SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

神戸編(11)

 時は少々さかのぼる。
 俺は神楽神父と支配人室を出て、霊振会の会合があるという、ホテル内の会談室へと連れて行かれた。
 その部屋は、ホテルの一階の、かなり奥まったところにあり、うねうねと角を曲がる廊下を歩き続けた先に現れた、赤黒い木製の扉の中にあった。こんなに広いホテルやったろうかと、俺は内心首をかしげつつ、神楽さんについていった。
 部屋は広々とした会議室で、楕円の立派なテーブルがあり、革張りのチェアがずらりと並んだ正面の壁には、宗教画らしい大きな油絵がかけてあった。
 質素な白い服を着た、縮れた長髪の男が、崖か岩山のようなところで、跪いて祈ってる。たぶんこれ、キリスト教関係の絵やろうと、ぱっと見には思えたが、なんとも陰鬱な絵やった。部屋の照明もどことなく暗く、幾つかある大きな窓からの陽も、その外に植わっているオリーブの木に遮られ、やんわりとしていた。
 日本にいる中で、いちばん偉い神父やという人が、会議室にいて、ころりと小太りな、小柄で人の良さそうな爺さんやった。にこにこしてる顔も手も白く、なんとなくもちみたい。
 神楽さんは革のチェアに座っていたその人の、足下に跪いて頭を垂れて、金色の指輪をはめた餅みたいな手を押し頂いてキスをした。
 その日頃は絶対見んような挨拶に、俺は度肝を抜かれてた。まさか俺もやらなあかんのかと思って。
 しかし、そんなことはなかった。どうも足が悪いらしい、その老神父は、大儀そうに立ち上がり、それでもにこやかに俺の手を両手で握ってきただけやった。ものすごく温かい手で、やっぱりつきたての餅みたいに柔らかかった。
 あなたは大変な役目を神から与えられたが、共に頑張りましょうと、餅の神父はにこやかに俺を励ました。俺はそれに、頑張りますと答えるほかあらへん。
 部屋には他にもうひとり、こっちは古い柳の木みたいに鋭く痩せた爺さんがいた。初対面やったけど、俺の知っている顔であり、俺のようく知ってる爺さんやった。
大崎茂おおさき しげるや。会うのは初めてやったな」
 確かに、痩せた海原遊山やった。まっすぐな銀髪を肩のあたりで切りそろえ、きっちりと整髪した姿は、一分の乱れもない銀鼠ぎんねずの和装で、普段から着物を着てる人間の立ち居振る舞いやった。
 俺は一応、頭を下げて挨拶したが、大崎先生は椅子から立ちもせんと、小さく頭をさげて答礼してきただけやった。何となく俺を斜に見おろすような目で、その目が灰色がかっているというか、緑色というか、なんとも妙な色合いの虹彩をしていて、この人は目が見えんのやないかと思えた。
 霊振会のメルマガに載っていた写真で見たときは、別に普通の目やったんやけどな。不思議なもんで、それは写真には写らん種類の目の光らしかった。大崎先生はこの慧眼によって、まあ、いろいろやってる人やねん。
 俺がどの席に座ろうかと迷うていると、ぽんと弾けるような音がして、どろんと白い靄か煙のようなものが会議室のすみに湧いて出た。そしてその中から、着物のようなものを来た、十四、五歳くらいの男の子が飛び出してきて、会議室の中を振り向き、ぎょっとした顔をした。
 俺もそれと目が合い、ぎょっとした。
 その子はどう見ても人やなかった。まず何より、尻尾があった。狐みたいな、長いふさふさの茶色い毛並みで、先のほうだけ白い尾が。そして、後ろで一つに束ねてる長い黒髪の頭には、いかにも狐な三角の耳が生えてたし、顔も糸目でなんとなく狐くさい。
 せやけど可愛い顔やった。
 大崎先生と狐。その組み合わせで、俺でもさすがにピンと来た。それが誰なのか。
 せやけど名前を呼ぶ前に、当の大崎茂が怒鳴りつけていた。
「遅い、秋尾。何をやっとるのや、どこで道草食うとった。東京行って戻るくらい、半時あれば足りるやろ」
「そんな殺生な、先生。伏見ふしみのおやしろにも寄ってましたんやで。それで行って帰って一時間以内やないか。ようやった方ですよ」
 泣きつくような愚痴っぽい声で、妙な着物着た少年は言い返していた。
 牛若丸コスプレか、みたいなな。そんな格好やねん。上が袖の大きな水色の着物で、これは水干すいかんというらしい。下は濃紺のはかまはいてて、それが足首のところで絞ってある。平安時代以降しばらくの、身分の高い家の子供の格好らしい。
 俺は調べた。なんで秋尾さんが、そんな格好してたのか、どうしても気になって。しかし由来はわからへんかった。趣味としか思われへん。本人か、もしくはその主である大崎先生の。あるいは、一番まともな線として、秋尾さんがそれくらいの時代から生きていて、その格好が普段着やったという可能性もある。その線を、俺はぜひ推奨したい。
「首相はなんと言うてた」
 秋尾さんの言い分には一ミリも取り合わず、大崎茂は着物の袖の中で腕組みしたまま、断固として本題を切り出していた。
「神戸の道路封鎖や総員退避はできんと言うてはりました」
「何でや。アホやないのか。大災害やとちゃんと言うたか。遣いもろくろくでけへんのか、お前は」
 ぴしゃんと叩きつけるように怒鳴り、じじいはふんぞり返っていたが、狐の耳のある少年はそれに、またやという痛そうな顔をしたきりやった。
「やっぱり先生が直々に行きはらへんと、あかんのやないやろか。狐のお告げやとなあ、現実味がないんですわ、今のご時世」
「お前がそんな格好して行くからや」
「伏見にお参りしてから行って、着替える間も惜しんだんやないですか。大急ぎやったんやで。それにどんな格好して行こうが同じですやろ。予言やらお告げやらで大災害があるて言われてますんで、市民を全員退避させてくださいて、そんなアホなですわ、今のご時世」
 ぶつぶつ言うてる狐を黙らせる勢いで、大崎茂はばちんと会議テーブルを平手で打った。それに牛若丸コスプレはびくりと飛び上がっていた。
「何が今のご時世や。馬鹿もんが。ほんならとっとと今時らしい格好でもせえ。けだもの臭うてかなわんわ」
 まるで憎そうに言う大崎茂に叱られて、秋尾さんは、はいはいとうんざりしたように答えた。確かに秋尾さんやった。その後、その場ですぐまたどろんと化けて、いつものスーツに丸眼鏡の、ぱっとせんようなレトロな中年男に戻ったんやから、間違いないわ。
 秋尾さん。どの姿があんたのほんまの姿なんや。何個ぐらい化けネタ持ってんのやろ。何にでもなれんのかな、まさか女子高生とか。気つけなあかん。誰が狐か分からんわ。
 スーツに戻った秋尾さんには、もう尻尾はなかった。どう見ても普通の人で、どこにでもいるリーマンみたい。それが狐の化身の式神で、にこにこ愛想よく餅と神楽神父に挨拶をして、大崎先生の隣に席をとった。その横で、銀髪に変な目の爺さんは、ものすご偉そうにふんぞり返ってた。
 俺と亨も、まさか傍目にはこんな感じかと、俺はちょっと反省した。偉そうキャラが他人事と思われへんでな。
 俺は結局、神楽さんの薦めで、いばりじじいと餅の間に座らされた。行き場がなくて、持ったまま来てもうた水煙は俺の膝の上。神楽さんは餅の隣。そんな感じで、最初の会合は始まった。
 予言者を集めて、未来を占わせていると、大崎茂はまず語った。それにより、日取りはほぼ特定されつつある。まずなまずが暴れだし、それによって岩戸いわとが開く。そして、死の舞踏が現れる。しかしそれで終わりやのうて、第三の何かが控えてる。
 それは龍ではないかという説が有力やと、お伽話のあらすじでも話すみたいに、痩せた海原遊山は話した。もちろん、大真面目に。
 龍やないかと、そういえば、海道家で朝飯食うてる時に、竜太郎が占っていた。蔦子さんはそれに言質を与えなかったけど、異論はないような顔をしていた。
 龍なんてもんが、この世に居んのかと、俺は内心そう思っていたけど、蛇神がいて、天使がいて、不死鳥がおるんやったら、そらもう龍ぐらいおるやろ。今さら驚くに値しない。そうなんやろと思ったのに、秋尾さんは驚いていた。
「龍ですか、先生。ほんまやろか。そんな、どえらいもんが姿顕すことが、ありえますのんか」
「うるさいな、お前は。いちいち口挟まんでええんや」
 ちっと舌打ちしそうな勢いで、大崎先生は秋尾さんを邪険にしてた。
「はあ、すんません。あんまりびっくりしたもんで」
 恐縮したふうに詫びて、秋尾さんは引っ込んだ。それでもまだ、驚いたような顔やった。
 龍って、そんな珍しいもんなんか。普通、非・普通の区別は付くけど、非・普通の中でのランク付けが、俺にはまったく分からへん。秋尾さん、あんたも充分珍しいと思うんやけど、化け狐は驚く必要ない程度に普通なんか。全く分からん。
 なまずと、死の舞踏は普通やと、大崎先生と餅は、そんな態度やった。その、あまりに普通らしいスルーされ方にビビって、俺は、死の舞踏って何ですやろかとは口を挟めなかった。後で秋尾さんか誰かに聞こう。
 龍はどう転ぶやら、問題やなあと、大崎茂は唸り、そして俺を見た。
「なんでまた、お前みたいな若造が祭主さいしゅに選ばれたんやろかと嘆いてたんやけど、そういうことやろなあ」
 嘆かわしいわという目のまま、大崎先生は俺にそう言うた。
「なんですか、そういうことって」
「なんですかって、お前。秋津の跡取りやろが。お前んちは龍を鎮める家柄や。暴れる龍が現れたら、それをなだめるために、おまつりしたり、時には生け贄を出してきた」
 あんぐりしたまま、俺は大崎茂の顔を見た。
 生け贄?
 生け贄、って、生け贄?
 豚の丸焼きとかやのうて、人間の生け贄ですか?
 って、俺は訊いた。訊かな分からへん。
 そしたら大崎茂はものすごい俺を馬鹿にした顔をした。
「そんなん知るかいな。わしは秋津の男やないで。お前が知らんのに、儂が知るわけないやないか。お前のおとんにでも訊け」
 ぷんすか怒って、大崎茂は毒づいた。
 おとん大明神のご帰還を、大崎先生は知ってるらしかった。
 後々、秋尾さんの語るところによると、大崎茂は幼少期、嵐山の秋津家で養い子として過ごしてた。普通の家の子やのに、異形の目を持って生まれ、困った親が伏見稲荷大社に参って助けを求めたらしい。
 大崎先生の実家はでかい商家で金持ちやった。それで大枚はたいたお供え物をしたもんやから、伏見稲荷の権現さんも無下にはせんかった。それで子守りとして秋尾さんが遣わされ、秋津の家で、ひとかどのげきになるまで養育されるよう、うちとの仲を取り持った。
 せやからほんま言うたら秋津の家業のことも、多少なりとは聞きかじっている。せやけど秋津暁彦の息子である俺には、先生、素直にはなられへんのやと、秋尾さんはにやにや苦笑やった。
 大崎老人は、見た目こんな爺であるにもかかわらず、うちの親たちの幼馴染みやった。少年時代を嵐山で過ごし、俺と顔そっくりのボンボンやった、うちのおとんに、さんざんイケズされたらしい。それは大崎先生がその頃からすでに、秋津の登与姫、つまりうちのおかんに懸想けそうしていたからやと秋尾さんは語る。懸想けそうって、今のご時世ふうに言うと、片想いしてたってことらしいわ。
 秋津の登与姫は、居候の茂ちゃんにも優しゅうしてやったんで、おとんはそれに焼き餅焼いて、ヘタレの茂と呼び習わして、ほんまにさんざん馬鹿にしたらしい。おとん。性格悪すぎる。しかし当の茂ちゃんもええ根性で、本気でおとんとドツキ合うていた。
 そんな三角関係のとばっちりで、しきしきどうしの悶着があり、秋尾さんも秋津の式神たちには、えらいイジメられましたわと恨む口調やった。えげつないねん、秋津のしきはなぁ、と、そんなコメント。
 もしかして、大崎先生が俺に意地悪なんは、俺だけのせいやのうて、うちのおとんの因果やないかと、そんな予感もするな。
 せやからとにかく、大崎茂は、俺にとって痛い話が大好きやった。
 それを俺に教えてきたんも、大崎先生やったわ。
 顔合わせを目的とした会合があっさりと終わり、これから東京へ乗り込むと鼻息荒く言うてた大崎先生は、秋尾さんを従えて出て行きざまに、ふと思い出した顔で、にやりと俺を振り返って見た。
「せやけど縁は異なもんやなあ、秋津のぼん。このホテルのオーナーさんなぁ、お前の絵を買うたお人やで。お前の蛇の、前の持ち主や。藤堂卓とうどう すぐる。未だにあの絵は、飾ってあるらしいで。寝室になあ」
 おっほっほと笑う悪いお公家さんみたいに、大崎茂は邪悪に笑った。
 俺の正気はそこまでやった。
 頭真っ白なまま、顔面蒼白になっていく俺を、餅と神楽さんが、ぽかんと見ていた。
 俺はしばらく耐えはした。まさかと思いたくて。
 まさか、なんともない。亨と、絵を買った男を、誰も来ないような地下の部屋にふたりっきりで置いてきたけど、なんともない。なんともないと、しばらくそう繰り返して考えて、そして結論が湧いた。
 なんともないわけ、ない。
 そして気づいたら、水煙を鞘から抜きはなってた。その時なにするつもりか、全く考えてへんかったんやけども、とにかく得物が必要やと、俺はそんな気でいたんや。
 足早に出ていくキレた形相の俺を見て、神楽さんはひどく慌ててた。そして俺を止めようとしたが、俺は止まらへんかった。餅の神父が、追いなさいロレンツォと命じ、神楽さんは追ってきた。
 そして、ああいうことになったんや。
 地下へ降りていき、中西支配人と抱き合う亨を目にして理性がブッ飛び、斬れへん剣でソファを一個ぶった斬って、フラフラなって逃げ出した。
 神楽さんも、さぞかし俺に呆れてたやろ。どうなったんか知らん。気がつけば、一人でロビーを歩いてた。
 俺は負けたと思うてた。
 なんでそう思ったんかは、自分でもよう分からへん。
 亨を抱いてたあのおっさんが、俺の目で見ても、ものすごイケてる男前やったからかもしれへんわ。餓鬼くせえ自分とは比べものにならん、ほんまもんの大人の男やと思った。
 中庭で最初に挨拶した時の、第一印象からしてそうやった。
 えらい格好ええおっさん来たわと思ったんや。絶対、亨の好みやで。危ない危ないって思いはしたけど、それでも俺は中西支配人に好感を抱いてた。
 どうも俺にはオヤジ萌えがある。認めたくはないけどやな、たぶんある。それはたぶん俺のねじれたファザコンに由来する感情で、画商の西森さんが亨といかにも怪しいというのに、それでも何か好きというところにも現れている。
 俺の中にはたぶん、理想の父親像みたいなんがあって、その物差しで見て、こんな人が俺のおとんやったらええのになあというおっさんが現れると好感を抱く。そういう仕様になってるんや。
 せやからその仕組みに従って、俺は中西支配人が好きやった。
 冷たく聞こえそうな練れた標準語に時々混じる、自分は地元の人間ですよみたいな、少々の関西訛りも印象良けりゃ、着てるもんの趣味もよかったし、何より、ものすご解放されてますみたいな自由な雰囲気のある人で、それでいて頼りがいがある。激しく理想のおとんやった。
 俺ももし、永遠に老けないような体になってへんかったら、こんなおっさんになりたかったな、みたいな。そんな、永遠の若さがちょっと残念になるような人やねん。
 あんまり褒めんのは止そう。恋敵なんやから。
 そう思ってみても、初対面の拭いがたい好印象は、そう簡単には消えへんかった。亨を抱いて横たわっている有様も、寝乱れてしどけなくはあっても、すごく絵になっていた。言いたくはないが、お似合いのふたりに見えた。
 もしかして俺よりも、この人のほうが、亨の横にいて、しっくりくるような絵や。自然にそう思えて、頭が割れそうに痛み、息もできへん。激怒してキレて、その勢いで亨をぶった斬ってやりたいと、俺は心底そう願ってたけど、そんな権利は俺にはないわって、そんな気持ちも湧いていた。
 なんで俺は、亨は俺のもんやって、ずっと信じていたんやろ。
 ほんまにそう信じてた。戻った部屋で、抱き合う二人の、あの光景を見るまでは、ちょっとも疑わずに信じてた。
 亨は永遠に俺のもの。あいつは俺といられれば、それで幸せなんやって。
 自惚れやったな。浮気に妬いたり、よそ見をするなって心配したりしてても、俺は内心では思ってた。俺よりお前を幸せにできる男はおらへん。あんなん何がええねん、俺のほうがええやろ、って、亨が抱かれたいリストを更新するたびに、心の中で思ってた。
 何を根拠に俺は、そう信じてたんやろ。後になって悩むと、全然その自信の源が分からへん。
 抱き慣れたふうな手で、亨を抱いてる中西さんを見て、俺は自分が無粋に思えた。突然踏み込んできて、愁嘆場を演じるアホな餓鬼。怒る気もせん、呆れるわっていう、そういう顔して見られたし、それは俺にも分かってた。めちゃめちゃ格好悪い。
 俺はもう、亨と別れたい。
 好きやなくなった訳やない。変わらず好きやけど、でももうつらい。俺よりもっと、あいつに相応しい男がおって、そいつと運命的な再会を果たした亨が、もう戻ってはこない。そういう気がして、俺は捨てられるんやと思ってた。
 それで逃げだすように、その場を去ってた。ほんまに逃げてん。嫌やった、その場で振られるんやと、あんまり自分が哀れに思えてん。
 自慢やないけど、俺もあんまり人に振られたことはない。せやから慣れてない。自分のほうが捨てられるのにはな。
 いつも飽きるのは俺のほうが先で、別れたい理由は俺のほうにあった。お前は不実やとか、もう愛せないような事をしたとか、そういう些細な原因やねん。さらっと醒めてもうて、それっきりもう燃えない。せやから、しゃあない、別れてくれへんかって、そんな理由。
 面倒くさいねん。人と付き合うのが。いろいろ気も遣う。寂しいねんけど、誰かといると疲れてしまう。本当の自分を相手に晒す勇気もなくて、騙し騙し付き合うと、いずれはそれに気が咎めてくる。俺は嘘をついてる。誠実でないといけない相手に、毎日嘘ついて過ごしてるって、そういう罪の意識で押しつぶされてくる。
 そこに些細な亀裂が入ると、ダムが一本のヒビで決壊するみたいに、なにもかもぶち壊しになって、そこに沢山あったはずの恋も愛も、見る間にどっかに流れていってしまうんや。
 相手と別れると俺はいつも、ほっとした。もう、心配することは何もない。相手に気を遣う必要はなくなった。
 デート中に女がホテル行きたいと言い、ほな行こかって連れて行き、案内された部屋に、俺にしか見えへん首つり君がぶら下がっている。そいつが、あのう、首痛いんですけどって、俺に言う。それを見ながらエッチできる男がおるか。できるわけない。今日はあかんわ、もう帰ろって、いつ言おう、いつ言おうみたいな、そんなホラーかギャグか分からんような、悲しい想いをする必要もない。
 別れれば解決。一人が気楽やって、深く安堵して、また気づく。
 俺は寂しい。一人で居ると、ものすご寂しい。誰か一緒に居ってくれればええのにな、って、その堂々巡り。
 アホみたい。俺は一体、何をやってんのやろ。
 きっと、ほんまに俺はヘタレでアホなんや。竜太郎が言うように。
 未熟な俺に、水煙はいつもため息をつく。まだまだやなあ、ジュニアって。
 もっと気合いを入れろ本間と、新開師匠は俺に怒鳴る。
 初心うぶな絵やなあと、大崎先生は俺にイケズする。
 頑張ってるけど、空回りしてる。そんな急には大人になられへん。立派な男になりたいけど、でも一瞬で変身できるわけやない。
 頑張ったところで、当分の間の俺は、小僧のまんまやねん。
 そんな俺に、亨はそのうち飽きるかもしれへん。飽きっぽい子やと、画商の西森さんも言うてたやないか。昨日は夢中で見てるのに、今日には飽きる。そしてボロ屑みたいに捨てるんやって、西森さんは話してた。
 それは俺への忠告で、あいつとは程ほど親しく、深入りせんのがコツですよと、祇園のお洒落なおっさんは、訳知り顔で俺に教えた。
 余計なお世話や。俺は亨にとって、他の男とは違う。あいつが俺に、飽きるわけないわって、俺はそれをまともに聞いてなかった。そうやと信じていたかってん。俺は特別。他とは違う。せやから亨は俺を、捨てたりせえへん。
 でも、ほんまのこと言うたらな、いつも怖かったんやで。昨夜はうっとり俺を見ていた亨が、今朝にはボロ屑みたいに俺を捨てる。そんな日が、今日なんやないかって。
 朝が来るといつも、俺は亨にお前が好きやとキスしてた。それはこういう意味やったんやないか。俺はお前が好きや。今日はまだ、捨てんといてくれって。
 惨めすぎ。振られるくらいなら、俺が捨てたる。そうしよう。そのほうが、腹の納まりもいい。式神はこの世にあいつ一人やない。他にもっと、俺にも優しい初級編のやつが、どこかに居るはず。
 水煙かて、そう言うてたし、蔦子さんもそうすすめてた。俺はもっと、人の忠告を聞くべきやったんやって、自分に言い聞かせつつ、俺は妖怪ホテルのレッドカーペットが敷かれた通路をふらふら歩いてた。
 蒼白な顔して、部屋はどこですかと聞きに来た俺に、フロントの綺麗なお姉さんは、ちょっと引いたような営業スマイルで鍵をくれた。ご案内しましょうかと、行きたくなさそうに言う彼女に、ご案内しないでくださいと、俺は部屋の場所を訊いた。
 まさか俺が握っている抜き身の水煙が、お姉さんに見えたわけやないやろ。普通の人には見えへんのやから。もしも見えてたら、えらいことやで。抜きはなったサーベル持ってる真っ青な顔の男が、ふらふらロビーを歩いてんのやからな。
 水煙、水煙と、俺はずっと声には出さずに話しかけていた。
 誰かと口を利きたかってん。誰でもええから、俺を励ましてくれ。
 振られたなあ、ジュニア。せやけど気にすることないわ。お前にはきっと、もっと優しいしきが見つかる。泣くことないで、きっと幸せになれる。ひとりやないで、アキちゃん。からんころんが蔵に居る。
 かつて実家の蔵で見た、口利く下駄のことを、俺は歩きながら不意に思い出した。自分に都合のいい妄想の中で、はじめ水煙やったもんが、いつの間にやら下駄の妖怪にすり替わってて、俺は自分が餓鬼のころ、学校で嫌な目にあうと、蔵にこもってめそめそしていて、それを下駄に励まされてたことを思い出した。
 アキちゃんは、泣き虫やなあと下駄どもがいい、男の子が、泣くもんやおへんえと厳しいおかんの代わりに、泣いたらええよ、どんどんお泣きと優しく言って、俺の涙をべろべろ舐めてた。
 なんやったんや、あれは。俺の妄想のお友達か。
 どうせ俺には、妄想のお友達しかおらへんわ。しかも下駄? なんで下駄やねん。
 下駄かて喋ると、かつては気にせず認めていたくせに、俺は水煙に、剣が口利くのは変やと言うたような気がする。それはちょっと、悪かったんやないか。
 信じてやらなあかんのやと、虎が言うてた。信じてくれへんからというだけのことで、赤い鳥は消えそうになってた。そなんら俺に否定されて、水煙は、どんな気持ちがしたんやろ。実はこいつももう、俺には愛想がつきていて、せやから口利いてくれへんのやないかと、俺には思えた。
 俺はあまりにも、ヘタレすぎ。秋津の跡取りなんて、とても無理。なまず封じなんて、逆立ちしたって無理に決まってる。できる訳ない。なんで俺やねん。亨がおらんようになったら、俺には式神がひとりもいない。水煙も知らん顔やし。そんな、さらにバージョンダウンした俺に、一体なにができるっていうねん。
 ぶっ倒れそうやって、俺は吐き気を堪えつつ、回廊を曲がった。
 ホテルの建物は、四角いドーナツみたいに中庭を囲んで建っていて、俺が泊まっていい部屋は、三階の一番奥まったところやった。
 当ホテルが誇るインペリアル・スイートでございますと、フロントのお姉さんは言うてくれてた。ありがとう。一人で寝るわ、インペリアル・スイートで。せやけど、やたら遠いねんけど、この廊下、めったやたらと長すぎやないか。俺、もう、ほんまに倒れそう。
 落ち込みすぎか、ほんまに視界が暗く狭くなってきた。くらりとして壁に手をつき、俺は水煙を杖代わりにしそうになって、なんとかそれを堪えてた。そんなことしたら、こいつは嫌やろ。俺はそんなこと、したくないって、やせ我慢した。
 その時、フランス窓の並ぶ廊下に、午後の陽の光よりも数段明るい白い光が、小さな一点から弾けるような勢いで溢れ、その目のくらみに留めをさされかけた俺の両肩を、力強い手が支えてくれた。
 光に灼けた目が、ゆっくり元に戻るにつれて、俺は自分を間近に見上げている白い顔と向き合うことになった。
 亨やない。これは亨と違うと、俺はそれを残念に思ってた。それでも俺には懐かしい、綺麗な顔やった。勝呂瑞希の、どうしたんやという心配げに俺を見る、淡く眉間に皺寄せた、今はもう元気そうに見える顔。
「どうしたんや、先輩」
 顔そのまんまの事を、勝呂は俺に尋ねた。
「なんでもない。亨に振られてん。それで、なんや、フラフラになってきて。部屋で寝ようかと……」
 気絶したいと、俺は思ってた。そうや、蔦子さんみたいに。せやけど廊下で倒れたら、あまりにも無様すぎ。なんとしても人目につかないところで倒れたい。
「振られたって……まだ蛇と付き合うてたんですか。こないだの鳥は?」
 どうでもええやんと、俺は勝呂の顔を見つめた。お前は綺麗な顔してる。亨と出会ってなかったら、俺はお前とデキてたんかな。そっちの方が、良かったか。それともお前も亨みたいに、俺がさんざん頼んでも、あっさり浮気して俺を捨てたやろか。
「鳥は元々俺とは何の関係もない奴や。たまたま車の運転してただけ。あいつは虎がええらしいわ。他のと寝たくないんやって……」
「先輩、酒でも飲んだんですか」
「いいや。ただ、見てもうただけ。亨が他の男と、寝てるのを」
 それを口に出すと、俺にもショックやったけど、勝呂はもっと、でかい金鎚かなづちで頭を殴られたみたいな顔をした。
「う……浮気!?」
「いや……本気かもしれへん。あいつにはきっと、俺より好きな男ができたんや」
 絶対そうやって、あと五秒くらいで気絶できそうな気分で、俺は教えた。勝呂はそれに、唖然と目を見開いた。
「そんな……アホな。俺をぶっ殺して、先輩をぶんどっておいて、一年保たずに浮気……?」
 言われてみると、あまりにも酷い話やった。すまん勝呂、アホな俺を許してくれ。お前をぶっ殺しておいて、そんなオチにしかできへんかった俺の不甲斐なさを。
「俺にしといたら良かったんや、先輩。俺なら絶対、浮気なんかせえへん。だって……」
 何から話したらええかなあ、みたいな、勝呂は頭の中で話しを組み立てているような顔をした。俺はぼんやりと、それを見つめた。
 きっと長い話やで。こいつは前もそうやってん。慌てたみたいに、大きな目がきょろきょろ惑って、何か考えてたと思ったら、演算終了、みたいな時がきて、それからものすごい長話。それも、聞けば聞くほど、主旨がわからんようになる混乱した話で、結局なにが言いたいんか分からへん。
 あんまり長く話すうちに、こいつは話の長さが恥ずかしなってきて、まあええです、こんな話どうでもええわ、仕事しましょうかって、勝手に照れて作業に戻る。そういう感じやってん、夏になる前、大学の作業室で詰めてた時も。
 あの頃は由香ちゃんと、極めて微妙な三角関係におちいり、勝呂が俺と二人きりで話す機会はほとんど無かった。でも、全然無かったわけやない。せやのにこいつは、その機会を全て意味不明な長話で無駄にしていた。
 好きやって、一言言えば済む話を、ものすごく遠回りして、結局、結論まで行き着かへん。そのせいで俺に夏中逃げ回られて、こいつが肝心の話をできたんは、もう死ぬような時になってからやった。
 不器用や。それが可愛いって、俺はどこか自分に似てるような、こいつのことを、弟みたいに思ってた。弟やって、それは、一種の防衛線やったかもしれへん。そこから先へ行ったら、取り返しのつかないことになる。俺には亨が居るし、その上こいつにも惚れてもうたら、俺はあまりに不実。
 せやけど、うちのおとんは、妹に惚れて、子供まで孕ませたんやで。そしてその子が俺やねん。俺はそういう血を、たぶん受け継いでる。
 こいつは弟みたいと、そんなふうに自己暗示かけてもな。ああそう、そうかもしれへんな。けど、それが何、みたいな自分も居るわ。
「先輩、俺はあの後、いっぺん地獄に堕ちた」
 俺を間近に見上げて、勝呂は必死の顔をした。長い話かと、俺は勝呂に肩を抱かせたまま、それを見つめ返した。
「俺の罪を浄化するには、まあざっと、三万年くらいかかると、煉獄のかまを炊く天使が言うねん。そんなに時間がかかったら、せっかく綺麗な体になっても、先輩はもうおらんのやないかって、俺は心配やったんです」
 三万年。それはどれくらいの長さの時か、俺には想像つかへんわ。亨は俺とあいつが、永遠に生きられると言うてたけど、それが三万年保証かどうか、わからへん。
 せやから、その時にも俺はいるとか、いないとか、俺は勝呂に返事してやられへんかった。
「そしたら天使がな、こう言うんです。神は万物の創造主、時間をも創造なさったお方やから、後で三万年分、巻き戻してもろたらええわって。せやから安心して煉獄へ行け。お前は顔可愛いし、歌も上手いみたいやから、出獄したら天使になれるように推薦状書いておいてやるわって」
 そんな、お前。どっかで悪い芸能プロダクションの人にナンパされたみたいな話やで。顔可愛いから天使になったんか。世の中、あの世でもこの世でも、結局顔か。
「そしたらまた、先輩に会えるからって言われて、俺は耐えたんやで。煉獄の火の中で、三万年」
 その話は創造を絶しすぎてる。自分の肩をぎゅっと握ってくる勝呂の顔の、つるりと白くて傷一つない肌を見下ろし、俺はなんにも考えてなかった。
「仲間にならへんかって、悪魔サタンどもが誘ってきたけど、俺は耐えたわ。どうしても先輩に、また会いたかってん」
 切なそうに言い、勝呂は物欲しそうやった。
 こいつが何を欲しがってんのか、俺はよく知ってた。この夏、俺は嫌と言うほど強く、お前に強請られた。抱いてほしい、キスしてほしい、俺のことも愛してくれって。
「蛇と別れたんやったら、先輩……俺のこと、瑞希みずきって呼んでください。俺の番やろ……もう誰も、先輩が気兼ねする相手はおらんようになった」
 確かにそうかも。でもまだ、そうと確定したわけやない。
 あいつが俺のとこに来て、さよならアキちゃんと言うまでは。それともあいつは、もう俺のところには来ないんやろか。俺はもう、ボロ屑みたいに捨てられた後か。それをお前が、拾ってくれるっていうんか。地獄に仏っていうのは、聞いたことあるけど、天使もおるんや。
「俺のこと、まだ憎いですか」
 微動だにせず、ぼけっとしてる俺が、拒んだと思ったんやろ。勝呂は悲しげな、苦痛の顔をした。俺はそれに、ぼんやりと首を横に振っただけで、うまく言葉にできへんかった。
 こいつにまた会えたら、言おうと思ってたのに。
 俺はお前のこと、もう嫌いでも、憎くもない。俺が悪かった。お前のこと、ずっと無視して逃げ回ったりして。ちゃんと気持ちを受け止めてやって、あかんならあかんて、ちゃんと言うべきやった。そうできてたら、きっとお前は、今も生きてた。そんな気がする。せやから全部俺のせい。弱くて、逃げてて、お前に甘えてた。
「憎くない……お前のことは好きや、今でも前と、変わらへん」
「そんなら抱いて。身代わりでもええねん。二番でも三番でもいいんです俺は。先輩の傍に居れるんやったら、何でもします。人間みたいな姿が困るんやったら、犬の形にも戻れるんやで。それなら抱いてくれますか。何でもええねん、先輩……ほんまに好きや、忘れられへんねん」
 勝呂は俺に返事されるのが怖いみたいに、聞き覚えのある矢継ぎ早の調子で、切羽詰まった口説き方をした。これを聞くと俺はいつも、悲しくなった。なんで俺はこいつの気持ちに、応えてやられへんのやろって、それが切なくて。
「なんでそんなに俺がええねん」
 今にも泣きそうなような情けない顔が可哀想になって、俺は指先で勝呂の頬に触れてみた。それはちゃんと指に触れた。吸い付くような、亨の肌と違って、かすかに産毛の触れる、子供みたいな頬やった。
「なんでって……そんなん、分からへん。先輩と居ると、幸せやねん。ずっと傍に居たい。それだけやったら、あかんのですか」
 何か理由がいるのかと、勝呂は責める口調でいた。
 理由は要らへん。でも俺は、お前が俺を好きな理由は、俺自身が好きなんやなくて、俺を井戸のようにして、いくらでも漏れ出てくるもっと大きなものの力のせいやないかと思ってる。湧き出た泉に、渇いた獣が集まるように、お前は俺に群がるモンの一人やないか。
 俺が好きなわけやない。
 そやけど、俺が今、そんな贅沢言える立場か。
 亨かてどうせ、そうやったやないか。たまたまデカい油田に続く穴が、俺のところに空いていた。それでたまたま得したな、みたいな。単にそういう事であって、俺の才能や努力ではない。俺がげきなんでもない、そこらの男やったら、あいつは歯牙にもかけへんかったやろ。お前もそうやろ勝呂、元は狗神、今は天使の、飢えたような目で俺を見る、可愛いお前も。
 せやからこれは、ギブ・アンド・テイクの関係で、俺はしきが欲しい、お前はげきが欲しい、それでお互い納得できるって、そういうことでええやろ。
 俺はもう、外道と恋はしたくないねん。亨で懲りた。つくづく懲りたわ。
「あかんことない。でもお前は、現実問題として、ずっと傍に居れるんか。羽根と輪っかとついてるけど……」
 それに最初に現れた時も、無理矢理引き戻される犬みたいに、お前は消えた。
「今のままやと無理です。でも、堕ちればええねん」
「堕ちるって?」
「堕天使に……そしたらもう、天界には居られへんようになる」
 心なしか、熱い息をつく唇で、勝呂は俺に教えた。それが具体的に、どういう手順プロセスを促されてるのか、俺には分かるようで、分からへんかった。
 動揺してきて、目を瞬く俺の首を抱きよせて、勝呂は急かす声で強請った。
「キスしてください、早く……早く……」
 勝呂はあと紙一枚のところまで、俺に唇を寄せた。天界の甘い息に触れて、俺はぼけっとなった。頭の中で、いろんな事が浮かんで消えた。
 大学の作業室でパソコンに向かい、黙々と絵を作っていた、こいつの背中。にこにこと飯を食っている、亨の上機嫌の顔。それが熱く悶える時の、上気した綺麗な、深夜過ぎの表情と、それを抱くときの自分の胸に湧く深い陶酔。水煙に刺し貫かれて、それでも苦痛を押し隠し、俺を見つめた時の勝呂の目の光を。俺は思い出し、その記憶はものすごい早さで次々と消え去っていった。もう過ぎ去った時が、戻らないように。
 思い出の中にいる亨は、俺には忘れがたかった。毎日見てても毎日愛しい、お前の綺麗な顔を、俺はまた見ることができるんやろか。それともついさっき、他の男に抱かれて見つめてきた顔が、俺の一生で見た最後のお前ってことになるんやろか。
 それやと、あまりにつらい。俺はお前を、早う忘れてしまいたい。
 忘れたい、綺麗さっぱり何もかも。あの肌も微笑みも。勝呂、お前がそれを忘れさせてくれるやろか。そんなことが誰かに、できるんやろかと、俺は悩みつつ、それでも最後の距離を埋めた。
 熱いキスやった。天使の体がこんなに熱いなんて、俺は想像してへんかった。もっとふわふわ軽いもんかと、想像しててん。
 それでも白い羽根のある、勝呂の体は灼熱していた。まるでこいつの体には、今でもまだ三万年分の煉獄の火が、染み付いてるみたい。
 勝呂はすぐに俺にすがりついてきて、貪るようなキスをした。陶酔したように甘く苦しそうな呻き声が喉から漏れて、悶絶するような強い指が、俺の背中を藻掻くように掻いていた。
 争うみたいによろめいて、勝呂は翼のある背を壁際の、花瓶に白百合の飾られたマホガニーのテーブルに押し倒させた。それは趣味のいい家具で、上にあった花瓶も見事なもんやったけど、勝呂に邪険に払われて、あえなく細かな破片になって、水と百合とを床に散らせた。
「もう時間ない、先輩。急いでやって」
 泣くような声で言われて、俺は焦った。まさかここで抱けって言うてんのやないよな。それはいくらなんでも無理やで、勝呂。それとも、やれっていうのか。やってやれないことはない。結界張って、そこに隠れて、大急ぎで一発やれって?
 俺はそんなの、やりたくないわ。そういう気にならへん。
 なんでやろ、お前とのキスは悪くはなかった。それでも俺は燃えへんらしい。なんでか知らん、気持ちええけど、それでも俺はうっとりしない。毎朝目覚めて、亨を抱いて、その白い額に触れるだけの、淡いキスをするだけのほうが、お前と舌絡めてるより、ずっと酔うてる。
 でもそれを言うのは、あまりに酷いよな。
「無理やで、勝呂。そんな気にならへん。許してくれ」
「そんなら血を吸ってください。できるんでしょ。ぷんぷん匂うわ、外道の匂いが……」
 それが悪臭やと言うように、勝呂は嘆く口調で言った。お前もちょっと前まで、外道やったくせに。呆れるほど人食うて、俺を嘆かせたくせに。今は俺のほうが邪悪やとでも言うんか。俺は誰も殺してへんぞ。お前がやったんやないか。
 その罪は、全部燃やした。せやからもう清純やって、そんなことをお前は言うんか。
 俺は自分の感じてる罪を、このまま永遠に背負っていくつもりやのに。お前だけ逃げようっていうのかと、俺は胸のむかつく切なさやった。
 お前ひとり、逃がしはせえへんで。俺のもんにしてやる。お前をめちゃくちゃに汚して、もう二度と、天には昇れんようにしてやるわ。
 その時俺の胸に湧いてた欲は、たぶん人外のものやった。俺はすでに悪魔サタンの一党で、勝呂の放つ白い光が恨めしかった。お前はいつも俺に追い縋ってたのに、お前まで俺を捨てて遠く高いところへ逃げていくのかと、感じた孤独に胸を締め付けられるような気がしてた。
「やるで、勝呂、ほんまにええんやな」
 俺は訊ねた。勝呂はそれに、必死で頷いてたわ。たぶん、焦っていたんやろ。
「ああ……早うしてください。もう時間がないわ」
 どうやって血を吸うか。それは理屈やない。
 天使にも血が流れているか、俺はそんなことを考えたことはない。
 たぶん血は関係ないんやろ。俺は病原体みたいなもんやねん。邪な蛇の眷属に、噛まれてけがれを移される。それだけで天使は堕ちると、そういうことなんや。増してその牙を受けて、堪えがたい愉悦に喘ぐんやったら尚更や。
 勝呂は未だに首輪をしてた。銀色のびょうのある黒革を、自分でも驚く力で引きちぎり、俺は勝呂の首にある血の道をさらけ出させた。そして、美味そうやと思わず舌の踊るようなその動脈に、俺は遠慮なく自分の牙を突き刺した。
 こいつは俺のもんなんやと、俺はその時思ってた。
 ほんとはずっと、そう思ってた。俺が手を出さへんかっただけで、お前はずっとそうやったやろ。俺にこうしてもらうのを、切なくずっと待ってたんやろ。
 その問いかけに応える甘さで、勝呂は仰け反り、鋭く喘いだ。心を満たす音やった。
 震える指が、俺の背をまた掴んだ。
「死にそう……先輩。抱いて、欲しい」
 それがただ抱くだけの意味ではないことは、俺には分かってたけど、そこまでやってやる気は俺にはなかった。なんでやろ。ほんま言うたら俺は少々欲情してた。誰かとやりたいって、そういう気分でいたんやけどな、頭に浮かんでくるのが全部、亨の顔やった。
 勝呂をその代用にするのは、俺は嫌やってん。それでもええって、こいつは言うけど、それやとあまりに鬼畜やわ。俺はそこまで堕ちたくないんや。
 牙に穿うがたれた傷から流れ出る、血なのか何なのか分からんような甘い滴りを、俺が貪る舌で舐めてると、勝呂は悶えて、俺に割られた足を切なそうに絡めてきた。
 こいつはどんな顔して喘ぐんやろって、ちょっと思ったことはある。それでも、その時、顔は見えへんかった。見たらあかんという気もしてん。見たらきっと、俺は勝呂を亨と比べてしまうやろ。ここが違う、ここも違う、亨はもっとこんな感じで、俺はそれが好きやったって、きっと思うてしまうんや。
「やっぱり蛇がええんか、先輩。俺やと全然燃えへんか」
「そんなことない、ってるで」
 苦悶する声で訊く勝呂に、俺は顔を上げ、何かに濡れた自分の唇を、舌で舐めとりながら教えてやった。
「俺が欲しいって言うてください」
「お前が欲しい。俺のしきになれ。ずっと永遠に俺に仕えろ」
 求めに応える自分の声が、びっくりするぐらい冷たくて、俺は焦った。それが自分の本音かと、血の中にある冷酷さみたいなのを感じてもうて。
「愛してくれへんのですか」
 俺を見つめて訊きながら、勝呂は泣いてた。片方の目から一滴ひとしずくだけ、輝くような透明な涙が流れ、窓からの陽光に産毛を透かす白い頬に、ゆっくりと線を引いた。
「そうしてやりたいけど、俺には無理やねん」
「何でや……何でやねん、先輩。言わんといてください。答えは分かるけど……なんで嘘ついてくれへんのや」
「嘘で言われて嬉しいか。お前を愛してるって」
 腹に入った神聖な血液が、重いような気がして、俺はぐったりとテーブルに腕をつき、自分の頭と体を支えようとした。
 勝呂はまだ涙の残ってるような目で、廊下の天井を見てた。それともそれは、もう泣かへんように、堪えてただけかもしれへん。
「嬉しいです、俺は。嘘でもええねん」
「それこそ嘘やろ。お前はそういう嘘に嫌気がさして、俺に惚れたんやなかったんか」
 勝呂は死ぬ時大阪で、自分とそういう関係にあったお友達を、まとめて全員道連れにしようとした。それが五十人ほどもおったんや。こいつもまともやない。亨のことを、とやかく言われへん。
 お前に人の不実を愚痴れる権利があったんか。俺を好きやて言いながら、手当たり次第に誰とでも寝て、それで寂しい言うてたら、アホみたいやろ。寂しいに決まってる。愛なんて、そんな簡単に手に入るもんやない。
「先輩って、厳しいなあ……」
 ぼやくような、ぼんやりした声で、勝呂は俺の性格についての感想を述べた。
 そして勝呂はどことなく、頼りなくふらつく仕草で、テーブルから体を起こしたが、その翼からばらばらと、秋の落葉みたいに白い羽根が抜け落ちていた。
「落ち着いたら戻ります。そしたらずっと、傍に置いてもらえますか」
「愛してくれって言わへんか」
「言うけど。そんなん……無視すればええやん。先輩の、得意技やろ」
 名残惜しげに俺の頬を両手で包んで、勝呂はどことなく毒のある笑みをした。俺はそれに、堪えきれない自嘲の笑みで答えた。
 イヤミやな、勝呂。天使がイヤミ言うてええんや。
 それとももう、お前は天使やないのかな。
 そういや頭の輪っかがないわ。あのアホみたいな、地球に厳しい蛍光灯みたいなやつ。
 ばらばら羽根の抜けていく翼で、ほんまに空が飛べるのか、俺はそれが心配やった。お前、どうやって、どこへ帰るんや。帰るとこあるんやろか。
 何やったらこのまま、俺と俺の部屋へ行くか。そう思って、長廊下の先に見えてる、インペリアル・スイートの両開きのドアをチラ見して、俺は迷っていたんやけど、それでも結局、部屋行こかというのがあまりにも、誘い文句に聞こえはせんかと心配になり、何も言わずに黙ってた。
 それに勝呂は明らかに、にやりと悪党の笑みをした。
「言えばええのに。むかつくわ」
「すまんな、そういうキャラやねん」
「俺は諦めませんから。先輩が、他のを愛せるようになるまで、何万年でも待てるから」
 一途で必死な愛してる目で、勝呂は俺を見つめてた。亨と違うて、お前は浮気なんかせんかったやろ。もしも俺がお前を選んで、愛してるって毎晩抱いたら、他のなんか目に入らんかったんやないか。それぐらい俺のこと、愛してくれたんやないかって、そんな印象。
「お前にしとけばよかったわ……瑞希《みずき》」
 でももう無理やわ、未だに亨を愛してる。あいつが何かの間違いで、戻ってきてくれたらええのにって、今でも必死で祈ってる。無様やけど、信じようとしてる。あいつが面の皮厚く、俺を真っ直ぐ見つめてほざいてた、見え透いた言い訳を。
 俺のこと、他の誰より愛してるって、亨は言うてた。それがほんまやったらええのに。帰ってきてくれ、亨、って、まるで嫁に逃げられた間抜けな旦那状態。いや、まさにそれそのものか、嫁やないけど、あいつは俺のツレなんやから。
「しゃあない。今はその一言で、満足しときますわ」
 皮肉な笑みで答える勝呂は、それでも嬉しそうに見えた。うつむく白い横顔を、俺はじっと見つめた。綺麗な犬やと思えて。手元に繋いでおきたくて。
「いつ戻るんや、お前。あんまり俺を長いこと、ほっとかんといてくれ。寂しいから」
 もしも亨に振られたら、俺はきっと発狂してるで。さっさと戻って来んかったら、また出遅れて、何や知らんような神や鬼が、俺のしきとして、うじゃうじゃ増えてるかもしれへんで。なにしろここは妖怪ホテル状態で、右も左も顔の綺麗な奴ばっかりや。俺も亨に振られてなくて、もっと元気な時やったら、あっちこっちに目が釘付けで、毎日三回ぐらいずつ、殺さなあかんて言われてたんやないか。
 でももう、亨のことを思い出すのは止そう。しんどいから。
 そう思って苦笑する俺を見て、勝呂は苦笑していた。
「とっとと戻ります。退職届出したら」
 そういう仕組みなんか。辞表いるんや、天使やめる時にも。律儀やな、お前。堕天使に円満退職はあるんか謎や。
「先輩、浮気せんといてくださいね」
「保証できへん。ぷんぷん匂う外道そのものやから」
 俺が恨んで言うと、勝呂は意外そうな顔して照れて、済まなそうに言うた。
「ええ匂いやで、今はもう」
 くんくん嗅いで、勝呂は犬みたいやった。
「急いで行って、走って戻るわ」
 そう宣言して、勝呂はまた、バチンと持ち時間が尽きたような唐突な消え方をした。床に散っていた白い羽根は、それを追うように、ゆっくりと消えた。
 俺はいつの間にか手放してもうてた水煙が、床の陽の光の当たる中に倒れてるのを、のんびりと拾いに行った。
「ごめんな、また放置してもうて。でも……しきが増えたんやで。俺がお前の言うこときいて、ちょっとは機嫌なおったか?」
 それでも水煙は黙りやった。
 黙っているけど、水煙の刀身から、汗のような、涙のような一滴ひとしずくが、つうっと溢れてくるのを見つめ、俺はさっき、抱かれて泣いてた勝呂の事を思いだした。
 水煙、まるでお前、泣いてるみたいやな。
 初めは冗談でそう思い、それから俺はじわりと本気で焦ってきた。
 こいつはほんまに、泣いてるんやないかと思って。
 剣が泣くなんて、そんなことあるやろか。変やないかって、そう思いかけたことを、俺は否定した。水煙はときどき笑うてた。剣のままでも、こいつを振るうと、けたけた楽しげに笑っているような時があった。そんな剣なんやから、悲しければ泣くやろと、俺には思えた。
 どうしようかと悩み、俺は慌てて水煙を引っつかみ、廊下の先にあるインペリアル・スイートに急いだ。
 扉を開くとそこは、真っ白な部屋やった。まるで新婚さん向けの部屋みたい。実際そこは新婚さん向けの部屋やった。ホテルやからな、結婚式とかやってんねん。その後の初夜を過ごす泊まり客が、ここで寝る。そんな部屋やった。
 猛烈に気恥ずかしい内装で、俺は一瞬でドン引きしたが、それでも気合いを入れて、バスルームを探した。
 水煙が剣のままで、黙りやと、何が何やら分からへん。せめて人の姿やったら、怒った顔してるんか、泣いてんのかぐらい分かるはずやと思ってん。
 それでバスルームの扉を開いたら、そこも凄かった。ここに住めるやろっていうぐらいの、部屋並みの広さで、どう見てもヴィーナスの誕生みたいな、貝殻っぽい丸い純白のバスタブがあり、それが秀逸なデザインで、上品は上品なんやけど、どう見ても、さあ風呂でやろうみたいな気配やねん。
 ここに水煙を浸からせて、俺は大丈夫なんか。
 でももう選択の余地はない。まさか洗面台でやるわけには。水煙は人型になれば、ちゃんと人間サイズなんやから、洗面台で戻したら可哀想やないか。
 俺は覚悟を決めて、これまた洋モノくさい金色の水栓をひねり、念のため浸かり心地のいい湯の温度になるように確かめた。
 そこにまだ剣の形をしてる水煙を沈めると、金の水栓の影のうつる湯の中に、水煙は白くゆらめいていた。
「水煙、頼むしな、人の形になってくれ」
 俺が頼むと、剣はゆらゆらと、その輪郭を揺らめかせ、湯が白く泡立ってきた。
 やがて湯の中から、薄青い指が這い出てきて、まるで苦悶するように、湯縁でもたれて待ってた俺の腕を掴んできた。
 ざぶりと湯を波打たせ、水煙は青い体を見せた。へたりこむような姿で、バスタブの中に浸かっている水煙は、もう片方の手で自分の首を押さえてた。
 そこから白い血が、だらだら胸に流れてる。
 たぶん血なんやと、直感的にそれが分かった。やっぱり白い血なんやと、俺は呆然とそれを見た。
 朦朧としたような怒りの目で、水煙は恨むように、俺を睨んだ。
 そして、ひどく痛そうに自分の首を逸らして俺に見せ、声が出ないと言うような仕草をした。
 俺は震えるほど後悔して、水煙の首を見た。
 錆びた針金みたいなもんが、食い込む強さで喉に巻き付いていた。それが深い傷になり、水煙の華奢な喉頸を締め上げていて、これでは息もできへんのやないかと思えた。
「俺のせいか……」
 訊ねると、水煙は小さく二度頷いた。
 なんでかそれは、あまり責めてるようではなかった。悲しそうなような、疲れて哀れっぽい、弱々しさやった。
 俺の手を引いて、首にある針金を解いてくれと求める仕草をし、水煙は落ちくぼんだ目をしてた。
 今にも湯の中に倒れそうやったんで、俺は慌てて、水煙の背を抱えた。そして、触るだけでも痛みそうに見える固い針金を、恐る恐る緩めにかかった。
 脂汗の浮く仕事やった。
 痛いんか、水煙は時々体を引きつらせて耐えてたし、それが全部自分のせいやと思うと、済まなくて、励ます言葉もなかった。
 湯の色が白く濁るぐらい、白い血が出た。とろりとした、確かにミルクみたいな血やったわ。
 解き終えた針金を、バスルームの床に投げ捨てると、それは呪いめいた黒い薄煙をあげて、弾けるように消滅した。
「やってくれたな……ジュニア……」
 やっと声が出るようになって、ひどく掠れた声で水煙が言うた第一声は、それやった。
 それでももう、怒っているようではなく、水煙は浴槽越しに自分を支えている俺の腕に、大人しく抱かれてた。
 お前には済まんことをしたと、俺は詫びてたような気がする。せやけど、ろくに言葉にならへん。
 こいつはいつから、こういう状態やったんやろと想像して、それが新開道場の帰り際からではないかと思え、自分がそれと気づかず苦しんでるこいつを尻目に、さんざん亨といちゃついてた事も思いだしてきて、水煙がもう俺は嫌やと言うても当然やと思った。
 神聖な剣やから神棚に祀れと、師範は言うてた。それが当然の待遇で、たぶんこいつはそれぐらい有り難い神さんやのに、俺はそれを崇めんどころか、さんざん踏みにじってきた。水煙が俺に、ばちぐらい当てても当然やろ。
「俺が、要らんのやったらな、ジュニア。もうええから、どこかへ遣ってくれ。お前の蛇が言うように、金属ゴミの日にでも出せ。お前が手放さへんかったらな、俺は永遠にお前のところに居るしかないんや」
 俺の肩に重そうに頭をしなだれさせてきて、水煙はぐったりしたまま、そう言うた。
「要らんなんて……そんなことはない」
 俺は深く恥じ入りながら言い、その苦痛に耐えた。
 一体、どのつらさげて、それを言うかと、水煙は思うてるやろ。
「でも、お前がよそへ行きたいんやったら、どうしたらええか教えてくれたら、お前を誰かちゃんと、ふさわしい扱いしてくれる人のとこに遣る。蔦子さんでもええし、新開道場でもええし……他に誰か、心当たりがあるか」
 訊くと考える目になって、水煙はやんわりと俺の手を握ってきた。まだ、ひやりと冷たい手やった。
 水煙は物言いたげやったけど、それでも何も答えて来えへんかった。
 ああ、そうかと、俺は察した。そのつもりやった。
「帰りたいか、おとんのところに?」
 俺がそう言うと、水煙は明らかな、苦しいという顔をした。そして小さく首を横に振って拒んできた。
「それは無理やで。アキちゃんは、もう俺を捨てたんや。お前を守ってやってくれと頼んで、俺との契約を切ってきた。それがアキちゃんの最後の命令なんや」
「おとんはもう、お前の主人やないのやろ。それでもそんな命令、いつまでも聞いてなあかんのか」
 もうその言葉には、お前を縛る力はないんやないかと、俺はそういう指摘をしたんやで。だってそうやろ、その言葉に効力があるのは、おとんが水煙を支配するげきやったからで、そうやなくなった今では、ただの言葉や。嫌なら嫌やて、無視すればええねん。
「ジュニア、俺はな、アキちゃんが好きやったから言うこときいてやってたんやで。今でも好きや。別れてもうたら、それっきりどうでもええなんて、そんな生半可な気持ちやなかった」
 水煙は一途やなと、俺は思った。そして俺のおとんは不実や。なんでこいつを俺みたいな、ぼんくら息子にくれてやったんやろ。
 もしも、こいつの気持ちを知ってるんやったら、ずっと傍に置いてやればよかった。
 それともまさか、知らんのやろか。俺のおとんやからな。ああ見えて、実はめちゃめちゃ鈍感なんか。はっきり言わんと分からんのかもしれへんで。
「おとんは知ってんのか、そういう、お前の気持ちを」
 俺が要らん心配をして訊ねると、水煙は素早く首を振って否定し、照れてるような、皮肉のような小声で、さあなと言うた。
 やっぱり知らんのやないか。言うたことないんや、こいつは、そのことを。
「言うたらな分からんのやで。俺もそうやし、きっとそうや。おとんも俺とおんなじで、きっと鈍い男やねん。水煙。何やったら俺が言うてやる。おとんに手紙書いて、お前はおとんを好きやから、俺よりおとんと一緒に居りたいんやって、教えてやるわ」
 冷えた指で俺の手を掴み、水煙は嫌やてまた首を振った。まだ生々しい傷が、痛々しく見えた。それでも赤い血やない。何となくその痛みに察しがつかず、俺は上の空やった。なんとかその傷を、今すぐ治してやる方法はないかと思いつつ。
「アキちゃん……」
 可哀想な掠れ声で、水煙は呟くようにぽつりと呼んだ。それがあんまり切なそうで、俺はつらかった。今すぐ、おとんに手紙飛ばさなあかん。上手く飛んでいくか分からへんけど、俺が水煙にしてやれる事なんか、今はそれしかあらへんし。
「アキちゃん」
 水煙は俺の手を握り、じっと縋るような目で俺を見つめて、もう一度そう呼んだ。
「言わな分からんのか……アキちゃん」
 俺にそう呼びかける水煙の顔は、今にも溶け崩れそうな、悲しそうな表情やった。これは何て綺麗な神さんやろかと、俺はそれを驚いて見た。
「もういい、お前のおとんのことは、もういいんや。あいつは充分苦しんだ。俺の気持ちも知ってたわ。他のしきが寄ってたかって、愛してくれって強請るのにも耐えた。それでもお前のおとんはな、トヨちゃんが好きやったんや」
 手紙が届ける写真の中で、おかんとにこにこ寄り添っているおとん大明神のアホみたいなデレデレ顔を思い出し、俺はぼんやりとした。そうやろな。好きやなかったら、あんなアホみたいな顔でけへんやろ。情けないねん。男として、父として、格好良さの欠片もないわ。
「お前のおとんは、もう死んだ。秋津の当主としての務めは果たした。結果、無念の負け戦やったけども、それはもう仕方がない。勝負は時の運、死力を尽くしたことは確かや。それでほんまに死んでもうたんやから、もう楽になってもええやろ。あいつは大好きなトヨちゃんと、もう二人っきりで居りたいんや」
 水煙は、今にも涙を流しそうな顔をしていた。泣いてもええよと、俺はそういうつもりで見たが、水煙は泣きはせんかった。もしかしたら人型のときには、泣かれへんのやろかと、俺は不思議に思った。剣の時には泣いてたのに、なんで無理なんやろ。
「おかんが好きは、分かるけど……でも、それやとお前はどうなるねん。無責任やないか」
「無責任か。そうかもしれへん。せやけど、そんなもんやろ。俺や他のに遠慮して、生きてるうちはさんざん我慢した。もう知らん、好きにさせてくれって、そういうことなんや。好きにさせてやってくれ」
 おとんも男冥利やと思い、俺は健気な水煙をじっと見つめた。
「アキちゃん」
 そんな俺を眩しさを堪えるような目で見つめ返してきて、水煙はまたそう呼んだ。
「俺が嫌いか。先に教えといてくれ。そうやないと俺は、怖くてはっきり言われへん……」
 確かに怖いらしい、俺の顔から目を伏せて背けるように、水煙は俺の肩に、なおいっそう顔を埋めてきた。
「お前の目に映る、俺は美しい神か。それともただの化け物か。これは醜い化けモンやって、そう思うてるんやったら、今すぐどこかへ捨ててくれ。人に遣ろうなんて考えたりせんと、今すぐ窓から捨てたらええんや」
 気にするな、そうすれば縁のある手に辿り着く。それにもし俺がそのまま、鉄くずみたいに朽ち果てたとしても、俺が嫌いなお前には、なんの関係もないことやろと、水煙は切々とかき口説くような口調やった。
「お前のことを、醜いと思うたことなんかないよ。綺麗やで、お前は。剣の時でも、今も」
 俺は正直に心からそう話してた。実際水煙は、鬼気迫るような美貌の神やった。確かに異形ではあるけども、それが醜くはない。人ならぬ者だけが持つ、震いつくような美が、こいつの中にはある。それは研ぎ澄まされた刃の美に似て、あまりにも純粋にで、迂闊に触れると切れそうな怖さがあった。
 おとんはこの剣を、時には抱いて寝たという。もちろん剣の形のままでやで。なんでそんなことをしたんか。こいつがそれを、頼んできたんやろか。
 水煙は、お前は綺麗やという俺の話に、照れたような顔をした。でもそれが、淡い苦痛のあるような、眉間の皺といっしょくたやったんで、俺は悩んで、自分の首に擦り寄ってくる水煙の顔を見た。
「照れ屋のお前が、そんなこと平気で言うなんて、俺に気のない証拠やな」
 水煙はまさに切れ者やった。何も言うまでもなく、剣士の心に察しをつける。
「それでも言わせてくれ。言わんと分からんのやったら。俺はお前が好きや。お前のおとんより、今はお前が好きなんや。捨てんと傍に置いてくれ。お前の守り刀として。それでいい、ずっと永遠にそのままでもええんや。俺をお前のものにしてくれ。愛してほしいんや、俺のことも……抱いて欲しい」
 水煙は俺の腕に抱かれ、震えながらその話をした。古い神が震え、お前が愛しいと自分をかき口説く。それは普通なら、昏倒しそうな出来事やった。とにかく水煙は、それくらいの美貌やねん。その時は前にも増して、恐ろしいほど綺麗やった。それに心が動かへんのは、鬼か悪魔サタンや。俺はきっと、そういうモンになったんやと、自分を呪ってた。
 なんにも感じへんかったんや。
 水煙は、可哀想やなあと思った。
 こんなに俺のことが好きやと言うてくれてんのに、俺はそれに、なんにも感じへん。ただ哀れなだけで。勝呂と同じ。お前でも良かった。亨よりは断然マシやったやろ。せやのに俺は亨がよくて、水煙は二の次で。しかもこの切れ者は、そんな俺の心に、嫌というほど察しをつけていた。
「言わんといてくれ、アキちゃん。返事は聞きとうないわ。蛇が好きやは、もうご馳走様やで。嫌というほど俺は見た。お前があの蛇に、そう言うてるのを。もうええわ、あそこまでやられて、自分にもまだ見込みはあると思うほど、俺はアホやない」
 ただ知っといてほしかったんやと、水煙は言うた。俺はお前を想うてる。その気持ちを知って、受け止めといてほしい。何を見せられても俺が平気やと、誤解せんといてほしい。剣にも心はあるんやからと、水煙は俺を諭した。いつもよりは力無い、頼むような口調で。
 俺は自分がしてきたことの、その全容を悟った。
 水煙が自分を片付けろと、口酸っぱくして言うてきたのは、目の前でいちゃつかれて胸くそ悪かったからやない。こいつは、つらかったんや。 つらかった。俺もつらかった。亨が他の男に抱かれて、愛してるような目をしてた。その腕に抱かれ慣れたような、くつろいだ雰囲気で、のんびり足を絡めてた。
 そんなこと俺としかせんといてくれと思うようなことを、あいつは平気でやっていた。それを見せられて、俺は死ぬほどつらかった。
 せやからあれは、言うなれば神罰や。水煙を苦しめてきた俺に、とうとうその因果が巡ってきたんや。
「水煙……見てたかどうか、俺は知らんけど、俺にはさっき、新しいしきができた。お前も知ってる勝呂やで、大阪で死んだ、あの犬や。あいつと一緒でもええか」
 両腕で抱き寄せて、水煙の目を見て問うと、水煙は青白くなった顔で俺を見つめ返してきて、こくりと小さく頷いた。それは普段の高飛車が、まるでどこかへ消えてもうたような、素直で従順そうな仕草やった。
「お前をもう、隅には置かへん。ちゃんとふさわしい、お前が気持ち良う過ごせる場所に置く。約束するわ。俺を許してくれ」
「キスしてくれ、アキちゃん」
 それで許すと、水煙はそれが、一か八かのかけやというような風情で訊ねてた。
 犬にもしたんや、俺にもできるやろと、水煙は悔やむ口調やった。やっぱりあれも見てたんか。そんなら俺もおとんと大差ない。右に左にしきを侍らす、誰憚らず朝な夕なにそれを可愛がる、どうしようもない男やで。
 そんなら水煙を抱いてやられへん理由があるかと、俺は覚悟を決めた。
 ぐったりと力無い水煙の体を支え、俺はその細く整った顎を引き寄せた。唇を開かせて舌を押し入れると、その時の水煙はもう、青いというより白い顔やった。
 たぶん上気してたんやろう。血が白いんやから、人でいう真っ赤になった顔は、白い顔やねん。その顔が、俺はものすごく好きやった。
 はあはあ切なく喘いで、拙く答える舌も可愛げがあって、必死に俺に抱かれてる、強く抱いたら壊れそうな華奢な体で、水煙はがたがた震えてきてた。
「アキちゃん……もうやめて」
 水煙はキスから逃れようとして、あんまり力のない腕で、俺の胸を押し返してきた。
 なんでや、もっとしようと、俺は水煙の逃げる唇を追いかけた。お前は俺と、キスしたかったんやろ。亨はいつも、もっとしてくれって強請るけど、お前はそうやないんか。
 亨が半年一年かけて、俺に仕込んだあれやこれやを駆使して、俺は水煙の唇を責めた。だってこいつはキスしかできへんのやし、それならできるかぎり、気持ちよくしてやろうと思って。ただそれだけの、ご奉仕しよかみたいな、そんな気持ちやったんやで。
 せやのに水煙は、まるで俺がもっと、身のある責め方をしてるみたいな悶え方やった。浴槽の水が、悶える水煙の体にかき乱され、ばしゃばしゃと鳴っていた。
「ああ、あかん。もうやめて。なんか体がおかしいわ……」
 唾液に濡れた唇で悲鳴のように教え、水煙は恥じらう白い顔やった。どうおかしいんやろと思って、俺は水煙を湯から引き上げた。ほかほか暖まった青白い体を、バスルームの白い床に横たえて眺めても、特におかしいところは無かった。
 前に家で見てもうた時と同じ、青い爪先に薄い水かきとひれのある、いかにも海から来ましたみたいな体をしてて、ついつい興味で開かせた両脚の間にも、これといって何もない。抱こうにも抱かれへん、そんな意地の悪い体やったで。
 まったく今日は地獄みたいな日や。亨に殺され、そのあと勝呂にお預けされて、さらに水煙に我慢プレイをさせられる。俺はもう、ほんまにつらい。男の性欲と愛は、言うたらなんやけど、ほぼ無関係やで。好きや好きやと、やりたいやりたいは別系統やねん。
 水煙が俺を受け入れられる人並みの体やったら、たぶん俺は我慢できへんかったやろ。その場で青白い神を抱いていた。そしてそれで大満足したかもしれへん。水煙は綺麗やったし、確かにキワモノやったけど、俺を愛してた。やめてくれと懇願しつつ、もっと抱いてくれという目をしてた。その目を見れば、鈍い俺でもさすがに分かった。亨が乱れたベッドの中で、俺を見る時の目と似てて。
「もっとキスしてやろか」
 ヤワな体を気遣いながら、俺がやんわり組み敷くと、その重みにか、それとも抱かれた気分のせいか、水煙は喘ぐようなため息を漏らした。
「やめて。なんや、変になりそうや」
 首を振る水煙は、額に汗をかいていた。滴るような水滴が、霧を浴びたように水煙の体を包み、微かに靄まで発してた。それはこいつが剣の姿で燃えるときと、良く似てる。
 気持ちええわあと、その時は素直な水煙が、人の形やと素直になられへんらしい。それもしゃあない。水煙はほんまに初心うぶやってん。一体どんだけ生きてんのか、何千年、何万年、もっとかもしれへんけどな、それでも水煙は、肉感的な快感というのを、この時まで感じたことがなかったらしい。せやからな、初めてやったんや。何というか、その。感極まるのが。
 おかしくなりそう、みたいな水煙が、可愛いような気がして、俺は食らいつきたい気分になった。それでまたキスしてやってん。水煙の舌は、熱く燃えていた。そして青い神は、泣くような声で喘いだ。つるりと何もない肌を撫でると、組み敷いた足が震えて暴れた。
 ここが感じるところらしいという、弱いところが口の中にあって、長々と舌を絡めるうちに、俺はそれに気がついた。言うたらあかんかな。それはその、水煙の泣き所やねん。舌の付け根あたりやで。性感帯っていうんですか。疑問形で言う必要はないんやけどな。
 そこを責めると、水煙は人のものではない声で、甲高く泣いた。苦しげやけど、苦悶するような声やない。こいつは気持ちええんやと思って、俺は手を抜かずに責めた。そしてそのうち、水煙は悲鳴をあげた。
 悲しいような声やった。喉の奥から漏れてくる、初めての快楽の声で泣き、水煙は俺に固く抱きついた。それに抱かれながら、俺は不思議な満足感を得た。水煙は、滴るほどの汗をかき、ぎゅっと眉寄せた、深く満足した顔してた。俺はその時やっと、男としての面目を果たしたような気がしてて、それで良かった良かったと、そんな気分やったんや。
 激しい波が過ぎた後でも、水煙はぼんやりとしてた。新しい刺激に、脳と心をかき乱されたような、遠く惑乱された目やった。
「アキちゃん……」
 やがて呆然としたふうに、水煙は俺の腕を掴んで言った。
「これは、何やろ。むちゃくちゃ凄い。蛇が夜な夜な泣いてるやつか」
 わからへん。それは人それぞれやろし。それに亨はキスしただけで大満足したりせえへん。もっといろいろ、すごいことせなあかん。俺も一緒に死ぬほど気持ちええような、あれやこれやで責めへんかったら、あいつはいかへん。
 俺はつらい。一人で絶頂を極められても。ほんまにもう、気分的には満足やけど、肉体的にはありえへんから。もう、口でも指でもええから慰めて、そういう気がしてたけど、水煙はそんなもん、やったことないやろと思うと、恥ずかしすぎてな、到底頼めませんでした。
 水煙は俺とふたりきりで、幸せそうに見えたけど、俺はむしろ今すぐ一人っきりになりたいぐらいやったで。それが何故か、分かる人にだけ分かればええわ。俺は詳しく語りたくない、その時の心情を。
 男の子は、とにかく我慢強くなかったらあかんえと、おかんは子供の頃から俺に言い聞かせてきた。そのお陰やな。俺のこの我慢強さは。
 男の子は、とにかく我慢。我慢をしろ俺。
「これは、その……蛇がお前に狂うわけやわ」
 恥ずかしそうに、水煙は俺を褒めた。おおきにありがとう、褒めてくれて。お前に褒めてもろたの初めてやないか。キスが上手いって褒められても、あんまり進歩した気になられへん。
 亨を抱きたい。それが本音やった。これはただの性欲かもしれへん。それでも俺は、あいつと抱き合いたい。気持ちええわって悶えてるあいつの顔を、愛しく眺めて、俺も酔いたかった。深い蕩けるような愉悦に。そうやって溶け合って、お互いの体に縋り付いてると、芯まで溶け合うような気がしてた。
 そこから身を引き剥がし、あいつと離れて過ごす時間は、俺には切なかった。いつも抱き合うていたいという、亨の我が儘を聞くと、俺は満足した。お前もそうかと嬉しくて。
 そんなあいつが、俺には運命の恋人と、そういうふうに思ってたのに、それは俺の妄想やったんか。
 悲しいと思って、懐かしい愛しい顔を思い出してると、余計に我慢が要って、めちゃめちゃつらかった。それで俺は、苦悶の顔やったと思う。とにかく、渋い顔してた。
「どしたんや、アキちゃん……」
 遠慮がちに、水煙は俺をそう呼んだ。
 それが亨の声ではないことに、俺には違和感があった。
 そうやって俺を心配してくれてたんは、いつも亨やった。亨は俺を焦らしたりせえへん。苦しいような我慢をさせて、放置したりはせえへんわ。
 それは水煙の罪ではないけど、俺はお前だけでは物足りへん。きっと他のを抱こうとするやろ。辛抱たまらず勝呂とやるか、他の誰かを拾ってくるか。こいつもあかん、こいつも違う、亨みたいにいかへんわって、次から次へ、タラシの本間に逆戻り。それに水煙は、またもや悲しい涙涙で、どこかの納戸の奥にでも仕舞い込まれて過ごす羽目になるんやで。
 悲惨すぎる。でもそれが、げきなる外道の一般的な姿なんやろか。
 それならそれで、しょうがない。俺はこの先ずっと、そうやって生きていくんかな。理想と激しく違うけど、人生なんてそんなもん? 挫折挫折の連続で、理想とは全然違う方向にズレまくっていくもんなんかなあ。
 きっとそうなんや、これが現実って、俺は自分に言い聞かせてた。
 受け入れなしゃあない。亨のいない世界を。
 俺は秋津の跡取りなんやし、神楽神父は俺が頑張らへんかったら、神戸は滅ぶって言うてたわ。せやから頑張らんとあかん。自分ひとりの浮いた沈んだで、うだうだ言うてる場合やないんやって、必死で自分を叱咤激励してた。
 でもなあ。人間、できる我慢と、できへん我慢があるわ。増して若造なんやからなあ。
 ていうか、そもそもやな、何で俺は亨に振られたって思いこんでたんやろ。よっぽど自信がなかったんやで。そうやねん俺は、自意識過剰なくせして、いつもどこかオドオドしてんのや。それが俺の、一番あかんところやねん。
 もっと、でんと構えてりゃよかったんや。亨は俺のもんなんや、俺を愛してる。一生俺の隣におるんや。格好いいおっさんなんか知るか。俺のツレに手を出すなって、あっちを斬ろうとするべきやった。中西支配人のほうをな。
 それが普通や。そうやないか。キレてビビってフラフラなって逃げてきて、勝呂と水煙食うてる場合やなかったよ。キレたらあかんねん俺は、ほんまに毎度毎度、平常心やったら絶対やらんような、とんでもないこと次々やってまうんやから。
 バスルームに白いルーバーのついたロマンチックな窓があり、その向こうにある神戸の午後の陽の中を、黒に金の目のような模様の眩しい蝶が、ちょっと信じがたいような群れをなして舞っていた。
 俺はその幻想的な美に、ぼけっと目を奪われて、白く塗られた木の隙間にちらちら垣間見えるそれを、床暖入ってて気持ちいいバスルームの床に、水煙を組み敷いたまま眺めてた。
「どうしたんや……?」
 悲しい声して、水煙は優しく俺に訊ねた。訳は知ってるような、小さく静かな声やった。
「蝶が飛んでるわ」
 俺はそれを見たまま、ぼんやり答えた。なんとなく飢え餓えた、幻惑された気分で。
「そのようやな、ジュニア。窓開けて、見てみたらどうや」
 水煙に、諭すような、許すような口調で言われ、俺はぼんやり頷いた。そして白いタイルのまぶしい床を這うようにして起きあがり、窓辺へ行って窓を開いて、目隠ししているルーバーを開いた。
 そこには無数の蝶が舞っていた。
 背景には遠目に、眩しいような午後の海がきらきら輝いて見え、そこにのんびり貨物船が行き交うのが見えていた。残暑というには、秋の涼しさの予感のするような風が吹きすぎる爽やかな空気の中を、ひらひら飛んでた黒い蝶は、じっと見るよな金の目をつけたはねを優雅にはためかせて、次から次へと窓から入り込んできた。
 それは俺をかすめて絡みつくように舞い、バスルームの中で、一柱の群れを再び作った。それが蠢く一体の何かのように密集したあと、うっすらと透けていくのが俺の目にも見え、柱の向こうで床に俯せになり、頬杖ついた呆れ顔で、むすっと見ている水煙の、綺麗やけどもイケズそうな顔が、蝶の柱ごしに眺められた。
 水煙、いいケツしてる。美しい。俺はぼけっとそう思ってた。そんなこと思うべきやなかったな。何でか言うたら、どうも亨は、俺の考えてることが、ちょっとばかり読めるらしいねん。水煙もそうやけど、神様いうんは、そういう覗き屋ばっかりなんやろか。
 透け行く蝶の中から、亨は怒ってるというか、眉間に深い皺寄せた、ものすご険しい顔で現れた。ちょっと前に、支配人室で見たまんまの、犯されましたみたいな少し着崩れた格好のまま、平気なつらして俺の前に立っていた。
「何を考えとんねん、お前は」
 これは俺の台詞ではない。亨がそう言うたんや。
「水煙様の青いケツなど論外や。俺のほうがええに決まっとるやないか」
 亨は妬いてるような口調やった。
「何言うとんねん、この浮気者の蛇が。主がある身で、何の許しも得んと、他のに身を任せたりして、お前なんぞもうクビや。秋津の家のしきとして、ふさわしくない」
 これも俺の台詞ではない。水煙がそう言うたんや。
 水煙は、いつも何ら変わらん冷たくお高いような口調に戻り、言葉のとおりの上から目線で、それでも亨を見上げてごろごろ寝そべっていた。立てへんのやからな、しゃあないわ。
「ジュニア、こいつに出ていけと言え。お前はもう要らん、どこへでも出ていけと言うてやれば、しきは出ていく。それで契約が切れるんや。不実な蛇なんぞ、追いだしてまえ」
 俺に命じる権利でもあるみたいな言い方で、水煙は教えた。
 そういえばこいつは、要らんのやったら自分を捨ててくれと俺に頼んだ。げきしきとの結びつきは、どっちかが死ぬまで永遠に続くしかないようなもんではないんや。結婚と同じで、結びついたり切れたりできるんやって、俺は初めて知った。
 勉強なったなあ、今回は。そんなん、もっと早うに教えといてくれよ、水煙。もしかして常識すぎたんか。俺がアホで、知らんかっただけか。
「追い出すんか、アキちゃん」
 険しいままの表情で、亨は俺に訊ねた。挑まれてるような気がして、俺は身構えた。
「なんで追い出すんや。もう愛してへんのか、俺のこと。愛想が尽きたんか」
 まるで俺を愛してるみたいな目で、亨は俺を見つめてた。
 そんなわけない。これは俺の妄想やって、俺は自分をいさめた。自分に都合のええように、解釈しようとしてるだけ。そうやったらいいのになという事を、事実やと思いたがってる。ただそれだけ。
「愛想尽きるに決まってるやろ。お前はほんまに、俺が黙って見てりゃ、ジュニアとやりながら虎に萌え萌えするし。普段は普段で飯炊きながら、昔の男のことをモヤモヤ思い出してるんやろ。なにが藤堂さんや。お前なんか要らん」
 スネたように目をそらし、水煙は告げ口してきた。
 それはもちろん効果絶大で、俺は一瞬気絶してたと思うわ。なんか思考が途切れた。でももう今さらキレるだけの気力もない。呆然すぎて、言葉もなかった。
 そうなんや、亨。お前は俺に夢中なんやとずっと思ってた。でも、そうやなかったんや。元々ずっと、お前はこういう奴やったんや。たまたま機会がなかっただけで。それとも、単に俺が知らんかっただけで、いつも浮気してたんや。
「やっぱりチクりよったな。水煙。言うと思たわ」
 亨は水煙を振り返りもせず、ただただ苦み走った皮肉な笑みやった。
「言わんわけない。いつ言うたろかと機会を狙ってただけや」
「喋られへんかっただけやろ、この三日はな」
「さあ、どうやろか。今はもう、なんでも言えるで。ジュニアにも、めちゃめちゃ抱いて、気持ちようしてもろたしな。お前なんぞ物の数やない」
 意地悪く挑む口調で、水煙は笑って話してたけど、それが虚勢ということは、俺には分かってた。嘘やないけど、こいつは事実が都合よく誤解されるように、計算して話してる。亨にはそれが、わからへんやろうと狙いをつけて。
「それがどないした。完全無穴の宇宙人のくせして。お前になにができるんや。俺の敵やない。俺をやっつけられるんは、アキちゃんだけやで」
 亨は俺の目を見て話してた。
 こいつは骨の髄まで邪悪な悪魔サタンで、ぜんぜん悪びれもせんのやろかと、逆に俺のほうが怯んでた。
「アキちゃん、藤堂さんとは何でもないで。あの人な、俺のせいで外道になってもうてたんや。死んでも生き返ってもうたんやって。それで後一押し、俺の血が欲しいて言うもんやから、それも外道に堕としたモンの責任かと思て、ちょっとばかし、血をくれてやったんや。それだけやで」
 なんや、それだけかと、俺はどうにも複雑な気分で安心してた。
 果たしてそれは、ほんまのことやろか。亨は俺に、嘘はつかれへんのやから、きっと本当のことやろ。でも、それは果たして、浮気ではないと言えるのか。
 いや、正直言うたら、微妙なとこやけど、血を吸うのがまずいんやったら、俺もまずい。戻ってきた亨を目の前にして、俺はものすごい打算に入ってた。
 お前、もしかして、戻ってくる気か、俺のところに。
 と、いうことは、俺はお前と別れなあかん訳やない。続投。そういうことなんやったら、俺は未だに、浮気したらまずいんやないか。不実や言うて、お前に怒られる羽目に。
 と、いうことは、あれはまずかった。俺はさっき、ここに来る途中の廊下で、突然現れた勝呂に口説かれ、めちゃめちゃ血を吸うてきた。それだけでは飽きたらず、お前は俺のしきになれみたいな事まで、言うてもうたような気がします。あれは夢やったんかなあ。どうやろ。夢?
 もちろん現実やった。
 あいつ一体、突然なにしに来たんや。用もないのに俺の弱った隙に付け込むみたいに現れて、狙いどおりに一口噛んでいきよった。いや、噛んだのは俺のほうやけど。堕とされたんは俺のほうやないか。とうとうやってもうたな、みたいな話やないのか。
「血吸うただけ……?」
 俺はそんな諸々のことを含めて、思わず口に出していた。亨はそれが質問やと思ったらしく、うんうんと深く頷いた。
「そうや。せやからな、アキちゃんが誤解してるような、脱いで暴れるような事は何も無しやったんやで」
「それは浮気に該当しないと、お前は言うんか。血吸うただけで、服も脱いでへんから、それでええやん、みたいな話か。ほんまにそう思うんか」
 俺は念押しをした。亨はちょっと、気まずそうな顔やった。
「そう思うかどうかは……アキちゃんが決めて」
「思う」
 俺は即決した。もうそれしかない。だって、きっと、隠し通すってことはできへん。俺はそういうの苦手やし、それに、俺が黙ってたかて、水煙が暴露する。そんな予感がするわ。それより最悪なことはない。俺が秘密にしてて、それを別の口から暴露されるなんてことは。
「ほんまに? 許してくれんの? 俺はまたここに、居ってもええか……アキちゃんのとこに」
 亨は切なそうに、俺に確かめた。ごめん、そんな不純な動機付けで。でももし本当に、お前が俺のとこに戻ってきてくれるんやったら、俺は幸せ。でも情けない。
「どしたんや、アキちゃん。悲しそうな顔して」
 自分も泣きそうな顔をして、亨は俺に訊いた。その聞き慣れた懐かしい響きに、俺はくらっと来た。惚れそう。というか、元々ベタ惚れ。そんな己が自覚されてきて、俺も泣きそうやった。
「なんで戻ってくんねん。あっちのほうがええんやないか。大人やし、余裕たっぷりやしな。俺のどこがええねん。単に俺がお前のげきやから、他にどうしようもなくて戻ってくるんやないか」
「いや、そんなことない。嘘やと思うんやったら、さっき水煙様の言うてた方法で、俺への支配を解いてみたら?」
 優しい苦笑で、亨は俺を誘ってた。
 これは罠やないかと、俺は思った。こいつは俺と切れたくて、そんなことを言うてるんや。縄を解いたら、あっと言う間に飛び去っていくに決まってる。
 でも、それを誘うということは、やっぱりお前は俺を捨てたんか。そう思うとめちゃくちゃ惨めやったんやけどな、でも、それと気づかずに、意地でもお前を縛り付けといたるわって、そんな自分も情けなかった。
 せめて最後くらいは、ええ格好しよかって、思ったんやろな。俺は元来、ええ格好してまう性分やから。逃げていきたいんやったら、逃げていけばええよって、そんな潔いふりをして、ほんまのところは逃げんといてくれと思ってた。
「わかった。亨、お前はもう俺のしきやない。もう自由やからな、行きたいところへ行け。あの支配人のとこへでも、他のどこへでも、行きたいところへ行ったらええわ」
 俺は今、自殺してると、言いながら俺は思った。
 それで何か変わったか。変わったような気がする。俺が亨を縛っていた何かが、ふっと解けて、手応えがなくなった。そんな不安な感触があった。何もない無限の宇宙に、命綱もなしで、たったひとりで放り出されてもうたような感じ。
 亨もそれを、感じたんやろか。にっこりと満面の笑みやった。
 やっぱりお前は、嫌やったんやな。自分を縛り付けてる、俺のことが。その笑顔にものすごく胸が痛んで、腹立たしいような、亨に済まないような、そんな気分に俺はなってた。
「どこへでも行け」
 蚊の鳴くような小声で、俺は捨て台詞を吐いていた。それが俺の子供なところやねん。何も言わずに送り出してやれば格好ええのに。どうしてもそれが無理。
「ほな行こか。確かこの近所にな、めちゃめちゃ美味いインド料理屋あんで。アキちゃん、一緒に行って。目から火が出るような、辛いカレー食おう」
 にこにこしながら、腹減ったような顔で、亨は俺を気軽に誘った。いつもと全然変わらへん、涎出そうみたいな可愛い顔して。
「カレー……?」
 俺は呆然と、そう繰り返した。
「そうや。それと、タンドリー・チキン。ラッシー飲んで、バターたっぷりのナンも食うて、サラダにスープに、デザートには当然、チャイとクルフィーを」
 うっとり想像してる目で、亨は話し、さあ行こうと俺の手を引いた。
 ラッシーというのは、もちろん犬やない。インド料理に付き物の、ヨーグルト・ドリンク。そしてクルフィーというのはな、アイスの一種や。インド料理の、オチに出てくる、シャーベットとアイスの中間みたいな氷菓で、亨の好物。甘くさっぱりしたミルク味。
「行こう。ほんで戻って酒飲んで、新婚さんベッドでめちゃめちゃやりまくりたい」
「ベッドって、ここの?」
「そうや。お城みたいやろ。ほとんどギャグやで。藤堂さんてほんま、やるときは、どこまでもやる男。趣味はさすがやけど、あれはたぶん、悪い冗談なんやで。天蓋の中の天井に、鏡ついてる。ラブホやないか」
 くすくす笑って、亨が別の男の話をしてた。それに俺は顔面蒼白やったんやろ。亨はちょっと気の毒そうに、照れ笑いをして俺を見た。
「アキちゃん、昔の男やで。もう過去や。今はアキちゃんだけを愛してる。アキちゃんのとこ以外に、行きたいとこがない。ずっと俺を、傍に置いてくれるか」
 俺の手を握り、亨は微笑んでいる真剣な目で、俺を口説いてた。
 それを俺はまだ、それまでとは別の意味で呆然として見た。
 なんて綺麗な奴やろと、今まで無数に思ったことを、また思いながら。
「俺でええのか」
「お前がええねん。心配すんな。黙って俺についてこい」
 亨は冗談めかせて、そう請け合った。めちゃめちゃ男らしかった。
 それに俺は、実はちょっと悩んだ。変やないかと思って。
 でもそれは、しゃあないねん。それが、男同士の恋愛や。どっちかがひたすら強くて、もう片方がひたすら守られる。そういう訳にはいかへんらしい。
 時にはお前がリードして。よう考えてみたら、ずっとお前がリードしてるかもしれへんけど、それからは目を背けて。時には俺がリードして。
 どうか末永く俺のことを、よろしゅうお頼み申します。
 俺はそう思ったけど、それを口には出さへんかった。代わりに亨を抱き寄せて、今日一日ずっとしたかった、貪るようなキスをした。亨はうっとり顔を上げ、甘い息で俺に応えた。
 息が触れ、唇が触れるだけで、くらりと腰が砕けそうになる、甘い陶酔のあるキスやった。それは別に特別なもんではない。亨とすれば、いつものことで、俺はずっと最初から、初めてこいつに触れた時から、その感覚のとりこになっている。亨が俺に与えてくれる、陶酔と、愉悦と、愛と、ちょっと切ない苦痛と、それが全部ない交ぜになった幸福感に。
 他の誰かと居るときに、それを感じたことはない。なんでもありのこの蛇としか、俺は幸せになれない男。許すしかない、何があろうと。
 たっぷり心ゆくまでキスをして、それから唇を離すと、亨はすっかり蕩けたような顔やった。
「アキちゃん……やっぱ先にベッドで、そのあとインド料理にしよか……」
 うっとりと言う亨の話に、水煙がケッと毒づく声がした。
「のんきなモンやなあ、よこしまな蛇は。飯もええけど、新しい仲間が増えたしな。お前もいつか、そいつとベッドをシェアすることになるかもな」
 やっぱりチクった。俺は全身鳥肌立ちながら、水煙の怜悧れいりな美声を訊いていた。亨はにこにこしてたけど、その表情にはだんだん無理の気配が増していった。
「新しい仲間?」
 亨は俺でなく、背後に寝そべる水煙のほうに、必死で振り返るのを堪えてる様子で訊ねてた。
「そうや。お前より若いし、可愛い子やで。健気で素直で従順そうやしな、なんと言うても一途なんがええわ。そうやろジュニア。まるで忠実な犬みたいやもんなあ」
 犬ってところに、水煙はものすご含みを持たせて言った。
 その一言に、亨の美しい笑みがほころびた。それがまだ自分の腕の中にいることに、俺は正直、震え上がっていた。
「何をしたんや、アキちゃん。俺の留守の間に。正直に言うてみ、怒らへんから」
 わなわな震えながら、亨は笑っていた。めちゃめちゃ怖かった。
「し……しきにしてくれ言うから」
 いや、それは嘘か。でもまあこの際、勘弁してくれ。怖いねん。
「言うから、なにをしたんや?」
「天使のままやと、無理やから、けがして堕天使にしてくれって言うからな……」
「それで素直にけがしてやったんかっ!?」
 亨はもう笑ってへんかった。そして俺の襟首を締め上げていた。
「血吸うただけや」
「あっ……」
 目をそらして、ぽつりと答える俺に亨は、短い悲鳴のような、何かに感づいたような、してやられたという声をあげた。その顔は、深刻やけど、どことなく、ぽかんとしていた。
 怒ったまま、呆れたような顔をして、じっと睨んでる視線に耐えて、俺は亨のリアクションを待った。
 わなわな呻きながら、亨は俺の胸に崩れ落ちてきた。
「そうか……そういう訳か……それであんなにあっさり、俺を許したんやな……?」
「なんの話やろ」
 俺は必死でそれにとぼけておいた。
 寂しかったんや、俺は。お前に振られたと思って。
 それに悔しかった。もっと強い男に、強いげきになって、お前を後悔させてやりたい。あの時振ってもうて惜しかったと、いつか地団駄じだんだ踏ませてやりたいと、そんな餓鬼くさい復讐心もあったんやと思う。
 それに勝呂や水煙を、付き合わせていいかって。いいわけない。そんなもんは餓鬼の我が儘。それは分かるんやけどな、秋津は元来、我が儘で、ちょっと餓鬼くさい血筋やねん。うちの親みてみ、めちゃめちゃ我が儘やんか。兄妹やねんで、でも好きやからって、そんな我が儘世間が許すか。でも知ったことやあらへん。それで作った息子ほったらかして、ふたりでラブラブ、ハネムーンやで。鮮やかなまでに自己中や。
 俺はそのふたりから生まれた息子なんやで。自己中でないわけない。
 悪気はないねん。やってもうただけ。やる前に、一考できへん。全て手遅れ。それが俺のキャラやねん。どうしようもない男やけどな、ほんまにもう、どうしようもないんやって。治らへんねん、この病気だけは。遺伝的なもんなんやから。俺かて悩んでんのや。
 亨はそんな俺の心をうっかり読んでもうたんか、ほんまにもうお前はどないしたろかという、痛恨の顔をした。あまりのムカつきと悔しさに、指先まで痺れたような顔やったけど、それでも亨は我慢をしてた。なんで我慢してんのか、俺にはよう分からんかった。
 いつもなら怒るやんか、お前。もう殺さなあかんわって、激怒して言うてたやんか。
 なんで急に、我慢することにしたんや。
「我慢せえ、蛇。方法はある」
 教えたくないという気配をむんむんさせつつ、水煙が話した。
「抱かんでも、しきを従えとく方法はある。それで納得するかやけどな」
 床暖でのぼせてんのか、水煙は赤い、というか、白い顔をしてた。ぺろりと乾いた唇を舐めて湿らせ、水煙はまた風呂に浸かりたそうな目で、ヴィーナスの誕生みたいなバスタブを見た。
「なんやと。そんなもんあるんやったら、なんでさっさと言わへんかったんや」
「それは……俺にもいろいろ都合はあるから」
 何となく気恥ずかしそうに口元に触れ、水煙は珍しく目を逸らしてた。
「血をやればええねん。げきの」
「吸血させろってことか?」
 亨はそれさえ嫌そうに、水煙に聞き返してた。もう必死なんか、水煙のほうを見ないようにすることも忘れ、床にごろごろしてる青い裸体をガン見していた。
「いや。そうやない。勿論、それでもええけど。どっか切って出した血でもいい。それに、式《しき》が皆お前みたいに、人の精気を吸わな死ぬような体質とは限らへん。俺なんかは別に平気やで、鉄やもん」
 けろっとして、水煙はそう自白した。
 平気なん……? お前。俺はてっきり、お前も亨とおんなじで、誰かの精気を吸わんかったら、いつか消えてまうんやと思うてた。それで俺が欲しいんやって、可哀想やなあって、そう思って悩んでたのに!
 そんな俺からも、水煙は目をそらしてた。
「せやから、そういう、安定した性質のやつを探すか、植物系がええわ。トヨちゃんとこの舞みたいにな。あいつは水やっときゃええんやから」
「水やっときゃええのに、あの女、アキちゃん狙いなんか!?」
 亨は心底呆れたという声やった。
「何を言うねん、お前かて、血吸やええだけやのに、毎晩ジュニアとやっとるやないか。もっと食えるんやったら食いたいんが人情やろが」
 水煙は説教くさかったが、それは疑いようもない外道どもの本音に聞こえた。ついさっき、水煙に食いたいので食われてもうた俺としては、それを秘密にしておいてくれるのか、それが少々心配の種やった。
 水煙は俺に、血をくれと言えば済む話のはずやった。血ぐらい、いつでも飲ませてやったで。指の先でもちょっと切って、流れ出てきたやつを舐めさせてやればええんやろ。そんなん、別に、ケチることない。
 でもそんな話、されたことない。つまりこいつは、それやない別物のほうがええなあと、思ってたわけやろ。つまりその……いつも亨が飲んでるアレか。興味あったんか、水煙。言うのが遅い。それとも、それって、俺の自意識過剰な妄想か。
「でもまあ、血が無難やわ。簡単やし、少しで精もつく。いくらジュニアが好きモノでも、十人二十人相手に毎晩は無理や。それでも時々血をやるだけやったら、別に何でもないやろ」
 献血手帳作ろうか。好きモノ言うな。俺はぼんやりと心の中でだけ、そんなツッコミ入れていた。
 そして思った。ほんなら、俺のおとんはなんで、式神とやってたん。実はそれが好きやったってこと。それとも献血だけでは満足でけへんようなのを、いっぱい飼うてたってことか。
 それは訊ねなくても、水煙が亨に話していた事を聞けば分かった。
「アキちゃんも他愛もないのには、時々血をくれてやるだけで済ませてた。それでも神様級となると、心理面での信頼関係が重要になってくる。そのための方法は他にもあるやろけど、一番簡単なのは、寝ることや。せやからな、お前が絶対あかんて頑張ってる限りは、ジュニアはお前より強いしきは飼われへんのや。お前が強うなるしかない」
 くどくど響く口調になって、水煙はいかにも嫌そうに亨に教えてやっていた。
「わかった。俺、頑張るわ」
 決意を感じる言い方で、亨は頷いた。
「頑張るんか。頑張らんでええのに。どっか行けばええのに」
 めちゃめちゃ正直に、水煙は本音を吐いてた。
 もしも亨が戻ってきてなかったら、俺はこいつとどうなってたんやろ。いつか、宇宙系の愛の世界に引きずり込まれてたんやろか。
「良かった。それで解決や、アキちゃん。どうしてもしきが欲しいんやったら、飼うてもええけど、自分の血で面倒みられるやつだけにしなさい」
 お前はおかんか、みたいな口調で、亨は俺に言い、ぎゅっと胸に抱きついてきた。それで肩の荷が降りた、みたいな雰囲気やった。その時、伝わってきた安堵の深さを感じ、俺はこいつが案外ひどく悩んでいたことを悟った。
 そんなの、俺はお前だけでいいって、ずっと言うてきたのに。なんで悩んでたんやろ。隠してるつもりでも、バレバレやったんか。もっとしき欲しいみたいな、俺の血の悪い癖が。
「アキちゃん、惚れるんは、俺だけにしてくれるか……お願いや、俺だけにして。俺はきっと、強いしきになる。他に見劣りせんような、立派な神様になってみせるから」
 抱きついた俺に、縋る目をして亨は頼んだ。俺はその、いつにない健気さに、胸が詰まった。
「アホか、そんなん気にせんでええねん。お前はもう俺のしきやない。俺のツレやろ。そんなこと気にせんと、幸せに生きとったらええねん」
 結婚しよう、みたいな、そんなノリやったんやけどな。
 でも、あかんやん。こいつ男やねんから。それは無理やろ。普通に考えて。
 あかんあかん、つい常識にとらわれてもうてた。
 自白するけど、実は俺には結婚願望があった。それはたぶん、おかんの影響やった。子供の頃から、大人になったらお母さんと結婚しよかと言われ、それを目指して男を磨いてた。いつか立派な一家の主として、おかんを守っていくんやと、そういう方向性で頑張ってきた。
 そんな俺が、おかんとは結婚できへんと気がつき、それを諦める方向性で頑張るようになった以後も、ただ何となく好きで付き合うという、先々の展望のない恋愛は、どうしてもできへんかった。
 この女は俺にとって、おかんの代わりになるやろか。秋津の跡取りの嫁として、やっていけるような女か。いつか俺と結婚して、一途で貞淑な妻として、俺を愛してくれるやろかって、そういう基準で選んでたと思う。つくづく俺は、旧家のボンボンやったわけや。そんなもん知らんと意地を張りつつ、しっかり家を背負ってた。それが身に染み付いた、俺の思考回路やったんや。
 おかんを越える女はおらへんと、そういう結論になってもうてから、俺には亨がおかんの代わりやった。そんな妙な図式があって、頭ん中でいろいろ変なふうに繋がりまくり、俺は意識のものすごく深いところで、こう思ってた。亨と結婚したいって。
 ほんならアレや。こいつは女にもなれるんやから、ちょっと済まんけど性転換してくれへんかって頼んで、俺は晴れて秋津の嫁を得る。そしてハッピーエンドみたいな、そんなコースもあることはある。
 しかしやな。俺にとって、秋津登与、つまり俺のおかんは、この世でただ一人の女やった。おとん大明神もそう言うてたやろ。憶えてないか。お登与とよは自分にとってただ一人の女やったから、しきは全部男やったって。血も凍るような普通でない話や。
 そうやねん。俺はな、おとんの息子やった。そっくり同じ一分の一のコピーみたいなもん。見た目も同じなら、性格や嗜好までそっくり同じの、分身の術。腹違いの時間差双子みたいなもんやった。
 せやから、俺はな、今さらもう隠さへんけど………………亨が男やから好きなんや。
 あかんで、口に出すと胃に来るな……。
 しかし普通に考えて、男とは結婚できない。相矛盾するそのふたつの都合を、どのように解決するか、どっちを捨てるか、激しくアホみたいな激しいジレンマやったな。
 そしてそれはその時、のんきに葛藤してていいような課題ではなかった。いろいろな意味で。
 水煙が素っ裸でごろごろして形のいいケツを晒し、亨が俺にうっとり抱きついている、そんなヴィーナスの誕生みたいな世界に、さらにまだ新たな気まずさが加わろうとしていた。
 その時すでに三度目の、もう見慣れてきた例の白い光の爆発が、また突如として始まった。
 俺と亨は目を眇め、水煙は平気でそれを見上げていた。
 始めは白い一点やったもんが、押し広げられるように拡散してきて、その中から天使が現れる。しかしそれは、天使というにしては、純白の羽根がほとんど全て抜け落ちた、痛々しいような骨の翼を背に負った、勝呂瑞希の姿やった。
 それを見るなり、亨はホラーでも見たように、ぎゃあっと叫んだ。
 なんでか知らんが、亨は勝呂が怖いらしい。痛い目に遭わされたことがあるからやろか。
 向こうは向こうで亨が苦手らしく、俺と抱き合っている亨を見るなり、ぎょっとしたように一歩退き、そこで水煙を踏んづけかけて、ぎろりと睨みつけられ、またぎょっとしてた。
「先輩……なんやこれ」
「戻ってきたんか」
 勝呂が言う、なんやこれって、今のこの場の状況そのもののことらしい。確かに異常。でももう俺はそれに慣れてもうてて、客観的な判断ができてへんかった。
 勝呂はあぜんと焦った顔で、真っ青な宇宙人をじろじろ見下ろしていた。でも、お前も水煙のこと、とやかく言われへん程度には奇抜な姿になってきてるで。
「いや……まだです。言い忘れたことがあったんで。でも、その……蛇はなに?」
 俺の抱いてる亨を指して、勝呂瑞希は真面目に訊ねた。
 これか。これは。水地亨です。お前もようく知っている、俺のツレ。寄りを戻した。というか、別れてなかった、というか。俺は全然、振られてなかったみたい。俺の早合点というか、被害妄想やったみたい。
 せやからな、勝呂。お前のこと、また勝呂って呼んでもええか。
 俺は背中にだらだら冷や汗流してた。自分の胸に頬を押しつけて、じとっと勝呂を見ている亨の体を抱きながら、ほんまにもう、どうしたもんかと困りつつ。
「俺の……勘違いやってん」
「勘違い」
 繰り返す勝呂は青い顔やった。まさに天国から地獄へ堕ちたような顔や。
「それじゃあ、全部チャラですか。全部、無し? 俺が欲しいって言うてくれたことも、あれも、全部無しですか」
 勝呂の話に、亨は微かに震えたような身じろぎをした。それでも何も言わへんかった。俺はその身を震えを腕の中にはっきり感じて、その時はじめて海よりも深く後悔をした。
 俺はつくづく、やったらあかん事をした。学習してない。亨にも、勝呂にも、水煙にもやろ、やったらあかん事をした。しかも立て続けに。
「無しやないで」
 答えられない俺の代わりに、水煙がのんびりと答えた。
「お前は使える。秋津のしきとして、その当主であるこの男に、永遠に仕えるがいいわ。ただしやな、あの蛇が序列一位、俺が二位、お前が三位や。それで納得できるんやったらの話やで」
 余裕ありげな顔をして、のらくら話す水煙のほうを、勝呂は思い詰めたような青い顔して横目に見下ろしていた。勝呂が葛藤していることは、その身の震えを見ればわかった。水煙はそれを、薄い笑いを浮かべた顔で、じっと待つように見つめ返していた。
 こいつはそんなもんには、慣れてるんやろ。おとんには両手の指では数え切れんぐらいのしきがいたらしい。それとせめぎ合う関係に、水煙は慣れている。
「難しゅう考えることないんやで、少年。世に下克上はつきモンや。蛇かて死ぬかもしれへんし、どうせまたすぐ浮気する。ジュニアに愛想つかされて、俺やお前の天下になるよな、そんな日も来るかもしれへん。お側に控えて狙っとかんかったら、千載一遇の好機を、他のにかっさらわれてしまうんやで。にこにこ愛想良うしといたらええねん。可愛い犬やなあって、手の付く夜もあるかもしれへん。そんな夢のような夜もな」
 どこか、ねっとり話す水煙が、そういえば最初は夢の中に現れ、その時今ここにいるのと同じ、人の姿をしてたことを、俺は思い出した。
 おとんは時々、こいつを抱いて寝てやったという。でもそれは、剣の姿でやった。それでも夢の中でなら、まさか剣のままってことはないやろ。
 暗く熱い闇のような、天地あめつちの無限の力がせめぎ合う、あの場所で、肉のある体ではない、もっとあやふやなもの同志が、淫靡に絡み合う情景が、俺の脳裏にぼんやり湧いた。
 それは俺のおとんと水煙で、あるいは、俺自身と水煙やった。
 神との交合というのは、本来、そういうもんなんやないか。それと現世が混ざり合い、熱く震える肉体どうしが、離れがたく絡み合うことも時にはあるが、それが神とげきとの結びつきの全容ではない。
 そんな気がして俺は水煙を見つめ、水煙は俺を見つめた。妖しい、美しい、人でなしの微笑みで。
「戻っておいで。せっかく戻ってきたんやから。俺が面倒みてやるわ」
 水煙と勝呂では、激しく年期が違ってた。
 水煙の、この世のモノとは思えない青の、それでいて非の打ち所のない裸身を、勝呂は内心の動揺が透ける目で見下ろした。
「居りたいんやろ、うちのぼんのところに。それやったら、辛抱せなあかん。これが秋津の跡取りや。そこらの男に惚れたんと違うんや。そうやろう、瑞希みずきちゃん?」
 微笑の水煙に諭されて、勝呂はゆっくり頷いた。
 勝呂がこの普通でない状況を、受け入れるつもりという意味らしかった。
 それに俺は、正直ちょっと怖くなってた。
 自分が作り出した、この変な世界に、俺自身がついていけるかどうか、心配でたまらず。
 せやけどこれが、げきの世界やで。俺が生きていく、この世とあの世の間の世界。常識と非常識の、間の世界や。
「お告げがあります」
 意を決した声で、勝呂は俺に向き直った。
 どうもそれが、元々のこいつの用事で、抱き合って血を吸われた時の気の迷いで、うっかり忘れてもうた伝言やった。
水底みなそこでの死が、なんじに訪れり。その死の果てに、汝は偉大なる者となるであろう」
 どこかの神から預かってきた話らしい言葉を、勝呂はつらつらと語ってきかせた。
 そして締めくくりに、こう呟いた。
「父と子と、聖霊の御名みなにおいて。かく行われるべしアーメン
 俺をじっと暗い目で見つめ、勝呂はまた、バチンと消えた。
 それは相変わらず唐突な消え方やった。それでもこの時、勝呂は引き戻された訳でなく、自分から去ったんやという気が、俺にはした。それまでの二度、引き毟むしられるようにして俺の前から連れ戻された、そんな顔をしてあいつは消えてた。
 でもこの時は、何かを堪えて黙って立ち去る、我慢強い犬の顔やった。
 結局俺は、永遠に、お前を踏みにじって生きていくんかもしれへんな。戻って来んほうが、お前のためやったんやないか。
 それでも戻るていうんやったら、俺はお前のことを、せめて瑞希みずきと呼んでやろう。それがずっと、お前の強請る、望みの一つやったんやから。
「アキちゃん……今のは何の話やろ」
 不吉なものを見たという、心なしかいつもより白いような顔で、亨が俺を抱いていた。
「予言やろ」
 ゆらゆらと、ひれのある青い足を揺らして、死を迎え撃つ目をした古い神が、俺にそう教えた。
 確かにそれは予言やった。
 勝呂は俺の告死天使で、それが天使としての、あいつの最後の姿やった。


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