SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

神戸編(12)

 真っ赤な薔薇の花びらが散るベッドの上で、裸で汗かくアキちゃんにまたがって、なるべくゆっくりと俺の中に呑んでやると、低く堪えたような苦しげな喘ぎが聞こえた。
 アキちゃんの、上に乗るのは久しぶりやった。
 熱が入るとアキちゃんは、自分が突かずにいられへん性格で、しかもそれが近頃は、めちゃめちゃ激しい。あっという間にいかされて、アキちゃんも俺の中で果てている。
 それはそれで、情熱的でええんやけど、俺は今夜はゆっくりやりたかったんや。
 色んな意味で今日は、危機を乗り越えた。アキちゃんは俺に振られたと思い、俺はアキちゃんに捨てられかけた。永遠を誓い合った仲にしては、えらいあっさりと大ピンチやったな。
 それでも俺とアキちゃんの間には、強い絆があるんやって、そう思えるようなオチがつき、俺はほっとしていた。
 せやのに、一難去ってまた一難。これが俺らの定番や。息つく間もない大冒険。
「亨……動いてええか」
 焦らされた声でアキちゃんが、懇願するように俺に訊ねた。根元まで呑んでやったきり、全然動かへん俺に、アキちゃんは我慢できへんかったらしい。
 アキちゃんはなんでか、えらい欲求不満が溜まってて、俺はそれがなぜかは敢えて訊かへんかった。聞いたらきっと、またキレそうになる話やって、何となく察しはついてたからな。
 知らんふりして今は、抱き合ってたい。そんな気分やねん。
 あの後、二人っきりで飯食いに行って、美味いカレー食って、のんびり北野デートして、異人館とか見て、たまたまやってた他人の結婚式を横目に眺め、戻ったホテルの部屋でしこたま酒飲んで、酔った勢いで楽しく新婚さんベッドでいちゃついた。そして今はこうして、またひとつの体に。いわゆるアレやな、仲直りエッチ。
「あかん、アキちゃん。我慢せなあかん。今夜は俺がリードするし、寝といて、大人しゅう、マグロのように」
 胸から腹を撫でられつつ命令されて、アキちゃんはかすかに悲鳴やった。そこはかとなく、跨いだ脚がわなないている。アキちゃんは今、めちゃめちゃやりたいらしい。
「つらい。せめて動いてくれ」
 ほんまにつらそうな声で言い、アキちゃんは俺のももを掴んできた。小さく悶絶するアキちゃんを、俺は可愛いなと思いつつ、それでもまだ焦らした。我慢プレイやで。うふっ、て思いながら。
 気持ちええわあ。アキちゃんが俺の中に居る、この瞬間が一番幸せ。ずっとこの時が、続けばええのに。
 俺も今日という今日は、いつもに増して、やりたい気持ちでいっぱいやった。めちゃくちゃ悶えて、一緒に昇り詰めたい。アキちゃん好きやって、叫びたい。
「あかんあかん、我慢やで」
 自分を諭して、俺はアキちゃんの胸に擦り寄った。蕩けるような甘露が匂う。それはげきとしてのアキちゃんの持つ、誘うような何かで、俺はいつもと変わらずそれに幻惑されている。
 せやけど昨日までとは違う。俺はもう、アキちゃんの下僕やのうて、ただの恋人やった。俺を使役する、強い呪縛は消えていた。アキちゃんが、俺を解放する言葉を言って、しきではなくした。
 ずっと傍に置いてくれ、俺をアキちゃんのものにしてって、俺はアキちゃんにいつも強請って、アキちゃんはそれに、ずっと傍にいてくれ、俺だけのものになれって、俺に命じた。それは知らず知らず、アキちゃんが俺を支配するための呪文のようなもんやったんや。
 でもそれを、二度と再び口にはしないやなんて、そんなことが可能やろか。俺にはできへん。アキちゃんの傍に、ずっと居りたい。また、アキちゃんのものにしてほしい。お前は自由や、どこへでも行けって言われた、そんな言葉ひとつで、ぷつりと途切れてもうた目には見えない糸があるようで、俺は切ない。それがなくても、俺がアキちゃんのものでいられるかどうか、心配で。
「亨……いじめんといてくれ」
 もう限界、という顔で、アキちゃんは俺を見上げて頼んだ。そして苦しそうに目を伏せ、花の散ってる新婚さんベッドに顔を押しつけた。
「なんで上に鏡あるんや……見てもうたわ」
 アキちゃんは、くよくよ言うた。蛇に呑まれる自分を見てもうて、激しく萎えた、って、そういう感じでは全くない。むしろ逆、ということは、俺にはよく分かってた。自分の中で、ちょっともう可哀想なほどになっているアキちゃんの、固い張りつめ具合を感じれば。
「そのための鏡やんか。目開けて、よく見とけ。自分のめちゃめちゃ燃えてる顔を」
 笑ってアキちゃんの頬に手をやり、俺はまた上を向かせた。アキちゃんは眩しいような辛そうな目で、俺の顔と、その後ろに見えている、心憎い天蓋の鏡の装飾を見上げてた。
 そろそろ責めようかと思い立ち、俺がそのまま動いてやると、アキちゃんは呻いてまた顔を背けた。とても見てられへんていう感じやった。つまらんな、アキちゃんは初心うぶすぎて。でも、そこがええねん。
 ゆっくりやろうと思ってたのに、アキちゃんが好きすぎて、俺も激しかった。アキちゃんは堪えきれずに喘いでた。
「亨、早いわ……もっと、ゆっくりやってくれ」
「いつも俺のこと、めちゃめちゃ責めてるくせに」
 押し止めようとして、俺の腰を抱くアキちゃんを、甘く恨んで睨み、俺は許さへんかった。だっていつもそうや、アキちゃんは、俺がすぎて悲鳴でも、もっともっと責めてくる。たまにはそれのお返しを。
「あ……、あかんて、いってまうやん」
 弱いなあって、恥じ入る口調で、アキちゃんは小さく悲鳴やった。それがめちゃめちゃ可愛く思える。もっとくしてやりたいって、俺もますます燃えてきて、アキちゃんを締め上げた。それにアキちゃん、マジで、ひいってなってたわ。
「亨……っ、あかん、凄すぎ」
えやろ? 俺もめちゃめちゃえわ……アキちゃん好きや、愛してる。もっと感じて」
 揺れるベッドから、薔薇の芳香が立った。今ちょうど、早咲きしはじめる薔薇の盛りで、摘まれたばっかりらしい花の香りは、ものすごく濃厚で酔っぱらいそうなぐらい。
 北野デートから戻ったら、部屋にやたらといいワインとシャンパンが差し入れられてて、ただでさえ笑えるほどロマンチックやった新婚さんベッドに、赤い薔薇がまき散らしてあった。それがまるで血のようで、俺は気分を掻き立てられて、めちゃめちゃ燃えた。
 どうやら上首尾やったようやなと、俺は昔の男の戦果を空想した。ああ、どんなんやったやろ、藤堂さん。きっと、めちゃめちゃかったやろ。もしも抱いてもらってたら。
 でももう、そしたら俺は、ここでこうしてアキちゃんと抱き合ってはいられへん。アキちゃん俺を、許してくれへんかったやろ。我慢しといて良かったわ。目先のエサに狂ってもうて、ほんまもんのご馳走に、お預けくらうとこやった。永遠に。
 アキちゃん、離さんといてて、俺は心の中でだけ、そう繰り返した。いつも言うてた、いつものお強請りを、今しばらくは心の中でだけ。俺をアキちゃんのものにして、もう一度俺を、アキちゃんのしきにして。誰にも切れない強い鎖で、アキちゃんに繋いでおいてくれ。そして永遠に俺を、アキちゃんの奴隷のままにしておいて。
 でもそれは、今は言うたらあかん。喉の限りに叫びたいとこやけど、今は我慢や。
 それには訳がある。それはこれから話すけど、ちょっと待ってて。アキちゃんがもう、ほんまにいきそう。早いわ、めちゃめちゃ早い。最速記録更新やないか。どんだけ我慢しとったんや、この浮気者。ちょっといっぺん、出さしてやらなあかん。
「亨、ごめん、もうあかん」
「わかってる、わかってる……」
 泣きそうに言うアキちゃんが、ちょうど具合良くいけるように、俺は好みの速さでやってやった。アキちゃんの体のことは、俺が世界でいちばん詳しいで。アキちゃんは、速いテンポがお好みで、狂いそうに責めたい、そして、責められたい。
 いつもみたいに速くやると、アキちゃんは昇りはじめた。そして俺も不覚ながら、けっこういきそうやった。やばいなあ、このまままた、最速記録更新ちゃうか。気持ちええわあ。どないしよ。もういってまうか。また二回戦やればええねん。阪神どうなったんかなあ。何でこの部屋、テレビないんやろ。藤堂さんのアホ。ああもういきそう。アキちゃんも俺も。最高に幸せで、骨までとろとろ。
「あ……っ、いく、アキちゃん、俺もいく」
 飛びそうなってる俺にびっくりして、アキちゃんは俺の腰を捕まえた。ほんまにふわりと体が浮いてた。まるで無重力の宇宙でやってるみたいに。
 ああもういきそう、って叫ぶ、昇天寸前の俺を捕まえて、アキちゃんは突いてくれた。その激しさに嬉しい悲鳴を上げて、俺は逝ってた。ご臨終です。故人はほんまに、アキちゃんが好きな蛇でした。
 お前をひとりで逝かせはしないって、アキちゃんは追ってきた。そして深く交わって、アキちゃんが愉悦を極めるその瞬間に強く抱き寄せられて、俺は喘いだ。幸せすぎて。
 アキちゃんの体は、ほんまに死んだ訳やない。絶頂に震えただけ。
 でもそれが、いつかほんまに死の震えに襲われるんではと、俺は怖くて、それに震えた。快楽と恐怖の、その両方に苛まれて。
 俺がそう思うのには、もちろん訳がある。それを話そう。
 時はまた少々、過去にさかのぼる。
 俺とアキちゃんが、北野デートに出かける前。胸くそ悪い犬が天界に帰り、俺とアキちゃんと水煙様が、バスルームに残された時点まで。
 アキちゃんは男を上げた。何とはなしに俺は、そんな気がしてた。
 ちょっと前まで、俺だけに夢中みたいやったのに、平気で浮気する余裕をぶちかますとは。大したもんやないか。神様三人手玉にとって、えらいもんやなあって、腹が立つやら、呆れるやら、ちょっと感心するやらやった。
 俺が居らん間に、何があったか知らんけど、きっと知らんほうがええような事やった。
 水煙様の首の傷を、ぺろぺろ舐めさせられてるアキちゃんを見て、俺はそれを確信したわ。もう訊かへん。アキちゃん、なにがあったんやって、永遠に訊かへんことにする。
 水煙様はアキちゃんの暴言が化けた針金みたいなもんに、三日も首を絞められてもうて、ぐうの音も出えへんかったらしい。
 それは一種の呪いなんやと本人が話してた。言葉にも力があるんやから、迂闊に何でも絵に描いたらあかんのと同じで、ろくに自分の力のコントロールもできへんような子が、キレて喚いたりしたらあかんのやって。
 言霊ことだま信仰や。日本には昔から、そういうのがある。
 不吉なこと言うてもうたら、それが実現する。名前には、その持ち主を支配する力があるから、真の名を隠して通り名を使う。大人になるときに幼名を捨てて、新しい名前になったりするのも、名前に力があるという考え方かもな。
 そういう思想はなにも日本独自のモンではなく、世界中いたるところにある。呪文唱えたら魔法が使えるとか、そういうのかて一種の言霊ことだまなんやで。
 ヨーロッパの王族とか貴族には、本名がやたらと長い名前のやつが時々おるけど、それは呪いをかけられへんようにするためや。西欧には、人を呪う魔法をかける時の呪文は、一息で唱え終わらんかったら効力が出ないという考え方がある。せやから肺活量の限界越えて長い名前にしとけば、呪われへんやろうという、合理的かつ科学的な発想なんやろ。魔法はあると、信じていた時代の人たちの発想や。
 現代にはもう、そういう信仰は薄れてる。世の中にはそうそう、真の名を持ってるやつはおらんやろ。それでも子供のころに、名前を略して愛称にしたりするのんは、その子の真の名を秘密にしておいて、神やら鬼やらに攫われんようにするための親の愛や。
 アキちゃんかて、本名は暁彦あきひこやけど、おかんにはアキちゃんアキちゃんて呼ばれてるやんか。そやのに、おかんは説教するときには、暁彦あきひこ、って鬼みたいな顔して怒鳴ってるわ。それは勿論、息子を支配したろうという、おかんの呪いやで。そんなんせんでも完全に支配されとんのにな。ほんまにどうしようもないマザコン野郎やないか。あれだけは一生治らん病気やで、絶対に。
 浮気もきっとそうやと、俺はジトっと見ながら思った。不治の病やねん。
 確かに俺は自己都合により、吸血は浮気に含まれないという話に合意はしたで。しましたけどもや。怪我治さなあかんからって、首を舐めるのは、浮気に含まれないのか、激しく疑問です。
 アキちゃんはアホやから分かってへんのや。せやけど見ろ、あの水煙様の、いかにも勝ち誇ったような顔を。俺は悔しい。
「アキちゃん、ちょっと痛いわ。もっと優しゅうやって」
 ぞっとするよな猫なで声で言って、水煙はバスタブの中でごろごろしながら、うっとりとアキちゃんに首の傷を舐めさせていた。アキちゃんはそれに肩を抱かれ、おとなしくご奉仕してやっていた。
 確かにな、そういう力があるよ。舐めれば傷が治るよ。たぶん唾液に何かそういう魔力があんねん。蝦蟇がまの油みたいなのか。そう思うと最高に微妙やけどな。イメージ的にな。でもまあ、あれも妖怪変化の一種やから。近縁種なんかもしれへんで。勘弁してくれやわ。なんでこんなに美しい俺が、ぶっさいくなカエルと親戚やねん。
 今や俺の仲間になって、その能力やなんかをいろいろ受け継いだはずのアキちゃんにも、そんな治癒能力があるはずやけど、何も今、それを試す必要ないんとちゃいますか。
 水煙なんかほっといたらええねん。放置で完治するって、どうせ。人外やねんから。
 にやにや笑った薄青い顔で、水煙様は首筋を舐めるアキちゃんの舌の感触に、ぞくぞく来てるらしかった。そら気持ちええやろ。この俺様が直々に仕込んだ舌技は。
 まったく、なんということや。宇宙人をよがらせるためにアキちゃん調教したんとちゃうで。自分がよろこぶためやないか。それが何で俺はお預けで、風呂で自分の男が宇宙人といちゃついとるのを見とらなあかんのや。イラつく。ものすごイラつくわ。
「あ……っ」
 甘い声して、水煙が喘いだ。ちょっと待てお前。ほんまに気持ちええんとちゃうやろな。
「ごめん、痛かったか」
 アキちゃんは白い血に染まった舌を引っ込め、済まなさそうに水煙に詫びてやっていた。アホか、お前はほんまにアホなんやないですか。痛いんやと思うたんか。
「平気やで。放っといても、そのうち治るのに。ジュニアは優しいなあ」
 にこにこしながら上機嫌に宇宙人は褒めていた。お前さっきアキちゃんて言うてたで。ちょっと本音出てたんとちゃうか。
 俺はむすっと洗面台のそばの籐椅子に足組んで座り、大理石の化粧台に頬杖ついてた。俺は不満ですというのを、全身で表現してみたつもりや。そやのにアキちゃんは全く気づかずやで。戻ってきたのは失敗やったか。藤堂さんにしといたら良かったわ。
「ほんまに治るわ」
 それがびっくり、みたいに、アキちゃんは俺を振り返ってわざわざ言うた。それは悪気のない顔で、朝、目玉焼き焼こうとしたら卵が双子やったわ、ちょっと見てみて、みたいな口調やった。
「そら治るやろ。そういうもんやねん。もうええやん、アキちゃん。水煙も放置でオッケイて言うてんのやから、お言葉に甘えて、俺らはインド料理食いに行こうな」
 強請る口調で答え、俺は不満ななりに、精々可愛い声で言うといた。
「そうはいかんやろ。怪我したまま剣の形に戻すのも可哀想やし」
 俺のほうを見て反論しているアキちゃんの肩に縋りついたまま、水煙は俺に、にやありと笑ってみせてくれた。なんやねん、もう。貝殻ん中なんか入りやがって。グラタンかお前は。
「アキちゃんがやることないやないか」
 ぷんぷんしながら俺は言うた。アキちゃんはそれに、気まずそうな顔をした。
「お前が嫌やっていうから俺がやるしかないんやないか」
「そら嫌やわ。そんな宇宙系の血舐めて、変な病気にでもなったらどないすんねん」
 ますます、ぷんぷんしてきて、俺は堪えきれずに、ガーッと怒鳴った。アキちゃんはますます気まずそうやった。
「そんな変な味せえへんで……」
 何となく首をすくめて、後ろめたそうに言うアキちゃんの言葉に、俺はピンと来て、そしてカチンと来た。
「美味いんか」
 美味いんや、きっと。くっそ。許し難い。
 水煙はあんな邪悪な性格でいながら、れっきとした神なんやから、その血は美味いはずや。神威に満ちている。
 アキちゃんの血が、そこらの人間のと比べものにならん美味なのも、アキちゃんがげきとして、強い力を持っていて、天地あめつちの溢れんばかりの加護を受けてるからや。持ってる力が強いほど、その血も肉も美味いし、食いでがあるもんやねん。外道としてはそうや。
 むかつく。水煙。いったいどんな味やねん。グルメな俺としては、お味見したい。でも絶対嫌や。恋敵の血を吸うなんて。
「どんな味なんや?」
 不思議そうに、水煙はアキちゃんに訊ねた。
 アキちゃんは首をかしげ、今まで食ったことあるもんのリストを頭んなかで繰ってるような顔をした。
 やがて、ああ、あれやという顔で水煙に向き直り、そして、こう言うた。
「クルフィーみたいな味」
 やめろ! それは俺の大好物やないか! これから食いに行くんやないか!
 絶対嫌や、これから先、いつまでこいつと顔付き合わせてなあかんか知らんのに、水煙美味いんや、美味いんやって思いながら居りたくない。そんなん、変な世界すぎ!
「クルフィーって、なんや?」
 水煙は、ほんまに知らんらしい口調でアキちゃんに訊いてた。
「アイスやで。食うたことないか?」
「ないなあ。俺は、もの食うたことがない」
 水煙は、ちょっと羨ましそうに答えた。
「そうか。考えてみれば、そうやろな。お前、最近まで人型になったことないんやもんな」
 アキちゃんは考え込むような気配で話し、それからまた俺のほうを振り向いた。
「なあ、こいつ、何か食えると思うか?」
 知らんやん、そんなこと!
 食わんでええねん。今まで食わんでも無事やったんやから。敢えてエサを与える必要ないやん。
「食うてみたいか、水煙」
 訊かんでええやん。俺はそう思うのに、アキちゃんは水煙に優しかった。
 どうもおかしい。アキちゃんちょっと、水煙に優しすぎへんか。もともと優しいところもある性格やけども、今まで水煙にはここまで気遣ってへんかった。
 これは一種の罪滅ぼしか。自分の迂闊な発言で、水煙に痛い目みせてもうて、それがよっぽどショックやったんやろか。
 それにしても怪しい。絶対怪しいわ。
「ものの試しや。なんか食うてみたい」
 にこにこ答える水煙に、アキちゃんはまた首を傾げた。
「そやけど、いきなりカレーというのはなあ……」
「ちょっと待てや、アキちゃん。まさか連れて行こうというんか。インド料理屋に? その、びしょびしょで、全裸の、真っ青で、ひれついてる宇宙系を? 非常識すぎるやろ」
 俺は怒鳴った。指摘してやらんかったら、アキちゃんはマジで水煙を連れて行きそうやったんや。一体、どないなってんの。あんなに普通にこだわってた男が、喋る剣でも変やて言うてたくせに、なんで青い宇宙人連れて出かけようなんて思うんや。
「そうやなあ……」
 アキちゃんは、俺の話に済まなそうにそう答え、水煙を見つめた。水煙はそれにちょっと、困ったような、悲しいような顔をした。
 な、なに、なんやろ、この空気。俺ちょっと、隣の部屋いっとこか、みたいな。そんな気を遣わされるような、この独特の空気。
「まあ、しゃあないな。どうする、水煙。留守番しとくか、それとも、剣に戻って、一緒に行くか?」
 アキちゃんはそれを、優しく訊ねた。俺が眉ひそめてんのも気づかずに。気づいてるんは、むしろ水煙様のほうで、俺はあいつがまた、どんなに勝ち誇るやろかと、身構えて待った。
「留守番しとくわ、ジュニア。二人で行っといで」
 つるりと黒い、ガラス玉みたいな目を細めて笑い、水煙はそれを許した。
 なんや、道を譲られたような気がして、俺は妙な気がした。そういやさっき、水煙は、勝呂が現れたときに、こう言うてた。俺が一番、水煙が二番で、犬はその次やって。
 あいつ、いつの間に、俺に負けたんや。
 めちゃめちゃ張り合うてたくせに。俺のこと、邪魔モン扱いして、アキちゃんから引き離そうみたいな話ばっかりしとったくせに。
 なんやろ。これも何かの作戦なんやろか。用心しとかなあかん。
 ほな行くわと別れを告げるアキちゃんの手を、水煙は名残惜しげに掴み、ちょっと切ないという顔をした。俺はそれを見て、胸騒ぎがしたんや。お高すぎて足萎え萎えの水煙様がまさか、一歩踏み出す勇気を振り絞ったんやないかと。
「着替えてくるわ」
 水浸しの水煙様に抱きつかれたせいか、アキちゃんの服は濡れていた。でも、考えてみたら、俺がここに戻ってきたときにはもう、濡れてたような気がするわ。
 そう。まるで、びしょ濡れの相手と抱き合ったみたいにな。
 それに気づくと、目のやり場に困り、俺はバスルームを出ていくアキちゃんの背に張り付いて透ける白い布地の、強い指で掻きむしられたような皺から、慌てて目を逸らしてた。
 それが誰の指か、想像するだに苦い。でも、とにかく服は着てたんやと、俺は安堵したり、嫌な汗をかいたりしてた。
「命拾いしたな、水地亨」
 バスタブのへりにもたれて、青い肌の宇宙人が俺に呼びかけてきた。
 水煙が、俺の名を呼ぶのは、これが初めてやなかったか。
「俺は本気で、お前をぶった斬ってやるつもりやったんやけど、ジュニアはほんまに優しいなあ。お前を斬るのは無理やった。俺が殺ったら、お前の魂は永遠に俺に囚われる。そんな権利は自分にはないと、ジュニアは思ったようや。まあ単純な話、お前が可哀想やったから、斬られへんかったんやな」
 心地よさそうに湯に浸かり、水煙は濡れた青い指で、自分の髪のような、ゆらめく触手かイソギンチャクかみたいな何かを撫でた。そんなキワモノの姿はしてても、こいつは綺麗やと俺は怖かった。俺より綺麗やと、まさかアキちゃんは思うやろか。
「教えてくれ。なんで、うちのぼんを裏切ったりしたんや。何でそんなことができる。お前はアキちゃんに、夢中やったんやないんか」
「夢中やで。今かてそうや。それに裏切ったりしてへんわ。前の男は、俺の下僕やで。それが変成の途中で、止まってもうてたんで、仕上げてやっただけや」
 俺の話を、水煙は黒い大きな目で、じっと興味深そうに聞いていた。
「なるほど。そいつはお前の、言うことを聞くんか」
「さあ。知らん。多少は聞くやろ。俺の血で出来た奴なんやから」
 せやけどもう、藤堂さんに何ぞ我が儘言うてやろうとは思わへんわ。あれはその、愛してくれない男への、あてつけみたいなもんやった。今はそんなことする必要はない。だってアキちゃんが俺を、愛してくれるもん。
「ふうん。つまりそれが、お前の能力なんや。怪我治したり、蝶に変転したりするのも含めて、お前はそういう奴なんやな」
 だから何。水煙は、えらい納得したように、独り言みたいに話してたけど、俺には居心地の悪い話やった。
 間の悪いとこ、こいつに見られた。ばつ悪いわ。
「いろんな奴がおるわ、しきになる奴にも。基本はみんな、主人になるげきが好きで来る。お前ひとりしか相手にしたらあかんていうんやったら、ジュニアはきっと、大変な思いをするやろ。それに敢えて耐えようというんや。肝心のお前がジュニアを裏切ってもうたら、何の意味もない。無理やと思うんやったら、早々に誰かに譲って、潔く身を引いてくれ。一人しかおらん大事な跡取りや、傷物にせんといてくれ」
 いつものような意地悪さのない、真面目な口調で、水煙は俺を諭した。顔をしかめて、俺はそれを聞いた。なんやねん、急に、改まったみたいに。どうせ、いつもの話やないか。アキちゃん諦めて、俺によこせって言うんやろ。
 水煙のひそひそ話す声は、なおも続いた。
「今回、秋津が受けた仕事は、ほんまやったら数百年に一度の大仕事なんや。十年前に、トヨちゃんが済ませたばかり。それで秋津には、目立ったしきは今はおらん。もともと先のいくさのせいで、神と呼べるようなのは、全部逝ってもうた後やった。式神は、特にデカい力のあるやつは、そう簡単には増えへん。それでもジュニアはようやってるほうや。お前といい、あの犬といい……」
 こいつは何を言いたいんやろ。
 全然、話が見えへんわって、俺はさらに身構えた。どんなイヤミを言うつもりなんやろ、この宇宙人。
「あのな、水地亨。お前は今まで、誰かのしきやったことはないんやろ。あの犬もそうや。せやから、あいつも知らんのやろ。なまず封じにはな、生け贄が要るんや。人間でもいい。しかし、それやと、ものすごい数の人間食われる。巫覡ふげきはそれを防ぐために居るんや。せやからな、生け贄として、なまずに自分のしきを食わせるんや」
 水煙がひそひそ話す内緒の話に、俺はちょっと腰が抜けかけた。
 だって、それ、どういう意味。アキちゃんが、秋津の跡取りで、今回そのなまずとかいう奴と戦わされる。そのげきであるアキちゃんの、しきは俺だけ。げきは自分の式を、なまずに食わせる。
 つまり、アキちゃんは、俺を生け贄として、なまずに食わせる。
「う……嘘やろ……そんなん。俺をビビらせて、追い払おうと思てんのや」
「追い払う必要なんかない。ほんまになまずが出るんやったら、黙って見てりゃええことや。なまずは俺を食わへん。外来のモンやから、口に合わんのやろ。それは昔に、もう確かめられてる。せやからお前のほうや、食われるとしたら」
 真面目な顔して、水煙はさらっと言うた。めちゃめちゃさらっと言うてたで。他人事やと思うて。なんて冷血なやつなんや。冷血なんは、俺もそうやけど、水煙はさすが鉄。ほんまに血も涙もないわ。
「なんで黙ってたんや、そんなこと……ていうか、なんで言うんや、今さら!」
 隣の部屋に居るはずの、アキちゃんの耳を気にして、俺は声をひそめて喚いた。俺にも結界張れたらええのに。俺ももっと真面目に勉強しといたらよかったわ。
「お前を生け贄に出すわけにはいかへん」
 窓の外を見た無表情で、水煙は淡々とそう言うた。
「なんでや。ええ気味やったんやろ、ほんまは。なまずが出たら、俺は死ぬって、内心うきうきしてたんやろ」
「してた。でももう今は、まずいと思うてる」
「なんでや。俺に惚れたんか」
 思わず毒づくと、水煙はよっぽど可笑しかったんか、瞬膜のある目を細め、くっくっくと喉で笑った。
「水地亨、うちのぼんは、お前に惚れている。お前を生け贄に出したら、きっと潰れてしまうやろ。そんな強さはあの子にはまだ無いわ」
 なんや、どっと汗が出てきてた。
 俺はなあ、死ぬのが怖いねん。死にたくない一心で、今まで人食うてきたんや。それがいくらアキちゃんのためでも、死ななあかんの、ほな死にますわって、そう簡単には覚悟決められへん。
 今までやったら、それもいくらか平気やったかもしれへん。俺はアキちゃんのしきやった。アキちゃんの呪縛に囚われていた。アキちゃん好きやし、死ぬまで戦うって、うっとりするような陶酔感で、そう思えてた。
 せやのに今は怖いねん。今でも変わらず、アキちゃんのためなら死ねるって、嘘やなく、そう思うけど、でも怖い。自分が死ぬと思うと、がたがた震えてきそうになるわ。
 やってもうたな、ほんまにもう。しきとしての契約を切れなんて、その場の話の勢いで、あっさり言うてもうて、売り言葉に買い言葉。アキちゃんも意地っぱりやから、俺との契約を解いてもうたわ。
 それでも俺はどこにも行かへん。アキちゃんの傍に居るでって、そんなロマンチックな話やったはずが、こんな思いも寄らん余波が。
「お……俺、どうなんの。ほんまに生け贄にされてまうんか」
 もう水煙でもええわ。縋りたいような気がして、俺はふらふら風呂の傍まで行っていた。
 せやけどさすがに、水煙の腕をとるのは気色悪うて、代わりに貝殻みたいな浴槽に取りすがって見上げると、水煙様は有り難い湯気と靄のオーラを纏って見えた。たすけて神様。お願いやから、俺をなまずのエサにせんといてくれ。
「心配いらん。お前はもう秋津のしきやない。さっきジュニアが契約を切ったやろ。ちょうど代わりのしきの都合もついた。あいつをやろう、生け贄に」
 鼻先を俺に近づけてきて、水煙はひそひそ内緒の話をしてた。
「あいつって……勝呂のことか」
「そうや。別にええやろ。お前には煙たい相手なんやから」
 やっぱりけろりとして、水煙は言うた。確かにそうや。そうやねんけど、俺はなんでか動揺してた。水煙の、黒くて深い、がらんどうみたいな目を見つめると、こいつは地球のモンやないというのが、良く分かる。
 俺は自分が、実はけっこう温血やということを、この時悟ったわ。ひどい話やと思うたんや。勝呂瑞希は、アキちゃんに惚れていた。あいつはほんまにアキちゃんが好きやったんやろ。それが今も変わってないとして、アキちゃんも未だに、あいつが憎くはないとして、それを騙したみたいに引き綱つけてしきにして、生け贄直行って、それはあんまり惨くはないか。
「でも……でも、アキちゃんは、なんて言うやろ」
「ほんなら代わりにお前が死ぬか?」
 すかさず言われて、うっと短い呻きが漏れた。
 それは到底無理な話やで。俺は死にとうないわ。アキちゃんといつまでも幸せに暮らしたいんや。めでたし、めでたし、ハッピーエンドやで。そうなるつもりで戻ってきたんや。なのに今さらデッドエンドなんて、そんなん、あんまりやわ。
「俺が代わりに行けたらええねんけどな。それがジュニアにとっては一番マシやろ……」
 水煙は、バスタブの中で優雅に組んでる自分の足を見て、薄いひれのある爪先をうごめかせた。
「せやけど生憎、俺は不味いらしいわ。なまずにとってはな。嫌いなんかな、クルフィー。そんな特殊な味のもんなんか?」
 細い指で自分の唇に触れて、水煙は真面目に訊いていた。俺はなんかそれが情けなくなってきて、腰高くらいのバスタブの傍にへたりこんでた。
「いや……大抵の奴には美味いと思うけど」
「美味い不味いは人それぞれ、神にも好みがあるからなあ。なまず金気かなけのモンは食わへんらしい。あと、野菜もあかんな、まいも食い残されたクチやから。肉しか食わへん」
 それはまさしく、メタボ街道まっしぐらの神やな。
 俺は最後に見た時に、なんでかゴスロリ入ってた舞のことを、ぼんやり思い出していた。
 おかんはあの寒椿の精のことを、ほんまの娘のように可愛がってたんやで。そやのに舞まで生け贄にしようとしてたんか。恐るべき、非情の血筋やないか。
「トヨちゃんは、手持ちのしきを全部投入したんや。仕方なかった。一人二人で済むような、力のある式神がもう居らんかったんや。全部アキちゃんが戦に連れていって、一人も戻って来んかった。俺以外」
 それで秋津の家には式神が居らんのや。海道家にはあんなに沢山イケメン居んのに、なんで、おかんには舞しかおらんのやろうって、実はちょっと疑問やった。おとんも言うてたわ、秋津には蛇一匹やって。つまり俺しか居らへんかったんや。
 それでもいけると、おとんは思うてた。なまず封じはもうこの先何百年かは無いもんやと、思うてたからやろう。
 それがまさか、おかんとハネムーン行ってコスプレしてる間に、こんなことなってまうなんて。それに気づきもせんかったとは、神さんいうてもヘタレやな。予知能力があんのは分家のほうだけなんや。知ってたらさすがに行かんやろ。未熟者の息子を放置して、世界一周コスプレ旅行には。
「あの犬やったら申し分ない。一匹で足りるわ。どうせ大して腹減ってないはずや、たらふく食うて寝たとこやったんやから」
「そうやろか。あいつ、大したことないで、水煙。勝呂はほんまにただの犬にちょっと毛生えたようなもんやで」
 俺が前の感触で言うと、水煙はまた、くすくす笑うてた。
「いいや。いつまでも、前の俺やと思うなよやで。あいつはお前より上や。三万年生きたらしいわ。煉獄で」
「嘘やん。あれから一ヶ月そこらやで」
 思わず口尖らせる俺に、水煙は面白そうな顔をして、意地悪そうにバスタブの水を指先でびしゃりと俺の顔に跳ねかけた。何をすんねん、コノヤロウ。
「まだまだ初心うぶやなあ。時間を操る神も居るんや。あの犬を従えてる神は、そういう種類のやつや。三万年分連れ戻したんや。せやから、あいつは今では俺と似たような大年増やで」
「なんという執念や、三万年を経ても未だに追い縋ってくるとは……」
 腕で顔を拭いつつ、俺は勝呂瑞希に改めて舌を巻いてた。しつこい。何てしつこい奴や。蛇のようにしつこい俺を、そのしつこさで驚かすとは。相当しつこい。あいつはよっぽど、アキちゃんが好きなんや。
 呪縛を受けてたわけやない。あいつはアキちゃんのしきやなかったんや。三万年もの間、ひと目も会わず、それでもアキちゃんのことを想い続けていたわけやから、あいつの気持ちはほんまもんなんや。
「犬にしとこか。お前を生け贄にして、犬を残すという手もあるわ」
 水煙は明らかにイケズな声で、俺に訊ねた。俺にはそれに、素直にオタオタしていたわ。
「マジで言うとんのか、この、鬼畜生が!」
「冗談や。それは無理やねん。心配するな」
 嘲笑ってんのか、苦笑してんのか、はっきり分からんような中間の笑みで、水煙は、死の恐怖に苦しみ悶える俺を眺めてた。
「なんで無理やねん。お前、なんでもやりそうや。血も涙もないんやろ」
 それに平気なんや。自分が生け贄にされてもかまへんて、そういう顔してた。それはお前がアキちゃんのしきやからやろ。何か、今さら悔しいわ。俺はもうアキちゃんと、なんの縁もない、ただの居候。せやのにお前は見えない絆で強く繋がれている。死んでも本望やって、うっとりそう思えてるんやろ。ビビってる俺がアホみたいに見えるやろ。
「無理や。ジュニアは犬に口説かれたけどな、抱く気にならへんて断ってたわ。お前がええんやって、水地亨。もしもお前か犬か、どっちかを生け贄にせなあかんようになったら、あの子は泣く泣くでもまた犬を殺して、お前を生かすやろう。こないだもそうやったみたいにな」
 それが事実やというふうに、水煙は淡々と話してた。励ますようでは全然なかった。悔しそうでも、悲しそうでもないし、俺と争うつもりもないみたいやった。諦めてる。そんな顔やった。その諦めの顔は、ちょっとばかし、絶望に似てた。俺は諦めるのには慣れているって、そんな顔やった。
 きっとそんな顔して、お高く生きてきたんやろ。古い神様やからな、面子があるわ。俺や犬みたいに、自分を愛してくれって泣きわめくような、そんな無様な真似はせんのやろ。それでも俺と争ってた。その程度には、お前もアキちゃんのこと好きなんやなあ。
「水煙」
「なんや」
 浴槽の縁に手をかけて、そこから覗くと、青い宇宙人は俺を見下ろす目やった。
「お前が偉そうでないと、気色悪いわ」
「言われんでも偉そうにするわ」
 つんと済まして、水煙は答えた。確かに偉そうやった。
「アキちゃんに、何されたんや」
 恐る恐る訊ねてみると、水煙は横目にじろりと俺を睨んだ。
「別に何も。キスしただけや」
 それが何や、何か文句あんのかという上から目線で、俺は激しく静かに威嚇されてた。
「気持ちよかったやろ。どんな気分やった?」
 じとっとひがむ目で、俺は水煙を見上げた。きっとかったんや。アキちゃん最近、キス上手くなったもん。
 水煙の視線がほんの一瞬、ちらりと惑うようにバスルームの床を見た。それから二度ほど黒い目を瞬き、水煙は物憂げな伏し目になって答えた。
「忘れたわ」
「忘れた……て、ついさっきやろ。脳みそ大丈夫か」
「もうトシやからな」
 思わずツッコミ入れてた俺に、水煙はうっふっふと笑った。可笑しいてたまらんというような笑い方やったけど、それはちょっと、絶望的な無表情を突き抜けて、悲しそうなようにも見えた。
 お前、なんで許す気になったんや。俺がアキちゃんの一番で、自分は二番やって、なんで認めたんやろ。俺がそれを訊いたら、さすがにまずいやろか。
 それでも水煙が俺に一目置いたことは、俺にも分かった。ただその理由が分からんだけで。
 理由なんて、この際そんなもん、どうでもええわって、思えばええんかもしれへん。水煙は長らく俺の目の上のたんこぶで、煙たいやつやった。
「蛇、うちのジュニアを、よろしゅう頼むわ。俺もあいつを支えるけども、お前にしかできんことがある。俺ではあの子を、目覚めさせることもできへんかったやろ。お前が頼りや、お前が秋津の跡取りを仕上げる神になると思う」
「なんでそんなこと、急に言うんや」
「それは、そうやなあ……完全無穴の宇宙人やからやろ」
 苦い顔して照れたように、水煙は言うた。
「これで勝ったと思うなよ。愛される体作りに成功したら、お前なんぞ俺の敵やない。何百年かかるか分からんけどな、お前のせいでジュニアも不死の身や。それくらい待てるやろ。夜伽よとぎはそれまでお前に譲ってやるわ」
 できへんかったんや。
 良かった……アキちゃんが照れ屋で。そして水煙が初心うぶで。なんか方法あるやろみたいな模索をしないノーマルタイプどうしの組み合わせで。俺やったら絶対あきらめへん。ありとあらゆる手を尽くしてると思う。
 神様ありがとうございます。いろんな偶然が奇跡的に組み合わさって、俺とアキちゃんのラブラブが守られました。ほんま感謝します。どの神さんか分からへんけど。おおきにありがとうやで。
 俺はこの優しい奇跡に、跪いて祈りたいぐらいの気持ちやった。そんな気持ちになったんは生まれて初めてやった。ずっと邪悪な蛇で悪魔サタンやったからな。
「さっきの話、ジュニアには秘密にしとかなあかんで。土壇場まで黙っとけ。それから、あの犬が戻ってきても、知らん顔しとけ。命が惜しいんやったらな」
 念押ししてくる水煙に、俺は慌てて頷いた。
 せやけど、どうにも煮え切らん気分やった。アキちゃんに秘密をつくるの、あんまりええ気分やないわ。特にそういう、えげつないのはな。
 それでも、しゃあない。知ったらアキちゃん、正気じゃ居れんやろ。黙っといてやるのが親切ってもんや。水煙様もそう言うてるんやしな。
「まだある。死の舞踏……それから龍まで。えらいことやで……」
 とろんと悩む目になって、水煙はぷかりと水面に浮いてきた。まるで水がベッドで、その上に寝てるみたいやった。ほんまに水煙は眠いらしかった。こいつが寝てる時もあるんやとは考えたことなかったけど、寝てることもあんのかもしれへん。俺も寝てる時はあるんやから。
 疲れてもうたんやろ。こいつもアキちゃんに大変な目に遭わされた。見殺しにしてた俺が言うことやないけど、可哀想やったな。でも、その時は素直にそう思ったんやで。
「水、してくれ、水地亨。ぬるすぎる。のぼせてくるわ……」
 水面で目を閉じる水煙に言われて、俺がおとなしく金色の水栓をひねって水を出してやると、水煙はゆっくりと湯の中に沈み始めた。
「目が醒めたら、詳しく話す。海道竜太郎に会えと、ジュニアに言うといてくれ。龍の詳細を、あいつが視られるはずや」
「竜太郎?」
 俺が聞き返すと、水煙はゆっくりと深く頷いて見せ、そのまま静かに浴槽の底まで沈んでいった。くつろいだふうな丸い背で、水煙は貝殻の底で目を閉じていた。そうしてるとまるで、ほんまに海の底に住んでるモノみたいやった。
 予言してきたと、水煙はぴくりとも動かない目を閉じた姿で、声でない声で俺に話した。
 アキちゃんが、水底で死ぬと、天使が予言してきた。そんな未来を受け入れるわけにはいかん。もう二度と、秋津の当主を水底で死なせはせえへんと、水煙はそれが確信に満ちた事実であるように俺に語った。
 龍は生け贄に、巫覡ふげきを求める神や。いったん荒れたら、供物くもつしきの生け贄では納得せえへん。
 昔、海洋を渡る船には、嵐や海神わだつみを鎮めるための巫覡《ふげき》を乗せてたもんやったけど、それは嵐で船が沈みかけ、いよいよ波が治まらん時に、巫覡ふげきそのものを生け贄にして、船を守るためやった。近頃、船も丈夫になって、そんな風習はもうとっくに廃れたけども、龍や海神わだつみは変わりはせえへん。相変わらず巫覡ふげきを好んで食うはずや。
 つまりな、龍が現れて、もしも荒れたら、うちのジュニアを食わせる羽目になる。それはまずい。でも、防げる目算はある。予言は予言や、まだ確定した未来やない。ジュニアが生き残れる未来へ行くよう、俺は少々時空をねじ曲げる。
 そのためには、この際、呉越同舟ごえつどうしゅうや、アキちゃん好きやて言うんやったら、力を合わせてくれと、水煙は俺に頼んだ。
 なんというかやな、俺はその意気に感じ入った。
 元々なあ。俺って素直やん?
 そうやなあって、思たんや。俺も水煙も、アキちゃん好きやのご同類。言わばアキちゃん同好会の会員一号二号みたいなもんやないか。せやから仲間やん?
 すごいなあ、水煙兄さん、マジ凄い。さすがは秋津家伝来のご神刀や。勉強なるわあ。意地悪してもうて、ほんますんません。
 まあええか、キスしただけならまあええか。俺も藤堂さんとしたし、そこまでは許そうかって、俺は珍しく寛大な気持ちやった。
 でも実は、俺は分かってた。これは俺のパターンやねん。トミ子の時もそうやった。相手が敗北を認めて道を譲ってくれさえすれば、俺は誰も殺したりせえへん。憎みもしない。俺はただ、アキちゃんが好きなだけやねん。誰にも邪魔せんといてほしい。ただそれだけなんや。別に誰とも争いたくなんかない。
 人が俺を悪魔サタンやと憎んで追い立てるから、俺も悪魔サタンになるんや。愛し合えればそれでいい。アキちゃんがいっぱい愛してくれれば、俺もいつか、イイ子になれるかも。誰が見ても神様みたいな、そんな優しい蛇に。
 話疲れてすうすう寝てる青い宇宙人を水底に見て、俺はそんなことを思ってた。
 アキちゃん遅いな。着替えすんのにどんだけかかっとんねん。しゃあない奴や、まさか盗み聞きしてんのとちゃうやろな。
 そう思って、俺がバスルームのドアをバーンと開き、そこにある居間を抜けて、もうひとつ隣のような仕切り壁の裏にあるベッドのほうまで探しに行くと、アキちゃんはそこに俯せに倒れてた。星のような銀色の刺繍のある、透ける天蓋がついた、真っ白いひらひらの新婚さんベッドに。
 ヘッドボードを埋めるように、山ほど置いてある白いサテンのクッションに、真珠ついてる。模造フェイクやろうけど、あたかも海辺のお城やで。いかにも神戸や。
 ものすごいホテルやな。絶対ウケるで、恋で脳みそグデングデンになったカップルとか、少女趣味のオバハンとかに。ハジケたなあ、藤堂さん。突き抜けてんで。絶対笑いながら作ってるよ。
 しかしアキちゃんにウケるはずはない。ぴくりとも動かへんかった。
 あまりのベタな世界観にショックを受けて、アキちゃん気絶したんかと思った。
 せやけど、そうやなかった。アキちゃんはビビってたんや。わざとか無意識か、引きこもり用のまゆめいた結界まで張っていて、俺がおおいと呼びかけても、聞こえへんんのか、しばらく反応せえへんかった。
 しょうがないから、俺はベッドに這い上がっていって、アキちゃんの隣に寝てやった。ついでにケツも撫でた。それでやっとアキちゃんはびっくりしたように顔を上げた。
「うわっ、亨か。な、なにをやってたんやお前は……」
 アキちゃんは顔青かった。
「何って……水煙と喋っててん」
「何を喋ってたんや。お前、あいつと仲ええんやったか?」
「仲? まあ、今は、悪くはないよ。おんなじ男に惚れた仲やないか」
 俺が真面目に教えてやると、アキちゃんは見てるだけでわかるぐらい、ごくりとはっきり唾を飲んでた。
「何か、言うてたか、水煙」
「キスしたけど、どんな感じやったか、忘れたて言うてたわ。アキちゃんは、憶えてんのか。どんな感じやった」
 俺がゆっくり訊くと、アキちゃんはますます遠い目をした。
「俺も……忘れた」
 めちゃめちゃ後悔してる顔して、アキちゃんは小声で答えた。
 可愛いなあ、アキちゃんは。反省してんのか。俺なんか、ぜんぜん反省してへんのになあ。もう藤堂さんとキスすることはないやろけど、でも後悔はしてへんで。
 それでも誰かにアキちゃん譲ろうって、ぜんぜん思えへん。せやから俺は図々しいんやろなあ。
「水煙な、寝てるで。今のうちに、飯行こか」
 もうとっくに昼過ぎてるし、アキちゃんのことやから、律儀に腹減ってんのやろ。二人っきりで歩きたい。ええでえ、晴天の午後の北野坂。うまい飯もあるし、ケーキ屋もあるし、ジャズ喫茶とかまであるで。そこでアキちゃんとのんびりしたい。
「怒ってへんのか」
 おかんに叱られた子供みたいに、アキちゃんは俺の顔色うかがう目をしてた。
 それがあまりにも可笑しなってきて、俺はにやにや笑ってた。
「怒ってへん。激辛カレーと、水煙味のアイス食おか」
「変な言い方すんなよ。意識してまうやないか」
 何を意識すんねん、このアホが。
 しかしまあ、そんな訳で、俺はアキちゃんに無理矢理腕を組ませて、楽しくお出かけしてきたわけ。
 アキちゃんは北野の空気を、気に入ったらしいわ。海道家にいた時には、あんなに神戸にムカついてたくせに、アキちゃんの気が変わったんは、山の手の窓から見える遠い海の色が好きやったかららしい。
 海の絵描きたいなぁ、って、またそんなこと言うて、ぼけっと海見てた。
 こいつはほんまにアホな子や。絵さえ描いてりゃ幸せやねん。
 それが何の因果か予言された救世主、なんも知らんと安請け合いして、まさに命がけで挑む羽目になる。何の縁もない赤の他人どもを救うため、せっかく戻った可愛い犬をなまずに食わせ、下手すりゃ自分も龍に食われる。
 そこまで含めての予言やったんか。あの神楽という神父や、予言を伝えにきてた勝呂はそれを知ってたんか。蔦子さんや竜太郎は、そんな未来を占いの中に視てたんか。俺は正直、世間を恨んだ。
 俺はアキちゃんがいなくなったら生きてられへん。それでも平気なやつはごまんと居るんや。そんな子おるって知りもせえへん。せやから心も痛まへん。巫覡ふげきやら式神やらなまずやら、そんなもんは迷信と、信じもせんと助けられてる。そんなやつらのために、なんで俺のアキちゃんが死ななあかんのや。
 絶対ありえへん。いざとなったら俺は、アキちゃん連れてトンズラこくから。さよならアディオス神戸! 災害で滅亡した街はなにもお前がこの世で初めてやない。ソドムやゴモラやポンペイほどの、退廃の罪を犯した街やないけど、救う神がおらんなら、それもしゃあない。
 俺にはずっと好きな街やった。それでもそれが俺からアキちゃんを、無理矢理奪うっていうんやったら、もう好きやない。お前ももう、殺さなあかんな。
 そう思って不安に駆られると、背が怖気立つような神戸の夜やった。
 汗に濡れたアキちゃんの体を抱くと、それはまだ生気に満ちていた。たったの二十一年しか生きてへん。たとえ儚い命の人間様でも、今時のご時世、死んでもええような歳やないやろ。
 それでもアキちゃんのおとんは、この歳にはもう死んでいた。水煙はそれを看取った奴や。それが言うんや、もうアキちゃんを死なせはしないと。
 俺はあいつの怨念に、賭けるしかない。
 ひとたび醜く争えば、憎ったらしい恋敵やけど、ほんのちょっと構図を変えて見れば、俺とあいつは運命共同体やった。いうなれば家族。無事に事が済んで、のんきにまた出町の家に戻れる日が来たら、あいつにも一緒に萬養軒のカレーを食わしてやろう。それまでちょっとずつ慣らさなあかんと、俺は水煙にもエサをやることにした。
「アキちゃん、水煙なあ、神棚もええけどさ、でかい水槽買うてやったら?」
 一発抜いた満足感で、ごろごろ並んで横たわりつつ、俺はアキちゃんに耳打ちをした。
 アキちゃんはそれに、びっくりした顔をした。
「お前がそんなこと言うなんて……」
「なんやねん。優しいやろ」
 間近に鼻を付き合わせて俺が凄むと、アキちゃんはビビったように頷いた。
「優しい……いい考えやと思うけど…………でも、ええのか?」
「水槽掃除とエサやりはアキちゃんがしてや」
 俺はぜったいやらへんからなって、断固とした姿勢を示しつつ、俺はアキちゃんの胸に寄り添った。ほとんど条件反射みたいに、アキちゃんはそんな俺を抱き寄せた。いつものことや、抱き合って酔って、だらだら話して眠る。そんな幸せが永遠に続く。それがアキちゃんと俺の物語。そうでないと嫌や。
「亀かメダカかグッピーか……水煙は」
「似たようなもんやって。あいつ風呂の底で寝てたやんか」
 水煙が居るもんで、風呂でやれないばかりか、風呂に入られへん。幸い西欧趣味の派手なホテルやったもんで、バスタブはジャグジーでお遊び用、その横に電話ボックスみたいなガラス張りのシャワーブースが別にあって、せやから体は洗えんねんけど、寝てる水煙の横でこっちは素っ裸なんやから、めちゃめちゃ緊張するわ。
 シャワーも二人で入れんことはない。いやあ、変な話、海の向こうにはその狭っ苦しいシャワーブースで一発やるのが萌えるという、そんな人々もおるんやけどな、アキちゃんは生憎NG出してた。だってな、まあ、横に人型水煙おったらなあ、さすがに変やと気付くわな、うちのドのつく鈍感の、迂闊な鬼畜ジュニアでもな。
 邪魔やなあ、人型水煙、て感じやけどな、あいつのためにはそのほうがいい。邪魔なくらいでないと、アキちゃん気がつかへんからな。あいつにも心があるわってことを。
「お前がそれでええんやったら、そうしよかな。帰ったら」
 そう言うアキちゃんの小声は、学校帰りに犬拾ってきてもうた小学生男子そのものやった。すがりついた胸でにやりとしてから、俺は身を起こし、頬杖ついてアキちゃんの顔を覗き込んだ。
「そうしてやり。あいつも喜ぶやろ。それにリビングの飾りにもなるわ。顔綺麗やからな」
 シャワー浴びつつ、思わずじっと貝殻のバスタブを覗き見してたアキちゃんを、俺は思いっきりつねってやってた。どこをかは敢えて言うまい。めちゃめちゃ痛いところをや。
 アキちゃんは情けなそうに苦笑した。
「お前は怖いし、時々死ぬほど意地悪やけど、でも悪魔サタンやないな」
 ちょっと恥ずかしそうに、アキちゃんは俺の性格についてコメントしてた。
 あんまり意外な話の向きで、俺はアキちゃんを見つめ、思わず真顔になっていた。
「そうやろか……悪魔サタンにかて、時には優しい一面ぐらいあるってだけかもしれへんで」
「そうかもな」
 じっと俺を見て、アキちゃんはいつもの、眩しそうなような、俺が好きやという顔をしていた。
「そんなら俺は、お前が悪魔サタンでもええわ。お前が好きや、お前が何でもええわ」
 のんびり言うアキちゃんの話に、俺は何かを堪えて目を伏せた。それは涙かもしれず、アキちゃん好きやていう激情かもしれへん。とにかく堪えがたく爆発しそうな熱い何かやった。それを愛と、人は呼んでるんかもしれへん。
 アキちゃんは俺に、愛とは何かを教える男。
 そんなアキちゃんを、俺は守りたい。
「なあ、アキちゃん。もう一回やろ」
「えぇ……?」
 アキちゃんは照れ臭そうに聞き返してきたけど、それは拒否ではなかった。俺は微笑んでアキちゃんを抱き、アキちゃんは俺を抱いた。キスすると、極上のワインとシャンパンと、赤い薔薇の匂いがした。
 前の男が振り撒いた、花のしとねの上に寝て、今の男とキスをする。そんな俺はどうしようもない不実な蛇か、そうでないなら、バージンロードを送られて、次の男に手渡される花嫁みたいなもんやった。ところがこれは全然、清純派からほど遠い、淫売みたいな奴なんやけど、それでも花嫁なんて大体そうやろ。初夜にバージンのやつなんか居るんか。おらへん。おるか。おらへんことにしといてくれへんか。
 アキちゃんが俺の、初めての男やったらよかった。俺は初めてそう思い、そして、そんなこと思った相手は、アキちゃんが初めてやった。
 俺はアキちゃんが好きで好きでたまらへん。
 神か鬼かは定かでないけど、それだけは、はっきりしていた。
 俺は本間暁彦に取り憑いている蛇。永遠に。死にも誰にも分かたれず。
 理由はただ、俺が彼を、愛しているからやった。


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