SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

神戸編(13)

 神楽さんと中西支配人の話をせなあかん。
 なんで俺がと思うけど、俺が聞いた話や。しゃあないわ。
 俺はその翌朝、水煙の鞘を探していた。
 到着した日の刃傷沙汰の時、俺はその前にいた会議室で水煙を鞘から抜き放ち、そのまま抜き身で持って出た。ほんで、何やかんや。以来、水煙はずっと人型のままでいたし、その時に鞘がどうなってんのか、俺にはよう分からんかった。
 あれは服みたいなもんで、別に無いなら無いでええんやろか。それでも剣に戻った時に、抜き身のままやと危ないし。投げ捨ててきた鞘を、ほうっとくわけにもいかへん。もしも消えずに残ってるんやったら、回収しとかなあかん。
 他に訊くあてもなく、俺はフロントのロビーにいる綺麗なお姉さんに、会議室に忘れ物をしたんやけどと、それが届いてないか一応訊いた。
 普通の人にはあれは見えへん。せやから届いてるわけないんやけど、念のため。
 そしたらお姉さんは、なんと、鞘の行方を知っていた。
 会議室から皆出て行った時、最後に残ったんはもちみたいな例の神父やった。神楽さんの上司か、みたいな爺さんや。その人が、これ忘れ物なんやけどと彼女に鞘を持ってきて渡し、その後、餅の行方を訊きに来た神楽さんが、俺に渡すということで、鞘を持ってったらしい。昨夜のことや。
 そして神楽さんは今朝、朝飯前の庭におるらしい。
 何でも知ってるみたいなお姉さんに、そう教えられ、俺はそれまでの話に、重要な情報が含まれていることに気がついていた。
「見えたんですよね。鞘」
 つかぬことやったけど、俺は耐えきれず訊いた。
 いかにもホテルのフロントの美人という感じの、長い巻き髪を低めのポニーテールにした、紺のスーツに白ブラウスのひらひら襟が眩しいお姉さんは、にっこりと微笑み、はい、と答えてくれた。
 鞘が見えるということは、中身も見えるということや。
 つまりこの人、あの時俺が、抜き身の剣持ってフラフラしてたのが、ちゃんと見えてたんや。
 それに気付いて、俺はその場でぶっ倒れそうになった。
 普通でないところを見られてしもたわ。芯からご乱心のところを。こんな綺麗なお姉さんに。
 しかもこの人も、ちょっと普通やない。水煙が見えるやなんて、ただ者ではないんや。
「お客様、恐れ入りますが、ロビーや通路での危険物のお持ち歩きはお控えくださいませ。他のお客様のご迷惑になりますので……せめて鞘に納めていただいた状態でお願いします」
 申し訳なさそうな気まずい顔で、お姉さんは優しく俺を叱った。
 なんで今さらそれを言うんか。あの時のお前は、怖すぎてとても言われへんかったと、言外にそう言われてる気がして、俺はさらに目眩がしてきた。
「はい……すみません」
 もうしません。
 俺はそう、フロントのお姉さんに約束をした。
 どうでもいい。フロントの美人なんて。俺にはもう、どうでもええはずや。亨がおるし、俺はどうせ、女より男のほうがええような変態なんやから。しかも抜き身の剣を握りしめた鬼の形相で、ホテルのロビーを平気で横断できるような、まともでない男や。
 悲しい。どうでもいいはずやのに、美人のお姉さんに陰でドン引きされていたという、その事実に俺は傷つき、またフラフラしながらロビーを渡った。今度は、中庭から出られるという外庭の、どこかにいる神楽さんを探すために。
 神楽さんは、外庭にある薔薇園ばらえんにいた。そういうものがあるんや、このホテルには。もともとあったらしい。中西さんがこのホテルを前の持ち主から引き取った時にはもう、ホテルの呼び物のひとつとして、そこそこ広い庭園がくっついていたらしい。
 それが秋を待つ今、これから満開へ向けて咲き始める時期で、綺麗に剪定された薔薇だらけの煉瓦敷きの庭には、いろんな色の花が咲き始めていた。
 神楽さんはその中の、血のように真っ赤な花が咲く薔薇の木の前にいた。
 鉄の花切りばさみを宙に浮かせて持ったまま、ぼけっとして突っ立ってた。その左手には一本、目の前の木から切ったらしい花が握られてたけど、痛くなかったんか。薔薇には鋭いトゲがあったし、神楽さんはその茎を平気で握りしめていた。
 おはようございますと、声をかけてええもんかどうか、なんでか迷うような姿やった。
 今までに見たのと、何かが違うと思って、ちょっと離れた遠目から、俺は神楽さんをじっと眺めた。亨よりいくぶん背は高いけど、外人みたいな割には、小柄なほうやと思う。それはたぶん神楽さんが半分日本人やからや。顔立ちや見た目には、それはあんまり出てへんのやけど、血は確実に半分混ざってる。この人がそれを、ずっと無視してきただけのことでな。
 その朝の神楽さんが、なんか雰囲気違った一番の理由は、神父の服を着てへんからやった。いつもなら黒い僧服に、白いカラーのついてる例の制服のようなもんを着てたけど、この朝は別にどうということもない、白いシャツを着てた。高めの襟の、仕立てのいい服で、俺は神父さんにも普段着のときと仕事着のときがあるんやと、その時には深く考えへんかった。
 それでも普通の格好してるときのほうが、神楽さんは呼吸が楽やというふうに見えた。だって神父の服ってな、詰め襟みたいやねん。息が苦しそうに見える。昨日、会議室で会った餅なんか、もともと首ない体型みたいやのに、それが詰め襟着てはるわけやから、まるで首絞められてるみたいで、こっちまで息でけへんような気がしたわ。
 神父の服も似合うてたけど、でも、神楽さんは白シャツのほうが美しい。たとえ晩夏の朝でも、きっちり長袖。暑くないんかと謎やけど、それでも涼しげに見える。美人は汗かかへん。亨はすぐ汗だくやけど、神楽さんは汗もかかんような美人に見えた。周囲が常に春の野原とか、そういう感じの人やねん。神父の服のときは、背後に雷鳴見えたけど。白シャツやと春の草原。あたかも六甲の避暑地に佇む王子様みたい。
 それもそのはずで、神楽さんはもともと、そういう人やねん。生まれ育ちが六甲で、夏には山の中にある別荘で避暑生活。冬にはスキー、夏にはテニスか、神戸の海をヨットでセイリング。そんな家のお坊ちゃんやねんで。俺はそれを、後々聞いたが、同じボンボンでも、世の中にはいろんなのが居るんやと思った。俺はヨットなんか乗ったことがない。京都には海がないもんな。
 上流の神戸男は、いいシャツ着てるもんらしい。ホテルのある北野坂から、さらに海のほうへ下ったところにある元町あたりに、昔から、シャツも仕立てるテーラード・スーツを売る店が並んでいる。ちゃんと金持ってるお洒落男は、この街ではいいシャツを着て、いいスーツを着ている。そういうもんらしい。あくまで洋風の世界やねん。海風が運び込んでくる異国風味を、なんでもかんでも受け入れてきた。
 神楽さんもそれを象徴する一人やった。血の中に外国があって、名前まで半分外人やった。そして元町のテーラーが仕立てた、いいシャツを着てる。そして外国の神さんを信じてた。それが唯一絶対の正しい神やと深く囚われて、それが苦しくて困ってた。
 おはようございますと、俺はやっと声をかけた。そうせえへんかったら向こうがいつまでも、ぼけっと遠い目してそうやったもんで。
 俺の声に、神楽さんは猛烈にびくうってしてた。よっぽど遠くへ行ってたんやで、この人。よくもそこまでぼけっとできるわと、俺は感心した。はっと気がついた神楽さんが、手が痛いと言うたからやった。
 薔薇の刺がいっぱい刺さってて、そら痛いやろという状況やった。トゲは五つ六つ、ぷつぷつと神楽さんの白い手の平に刺さり、小さな血の玉を作らせていた。
 俺はそれを見て、腹減ったと思った。早朝起き出して、このホテルのもうひとつの呼び物やという、中庭のガーデンテラスでのうまい朝飯を待っている身や。後で亨と落ち合って、二人で食う約束やけど、俺はもう、めちゃめちゃ腹が減っていた。
 美味そうやなあ、神楽さん。血出てるわと、俺はぼんやり思い、ついつい舌に唾液の絡むような気分になった。
 血が欲しいっていう、この欲は、ほんまにどっちなんやろ。食欲なんか、それとも性欲なんか。その中間という感じがする。もしくは両方なのか。説明しにくい。それを経験したことがある者でないと、わからんような感じ。
 とにかく、腹減ってる時にうまそうな食い物を見たり、その匂いを嗅ぐのがたまらんように、血を見るとたまらん気がする。それで俺は神楽さんの傷から目を背けた。まさか言えへん、ちょっと舐めましょうかとは。そしたら、すぐ治るやろけど。水煙の傷みたいに。せやけど他に、修復不能な傷か何かが、俺と神楽さんの間にぱっくり裂けてできそうやんか。
「鞘を預かっていただいているそうで」
 俺は庭園の花に目を逸らしたまま、神楽さんに訊ねた。その花も、血のように真っ赤やった。最高に、間が悪い。血吸いたいなあ、昨夜か今朝に、亨に頼めばよかったって、俺はくらくら後悔してた。
「はい。すみません。考えてみたら、預かる必要は全く無かったんですが、なんだか動転してまして。お返しするついでに、本間さんに相談しようかと」
 相談て、何をやと、俺は話が見えへんかった。神楽さんは支離滅裂というか、ほぼ自己完結してた。自分の話の筋道がおかしいことに、本人は気付いてないみたいやった。つまりまだ、動転したままやったんや。
 それもそうやろ。考えてもみよ。俺はその時は知らんかったんやけど、この人昨日、血を吸う外道に犯されたんやで。それも昼から陽の暮れる頃までかけて、じっくりたっぷり、脳の芯の芯まで、すっかり動転してしまうまで。
 それで何とか帰してもらったものの、神楽神父は何かに寄り縋りたかった。
 もちは神楽さんに最初に師を得ることをすすめた、子供のころから通っていた教会の神父やった人で、神楽さんのことをロレンツォと呼んでいた。あの人に頼ろうって、まず最初に思ったんやけど、肝心のもちはもう帰ってた。実は帰ったばっかりやった。いわゆるタッチの差ってやつや。
 いなくなった古い弟子が、そのうち戻ってくるやろかと、餅は初めは会議室で、その後ロビーで待っていた。せやけどいくら待っても現れる気配がしないんで、餅は次の予定がつかえてて、仕方なしに帰ることにした。それで水煙の鞘をフロントに預けて立ち去った。
 その時もしも一足早く神楽さんが来るか、もしくは餅が一歩遅く帰っていたら、未来は違うふうになっていたんかもしれへんな。どっちが幸福なコースか、それは誰にも分からんのやけど、とにかく違う未来ではあったやろ。
 神楽さんが一歩遅かったのは、出がけに引き留められたからやった。血を吸う外道が、もう一度キスをと誘い、それを神父は拒めへんかった。その長い足止めのせいで、餅が帰る前に捕まえられへんかったという事らしい。
 それは良かったと、感想を述べるべきかもしれへん。今や血を吸う外道のご同類として、幸せに暮らしている俺としてはな。
 せやけど神楽さんにとっては、そんな簡単な話ではない。餅は帰った、もうおらん、頼って縋り付こうという気でおるのに、ちょうどいい相手がおらへんわと、動転した頭で困りに困って、はっと目についたのが、フロントの美人のお姉さんが、つい今し方、餅から預かったばかりでその場にあった、俺の忘れ物の鞘やった。
 それはきらきら輝いて美しく、神聖なもんやと神楽さんの目には映ったらしいわ。
 そらそうやろな。水煙の鞘やから、神のものであることは事実やわ。ただし神楽さんが好きな神さんとは、またちょっと違うで。水煙は、神威はあるけど、神楽さんが期待するような神聖さはないやつやで。キスしたら、気持ちようなって、いってまうような奴なんやで。それがまた俺には何とも堪らず可愛い奴なんやけど、でも神楽さんにはそうやないでしょ。
 しかしそんなこと、分かるわけもない。そうや、本間さんが居るやんかと、神楽さんは考えたらしいわ。
 なんで俺。つまり神楽さんは誰でもいい状態やった。とりあえず目についた奴に縋り付こうという、そういう感じやった。そういう人やってん。気が弱いというかやな、何かに頼りたい。跪いて祈りたい。素直に言うこときいてたい。お前は可愛いイイ子やなあって、褒められたい。それで安心してたいと、そういう性分の人やってん。
 つけ込みやすい人なんやわ。それをかつては悪魔サタンにつけ込まれ、その後はヴァチカンの神やら、神の代理人やらにたらし込まれてた。そして三段オチの最後には、血を吸う外道にたぶらかされようとしていた。せやけどそれは背徳と、抗ってはみせるものの、助けてくれと頼る相手が俺というんでは、もう終わったようなもんや。
 だって神楽さんはその時すでに知ってたはずやで。俺かて悪魔サタンに取り憑かれてる。それから救ってくれるっていう話やったんやないんですか。少なくとも海道家の居間では、そう言うてたで、あんた。淫行に誘う悪い蛇から、俺を助けてくれるって。
「相談て、なんですやろか」
 はさみと薔薇を持って突っ立っている、顔面蒼白の神楽さんと向き合って、俺は最高に気まずく訊ねた。神楽さんはどこ見てんのか定かでないような青い目で、俺を見つめていた。食い入るような視線やったわ。
「あなたの蛇は、血を吸いますか」
 単刀直入やったな。俺は一瞬悩んだ。この質問には、答える義務があるのかと。
 この時には俺はまだ、神楽さんは真面目な神父さんやと信じてたもんやから、また俺に、亨と切れろみたいな話をするんかと、煙たい気まずさやったんや。
 せっかくのご親切やけど、俺にはそんな気はない。死んでも離せへん。亨が俺を捨てるというんでなければ、俺は亨と別れたりはしない。昨日今日会ったばかりのあんたが、何を言おうが関係あらへん。俺は悪いことしてるわけやない、好きな相手と抱き合うてるだけ。愛してるねん、ほっといてくれって、そういう覚悟で受けて立ってた。
「吸いますけど、時々ですよ。それで別に、死ぬ訳やないし。特に支障もないです」
 自分も外道になってまうだけ。それは敢えて言わずにおいた。でも、ほんまにそれだけやで。ちょっとエロなってきて、自分も血吸いたくなって、怪我してもすぐ治ってもうたり、舐めただけで人の怪我治せたり、少しキレやすくなったかな、キレたとき普通やないかなみたいな気はちょっとするけども、それはキレへんようにすればええだけなんやし、他はまあ、バレへんかったらええんやないですかって、俺は頭の中でそういう処理をしていた。
 だっていくらエロくても平気やん。亨はさらにエロエロなんやから。むしろ喜ぶくらいやで。水煙には好きモノ呼ばわりされるけど。正直ちょっと傷ついた。でもその傷で死ぬわけやない。凹んでまうだけ。
「支障、ないんですか」
 必死の形相で確かめてくる神楽さんに、俺は頷きながら、何か変やなと思った。神楽さんは、いつもと違う。なにが違うんやろと俺は悩み、その次の台詞を聞いて、訳を理解した。神楽さんは早口に、俺にこう言うた。
「支障、ないって、それはちょっと、変やないですか。だって血を吸う悪魔サタンなんですよ。奴らは仲間にしようとして血を吸うとうのやないですか。なんともないんですか、本間さん。なんで平気なんや」
 教えてくれって、叫ぶのを堪えたような押し殺した早口で、神楽さんは訊いた。どう聞いても、あんたは地元の人間やっていう、そんな関西訛りで。
 あんた。話せるんやん。生まれた土地の訛りを。なんで今まで標準語やったんやろ。
「なんで、って……なんでですやろ。俺にも分からへんけど……神楽さん、なんで神戸弁?」
 俺がついつい指摘すると、神楽さんはもともと青かった顔を、さらにさっと青ざめさせて、はさみを持ったままの手を口元にやり、手の甲で唇を塞ぐような仕草をした。
「いえ、何でもないです。これは古い癖なんです。動転してまして、つい」
 恥ずかしいところを見られたと、神楽さんはそんな、痛恨の表情でうつむいた。
「質問に、答えてください。本間さん」
 お願いやという口調で言われ、それがまたカッチカチの標準語アクセントやったんで、俺はなんとなく神楽さんが気の毒になった。
 なんでこの人、そんなこと訊くんやろって思って。それは悪やと、必ず助けてやるからって、なんでもう言わへんのやろ。それに何で、神戸弁が恥ずかしいんや。神戸の人やったら、そんなん別に普通やろ。ここの出身なんやから。
「何で平気かって……別に、大した変わりもないですし。学校行けるし絵も描ける。それにあいつと、ずっと一緒に居れる体になったんやったら、それでええかなって。その程度にしか思ってへんのですけど」
 少々照れつつ答える俺を、神楽さんは見るからに、あわあわして睨んでた。えらいもん見てもうたわ、変態と話してもうたっていう、そんな顔されてたで。俺はそれにも内心傷ついた。自分がどんだけマトモな線から遠く離れてもうてるか、それを再確認できたしな。
 神楽さんは俺を振り切るように、ぐっと顔を背けて、真っ赤な花の咲く薔薇の木のほうへ向き直ると、なんかやけくそみたいな手つきで、咲いてた花の茎にばしっとはさみを入れた。
「どれくらい吸われると、仲間になってしまうんですか」
 泣きそうな声で、神楽さんは訊いてきた。
 俺はさすがにそのへんで、おかしいと思った。
 まるで相談されてるようやったんや。確かに、相談したいという事で始まった会話やったけど、神楽さんは俺がどれくらい吸われて、どれくらい仲間になってるかを訊いてるわけやない。心配してんのは、自分の体のことやないかって、そういう雰囲気がした。
「吸われたんですか……?」
 そんなアホな、まさか亨がこいつの血を吸うわけはないと思えて、俺は険しい顔になった。まさかそんな、神楽さんは亨の趣味からほど遠い。どことなくナヨそうやし、あいつの好きなおっさんでもない。どっちか言うたらあいつと同系統の、抱かれて喘ぐタイプやないかって思い、俺はそれにも傷ついた。ごめんやで神楽さん、そんなこと思ってもうて。俺は確かに変態やわ。もっと怖い目で睨んでいいです。それが何となく気持ちいい。そんな変な感じがする人やねん。怖いねんけど、ぞくっとするねん。神楽さんの綺麗な顔で、きっと青ざめて睨まれると。
 まさか亨もそんな、新しい世界に目覚めてもうたんか。あいつこういうのとも、やってみよかという気になったんか。もはや全方向オールレンジ対応やな、亨。警戒せなあかん領域がでかくなりすぎて、俺は死にそうや。おちおち道も歩かれへんやんか。
「す……吸われました。でも、一回だけです、それは、一回だけ」
 めちゃめちゃ言い訳くさかった。それは、って、他には何を何回やったんや。俺は頭を殴られたようなショックを受けてた。一難去ってまた一難。こんどは金髪の神父と刃傷沙汰かと、頭クラクラしてきたわ。
「亨があんたの血を吸うたっていうんですか!」
「あの人ではないです!!」
 俺よりもっとキレてるような口調で、神楽さんは叫ぶ俺に叫び返してきた。めちゃめちゃ怖かった。はいすいませんて、思わず詫びたくなる怖さやった。
「え……ほな、誰です?」
 妖怪ホテルや。考えてみれば、外道なんかここにはたっぷり居るわ。他にも血を吸うようなのが、いても変やない。俺は早合点してた自分に気付いて恥じ入った。俺には亨が世界一、せやからちょっと意識しすぎやな。
「誰でも、いいです」
 ものすご強い声で、俺はこっちに背を向けたまま項垂れている神楽さんに牽制された。詮索するなという声やった。
 頼りなげに見える神楽さんの白い首筋に、血を吸う牙の噛み痕やと思える、赤い小さな傷が、ふたつ並んで残されていた。それはもう治りかけていたけど、神楽さんが時々触りでもするんか、赤く腫れてきていた。
「何を、どれくらいしたら、人ではなくなるんですか」
 震えてんのかみたいな背中して、神楽さんは小声で訊いた。それに俺はどぎまぎしてきた。お前はもう人ではないんやろと言われてる気がしたし、それが気まずく恥ずかしくもあり、そして質問された事への答えも、よう分からへんかった。
 そんなん、考えてみたことない。いつのまにか、亨の仲間にされていた。その課程プロセスは、ばくぜんとは理解してたけども、ここで神楽さんに答えたくなかった。だって言えるか、朝っぱらから、白シャツ爽やかな清純派みたいな人を相手にしてやで、ときどき亨のを舐めてやった時にアレ飲んでたからかなあなんて、微笑みつつ言えるか。言えるようになったら俺もほんまもんの外道やわ。
 せやからしゃあない、俺は途中のあれやこれやは全部省略して、最終工程についてだけ話した。
「相手の血を舐めるか飲むかせえへんかったら、完成しないようですよ」
 亨はそんなことを言うてた気がする。ただキスしたりするだけでも、ちょっとずつは混ざってくるけど、それやと決定的なとこまでは行かへんし、極めてゆっくりやから、本当に人外に堕とそうと、そういう意図でやるんやったら、何度か血を飲ませなあかんもんらしい。
 俺なんかもう、そういう意味では完全にアウトやな。亨の血なんか、何遍も吸うてる。もはや完全にあいつの虜や。血をくれという俺を、亨はもう拒まへん。今さら止めても手遅れと、そういうことなんやろ。ほんなら後はもう、行き着くとこまで行くだけや。
「血なんか舐めてません!」
 青ざめて悲鳴っぽい声で、神楽さんは言うてたわ。何なら舐めたんや。まあええか、そんなこと。他人事やし、詮索したらあかんよな。俺かて嫌やわ。そんなこと面と向かって訊かれたら。恥ずかしいやんか。
 ううって呻く苦悩の声をあげて、神楽さんは何か作業に逃げたいみたいに、また薔薇を摘んだ。ばしっと茎の切れる音がして、それと同時に神楽さんも小さな悲鳴を上げた。
 びっくりして俺が見ると、神楽さんは自分の指まで摘んでいた。大した怪我ではないけども、小さな怪我でもない。切れた人差し指の先から、ぽたぽた血が滴り落ちてて、俺はほんまにぎょっとした。
 三日食ってない後に焼き肉屋の前を通ってしもたようなもんやった。
 腹減ってんねん俺は。もう朝飯食いに行っていいですか。鞘返してください、神楽さん。鞘はもう後でええから、とにかくこの話、もう終わりでいいですかって、俺は絶叫したくなっていた。
 勘弁してくれほんまに、こっちはもはや外道なんやから。血をたらたら出すのはやめてくれ。
 そんな俺の可哀想な状態を全く気付く気配もなく、神楽さんははさみを取り落とし、自分の血が薔薇の木に降りかかるのを押さえようとしてた。ぱたぱたと滴の垂れる音がしたような気がする。それは俺の鋭すぎるようになった耳のせいか。
 薔薇は根方に落ちた血を吸った。たぶん、そうなんやろう。
 そのせいで、俺は予想もしてへんかった奇蹟を目にした。
 神楽さんが震えて見つめる目の前で、薔薇の木が花の盛りに備えて用意していた沢山の固い蕾が、どんどん咲き始めた。新しい蕾さえ、みるみるできていくようやった。ぽかんと見てる俺の目の前で、神楽さんの血を吸うた薔薇だけが、映像の早回しみたいに、あっというまに満開になった。
 なんやろこれはと、俺はびっくりしていたが、どう考えても神楽さんの血のせいやった。普通の薔薇が、突然満開に咲くわけはない。何らかの神秘的な力のなせる技。神楽さんはもともと初登場からして、そういう人やった。奇蹟を起こせる男やったやないか。それがまた一つ増えただけ。驚くことはないと、俺はそう結論しかけた。
 せやけど神楽さんはめちゃめちゃ驚いていた。
「なんで花が咲くんやろ……」
 動転した声でまた、神楽さんは地元神戸の言葉で話してた。見るのがつらいっていう目で、まだ次々咲いている薔薇を見下ろして。
「初めてなんですか、こういうの」
 俺が興味本位で訊くと、神楽さんは首を振って否定した。初めてではない、別に珍しくもないっていうふうな態度やった。
「怪我や病気を治す力があるんです。簡単なものなら触るだけでも治りますが、多少重くても、血を使えばかなり効果が上がります。植物があっというまに育ったり……これは僕の持ってる力やのうて、神様が与えた奇蹟やって。僕を通じて聖霊が現れとうだけなんです」
 それはキリスト教の教義やった。神父は神のしもべであって、本人に何か超自然的な力があるわけやない。神さんは自分の手足として、自分のしもべたちを使う。言うなればやな、水道ひねったら水出るけども、それは蛇口の機能やのうて、どこかから水が送られてきてるから出るんやという、そういう考え方をする。
 神楽さんはそう教えられてきた。お前は蛇口で、水源ではない。水が出るけども、それを自分の力と思うな。神の奇跡として、その御名によりて力を振るえと、そういう躾を受けた人やったんやな。
 まあ別にええやん。そう思いたいんやったら。結果は一緒なんやし。蛇口でも、自ら湧き出る泉でも、水が飲めれば同じやんかって、俺には思える。アバウトな日本の人やからな。
 だって、それを言うなら俺の持ってる力かて、俺の力やないよ。巫覡ふげき天地あめつちや神と交感して、その力をもらってるだけ、井戸みたいなもんで、でかい水脈から水が供給されてくる。俺もそんなようなもんなんや。
 せやから同じやないですか、って、俺には神楽さんの驚く訳がわからへん。
「なんでや。神聖な者にしか、聖霊は力を与えないのです。僕はもう奇蹟は起こせないはずや。だって……」
 だって?
 だって何やねん。
 そうです。もうバージンやないからや。
 禁欲は神父の鉄則やったらしい。どこまで本気で守られてんのかわからへん。だって成人して家族も子供もおるような状態から出家する神父さんもいてはるらしいで。その人が童貞バージンということはないやろ。
 それでもどんだけ素直な性格なんか、神楽さんは真に受けていた。淫行してへん汚れない身やから、神は自分を通じて、他の人ではでけへんような奇蹟が起こせるんやって、そう信じてたんやな。
 せやのに何でこの朝も、自分の血を吸うて、薔薇は咲くのか。もはや穢れた身やのにと、そう驚いた訳なんやけども、そんなの理由は明白や。
 神楽さんは蛇口やのうて泉やってん。俺と同じで、自ら湧いてる井戸やった。
 言うなればその点においてもご同類。ええとこのボンボンで、しかも天地あめつちに格別愛されていた。
 ただ違ってたのは、俺んがそれを大歓迎する巫覡ふげきの家柄で、神楽さんちは厳格なカトリックやった。両親は一般人で、常識にとらわれまくりで頭ガチガチやった。非常識にとらわれすぎてる、うちのおかんやおとん大明神とは真逆やわ。なんで二股かけへんねん、男でも女でもええからしきとやりまくれみたいな、そんな話になるわけないわ。でもそんな当たり前の一般家庭が、地獄みたいなこともある。神楽さんにとってはそうやった。常識外れの自分のことを、ずっと恥やと思うてきたんや。
 俺はそんな生い立ちに、ある意味同情を禁じ得ない。顔綺麗やからやないで。自分と似てるからやで。浮気やないで。俺は神楽さんにそんな気はない。あったらあかんと思う。それについては後述参照。
「なぜまだ奇蹟が起きるんでしょうか」
 俺がそれに答えられると思ってるような目をして、神楽さんは俺に縋りつこうかという勢いやった。
「なぜって……それが神楽さんの力やからでしょ?」
「でももう童貞バージンやないです」
 人間て必死で他のことに気をとられてると、真顔で何でも言えるんやな。正気やったら言えへんような事でも全然平気やわ。
「淫行したのになんで奇蹟が起きるんやろ。そんなん教義に合わへんわ。悪魔サタンの誘惑に打ち勝てれば別ですよ。イエス・キリストですら悪魔サタンに誘惑されることはあったんや。それを乗り越えて神の子になったんです」
 えええ、そうなんや。どんな悪魔サタンやったんやろ。顔綺麗やったんかなあって、俺はそういう男です。信者やないもん。
「でも……僕は……その、乗り越えてません。全然」
 そうなんや。全然。全く。百パーセント乗り越えてないんや。
 ほな、もう、ええやん。そんな神さん、やめときなはれ。相性悪いんやないやろか。禁欲できへんのやったら、そんな我慢させへん神さんにしといたら、どないですやろ。
 うちの神さんなんて、禁欲なんかさせないですよ。むしろ、したら怒られる。アキちゃんつれないなあって、悲しい顔されるもん。
 それに、そもそも、そんなことに何か意味あるんですか。めて。溜めて、溜めまくりみたいな、そういう事なんか。そうかもしれへんけど、何もそこまでして溜めへんでも、力は湧いてきますよ。だって、ほら。湧き出る泉か井戸やから。むしろ溜めるとヤバいかもやで。
「関係、ないんとちがいますか。俺は全然、童貞バージンやないけど、力は普通に使えてるみたいやし。うちのおかんも、おとんも、親類筋の蔦子さんも、別にバージンやないけど、巫覡ふげきとしてやっていくのに、何の問題もなかったみたいですよ?」
 だって。言われたことないもん。禁欲しろって。
 親が言うような事やないやろけど、うちの親なら言うに決まってる。それがほんまに必要なんやったら平気で言うやろ。
 それでも言わへんのやから、関係ないねんて。我慢したところで、何の関係もない。げきとしての能力には。穢れてもうたらアウトなんていう、そんな神聖な力やないねん。何かもっと、アバウトな……。
「そんな馬鹿な……」
 神楽さんは、何や、へたり込みそうな顔してた。
 そりゃそうやろうなあ。これまでの二十二年か。ずっと信じてきた世界が、目の前で崩れ落ちようとしてたんやからなあ。カルチャーショック受けるよなあ。
「本間さん……僕はこれから、どうしたらええんやろ。教会に戻ろうという、勇気はありません。せやけど、このままここに、ずっと居るわけにはいかへん。こんな宙ぶらりんのままでは……」
 神楽さんは、何事にもきっぱり白黒つけたい人やった。神父として神聖なる教会に属するか、それとも悪魔サタンとりことして俗界に身を置くか、どっちかにせなあかんと思ったらしい。その中間はない。アバウト禁止。それが神楽さんの世界観。
「いや、あの、神楽さん、一回くらいで、そこまで思い詰めることないんやないですか。神父やめようとか、そういうのは。長い人生、そんなこともありますよ。犬に噛まれたんやと思って、気を取り直して、やり直してみはったら……」
 俺はにわかな人生相談に焦りまくり、月並みなことを言うてみた。
「一回……くらいや、ないです」
 神楽さんはもう目が据わってた。わなわな来てた。動転が極まっていたらしい。
 一回やない、何回も何回もやって、俺に話した。話してはならんような事もちょっと口走っていた。朝から拷問みたいやった。神楽さんの指から血はまだしたした滴り落ちてるし、それがめちゃめちゃええ匂い。そのうえ美貌の真顔で猥談わいだんされて、俺はもう走って逃げたいくらいやった。
 水煙の鞘、早う返してくれ、神楽さん。
 さっさと戻って、亨にちょっと頼もうかと思うんで。朝やけど、一発やろかって。我慢しろって、あいつは言わへんやろ。そんな冷たい奴やないもん。
 神楽さんは、後ろからされるとめちゃめちゃかったらしい。ほんまにもう泣きそうなくらいえんやって。もうお終いだみたいな話でな、俺も泣きそうやった。そうか。確かにそういう手もあるな、最近やってへんな、後ろからは。だって亨の顔見てやりたいんやもん。せやけどたまにはええな、せっかくそんな話なんやから。
 とにかく神楽さんバージョンでは想像せんとこ、したらあかんわと自分を戒め、俺は亨のことを考えることにした。
 でも、ほんまにな、そんな話せんといてくれよ。どんだけ動転してんねん。それに相手は誰なんや。そこまで聞いたら知りたいわ。無遠慮な好奇心かもしれへんけど、知りたいのが人情やろ。
 それでも神楽さんは相手が誰かは話してへんかった。
 そしてそれは、聞くまでもなかった。
 なんせ、本人がご登場やったから。
よう、なにしてんのや。花切るだけに、えらい時間かかってんのやな」
 本人はいかにも寛いだような、神戸の朝にふさわしい声で言った。低く響く、いかにも大人の男みたいな美声でな。
「あれ、本間先生」
 どうもこんにちは、みたいな、いかにも大したことないような声で、中西支配人は俺に言った。
 気まずいわ。昨日サーベルで斬りかかったばっかりの相手やで。俺は別にこの人を斬ろうとした訳やない。なんでか知らんが、亨をやろうとしてん。
 それでもこの人はあの時、亨を抱いて寝てたんやから、自分を斬ろうとしたと思ったかもしれへん。その方が自然かもしれへんからな。
 俺は寸止めしたし、こっちは一応避けた。せやから何ともなかったけども、翌朝鉢合わせて、どうもこんにちはやないよ。
「早起きですね。昨日はどうも。亨はもう殺されたんか。それともまだ寝てるんですか。あいつは寝起きが悪いからなあ」
 あっはっは、みたいな爽やかな世間話として、俺はその話をされ、ちょっと愕然としてた。
 そうか。知らんはずはない。朝の亨のぐでんぐでんを。
「起きてくるまで、起こさんほうがいいですよ。ご機嫌そこねてもうたら、何されるかわかりませんからね」
 にこにこして、中西さんは話してくれた。
 それは、俺の知らない亨の話やった。俺が会う前。クリスマス以前の、ほんまもんの悪魔サタンやった頃の、亨の話や。
「怖い怖い。仕事行くなってキレられて、ホテルの部屋に、火つけられたこともあるんや。朝っぱらからスプリンクラー作動ですよ。ほんまに泣けます」
 それは泣けるやろな。この人、あのホテルの支配人やったんやもんな。朝から火災報知器鳴り響いて、部屋水浸しにされたら泣けるよ。
「そこまで……しないですけど。うちでは」
 部屋にスプリンクラーついてるけど、あいつはそれを知らんのか、大学行くなって火つけられたことはない。亨がそんな我が儘を、俺に言うたことあったっけ。
 甘くとろんとした声で、行かんといてて強請ることはあるけど、時間ギリギリまで付き合うて、組んずほぐれつしてやれば、それで割と平気やで。アキちゃん好きやてちょっと喘いで、それで気持ち良くなれば、それで満足してくれて、一日ずっと待っている。俺がまた戻るのを。
「そうですか。落ち着いたんでしょう、あいつも」
 あれで落ち着いてるのかという顔で、その話を聞く俺に、中西支配人はにこにこしていた。仕立てのいいスーツで、のんびり葉巻をくゆらせながら。
 俺は煙草の匂いは嫌いなんやけど、それはいい匂いな気がしたわ。俺が嫌いな、あの煙の匂いはどうも、煙草やのうて、それ以外の紙とかが燃えてる匂いらしい。それともこういうもんにも、ええのと粗悪なのとがあって、ええもんはええのか。
「とにかく毎日が地獄みたいでしたよ。今にして思えば。俺はあいつの何が良かったんやろ。悪い熱病みたいなもんです」
 今まさにその熱病に俺に向かって、よくもそんな事言うわ。俺はもう完治したみたいな顔で、中西さんは極めて爽やかで自由そうやった。
「後はよろしく。返品されても困りますから。うちにはもう、新しいのが居るし」
 ゆっくり香る葉巻を持つ手で、中西さんは顔面蒼白のままでいた神楽さんを指した。それに神楽さんは、えっ、誰、みたいな探す仕草やった。どう考えてもお前やろ。往生際悪い。それも他人と思えへん。
「えっ、でも……その、何というか」
 ついうっかり、いつも失言癖が出そうになり、俺は絶対訊いてはならん事を訊きかけた。
 さっきの神楽さんの話では、めちゃめちゃ猛烈くさかったけども、亨から聞く限りでは、あんたは役立たず。一体どういう事なんやって、それはさすがに訊いたらあかん。
 しかし口ごもる俺の顔には、それがちゃんとと書いてあったんか。
 中西さんはしばらく妙な顔をして、それから、ああ、と悟ったように笑って俺を見た。
「亨が、話したんや。そうか。あいつ何でも言いよるからな。ほんまにつつしみのない。でもご心配なく。もう治ったし。もともとそれほどでもなかったんです。嘘も方便や」
 嘘やったんや。嘘。
 亨はそれを、見抜いてへんかった。ということは、この人ほんまに亨とやったことないんや。よくぞあいつの猛烈な誘惑を、一度も落ちずに乗り越えた。すごい人やという気がその時はしたな。
 俺なんか五分も保たへん。なんかもう戦う前から敗北してるもん。悪魔サタンの誘惑に。堕とされまくりやもん。
「何の話ですか……」
 さすがに気になったんか、神楽さんが口を挟んできた。
 俺と中西さんは、青くなってぶるぶる震えてるみたいな金髪の白シャツ男をじっと見た。怪我した指のままシャツを握ってるせいで、神楽さんの上物じょうものくさいシャツには、じわっと血が染みていた。
 それをぼんやり見る中西さんの目が、うっすら光っているようなのを、俺は眺めた。腹減ったなあっていう目のように、それは見えた。
 もしかして、この人は、俺とご同類なんやないかと、ふっとその時実感したわ。亨に外道に堕とされた。それで血を吸う化け物に。神楽さんの血には、うっとり来るような甘い匂いがする。美味そうやなあって、よだれ出そうな、そんな匂いやねん。
 それに夢中になりそうやって、中西さんの目は語っていた。亨のスプリンクラー攻撃にはもう疲れた。後はお前に任せたと、そんな気配で、中西さんは熱病サバイバル後の顔やった。
「本間先生は、亨から聞いた話で、俺が不能やと思っておいでなんや。たへん男やと、そういうふうに聞いてるからな」
 それが全然何でもないと、中西さんは平気な顔してぺらぺら話した。それを聞きつつ、神楽さんはぎょっとしたような驚愕の顔になっていた。それでも何も言わへんかった。たぶん言えへんかったんやろ。コメントしづらい話すぎて。
「そうやろか、よう。それはほんまの話かな。いっそ、そうやったらいいのになあ。そしたらお前も、泣くような目に遭わんで済んだやろ」
 くすくす笑って、中西さんは、自分のシャツを掴んで立っている神楽さんの手をとって、傷口のある指を眺めた。
「怪我してますよ、神父様。お気の毒やな」
 端で聞いてるこっちまで、幻惑されそうな声で言い、中西さんは神楽さんの指を舐めた。銜えて小さく吸ううちに、神楽さんはつらそうな顔をした。たぶん気持ちよかったんやろ。そんな感じの、必死で堪える顔してた。
 手の平の、棘の傷まで綺麗に食われ、その手を返してもらえる頃にはもう、神楽さんは赤い顔してて、指には傷がなかった。そこに染みてた血ごと全部、外道に食われてもうたみたいに。
「皆様、そろそろ朝食ブレイクファストを」
 俺を見て、中西さんは朗らかなホテルマンの声で教えた。中庭のほうで、そろそろ飯が食えるやろという話を。
 晴天の朝やった。空気は暑すぎず、涼しすぎず。外で飯食うには最高の日和やろ。
 そんなことしようと、思ったことがない。朝飯は家ん中で食うもんで、外で食うなんてことは、俺は考えたこともない。
 朝飯のことを、ブレイクファストと呼ぶこともない。朝飯は朝飯でええやん、なんでそんな外国かぶれしたような呼び方せなあかんのか。
 しかし亨に言わせれば、それは中西支配人の洒落みたいなもんらしい。
 朝食のことを言うブレイクファストとは、元々断食明けの最初の食事のことを意味するらしい。断食ファスト終了ブレイクするから、ブレイクファストやねん。
 我慢の時代はもう終わり。そろそろ好きに生きようかって、そういう意味やったらしい。藤堂さんは大人やわと感心しきりの亨に、俺がむかっとしたことは言うまでもない。
 せやけどその時には、そんなもん知らん。飯か、と思っただけの鈍く教養低い俺に、元・藤堂さんがにやりとしたことも、なんのこっちゃと思うだけ。
よう、着替えておいで。血糊べったりで、はしたない。礼拝堂チャペルの花なんかもうええよ。もうとっくに早朝礼拝ていう時間やないやろ。中庭で飯食うて、一人で退屈なんやったら、本間先生に付き合ってもらえばいいよ」
 部屋で昼まで寝ててもええし、温水プールで泳いでもええし、何なら海で船遊びクルーズでも。好きなように、遊んでおいでと許す中西さんは、余裕ありありの、ご主人様みたいな口調やったわ。
 俺にはありえへん。好きなように遊ばせたら何するか分からへんもん。亨は。首に縄つけて家に繋いどきたいのが本音やもん。そんな事、嘘でも言う余裕はないわ。
 でも中西さんは、ほんまに好きにしてええよという雰囲気やった。
 それに神楽さんは、ちょっと苦しいという顔をした。
すぐるさんは……」
 すぐるさんやで! 俺ちょっと反応しすぎか!
 だってあの亨でさえ、この人のこと、藤堂さんて呼んでたんやで。
 俺んとこ来て、名前を聞いて、本間暁彦やと俺が名乗ると、亨はちょっと遠慮がちに、暁彦か、アキちゃんでええかと聞いた。変やなあ、おかんみたいやと俺は恥ずかしかったけど、別にええよ、お前の好きに呼べばええやんと答え、亨はそれに、何かを満たされたような、切ない嬉しそうな顔をした。
 もしかして、あいつの藤堂さんは、好きに呼べとは許してくれへん男やったんかもしれへん。まあ、そら、意味深やからな。こんだけ年の離れた相手に、ファーストネームで呼ばれるというのは、何かあるんやって感じがむんむんするもんな。
 でも、もう、ええんや。元・藤堂さん。もう何とでも好きに呼べなんや。それとも、そういうふうに呼べと、神楽さんに言うたんかもしれへん。だって昨日会うたときには、中西さんて呼んでたもん。
 亨があかんかったのは、あいつがスプリンクラー攻撃をするような鬼やったからか。それとも、何か他の理由があったんか。俺は知らん。詮索もせえへん。知ってもしゃあないんやもん。でも何となくこの人は、藤堂さんやった頃にも、ほんまは許してやりたかったんやないかと、そんな気配が匂ったわ。
 でももう断食の時代は終わりやし、そんな我慢は振り捨てて、自由にいこかって、そういう感じ。すっかり何もかも吹っ切れましたみたいな男の余裕が、中西さんを俺の目に、えらく格好いい男に見せていた。
「どうしたんや、よう。言うことあるんなら早う言うてくれへんと、俺は仕事に戻らんとあかん」
 優しい大人の声で言い、中西さんは言葉の先を促した。それでも神楽さんは、一、二度口ごもっていた。
すぐるさんは、一緒に食事はしないんですか」
「しないなあ。俺はこのホテルの支配人やで。お客様と同席はせえへん。お前も客なんやから、庭で一緒に飯は食えへんなあ」
 辛抱しろよという声で言い、中西さんはうつむく神楽さんを心持ち覗き込み、その頬を撫でるように、優しくひたひた叩いてた。
 絵になる男や。格好いいし。それにちょっと中西さんの顔は洋風やった。単純に白人くさいというんやのうて、いろんな血が混ざってそうなエキゾチックな顔立ちで、彫りは深いし目が妖しい。それが金髪碧眼で、どことなくヤワな神楽さんを侍らせてると、いかにも二人セットという感じがした。
 亨と居るとき、怖いくらいにお似合いやと思えたこの人も、今見ると神楽さんとお似合いやった。そしてそれは、俺にはぜんぜん怖くなかった。むしろほっとした。この人はもう、俺と亨をおびやかさない。もう敵やない。この人と亨を争って、刃傷沙汰に及ぶような、そんな無様を晒すこともない。
 それで俺は心置きなく、中西さんは格好ええなあと感心した。やっとのことで、また諸手をあげて。
「そうですか。分かりました。では、いつ戻るんですか」
 切ないという目で、神楽さんは妖しく光るような中西さんの目に幻惑されている顔をした。その気持ちが、俺にはちょっと分かった。俺も亨にちょくちょく幻惑されている。そういう時には他のことが目に入らない。頭がぼうっとしてもうて。
「そうやなあ。分からんけども、夜やないか」
「夜ですか」
 それが三万年くらい先みたいに、神楽さんは悲壮な顔でびっくりしていた。
「そうや。イイ子で待ってられるやろ。イイ子にしてられへんのやったら、悪い子しててもええんやで」
 にやにや皮肉に笑う中西さんが、誰のことを思い出してるかは明白やった。
 亨め。知りたないけど、あいつは一体、俺と会う前、どんな悪い子やったんや。
「しません、悪い子なんて。誰かと同じにせんといてください」
 心外やという、責める口調で神楽さんは答えた。相変わらず亨が嫌いみたいやった。でももう今は、それはあいつが悪魔サタンやからやないやろう。
 中西支配人は、よっぽど仕事が好きなんか、このホテルに住んでいた。地下にあった支配人室のすぐ隣が、ドア一枚隔ててこの人の住まいになってたんや。仕事が好きすぎて、職場から一歩も離れたくないらしいわ。それが幸せやねんて、ホテルに住んでるのが。
 せやから例の、俺が描いた亨の絵はな、なんとあの支配人室の、すぐ隣の部屋にあったんやで。そこが中西さんの家やし寝室やったんやから。後々見たことあるけどな、だだっ広くて窓が一個もないけども、めちゃめちゃお洒落な部屋やった。
 暗いコンクリートの壁はホテルの地下倉庫のまんまやったけど、ヨーロッパの骨董アンティークやら、マニア垂涎みたいな名のある現代家具が適当みたいに置いてあんのに、それが全体として統一感がある。そのまま写真に撮って、インテリア雑誌の表紙になりそうな部屋やねん。
 その部屋の、一人で寝るにはでかすぎるベッドから、ようく見えるような位置に、壁一面をせしめて亨の絵が飾られている。それがどうしても、嫌やったんやろ、神楽さんは。
 そらそうやなあ。にやにや亨に微笑みかけられながら、抱かれたくないやろ。昔はそいつと抱き合ってたはずの中西さんに。その絵のヤツの身代わりに、抱かれてるとは思いたくない。それが普通の感情なんやで。
「ずっとイイ子にしてんのか。お前はほんまに、可愛い子やなあ。それに美しい」
 にこりと笑って、淫靡に褒めて、中西さんはゆったりと葉巻をふかした。
 その姿を仰ぐ目で眺め、神楽さんは一瞬だけ、キスしてほしそうな顔をした。でも一瞬だけやった。中西さんはのんびり煙を吸っていて、そんなことする気配もなかった。それがつらいっていう顔で、神楽さんはまあ、めろめろやったな。つらそうやったけど、それがええんやろ。
 亨なら恐らく、ぶうぶう文句を言うやろうことが、神楽さんには気持ちええんや。つれなくて、切ないけど、それに耐えるのが愛、みたいなな。そんな変な世界なんやで。
 人には相性てのがあるな。好きかどうかとは別に、合う、合わへんがあるみたいや。亨は俺と合うてたけども、藤堂さんとは合うてなかった。そこに餓鬼くさくヘタレな俺が、この神戸のバリバリ格好いいおっさんに勝てる勝因があったな。
 紙一重やった。もしも相性良くなかったら、俺はきっと敗北していた。そんな気がする。もしもこの人が亨の誘惑に負けて、おとなしく抱いてやってたら、俺には最初からチャンスはなかった。出会う前から負けていた。きっとそうなんやろ。こんな運命的な恋も、ほんのちょっとの偶然やねん。
 藤堂さんがもっと、自制心のない男やったら、俺は亨と出会ってなかった。そして神楽さんは、中西さんと出会ってなかった。みんなそれぞれ、違う道で幸せやったかもしれへん。亨は藤堂さんと、俺は勝呂瑞希と、そこそこ幸せにやってたかもしれへんどもや、神楽さんは違う。間違いなく今のコースが幸せコース。そんな気がした。
 今はまだ、つらそうな葛藤した顔で、動転しまくってる神楽さんやけど、お前は可愛いと褒められた時、たまらんという顔をした。この人のためなら、命でもなんでも投げ打つと、そんな感じの崇拝する目やで。
 神楽さんは新しい神を見つけたらしい。ただし悪魔サタンやけど。うっかりまたもや悪魔憑き。せやけどもう、悪魔祓いエクソシストは要らんらしい。
「どしたんや、よう。着替えに行っておいで。それともキスしてもらうまで待ってんのか」
 意地悪い訊き方で、中西さんは首を傾げた。それに神楽さんは真っ赤になった。雷にでも打たれたみたいにびくっとして。たぶん待ってたんやろ。無意識に。
 してやりゃええのに。なんでせえへんの。俺ならしないけど。しないけどやな、客観的に見ると、意地悪だということは理解できる。亨にもっと、キスしてやらなあかん。あいつも時々あんな、切なそうな目で俺を見てる。
 神楽さんは恥ずかしすぎてキレたみたいな足取りで、顔を真っ赤にして、持ってたまんまの薔薇を三本、ほとんど振り回すような荒っぽさで掴んだまま、ずかずかと庭園を出ていった。俺には一言の挨拶も無しやった。
 あのう。もう誰も憶えてないやろけど、水煙の鞘は。返してくれへんのかな、神楽さん。俺は一応、そのために来たんやで。
 でももう神楽さんは完全に忘れてるみたいやった。
 そんな背を見送りながら、俺は神楽さんの背に、何かむらむらした緑色のものがくっついているのを見つけて、我が目を疑った。
 それはどうも、一般人には見えへん種類のもんや。どう見ても薔薇の木やった。つるというか、とげのある薔薇の木の枝の、もつれて絡み合うようなのが、うっすら透けてる幻影のように、神楽さんに取り付いていて、真っ赤な血のような花を咲かせてた。
「なんやろ、あれは。妙なもん背負っていったな……」
 呆れて笑う声で、葉巻を銜えた中西さんが俺に訊いた。
「見た感じ……薔薇やないですか。背後霊みたいなもん?」
 俺はおずおず答えた。変な話やと思われるんやろなと気後れしつつ。
 人にはときどき、霊が取り憑いてることがある。悪い霊のときもあるけど、その人を気に入って、守ってやろうと憑いてる霊のこともある。
 俺が昔付き合うてた彼女の肩に、見えへんカナリア止まってたことがあるし、時には雨雲みたいなもんがくっついてて、そいつが来ると必ず雨降るみたいな雨女もおったわ。デートは毎回、雨天決行やで。悪さはせえへん。ただ居るだけ。そいつが好きでついてくるんや。追い祓おうと思えば祓えるやろけど、そんな必要はない。満足したら消えてまうやろし、ずっといたとしても、背後に薔薇が見えるだけやしって、俺は中西さんに説明した。
「背後に薔薇? 花が見えんのか? 少女漫画か」
 中西さんは葉巻を持った指を、しばらく宙でわなわな震わせてたけども、とうとう我慢しきれんというノリで、突然爆笑しはじめた。
 よっぽど可笑しかったんやろ。想像したら可笑しいわ、確かにな。神楽さんはあんな、男か女か分からんような美貌やし、それが金髪碧眼で、なんとなく暗い憂い顔して、しかも背景に薔薇なんやで。冗談としか思えへん。
 そんなに笑ってええんかっていうほど、中西さんは軽く身を折って爆笑していた。まさに悶絶やった。きちんとセットされてた髪まで乱れた。そこまで可笑しいか。可笑しいよなあ。俺は笑うの我慢したけど、ほんま言うたら一緒に笑いたかった。でもあまりにも微妙な関係すぎたんや、俺と中西さんやとな。
「祓いましょうか。多分誰か親類に、やり方知ってる者がいると思うんですけど」
「いや、いいです、いいです。あのままで。面白いから。あれは本人にも見えてんのやろか」
 それはどうやろ。神楽さん、水煙が見えてて鞘まで持てたんやし、背後霊ぐらい、いたら見えるんちゃうか。今は気がついてないんやろけど、いくら背後や言うたかて、そのうち気がつくと思うけどな。少なくとも、また会った時に中西さんがそれを見て、吹いてもうたら、すぐ気付くやろ。
「面白い奴や。ほんまに、からかい甲斐がある……」
 それが愛しいという目で、中西さんは神楽さんの消えたほうを見送っていた。それはまだ、実を言うと、恋に溺れた目ではなかったんやけど、ジェットコースターで言うたら、さあ一気に降るぞみたいな一番高い坂を、からから上っていく途中。いつか一気に舞い降りる。ふわっと一瞬浮くような、心地よくて怖いみたいな、無重量の世界へ。それにこれから敢えて、身を任せてみようかみたいな、そういう予感のする目やったわ。
 俺は亨に何や知らんうちに、絶叫二回転半ヒネリみたいな自由落下フリーフォールに放り込まれてたけど、もうちょっと大人やったら、こういう時間もあったんかな。これから溺れる深い泉を見下ろして、さあ行こかみたいな覚悟を決める時が。
「本間先生は、今、大学四回生だそうで」
 可愛いもんやという笑みのまま、中西さんは俺を見た。
「そうです」
「ほんならあと半年ほどで、ご卒業ですね。卒業後は、どうなさるんですか。やっぱり画家になられるんですか」
 中西さんにはきっと、世間話やったんやろ。大人はよくそういうことを、何でもない話として訊いてくる。奴らにとっては世間話なんや。もうとっくに自分の仕事があって、どこで生きるか決めてある。そういう人らにとっては、明日はどっちだみたいな若造の気持ちなんて、これっぽっちも分からへん。
 俺は正直、悩んでた。俺は絵描きになりたいねん。ずっとそう思ってたけど、いよいよ学生時代も終わりというのが見えてきて、急に不安になっててん。俺はそんなもんに、ほんまになれるんかな。それって、何。いったい何をして生きてる人。普段はなにをしてればええんやろ。
 まともな人らは会社とか、自分がやってる家業の仕事場へ行って、一日一生懸命働いて、そして家に帰る。それが普通の人間の暮らしぶり。
 それに比べて、俺は一体なにすんの。一日絵描いて生きるんか。それは今と、何が違うんやろ。自慢やないが、俺は自分で生計は立ててない。学費はおかんが払ってるんやし、俺は親の脛を齧ってる。おかんはあの真っ白な細腕一本で、俺を育ててくれたわけ。せやから頭が上がらんのやけど、それももう、あと半年で終わりやねん。
 どうするつもりなんや君は、と訊かれ、どうするつもりなんや俺は、と悩む。そういう時期やったな。画家になるのかと訊かれ、そうですと自信持って言われへん。それがあんまり、自惚れに思えて。
 そうやねん、俺は悩んでた。生まれて初めて、自分には才能あんのかと、その疑問に衝突してもうて。
 絵を描く才能って、何。
 うちの教授見てみ。苑先生。あの人、絵の技巧はめちゃめちゃ上手いんやで。それでも才能ないんやって自分で言うてる。自分が描く絵に、まったく自信がないんやって。それで、君はいつも自信満々でええなあ本間君て、俺にぼやくんやけど、俺かてないわ。自信なんか。
 それでも今までは何も疑問を持たずに描いてた。学生やったからやねん。絵を売ろうとか、それで食おうみたいな気が、全然無かった。描きたいもんを、描きたいように描いてきた。それで楽しいて、学生時代はそれで良かったけどな、それが仕事って、そんなんありか。
 だからって今さら、他のコースも思いつかへん。せやから、そこへ行くんやろ。それでも自信がなくなって、ちょっと怖いと思ってた。怖い怖い。ずっと学生のままでいたい。そんな臆病風に、きゅうに吹かれてた。
「悩んでるんですか」
 びっくりしたように、中西さんが俺を見た。ちょっと唖然とした顔やった。
 餓鬼やなこいつと思われたんやろと気にしてもうて、俺はちょっと、むっとして歯を食いしばっていた。
「悩んでるんです」
「何を悩むことがあるんです? 才能あるし、先生は世間でも名前が知れてるでしょう。読みましたよ、いろいろ、怖いもん見たさで」
 中西さんは夏の事件のからみで、雑誌やテレビが俺のことを、期待の新人画家みたいに面白半分で持て囃すのを、無視はしてへんかったらしい。
「買いかぶりです。俺はただの学生やし、ちゃんと絵描こうと思ったのも、大学決めることになった時の発作みたいなもんやったんです。そやから勉強らしい勉強なんて、この三年ちょいしかしてませんし。それで画家やなんて、そんなもん、勤まるもんかと……」
 俺もいきなり人生相談してた。それも、元・恋敵にやで。
 俺もええ面の皮やわ。神楽さんのこと馬鹿にでけへん。目の前にいた頼れそうな奴に、とりあえず取りすがったんやないか。ほんまに恥ずかしい餓鬼やねん。
 中西さんはそれでも、全然動揺せえへんかった。どっしり構えた、ちょっとおとんみたいな人やねん。うちのおとん大明神と違うで。一般的な意味合いでの父親キャラっぽいという意味でやで。
 しかも俺はそういうタイプに潜在的に弱いんやて言うてるやん。お父さん頼らせてみたいな気分になるねんて。自動的やねん。しょうがないねん。不可抗力やったんや。
「勤まるもなにも、勤めるしかないでしょう。それが仕事なんやったら」
 面白そうに笑って、中西さんは俺のケツを叩くような快活な話し振りをした。
「俺がなんでホテルマンになったか知ってます?」
 知らんかった。亨も知らんかったらしい。せやからこの時、中西さんは、亨にも話したことがなかった話を、俺にした。
「俺はそこの神大の出ですが、学生時代の夏休みに、一人で旅行したんです。旅行や言うても、バッグパック一個で歩いて国境越えるような貧乏旅行やで。それでも楽しかったですけど、東南アジアの内戦地帯を通り抜けたり、死ぬ目にも合うてな。旅の終わりには、ゆっくり垢を落とそうと、シンガポールで一流のホテルに泊まることにしたんです。とは言え、いちばん安い部屋やったけど」
 にこにこ話す中西さんは、いかにもその旅が楽しかったという顔やった。内戦地帯て、ようそんなとこ行くわ。俺なら行かへん。そんな度胸ないボンボンやからな。
「そしたらなあ、先生。部屋がなかったんや。ダブルブッキングです。当時のアジアでは、よくあることやったんやけど、若造やったしビビりましたわ。ああそうか、部屋ないんやって、今夜どこに泊まろうかと考えてな。そしたらホテルのフロントの人が、代わりの部屋を用意したので、申し訳ないが、そちらにお泊りくださいと言うんですよ」
 可笑しくてたまらんという目を、中西さんはしてた。その楽しげな目の表情は、人を魅了する種類のもんやった。亨がなんでこの男を好きやったんか、俺にはちょっと分かった。俺もその時ちょっと、この人のことが好きなような気がしたからや。変な意味やないで。普通に人として!
「案内されて行ってみたらなあ、先生。最上階のインペリアル・スイートなんですよ。空いてる部屋がそこしかないんやと言うんです。そこに一番安い部屋の値段で泊めるというんやで。そして、ミスター・中西、大変申し訳ない、ご予約いただいたお部屋にお泊りいただけず。お詫びにワインと果物をって、特上の赤と、南国フルーツ盛り合わせが出てきました。冗談かと思うたわ」
 この人にも若造やった頃があったんやと、俺には信じられへんような気分やった。中西さんは生まれつき大人みたいなふうに見えてたし、俺と違って、自信たっぷりに見えた。
 それでも、その思い出話の中ではこの人も、二ヶ月ふらふら旅した後の小汚い格好で、ぼろぼろのジーンズはいて、髪なんかセットもしてない伸びまくりで、シンガポールの百万ドルの夜景と海を見下ろす、インペリアル・スイートの窓辺にぽかんと立っていた。
 中西さんはその夜、夜景を眺めつつ、ホテルがお詫びと差し出したワインを一瓶かっ食らって、果物を平らげ、豪華なベッドで寝たらしい。そして決心したんやって。ホテルマンになろうかなって。
「安易やろ」
「あ……安易、ですかね?」
 同意したら失礼やと思って、俺は一応、疑問形には持ち込んだ。でも同感やって顔には出てたと思うわ。中西さんが笑ってたから。
「そんなもんやねん。天職なんて。なってから必死で頑張るうちに、気がつくとその道の権化みたいになってるもんなんですよ。それでホテルの支配人やれてる男もおるんやから、先生も深く考えずに、なぁんとなくのノリで画家になったらどうですか」
 そう励まして、中西さんは今度はほんまに叩いた。ケツでなく背中を。それは何か、悪い憑き物が落ちるような一撃やった。
 この人、ただの人やねんけどな。今はもう血を吸う化けモンなんやけど、その前はたぶん、ただの人なんやで。霊能者とか、そういうんやない。ただのホテルマンなんや。それでも人の手には何かの力がある。たぶん誰にでも不思議な力はあるんやろ。
「さあ、飯ですよ先生。叩き起こして朝飯食わしてやったらどうでしょう。前から思うてたんやけど、あいつ昼に起きてきて朝飯食うでしょう。それ、昼飯なんやないかな。確かに断食明けブレイクファストやけど、でも朝飯は朝食うから美味いんやないですか?」
 そんな普通の話も、中西さんは亨としたことなかったんやろかと、俺には不思議やった。
 あいつを起こすのは別に難しいことはない。寝てる布団をげばええんや。それで起きなきゃ、顔をばしばし平手打ちするか、それでも駄目ならケツを蹴飛ばす。
 でも、一番効果あるのはキスしてやることやで。一瞬で起きるわ。
 けど、それを言うのは恥ずかしすぎる。せやからケツキックまでで俺は話を止めた。それは凄いという驚愕の顔で、中西さんはその話を聞いていた。
「お見それしました先生。俺にはあいつの顔を殴るなんて、そんな恐ろしいことはできへん。とても無理やわ、美しすぎて」
 中西さんは、耽美派やった。
 ありえへんわという顔で、中西さんは首を振っていた。
 せやから俺はいろいろ言うのはやめた。中西さんの夢を壊したらあかんと思って。人にはいろいろ幻想があるやん。たとえ親しく付き合ってた相手でも、意外と知らん一面はある。俺は亨が中西さんのところで、どんな奴やったか聞きとうないし、中西さんも亨が俺のところで、テレビでお笑いを見て笑い転げていたり、トラッキーの縫いぐるみを抱きしめて阪神戦を見て、赤星萌え萌えで悶えてたりするのは知りたくないやろ。そんな気がする。だってこのホテルの部屋にはテレビが無かったからや。それは中西さんの美学やねん。テレビなんかアホの見るもんやという。
 亨はたぶん、この人のところで、無理してええ格好してたんやないかと思うんや。ほんまはそんなキャラやないのに、この人の美学に合わせたくて、無理してたんやろ。そのストレスが祟ってのスプリンクラー攻撃やったら、いっそ部屋で『一人ごっつ』見ててくれたほうがマシやったんやないか。中西さん的にも。あいつにも、なんでそれが無理やったんやろ。
 とにかく亨は俺んとこに、ありのままの自分を愛してくれってやってきて、俺がそれを許したっていうだけで俺に惚れていた。それっぽっちのことで、って、俺は思うんやけど。その、それっぽっちのことが合うかズレてるかが、案外重要なんやないやろか。
 亨が料理が上手いという話にも、中西さんは驚いてた。俺はもちろん、それを自分が知っていることに、少々の優越感を覚えてた。そんな餓鬼くさい俺のさり気な惚気話を、中西さんは笑って聞いていた。俺を中庭に送る間じゅう。
「俺もいっぺん食うてみたいな。あいつの手料理なるもんを。毒入ってたりしないんやったら」
「入ってないですよ、そんなの。機会があったら、ぜひ一度」
 なんてことは無い話の流れで、俺はそう誘ったけど、それは社交辞令ではなかった。中西さんはそれに、面白そうに笑って俺を見た。
「変わった子やなあ、本間先生は」
 そんなことは、俺は言われ慣れている。本間は変な奴やと、言われ続けた二十一年やったからな。
 でもそれは、悪い意味やなかった。にこにこ笑って中西さんは、俺に握手を求めた。
「きっと有名な画家になるやろから、今のうちに握手しといてください。できたらほんまに、絵を一枚描いてもらおうかな。例の絵を売れと、新しいのが言うんで、その後に飾る絵が要るんや。できたら前の絵と、交換してもらえませんか」
 中西さんは亨の絵を、俺に返してくれるつもりみたいやった。それがほんまに嬉しくて、俺は必ず絵を描くと約束した。
「当ホテルの朝食ブレイクファストをお楽しみください。血のように赤いブラッドオレンジ・ジュースもついてるし。きっとお口に合いますよ」
 あいつをよろしくと、中西さんは俺に頼んだ。幸せにしてやってくれって。
 俺はその話に衝撃を受けていた。それは別れの言葉で、中西さんはまるで、娘を嫁に出すおとんみたいやった。えらいことになったと、俺は焦った。俺って亨と結婚するみたいやん。なんかめちゃめちゃ追い詰められた瞬間やった。
 ほんで肝心の水地亨はというと、中庭で落ち合う約束のはずが、まだ来てなかった。もうとっくに来てて、怒りながら待ってるかと思ってたら、なんとまだ部屋にいた。
 寝こけていたのかというと、そうやない。
 部屋で水煙を襲っていた。
 遅すぎると思って、念のため俺が部屋に戻ってみると、リビングにルームサービスをとった白いテーブルクロスがけのワゴンが放置されていて、バスルームから言い争う悲鳴みたいな声が聞こえた。亨の声やない。水煙の悲鳴やで。
 俺はびっくりして、慌ててバスルームの白いドアを開いた。
「アキちゃん」
 声をそろえて、お二人様が俺を見た。亨はバスタブの横まで持ち出した籐椅子に座って身を乗り出し、手にルームサービスの朝食の皿と、フォークに刺したイチゴを持っていた。そして、それに追い詰められた顔の水煙の声は、明らかに救いを求める悲鳴やった。
「な……なにやっとんのや、亨」
「水煙に飯食わしたろうと思って」
 悪気ないけろっとした顔で、亨は答えた。
「ええねん、もう要らんて言うてるやろ!」
 水煙は、あーん、という亨から必死で逃げてたが、バスタブの外に出られるわけやない。すぐ追い詰められて、顎を掴まれていた。俺はその光景に、なんとなく青ざめた。
 亨。それは。やめといたほうがええんやないか。水煙にイチゴ食わせんのは。何でかは説明しづらいけど、もうちょっと何か、歯ごたえないもんのほうがええんやないやろか。だって水煙、口ん中がちょっと普通より普通でないふうに敏感みたいやから。
「好き嫌いせんと食わなあかんねん。カレーまで到達でけへんやないか。なんも難しいことない、噛んでゴックンすればええねんで?」
 厳しい顔して、亨は水煙の口になんとかイチゴを押し込もうとしてた。
 やめろって。それは若干、強姦やから。
 水煙は、やめてくれえっていう顔やった。すでに何か食わされた後みたいやった。
「いけるってイチゴくらい。さっきブドウは食えたやんか」
「いやもう、ええから。それであかんと思ったんやないか……」
 反論したのがまずかった。顔をそむけて喚く水煙の口に、亨は、えい、とか言うてイチゴを突っ込んでいた。
 はう、って感じ。俺は止める間もなかった。なんて言って止めたらいいかも分からへんねんけどな。
「出したらあかんで。練習練習」
 亨に口を塞がれて、水煙は涙目やった。泣けるんや、実は。
 食わなしゃあないと、水煙は思ったらしかった。亨は怪力なんやし、水煙は非力やからな。いつまでも口ん中にイチゴ入ってて欲しくなかったら、頑張って食うしかないわ。
「亨、もう、止めといてやれよ。いきなりそんな色々食うて、腹壊したらどないすんねん」
「平気やって。こいつ犬人間食って平気やったんやで。イチゴくらい屁でもないわ」
 大阪の事件のときのことを言うてんのやろ。でも犬人間食うたとき、水煙は人型やのうて剣やったやろ。それにあれは、霊的に分解して吸い込んだんや。斬られた相手が霧みたいになったのを、剣が吸い込んでいた。剣が噛み砕いて飲み込んだわけやない。
「ほら、次、バナナいっとく? 美味いよー、バナナ」
 ぎょっとして見たら、飾り切りされた薄切りのやつやった。でももう水煙は、もう堪忍してくれっていう哀れっぽい態度やった。
「助けてくれジュニア。蛇に殺される……!」
 あーんして迫ってくる亨から、水しぶきを上げて逃げながら、水煙は俺に助けを求めた。水ん中やと剣に戻られへんらしい。せやけど這い出すほどの力が出ないんか、水煙は蛇に襲われる袋のネズミやった。
 俺はさすがに我に返った。新しすぎる世界に呆然と立ちすくんでる場合やないわ。
 水煙の口を開かせようとジタバタやってる亨を羽交い絞めして、俺は止めた。
「もう行こう、中庭で朝飯やし、朝のうちに食おう。朝飯は朝食えって、中西さん言うてたで」
「誰や、中西さんて」
 マジで憶えてないらしい口調で、亨はバナナを突き刺したフォークを握ったまま、俺ごと籐椅子に戻った。背もたれから肘掛まで全部、明るい色のラタンで編まれたでっかい椅子で、ふたりで座ってもまあまあいけた。亨は俺の膝の上やったけど。
「藤堂さんや!」
「話したんか、藤堂さんと? アホちゃうか、アキちゃん。もうやめといて、喧嘩なんて」
「してへん、喧嘩なんて。世間話しただけや」
 それどころか進路相談乗ってもろたわ。そんな自分のアホさを確かに感じ、俺は苦い顔やった。
「世間話て……何話したんや」
 亨はちょっと不安そうな顔をして、俺を振り返った。きっとあるんやろうな、スプリンクラー攻撃に類する、それかもっと悲惨な、お前が俺に知られたくない話が。
「なんもない。大した話してへん。お前をよろしくって言われたわ、幸せにしてやってくれって」
 その話を聞いて、亨は胸が騒いだような顔やった。それで何でか、亨は自分でフォークのバナナを食ってた。ちょっとやけ食いみたいやった。
「余計なお世話やわ。幸せになれはお前やろ。どっちか言うたら俺より向こうがよっぽどピンチやで。人の幸せ気にしてる場合やないやんか。俺はアキちゃんとこで幸せなんやで?」
 バナナ食いながら、ぷんぷん言うてる亨はすねてるみたいやった。
「幸せそうやったで。そこそこ」
「誰と!!」
 亨はどう見ても必死やった。なんでお前、必死なんや。
「誰とって……言うてええんかな。神楽さんとやで」
「やっぱそうか。どうせそうやと思うたわ。あいつもそうか、結局顔やねんな。顔さえよけりゃ何でもええんや。なんでそうやねん、俺が惚れる男はなんでみんな面食いなんやろ、アキちゃん」
 めちゃめちゃ綺麗な顔で怒って、亨は俺に真面目に訊ねた。
 返答しづらい。なんか、俺と中西さん、二人分まとめて責められてるようで。
「それは……分からへんけど。しゃあないんちゃうか。お前ぐらい顔が良ければ、寄ってくんのも、そういうのばっかりになるんやないか」
「どうせあいつは、顔がなければ俺なんて、どうでもええような、薄情な男やで。アキちゃんだけや、俺を愛してくれるんは」
 そうやろか。俺はあの人も、お前のこと、まあまあ愛してたんやないかと思うけど。でもそれは、もう終った話にしといてもらわな困るんや。俺はあの人と喧嘩したくないし、お前とずっと一緒にいたい。それに神楽さんかて気の毒やないか。
「俺とあの破戒神父、アキちゃんはどっちが美しいと思う」
 なんで知ってんの、破戒したって。俺は怖くなって、亨の質問に苦笑した。まさかお前の差し金なんか。そんな無茶苦茶なことって、あってええもんやろか。でももう、結果オーライかなあ。
「俺にはお前のほうが綺麗に見えるよ」
 それはほんまの話やで。別にお世辞で言うたわけやない。神楽さんも確かに美人やけどな、俺にはいつでも亨が一番。それが何でかは分からへんけど、たぶん、愛してるからやないか。
「そうやろ。そうやと思うたわ。アキちゃん大好き」
 亨はうっとり満足そうに笑い、フォークを投げ捨て俺にキスしようとした。
 そこに、ごほんごほんと水煙の咳払いする声がして、亨は唸った。いかにも忌々しそうに。
「邪魔やなあ……水煙」
「竜太郎や、蛇。竜太郎の話を忘れるな」
 まるでコーチのように、水煙は亨にひそひそ教えた。それに亨は、あ、そうやったみたいな顔をした。
「水族館行こか、アキちゃん。中一と。俺もう、誘っといたから」
 強引すぎる話やった。俺が部屋を出ている間に、亨は海道家に電話を一本入れたらしい。そしたら鳥が出て、今日は蔦子さんが三ノ宮に用事で出るので、そのついでに信太が竜太郎を北野まで送れるやろうという話をしたらしい。竜太郎当人が行きたい言うてるらしいし、蔦子さんも好きにしなはれと許したらしい。ゆるい親やで。
「行くのはええけど……留守にしててええんかな、俺」
「平気や、ジュニア。何かあるなら電話一本で呼び戻せるんやから。ずっと詰めとく必要はない」
 水煙がそう言うんで、そんならええかなと、俺は思った。八月ももう半ばやし、竜太郎の絵は夏休みの宿題やて言うんやから、時間ある時にさっさと終らせてやらんと可哀想かな、と。
 でもなんで、こいつらが、竜太郎の絵のことを、気にしてたんやろか。
 亨と水煙は、にこにこしていた。仲いいとは言い切れないまでも、悪そうではなかった。折に触れてぶつかってばっかりいたような気がする亨と水煙が、にこにこ穏やかにしててくれるんやったら、俺はそのほうが良かった。だってこれから、ずっと永遠に一緒にやっていくんやから。ずっと永遠にやで。
 それを思うと、勝呂はいつ戻ってくんのかと、急に気が重くなってきた。あいつほんまに、帰ってくるんやろか。あれは現実の出来事やったんか。
 つい昨日ここで、不吉な予言を吐いて消えた勝呂瑞希のことが、気まずく思い出された。まだ何となく体のどこかに、ものすごい強さで俺を抱く、あの腕の感触が残ってるような気がする。
 あいつが亨と、永遠にずっと、上手く折り合いつけて、やっていけるもんなんやろか。そんなこと、ありえへんような気がするわ。
「心配せんと、亨と飯行っておいで、ジュニア。俺が万事ええように算段してやるから」
 にやにや愛しげに苦笑して、水煙は俺を見た。それは俺に、なんとなく、嵐山のおかんを思い出させた。あんたはほんまにしょうがない、悪い子ぉやわ、アキちゃんて、おかんは時々俺にそうぼやいてた。ちょうど今の、水煙みたいな顔をして、俺を見つめて。
 俺はそれにいつも、なんとも答えようがない。
 この時の水煙にも、答えようがなかった。心を見透かされてるように思えて。
 ごめんな、水煙。お前も美しい神や。京都に帰ったら、でかい水槽買うてやる。お前がそこでいつも、のんびりくつろげるように。俺はきっとそれを、時々うっとり眺めるんやろ。そして亨にムッとされるんやろうけど、それもしょうがない。お前も人が見とれるような、美しい姿をしてるんやからな。
 俺は語りかけるわけでなく、ただそう思った。
 水煙はまるで、それが聞こえたみたいに、にやりと笑った。それも皮肉な笑みやった。
 水煙はたぶんいつでも、俺の心を知っている。こいつに隠し事はできない。おかんが何でもお見通しやったように、水煙には何も隠せへん。それが俺にとって、水煙にとって、都合が良かろうが悪かろうが、何でもかんでも筒抜けや。
 水煙がなにか答えてくるとは、俺は思ってなかった。でもその時は、頭の中に聞こえたような気がしたんや。水煙の、声でない声が。
 それでもお前は、俺では物足りないんやろと、水煙は俺に言うた。確かに俺は、お前と抱き合いながら、そんなことを思ってた。それが全部、聞こえてたんやな、お前には。
「行っておいで、早う。昼になってまうで。それに、いちゃつきたいんやったら、俺から遠いところでやってくれ。胸糞悪いから」
 そうするしかないわと俺は恥じ入り、ほな行くわという亨に手を引かれてバスルームを出た。水族館行くときに、迎えに戻ると亨は水煙に声をかけ、水煙はそれに黙って頷いていた。その横顔が何を考えてんのやら、俺にはさっぱり見当もつかへん。
 俺があいつと、あるいは俺のおとんが水煙と、永遠にずっと寄り添うような、そんな世界もあるんやろかと、俺は思った。あるんかもしれへん。ほんのちょっとの偶然で、そんな未来へ行くのかも。誰もいない海の底で、水煙はおとんの魂をずっと抱いていた。今のと同じ、美しい青い姿して。
 なんで戻ってきたんやろ。なんで俺を亨とふたりで行かせてくれんのやろ。
 それはなあ、アキちゃんと、水煙は貝殻みたな風呂にもぐって、俺の心に答えを返した。
 それはお前がそれを望んでるのが、俺には分かるからや。お前が幸せやったら、結局それでいい。俺は秋津の守り神で、お前の守り刀やねんから、お前を守れればそれでいい。
 水煙、すまないと、俺はいつも謝ってばかりやで。水煙すまない、水煙すまないと、いつもそればっかりで、いつも悪い子やねん。それでも俺は密かに水煙を愛してると思うわ。亨が好きでも、おかんも愛してるみたいに。
 それが悪やと、俺には思えん。悪い子で、亨が時々俺を責めるように、顔さえ良けりゃの浮気者やからかもしれへんけど、世の中に、自分を愛してくれる者がいて、それをお前はどうでもええわと無視して行過ぎる奴がいて、それは果たしてマトモな奴と言えるんか。
 そんな人生、虚しくないか。
 俺は勝呂を見ていると、いつも悲しい気持ちになったけど、それはあいつが俺が好きで、俺以外はどうでもええらしいからやった。そんな生き方、虚しくないのかと、いつも悲しくなってくる。
 亨は優しい。こいつは滅茶苦茶やけど、案外優しい奴やねん。俺がひとりで寂しかった時、俺を拾って帰ってくれたし、駅で俺をガン見していた猫がいたときも、それを拾ってきてエサをやっていた。水煙にもエサやってたけど、それは迷惑そのもので、水煙は弱ったやろけど、でも亨は水煙に、カレー食わせるつもりらしい。なんて迷惑な。
 でもそれは、きっと、亨にとっては儀式みたいなもんやねん。こいつは黒猫にも萬養軒のカレーを買ってきて食わせてた。それも迷惑やったやろうけど、亨なりの愛情表現なんや。家族はいっしょにデパートのカレーを食うもんやという。
 迷惑なんやけどな、こいつは優しい。その優しいところが俺は好き。たぶんそれが、俺にとっては亨の、何者にも代えがたいところ。その優しさに、べったり甘えて俺は生きてる。
 ガーデンテラスで飯食いながら、俺は亨に訊いてみた。
 中西さんは前に買ったお前の絵を、手放したいらしい。代わりになる絵を描いてほしいと頼まれてる。俺は何を描いたらええやろかと。
 あの人の一番好きなもんはなんやろ。お前はそれを知ってるかと訊くと、亨は不満げな顔で、知っていると言うた。
「ホテルや」
「ホテル?」
「そうや。藤堂さんは仕事が何より好きやねん。三度の飯よりもやで。飯も食わんと仕事しとるわ。俺と付き合うてる時も、ホテルのほうを愛してた。結局そういう男やねん。今でもきっと、それは変わらんと思うで。それだけは、死んでも治らん病気やわ」
 血のように赤いブラッドオレンジジュースをちゅうちゅうストローで吸いながら、亨は恨めしそうに話してた。
「この飯美味いなあ。ほんまにイケてるよ、あの人がプロデュースするホテルは。ここも一流なるやろ。俺のお陰やのうて、これがあの人のアートやったんやろなあ。アキちゃんの絵みたいにさ」
 このホテルの絵を描いてやったらええよと、亨はがつがつオムレツ食いながら俺にすすめた。妖怪ホテルの絵か。それもええなあと、俺は思った。そしたら二十四時間ホテルと一緒にいられるで。神楽さんは怒るかもしれへんけど、それはしゃあないわ。
 大人の男には、愛が沢山あるらしい。あの人はきっと、今でも亨が好きやろし、神楽さんのことも好き、ホテルも好きで、むかつくはずの俺のことまで、笑って人生相談に乗ってくれたやんか。
 俺もそれを見習って、大人の男を目指そうか。
 そんなことを思いつつ、にやにや飯食ってる俺を、亨はジトっとした疑わしげな目で見つめてきたわ。
「なんやねん、にやついて。顔綺麗なやつでも通ったんか?」
「いや、そんなんやないよ。ちょっと考えててん。お前の元カレ、格好いい男なやあと思って」
 俺の答えに、亨はぽかんと口あけて見てた。卵見えてるで、行儀悪いなあ、お前。せっかく顔綺麗なんやから、行儀よく食えよ。
「な……なに言うてんの、アキちゃん。憎くないんか、藤堂さんが」
「憎くないなあ。なんでか知らん。ずっと怖かったけど、話してみたら、ええ人やった」
「アホちゃうか……アキちゃん」
 亨はしみじみ言うた。馬鹿にしてるわけやのうて、まるでそれが事実みたいな、俺を哀れむ口調やった。
「なんでアホやねん。お前が好きやった相手やろ。それを俺も好きで、なんか変なんか」
 亨はそれに、うっと呻いた。引いてる訳ではなかった。むしろ感激してるっぽかった。涙をこらえてるような顔で押し黙り、亨は眉間を押さえたが、平静なふりをしたいんか、空いてるほうの手でフォークを握り締め、サラダに入っていたブロッコリーをむしゃむしゃ食うていた。
 やがてそれも食い終り、うつむいて紅茶をすすりつつ、亨はやっと口をきいた。
「アキちゃん、お前はほんまにアホというか、大人物というか……なんて可愛い男やねん」
「褒めてんのか、それ……?」
 亨に可愛いって言われたのは、これが初めてやったんやないか。それが馬鹿にしてんのかという気もして、俺は動揺してた。
「褒めてる、というか、アキちゃん。俺はほんまに、お前を愛してる」
 好きやと喚いて、亨は俺をいきなり抱き寄せ、キスしてくれた。
 やってくれたな。それを朝飯食ってる宿泊客のほとんど全員が見ていた。どれが人で、どれが人でなしやら分からんけどもや、皆に見られた。
 実は中西さんにも見られた。客に挨拶するために、わざわざ中庭に出てきたところを直撃やった。
 亨はそれに気付いてなかった。でも俺は気がついてたんやで。
 それが抱きついてきた亨を、避けへんかった理由かもしれへん。見せつけたろうって思ったんやろか、俺は。
 自分では、そういうつもりやなかった。
 俺は亨を幸せにする。少なくとも今朝は、こいつは幸せ。亨がやりたいことは、俺はなんでもさせてやる。キスしたいならキスしてやって、抱き合いたいなら抱き合って。それは変かもしれへんけども、亨が幸せならそれでいい。
 そんな感じでどうですやろかって、見せたつもりやねん。
 中西さんはそれを見て、参ったなというふうに笑った。そしてそのまま立ち去って、ロビーに消えた。
 もしかしたら神楽さんとこ行くんやないかと、俺は思った。夜まで待つのがつらいって、そんな顔してたあの人に、ちょっとくらいは顔見せて、キスのひとつもしてやるために。
 それともどこかで一人、自棄酒やけざけでも飲むのかって、俺はそういう想像はしない。だって格好悪いやろ。それともそれさえ格好ええんやろか、大人の男ってやつは。
 しかしとにかく、中西さんは格好ええ男。そう信じておくのが、俺が今までの人生で出会った、一番怖い男に対する、俺なりの敬意の表しかたやった。
 画家になろうかなあって、俺は決めた。中西さんおすすめの、なぁんとなくのノリで。晩夏の神戸やった。せやから画家としての本間暁彦の出発点は、神戸ということになる。
 俺はめいいっぱいの若造で、自分には希望に満ちた未来があるんやと信じきっていた。予言なんて、占いみたなもん。そんなもんは迷信で、当たる訳がないと、思っていたんや。
 しかしそれが本当か。神など、予言など、この世には現実にはないか。俺は自分の身をもって知ることになる。ほとんどの人間が、それは迷信と、笑い飛ばして通り過ぎられるものに、自分は殺される。そうやって大勢の幸福のための人柱となる。それが自分が生まれついた、血筋の定めやということを。


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