けへんようになる。アキちゃん好きやって、それしか言われへん、アホな子みたいになってるんやで。
「ここで犯る気か。絵がれてまうから、他所へやってからでもいい?」
 俺をデスクに押し倒そうという気配の藤堂さんに、俺はそう訊いた。それに藤堂さんは、不思議そうに首を傾げた。
 欲情したような顔やった。目が爛々としてる。
 今やこいつも蛇の仲間で、食うとなったら貪欲なんやろ。血肉を貪る牙を隠したような、熱い息の口元で、藤堂さんは薄く笑った。
「そうやなあ。ここはまずいか。仕事場やしな……。隣に行くか」
 隣というのは、藤堂さんのベッドがあるところや。支配人室の隣が、このオッサンの住み処やねん。今は遥ちゃんと住んでいる。いつもやったら、その嫁と抱き合うて寝てる、そのベッドやで。そこで俺を抱こうというんか。
 なんという男やねんお前は。ほんまにえげつない。そんな奴やと思うてへんかった。嫌やろなあと思って、デスクでやろかって言うてたんやで、俺は。
 オッサンが京都のホテルのインペリアル・スイートで、俺を抱かへんかったのには、たぶんもう一つの隠れた理由があったと思う。そこが自分の仕事場やったからや。俺は一応、客やった。客室名簿にも、俺の名前はちゃんと、宿泊客として載っていた。
 長逗留の、水地亨様。ホテル住まいの謎の美青年。藤堂支配人とデキている。皆それを知っていたけど、それは公然の秘密というやつや。
 オッサンもその状況には、ちゃんと気づいてたやろうけど、気づかんふりをしていた。そんな破廉恥なことは、俺はしてないと思いたかったんや。客に手出すやなんて。男妾をスイートで飼うなんて。そんな大罪は犯していないと思いたい。
 それもあって、躊躇っていた。
 せやから、どこかの部屋のベッドを使って、一発やろかと誘っても、藤堂さんはヴィラ北野の客が寝るためのベッドでは、俺とやりたくないやろう。
 でも、それ以外でベッドあるとこ言うたら、この部屋だけなんやで。まさかスタッフルームの仮眠ベッドでやるわけにいかへんやろ。誰か来たらどないすんねん。そんなとこ見られたら、格好悪うて耐えられへん。オッサン、絶対自殺するわ。死なれへんけどな。
 遥ちゃんと寝る愛の巣のベッドも、けがしたらあかんやろ。俺はそう思って、気を遣うてやったんやけど。オッサンそこで俺と寝るんやって。
 上半身裸のままの俺の手を引いて、オッサンはその広いワンルームの住み処に連れ込んだ。がらんとした空間に、ほどほど趣味のええ家具のある、少し暗いような部屋やった。壁にはばっちり防音してある。それは藤堂さんの趣味が音楽で、スピーカーがビートルズやワーグナーを歌っても、お客様にはご迷惑をおかけしないような仕様になってるだけのこと。
 でも、こういう時には浮気もバレへん。どんなに俺が叫ぼうが、ちゃんとドア閉めとけば、普通の耳では聞こえへんやろう。それでなくても地下やしな。分厚いコンクリートが、秘密を守ってくれる。
 黒い木枠のベッドには、暗いグレーの布団がかけられていた。骨董らしい、黒くいぶされた鉄のヘッドボードには、鍛冶職人の神業で、ちょっとおどろおどろしいような唐草文様が、蛇みたいにのたうつ鉄によって描き出されている。
 オッサンちょっと、趣味変わったんとちがうか。前はもっとノーブルで、気高いもんが好きやった。それにしてはこの部屋は、なんとなく夜の匂いが強い。まるで古い城の、見てはいけない地下室や。石の匂いと、古い血の臭いがするような。
 それはそれで、ものすごイケてた。格好ええし、見る人がすごいと思うような、そこはかとない病的な陰影のある美しい部屋やった。毎晩神父をレイプするには、ぴったりの部屋やったなあ。
 悪しき蛇と絡み合うにも、ちょうどぴったり。
 ベッドに座ってネクタイ抜いてる藤堂さんを、俺はごろ寝して見た。布団を剥ぐと、シーツのリネンも上物やった。ただし真っ黒なんやで。黒いシーツって、なんか凄いなあ。俺らのベッドも黒くしようか。そのほうがエロくさい。
 アキちゃんはどう思うやろう。そういうの好きか。
 今は居らへん、自分の心の中の相方に、そう訊いている自分を感じて、俺は困った苦笑いやった。
 好きも嫌いもないやろう。俺が黒いシーツで抱いてほしいって頼んだら、アキちゃんは抱いてくれる。俺が気持ちええわって悦べば、アキちゃんも嬉しい。そういう男やねん。
 藤堂さんとは真逆やな。オッサンは頑とした美学のある男。それに相手を押し込めようとする。鉄の処女に押し込んで蓋閉める。それで相手が痛いって、苦しがってようが、気がつかへん。お前はこのほうが美しい。そのほうが、俺は好きやって、そんな理由が通用すると思うてる。
 そんなふうに調教されて、気持ちええような変態でないと、このオッサンとは上手く付き合うていかれへん。
 よかったなあ、遥ちゃんみたいな変態が見つかって。割れ鍋に綴じ蓋。価値観押しつけサド男には、洗脳されたら気持ちいい、パパが大好きなマゾ男やで。合うてる奴どうしくっつくのが、たぶん一番気持ちいい。
 俺がアキちゃんとくっつくのが、一番気持ちいいみたいに。
 しかし俺、今はほんまに藤堂さんと、くっつこうと言うのか。なんや今さら急に、心臓ばくばくしてきた。緊張してきた。
 見慣れん、お洒落すぎる美しい部屋。ピンスポットで照らされている暗い舞台ステージみたいな黒ベッド。オッサンの読書灯やろけど、どうしても、なんか気恥ずかしい。全部見ちゃうわよみたいな感じがして。まっ暗くせえへんのか、藤堂さん。
 俺を裸に脱がせつつ、藤堂さんは自分も脱いだ。
 変やと思うやろけど、俺がこの人の裸を見たのは、これが初めてやった。いつも脱がへんかったんや。風呂も一緒には入らへん。たまに泊まる時でも、ひとりで風呂浴びて、寝るときはパジャマ着てやがんのやで。
 だから俺は、ちょっとドキドキした。思わず視線そらした。けっこう、ええ体してたんやなあと思って。
 それにのしかかられつつ、首筋に触れる唇や、体を撫でる手を許し、俺は素肌の感触に、そわそわしていた。脱いでることを別にしたら、このへんまでは、昔馴染みの感覚やった。藤堂さんが俺の体で、触ったことない場所なんかない。どこか手慣れたような、懐かしい愛撫で、俺が心地よくなるところを、のんびり撫でていた。
たへん男は卒業か……?」
 恥ずかしいのを紛らわせたくて、俺は藤堂さんに嫌みを言うた。藤堂さんは不思議そうに、ふと手を止めて、俺の顔を見たようやった。
 特に返事はなかったけども、俺は藤堂さんに手を握られた。そしてその手に、わかりやすい答えを触れさせられた。
 ああ。単純明快やな。ってるわ。それにちょっと、思ってたより凄いみたいやわ。ヤバいよう、これは。遥ちゃん泣くわけよ。詳しく言うたらあかんかな。まあ、ご想像にお任せで。
 アキちゃん、若干、敗北したかな。若干な……。ちょっとだけ。あいつもなかなか、立派な男なんやけどな。そんな話、別にええか。うんうん、気になるな。俺も気になる。気になるなあ。
「あのさあ……一体いつから、男の抱き方なんか覚えたん。実は元々知ってたんか? そんなことないよな……藤堂さん」
 知らんみたいやったで。前は。俺と京都のホテルで何やかんやあった頃には。
 せやから俺は、どうやってご奉仕するか、このオッサンに教えてやらなあかんかった。アキちゃんと同じや。初物やってん。
 藤堂さんは、画商西森が連れてる俺を見て、一目惚れしてもうたらしい。不道徳インモラルな話しやなあ。男抱いたらあかんはずの、ヤハウェのしもべが、友達で仕事仲間の男が連れてる男見て、欲しいなあと思う。
 藤堂さんが俺に気があるふうなのは、俺もすぐ気がついた。西森さんも気づいたんやないか。あの人、そういうの聡い男で、いろいろわきまえてるからなあ。
 俺も藤堂卓とうどう すぐるを気に入ったらしい。ホテルのレストランで、めちゃめちゃ美味い鉄板焼きの松坂肉とロブスター食らった後に、もう一腹満たすデザートとして、藤堂卓を食いたいらしい。西森さんは、そう感知したそうや。
 でも、藤堂さんがそういう趣味のある男なやい。それどころか浮気もせえへんお堅い奴やって、西森さんは知ってたはずやで。
 そやけど絶対、才能あるわ。あの人は絶対、潜在能力あるからって、西森さんは言うてた。俺やったらその能力を、立派に開花されてやれると、思ったらしい。
 余計なお世話やで、西森さん。ええ人やねんけど。悪戯小僧みたいやねん。友達をめて、楽しいか。それで死ぬ目に遭うたんやで、藤堂さんも俺も。
 あいつがホンマモンの悪魔サタンやで。あの画商。
 けど西森さんは、ほんまに藤堂さんの友達やったんかもしれへん。癌やていうのを、聞いてたらしい。そして俺に、怪我や病気を治すような、延命の御利益があることも、知っていた。もしかしたらその縁を取り持てば、友達助かるんやないかと目論んだんやろうなあ。
 まぁ、実際助かった。死んだけど。蘇ったし。今も生きてる。外道やけど。でも元気やで。めっちゃ元気。ものすご元気。こんなに元気でええのかなっていうぐらい元気。
 どうしよう、俺、犯される。早くしてえ。楽しみすぎる! 今で何分経過してんの。早うせな三十分過ぎてまうよ!
 喋ってる場合やないよ俺。いっそ自分から跨るくらいの気合いで行け。
 頭の司令塔はそう命令してんのに、俺はなんでか恥ずかしそうに、藤堂さんに話しかけていた。
「あんた初心うぶやったやん。初め。モテるけど、ケチやし抱かんて、西森さん言うてたし。ほんまに初めてやったんやろ、俺と最初にやったとき」
 照れながら、俺はそれでもしっかり指先で、藤堂さんを煽りはしたわ。いやあ、折角やし、いっぱい触っとかんと。
「ほんまに初めてやったで。そんなん普通そうやろ?」
 気持ちええらしい。ため息つきつつ、藤堂さんは俺の質問に答えてた。
 何が普通か微妙やけども。まあ、そういうもんやろか。それでもオッサン、ほんまに男にモテてたで。西森さんが藤堂さん好きやったんも、恋愛というほどではないけど、藤堂さんから何かエロくさいオーラがゆんゆん出てたせいやろうし、藤堂支配人の放つ悩殺フェロモンみたいなのに、めろめろなってるホテルマンも客も、いっぱいおった。偉そうな爺さんが、藤堂君可愛いなあて定宿にしてたりもした。
 でもオッサン、天然やから気がつかへん。若い頃からそうやったんやろ。偉いさんが自分を可愛がってくれても、ええ人やなあで終了、みたいな。礼節のある男やし、中元歳暮は欠かさんかったやろうけど、相手がほんまに期待してるもんには、ほんまに気がついてへんかったやろう。
 それが西森さんには爆笑らしいで。おもろいんやって。偉そうな爺どもが肩すかし食う。でっかい飴みたいなエメラルドの指輪した、有閑マダムがお預けを食う。抱いて犯して好きにしてみたいな可愛い従業員が、ほなさいならって飲み会の後の木屋町にうち捨てられていく。その、爽やかに去る藤堂卓の後ろ姿が、いつも西森さんの爆笑のツボやったんや。
 俺のこと、抱いてくれへんて西森さんに愚痴ったら、それにもめちゃめちゃ笑ってた。しゃあないから代わりに食うてやろうって言うて、俺の欲求不満の処理はしたけど、あの人、基本、藤堂さんが好きやったんやで。オヤジ・ミーツ・オヤジやな。醜い。オッサン同志の恋愛未満なんて。お前らどっちも俺を虚仮こけにしている。神のごとき美青年を間に挟んで無視するやなんて。
 言うたろ。西森さんに会うたら。藤堂卓とうどう すぐるをとうとうモノにした。何かお祝いよこせって。
 でもまだ、それは完遂されてない。まだ前戯。
「ジョージに習ってん」
 ぶっ。何言うてんの急に。
 藤堂さんは訊いてへんのに、むっちゃ正直に暴露していた。
 ジョージって、朝飯屋のマスターやんか。あのガイジン。小説家やで。
「はじめはただ飯食いに行ってただけやったんやけど。ベッド行こうか卓さんて、あいつが誘うもんやから、ほな行ってみようかなあ、と思って……」
 行ってみるなオヤジ。それでセックスフレンドか。どんだけ解放されたんや。アホは死なんと治らんて言うけど、いっぺん死んで治ったんか、アホが。欲しいもんは欲しいって、やっと気がついたんか。
「やったんか、ジョージと!」
「うん。やった。週一くらいで、勉強会」
 どんな魅惑の勉強会や。そんなん俺がレクチャーしたかった。おのれジョージ。ちょい役の分際で、なんで藤堂さんの初物もっていくんや。俺がどんだけこの人のために、ひいひい言うたり、十一階のテラスからダイブまでしたと思うとんのや。お前、朝飯食わしてやってただけやないか。ポリッジ食わして初物食えるんやったら、俺なんか、毎朝バケツ一杯でも作ってやったわ。どんだけでも飯作ってやったわ!
「今までの人生、俺はなにをしてたんやろ」
 藤堂さんはしみじみと、俺の体を撫で撫でしつつ、そう独白していた。そんなに目からウロコやったんか。そんなにかったんか、ジョージの勉強会は。
「こっちのほうが合ってると思う。気持ちいい」
 こっちのほうって、男のほうが好きって意味やろな。藤堂さんは俺の体に指入れて、ごそごそしつつ、そう言うてた。いやあんやめて、相変わらず器用なんやから。亨ちゃん、もじもじしちゃうやんか。
ようとも結構合うてるようやで。毎日やってる。もう病みつきや」
「むかつくわ……神楽遥」
 俺がまた新しい焼き餅を網に乗せていると、藤堂さんは声もなく、笑っていた。そして白い歯に混じる、鋭い牙の先を、ちらりと一瞬、口元に見せた。
「お前が俺を振ったんやで。本間先生が好きやと言うて」
「そうや……好きやで……」
 ごそごそされんのがつらい。もう、入れて。ちょっと早いけど、待ちきれへん。時間もないしと、気になってしょうがない。
「そうやろ。あいつもそう言うてる」
 首を巡らせ、藤堂さんは何かを指し示した。それで初めて俺は、部屋の壁にあるでかい絵を、藤堂さんの肩ごしに、じっと見つめた。
 見んようにしてた絵やった。ここにあるのは知ってたし。見覚えのある絵のはしっこが、視界の端に入った時から、そっちは見んように気をつけてたんや。
 でも見てもうた。オッサンが見ろみたいに言いよるからや。ひどい話や。意地が悪いわ。思い出してまうやんか。アキちゃんが描いた絵や。
 絵の中で、俺とそっくりな美貌の男が笑っていた。恥ずかしそうに。でも切ないみたいな、淡く寄せた眉をして。うっすら微笑む口元で。眩しそうに何かを見ていた。
 光の加減からして、それは太陽を見ているわけではない。それとは逆方向にあるものを、絵の男はじっと見つめてた。憧れを持って。めっちゃ愛してるみたいな目で。
「この絵にタイトルついてるの、知ってるか」
 藤堂さんは俺に教えた。俺の知らんかった、その事実を。
 アキちゃんは、自分の絵には、あんまりタイトルつけへん。そんなん考えて描いてへんのやもん。適当やからな、あいつ。
 せやから、しゃあない。代わりに誰かがタイトルつける。絵には名前があったほうがええんや。だって、展示したりするときにはタイトル添えるし、売り買いするときにも、名前がないと、ほらあの絵、川原で髪の毛長い美青年立ってる、えっ、どれ? ほらアレですやん、本間暁彦作の! ええ、どれやろか、とか言うてられへんやんか。
 苑先生が、適当につけて、作品展に出してやる。
 あるいは画商西森が、勝手につけて絵を売ってやる。
 そんな感じでタイトルが決まる。
 ほんで、アキちゃんが描いた、川原に立っている俺の絵にも、アキちゃんでない他の誰かが、勝手にタイトルをつけていた。
 それは誰やと訊ねれば、誰やと思う。
 誰あろう。それは、大崎茂。ヘタレの茂ちゃん。秋尾さんのご主人様。痩せた海原遊山や。
 あの爺さんが、まずアキちゃんから絵を買うた。そして藤堂さんに転売してやる時に、勝手にタイトルをつけたんや。契約書を交わすため。お前が死んだらこの絵は必ず自分に売るようにと、血判押させてんのやで、あの爺さん。
 その契約書に、この絵のタイトルが記入されていた。
「蛇神、暁月ぎょうげつを愛でる」
 紙にはそう書いてあったと、藤堂さんは話した。
「愛でまくりやで……」
 堪えがたいというふうな、苦しそうな顔をして、藤堂さんは目を閉じ、俺にそうぼやいた。
 話題がつらい訳やないねん。オッサンもう、そのへん突き抜けてもうてたらしい。
 つらいのは、俺の指。もう、我慢できへんかったらしい。
 我慢が効かんようになったなあ、藤堂さん。ちょっと揉まれたくらいで、ああもうあかん、入れたい入れたいってなるんや。上の人の見かけ以上に、下の人が若返ってんのと違う? やるなあ、下の人。偉いよほんまに。
「入れてもいいか」
 嫌やないかと、気遣う口調で藤堂さんは俺に訊ねた。もしも俺が嫌やと言うたら、やめとくんやないかと思えるような、そんな優しい口調やったわ。
 やめとこか?
 そんな訳ない。俺がそんな勿体ないことをする蛇か。食うとく食うとく。お腹ぺっこぺこなんやから。それに藤堂さん、もう我慢できへんらしいから。ボランティア、ボランティア。遥ちゃん今夜帰ってけえへんらしいしな、困るやんか、藤堂さん。もしも、こいつまでおぼろに盗られてもうたら、俺もう、あいつに地団駄踏まされすぎやんか?
 食うよ。がっつり行っとく。
 文句なんか言わせへん。アキちゃんかて浮気した。これでフィフティー・フィフティーや。お相子あいこですよ。それだけです。
「入れて、藤堂さん……抱いてくれ」
 そういう割には必死な声で、俺はめちゃめちゃ強請ってた。ごめんやでアキちゃん。すまんなあ神楽遥。ざまあみろ。
 藤堂さんは、もう待たへん仕草で迷いなく、俺の足を抱えた。ああどうしよ。それから目を背ける程度には、俺は少女漫画のままやった。恥ずかしいねん。恥ずかしがるような珠やないねんけどな。
「あ……」
 押し開かれる感覚に、俺は目を伏せ、切ないつらさに身悶えていた。
 気持ちええわあ。ほんまに気持ちいい。体もえけど、昔、いっぱいつけられた、痛い古傷が、その感覚にゆっくりと、癒やされて消える。そんな感じがする。
「藤堂さん、キツい……」
「我慢してくれ、もうちょっとやから」
 満たされすぎの感覚に、悶える俺の体を抱いて、藤堂さんはゆっくり入れた。もうだめ。キツいよう。緊張してんのかな俺。まさかこの俺様が、ただヤるだけの正常位ごときで、なんで緊張せなあかんのか。
 でも、実はちょっと、乙女みたいになってたわ。胸がドキドキ。恥ずかしいわ、みたいな。ほんまに恥ずかしい。ものすご感じる。俺って悦に入ると、なんでかブルブル震えてまうんやけどな。アキちゃんそれが、可愛くて好きらしいんやけど。藤堂さんも好きやったらしい。抱きしめた体が小さく震えているのを感じたんか、もっと強く、ぎゅうっと抱いてくれた。
「気持ちいいか、亨」
「すごくいい」
 震えながら必死で頷くと、藤堂さんは閉じた俺の目元にキスをした。
「なんで泣いとうのや。嫌なんか?」
 涙を吸うてる、淡い唇の感触に、俺はうっすら目を開けた。確かに泣いてたかもしれへん。視界がぼんやりぼやけてた。
「嫌やないよ……でも、藤堂さん……俺はあんたのことが、すごく好きやった」
 必死で話すと、藤堂さんはうんうんて、聞いてるような顔をした。
「めちゃめちゃ好きやったんやで。でも言われへんかった。あんたが愛してくれてないと思ってたんや。なんで言わへんかったんやろう。ちゃんと言うときゃ良かったよ。変な意地なんか張らんと……」
 話していると、なんでかぼろぼろ涙出た。なんで泣いてんのかな俺は。よう分からんのやけど。藤堂さんはそれを、困ったような微笑で見ていた。なんか切ないような。ちょうど川辺に立つ俺の絵が、そんな顔して月を見る、それと同じ目で。
「好きやったんや、藤堂さん。ずっと愛してた。抱いてもらいたかってん。それだけやったんやで。なんも悪気はなかったんや。俺のこと、悪魔サタンやなんて、思わんといてくれ」
 うんうんて、泣いてる俺に頷いて、藤堂さんは俺が泣いてる顔をじっと眺めた。そして、なんか感動したように、ぽつりと言うた。
「亨。お前はなんて、美しい子や。まるで絵のようや。俺はほんまに、お前が好きやった。ほんまはずっとこうして、自分のもんにしたかった。なんで我慢してたんやろか。アホやったんやなあ」
 ほんまにそうやで。ドアホやったで藤堂さん。お陰でお互い苦しんだ。意味のない苦しみやった。俺にとっては少なくとも、そうやったで。
「やっと、ひとつになれたな、亨」
 耳元に囁く声がして、それにある愛の響きに、俺は震えた。ブルブル来たよ。ものすご感じた。もうイキそうみたいやった。
「三十分だけやけどな」
 笑う意地悪い声が、また耳元に囁いて、俺はオッサン蹴ったろかと思った。でも、甘く呻いて、のたうつような悶えかたをしただけやった。
「突いて……早く」
 切なく強請ると、それに頷く気配がしたわ。返事はなかった。そんなんなくても、藤堂さんが俺のお強請り聞いてくれたことは、体で分かった。
 ぎゅうっと抱いて、優しく労るやりかたで、それでもどっか意地悪く、藤堂さんは俺を責めてた。めちゃくちゃ喘いだ。それはちょっと、自然に口を衝くというよりは、作った声やったかもしれへん。俺はオッサンのために、愛の歌を歌ってた。
 俺は夢中でいたけども、頭のどっかは冴えていた。藤堂さんに抱かれる時の、この感覚を、いつまでもずっと忘れんように、しっかり覚えておきたくて。俺はいま、すごく感じてる。ものすごく気持ちいい。ものすごく、幸せな気分。それはこんな感じ。触れあう肌の感触は、こんな感じやと、すぐに仕舞い込む予定の記憶のページに、一生懸命書き付けていた。
「愛してる、藤堂さん……」
 ほんまは過去形やと思えるその睦言を、極まる寸前の悲鳴地味た声に乗せ、俺は藤堂さんの耳に囁いてやった。オッサンはそれに、ただ頷いただけやった。もう声出えへんらしい。
 えやろ、俺は。汗びっしょりやろ。
 お前がそんなに俺に必死になっている姿を、いまだかつて見たことがない。ええ気味や。
 ほんまやったら何百回と、これをやれた。それを全部お前は、無駄にしてきたんや。後悔するがええよ。時々思い出して、悶え苦しめ。俺がずっと、お前に干されて悶えたように。
 それとももう、そんなつもりないんかな。遥ちゃん居れば平気か、藤堂さん。
 そうやとええなと思うけど。でも、そうでないとええのになとも思う。
 応えてやる気もあんまりないのに、俺がお前に知らん顔しても、お前はずっと俺を想っていてくれって、願っている。そんな俺は我が儘な蛇で、やっぱり悪魔サタンなんかもしれへん。藤堂さんにとっては、ずっと。
「ああもうイキそう。責めて藤堂さん。めちゃめちゃ突いて……!」
 熱く悶える涙声。それを聞き、藤堂卓は頷いた。そして俺の体を責めた。天にも上る心地がした。そしてほんまに俺は、昇天してた。するはずないんやけど、悪魔サタンで蛇の、水地亨やしな。
 でもほんまに、天国みたい。熱くて気持ちいい。幸せやねん。鋭く喘いで、身を揉む俺を抱きしめて、藤堂さんが果てる。俺の中で、熱く煮えたような愛を吐く。甘い。それが蕩けるような甘い何かで、俺の全身を駆けめぐる。いずれ血となり肉となるその熱い精気で、俺は生かされる。ほんのちょっとの間やけども。
 ありがとう、藤堂さん。俺は悪い子やったけど、今は幸せ。もう拒まんといてくれて、ほんまにありがとう。遥ちゃんに、殺されんように注意してくれ。死ぬには惜しい男やからな。いつまでもどこかで、俺のこと愛してて。遥ちゃんには秘密の、心の片隅でええねん。そこにちょっぴり邪悪な、可愛い蛇さん飼うといてくれ。
 でも俺はそれを、言葉にしては頼まへんかった。もうそんなこと、うるさく強請らんでもええわ。きっと藤堂さんは、忘れはしないやろ。俺の目を見て荒い息をつく、鋭い目の奥を見ると、そういう気がした。この男はずっと、俺のもん。今日抱いた俺の肌を、ずっと忘れず生きていくんや。永遠にずっと。
「どうしたんや、一体。急に抱いてくれなんて」
 藤堂さんは、はあはあ汗かきながら、息整える口調になって、俺にそう訊いた。
 それって普通、ヤる前に訊くことやない? それでもし、これはヤったらあかんなあ、みたいな話やったら、優しく拒んでやめとく話やない?
「アキちゃんが、浮気してん……」
 俺は深刻な顔をして、そうチクってやった。藤堂さんは、それに真面目に頷いて、部下に問題点を訊く支配人の顔やった。
「そうか。でも、お前も今してるやん。俺もしてるし。皆してるで?」
 しれっと言うて、藤堂さんは俺の中から出ていった。むっちゃスッキリしたらしい、気分爽快の顔やった。
 えっ。あのな。アキちゃんな。イった後でも、いつも、けっこう長いこと俺の中に入れたままやで。ほんで、優しく抱いて、かったか亨、愛してるとか言うで。ほんまに言うで。アキちゃん、エロの後、ちょっと正気やないねん。愛しすぎてて、脳みそ沸いてるんやろなあ。
 それにとっとと汗ふいて、服着たりもせえへんで。藤堂さんみたいに。
「ゆっくりしすぎた。風呂入ってる時間ないわ」
 部屋のすみの、ベッドの奥にある、イケてる白いシャワーブースを睨んで、藤堂さんは腕時計を見た。そういえばこいつ、腕時計したままやったで。ヤるときも……。
「ゆっくりしていけ。あんまり、あちこち嗅ぎ回らんといてくれよ。ようにバレたら半殺しやし。まあ、ええけどな。それはそれで……」
 くすくす笑って、藤堂さんは苦笑していた。スーツの上着を羽織りつつ。超早い。もう服着てる。ひどすぎへんか、それ。ひどいなあと昔思ってたけど、また思い出してきた。この極道さを。
「本間先生、ええ子やないか。俺は好きやで。絵も上手やし。さっきの絵も、ものすご良かったわ」
 この野郎。ものすご良かったは、俺とのエロの感想で言え。なんで絵やねん。
 コンクリート打ちっ放しの壁に立てかけてある、黒檀の枠のでかい姿見に、自分を映そうとして、藤堂さんは舌打ちをした。鏡に映ってへんかったからや。
「あかんわ……最近、滅多に映らんようになってきた。ネクタイ締めてくれへんか。いつもは遥にしてもらうんやけど」
 にこにこ言うて、藤堂さんは俺が面倒見るものと信じてるような顔をして、途中まで締めたネクタイのある首を、俺に差し出した。
 ぶっ殺すで、ほんま?
 俺は少々キツめに、ネクタイぎりぎり締めてやった。藤堂さん、キツいキツい言うてたわ。しゃあない。首締めたいから。
「シャワー使っていき。先生にバレへんように。それくらい気遣え」
 撫でつけて髪直す藤堂さんの横顔は、最高にイケてた。男前やった。俺はそれに、ムカつきながらも、どこか心の奥で、うっとりしていた。
 俺、良かった。遥ちゃんやのうて。
 この人、ほんまは悪い男やで。元々どうかは分からんのやけど、俺のせいかな。悪魔サタンになってる。そうとしか思えへん。
「藤堂さん……遥ちゃんにバレへんように浮気してんのか」
「いいや、してへんよ」
 きっぱりと即答で、藤堂さんは答えた。腕時計を確認しつつ、爽やかに。
「浮気すんなら、秘密にせんと全部言えって、あいつが言うたから、それ関係は全部言うてる。ジョージとキスしてもうたとか」
「してもうてんのか!?」
 俺は絶叫やった。
「いやあ。あいつガイジンやから。どういう意味か分からへん。挨拶挨拶」
 快活に笑い、藤堂さんは上着のボタンをとめた。
 そして、こんな顔した。俺は見たことある。藤堂さんが会議があるって、俺をほったらかした時、寂しゅうなって、こっそり覗き見しに行ったんや。その会議室で、時間切れになる話の終わりにな。腕時計見て、今の顔して、こう言うた。
 大変興味深い話題が出ておりますが、そろそろお時間となりました。これにて閉会とします。ではまた次回!
 そして、えっ、みたいになってる他の偉いオッサンたちを黙らせて、めっちゃ爽やかに、部屋出ていった。
 終わり言うたら、終わるから。藤堂支配人が、支配者なんやから。相手が資本家の爺さんやろうと、株主やろうと、クレームつけてきた客であろうと、藤堂さんがハイ終了言うたら終了やから。それはもう、しょうがないから。ルールやからな。支配者ルーラーがそう言うんやから、しゃあないよ。
「遥ちゃん可哀想やで!?」
 しかし俺はなおも追い縋っていた。ベッドに這って、あっちいってもうた藤堂さんの背中に向けて叫んでる。
「ほんまにそうやな。俺みたいなのと連れ合うてもうて、可哀想な子や」
 すたすたと、バーみたいなのがある壁際へ行き、藤堂さんは綺麗なタンブラーに冷蔵庫から出したエヴィアンを注いで飲んだ。
「でも、しゃあないやん。愛してんのやろ。我慢せなしゃあない。耐えるのも愛や」
 それが真理やと、大きく頷いて、藤堂さんは、ほなさいならと、俺に微笑んだ。
「お前も諦めろ。本間先生は絶対に才能がある。画家を支えろ、お前の愛で。あんな天才に愛されて、お前はなんて幸せな奴なんや」
 うっとりしたような口調で、藤堂さんは言うていた。まるでアキちゃんがすごく好きみたいやった。
 えっ。なに言うてんの、藤堂さん。マジでアキちゃん好きなんか。俺より好きなん? そんなアホなやで……。
「お前のことは、俺が支えてやるから、心配するな。ほんで俺のことは、遥が支えるやろ。……遥はいったい、誰が支えんのやろな?」
 お前やないんか、藤堂さん……。
 俺は呆然として、立ち去るおっさんを見送った。素っ裸のままで。
 ぽかぁーん、とした。正直。ぽっかぁーん、やった。
 自由すぎへんか。藤堂さん。そこまで突き抜けてもうてたとは。死ぬと人間、生まれ変われるんや。ほんまにそうなんや。
 あんな人やなかった。ほんまに暗かったんやで。でも、それが、すごくステキに見えたんや。
 でも、今の、あの、ちょっとアホみたいなのも、まあ、ええわ。まあ、ええか? いや、どうかな。正直ちょっと、よう分からん。でも、まあ、ええか。
 抱いてくれたしな。
 抱いてくれたで、藤堂さん。
 嬉しいなあ。
 まだ身の内にある、その感覚を思い返して、俺はエロくさい陰気ベッドの上で、ぼけっと膝抱えてた。エアコンされてて、暑くも寒くもなかったけども、でもやっぱ、ヤった後には抱き合いたい。肌寒く思える。ひとりやと。
 俺はアキちゃんのほうがええわ。アキちゃんが好き。
 藤堂さんはもしかすると、照れただけかもしれへん。恥ずかしなってトンズラこいただけかもしれへん。そう思うのは、俺の自惚れやろか。だって俺を愛してるって言うてた時の藤堂さん、どう見ても、本気の目やったで?
 そう思わへんかったら、悔しい。だって俺はどんだけ幸せやったやろ。ひどい話や、浮気でやけど、アキちゃんに抱かれて、ああ幸せやなあって思うのに近い。そんな高いクオリティやった。
 あのオッサンでもいい。俺の運命の相手は。
 でも何でやろ。俺はもう、支度していた。さあ帰ろって。
 シャワー使ってええよって、藤堂さん言うてたしな。俺は白いシャワーブースに入り、透明なガラスの扉を閉めた。丸見えなんですけどね、この風呂。シャワー浴びてんの、ものすご見えるんですけども。
 藤堂さん、知らんかったけど、実はそういう趣味? 見たいの? 人が風呂入ってるとこ。
 まさかね。一人暮らし予定だったからやんね。一人やったら別に、風呂丸見えでも関係ないもんね。
 せやけど遥ちゃん、この風呂入ってんのかな。バスタブはない。トイレとバスタブは、別室のほうにあるみたいやった。せやけど普段はこっちを使ってんのかもしれへん。俺にこれ使えってすすめるくらいなんやから。あいつらガイジンみたいなもんやし。藤堂さん、外国暮らしに慣れてて、そっちの生活のほうが性に合うてるらしいねん。
 家ん中でも、靴はいてたで。テレビ観ながらゴロ寝とか、せえへんねんや。せえへんのやろなあ。というか、そもそもテレビがない。ベッドとシャワーと、居間になってるらしい、ちょっとレトロな革のソファセットと、簡単なキッチンがあって、こじゃれたダイニングテーブルがあり、それにアンティークの椅子がついてる。一個ずつ全部違う椅子やねんけど、四個そろうと、不思議な調和がとれていた。
 遥ちゃんとふたりで、そこで飯食うてんのやろか。それにしちゃあ、使ったことないみたいな、新品そのもののキッチンやったで。ゴミも出てないしな。
 あいつら毎回、外食か?
 あかんで、そんなん。トミ子に怒られちゃうんやで。ちゃんと自炊して飯食いなさいって、聖トミ子のお告げなんやで。それ言うてた時には、化け猫やったけどさ。
 でももう、知ったことかやで。俺の男やないんやもん。俺はアキちゃんとちゃんと、自炊して飯食うてるもん。最近すっかり出ずっぱりで、外食ばっかりさせられてるけど。
 アキちゃんとまた、出町の家で飯作って食いたい。早く家に帰りたい。
 俺はふと、そんな里心がついた。もう、帰りたいと思って懐かしむ場所が、俺の心の中にもあって、それはアキちゃんと住んでる部屋やった。そして俺はものすごく、そこに帰りたい。
 藤堂さんに抱いてもらって、幸せは幸せやったけど、浮気は浮気。この部屋はどうも、他人の家やわ。ここでゆっくり寛げるとは思えへん。アキちゃんと、いつもの部屋でまったりしたい。テレビで映画観たり、腹減ったなあって飯作ったり、だらだら酒飲んで、いちゃついてみたり。ナイターとか、お笑いとか見て俺が床で悶えてんのを、アキちゃんがアホみたいやわって、呆れた苦笑で優しく見てたり。あいつが描き散らす絵が、無造作な展示会のように散らばる床を、うっとり眺めて歩いたり。
 そしてアキちゃんが、そろそろ寝よかと俺に言う。今日も一日終わったし、のんびり二人で風呂入り、のんびり抱き合うて、熱く悶えてから眠る。毎夜ちょっぴり甘い睦言を、寝物語に聞かせてもらって。
 それが俺にはたぶん、一番合うてる。一番幸せ。アキちゃんのとこに居るのが。いろいろ難があっても、なんというても俺はそこに一番慣れている。そこが俺の家やと、もう思うてる。
 ほかにどこへ帰ればええんやろう。そこを捨てたら、また宿無しや。
 そう思い至ると、俺はしょんぼりした。そして、しょんぼりしたまま、ごそごそ一人で服着てた。寂しいけども、しょうがない。だって、誰もいないんやもん。
 他人の家で、俺ひとり。まるでこそ泥みたいやで。遥ちゃんおらんしって、藤堂さんをつまみ食い。なんか非常に、格好悪い。
 はあ、とため息をついた俺に、突然誰かが声かけた。俺はびっくりして、飛び上がりそうになった。
 その声がしたほうを見ると、それはなんと、俺やった。
 絵の俺や。長い髪して、角髪みずらとかいう、古代の日本の髪型をしてる。でも髪の色は淡めの焦げ茶で、俺の髪とおんなじ色やねん。
 そいつが切なそうな、甘い甘い顔をして、俺に向かって言うてた。絵の中には描いてない、有り明けの月に向かって。
 アキちゃん好きや……アキちゃん好きや……ずっと俺を、離さんといて……。
 俺はその声を聞き、ほんまにびっくりした。
 自分の声やけど、ちょっと他人のみたいに思える。そうやって囁いている自分を、初めて客観的に見て、俺はひとりで真っ赤になっていた。
 うっとり見ほれた顔をして、絵の蛇神へびがみは囁いていた。今すぐ悶えたいのを、堪えてるような、切ない口調で。アキちゃん好きや、好き好き好き好き好きやねん。俺はお前が、めっちゃ好き。離さんといてくれ。ずっと傍にいて。好きでたまらん、アキちゃん。お前も俺が、好きやろか。
 切なそうにそう言うて、絵の中の蛇神は、一度目を伏せ、そしてまた、見つめずには居れん愛しい月を、じっと見つめる眼差しをした。
 それきり静止して、もう絵は絵のままや。それでも何か、余韻のような囁く愛が、絵から漂い出てくるような、そんな気恥ずかしさがあったんや。
 水地亨。お前はなんて、アキちゃんが好きな蛇やねん。そんなに好きか。恥ずかしいくらいやで。俺はこんなのを、藤堂さんに見られたんや。もしかしたら神楽遥にも、もしかしたら西森さんにも。もしかしたら他の誰かにも。
 恥ずかしい!!
 死ぬう、と思って、俺はじたじた地団駄踏んでいた。ほんまに暴れた。だってマジ恥ずかしいんやでこれは!
 俺は、アキちゃん好きやって誰の前でも平気で言うけど、でもな、ほんまに切ないみたいなのは、アキちゃんにしか言うたことがない。ふたりで固く抱き合うて、好きや好きやって睦み合う、そういう時にしか言うてへん。我慢してんねん、俺なりに。
 でも、我慢できへんようになる。アキちゃんに抱いてもらって、甘く切なく喘がされると、好きでたまらん。こらえられへん。アキちゃん好きやて、叫びたい。分かってほしいねん。お前への愛がいっぱいで、胸が苦しい。息が詰まって、俺は死にそう。助けてアキちゃん。めちゃめちゃ強く抱いて。俺の気持ちを、受け止めてくれ。おんなじくらい、胸苦しい愛でいっぱいになって、俺の目を見つめてくれよ。
 そう思っています。それが俺の本音です。水地亨。推定一万歳ぐらいです。ほんますんません。二十一の若造に、そこまでのマジ惚れで。
 でももう俺は、意地張ったらあかん。藤堂さんで懲りたやろ。変な意地張ってもうて、つらい思いした。それをやめたら幸せやねん。アキちゃんとこで、幸せになれた。その初心を忘れたらあかんねん。
 初志貫徹。
 そう書かれた横断幕が、俺の心に掛かったね。
 そこまで好きなら諦めろ。もう、しゃあないわ。ほんまに毒を食らわば皿までや。だってお前は不幸やろ。アキちゃん捨てたり、捨てられたりしたら、きっと不幸やで。
 それに比べて、耐えられへん不幸が、俺の中にあるやろか。
 俺は絵の前で、顔を覆って考えてみた。
 ないと思う。
 自分との対話やね。それで何となく、結論がついて、俺はまた、恥ずかしい自分の絵を見上げてみた。
 絵の俺が、じっとこっちを見ているような気がしたわ。
 気のせい?
 でも、アキちゃんが描いた絵やねんから、この絵の中の俺も、もしかしたら生きてんのかもしれへん。美しい古代の川辺の、蛇神様として、絵の中だけにある、箱庭のような位相の上で。
 その川辺では、俺は美しい神様で、アキちゃんはそれを愛しく見つめて描いてくれたんや。愛してる、愛してるって思いながらな。それに絵の中の俺は、きっとこう答えていたんやろ。アキちゃん好きや、ずっと離さんといてくれって。
 そんな恥ずかしい愛だけがある川辺で、きっとこの蛇神は、幸せな神やろう。なんも悩まず、アキちゃんを愛してる。
「帰ろうかな……アキちゃんとこに」
 俺は試しに、絵に話しかけてみてやった。
 そしたらな、絵が答えた。やべえ。この絵はほんまに傑作なんや。
「アキちゃん最高」
 にっこり笑って、アホみたいなラブラブの顔をした絵の俺が、そう教えてくれた。
 そうやなあって苦笑して、俺は頷いた。
「アキちゃんに会いたい。早う、帰らせて。アキちゃんのとこに、帰らせてくれ……」
 切なく俺に頼んでる絵の神様が、俺はほんまに気の毒になってきて、よしよしと慰める手で、ざらつく油絵の表面をした画布キャンバスを、撫でてやった。
「大丈夫やで。すぐ帰れるしな。もうちょっと、我慢して待っとき」
 俺が優しくそう教えてやると、絵は頷いた。切ないし、つらいけど、でも待ってる。楽しみにしてる。またアキちゃんが、うっとり見つめてくれるのを、イイ子で待ってるわって。
 可愛いよなあ。俺。
 忘れていたけど、これがアキちゃんが俺に初めて惚れた頃の俺や。
 これが初心。俺はきっと、こんなメロメロの顔を、また思い出さなあかん。そしたらきっと、アキちゃんも、俺をうっとり見つめてくれるやろ。初めて会うて抱き合って、お前に触れてもええやろかと、恥ずかしそうに訊いた時みたいに。
 良かったわあ、あの時のアキちゃん。ほんまに最高。今もほんま言うたら、アキちゃんは俺にとって、最高にイケてるツレやねん。実はそうやで。素直にそうは思えへんだけでな。
 でもな、これから戻って、またアキちゃんに会うたら、ちゃんと言おう。ちゃんと言いたい。俺はお前が好きやねん。好きで好きでたまらへん。お前も俺が、好きやろか、って。
 それにアキちゃんが、俺も好きやと答えてくれたら、俺はきっと全部水に流せる。流すしかない。だってずっと永遠に、アキちゃんと生きていきたいんやもん。
 がんばれ俺。正念場やからな。がんばろう!
 ようし、帰るでえと気合いを入れて、歩き始める俺を、絵の俺がにこにこ励ますように、見守ってくれていた。ええ奴やお前は。いい絵やわ、俺のツレが描いた俺の絵は。
 そして、そんな覚悟で部屋に戻って、俺はアキちゃんが好きそうな服に着替えた。アロハええけど。ちょっとお着替え。正念場やしな!
 それで待ちに待ったけど、アキちゃんなかなか帰って来えへんかったんや。何やってんのやろ、いったい。まさかほんまに、犬とラブラブデートか。
 ありえへんそれは。俺がせっかく、お前を愛してると思って、切なく待ってやってんのにやで、また振り出しに戻るんか。
 どうしようって、俺の気持ちが萎えるような昼近くになってから、アキちゃんはやっと戻った。そして、俺が部屋にいたのに、ちょっとびっくりしたようやった。
 でもアキちゃんは、ほっとしたように俺を見て、気まずそうに微笑んだ。俺はそれになるべく、優しいような笑みで答えた。だって怖い顔してもしゃあない。
「飯は食うたか、亨。お前が好きやて言うてたパンの店で、いろいろ買うてきたで」
 アキちゃん色々買いすぎやった。ものすご買い物していた。元々、ストレスたまると買い物する癖ある奴やねんけどな。バイ・ナウ病やんか。それがまた、発病してた。
「テレビ買ってもうた」
 テレビ買うてもうてたよ……。
 ほんまにアキちゃんは、小さい卓上サイズの液晶テレビやけど、ポータブルのテレビを買うてきてた。そして何でか、ポータブルのDVDプレイヤーも買うてきてて、それにご丁寧にも『ダウンタウンのごっつええ感じ』のDVDもついてた。ゴレンジャイ出てくるやつや。軽く五回は笑い死ねる。ほんまヤバいでダウンタウン。神!
「ほんま、アホほど買うたで。金足りんようになって、二回も銀行行ったわ」
 アキちゃんはそれが、ものすご気持ちええように言うてた。いっしょに荷物持ってきてた犬は、ちょっと呆れたという顔をして、そのアキちゃんの気分爽快顔を、こっそり見上げていた。
 何を見たんや、瑞希ちゃん。お前も見たんやな。アキちゃんの、マイケル・ジャクソン並みの、「我慢できへん店ごとバイ・ナウ」みたいなアレを。アキちゃんてほんま、真性のボンボンやで。金遣いが荒いというか、金を使っているという感覚がないんやと思う。子供のころからいくらでもお小遣いは貰えたらしいし、近所の店とか、家が代々贔屓にしている四条や三条、祇園あたりの店なんて、アキちゃんの顔をよく知ってるらしく、ツケで買わせる。その場では、金はとらへん。
 おかんが愛用している四条河原町の高島屋デパートとかな、おかん本人はもっぱら外商利用で、店には出かけていかへんけども、秋津の暁彦様のお顔は職員さんたち、よう知ってはる。あいつからは金とるなというのが、周知徹底されている。
 せやからアキちゃん、万引きみたいなもんや。いちおうレジには行くで、ツケてもらわなあかんからな。でも金払ってんの見たことない。なんでも持っていきほうだい。あの店、アキちゃんのクロゼットみたいなもんやから。
 他の行きつけの服屋とか、本屋とかもそうや。ちょい前に一緒に行った三条の、町屋に入ってるポール・スミスでは、突然バイ・ナウ病の深刻な発作が起きて、ほんまに店ごと買うてたで。そのとき店に出てた服を、アキちゃんは全部買うたんや。店員さん、もう、にっこにこ。にっこにこやで。まだ棚卸ししてへんという、入ったばかりの荷物まで、わざわざ倉庫で荷解きして、アキちゃんに見せてやっていた。
 もちろんそれを持って帰るわけやない。配送してもらうんやけどな。怖ろしい数の段ボール箱が家に届いた。アキちゃん、ええかげんにせえ。
 しかし今日は、持って帰らなあかんというのが予防薬となり、アキちゃんは一応、買い控えたようやった。ふたりで持って、なんとか持てる程度しか買うてへん。荷物まみれやったけど。
「お前も連れて行けばよかった」
 液晶テレビのセッティングをしつつ、アキちゃんは俺と目を合わせずに、恥ずかしそうにそう言うた。
「荷物持ちにか……」
 俺は本気でそう訊いた。そうとしか思えへんねんもん。お前居ったら、もっと物持てたみたいな話かと。
「そうやないよ。欲しいもんあったら、買うてやればよかったと思って」
「ないよ、欲しいもんなんて」
 俺が欲しいのはお前だけやで、アキちゃん。物なんか要らんねん。
 繋いだテレビでアキちゃんが電源を入れ、リモコンを操作すると、ものすごサンテレビ映ってた。阪神戦の中継とかをやっている、神戸のローカル局や。ものすご、『おっ!サンテレビ』映ってた。サンテレビのマスコットキャラや。
 太陽みたいな形した、オッサンキャラやねんけど。俺これ、めっちゃ好きやねん。ものすご好き。アキちゃんと藤堂さんの次くらい。信太とジョン・ローンは、おっ!サンと比べて、どっちが上かわからんな。ごめんなあ、冗談やけど。京都では、サンテレビ映らへんから、しゃあないしアキちゃんにはインターネットで見せてやり、アホかと言われてもうてる。しゃあない。おっ!サンはアホキャラやねん。
「テレビも要らんかった……?」
 ご機嫌伺う上目使いで、アキちゃんはソファにふんぞり返っている俺様に、テレビ差し出しぼそっと訊いた。
「いいや……見るけど。ゴレンジャイ。でもなあ、アキちゃん、こんなもんでゴマ擦ったくらいで、俺の機嫌が直ると思てんのか?」
 思うてんのやろ。と、言うか、アキちゃんは他に、俺の機嫌を直せそうな方法を、なんも思いつかんかったんやろう。奥手というか、慣れてない。喧嘩したらバイバイや。そんな適当な恋しかしたことない、ダメダメ男やったんやしな。
「アイスも買うたけど……」
 蚊の鳴くような声をして、アキちゃんは俺に教えた。確かに犬は、ハーゲンダッツのアイスボックスを持って、情けないという顔で突っ立っていた。
 すまんなあ、瑞希ちゃん。お前もつらかったやろ。知らんかったやろけど、お前が死ぬほど惚れている、この男はアホやねん。アホになるほど俺が好き。元はもうちょっと、賢い子やったんかもしれへんけどな、すっかりアホなってもうた。お前が噛ませ犬になって、すっかり盛り上げてくれたラブラブのせいで、アキちゃん脳天に来てもうたんや。もうかあん。ほんまにアホやから。毒が脳まで廻りきってる。
「アイス、何買うたん」
 俺は一応訊いてやった。
「何って……一通りやで。バニラとか、ラムレーズンとか、ストロベリーとか、抹茶ラテも買うたし」
「あかんな、そんなんでは」
 俺はビシッと断言してやった。アキちゃんものすご、ぐっと来てたわ。
「知らんのか、俺が何が好きかも。アキちゃん、ほんまあかんわ」
 優しくしてやろうと思うてたくせに、本人を目の前にすると、俺はなんか拗ねてた。でも、こいつがなんとか俺のご機嫌とろうと思って、街をうろうろ買いモンしてたんやと思うと、可愛い男やと思った。なんて可愛い奴や。
「何が好きなんや?」
 アキちゃんは、しおしおなって訊いてきた。わからへんのやろ。
「イングリッシュミルクティー」
 しゃあないなあって俺が教えてやると、アキちゃんは慌てたふうに、後ろに立ってる勝呂瑞希を振り返った。アイスの箱持って立っている犬は、俺はもうほんまに情けないという痛恨の顔をして、うんうんとアキちゃんに頷いてやっていた。
 それはどうも、そのフレーバーのアイスは、箱の中に入ってる。お前はそれを、ちゃんと買うてたという意味やと思えた。そら、入ってるやろ。アキちゃんの性格からして、何買うてええか分からんかったら、店にあるアイスを全部買う。だから、あるに決まってるわ。
「ちゃんと買うてきた」
「ようやった、アキちゃん。ほんなら許したろ……」
 うつむく上目遣いで、俺は立ちん坊してるアキちゃんを、許してやった。ちょっと偉そうやったかな。俺もそんなに、偉そうに言える立場ではない。
 アキちゃん知ったら、怒るやろう。俺が藤堂さんと浮気したこと。黙っとこうか。それとも教えてやろうか。黙っといたほうが、ええやろか。アキちゃんは今、めっちゃ可愛いし。それに犬も居る。こいつの前で、俺の不利になる話なんか、しとうないねん。セコいけど。
「堪忍してくれ、亨……」
 許してやるて言うてやってんのに、アキちゃんは今さら自分の悪さが身にしみたんか、がっくりと向かいのソファに座り込み、頭下げてるみたいに項垂れていた。
「もうええよ。信太が言うてた。おぼろ様、ええ奴やねんて。確かに綺麗な奴やなあ。俺も負けそうや」
 俺がそう言うと、アキちゃんは声もなく頷いたまま、小さく首を横に振っていた。それは、お前のほうが美しいという意味かもしれへんし、そうではないんかもしれへん。分からへん。喋らんのやもん、アキちゃんは。肝心なときになると、口ごもってしまう。そういう子やねん。気持ちがなかなか言葉になって、出て来えへんねん。
「せやけど、やめとき。水煙言うてたけどさ、あいつはアキちゃんやのうて、アキちゃんのおとんに惚れてんのやで。お前は身代わりに、食われただけや」
 それにもアキちゃんは、うんうんと小さく頷いただけやった。知ってたんや。知らんのかと思うてた。そんなん知ってて、ようそんな奴と仲良うしてきたな。やってもうてから知ったんかなあ。
「あいつは、おとんのしきや」
「そうやろ。そんなん構ってやっても、しゃあないやんか」
「うん……そうや。お前の言うとおりやけど……」
 けど、なんやねん。アキちゃんは結局、また口ごもってもうて、それ以上なにも、言うてくれへんかった。
 言うとおりやけど、惚れてもうたから、しゃあないって事かもしれへん。顔が好きやったんやろ。ほんでちょっぴり、可哀想かったんやろ。パターンやねん、お前のな。ちょっとお高い感じがする美人やのも気持ちよかったんやんな? パターンやねん、畜生。
 そう思うて、思わずついつい険しい顔をしてまう俺のほうへ、アキちゃんは賄賂を差し出す役人よろしく、コーヒーテーブルの上にある液晶テレビとDVDを、俺と差し向かいの席から身を乗り出して、ぐいぐい押し出してきた。
「見たら。DVD。テレビでもええけど。野球って、今はまだやってへんか。夜かなあ。ほな、DVD見ればええやんか。笑ってくれよ、いつもみたいに」
 俺と目を合わせずに、アキちゃんはダウンタウンのDVDを、さらに突きつけてきた。
 アホやで。軽く。今のお前の姿は。アホみたいやで、アキちゃん。お前が普段意識している、格好良さの欠片もない。アホな子丸出し。
「笑ってほしいねん、亨。俺が悪いというのは、よう分かるけど。もういっぺんだけ、お前が笑ってる顔見せてくれ」
 何言うとんねん。これが最後の別れみたいに。そんなん、いつでも見れるやろ。俺は基本、にっこにこしてるやんか。お前が好きやでデレデレ笑い、なにかおもろい話して、へらへら笑い、そんな顔に締まりのない生活しとんのやで。せっかくの、怖ろしいまでの俺の美貌が台無しや。
「笑うてるときの、お前の顔が好きやねん……見てると幸せやねん」
 アキちゃんはそれが、悲しいみたいに言うてた。それが変で、可笑しなってきて、俺は笑った。
「なに言うてんの。惚気てええんか、瑞希ちゃんドン引きしとるで」
 アキちゃんはまた、うんうんて頷いてた。それも分かってはいるらしい。
 それでも言うてくれたんか。アキちゃん。可愛いなあ。なんて愛しい、俺のツレ。そんならほんまに、許してやろか。あんまり虐めてもうたら、瑞希ちゃんもキレるしな。アイス溶けるし。さっさと食おか。
 と、いうわけで。
 俺らは何でか三人で、アイス食いつつソファに並んで座り、何でか『ダウンタウンのごっつええ感じ』のDVDを観るハメに。
 変やでえ。変な構図やでえ。アキちゃん両手に花で、何でか自分は見たくもないお笑いのDVDを観るハメになったんやしな。瑞希ちゃんも微妙やでえ。先輩の横に座らせてもろて、それは嬉しかったやろうけど、それをなんで憎い蛇と半分こでやで、アイス食いつつお笑いか。
 でもまあ、ええやん。アイス、アホほどあるし、犬も食え。溶けてまうやん、勿体ないわ。冷蔵庫あるけど、冷凍庫はないしな。水煙も、戻ってきてたら良かったのに。あいつダウンタウン観たら、絶対に目が点になる。意味わからんと思う。お上品やもん。
 犬はどうやろと思って、俺はアキちゃんにもたれ、反対側にいるアイス食うてる犬の顔を眺めた。
 ぼけっとしたような横顔やった。
 瑞希ちゃんな、家ではほんまに、お坊ちゃまやったらしいで。おかん、ひらひらの服やしな。家はギリシャ神殿みたいな成金趣味やねん。おとんは地元大阪の、中堅企業の社長でな、金回りがいい。しかもちょっと横柄そうな、偉そうな男やったようや。
 お前は養子なんやし、どこの馬の骨かわからん息子やと、常々言われていたらしい。そやから、親の役に立つような、賢いイイ子でなかったら、養うてもろた恩を徒で返すことになる。学校の成績は、常にトップで維持せなあかん。ピアノぐらいは弾けなあかん。英語もフランス語も話せなあかん。スポーツも万能でないとあかん。乗馬くらいはせなあかん。冬はスキーや。夏はヨットや。俺は成金やて、人は馬鹿にするけども、お前は二代目なんやから、貴族みたいにならなあかん。わかっとるやろなと、瑞希ちゃんにいろいろ要求しまくりや。
 犬は犬やしな、ご主人様はひらひらのおかんのほうやけど、その夫なんや、そのオッサンは。お父様を立てていた。なんでも言われたとおりに頑張っていた。期待以上のデキの良さやった。せやからこいつ、ピアノも弾くし、馬にも乗れる。犬が馬に乗るんやで。馬も、なんやこれって思うやろな。でも、おとんはそうは思うてへんから。
 そして貴族は『ダウンタウンのごっつええ感じ』など観ない。野球も観ない。おとんは観るけど、瑞希ちゃんは見たらあかん。イイ子にして、悪い仲間とも付き合うたりせず、クラシックとか聴いとかなあかん。
 瑞希ちゃん、そんな家のこと、内心では、アホかと思うてたんやろ。そんなオッサンやおかんの、アホみたいなドリームを押しつけられて、犬はギャオーンと思うてた。
 だってこいつ、下品やでえ。言うたらなんやけど、どっちか言うたら水煙よりは俺に近い。ほんまに血統書付きなんか。
 初めて観たんか知らんけど、ゴレンジャイ観てアイス吹いてた。
 すごいやろ。面白いやろ、ダウンタウン。
 アキちゃんはいつも通り、軽く引いていたけどな、俺と瑞希は笑っていた。おもろいねんて。わからへんのかなあ、京都のボンボンには。分かると思うんやけどなあ。大阪のお笑いは世界一なんやで。
 堪えきれへんのか、顔を覆ってひくひく笑い死にしている犬を、アキちゃんは見るのを諦めたテレビの代わりに、時々ちらちら眺めてた。どうせ可愛いなあとか思うてんのやろ。まあええわ。しゃあない男や。時には俺も見ろ。
「アキちゃん、コーヒーちょうだい、コーヒーちょうだい」
 アキちゃんが持てあましているコーヒー味のアイスを、俺は横からスプーンで奪った。アキちゃんはそれで俺に気づいて、またこっちを見てくれた。
「お前、紅茶が好きやったんか?」
「そうやで。知らんかったやろ」
 苦笑いして、俺はアキちゃんのアイスを遠慮なく食った。それにカップを差し出してくれて、アキちゃんはちょっと、ショックみたいな顔やった。
 まだ俺に、知らんところがあるというのが、アキちゃんにはつらいんやと思う。なんか、眩しそうな目をされた。アキちゃんが俺を、切なく愛しく見るときの、そういう顔やった。
「なんで知らんのやろ、俺」
「隠しててん。トミ子とおんなじやんか。アキちゃんコーヒー党やし、なんとなく合わせてただけ」
 コーヒーも別に嫌いやないもん。ひとりぶんも、ふたりぶんも、淹れるんやったら同じ手間やないか。どうせやったら同じもん飲んで、美味いなあって言いたいもん。
「そんなん……合わせる必要なんかないやん。お前の好きにすりゃ良かったんやで」
「そうやなあ。そうなんやけど……初めは俺も、いろいろ考えちゃってたのよ」
「今はもう、初めやないやんか」
 じっと見つめる悲しい目をして、アキちゃんはそう訊いた。
 俺はそれがやっぱり不思議で、こっちもじっと、アキちゃんを眺めたわ。
「そうやな……もう、初めやないわ」
 うんうんて、それに熱っぽく頷いて、アキちゃんは不意に、俺の肩をぎゅうっと抱き寄せてきた。
 それにびっくりしたように、勝呂瑞希が俺を見た。なんか、可哀想みたいな、悲しい目やった。俺はその目としばし、見つめ合っていた。ざまあみろとは思うてへんかった。そう思うにしては、あんまり悲しいような目やったもんで。
 困ったように、つらく苦しい顔をして、目を背けていく犬には目もくれず、アキちゃんはますますぎゅうっと、両腕で俺を抱きしめてきた。
 抱き合うてええもんか。ちょっと気まずうないか、アキちゃん。
 それで俺は、やんわりとしか、抱き返してやらんかったかもしれへん。そんなこと、せえへんかったらよかった。だって俺は大体いつも、誰がおろうが遠慮なしやで。アキちゃん好きやで絡みつく、そんな蛇やったんやから。
「好きや、亨。お前のこと、もっと知りたい。何もかも、全部知りたかった。俺のこと好きか。それとももう、前より嫌いか……?」
 アキちゃんは、どうしたんやろか。また何か、思い詰めるような事があんのか。
 今度はそれが可哀想になってきて、俺は仕方なく、アキちゃんの背をよしよししてやった。
「嫌いやないよ。前とおんなじくらい好きや」
 浮気したし、気にしてんのやろ。可愛い奴や。反省したんやったら、もう許すしな。もうええよアキちゃん、変に思い詰めんといてくれ。
 そう思って、笑って俺はアキちゃんの顔を、覗き込もうとした。
 アキちゃんもそんな俺の顔を、じいっと見つめてた。真面目な、じっと見つめる、食い入るような怖い目で。
「亨……お前は」
 アキちゃんがどんな甘い台詞を吐くのかと、俺はうっとり期待して見つめてたんや。せやのにアキちゃん、死にそうな顔をして、真っ青なってた。
「どこで風呂入ってきたんや……?」
 それを訊かれて、半笑いのまま、俺は静止していた。
 え。なんでそんなこと訊くの。
「違う石鹸の、匂いがする」
 違うっけ?
 そうかもしれへん。
 そういえば、藤堂さんちの風呂、なんかええ匂いのする石鹸使うてた。サンタ・マリア・ノヴェッラのアーモンド・ソープ。箱があったしな、ええ匂いやなあ。うちもこれにしようかなあって、眺めてみてたから、憶えてたんや。
 ええ匂いやろ、アキちゃん。これにしようかなあ。確か京都にも店あるで。イタリアの、ずっと昔からある薬屋が作ってる、古い処方の石鹸や。たぶん遥ちゃんの趣味なんやないか。それとも藤堂さんかな。アキちゃん、お前はどう思う。これが好きか。でも、今はそんなこと、訊いてもしゃあないよなあ。
 俺は痛いところを突かれてもうて、苦しい顔になっていた。
「そうかな……気のせいとちがうか?」
「俺に嘘はつかんといてくれ」
 アキちゃんは俺の肩を掴んだまま、必死みたいにそう言うた。
「ほんまのこと言うてくれ、亨。俺もお前には嘘はつかへん。お前もそうしてくれ。お前のほんまの気持ちが知りたいねん」
 俺はそう言うアキちゃんの、真面目で初心うぶな目を見つめ、そしてその背後で、俺をじっと見ている勝呂瑞希の、獲物を狙う猟犬みたいな光る目を見た。
 ああ、そうやなあ、瑞希ちゃん。お前にはチャンス到来や。こんな不実な蛇やのうて、俺のほうにしといたらって、アキちゃん口説いてみたらどうやろ。案外こいつも、お前のほうがええわと思うかもしれへん。今やったらな。
「ほんまの気持ちや。アキちゃん好きやが、俺のほんまの気持ちやで」
「どこで風呂入ってきたんや。お前は一体、誰と寝たんや?」
 答えを知ってるみたいな目をして、アキちゃんはそれを言えと、俺の肩を小さく揺さぶっていた。
 言わなあかんの。言いたくなくなってきた。でも、アキちゃんは俺に真実を語らせようとする強い力を発して、俺の体を掴んでいた。結局そうやって、アキちゃんは神やら鬼やらを支配するげきや。俺のこと、もう自由にするって言うてたけど、結局これなんやから。自由になんかなられへん。俺はお前のとりこやねんから。
「藤堂さんや……遥ちゃん実家に帰ってて、今夜日干しやいう話やったから。俺が食うといたろと思て……」
 悲しい自嘲の笑みを浮かべて、俺はアキちゃんから目を逸らしていた。
 ああ。えらいこっちゃなあ。アキちゃんがまたキレて、藤堂さんをぶった斬ろうとしたら。俺もそうやって、愛されてるって思いたいんやろか。
 でも、今は水煙おらへんし、アキちゃん丸腰やしな。それにお前は、俺にキレられる筋合いやないやろ。許してやるけどな、もう、別にええけど、お前かて昨夜ゆうべはラジオと寝たんやないか。お相子やんか。これで引き分けドローで、水に流そうよ。
 そんな言い訳を、俺はぐるぐる考えていたかもしれへん。
 アキちゃんは苦しいんか、ちょっと震えてるみたいやった。俺の肩を掴んでる手が、微かに震えているのを、俺は感じた。
「なんや……そうか。藤堂さんか……」
 掠れた小声で、アキちゃんはそれが、大したことないみたいな言い方で言うた。
 その作り声みたいなのが、あんまり意外で、俺はアキちゃんの顔をまた見つめた。
 アキちゃんは、ものすご暗い顔をしていた。でも、怒ってへん。ただ、悲しくてつらいという顔をして、苦痛を堪えてた。
「そうなんやろなあっていう、予感はしたよ。お前は結局ずっとあの人と、俺のことを、比べていたんやろ。俺はヘタレな若造で、あっちは格好いい大人やもんなあ」
 自分を卑下した話をしてるアキちゃんは、別に卑屈ではなかった。ほんまにそう思うてるらしい。自分より、藤堂さんのほうがイケてるって。格好ええわと思うらしい。俺は負けてるみたいな事を。
 俺は眉間に皺寄せて、信じられへんと思ってアキちゃんを見た。
 あんな負けず嫌いで、キレて俺をぶっ殺すほど嫉妬深かったこいつが、なんでそんな事を言うんやろ。そんなに藤堂さん好きか。なんでなんや気色悪い。
「離婚しようか、亨。あの人に、幸せにしてもらえ。俺はもうすぐ死ぬから」
「なに言うてんのアキちゃん。寝ぼけてんのか? 熱あんのか?」
 本気で心配なってきて、俺はアキちゃんの熱を測ろうとした。手をアキちゃんのおでこに当てて、その、ひやりと汗かいた、それでも平熱の肌に触れると、アキちゃんは苦笑した。
「熱ない。目も醒めてる。酔ってもいない」
「浮気したくらいで、死ぬことないやんか。俺かて生きてんのやし。確かに、お前に浮気されて、死ぬかと思たけど、水煙の言うとおりや。悋気りんきで死ぬやつおらへんわ。苦しいだけや。俺も苦しんだんやで。お前も苦しめ。それで対等や」
 暴論やろとアキちゃんが言いそうなことを、俺は本気で言うてた。それくらいしてやらへんと、悔しいてたまらへん。ただ、それだけやねん。アキちゃんより藤堂さんが好きやていう話やないねんで。
かったか、亨」
 自虐としか思えんことを、アキちゃんは情けなそうに訊いてきた。
「ああ、かったわ! めちゃめちゃ喘いだ。でもな、言い訳するわけやないけど……アキちゃんのほうがえよ。それはほんまやで。俺が一番好きなのは、お前なんやで?」
 俺が真面目に教えてやると、アキちゃんはうんうんと、困ったような淡く切ない笑顔で頷いていた。
「そうか。そんなら、良かったわ。そう思わせといてくれ。お前にとって俺が、世界一の男やったって。そうやないなら悔しいし……安心して死なれへん」
「なんでそんな話すんの! なんで? 死ぬとかそんな、縁起でもないこと言うたらあかんのやないんか?」
 おかんに、めって言われるで。不吉なこと言うもんやおへんえ。天地あめつちが聞いてはる。いつも楽しいことや、美しいことだけ口にして、言祝ことほぎなはれって、やんわり厳しく説教されんで。
「もう決めてん。お前には済まんけど、俺はもうすぐ死ぬことになる。誰かを身代わりに、生け贄にするのは嫌やねん。俺が死ぬ。永遠に、一緒に居るって約束しておきながら、我が儘やけども、そうさせてくれ」
 アキちゃんは俺の肩を掴んで、頭を下げていた。項垂れてるだけやない、ほんまに頭下げてる。そんなん頼み込まれても、あかんで、アキちゃん。絶対あかん。
「何を言うねんお前はアホか! そんなん、あかんに決まってるやろ。止めてほしくて言うてんのか? そうなんやったら何遍でも、あかんて言うてやるで?」
 そうなんやろって、俺が必死でかき口説くと、アキちゃんはそうではないと言うふうに、小さく首を横に振っていた。
「もう決めたんや、亨。分かってくれ」
「分かるわけあるか! それこそ我が儘や。ええかげんにせえ、アキちゃん!」
 俺は怒鳴ったけども、アキちゃんはそれに、ただ黙って耐えてるだけやった。返事する気も、考え直す気もないみたいやった。頑固一徹、思いこんだら梃子てこでも動かん。そういう感じ。
 俺は本気で焦って、あわあわしながら視線を泳がせていた。水煙を探してたんやと思うわ。無意識に。お前もなんか言うてやれって。
 でも、そういう肝心なときに、あいつ居らんのやもんなあ。アホか水煙。役立たず!
 しゃあないから俺は、瑞希ちゃんを見た。他に誰もおらんのやもん。お前もアキちゃんが好きすぎるチームの一員なんやったら、加勢しろ。
「なんとか言え、瑞希ちゃん。お前もアキちゃん止めろ!」
 俺がそう頼むと、犬は暗い思い詰めた顔に、うっすら淡い笑みを見せた。
「なんで止めなあかんねん」
 ぽつりと答えられたそのお返事に、俺はぽかんとした。
「は? 何言うてんのお前。アホなんか?」
「アホやない。俺はもともと地獄の犬や……」
 そう話し、瑞希ちゃんはアイス食うてた。スプーンくわえて、反らした喉には、黒革の首輪が巻かれていた。アキちゃんが買うてやったんやろう。犬が強請って、お前は俺のもんやと、首に巻いてやったんや。
 変やでえ。シルクのシャツの王子様ルックにな、首輪してんのやもん。倒錯感たっぷりや。
「堕天使なんやもん、俺は。また地獄に堕とされた。でも今度は、囚人やのうて獄吏のほうやで。冥界のスタッフや。死ねばつらいやろ……先輩も。痛いかもしれへんしな。でもそれは、一瞬ですから。冥界は、つらいところやけど、でも、そこでやったら俺も、やっと独り占めできる」
 アイス食うてる舌が、なんか長いような気がした。
 可愛い顔してんのに、こいつは悪魔や。堕天使なんやった。暗く邪悪な地獄の位相に、片足突っ込んで立っている。いったいそこでは、どんな姿をしてんのやろ。きっとアキちゃんが見たらドン引きするような、えぐい姿に違いないんやで。
「絵、描けんのか、そこでは」
 俺は念のため訊いた。実は案外、ええとこか、冥界は。
「いいや。描かれへん」
「それは地獄やろ、アキちゃんにとって」
「地獄やで、誰にとっても」
 けろっとして、犬は答えた。アキちゃんはそれを、黙って聞いていた。
「なんでアキちゃんが地獄に堕ちなあかんのや。何も悪さしてへんのやで?」
「そうやろか。先輩は鬼やで。それでも、天国行けるやろけど……」
 カップからアイスをひと匙すくって、瑞希ちゃんはそれを舐め、また言葉を繋いだ。
「でも、天国逝かれたら、俺がついていかれへんやん」
 俺はほんまに唖然とした。何か、腹の底が震えた。
 やめろ。瑞希ちゃん。お前はほんまに、悪魔になってる。アキちゃんがどうなってもええんか。可哀想やって思わへんのか。自分がアキちゃんと一緒に居れれば、それでええわって事なんか。
「あかんで……なにアホなこと言うてんのや! お前、アキちゃんの絵が好きやったんやろ! そんな男を絵も描かれへんような所に引きずり込んで、どうしようっていうんや」
「もう約束したもん。この世では無理やったけど、結婚の契約は死が二人を分かつまでやろ。死んだらフリーなんやから、次は俺の番や」
 犬は本気で言うてるみたいやった。そういうふうに、思い定めた目をしてた。俺と向き合うアキちゃんを、見ないようにしている横顔が、暗くやつれた獄門帰りで、いかにも不幸そうやった。
「本気で言うてんのか……」
 それでも俺は一応訊いた。お前さっきは、笑ってたやんか。笑ってる時、可愛かったで。悪魔サタンでええわって、諦めてまうんか。そんなんしたら、ほんまに悪魔になってまうんやで。
「本気やで。だってお前がいる限り、先輩は俺のもんにはならへん。お前を殺ったら、許さへんて、先輩言うてはるし、俺はお前には何もせえへんて約束してる。それならもう、先輩のほうに死んでもらうしかない。なまずが取るのは、命だけやろ。魂のほうは、俺がもらう。ずっと俺が、抱いといてやる。そしたら地獄でも、いつか幸せになれるかもしれへん。先輩がお前のことを忘れて、俺を好きになるまで、何万年でも待つわ」
 そんな日は来ない。何万年待っても無駄やで。アキちゃんは俺のことを永遠に愛してるんや。それが天国でも地獄でも、おんなじことやで瑞希ちゃん。お前の出る幕はない。ただ俺と引き離されて、アキちゃん、つらくて悲しいだけや。そんな時が永遠に続くんや。お前はそれでも満足か。アキちゃんせしめて、俺のもんやと思えれば、それでええんか。人が鳥でも飼うように、檻にアキちゃん閉じこめて、俺のもんやで、それで幸せか?
「それでええんか……アキちゃんは」
 絞り出した声で、俺は俺の連れ合いに訊ねた。アキちゃんはじっと、俺の体を見つめて、しばらく黙ってうつむいていた。
 やがてアキちゃんはゆっくり顔上げて、俺の顔を見た。切なく甘いような目をして。俺はこの顔を、あと何時間見てられるんやろかって、過ぎる時を惜しむような目で。
「それでええねん。俺はいっぱい、人を殺した。地獄行きがお似合いや」
 本当にそう思うてるような言い方で、アキちゃんは俺に答えた。
「亨、俺のことは忘れて、幸せになってくれ。藤堂さんでも誰でも、お前が幸せになれそうな奴と、生きていってくれ。歌歌って笑って、美味いもん食うて、気持ちええなあって抱いてもらって、そいつが好きやってデレデレしてもええし、漫画読んだりナイター見たりして、楽しく過ごせばええよ。俺はそれで、満足やから」
 アキちゃんはそれが可能なプランやと思うてるらしい。
 なんて薄情な男なんや。俺のこと、やっぱり舐めてる。めちゃめちゃ舐めてる。
「アキちゃん……ほんまにアホな男やな、お前は」
 俺は心底むかついて、アキちゃんにそう教えてやった。
「そんなん、お前が居るから楽しいんやろ。アキちゃん死んだ後にアイス食うてもしゃあないよ。こんなん見ても笑えへん……」
 めっちゃムカついたんで、俺はアキちゃんが買ってきた液晶テレビを蹴倒してやった。ほんま馬鹿にすんやなで。何が、楽しく過ごせばええよ、や。ぶっ殺す。
「アホか、アキちゃん。いっぺん死んでこい! いや死ぬな! 死んだらあかん……」
 頭くらくらしてきて、俺は自分の肩を掴んだままでいたアキちゃんの腕に、思わず擦り寄っていた。抱きしめてくれ、せめて、そんな話するんやったら。
「アキちゃん……お前がおらんようになったこの世で、俺がどうやって生きていけんねん。帰るところもないんやで……」
「平気や。亨。俺が藤堂さんに頼んでやる。お前の面倒見てやってくれって」
 そう言うアキちゃんは、誠実そうやった。この子はほんまに俺の幸せを、願ってくれてる。それが分かると、涙出そうで、それを堪えて、俺は両手で頭を抱えてた。
「遥ちゃんどないすんねん……」
 俺は吐きそうなってきて、座ったソファに手をつきくずおれた。マジで吐きそう。目眩してきた。
 我が身の奥深く、内奥の底の底にある暗い深淵アビスに貯め込んだ、数知れない記憶の中の顔が、渦巻くように脳裏に湧いてた。
 みんな死んでもうた。アキちゃんも死ぬって言うてる。人はみんな死んでしまうもんやねん。俺はまたそれを、諦めて見送るしかないのか。
 嫌やって、どんなに苦しみ藻掻いても、結局そういうもんなんか。お前には俺の血をやって、人の道を捨てさせた。それで御の字、もうずっと、俺のもんやと思ってたのに、結局、冥界の神のほうが一枚上手うわてか。俺ではアキちゃんを、現世に引き留められへんのやろうか。
「そうやなあ……どうしたらええんやろ、神楽さん……」
 めっちゃ困ってるような苦笑いで、アキちゃんは真剣に悩んでるみたいやった。
「アホか……てめえが死のうという時に、神楽遥の心配なんかしとる場合か……」
 アキちゃんは、優しい子やなあと、俺は思った。ほんまに優しい。顔さえ好きなら誰でもええんや。誰にでも優しい。ドブスにでも優しい。トミ子の絵が好きやて言うてた。絵が好きやねん。ずっとこいつに好きな絵描かせてやってくれ。才能あるねん。藤堂さんもそう言うてたやんか。絵さえ描いてりゃお幸せ。そんな、暢気なボンボンやのに。
「嫌や。アキちゃん。考え直してくれ。俺は許さへん」
「そう言わんと、許してくれ。これが血筋の定めやねん。逃げたら俺は、俺でなくなる。そしたらもう、俺には生きてる価値がない。俺を男にしてくれ、亨。俺ももう、ボンボンやめなあかん時がきた」
 そんなことを、理解しろと俺に言うんか。
 男同士やし、わかるやろ、みたいな?
 わかるな。生憎。わかりたくないけど、わかる。
 面子があるやろ、お前にも。格好ええことしたいんやろな。まだまだ餓鬼やし、青いんやから。
 俺は誰かを犠牲にして、その上に胡座をかいて生きていくような、そんな卑怯な男やないって、お前はええカッコしたいんやろ。そりゃあ、確かに、ヒーローですよ。格好ええよ。これがフィクションやったらな。
 でも、お前は知らんのやろ。死ぬのがどんだけ苦しいか。愛しい懐かしい顔に、二度と会えんようになる。それがどんだけつらいか。そして、後に遺されるもんが、どんだけ泣かなあかんか、お前は知らん。だから平気で言えるんや。俺が死んでも、平気で笑って生きていけって。
 そんなこと、俺には無理や。我慢でけへん。水地亨の辞書に、我慢の文字はない。そんなことアキちゃん、重々承知やろ。
「嫌や……アキちゃん。どうしても死ぬというんやったら、せめて俺に、一緒に死んでくれと頼め。それやったら、うんと言うたる。そんなこと前にも頼んでおいたやろ。もう忘れたんか。お前はなんて……薄情な餓鬼や!」
 俺がそう、心底キレて怒鳴りつけると、アキちゃんは初め、ものすごびっくりした顔をした。俺はよっぽど、怖い顔をしていたんやろうか。鬼みたいな?
 叫んだ喉から血の出るような、絶叫やった。アキちゃんはその声を浴びて、びっくりしたんやと思う。偉そうにしたい訳やないけど、俺も神やで。本気で怒鳴れば、それには霊威があるわ。アキちゃんは鬼道きどうの血筋の子やしな。くどくど言われんでも、それで分かるやろ。言葉にしなくても、俺の心が分かる。俺が自分をまつる神官として、他の誰でもない、お前を選んだということが。
 アキちゃんは俺を見て、水面を淡く照らす月のように、にっこりと笑った。それは俺に、過去に見た様々な愛おしい顔を思い起こさせた。最初の川辺で、俺を崇めた民の神官も、月に祈っていた。水の流れを崇めていた。大地に撒かれる種がいずれ、豊かに稔るよう祈り、祝福するのを勤めとしていた。
 アキちゃんはまるで、そんな誰かの生まれ変わりのようや。人は死んで、魂は冥界の神に食らわれるけども、いつかまた新しい命を得て、生まれ出てくる。その時、前に生きていた時のことなど、人は憶えてはいない。俺がよろめき彷徨って、いろんな神や鬼と、混然と混じり合ってきたように、人の魂も、彼岸の坩堝るつぼで熱く溶かされ、数知れず混じり合って、別の鋳型いがたに流し込まれる。そうして生まれ変わってきても、変わらん何かが人にはあるのか。地獄の火でも、天国の光でも溶かせない、永遠に消えない想いが、どっかに残っているのか。
 いつか昔の遠い川辺で、見失った魂の、星屑みたいに砕け散った欠片かけらを、俺は探して歩いてる。自分も激しく砕け散り、混ざり合いながら。それとまた、俺はこの遠い極東の島の、前とは違う別の川辺で、再びまた落ち合えたんやないか。
 そんな気がしてならへん。
 やっと見つけた。俺はもうお前の手を離しはしない。もう二度と、それが冥界の神であろうと、天界から射す神聖な光であろうと、俺からお前を奪い取ろうという手に、渡しはしない。お前の魂は永遠に俺のもん。月明かりのさす川辺の神殿で、俺を祀るのが、お前の永遠の勤めなんや。俺を愛し、俺に愛されるのが、お前の勤めや。
 その話を俺は、アキちゃんにはしない。たぶん、びっくりしてまうやろ。お前は俺の水地亨で、永遠にそうなんやろうって、また言うやろ。ビビりやからな。
 それでもいい。別に。俺は名前なんて、なんでもいいんや。どんな名で呼び、どんな姿をしてようと、肝心なところの答えは一つだけなんやから。
「愛してる、アキちゃん。お前も俺が好きか?」
 俺はその一番肝心なところを、アキちゃんに訊いた。アキちゃんは黙って何度か頷いた。そして、頷くだけやったらあかん。ちゃんと言葉にして言うんでないとあかんと、思ったらしい。
 そうや。口に出して言うことが肝心や。それには魔法がある。神聖な契約の言霊が。
「好きや」
 たったの一言や。しかしそれでいい。それが神とげきとを結びつける。式神としてではないで。俺はアキちゃんの、守護神になったんや。
「そうか。それなら抜け駆けするな。お前は永遠に俺に仕えて生きていく男やで。勝手に死ねると思うたらあかん。俺に任せろアキちゃん。お前を守ってやる」
 ものすごい確信に満ちて、俺は言うてた。アキちゃんは、まるで俺から後光でも出てるみたいに、眩しそうな目をして、美しいものを見る目で俺を見ていた。
 神様やからな! 後光くらい出てるかも!
 守ってやるでアキちゃん。愛してる。犬なんか知るか。なにが三万年待ったや。なにが俺のほうが先に目つけてたや。三年前に絵見て惚れてたやと? ふん!
 よう憶えてへんけど、なんかこいつ、俺が大昔にツバつけといた男の生まれ変わりのような気がするで。きっとそうや。絶対そうやって。藤堂さんもそうかも。困ったなあ、どっちにしよか、選べへん。でもまあアキちゃんや。アキちゃんやという説のほうが俺の中で有力や。間違いない。
 せやからな、俺のアキちゃんキープ歴には、これで少なくとも過去五千年くらいが追加される。三年前がなんや、そんなん知るかやで! ぽっと出の犬が、ハイキャリアの俺様から男盗ろうやなんて、甘い! 甘い! 甘いねん! ハーゲンダッツのアイスより甘い!!
 俺はじろっと瑞希ちゃんを睨んだ。あいつもじろっと俺を睨んだわ。しかし俺のほうが眼力強い。愛されてるのは俺やから。お前やないで。俺がアキちゃんの好感度ナンバーワンやねんからな!!! びっくりマーク三つつけちゃうよ。それぐらいの眼力なのよ。そこらへん、よう理解しとかんかったら、いてまうからなドギーマン。引き下がれ犬。ドギーマンはハウス!!
 俺はほんまにそんな目で見たよ。
 えっ。なに。ムード無い?
 いらんねん、そんなもん。必死なったらあかんねん。テキトーでええの!
 必死なるからあかんねん。なんか不幸臭ムンムンしてくんのやないか。思い詰めるな、なにごとも。さらあっと行っとけ。結果オーライやから。
 信じる者は救われるって言うやないか。信じなあかんねん。アキちゃんは、死んだりせえへん。絶対助かる。誰も死なへん。絶対ハッピーエンド。大丈夫やから。俺がついてる! 神様やから! 守護神なんやから。亨ちゃんに任せとき。
「守ってくれんのは……嬉しいんやけど。具体的に、どうするつもりや。なまずや龍と戦って、お前は勝てるのか?」
 アキちゃんはむっちゃ心配そうに俺に訊いた。
 心配してくれてんのか、アキちゃん。俺のこと愛してんのやな。ありがとう嬉しいわ。俺も愛してる。
「なんか、作戦でもあんのか、亨」
 あるなら聞かせといてくれって、アキちゃんは真面目な顔をした。俺はそれに、優しく微笑んだ。神様っぽく。
「いいや。全然」
「えっ……」
 アキちゃんはまた、気が遠いみたいな目をした。出会ったばかりのころ、あなたはよくそういう目つきをしてたわね。なにこれ。どないなってんの、こいつ何者なんや、みたいな動揺した目で、俺のこと見てたわね。懐かしいわあ。
「ないの、作戦」
「ない」
 俺は断言しました。
「……なくて、どうやって何とかすんの?」
 アキちゃん、目眩してるみたいな顔してた。
「その場のノリで」
 俺は満面の笑みで、そう答えた。
 ああ……、って、アキちゃんはすごく感心したような、ため息みたいな声で唸った。感動してるみたいやった。ご託宣やから。ありがたーい神様の、ご神託やから。
「大丈夫かな。俺また超不安になってきてもうた。せっかくまた覚悟決めたのに、やめてくれへんか。三回目はもうあかんで。しんどすぎなんやで」
 泣きそうな声で、アキちゃんは俺にくよくよ言うてた。
「平気平気。何も考えんと絵描いとったらええねん。俺に任せろ!」
 俺は男らしく断言した。アキちゃんはそれでも、まだ不安そうやった。ものすご悩んでる顔してた。あかんなあお前、そうやって深刻やからあかんねん。俺を見習え。
 そんな俺らを見て、犬は可哀想に、わなわな震えてた。そして瑞希ちゃんは俺を見て、震えた声で、ぽつりと言うた。
「蛇、アホ……ちゃう?」
「アホやで」
 俺は優しく頷いて教えてやった。それを犬は気の毒なほど青い顔で、思い詰めて見てた。お前も大概思い詰めるタイプやな。俺が調教したろ。アホになれるように。毎日、十時間くらいダウンタウン見ろ。頭真っ白なってくるまでな。
「あ……っ、アホが好きなんですか先輩。俺、そんなふうにはなられへん。そこまでアホには……」
 むっちゃ苦悩してるような声で、瑞希ちゃんはがっくり来てた。俺は笑ったね。勝利の哄笑や。
 オーッホッホッ!!
 そうやで犬。お前は俺には勝たれへん。なんでか知ってる?
 そんなん、考えんでもわかるやん。アキちゃんが愛してるのは、俺なんや・か・ら。結婚までしてんねんで。永遠の愛を誓った間柄やで。誰が俺に勝てんの。勝てへん勝てへん。最後に勝つのは、いつも亨ちゃんなのよ。そんなん常識でしょ。お約束なのよ。知らんかったんか? 無知やなあ犬。可哀想。
 負けへんで。俺は。絶対に負けへん。
 ほんま言うたらな、それは自己暗示やねん。俺かて負けることはある。ほんまは不安でいっぱいや。ふらふら悩む時もある。めそめそ泣いてる時もあるわ。そんなん皆もよう知ってるやろ。
 でもな、そういう時こそ、自信持っていかなあかんねん。言霊や。絶対大丈夫。心配いらへん。お前は俺が守ってやるわ。俺を信じろって、誰かが言うてやらなあかんねん。そしたら、ほっと安心できて、不思議と湧いてくる力もあるやろ。
 それこそが神さんの効用やないか。具体的にはなんもしてくれへんでもええねん。実際戦うのは人間様や。俺は、平気平気、任しとき、って言うてればええねん。そして自信ありげな美しい笑みで、アキちゃんを励ます。
「生け贄出すの嫌やし、俺が行くっていうんやったら、行ってみよ。俺も一緒に行ってやるから。二人で手つないで、行き着くとこまで行ってみようよアキちゃん。なんも心配いらへん。俺がおったら、お前はいつでも幸せやねん。もっと、どっしり構えとき」
 にっこり笑って、俺はアキちゃんの背を撫でてやった。
 そんな俺を、アキちゃんは感動したんか、失笑したんか、どうしてええかわからんみたいな目で、がっくりソファにもたれて、見上げていた。
「亨……お前ってやつはほんまに……よう分からん奴や……よう分からん」
 抱いてやってる俺の腹に、くんくん懐いて、アキちゃんはそう言うてた。うんうん、そうやでって、俺はアキちゃんを撫でてやった。
 神様ってそんなもんやん? よう分からんもんなのよ。
 それでも俺は確かに存在してて、お前を愛してる。お前のことを守ってる。その愛に、お前が応えて愛してくれたら、俺はどんな奇跡でも起こしてみせる。俺に祈ってくれアキちゃん、お前が好きや、ずっとお前と一緒に居たい、ずっと永遠に、一緒に居たいって。そしたら俺は、それを叶えてやろう。神様級の、嘘みたいな奇跡で。
 ふたりで平成の、奇跡を起こそうよ。絶対できるよ。めちゃめちゃ愛し合ってんのやから。俺とアキちゃんがずっと一緒にいてる、それより正しいもんが、この世にあんのか。あるわけない。あるわけないねん。
 さあ。
 あと二日。
 いよいよ差し迫って参りました。今回のメイン・イベント。なまず様。いよいよご登場の時が、近づいて参りました。
 さああ行くでえ。水地亨。作戦はないぶっつけ本番!
 どんな展開が待っておりますか。聞いてみてのお楽しみ。
 それでは今回はこのへんで。皆さん、どうぞ、ご機嫌よろしゅう。次回もまた、聞きに来てね〜。


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