SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

神戸編(24)

 俺はワンワンはもう、戻って来えへんのやと思ってたわ。
 そうやと、ええなあっていう、ただの期待やったんか。犬が先輩ありえへん言うて、すごい剣幕で部屋をおん出ていった時には、さらば友よアディオス・アミーゴと内心爽やかに思ったもんやった。
 スペイン語やで。俺は昔、南米にもちょっと居たことがある。そこでの公用語のひとつがスペイン語やった。南米は一度、スペイン人に侵略されたことがあるからな。
 たとえば、アキちゃんのおかんと、おとん大明神も立ち寄ったらしい、ブラジルの、サンパウロ市なんて、名前ももろにキリストの弟子やった聖パウロの名前に因んだ地名やし、サンバ踊りに行く言うて、おかんがウキウキ行ったらしいリオ・デ・ジャネイロ市には、でっかい石のキリスト像がある。
 元は土着の神さんがいた土地柄やけど、そこへスペイン人がカトリック系キリスト教を持ち込んだんやんか。そこでも様々な神がヤハウェに追い立てられた。
 たとえば南米の蛇神、ケツァルコアトルなんかもそうやろう。この神さんは、翼を持った蛇やった。そして、白い男の顔をしている。水と農耕を司る神で、まぁ、言うなれば俺のイトコみたいなもん。あるいはどこかで混ざり合っている俺自身。
 それでも蛇やということで、南米では人類に火を与え、知恵を授けたのみならず、冥界の骨と自分の血とを混ぜ合わせ、最初の男女を生み出した創造主であるにも関わらず、ヤハウェの神官どもに言わせれば、しょせんは悪魔サタンなんや。気の毒な話やで。
 蛇神ケツァルコアトルは、人の血を飲む神やった。そして生け贄として、蛇か鳥か蝶を求めたけども、人身御供はやめとけ言うてた。確かにそれは好物やけど、ケツァルコアトルは特に人間を愛してて、殺すのは可哀想やしやめといてくれと拒んだんやな。
 そんな神さんを、俺は他人と思われへん。他人やないかもしれへんしな。
 蛇神はどこに住んでても、大体似たモンどうしなんや。古代の神は生け贄を求めるもんやし、ヤハウェかて昔はそうやったんやで。あいつは山羊の血を飲んだ。人の血だって飲んだんや。古い時代の神話では、あいつも我が子の血肉を捧げた男に、ようやったって言うてやってる。
 神も変わるねん、人が変わるように。人が変わるから、神も変わるんかもしれへん。神は人間を創造したと言われがちやけど、ほんまは人が神を創造したんやで。人の思念によって、熱い虚無から生み出され、神々は名を与えられる。創造主やと呼ばれれば、創造主ってことになる。そして、それらしく振る舞うようになる。人間たちの信仰が篤ければ篤いほど、それが本当らしく板に付いてくる。
 鳥さんなんか見てみ、あいつはただの鳥やのに、だんだん自分は不死鳥やって、そんなつもりになってきてるわ。本人がそう思いたいねん。そしたら信太に愛してもらえると、あいつは思うてる。ほんま言うたら虎がどう思おうと、あいつには関係ないはず。曲がりなりにも神やというなら、愛さなあかんのは虎やのうて人や。自分を虚無から呼びだしてくれた、フェニックス神戸の人たちに、あいつは報いなあかん。虎とやっとる場合やないで。
 せやけど難しい。現代生まれの神さんというのは。人はそもそも、新しい神を生み出すほどには、もう神の存在を信じてへんのやろうし、鳥をほんまに不死鳥に祭り上げられるほどの、思いこみパワーに欠ける。
 湊川怜司が信仰というカスミを食らって生きられるようには、寛太は恵まれてない。虎やら誰やらに餌を強請るしかない。それで辛うじて存在を保ってる。可哀想な鳥やで。
 あいつが正真正銘ほんまの神の鳥、死を超越した不死鳥になるためには、ブレイクスルーが必要や。神も進化したり成長したりするねん。俺にも覚えある。バージョンアップしたりバージョンダウンしたりする。エア様ありがたい神さんやって、神殿に祀ってもろて、毎日ええ匂いのお高いお香をむんむん焚いてもろて、ははあ至高の御方おんかたと、民に拝んでもろてた頃には、俺かてそりゃあ優雅なもんやったで。人の血なんぞがっついてせせらんでも、力はギンギンにみなぎっていた。
 俺には今や、ひねればいくらでも水が出る水道みたいなツレがいて、そこから精気吸い放題。せやから特に、世界を支配したいとか、そんな欲をかかなければ、普通にやっていく分には不自由せえへん。
 でも鳥さんはどうやろ。実はあいつには先がない。
 信太が好きやてメロメロになってみても、虎が美味いのは夏だけらしいで。冬場は冬眠やないけど、信太も大人しゅう過ごしてる。自分が死ぬほどではないけども、他人にいくらでも底無しに精気を分けてやれるほどには元気ではない。
 せやから鳥は、例年やったらもっと力の余ってるような奴らから、配給を頂戴せえへんかったら、やっていかれへんかった。それは今年でも同じやで。
 信仰されてない奴らはみんなそうやで。寛太もそうやし、俺もそう。そして可愛いワンワンかてそうや。
 勝呂瑞希は宙ぶらりんやった。堕天使なんやで。地獄の眷属や。せやから人界に留まるよりは、いっそ素直に地獄に戻って、そこで誰か、名のある悪魔サタン悪鬼ジンにでも仕えることにして、ご主人様からみなぎる邪悪なエナジーを注ぎ込んでいただけばええわけですよ。可愛い犬や、ご主人様かて、別に嫌とは言わへんやろ。冷たい黒い血と密で、養うてくれる。
 せやのに、あいつは我が儘な犬やねん。それは嫌やと言いやがる。
 とっくに純白の羽根も抜け落ちて、神聖なる天使エンジェルではなくなったというのに、未だに綺麗なつもりでおるわ。
 もう罪は償ってきた。俺はもう、悔い改めた。鬼やない。血なんかすすらへん。人も食わん。前にそれで、本間先輩に嫌われてもうた。お前は鬼やって、斬られて死んだんやしな。それはあいつの精神的外傷トラウマやねん。
 気の毒やなあ。未だにその傷がうずくんやろう。
 けど、アキちゃんかて今や外道や。血を吸うぐらい何でもないわ。だって自分も吸うんやもん。俺が吸うても平気やし、湊川怜司にも吸血を許してやっていた。せやし可愛いワンワンが、腹が減った血をくれと、くんくん鳴いて求めれば、アキちゃん、嫌やとは言わへんわ。誰にでも優しい男やし、犬には未練があるんやからな。
 吸えばええねん。アキちゃんの血を。飢えに飢えて、また抱いてくれとゴネられるよりは、いっそ普通に血吸うといてもらいたい。俺としてはな。それに人食うてもマズい。振り出しに戻ってまうやんか。
 ほんま学習せん犬や。パブロフ博士の犬を見習え。犬種が違うからあかんのか。アホか、地獄の猟犬は。空きっ腹抱えて意地張って。我慢もええけど、それで死んだらアホやんか?
 俺はそれでもええけどさ、アキちゃんはまた、悲しくなるやろ。可愛い犬が餓死してもうたなんて、それはあんまり悲惨やで。惨めやわ。
「お前、腹減ってんのとちゃうの?」
 いかにもフラフラみたいな青い顔色で、ぼけっとソファに座っている犬を見て、俺はシャワーから出てきたバスローブ姿のまま、ごしごしタオルで髪を拭いていた。
 いっぱい汗かいちゃったから。亨ちゃん、めちゃめちゃ汗かくくらいアキちゃんと悶えちゃったから。お風呂入ってきたの。身だしなみやろ。
 そのことは敢えて、犬に言うたりせえへんよ。でも見れば分かるやろ。自分が居らん間に、アキちゃんが俺と何しとったか、アホやないなら分かるはず。
 口に出しては悔やまんけども、瑞希ちゃん誤解しとったんやないか。アキちゃんがラジオともやったんやないかって。
 血吸うただけなんやけど、ラジオは何や妙にエロくさい奴やしな。だらんとベッドに座ってたりすると、あたかも一発やった後みたいやねん。しどけないんや、普通にしてても。その上ちょっと、酔っぱらってたみたいやったしな。たぶんアキちゃんの血に酔うてもうてたんやろ。
 なまじな酒よりガツンと来るわ。
 あの妙な、でかい力の奔流のようなのが、地下から吹き上げてきたのにどつかれてから、アキちゃんはなんか目覚めてもうたらしい。
 血の中に混じる、天地あめつちの精気が、ハンパねえ濃度になってた。ものすご美味い。ちょっと舐めたら止まらんようになってもうて、今はお腹いっぱいで別に要らんはずやのに、吸血別腹みたいに、てんこもり吸うてもうた。
 止められない止まらないやで。ほんまにもう、カッパえびせん状態。まったくもう、こんなに食うててええかしらみたいな、幸せいっぱい、満腹感。
 ラジオも必死で食うてたわ。よっぽど美味かったんやろ。腹減ってへん奴らでも、そんなんやねんから、アキちゃんの血の臭いが、飢えてる犬にはどんだけ美味そうに思えたやろか。
 それを我慢できるというんやから、こいつ絶対、変態なんやで。我慢プレイやで。それが気持ちええんやとしか思われへん。
 俺なら我慢できるわけないもん。アキちゃんが嫌やて言うても絶対食いつくわ。お願い、ちょっとだけって可愛くお強請りして。がっつり食うで、腹が満ちるまで。
「なんで吸わへんのや。俺に遠慮してんのか。血吸うぐらいは大目に見たるで。飢え死にされたら気ぃ悪いからな」
 せっかく亨ちゃんが親切に言うてやってんのに、犬は俺を無視してた。俺とは口きかへんと決めてるみたいに、ソファでがっくり項垂れて、何か考え込んでいた。
 まあ、ええか。喋りたくないなら。俺かてワンワンとお喋りしたい訳やない。ただ、黙ってると間が保たんなと思うただけや。
 お前がそう来るんやったら、俺かて無視したろと思て、俺は気にせず身支度をした。服を着て、髪の毛乾かして、そして水を飲む。ごくごく飲んでる喉の音が、自分でも気まずいくらい、はっきり聞こえた。そんな沈黙やった。
「なあ。瑞希ちゃん。なんか言うたら? 愛想ない犬やなあ、お前は……」
 むすっと青い無表情の、可愛げのある顔立ちを眺め、俺は差し向かいのソファに、エヴィアンの入ったバカラのグラスを片手に、敢えてでかい態度でふんぞり返ってみた。もちろん極めて優雅っぽく。けど、それは、かつて俺が偉大な神やった頃のようにではない。藤堂さんのところで、邪悪な蛇やった時のようにや。
 俺も見栄張ってたかもしれへん。アキちゃんが可愛い可愛い言うてる犬に、俺が極めて美しく見えるよう、立ち居振る舞いに気を遣ってたかもしれへんわ。俺はどことなく、威圧するような態度やった。お前はまさか、俺に勝てると思うてへんやろなと、無言でアピールするような。
 服も気合い入れたで。アキちゃんが、俺が着てると好きらしい、シンプルやけど、この美貌と神のごとき肢体をもってすれば、派手な服よりよっぽど綺麗に見えるような、さっぱり仕立てのシャツとパンツで、可愛い犬には到底真似のできへん、ちょっぴり大人風味。若干、遥ちゃんルックも採用しました。そして左手の薬指にはプラチナの、永遠の誓いの指輪が光ってる。
 俺ちょっと、必死すぎやない? そんなことない? 犬、可哀想?
 ええねん、そんなん、ガツンといっとかなあかんねん。ブチカマシとかな。お前やとアキちゃんとは釣り合わへんて、そろそろ理解させといてやらな、そのほうが可哀想やろ?
 でもまあ、こいつは、弟みたいで可愛いよ。いつも控え目でな。それはそれで、俺には真似できへん魅力や。
 でもアキちゃんは、俺を選んだんやで。これからもずっと、俺を選び続ける。そう約束したんやから。俺はもう、必死になる必要なんて、ないはずや。張り合う必要ない。お高くとまっといたらええねん。たとえば水煙様みたいに。
 でも、そんなん、俺のキャラやないみたい。必死やで結局。あーあ。しゃあないなあ、俺。カッコつかへんわあ。
「ほんまに死ぬんか」
 唐突にぽつりと、犬が俺に訊いてきた。水を飲み干しかけていた俺は、その言葉に止められた。
「ほんまに死ぬとは?」
「生け贄なって、本気で死ぬつもりなんか」
 まさに地獄の底から睨むような暗い目で、犬は俺を見ていた。
「そうなんちゃうか……アキちゃんはもう、頭沸いてもうてるわ。好きにさせてやるしかない」
 俺がいかにも理解し合っているふうに言うてやると、犬は微かに、つらい顔をした。素直やなあ、お前。平気なふりとか、せえへんねんや。
「そうやない。先輩やのうて、お前のことや」
 苦いもんでも食わされたような声やった。
 俺は目を瞬いて、少ししてから答えた。考えてるような間やったけど、ほんま言うたら頭真っ白やった。
 たぶん俺は、本気で死ぬつもりやったんやろう。アキちゃん死ぬなら、俺も死ぬ。死にたくはないけど、俺にも死ぬよりもっと怖いモンができた。それは、アキちゃんが居らんこの世で、永遠に生き続けることや。たとえそれが一日でも怖い。この世のどこにも、あいつが居らへん。そんな世界は地獄やで。
 アキちゃんの魂が、また転生してくんのを、探せばええのかもしれへんよ。でも、俺はまた、その時までの数千年を、ひとりで彷徨って生きていくんや。きっとまた、邪悪な悪魔サタンに戻って。
 次もまたアキちゃんが、そんな俺でもええわと言うてくれるかどうか怖い。一度でも冥界の神に囚われて、リセットかけられてもうたら、アキちゃんは俺のことなんか、忘れてもうてるやろう。また、一から口説かなあかん。その時また俺になびいてくれるとは、限らへんのや。
 この可愛い犬みたいな奴が、また現れて、今度こそ先回りして、俺からアキちゃんをかすめ取っていくかもしれへん。その時はこいつが、アキちゃんの運命の恋人ってことになるんかな。そうかもしれへん。こいつはこいつでアキちゃんと、運命的な因縁がある。俺だけが、そういう糸で繋がれているわけやない。
 やっと見つけたアキちゃんの手を、一瞬でも離すのが怖いんや。誰かに奪われたら、もう耐えられへん。愛してんねん。死にそうや。離れるくらいやったら、一緒に死んで、地獄でもどこでも、アキちゃんについていく。離さへん。
 そういう覚悟やったで、俺は。
 不思議やな。そう思うと居直ってもうてんのか、死ぬのが怖くなかった。アキちゃんと一緒に居ればええんやしと、糞度胸が湧いてくる。
 でも、それはやっぱり、やけっぱちやったかな。アキちゃんがあんまり真面目に言うてて、人に貧乏くじ回したら、俺の男が廃るっていうんや。本気でそう思うてるらしい。
 餓鬼のくせして生意気な。それでも俺は、アキちゃんのそんな健気な我が儘が、可愛いような気がしてた。そうしたいんやったら、俺も一緒についていったる。お前を男にしてやるわって、そんな気分やったんかなあ。
 でも、ほんま言うたら、どないしたらええか、俺もわからへん。運命の激流に流されて、とっさに選んだ川筋に、乗って流れていっているだけや。
「ほんまに死ぬよ。アキちゃんが逝くんやったら、俺も逝く。そうせなしゃあない。離れられへんのやから。住み慣れた人界にお別れ告げて、冥界でも、天国でも地獄でも、どこへでもくっついていってやるわ」
 何の気なしに言うて水を飲んだ俺を、犬はじっと暗い目で見てた。
「天国なんか逝かせへん……」
「お前もついてくる気か?」
 恨むような声で言うてきた犬を、俺は苦笑して見た。瑞希ちゃんやったら、やるやろなあ。先輩逝くなら俺も逝くって、死んでみせるやろう。一遍やったんや、二度目なんやし、前より慣れてるくらいやで。経験者やもんな。
「ついていったら、あかんのか」
 むっと身構えた固い表情で、犬は俺に訊いてきた。あかん言われたら、どうしようかって、まるで俺もご主人様二号みたいな、そんな顔色の伺い方をしてた。
「知らん。アキちゃんに訊いてくれ」
 笑って、俺はそう答えた。俺のツレはほんまに、どうしようもない男やで。時々俺の想像を超えてくる。愛しい俺と連れ立って、鯰《なまず》様に食われようという時に、犬も連れてく言うかもしれへん。
 どこの世界に、これからツレと心中しようという男が、ついでに浮気相手の可愛いワン公も連れてったろかという話があるんや。訳わからへん。
 それでもアキちゃんやったら、やるかもしれへんやんか?
 訊かんと分からへん。あいつがどういうつもりで居るかは。
「先輩は、俺と二人で逝くって言うてた。それでいいって」
 俺とは目を合わせずに、悔しそうに言うて、犬はもじもじ自分の膝を掴んでた。まるでもっと小さい餓鬼んちょが駄々こねてるみたいやった。
「それはアキちゃんが、俺と直談判する前の、古いバージョンやろ。もうチャラやで、その企画。お前もそこで聞いとったやないか」
 俺がアキちゃんと心中を決意した、その瞬間にも座っていた場所に、瑞希ちゃんは座っていた。あの時は驚いてたけど、今はもう、どっぷり沈んでもうたような暗い顔や。
「結局、お前が勝つんやな」
「そらそうや。それがお約束。世間のルールやで、犬。しっかり憶えときや」
 悲しげにぼやく犬に、俺は笑って答えてやった。どうも、苦笑いやった。
 もう喧嘩したないねん。俺にはそんな気力がない。俺の生涯、いつも修羅場やったで。戦争に、政争に、悪魔狩り。金の絡んだ骨肉の争い。そして必死の痴話ゲンカ。命汚い爺の執念。そんなんばっかり。もう嫌やねん。
 アキちゃんとこに来て、やっとで安らいだと思ったら、この犬が現れて、それからまた修羅場やないか。もう、ええかげんにせえよ。俺かて、長い一生の終わりの一日二日くらいは、平和に楽しく過ごしていたいわ。さらば愛しき人界の日々の、最後の名残を惜しみたい。
「お前はええかもしれへんよ、それで」
 ぽつりと犬は非難した。なんやねん、もう。まだ言うか。当たり障りのない世間話とかでけへんのか。水煙でさえ、それくらいするで。あいつもあれで最近、俺にはけっこう気安いからな。
「俺も冷静になって考えてみたんやけど、やっぱり、死ぬのはあかんのと違うか? お前が死ぬのは好きにすりゃええけど……先輩はまだ若いんやし……絵の才能かてあるのに……」
 なに言うとんねん犬。お前がアキちゃんに地獄に堕ちろて言うてたんやないか? 絵描かれへんでも知ったことかて言うとったんやで。忘れたんか。
 俺はそういう、ポカーン顔したんやろな。犬は決まり悪そうに、視線を彷徨わせて床を見た。俺はしょうがなくて、上ずり声で返事していた。
「若いんやし、って……お前……はぁ? て言うてもええですか? 死んで一緒に地獄逝け言うとったの、どこのどなたさんでしたっけ?」
「俺やけど……」
 さらに気まずそうになって、犬はもじもじ自分の指を握り合わせていた。白い指の、案外小さい手やった。
「俺、ちょっと、テンパってもうてた」
「お前がテンパってもうてない時を見たことがない」
 俺は断言してやった。だってそうやろ。俺はそうやで。平常心の犬なんか見たことない。いつもキレてる。キレまくっている。それか必死や。思い詰めてる。正気の時なんか知らんのや。
 だからこれが、俺が正気の瑞希ちゃんを見る、記念すべき最初の瞬間やった。
 犬は我に返ったらしい。俺とアキちゃんのあまりに深い愛を目の当たりにして、度肝を抜かれ、これはあかんと悟ったんやろか。俺にはもう勝ち目はないわと、とうとう理解できたか。頑張ったなあ、犬。えらい。ようやった。ごほうびにビーフジャーキーやろか?
「あかんねん……俺はすぐ、ビビってもうて。思い詰めすぎるって、先輩にも怒られたしな。確かにそうやわ。頭沸いてて、まともに考えられてへんかった」
「……まあ、しゃあないんと違うか。恋してんのやから」
 言いたくないけど、励ましといた。しゃあない、それは事実やしな。アキちゃん盗るのは殺すけど、でも、アキちゃん好きやて思うことも、あかんと禁じるわけにはいかへん。それは自由や。人でも人でなしでも、誰か好きになる心は、止められへん。たとえ相手に嫌われてても、それだけはしょうがないやろ。それが愛とか恋とかの、つらくて苦しいところやないか?
 瑞希ちゃんは、黙って居心地悪そうに眉間に皺を寄せてるだけで、うつむいたまま、ノーコメントやった。どうも恥ずかしいらしいで。
 なにが恥ずかしいの。お前がアキちゃんに恋しちゃってることなんか、もう皆知ってるで。俺も勿論知ってるし、皆も知ってるやんか? 全部喋っといてやったしな。バレバレや。バレてへんと思うほうが変やで。
 だって、アキちゃんを見つめる時の、お前のでかいお目々の中には、ハートとかキラキラとかが潜んでるもん。少女漫画やったら絶対そういうのが描いてある。背景には何か、ふんわかしたモンが飛んでる。ただ、漫画やのうて現実やから、そんなん見えてへんだけでな。そんなお前の顔を見れば、誰かて一目瞭然やで。
「それは……それはまあ、ええねん。この際、脇に置いといて。考えたんやけどな……客観的に見てみて、しゃあないから死のう、作戦も無しやっていうのは、ちょっと……」
「ちょっと……?」
 口ごもる瑞希ちゃんの続く話を、俺は待った。
 しばらく言葉を選んでるふうな顔をしてから、犬は結局言うた。
「アホみたいすぎへんか?」
「そうやで。もうアホアホ作戦しかないんや、犬」
 俺はまた断言してやった。だって考えても分からへんやんか。やらなしゃあないもんは、やらなしゃあない。それに、実際何が起きるかは、やってみるまで分からへんのに、あれこれ悩んどいてもしゃあない。その場で対処。案外、なんとかなるかもしれへんやんか。どうせダメ元。アドリブで。愛があればダイジョウブ。神様がなんとかしてくれる。俺がその神様やけどな。
 死んでもええわと腹据わってもうたら、怖いもんなしやで。適当や。
「アホアホ作戦て……本間先輩はアホやないんやから……」
 犬はもじもじ言うてた。ええー。知らんのか、こいつ。
「アキちゃん、アホやで」
 俺は親切に教えといてやった。いや、あの子は偏差値的には賢いらしいけど、学校の成績が良かろうが、そんなもん、何の役に立つの。アキちゃん最近、ほんまにアホやで。あっちフラフラ、こっちフラフラやし。お前だけが好きやて言うた直後に、おぼろ様から電話かかってきてデレデレやからな。アホ以外の何者でもない。
「そんなことない。先輩は頭ええんやで。般教ぱんきょうでの成績も、学内でズバ抜けてるって、先生らも言うてたで。ほんまは美大来るような頭やないねん」
 お前はいま全世界の美大生を敵に回す発言をしたな。許してやってくれ。犬もアホやねん。
「でも学校の教科書には、なまずや龍のやっつけ方なんか、書いてへんのやろ?」
 俺は真面目に訊いてんのやで。だって知らんもん、見たことない。学校の教科書なんて。行ったことないからな、学校。
 でも犬は別。こいつは人間様のふりをして、なりすまして生きてた妖怪変化なんやから、小学校も行ったし、中学や高校にも行った。大阪の天王寺にある、名門の進学系男子校に通ってたらしいわ。ひらひらのおかんの趣味でカトリック系やで。
 そこで学んだ詰め襟学ラン時代の成績が、あまりにも賢いもんで、親もテンパってもうて、アメリカ留学させるて血迷ってたんやんか。アメリカの人もびっくりしはるで。犬を大学入れてくれなんて頼んだら。
 まあ、向こうには向こうで、犬猫に大財産を相続させるような、イッてもうてる人もほんまに居るらしいから、金払えば大学くらい入れてくれるんかもしれへんけどな。
「書いてるわけないやんか。ナマズのせいで地震が起きるなんて……そんなアホな」
 情けないみたいに頭抱えてる瑞希ちゃんは、ちょっと前のアキちゃんみたいなこと言うてた。自分も妖怪のくせに、不思議不思議を頭ごなしに否定するとは。お前が居って、俺が居るなら、なまずが居っても変やないやろ。
「あかんねん俺はそういう、科学では解明できない系は、納得でけへんのや」
「何を血迷ってそんな自虐的なことを言うんや、ワンワン」
「ワンワン言うな、俺は人間なんや!」
 とっさの一言やったろうか。それは瑞希ちゃんの本音であり願望でもあった。
 言うてもうてから、犬はちょっと気まずそうに、苦い顔で赤くなっていた。
「なんでそんなこと思うんや。お前、犬やんか。しかも堕天使なんやで。人間やないよ。そんなん別に恥やないで。……少なくとも、このホテルでは。右も左も、外道だらけやないか? お前だけが化けモンなんとちゃうんやで?」
「そんなん……急にそうなっても、ついていかれへん」
 新人さんやった。瑞希ちゃんは。そう言えばそうと言えなくもない。三万年もトシ食ってきやがったが、それは煉獄の底での話で、こいつはただ、こんがりローストされてただけで、何の経験も積んでない。我慢大会やってただけ。根性は据わったやろけど、でも、それだけで。何の知恵も知識もついてへん。
 ただただ自分を責める地獄の獄吏を、怖い化けモンやと震え上がってただけで、それがどういうモンなのか、よう分かってへんかった。天使になっても使いっ走りなんやし、居着く間もなく辞めてきた。それで何かの足しにはならへん。
 素人やから。犬は素人。
 オカルト否定派の妖怪や。
「自分で自分に、ついていけてへんの……?」
 俺もさすがにちょっと引いてた。
 言うても俺、賢かったんやなあ。学校には行っておりませんが、古代の生まれでラッキーやった。昔の人類は、産んだ神様や物の怪には、ちゃんと責任とっていた。そういうもんがいると信じてくれたし、イケてる神なら、崇め奉ってくれた。俺は自分が人間やと勘違いしたことはない。明らかに人外。不思議不思議の亨ちゃんやしな、その事実を否定しようと思ったことはない。ついていけてる、自分には。一応な。
「瑞希ちゃん……もっと、ありのままの自分を認めたら? 犬やねんし。外道やねんしな? それでも別に、アキちゃんに嫌われたりは、せえへんで。むしろ外道ウェルカムなんやから、あいつは」
 そういう家の子やねんで。俺はかいつまんで、ざっくり説明してやったよ。前には俺が、アキちゃんのおかんから、ちびちび話して聞かされたような事。秋津家は代々、巫覡ふげきを出してる鬼道きどうの名門で、神を祀って、しきを従え、悪い鬼さんは退治する、そういう血筋なんやと。神威によって守られているけども、神やら名も無き怪異やらを我が家に棲ませて、身内のモンとしてお守りするのも、つとめの一つなんやで。
 妖怪シェルターなんや、アキちゃんの実家は。蔦子さんちもそう。もしかしたら、大崎先生の会社もそうなんかもしれへん。狐の秋尾がそんなこと言うとったで。会社の社員にも、人でないのがいてるって。
 大崎先生の会社の社屋に、夜中、狐の火がぼやあっと灯ってても、そんなんで驚いたらあかん。その会社の会長の、ヘタレの大崎茂ちゃんは、ほんまやったらすぐ死ぬはずの、虚弱で、異形の目ぇした赤ん坊が、伏見稲荷の権現さんに気に入られ、お付きの狐をつけてもらって生きながらえて、立派なげきに育ったという経歴の人物や。秋尾の血筋の、従兄弟の子狐くらい、ポケットマネーで雇ってやるわ。もともとお稲荷さんのご加護で、アホみたいに儲かった金なんやしな。
 水煙は秋津の血筋に最初のはじめから取り憑いている隕鉄の精やし、宇宙由来の、ほんまもんの神さんや。さっきのラジオは京雀。あいつはアキちゃんやのうて、クローン並みにそっくりさんの、アキちゃんのおとんに惚れている。おとんは第二次世界大戦で死んだ英霊で、今は大明神。おかんと世界旅行に行ってて留守や。舞はそのお供。寒椿の精やで。顔可愛いけど、油断したらあかん。あいつもアキちゃん狙いやし、しかも油断ならんことに、アキちゃん好みの和風美少女で、はんなり京都弁で喋りよる。要注意キャラや。忘れたらあかんで、アキちゃんは、女でもええんや。全方向的に注意せなあかん。美形を見たら、敵やと思え。そういう血筋の子や。
 そして最もヤバい強敵は、誰あろう、秋津登与。アキちゃんのおかんや。生みの親やで。ほんまもんの母。アキちゃん、おかんに惚れとんねん。踊る巫女さんやで。どう考えても八十がらみの婆さんなはずやのに、うちは十八どす、て言うてはる。それは大げさでも、確かに若いわ、精々三十路くらいに見える。どんだけ霊力持ってるか、はかりしれん、怖いおかんや。
 逆らったらあかん。あのオバチャンには、頭さげといたほうがええわ。そうせんかったらアキちゃんとこ居られんようになる。アキちゃんは、いざとなったら、おかんを選ぶ。そういう危険性のあるマザコン男やで。信用したらあかん。
 俺はざっとそう話した。
 犬はそれを、あんぐり聞いてた。
「英霊、って……六十年以上前やで、第二次世界大戦」
 計算できてるかって、明らかに俺の脳を危ぶんでいる顔で、犬は訊いてくれた。俺はゆっくり頷いた。
「そうやで。せやからアキちゃんおかんは、四十年くらい妊娠してたことになるな。しかも、おとんは兄ちゃんやしな。実の兄妹やねん。せやからアキちゃんは血が濃いんや。兄妹婚はさすがにキワモノやったらしいけど、秋津家では親類とくっつくのはデフォルトらしいからな。そうやって血筋の力を保ってる。本能らしいで。せやからな、血の近い相手は気をつけなあかん。蔦子さんは、似たモンどうしすぎて相性悪かったらしいけど、その息子の竜太郎は、従弟のくせにアキちゃんラブラブやしな。あいつも蹴って良し」
「従弟の竜太郎……」
 犬は、その新たな仮想敵の件で、妊娠四十年の話は失念したらしい。お前もつくづく、アキちゃん重視や。
「中一やで」
「なんや、中一か……」
 そんなら俺の敵やないと、犬は油断したらしかった。ソファで身を乗り出し気味やったのに、ふっと脱力しやがって、若干、余裕の笑みやった。
「でも美形やで。ほんまもんの人間の美少年」
 俺が言うといてやったら、犬はビクッと来てた。なんで人間コンプレックスがあるんやろ。店で試着しとった時には、まだ見ぬ遥ちゃんにも張り合うとったしな。神楽と張り合うても意味ないやん。あいつアキちゃんとは友達なんやから。俺が張り合うなら意味あるかもしれへんけどさ。犬には攻撃レンジ外やろ。
「でも……中一って……十二歳とかやで。先輩、そんなんでもええの?」
 訊いてる犬は哀れっぽかった。知らんうちにメキメキとシェア拡大していたアキちゃんの無節操なキャパのでかさに、胸を打たれたんか、瑞希ちゃん。
「いや。さすがに竜太郎には引いている。でも身内やからな。血が近いんやから、要注意や。アキちゃんが脈無しでも、中一はマジやから。萌え萌えやから。アキ兄アキ兄言うて懐いて、いっしょにお絵かきしに水族館デート連れていけって強請ったりしよるんやで」
「行ったんか!?」
 マジ切れするな言うてるやろ。気持ちはわかるが。
「行ったよ……俺と水煙も、くっついていったけど。イルカの絵描きに行った」
「そんな……写生デートなんて、俺でも行ったことないのに!」
 ちょっと待て、俺も行ったことない。
 瑞希ちゃんは本気で頭抱えてた。俺でもそこまでは悔しがらんかったのに。なんでお前が悔しいねん。それについて俺はとっても気になるんやけど。そういやお前、大学でアキちゃん狙いやった時期に、なにをどんだけやってたんや。キスもしてへんのは、ええけども、ボディー・コンタクトまで行く前に、まさか何か可愛いことしてへんかったやろうな。アキちゃん鈍いねんから、それとは気付かず、お前とプラトニック・デートしてたかもしれへん。そういや問いつめてへんかった。場合によっては殺さなあかんしな、この際、訊いとくか。
「なにデートなら行ったことあるねん……」
 俺はちょっとおどろおどろしかったはずやねんけど、瑞希ちゃんは頭抱えてて見えてへんかったらしい。
「ないよ、そんなん。学食でいっしょに飯食ったり、図書館に資料探しに行ったり、取材で祇園祭の資料あるとこ行ったりしただけやで」
「デートやないか!」
 俺は素足でどしどしコーヒーテーブルを蹴りながら抗議した。ほんま言うたら犬を蹴りたいが、それをやったらバトルになりかねん。それはまずいし、ホテル壊したら、彼が藤堂さんにぶっ殺される。せやし、傷一つつけたらあかんのやで。
「三人でやで。由香ちゃん絶対ついてくるんやから。あの、強引やしな。積極的やから、むしろあっちがデートで……俺なんか、オマケやで」
 しょんぼりとして、犬は俺に言い訳していた。
「……邪魔な女やな。そらもう殺さなあかんわけや」
 俺は冗談で言うたんやで。でも犬にはその話は、ぐっと来る嫌みに聞こえたらしいわ。
 犬は苦しそうな顔をして、また、ぐったりと背を丸めて項垂れて、しばらく黙り込んでいた。
「あんなん、せえへんかったらよかった。そしたら今でも大学で、後輩やれてたかもしれへんのに。由香ちゃんも、今思えば、そんな悪いやなかった。あいつも先輩のこと、好きやっただけで……ええとこも、ある奴やったで」
 俺の目を盗んで、アキちゃんとベタベタしとった顔黒ガングロのブスに、いったいどんなええとこがあるんや。ブスはブスでも、トミ子クラスの怪物やないけど、中途半端な顔の女やったで。写真百枚撮ったら、一枚は可愛いかもしれへん程度。まあ普通。そんなレベルでアキちゃんの面食いセンサーが反応するはずもないのに、平気でベタベタ腕組んだりしよってからに。犬が殺らなきゃ、俺が殺ってたかもしれへん。あの頃の俺は、まだまだ必死の悪魔サタンやったんやからな。狂った犬と大差ない、イカレた蛇さんやったわ。
 ほんま言うたら、俺も疑われててん。アキちゃん、どないしてんのかなって寂しゅうなって、ふらっと大学まで追っていったりすると、そこでアキちゃんのご学友に会う。友達いうほど親しくはない。一緒に遊んだりはせえへん。それでも大学で会えば、アキちゃんは挨拶もするし、当たり障りのない会話ぐらいはする。
 本間は絵が上手いからって、アキちゃんは注目されていた。他にもいろいろ、注目されていた。アキちゃんに、好きやった女を寝取って三日で捨てられて、恨んでる奴らも、少なからずおるらしい。絵が好きや、お友達になりたいわあって、こっそり見てる奴らもいてる。むしろそっちが多数派や。
 そんな連中はなぜか、一応人間なアキちゃんよりも、有り難い神さんである俺のほうが、よっぽど話しやすかったらしい。ナメられたもんやで亨ちゃん。あっちこっちで呼び止められて、亨ちゃんは何者なんやと、お菓子くれたりして訊いてくる。
 それで俺がアキちゃんのツレやと、知ってるような連中は、由香ちゃん殺ったの、まさかお前やないやろなと、心配して訊いていた。アホなやつらや。もしそうやったら、自分も俺に殺されると思わへんかったんやろか。絵描くやつらは暢気やで。俺が悪いモンやないと、勘違いしてたらしい。なんでそんなこと思うのか。わからへん。アートな奴らは。
 そいつらが言うてた。由香ちゃんは、確かに本間にラブラブやったけど、あのは誰にでもそうやねん。子供みたいな甘えたで、誰とでも腕を組む。べたべた甘える。先輩愛してますぅ〜言うて抱きついてくる。そこが可愛い。皆にそうするんやから、本間にもする。それだけなんやでと、もう死んでもうた女のことを、皆ちらほら俺に言い訳してやっていた。
 せやし、ええ子やったんやろな。姫カットが死んだ時には、誰も弁護してくれへんかった。可哀想な女や。顔黒ガングロ普通系よりモテてへん。美人やのに。アキちゃんにも、実はあの可愛い和風顔やのうて、怪物トミ子の性格のほうで、モテてたんやないか。アキちゃん実は、言うほど面食いやない。メンタル重視。顔だけやのうて、心の綺麗な奴が好きやねん。鬼やと、あかん。性根のええやつやないと。
 その、由香ちゃんとかいう普通女にも、腕組んでやるなんて、惚れてへんなりにも、嫌いではなかったんやろ。アキちゃん、好き嫌いははっきりしとるから。可愛いやなあと思ってたから、ベタベタされても、苦笑いひとつで許してたんや。兄貴が妹に甘えさせてやるみたいなもんやろ。向こうがほんまにアキちゃんのこと、好きやったんなら、それはそれで、つれない話やけども。殺されるような事やない。
 殺すようなことやなかったと、犬も今さら思うてんのやろ。反省したんか。地獄の火でさんざん焼かれて、ふと我に返ってみて、なんで俺はそこまで必死になってもうてたんやろかと、後悔したか。それはそれは、殊勝なことで。こいつも本来、ええ子やねんから、殺っといて正解やったわ、まあええかとは、思うてへんのやろ。
「由香ちゃん、はじめは俺が好きやったらしいねん」
「はぁ? そうなん?」
 ぼそぼそ言うてる犬の話に、俺はポカーンてなってた。でもこいつ、女には興味ないねんで。そういうキャラやで。苑先生がそう言うてたもん。勝呂君は、ほんまにそうらしい、って。なんでか知らんけど、こいつは男しか好きになられへんらしい。ほんまもんやねん。
「でも俺、女の子には興味ないねんて断ったら、由香ちゃんそれを、その日のうちに、キャンパス中で喋りまくってくれてな……」
 鬼やんか。全自動カミングアウトやな、勝呂瑞希。
「別にええねんけど……そしたら今度は、男に言い寄られるようになってもうて」
 俺はモテるという話か。憎いざます! しかし一応、腕組みして真顔で聞いといた。
「俺な、誘われると断られへんねん。なんでか知らんけど、やらせろ言われたら、やらせてまうねん。そんなんしたらあかんて由香ちゃんが、なんとなく追い払ってくれてたから、大学ではマシやったんやけど」
「恩人やんか」
 やりまくりがパラダイスやないんやったらな。犬はなんか、そんな顔してた。ほんまは嫌やったという顔。嫌なら嫌やって言えばええだけやのに、変な奴やで。娼婦やないんや。まともな親もいる家の子で、養子とはいえ、可愛い可愛いしてもらってた一人っ子やで。金に困ってたわけでもないやろ。何が悲しいて、好きでもない男に嫌々ケツ貸したらなあかんねん。アホですわ。
「恩人やねん……まあ、そうやねんけど。複雑やった。友達やったしな。でも、俺にはたぶん、人間の心なんて、よう分かってへんのや。犬やしな、外道やから……」
 困ったみたいに言うてる犬が、えらい卑屈やなあと思えて、俺はジトッと睨んでた。何が言いたいんや、お前は結局。なんか話、見えへんようになってきたで。世間話にしては暗いしな。なんか言いたそうなんやけど、それの周りをうろうろと、虚しくうろつく犬みたいに、瑞希ちゃんは煮えきらへんかった。
「何が言いたいねん、お前は」
 イラッとしてきて、俺は若干むかついた声でそう訊いた。
 それに犬はうつむいて、かすかに圧されたような、焦る気配を見せていた。
「わからへん、何が言いたいんやろ、俺は」
「アホか。ちゃんと考えてから、もの言えよ。外道やから何? 外道やから、恩人やった女殺したんか。それで終了? なんで俺にそんな話すんの。そうやなあて言うてほしいんか。お前はほんまに外道やなあ、って」
 それを認めたくないんとちゃうの。意味わからへん。勝呂瑞希。イラッとするわ。
 アキちゃんけっこうイラチやのに、ようこいつにイライラせえへんな。可愛い顔が大好きやったら、話の内容なんか何でもええのかな。一生懸命話してんのを延々聞いて、そうかそうか可愛いなぁて、デレデレしてれば間が保つんか。
 俺は犬にはぜんぜん何の萌えもない。恋敵やというのを別にしたかて、俺と犬では何の接点もない。行っても精々、お友達。抱かれたい同志がセットになっても、呼応するもんがないしな。
 こいつは素直で従順なのが、ええとこやんか。くんくん鳴いて付いてくる。かまってかまって、抱いてくださいみたいなのが、支配したいタイプの下心を刺激する。そんな、蹂躙じゅうりんされ型の、愛玩用の犬っころなんやから。
 正直、ウザイだけ。この、世話してやらなあかん感じに、アキちゃんが萌えてんのかと思うと。それが容易に想像つくしな。愉快ではないわ。
「そうやない。俺は、人間みたいになりたいねん。飼われてる犬やのうて、もっと自由な。でも、結局は外道やし。由香ちゃんが、先輩好きやし、お前が行かんのやったらウチが行くわって言うただけで、完璧テンパってもうて、人食うような狂犬病やからな……それで、あかんのやろか。それで先輩は、俺のこと、好きやないんや。お前みたいなのが、ええんやろうなあ」
 ぼんやり悲しそうな、羨んでる目をして、瑞希ちゃんは俺を見た。
 もともとそれを狙って、ポーズつけてた俺様やったけど、しょんぼり飢えた負け犬に、惨めそうに見られて、俺は実はちょっと、気が咎めた。
 居心地悪いわあ。いじめてるみたい。そんなん、何もしてへんのに。ただ親切に、聞きたくもない話を辛抱して聞いてやってるだけやのに。めっちゃ親切やのに、亨ちゃん。
 けど、なんというか。可哀想っぽかった。確かに犬は哀れっぽい。
 こいつはどうも、アキちゃんに、干されたらしい。抱いてもらわれへんかったみたい。なんでか知らん。その後に、わざわざラジオんとこで抜いてきやがって、やりたいやりたいは本音やったろうに、アキちゃんはなんでか犬とはやらへんかった。
 それぐらい嫌やったんやと、瑞希ちゃんは思ったんやろ。ってても入れたくない。とりあえず逃げて、他のと一発やってくるなんて、とんでもねえ話やで。俺ならキレてる。それでも犬は、それにブチキレはせえへんかったしな。ただ、何か、しょんぼりしてた。振られたんやと思うたんやろ。
 実際そうやし、否定はできへん。アキちゃんはお前を振ったんや。そして俺のことが好きなんや。アキちゃんは俺を愛してる。あいつは、俺みたいなのがええねん。俺は別格やって、そう言うてた。それがリアルや。現実なんやで。厳しいなあ、現実って。誰にとっても、ときどき厳しい。
 俺にとっての厳しい現実は、そこから先やないか。
 アキちゃんはいつでも俺が好き。俺がベスト。でも、犬も好き。おかんも、水煙も。たぶんラジオも好き。鳥さんも好き。神楽遥も好き。藤堂さんまで好き。誰でも彼でも好き。死ぬときに連れ立っていく相手には、俺を選ぶけど、俺とふたりだけでは生きていかれへんて言うてた。はっきりそう言うてた。他にもいろいろ、愛してる人らがいて、そいつら無しでは立ちゆかへん。そういう世界観やねん、アキちゃんは。
 だからな、つまり、この話の結論はやで、俺のツレは、この犬も好き。
 問題はそれを、なんで俺が犬に言うてやらなあかんのやという件や。おかしいやろ。敵に塩を送るってやつか。戦国武将か俺は。ちゃうで、亨ちゃんメソポタミア系なんやから。武将は関係ないんやで。せやのになんで、そんなことせなあかんの。敵わんわあ、ほんまに。
「アキちゃん、お前に、なぁんも言うてやってへんの?」
 奥手やからなあ、あいつも。押して押して、やっと一言出てくるような面もある。素面やったら絶対そんなんやで。せめて泥酔してる時やったらなあ。何かええこと言えたんやろけど。しがらみを捨てた、我慢がきかへん本音のところをさ。
「蛇が好きやって言われた。俺のこと……愛してないとは言わんけど。でも、お前が好きなんやって。お前になんかしたら、許さへんて……念押しされた」
 雨の日の捨て犬かてもうちょっと明るい顔してるで、瑞希ちゃん。暗いわあ。なんて暗い奴なんや。そんなんやから俺に負けるねん。アキちゃんもどっちか言うたら暗くなりがちな性格なんやしさ、お前とセットになってもうたら、暗さ爆発みたいになるやんか。暗黒星雲やで。何人なんぴとも抜け出られへんブラックホールみたいになるで。ふたりそろって思い詰めとったらな。
「そら、しゃあない。俺はアキちゃんの運命の恋人で、永遠の伴侶なんやしな。守護神なんやで。ぽっと出の犬とは格が違うてる」
 ずけずけ言うてやっても、犬はキレもせんと、黙って聞いていた。こいつほんまに負け犬になってもうたんかなあ。別にええけど、アキちゃんに干される前には、もうちょっと骨のある犬やったのに。あれが最後の足掻きか。あれっぽっちでお終いなんや。まあ、俺もまた、軽ーく死ねたけど。
「でも、お前もただの犬畜生に毛はえた程度のモンにしては、健闘してるで。アキちゃん、お前が大阪でくたばった後、犬の絵描いとったしな。一生懸命描いてたわ。俺には見向きもせんと、必死で描いてた。つらかったんやで、アキちゃんも。お前のこと、殺したくなんかなかったんや。好きやったんやで、お前のことも、それなりに」
「そうやろか……」
「そうやろか、ってなぁ……考えろ、お前のその、偏差値高いらしい頭で。俺になんのトクがある? アキちゃんがお前のこと好きやって教えてやって。百害あって一利無しやろ。その俺が言うんや。嘘やないで。マジもんマジもん」
 言いたないわあ、それはさすがに。俺もどんだけ人がいいのか。いや、人やのうて蛇やけど。どんだけ、ええモンの蛇なのか。これで犬がまたチョーシこいて、先輩抱いてて迫りやがったら、どないしてくれようか。今度こそ蛇キックでぎったんぎったんに成敗。それしかない。
「アキちゃんには関係ないから。人でも外道でも、顔さえ良けりゃ、どっちでもウェルカムやから。博愛なんやで。嫌いなんは鬼だけや。お前もまた鬼にならんように気をつけろ。その時こそ、ほんまに嫌われる。テンパってたらあかんのやで」
 俺が諭してやってても、犬は聞いてんのか、聞いてへんのか、わからんような顔をしていた。ぼけっとしてるみたいやった。
 ほんで、しばらくそのまま考え込んでるような、ぼんやり顔のまま静止していて、やがて唐突に口を開いた。
「煉獄を出る時、俺は冥界の王と、問答をした。なんで由香ちゃん殺したんやと、訊かれてん。俺はそれには、なんも答えられへんかった。何がどうやったか、もう、忘れてもうてて。ただ、何となく漠然とは思い出したんやけど……由香ちゃんが、本間先輩のこと好きやって言うてた。今日こそ告白するって、朝来て言うた。でも先輩にはお前が居るやろ。もう相手が居るねん。もう言うてもしゃあないでって、俺は教えてやったんやけど……」
 それが道理というふうに、犬はぼんやり話してた。俺時間では、ほんのひと月ばかり前のことやねんけど、こいつにとっては三万年前か。それは目も遠いはずや。
「由香ちゃん、それでもかまへんて言うねん。好きな子おっても、関係ない。とにかく告って、好きでたまらへん、ウチと付き合うてくださいて言うって。二番目でも三番目でもええから、いっぺんだけでもええし。何でもええんやって。気持ちを受け止めてくれたら、それで。何も言わんと、うじうじしてるほうが、しんどいねんて」
 それはずいぶん潔い女やで。竹を割ったようやな。まあ、大阪の女やったんやしな。そういう奴、けっこうおるわ。悩んでても、しょうもない。とにかく行ってまえみたいな、気合い一発の女。それで泣いても、酒飲んでカラオケ歌って、タコ焼き食うてクソして寝ればええしな。男なんかいくらでも居るわって、そういう武闘派な。
 きっとそんな女やったんやろ。その、由香ちゃんていう、色黒い普通顔の女。元気が取り柄で、いっとけいっとけ、やってまえ体質。うじうじしてて、イラッと来るような、煮え切らん犬よりは、よっぽど俺好みやったかも。
「実は俺の敵って、お前やのうて、その女やったかな。そいつがお前のこと、けしかけへんかったら、お前がアキちゃんに粉かけることなんて、なかったんやないか。先輩後輩のままで、永遠にうじうじ我慢しとったんとちがうか」
「そうかもしれへん……」
 遠い目のまま、勝呂瑞希は三万年前にてめえがブッ殺した女の顔を思い出してるようやった。
「由香ちゃんは、ほんまに先輩のことが、好きやったらしい。でも、俺のことも、好きやったんやって。せやけど瑞希くんホモやし、ウチ振られてもうたし、うじうじしてもしゃあない。次いくし、もうライバルやでって、言うてた。たぶん最初は、俺の背中を押してやろうって、そういうお節介やったんやろけど、行ってるうちにマジ惚れしてもうたんやろう、本間先輩に。そういう、適当なやってん」
 適当やなあ、それは。でもまあアキちゃん、ええ男やからな。親しくなったら惚れてもうても、しゃあない面はある。せやけどそれを、あっけらかんと、本人うじうじ悩んでるような奴に言うのって、どういう神経の女やねん。あっけらかんとしすぎ。
「でも、殺さなあかんような、嫌な奴やなかったんかもしれへん。お前も告れって、誘われた。そうせえへんかったら、負け犬なってまうでって。あんたほんまに犬みたいって言われて、人間なんやったら、黙ってうろうろしてへんと、本間先輩にちゃんと言えって怒鳴られて、頭真っ白なってもうてん。キレてもうたんやろな、俺……由香ちゃんムカつくんや……ええ子すぎてな、悔しい。先輩、このに告られて、なびいてまうんやないかって……」
 瑞希ちゃんの話はそこで途切れたけども、俺はなんで犬が、そんなふうにビビったか、これが理由やろうというのを知っている。アキちゃんの同級生から聞いた。
 本間先輩は、後輩なんかいない一年の頃から、タラシの本間と呼ばれてた。あんな、ぽかあんとしたアホみたいな子やけど、アキちゃんにも荒れてた時期はあったんや。入学してすぐの頃から、姫カット・ウィズ・ブスとデキるまでの期間、アキちゃんは手当たり次第に女と寝てたらしい。俺にはそんな姿、想像付かんのやけどな。
 いっぺんに二人三人とは付き合わへんのやけど、その一人きりの相手と全然続かんらしい。何かあると、あっさり別れて、告白してきた次のと付き合う。それと別れる。また告白。それと寝て、また別れる。同級生でも先輩でも、向こうが好きやと言うてくれば、誰とでも寝る。断るのは、今付き合うてる相手がいてると思ってる時だけで、その時振った相手でも、フリーになった瞬間をとらえてリトライしてきたら、やっぱり、あっさり抱くらしい。
 たぶん、誰でもよかったんやろ、アキちゃんは。寂しかったんや。寂しい寂しい言うてたもん。東山のホテルのバーで、俺と出会った時にも、酔っぱらってそう嘆いてた。寂しい寂しい。嵐山の家に帰りたいって。
 トミ子はアキちゃんにとって、おかんの代わりやったんや。確かにあいつは、ちょっと、おかんみたいなところがある。アキちゃんのおかんに似てるという意味やのうて、優しいねん。ごはん作ってくれるし、いろいろ心配もしてくれる。労ってくれて、よう気も付くし、一本芯の通ったとこあるわ。それでもその芯が、何かのショックで折れてまう程度には弱いところもある女やった。守ってくれるけど、守ってもやらなあかん女で、それがアキちゃんには、おかんみたいで、ツボに来たんやろ。
 せやから、言うたらその頃から、基本、二股かけてる男やったんや。おかんとトミ子と。今はもっとひどい。寂しいてたまらん子なんやろ。甘えたのボンボンやねん。そんなところが可愛くて、俺もハメられてんのやけども、俺様みたいにしてるくせに、寂しい寂しいて、いつも物言わぬ声で言うてるような男やからな、女の子にもモテるんや。ウチが慰めてあげる、みたいなな。そんなとこある、心優しい、女どもには。
 それと愛し愛されたくて、アキちゃんは手当たり次第やったんやろけど、理想の相手って、そうそう居らんかったんか。ずっと荒れたまま彷徨っていた。
 それで立った悪い評判が、本間は女が告ってきたら、基本、断らん男やという話。
 犬はビビったんやろ。由香ちゃん告白したら、もしかして、本間先輩は、ええよ付き合うよと言うかもしれへん。ツレが居るとは知ってたけども、でもわからへん。そのツレ、男やしな、女は別腹かもしれへんやんか。本間先輩は当時、俺はストレートやという顔をしていた。男とはやらん。亨とは気の迷い。せやし犬も拒まれていた。男は要らん、女がええんやと言うて。せやから告白なんかされたら、由香ちゃんとデキてまうのかも。その可能性がゼロとは言えん。犬は目の前で、自分よりはるかに不細工な女に、欲しい獲物をかっさらわれて、ワンワン泣く羽目になるのかもしれへんかったんや。
「でも……それで殺すなんて、おかしいよな。今はそう分かるんやけど、あの時俺は狂ってた。由香ちゃんには、ほんまに済まんことをした。俺は確かに鬼で……今もそうやし、どうしたら鬼やめられんのか、わからへん。戻ってきたら、あかんかったかな。ついていったら、あかんやろか。先輩が逝くのが、天国やったら、どうせついていかれへんのやし。もう、諦めなあかんのかな……? どう頑張っても、俺にはチャンス無いって、それが罰で、俺はまだ地獄に居るんやろか」
 なんでそれを、よりにもよって俺に訊くねん。
 ほんまにもう、頭悪い犬や。ええかげんにせえよ。いくら俺が神様やからって、そんなに甘えんといてくれ。
「そんなん、アキちゃんに訊け。ついていったらあかんかて、走っていって訊いてこい。竜太郎んとこに居るはずやから」
「このホテルの中?」
 そうやで。部屋番号なんやっけ。
 ………………忘れたわ。
 畜生。あかん。俺、そういうの憶えてられへんねん。数字系。電話番号とかもなあ、携帯の電話帳消えたらアウトやし。アキちゃんの番号でも憶えてられへんのやから、大概アホやで。
 そんなんやのに、竜太郎の部屋の番号なんか憶えてるわけあらへんよ。何階やったっけ。二階? 一階? とにかく、この部屋のある三階と別フロアなことは確かや。そこまでしか憶えてへんわ。どっかにメモっといたらよかった。
「そうや。ホテルん中やけど……遅いなあ。アキちゃん。蔦子さんとモメてんのやろか。行って戻るだけにしちゃ遅い……」
 俺は思い出すのを諦めて、アキちゃんに電話をすることにした。訊く方が早い。それに何か、心配やってん。竜太郎はアキちゃん狙いやでという話なんかしてもうたせいもあるし、湊川怜司のことも、もちろん引っかかっていた。軽くて、おもろい、ええ奴っぽいけど、なんか目が暗い。けらけら気さくに笑うてるけど、その目の奥に、なんかもう一人、怖いのが居てるような気がする。
 もやもやしてて、正体見えへん。そのもやの中に居るもんが、鬼か、じゃか。雀なんかな。何かすごいかぎ爪のあるもんが、潜んでいるような気がする。それでもおぼろで、よう見えへん。ゆらめく波のようで、正体がない。
 それは、あいつの正体がうわさやからかもしれへん。それとも聖か邪か、どっちつかずで、姿が定まってへんからかもしれへん。何かが蜷局とぐろを巻いてる。それが抱いているのが、人への愛なのか、呪いなのか。
 神隠しに遭わせる神やと、水煙は言うてた。実際そうや。
 俺はそのことが、未だに気がかりやった。アキちゃんが、あいつと、とっとと出ていってもうて、まるで何か、秘密の話でもあるみたいな空気が漂っていた。お前も来いとは、頼まれへんかったし、うろうろついて歩くなんてと、引け目もあったんや。
 普通やったら、俺が風呂入って着替える間で、もう行って戻れるような距離やんか。
 蔦子さんが、湊川怜司はお前にやらんと、ゴネてんのやったら長引くやろけど。それももう、やってもうたんやし、モメてもしゃあない。助け船にでもなるかと、そんなつもりで携帯の電話帳から、アキちゃん♡を選んで電話をかけた。♡マークつけたらあかん? つけたいねん。ほっといて。
 電話かけてる液晶表示を見てから、俺は電話を耳に当てた。電話は、さああっ、と、何かが流れているようなノイズを吐いていた。まるで砂時計の砂が、流れ落ちてる時の音みたい。時が刻々と、過ぎている。そういう気配のする、静かな音で、それは通話が繋がるのを待つときの、いつもの音やなかった。
 ひそひそ話す声が、普通の耳には聞こえんような微かな音で、俺の耳をくすぐった。
 その声はなんとなく、聞き覚えがあるような、品のええ囁き声やった。こっちに話しかけてるんとは違う、たまたま何かの囁き声を、アキちゃんが持ってる電話が拾ってもうてるような。それに通話してる俺のほうにも、同じ囁き声が、うっかり漏れて出てきてるような。
 つれていこうか、と、その声はひそひそ訊いていた。
 つれていこうか。
 つれていこうか。
 つれていこうか。
 つれていこうか。
 まるで心に潜む悪魔か鬼が、ひそやかに誘うような声やった。甘く滴るような。そしてよこしまな。
 つれていこうか、祇園の夜の赤塀の、古いしとねのある部屋に。あいつの代わりに横たえて、閉じこめとこか。せめてもの、罪滅ぼしに。復讐に。お前の息子を奪ってやろか。永遠に出られへん夜に、閉じこめて。そうすりゃ良かった、お前の代わりに、この子を盗ろか、神隠し。一口ずつ食うたろか、千年かけて。それとも一緒に、心中しよか。
 せやけど、こいつは、お前ではない。匂いが違うてる。この子は煙草は吸わんのやなあ、と、その声は、ぼんやり呆けたような、酔うて艶めく声で言うてた。
 それが誰の囁き声か、俺はぞうっと怖気立ちながら、すぐに分かってた。
 おぼろや。
 あいつは悪鬼やったと水煙は罵っていた。でも俺には、湊川怜司はそんなふうに見えへん。ええ奴のような気がしたんやで。それはほんまに、そう思えたんやけど。
 電話から聞こえてくる、ゆらめくような誘い声は、確かによこしまな響きを持っていた。ふらふら迷うてるような。どっちへ行こうか、波に揺られて引っかかっている。悪い流れが足引けば、暗い淀みにはまり込み、清い流れが手を引けば、明るいほうへ泳いでいける。ちょうど祇園のそばを流れる鴨川が、淡い朝日にきらきら輝き、夜には月光を受けて、静かに白くゆらめくように。
「アキちゃんはな、吸わんねん。吸うたことないらしいで。煙の匂いが、嫌いやねん!」
 俺は慌てて、受話器を口元で覆い、電話の声に返事を返した。それに相手は、ああそうなんやというふうな、深い納得の呼吸を返してきた。それはちょっと、吸うた煙を吐いている時の、湊川怜司を思い出させた。そして、それはまた同時に、俺の中で、奇妙なイメージも呼び起こした。
 真っ暗な月夜に煌々と満月がかかっている。それに寄り添うように、ゆったり飛んでいる、綾錦あやにしきのような暗い玉虫色の龍が、ふわあっと靄のような息を吐く。綺麗な龍やった。三つ爪のある手に、血のように赤い、たまを握ってる。
 それはほんまに血で出来てるんやないかと思えた。甘く滴る甘露のような血。それは、暗い闇色の龍が握りしめている愛で、呪いでもある。アキちゃんの、おとんの血やで。俺は人ならぬ神の目で、それを見抜けた。
 アキちゃんの血の匂いに、そっくりやけど違う。別の秋津のげきの血や。
 アキちゃんのおとんは、湊川怜司に、自分の血をくれてやってたんやろう。アキちゃんがそうするように、欲しいて言うだけ吸わせてやってた。湊川はそれを吸うたけど、使いはせえへんかったんや。あいつは元々、補給なしでも生きられる。信仰によって生かされてる神や。血なんか啜らんでも生きていける。抱き合わんでも死にはせえへん。
 それでも吸いたいから吸うたんや。抱き合いたいから、そうしてた。そして吸い取った血を、今でも持ってる。まるで宝玉のようなたまにして、握りしめてる。それが愛か、呪いか、自分でもわからへん、とにかく手放したくない、執念として。
 あいつ、龍やったんや。月に寄り添う龍。それで、おぼろや。
 アキちゃんのおとんは、あいつの正体を見抜いてたんやろう。龍やって。それでおぼろと呼んでいた。
 それなら月は、誰やったんやろ。
 俺にとっての、アキちゃんは、お月さんみたい。満月の発する明るい月光みたいなオーラを、いつも纏ってる男やねん。アキちゃん自身が、お月さんみたい。
 アキちゃんのおとんも、生きてた頃には、そうやったんか。お月さんみたいやったか。もやを吐く龍の吐息に濡れて、ぼんやりかすむむ、おぼろの月か。その次の朝には、雨が降るって、昔からそう言われてる。おぼろに煙る傘着た月は、翌朝には雨が降るという、予兆やねん。
 それは別れの涙雨やでと、くすくす笑った酔うてる声が、電話の向こうで答えてた。
 許した。雨が降っていたので。いっしょに行くと約束をした、旅立ちの日の朝に、あいつは裏切り来なかった。でも雨が、篠突しのつくような激しい雨が降っていて、それがまるで泣いてるように見えたので、あいつも悲しいんや、ほんまは行きたいんやと思うことにして、許してやった。
 飛んできたふみは、濡れてボロボロになっていて、ぽつぽつ喋り、ろくに物を言わへんかったけど、それは濡れたせいやないかもしれへん。もともとそんなふうに、伝言されたせいかもしれん。
 生きてくれ、おぼろ。俺が死んでも平気なままで、面白可笑しく生きていってくれ。綺麗な声で歌歌うて、人を愛してやってくれ。お前は鬼やない。俺を助けてくれたやないか。神さんなんやで。それを忘れんといてくれ。
 忘れんといてくれと、ざらつくラジオの鳴るような、若い男の声が言うてた。忘れんといてと繰り返し、壊れたみたいに、何度も言うて、そして、さようならとは、言わへんかった。
 俺にはそれが、まるでアキちゃんの声のように聞こえたわ。そっくりなんや、喋り方まで。どこか甘えたような、寂しそうな声も。愛を囁く時の、アキちゃんそっくり。
 でもそれは、俺のツレやない。アキちゃんのおとんやろ。暁雨ぎょううのほうや。
『あいつは裏切る』
 きっぱり響く声で、電話の向こうから言われた。それは龍の声やで。うろこを持った長虫の、霊威に満ちた声やった。俺の眷属。ご同類やわ。
 どうもアキちゃんのおとんは、二匹の龍を天秤にかけていた。片方は天から落ちてきた、海の底に棲んでた龍で、もう片方は、お月さんにもや吐きかける、おぼろなる龍や。
 悪い子ぉやで、蛇神様を手玉にとって。愛してるって囁いたんや。アキちゃんとは違うて、そうとは言わず、ただ血をやって抱いて、囁いただけやった。忘れんといてくれと。別れ際の、篠突しのつく雨に、顔も出さんと、びしょ濡れに泣いた手紙一通きりでお終いや。
 それはあまりに切ないと、龍だってくわ。号泣するで。俺やったらな。
 人の子の分際で、俺を玩具おもちゃにしやがって。愛を教えて捨てた、それはあまりに鬼やないかと、呪いたくもなる。
『裏切るで、その息子も。用心しろよ。悪気はないんや。せやから分からへん。愛してるって顔をして、いきなり正面からひと突きや。そんな居合いの使い手やからな、秋津のげきは……許せへん、俺を置いて逝くなんて……』
 美しく嘆く、その声は、凍り付くようなきりやった。それを吐きかけられるお月さんは、さぞかし寒いやろう。怖い思いをするやろう。このまま、つれていかれてしまうのかって。
 つれていこうかと、声はまだ囁いていた。誘惑する悪魔のように。
「やめといて! それはアキちゃんやで。俺のアキちゃんや。お前のとちゃうで。連れていかんといてくれ!」
 俺は叫ぶように答えつつ、おろおろ立ち上がっていた。
 犬はびっくりした顔で、俺を見ていた。まるで誘拐犯と話してる、気の毒な家族みたいやった。
 いや、まさにそうかもしれへん。アキちゃん、誘拐されつつあんのかも。
 またや。またやってもうた。なんで油断してまうんやろ。あいつが、ええ奴みたいに見えるからやで。まるで友達みたいなノリで、にこにこ愛想ええのに、実は悪魔やなんて、そんなことあってええんか。
 まあでも、それがマスメディアってもんかもしれへん。
 水煙が、なんであいつを嫌いか、よう分かったわ。
 危なすぎ。それに、アキちゃんのおとんと完全にデキてる。愛し合うてる。ラブラブやから。そんなん水煙が怒らんわけない。焼き餅焼きやねんから。おかんが一番、水煙二番で、後のはその他大勢の、浮気や、妾や、式神なんやからと、そういう決まりでいるうちは、耐えられるけども、手に手をとって駆け落ちなんか目論まれた日にゃあ、水煙様でもキレる。おかんがキレたか知らんけど、あの水煙がブチキレるとこなら俺には容易に想像がつく。水族館でキレていた。あんなんなってたに違いない。変転のしかたを思い出してたら、絶対あの格好になっていた。半人半龍の、真っ青なってる、キレてテンパった怖い龍神様に。
「どしたんや、蛇」
 俺のおろおろが移ってもうたんか、瑞希ちゃんまでおろおろしてた。
「誘拐や。アキちゃん、また誘拐されたで、おぼろ様に。神隠しやで!」
 受話器を押さえて、囁く声で、俺は犬に言うた。犬はぎょっとしてた。
「引っ張れ。電話切ったらあかん」
 犬はおたおたしたまま、俺にそう教えた。
「えっ、なんで?」
「なんでって常識やんか。刑事ドラマとか見たことないの?」
 テレビかよ。そんなん観てんの、瑞希ちゃん。でも参考になります。勉強なるわあ、テレビ。……って、それもマスメディアやないか。どこまでほんまか分からんで。フィクションなんやで、それは。
「説得。説得して。犯人を」
 必死の目して、瑞希ちゃんは俺に頼んだ。
「えっ、なんて言うの。お前が代われ」
「無理無理無理! 俺は口下手なんやから! 蛇が言え!」
 火の点いた爆弾みたいに、携帯電話を押しつけあって、俺と瑞希はじたじた揉み合っていた。だって何て言うてええか分からんのやもん。泣きそうなんやで、責任重すぎて。
 しかしここは年長者が責任を果たすべきか……。って、それも犬が今は年上やんか。なんで俺がやらなあかんねん。おぼろがキレたら俺のせい?
 また、そんなんか。龍の説得は俺は嫌やで。水煙だけで、もうご馳走様や。なんで二匹も居るねん。予言されてた龍ってこれか?
 水底での死って……。
 それを思い出して、俺はまた、背筋がぞおおおっ、てなってた。顔もたぶん紙のように真っ白くなっていた。ひいって息も呑んでいた。
「や……やめて! アキちゃん溺れさすなんて! 酷すぎるでそれは!!」
 思いこみって凄いなあ。俺はその時、おぼろ様が予言された龍なんやと思うてた。アキちゃんに水底での死を与えるのは、こいつに違いない。アキちゃんのおとんに振られた腹いせに、顔そっくりやし息子やから言うて、アキちゃんを代わりに連れていく気や。水煙に負けて、ぶんどられてもうた、おとん大明神と水死する権利を、ジュニアでええわと今さらゲットする気なんやで。死にたないわて言うてたくせに。嘘やないか! ラジオが嘘つくな! JAROじゃろに電話してやる!
「頼む、頼むから、湊川。アキちゃんには務めがあるねん。なまず様やで。どうせ死ぬんやし、ええやろと思うてんのか。今死んでもうたら犬死にやないか!」
 俺がつい言葉の綾でそう言うたら、瑞希が、なんやと、みたいな怖い顔をした。いや、そういう意味やないから。お前の死が犬死にやと言うてるわけやない。確かに犬死にやけど、犬やから。でもそれが無駄という訳では……。ああもう、ややこしいなあ、ほんまに犬いると。慣用句なんやからスルーせえよ。うちでは今、そんなんまで差別語か。俺は今、そんなしょうもないこと気にしてる場合やないねん! なんか言おう。とにかく何か!
「心中なんかして、どないなんのや。意味ないで、そんなの。流行らんで、今時そんなん! 近松門左衛門とかやで、江戸時代のネタやんか。今年何年やと思うてんの。2009年やで! 平成21年なんやで。江戸時代と違うから!」
 なに言うてんのやろ、俺。話がだんだん訳わからん方向へ行ってもうてる。でも必死やねん。思いつくまま喋ってんのや。アホみたいやけど、本人は真剣やねん。
 なんで水煙おらへんのやろ。こんな時にあいつかガツンと言うてくれればええのに。
 ……いや、それはまずいか。あいつがガツン言うたら、キレへんもんでもキレる。この相手をブチキレさせるのに、まさにうってつけの奴や。居らへん時で良かったんや。ラッキー!
「頼むしやめて……アキちゃん返してくれ。ケツでも何でも貸すし」
『ほんまに貸すか? 今の、録音したで……』
 笑いをこらえてるような声がして、俺にそう言うた。電話からなんやけど、まるで今ここで喋ってるような、はっきり鮮明な声やった。
 変やでえ、湊川怜司。怪異そのもの。みんなも携帯、気つけや。あいつの支配下にあるらしいから。
「いや、ちょっとそれは……犬でもよければ」
「えっ、なんの話!?」
 話振られて、瑞希ちゃんビビってた。どうも犬には電話の向こうの音が聞こえてへんらしい。耳悪いんかな、犬のくせして。どうも俺にだけ聞こえてる。蛇にだけ聞こえる音。そんなんあんの? 蛇専用回線やで。
『犬でも、ええよ』
 くすくす笑って、声は優しく言うていた。
 俺にはこいつの正体が、ほんまに分からへん。龍やというのは分かったけど、それが聖か邪か、それが分からん。たぶん、どっちでもないし、どっちでもある。どっちにでも転ぶし、定まった正体がない。そんな龍なんや。
 西洋では、蛇の眷属ドラゴンは、悪モンで、悪魔の一種やけども、東洋では神や。どっちにでもなれる。善とか悪とかは人間の価値観で、神や龍には関係ないこと。時代ごとにもころころ変わるしな、いちいち気にしてられへんわ。善であり、悪でもあるねん。人の心に、仏もいれば鬼もいるようにな。
『なあ、白蛇ちゃん。心中なんて古いんやろ。そんなんしてええのか。それに本間先生は、駆け落ちドタキャン男の息子やで。言うてることまで暁彦様そっくりや……怪しいでえ、その、心中しよかという約束も』
「そんなことないって。アキちゃんは、約束は守る男やで!」
 嘘かもしれへん。浮気しないって約束したのに、浮気しまくりやしな。嘘つかへんように努力はしてるけど、人間なんやし、約束破ってまうことはあるんやろ。
 でも、それがそんな土壇場で起きるなんて、そんなんアリかよ。心中しよかって連れ立っていって、死ぬのが俺だけやったら超マヌケやで。死んでも死にきれへんわ。
 けど、考えてみればそんな話、ようあるで。心中もののシナリオ書いて、一世を風靡した、江戸時代の戯曲作家・近松門左衛門の頃にも、それに影響されて心中がやたら流行って、道ならぬ恋に燃えたカップルが、いっぱい心中を図ったらしいけど、片方死なせて、ケツまくって逃げる、詐欺みたいなツレも居ったらしいで。可哀想に、死んでもうたほうは、死に損や。そんな話はごろごろしてる。
 まさかアキちゃん、俺をそんな目に遭わせる可能性があるか?
 勘弁してくれやで。シャレにならへんわ。
『暁彦様も約束は守る男やった。嘘はつかへんかった。あの一遍きりや……俺との約束を破ったのは。それが一番ひどい裏切りで、それ一遍だけやったんやで』
 自分のツレは誠実やったと、そんな惚気を含んだ声で、湊川怜司は教え、俺に再考を促していた。やめとけ心中なんて、アホらしいと思わへんのかと。
 うるさいうるさい、俺は覚悟を決めたんや。アキちゃんと抱き合うて死ぬ。もうそれでええねん。ごちゃごちゃ横から言わんといてくれ。覚悟が鈍るから。俺かて死ぬのが嬉しいわけやない。ほんま言うたら生きていきたい。アキちゃんとずっと幸せに、面白可笑しく生きていきたいねん。そんなん誰しも本音やろ。
 それでも、血筋の務めやないか。おとんもそうやったんやんか。戦争行かなあかんかったんやないか。それから逃げたらお家の恥や。ご先祖様にも、お登与にも、水煙様にも顔向けできへん。格好つかへんのや。
 それに、それだけやない。おかんは言うてた。お兄ちゃんは秋津島を愛してた。京の都を。そこに住む人々を。皆が笑って歩いてる、綺麗やなあってお花見してる。そんな都が好きやったんどす。それが戦火に焼かれるのが、つらいと思わはったんや。早う戦に勝って、この島を守らなあかんて、使命を感じてはったんどす。
 それができる男が立たんで、どなたさんが戦ってくれるんや。皆も行きはる。げきではない凡夫でも。ただの息子や夫や恋人が、お国のためやて、生きては帰れぬ旅に出るのに、そこから一人、逃げ隠れして、なんで男の名が立つか。死んでくるわ、お登与と言うて、お兄ちゃんは旅だったらしい。
 死は予言されてたんや、許嫁いいなずけで、稀代の予知能力者、海道蔦子によって。
 せやけど、おかんは信じてへんかったらしい。お兄ちゃん、勝ってお帰りやすと微笑んで、三つ指突いて送り出したらしい。それはおかんの甲斐性やろけど、そう言われて送られて、逃げ隠れできる男がおるやろか。いたらそいつは、負け犬や。
 気の毒な生き物なんやで、男の子は。ええ格好せなあかん。怖くても、怖いて顔したら負け。泣きたい時も堪えなあかん。俺は堪えへんけど。ええねん神様やから何してもええねん。亨ちゃん、格好良くてもしゃあない、アキちゃんにモテへんからな。そんなんもう捨ててんねん、格好良さなんてな。
 けど、アキちゃんはまだ捨ててない。それは見栄やない。面子めんつや。血筋の誇りや。あるいは男としてのプライドなんやで。負けたらあかん、俺は秋津の跡取りなんやという、矜持きょうじや。先祖代々、守り抜いてきた何かやねん。
 それはたぶんアキちゃんが、おとんと似てるところやろう。何から何までそっくりや。顔も姿も同じで、考え方まで、よう似てる。多情なところも、そっくりやしな。まさに生き写し。
 おとん大明神がおらんかったら、本人が転生してきたんやと思われても、文句言われへんくらいや。実際、おかんは長いこと、そう思ってた節がある。アキちゃんはおかんに惚れとったけど、実はおかんも、それにまんざらでもなかったんやないか。大人になったら食おうと思ってた。そんな邪念があったんかもしれへんで。
 それでも手は出さへんかった。それは、なんでやろ。
 結局、おかんは、おかんやったからかもしれへん。いくら可愛い可愛い言うても、実の息子なんやしな。いつも憧れやった、歳の離れたお兄ちゃんと、おむつ替えてやった男とでは、土台、ノリが違うやんか。おかんにとって、お兄ちゃんは、信じて頼って縋ればいい、強い男やったけど、アキちゃんは結局、守ってやりたい可愛い可愛い息子やったんや。
 それは全然、別の男やで。顔いっしょでも、中身が違う。萌える方向性が違う。おとんがヘタレやったら許せへん、チェック厳しいお登与でも、アキちゃんはヘタレならヘタレなほど可愛い。
 飯食うてる時には、ごはん粒なんかついてるほうが愛せる。お兄ちゃんはあかんけどな。お兄ちゃんはコーヒーはブラックで飲まなあかんけど、アキちゃんやったら砂糖とミルク入れてても許せる。酔いつぶれてグデングデンなるのも、息子のほうはええけど、兄はダメ。なんでか言うたら兄は英雄やから。そして息子のほうは、可愛い可愛い我が子やからや。弱いくらいで丁度いい。そのほうがずっと、世話して構ってやれるやろ。それが、おかんのエゴやんか。
 アキちゃんとおとんはそっくりやけど、同一人物ではない。同じ運命を辿らなあかん理由はないんや。同じ境遇に生まれ、同じ運命に立ち向かうにしても、全く違う選択をして、別のバリエーションを生きる男であってもかまへんはずや。もはや平成の御代で、これは戦争やない。アキちゃんは現代っ子で、おとんみたいな古い武士道に浸ってる男と違う。
 そのぶんアキちゃんはヘタレかもしれへん。根性はない。せやけど今時の男なんて誰も彼も、根性なしやで。お国のためや死んでこい言われて、ハイそうします言う男が何人おるねん。十人おったら十人ビビる。そんな平和な世の中やんか。
 それでええねん、別に。そんな時代の子なんやから、なんとしてでも生きたいと足掻く。そんな根性なしの甘えたなんやから、アキちゃんはおとんみたいに、死なんでも済む道を見つけるかもしれへんやんか。
 諦めてもうたら終わりやで。潔く死ぬのが格好ええて、それは確かにそうやけど、無様に生きようとジタバタするのかて、格好ええよ、正直で。お兄ちゃん死んで来い言うて、笑って送りだしたお登与かて、生きてはないけど戻ってきたおとん大明神を見て、嬉し泣きに泣き崩れたというやんか。戻ってきてほしかったんやで、それが本音のところ。愛してんのやから、死んでもええわと思うわけない。それでも愛しい男の、男ぶりを立ててやっただけ。それが女の甲斐性と、おかんも思ったんやろな。
 せやけど俺は女やないから。それに武士道でもない。メソポタミア系やしな。関係あらへん。
 アキちゃんは俺にとって、おとんのコピーやクローンではない。最初からそうやった。そんな、妙なおとんが居るなんて、知らんうちから惚れていた。アキちゃん死んでも、そっくりなおとん居るから、あっちを落とせばええかなんて、全然思わへん。おとんもええけどな、正直言うて、アキちゃんよりええ男かもしれへんけど、あちはお登与のもんやしな、おかんと戦うのはチビりそうで無理。アキちゃんのほうがええから。絶対アキちゃんやから。
 ふたりは似てへん。何がどうで似てへんか、詳しく指摘はできへんのやけど、とにかく俺にとってアキちゃんは、誰かで代用できる男やないねん。誰とも似てへん。この世にたったひとりしか居らん、俺のツレやねん。
「アキちゃんとおとんが似てんのなんて、顔だけやんか。アキちゃん俺に、嘘ばっかついとるわ。お前だけや言うて、犬は飼うわ、お前とは寝るわで……無茶苦茶やんか。それにヘタレや。煙草も吸わへん。お前にライターくれたの、アキちゃんのおとんなんやろ。そんなん後生大事に持っときながら、信太とも寝やがって。あいつ、お前に惚れとるみたいやで。虎でええやん、なんであかんの。俺のアキちゃん、連れてかんといてくれ」
 この際、寛太には泣いといてもらお。俺が泣くよりマシやから。
 そんなこと思う俺は鬼やけど、必死やねんて。自分の男が持ち逃げされかけてんのやから。他人の不幸なんか二の次や。俺はそういう正直者やねん。
『信太じゃあかん。あいつでは無理なんや』
 憂いのある声が、艶っぽく答えを返してきた。
「なんであかんの。虎もイケてるで?」
 ヘボいセールスマン並の泣き落とし声で、俺は頼んだ。とりあえず信太で手を打ってくれ。おとん大明神は今居らんから。お登与とブラジルやから。なんやったら、お登与と死闘してくれてもええけど、そんなん後のイベントにして、とにかくアキちゃん返してぇな。
『あかんねん。しょうがない。あいつは暁彦様じゃないから。お前もそうやろ。虎が居ったら、本間先生おらんで平気か。あのホテルの支配人でもええけど……それで片付く話なんか?』
 煙草吸うてるような、のんびりした声で、黒い龍は鬱々と話していた。
 平気なわけない。平気やないって言うてるやんか。
 俺はもう言葉も出えへん。こいつ、話ぜんぜん聞いてへんのやないか。ほんまにラジオと喋ってるみたい。こっちの声なんて、向こうには実は聞こえてへんのやないか。一方的に言われてるだけで。
『白蛇ちゃん。本間先生は、きっとお前を道連れにはしない。暁彦様とおんなじ性格や。きっと土壇場で、お前を捨てていく。それでもええのか。もっと説得をしろ。信太が代わりに死んでやる言うてんのや。俺でもええんやで。それに任せて、お前は生きろと先生を口説き落とせ。泣き落としでも寝技でも、神隠しでも、なんでも使うて』
「神隠しなんかでけへんもん……」
 できたらやってます。そんなん、とっくにやってますがな。
 神様かて万能やないねん。むしろ、できへん事のほうが多い。得意技が、ひとつふたつあるだけやで。
 俺はアキちゃんに永遠の命を与えられたけど、水煙には、それはできへん芸当やった。もしもできるんやったら、あいつはそんなこと、遠の昔にやっていたやろう。秋津の最初の当主に、それを与えてやっていたに違いない。
 それに、隣り合う位相に潜む相手を、連れ戻しに行くことも、あいつにはできへんのや。せやから、おとんをおぼろに拉致られて、死ぬような目にあった。行って助け出せるんやったら、迷う間もなく乗り込んでいたやろ。俺かてそうする。今すぐ行って、アキちゃん返せって直に連れ戻せるんやったら、こんな電話なんかダラダラ話してへんわ。
『無能やなあ……』
 しみじみと、電話の声が言うていた。
 なんやと、この野郎!
「無能やないよ! 俺には究極、不老不死を授けるという……!」
 叫び返してから、俺は、あれっ、と思った。そうやんな。俺にはそういう力があるねん。相手と混じり合って、それによって不死を与える。不死というか、死んでも平気な不死アンデッド系のモンスターにするという、人間を、殺しても死なない体質に変える特技が。
『そうそう。それや。死なれへんのやろ、本間先生とか。あの支配人もそうやろ? あれって何。お前の元彼? それとも、二股かけてんのか?』
「二股なんかかけてへん! 浮気……」
 浮気しただけや。そう言いたかったけど、瑞希ちゃんの目が怖すぎた。
 してません、浮気なんて。アキちゃん一筋です。嘘やけど。
 でもほら。事故やから。アキちゃんも浮気したんやし。たまたまちょうど食えたから。食うといただけ。美味しそうなんやもん、藤堂さん。我慢でけへんかったんやもん。堪忍してくれ。
『なんや浮気か。今度俺にも、回してよ。そこまで命あったらな。そやけど、本間先生なあ。生け贄行ったらあかんと思うねん。俺はあんまし、その筋に詳しくないし、ただの素人考えやけど、なまずは命食うてる神なんや。それで本間先生は、死んでも死んでも生き返るわけやろ。無限に食えるんやん? そんなんしたら、なまず様、メタボなってまうんとちがう? というか、どんどん強くなってまうんとちがうか。食い過ぎは体に毒やねんで。そのうち、取り返しのつかんような未曾有の大地震とか起きて、逆にえっらいことなってまうんとちがう?』
 そんなこと思うてんのやったら、もっと早くに言うとけ。俺、うっかりしてて気がついてなかったわ。アキちゃん人間やという固定概念に縛られていた。あいつ外道なんやった。
 不死系の神をなまずに食わせて平気か。水煙様でも、そんなん知らんのと違うか。秋津に不死系はおらんかったんや。死んだら死ぬような、おとなしい連中だけやった。皆さん品がよろしいなあ。俺なんか殺しても死なへんねんから! 象が踏んでも生きてるで。
 けど、アキちゃんもそうなんやって、忘れてた。
 まだ試してみたことはない。アキちゃんが死んだら、死んだままになるのか、それとも生き返るのか。そんなん普通、試さへんやろ。もし死んだままやったら、どないすんねん。シャレにならんわ。
 そやけど、アキちゃんよりは完成度が低いらしい藤堂さんが、ほんまに死んで生き返ったっていうんやから、アキちゃんかて、そうなんやろう。不死の肉体になっている。
 いっぺん、ほんまに殺してみよか?
 いや、それはいくらなんでも、可哀想やで。生き返る言うたかて、死ぬほど苦しいのは同じなんやから。死ぬんやから、まさに死ぬほどなんやで?
「アキちゃんが生け贄なったら、もしかして、死んでは生き返り、また死んで食われ、また生き返り、ってなるのん?」
 俺はラジオに電話で訊いた。夏休み電話相談室やな。
 せやけどラジオは、さあなあ、言うてた。
『知らん、そんなん。聞いたこともない。不死系のやつが生け贄になったことないんやないか? 皆さん知らんのと違うか。お前ちゃんと、蔦子さんや大崎先生に話したか。本間先生、外道なってますよって』
「話してへんけど……でも、知ってるんとちゃうの。秋津のおかんから聞いて。蛇憑きなんやろって、蔦子さんは言うてたで」
『蛇憑きいうのはな、蛇神がとり憑いてるいうだけの話やで。不死まで視野に入ってるかどうか、分からんとこやで。大蛇おろちやドラゴンの血を浴びて、不死になったとかいう伝説はあるけど、はっきりさせとかんと、人間には行き違いもあるしな。それに大体、蔦子さんにはもう言うてあるんか。先生が生け贄行く気やって?』
「言うてへん。今から言う気なんやと思うけど……」
 そこ、肝心なとこやったな。無軌道な子供達だけで、死ぬの生きるの言うて必死になっておりましたが、蔦子おばちゃまに一切、報告・連絡・相談なしでした。
 それ、重要らしいですよ、人間の社会で働いていくには。のちにラジオがそう教えてくれました。社会で働く人の基本の基本、ホウ・レン・ソウやで。オヤジどもが好んで必ずする話やし、ひとつの真理やから、ちゃんと知っとけ言うてはりました。亨ちゃん知りませんでした。男漁りのついでの、ごっこ遊びか、腰掛けみたいな仕事しか、今までしたことありませんでしたので。
 やっぱり式神には、いろんな人いたほうがええんですね。時々謙虚にそう思います。皆さんそれぞれ、特技や能力が違うてますから、それぞれ補い合っていくチームワークで勝利みたいな面があります。亨ちゃん無敵やで言うて、偉そうにしてたらあきません。ホウ・レン・ソウすら知りませんでしたので。ちゃんと相談しとけば、流さんでもええ涙もあったかもしれません。蔦子さんが、あんたやとあきまへんて、アキちゃんにきっぱり言うてくれてたかも。
『というかなあ、白蛇ちゃん。お前、死にたいの? 死にたいんやったら、止めはせえへんのやけど。不死や言うても、なまずは強大な神や。案外死ねるかもしれへんしな? 俺、昔、東欧で見たことあるわ。不死系の吸血鬼が、神父にやられて、ふぁっさーって灰になって消えるの。怖いわあ。自分もやられたら敵わんし、しばらくの間、ええ子にしといたぐらいや』
 怖いよう! それこそ悪魔祓いエクソシストやないか! 俺も見たことある! 昔、十九世紀くらいのロンドンで。マジでチビりそうなった!
 不死系や言うたかて、死ぬことはある。普通の方法では死なんだけで、高い霊威を持った神やら鬼やらを相手にすれば、滅ぼされることはある。キリスト教の神父や牧師は、元を辿ればヤハウェの力を借りてんのや。あの規模の神に敵う外道はそうそう居らんで。
 なまず様って、そんな強いの? ヤハウェ級? そこまでと思うてへんかった! 魚なんやと思ってた。だってナマズやて言うから! 揚げてあんかけにしたら食えたりして、あっはっはーレベルの認識しかしてへんかったかも。
 堪忍してください。死にたくはないです。亨ちゃん、死ぬのが怖すぎて不死系になってるんですから。往生際悪い性格が嵩じて、これなんですから。
「死にたいわけないよ。生きてたい! ふぁっさー、は嫌です!」
『ほんなら止めなあかんやろ。なに酔うとんねん。このドアホ』
 むっちゃ冷静な声で言われましたが、俺もさすがにドアホ呼ばわりされたのは生まれて初めてかもしれません。でも言われた通りですやん。俺ちょっと酔うてましたか。アキちゃん好きやし、死ぬほど好きやし、アキちゃんのためなら一緒に死んでもええわって、酔うてたか。酔うてたかもな。酔うてました! そして今、突然目が醒めました!
『必死やねん、秋津の衆はな。昔からずうっとそうやねん。水煙があかんのや。あいつが必死やから、皆も必死になるねん。俺まで必死にされてもうて、ほんま敵わん。水煙さえもっとアホみたいやったら、皆もリラックスできんのに』
 無理やろそれは。どないしても無理やって。水煙兄さんが和むわけないよ。八割方、鬼やねんから。あとちょっとで百パーセント鬼いくよ。水煙様の鬼レベルを低下させようと思ったら、アキちゃんがあいつとラブラブしてやるしかないんやんか。それも、ただ浮気するとかじゃなくて、この世にお前の他に愛してる奴はおらんていうぐらいの気合いで、本気でラブラブせなあかんのとちがう?
 そんなんされたら俺が鬼なってまうやん!
 ていうか、すでにおぼろ様、てめえが水煙におとん盗られて、鬼みたいになってんのやないか。ジュニアを返せ!
『なあ、ちゃんと、説得して。先生、お前のこと愛してるって言うてるわ。ほんまに好きらしいで。お前の言うことなら聞くかもしれへん。一番好きなやつの言うことやったらな』
 優しく諭すお兄さんの声で、おぼろ様は俺を励ましていた。ううっ、て俺は泣きそうなってた。兄さん、ちょっとええかも。ええ人やで。
「でも……そんなん、俺はもう何度も言うたんやで。死なんといてくれって……ずっと言うてるもん。それでも聞いてくれへんのやで?」
 泣き言言うてる俺の返事に、向こうは微かに、ちっと舌打ちをした。
『あかんやろ。そんなん正面から攻めてもあかんのや。ええ格好したい男なんやから。説得されて意志曲げるなんて結局嫌やねんから。弱点を突くんや。知ってんのやろ、弱点あるのの一つや二つ。暁彦様には放浪癖があって、旅立ちたい欲があったんやけど、それで突っ込んだネタが駆け落ち世界一周やったんやんか?』
 そうなんや、おとん。操られかけてたな。放浪癖なんかあったんや。アキちゃんにはないけどなあ?
『そうこうしてるうちに、戦争なんか終わるやろと、俺は思うてたんや。それから何食わぬ顔して戻ればええしってな。けど、そんなちゃらんぽらんなこと、通用せえへんかったみたい。あれでけっこう、根は真面目やしな』
 くくくと笑う邪悪な声で、おぼろ様は言うていた。こっちは、根は真面目やないらしい。たぶん戦争なんて、どうでもええわと思うてたんやろう。人が死のうが生きようが、関係なかった。自分の男が生きてれば、それでよかったんや。
 そんな不埒な考えを、俺は非難はできへん。むしろ共感する。いつでも俺は自己中心。優しいような振りしてみても、土壇場なったらいつだって、俺とアキちゃんが守られれば、それでええわっていう、汚い腹やから。
『先生にも、何かあるはずや。固めた覚悟が揺らぐような未練とか、そういうのが。それでも乗り越えていきやがるかもしれへん。あの男の息子やし。でもな。亨ちゃん。後悔するで。泣きわめいて脚に縋ってでも引き留めへんかったら。後悔する。永遠に後悔するんやで』
 電話から耳へ、そのうそ寒い話を吹き込まれ、俺は静かに、乱れた息になった。
 後悔してんの、おぼろ様。それで俺がそんな目に遭わんで済むよう、忠告してくれてんの。アキちゃんを連れ去ろうという鬼が、なんでそんなことすんの。
『怖いやろ。このまま俺に、本間先生連れて逃げられたらと思うたら。怖かったやろ?』
「怖かったよ……ていうか、今でも怖いよ。状況なんも変わってへんやんか? アキちゃん今、どこに居るねん」
 電話の相手は結局、神か鬼かもわからへんかった。正体見えへん。おぼろ様やで。
 それでも悪魔みたいではない。最初からそうやったんかもしれへん。ビビって見るから怖いだけ。幽霊の正体見たり、枯れ尾花、ってやつや。実は優しい兄ちゃんなのかも。適当すぎる性格なだけで。
 死んだ男とそっくりな、その息子見て、心がぐらつかへんほうがおかしい。でもアキちゃんはおとんとは違う。本気で惚れてんのやったら、それぐらい分かるはず。信太やとあかん。暁彦様とは違うからって言うてた。不埒なようでも、一途なやつや。こいつはアキちゃんのおとんを愛してる。俺のアキちゃんを、盗ったりせえへん。
『何個か隣の位相にいてるよ。先生がこのホテルをガタガタにしてもうた。位相がブチブチに断裂してるしな、急がば回れや。ちゃんと廊下が繋がっているとこに、バイパス開いておいたし、お前らも来るんやったら、そこを通れ。先生、頑固や。口説き落とすのに、手勢は多いに越したこと無い』
 要するに、お前らも来いという話やった。やっぱそうやんか、こいつは味方やねん。アキちゃんが生け贄行かんでええように、皆で説得しようって言うてんのや。超ええ奴やないか。
 なんで俺はお前を誤解しとったんやろ。
 アキちゃんと寝たからや。
 しまった、それは許し難い! おぼろ様、逝ってよし!
 せやけど、それだけやない。つれていこうか、って言うてたやんか。あれはお前の声やった。本気で言うてるような声やった。俺にではない。他の誰か。たぶん自分自身に向けて、囁いている悪魔のような声や。
「アキちゃん……つれていこうとしてたんやないのか?」
 俺は怖くて、一応訊いた。おぼろ様は、くすくす笑った。
『あれえ。聞こえた? 俺の副音声が……』
 何か、けたたましいような笑い声やった。小さい鳥が、うるさくさえずってるような。
『それしかないなら、そうするで? 言うても俺は、この子が可愛い。今やご主人様やしな、すっかり情がうつってもうたわ。なんせ惚れた男の落とし胤やしな』
 うふふと含み笑いの残る、その艶めいた口調に、俺は覚えがあった。そっくりやで、こいつ。水煙様に。めちゃめちゃ似てる。アキちゃんをジュニアと呼んでた。それが自分の愛しい男の忘れ形見で、まるで自分の子みたいに。
『先生、お前が好きらしい。せやから譲ってやるけどな、失敗したらあかんのやで。あの子が死んでもうたら、暁彦様は悲しいやろう。可愛い可愛い一人息子で、愛しいお登与を孕ませた、一粒種なんやしなぁ……誰も無理なら、俺が守ってやらなしゃあない』
 ある意味、水煙様の上を行く、おとん信者を俺は見た。
 まるで未だに暁彦様にお仕えしてるみたい。せやけどこいつ、アキちゃんの命令には逆らえへんみたいやった。アキちゃんのしきなんや。
 俺はアキちゃんのしきやった時、他の男にいっとこうなんて、思われへんかった。頭では思えても、実際には無理やねん。藤堂さんと浮気したのも、もうアキちゃんのしきやないからできた芸当やと思う。それまでは、何か、嫌やってん。そういうことをするのが。俺はアキちゃんのもんやしな、今でもそうやけど、そう思う感覚が、もっと呪縛的やった。
 こいつも同じ呪いで縛られてるはずやないのか。げきしきとの関係は、場合によりけりやろうけど、アキちゃんいかにも、こいつが好きみたいやったで。友達とか部下とかいうんではなく、そういう相手として好きみたいやった。せやから、こいつを、色事の相手として支配しようとしてるはず。
 それでも、そんなんお構いなしで、おとん大明神なんや。あの超絶怖い水煙様でさえ、アキちゃんの呪力に負けて、今やジュニアにラブラブやのに。平気なんや、湊川怜司。余裕で、おとんラブラブなんや。
 そりゃあ、藤堂さんの無意識フェロモンなんか通用せんはずよ。あの人のは無意識やしな。口説いてるわけやないから。アキちゃんの式神ホイホイなんて、言うなれば力一杯口説いてるようなもんやのに、それでもスルーしてまうくらい、めちゃめちゃ惚れてんのやから。おとんの方に。
 負けたな。水煙。今さら、どうでもええかもしれへんけど。ジュニア居ったら、もはや、おとんは無用かもしれんけど。それでも負けたよ、お前は。おぼろ様に。六十有余年をかけた超超延長戦の、最後の最後に、逆転満塁ホームラン打たれてもうたみたいなもん。だってそうやろ、てめえは心変わりしてんのに、向こうは未だに、おとん一筋なんやで。
 あっぱれですよ、おぼろ様。ほんまに偉い。この世に水煙様とタイマン勝負できる奴がおるとは。早いとこ水煙にそれを教えてやって、どんな顔するか見てやりたい。絶対、気まずいに決まってる。
 ざまあみろ水煙、ちょっと気味がいいです。何やったら、おとん争奪戦に復帰してくれてもええよ。そのほうが俺も気楽やから。犬と戦えばええだけやから。今では仲間みたいに思えるお前と、血で血を洗う必要なくなるんやから。その元鞘の恋を、亨ちゃん、めっちゃ応援しちゃう。応援歌とか絶唱しちゃう。何でもしちゃう。
 ドラゴンVSドラゴンや。怖いよう。怪獣映画や。特撮や。円谷プロの世界やで。蛇VS犬なんて可愛いもんやったで。どっちが勝つんかなあ。わくわく。他人事って気楽やわあ。それに他人の痴話ゲンカって、なんて楽しいんやろう。俺って悪趣味か。
『どしたん。なんで黙ってんの?』
「怜司兄さん、一生ついていきます」
 深く考えんと、俺は一生ついていく宣言やった。
 ええ? なに言うてんの、って、おぼろ様は笑っていたが、お前は可愛い奴やなあという笑い声やった。そして電話は、来るなら早う来いよと言うて、そのまま切れた。後には普通の、通話が切れた後の電子音が、つうつう鳴ってるだけやった。
「何言うてんの、蛇!? なんで電話切ったんや!?」
 瑞希ちゃん、さすがに黙ってられへんようになったみたいで、俺と間近に向き合うて、お前ありえへんみたいな、全くついてきてない顔してた。
「ええの、ええの。誤解やった。誘拐やないねん。後で話すし、瑞希ちゃん」
「何!? 何やねん!? 俺、全然ついていけてない」
 瑞希ちゃん、またテンパりそうになっていた。
「ええの、ええの。犬は黙ってついてくれば。チーム・ウロコ系の無敵タッグはもう完成したから」
 俺は水煙とはもう打ち解けた気がするし、おぼろ様とも気が合いそう。せやし俺が間に立って、まあまあ兄さん、まあまあまあ言うとけば、何とかなるって。ならへんかなあ?
 とにかく、そんなん犬に説明してやんの面倒くさいで。こんな長い話、もう一回する気になられへん。とにかく瑞希ちゃんは新人やし素人なんやから、先輩の言うこと素直にハイハイ聞いとけばよし。意味なんか分からんでよし。
「アキちゃん説得しにいくで。お前も手伝え。せめてその可愛い顔かケツで、アキちゃんを血迷わせろ」
「なんでお前にまでそんなこと言われなあかんねん!」
 犬はよっぽどパニくってきたんか、悲鳴みたいな声やった。
「この際、アキちゃんが特攻を断念するなら、お前のケツ可愛さでもええわ。まだ犯ってへんのやったら未練あるやろ。犯ってへんのやろ? 突っ込まれたか?」
 俺は真面目に訊いてんのに、瑞希ちゃんはぐっと来たような赤い顔して、答えへんかった。言えよ、ちゃんと。大事なとこやねんから。照れとる場合か。
「ほっといてくれ……お前に何がわかるねん……」
「さあ行くで!!」
 瑞希ちゃん何やブツクサ言うとったけど、俺は無視した。どうでもええねん、お前のモノローグなんか。ウザいだけやしな!
「聞いとんのか、この蛇め!」
「聞いてへん! とっとと靴はけ、可愛い系」
 お顔真っ赤っかで犬は怒ってたけど、可愛い系言うてやったら、もっと真っ赤になっていた。照れてんのやないで、怒ってんのやで。
 瑞希ちゃん、なんでか知らん、可愛い言われると腹立つらしい。嫌なんやって。顔可愛いくせに何言うとんねん。それでアキちゃんたぶらかしたんやないか。お前のその、ちょっと見、女の子でも通用しそうな可愛い顔がウケてんのやから。化粧してスカートはいたら、案外いけるで。女でも。倒錯的やけどな。
 でも俺は、その話はせんといてやった。ほんまに嫌みたいやったし、それに、その手もあるなあ言うて試されたら困るから。アキちゃんが万が一、それに転んだら悔しいから。
 女装男子が好きやという、目立った過去事例はないんやけどな。何するか分からん男やからな。警戒しとくに越したことない。
 ぷんぷん怒って靴はいた犬を連れて、俺は急いで部屋を出た。
 おぼろ様が言うていた、バイパス・ルートというのは、すぐに見つかった。
 だって空中に、メモ紙みたいな人型の紙が張り付いていて、ここやで、ここやで、と呼んでたんやもん。そいつは空中を掴んだみたいな格好をしていた。そして、俺と犬とが見つめると、めくってねー、と言うた。
 めくるって何を?
 もちろん、位相の境目をやろう。水煙もそう言うてたやん。おぼろ様は位相をめくることができる神さんで、その能力によって、隣り合った別の位相へのルートを開くことができる。
 これがもし罠やったら、俺も犬も、どっか出口のないような、閉じた位相にとっつかまってもうて、悲しい運命になりそうやけど、俺の勘では、それはない。勘やけど。ただの勘やねん。そんなん、もし知ってたら、瑞希ちゃんはついて来えへんかったやろ。そういう、変に現実的なとこある犬やから。
 ええい。ままよ!
 俺は非現実的なとこある蛇やから。気合いで行くから。その場のノリで。
 空中を持っている人型メモの腹掴んで、えいやっと引っ張ってみてやった。
 あかん、ゆっくりやってー、と、人型は焦っていたが、とにかく位相はめくれた。端っこ見つけられれば、誰でもめくれるみたいやで。だって俺でもできたんやもん。
 ぴりーって、ポスターでも剥がれるみたいに、空中の絵が剥がれ、その向こうにある暗い廊下が現れた。向こうは夜みたいやった。時間の進み具合が違うてるのかな。それともずうっと夜の世界なんか。
 うわあ、なんやこれ! って瑞希ちゃんは絶叫してたけど、そんなんお前が言うなやで。お前もアメ村に夜のワンワン王国みたいなテーマパーク出現させてたやんか。あの力、どこ行ってん。狂犬病で頭イカレたせいで成し遂げられた、まぐれやったんか、瑞希ちゃん。やっぱお前はもっとアホにならなあかん。そのほうが、使える犬になりそうや。
「行こか」
 また貼っといてねー、て言うてるメモの言いつけを守りつつ、俺は瑞希ちゃんを連れて、その暗い通路に入った。長い廊下やった。まるで無限に続いてるみたいに、行っても行っても変わらへん。これはヤバかったかな。俺、ハメられてもうたかなと、背中に汗がにじむ頃、メモ紙はまた現れた。それが出口やった。
 俺は迷わず、びりーっとめくった。メモが、ひいいって言うてたわ。そんなんしたらあかんかったんかな、デリケートなもんか。位相の境目って。破れてもうて、閉じられへんようになったら困るんか。
 まあ、困るやろなあ。こっちは昼で、向こうは夜やねんから。それに、言うても異世界やからな。ちょっとしか違わへんけど、それでも違う世界やねんから。皆も困っちゃうか、こっちの世界とそっちの世界が繋がってもうて、何や知らん、訳わからんような神やら鬼が、うろうろ流れ込んでくるようになってもうたら。
 でもまあ、そんな細かいこと言うなやで。俺も焦ってんねんから。アキちゃんが無事でいる姿を見るまでは、やっぱり安心できないのよ。
 それでまた、アキちゃんが元気そうな後ろ姿を見たときには、心底ほっとした。そして、それがおぼろ様と、がっつり手を繋いでいるのを見た時には、心底むっとした。
 てめえはほんまに、何やっとんねん。俺が見てへんとこでは何やっとんのや。アキちゃん、俺が来たのに気がついて、めっちゃ慌てておぼろ様の手を振り払っていた。
 逃げ隠れしようとするな。もう見てもうたわ。男なら正々堂々と言え。やったもんはやったと言え! 小細工するな!
「アキちゃん……」
 俺は若干、ウロコ見えてる声やった。
「これには訳があんねん、亨」
 ものすご言い訳してる声して、アキちゃんは開口一番、それやった。
 ああそう、訳があるんや。俺以外のやつと、お手々繋いで歩く必要があるような訳が。それは俺も納得いくような理由やろか。事と次第によっては殺すけど。ちょうどええ機会や、お前が死んでも生き返るのかどうか、この際試してみようかな。
「位相の境目をくぐる時には、手繋いどいたほうが無難やねん」
 にこにこ笑って、気悪くしたふうもなく、おぼろ様が言うていた。二人並んで立ってると、長身のアキちゃんが長身に見えへん。おぼろのほうが低いけど、大差ない身長やねん。でっかい奴やで、モデル並。それを言うたらアキちゃんもやけどな。
「手繋ぐもなにも、俺らなんか素で来たわ!」
「まあ、お前らは神やから。それに俺の作る通路は安定してるからな。素人でも安全や。せやけど本間先生は、万が一にもロストできへんお人やろ」
 せやし手繋いでいくねんと、おぼろ様はにこにこしていた。
 嘘や、絶対。ただ手を繋ぎたいだけや。そんな気がしたけど、専門家やないし論破でけへん。
「手繋いでれば、いちいちめくらんでも通り抜けられるし。楽なんや。まあ基本やで。神隠しは、手引いて連れていくもんなんやから」
「何度も神隠しすんな!」
 俺が凄むと、おぼろ様は廊下の窓にもたれて、くすくす笑い、取り出した煙草に火をつけていた。廊下は禁煙やのに。言いつけてやる、藤堂さんに。
「えらい怖い蛇やなあ。水煙みたいや。大したことない、位相を行ったり来たりするくらい。できへん奴が大騒ぎするだけや。暁彦様なんか、自分でも帰れたんやから、騒ぐようなことやないやんか?」
「帰れんの?」
 アキちゃんが意外そうに訊いていた。それにおぼろは、こくこく頷いて微笑み、そして美味そうに煙を吐いた。もわもわもや吐く、おぼろの龍のようやった。
「帰れるよ。鍵かかってる訳やない。先生のおとんができたんやから、先生かてできるやろ。このホテルの位相も、先生が混ぜこぜにしてもうてんのやし、お前は位相に干渉する能力のあるげきなんや」
「そんなん……やったことないで」
 アキちゃんは心当たりがないという顔をしていたけど、それは、ほんまにそうやろか。自覚ないだけやねん。
 夏に大阪で夜のワンワン王国に入ったのかて、言うてみれば位相間移動や。何の気なしにお手々つないで入ったけども、あんとき現場に詰めていた刑事さんたちは、俺らが何とかするまで、あの中には入られへんかったらしい。せやし閉じてる世界やったはずなんや。アキちゃんはその中に押し入ったわけやから、実はちゃんと能力発揮しとったんやで。
「知らんのやったら、大崎先生に訊けばええよ。俺も教えられんことはないけど、あの人は先生と同じ、人間のげきなんやし、その筋のエキスパートやから。教えてくださいって頼めば、教えてくれるよ」
「そうやろか。あの爺さん、俺のこと嫌いみたいやで? いちいち偉そうやしな。あれに頭下げて頼むんかと思うと、気が滅入るわ」
 ぶうぶう言うてるアキちゃんは、ちょっと餓鬼くさかった。どうもこいつ、おぼろ様と話すとき、餓鬼くさいみたいやで。甘えとんのやで。それが俺には納得いかへん。
 水煙にもそうやしな。おとんのツレやったしきということで、何となく、親と同じグループに分類されとんのかな、アキちゃんの頭の中で。はるかに年上という点では、俺かて似たようなもんやのになあ。
「茂ちゃんは、暁彦様が嫌いやねん。ぼんが嫌いなわけやない。見た目がそっくりやから、ついついムカッと来るんやろ」
「知ってんのか、大崎先生のこと」
 それも意外そうに訊くアキちゃんに、おぼろは、なんも知らんのかという目をした。
「そら、知ってるよう。昔、一緒に祇園で遊んだ仲やもん。狐の秋尾とヘタレの茂やろ。先生のおとんはずうっと、あの白狐を狙っとったけど、あいつは結局、なびかんかったなあ」
「秋尾さんとも知り合いなんや」
「案外、狭い世間でござんすよ。しきなんて、そう沢山おらんのや。今このホテルには、三都に棲みつく連中の、ほとんど全部が集まってんのやないか」
「三都だけで、千人以上おるってこと?」
 アキちゃんは、随分気さくに質問モードやった。長身のふたりが会話してると、頭の上を話が飛び交うてるようで、入っていこうという気がせえへん。俺と犬とは、テニスを見てる観客状態やった。
 俺と犬とアキちゃんの、三人がかりで見つめられるまま、のんびり煙を味わって、おぼろは答えた。
「全国で八百万《やおよろず》おるらしいからなあ。ちゃんと数えた奴はおらんやろけど。その中に、しきとして使える奴は一握りで、大きすぎんのや、鬼みたいなのや、まつろわぬのや、ちっさすぎんのや、生まれてすぐに消えてまうのまで含めての、八百万やおよろずやろ。それに最近は外来の神まで居るからなあ。信太もそうやんか」
 ふわあと欠伸して、おぼろは眠そうやった。アキちゃんのおとんには必死になれても、信太にはなられへんのや。俺はちょっと虎が可哀想。あいつも場合によっては死ぬかもしれへんのに、おぼろは全然心配してやってへんのやろか。
 向こうは心配しとったで。怜司を殺したら恨むって言うとった。必死やったで、信太。あいつも随分、軽薄そうな奴やけど、あの時は目がマジやった。アキちゃんに、頭を下げて頼んでいた。おぼろを生け贄にせんといてくれって。
 せやのに、こっちは鬼やで。信太が死んでもええみたい。全然、悲しくないんかな。もう指輪もしてへんし、てめえを振った虎なんか、知ったこっちゃないんか。
「暁彦様に習うのが、一番ええんやろけどな。親子なんやし、筋も似てるやろう?」
 懐かしいもんでも見るような目で、おぼろはアキちゃんを見つめたけども、アキちゃんはそれに、決まり悪そうにしていた。たぶんちょっと、ムカついたんや。アキちゃんは自分がおとんに似てる話をされるのは、嫌いやからな。
「知らん。俺はおとんに、何か習ったことはない。どういうげきやったかも知らん。おとんのことは、何にも知らん」
「ふうん……」
 にやにやして、おぼろは含みのある相づちだけやった。そこで自分の口から、愛しい暁彦様のご活躍を語ろうというふうではなかった。
「先生、妬いてんの。お父さんのこと。それもそっくりやなあ、暁彦様と」
 堪えられへんのか、湊川はくすくす笑った。何か思い出してるようやったけど、その目で眺めるアキちゃんは、たぶん今はここにはいない、別の男と二重写しや。
「お前のおとんは、ほんまに焼き餅焼きやった。そのくせ、他人ひとのもんでもお構いなしやしな。自分の親父が……先生から見たら祖父さんやけど、老衰したと見たそばから、親父のしきもばんばん寝取るしやな、家督を譲るて言うて切腹したおとんの介錯を、水煙にやらせたらしい。秋津の当主は隠居でけへんねん。水煙は、前のが死なん限りは次のにいかへんらしいんや。それでも親父に腹切らせたのは、暁彦様くらいやないか。軽く鬼やで」
 アキちゃんは、その話をもちろん初耳やったやろう。俺も知らんかった。
 あのニヤケたおとんが、そこまで鬼やったとは。
 アキちゃんの視線はちょっと泳いでた。ショックやったんやろ。自分のおじいが、おとんにトドメさされて殺されていたとは、想像もしてへんかったはずや。普通ないもん、そんな話。少なくとも、現代ではな。
「さしもの水煙様も、それはこたえたんやないか。てめえの男をてめえでぶっ殺すとなったらなあ。それでも合意の上での事やったらしいしな。先代の意志やねん。ああ……もう、先々代か。今は暁彦様を継いで、本間先生が当主なんやもんなあ」
 それに少しびっくりしたふうに、おぼろは目を瞬いていた。知らんうちに長い時が過ぎてたみたいに。
「ずうっとくよくよ言うてたよ。水煙は俺のこと嫌いなんやないかって。他に選べる跡取りがおらんかったから、やむを得ず選んだだけで、ほんまは今でもおとんが好きなんやと、うじうじうじうじ言いよるねん。時々、おとんの名代で、鬼退治するときに、貸してもろたりしてたようでな、その頃から水煙様に、執着があったんや。それでも、あの太刀たちは気位が高いやろう。当主でなければ、にこりともせえへん。それが嫌やったらしくてな。おとん早う死ねと内心どこかで思うてたらしいで。それで切腹も止めへんかったんやろう。水煙はそれを恨んでるに違いないと言うんや」
 おぼろが話すと、それはまるで、面白可笑しい笑い話みたいやった。何が可笑しいんか、実際、おぼろはくすくす笑いながら話した。それも皮肉な嘲笑で、奴が誰のことを笑うてんのか、俺にはよう分からへん。水煙か。それとも、アキちゃんのおとんかな。その両方ともなんか。
「変な奴らやで、お宅のげきしきもな。暁彦様はたぶん、先生のことが怖いんやないか。俺も嫌われんのやないかと思って。自分が自分の親のこと、ずっと恨めしく思うてたんやしな、因果は巡る何とやらで、自分もきっと息子に恨まれてんのやとビビってる。気の弱い男やねん。あいつが、よう水煙様を、先生におとなしく譲ったと思うわ……」
 あっさり譲っていったで。ほな、よろしゅうお頼み申しますと、おとん大明神が挨拶をして、水煙はそれに、心配いらへん、任しときと、あっさり答えて、それで終わりや。今にして思えば、なんか気持ち悪いほど、あっさりした別れ際やった。
 それは、あれか。お互いに、近寄りがたい何かが、相手に対してあったんか。水煙は、アキちゃんのおとんは自分を愛してなかったと言うてた。おとんはおとんで、水煙に嫌われてんのやないかとビビってた。それで、有り難い秋津のご神刀と、その使い手としての一線を越えて、踏み込むことがなかったんや。
 結局なんか、煮えきらんまま、二人は別れて、今ではすっかりジュニアの虜なんやしな。
 それでも俺にはあいつが、おとん大明神を忘れた訳やないことは、なんとなく分かる。未練があるんやろ。俺が藤堂さんに、未練たらたらやったように。愛されてたのかどうか、過去形でもええから知りたいねん。それを確かめたい。そうであってほしいと、願ってる。
 そんなわけないと思ってても、そうやったらええのにと思う。愛してくれてたらよかった。なんでって、それは、自分は相手を好きやったからやろう。愛してたんや。水煙は、おとんを愛してる。今でも、もしかすると、あいつはおとんの事が好き。心のどこかでな。それで迷ってる。どっちへ行ったらええのか分からへん。
 おとんもジュニアも、水煙様を真正面から好きやとは言うてくれへん。
 アキちゃん、それとも、何か言うてやったんかな。俺には許し難い。それでも、たぶん俺の勘に狂いはない。アキちゃんは水煙にも惚れている。それをあいつに、言うてやったことあんのか。
 ないんやないかと思う。だってアキちゃん、そんなに器用やないから。あっちを口説き、返す刀でこっちを口説きなんて、そこまでの達人やないから。後ろめたいやろう、俺に。それで、こらえてんのやろ。俺以外の誰にも、好きや好きやは言わんようにしてる。
 瑞希ちゃんも言うてもろてないようやった。
 せやし水煙にも言うてへんやろう。
 それは正しい判断や。よう我慢してると思うで。それでええねん、アキちゃん。
 でも、なんでやろ。俺はなんでか、胸がそわそわする。寄生虫でも居るのかな。いや、そんなアホや。たぶんキノコでも生えてくんのやろ。だって他に考えられへん。俺が敵に塩を送るなんて。このメソポタミア系が。
 俺に隠れて、ちょっと好きやて言うてやるくらい、バレへんかったらええのとちがうか。だって哀れっぽいやろ、水煙様が。
 俺は妬けへん。アキちゃんがトミ子に、お前のことも好きやったと言うてやっても。あいつは確かに、ええ女やで。それにアキちゃんのことが好き。そんなドブスをアキちゃんが好きでも、まあええか、しゃあないなあと思う。ただし元鞘は勘弁してくれよ。今は俺のもんなんやしな。
 それと同じことが、水煙様でも平気かもしれへん。それで、あの怖い鬼みたいなやつが、ちょっとは和むんやったら、それはそれで、まあ、世のため人のためやないの。だって怖いでえ、マジ怖い。ほんまにもう、あと一押しで鬼みたいやない? 水煙ってさ。
 あいつ、アキちゃんのおとんに使われて、前の男の首斬って、それでよう、おとんに惚れたな。変態としか思われへん。実は元々ちょっと好きやったんやないか。若いのもええなあと思うてたんやで。絶対そうや。それがあいつのパターンやねん。因業な蛇なんやんか、あのお高い水煙様かて、俺と大差ない。
 それが筋やと意地張って、前のあるじに一途な振りはして見せたけど、それでもほんまは、ジュニアもええなあと心が騒いだ。単にそれを隠してただけで。それで余計におとんには、ツンツンしてたんやないか。バレたら恥やもんな。面子があるわ、あいつにも。
 せやけど、もう衰えたし、切腹してでも息子にお前を譲ろうかと、おじいに言われ、あいつは何と答えたんやろ。想像するだに怖い。そりゃあ、先々代の祖父さんの、命を張った賭けではないか。水煙様が、そうしろと言うか、そんなことしてくれるなと止めるかや。どっちに転ぶか、運試し。相手の想いを試す、ひと勝負やで。
 止めへんかったんやろか。水煙は。それで祖父さん、腹斬ったんか。当の息子に介錯させて。しかもその手に握るやいばは、誰あろう、長年連れ添ったご神刀、水煙様やで。
 軽く常軌を逸してる。頭おかしいんや、アキちゃんの家の人らって。なんでそんな修羅場になってまうんやろ。
 それが水煙のせいやというおぼろ様の意見は、どこまで正解なんやろか。
 あいつにはそんな、秋津家の男に血道を上げさせるような凄みがあんのか。まあ、確かに、アキちゃんのイカレ具合を見てると、あるんかもしれへん。妖刀の魔性の魅力みたいなもんが。
 これがもし、おとんがあっさり譲ってはやらず、ひとつ屋根の下、父と息子で奪い合うようなシチュエーションになってたら、それはそれで修羅場やったんかもしれへん。
 けろっと水煙置いて去っていったおとんは、あれはあれで賢かったんやろ。アキちゃんと争うのが嫌やったんや。自分と、自分のおとんが争ったみたいには、アキちゃんとやり合いたくなかった。
 そら、また、なんでやろう。水煙よりも、息子のほうが可愛かったからか。それとも、水煙て、いったいいつからアキちゃんが好きやったん?
 あいつは、おとん大明神と共に舞い戻って、アキちゃんが子供のころから、嵐山の家の天井裏に潜んでたんや。それでアキちゃんのことも、だんだん育っていくのを眺めてた。片やおとんは死んでもうてる英霊で、片やジュニアは生きている。あれが秋津の現当主やと、水煙は思うてへんかったんやろか。あれがほんまは自分の所有者で、自分を受け継ぐべきただ一人の使い手で、自分はあれに惚れなあかんのやと思うてへんかったかな。
 想像するだに怖い。お前より俺のほうが先やったっていう奴が、犬の他にも増えるだけ。とんだ藪蛇。まさにそれや。天井裏から、蛇が落ちてきた。確かめんとこ、そんなのは。
 でももしそうやったら、おとんも可哀想やったなあ。だってもう水煙しかおらんのに、その相手がだんだん他に心を移すのを、黙って見てるというのは。でも、そこはそれ、因果応報ってやつかもしれへん。秋津の当主になった男は、代々その晩年に味わう羽目になる、ご神刀・水煙様の裏切りや。それでも前のが生きてるうちには、新しいのに手はつけへんというのが、水煙のけじめやったんやろ。それやとあんまり、無茶苦茶やからな。
「なんか言うてへんかったか、水煙は。実は暁彦様のこと、恨んでたか。親殺しの餓鬼なんか愛されへんて、そう言うてへんかった?」
 そう言うててほしいみたいに、おぼろはアキちゃんに訊いていた。アキちゃんはそれに、むちゃくちゃ苦い顔をしていた。
「そんなん言うてへん。祖父さんの話なんか、今初めて聞いたしな。水煙は……おとんのことは、好きやったはずやで。そんなん言うて、おとんのほうが水煙を、大事にしてやってへんかったんやないか?」
「そんなことない。朝な夕なに拝んでた。何より尊く祀ってやってたわ」
「神棚に?」
 アキちゃんはそれが、痛いことみたいに言うてた。
「他にどこにや。まさか便所に置くわけないやろ。当主の間のでかい床の間に、ご大層な神棚があったわ」
 ふうっと煙を吐いて、湊川怜司は酷薄に答えた。水煙のこと、嫌いなんやな、ほんまに。なんで嫌うの。そんなん言うてもしゃあないやんか。水煙には水煙の都合があったんやし、自分の男が他のと逃げようかというのに、ええよ行っておいでと言うアホがどこに居る? 止めるのが普通やろ。行かんといてくれと、俺かて言うわ。絶対に言う。
「でも水煙は、神棚に祀られんのは好かんて言うてるで。いつも身につけといてほしいて」
「それは先生には惚れとるからやろ。あいつは暁彦様には惚れてへんかったんや。そうでなければ、戦で死んでもかまへんなんて思うもんか。なんやねん、大義って。秋津のオバハンどもも、お登与様も、みんな薄情や。なんで誰も止めへんかったんやろ」
 顔をしかめて言うおぼろは、吐き捨てるような口調やった。アキちゃんは、自分の血筋の連中のことを責められて、ちょっと切ないようやった。
「それは……止めたら、おとんがつらいからやろ。だって行くしかなかったんやし」
「逃げたらええやん。なんであかんの?」
「逃げてもうたら負けやもん。自分に負けたらお終いなんやで。そんな自分は格好悪いし、愛されへんやんか。自分に誇りを持って生きたいねん、俺は。おとんも、おんなじやったんやないか?」
 アキちゃんは、格好よさげなことを、ぼそぼそ言いにくそうに答えてやっていた。それをおぼろは不思議そうに、どこか、ぽかんとしたような顔で聞いていた。
「はぁ……誇り? それは、命より大事なもんか?」
「そんなん、一概には言われへんけど。おとんはきっと、血筋の義務を果たしたかったんや。おとんの手記にそう書いてあったもん。日ノ本を、厄災より守るのが、我が血筋の務めやって」
「手記」
 ぽかんとしたまま、おぼろ様は呟いた。
「そんなん、あるなんて、知らんかったわ。今も、先生、持ってんのか」
 持ってんのやったら見たいっていう、そんな目をして、湊川はアキちゃんに訊いた。切なそうな目やった。たぶんこいつは秋津暁彦にしか興味がないんや。
「持ってへんよ……出町柳の家に置いてきた」
「なんや……そうか」
 明らかにがっかりしたふうに、窓の外に目を背けてる湊川に、アキちゃんはまたカチンと来たらしい。見るからに、むかっとした顔をした。
「なんやねん、そんなん見んでもええやろ。おとんは居るねんから、お前がちゃんと生きといて、本人に直に訊けばええやんか。それが一番、間違いないやろ」
「嫌や。なんで俺が、俺を捨てた男にわざわざ話しせなあかんねん。今さら無様やで。それにもう……終わった話やないか? せっかくお登与様と仲良うしてんのやろ。のこのこ出ていって、邪険にされたら、しんどいわ」
「お前……水煙とそっくりやな」
 ぷんぷん言うてる湊川に、アキちゃんがぼそっと突っ込みいれていた。
 やっぱそう思うよな。俺もそう思う。
 しかし本人はそう思いたくないらしく、湊川はものすごい驚愕の表情で、いつもは何となく伏し目がちの目を、ぎょっとしたように見開いていた。
「な……なんやと!? 誰にもの言うとんのや!」
「めちゃめちゃ似てるよ……。水煙も、お前とおんなじ事言うてたで。でもな、そんなん無責任やないか。おとんにも色々、ちゃんと落とし前つけさせなあかん」
「落とし前って……別れた切れたに、落とし前なんかあるか。もう赤の他人や。向こうにとってはそうや」
「そんなん、確かめてみんと分からんで。俺の親やしな。死んだくらいで治る病気なんか謎や」
 どの病気のことや、アキちゃん。さらっと言うとるけど、俺も居るんやで。ええかげんにせえ。話の腰折れるから、黙っといてやるけど。後でおぼえとけよ。
「とにかく、んどいたし。聞こえてるか分からへんけど、神頼みしといたしな。そのうち来るやろ、おとん大明神」
 アキちゃんはうつむきがちに、悔しそうに教えた。
 うはあ、んだんや、おとん。とうとうんでもうたんや。敢えてばない腹やと思うてた。おとんに頼らず、神頼みはなしで行くんやとばっかり。
「えっ……?」
 その話が、すごく難解みたいに、湊川は髪掻き上げて、悩む顔つきのまま、もくもく煙を吸っていた。そして、しばらくそのまま固まっていた。ものすごく長いシンキング・タイムやった。
「え?」
 考えたけど、オチがつかなかったみたい。さらに顔をしかめて、もういっぺん聞き返してた。
「おとんをんだんや。お前と話つけるように」
 苛々したふうに、アキちゃんは念押ししてやってた。それにおぼろは、ちょっと情けないほど動揺していた。傍目に見ても、乱れた息で胸がはあはあ苦しそうやった。大丈夫ですか兄さん。そんな繊細な人やったなんて。到底そんな可愛いタマには見えてませんでしたが。
「いや、ちょっと待ってくれ先生。それはどうやろ。そんなんしてる場合やないんとちがうか。だってそれに俺は先生のしきになってもうたしな。どの面提げて会うねん。恥ずかしいて死ぬわ!」
 軽く絶叫やったね。恥ずかしいことあるんや、おぼろ様にも。俺にもあるしな、皆それぞれあるよな。全員ちょっとずつツボがずれてて、いまいち共感でけへんけどな。親子丼食うてもうて恥ずかしいと思うんやったら、普通、食う時にやめとけへんか。それが常識ですよ兄さん。
「死なへん。恥ずかしいくらいでは。俺なんか、こいつに死ぬほど恥ずかしい目にいろいろ遭わされたけど、今でも生きてる」
 アキちゃんは俺を指差し、ぬけぬけとそう言うていた。俺がいったいお前にどんな辱めを与えたというんや。どんな羞恥プレイでも、結局全て気持ちよーく消化してきたお前やないか。いやよいやよも好きのうちやったやないか?
「そんなアホな……俺はもう会いたないねん。もう会いたない……」
 湊川は煙草吸いつつ、顔面蒼白で、意識朦朧みたいやった。煙草吸わんほうがええんやないですか。呼吸困難でぶっ倒れますよ。まあ、外道やし、それはないと思うけど。ものすご顔色悪いですよ。
「なんで会いたくないんや」
 顔を背けてる湊川に、アキちゃんはまだごり押ししていた。
「なんでって……それは、会うたらアホみたいになってまうからに決まってるやろ。メロメロなってまうんや。この蛇とか、この犬とかみたいになってまうんやで!?」
 むっちゃ指さされた。瑞希ちゃん、ぎゃふんてなってた。アホや言われてショックやったんかな。俺、もう、そんなん全然ショックやないけどな。普通やで。普通にアホやもん、すでに。アキちゃん好きやで脳みそ沸いてるしな。羞恥心が消えた。
「ええやん、なれば。なんであかんの」
 さすがアキちゃん、自分がアホにされる大変さを理解してない。お前はデレデレしたことないもんな。それを我慢できる強い子やからな。わからへんのや、自分がアホになってるのに気付いた瞬間の痛さが。
「嫌やて言うてるやろ! やっと毒素抜けてきたのに! それでもアホやのに。毒素補給してどないすんねん!」
 この、冷たいツンケンした男も、おとん大明神にはデレデレすんのかなあ。是非それを拝みたい。早く来い来い、おとん大明神。まさかお登与とラブラブすんのに忙しくて、可愛い一人息子の神頼みが全く聞こえてないなんて事はないやろなあ。
「普通にデレデレしたらええやんか。変なふうにめるから、お前も水煙も鬼みたいになるねん。腹割って話せば済む事かもしれへんやん。何ともならんでも、恨み言のひとつも言うてやればええやんか。ちょっとは、すっきりするかもしれへんで。踏ん切りつかへんのやったら、命令してでも言わせてやるから」
 やっぱアキちゃん、わざと言うてんのやわあ。嫌な奴やなあ、ジュニア。味しめたんか、しきが自分の言うこと聞くの、ちょっと快感なってきたんやろ。
 まあ確かに、水煙とかな、この湊川とか、普通やったら言うこときいてくれへんような相手が、あっさり自分の命令聞いてくれたら、気持ちがええわなあ。二十歳そこらのボンボンとしては。我が儘言うてみたくもなるわなあ。ほんま根性腐っとる。おかんが甘やかしすぎたんや。悪い子なってもうてるわ。もう、あかん。
「ちょっ……と待って、それは鬼やで、先生。言いたいことなんて……別にないもん。恨み言って、別に……」
 おろおろしたふうに、アキちゃんを見て、おぼろ様は口ごもった。頼めばやめてくれるかなあ的な、そんな気の毒な表情をうかがう目付きやったけど、うかがってみたところで、アキちゃんは全然、手加減する気はないようやった。あかんあかん。それが正義やともう信じてもうてるから。力業でもやらせようという魂胆やからな。
 おぼろ様にも、それが見てとれたんやろう。一瞬、ものすごしょんぼりした顔をした。そしてヘトヘトみたいに、弱った声してアキちゃんに言うた。
「別に、ないよ。恨み言なんて。恨んでへんのやもん……しょうがないよ、悲しいけど、振られたんやから」
 なんか無防備くさい、ぼけっとした口調で言われ、アキちゃんはなぜか、うっ、てなってた。それに犬も、ガーンてなってた。これはなぜかは明白。感情移入してもうたんやろ。お前も振られたしな。うんうん。振られたもんなあ。
「恨んでへんのか!?」
 恨んどけみたいな口調なってるで、アキちゃん。そんな期待をしてたんか。おとん恨まれといてほしかったんやな。そうかそうか。そうやなあ。まさかそこまでの事をして、未だに普通に愛されちゃってるなんて許し難いよなあ、今のご主人様であるジュニア的には。
「未練がましいやんか。もう六十年以上前なんやで? それが未だに未練たらたらなんてさ……恥なだけやで。しつこい奴やって鬱陶しく思われたら、そのほうが嫌やわ。どうせ別れなあかんのやったら、綺麗にいきたいねん。ええとこだけ憶えといてもらいたいんや俺は。しょうもない奴やったと、思われたくない」
 瑞希ちゃん、ガッツンガッツン来てるけど平気かな。なんか斜めになってるけど。六十年ぽっちで恥じている、奥ゆかしい奴がおんのに、お前は三万年も根に持ってたんやしな。それに引き際ものすご醜かったよな。必死やったもんな。じったんばったんやもんな。ほんまに途方もないような赤っ恥やな。
「そんなこと思うわけないって。それに、いつまでも今のままフラフラしてたら、次へ行かれへんやろ。もしダメでも、当たって砕けたら? そしたら吹っ切れるかもしれへんやんか」
「吹っ切れる前に事切れてるわ……」
「そこまで好きなんか、おとんのこと!」
 なんで怒声なんや、アキちゃん。おぼろ様、軽く引きつってますよ。怖いんやって、俺も怖かったもん。式神時代には、お前のそのガミガミ言うのが、ものすご怖かったんやもん。やめといて。
「好きって……好きなわけでは。だってもう昔の話やしな……」
「逃げとらんで、ほんまのこと言え!」
 あーあ。言うてもうたわ。命令文やったわ。
 気の毒やなあ。式神の皆さんは。命令されたら逆らわれへんしな。
 俺もいっぱいやられたわ、アキちゃんの、ついつい無意識の命令形には、いろいろ困ったもんやった。今はもう関係ないしな、気楽なもんやけども。
 そやけど、おぼろ様は現役バリバリでアキちゃんのしきやしな。ちょっと可哀想やないか。俺ちょっと、兄さん可哀想なってきた。止めようかな。亨ちゃん、ここらでアキちゃん引き留めて、作戦タイム入るべき? それとも静観しとくべき?
 根本的には同感やねん。アキちゃんと。せっかく、おとんんだんやったら、ぶつかっとけばええんやないか。俺もすっきりしたで。藤堂さんと話して。せやし、きっとおぼろ様も、すっきりするで。それかもっと、モヤモヤするかやけど。モヤモヤしたら最悪やけど。
「ほんまのことって……?」
 眉間に皺の青白い顔は、もうほんまに、しんどそうやった。
「好きなんか? もう忘れたんか? どっちがほんまやねん」
 なんや喧嘩腰のアキちゃんに言われ、おぼろは煙草吸うのも忘れてたらしい。指に持ったままの煙草から、燃え尽きた灰が、ぼろっと落ちてた。
 あっ。あかんで。藤堂さんに殺される。バレたら殺されるで! バレませんように! 神様仏様、どうかバレませんように!
「好きやけど……でも、そんなん、向こうには関係ないことやろ。俺が勝手に好きやねん。そんなん、もう、忘れなあかんのや」
「どうやったら忘れられるんや。忘れろって命令したら忘れんのか?」
 アキちゃんは、それで行けるんやったら、ほんまに命令しそうやった。
 けど俺は、それには反対やで。そんなん無茶苦茶やんか。いくらご主人様でも、そこまでやる権利があんのか。そんなん無いと思うで。俺はあかんと思うで、アキちゃん!
「さあ……無理やないか。より強いまじないで、縛られてんのやから。これはもう、死なんと治らんのやで。死んでも、治るのかどうか」
まじないって、なんのことや」
「別れ際の手紙で、忘れんといてくれと、あいつが言うたんで。そういう意味やないんやろけど……でも、俺にはそう聞こえたんや。ずっと想うといてくれって、言われたような気がして。それは勝手な解釈やけど……でも、別にええやん。それであいつに迷惑かけたか。かけてへんやろ。それくらい俺の自由やないか?」
 電話の向こうから聞こえてた、おとんの声が繰り返し、頼み込むように呟いていたあれや。お前は神。それを忘れんといてくれ。忘れんといてくれと、何度も続く、しょんぼり甘えたような声。俺にもそれは、そう聞こえた。俺のことを忘れんといてくれと、言うてるように聞こえてた。
 おとんはそう言いたかったけど、言われへんかったんやろ。それはあんまり身勝手やと、それくらいは分かってた。せやし、あれ以上、なんも言われへんかったんや。
 それでも気持ちは伝わっていた。人間の声やしな。言葉にならへん想いのようなもんも、言霊は運ぶ。あの別れの挨拶をする男の声は、お前が好きやと泣いていた。
 それを恨む気が起きへんかったというのも、俺には何となく分かる。おとんの気持ちも、なんとなく分かる。俺も死にそうになった時、アキちゃんに祈ってた。俺のこと忘れんといてくれ。たまにはまた、俺のこと夢に見てやってくれって。
「なんか、こんなん変やないか、先生。せっかく説得しようと思ってたのに、なんで俺が説得されてんのやろ。どうでもええねん、俺のことなんか。放っといてくれ」
 寛太と違うて、いつもきちんとしてる長めの細い髪の毛を、おぼろはぐしゃぐしゃ掻いていた。
 そうすると益々ちょっと寛太に似ていた。つまり虎はやな、フラフラなってる時のこいつが好きやったんや。ぽかんと抜けて笑ってて、隙だらけみたいな時のほうが、好きやったんやろ。
 そんなとこ、滅多にあるように思えへんのやけど、二人っきりやったらあるんかな。おぼろに霞む妖しいもやも、黒い錦のような硬いうろこよろいも解いて、だらんと和んでいる時が。
 じゃあ、きっとおぼろ様は、寛太みたいになるのが嫌やねん。あんなんアホやと思うてんのや。好きや好きやで夢中になってる。そんなデレデレ甘いのが、自分やったらつらい。そんなん、もう、二度とやりたくないんやろ。一度はやったかもしれん、アキちゃんのおとんに振られる時までは、こいつも鳥さんみたいに、デレデレ甘かったんかもしれんのやから。
「どうでもよくない。放っとかれへんわ。俺のおとんの不始末やし、お前は今では、俺のしきなんやろ。面倒見るのも俺の責任や。それに、虎にも頼まれた。お前を幸せにしてやれって」
 言いながらアキちゃんは、すねてるような顔やった。お前も見たいか、おぼろの龍の、デレデレ顔が。こいつがその顔で、自分を見るのを見たいんですか。見たことないのに、おとんにはそうやったらしい恋バナみたいの聞かされて、超ムカツクんですか。それ自体、俺や犬に軽くぶっ殺されてもしゃあないという事に、気がついてませんね。無意識ですね。無意識にすねてますね、ジュニア!
 俺はもう開いた口ふさがらん。犬もふさがらん。俺はもうショックではない。しかし犬はショック。だって目の前で本間先輩、他の奴と仲良うしてるしな。若干、口説きに入ってるよな。知らんとな。お前はそんなんしてもろたことないのになあ。
 せやけどアキちゃんは、それにも勿論気がついてへん。鮮やかなまでの無神経さや。鈍いのもここまでくると、ほとんど芸術や。人間国宝。勲章もらえる。
「信太がなんやねん。他人ひとの幸せ心配してる間に、てめえの心配しろって言うといてくれ」
「それもお前が自分で言え。どうせ何も言うてへんのやろ。にこにこ許してやって、それっきりなんやろ。そんなんされても嬉しないねん!」
「適当でええねん、先生。あいつもそんな贅沢言ってられんのは、俺があっさり許してやったからなんやで。これがもし血みどろにモメとってみろ。あいつも今ごろ、助けてくれって泣いとるわ」
 そうかもしれへん。無い物ねだりや。
「ご加勢、大変助かりましたわ、亨ちゃん。なんで黙って突っ立ってんの。面白かったか? この役立たず。何のために仲間をんだと思うてんのや」
 もうアキちゃんと口ききとうないという態度で、おぼろはうんざり俺を見た。
「ごめん。面白かったわ」
「昼メロ生収録か。あほくさ……もう知らん。今時の餓鬼は、親より先に死んで、親不孝やと思わへんのか……先生逝ってもうたら、暁彦様も登与様も、どんだけつらいか、ちっとも想像せえへんのやな。鬼畜の子はしょせん鬼畜か!」
 さあ行くでって、おぼろはどこかフラフラした足取りで、廊下の先へと少し歩いた。それを見送り、付いてはいかへんかったら俺らの見ている先で、おぼろはそこにあったドアを、こつこつとノックした。
 そして、少ししてから開いたドアの中からは、ゆるく波打つ垂れ髪の女が現れた。真っ白い、長いガウンの下に、大きなプリーツのある白いスカートみたいなのを着てる。腰のあたりで、ゆるく巻いてる細めの帯だけが、極彩色の青と金色のにしきやった。
 誰やろう、それはと、ようく目をこらして見ると、蔦子さんやった。その格好は、巫女みこの装束のようやった。そうは言うても、今の神社に居るような、白い着物に赤い袴の巫女さんやない。そのスカートみたいなんは、と言うらしい。飛鳥時代よりもさらに昔の、日本の人らがせっせと古墳なんかを作ってた頃の、身分の高い女の人の服らしい。
 まあ、あれやん。ぶっちゃけ卑弥呼ひみこやで。卑弥呼ひみこ
 えらいことやなあ。でも、アキちゃんの血筋って、余裕でその頃から続いてるモンらしいねん。おかんがそう言うてた。ほんで、男は士官したりする都合で、時代ごとに装束を改めてきたけど、女は家に守られてきたもんで、代々の伝統を守ってるうちに、こんなことになってもうたんや。お登与や蔦子さんは昭和になっても飛鳥チック、お兄ちゃんは海軍さんの軍服着てた。アキちゃんなんかTシャツとジーンズやんか。
 家庭内に、千年単位の激しい時代の隔たりがあるな。ていうか、どう見ても古代コスプレやから、蔦子さん。それでも、着慣れたふうに袖通してるその格好は、蔦子おばちゃまにはよう似合うてた。いつもは束髪にしている長い髪を、だらりと解いてあるのも、なんか妖艶で、額に巻いた宝玉の帯のようなもんも、翡翠なんか、ラピスラズリか、青い色が黒髪に映えてて、めっちゃ綺麗やった。
 秋津の人らはみんな美形や。それは霊力が表に現れてるかららしい。蔦子さんかて、普通に考えればもう、八十九十のババアのはずや。それが精々、四十代くらいに見える。普通やない。仙人なんや。いつもはタイガース応援ルックとかで、煙草吸うてビール飲んでる、キレ芸気味のオバチャンやけど、実は有り難い巫女さんやったんやで。
 ドアの木枠にもたれて、くよくよ煙草をくわえつつ、湊川は長身の位置から首を垂れて、そんな有り難い蔦子おばちゃまを伏し目に見下ろしていた。
 その姿は遠目に見ると、なんやちょっと、お美しいマダムと若いツバメみたいやった。ツバメやない。スズメ。若くもないけど。とにかく二人は俺が思ってたよりも、ずっと親しいようやった。
「蔦子さん、俺、本間先生に転んでもうたわ。事後報告やけど堪忍してくれ」
「あらまあ……」
 呆れたみたいな声で、蔦子さんは言うて、恥ずかしいんか悔しいんか、首垂れてくよくよしたままの湊川怜司の吐く薄煙を、嫌がるふうもなく身に纏っていた。
 そしてふと、蔦子さんは俺らのほうを見た。ちょっと離れてたんやけど、そこに居るのはお見通しみたいやった。
「手ぇの早いことどすなあ、ぼん。血は争えまへん……」
 どことなく青ざめた顔色で、蔦子さんは疲れてるっぽかった。それでも嫌みったらしく笑うのだけは、忘れてへん。
 アキちゃんはそう言われて、面目なかったんか、ぐっと押し黙ってた。
「お入りやす、おぼろ。そちらの皆さんも。ウチの大事なしきを、こんな立ち話だけで譲り渡すわけにはいかへんえ」
 厳しい口調でやんわり言うて、蔦子さんはジロッとアキちゃんを見た。それでも、もう、譲り渡すつもりらしかった。モメへんねやと、俺はちょっとだけ意外やった。
 式神って、そんな簡単に、人にやったり、もろうたりするもんなんや。大崎茂ちゃんが、秋尾をアキちゃんのおとんに譲るのを、渋りに渋ったていう話やったから、普通は嫌なもんなんかと思うてた。蔦子さんかて、信太をくれとアキちゃんのおかんに頼まれて、嫌やと断ったんやんか。あれは、生け贄にするために渡せと言われても嫌やという事やったんかなあ。
「中には誰もおらへんか?」
「信太と寛太と啓太がいてますえ」
 部屋の中をうかがう目つきの湊川に、蔦子さんは答えてやっていた。その返事にがっくりして、おぼろはますます項垂れ、ますます小声になっていた。
「うわ……最悪やんか。なんで居るのん、暇なんかあいつら」
「竜太郎を心配して来てくれたんどす。寛太は信太にくっついてきただけどすけど。信太と啓太にはさんざん子守りさせましたよって、竜太郎が我が子か実の弟のようにも思えんのやろ。せやのに追い出されてもうてなあ」
「水煙にか」
 顔をしかめる湊川を見上げ、蔦子さんも顔をしかめた。
「竜太郎にどす」
「大丈夫なんか、蔦子さん。あの外道に跡取り預けて。今ごろ腕の一本くらい、食われてるかもしれへんで」
 しっ、と、蔦子さんは湊川の悪口を咎めた。
「そんなこと言うもんやおへんえ。秋津の一番古いしきなんや。あんたには大先輩なんえ。前に一悶着あったくらいで、逆恨みしたらあきまへん。ほんまにあんたは、いつもそこらの物の怪みたいな悪口言うて、そんなんしてたら、あんたの霊威も穢れてしまいますえ」
 蔦子さんはクドクド厳しかったけど、俺はおぼろの言うことが、あながち悪口とも思えへんかった。腕一本どころか、竜太郎の魂まるごと食おうとしとったからな、水煙は。用心するに越したことないのに。
ぼんも来なはれ。ほんまやったら、あんたが話すのが筋やったんえ」
「いやいや、先生ちゃんと話しに来たんやけど、俺が先に言うてもうたから」
 アキちゃんをかばう口調で、おぼろが言い訳してやっていた。
「甘いんや、あんたは。アキちゃんにもえらい甘かったけど、ぼんにも甘めでやってくつもりか。そんなんしてたら、果てしなく付け上がりますえ、秋津の男は! 厳しゅうしなはれ」
 ピシャーン言うて、蔦子さんは鬼のようなジロリの目をして、来い来いとアキちゃんに鋭い仕草で手招きをした。ちょっぴり怖いのよ、それが。怒ってる時のおかんみたいでな。
 アキちゃん、反射的に引いてたよ。せやけどまさか逃げるわけにもいかへん。渋々やけど歩き出したアキちゃんに半歩遅れて、俺もついてった。行ってええのかなみたいな顔をしていた犬にも、しゃあないから、おいでおいでをしてやった。
「ちょっとお待ち。なんや、この子は?」
 瑞希ちゃん、むっちゃジロジロ見られたで。蔦子おばちゃまに。
 美貌の熟女に見られて、犬はドン引きしていた。キャインキャインみたいに逃げてた。発作的にアキちゃんの後ろに隠れようとしてた。たぶん、ほんまに怖いんやろう。蔦子さんも、ただの古代コスプレ好きのオバチャンではない。鬼道きどうの女やし、秋津の血を引く、おかんの従姉いとこなんやしな。強い霊力がみなぎっていた。
「こいつも本間先生の新しいしきや」
「新しいしき!」
 湊川の解説を受けて、蔦子さんは鋭く言うた。感心してんのやない。してんのかもしれへんけど、悪い意味でや。
「ちょっと見ん間に、偉うおなりのようやなあ、ぼん。話、聞きましょう」
 きっぱりそう言い渡し、蔦子さんは古代ルックの裳裾もすそをひらりとひるがえした。そこから、ぷうんと独特の、品のええお香の匂いがした。
 部屋に入ると、そこもスイートルームやった。落ち着いた色合いの、こんと白の部屋。そこにやっぱり深い青色の、ビロード張りの骨董アンティークめいたソファセットが置いてあり、そこにはべったり虎にもたれた赤い鳥さんと、その反対の端に脚を組んで座ってる、冷たい目線の氷雪系がいた。
「怜司」
 おぼろに声かけてきたのは、信太やない。氷雪系のほう。なんで来たんやと、意外そうな声やった。
 信太は腕にべったり鳥を張り付かせ、じっと黙っておぼろと見合っただけやった。口ごもる気配もなかった。声かけるつもりがなかったんやろう。よう見たら、寛太はいちゃついてんのやのうて、寝てるんやった。頭ぐちゃぐちゃで虎の肩によりかかり、ぐうすか寝てた。フリーダムやな、鳥さん。お昼寝か。
「椅子が足りへんな、席外しましょうか」
 ひとり気の利く氷雪系は、薄氷みたいなメガネの奥から、ご主人様である蔦子さんを見つめて訊いた。
「かましまへん。洗面所に籐の椅子がありましたやろ。あれを持ってきておくれやす。うちがそこへ座ります。怜司、あんたはあっちへ」
 言われた通りに働こうかと立ち上がった氷雪系と、ぐうぐう寝てる寛太の合間を指さして、蔦子さんはおぼろに命じた。
「ええ? そっち?」
「どっちに座ろうが四人は四人ですやろ。まだ許すとは言うてまへんえ。ウチが承知するまでは、あんたは分家のしきどす」
 はいはい、言うて、おぼろは痛そうな表情のまま、おとなしく、寝こけている寛太の隣に、どさっと座った。それは別に、蔦子さんに呪縛されてるから命令を聞くという感じやなかった。蔦子さんには頭があがらへん。まるで、そんな感じやねん。
 居心地悪そうにしている湊川を、もの言いたげに横目で見つつ、氷雪系は椅子をとりにいった。そして、あたかも女王様にでもお仕えするように、啓太は蔦子さんを、持ってきた肘かけつきの籐椅子に座らせて、コーヒーテーブルを見下ろすお誕生日席で、すそと大きなそでを整えている女主人の横顔を眺めつつ、また静かにソファの一番端に座った。
 チーム秋津は序列の通りでごさいます。蔦子さんと斜向かいにアキちゃんで、俺、犬、以上。水煙様は出張中でご不在や。
「まず何の話から聞けばよろしいのや。怜司のことどすか。ぼんはなんでこの子が欲しいんや?」
 なんかちょっと、「花いちもんめ」みたいやで。子供の遊びの。
 箪笥たんす長持ながもち、あの子が欲しい。
 勝って嬉しい、花いちもんめ。負けて悔しい、花いちもんめ。
なまずに食わせるためや。生け贄にすんのにしきが要るんや」
 アキちゃんではない、別の暗い声が、やっと喋った。信太やったわ。
 蔦子さんはそれに、驚きはせえへんかった。少なくとも表面上はな。氷雪系のほうが、よっぽど驚いていた。あんぐりして、隣にいてる湊川怜司をガン見していた。嘘やろと、訊いていいなら訊きたそうな顔をして。
「その件やったら、うちは信太をあんたにやるつもりどした。それでは不服か?」
 姿勢良く椅子に腰かけ、蔦子さんはアキちゃんをじっと見た。それにも氷雪系は驚いていた。蔦子さんは自分のしきたちに、何もかも話してる訳ではないらしい。寛太が知ってんのかどうか、寝てるもんやから分からへん。
「不服やないです。それに湊川のことも、生け贄にするつもりはないです」
 アキちゃんは言いにくそうに答えてた。
「ほんなら誰をやるつもりなんや。その犬か?」
 瑞希ちゃんをじっと見て、蔦子さんは容赦なく言うてた。瑞希ちゃんはぎくっとしたように蔦子さんと見つめ合うてたけど、ただ、緊張したような顔をして黙ってるだけやった。
「こいつでもない。話せば長いけど、こいつは元から俺と因縁のある狗神いぬがみや。今回また行き会うたんで、しきにしたんです。生け贄には、蔦子さん、俺がいく」
 真剣そのもので言うてるアキちゃんの顔に目を戻し、蔦子さんはまた、じいっと見つめた。そして、アキちゃんが言い終えた後も、何か考えてるふうに、しばらく黙っていたんやけど、やがてゆっくり、そして、きっぱりと言うた。
「それは無理どす」
「なんでや」
「あんたは祭主ですやろ。あんたがなまずの生け贄になったら、その後に来る龍は、誰がお迎えするんや?」
 龍って、湊川怜司のことやないのか。違うの。違うかも。そういえばスポーツ・バーで、蔦子さん、龍はなまずの後に来て、まず淡路島を食うって言うてた。淡路島は食わんよなあ、いくらなんでも。おぼろ様は。
「龍は……誰か他の人がやられへんのか。蔦子さんとか」
「無理どす。そんな無責任なことで、祭主を勤めようというほうが、どうかしてます。秋津の当主として、儀式を完遂するのが当たり前どす」
「でも……」
「生け贄には信太をやったらよろし。この子にも覚悟があっての話しや。あんただけが命がけで、偉い訳やおへんえ。それに、そこで慌てて死なんでも、あんたにはあんたの死に場所がちゃんとあります」
 重い口調ではあったけど、蔦子さんはさらっと言うてた。
 俺はなんや、ずしっと腹に来た。岩でも呑んだようやった。
 龍の話や。水煙と竜太郎は、まだ手こずってんのや。龍がアキちゃんを食う未来を、予知してもうてんのやないか。水底での死って、それのことなんやないか。
「竜太郎が予知した龍は、津波や、ぼん。海の彼方からやってきて、瀬戸内の海に入り込み、淡路島を食うて、そして神戸の浜に至る。未曾有の大津波どす」
 アキちゃんは、ぽかんとしたような真顔で、その話を聞いていた。ほとんど無表情やった。
「鯰が起きるんは、たぶんそれを予知したからどす。逃げようということなんやろう。きょうか、逢坂おうさかか、どこへでもええけど、人食うて力をつけて、さっさとねぐらを変えようかと、そういうことどす。時たま、街ごとごっそり人が消えることがあるのを、ぼんは知っとりますか」
 時たまって、蔦子さん、どれくらいの頻度のこと言うてんのや。
 まあ、そういうことは、たまにはあるんや。大災害とかで。アトランティスとか、イースとか、ソドムとかゴモラとか、ポンペイとかな。南米にもそんな伝説がある。街は残ってんのに、そこから全員神隠しにでもあったみたいに、人っ子一人おらんようになっている。
「知らんのどすか。まあ、よろし。ともかくも、神戸にそれが起きようとしてます。この街は、神の戸なんや。新しい神さんが自然と寄り集まってくる玄関口のような、性質のある土地柄や。それに呼ばれてか、新しい神が、この地に降り立とうとしておいでや」
「新しい神?」
「龍どす。人界にとどまれる限界に達して、天界にお昇りになる。そのために神戸にお越しになるようや。それが津波の姿をしてはるということまでは、視えてるんどす。ただそれを、何もせずに手をこまねいて見ていれば、その次に現れる未来の絵は、六甲山の麓まで、ごっそり海に呑まれて消えた神戸の姿や。もちろん、そこに住んではる人も物も、うちらも全員、逃げへん限りは呑まれてまうやろう。それが最悪の未来図ということどす」
 逃げようか、今すぐ。アディオス神戸! って、あかん? それやとあかん?
 自分だけ助かろうなんて神様チックやなさすぎですか。自己中やったらあかん?
 なんであかんの、逃げればええやんて、おぼろ様は言うてたけども、俺、今ちょっとそれに同感ぽくなってきた。神戸をまるごと食うような龍と、戦えるわけない。勝てませんから俺は。たぶん無理やで。どうやって勝てばええやら、全くアイデア湧いてけえへんもん。
 勝ち目のない戦いを挑むのはやめよう。撤退することも大切や。この教訓を未来に活かすことにして、なまずだけ寝かしつけといて、後はとりあえず被害のなさそうな京都で、引き続き平和に暮らすコースでどうやろか。
 俺は力一杯アキちゃんに、そう問いかける目を向けたけど、アキちゃんの横顔は深刻で、もちろん真剣そのものやった。逃げようなんて毛ほども思ってなかった。なんやねんお前、まるでヒーローみたいやないか。ただの美大四回生のくせに!
「なんとかならんのですか」
「方法はいくつかあります」
 訊ねるアキちゃんに、蔦子さんは頷いてやっていた。
「一つは、龍の狙いを神戸からよそへ逸らすことどすけども、それは論外や。ウチの経験上、それやと被害をよそへ押しつけるだけで、何の解決にもならしまへん。竜太郎が視たところによれば、龍が逸れてくださる可能性のある別の行き先は、東京湾どした。それは、選択肢として、ないも同然。首都が奪われたら、この国はどないなってしまいますやろ。それに向こうには向こうで、帝都を守っている連中がおります。万が一にもおとなしく、身代わりになったりはしまへんやろ。結局、神戸へ押し戻されます。それなら最初から、ここで龍をお迎えするつもりで行くほうがよろし」
「手も足も出えへんということですか」
「そんなわけおへん。龍の接待は、うちら秋津の十八番おはこどすやろ。人身御供をお捧げして、交渉するんどす。どうか神戸を滅ぼすのは、堪忍しておくれやす。お心安らかにしていただいて、どうぞ無難に治まっておくれやすと、あんたがお頼み申し上げるんや」
「俺が?」
「占いには、そう出とります」
 頷いて、蔦子さんはアキちゃんに教えた。
「水底での死って……海底か。そりゃあ、まあ……そうか。海が目の前なんやもんなあ」
 アキちゃんは呆然とした青い顔して、とぼけたような感想やった。
 神戸の海が好きみたいやった。綺麗やて。絵描いてて楽しそうやったけど、でも、船に乗ってその波に揺られたら、めちゃめちゃ酔うてた。思えばあれも、一種の予感みたいなもんやったんか。アキちゃんは、神戸の海とは相性悪い。自分を殺す海なんやもん。相性ええわけがない。
「俺はつくづく、おとんの子みたいやなあ、蔦子さん。海で死ぬような因縁があるらしい」
「そうどすなあ……ぼん。あんたには、気の毒やけど、今のところ、それが一番ましな未来図なんどす。竜太郎は、あんたが津波に呑まれる絵を視た。そして、その後に続く未来が、無事な神戸の姿やったのは、その流れだけやったんどす。あの子はそうは言うてまへんけど、ウチには分かる。ウチにも同じもんが見えてますのや。竜太郎やったら、全然別の、もっとあっけらかんとした未来を、掴んで戻って来るんやないかと、初めはウチも期待はしてましたんやけど、未来には、なんでか知らん、梃子てこでも動かんような、ひとつっきりの宿命的な部分がある。その大岩をなんとか動かそうとして、必死になったところで、溺れるだけどす。あの子に、そう言うてやっておくれやす。あんたが言わんと、竜太郎は納得せえへんやろうと思います。疲れ果てて溺れ死ぬまで、泳ぐやろう」
 蔦子さんは、暗い覚悟の目をしてた。それは、同じ未来を視る巫覡ふげきとして、竜太郎に共感してる目かもしれへんし、息子の身を心配している、おかんの目かもしれへん。その二つが争っている葛藤を、抑え込んでる目やった。
「昔、ウチが、予知したアキちゃんの死を、何とか逸らそうと必死になっていたとき、アキちゃんは、もうかまへんと言うて、ウチを止めておくれやした。それがなければ、ウチはきっと、死ぬまで続けていたやろう。時の流れの中で溺れて、そのまま死んで、今こうして、ここに居ることもなかった。そして、怜司も信太も、寛太もおそらく、居らへんかったやろうなあ。消えるか、この世の鬼として、彷徨っていたか、どないなったかわからしまへん。そしてアキちゃんも、結局のところ死んでしまいはったやろう。うちが死のうが生きようが、それに変わりはなかったんえ」
 結果論とかいうモンどすけどなあと、蔦子さんはシミジミ言うてた。
 そういう話をされて、おぼろも虎も、蔦子さんに異論はないようやった。うんともすんとも言わず、ただ話を聞いていた。
 蔦子さんが死んでて居らんかったら、聖地・甲子園球場のほとりに海道家はない。そこに飼われている、有象無象の式神もいない。竜太郎もいない。それを他人事と思って見れば、大した違いはないかもしれへん。せやけど人一人いるかいないか、とある怪異が、神か鬼かは、大きな違いや。蔦子さんの生死によって、悪いほうへと変わる運命はあった。
ぼん、なんで怜司が欲しいんどすか。なまずの生け贄には信太をやります。それはこの子の運命なんどす。逃げても何度でも追いかけてくるやろう、そんな因縁や。怜司を代わりにはやりまへん。それでもこの子をしきに欲しいんどすか。このまま行けば、あんたは明後日あさって、死ぬかもしれへんのどす。ただ死に別れるためだけに、怜司をしきにすることになるんどすえ。うちはそれには反対や。この子は案外、脆いんどす。強いように見えてもな、弱ればいつぶり返すかわからん古傷があるんや。そのことを、ぼんはちゃんと、弁えてますのんか?」
「おとんのことやろ……?」
 言いづらそうに、アキちゃんは蔦子さんに答えていた。
「違います。そうとも言えますけども。言うてへんのやな、怜司」
 首巡らせて、蔦子さんはぴしゃりと言うた。おぼろはそれに、険しい顔して、肩をすくめていた。
「言う必要ないもん」
「そんなことおへん。あんたのあるじになろうというなら、ちゃんと知るのが筋どす。ただのしき欲しさで手ぇ出して、自分のもんやというのでは、通らへんのどす」
 すっくと立って、蔦子さんはアキちゃんの顔を、びしっと指さした。
「それにどうせ、あんたも面食いなんどすやろ。アキちゃんもそうどした。まず顔や姿の美しさから入るんや。あれがそんな男やから、おぼろも怯えて、戻るに戻られへんのや」
 面食いなのは図星なんやけど、アキちゃんどうも、おとんの名代でムカつかれてるっぽいで。蔦子さんは忌々しそうにジュニアを見ていた。おとんも面食いやったんや。そら、そうやろなあ。そうやろうという予感がしたわ。ここまで似た者親子やのに、そこんとこだけ似てないというのも、不自然やもん。
おぼろ、試しにぼんに、あんたの正体を見せてやりなはれ」
「嫌や。ホラーすぎる」
 青ざめた顔をして、おぼろは即答で拒否やった。
 ホラーすぎるかな。ただの龍やで。ただの、ってことはないけど。俺には美しい龍に見えたんやけどなあ。アキちゃん、俺のおかげでウロコ系は、余裕でクリアするはずやで。ビビることないのに。
「見たらもう、俺はいらんと思うやろうって事か、蔦子さん。先生に譲るのが嫌なんやったら、普通にそう言うてくれ。俺にも面子はあるんや」
 おぼろ様、まさか実はドブスやったりするんか。美容整形か、この美貌。
 極めて居心地悪そうにしている湊川怜司を見やる、氷雪系と虎の目も、なんや事情が分かってへんような、戸惑う表情やった。美人や思うて付き合うてた相手が、実はトミ子級のブスやったら、めちゃめちゃ引くよな。それは猛烈などんでん返しや。
 見たい。たとえホラーでも。俺はそういうの、トミ子で大概慣れている。もう、そう簡単には驚かへんで。トミ子を超えられるブスは、そうそう居るはずないんやからな。下っ腹に気合いを入れてれば平気や。気絶したりせえへん。
「あんたは醜いわけやおへん。美しい神さんや。今のその姿も、偽物やおへんえ。それもあんたの正体やろう。せやけど、あんたが己の醜さとして、恥じて隠しているそれを、ちゃあんと見せへんかったら、あんたが何で狂うてんのか、誰にも分からへん。このぼんに仕えようというんやったら、あんたのほんまのところをさらけ出さなあかん。ウチにしか言われへんのやったら、よそへ行ったらあかんえ。一体誰があんたの気持ちを、ほんまに分かってくれるんや?」
 蔦子さんは、まっすぐ見つめ、確かに問いかける口調で言うていたけど、おぼろは虚脱したように、ぽかんとしていて、何も答えへんかった。
 その優雅に組んだ膝の上にある白い手を、蔦子さんがいきなり掴んだ。それでもおぼろはぼんやり見ていた。その場にいる全員の目が、たぶんおぼろを見ていたやろう。
 俺はどこかで、この綺麗で品のええような男が、ものすご醜い何かに変転するのを期待していた。確かにそれは、期待どおりの出来事やったかもしれへん。せやけど俺はちっとも、笑いたいような気にはならへんかったんや。
「正体を、顕し給え」
 単純な、そして霊力をこめた一言で、蔦子さんはおぼろにそう求めた。それはやっぱり、命令とは違う。巫女が神にお頼み申す一言で、きちんと敬意が籠められていた。蔦子さんはおぼろのことを、神やと思うてるらしい。アキちゃんのおとんが、そう思うてたのと同じように。鬼やない、神なんやって。
 それは極めて、微妙なところや。人や物を、見た目で判断するんやったらな。
 蔦子さんが握りしめた手首の辺りから、おぼろは唐突に、目映いような白い光を発した。それは冷たい光やった。そして、鉄でも煮溶かすような、熱い熱い光線やった。
 白い肌を舐めていく、目の底を焼くようなその光は、見る間におぼろの全身を駆け抜けた。まるで爆風のようやった。実際それは爆風で、俺もアキちゃんも、その場にいた全員が、ものすごく怖ろしいものを目の当たりにした。
 白かった肌が、見る間に真っ黒く焼けこげて、焼け付いた血と肉が、駆け抜ける光の波に吹き散らかされて飛び散った。それは幻やったんやろうけど、信太は自分の目の前で爆散してゆくおぼろの肉片と血と髪の毛をまともに顔に浴び、呆然としたような、目を見開いた無表情になっていた。
 確かに肉の焼けるような、猛烈な悪臭がした。そして錆びた鉄のような臭い。血の臭い。腐敗した何かが崩れ落ちていく、わずかに嗅ぐのも耐え難いような、すえた臭いがした。
 勝呂瑞希がその臭気に触れて、ぴくりと鋭く身を震わせていた。犬には覚えがあったんやろう。
 それは地獄の臭いやった。
 白い光線が飛び去った後、湊川怜司のいたところには、別のモノがいた。けど、それはたぶん、今までいたのと同じモノや。
 骸骨やった。焼け付いた鉄の臭いのする、真っ赤に灼けた骨やねん。美しいと言えなくもない。見事に整った骨格で、蔦子さんはその灼けた手首のあたりを、静かに見つめる顔のままで、まだ握りしめていた。
 骸骨は、その赤い髑髏しゃれこうべから、薄くたなびくため息のような、熱く爛れた湯気を吐いた。それはいつもおぼろがふかす煙草の煙とおんなじように、細かな編み目のような文様を描いて、いつまでも消えずに漂っていた。
 俺は呆然と驚きながら、その骸骨が、ほっそりと組み上げられた肋骨の中に、鳥籠で小鳥を飼うようにして、何か激しく動くものを持っているのに気がついた。
 それは、心臓みたいに見えた。ひくひく脈打つ激しさが、鼓動する心臓にそっくりやったんで。
 でも、違った。それは血のかたまりやった。
 つい半時ばかり前、電話しながら俺の中に湧いたイメージの、月に寄り添う黒い龍が、後生大事に握りしめてた赤い血の珠や。それが灼熱に焼かれて、煮えたぎるように沸き返っていた。しかし一瞬にして蒸発して、爆散しようとするそれを、骸骨は自分の霊力で押しとどめたらしかった。そのせめぎ合うさまが、まるで激しく鼓動してるように見えてるだけや。
「ウチのところに現れた時、怜司はこの姿やった」
 まだ骸骨の手を握りしめたまま、蔦子さんは振り返り、硬直したようなアキちゃんをじっと見つめた。
「あんたのお父さんを追っていったんどす。広島のくれから、アキちゃんを乗せたふねは出た。そやから、いくさが終われば、母港であるそこへ戻ると思うたんやろう。この子は追い出されてもうて、きょうへは入られへんように、結界を張られてましたんで、アキちゃんに再会したければ、嵐山へ戻る前にくれ港で捕まえるしかない。それでくれに居ったんどす。ウチの予知を、信じてへんかった。必ず生きて戻るはずやと、この子は思っていた……というか、そう、祈ってたんやろうなあ?」
 蔦子さんが問いかけても、骸骨は黙っていた。ぽかんとしてんのか、それとも喉が灼けてもうて、もう声が出えへんのか、よう分からん。
「その日は、ふとした気まぐれで、広島市のほうへ行った。噂を聞きとうなったようや。そういう性癖のある子なんどす。ウチかて忘れもしまへん。昭和二十年の八月六日や。ぼんはその日がなんの日か、知っておいやすか。学校で習いましたやろう。広島に、原爆が落ちた日どす。人でも神でも、何もかもが焼け落ちてしまうような、熱い熱い日やったんえ。そうやろう、おぼろ、あんたもさぞかし熱かったやろうなあ」
 再び蔦子さんが問うと、骨はぼんやりと、口を開いたようやった。そしてその、がらんどうに焼けた喉から、枯れたような声が答えた。
「ウラヌス」
 ぽかんと抜けたようなような、芯のない口調やったわ。そらまあ、ほんまにはない。はらわた抜けてもうてる。だって骨だけなんやもん。
 それでも蔦子さんは腑抜けた骨の言うことを、真面目に訊いてやっていた。
「そうや。そういう名前の神さんやったようどすなあ。ウラヌスやら、プルトーやら。もうこの位相から、遠の昔にお発ちになった強い強い神さんや。そんなもんまで喚び出してもうて、一体何をするつもりなんやろなあ、人は。神さんは本来、人を幸せにしてくれはるもんやのに、それを戦の道具にやなんて、なんという、怖ろしいこと……」
 語りかけてる蔦子さんの顔はずいぶん、静かなような暗い無表情やったけど、囁くような小声で話す声は、まるで子供を寝かしつけるため、寝物語をするおかんのようやった。
「なんということや」
 ぽつりと言うて、焼け爛れて薄煙をあげる真っ赤な骨は、がらんと崩れるように椅子から滑り落ちていき、蔦子さんの白い裳裾に縋り付いていた。そんな髑髏どくろを抱いてやる蔦子さんは、ほんまに偉い女王様みたいに見えた。
「つたこさん……俺は死んだ。死んでしまう。あいつが残していった、この血が燃え尽きたら。死ねばええのか。これは、戦を煽った悪いすずめに下された、ばちやろか。俺のせいで、暁彦様は死んだんか。それとも生きて、戻ってきてくれるんか。俺はどっちへいったらええんやろ。冥界か。人界か。視えるんやったら、教えてくれ。あいつの居るほうへいきたいんや」
「よしよし、おぼろ。忘れたらあかんえ。今はもう、平成の御代どす。戦は遠に終わってもうて、あんたは結局、死にはせえへんかったんえ。あんたの上に落ちたんは、ばちやのうて、ただの爆弾や。神か魔かと思うたやろけど、あれは人が落としたモンなんどす。ウチが逸らしたせいで、あんたの頭の真上に落ちたんや。そうやさかい、せめても罪滅ぼしに、ウチの血をやろう。あんたがまた歌歌えるようになるまでな。そういう約束やったやおへんか?」
 白い大きな袖で抱かれて、骨はうっとりしたようやった。
「ああ……そうやった」
 じゅう、と熱い何かが水に浸されるような音がして、蔦子さんの抱いている骸骨からは、もわもわと、白くおぼろに煙るような湯気が立ちこめてきた。それはだんだん、元の怜悧な顔立ちの、すらりとした長身の男の姿に戻っていった。朧気おぼろげに入り交じる、骨と白い綺麗な肌との二重写しの後に、ちゃんと元のとおりに服も着た、女予言者に縋り付く男になった。
「蔦子さん、俺の声は元通りやろうか」
「とっくの昔に元通りどす。なんも恥ずかしがることおへんえ。たとえ灼けた骨のまんまでも、なんも恥やない」
 抱いた男の細い絹糸みたいな髪を撫でてやりながら、蔦子さんは言い聞かせてた。厳しいけども、優しいような声やった。
「この子はなあ、逃げようと思えば逃げられたんや。位相を越えてゆけるんやから。せやけど逃げへんと、街の人らを別の位相へずらして逃がそうとしたようや。それで自分は燃えおちてしもたんどす。おぼろ、あんたはなんでそんなことをしたんや。まだ思い出さへんか」
「わからへん……なんでやろう」
 まだどこか、腑抜けたままのような言い方で、おぼろはぼんやり、悩む口調やった。
 わからへんのや。それは、ずいぶん、ぶっ壊れてもうたんやなあ。アホでも分かるような事やのに。なんでわからへんのやろう。
「神やからやろ?」
 可哀想なってきて、俺は思わず教えてやった。
 アキちゃんのおとんが、別れ際にそう言うてたからとちゃうんか。
 お前は神さんなんやで。鬼やない。俺を助けてくれたやろ。人を愛してやってくれ。
 そして、それを忘れんといてくれと、ひたすら拝み倒すような声をして、おとんは何度も繰り返し頼んでいった。
 そりゃあ、別れ話というよりは、たぶん一種の遺言や。おぼろはそれを守ってやろうとしたんやろ。人を愛する神になろうとしてた。俺がアキちゃんのために、悪魔やない、俺は神やと思いたかったように、こいつも神になろうとしたんや。
「そうやろか……。神? 俺はときどき、ほんまに邪悪やで?」
「それはあんたのせいやおへん。神の性質を決めるのは、それを祀る人間のほうや。あんたが穢れた歌を歌う時は、それを望む人の心が穢れてるんどす。あんたは時代の波に翻弄される神さんや。それでもきっと、偉大な神になれます。あんたの胸に、愛があればな」
「愛か……蔦子さん、それは俺には、ようわからんのや」
「心配おへん。愛とはなんぞやと、あんたのげきに訊けばよろし」
 蔦子さんはちょっと、挑むような目付きで、いきなりアキちゃんに話を振った。でも、どう見てもアキちゃん、一時停止ポーズかかってたで。
 あまりにも度肝を抜かれてたんやろ。まさか骨と寝てたなんてな。まさにオカルト・ホラーの世界やもんな。普通やったら耐えられへんで。
 それでもアキちゃんは、もはや普通やなかった。なんか物凄いモンを見てもうたという顔はしてたけど、それは決して、嫌悪の顔ではなかった。たぶんアキちゃんは、あまりにも果てしなすぎる、おとん有利の状況を目の当たりにして、もう張り合う気さえのうなってもうたんやろう。
 考えてんのか、単にぼけっとしてもうたんか、しばらくの一時停止ポーズ続行ののち、突然、はっとしたように、アキちゃんはまた我に返った。
「訊かんでも、そいつは元々知ってるやないか。胸にあったやろ……その……愛が」
「あれは、ただの血どすえ。あんたのお父さんの血や」
 ほんまにその答えでええんかと、かまをかけてるような口調で、蔦子さんは教えてきた。巫覡ふげきは飼うてるしきを血で養うけども、それはゴハンや。腹減るし、食わせへんかったら消えてまう奴もおるから、飢え死にせんように血をくれてやる。それはただ式神が、てめえの道具で戦力で、頼みの綱の奴隷やからか。家畜に餌をやるように、アキちゃんは俺に血をくれたんか。
 そうやない。俺も昔はただただ腹が減り、それがつらくて行きずりの、名前も知らんような男の血も吸うた。いっぱい吸うてみたこともある。それでも全然腹が満ちへんかった。
 たぶん血を吸う妖怪どもは、赤血球とか血小板とか、そんなただの体液が欲しくて吸うてるわけやない。その中に宿る生命力とか、霊力とかを食らおうとしてる。天地あめつちが人を愛し、生かしてやろうと注ぎ込んでる何か。アキちゃんが、俺を生かしてやろうとして分け与えてくれる何かを。
 せやからな、食わせろ俺によこせって襲いかかって、ありったけの血を啜ったところで、それは愛してもらって分け与えられた、ほんの一滴ほども腹が満ちへん。和合わごうでないとな、意味がないらしい。
 おかんが赤ん坊に乳やるみたいなもんやないか。あれも元は血でできてるらしい。おかんも我が子に自分の血を吸わせてるわけや。まだ自力では天地あめつちと、交歓でけへんかった頃のアキちゃんも、秋津のおかんから山ほど血を吸うた。はらん中で四十年。そうして、遺伝的な素養にプラス、霊的な発育も良すぎて、とんでもないげきになって生まれてきたんや。
 そうしてとうとう、蓋が開いた。アキちゃんが自分で自分に蓋してた、途方もない力の吹き出し口が、ぽかんと開いてもうたんやから、もはやアキちゃんはただの人間やない。汲めども尽きぬ命の泉や。
 たぶんその無限の霊力で、何人だろうと養える。アキちゃんが愛しく思って、生きてくれと願う神がいれば、そいつに惜しまず血をやって、崇め奉ってやれるやろう。そしてどんな鬼や蛇でも、飢えてる時には分からんもんでも、満たされれば悟る。人の愛とは、なんて美味いもんなんやろか。もしや俺にも、人を愛せんのやないかと。
 アキちゃんのおとんは、タラシやったんやけどな。それには単に若い男の、おごりや欲もあったんやろけど、根本的には愛多き男やっただけや。
 暁彦様は、鬼を斬るのが商売やった。それが血筋の勤めや。せやけど、斬りたくはない鬼もおったんやろう。できれば殺しなんぞやりとうなかった。鬼とは申せ神なれば、泣いて斬るべし。おとんの手記にはそう書いてあったんやんか。嫌やったんや。
 そうして色々苦悩してみて、ひとつの奇跡を発見した。たとえ鬼でも、百パーセント悪いわけやない。皆さん事情はいろいろやから。中には悲しいような鬼も居る。怖ろしい美しい奴も居る。そういうのを愛してやって、食いたければ俺を食えと受け入れてやれば、あら不思議。悪魔サタンやったもんが、いつのまにやら神さんに。荒ぶる神やったもんが和んでもうて、デレデレしてたりする。
 それならもう、殺さなあかんほどではないやろ。要観察。せやけどもう、鬼やない。聖か邪か、どっちなのやらわからんような、極めて怪しいおぼろの龍でも、愛しい相手の目と見つめ合うのに忙しく、特に悪させえへんのやったら、鬼やない。まして命がけで人を守ろうというのやったら、それは紛れもない。神や。
 つまりな。おとんの特技は鬼タラシ。悪魔やったもんを神さんに変える。鍛えに鍛えた剣豪の、切れ味鋭い太刀捌きかて、もっぱら道場で使うだけ。滅多に斬らへん。せやしまあ、言うなれば、活神剣かつじんけん? むしろ色事のほうの手練れとして、ご活躍なさっていたげきなんやで。
 たぶん、そのこともちゃんと、おとんの手記には書いてあったんやろけど。なんとジュニアは読んでない。アホやなあ。読んどけちゃんと。親の言うことは聞いてやれ。たとえどんなアホみたいでも、おとんが実戦を通じて得たマル秘テクニックなんやから。
 おとんも愛の泉みたいな男やったんや。アキちゃんとおんなじ。汲めども尽きぬ命の泉。その力をもって、おとんはいったい、どんだけの鬼を神に変えたんやろか。たぶんおぼろもそういう鬼の一人やった。
 そしてアキちゃんは、そのおとんの遺伝子を、しっかり受け継いでいる。俺もたぶん、そういう鬼の一人やった。俺が最初で最後ではない。それについてはもう、覚悟を決めなあかんやろう。しんどい話やけども、それがこいつの血筋の勤め。いやいや従う義務ではのうて、自分から、そうせなあかんと思えるような鬼と出会うてしまう、それがこいつの運命や。
 そんな、とんでもない奴を連れ合いとして、俺は永遠の愛を誓ってもうた。いかなるときもこれを支え、守り、理解し、倒れれば助け起こして、二人三脚、連理の枝で、比翼の鳥として生きていく、そんな誓約を行うかと問われ、そうするアイ・ドゥと答えた。せやし、もう、アキちゃんの運命は、俺の運命でもある。アキちゃんと俺の運命の糸は、すでに撚り合わされたんや。
 アキちゃん本人がまだ自覚していない、そんな運命の道筋を、俺はこの時たぶん、アキちゃんより先に、なんとなくやけど、悟ってもうてたと思う。俺はどうも、独占したらあかん男をツレにした。自由に思うさま突っ走らせてやらへんかったら、この子は生まれてきた意味がないやろう。
 お空の月を閉じこめて、俺のもんやとこっそり愛でても、俺はそれで満足かもしれへん。せやけど月はやっぱり、夜空にあって、誰でもそれを眺められるから、ええんやないか。
 残念やけど、俺はほんまにそう思う。畜生コノヤロウやけども、むちゃくちゃ悔しいんやけども、ほんまに自然に、そう思える。俺はたぶんほんまに、月を愛でてる蛇神で、お月さんがそれに、俺もお前が好きやと答える。その事が実は、ものすごい奇跡みたいなもんやったんや。
「ただの血やけど……おとんはたぶん、愛してるから、こいつに血をやったんやろ。蔦子さんもそうやろ」
 まだまだ餓鬼くさいような、渋々の顔のまま、アキちゃんは嫌そうに答えていた。そんな話、気恥ずかしいんやろう。奥手やからな、おとんと違うて。
「あんたもそうどすか」
 意地悪いっぽい澄まし顔で、蔦子さんは訊き、アキちゃんを見下ろした。
「いや……何もこの状況で、俺の話はせんでええやん」
 アキちゃん、内心ものすごオタオタしたのが丸わかりやった。そうや言うたら殺すけど、ここで咄嗟に、そうやと言われへんとこが、まったくあかん若輩者やねんなあ、ジュニアはな。
 蔦子さんはかすかに、にやりとした。
「ほな、まあ、それについては、どうでもよろし。この子は時々おかしいけども、それは名誉の負傷なんどす。大事にしてやっておくれやす」
 汗の浮く青白い顔のまま、まだ抱きついているおぼろの背を撫でてやって、蔦子さんは聖母像のような、静かな伏し目になっていた。
「ウチや竜太郎の予知が的中するとしたら、たったの一日二日やけども、それでもおぼろは、あんたを選んだわけやから。この子のあるじとして、最後まで勤めを果たしておくれやす」
「的中しないなんてことが、あるんですか」
 アキちゃんはその事を、さらりと訊いていた。ただの興味みたいやった。なんとかして生き延びようというような焦りは、なんでか知らん、あんまり無かった。どうも俺が思うてるより、こいつは肝が太いらしい。
「そんなことはない。竜太郎もやけど、蔦子さんも、予知したものはほぼ百パーセント的中させている」
 今まで押し黙っていた眼鏡のしきが、長い沈黙に強ばったような声で、反論してきた。女主人を守りたいらしい。それはいかにもしきらしい、下僕の言い分やったわ。
「いいや、啓太。そんなことはおへん。九十九パーセントくらいやろう」
 苦笑いして、蔦子さんはたしなめた。
「そうやで。姐さん……暁彦様の死の予知も、結局外れたやないか?」
 いまだに熱あるみたいな顔色で、おぼろがぼんやりと口を開いた。それでも少しは、正気に返ってきたらしい。虚ろに見える暗い目にも、なんとなく普段の鋭さが蘇ってきていた。
「外れましたやろか?」
「外れたで。蔦子さんは、暁彦様が戦死すると言うてたやないか。あれは戦死やないやろ。入水自殺や」
 ぼんやりした口調の中にも、刺々しいような何かがあった。蔦子さんはそれに、苦笑したようやった。うつむく赤い唇が、髪に隠れる合間から、にやりとしていた。
「自殺やおへんえ。人身御供や。秋津のげきには代々、そういう因縁があるんどす。アキちゃんは異国とつくに海神わだつみに助力を乞うため、自分の命を差し出したんや」
「でもそれは戦死やない。もう戦争は終わってた。暁彦様が死んだとき、もう戦争は終わってたんやで。それは戦死やない。厳密に言えば違う」
 細かいとこやのに、おぼろはものすご執念のある口調で、重箱の隅をほじくっていた。蔦子さんは苦笑の顔のまま頷いてやり、おぼろをなだめた。
「そうどすなあ。確かにそうや。あんたの言うとおりどす。ウチが未来を視る力は、文字通り視るだけですのや。目にしたものの意味合いは、自分で考えなあかん。アキちゃんは出征したのやし、そこで水死しておいやしたやろ。せやしウチは、それが軍艦が撃沈されたせいやと早とちりしたんどす。実際、同じ艦隊には、沈んだふねもあったんどす」
 噛んで含めるように言うてる蔦子さんの話を、ぼんやり聞いて、おぼろはそれに、ぱっと見、話繋がってないような返事をした。
「竜太郎が言うてたけど、タロット占いって、全くおんなじカードが出ても、それを視る占い師によって、違う結果を読み取るらしいやん」
 へえ、そうなんや。俺はそんなん知らんかった。おぼろ様の豆知識コーナーやったな。ていうか結構余裕やん。そんな雑談するなんて。ほんならもう大丈夫なんかな。俺はそのことに、ちょっぴりホッとしていた。まさか兄さんこのまま、ずっとイカレっぱなしなんかと、少々心配になってきてたもんで。
 さすがにいつまでも抱きついてんのは変やと、湊川怜司は気がついたらしい。ふらりと離れて、床に座り込んだまま、すぐ後ろに座ってた、氷雪系の脚に背を持たれかけさせた。眼鏡はそれを避けへんかった。そういやこれもデキてんのやった。ややこしすぎるな、海道家。
「リーディングっていうんやろ? 出た札の意味を読み取ること。蔦子さんは、暁彦様の死の予知で、リーディングをミスったんやろ」
「そうとも言えますなあ」
「その時、ふねに、代わりに生け贄になれるようなしきが残ってたら、あいつは死なんですんだんやないか。蔦子さんがミスってなけりゃ、水煙は俺を従軍させたやろ。俺は戦闘能力はないんやから、戦って死んだ連中とは違うて、きっと生き残っていた。そして最後の最後で、あいつは俺を生け贄にして、くれの港に生還することもできたやろう」
「あんた、ウチのことも恨んでますのんか」
 悲しそうに苦笑している蔦子さんは、妖艶に見えた。気の毒なカッサンドラや。もしもおぼろに恨まれてるんやったら。
 しかしおぼろは別に、誰も恨んでへんようや。こいつは、けろっとしてて後腐れがないところが、取り柄らしい。
「いや、そうやのうて。後悔してるんや。うだうだ言わずに大人しく、俺も連れて行ってもろとけばよかったなと思て。そしたら今ごろ、全然違う事になっていたかもしれへん」
「あんたが死んでて、アキちゃんが生きていたという意味どすか。あの子があんたを生け贄にやったと思うんか」
「あいつが嫌でも、水煙様がそうしろて言うやろ。あいつは水煙の言うなりやしな、そうなれば拒まへん」
「そんなことおへん。それはあんたのひがみどす。水煙は生け贄には自分をやるよう命じたそうや。それでもご神刀を捨ててまで、生きて帰るのは恥やと言うて、アキちゃんは自分が死ぬことにしたんや」
「そんな話、誰から聞いた作り話や」
「アキちゃんからどす」
 皮肉に否定してきたおぼろの言葉を、蔦子さんは強く、りんとした姿勢のいい立ち姿のまま、きっぱり蹴り返していた。
 そのお返事に、おぼろははっきり顔をしかめていた。
「会うたんか、蔦子さん」
「会いましたえ。会うたらあかん訳がありますやろか。うちにとってはアキちゃんは、幼馴染みで、従弟いとこなんやから」
「平気なん。自分を振った男に会うて」
「平気どす。昔の話や。それにウチは今は幸せやからな。愛しい夫もおれば、子も成して、住まいは聖地・甲子園どすえ。何の不足があるやろか」
 平気で済まして、蔦子さんはいかにも充実してるっぽかった。それにおぼろは困ったような、寂しそうな顔をして、ちっと小さく舌打ちをした。
「ひどいなあ。姐さんは仲間やと思うてたのに」
「悔しかったらあんたも幸せにおなり」
 そうは言われても。おぼろはじっとりうな垂れていた。その汗ばんだふうな白いうなじを、ソファに腰掛けている虎と氷雪系が、じっと黙って見下ろしていた。
 なんかな。なんか。ややこしそうな視線の絡みやったわ。やっぱり、ややこしすぎるよな、海道家。よかった、こんな家の式神にされんで済んで。と思って目を当家に戻してみたところ、アキちゃんまでややこしそうやった。てめえはほんまに。そんなややこしい相関図を描きに参加してる場合やないよ。変な矢印が、チクチクいっぱい絡み合っている。
「幸せにって、簡単に言うけど、どうやってなるの。姐さんが、俺には凶と出る占いばっかりしやがるんやんか。暁彦様も死んでまうしやな。その子の健やかな成長でも祈りつつ逝こうみたいなのも、あかんあかん予知と違うからでアウトなんやろ。ほんで信太も死んでまうんやろ。姐さん絶対俺に何か恨みがあるんやで」
 俺もいますがと言いたくなったんやろう。氷雪系はなにげなくはある仕草で手をのばし、見下ろしていたおぼろの首筋を撫でた。やんわり肩を揉むような、その指を、おぼろは全然拒んでへんかった。
 信太はそれから目を背けてた。興味がないように、ふと目をそらし、コーヒーテーブルの上にあったクリスタルの灰皿を、じっと見つめた。でもそれを見る理由は、その時なんにもなかった。だから単に、他の何かに目を逸らしたいだけのことやったやろう。
 虎は心中複雑らしい。いまだにぐっすりお休みの、赤毛の鳥を肩にとまらせ、ものすごお熱いようやったけど、しかしこいつも未練があるらしい。
 はっきりさせたらあかん何かが、この家の相関図にはあったんかもしれへん。亨ちゃん、空気読めへんで、余計なことしちゃったらしいわ。
 せやけどそんな、訳の分からんおぼろな世界のまま、もやもや生きてて幸せか。不幸せではないやろうけど、それではあんまり煮えきらん。俺は自分が、めちゃめちゃ熱い、燃えるような恋しちゃってるだけにな、そうでない奴ら気の毒そうに見えたんや。それで善意のつもり。
 なのに、今ここで、お幸せそうなつらしとんのは、ぐうぐう寝てる鳥さんだけやなあ。暢気なもんやで、寛太。ものすごい話が頭上を飛び交っとんのに、愛しい兄貴の胸で眠れれば、それでぐっすり大安眠か。ほんまになんか、子供みたいなやつや。
 でも今、寛太が幸せらしいことは、寝ている顔を見れば分かった。うっすら微笑んでるような顔をしていて、もう、何の悩みもないようやった。こいつは知らんらしい。愛しい兄貴が未だに、おぼろ様に未練たらたらなのは。
 信太はそれを、鳥には隠してんのやろなあ。それは愛か。それとも老獪な虎の、ただの狡さか。
「死んでまうのか、本間先生も結局……海神わだつみの餌か」
 長い睫毛に煙るような目で、おぼろはそれを惜しむように、アキちゃんをじっと見てきた。
「因縁て、あるんやな」
 アキちゃんはその目と向き合うて、ぽつりと皮肉に答えてた。それからはもう、逃れられんと思うてるようやった。
 気付くと俺は、眉間にくっきり皺出てた。
 なんやろうこの、お通夜みたいなムードは。超暗い。まるでもうアキちゃん死ぬのは確定やみたいな話になってる。そんなわけない。うちのツレが死ぬわけないやんか。不死人アンデッドやねんから。怜司兄さん、その件すっかり忘れてもうたんか。
「アキちゃん、あのな……」
 じゃあ、しゃあないし俺が言うかと思って、俺もとうとう口を開いた。なんか喉乾いてもうて、声枯れてたで。来客に水も出んのか、分家では。
「死なへんで、お前は。忘れてたんやけど。不死になってるんやで」
「はぁ?」
 ほんまに、ものすご意外なとこからの豆鉄砲を食らったみたいに、アキちゃんはびっくりしていた。俺はなんとなく気まずくなって、目を合わせずに床を見ていた。
「その……なんや。俺と入り交じりましたので、不老不死になってるはずやねん。俺な、死んでも、生き返ったやろ。海道家で、お前にぶっ殺されました時」
 皆さん、あんぐりしておられました。
 やっぱなあ。不死というのはキテレツなんかなあ。普通は死んだらそれっきりやもんなあ。実は死んでも死んでも蘇生しますねんというのも、なんや無節操っぽいよなあ。
 でも便利やで。十一階から落ちても死なんのやから。いや、死ぬけど、自動的に生き返るから。死ぬほど痛いのを我慢できれば、まあ、平気やな。めっちゃ痛いで、言うとくけど。朝起きてベッドに足の小指ぶつけるのの、数百万倍は痛い。もっとかな。何億万倍とかかな。もっとかな。まあええか、それは。
「あん時……お前、ほんまに死んでたんか?」
 あんぐり続行中の氷雪系にそう訊かれた。死んでへんのやと思われてたみたい。常識的やな。でも俺、死んでたよ。心臓止まってたもん。ただそれが平気やっただけで。ごめんやで、そんな非常識な肉体で。でも、そういう外道なんやからしゃあない。
「不老不死」
 ものすご呆れた。呆れ果てた。もしくは息すんの忘れるくらい驚いている。そんな顔で、蔦子さんが呟いて、アキちゃんを睨んでいた。
「不老不死?」
 また訊かれたけど、アキちゃんは蔦子おばちゃまに頷いたもんかどうか、困ってるようやった。
 知らんよな。死んだことないもんな。確信とか、実感はないよ。自分がそういう無茶な体になってることなんて。ただ血吸うようになって、エロなって怪力なっただけと思うてたんやろ。俺も思ってた……。
 だって俺かて、なるべく死なんようにはしてるもん。だって痛いし苦しいんやもん。それに、そんなん、見るからに化けモンみたいやろ。ホラーすぎやで。藤堂さんだってドン引きしていた。十一階から落ちた俺が、どう見ても死んでないとあかん、ゴハン時にはお目にかけられへん感じやのに、それでも喋ってんのを見て。恐怖してたで。
 あいつが今、俺のことを平気で抱けるのは、あいつも外道になってるからや。無節操な不死人アンデッドに。あいつもモンスターやから。
 そうなるのを怖れて、藤堂さんは俺を拒んでたんやないか。普通の人間にとって、俺みたいなのは忌まわしいんや。蔦子さんにとっても、そうかもしれへん。アキちゃん並みのキャパはないんやないか。いくらなんでも、人間なんやしな。
「とうとう、血筋にそんな子が。ようやりましたなあ、ぼん! ウチはあんたを見直した」
 人間である前に秋津の女やったわ、蔦子さん。見直しちゃったみたい。
 アキちゃん、ぽかんとしていた。ますますリアクションに詰まっていた。
「竜太郎がなあ、あんたを好きなようなんどす。よしなさいと言うてましたんやけど、うちも気が変わりそうや。あんたと和合したら、あの子も不老不死になれますやろか」
「ちょっと待って、蔦子さん……」
 アキちゃん、目眩してきたみたい。おでこ押さえて汗出てた。
 俺もちょっぴり汗出てました。だって、蔦子さん。なんという、無茶なおかんや。中一の息子が、本家のぼんとエッチしたら不老不死になれそうやし、いっとけみたいな話か。なんて理解のある家庭やろか。どないなっとんねん、お宅の教育。
「なんでそんな話になんの?」
 訊ねるアキちゃんは哀れっぽかったで。普通やないよそれはと、指摘したいんやけど、そんなんもう、とっくに越してもうてる話すぎ。普通かどうかなんて、誰も気にしてへん。少なくとも蔦子さんは気にしてへんわ。我が子が不老不死になることだけに着目している。それ以外は、まあええかみたいな。
「秋津は代々、不老不死の仙人を生み出すことを悲願としてきた家系どす。水煙から聞いてませんのか。あんたがその完成品や。ほんまに不老不死なんやったら」
「あ……あのな、蔦子おばちゃま。誰でもなれるわけやないんやで。運や素養が足りんかったら、化けモンなってまうリスクも、かなりの率であるんやで。それに竜太郎にはまだちょっと早いんやない? だって十三才とかやろ、あいつ。それで止まってまうんやで? 大人になられへんのやで」
 俺は常識的な線から攻めてみた。永遠の十三才というのは、さすがにちょっと厳しいやろう。秋津のおかんみたいな永遠の十八才やったらイケてるけど、十三才はちょっと若すぎやもんな。そうやない?
「かましまへんやろ、別に」
 かましまへんのやって。俺はますます汗出てきちゃいましたよ。
「あの子は龍の血を引いてますのや。霊力かて人並み以上にあります。それで素養に不足はないやろ」
「もしかすると霊力は、そんなに関係ないねんで、おばちゃま。言いづらいけど、たぶん俺の勘ではな、その和合には、愛が必要なんやで?」
 そうやと思うねん。アキちゃんが俺よか無節操に進化したりしてへんかったらの話やけども。俺は過去に何度かは、入れあげた相手を自分の眷属にしようと思ったことがある。気に入った相手だけやった。それでも成功せえへんかった。上手くいったと思えるのは、アキちゃんと、後はギリギリ藤堂さんくらいのもんでな。その二人の共通点て、たぶん、愛やと思うんやなあ。でも超言いにくい。今は言いにくい。せめてアキちゃんのおらんとこで話したい気持ちでいっぱいです。
 愛してる、俺と永遠にずっと、一緒にいてくれと思えるような相手にでないと、俺はその不老不死を授けられへんらしい。失敗すると、相手を化けモンに変えてしまう。見るも無惨なモンスターにな。
 相手の霊力、関係ないんやないか。だって、確かにアキちゃんはすごい神通力を持ったげきやけど、藤堂さんは一般人パンピーなんやで? それでも何か、言いしれぬカリスマは持ったオッサンやと思うけど、アキちゃんや竜太郎が持っているような霊力はない。
「リスキーすぎるで、蔦子さん。竜太郎が化けモンなってもええんか?」
ぼんが竜太郎を愛してくれればええだけの話ですやろ」
 ほんまや。そうやなあ。それであっさり解決やんか。盲点やったなあ、気付かへんかった。亨ちゃん、うっかりしてたわ。
 って、オイ。誰の前でその話しとんねん。鬼退治は大目に見よかみたいな事は思うたけどな、竜太郎は人間やんか。あいつ今のままでも充分イケてるから。これ以上、凄くならんでええから。アキちゃんが愛しちゃう必要ぜんぜんないやろ!
 ええかげんにせえよと思って、俺が焦って眺めると、アキちゃんはさすがに、ドン引きしたような青い顔やった。
「蔦子さん。そんな簡単に言わんといてくれ。俺は竜太郎のことは可愛いけど、そういう意味でやないよ。年の離れた弟みたいなもんやんか。それに俺は、あと一日二日で死ぬんやろ。それでどないせえ言うんや……ありえへんやろ」
おぼろは寝取っていったくせに、よう言いますわ」
 けろっと言われて、アキちゃんグサーッと来てた。たぶん電柱ぐらいのが刺さってた。お前は手が早いと罵られている、それが死ぬほどショックみたいやった。
「でも……それは……竜太郎はまだ子供やし。それに親戚やんか」
「ウチとあんたのお父さんは親戚やけど、許嫁どしたえ。それにウチには竜太郎は、あんたに本気のように見える」
 苦い顔して、蔦子さんは言うた。アキちゃんはさらにもう一本、電柱の横に道路標識ぐらいは刺さったみたいやった。親御さんに言われると、どうしてええかわからんよな。
「そういうのは、困りますのんや、親としては。せやけど人が、ほんまの恋をするのに、年が関係あるやろか。登与ちゃんなんか、アキちゃんのことを、物心つく頃から好きやったて言うてましたえ。あの子はそれをずっと、胸に秘めてたんや」
「でも、俺は……蔦子さん。好きな相手がもう居るねん」
 ふらふらの小声で、アキちゃんはやっと言うてた。どないして身をかわせば角の立たへん話か、ものすご悩んでるらしい。
 でも、ぶっちゃけアキちゃんはな、竜太郎がストライクゾーンから漏れてるだけやねん。中一とやる趣味はないだけ。これが五年十年たったら、正直わからんで。
 でも、困ったという、切ない顔をして、やむなくそうゲロってるアキちゃんの顔は、本気みたいやった。自分にはもうツレがおるから、他のは好きになられへん。そんな気はないと、言うてるらしい。
 どの面提げてって感じやねん。今でもすでに俺と犬と、おぼろ様を侍らして、水煙にもくらくら来てる。そんな男がやで、好きな相手がもう居るねんやないよ。関係あらへんのが現状やないか?
 でもまあ、それに全く気付かん鈍感さで、真面目に言うてるアキちゃんが、俺は可愛い。アホかと思うけど、アホな子ほど可愛いっていうアレか。
 蔦子さんが、そんな見え透いた嘘みたいなのに、納得したんかどうか。
 それでもとにかく、納得したという顔で、海道蔦子はうつむいた。そして、どさりとまた籐椅子に腰掛けた。なんとはなしに、気が抜けたという、うっすら渋い顔をして。
「わかりました。しかたのないことどす。あんたが竜太郎を好きになられへんというのやったら、どうしようもない。アキちゃんも、ウチには食指が動かんかったようやし、あんたもその血を継いでんのやろ。縁がないんや」
 小さく首振って言いつつ、蔦子さんは呟いた。あの子も可哀想にと。
 竜太郎のことやろう。蔦子さんには、あの子と呼んでる相手が多い。せやけどそれは、おかんの顔やった。失恋しそうな我が子のことを、哀れんだんやろう。
 なんやちょっと、肩身が狭い。竜太郎は確かに、アキちゃんにマジやろう。餓鬼ならではの激しい思いこみとピュアな情熱で、突っ走ってるだけかもしれへんけども、それでも恋は恋やしな。一生懸命なちびっ子が、がっくり来るんやと思うと、俺もちょっと可哀想やなあとは思う。だってあいつは命がけでアキちゃんを救おうとしてんのやからな。
「もう、よろし。それはもう、今この場でなく改めて」
 改められちゃうんや。アキちゃんはものすごく汗かいていた。
 気まずい脂汗。どうもそれだけやないらしい。暑いんや。
 それこそ熱でもあんのか。すぐ隣にあるアキちゃんの体が、異様に熱いような気がした。もともと体温高めらしい男なんやけどな。アキちゃんは、いつ抱きついても温かい。暑がりやしな、冬でもけっこう薄着やし、夏なんかガンガンにクーラーかけてる。
 だけど何や、この時は、火の玉でも呑んでもうたみたいに、めらめら燃えてた。いつもやったら、ほんのり淡い、白い光のようなもんが、アキちゃんの体から漏れている。それがめちゃめちゃ強くなってる。後光さしてるみたいに見える。全身から、ほとばしるように、霊力漏れてる。
 部屋を出る前、俺とおぼろ様とで、さんざん血吸うといてやったから、しばらく大人しかったみたいやけど、アキちゃん、またまってもうたんか。
 人間にはそれが目に見える訳ではないんか、蔦子さんはなんとも思ってないようやった。
 そやけど、暑い、どないしようって、頭を抱えたアキちゃんの手の平あたりから、だらだら漏れてくる水なんか光なんか、よう分からん見た目の流れ落ちる霊力は、それが湧き出る原泉で、アキちゃんは池の真ん中に置いてある飾りの人形かなんかみたいに、溢れ出てきた精気の水たまりの真ん中に、ぐったり堪えた顔で座り込んでいた。
 目をぱちぱちさせて、おぼろ様が向かいの床から、アキちゃんを見てた。キラキラ光る細かい粒子があるような、ひとすじの水の流れが、するする伸びて、座り込んでるおぼろのほうへと、すすんでいってる。他にも蜘蛛の巣か、網の目みたいに絡み合うてる細い流れを、その生きてるみたいな水たまりは、微かに脈打ちながらのばし始めた。
「先生。大丈夫か。めちゃめちゃ漏れてるで」
 ぽかんとして、おぼろはアキちゃんを見上げた。
 はじめ、汗やと思えたもんは、汗やなかった。アキちゃんの肌から清水のように、しみ出てきてる霊力が、水の流れのように見えてただけで。
 アキちゃんの服も髪も、見た目には乾いてるのに、俺の目に映るアキちゃんは、滝かシャワーの中にでも居るように、全身濡れそぼって見えた。アキちゃん自身から何か湧いてる。
 それは悪いもんには見えへんし、むしろものすごい甘露の匂う、いただきまぁすみたいな桃缶のシロップ的なもんに見えるんやけど、でも、そんなもんダラダラ湧いてる人間なんか見たことない。
 そしてアキちゃんは、つらそうな顔をしていた。
 俺はそれに、軽くオタオタしてきていた。触ってええのかどうか。でも心配で、俺は思わずアキちゃんの腕に触れていた。
 ひやりと冷たいような、煮えて熱いような、不思議な感触がした。人間ではない、神や鬼に触れるとき、そういう感触がする。水煙に触ると、そんな感じがするんや。それとすごく良く似た感触やった。俺はそれにも、ぎくりとした。
 アキちゃんは元々、人間やなかったんとちゃうか。俺が人間やと思うてただけで、アキちゃんもそう思いこんでいただけで、実は違ったんやないか。自分の与えられている力のほとんどを、自己暗示で封印していた。俺は普通の人間やと、ずっとそう言い聞かせてきた子やし、そんな呪縛がめちゃめちゃ効いて、人間みたいなふりをしていた。
 せやけど実は、なまじっかな物の怪よりも、ずっと人間離れした、まるで神さんみたいな霊力を、持って生まれてきた子なんやないか。
「アキちゃん……なんか言うて。苦しいんか?」
 思わず悲しい顔になってもうて、俺はアキちゃんの体を揺すった。アキちゃんは雨中の男のように、びっしょり濡れた顔をして、俺を見つめた。
「苦しくはないねんけど……なんや急に頭がぼうっとしてきた。やばい気がする。どこまでが自分なんかわからへん」
 震える目つきで、アキちゃんは俺を見て、身震いを堪えてるような様子を見せた。
「危ないで、蔦子さん。本間先生、とろけそうになっている」
 信太が真面目な顔をして、深刻そうにそう言うた。蕩けそうって、アイスクリームやないんやから。アキちゃんが蕩けそうになるのって、俺とヤってる時くらいでさ、普通はそんなのならへんのとちがう?
 せやけど虎は、そんな、うっふんみたいな意味で言うてる訳やなかった。深刻そのものの顔やった。
「昔、大陸で見たことがある。一気にものすごい霊力を浴びると、人間て蕩けてまうんや」
「蕩けるとは?」
「溶けるねん。なんというか。どろどろに」
 怖いこと言うな信太。そんなもん見たことあんのか! 俺やったら怖くて一人でトイレ行かれへんようになる! 俺はトイレは行かへんけどな、どうせ。
「昔、俺が仕えた中国のみかどが、不老不死の霊薬を作るとかいうて、霊的な方陣を組ませて、人を溶かしたことがある。童貞の餓鬼ばっかり何千人も。練丹術とかいうんやけども。それを煮詰めに煮詰めて、抽出した丹薬を飲めば、不老不死になれるんやとか。でもまあ実際にはなられへんで、飲んでから割とすぐ、えっらいことなって死んでもうたんやけど。他にも水銀やらぎょくやらな、強い霊力があるとか言うて、化けモンの肉食うてみたり。やったところで、一般人パンピーには普通は消化でけへんのやから、体のほうが壊れてまうんやけどな。腹壊す程度やったらええけど、水銀とかはなあ。金属がイケてんのは確かにそうやけど、水煙なんかも鉄やろう。でも、普通の人間があんなん食うたら命ないですよ。どろっどろやで。どろっどろになる」
 詳しく言うな。チビるから。
 虎はずぶ濡れなってるアキちゃんに、真面目に言うてやってるようやったけど、アキちゃんは、あまりにしんどいらしくて、聞いてんのかどうか謎やった。
 まさか溶けかかってんのか。俺はアキちゃんの腕を握る指に、おそるおそる力を込めてみたけど、別にいつもの通りの感触やった。ただ濡れてるだけ。バターみたいになってたら、どないしようかと心臓バクバクしたわ。
「とにかくですよ、本間先生。人間の肉体は、度を超えた霊力には耐えられへんようにできてる。霊威が上がったら、それに合わせて体も鍛えて、仙人になるか、肉体を捨てた霊体になって、彼岸で神か仏にでもなるしかないよ。現世で普通の人間の肉体のまま、神様レベルの力を持つなんてのは、ありえへんやろ。とろけるわ。意味なく霊力垂れ流さんと、蛇口閉めといたほうが良くないですか?」
 修行を積んだ巫覡ふげきが、仙人になって、神仙の世界へ昇るとか、仏教の坊さんがあまりに深く悟りをひらいて、仏さんになってまうとか、キリスト教の徳の高い聖人が、天に昇るとか、ギリシア神話の英雄が、あまりにイケてて星座になってしまうとか、そういう話、あるやんか。人間の中にもズバ抜けていて、人の子として生まれながら、途中から神か人かわからんようになってくる連中がいてる。生き神様や。
 キリスト教の教祖のイエス様かて、元は普通の男の子やで。大工さんちのひとり息子やったんや。三十路に入るくらいまでは、神様に愛されがちの、ちょっぴり不思議ちゃんなりに、普通に大工さんちの子として生きてはったんやで。
 それが三十路越えたころ、どうにもこうにも霊威が増してもうて、しゃあないし、やろか、ということで、教祖デビュー。それで何やかんやあって、どんどん霊威が高まってもうて、信者もうじゃうじゃできてもうて、救世主メシアや神の子や、生き神様やと信仰されすぎちゃって、当時の政治家や、えらい坊さんとかと一悶着も二悶着もありいのやけど、挙げ句に死刑にされちゃったりしたんやけど、もはや只人ただびとやない。死んだはずやのに、三日くらいで復活してもうた。墓から出てきちゃったんやで。
 死なんで良かった。せやけどもう、そんな非一般的な肉体では、人界に留まってられへん。もう昇天するし、さようなら言うて、弟子たちとか、おかんのマリアとかに、一通り挨拶してから、天界へと去った。ご昇天や。それからどこ行ったか俺は知らんけど、たぶん天界におるんとちゃうの?
 時たま、奇跡やいうて、人界にチラッとご登場したりすることもあるらしいけど、それも誰にでも見える訳やないらしい。信仰深い、そして霊感強い奴にだけ見える。もっと本格的にご登場すれば、一般人パンピーにかて、神人かむびと天人てんじんが見えるけど、あんまり霊威が高すぎる神が、人界をうろうろするのには害もある。ひ弱な人間様が、神人かむびとの強すぎる霊威に当てられて、体壊したり心壊したりしたら可哀想やろ。
 せやから、そんなん、滅多にしはらへんねん。ほどほどに霊威を絞った天使を遣わすとか、夢で落ち合うてお告げを受けた人間のメッセンジャーに、仕事を頼むのが一般的やな。それ、預言者よげんしゃとかいうらしい。イエス様も元々は預言者やったし、イスラム教の教祖になったモハメッド様もそうや。預言者と予言者は別モンやで。ほんまに知りたかったら遥ちゃんにでも聞いて、あいつ神学者なんやから。
 とにかくな、よう考えてみたら、アキちゃんかて今は預言者や。だってヤハウェからの依頼で、なまずと龍を退治する仕事を請けた。いろんなメッセンジャーを経由してやけどな。だって、ヤハウェ級の神さんが直々にお告げに現れるというのは、人界に支障がありすぎて、絶対ありえへんのやから。
 ウラヌスやプルトーが降臨するようなもんやで。もっとかもしれへん。だってギリシア神話の神々を、知識やのうて神として信仰してる人らの数と、ヤハウェを祀っている人数とを考えてもみろ。未だに人界に活きている神やからな。
 人づてとはいえ、そんなヤハウェの依頼を受けた。これがアキちゃんの、げきとしての本格的な、最初の仕事やった。どえらい依頼人が来たもんや。お客様はほんまもんの神様やないか!
 もともとヤハウェは素養のあるやつを選んでんのや。大仕事を頼むのに、その能力のない奴にやらせても気の毒やしな。やればできる子を探し出して頼む。そういうふうになってるらしい。
 実際アキちゃんは、やればできる子や。できすぎてる。ものすご覚醒してもうてる。霊力ダダ漏れしてる。みなぎりすぎてる。蕩けかけてる。触れた肌が、濡れてるはずやのに、ものすご熱い。人間の体温と思われへん。灼けた鉄みたい。熱い。火が出えへんのが嘘みたい。
 俺はもう触ってられへんようになってきた。気持ちの上では、しっかりしてえなアキちゃんて、縋り付きたいけども、灼けた鉄に抱きつける奴、おるか。おらへんやろ。俺はそういうふうにはできてへん。水属性やねん、度を超えた熱には弱い。
「めっちゃ熱いで、アキちゃん! どないなってんのやこれは」
 俺が焦って叫んでいると、瑞希ちゃんもびっくりしていた。こっちは熱いの平気らしかった。腹立つ、俺を押しのけやがって、どうしたんや先輩と、めっちゃ馴れ馴れしくアキちゃんの肩を握りにいった。
「やばい、燃えてる。普通の人間やったら発火してんで。先輩、止めなあかんよ!」
「止め方が……わからへんねん」
 ぼんやり答えるアキちゃんは、案外まだまだ平気そうな、しっかりした声やった。この子はやっぱり普通の人間やない。俺のせいで外道になってるせいもあるかもしれへんけど、一種の超人やったんや。肉体のほうの強靱さも並みでない。秋津の人らは仙人になるのを目指して、なりふり構わずいろいろ頑張ってきた血筋やという話やったし、そんなご先祖様たちのなんやかんやが、末裔であるアキちゃんを、ただもんではない子にしてもうてんのやろ。
「わからへんの?」
 ぎょっとしたように信太が訊いてた。
「締めればええのどすえ、ぼん
 おろおろしたふうに、蔦子さんが教えてやっていた。でもそれ、具体性なくて意味わからへんで、蔦子おばちゃま。
「締めるって、なにを?」
 全身からすでに、とろみを帯びてきた霊水をたらたら流しつつ、アキちゃんはあんかけみたいになっていた。美味そう。でも、熱すぎて食えない。ベロ火傷する。
「何をって、天地あめつちと通じてる力の出口をどす。わかるやろ?」
 そんなん常識やろ、うちの血筋の子ぉやったら、当然できますやろ的な口調で、蔦子さんは焦って言うてた。
「わからへん……」
 ため息ついて、アキちゃんは熱い空気を吐いた。それは俺には、ものすご甘い匂いに感じられた。なんかなあ。桃っぽい。いい匂いがする。それだけで、フラフラはあはあ来そうな、脳天クラクラ来るような、美味そうな匂いやった。ただ熱すぎる。俺、猫舌やねん。
「わからへん……どうなんのや、これ」
 アキちゃんは、熱に浮かされたふうに、ソファで深く項垂れ、両腕で頭を抱えた。どろどろ甘い匂いを放つ霊水が、ぼたぼた塊になって床に落ちてきた。濃度上がってませんか。最初はサラサラした水みたいやったのに。
「抜かな、ヤバない? 今すぐ皆で吸血パーティーしよか。エロでもええけど。でも……そんな暇なさそうやで」
 あっけらかんと、緊張感のない声で、湊川がそう提案していた。パーティーのお誘いやった。
「無理や。俺は熱いもん食いたない」
 膝の間にラジオ抱いてる氷雪系が、いかにも嫌そうに言うた。お前も猫舌か。そんな贅沢言うとる場合か。しかし命がけで餡かけ食う奴がおらんのも無理はない。今のアキちゃん食えんのは、灼けた鉄でも美味い言うて、平気で食えるような奴だけや。
 そんな奴どこにおんねん!
 おるで。もちろん。虎の肩を枕に、ぐうすか寝てる奴がおるやん。寛太がそうや。こいつは不死鳥なんや。基本燃えてる。火の鳥やねんから。
 いっぱい眠って腹減ったんか、それとも、甘い糖蜜桃風味みたいなのが、ぷうんとお鼻に匂ったせいか、ううんて呻いて、寛太は目を醒ました。虎がつついて起こしたんかもしれへん。とにかく寛太は寝ぼけた顔して、とろんと目を開いた。
 赤い髪の毛はぐちゃぐちゃやった。寝癖もついてる。繊細な髪らしい。身ぎれいにできる奴でないと、すぐ鳥の巣みたいになる。まあ、そりゃあ、鳥さんやから。
 せやけど、元はひょっとすると同じようなもんかもしれへんのに、隣り合って座っている湊川怜司と、鳥の寛太は全然違った。片や借り物とはいえ、アキちゃんのクロゼットから選んだ綺麗なえりのシャツを着て、すらりと涼しげな砂色パンツに長いおみ足を包み、髪もサラ艶、肌も真っ白、煙る瞳がミステリアスな、しどけなく座る姿も何やエロくさいけど品がある。そんなおぼろ様やけど、寛太は髪の毛ぐっちゃぐちゃ。服もアロハやし。ジーンズはいてる。足は裸足。耳にはピアス。ほっぺたには、もたれてた虎の服のしわしわの跡がついてる。寝過ぎて上気したんか耳までピンク色。寝汗までかいてて、おでこに赤毛がはりついている。とても同じモンには見えへん。
「兄貴、腹減った。めっちゃええ匂いする……」
 くんくん鼻をひくつかせて、寛太はとろんと、虎にキスしようとした。
「ちょ、ちょっと、ちょい待ち、寛太。腹減ってんのか。そんなら本間先生を食え」
 チューしてくれという鳥さんの顔を手の平で押し返しつつ、虎は焦ったふうに言うた。それに、今まで甘く目をとろめかしていた鳥さんが、顔掴まれたまま、くわっと目を見開いていた。
「なんやねん兄貴、まだそんなこと言うてんのか。ひどいやないか。俺にはもう兄貴だけやで。それでええって言うてたくせに」
 キッと怒ったように言う寛太は、なんか今まで見たことある、ぽやんと幸せそうな鳥とは違って見えた。切ないらしかった。哀切にかき口説く口調やった。衆人環視の場も弁えず。変わってへんのはそれだけや。
「いや、ちゃうねん寛太。それどころやない。レスキューや。本間先生、蕩けそうなっとうのや。応急処置でも、誰かが抜いたらな、先生、溶けてまうから」
 あれを見ろと、虎は華奢な寛太の顎をつかんで、アキちゃんのほうを向かせた。そしたら赤い鳥さんは、すぐ隣の男とそっくりな、ぽかんと虚脱したような、煙る伏し目になって、少しの間、ぴくりともせずアキちゃんを眺めた。
「先生、溶けそうなってる」
 いつものとろんとした声で言い、寛太は納得した。
「そうやろ。ヤバいねん。お前、腹減っとうのやろ。食えるだけ食うてええから、先生助けてやれ」
「でも兄貴、俺が本間先生とキスしとうの見て、平気なんか。……そんなんひどくない?」
 横目に虎を流し見て、寛太はじっとり恨めしそうに訊いた。焼き餅焼かへんなんて許せへんみたいやった。
 虎はそんな寛太の肩を抱いてやりつつ、説得する口調になった。
「心配すんな、目つぶっとくから。これも仕事やと思ってやれ。本家のぼんの一大事なんやから」
 虎も案外、式神根性ある。寛太が他の奴と仲良うしてんの見たら、死にそうにつらいて言うてたくせに、それでもアキちゃん溶けたら困ると思うらしいで。
「ぜったい見ない?」
 さらにジトッと流し目をくれて、寛太は疑わしそうに訊いた。
「ぜったい見ない」
 苦い顔して、虎はうんうんと頷いてやっていた。それだけやと不足があったんか、ほんまに片手で自分の目を覆っていた。寛太はそれをじいっと睨み、ほんまに見てへんか確認したらしかった。覆った虎の目前に、ひらひら白い手を振って見せている。
「これ何本?」
 三本立ててみせた指をひらひら振って、寛太は訊いた。
「そんなんええねん寛太。言うてる暇ないねんで? 背に腹は代えられへんのや。火食えるやつが他におらんのやしな。俺食えるけど。嫌やろ、先生、俺とチューすんの!」
「死んだ……ほうが……ましや」
 頭抱えてソファで頽れたまま、アキちゃんは心底正直らしい声でぼんやり言うた。死ぬよりマシやろ、虎とベロチューするほうが。俺やったら潔くそっちを選ぶで。こいつけっこうキス上手いんやで、アキちゃん。でもそんなん言うてる場合やない。
 これは一種の人工呼吸やから! レスキューやねん。溺れた人を助けるようなもん。
 俺も目をつぶる。それでアキちゃんが助かるんやったら。鳥さんとキスしてええよ。いっぱい吸うてもらえ。たぶん鳥が時々、信太から口移しで食わしてもろてたアレや。密の塊みたいなもん。あれは霊水やったんや。
「寛太、すんまへんけど……助けてやっておくれやす。えらいことなってしもた」
 呆然としたふうに、蔦子さんが頼んだ。籐椅子に座る蔦子さんの目にも、今ではもうアキちゃんが、硬いとろみを帯びた粘液の中にいるのが見えてるようやった。霊威が強すぎて、普通にでも見えてんのやろ。神や鬼より目が効かんでも、蔦子さんは只の人やない。巫女なんやしな。
 ご主人様にそう言われ、それでも渋々みたいやった。寛太にとってはアキちゃんは、もしかしたらどうでもええ相手なんかもしれへん。虎のことで頭がいっぱいで、アキちゃん死のうが生きようが、あんまり興味がありません。ポカーンみたいな感じらしい。
 はよ行けと虎に背を押され、寛太は悲しそうな顔をした。嫌々客とらされる女郎みたいやった。
 とぼとぼ濡れた床を踏んで、裸足の寛太は身を折っているアキちゃんの、両手で抱えた頭に触れた。
「先生、ほなチューしよか?」
 寛太が触れたところから、ぼうっと物凄い火焔が上がった。うわあって、俺と犬とはびっくりして、思わず仰け反っていた。その火はほんまもんの火で、こっちの顔に熱風を浴びせてきたけど、寛太はぜんぜん平気みたいやった。
 その燃え上がる手で、顔を上げさせられたアキちゃんは、もう朦朧としてた。高熱が出て意識が飛びかけてる人みたい。発火するほど熱いんやから、そんなもんで済んでるほうが奇跡なんやけど、アキちゃんはすごく、しんどそうやった。
 熱出したことないんやもんな。今まで。それが初めて発熱してて、ぐったりダルい。しんどいわあって、哀れっぽかった。
 鳥さんは座ったままのアキちゃんの膝に、跨るように足をのしかからせて、仰向かせた唇に、おもむろにキスをした。
 見た。見てもうた。うっかり見ちゃったよ。
 俺は慌てて目を背けた。そしてやっぱり、つらいというように、悲しく目を逸らしてた犬を見つけた。その姿は俺を、なんでかすごく冷静にさせた。犬は嫉妬に惑乱されている。その様子は哀れっぽかった。大好きな本間先輩が他のとチューしててつらい。お前はアキちゃんのことが好きなんやなあ、独占したいんや。それが無理でも、せめて自分にもキスしてほしい。お前誰やねんみたいな赤毛の鳥ともキスをして、ラジオを抱いて寝られるんやったら、なんで自分にはしてくれへんのやろうと悲しいんや。
 そりゃあ、確かに、ひどいよな。アキちゃんちょっと、甲斐性無しなんやで。
 そう思って、俺は恐る恐る、横目に視線を戻した。
 アキちゃんはほんまに鳥とキスしてた。でももう半分、意識ないっぽかった。救いといえば、それが救いや。
 鳥さんは、ふらりと倒れそうなアキちゃんの肩を捕まえて、頬にも手を添えてやり、開かせた唇から何か吸い取って飲んでいた。赤い舌がちろりと見えて、それが透明な密の塊のようなもんを、舐めとっていくのが見える。
 硬い水飴でも食うてるみたいやった。猛烈に甘い桃の匂いがしてる。
 初め渋々やったはずが、寛太はだんだん貪るような食い方やった。美味いらしい。アキちゃんの顎を掴んでガツガツ食うて、しばらくしてから、寛太はなんでか、切なそうに唇を合わせ、ちゅうちゅう吸うようなキスをした。
 その唇が離れると、鳥ははあはあ喘いでた。
「甘い……」
 強く肩を引き寄せて、寛太はアキちゃんの体に抱きついていた。跨った足がアキちゃんの体を絞めている。抱いてるようにしか見えへん。そしてまた、相手の舌を弄ぶような、貪るキスに戻った。
 ぽかんと、ほんまに口を開いて、蔦子さんは呆れて見てた。どう見ても、欲情してきたらしい鳥を眺めて。
「結局こいつもそうやねん。エロが好き。そうやろ、寛太。無理することないのに……」
 しみじみ可笑しいみたいに、おぼろ様が言うていた。
 こいつも寛太が自分に似ているという気がしているようやった。
 たぶん、ほんまにそうなんやろう。寛太は湊川怜司の複製品レプリカや。それも何や都合のええように、足したり引いたりされている。なんでそんなふうになってもうてんのか、俺にはよう分からへん。
 たぶんやけどな、寛太は本物の湊川からパクったんやのうて、虎の心を読んだんや。虎が最初に見つけた時、寛太はほんまにアホなヒナ鳥やった。それでも鳥の習性か、最初に見たものを自分の保護者として、愛を求めるようになる。刷り込み現象インプリンティングやで。まあ、一種の一目惚れやな。
 生まれたてやった寛太は、心細い気持ちでひとり降り立った神戸の瓦礫の中で、最初に自分を見つけた虎に、捨てていかれたくなかったんやろ。連れて帰って、自分を愛しいものとして、守って育ててもらいたかった。
 ほんで虎にモテるにはどないしたらええか、アホなりに必死で考えたんやろ。虎が惚れてる、好みのもんになればええんやって。それで、その当時、虎が熱を上げていた、湊川怜司の芸風をパクった。
 虎はちょうどその頃、蔦子姐さんに振られてもうて、そのドン底気分を癒やしてくれてたおぼろ様に、のめり込むように惚れていたらしい。でも、それはまあ、一種の反動みたいなもんや。好きは好きで、その気分に嘘はなかったやろけど、失恋気分を癒やすのに、新しい恋に燃えたい。そういう時ってあるやん。
 信太の兄貴がめちゃめちゃ好きらしい、湊川怜司を眺め、寛太は羨ましかったんやろう。ラジオにめろめろしている信太の心が見えていた。
 恋は盲目っていうけどな。好きや好きやの出だしの頃には、ほんまの相手が見えてへん。自分にとって気持ちよかったり、萌えるわあていうところばっかり見つめてる。かなりドリーム入ってる。そんな自己都合で歪められた、適当ドリームの理想像のほうを、寛太はパクったんやな。せやし、ある意味、最強や。
 ぶっちゃけ信太はアホなやつが好きやったみたい。保護欲強い男やねん。それで何で俺がちょっぴり好みやったんか、どついたろかて思うけど、とにかく、こいつアホやなあ、なんて不器用やねん、俺がついて守っといてやらんと、死ぬんちゃうかみたいなのが好き。それでおぼろもツボやったんやしな。
 せやけどおぼろ様はアホやないねん。アホでエロボケみたいに見えて、あれでけっこう才人なんやで。教養あんねん。大ざっぱやけどな、知識は豊富よ。だってテレビやラジオやインターネットで、教育的コンテンツとかあるしな。割と物知りよ。それに仕事もできるしな、誰も面倒見んでも、難なく器用にひとりで生きていく奴よ。ただちょっと、寂しがり屋というだけで。
 でも、そんな、おぼろのゴーイング・マイウェイというか、俺にかまうな、エッチしたい時だけ相手しろみたいな身も蓋も無さは、虎にはツボではなかった。いつも自分を求めててほしかった。お前なしでは片時も過ごせへんみたいな、ふにゃふにゃが良かった。
 実際に口に出してそうせえと要求はしなくても、内心そんなのが好きというのは、誰しもあるやろし、それに萌えるというのは、本人にもどうしょうもない。性癖なんやから。黙ってれば普通は分からへんしな、我慢してればバレへん。
 せやのに赤い鳥さんは、お節介にもそれを見抜いた。そして、お前はこういうのが好きなんやろうと、それそのもののべったり甘い、兄貴兄貴って擦り寄ってくるアホな子になって、虎の弱点にど真ん中、ジャストミートしてみせたんやな。確かにそれは小悪魔的コケティッシュやろう。狙ってやってた訳やないかも。ほんまにアホみたいやったしな。ただ愛してほしくて、必死でやったらそうなってましたっていうだけなんちゃうか。
 虎もそれに完璧絆されてもうた。だってそれは無理やん。惚れた腫れたを抜きにしたかて、寛太は虎さん抜きでは生きていかれへん奴やった。腹減って死んでまう。存在理由を見失って、消えてまう。餌やって守ってやらなあかん。お前は不死鳥やって言い聞かせて、お前が必要なんや、愛してるんやでって、ずっと言うといてやらなあかん。
 寛太はそれに応える。虎好みの、いかにもアホみたいな笑顔で。愛してるみたいな、熱っぽく潤んだ憂いのある目で。だってほんまに惚れてたんやもんな、信太に。
 ほんでその一方で、おぼろは虎を必要とはしてへんかった。好きは好きで、たまに顔を合わせて抱き合う時には、にこにこ優しかったかもしれへんのやけど、湊川はけっこう風来坊らしいねん。突然ふらっと旅に出て、どこ行ったんか、いつ帰るんか、わからんようになってまう。その間、虎は放置されていた。湊川は焼き餅焼かへんし、俺が居らん間、暇なんやったら、誰か適当なんとエッチしとけば? ほなまたね! みたいなノリや。てめえも気に入ったのがいたら、一瞬もためらわず口説いて寝てるしな。
 エロが好きやねんて、怜司兄さんは。スポーツみたいなもんなんやって。スカッと爽やかに一発抜いて、ああええ汗かいたわあ! みたいな人やねん。それはもう、どうしようもない。そういう性癖なんやから。ずうっと前からそうなんやって。運命的な恋をしようが、脳天に原爆が落ようが、それは治らんかったんやしな、もう治るわけないよ。病気やない、それが怜司兄さんの本質やねん。誰でも大好き、イケてる思うやつがいたら、迷わず突撃取材やないか。好奇心に勝たれへんねん。それが正しいと思うてんのや。
 せやけどそれが虎には耐え難くても、それもまあ、しゃあないわな。自分が恋人なんやと思うてんのに、相手は誰彼構わずや。自分が浮気してる赤い鳥さんとすらエッチする。寛太可愛い可愛いや。もう訳わからへん。いくら愛してても、ついていかれへんようになる。
 それにおぼろ様は、どうせ誰も愛さへん。そういう意味では愛させへんねん。暁彦様でない奴のことは、愛されへんねん。
 それももう、しょうがないやろ。だって今となってはそれがラジオの、唯一の存在理由や。それを取り上げてもうたら、おぼろ様は消えるんやないか。死んでまう。
 虎も虚しかったやろ。今度こそ一緒に幸せになろうと思って惚れた相手が、自分には惚れてくれへん。しかも本人がそれを認めへん。出口のない迷路みたいなもん。そこを飢えてうろうろ彷徨ってる時に、めっちゃ美味そうな赤い鳥さんが、私を食べてとご光臨。抱いてやったら寛太は、幸せすぎて泣いていた。信太はラジオを幸せにはしてやられへんけど、鳥やったらできる。そんな赤い鳥さんと、見つめ合って生きていってやるほうが、なんぼかましやと、誰でも思わへんやろか。
 それとも、不実かな。それは。俺にはよう分からん。他人事やし、どうでもええわ。とにかく虎は、寛太とくっついたほうがええよ。けろっと明るい適当男で、話せば楽しい遊び人みたいやのに、信太が怜司兄さんを見るときの目は、ものすご寂しそうやった。どろどろ溶けてる、熱いバターやない。飢えてるような目や。いくら食うても腹が膨れへん。それもしゃあない、相手はおぼろや。カスミ食うてるようなもんやろ。鳥のほうが美味い。食いでがある。まあ、それは冗談やけど、実際そうやろ。
「なんや見てたら羨ましいなあ。俺もキスしたい。啓ちゃんチューしよか」
 誰でもええけど、こいつがいちばん直線距離的に近い。そういう理由としか思えへん人選で、おぼろ様は自分を凭れさせている氷雪系にキスを求めた。それを拒む理由もなかったんやろう。こいつらそういう世界やしな。眼鏡の男はお膝の上に仰け反って、キスせえいう怜司様に、遠慮無く屈み込んでキスしてやってた。
 ちゅうちゅう甘い息遣いが聞こえるような熱烈キッスやったですよ。こんなん居るで、外国にはな。恋の帝国フランスの、パリのセーヌの橋の上とかな。アモーレの聖地イタリアの、ローマやミラノの噴水のそばとかな、普通にいます、こういう人たち。
 でもまあ、日本には、あんまり居らへん。中国にもいない。アジアはおしなべて、慎み深い国情やねん。やることはやるけどな、そういうのは隠れてやるからええねんというのが、アジアの民族性やんか。アキちゃんかてそうやん。
 そしてたぶん、虎もそうやねん。元々はそうやったんやろう。それが怜司兄さんの、ヌルくはない調教の成果で、なんかよう分からん慎みのない男になってもうてるけど、ほんまは平気ではない。少なくとも自分にとって、他人とはやってほしくないと思える奴が、平気でちゅうちゅうしとるのを拝まされるのは、平気ではない。
 虎は困ったようにそれからも、目を背けてた。何か他に逃げ場はないか。そういう顔して眉間を揉みつつ、信太はふと目が合うた俺を見た。そして笑った。もう、俺はほんまにつらいわというような苦笑の顔で。
 いやいや、お互い色々ありますな。
 でも、自分が愛のキューピッドさんをやってもうたから言うんやないけど、お前はほんまに鳥さんといたほうがええよ。幸せそうに見えるよ。それはちょっと、後ろめたいような幸せかもしれへんのやけど、でも、しょうがないよ。お前はただ、幸せになりたかったんやろ。相手を幸せにしてやって、自分にもそれが幸せで、ふたりで幸せ噛みしめたかった。そうしてほんまに癒やされて、また元の偉い神さんに、戻りたかったんやろ。
 分かるよ、俺も、そういうの。
 藤堂さんが嫌いやったわけやないねん。あのクリスマス・イブの夜。愛想が尽きたわけやない。実はむしろ、めっちゃ愛してたかもしれへん。
 それでも俺にはアキちゃんが、めちゃめちゃ素敵に見えたんや。光り輝いて見えた。それはアキちゃんの神通力のせいやったんか。そうやないと思う。それもあるけど、でも俺にはアキちゃんは、自分を幸せにしてくれる男に見えた。お前が欲しいって俺のこと、愛しそうに見つめてくれたし、酔っぱらってたせいか、アキちゃんは、俺が微笑みかけるとにこにこ笑った。ほんまやで。ホテルのバーのコースターに、店のボールペンで絵も描いた。バー・カウンターに並んでる、ワイルド・ターキーのラベルと同じ、七面鳥の絵やったわ。
 俺が、絵上手いなあって褒めたら、アキちゃんはにこにこ笑って、そうやねん俺は画学生やねん、将来は画家になるのが夢やねんと言うた。それはアキちゃんにとって、めちゃめちゃ幸せな未来みたいやった。絵描いてるだけで楽しいみたいやった。さっきまで、女と別れた言うて、めそめそクヨクヨしとったくせに、コースターに七面鳥描いてれば幸せという、このアホな男はなんなんや俺はびっくりしていた。
 幸せって、そんな簡単になれるもんなんか。俺にはちょっとも回って来えへんのに。それとも俺も、この男と一緒に居ればもしかして、幸せのおこぼれに預かれんのかな。そうやったらええのに。お前が俺のこと愛してくれて、ずっと一緒に居ろうかって、手繋いで明るいほうへ、連れていってくれたらええのにって、内心本気でめちゃめちゃ祈った。
 それは俺の浮気やったかもしれへん。その時は。
 しんどい恋から逃げてただけで、それ以上の意味はなかった。ちょっと遊んで、戻るつもりで出ていっただけやったんかもしれへん。
 それでも酔っぱらいのアキちゃんと話しつつ、自分もにこにこしてんのに気がつくと、なんかもう、腰抜けそう。自分がどんどん恋に落ちてる。藤堂さん居らん、急に嫁とヨーコが来たと言うて、俺を放置している。あいつが憎い、許せへん。今夜こそ、あいつをぶっ殺して食うてやると、ほんまもんの鬼みたいに、むらむら真っ黒くなっていた心の中に、なんやキラキラ光が射してきて、綺麗なお花が咲き乱れ、蝶々さんまで飛んでいる。そんな甘い甘い恋の気分に酔うてきて、何もかも忘れてる。
 その時、俺は幸せやったんやで。その夢から醒めたくなかった。
 もう閉店や、帰らなあかんでと教えてやると、アキちゃんはものすご寂しい顔をして、俺と一緒にいたいと言うた。一緒にいてくれ。離れたくないねんと、むっちゃストレートに俺を口説いた。たぶんそれが理性の限界で、俺はブチッと切れていた。俺を悪魔サタンのままにしておくための重要部品の、ネジが一本ブッ飛んでいた。この男とはもう二度と、離れられへんような気がした。
 それでアキちゃんお持ち帰り。俺の家やのうて、アキちゃんのマンションにやけど。
 俺は話題にのぼればいつでも、俺やない、アキちゃんが俺を口説いたんやって言うてやってんのやけど、ほんまのところは、どうか怪しい。確かに俺はなんも言うてへん。にこにこ笑って話しを聞いてやってただけ。一緒にいたいてアキちゃんが言うから、いてやっただけ。
 でも、ほんま言うたら俺はずうっと、アキちゃんにそう言うてほしかった。そう言うてくれって、必死で祈ってた。誰に祈ってたんか分からへん。邪悪な悪魔サタンの祈りなんて、聞いてくれる神さんおらへん。それが分からんほどアホではなかったんやで。それでも祈ってたとしか言い様がない。俺はたぶんアキちゃんに祈ってたんやろう、その時も。お願いします、誰か知らんお前、頼むから俺を愛してくれって求めた。
 そして今も、ここに居るわけ。たぶん、めでたし、めでたしか?
 それはまだ、わからへんけど、俺は後悔はしてへんで。藤堂さんに済まんとも思うてへん。あいつが悪い。俺は悪ない。俺はただ、幸せになりたかっただけやねん。そんなん自己中かもしれへんけど、結果的には良かったやろ? ええねん、結果オーライで。
 せやし虎もな、結果オーライでええやん。お前、今、幸せなんやろ。ラジオに未練ある。そらあるわ。それはしゃあない。俺もあるもん、藤堂さんに。せやけど、あっちに行くつもりはないで。アキちゃんが好き。アキちゃんと抱き合うてると、世界が完璧やと思える。そんな蝶々ひらひらの、いっぱいお花咲いてる、キラキラ眩しい幸せ世界。お前もそうやろ。そういう目ぇしてる。どろどろ溶けてる。めちゃめちゃ熱い恋人の、ものすご甘い求愛に、とろけちゃってる目をしてる。
 心配せんでもええと思うよ。きっと寛太が、お前を幸せにしてくれるやろ。それにゆっくり、溺れればええねん。昔どうやったか、それが思い出せへんようになるまで、どっぷり甘い恋に溺れて、好きや好きやってジタバタ悶えてればいい。二人でナイター行って、焼き肉食うてビールも飲んで、腰抜けるまでエッチして、愛してる愛してる言えばええねん。それで完璧やんか。なんも深く考えることない。
 アホになればええねん。そしたら幸せやでえ。深く考えるからあかんのや。必死なるから不幸になるねん。アホアホ作戦でええねん。それでノー・プロブレムやから。なんやっけ中国語では。俺、ほとんど知らんのやけど。中国語にもそういう言葉あるで。えーと、なんやっけ。皆、知ってる?
 あっ、そうや! 無問題モウマンタイや。俺が昔インドで華僑系のめっちゃええ男とな……いや、それはもうええか。とにかく、そいつが言うてたわ。インド人、なにかっちゃノー・プロブレム言うねんけどな、それは中国でも言う、無問題モウマンタイやって。
 信太もそのノリでええやん。だめ? 俺はええと思うんやけどなあ。だって、悩んでもしゃあない。おぼろ様はお前のモンにはならへんよ。誰のモンにもならへん。だってもう、決まった相手の居る奴や。もともと居ったんや。お前とは浮気やった。浮気以下かもしれへん。遊びやったんや。たとえラジオが真面目なつもりでも、怜司兄さん分かってないから。自分が誰にも本気になられへんという自覚がないから。イカレてんのやから。そうっとしといてやってくれ。もう、うちでずっと面倒見ますから。虎はなんも心配せんと、鳥さんと幸せになれ。
 それで無問題モウマンタイ。俺はそう思うんやけどなあ。
 いつかそんな話を、信太にしといたろかと、俺は思ったけど、そんなこと言うてる場合やなかった。だって死ぬらしいし。無問題モウマンタイ言うてる場合やないで。まずはそっちを何とかせえへんかったら、幸せになるもなにも、虎の命は風前の灯火や。なまず様のゴハンになっちゃうんやで。鳥の食う分なくなるで。
 どないすんねん寛太。まだ知らんのやろ、お前は!
 どないすんねん。俺の男と長チューしとる場合か! もうええやろ、お前ちょっと舌入れすぎやねん。俺もさすがにムカムカしてきた。ぶっ殺すぞ鳥。人工呼吸しすぎ。もういい。なんかもう、霊水止まってる。めちゃめちゃ食われてるでアキちゃん。ものすご吸い取られてるんとちゃうか。これでエッチ何回分?
 さっきまで朦朧と意識ないみたいやったアキちゃんが、もう意識あるみたいやった。めっちゃビビってた。そらビビるやろ。
 くらくら意識なくなりかけて、はっと気付いた次の瞬間、てめえはお膝に不死鳥ライドオンで、それとがっつりベロチューしてて、しかも横見たら俺が居んねんから。殺されると思うわな。
 横目にお互い目が合って、アキちゃんはもう死ぬみたいな顔をした。そして鳥をなんとか引き剥がそうとしてたけど、寛太はよっぽど美味いのか、未だにガツガツ食ろうてて、キスをやめへん。
 俺はそれを、どんなジト目で見てたんやろか。瑞希ちゃんはもう、よっぽどつらい気分なんか、ソファの端っこで頭抱えて、ちっさくなってた。可哀想になあ犬。こんなん今後、日常茶飯事やで。本間先輩と付き合うていくんやったらな!
「なんとかなってきたか、アキちゃん」
 試しに腕に触ってみると、平熱みたいやった。お熱さがって、よかったでちゅね。とっととその、お熱い鳥を蹴り落とせ!
 寛太はだらだら汗をかいてた。まるで一発やった後みたい。
 なんとかなったと頷いて、青い顔したアキちゃんは、なんとか寛太の顔を押し返していた。
「なんでやめんの……?」
 ぼんやり甘い、熱い声して、寛太は睦言みたいにアキちゃんに聞いた。なんでなんか忘れたか。お前はほんまにアホやなあ。
「な、なにこれ? なんでこんなことに……」
 俺のせいかとビビってる声で、アキちゃんはたぶん、俺に訊いてた。場合によっては、土下座して詫びそうなビビりかたやった。
 そうか。お前も一応、俺に悪いとは思ってんのや。そうなんやなあ。知らんかったわ。勉強なったよ。
「お前が溶けそうなってたから、溢れた霊力抜かなヤバイということで、鳥さんに食うてもろてただけや」
「く、食うって……?」
 ソファで腕組みしている真顔の俺の横顔を、アキちゃんはじいっと怯えて見ていた。いつ亨は大蛇おろちに変転するやろかと、内心では秒読みしてる、そんな顔。
「キスしただけや。人工呼吸みたいなもん。血吸うのと同じようなもんやろ。鳥さんは血吸われへんのん?」
 まだアキちゃんのお膝でぼけっとしている、満腹満腹みたいなぼんやり顔の寛太に、俺は訊ねた。寝乱れたような髪が、汗で張り付いていて、めちゃくちゃエロい。そうか信太はおぼろ様の、この部分は好きやったんか。気の毒やなあ、てめえの萌えツボが誰の目にもバレバレで。バリバリつらいよな、信太。恥ずかしい恥ずかしい。
「血なんか吸うたことない。そんなんしたらあかんて兄貴が言うてた。血肉食うたらけがれてまうやろ?」
「そうかなあ。美味いで、血も。お前が吸うてんのと、どっちが美味いんか、俺は知らんけど」
「霊水?」
 煙る瞳で瞬いて、寛太は不思議そうに言うた。誰でもやれると思うてたらしい。そんなもんがあるって、俺は知らんかったしな、どうやって吸うたり吸わせたりしてんのか、見当つかへん。たぶん信太由来の習慣やないか。鳥さん育てる目的で、信太がやってんのを見て、他にも広まったんやろう。練習したらできるんかな。俺にもできんのかな。と、いうか、アキちゃんにもできるんかな。そして、それは、口移ししかありえへんようなモンなんか。
「霊水も美味いし、力はつくけど……でも、つまらへん」
「つまらへん?」
 ぼけっと熱あるみたいな、ぼんやり上気した顔で言う寛太の目付きは、なんともいえずエロくさい。
「つまらへんよ。エロのほうがええよ。気持ちええしな、それに、幸せやもん」
「それは単にお前がエロが好きなだけちゃうん?」
 俺が指摘してやると、鳥さんは悩んだみたいやった。そして、いったいいつまでお前はアキちゃんのお膝に跨っているつもりなんか。鳥は綺麗な指した白い手で、何の気無いふうな無意識の仕草で、やんわりとアキちゃんの首筋から胸のあたりを撫でた。アキちゃん、顔面蒼白になっていた。たぶん萌えたんやろう。軽く誘われてるよな。愛撫チックやったよな。俺もそう思う。
「好きやけど。好きやったら、あかん?」
「あかんことない。俺の男とやるんでなければ」
 俺が念のためキッパリ言うてやったところ、寛太はちろりと視線を戻して、自分を見上げて軽くあわあわしているアキちゃんを、伏し目にじっと見下ろした。
「本間先生と……?」
 検討中、みたいに、鳥は静かにそう言うて、しばらく静止して考えていた。そして、フッ、と薄く笑った。なんかちょっと、邪悪な微笑やった。そうすると寛太は必要以上におぼろに似ていた。要らんとこまで似てきたらしいで。大丈夫かな虎。これでも萌えるか。邪悪なの嫌やて言うて、箱入りで育ててきた鳥さんやのに。結局こんなんなってもうてなあ。
「それはないわ。俺、亨ちゃん好きやし、蛇と喧嘩したないしなあ。それに……」
 言いかけてから寛太は、くうっ、と辛抱たまらんみたいな思い出し笑いの顔になった。
「それに俺は兄貴がええわ。先生どんなんか知らんけど、どうでもええから。虎プレイに優るもんはないから。お前もいっぺん兄貴とやってみればわかるよ。やったら殺すけど」
 うんうん、て俺は頷いといた。お前もとうとうそう思えるようになったんか、寛太。立派になって。よかったなあ、まことの愛に目覚めることができて。お前も今後どんだけ、「もう殺さなあかん」て思うことかやで。それとも虎は案外、浮気せえへんのかなあ。
 くるりと身を捩って振り向いて、寛太は信太を探したようやった。そして、今初めて気がついたようにおぼろ様を見た。
「あれえ。怜司や。いつの間に来たん?」
「だいぶ前やで? ていうかお前、ついさっき話しかけたのに、食うの夢中でぜんぜん聞こえてへんかったんか?」
 面白そうな半笑いで、おぼろ様は眼鏡とベタベタしながら寛太に訊いた。
「うん。気がついてへんかった。ごめんな……なんて言うてくれてたん?」
「お前もエロが好きやなあ、無理せんと、やりたい奴とやればええんとちゃうかって言うてたんやで」
 にこにこしながら湊川怜司はわざわざ教えてやっていた。
「うん……そうやけど。でも、やりたい奴って、信太の兄貴しかおらへんもん」
「えっ、そうなん? そんなことが現実にありえんの?」
 怜司兄さん本気で訊いてる。眉間に皺まで寄っている。何かすごいアンビリーバボーなことを言われたみたいなリアクションやったで。
 この人、なんでこんなんなんやろなあ。でも、こんな性格やから、良かったこともあるんとちゃうか。皆、自分を基準にもの考えるやろ。おぼろ様は本気で死ぬほど好きな相手がおって、それに夢中になってても、焼鳥屋で隣に座ったオヤジがイケてたら、ちょっと食うてみようかなと思うらしいで。仕事場の上司とかも、とりあえず食うとくらしい。やりたい言うやつは、とりあえず食うとくらしいで。スキンシップとボディランゲージでしか分からんモンが、世の中にはあるらしい。
 あるかもしれへんけどな。親睦を深めるために、いちいちエッチする人、俺の知る中ではこの人くらいやなあ。相手を知るためには、とりあえず寝てみれば分かるんやって。それは鬼畜米英でもナチでも同じ。裸に剥いたらみんな同じ人間やったんやから。やることおんなじやから。話す言葉は違っても、喘ぐ声にはさほどの違いはないんやから。
 言葉を越えれば無問題モウマンタイ。エロエロ国際化グローバリゼーション。ラブラブで平和ピースに。それが怜司兄さんの戦後の哲学らしい。とんでもない事になってきています。エロで俺を越えてる奴が居るとは、ほんまに世界は広い。
 まあ、そんな、世界各国に体当たり取材をかけている怜司兄さんには熱烈なファンが多い。幼児から爺まで、いろいろ幅広い層から愛されている。
 水煙様を別にすれば、こいつが嫌いやという奴を、俺は見たことがない。こんなキワモノでありながら、怜司兄さんは誰からも愛されるタイプ。そして誰でも愛しちゃうタイプ。
 そんな奴やねんからな、独占しようと思うほうが間違っている。徒労や。それを望んだところで、いちいちしんどい思いをするだけや。
 こいつをツレにしようと思ったら、まさしく神のごときキャパが必要になってくる。神にならんと無理。俺がアキちゃんと連れ合うたせいで、めちゃめちゃ悟りをひらいてもうたように、激しく突き抜けへんかったら無理。
 信太はその点、まだまだや。独占欲が強すぎる。もしかしたおぼろ様とは、ご縁がなかったんかもしれへんな。
 それについて、おとん大明神はどうなんやろか。昔、まだまだ生きてるボンボンやった頃には、浮気せんといてくれみたいなニュアンスむんむんやったっぽいけど。浮気って、てめえが浮気で付き合うとんのやないか。なにが浮気せんといてくれや。じっと自分の胸に手をあてて考えろ!
 それでも、そんな我が儘なおとんに、おぼろ様は適当に付き合うてくれた。浮気せんかったんやないで。バカスカしたらしい。もう、浮気せんといてくれって言う気も起きへんくらい、バカスカしてやったんや。しかもそれを暁彦様に話す。あっけらかんとしてんねん。そして暁彦様が他のと寝ようが、ちょっと本気でのめりこんでようが、それに怒るどころか、そんなにええんか、俺にも貸せって言うらしい。
 それこそ現実の話と思われへんわ。爆笑や。だって他人事なんやしな。俺には関係ないもん。
 独占欲の強かったらしい秋津のおとんにとって、浮気しまくるおぼろ様には常に視線が泳いだやろう。せやけど自分にも手に入らんもんはある。美しいけど独占でけへん野生の鳥のように、おぼろの龍はふらふら夜空を舞っていて、気に入った寝床があればそこで寝る。そしてそれの何が悪いねんという態度。気にせんとお前も気にあった相手がおったら夜を楽しめ。何なら三人で。それで足りなきゃ十五人ででも。気にすることない、適当でええねんて、本気で言うてるおぼろ様は、まさに地獄に仏やったやろ。
 なんでおぼろが暁彦様を独占しようとしなかったのか。それは単純な話やったらしい。これは後々本人から聞いたネタやから、間違いはない。
 暁彦様はイケてる男や。みんな好きやろ。それで当然やとおぼろは思うらしい。暁彦様も気の多い男やで、面食いやしな。気に入る相手がごろごろ居るわ。それに仕事やというのもある。式やら鬼やら手なずけなあかん。それに失敗してもうたら、斬った貼ったの刃傷沙汰やら、修羅場やら。とにかく暁彦様が泣くことになる。それは可哀想。それやったらエッチしといたらええやん。お前のこと好きやて言うといてやったらいい。それで平和にいって、暁彦様がいつもにこにこしてられんのやったら、それでええわと思うんやって。確かにエロは気持ちええよな、俺も大好き。お前もやればええよと。
 なんという深すぎて底知れぬ愛の世界。ほとんど涅槃ねはんの境地やね。人間界の愛やないよ。弥勒菩薩やで。
 俺は正直、そこまでイカレたくはないね。なりたくないやろ、皆も。
 変やねん怜司兄さんは。まともな奴とは連れ合われへんわ。信太では無理や、幸せになるどころか、お互いしんどいばっかりで。合うてへん。
 割れ鍋に綴じ蓋というか、こいつはほんまに暁彦様と合うてたんやで。たぶん、そこではきっと幸せそうにしていたんやろう。そんな日が、なんとかまた来んものかと、俺は正直ちょっと思うてた。
 秋津のおかんには悪いけどやで、そんなに好きで、ずうっと待ってんのに、おとんはカミングアウト以後にでも、こいつのところに顔も出してへんかった。そんなんちょっと、薄情やない?
 俺、おとんがそんな奴と思うてへんかった。もっとイケてんのやと思うてた。アキちゃんより格好ええかもとか内心思うてた。でも、そんなことないで。あのオッサン、めっちゃ臆病者やんか。奥ゆかしいといえば、ええように聞こえるけど、あんなビビった手紙一通きりで、おぼろ様とは切れたつもりか。甘えんのも大概にせなあかん。
 水煙のことにしてもさ。あっさりしすぎやで。事前になんか二人の間で、さようなら今までありがとう的な別れの儀式があったんやったら別やけど、ジュニア行け、ほなさいなら、って、ひどいやないか。水煙かて傷つくよ。あいつの心臓、鉄でできてんのかもしれへんけど、おとんはそれでも傷つくくらいの強打をかけてるような気がするで。とにかく、振りかたがひどい。ぽいって捨てていくみたい。それはおとんの癖なんか。
「あんたら、アホなことばっかり言うてんと。どうなんや、ぼん。治まったんか、力があふれてしまうのは」
 蔦子さんは室内ののんびりムードに困ったらしかった。よかった、おばちゃまは多少なりとマトモで。
「治まって……ない、みたいやけど、ずっとこいつと人工呼吸しとかなあかんのは困る」
 なかなか退いてくれへん鳥さんに、アキちゃん泣きそうみたいやった。なんで泣きそうなんや。なんか我慢してるっぽい顔やけど気のせいか。
「お前もええかげん退いてくれ。俺かて虎と喧嘩したないねん」
 助けて貰っておきながら、鳥さんに礼もなしか、アキちゃん。まあ、そんな余裕ないわな。それにギブ・アンド・テイクな面もある。鳥さんはものすご満足したらしかった。
 出て行けと、お膝から追い出され、寛太はのろのろ降りて、また虎の隣に戻って行っていた。そして、ぎゅうっと身を寄せて座り、にこにこ信太と腕を絡めていた。
「ものすご腹一杯になったわ、兄貴。こんなに満腹したんは生まれて初めてかもしれへん」
「そうか。良かったなあ。これでまたお前も成長するやろ」
 にこにこと、微かに苦笑も混ざっている目で、虎は寛太を眺め、ぐしゃぐしゃになっている真っ赤な髪を、手櫛でとかしてやっていた。その手にはまた、髑髏どくろの指輪があった。寛太が返してきたらしい。それはまるで、死の呪いのかかっている奴につけられた、不吉な印のようやった。
「せやけどな、寛太。いつまでも無駄飯食うとうと、行き詰まってしまうんやで。成長すればしただけ、お前はもっと腹が減るやろう。今までは、死なん程度にしか食わせてなかったけど、もうスイッチ入ってもうてるしな。お前も立派な不死鳥になって、人から神やと崇めてもらえるようにならんかったら、ほんまに悪魔にでもなるしかないで。人でも食わんと自分を養っていかれへんようになる」
「そうなん? でも……平気やん? 兄貴が居るんやし」
 けろっと何の心配もしてへんような顔をして、寛太はにこにこしていた。
「俺がいつまでも居るとは限らへんやろ。それにお前が、俺が食わしてやられへんぐらい育ってもうたら、どうするつもりや。結局また、あっちこっちに餌場を作って、季節ごとにそこを渡り歩くんか?」
 確かにこいつは渡り鳥みたいなもんやろな。シーズンごとに、餌の豊富な相手を渡り歩いて生きてきたんやしな。夏は虎、冬は眼鏡で、優しい怜司兄さんは年中ゴハン食わしてくれる。そのほかにも臨時のオヤツや夜食を食わしてくれる相手がいたら、それからも食う。なんでそんなに腹減るんやろう。
 俺はそこまでがっつかへんけどなあ。アキちゃん一人でお腹いっぱいなれるけど。
 それは俺が育ち盛りじゃないからや。アキちゃんが優秀な餌場やというのもあるけども、俺はもう生まれてから随分たってる。そういう意味では安定してるし、自分の力加減をコントロールできてるんやと思う。
 それに対して寛太はまだまだ生まれたてやし、どれくらいの規模の神になろうとしてんのやら、見当付かへん状況や。食えば食うだけ育ってるっぽいで。今またアキちゃんから、てんこもり食うていったので、どんだけデカい鳥になるんや。
「渡り歩くのは、嫌やけど。でも、どうしたらええの?」
「なんか人間の役に立つことをしろ。楽しかったり助かったり、励みになったり。そういうのや。怜司はうわさやねんで。こいつはそれで役にも立つし、人に信じられている。そういうものと関連づけされている神や。俺は虎やろ。元は四神相応の精霊やねん。なんでか今は野球の神さんやけど。野球が好きすぎたんがあかんかったんかな。いや、良かったというか……」
 信太はブツブツ言うてた。微妙なんか、阪神タイガース。めちゃめちゃ好きなくせに。
「とにかく、お前は神戸のフェニックスなんやろ。十年前に、この街の人らが強く不死鳥を求めた時に、その思念によって生まれた鳥なんや。せやし、この街の人らがな、お前の信仰の母体やで。その神戸っ子たちに、フェニックスはほんまに居とうのやって、信じてもらわなあかんのや。この街を不死鳥が守護してるって、皆が本気で思えるような霊威を示さなあかん」
「ていうかこいつ、神戸を守護してんの?」
 俺は基本のところを聞いてみた。話の腰を折られてもうたんか、虎は軽くガクッて来てた。
「……してるよ、亨ちゃん。一応してんねん。微妙やけど。神戸といえばフェニックスやねん。知らん?」
「知らんことないけど。そういえばそんな話もあったなあ程度やで」
 寛太はにこにこしてたけど、虎はますますガクッと来てた。
「霊威がな、足りてないんや。実感ないからな、神戸の人らも、もうええわフェニックスってなってまうんや。スローガンだけではあかんねん」
「一時はだいぶフューチャーしたんやけどなあ」
 コーヒーテーブルに置かれていた箱から、誰のものかも分からん煙草を一本とって、湊川もにこにこ言うてた。そして、火つけてくれるか、って、にっこり寛太に頼んでた。
 うんうんて、可愛げのある愛想のいい笑みで、寛太はおぼろのくわえた煙草の先に指をもっていってやり、前にもやっていたように、火をつけてやろうとした。
 その指のあたりから、ぼおおっ、て猛烈な火が吹き出てた。おぼろは避けへんかったけど、びっくりしていた。煙草は半分くらい、灰になってた。眼鏡の氷雪系なんか、とっさの反射神経で、激しく避けてた。シャレにならんらしい。火で炙られるのは。
 半分燃え尽きた灰を、灰皿に落とすため、おぼろは煙草を指にとり、テーブルの上の灰皿で、とんとん叩いてた。
「俺、お前になんか恨まれるようなことした?」
「ごめん……ちゃうねん、怜司。いつも通りやったつもりやのに、なんでか凄い火が……」
 しょんぼりとして、寛太はおろおろ言うていた。
「ごめんやで。ほんまに……わざとやないねん」
 俺は一瞬、寛太は虎の前の相手やったラジオに妬いてんのかと思った。今も兄貴は未練たらたらで、それで怜司兄さん憎いわと、そんなことまで思うようになったのかと。
 でも、そういう訳やないらしい。寛太は珍しく、びっくりしている微妙顔のおぼろに嫌われたと思うたんか、焦ったみたいにソファから降りて、床に座ってる湊川怜司とぴったり肩を並べ、自分も絨毯の上に座った。そうして座ると、小さいラジオみたいやった。体格がかなりミニチュア化してる。寛太は俺と大差ない身長やしな。モデル並みのデカさの湊川と比べると、かなりコンパクトやで。
 なんか変なもんやった。そうして並んで座っていると、いつも兄貴兄貴と呼んでいる信太よりも、見た目似ている湊川のほうが、よっぽど寛太の兄貴みたいやった。
 自分によう似たとこもあるアホの寛太が可愛いわと、まさかラジオは思うのか。それはナルシズムか。
 ごめんな言うてる、しょんぼり寛太のおでこにチューしてやってから、ラジオはにやにや苦笑いのまま、残った煙草を吸うていた。
「なんかさあ、火のほうばっかり育ってへんか。不死鳥いうたら再生能力のほうがキモやろう。何かそれを伸ばすような事、してやってへんの?」
 ラジオが虎に話しかけたの、今回これが初めてやったんちゃうか。明らかにラジオは虎を避けていた。なんの後腐れもないラジオの、それが後腐れといえばそうやった。別れてもうてもケロッとしてるという程ではない、おぼろ様にとっても、とりあえずその程度の深い仲ではあったらしいで。よかったなあ虎。意識してもらえて。
「してやるよ。明後日」
 むすっとしたように、信太は答えた。すねてるみたいな声で。
「ええ? 明後日って、お前……」
 深刻そうに言うてから、おぼろは半笑いの顔をした。そして、ものすごいせめぎ合いの表情のあと、結局笑った。あっはっはと声あげて、ものすご可笑しいみたいに喉そらし、腹を抱えて笑っていた。
 寛太はそれを隣できょとんと眺め、やっぱり訳わかってへん顔や。虎は憮然と足を組み、そこに頬杖ついていた。
「嘘やろ、マジか。てめえが死んでみせようというんか。まあ確かに、それで目覚めへんのやったら、こいつはただの火の鳥で、再生能力がないんやわ」
 ひいひい笑って、湊川はまだきょとんとしてる寛太の肩を、長い白い腕で、がしっと抱いた。
「寛太。信太が死んだらどないする?」
「ええ……そんなん、俺、嫌やわ」
「泣けるやろ。そういうことやで。お前の涙には、死人でも蘇らせるような、高い霊威があるはずや。ほんまに不死鳥なんやったらな」
「不死鳥やで俺は。ほんまにそうやで」
 口を尖らせて、寛太は今にもキスされそうな至近距離から、湊川に文句言うてた。
「ほんまにそうかどうか、明後日になれば分かる」
「何があんの……明後日」
「信太の葬式や」
 ふはあと煙を吐いて、湊川は伏し目に笑いながら教えてやっていた。
 寛太はそれでも、きょとんとしていた。暗い表情やったけど、それを信じてへんようやった。ピンと来えへんのやろう。今すぐ隣にいて、めちゃめちゃ元気な奴が、明後日には死ぬと言われても、ちっとも実感湧かへん。
 それは予言がなければ、そもそも知りようもないことやった。あるいはなまずという神がいて、それが生け贄を求めるということが、誰にも分かってなければ、今この時点で俺らに分かるわけがない。
 予言ていうのは、不思議なもんやで。前もって分かってしまうだけに、いろいろ悩んだり苦しんだり、思い詰めたりせなあかん。これが普通の人間で、予知なんかできる奴もおらんし、なまずはただの魚やと思うてる奴らばっかりやったらな、今この場でも和気藹々と、だらだら喋ってるだけやったかもしれへん。
 そして明後日には、信じられんような大災害で、三都は壊滅したやろう。
 要するに、そういうことや。三都を守護するために、俺らは戦っているし、今この場で雁首揃えて、虎が死ぬ話をしてる。その本人がいる、目の前で。
「その葬式な、俺が司会をしてやるわ、そういうことなんやったらな。お前は試したいんやろ。自分がこいつに、どんだけ愛してもらえてるか。それはただのアホやったヒナ鳥が、ほんまもんの不死鳥に化けるほどなんか。そうでないなら先々どうせ食い詰めてもうて共倒れやしな。ここらで勝負ということか?」
 それはとっても面白いお話やと、おぼろ様は笑っていた。やっぱりちょっと酷薄なとこある奴や。暁彦様が死ぬ時は、相当必死やったらしいお前やのに、信太やったら笑って見てられるんやもんな。惚れてへんかったんや。お前は信太の運命の相手ではない。それはもう、どうしようもない。
 どうしようもないわって、信太もそういう目をして、おぼろを見ていた。
「俺が死んでも、こいつには害がない。お前も面倒みてくれるんやろ?」
「なんで俺がお前の餓鬼の面倒見たらなあかんねん? ふざけんなやで、信太。俺は本家のぼんの世話で忙しい。お前が拾ってきたんやろ。最後までてめえで面倒みろ」
 新しい煙草をとって、ラジオはそれにまた火をつけるよう、寛太に頼んでた。不安そうな顔をして、それでも寛太はおとなしく、今度は相当慎重そうに、煙草の先に点火してやっていた。それはけっこう、上手くできてた。小さなぽっと灯る火が、一瞬燃えて消えた。甘い香炉の匂いのする紙巻きに、火をつけてやるのに丁度好いくらいの、適切な火になっていた。
 小さく灯る赤い火を見て、そしてその火の映る目で、おぼろは優しく寛太に言うてやっていた。
「やればできるよ、心配せんでええねん。誰でもなれる、神なんて」
「何があんの……明後日」
 さっきも訊いた同じ言葉で、寛太は湊川にまた訊ねた。どことなく、寛太の姿は、かたかた小さく震えて見えた。
 急に怖くなってきたらしい。今までなんも知らんと、他の連中に付き合って、このホテルに来てただけやったんやろう。寛太はなあんも考えてへんかった。誰にも何が起きてるのか訊いてみなかったし、興味もなかったんかもしれへん。だから今、初めてそれを聞いたんや。
なまずっていう、大地震を起こす化けモンみたいな神が、明後日現れる。それが、ばくっと信太を食うんや。そして命だけとって、残った魂は、ペッと吐き出す。それは冥界の神のもんやから。死の舞踏ダンス・マカブルたちが、刈り取った魂を冥界に持って帰る」
死の舞踏ダンス・マカブルって?」
「骨やで。魂と骨だけになって、なまずに使役されている、元はただの人間や。ぶっ殺せばこれも、天界か冥界かに引き取られるわ。なまずが眠る三百年ぐらい、最低でも次の周期が来るまでは、仕えて働く契約になっているようや。何周期ぶんか、地震のときに働けば、解放してもらえるらしい。まあ、一種の奴隷やな。これをできるだけ多く解放することも、一応、なまず封じの課題なんですよ、先生」
 ぽかんと聞いてるアキちゃんに、湊川は突然話を振っていた。知らんやろうと思うたんかな。知らん。アキちゃん誰にも、教えてもらってへんからな。俺もやけどな。
「知らんことあるんやったら、自分で訊かなあかんのですよ。ぼけっと待ってたら教えてもらえる訳やないで?」
 湊川は美味そうに煙りを食らいつつ、しょんぼり小さくなってもうた寛太の体を脇に抱いてやっていた。なんとなく、翼の中に雛を抱いてやっている親鳥みたいやった。雀が不死鳥育てるなんて、変やけど、信太が寛太の親代わりやったというんなら、ラジオもそうやったんや。ものは見ようや。こいつらは何人がかりかの持ち回りで、不死鳥を育ててやっていた。せやし皆が皆、寛太の保護者やったんや。
巫覡ふげきにとっては、知識も力や。学校の先生とは違うんやで、本間先生。黙ってても教えてくれる訳はない。教えてくださいて頭下げて頼まなあかんし、基本、技は盗むもんやろ。せっかくこんだけ巫覡ふげきが一堂に会してる。めったにない機会やったのに。お前いったい何しとったんや。惚れた腫れたでフラフラしよってからに、そんなんやから、ぼんくらやって言われんのやで」
 めっちゃ厳しい。おぼろ様、めっちゃ厳しない?
 ある意味、水煙なんかより、万倍厳しいで。あいつ、優しかったんや。
 せやけど、こういうの、愛の鞭っていうの? にこにこ笑って、ガツン言われて、アキちゃん、ショックやったみたい。おぼろ様には甘えてた。なんかそんな雰囲気やったで。どことなく、甘ったるい声で話して、仕事も頼むし、頼ったような教えて君やったしな。きっと、甘えてもええ相手やと思うてたんやろな。おかんみたいなもんやと。
 でも、ちょっとばかし違ったな。弱ってる時にはとりあえず抱いて、イイ子イイ子してやるけども、復活してきたらドツキ倒す、そういう根性のやつみたい。
「俺もどうやら、先生の式になったらしいし、面倒みるけど。後で大崎先生にも頭下げにいかなあかんのやで? お前のおとんが居らん限り、秋津のげきの作法やら何やら、実地に心得てるのは、あの人だけやから。まあ、何とか教えてくれるやろ。俺は茂ちゃんには顔利くし、それに秋尾も優しいやつや。うまいこと、とりなしてくれるやろう」
「困ったなあ、茂ちゃんにも。あの子は何でそんな、アキちゃんのことが嫌いなんやろう?」
 訳は知らんという顔で、蔦子さんは籐椅子で首を傾げていた。
「嫌われてもしゃあないような事はしてたよ。四条の川床で野球拳して、真っ裸に剥いたり。あいつ、じゃんけん強いねんなあ。茂ちゃんが鬼みたいに弱いというか」
 じゃんけん鬼弱おによわか。気の毒やったなあ、ヘタレの茂。四条の川床って、四条大橋から丸見えのところやで。平成の今も、昭和初期の昔も、それは変わるわけない。丸見えですねん。軽くアホやで、そこで野球拳して、マッパになってたら。
「止めなあかんやないの……」
 想像してもうて恥ずかしいのか、それとも情けないだけか、蔦子さんは両手で顔を覆って項垂れていた。案外、純情なんかな、このおばちゃま。韓流ドラマで泣く人やしな。
「なんで止めなあかんねん、面白すぎやんか」
 こっちはもちろん純情派やない。俺も違うけど。おぼろ様は、止めるなんて考えられへんという口調やった。
「なにを言うのんや、あんたはほんまに……アキちゃんは名家のぼんなんどすえ。それに茂ちゃんかて、ちゃあんと名のある商家の子なんや。そんな同志が、何が悲しいて川原で野球拳なんどすか」
「舞妓さんたちに乗せられて」
 真顔で言うてる湊川は、それなら仕方ないやろうと蔦子さんが納得すると思うてるみたいやった。
「アホそのものやないの!」
 顔あげた蔦子さんは、真っ青なってた。
 知らんかったんや。自分のかつての許嫁が、実はアホやったということを。アキちゃんのおとん、それを蔦子さんには隠してたんや。ええ格好してたんかな。お登与と蔦子さんには。アキちゃんみたいやな。アキちゃんも、おかんにはええ格好してるもん。
「アホそのものやで。可愛い舞妓はんに、いやあお兄さんたち、お酒お強いんどすなあ、どっちのほうが強おすか、て言われて、本気出してる茂ちゃんにしこたま飲ませて、記憶のうなったあたりで野球拳やんか。たぶん暁彦様、まだシラフやったで。意識あったと思うわ。その後、腹減った言うて、俺と南座の松葉でにしんソバ食うてから帰ったんやもん。茂ちゃんの着物、全部パクってきてたで。あの後、どないして帰ったんやろなあ?」
「……秋尾ちゃんがなんとかしたやろ」
 蔦子さん、今度は頭痛いみたい。こめかみギリギリ指で押してた。
「そうやろうけど、つまらんで。マッパで帰ればええのに」
 思い出し笑いか、あっはっはって声上げて笑い、おぼろは上機嫌やった。よっぽど面白かったんやろう。
「そんなわけおへんやろ……あんたはほんまに、アキちゃんとそんなことばっかりして。そんなんやから水煙に嫌われんのどすえ」
「ええもん別に。あいつに嫌われたかて、困ることはなんもない。俺は秋津の式神になりたいわけやない。どうでもええねんからな、そんなこと」
「仲良うすればええのに。ええ子どすえ、水煙は。あんたが悪し様に言うほど、怖くも鬼でもない」
 そんなら水煙も、蔦子さんには本性晒してなかったということや。
 おぼろの言うてる水煙の性悪は、嘘ではない。ほんまの話や。あいつは裏表がある。秋津の血筋を強く受け継いでいる子には優しいけども、血が薄まれば冷たい。アキちゃんには優しいけども、竜太郎にはさほどでもない。水煙の愛の強さは、相手の血の濃さに比例している。
 蔦子さんは顔もほんまに秋津の子って感じやし、予知能力だけとはいえ、力のある巫女やった。それで水煙にも受けがよかったんやろ。それでアキちゃんのおとんの許嫁にもなれた。この娘やったら、おとんの嫁になってもまあええかと頷く程度には、気に入っていた。
 せやし知らんわけや。水煙様がどんだけ怖いか。アキちゃんも、はっきりとは知らんかった、そのことを。
「あいつは怖いし鬼や。俺をきょうから追い出すとき、武闘派の式を何人突っ込んできたか。こっちは戦う能力なんかないのにさ。そんなんせんでも出ていけ言うなら出ていったやろうに。殺されるんかと思うたわ。あれは絶対、制裁なんやで」
「あんたが逆らうかと思うたんやろう。それに、戦う能力がないなんて言うても、あんたは昔、いつも肌身離さず拳銃ピストル持ってましたやろ? 武装してたんやもの、危ないと思われたんやないかしら」
「どこに銃で撃たれて死ぬ式神が居るねん」
「けど、心中やったらできるやろ。弾が当たっても、式やったら死なんけども、アキちゃんなら死にますえ」
 淡く苦い笑みのまま、蔦子さんは話した。それに朧は、ええ、と、うんざりしたようなため息混じりの声で答えた。
「馬鹿にせんといてくれ。姐さん。俺がそんなんすると思うんか?」
「ウチは思わへんけど、水煙は気を揉んだんやろう。たった一人の跡取りやから、アキちゃん大事で、一生懸命やったんやないか」
 蔦子さんが水煙に好意的なのは、水煙がおばちゃまに甘かったからというだけやない。水煙は蔦子さんにとって、命の恩人でもあった。予知をするため、アキちゃんのおとんから水煙を借りた。その時、水煙は、時の流れを泳ぐうち、未来さきを視るのに必死になった蔦子さんが、溺れそうになるのを、何度も助けたらしい。
 後に、蔦子おばちゃまは語る。びっくりするような話や。
 水煙は、蔦子おばちゃまのファーストキスの相手らしいで。
 びっくりしたか。俺は聞いた時、マジでびっくりしたわ。はわわわわあ、ってなったわ。
 なんでか言うたら、溺れたからやで。せやし人工呼吸やないか、これも。そうなんやけど、その時、水煙様は、真っ青な竜王様やったらしい。例のあの、ふにゃふにゃ宇宙人やないで。水族館で変転してた、上は青い人そのままで、下半身は龍になっている、あの、キワモノの上を行くキワモノの姿や。
 なんと蔦子おばちゃまは、それを美しいと思うたらしい。秋津の人らって、皆、変態なんかな? 俺には理解できない趣味や。あの姿は化けモンやで、どう見ても。
 しかし神やと、有能な巫女であった蔦子さんは直感できたらしい。時の流れの中というのは、海の中に似てるらしい。海の底の、複雑に入り組んだ洞窟を、恐る恐る泳いでいくようなもんらしいわ。
 そこで息が詰まって死ぬかもしれへんわけやから、蔦子さんには水煙の介添えが心強かったんやろう。あいつは海ん中でも息は詰まらんらしい。たぶん、元々からして海のモンなんやしな。
 伊勢の海にボカーンて落ちてきた隕鉄から作られた太刀たちで、秋津家に伝わる話によれば、伊勢の刀鍛冶のところに、人魚が持ってきたらしい。刀鍛冶さんがなんかの虫の知らせを受けて、浜辺を散歩しとったら、人魚がばしゃばしゃ泳いできて、これあげるから持って帰りって、隕鉄をくれた。それが水煙様の原材料やったんやって。
 そんなマジックアイテムみたいな剣やったんやで、水煙は。まさに伝説の宝刀みたいやないか? よくそれを、サーベルのほうが格好ええから、サーベルにリメイクしようなんて、おとんは思ったよ。とんでもないぼんや。よくもお家の宝にそんなこと。伊勢の刀鍛冶も怒るよ、それは。
 まあでも、形は関係ない。重要なのは、素材になっている、宇宙由来の鉄や。それが水煙の本体で、そこに、しこたま籠められてる謎の宇宙エナジーみたいなのが、あいつの力の源やねん。これは莫大にあるもんらしい。それであいつは補給がいらへんのやけど、それでも無限にあるわけやないんやで。いくら莫大に貯金があっても、そこから湯水のように金使っていったら、いつかは0円になるやろ? それといっしょで、いつか水煙にも、からっぽになる日は来るわけや。
 補給らしい補給といえば、ひとつには、鬼やら神やらを食うことや。しかしそれは、神剣・水煙にとっては、おやつ程度のもんらしい。食うても食わんでも同じようなモン。こいつの真の能力を使うためには、自分自身を維持している、最初の隕鉄が持ってた力を使うしかない。身を削って働くタイプ。使い切ったら、はい、終わり。
 せやし水煙は、剣としては気軽に働くけども、自分が持っている必殺技は、滅多に使わん。自分の命に関わるからや。しかし、この力を水煙が持っていることは、秋津家ではよう知られた事実やった。家庭内ギャグのネタにさえされているほどや。
 何のことか憶えてないか。
 水煙様の必殺技は、時間を巻き戻す能力や。それもただ単純に逆回しするだけやないようやけど、細かいテクについては俺は知らん。俺は時空系やないから。とにかく水煙は、すでに起きてもうた出来事を、無かったことにする力を持っている。
 途方もないことや。
 蔦子さんは、水煙のその能力を知っていたので、アキちゃんのおとんが戦死することを予知したときに、水煙に泣いて頼んだらしい。戦争が起きへんかったことには、できんものかと。戦争そのものがなければ、アキちゃんのおとんは従軍する必要がない。だから戦死もせえへん。それで何とかならへんのかと。
 その時、水煙はこう答えたらしい。
 そうしてやりたいが、そこまでの力はもう俺には残っていない。それに、仮にそうできたところで、巻き戻った時間は、また同じ運命の流れに乗って、同じところへ流れてくるかもしれへん。この戦争は、何かちょっとの気の迷いや間違いで始まったもんやない。いろんな流れが絡み合って、起こるべくして起きてもうたもんやから、その奔流を押しとどめるのは誰にも無理や。できるとしたら、その流れが今後どう流れてゆくのか、わずかな舵取りをすることぐらいや。
 戦は、もう起きた。その激流が、いちばん害のないように流れる道筋を、お前は見つけられへんのかと、蔦子さんは水煙に諭されたらしい。
 どうもなんかコツがあるようや、あいつの使える、時間巻き戻し技は。万能ではない。たとえ神でも、万能ではないんや。それは実は人間様と変わらへん。
 要は、自分の持っている能力を、いつ、いかにして使うか。それによって、一発逆転の奇跡を起こせれば、あいつも立派に神さんや。
 水煙は、確かに、すごい能力も持っている。秋津家を守り、代々の当主とともに戦ったやろう。鬼をぶっ殺したりして、人間様を救ったかもしれへん。けどそれは、水煙の本質やない。あいつは実は、自分のほんまの力を、まだ発揮したことがない神や。神とはまだ、言えへんかもしれへんで。
 寛太がほんまに不死鳥かどうか、その力を発揮するまでは、確定せえへんのと同じ。水煙様はただの剣で、神様やないかもしれへん。どんな力を秘めてても、秘めてるだけやと、ないのと同じ。力というのは、ちゃんと発揮されて、それが人の役に立って初めて、あることになるんや。
 アキちゃんかて、目覚めた力を役立てられなきゃ、ただのぼんくらのぼんのまま。水煙はそんなアキちゃんを、立派に一人前にしてやろうと、必死で頑張ってたんかもしれへんけども、でも実は、一人前やなかったんは、てめえのほうやったんやないか。俺はちょっと、そう思う。
 もちろんそれは、結果論やけどな。オチを知ってるからこそ言えること。この時点では、俺はまだ知らんかった。水煙のことは、自分より強い、偉大な神やと思うてた。たぶん俺もアキちゃんと同じで、どっかあいつに頼ってた。俺はアホでも、水煙様がなんとかしてくれるやろ。面倒くさいところは、あいつにやらせときゃええわ。俺は、すごいわ兄さんて、褒めときゃええわ。あいつは一人で、やっていける奴やって、どこかで信じてたんやろなあ。
 でも、ほんまはそうやなかった。あいつにも弱いところはあった。鋼鉄やのに。金属疲労でも溜まってたんか。それでボキッと、いってもうたんかな。水煙はこの後、折れてもうた。ほんまにやないで。心のほうが。
 俺は気がついてへんかった。いつの間にやら、自分のほうが、水煙様よりずうっと強くなってたということに。自分が平気で耐えられるもんに、向こうは耐えられへんのやということに。
「せやけど、珍しおすなあ、おぼろ。あんたが昔話なんて。水煙のことも。思い出すのも嫌なんやと言うてたやないの。いったいどういう心境の変化やの」
 確かに何かの変化があると、確信したような口振りで、蔦子さんはおぼろに聞いた。おぼろは頼ってしなだれかかるふうな寛太の肩を、労るふうに抱き寄せてやって、にこにこ淡い薄笑いの顔で、赤毛の頭に自分の頭をくっつけてやっていた。そうしてると全然、恋敵とは見えへん。どっちかいうたら、似たもんどうしのカップルみたいやった。
 寛太は虎を選んだけども、ほんまは誰でもよかったんかもしれへん。運命の流れという意味では、別に他にも相手は居った。湊川怜司でもよかった。ちょっと変な奴やけど、これで案外、面倒見もええんやしな、怜司兄さんは。よしよし、俺に似て可愛いなあって、いつまでたってもヒナ鳥みたいに、可愛い可愛いしてもろて、生きていってもよかった。それは不死鳥のコースやなかったやろけど、寛太ひとりだけのことを思えば、まあ、それはそれで、けっこう幸せやったかもしれへんで。
 しかし寛太は虎を選んだわけや。それが実働しているコース。寛太は自分の運命の相手として、信太をツレに選んだけども、それは同時に、不死鳥として羽ばたくコースを選んだことにもなる。なんでか言うたら、信太はそれしか許さん男やったからや。
 気の毒やけど、信太はずっと、浮気をしていた。寛太より、おぼろ様より、そして女主人の蔦子さんより、誰より好きな相手がおった。そいつの名前はな、神戸というねん。
 信太はかつて失った故郷の代わりに、この街を守りたいらしい。今度こそこの街の、神のひとりになりたいんやって。俺にはそれも、よう分からん。土地に憑いてるやつの気分はな。
 俺にとってはアキちゃんが大事。あいつが世界の全てやし、あいつが愛するから三都を愛する、ただそれだけで、アキちゃん抜きなら、どうでもええねん。俺はどこでも生きていける。そんな薄情な、さすらう神さんやからな。愛が大事、愛が全てで、恋愛より大事なもんがあるという奴の気持ちは、さっぱりわからん。
 信太はそういう奴やってん。不幸やで、そんな男に惚れてもうたら。俺にはお前より大事なもんがある、土地を守護する仕事のほうが、お前より大事。せやし死ぬけど、それも労災や。我慢してくれ。そんなこと平気で言うわけやから。
 理解でけへん。理解できるか? 俺にはでけへん。寛太はどうや。理解でけへんのやったら、今からでも遅くはない。誰か他のに乗り換えるとか、せめて理解でけへんと、虎に絶叫してやれ。
 そんなもんも一切なしで、死のうというのか、この虎は。なんて薄情なやつや。亨ちゃんちょっと、ミス・チョイスした。これと寛太を、くっつけたのは、虎にとっては幸せやったかもしれへんけども、寛太には済まんことをした。もしもまだ、違うかじを切れるんやったら、切ってくれ。
 心変わりをすればええやん。そんなの誰でもやってるで。お前もできるよ。もっと楽なほうへ。楽な相手のほうへ、気持ちを向ければええんやで。そして、明後日より先の未来にも、へらへら幸せそうに、笑った顔して生きていけ。もしもお前が、実はただの火の鳥で、不死鳥やないっていう事になっても。
 だってそんな、いきなり神になれるかな。今までただのアホやったのに。今もたぶん、大して賢くはないのにさ。だってアホでなきゃ、平気で座ってたりせえへんよ。もっと何か、リアクションあるやろ。自分が本気で惚れている奴が、明後日死ぬわと言うてんのやで。湊川怜司と、しょんぼり抱き合うてる場合やない。
「心境の変化というか、時局の変化やで、蔦子さん。予感やけども、何かいろいろ動き出すような気がするんや。ずっと停滞していたもんが、やっと流れ出す」
「おやまあ、あんたも予知をするようになったんか? うちの血を飲んだせいやろか」
 冗談みたいに蔦子さんは言うていたけど、静かに笑っているような目は、どことなく、満足そうやった。おぼろの龍の傷も癒えて、とうとう飛び立つ時が来たと、蔦子さんは思うてたんかもしれへん。
「嫌やけど、しょうがない。また水煙と同じ釜の飯を食う羽目になるとは。これも蔦子さんの言う、時流というのか。紆余曲折あったけど、結局また振り出しに戻ったわ。俺はまた、あの青いのと、アキちゃんを取り合う羽目になんのか。因果は巡るってやつか。今度はドジ踏まんようにしたいもんやで」
「あんじょうおやり。幸せに向かって漕ぐだけどす。それが時流を渡る時の、基本どす」
 あだっぽい笑みで言う蔦子さんは、うさんくさいような女占い師の顔やった。
「言い訳するわけやないけどなあ、おぼろ。いろいろ、ひどいことがあったやろ。せやけど、アキちゃんのことに関しては、うちはあれで、実は最善の未来を選択したんやないかと思うんえ。生きて戻ってこられれば、もちろんそれに越したことはなかった。それでも結果、戻ってきたんえ。うちはちゃんと、会うたもの。きっと帰ってくると思うてたわって、登与ちゃんはけろっとして言うてましたえ。結局そうして、ええようになる未来を、信じて待ってる子が勝つわけやしな、アホみたいやけど、あんたもそうしたらどないどす? どんだけ視ても、結局のところ、未来さきは分からしまへんえ。その時が来て、蓋を開けてみるまでは、分からしまへん。人事を尽くして、天命を待つだけどすえ」
 ここで、蔦子おばちゃまの、ことわざ豆知識。人事を尽くして天命を待つとは、先のことはわからへん、人間は人間がやれるベストを尽くして、後は思い悩まず、天地あめつちの良きようにお任せしなはれという意味どすえ。ケ・セラ・セラやな。結局そこへ、合流したわけ。The future's not ours to see. 先のことなど、分からない。未来は結局、人の視るもんやないから。何が起きるか、そこまで実際、生きてみてからのお楽しみ。悲観したらあかん。どんな怖い運命が待っていても、それにはまだ、続きがあるかも。自分の人生の続編や第二部は、もしかすると、ものすごハッピーな話なんかもしれまへんえと、それが結局、稀代の予知能力者、海道蔦子の人生の結論らしい。せやし諦めたらあかん。幸せ探して、漕ぎ続けなあかん。
「未来を視てる女にそう言われると、含蓄があるわあ」
「そうやろ。あんたも精々、お気張りやす」
 さようならとは言わんけど、蔦子さんの微笑は別れの笑みやった。
「なにそれ。送辞?」
「そんなもんどす。アキちゃんには、ウチからも、あんたは息子に乗り換えたわけやないからと言うといてあげます。それとも、乗り換えたんか?」
「乗り換えてへん! 必死な奴らが寄って集って、へったくそなことしとるから、見てられへんようになっただけや」
 何それ兄さん、俺らのこと? 違うよね。俺らのこと言うてはるのん?
「大体このボンボンのどこが……」
 怜司兄さん、なんかアキちゃんのこと、罵ってやろかと思うたんやろか。じろっとソファの向かいにいてるアキちゃんに、憎そうな照れ隠しの目を向けた。なんで照れてんの。なんか微妙なんですけども。
 しかしまた、それどころやなかった。
 一時おさまってたはずの、アキちゃんの霊水だらだらが、また始まりそうになっていた。ものすご強い後光を発して、アキちゃんはたらあっと額のあたりから垂れてきた透明な水のようなものを、ぽたりと膝に受けて、まずいという顔をした。おぼろ様もした。
「先生……締まりなさすぎ。また漏れてるで」
 湊川怜司は眉をひそめて、めっちゃ蔑むように言うてた。
「そんなふうに言うな。なんか他に言い様あるやろ」
 アキちゃん悲しそうやった。俺も若干情けない。確かにちょっと、漏れすぎやで、アキちゃん。自分でなんとかでけへんのか。我慢するとか。何かないの。
 そんな奴見たことないで。ヴィラ北野にはいっぱい巫覡ふげきの人らいてはるけども、霊力ダダ漏れで溶けそうなってる人なんか、一人もいてへん。アキちゃんだけやで。格好悪いんとちゃうの。それに大ピンチやないか。どないしたらええんや、これは。まさかずっと鳥さんにチューしてもろとく訳にはいかんやろ。俺、いややで、そんなん!
「まずいわ、蔦子さん。なんとかせな。こんなん、どんな大食いの神でも、食えへんで。寛太ももう満腹やもんな?」
 抱っこしてやっている鳥に、湊川が訊ねると、寛太は困ったような顔で、うんうんと頷いていた。いくら美味いもんでも底無しには食われへんよな。
「水煙は?」
 また汗みたいに、たらたら垂れてきたのを手で拭い、アキちゃんは焦ってるのを堪えた声で、誰にともなく訊いた。
「水煙はあかんやろ。あいつは極めて小食の神やで?」
 湊川はぽかんと答えてやってたが、アキちゃんはそれに地団駄踏みそうな、イラッとした気配になった。
「違うやろ! どこに居るかって訊いてんねん! 水煙に相談したいんや。そもそも、それもあってここへ来たんや」
 アキちゃんはキレそうなってた。一応、我慢はしてるらしかった。どないして我慢してんのか、よう分からん、見当もつかん感覚やけど、とにかく堪えてはいる。なんやろ。トイレ我慢するようなもん? それとも、何か違う我慢? ははは。まあ、それはええけど、たぶん他には例えようもないような感覚やろな。
 そわそわすんのか、アキちゃんは立ち上がっていた。何となく胸が喘いでいて、またのぼせてるみたいやった。
「あらまあ。そんな緊急の話があるんやったら、先にそっちをすればええのに。段取りの悪い子ぉやなあ、ぼんは」
 蔦子さんも、ぽかんとアキちゃんを見上げて言うた。
 それにアキちゃんは、さらに駄々こねたような険しい顔をした。
「蔦子さんが先に、式を譲るか譲らんかの話を始めはったんやないか。俺が悪いんか。俺が悪いということになんのか!?」
「まあまあ、そう吠えんと。水煙やったら、隣に居りますえ。竜太郎と。もう予知は、終わってんのやないか。水音がせえへんようになった」
 アキちゃんを宥めるような声で言い、蔦子さんはさらりと裳裾を引いて、籐椅子から自分も立った。
「行きましょうか。信太、あんたたちはお残り。おぼろ、あんたはどうしますか」
 どっちの仲間に混ざるんやと、蔦子さんは湊川怜司に訊いていた。おぼろは、肩を抱いていた腕をほどいて、よしよしと優しく、寛太の赤毛を撫でてやっていた。
「俺も一緒に行くわ。寛太、俺の電話番号知っとうやろ? なんかあったら遠慮せんと電話しろ。啓、お互い生きとったらまた遊んでくれ。ほな、またな……」
 寛太に見上げられつつ、にこやかに立ち、おぼろは淀みのない神戸弁で話した。どこへ行っても、その土地の言葉で話す、そういう性質の奴らしいで、怜司兄さんは。
 そして、別れの名残を惜しむように、氷雪系と手を握り合っている白い背に、虎はため息混じりに声をかけてた。自分から声かけへんかったら、たぶん無視されるやろというような、そんな悲哀に満ちていた。
「俺には何かないの、怜司」
「成仏しろよ」
 にっこり笑って、おぼろ様は答えた。虎が可哀想やった。
「せっかくやけど後にしてくれへんか。来るんやったら急いでくれ」
 これ、うちのアキちゃんやけどな、ほんまデリカシーの無い男。冷や汗みたいに、こめかみからも首筋からも、たらたら雫を流しつつ、青い顔しておぼろを急かした。
 もうちょっと我慢でけへんのか、アキちゃん。どんだけ切羽詰まってんのや。
 握手してやろうというのか、おぼろ様は去り際、信太に手を差し出した。虎はそれを握ったけども、なんやほんまに、通りすがりの神か仏の手に縋りついてるみたいに見えた。
「指輪どしたんや」
 握った手には、いつもやったら指輪があったんやろう。微かに他にも聞こえる声で、信太は訊ねた。確かに指輪の跡はある、白い指をやんわり掴んで。
「捨てたわ、飽きたし」
 にっこりしたまま、あっさり答えるおぼろ様には、血も涙もないように見える。こいつが泣いたり、寂しくなったりするような事が、時にはあるというのが、今この時にはちょっと信じられん。
 信太は暗い真顔やったけど、たぶん傷ついたんやろう。俺はそんなふうな気がした。
 するりと抜き取られていく白い手を、そのまま逃がして、信太はちょっとだけ、切ない目をした。
「心配いらへん、信太。この国では、昔から言うねん。捨てる神あれば、拾う神あり、ってな。拾うた神に、お前も拾うてもらえ。きっと幸せになれるよ」
 てめえが捨てた神に、虎は慰められていた。それで、うんともすんとも、言わへんかった。手を振って、颯爽と見える足取りで、おぼろは俺らに混じってついてきた。すたすた出ていくアキちゃんを追って、俺も行き、蔦子さんを連れて、それを追ってきたおぼろは、ワンワン早うせえと声かけてやって、気後れしている瑞希ちゃんの面倒も見た。
 おぼろ様のいるチーム秋津も、悪くはなかった。なんかまるで、ずうっと前からそうみたいやった。いつの間にかそこに居て、邪魔にもならへん。悪目立ちもしない。そんな空気感の奴で、居るとなんでか、心強いような気がした。
 めちゃめちゃ変で、イカレてもうてる、エロエロ妖怪やのに、隙間に居ると、なんでかほっとする。
「怜司……もう戻ってけえへんのか?」
 どんより暗い信太に、寛太が心配げに訊いている小声が、背後の居間から聞こえてきていた。それはずいぶん、心細いような声やった。
「そうや。あいつはもう、消えたんや。もともと幻みたいな奴やったやろ。それがほんまに、消えただけやで」
 信太は暗い、優しい声で、寛太に教えてやっていた。あれは悪い夢やと、小さい子供に諭してるような声やった。たぶん自分に、言い聞かせてる声。おぼろ様は幻やった。もう居ない。もう、あいつ抜きでやっていくんやからなと、信太は言うてた。
「兄貴、俺、怜司のこと好きやった」
 振り向いて見ると、寛太は虎の膝にすがって、そう言うてやっていた。優しい鳥さんなんやなあと、俺は思った。
「そうか。俺もや。あいつはほんまに、ええ奴やったなあ……」
 しみじみ言うてる、虎の声を、おぼろ様が聞いていたのかどうか、俺には分からん。顔を見たら、おぼろは曖昧な、淡い微笑やった。これっぽっちで、はい、さようならかと、俺は目で訊ねたけども、おぼろ様はにこにこ笑って、早う行けという目をした。
 さっさと退散。引っ張ったところで、どないなんねん?
 自分はもう部外者で、海道家とは赤の他人やし、虎とも赤の他人やねん。そのほうがいい。そう思わへんか、邪魔者はおらんほうが、話がシンプル。虎も忘れやすいやろう。溺れる覚悟が決まるやろう。赤い鳥さん可愛いわ、こいつが好きでたまらへんて、誰に気兼ねもなくそう思えるやろう。
 それでええねんと、笑っている目が、そう語ったような。それは俺の、勝手な空想で、おぼろ様は別になんも思っていない、ぼけーっとしてただけかもしれへんのやけど。
 でもたぶん、きっと俺の空想のとおりやろう。しかしそれを、表に見せへん。ぼやーっとしたままにしておく。はっきりさせへん。それも湊川怜司の、甲斐性らしいで。
 そしたら虎は自分に心地よいように、その時々で回想できるやろう。あいつはもう俺を捨てた。せやし関係ないわと、新しい鳥と戯れるもよし。それとは別の、寂しい夜に、もしもそう思いたいんやったら、今ももしや、おぼろの龍は、俺を想って泣いてるか、そやから月が霞むのかと、勝手な妄想にも浸れる。それは肩の凝らない、気楽な幻想や。そう思いたきゃ、思えばええよと、それも許してやってるらしい。
 曖昧なまま、はっきりさせへんほうがええもんも、世の中にはあるらしい。俺にはそういうの、よう分からん。愛は愛やで、突き詰めたい。行くところまで行きたい。上り詰めたい。そういう欲のほうが、俺は強い。
 ウロコ系にも、いろいろいてる。よう分からんなりに、こういう奴もおるから、ええんやろうなあというのは、分かる。アキちゃんがなんで、こいつに癒やされたか、それはまだまだ、分かりたくないんやけどな。
 廊下に出て、隣の部屋の扉を、こんこんと蔦子さんがノックしても、返事はなかった。それで、その部屋の合い鍵を使って、蔦子さんは扉を開けた。
 俺やおぼろや瑞希ちゃんには、関係ないけど、アキちゃんと蔦子さんは、鍵を開けんと入られへん。今はまだ、とりあえず、そうやで。
 扉を開くと、空耳やろうか。波打ち際の音がするような気がした。潮の香りも。むわっとするほど立ちこめていた。さわん、さわんと、波は静かに、寄せては返し、まるで部屋の中に、浜辺があるような気配がしてた。
 蔦子さんがふと、顔をしかめた。何か察しをつけたような、不吉な予感を感じてる、そんな表情やった。
 白い裳裾を翻し、蔦子さんは足早に、隣とそっくり鏡写しになっている作りの部屋に、つかつか入り込んでいった。
「竜太郎」
 いなくなった子を、呼んでるおかんの声やった。
 俺はなんとなく胸騒ぎがして、前を歩いていたアキちゃんを追い抜き、蔦子さんを追いかけた。
 そして見た。居間にはほんまに、海があったで。
 海ではないんかもしれへん。これは時流というやつや。時の流れや。それがほんまの海みたいに、壁にぽっかり開いた真っ暗な洞穴の出口に打ち寄せる、小さな波打ち際を作っていた。床にはキラキラ細かい水晶か、石英みたいな砂粒が、小さい浜を作っていた。
 そこに竜太郎は丸くなって、眠り込んでた。
 斎服さいふくというらしい、神社の兄ちゃんたちが着てるような、白い着物に水色の袴をはいた格好で、白足袋まで履いている。これから学校で劇でもやんのかという、そんな出で立ちやったけど、それは小さいながらにげきとして、神事に臨むための服装やった。
 アキちゃんと違うて、この子はほんまにげきとして育てられた。蔦子さんは、いろいろ教えた。どうやって未来を視るか。どうやって、時流を泳ぐか。
 すでに竜太郎は一人前で、なんでもそつなくこなす、賢い子やった。せやし、一人で大丈夫。お母ちゃん、あっちいっとけって癇癪起こすし、それに水煙も一緒なんやから、いっぺん一人でやらせてみようかと、そう思ったのが間違いやったんやな。
 水煙様は、もちろん、その時を待っていた。竜太郎に無茶をさせてもええような、そういう魔が差す時を。
「竜太郎!」
 二度目に呼ぶ時の蔦子さんの声は、ほとんど悲鳴みたいやった。
 竜太郎は寝てるんやなかった。顔色が、倒れている砂の色に近い、真っ白やった。
 白い砂浜。暗い洞穴。うす青く光る、時の水。そして、そこに佇む、目の醒めるような鮮やかな青色の、龍神様を俺は見た。
 水煙やった。佇む言うても、体は蛇や。青い鱗が鮮やかで、ゆるく蜷局とぐろを巻いている、その肢体は優美。俺は自分も蛇やから、そう思うんやろう。同じうろこを帯びた眷属に、親しみがある。
 でも、その時の水煙様の顔は、とてもやないけど親しみは感じられへんかった。
 水煙は、ぼうっとしてた。もともと青い仮面のような、無表情な顔の作りで、つるりと黒いガラス玉みたいな目にも、表情は薄い。せやけど動かん能面にかて、表情があるように見えるのと同じで、俺は水煙が無表情な神やとは、感じたことはない。笑うし怒る。泣いてるように見える時もある。
 けど今は、泣いてない。笑ってもいない。ぼんやりしてて、まるで、心ここにあらず。腕をだらんと両脇に垂らし、水煙はこころもち首を傾げて、砂浜に倒れ伏している竜太郎と、それに取りすがっている蔦子さんを見下ろしていた。
「どないしたんや……水煙」
 俺は恐る恐る、声かけた。蛇体で立つ水煙様のお顔は、俺から眺めて、見上げるような高い位置にあった。
「水地亨か」
 俺に気付いて、水煙はぼんやりと、名を呼んできた。
「どしたんや、竜太郎は。何があったんや……」
 お前もどないしたんやと、俺は訊きたかった。でも、絹を裂くような蔦子さんの悲鳴を浴びて、怖さのあまり固まってもうてん。
「竜太郎、しっかりしなさい!」
 ぐったりしてる中一の、まだまだ育ちますよみたいな体を揺すって、蔦子さんは取り乱していた。
「どないしよう、ぼん……息をしてへん。うちの子が、息をしてまへんのや」
 蔦子さんは、悲鳴みたいな涙声で、後から駆けつけてきたアキちゃんに、そう泣きついた。なんで蔦子さんみたいな人が、アキちゃんに泣きつくんか、俺はこの時、おばちゃまの、心の本音を見たような気がするわ。アキちゃんは、おとんにそっくりやからやろ。キツいみたいに、厳しい態度やったけど、蔦子さんもほんまは、暁彦様にそっくりな、ジュニアのほうを見て、いくらか胸キュンやったんや。
「何があったんや、水煙」
 驚いても良さそうなもんやのに、アキちゃんは、水煙の今の姿を見ても、それにはなんもリアクション無しやった。まるで毎日見てたみたいやった。
 でも、そんなはずない。初めて見たはずや。水煙はこの姿を、自分では醜いと思うてたはず。せやしアキちゃんに見せてるはずがない。
 声かけられて、こっちは、はっとしていた。水煙はやっと、苦しいような顔をした。見られんのが、つらかったんやと、俺は思うで。
「竜太郎に何があったんや?」
 詰問する声で、アキちゃんは訊いた。
 アキちゃんは、取り乱している蔦子さんの肩をとっさに抱いて、もう片方の手で、倒れている竜太郎の口元に触れていた。ほんまに息してへんかどうか、確かめたんやろう。
 水煙は、問うたげきの質問には、答えなあかんと思うたんやろう。うっすらと、青い唇を開いて、ためらうように、しばし押し黙ってから、答えた。
「死んでもうたわ、アキちゃん」
「なんやと……何言うてんのや。なんでそんなことに……」
 そんなこと、受け入れがたいという悲壮な顔で、アキちゃんは竜太郎の顔を見ていた。それが死に顔やなんて、想像したない。アキちゃんは竜太郎のことは、好きやったやろ。可愛い又従兄弟またいとこやった。アキちゃんに、よう懐いてたし、生意気やけども、結局のところ可愛い子やったで。
「息が詰まってもうただけや」
 水煙は、長い腕をあげて、もじもじ居心地が悪いように、胸のあたりで自分の指を弄んでいた。その手が震えてんのを、俺は見つけてもうて、やばいんちゃうかと思った。
 水煙、お前、大丈夫か。なんで震えてんの。震えなあかんような、何があるんや。
「溺れたんか!?」
 叫ぶみたいな厳しい声で、顔あげて、アキちゃんは水煙に、分かり切ったことを訊いた。水煙はその声に、びくっと全身を震わせていた。古い神でも震えるような、そんな力が、この時のアキちゃんにはみなぎっていたらしい。今までジュニアは屁でもない、可愛いもんやって、そんな偉そうな上から目線やったのに、アキちゃんに怒鳴られた水煙はもう、哀れっぽかった。
「そうや。溺れたんや」
「なんでそんなことになるんや。お前がついておきながら!」
「竜太郎が、もっと先まで泳ぐというので、止めへんかった」
 なぜかと問われたから、理由を教えたというだけの、ぼんやりとした口調に聞こえた。でもアキちゃんは、理由を訊いてるわけやないと思う。責めてるんやで、お前を。
「なんで止めへんかったんや!」
「お前が死ぬような未来しかない。もっとよう探せと言うたら、頑張ると、その子が言うので」
 すうっと竜太郎を指さして、水煙は話した。それはまるで、こいつが悪いと言うてるようやった。水煙には、そんなつもりはなかったやろう。それは人間の感覚や。水煙はほんまに、どっか鈍いようなとこがある。アキちゃんさえ無事なら、こいつはそれでええねん。他の人間なんて、どうでもいい。役に立つか立たないか、その程度にしか思えてない。頭はええみたいやのに、たぶん心が鈍い。秋津の直系でない人間にも、生きてる価値はあるって、こいつはほんまに分かってんのか。
 アキちゃんは、軽くわなわな来てた。何か堪えるみたいやった。たぶん怒りを、堪えてんのやろ。誰に怒ってええかわからへん、やり場のない怒りみたいなもん。
「それで見つかったんか。俺にとって都合のええ未来は。竜太郎の命と引き替えに、なんか見つけたか?」
 爆発寸前みたいな声で、アキちゃんは静かに訊いた。水煙は、ふと顔をしかめた。こいつには、アキちゃんの心の中が克明に覗けるらしい。可愛いジュニアがどんな気持ちでいるか、心配でたまらんと、いつも覗き見や。
 そんな覗き屋根性やから、痛い目にあうねん。
 アキちゃんがこの時、水煙様に腹を立ててることも、ちゃんと分かっていたやろ。
「いいや……何も。お前はどうあっても、死ぬようにできてるらしい。海から龍が現れて、げきを生け贄に求める。お前はそれに応える。それが宿命のようや」
「どないしても俺は死ぬって、そんな話を知るために、お前は竜太郎を見殺しにしたんか」
「いいや。お前が死なんでもすむような未来を、見つけたいと思って」
「その結果がこれか!」
 まるで水煙が憎いみたいやった。アキちゃんはそんな目で、龍神様を睨み付けてた。
 アキちゃん、そんな目で、見んといてやってくれ。水煙は必死やったんやと思う。アキちゃん好きやで、必死やったんやで。俺はそんな姿を、前にも見たことがある。その時は、俺が止めたし、思いとどまれた。でも今回は、誰もおらんで、こいつも極まってもうたんや。
 お前のためにやったんやで。そんなんされても、嬉しくないのは分かるけど、でも、お前のためにやったんやで、アキちゃん。
「意味がないやろ! 俺が生きても、代わりに誰かが死んでもうたら! なんでこいつが……」
 まだ中一やのに?
 アキちゃんは、済まんことをしたという、痛恨の表情で、竜太郎のちっさい胸に、取りすがっていた。苦しいんやろう。また人が、自分のせいで死んでもうた。アキちゃんにはそれが、自分が死ぬよりつらいらしいで。水煙はそれを、知らんかったんやっけ。知らんかもしれへん。俺しか、知らんかったんかもしれへん。
 俺は水煙様に、それを教えてやるべきやったんか。
 そんなん、考えたこともなかったわ。だって俺は、アキちゃんのツレで、こいつのことは、一心同体みたいに知っているつもり。なんでも知ってる。分かり合えてるつもり。
 でも水煙は、ただの剣やん。それに俺に教えてもらわれへんでも、アキちゃんの心が読めるんやろ。わかってるはずやろ、そんなこと。なんで俺がいちいち、教えてやらなあかんねん。そんな必要あると思ってなかったわ。
 けどな、知ってた。水煙が、竜太郎をぶっ殺してでも、アキちゃんを助けようと思うてたことは。でもな……忘れててん。まさかそこまでせえへんやろうと思ってた。
 それとも、俺はまだ、ちょっとは思うてたかな。もしかしたら、アキちゃんが助かる方法を、水煙と竜太郎が見つけてくるかもしれへん。そのせいで、中一は死んでまうかもしれへん。でも、まあ、いいか。アキちゃん助かるんやったら、それも尊い犠牲やって。
「なんで連れて戻ってやらへんかったんや。無理させたらあかんて、頼んだやろう。お前は俺の命令は聞けへんのやな。俺のしきやないんや。初めから、違ったんやろ。お前はおとんの言うことは聞けても、俺のことは、馬鹿にしてんのや」
 アキちゃんが突然、そんなこと言うんで、俺はぎょっとした。水煙も、びっくりしたんか、うっすら開いた唇が、もの言いたげやった。
「お前はうちの血筋に取り憑いて、鼠の子でも飼うように、飼い慣らしてきたんやろ。命令なんか、聞く気はないんや。なんでそんなんやねん、お前も神なんやろ。なんで俺に優しいみたいに、竜太郎も守ってやられへんかったんや」
 アキちゃんちょっと、キレてると思うわ。
 いつもそんなこと、ほんまに思うてたんか。心のどこかで、思うてたんやろなあ。それがすっかりキレてもうて、あることないこと、喋ってもうてんのやないか。
 水煙がアキちゃんの命令きかへんはずはない。聞いてたで。アキちゃんの言霊に縛られていた。そのせいで口きけんようになったり、してたやないか。
 はっきり言わんかったから、うまく働かんかったんや。無理させたらあかんて言うたけど、それが限界越えて泳がせることやとは、言うてへんかった。水煙にはそれは、無理なことやなかったんや。愛しいジュニアのために、死んでくれと、竜太郎もアキちゃんを愛してんのやったら、それは充分可能やろと、こいつは思うてた。
 人やないねん。剣なんやから。人と同じような心は持ってない。水煙には、やむをえないことやったんや。アキちゃんと竜太郎を比べて、どっちが大事か考えて、アキちゃんを選び、竜太郎は切り捨てた。そういうことやで。
 竜太郎が憎かった訳やない。アキちゃんのこと、愛してだけ。アキちゃんだけを、愛してただけやねん。
「アキちゃん、事故や。そうなんやろ、水煙。そうやって言え。お前にかてミスはある。ドジってもうただけやろ?」
 俺はなんとかフォローしてやる糸口はないもんかと、必死で手探りしていたよ。横からくちばしつっこんで、うるさく言うてきた俺を、水煙はぼんやりしたように力無く、ゆっくり首を巡らして見た。
「ドジってなど、いない。行くかと訊いたら、竜太郎が行くというんで、連れていってやっただけや。何かもっと、視えるような、気がしたんや。見落としている未来の欠片がある。竜太郎はそれを拾おうとしていた。もしかしたら、それを見つけることで、未来さきが変わるかもしれへんのやから」
 ぼんやり言うてる水煙の話は、今ひとつ、よう分からん。
 どうもほんまに、ボケッとしてもうてるようやった。水煙はいつもやったら、どんなトンデモな話でも、一応それなり、アホでも分かるように噛みくだいてから話してくれてる気がするんやけど、この時はほんまに、訳わからん独り言みたいやった。
「でも間に合わへんかった。戻る途中やったしな。息が続かんかったんやろう。そうなるやろうという気はしたんや。でも俺は、止めへんかった。うっかりした訳やない。そういうのも、ドジやというんか?」
 お前けっこう、融通利かん奴やったんやな。適当言うときゃええねん。うっかりしてましたスミマセン、悪気は無かった、見逃して。これは事故です言うとけば、アキちゃんかて、ひょっとしたら許すかも。
 水煙様をなじりたい訳ではないやろ。今ちょっと、ぶっ飛んでもうてるだけで。ふと冷静になれば思い出す。いつもやったら水煙は、アキちゃんにとって、有り難い有り難い神さんで、なじるどころか、崇めるような視線やった。自分より上にいるモンやという態度やった。
 それが今では何でか、そうではない。大人に楯突く、駄々っ子の気分か。それともアキちゃん、ほんまに水煙様より、偉くなってもうてたんかな。神様より偉い、人間様で、どっちがどっちを生んでやったんか、わかってるんやろうなという態度。
 人間はときどき、それを思い出す。神があんまり横暴でいると、こんな神なんか要らねえと、どんな有り難い神でも棄てる。あるいは無難に作り替えようとする。革命や。宗教改革。
「ほったらかしといたんか。竜太郎を。死んでもうてから戻ってきたんか」
 水煙のほうを見もせんと、アキちゃんは竜太郎の息をしてない静かな胸に、額を擦り寄せたまま訊いた。暗い声やった。怒りと憎悪を呑んでいる、暗い嵐の海のように。
「息は継がせた。口移しでやけど。蔦子の時は、それで済んだんやけど。その子は疲れていたようや。まだ若すぎたか。水も冷たかったし、運もなかったんかなあ。連れ戻した魂は、その体に収めたが、息をしてへん。心の蔵も、止まってもうてる。使い果たしてもうたんやろう、力を」
「力って何や」
 青い顔を上げて、アキちゃんは小声で訊いた。蔦子さんは竜太郎の傍で頽れて、顔を覆ってしくしく泣いていた。まるで、か弱い女の子みたいに。
「霊力や。生きる力や」
 鬼気迫るようなアキちゃんと話すには、水煙はあんまりにも、ぼんやりしてた。冷静そのもの。取り乱してない。ぽかんと抜けてて、やってもうたわと、軽い後悔はしてるけど、反省はしてない。しょうがないんやと思うてるみたい。竜太郎が死んでも、仕方ない。これもアキちゃんのためやから。
「霊力って、どんな霊力でもええんか。俺のでも?」
 訊ねるアキちゃんに水煙は、つるりと黒いガラス玉みたいな目を細め、ただ頷いていた。その時こいつが何を思ってたのか、俺には分からへん。こんな姿してたら水煙はまた、心なんかないように見える。なんにも感じてないように。
「蔦子さん、泣かんでええよ。絶対助けるから。俺が絶対、助けるからな」
 何の確証もなかったくせに、えらい調子のええ話。アキちゃんは、まるで頼りがいがあるように、きっぱりそう言うて、蔦子さんを励ました。
「アキちゃん、助けてやっておくれやす。ウチの息子を。後生やから」
 取りすがってきた蔦子さんに、アキちゃんは、うんうんて頷いてやっていた。妙な男やで、俺のツレは。なんも知らんアホな子のはずやのに、やる時はやる。これも血筋の力やろうか。秋津の当主で、三都の巫覡ふげきの王やから?
 誰にもなんにも教えられてへんのに、アキちゃんは縋る蔦子さんをやんわり脇に押しのけて、竜太郎にキスをした。マウス・トゥ・マウスやで。俺が傍におるというのに、それれに気兼ねもなんもなし。
 アキちゃん必死やったんやろう。また死んでまう。俺のせいで竜太郎が死んでもうたら、もう、つらい。蔦子さんにも世間様にも、顔向けでけへん。竜太郎が可哀想すぎて、耐え難いって、そんな自責の念に駆られて、それで頭がいっぱいになってた。
 人間、必死になってれば、予想もつかん力が出たりする。いわゆる火事場の馬鹿力。アキちゃん基本は、それやから。大ピンチなってビビってもうて、実力越えた実力を出す。ぶっつけ本番。演習はない。
 あるはずのない渚の潮水に濡れた、竜太郎のひょろい体を抱き上げて、アキちゃんは熱烈にキスしてた。たぶん何かを注ぎ込んでる。水飴みたいな、例のアレやろう。鳥さんが食うていた。熱くて甘い、桃みたいな匂いのする、アキちゃんの霊水や。
 皆、それぞれ、あんぐりとして、それを見ていた。
 もう、普通の世界やないから。
 中一と、又従兄弟またいとこのお兄ちゃんの、熱烈キッスやから。それを、おかんがガン見やねんから。お兄ちゃんのツレも見てるよー。犬も呆然やから。水煙様も、こころもち首を傾げた、虚脱したような顔のまま、じっとそれを見下ろしていた。
 ただ湊川怜司だけが、アキちゃんと竜太郎やのうて、ぼうっと見てる水煙を、見ていたような気がする。俺も必死やったし、よう分からんのやけどな。
 アキちゃんはどれくらい、そうして竜太郎にキスしてたやろか。長かった気がする。ぴったり合わされていた竜太郎の唇から、ふとアキちゃんが唇を離すと、たらあっと濃い蜜みたいなもんが、竜太郎の口の端から溢れて垂れた。もう満タンらしかった。
 しばらく竜太郎は、ぐったりしたままやった。アキちゃんはその体を抱いて、じっと真剣そのものの目で、竜太郎の顔を見つめていた。
 気のせいか、竜太郎の頬には、うっすら赤みがさしてた。まだまだ蒼白やけど、それでも生きてるような顔色や。死んでるのに比べたら、生きた人間の顔色になってきている。
 一度強く揺さぶって、アキちゃんは待ち切れんのか、声かけた。
「竜太郎!」
 アキちゃんに一喝されて、竜太郎は突然、ごぼっと吐いた。アキちゃんが呑ませた霊水か。いや、違うっぽい。竜太郎が吐いたんは、うっすら虹色に輝くスライムみたいな、透明なゼリーっぽい、つるんとした塊みたいな液体やった。
 げほげほ苦しそうに咳き込んで、竜太郎はびっくりするくらいの量の、虹色光沢ゼリーを吐いた。吐き出されたもんは、片っ端から砂に染みこみ、揮発するように消えていく。後には軽い、イオン臭みたいのが漂った。ポカリスエットの缶あけた時に、一瞬匂う、苦いような甘いようなアレやんか。知らん? 嗅いだことない? 今度いっぺん、ポカリ飲む時、くんくんしてみて。
「時の水やわ……」
 自分もかつて、その中を、泳いだことがあるという口調で、蔦子さんは軽い驚きとともに言った。泣き笑いの表情やった。
 そして、かすかな躊躇ためらいの後、アキちゃんが支えてやっている竜太郎の体を、蔦子さんはぎゅうっと抱きしめた。そうするのが怖いけど、ずっとそうしたかったみたいな、そんな不思議な抱き方やった。
 蔦子さんはずっと、怖かったらしい。竜太郎に触んのが。なんでか言うたら、秋津家は、ぶっちゃけ近親相姦の血筋やで。可愛い息子が、可愛い可愛いて思うのは、もしや劣情ではないかと、このおかんは恐れ、それで遠慮しとったらしい。竜太郎が乳離れしてからは、スキンシップの薄い親子やったみたいやで。自分の息子とどういうふうに付き合えばええのか、蔦子さんはずっと迷ってた。それでついつい甘やかしたり、放任したりしてもうてたみたい。もしかして、秋津のおかんもそうやろか。怖い怖い。考えんとこ。
 しかし、そんな妙なわだかまりも、時の水の溶けるポカリ臭の中で、一緒に難なく溶けて消えた。抱き合うてる蔦子さんと竜太郎は、誰が見たかて、死にそこなった息子の黄泉がえりを、心底喜ぶおかんと、まだまだ幼い息子の抱擁やった。
「お母ちゃん」
 ぼけっとした、力のない声で、竜太郎は蔦子さんを呼んだ。
「あっちいっといてくれって、僕、言うたやろ。なんで居るのん」
「何を言うてますのんや、あんたは。死にかけてましたんやで!」
「そうなん……? どうりで三途の川見えた」
 石積んでたらしいで、竜太郎。さいの河原で。ひとつ積んでは母のため。ふたつ積んでは父のため。親に先立つ小さい子供は、三途の川を渡る時、そういうことをするらしい。あの世に渡る、三途の川の河原の石で、小さい小さい石塔作る。そこへ鬼がやってきて、せっかく積んだ石塔を、蹴倒していくらしい。
 竜太郎の場合は、鬼はアキちゃんやな。夢かうつつか知らん、暗い河原で石積んでると、アキ兄がやってきて、石塔蹴倒し、なにやってんねん、そんなんするな、もう帰るでと、連れに来たらしい。それにぐいぐい手を引かれ、竜太郎君は戻ってきたらしい。
 危なかった、もしもう川を渡ってもうてたら、戻るに戻れへん。その向こう岸はもう黄泉よみで、冥界の神々の支配領域や。行ったら戻れん、一方通行なんやからなあ。
「竜太郎、何をしてたんやお前は。命がけで視なあかんような未来なんかないやろ」
 アキちゃんはすでに説教口調やった。心配しすぎて、ほっとした瞬間に、また腹立ってきたらしい。
「でも僕、アキ兄を助けようと思って……」
 怖かったんか、竜太郎はまだアキちゃんに抱き起こされながら、言い訳口調で身を強ばらせてた。そして自分が言いかけた話に、自分ではっとしたようで、竜太郎は探す目の後、自分を見下ろしている水煙を見上げ、問いただすような険しい目をした。
 それに水煙は、ただやんわり首を横に振った。あかんかったという意味や。お前は死ぬほど頑張ったけど、無駄やった。無駄死にするのは免れたけど、成果は上がらへんかったと、水煙は竜太郎に目で教えた。
 竜太郎は、ものすご悲壮な顔をした。もう大丈夫そうやって、アキちゃんが抱いていた腕を退き、砂浜に座らせてやっても、助かって嬉しいという顔はせえへんかった。
「アキ兄、僕、もういっぺん行ってくる。もうちょっとだけ水煙貸しといて。あと一日でええねん」
 頼み込む口調で言われ、アキちゃんは唖然としていた。険しい表情やった。アキちゃんがまだ怒ってることは、俺にはよう分かった。
「あかん。もう返してもらう。お前ももう、予知をするのはやめとけ。しても意味がない。お前がどんな未来を占って来ようと、俺はもう覚悟を決めたからな。逝く時は逝く。それがほんまに必要やと思うた時には、迷わずそうする。それは占いやのうて、その場で決める。ほんまに龍が現れて、俺を生け贄に求めるのに出会うた時に決めることにする。俺は、その場の判断で、一番正しいと思うことをする。元々占いは、信じへんねん」
 じっと竜太郎の目を見て、アキちゃんはそう言い聞かせてた。それは何となく、中一の餓鬼に言うてる目ではなかった。ひとりのげきが、もうひとりのげきに言うてる、大人に話すみたいな口調や。俺はそうする、お前はそれを、分かってくれるかと、アキちゃんは竜太郎に相談してた。
 その話をされて、竜太郎は胸を喘がせ、言葉を選んだ。
「アキ兄は、僕の力を否定すんのか。当たったやろう、僕の占い。全部当たったやろう」
 よっぽどショックやったんか、竜太郎はアキちゃんの服の胸を掴んで、身を乗り出し、かき口説いた。必死の目をして言うてるのが、ちょっとばかし、可哀想やった。
 竜太郎は自分の予知能力に、自信を持っていたやろう。それが自分のアイデンティティやった。アキちゃんが自分の絵を描く能力に、強い自信を与えられているように。
 それを大好きなアキ兄に否定されたら、自分の人格を否定されんのと同じこと。中一やったらそう思うかも。アキちゃんがなんでそんなこと言うんかまでは、すぐには頭が回らへん。
 竜太郎は傷ついた顔をしていた。アキちゃんはそれを見下ろし、苦い顔やった。傷つけたくはないんやろ。ほんまやったら、そんなことは、言いたくはない。せやけど、これには中一の、命がかかっているからな。
「全部当たった。せやけど、それは、偶然なんやで、竜太郎。そんな力あるから、お前は死ぬような目に遭うたんや。そんなん要らんねん、普通の中学生やっとけ。俺が死のうが生きようが、お前には関係ない。それは俺の運命で、お前が命がけでどうにかせなあかんと思う必要は全然ないんや」
「なんで? そんなことない。僕かて一人前のげきやねん。予知能力がある。未来を選択する力があるんやで。それでアキ兄の役に立って、なにがあかんの!」
 アキちゃんの首根っこを押さえたまま、中一、必死で言うてたわ。それ以外に、自分になにができるのかと、思い詰めてるような目やった。アキちゃんはそれから、目を逸らしてた。応えてやる気はないんやろ。蔦子さんにも、そう言うてたやん。竜太郎は又従兄弟またいとこ。恋愛対象ではない。せやのに竜太郎は、恋してる目でアキちゃんを見てる。
「死んでまでやれとは誰も頼んでへんやろ。なんでそこまでするんや……」
 縋ってくる子を、抱き留めてやるわけにはいかん。そんな我慢強さで、アキちゃんは砂浜に膝をつき、自分の膝に手を置いていた。
 竜太郎がなんでそこまでするのか、アキちゃんは知らんのやろかと、俺はこのとき不思議やった。せやけど、知らんはずない。そうやろう? だってアキちゃんはとっくの昔に、海道竜太郎君の、アキ兄を想う切ない胸の内を告白されていた。そしてそれを拒んでた。拒んでおいたし、もう忘れたやろうと、思ってたんかな。
 残念ながら恋愛というのは、相手がなびかんかったぐらいで、治まるもんやない。どうせ一方的なもんやねん。相手が自分を好きやろうが嫌いやろうが、そんなことには関係なしで、好きなもんは好き。
 もしかしたら、相手がなびかん片想いのほうが、よりいっそう好きや好きやが募るもんなんかもしれへん。そうでなけりゃ、抱かれた訳でもない中一ふぜいが、アキちゃんのために死のうなんて思い詰めるわけがない。それとも初恋っていうのは、それくらい、夢中なもんなんか。
 俺は忘れた。初恋なんて。そんなの遠い昔のことすぎて、滅多に思い出さへんわ。竜太郎が抱えてる、幼い純情みたいなもんが、分かるような、分からんような。手も握らへんような時の、なんだかんだは、俺とアキちゃん、一瞬で通り過ぎてもうたしな。
 もったいないことしたやろか。ゆっくり歩く恋もええなあって、竜太郎なんか見てると思うけど、でももう、ジェットコースターで駆け抜けてきた後やしな。分からへん。純情で、奥手な奴らのやることは。
「俺がやれと言うたからや」
 うわっ、水煙、なんで言うのん? 黙ってりゃええのに! 俺はチクってへんで! 自分で言わへんかったらバレへんかったのに!
 けろっと言うてる水煙に、俺は心底ぎょっとしていた。
 アキちゃんも、横から言われた水煙の一言に、脳天ガツンて来てた。相当ショックみたいやった。真っ青になって、また水煙を振り仰いでた。
「なんやと?」
 普段やったらありえへんような、堪えた喧嘩腰で、アキちゃんは水煙に訊いた。水煙は、どこまでも虚ろな暗い宇宙のような目で、じいっと真っ直ぐにアキちゃんを見つめていた。
「竜太郎は分家の子や。本家のぼんであるお前のために、命を投げ打つのは当然の忠義や」
「お前はいつの時代の話をしてんのや。わかってんのか水煙。今はそんなこと、せえへん時代なんやで。今の世の中では、人はみんな平等なんや」
 まるで時代劇の人と会うちゃったみたいに、アキちゃんは焦って言うてた。ジェネレーション・ギャップありすぎみたいやった。
「いつの時代でも関係ない。秋津はずっとそうして家を守ってきた。直系の血筋を守るために、一族で結束してきたんや。お前の父もそうやった。祖父もそうやった。血筋の始めまで遡っても、ずうっとそうやったんや。それがお前の代でだけ違うということがあるものか」
 表情がなくても、水煙の目は強い。今まで俺はずっと、お前んちの血筋を見守ってきた。お前より、いろいろよう知ってるし、昨日今日生まれたばっかりのぼんが偉そうに、水煙様に楯突くなって、そんなガン垂れ勝負やで。
 普通やったらここで畏れ入るんやろう。ははあ水煙様、ありがたやありがたやって、拝んで引き下がるところ。それくらいの霊威は水煙にはある。父祖の代ではずうっとそうやった。
 しかしアキちゃんは違う。底抜けの我が儘坊ややからさ。ほんまに底が抜けてて、霊力ダダ漏れなんやから。それに駄々こねだしたら言うこときかへん悪い子で、あの怖いおかんでさえ、こいつにはずうっと手を焼いてきたんや。ほぼ妖怪か子鬼やで。
 おかん、ほんまに言うてたもん。小さい頃のアキちゃんは、ゴネるとなったら、どうしようもない我が儘で、ほんまに子鬼なんやないかと思てましたわ、って。せやし、奥ゆかしい水煙様ぐらいでは、こいつの真性の我が儘に勝てるわけがない。
「違って何が悪いんや! 俺はおとんや、祖父さんとは違う。同じ男やないんやで。俺を当主に選んだというんやったら、今の代では俺がルールやろ。お前も俺のしきなんやったら、ちょっとは俺の言うことをきけ!」
 ほらな。アキちゃん徹底抗戦の構えやで。畏れ入ったりせえへんのやで。
 水煙はそれに、調子狂ってもうたんか、うっと小さく顔をしかめてた。おとんはもっと、素直やったんかな。水煙怖いて、畏れ入ってくれてたんか。
 やっぱあれやで。人間なんてな、いっぺん好きやて言うてやってもうたら、どこまでも付け上がるんやで。特に秋津の男はな。そういえばそれも蔦子さんが、ついさっきそう言うてたよな。秋津の男は、甘やかすと、どこまでも果てしなく付け上がる。
 まさにアキちゃん、果てしなく付け上がってたんやろな。水煙様に対しては。こいつは俺に惚れてる神やと、それにもう確信が湧いている。
「お前の言うとおりにしていたら、家など、すぐ滅んでしまう」
 咎めるような伏し目で言うてる水煙は、俺には若干劣勢に見えた。頑張れ兄さん。せやけど、そんなに家が大事か。それは何のための家やねん。お前にとって、秋津家というのは、どういう家なんや。
「滅んで何があかんねん。中一の子をぶっ殺してまで続けなあかん家なんかあるか。そんなんしてたらな、一族みんな、そろって鬼になってまうわ。俺の代で秋津は終わりや。俺が死んで、もう何もかも消えてなくなる。こんな腐ったみたいな血筋のオチは、それでええんや」
 アキちゃんが怒鳴る声で答えると、水煙は一瞬、目を見開いて、よろけたみたいに小さく身じろぎした。綺麗なうろこのある、神社か寺の工芸品みたいな蛇体が、ぐらりと傾いで、それでも、倒れはすまいと踏みとどまっていた。
「なんということを、お前は言うんや。言霊を忘れたか。教えたやろう。お前は自分の血筋を呪おうというんか」
「俺が呪わんでも、もともと呪われている。お前がうちに取り憑いて、呪っているんや。お前はもう、鬼なってる。神やない。ただの鬼やで水煙」
 言うてる自分の言葉にがっくりきたように、アキちゃんは項垂れていた。そうして、急にいつもの駄々っ子みたいな、どこか甘えた声になった。
「なんでや、水煙。お前は優しい神さんやのに。なんで皆にも優しゅうしてやられへんのや。そんな姿で、鬼みたいやったら、誰にもわからへんやんか。お前も神やということが……」
「俺が鬼やというんか、お前は」
 動揺したんか、微かに震えている声で、水煙は答え、そして、どこともしれん方を見た。遠い目になったんかと、俺は一瞬思ったけど、振り返ってみて気がついた。
 水煙は、おぼろを見ていただけやった。
 おぼろ様は、にやにや笑っていたわ。じっと眺めて、面白い芝居でも見てるみたいに、にやにやしていた。
 その目が自分を見ていることに、水煙は苦痛を覚えたらしい。身を捩って目をそらし、俺は苦痛やという顔をした。
「そうか……お前がそう思うんやったら、俺を鬼として滅ぼせばええよ。お前にはもう、剣なんか要らんのやろう。いつのまにやら、随分と力を増したようや。何があったか知らんけどな」
 水煙は随分と、辛そうやった。手が痛いように、握り合わせて堪えた指が、何や変みたい。なんかこう、鬼の手みたい。俺は呆然として、それを見ていた。アキちゃんはまた、気がついてへんのやろうか。自分がまた水煙に、やばい呪いをかけたのを。
 言うたらあかんのやないか。お前は鬼やなんて。そんなん言うたら、こいつはほんまに、鬼になってまうんやないか。おぼろのように、自分が愛してたげきに、お前は鬼やない、神なんやでと言うてもろて、神になった奴も居るのに、おんなじように愛したげきに、お前は鬼やとなじられてもうたら、もう、鬼になるより他はないやろ。
 お前がちゃんと、言うてやらなあかんのやないか、アキちゃん。水煙に。愛してもらえて、俺は嬉しい。俺もお前が好きや。お前は俺の、美しい、愛おしい神さんで、皆にもそれが分かるよう、人を愛してやってくれって。お前のおとんがそうしたように、お前もそうして生きていくしかない。
 せやけど、そんなアドバイス、俺の口から言わせる気なんか。せめて自分で気付け。そして俺に頭を下げて頼め。耐えてくれって。そしたら俺は、耐えてやるから。
 だから頼むしな、アキちゃん。俺やお前が水煙を、成敗するオチにもっていくのだけは、やめといて。俺はそれは、何でか知らん、つらいねん。こいつもチーム秋津のメンバーやないか。ちゃんと連れていこうよ、最後まで。
 暗くかげった色を帯びていく、水煙様の硬いうろこが、しゃらしゃらと、澄んだ金属の触れあう音を立てていた。それが打ち寄せる時のさざ波の、微かな波濤と相まって、とても美しい。砂もきゅうきゅう鳴いている。いつものアキちゃんやったら、きっとうっとり見たやろう。お前はなんて、美しい神や。この光景の醸し出す美に酔い痴れて、きっと、お前を描きたいと言う。
 でもアキちゃんは、目を閉じていた。がっくり背を丸めて座り、暗くうつむいて、音も聞きたくないようやった。もう見たくない。鬼なんやったら水煙なんて、見たくもないようやった。
 そして水煙も、見られたくはないらしい。呪う言葉が染み付いたような、黒く乱れた編み目のような文様が、するする自分のはだを這い上ってくるのを、顔を覆って耐えていた。それには痛みがあるのかと、俺は心配したけども、口を開いた水煙の声は、凜としていて、苦痛に喘ぐようではなかった。
「しかし……アキちゃん。忘れるな。お前の父も祖父も、それを生み出した父祖たちも、みんな苦しんできた。必死で守ってきた家や。それをお前は滅ぼそうというんや。家名も血筋も、ゴミやガラクタではない。お前にはなんの価値のないものでも、そのために死んだ者には敬意を払え。血筋の最後の一人のお前が、そんな腹では……死んだ者たちが、可哀想やから」
 俺の中にも沢山の、想い出と化した顔があるけど、たぶん水煙の中にもある。それは皆、秋津の血族たちやった。それと連れ合うて、水煙は時の波を越えてきた。そういう神さんやった。そんな波乗りももう、この代で終わり。
 それでもう、しょうがないという顔を、水煙はしていた。
 それも定めや、しょうがない。血筋がここで尽きるのも、運命ならば、しょうがないという、そういう顔で、水煙は悔しそうに身を揉んで、微笑した。
 それはたぶん、自嘲の笑みで、水煙はこう言いたかったやろう。俺はいったい、なんのために、今までずっと苦しんできたんやろう。次から次へ、相手を変えて、前の男の息子に乗り換え、その子にまた乗り換えして、こんな時代まで辿り着いてもうた。
 もっと早くに、どこか遠くへ、帰ればよかった。こんな惨めな目に遭うくらいなら、恋なんて、せえへんかったらよかったなあと、ちょっと自分の持つ因果やごうに、呆れたような顔してた。
 そして水煙様は、砂のお城が波にさらわれ崩れるように、ふにゃあっとくずおれて、項垂れているアキちゃんの傍らに、半分は人の姿をしている体を寄せてきた。
「アキちゃん、一体どないしたんや。蓋が開いてしもて、止まらんようになっている。そのままやと、お前は溶けてしまうんやで。使わん時には、ちゃんと締めてかからなあかん」
 水道使い終わったら、ちゃんと蛇口は締めておきなさいって、親か、幼稚園の先生か、そんな口調でやんわり言うて、水煙様は鋭いかぎ爪とうろこで覆われた手を、アキちゃんの肩に置いた。
 その次の瞬間、アキちゃんはびくっとしてた。水煙の手が、そのまま体の中にめり込んだからやろう。俺も正直、ぎょっとしたけど、でもなぜか、止めなあかんとは思わへんかった。
 水煙がアキちゃんを傷つけるはずがない。こいつはほんまにアキちゃんが好きらしい。自分は死んでも助けたい、そう思うてる。アキちゃんが何しても、結局許す。アキちゃんが自分を愛してなくても、ずっと愛してる。おぼろが暁彦様を恨んでへん、自分を棄てた男でも、棄てずにずうっと愛してやってたように、水煙もそういう奴やろう。結局この二人、似たモンどうしやねん。俺はそう、思うんやけどなあ。
「締めればええだけやで、こんな感じで……」
 ちょっと上を見てる目付きで、水煙はアキちゃんの背から、胸か、腹のあたりに突っ込んだ手を、ごそごそしていた。まるで体の中にある水道の蛇口か、水門の取っ手か何かを、ぐるぐる回して締めてるみたいな仕草やったな。
 アキちゃん、蛇口ついてんのや。知らんかった。いろいろ知ってるつもりやったけど、アキちゃんの体って、まだまだ謎がある。不思議不思議や。
 不思議すぎるわって、アキちゃん自身も、顔真っ青なってた。シュールすぎたんやろう。まさか自分の体の中に、蛇口ついてたりしてなんて、思わへんもんな。
 でも、それを程ほど締めてもらって、アキちゃんは人心地ついたらしかった。ぜえぜえ言うて汗をかいてた顔が、ほっと楽になったみたいに、いつものアキちゃんと変わらん、平静な様子に戻った。
 それを眺め、水煙はにっこり笑うてた。こいつが笑うの、珍しいような気がするけども、どうせやったらこんな、鬼みたいに変えられた、穢れた姿やのうて、アキちゃんが絵に描いてやっていた、あの美青年の顔で、笑うてやればええのに。
 それでもアキちゃん、水煙の黒い深い目をじいっと見つめ、魅入られたような目をしてた。見つめれば、神も鬼も、じっと見つめ返してくる。憎んで見れば、憎いという目で。愛して見れば、愛してるという目で。神は人を写す鏡で、いつの世でも、それを崇める人間たちの姿と似てる。好ましい神を、人は愛して、そうではないものを、鬼や悪魔と切り捨てる。いつもそうやって、自分にとって都合のええ神さんを選ぶ、怖ろしい、残酷な生き物や。
「アキちゃん、俺はやっぱり、醜いか。鬼のような化け物か。それでも、これが俺のほんまの姿なんや。どうしようもない。なんでこんなふうに、なってもうたんか。昔、お前の血筋の始めにいた男には、俺も美しく見えたようやけど、その頃はきっと、こんな姿やなかったんやろうなあ」
 笑って言うてる水煙は、俺には別に醜くは見えへんかったで。化け物言うたら、そうかもしれへん。俺かてそうやわ。皆そう。人でも神でも、どうせどこかは化けモンみたいなところをもってる。俺は普段は、それを隠してる訳やけど、水煙様は隠してない。いつでも正体で勝負。人を誤魔化すための、美しく心地よいところだけ見せた、仮の姿というのを、水煙は持ってへんかった。真面目なやつやねん。ズルは無し。本性晒して嫌われるんやったら、つらい事やけども、それでしょうがない。媚びたりせえへん。俺には誇りがあるわって、そういう矜持の奴やから。
「始め俺は、焼け爛れた鉄やった。元々は月にいた。月の一部やったんや。でも、そこから眺める地球の海が、あんまり綺麗で、ついつい見とれて、落ちてきてもうたんや。その時、すっかり、焼けてもうてなあ。それでも海から俺を拾った男には、美しく見えたらしい。あいつもげきで、刀鍛冶やった。きたえれば、お前は美しくなると言うて、俺を鍛えた。それからずっと、太刀たちやったんやけどな。そのことを、ちょっとお前に血迷うて、忘れすぎたか。俺は鉄で……ずっと太刀たちやった」
 訥々とつとつと語りつつ、水煙はアキちゃんの背に潜らせていた腕を、ゆっくり引き抜き、血でも肉でもない、透明な霊水に濡れた手を、じいっと眺めた。そして、その甘い香りのする粘液を、水煙は白い舌を出して、自分の腕からぺろりと舐めた。
 そのままの姿で、水煙は、ぼんやりかすみだし、長い蛇体を持っていた体が、見る間に巻き取られるように、元の剣の姿に変わろうとしてた。それは、おとんが作り替えさせた軍刀サーベルではない、きらきら輝く、古い時代の華麗な装飾と文様のある、美しい太刀やった。
太刀たちやねん、俺は。アキちゃん……鬼ではない。俺も始めは、神やったんや。お前の血筋の祖であり、守り神でもあった。お前たちの支配者であり、下僕でもあった。お前たちが栄え、幸せであるよう、いつも助けてきたつもりやった。愛してたんや、秋津の子らを。お前たちは、俺が最初に愛した男の血を引く末裔で、海から生まれた、月の眷属で……俺の霊の子や」
 それだけは、教えとかなあかん。そういう気配で呟いて、水煙は沈黙した。深い深い、海の底に眠る、硬い石のような沈黙やった。
 水煙て、アキちゃんのご先祖様やったんや。びっくり。ていうか、お前、女やったん? 違うよね。男やで。
 男が子供生むなんて、そんな無軌道なこと、してええの。むっちゃくちゃやで。むっちゃくちゃすぎる。非常識にもほどがある。地球の常識をはずれてる。さすが宇宙系やから。
 水煙は、地球で好きな男ができて、でもそいつが子供欲しいし家も継がなあかんしということで、他の女と結婚するのを見て、そんなアホなと思うたらしい。
 子供できればええんやろ。そんならお前の霊の一部をちょっととって、それを自分の霊をかけ合わせ、海神わだつみに頼む。神さま、子供ほしいんですけど。よろしくお願いしますって。
 水煙にも、そんな無軌道な時代があったんやなあ。
 そしたらやがて、放たれた霊の子は、どんぶらこっこと戻ってきた。海の泡に乗って。でっかい真珠みたいなもんに包まれて。
 桃太郎の、海バージョン? 塩味利いてる。それでアキちゃんの霊水、桃っぽい匂いするんとちゃうの。桃太郎と同類なんやで、きっと。
 よかったなあ、スルメっぽい匂いとかやのうて。猫いっぱい寄ってくる。俺もよだれ出てくる。桃っぽい匂いでも結局出てくるんやけど。
 なんやよう分からん。桃っぽい匂いではないねん。それは神仙の世界の香気やねん。桃が霊力のある果実やねん。桃源郷とか言うやんか。パラダイス的な異界なんやで。桃はそこから来た果物やねん。せやし神仙の世界の匂いがするんや。
 たぶん桃太郎も、ほんまの桃に入ってたわけやない。そんなデカい桃、あるわけないやんか。見たことないやろ、赤ちゃん入れるくらいデカい桃なんてさ。ブッキーすぎやで。そんなん成ってもうたら、桃の木折れるしな。
 たぶん桃みたいな匂いのする入れモンに入って、川の上流、つまり山から流れ降ってきた神人かむびとや。山も異界で、神仙の世界へと通じているんや。そこから来た男で、げきやったわけやな。子供欲しいわと願ってた爺さんと婆さんに、神さんが授けてやった、異形の子やねん。
 せやし水煙様も、海神わだつみから我が子を授かった。男カップルに子をくれてやるなんて、その時の海神わだつみも、えっらいフリーダムな神様や。
 そんな血筋を引いてるからやで、アキちゃんがホモなのって。あっ、言うてもうた。けっこう禁句やのに。未だにできるだけ認めたくない件やのに。意気地無しやなあ、ジュニア。
 もうええやん。もうとっくに終わりきってる状態なってる。どう見ても男だらけのドキ☆ドキ☆ラブゲームみたいになってる。普通に男にときめいてるから、お前は。ていうか俺も男なんやしな。水煙かてそうやで。一分の隙なく男やで。瑞希ちゃんもそう。怜司兄さんもそう。全員男です、チーム秋津は全員男の子なんですよ!
「先生、水煙抱いてやってへんの?」
 このシチュエーションで聞くには、お気楽すぎる声で、怜司兄さんが訊いてくださいました。アキちゃんは呆然と、太刀になってもうた水煙の、しいんと静まりかえっている様子を見つめてた。
「そんなんしてへん……だってこいつは……剣やもん」
 そうや。また振り出しに戻ってもうた。水煙様は触れたら切れてまいそうな、鋭い霊威を放つ白刃に戻った。もう懲りたんやろう。人に近い姿を見せてやって、それが美しいの醜いの、そんなことを気にかけるのに疲れた。もしくは恥ずかしなったんやろう、水煙は。自分のことは醜いと思うてる。鬼みたいやとアキちゃんに言われ、傷ついたんや。
 そら傷つくわ。アキちゃんにブーイング。俺かてそんなん言われとうないわ。
 まあでも、ちょっと待って、皆、ちょっと待ってえな。ジュニア逝ってよしの前に、ちょっとだけ聞いて。アキちゃん別に、水煙ブサイクやって言うてへんしな。怖いねん。美しいけど、怖いねんて、水煙兄さんの見た目は。神やいうても色々あるし、かなり人に近いのから、いろんな動物をまぜこぜにしたような異形の神まで、様々いてる。
 水煙はな、龍なんや。怖いでえ、龍。高い霊威を持ってるし、一歩間違えば悪魔サタンやないか。人にとっては危うい神さんやねん。
 それでも人間はドラゴンが好きや。それが悪魔でも神でも、ドラゴンの意匠は世界中にあるし、滅びることはない。怖いけど、美しい神やからや。
 アキちゃんは、どんな姿の時でも、水煙のこと、美しいなあってうっとり見てた。この時かてそうやった。お前は鬼やて言うた時でも、醜悪なものを見ているような目はしてへんかった。
 なんでこんなに綺麗なお前が、俺にとっては神やのに、他の人から眺めたら、鬼やと思われるような振る舞いをするんやと、アキちゃんは悔しかったんやろう。俺以外のやつらにも、優しくしてやってくれ。お前が神やと分かるように。人を愛してやってくれや。
 アキちゃんて、つくづくおとんの息子やで。言うてることまで同じやもん。
 かつておぼろ悪魔サタンから、神へと昇華させた、そんな秋津暁彦の囁きが、果たして水煙様にも通用すんのか。アキちゃんは、龍を調伏できるのか。それは続きのお楽しみ。
 できると思うてたよ、俺は。だってアキちゃん、うろこ系得意なんやし。俺なんか、バリバリ調伏されまくりやし。ぐでんぐでんやし。でっれんでれんやしな。もう、メッロメロですよ。はい。
 それにおぼろ様もなんだかんだ言うて、アキちゃん可愛かったんとちゃうの。いや、そんなことない。よろめいてない。俺は先生とは仕事上の付き合いだけやって、怜司兄さん言うてはるけど、絶対嘘やと思うけどなあ。超怪しい。妖怪だけに、怪しさいっぱいや。
 そんな蛇タラシの素養はたっぷりやから、アキちゃん、水煙も調伏できる。たぶんもう九割方はできてる。あともう一押し。
 せやけど、その、食い残したあと一割で、ふたりはたもとを分かってしまうんやないか。おとんと水煙が、なんとなくギクシャクしたもんを、ずうっと抱えていたように。
 一時、相当めろめろで、水煙なりにラブラブ大全開やったんやろうけど、愛想なしの太刀はまた、ただの黙りの剣に戻ってもうてた。明らかに、背を向けていた。もう俺は剣やし、大人しくしているし、という態度で、全速力で逃げている。
「剣やけど、暁彦様は抱いてたで。抱いて寝るねん、やったことない?」
 にこにこしながら、おぼろは教えてやっていた。アキちゃんはそれを知ってたはずや。気まずそうやった。
「せえへんよ、そんなん。普通せえへんやろ」
 悔やむように答えるアキちゃんの声は、ちょっと甘えたようやった。
「そんなん言わんと、抱いてやったら、先生? 冥土の土産にさ。どうせ死ぬんや、普通もクソもないで。どうせお前は普通でない家の子なんや。やり残した事は、全部やっていけ。それで変わる運命も、あるかもしれへん」
 全く場も弁えず、怜司兄さんは遠慮なく煙草を取り出して、ああ我慢したわあって、嬉しそうに火をつけていた。そして、ふはあと美味そうに吐いた白い薄煙は、たなびく文様になって絡み合い、時の波が打ち寄せる洞穴の奥へと、吸い寄せられていった。
「暁彦様も、帰ってきた。どないして帰ってきたんか知らんけど、とにかく帰ってきたわけや。海神わだつみの生け贄にされても、戻ってくる方法はあるということや。お前も戻れるかもしれへん。諦めんと、若さ丸出しで突き進め」
 むっちゃ爽やかに励まして、また一息、煙を吸うて、おぼろ様は言わんでええことを言うた。
「へったくそやけど、先生は粘りだけはあるからな。きっと最後に楽園がやってくるまで、立派に頑張り通せるよ!」
おぼろ……」
 がっくり砂に手をついたまま、アキちゃんはどんより言うた。にこにこ笑って、おぼろ様はぷかぷか煙草を吸うていた。
「ハイハイなんでしょうか、ご主人様」
 おどけた風に言われ、アキちゃんますます、がくっと来てた。
「わざと言うてんのか。わざと言うてんのやろ? どこまでほんまに変なんや、お前。どこからが作ってるとこなんや」
「そんなん俺にも分からへん。自由に生きてるだけやもん」
 にっこにこ言うてる怜司兄さん、突き抜けた笑顔やった。幸せそうやった。たぶんアキちゃんが面白いんやろう。確かにちょっと面白い。弱点突かれてる時のアキちゃんは。
「良かったやないか、先生。水煙にネジ締めてもらえて。あんなん現実に可能なんやな。俺、正直びっくりしたよ。役に立つわあ、水煙様。鬼だけに、鬼道きどうのプロやな!」
 怜司兄さん、ほんまに感心してはるみたいですよ。ものすご頷きながら言うてはりました。
「それに竜太郎かて無事やったんや。良かったなあ、死なんで。もし死んどったら、親不孝やったでえ、竜太郎。蔦子姐さん、お前が死んだと思うて、めちゃめちゃ泣いてはったんやで」
 中一の顔見ようと思うたんか、怜司兄さんは銜え煙草でひょいとしゃがんで、じっとり落ち込み体育座りしてる竜太郎の顔を、これでもかというぐらい覗き込んだ。
「嘘や。お母ちゃんは僕が死んでも平気やねん。冷たい母親やねん」
 すねて言うてるだけの竜太郎の話に、蔦子さんはストレートにショックを受けていた。そんなことおへんえと、真っ青な顔になって叫びそうなおかんの横で、おぼろは何が可笑しいんか、あっはっはと声あげて笑った。
「何言うてんのんや、この中学生が」
 そして、どーん、とか言うて突き飛ばし、竜太郎を水ん中にかしてた。ばしゃーんてなってた。びっくりしてたわ、竜太郎。不意打ちやったしな。溺れて、ついさっき黄泉から生還した中学生を、また水ん中にかす大人がいてるとは、予想もしてへんかったな、竜太郎。
 甘いわ、怜司兄さん常識では推し量れない人やから。龍なんやから。そしてフリーダムなんやからな。
「びっしょびしょやんか、どないしたんや、竜太郎」
「怜司がかしたんや!!」
 竜太郎、髪からだらだら潮水垂らしつつ、恨んだ目して言うていた。それでもおぼろは気にしてへん。
「そうやっけ、俺憶えてへん。ごめんなあ。トシ食うてて忘れっぽいねん」
 そう言うて、ものすご済まなさそうに謝ったのに、起きあがろうとした竜太郎を、どーん、てまたかしてた。そして、あれえ、またやってもうたわあって、怜司兄さんは笑ってたけど、どうもそういうの、この人らには日常茶飯事らしいで。怜司兄さん、気に入った子は、優しくいじめちゃう人らしいねんで。
「もおっ、やめてくれ! 耳に水入ったら中耳炎になるかもしれへんやん!」
 ほんまに耳に水入ったらしい、竜太郎は怒って、自分の耳を指でごそごそしてた。
「ならへんよ、中耳炎なんて。お前は神仙の類なんやで、丈夫やしな、はしかも二時間くらいで治ったんやで。一瞬やないか。そやのに姐さん、竜太郎が死ぬって大騒ぎして、かがみさかきまで持ち出してきて神頼みはするし、友達の坊さんに加持祈祷は頼むし、えっらい騒ぎやったんやで。過保護やなあ」
 医者やないんや、蔦子さん。そのへんがズレてる。普通のおかんと。
「そんなん知らんもん……」
 竜太郎はブチブチ言うてた。
「知らんやろ。三歳くらいやったんとちゃうか。俺も意味なくばれて、坊さん来た時にはもう竜太郎ぴんびんしとって気まずすぎるから、坊主の大好物のケーキ買うてこい言われてな、芦屋のアンリシャルパンティエにケーキと、お持たせ用の焼き菓子詰め合わせセット買いにいかされた。忘れもせえへん、仕事の打ち上げパーティーで、ものっすごイケてる男つかまえて、さあホテル行くかていう瞬間に電話かかってきて、泣く泣くキャンセルしたんやった」
 めっちゃ記憶力ええやん。全然忘れっぽくないやん。未だにその時の悔しさを、パリッパリに新鮮なままで、心に保存してるみたいに見えるけど、怜司兄さん。
「俺もそれくらい、お前のこと大事に思うてるんや、竜太郎。蔦子さんも、お前のこと大事にしてる。せやしお前も、もっと自分のこと大事にせなあかん」
「そんなん怜司に言われたくない。お前ほど自分を大事にしてへん奴はおらんて、お母ちゃんいつも言うてた。啓太も言うてた。信太も言うてた」
「痛っ。なんて痛い餓鬼や、お前は。ここは感動せなあかんところやろう」
 本気で痛いみたいに、おぼろは中一にダメ出ししていた。
「ほんなら俺もこれからは自分を大事にするしな、お前もそうしろ。蔦子姐さん泣かすようなこと、せえへんて約束してくれ。俺はもう、行かなあかんねん。本家のしきになったから」
 あばよ竜太郎、そんな口調で、湊川怜司は中一に別れを告げた。海道家を出て、アキちゃんとこに来るって、こんな餓鬼にも挨拶してやるらしい。案外きっちりした人ですよ、怜司兄さんは。
「う……嘘や! なんでみんな行ってしまうの。信太も行くって言うてた。俺も行きたい、一緒にアキ兄んとこ行きたいよ」
「みんなって、俺と信太だけやで。啓もおるしな、他は皆おるねんで。会いたい時には来たらええやん。京都なんて、すぐそこやで。結界あって入られへん訳やないやろ。お前ももう中学生なんやし、ひとりで阪急電車かJR乗って、びゅーって来たらええねんで? 俺が迎えにいったるやん」
 にこにこ中一をなだめてる怜司兄さんが、ありえへん未来の話をしている気がして、俺は相当、切なくなってた。
 そんな未来やったらええのに。またこの先も、普通に京都の出町の家で、のんびりだらだら暮らしてて、そこへ気が向いたら竜太郎も来てええわ。毎日は困るけど、たまーにやったら、来てええわ。お前にも、うちでカレーを食わしてやってもええよ。
 そこで、アキちゃんと俺と、そして水煙と、瑞希ちゃんと、怜司兄さんと……って、えっらい増えたな。何人チームや。五人やで。戦隊モノか! チーム戦隊、アキちゃんと愉快な神さまズやで。どういう状況やねん、アホみたい!
 それでもいい。アキちゃん死んでもうて、みんな散り散り、どないなってまうんか分からんよりは、ずっといい。そんな未来にしてくれ、神様。どの神様でもいい。俺でもええけど、どうすればそうできるのか、今はまだ見えへん。
 でも、そう。怜司兄さん言うてるように、諦めたらあかん。どこかに突破口はあるって信じて、それを支えに突き進むしかない。
「アキ兄、死ぬの? 死ぬんかなあ?」
 竜太郎は急に、ふにゃあっと泣いた。蔦子さんはそれに、びっくり仰天していた。もしかして、息子が泣くとこ、見たことないのん? なかったんかもしれへん。こいつ泣くとき、実はいつも、おぼろ様の胸をお借りしていたんやないか。
 なんかそんな、泣き方やったで。こまっしゃくれた竜太郎が、うええんて泣いて、潮水でびっしょびしょのまま怜司兄さんに抱きついてるのを見てると、これが初回というような、遠慮のある体当たり具合ではなかった。
「ああもう、よしよし。死んでもかまへん、こんな男なんか。お前にはもっと上手な相手がふさわしいよ」
 何の話や、おぼろ様。アキちゃん、リアクションできんで固まってもうてるで。
「それに俺の好きやった男も。海神わだつみの、生け贄なって死んだけど、けろっと戻ってきてるらしいしな。心配いらへん。また会えるから。ぴいぴい泣くな。そして俺のお気に入りのパンツに、涙の染みをつけるな。なんでお前は俺がシルクとか、麻とか着てる時に限って泣きついてきて、鼻水垂らして、二度と落ちない染みをつけるんや」
 そう言うて背中撫でてもろて、ひんひん泣きつつ、竜太郎はおぼろに、ごめんなさいと言うた。服がそんなに大事か、おぼろ様。
 よかったなアキちゃんのシャツ借りてる時で。これが暁彦様のシャツ着たまんまやったら、実は竜太郎、汚い、濡れる、とか言うて、海にポイ捨てされてたんちゃうか。それぐらいやるで、怜司兄さん、ほんまにイカレてもうてんのやから。
「泣いたらあかんねん、竜太郎。余計悲しくなってくるやろ? 笑ったほうがええねん、こう、にっこり……」
 まだまだ泣いてる竜太郎のほっぺたを掴んで、おぼろはぎゅううっと強制スマイル化しようとしていた。でも、どう見ても、ただの変な顔やった。
「痛いよう……」
 泣きながら言うてる竜太郎の顔を見て、蔦子さんが、ウッと堪えた吹き方をした。笑いツボ入ったらしい。おばちゃま来てます、爆笑来てます。せやけどあんたが今いちばん、笑うたらあかん人やで、たぶん。
「そうそう。福笑い。姐さんも、楽しく笑って生きていってね」
 やめてよう言うてる竜太郎の顔を、容赦なくむにむにしてやりながら、朧様はにやにや笑って蔦子さんに挨拶をした。
「まるで永のお別れみたいやわ」
 ひいひい笑い止みつつ、蔦子さんは袖で涙を拭うて言うた。
「それは時と場合によりけりや。信太が死に損ないやて言うんやったら、俺もそうやしな。俺は俺で、自分の因縁と出会うたんかもしれへん。今度こそ、付き合うてみるわ、水底みなそこへ……六十年ぐらい遅かったけどな」
 煙草を銜えて、おぼろ様は、にやあっと笑った。満足そうな笑みやったけど、それは言い終えて、また吹かした煙の味が、美味かっただけかもしれへん。
「後悔の、なきように。せやけど、どうかご無事で、お戻りやす。あんたはまだ、幸せにはなっていない。本家のぼんも……他の皆さんも」
 そう言う蔦子さんは、心配げな目で、太刀になった水煙を見つめていた。
 水煙はもちろん、なんにも返事せえへんかったよ。ただの剣やし、剣は口きかへん。それが普通で当たり前。そんな態度で、また、だまんりや。
ぼん、余計なことかもしれへんのどすけど、アキちゃんは出征する前、ウチにこう頼んだんえ。お前が予知したものを、俺にも見せてくれって。いざという時、取り乱さんように、どういうもんか見ておきたいと」
 しかし、もしも見てもうたらそれが、現実に起きるものやと思えてくるやろう。信じないで押し通したいのやったら、敢えて見ることはないと、蔦子さんはアキちゃんに選ばせた。
 見ないって言うかと、俺は思うてた。アキちゃんは信じてへんのやって。
 でも実は、信じてたらしい。それは予感というか、アキちゃんの血の中にもある、蔦子さんと同じ血の力なんかもしれへん。
 竜太郎には、信じてへんと言うたけど、アキちゃんは蔦子さんや竜太郎が振るう力が、ほんまにあるとは分かってた。秋津のおかんが舞いを舞うてやった田んぼが豊作になり、祝ってやった会社が一部上場する。それがただの偶然やないことは、アキちゃんは経験的に実感してたし、それに海道家の母子に強い霊力があることは、巫覡ふげきどうしのフィーリングで分かってたらしい。
 せやし、その予知された運命からは逃げられへん。覚悟を決めるしかない。それは自分が確実に、走り抜ける未来や。デッドエンドか、どんでん返しか、それはよう、分からんけども。
 もちろん、奇跡のどんでん返しや。チーム秋津の物語に、デッドエンドの文字はない。なぜなら俺らは不死系アンデッドやからな、マジで不滅のスーパーヒーローなんやで。しかも神やで、神様レベル。それが五人も束になってかかってやで、なんで虚しい死にオチやねん。ありえへん。絶対ハッピーエンドやからな。
 問題は、どうすりゃハッピーエンドに持って行けるか、俺がまったく見当ついてないって事ですよ。亨ちゃん、この物語のヒロインやのに。どないしよ?
 蔦子さんは元の部屋に戻り、しきに命じて椅子をとっぱらわせて、コーヒーテーブルにでかい水晶玉を置かせた。それは祖先伝来の品のひとつで、元はどこか大陸のほうで採れた、巨大な結晶から削り出されたモンやという事やった。
 鏡とか、水鏡でもええらしいけど、蔦子さんは水晶と相性がええらしく、人にも見せてやるときは、その水晶玉を使っているらしい。
 今回、自分では占いせえへんつもりやったけど、一応持ってきたんやって。何となくの、虫の知らせで、お守り代わりに持ってきた。そしてそれを、結局使うことになった。竜太郎には、自分が視たモンを、他人にも見せてやる能力はなかったからや。
 蔦子さんはたぶん、無意識に、いろいろ予知してもうてんのやろ。予知能力がダダ漏れや。どこまでが予想で、どっからが予知か、蔦子おばちゃまには分かってへん。この人も、因果な性分なんやで。悪い予感に振り回されて、心配ばっかりしてるおかんで、息子にはあれこれ口うるさく言うてまうらしい。
 でも、そんなん、どのおかんでも同じかな。俺はおかんが居らんから、分からんのやけど、秋津のおかんもそんな感じやもんな。って、あの人全然、普通やないから、全く参考にならへんか。皆のお母さんてどんな人? 神通力があるか。鬼か。口うるさいか。まあ、そんなもんやで、おかんなんて。それが愛情表現やねん。あきらめろ。
ぼん、大して長いもんやおへん。しっかり見といておくれやす」
 念押しをして、蔦子さんは水晶玉と向き合い、床の上に直に座っていた。そうして深々と首垂れて祈る姿は、ほんまに古代の巫女さんみたい。ゆらゆら揺れて、それから蔦子さんは、かくんと眠りに落ちるように、神懸かりした。
 たぶん今、魂だけが、どこかよそへ行っている。たぶん時の流れの先のほうへと、まっしぐらに泳いでる。
 そして蔦子さんの霊が見たものが、水晶玉の中に映し出されていた。
 暗い暗い洞穴の中を泳いでいくような、濃い影が水晶玉の中に差し、やがその中に、弾けるように明るい、現実世界の光景が映し出された。でもそれは、明るいというにはほど遠い、怖ろしい光景で、ただ眩しいくらいに赤い夕焼けの色が、晴天のまま終わろうとしている落日の海に、美しく照り映えている。
 その水平線が、ものすごい高さでふくれあがるのが、映画かテレビのCGみたいに、水晶玉の中に現れた。映画やなんかで、すごい映像を見慣れてるせいか、それ自体にすごい衝撃はなかった。
 盛り上がった海が、ものすごい速さで押し寄せてくる。神戸の街に向かって。それを待ち受ける、見覚えのある場所に、アキちゃんがいた。道場で着るような、紺色の道着を着ていた。
 中突堤やった。船に骨が出た言うて、怜司兄さんに喚ばれ、俺とアキちゃんと神楽遥が、骨退治にかけつけたところや。赤い鉄骨のポートタワーがあって、その麓にあるKiss FMが、怜司兄さんの仕事場のひとつやった。昔、藤堂さんが働いていた、白いホテルが、突堤の先に見えていた。夕日が綺麗で、アキちゃんはまるで、ちょっとその美観を眺めに来ましたみたいに、静かに立ってるだけやった。
 その手には太刀のままの水煙が、握られていた。そして俺も、瑞希ちゃんも、怜司兄さんもそこにいて、他には誰も居らんかった。
 何でか知らん、チーム秋津の孤独な戦いみたいになってる。それでも俺は、ほっとした。その時も俺とアキちゃんが、ちゃんと一緒にいてるみたいで。
 水晶玉の中の絵は、その次の瞬間にはもう、波に呑まれる中突堤の映像になっていた。俺も呑まれたやろう。アキちゃんも。神戸も呑まれた。信じられへんような、どでかい津波に。そして囂々ごうごうと、海が渦巻き、その果てに現れた、一匹の龍を俺は見た。
 ものすごいデカさやった。ところどころ灰色と、白みを帯びた青い鱗は、まるで波打つ海そのものの色合いで、うっかりすると、海の中に龍がいてるのを、見落としてしまいそうなくらいやった。
 海神わだつみや。それが龍の形をとって、人界に姿を顕していた。
 これを倒そうなんて、考えるだけアホや。大体において、神や怪異の力量は、デカさになって現れる。小さい豆粒みたいな姿に化身することも可能は可能やけど、もともと大した規模やないやつが、どでかい姿に化けるのは無理。それは本当に力のあるのでないと、山が動き、海が動くようなサイズにはなられへん。
 その巨大な海龍は、そのサイズによって、自分がとれほどの猛烈な力を持った神であるかを、如実に物語っていた。
 これはもう、祈るしかない。
 どうか、お鎮まりください。和んでください。生け贄要るなら、差し上げますので、どうか神戸を食らうのだけは、ご勘弁くださいと、アキちゃんは祈るしかない。
 もしも戦ったら、どえらいことになる。戦ったところで、勝ち目はないけど、この龍がもし、神戸の街で暴れたら、『ゴジラVSモスラ』みたいな事になる。『ウルトラマン』でもええけど。結局神戸は壊滅してしまうやろう。
 なんとかして、海岸線で食い止めへんかったら、何もかもが元の木阿弥。波に呑まれた俺らは全員、死に損で、なんのために命取られたか、わからんようになる。アキちゃんなんて、ただの水死した気の毒な人になる。
 それは避けたい。たぶん俺らは、あの龍を、上陸させずに食い止めるために、あの突堤で待っていたんやろう。
 そして。それから。どうなったのか。
 波は、退いていった。それこそ架空の映像みたいやった。押し寄せかけてた大津波が、途中でぴたりと止まり、やがてするする巻き戻るみたいに、海へと帰っていく。そしてでっかい水柱が、どかんと海から立ち上がり、まるで一匹の龍のように、激しく波打ちながら、天へと昇っていくのが見えた。
 そうして、しいんと静まりかえった中突堤には、もう、誰もおらへん。アキちゃんも俺も、水煙も、瑞希ちゃんも、怜司兄さんも。人っ子一人おらんようになっていて、海がキラキラ夕日に照り映えて、すごく綺麗で。
 そして、THE END。
 それっきりやった。蔦子さんが視たものはな。
 竜太郎が視たものも、そうやったらしい。それが自分が視たモンと、寸分違わんことに、竜太郎はため息をついていた。無念の息らしかった。
 全身びっしょり濡れていたはずの、竜太郎の斎服は、あっというまに時の水が揮発してもうて、すっかり元通り乾いてた。どことなく、ぷうんと例の、ポカリスエット的な匂いがするだけで、海水みたいに、塩が残るわけではないらしい。時の残滓はなんもなし。
 蔦子さんは、不意に戻って、ぷはあと息継ぎするような、深い息をついた。軽くはあはあしてたけど、慣れたもんやった。それは年を経た巫女の貫禄なんやろう。お母ちゃんはすごいなあという目で、竜太郎は自分のおかんを見てた。まあ、死んで帰ってくる奴に比べたら、蔦子さんはベテランやわ。
「これで全部どす、ぼん。これが最善のコース。最悪のコースも視てみますか」
 まだまだ余裕がありますえという顔で、蔦子さんはアキちゃんに訊いた。アキちゃんはそれに首を振って、その必要はないと答えた。
「蔦子さん、波に呑まれた後、俺らはどないなったんやろう? 海の中で、何があって、最後のあの水柱みたいなのは、なんなんやろか」
「水柱は、龍やと思います。海神わだつみの龍が、天にお昇りになったんやろう。昇り龍どす。それ自体は吉祥どす。災い転じて福と成すとか言いますけど、神戸にとっては、今後の隆盛の予兆で、とても縁起のいいものやと思います」
 先にそっちの話題を選んでから、蔦子さんは、言いにくそうに言うた。
「あんたらが海へ入って、その後、どないなったかは、ウチには視えへん。竜太郎にも、視えへんかったようどす。それを視ようとして、この子は溺れたんやろう。時の水の、流れが激しゅうて、これは危ない予知なんどす。予知はもともと、危ないもんやけど、ほんまは自分や、身内の者のことを占うのは、特に危ない。引き際を見極められんようになってしもて。せやけど、秋津の巫覡ふげきは、身内のためにも占う習いやし、ぼんは気にすることおへん。ウチも竜太郎も、血筋の勤めを果たしているだけどす」
「そう言うてもらえたら、少しは気もらくやけど。でも、もう、占うのはやめといてください。この未来でいいです。後はこの絵を、どんだけ、ええもんとして、解釈するかやろ」
 絵の解釈。予知はまさにそれらしい。蔦子さんの言うとおりやったらな。
 今、俺らが水晶玉の中に視たもんは、ただの絵や。解説の人はいてない。ただ大津波が来て、俺らがそれに呑まれて、昇り龍が出て、そして神戸は奇跡的に、大津波から免れた。それだけや。
 俺らが何を話していたか、あるいは何も話してへんかったのか、それすら分からん。蔦子さんが水晶玉に写した絵には音はついてへんし、蔦子さんにも、遠すぎて聞こえてへんかったらしい。
 せやし、奇跡と俺らが波に呑まれたことに、因果関係があるという保証もないねんで。蔦子さんは直感として、それは人身御供やと思うた。でも、それはアキちゃんのおとんがそうして死んだと知ってるせいで、先入観があったからかもしれへん。
 実は俺ら、あの突堤で、腹減ったなあ、今夜なに食う? またインド料理行こか。カレーは嫌やで、明石に行って寿司食おうか。ええー、俺はフランス料理がええわあ、とか言うて、うだうだしてたら大津波来て、うっわ何やあれ、ギャアアたぁすけてえー! 終わり。みたいな話かもしれへんねんで。可能性論やけどな?
 そんなん嫌やな。アホみたいすぎ。
 どうせ波に呑まれるんやったら、それが神戸を救うヒーローになるためやと思いたい。意味なく溺れたら嫌やんか。
「この後、一体どないなったんやろ。ここまでは実現して、何か全員脱出みたいな方法って、あるか。そんな展開って、観たことある?」
 苦笑して、アキちゃんは犬に訊いてやっていた。
 映画の話やろう。この二人、映画オタクなんやし。犬がまだ人間のふりして大学に居った頃には、俺に隠れて、映画デートのお約束までしていたらしいんやから。
 訊かれて瑞希ちゃんは、むっちゃ困った顔をした。そんな話、知らんのやろう。
「大津波が出てくる映画ですか?」
「そんなんあったっけ」
「えーと……『ディープ・インパクト』とか?」
「ああ……そんなん、あったなあ」
 俺には何や意味わからへん。ツーカーな映画オタク世界で、アキちゃんと瑞希ちゃんは話していた。俺だけ目が泳いでる。話についていけてへん。
 それを見下ろし、まだスパスパ喫煙中やった怜司兄さんは、親切そうに微笑んだ。
「亨ちゃん、知らん? 『ディープ・インパクト』」
「馬しか知らん」
 なんかそんな名前の競走馬おったやん。ちょっと前にご活躍やったんや。その頃、俺がお恵みを垂れてやっていた下僕くんに、馬狂いがおって、一山あてたいというので、一緒に競馬観にいってやったら、全財産注ぎ込んで買うた馬券が万馬券に化けまして。えらいことやった、あの後。まあ、そんな話ええねん。それはまた、別のお話やしな。
「映画興味ないの? 一緒に行ってやり。暁彦様も好きやったわあ、映画。楽しいで。暗いしな、映画館。真っ暗やから。見てるようで、案外誰も見てへんから。いたずらし放題。それに最近は、カップル席とかもあるから」
 おぼろ様、何言うてんのやろ。そんなワクワクする話、今ここでせんといて。亨ちゃん、邪念しか湧いて来えへんようになるから。
「他にはちょっと、思い出さないですけど」
 俺らがアホエロ話にうち興じる間にも、しょんぼり言うてる瑞希ちゃんに、アキちゃんは首を傾げていた。
「どうなるんやったっけ。あの話」
「でかい隕石落ちてきて、津波とか来るから、みんなシェルターに逃げるわけですけど……助かる人ありいの、波に呑まれる人ありいのです」
「波に呑まれた人って、どないなるんやっけ」
「……呑まれて終わりです」
 気まずい気持ちでいっぱいですという顔で、犬は教えてやっていた。
 アキちゃんは、ううんて悩んだ顔をした。
 まあ普通、津波に呑まれたら終わりなんやで。人は生きては戻れへん。
「どうやったら、津波に呑まれても、無事に戻れるんやと思う?」
「え、それは……」
 犬、真面目やしな。訊かれたし、考えて答えなあかんと思うたんやろなあ。瑞希ちゃんにも、融通利かんようなところあるしな。必死やし。
 でもこの時、俺は、ワンワンにちょっと、天然の馬鹿力を感じた。一生懸命考えすぎると、こいつはテンパってきて、馬鹿になるのか。ものすごい事を言うていた。
「津波より、早く泳げばええんやないですか? 地形とかにもよるらしいですけど、前に聞いた話では、津波の速さはジェット機くらいやったって……」
「ジェット機……?」
 アキちゃんは、そういう意味で訊いたんやないと思うけど、犬は本気の目で頷いて、ものすご真面目に答えてやっていた。
「ええと、時速にしたら、七百キロくらいらしいです。せやし、時速七百十キロくらいで反対向きに泳げば、論理上は脱出できますよね?」
 そんなこと言うてる犬に、アキちゃんは呆然としてきたんか、できますよねと話ふられて、力無く頷いていた。
「すごいやん、それやでワンワン。みんなで時速七百十キロで泳げばええんや。よかったあ、対策見つかって。皆、まさか金鎚やないよね?」
 めっちゃ可笑しいらしい。おぼろ様、めっちゃゲラ笑いやった。
 面白いか、それ。お前も死ぬかもしれへんのやで。もしかして平気なんか、龍やしな。俺も蛇やし、平気なのかな。津波に呑まれたことなんか、今までいっぺんもないですけども。でも死なれへんのやし、生きてさえいれば、そのうち戻ってくるんやないのか。漂流して、どっかよその国いってまうかもしれへんけども。
 えーと。次回のこの物語は、漂流モノってことで。ロビンソン・クルーソーみたいな。
 俺とアキちゃん、どっかの南のほうの、無人島とかに漂着してて、パパイヤとか食うて幸せに暮らしてるから。それはそれで、ええんとちがう? 無茶苦茶やけど、けっこう良くない?
 ナイスボケ、犬。泳げばええんや。ちょっとすっきりした。迂闊にも、俺はすっきりしてもうたよ。それでええやんみたいになって、何も考えてへん自分を感じる。
「いや、ちょっと待て、おぼろ。時速七百キロとかで泳げるわけないから」
「また先生、そんな、やってみる前から弱気なこと言うて。努力しない現代っ子か?」
「努力って……」
 アキちゃん泣きそうやった。心では泣いてた。
「とにかく姐さんも竜太郎も、先生の死体は視てないんや。土左衛門なってたら、もう逃げ場無しやけど、波に呑まれて、その後は、誰にもわからんのやしな。皆で海神わだつみに会いに行こうか?」
 にこにこ笑って、怜司兄さんは言うていた。水中でも録れるビデオカメラを持っていこうかな、と。
 観光か、あんた。お客様の旅の目的は観光なんですか。撮ってる場合か、時速七百十キロで泳ごうという人々が。フルパワーで頑張れ、怜司兄さん。全力投球してくださいよ。ほんまにもう……。
「ほな、(1)波に呑まれる、(2)海神《わだつみ》に会う、(3)神戸を救う、(4)時速七百十キロくらいで泳いで戻る、(5)現地解散、ということでOKです?」
 にっこにこしながら怜司兄さんは、腕時計を見てた。それはいかにもアキちゃんが好きそうな、小綺麗な時計やった。
「夕方っぽかったし、夜までには戻れるかな。終わった後、皆でハーバーランドで酒飲もか」
 二次会の段取りまでしてはった。余裕ですやん怜司兄さん。営業してる訳がない。バーとかが。津波来てんのに店やってるアホが居るか。居るわけない。普通逃げるから。
「あかん、この時計もダイバーズウォッチに変えとかなあかん。当日は濡れても惜しくない服にしとかなあかん。でも万が一死ぬときのことも考慮して、死んでも恥ずかしくない服にはしとかなあかん。水晶玉に映ってた、あの服なんやったんやろ。遠くてよう分からへんかった。おんなじ服やないとあかんのかな」
 おしゃれ服で挑む気やで、怜司兄さん。腕時計のことまで気にしてはるで。超絶余裕。
「面倒くさいなあ。俺の髪の毛、海水で濡れたらぐちゃぐちゃなるよ。飲みに行くにしても、その前に、風呂入って着替えてもええかな先生。近場のホテルとっといてもええです? 北野まで戻るの面倒くさいやん?」
「好きにせえ……」
 どうでもええよな、アキちゃん。どうでもええわっていう顔やった。なんかもう、考えんのしんどいみたいで、難しい顔してアキちゃんは、どんよりしてた。完璧に、撹乱かくらんされている。おぼろ様の、「どうでもええか、適当で」電波に。これ、かなり強い催眠電波やで。浴びると何も真面目に考えられなくなる。今夜何して遊ぼうかとか、そんなことしか考えられへんようになる。よう言うやろ、おかんとか。テレビとか、ネットばっかり見てるとアホになるでって。一理ある。こういう瞬間の怜司兄さんとばっかり付き合うてたら、ほんまにアホになる。教養ある番組の時にも付き合うとかへんとあかん。
「ほんならせっかくやから、中突堤のオリエンタルとろうか。ここの支配人、昔のよしみで顔利くんやろ。急やけど、いけるかどうか、訊いてもらおうか」
 おぼろ様は、藤堂さんのことを言うてるみたいやった。
「何で知ってるんや、お前がそれを」
 俺はついつい訊きました。つい目が血走っちゃって、藤堂さんのこととなると。
 でも怜司兄さん、答えてくれへんかった。さっそく携帯取り出していた。コーヒーブラウンの鏡面塗装で、綺麗な電話やった。もちろん最新機種っぽい。そして、それに登録されていた電話番号に、一瞬で電話をかけていた。
「ああ、もしもし。支配人さんですか。湊川ですう、どうも。……なに? 飯? 食うてない。晩飯どころか、朝飯も昼飯も食うてない。コーヒーしか飲んでない。……平気平気、死にません。カスミ食うて生きてんのやから」
 朗らかに電話をしている相手が藤堂さんやとは、俺の脳が考えるのを拒否していた。聞こえへん、オッサンがにこやかに笑ってる声なんて。畜生、どないなっとんねん藤堂さん。昼飯前に俺と一発やっておきながら、まだまだ残弾あったんか。ラジオを口説くな。いくらなんでも怜司兄さんと、これ以上男を共有したくない。
「明後日ね、中突堤のオリエンタルとってもらえませんか。打ち上げやねん。何のって……そうやなあ。神戸を救った若きヒーローの、大津波からの生還記念パーティーかなあ。予定ではそうなんやけど。ノリしだいでは五人同時プレイやけど、支配人も嫁と来る?」
 アキちゃん顔面蒼白なってた。どの部分にやろか。俺も若干、目眩した。俺に目眩させるなんて、怜司兄さんは、ほんまにすごい。
 電話の向こうの藤堂さん、微妙すぎる笑いやった。半笑いというか、目が遠そう。一体何を思ってんのか。昔やったら怒ってる。お前はなんてよこしまな蛇やと、そいつにも言うてやれ。どう考えても悪魔サタン。怜司兄さんも悪魔サタンの一党やから。
「ええ、なに? 嫁が怖すぎ? ええやん、見たいわあ。支配人があの金髪にぎったんぎったんにされるとこ。ほんまにされんの? ぎったんぎったんに?」
 その話、マジなんですか、怜司兄さん。ほんまに遥ちゃん、藤堂さんのこと、ぎったんぎったんにしてんの? そんなの、ありえへん。俺にはありえへん。藤堂さんをシバくやなんて、そんなん絶対無理やから!
「遥ちゃん怖いんや……すげえなあ。俺も一発やりたい。今度、三人でしよか? 何か凄いことしよか? 二人で遥ちゃん、ひいひい言わせよか?」
 にこにこ言うてるおぼろ様に、電話が爆笑していた。藤堂さんが爆笑できるって、俺、知らんかった……。めっちゃショック。めちゃめちゃショック。亨ちゃん、なんでかショック。
 言うてることは、俺かて怜司兄さんと何も変わらん気がするのに。というか、怜司兄さんのほうが何倍もひどいで。せやのになんで俺やと、ムッとしたような怖い顔されて、怜司兄さんには爆笑なん。実は単に、俺の突き抜け方が足らんかったんか。
 中途半端やったか、亨ちゃん。中途半端やった!?
 世の中、上には上がおるんや。怜司兄さん凄すぎる。水煙に嫌われて当然すぎる。エロの神様すぎるうっ。
「あ。とれた? 最上階スイート? すごいなあ。メール一本でええんや。顔が利くんやなあ、支配人、かっこよすぎ。はいはい、名前はね、えーと。本間暁彦で」
 えっ、て藤堂さん、びっくりしていた。
 本間先生の浮気の相手って、君かと、藤堂さんはむっちゃストレートに訊いていた。
「浮気やないよ、人生相談乗っただけやんか。あんなん浮気のうちに入らへんから。それに俺は支配人一筋やんか。ほんまですよ。ほんまほんま。愛してる。また今度抱いてねー」
 通話終了。
 挨拶代わりか。怜司兄さんのエッチしてねは、挨拶代わりか。
「予約とれたらしいよ、先生。ん、なに。なんで皆、俺を見てんの?」
 みんな、むっちゃおぼろ様を見てた。アキちゃんも見てたし、鳥さんの肩を抱いている虎の信太もジト目で見てた。壁にもたれて腕を組んでた氷雪系も、トホホみたいな目で見てた。犬もちょっと可哀想なくらいのトホホ顔で見てた。
 平気で見てんのは蔦子さんと竜太郎くらいやった。慣れてるらしい。そして妬けへんのやから平気ということらしい。
「相変わらずやなあ、お前は……そんなん誰にでも言うとうから、愛って何やろ、わからへん、みたいになるねん!」
 今さら信太が文句言うてた。それにおぼろは舌打ちしていた。
「誰にでもなんか言うてへん。お前には言うたことないやろ」
「なんで言うたことないねん! それが今さら不快やわ」
「今やったら平気で言えるで。信太愛してる、めちゃめちゃ好きや、我愛你ウォーアイニー!」
「くっそ、なんやそれ! バリむかつく!」
 信太は牙剥く勢いでマジむかついていた。
 おぼろ様はこう見えてもシャイな人やねん。ある一線を越えて好きな相手には、好きやって言われへんらしい。照れてもうて。せやし、怜司兄さんは、藤堂さんには興味ないんや。ほんまに良かった。そして信太のことは、割と真面目に好きやったんやろう。
「俺はもう、愛してない。お前のことなんて。寛太とラブラブやから!」
 見ろこのラブラブを、みたいに、信太は鳥さんを抱きしめていた。信太、お前ちょっと可哀想すぎやぞ。どっちが振られたんか、分からへん。
「ああそうか、没関係メイグヮンシ!」
 煙草吸いつつ、怜司兄さん、ケッて言うてた。
 関係あらへんていう意味らしいで。没関係メイグヮンシ。勉強なるなあ。とっさの一言・中国語講座みたい。使う機会が俺にあるとも思えへんけど。
 信太って、日本語で言われるより、中国語で言われたほうが、傷つくらしい。言霊が、ガッツンガッツン来るらしい。それが母国語ってもんか。自分の魂と結びついている言葉や。
 関係あらへん言われて、信太はぐっさり来たらしい。何を傷ついたんや、虎。ぐったり項垂れて、もう何も言い返して来えへんかった。
「どしたん、兄貴。なんて言われたんや?」
「何でもない。何も言われてへん……」
 寛太に訊かれて、虎は力無く答えてた。確かに何も言われてへん。何も言われてへんことに傷ついてるだけや。
我愛你ウォーアイニー言うてやり、寛太。そいつ中華系やから。中国語で言うてほしいんやって。それだけなんやで、俺と付き合うてた理由なんて。お前も中国語を学べ。それで無敵やから」
 怜司兄さんのアドバイスに、寛太は素直ににっこりしていた。可愛い奴やった。
「ほな、俺、そうするわ。怜司が教えて」
「嫌や。なんでチューもさせへん奴にタダで中国語教えてやらなあかんねん。俺を舐めるな、寛太。学びたかったらラジオ聴け」
 ほんまの中国語講座かよ。後で分かった話やけども、怜司兄さんほんまにラジオで、中国語講座してはるよ。めっちゃやる気なさそうな脱力系講師やで。しかしその脱力系の、訳のわからん例文と、たとえようもない美声に、地味に大勢のファンがいるらしい。
「やっぱ怜司は俺のこと嫌いになってもうたん?」
 しょんぼりとして、寛太はちょっと泣き出しそうな情けなさやった。
「なってへん。しゃあないなあ、もう。なんで自分の男を寝取ったやつに、中国語教える羽目に。俺ってアホちゃう? ほんまにアホちゃう? なあ先生、どう思います。なんか優しい言葉でもかけやがれ」
「悪いが何も思いつかへん。ただただ呆れるばっかりや」
 アキちゃん本音で言うていた。ものすご呆れた顔をしていた。
「しょうもない男ばっかりやなあ。ファウルばっかり。誰か俺の心にジャストミートして、やったぜ満塁ホームランみたいな奴はおらんのか」
「いてますやろ。あんたの場合、それがアキちゃんなんやんか?」
 頬に手を添えて、蔦子さんは不思議そうに言うていた。
 おぼろはなんでか、吸うた煙にゲッフンゲフンなっていた。軽口きいてただけのつもりが、痛いところにグッサリ刺されて、激痛走ってもうたらしい。
「俺もう寝よう。ひとりで寝よう。なんか調子悪い。顔熱い。頭くらくらしてきた。病気なんちゃうか。酒飲んで朝まで寝よう」
 怜司兄さん自爆してもうて、お顔真っ赤っかになってたで。とっとと逃げたし、あんまり見えへんかったけど、そうしてると可愛いような気がする人で、なんて複雑怪奇なややこしい人やと思えた。さすが妖怪や。
 はなまた明日ねと、言い捨てるように挨拶をして、怜司兄さんは雲隠れした。すたすた去って、ばたんと部屋の扉が閉じる音がした。一同、ぽかんとそれを見送るばかり。
 マイペースというか、ゴーイング・マイウェイというかな。とにかく、自由な人やなあ。アキちゃん一応ご主人様やのに、帰ってええかとも訊かず、ポイッとほったらかして消えてもうたで。それで式神と言えるのか。いつも傍について、守っといてやろうとか思わへんねんや。
「あんな子どすねん」
 けろりと蔦子さんが話をまとめた。これがおぼろという神やと、そういうことらしい。
「短い間か、長いお付き合いになるか、まだ分からしまへんけど、ぼん、あの子をよろしゅうお頼み申します。なんだかんだで、ウチもあれとは長い付き合いになりました。憑かず離れずの間柄で、ウチが主人やったと言うてええのかどうか、それも分からしまへんのやけど、あれもウチの子ぉやと思うてた。やっと戦の傷も癒えたところどす。なんとか幸せにしてやっておくれやす」
 そう言うて頭下げてる蔦子さんは、まるで、育て上げた娘を嫁に出す、おかんみたい。いや、息子を嫁に出す? そんなおかんがどこにおるねん。とにかく非常識。でも、愛情深い、ステキなお母さんみたいやった。
「精一杯頑張ります」
 アキちゃん複雑そうに、答礼で頭を下げていた。何を精一杯頑張るんや、アキちゃん……。
「そやけど蔦子さん。あいつを幸せにしてやれんのは俺やない。どうにもできへん。精々、賑やかしてやって、寂しゅうないようにはしてやれるかもしれへんけど、結局それだけや」
「それでよろしおす。あの子は賑やかなことが好きな神さんなんどす。歌って遊んで……アキちゃんとも、そうしてるだけで満足やったようどすえ。色事は、あの子にとっては重要ではない。付き合わされるほうには、そうでもないようどしたけどな」
 苦笑して言い、蔦子さんは鳥とくよくよいちゃついている虎を見た。蔦子さんは、信太も可愛いらしかった。愛してくれって必死な虎が、可愛いように思えるんやろ。
「あんたは水煙と寝たことがないのんか?」
 アキちゃんが引き抜いて、また持ってきた太刀を見て、蔦子さんは真面目に訊いてた。キラキラ光る白刃を、伏し目に眺める憂い顔やった。
「ありません。そんなこと、しようと思ったこともない」
 俺はまともやと、アキちゃんは言いたかったらしいで。蔦子さんはそれに、微かに眉をひそめた。心配げに。
「そんなら、あんたはまだ、水煙のあるじではない」
「えっ」
 よっぽどびっくりしたんか、アキちゃんは一声上げたまま、あんぐりとして固まっていた。
「正式にはという意味どす。水煙は、あんたに仕えてやる気持ちは固めたんやろうけど、あんたがそれに応えてやってない。当主はその神剣を継ぐとき、初夜の新床にいどこで抱いて寝てやらなあかんのえ。儀式的なもんやと思いますけど、アキちゃんもそうしてました」
 初夜。バージンでもない道具類が、初夜の新床とは生意気な。古道具やないか、お前。おとんのお下がりやないか、水煙は。それが初夜って……。
 俺にはそんなん、無かった気がする。めっちゃ悔しい!
 ほんまの初回は、アキちゃん泥酔状態やったしさ、結婚した当夜も、特になんもイベントなかったで。普通やったで。初夜って感じでは全然なかったで。
 なんかやっときゃ良かった! バージンごっこでも何でも! そしたらきっと、いい想い出になったのに!
 そんな、内心で地団駄踏んでる深刻な顔の俺をよそに、蔦子さんは優しく励ます口調でアキちゃんに言うてやっていた。
「抱いて寝ておやり。最初の一回だけでええんどす。アキちゃんは何度もしてやってたようやけど、それは義務ではないんやから。この子もな、寂しいんどす。はがねのようでも、心は繊細な神さんなんえ。アキちゃんがこの子に惚れたのも、この子が蔵で泣いているのを、見つけたからやと言うてました」
 蔦子さんて、おとんの婚約者やったんやろ。せやのに、そんな話してたんや。合意の上やったんか。おとんにそんなご乱行があるという件について。
 まあ、そりゃあ、知ってるやろな。身内やもんな。子供の頃から知り合いなんやし、どんな家かも、よう知っている。お互い、同じ血筋の人間やねんから。
 それは、なんというか。身内としか結婚できへんはずやで。耐えられへんもん、他所モンには。この家の、独特の家風に馴染まれへんやろ。
「欲はない、水煙には。この子はただ、秋津の家を愛してるだけどす。あんたのことも、愛してるんえ、ぼん。その気持ちに報いてやろうという気はしまへんのか。水煙が鬼やというなら、その鬼を作ってんのは、あんたどすえ?」
 蔦子さんに真面目に言われて、アキちゃんの目は泳いでた。今の話が嘘ではないと、自分でも思うてんのやろう。
「ほんまやったら、ウチのほうから、龍の生け贄には分家の息子をと、差し出すべきところなんどす。水煙は、間違うたことは言うてまへん。秋津ではずっと、それが当然やったんどす。でも、ウチは……この子が可愛い。たった一人授かった、大事な息子なんどす。どうか堪忍しておくれやす。あんたを見殺しにすることになるんかもしれへん。それでもどうか、竜太郎だけは、見逃してやっておくれやす」
「かまへん、蔦子さん。竜太郎を身代わりになんて、俺にはそんな気は毛頭無いんや。気にせんといてください。こっちが頭下げて詫びなあかんところです。危ない目に遭わせて……」
 おかんの陰に隠れるようにして、しょんぼり突っ立っている竜太郎のほうに、手を伸ばしてアキちゃんは、恐る恐るみたいに、頭を撫でた。そして頬を。
 ここの血筋の人たちは、不思議なようにも思えるけども、ほとんど触れあわへん。怖いんやろう。お互いに、触れた瞬間、相手によろめいてまうんやないかと思えて。
「すまんかった、竜太郎。俺が不甲斐なくて。お前はもう、命を危険にさらすようなことは、絶対にするな。少なくとも、もっと大人になって、そうせなあかんような時が来るまでは、人の命より、自分の命を守れ。お前が死んだら、自分も死にそうになる人が居るねん。俺もそうやしな。お前は自分を守ることで、そういう人らも守ってるんやから、余計な心配せんでええねん」
 アキちゃんて時々、素でええこと言いよるな。意識してへん時のほうがいい。無意識の勝利や。竜太郎、むっちゃ感激していた。たぶん、お前が死んだら俺も死にそうって言われて、アキ兄大好きとか思うとったんやろう。まったく死んでもええような餓鬼や。
 でも竜太郎が無事で良かった。こいつが死んでもうてたら、俺も水煙も、ただでは済まへん。ほんまの鬼として、重い罪業を背負っていく羽目になっていたやろう。
 アキちゃんのためや、そんな罪に穢れてもええわと、水煙は思っていたんやろうけど、アキちゃんが求めてるのは、そんな愛ではない。こいつは守られるより、守ってやりたいさがの男で、愛してる者が自分のために死ぬとか、苦しい思いをするのは、つらい。逆のほうがいい。そういう性分なんやしな。
 水煙はおとなしく、アキちゃんに守られてやったほうがええよ。それが一番、ジュニアは嬉しいはずやねん。水煙は俺の嫁。ほんまそう思いたいんやからな。
 つーか、ほんまのお前の嫁への配慮は、どないなっとんねんアキちゃん。
「亨。今夜、水煙も抱いて寝てええか」
 ありがとう訊いてくれて。ええ配慮やなあ。
「またか。アキちゃん。また俺に遠慮せえという話か」
「いや、そうやないけど。剣やし……いっしょの布団に居ってもええやろ? ただ眠るだけなんやしな」
「ええやろ、って、ええわけないやん。抜き身やで。超危ない! せめて何かに包め。鞘を取り返すって言うても、もう反りが合わんやろ。サーベル用の鞘やしな。しゃあないし、適当になんかで巻いて寝ようか?」
 俺がそう提案すると、アキちゃんは、ちょっと苦しいような、俺に済まないという顔をして、小さく頷いていた。
 ほんまやったらアキちゃんは、俺にそんなこと訊きたくなかったみたい。せやけど訊くほかないしな。無断でやるにしては、ちょっと無茶苦茶すぎるから。初夜が3Pというのはさ、俺にも水煙にも、無茶苦茶やから。
 いいや、3Pではないか。もう一人居るんやんか。
 居場所なさそうに、瑞希ちゃんは小さくなっていた。こいつもどないしたらええか、考えといてやらんとあかんやんか。まだあと二泊ございますから。
 はぁ、と俺はため息をついた。
「もうこの際、みんなで寝よか。瑞希ちゃんだけ床で寝ろって訳にはいかんやろ。いくら犬でも、それやと可哀想やろ」
 俺が訊ねると、アキちゃんはもう、頷きもせえへんかった。ただじっと身を固くして、押し黙っていた。
 でも、それが、拒否してるわけではないらしいのも、俺は感じた。アキちゃんには他にどうしようもない。踏みにじるか、抱いて寝るかや。瑞希ちゃんのことも、アキちゃんは愛してたやろう。水煙と亨は抱いて寝るけど、お前は要らんとは、言いたくない。
 究極の選択や。この際、常識度外視。もう死ぬかもしれへんのやから、後腐れのないように。ぱあっと行きましょう。大盤振る舞いや。全員いっとけ。もう、それでいい。
 どうや、この俺の、猛烈な突き抜け具合。怜司兄さんにまた一歩近づいた?
 藤堂さんにモテるようになるかな。ははは。それはまあ、冗談やけど、一応な。
 いろんなことある、人生って。人やないけど、蛇やけど。それでも生きてる限り、山あり谷あり、照る日もあれば曇る日もありますな。ええことばかりやないけども、それはしょうがない。俺は俺が選んだ道を生きていく。アキちゃんが居るかぎり、俺は幸せ。そんな相手が居ることが、なにより幸せやったかもしれへん。
「飯行こうか、亨。なんでもお前の好きなもん食えばええよ」
 人の目に照れもせず、俺の手を握って、アキちゃんは力無く、そう訊いた。俺にはそれが可笑しかった。なんか美味いモン食わせとけば、亨は幸せやと思うてんのか、こいつ。腹立つ。そんなもんで、誤魔化されへんで!
 でも、アキちゃん、ありがとう。俺に気を遣うてくれて。俺は怒らへん。お前が俺に済まないと思うてることは、言われなくても分かってる。ツレやから。
 指輪した手でアキちゃんは、俺の手を引いた。
 そして挨拶をして、海道家ご一同様のところを去った。
 あと一日やった。運命の日の始まりまで、あと明日まる一日限り。明日はどんな日を過ごすんやろう、俺たちは。
 それはまだ、分からんかったけど、生きている今を楽しもう。死を思えメメント・モリ今を楽しめカルペ・ディエムや。
 今夜なに食おうと思って、にこにこしながら、俺はアキちゃんと歩いた。それで不思議と、幸せやった。
 きっと俺は今も、幸せに向かって歩いてる。その途中にある、ちょっとつらいところを通ったとしても、この道はハッピーエンドに続いてる。いいや、終わりのない、アキちゃんと俺の、永遠の幸せな日々に。
 そう信じて歩けば、どこでも天国。永遠に続く幸せな夜と夜。今夜はその途中にある、なんでもない一夜にすぎない。今は敢えて、そう思おうか。そしてもしいつか、最後の一瞬が来ても、俺はにこにこ笑っていたい、アキちゃんのために、いつもアキちゃんが大好きな微笑みで、見つめていたい。
 そう思って、にっこり見上げると、アキちゃんは微笑んだ。やんわり淡い、ためらいがちな笑みやったけど、それと見つめ合えて、俺はほんまに幸せやった。
 アキちゃんのその目は、俺を愛してるみたいやった。それでいい。それで充分、俺は幸せになれる。いつまでもその目で、俺を見つめてて。目を逸らさないで。その目と見つめ合って、愛してると囁けば、どんな怖ろしい神にも、勝てる魔法が使える気がする。俺はきっと、そんなものすごく強い、アキちゃんのための神になるよ。
 そう心に誓った、まだ夏の消え残る、静かで長い、神戸の夜やった。


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