SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

神戸編(8)

「寛太!」
 もどかしげに靴を振り捨てて、海道家の玄関に突入していく虎を、俺はなんとなく唖然として見てた。
 話はちょっと前にさかのぼる。
 俺と信太は、出かけてた。そして出先で信太の携帯が鳴って、出たら蔦子さんやった。
 鳥が車で事故ったと聞いて、虎は血相を変えた。ぞーっと全身の血が引いたような顔やった。それまでニヤニヤしてたんで、目の前で見た変容は、俺までぞーっとさせた。
 信太はそのまま車を飛ばして、携帯で蔦子さんと話し、海道家で落ち合うように命令された。全員無事やから、心配おへんと言われたようやけど、信太は真っ青な顔をしてて、自分のほうが事故って死にそうな運転をしてた。
 事故った現場があるはずの、阪神高速のかかる幹線道路を、制限速度を優に超す猛スピードでぶっとばし、虎は帰宅した。そして玄関に駆け込み、居間に座っていた面々が、のんきに麦茶をしばいてるのを見て、蔦子さんの隣にいた鳥に怒鳴った。
「寛太、このアホが! いっつも言うてるやろ、安全運転しろって!」
 お前の口で、それ言うかと、たぶんその場にいる何人かが確実に思うてた。そんな顔して睨む蔦子さんを無視して、信太は胡座かいて座ってる赤毛の前に、片膝ついて顔を覗き込み、壊れてへんか確かめるみたいに、両手で頬を包んだ。
「なんで事故ったんや」
 麦茶を飲みかけていた赤毛は、そのままのポーズで固まっていた。
「天使が、落ちてきてん。車の上に」
「はぁ?」
 ものすご非難がましい声で聞き返し、信太は盛大に顔をしかめた。赤毛はそれに、ちょっと困ったような顔をした。
「ほんまやで、兄貴。走ってたらな、白く光って、天使が落ちてきたんや、ボンネットの上に。それで驚いてしもて、思わずブレーキ踏んだら、事故ってもうてん」
 アキちゃんどこやって、俺が心配して見ると、アキちゃんはその話を聞きながら、話してる二人からは目を背けてた。そしてものすごく、不機嫌な顔して、自分の首を押さえてる。
 俺はこっそりと忍び足で、アキちゃんの隣に行った。
「平気か、アキちゃん。怪我してないか」
「事故ではしてへん。お前、どこ行ってたんや。虎と」
 最後に付け加えられた一言に、怨念を感じた。
 それで俺は、思わず、くすんと鼻をすすって、なんて答えようかなあって、思いめぐらしてた。うまい言い方を。
「飯食いに行っててん。中華街に」
「そら、えらい遠くまで行ってたんやなあ。二人っきりで」
 こっちを見ないで返事する、アキちゃんの京都弁のイケズさが、最大出力で炸裂してた。俺は気まずくて、うふっ、て笑った。ちょっと泣き笑いやったな。情けのうて。
 誤魔化しようがない。確かに二人で出てた。
 アキちゃんらが戻る前に帰れば、まあええやろみたいな気で出かけたんやけど、まさか事故るとは。
 俺は冷えた肝を温め直そうと思って、アキちゃんの手を握ろうとした。せやけどアキちゃんは、一度は掴ませた俺の手から、やんわりと逃れた。麦茶飲むふりをして。
「お前が飯食ってる間に、俺は死にかけてたんやで」
 やっぱり喉渇いたわけやない、俺の手を振り払ったんやと思える口調で、アキちゃんは苦々しく教えた。まったくその通りで、俺は頷いただけやった。なんと返事したもんか、ちっとも思いつかず、ただうつむいて座ってるしかない。
「天使って、なに?」
 何から突っ込んでいけばええんやろって、アキちゃんの腹を探りつつ、俺は小声で訊ねた。
「勝呂瑞希や」
 アキちゃんは真面目な難しい顔で、茶を飲みつつ、俺にそう教えた。その目はやっと、鳥を問いつめる信太の方を向いていた。
 俺は一瞬、ぽかーんとした。あんぐり口あけて、ものも言わん俺を横目に流し見てから、アキちゃんはもう一度言うた。
「勝呂や。生きててん。いや、生きてはおらんけど、とにかく現れた」
「化けて出たんか」
「そうかもしれへん」
 険しい顔で、さらりと言われて、がっくり激しい疲れみたいなもんが、俺の全身に落ちてきた。
 そんなアホな。あいつはもう居らん。大阪で死んだ。俺とアキちゃんの前に、もう二度と現れへんのやと思ってた。現れんでくれと、願ってたというか。
 それがまた、現れたんや。俺が虎と、飯食いに行ってる間に。アキちゃんの前に。
「ど……どしたん、それで。どうなったんや」
「せやから言うてるやろ、あいつが。事故ったんや」
 顎で赤毛を指して、アキちゃんは忌々しそうに言うた。
 寛太はまだ、信太に顔を掴まれて、問いつめられていた。信太はまだ、怒ったようなつらしてた。そいつを怒っても、しゃあないやん。何も悪くないんとちがうか。俺の胸にはそういう同情が湧いていた。
 それでも信太はお構いなしや。
「なんで天使なんか来たんや。いや、その前に、なんで蔦子さんほったらかして、お前と本間先生だけ車で爆走やったんや?」
「それは。頼まれたから……」
 何をや。誰に頼まれたんやと、信太は強く問いつめた。それに赤毛は、悲しそうな顔をした。怒られてるというのが、つらいみたいやった。
「頼まれたんや。蛇に。本間先生が、神父と浮気せんように見張れって。それから、他にも顔の綺麗なのが居ったら、百メートル以内に入らせるなって。せやから、逃げなあかんと思って」
「何から!」
「せやから天使から」
 情けないような泣き言の口調で、寛太は怒鳴る虎に答えてた。
「茶を置け、お前は。わかってんのか、死ぬとこやったんやぞ」
 まだ寛太が持ったままやった麦茶のガラス器をとりあげて、信太はそれをがつんと乱暴に床の茶托に戻した。ばしゃっと中身が溢れたけども、それを気にする気配はなかった。
「死なへんやろ……だって不死鳥なんやから」
 頬を包んでた手から逃れて、寛太はうつむいて目を逸らそうとした。その顎を乱暴にまた上げさせて、信太はじろっと赤毛を睨み付けた。
「死ぬ! お前は死んでまうと思うわ」
 そう言われて、赤毛の目は一瞬泳いだ。信太はそれを見て、つらいという顔をした。
「一体この世の何人が、不死鳥は本当に居るって信じてる? お前がそうなんやって、誰が知っとう。知らんやろ? お前は神の鳥かもしれへんけど、まだ誰もそれを知らん。お前を崇めてる奴はいないんや。だからな、死ぬ時は死ぬんやで。消えてもうて、それっきりなんや。もう神戸はな、不死鳥なんか忘れた」
 わなわな教えて、信太は赤毛を放してやり、床に胡座かいて座り込んで、虎みたいな金髪まだらの頭を掻きむしるように抱えた。
「それやったら……俺は何?」
 急に不安そうになって、寛太は眉を寄せてた。その顔を見ず、虎は叫ぶ口調やった。
「お前は、ただの鳥や! 神様なんかな、ぼけっと生きてて、タダでなれるか! お前がもっと頑張らへんから悪いんや!」
 信太にどやされて、しょんぼりと項垂れた寛太の顔は、長めの髪に隠されてしもて、俺のところからは見えんようになっていた。
 済まんことをしたと、俺は思った。俺の頼みを聞いたばっかりに、あのアホは怒鳴られる羽目に。
「蔦子さん、こいつにもう運転させたらあかんわ。蔦子さんと一緒やから、平気やと思ったのに。なんでひとりで行かせたりするんや。あかんやろ、こいつアホなんやから、誰かついといてやらなあかんねん」
 八つ当たりやないかと思えるようなことを、信太は蔦子さんにぼやいた。もう寛太と話す気はないようやった。
「そんなん、あんたに言われへんでも分かってます。咄嗟のことで、どうにもできへんかったんどす。それにどうせ免停や。当分、車には触らせへん」
 気まずそうに、蔦子さんは答えてた。
「俺が行くって言うたやないですか」
 なおも愚痴る虎を、蔦子さんはむっと睨み付けた。それには反省したんか、信太はがっくり項垂れていた。お前ちょっと今、格好悪いで。必死やな信太。
「可愛い可愛いでは成長しまへんやろ。この子にもたまには仕事させなあきません。ウチのしきなんやから、経験積ませて育てなあきまへんのや。不死鳥やのうてもよろしおす、何かの役には立つようになりますやろ」
 つんと横顔を見せて、蔦子さんは信太を咎める口調やった。
 俺はジトっと信太を見てた。お前こいつを、可愛い可愛いなんか。
 聞いた話と、だいぶ違うやんかと、俺は思った。
 信太は、ぐっと堪えるような目を閉じて、蔦子さんに口答えをした。
「いいや、お言葉ですけど、こいつは不死鳥や。それを誰も信じてやらんで、どうやって神になれるんですか」
 信念めいて、その言葉は響いた。
 そして、話はさらにさかのぼる。
 アキちゃん達が出かけてもうた後、俺は手持ちぶさたやった。行くとこないし、することもない。客間に戻ると水煙がおるし、それは俺にはけったくそ悪い。なんで俺があの恋敵と、部屋で二人っきりにならなあかんねん。
 それでやむなく、居間の大画面の前にいた。退屈やったら『冬ソナ』見ろって、蔦子さんに言われてもうたんで、その言葉に効力があったらしい。なぜかヨン様見なあかんような気がしてもうて、信太に頼んで見せてもろたんや。
 しかし何で俺が、こんなくっさいメロドラマ観なあかんねん。ほんまにもう腹立つわと思いつつやったんやけど、観るとけっこうこれが面白い。畜生、何を観せんねん、蔦子さん。俺までハマってもうたら、どうするつもりや。一緒に韓国行ってくれんのか。アキちゃん絶対行ってくれへんわ。
 そんなことになりそうな予感もして、くよくよ傾いてテレビ観てる俺の横で、信太は足投げ出して座り、面白そうに俺を見ていた。
「おもろいか、白蛇ちゃん。俺には全然わからんのやけど。何がええの、こんなくっさい男」
 煙草吸いつつ、半笑いの虎を、俺は悲しく睨んだ。
 お前もそうか、そういうタイプか。愛を囁くタイプではないか。アキちゃんと同系統。釣った魚に餌はやらない。そういう男なんかと、俺は恨んだ。何の関係もないとばっちりの憎さで。
 ほんまのこと言えば、アキちゃんは別に、優しくないわけでも、つれない訳でもない。優しい時は優しいし、甘い時は甘い。ただそれが、二十四時間ずっとやないだけ。ほんで、ちょっとばかし、照れ屋なだけやねん。
 家で二人っきりの時は甘い。ちょっと酔うたら、ほろ酔い気分の勢いに任せて、俺の手にちゅうちゅうして、お前は可愛いって言うたりするわ。ただそれを、素面しらふで外でではできへんていうだけ。
 それが嫌やっていうのは、俺の我が儘。もっとしてくれっていうのも、ただの貪欲やねん。分かってるけど、しゃあない。だって欲しいんやもん。
「蔦子さんなんてなあ、これ、いつも泣きながら観とうで。よっぽど好きなんやろなあ」
「蔦子さん、旦那とうまくいってないのか」
 苦笑いして、俺は訊ねた。信太は上を見て、思い出すような顔をした。
「いいや。仲ええほうやと思うけど。いつもこのテレビで旦那とビデオチャットして、もじもじしとうで」
 あのおばちゃまが、もじもじすんのかと、俺は吹きそうになった。愛ってすごい。
「龍悟さんは仕事がらどうしても、家を空けがちやからな。都市計画とか治山治水とか、そういう大規模系やから。そういうのがもうとっくの昔に終わってる三都より、よそに呼ばれることのほうが多いんや」
「そんなら蔦子さんも、寂しいわけや」
 俺がここにいないおばちゃまを冷やかすと、信太は煙草を吹かし、ふっふっふと笑った。
「そういうことやな」
「ええなあ、お熱い人らは」
 俺は特に深い意味なくぼやいてた。
 他人が羨ましいのは、俺の癖みたいなもん。どっかで飯食うと、隣のテーブルにある皿のほうが美味そうに見えて、羨ましくなってきて、俺もあれ食いたいってアキちゃんに強請ってる。そんなに食えるわけあるかって叱られて、いつも、しょんぼり諦めてる。
 アキちゃんは食い物を残すってことがない。そんなんしたら、あかんのやって。殺生をして出来た食いもんやから、全部食わなあかん。食える量だけにしとけって、おかんの躾らしい。
 でも俺、いくらでも食えるで、食おうと思えば。牛一頭まるごとでも食えるし、店のメニュー全品でも、食おうと思えば食える。でもそんな光景、普通やないから。やったらあかんよな。見た目ひょろっと華奢な俺が、べろんごっくんて大食らいしたら、皆見るやろし、アキちゃん引いてまう。
 とにかく俺は、貪欲やねん。欲の塊。飯も欲しい、愛も欲しい、隣のやつが羨ましい。そんなんばっかり言うてるわ。
「お前んとこかて、お熱いやんか。聞こえてたで、昨日の夜の。俺は耳がええんや」
 煙草の灰を、灰皿に落としながら、信太はちょっと嫌みな口調やった。俺は苦笑のような顔でいた。ちょっと切なくなって。
 アキちゃんも、やってる時には優しいねんけどな。お熱くて。
「あれなに。アキちゃん好きや、アキちゃん好きや、アキちゃんアキちゃん、みたいな」
「うるせえなあ。ほっといてくれ」
 恥ずかしなって、俺はむちゃくちゃ渋い顔をしてみせた。それでもちょっと顔熱い。聞こえたんは分かるけど、そんなもん話題にせんといてくれ。俺でもちょっぴり恥ずかしいねんから。
「わざと言うてんの?」
 信太は薄笑いの顔で俺を見て、それでも真面目に興味ありげやった。
「わざとって?」
「言うと先生喜ぶからか?」
 そう訊かれて、俺は目を瞬いた。
 それは、考えたことなかった。なんでやろ。
 言われてみて思うと、俺はアキちゃんを落とそうって思ったことがない。だって最初から落ちてたし、口説く必要なかったもん。そんなあざとい手練手管は、使った例しがなかった。知らへん訳やない。初心うぶな振りする訳やないねんけどな。でも、使う必要がなかったんや。
「……喜んでんのかな、アキちゃん」
「そら、喜んでるやろ。堪らんような感じやで、お前のあの声は」
 何か思い出してんのか、虎はくすくす笑ってた。
 俺は気まずうなってきて、煙草を吸いたくなった。横で吸うてるやつの、その匂いを嗅ぐと。
 俺が嫌煙キャラやと、思うてた?
 別にそういう訳やない。アキちゃんに合わせてただけ。吸わんと我慢ならんという程ではないけど、付き合う相手によっては吸うてたわ。
 せやから正解は、俺は別に煙草吸うやつとでも、キスできる。
 藤堂さんは煙草吸う男やったし、やめりゃええのにヘビースモーカーで、留学時代におぼえたという葉巻がお好みやった。あれなあ、一種の贅沢品やで。ワインなんかと同じでな、突き詰めればいくらでも奥があるような、玄人向けのもんなんや。
 派手なおっさんやったで、ほんま。キューバ産の葉っぱをくゆらせ、一本何十万、何百万のワインを嗜み、ドンペリ風呂に俺を浸からせる。気障きざでお洒落でなあ、まあ、大人の男やったんやろな。
 お前は美しい、俺が今までの人生で見た中で、一番美しい生きた宝石やって、俺の足にダイヤの指輪はめさせて、めちゃめちゃ舐めてたわ。なに言うとんねん、この不能男がとムカついてたけど、それがただ、つれなく憎いような人で、キューバの香る唇で、ゆっくりキスされると、俺はいっつも震えが来てた。抱いてほしくて、我慢できへん。
 欲しい欲しいって強請ったら、藤堂さんはいつも俺に、好みの男を買うてくれた。それがなあ、堪らん感じや。悲しくて。
 あの人も蛇が嫌いやった。キリスト教徒やったんや。
 よりによってそれが、命惜しさで悪魔崇拝。俺にハマって、足でもなんでも舐めたけど、それでも抱くのは最後の一線て、思ってたんやないか。ほんまにたへんのか、確かめさせてくれへんかったわ。
 病気もしてたし、確かにそういう傾向はあったんやろけど、単に我慢してただけなんとちゃうか。蛇と交わってもうたら、もう終わりやってさ。
 妻も娘も敬虔なクリスチャン。神戸に住ませて、自分ひとりで京都に単身赴任やし、そんな間にホテルで蛇飼うて、それとやりまくってましたなんて、耐えられへんかったんやろ。
 これは薬やって、それがあの人の大義名分で、俺を拒んでた。俺は気分次第で、誰でも食うたし、藤堂さんが見てる前でも、平気でやったわ。あてつけやってん。
 もしも抱いてくれてたら、そんな事せえへんかったやろ。俺にも心はあるんやし。藤堂さん好きや、藤堂さんて一晩中喘いで、それでハッピーエンドみたいなな、そんなオチやったかもしれへん。おっさんたらし込んで、めちゃめちゃ血吸うて、自分の飲ませて、蛇の仲間に引きずり込んでたかもしれへん。
 でも、できへんかった。一遍だけ、辛抱たまらず血を吸うてやったら、この化け物めみたいな目で見られたわ。俺はそれに、ものすごく傷ついた。そう思うのは、当然やろけど、あの人は俺を悪魔サタンにする男。そういう目で見てた。
 アキちゃんみたいに、お前は綺麗やなあって、血を吸う俺をうっとり見たりせえへんねん。それはそれで、まともなんやろけど、まともな男なんか欲しないわ。俺に狂っててほしいんや。骨の髄まで俺のもの。一緒に永遠に生きてくれるようなのを、俺はずっと求めてた。
 そんな男とやっと出会えて、俺は幸せ。今度こそハッピーエンドやって、ちょっと前まで思えてたのにな。
 難しい、愛って。
 お前が欲しいって、なりふり構わず貪欲に求めて、やっとアキちゃんを手に入れた。もう誰にも渡さへん、全部俺のもんやって、満足してみて気がついた。俺はアキちゃんを深く愛してる。
 アキちゃんを不幸にするのが、もしも自分やったら、俺は自分であっても殺したい。アキちゃんが、俺がいないほうが幸せになれるんやったら、どこかに消えたい。そう思ってた、最初から。
 俺は本来、そういう深情けやったんかもしれへん。
 俺といると、人間は誰でも不幸になる。幸運は授かるし、金も集まる。それが幸せかっていうと、そうとは限らん。
 アキちゃんみたいに絵を描く奴とも、しばらく一緒にいたことあるけど、俺のお陰か売れない画家が、急にめちゃめちゃ売れ始め、財に狂ったようになってきて、まともな絵なんか描けへんようになった。何これみたいな落書きを、目の飛び出るような金額で売り飛ばして、夢のような堕落生活。
 そんな男に愛想が尽きて、可哀想やと思うてトンズラこいたら、半年経たずに落ちぶれて、高級ホテルの最上階の部屋ペントハウスでピストル自殺やった。
 そいつは死ぬとき俺の名を、叫んだらしい。死ぬとき部屋におった、お金で買える愛を売ってるやつが、そう話してた。お前は悪魔サタンと、俺を憎む目で。
 どこへ行ってもそうやねん。俺は悪魔サタン。神様になったのは、アキちゃんのとこが初めて。どっ派手な花火みたいな贅沢がなくても、手を繋いで歩けば幸せ。そんなの俺には初めてで、アキちゃんが好き。
 俺のせいで不幸になってほしくないんや。
「どしたん、亨ちゃん。切ない顔して。『冬ソナ』ハマってもうたんか。それとも、本間先生に置いてけぼり食わされて、寂しなってきたんか」
 からかう声で、虎に訊かれて、俺は我に返ってた。
 寂しい。そうやな。めちゃめちゃ寂しい。アキちゃんとずっと、一緒に居りたい。
「うん……寂しいわ、俺は」
 素直にそれを認めると、虎は俺を見て顔を崩し、ふっふっふと面白そうに笑った。
「ほんまに可愛いな、お前は。先生はついてる。お前みたいなのを侍らせて」
「そうやろか」
 ほんまにそう思うかって、俺は信太にすがりたいような気持ちがしてた。アキちゃんは俺といて、幸せそうに見えてるか。
「そら、そうやろ。抱いてやったら、好きや好きやて喘いでくれて、寂しい顔して帰りを待っててくれてたら、それで文句なしやろ」
 まるで文句があるみたいな言い様で、信太は苦笑していた。
「言わへんの、あいつ。信太のこと、好きやって」
「言わへんなあ。聞いたことない。何してやっても言わへん」
 燃え尽きた煙草を灰皿に押しつけて、信太は二本目に手を出していた。それにはどうも、独特の香木が含まれている。外道にとっては酔うような、甘い匂いがしてた。見たことないパッケージやったし、わざわざ注文して作らせてるようなモンかもしれへん。
 その香りを嗅いで、俺も何とはなしにうっとり来てた。いい匂い。
 寛太はこれも、平然と吸ってたけど、あいつはほんまに不感症なんとちゃうか。何も感じない体なんやないのか。
「俺には言うてたで、お前のこと好きやって」
 その朝、家の前で話したことを思い出し、俺は信太に教えてやった。
「ほんまか。それは」
 嘘やろっていう苦笑いで、信太は照れていた。俺の話を素直には信じられへんけど、嬉しいことは嬉しいらしい。
 二本目に火を入れようとするオイルライターを見て、俺は気がついた。それが、翼を畳み込みながら舞い降りたばかりのような、細く長い足をした鳥のレリーフで装飾されていることを。
 お前、それも作ったな。赤い鳥グッズを。えらいラブラブですやん。
 お前のほうから、言えばええやん。好きなんやったら、好きやって、言うてやればええやんか。お前のツレは、お前は誰でもええんやって思うてる。たまたま自分を抱いてくるけど、それには意味がないんやと思ってる。大勢いるうちの一人なんやって。
「寛太にお前のことな、可愛い奴やったって教えてやってん。抱きたいわ、俺もあんなんがええなあ、って。そしたらあいつ、そうか、って、平気でにこにこしてたで。普通、怒るんやないか、やってる最中の話なんやで」
 それは激痛の走る話やな、信太。お前のイケてなさに。なんで、わざわざ選んで、そんな話するんや。妬かせたいんか、あいつを。どうせそんなとこやろ。
 でも、そんなことのために、他のを口説くってのは、どういうもんやろ。見た目平気でにこにこしてても、傷ついてるかもしれへんで。そうでなくても、お前は傷ついてる。向こうが全然妬かへんことに、傷ついてるように見えるけどな。
「あいつは俺を、好きは好きやろ。でも誰でもええねん。今日は啓太とやれって言うたら、平気でやりよるし、それでも気持ちええらしいわ。誰がやっても同じ声で鳴いて、同じようにイクんやから、あいつは無節操やねん。俺が横で見てても全然気にせえへん」
 腹立たしそうに、信太は話してた。でもそれに、お前が怒れる立場かな。お前がやれっていうから、やってるだけなんやで、きっと。
 三人でやんのかって、客間に俺らを送ってきたとき、寛太は皮肉な笑みやった。水煙をよそへやらないアキちゃんを見て、そういうふうに思ったんやろ。こいつも同じか、って。
「そんなん、やらせたらあかんよ、信太。お前はそれが好きなんか?」
「いいや。見てると妬け死にそう」
 変態かお前。うつむいて煙草吸ってる信太の、マジでつらいという顔を見て、俺は呆れた。
「でも、あいつはまだまだ不安定で弱いし、精つけさせてやらなあかん。俺も夏場は絶好調やけど、冬には啓太のほうがイケてるしな。あいつは氷雪の精やねん。ちょい冷たいけどな、無茶苦茶せえへんから、安心やわ」
 てめえは無茶苦茶してるらしいのに、信太はそんなことを言うて、それでも心配やから、ついつい横で見ててまうんやと自嘲の顔をした。
「寛太は不死鳥で、実体のない、想像上のもんやからな、弱ると消えてもうて、それっきりやねん。俺は怖いんや、あいつが消えてしまうんやないかと思って」
 不死鳥って、名前だけ? ほんまは死ぬのか。知らんかった、殺さんといて良かったわ。色っぽいのとは別の意味で、虎と一戦交える羽目になってたかもしれへん。
「あいつはまだ、目覚めてへんみたいやわ。愛とは何か、全然分かってへん。それが分からんでは神にはなられへん。誰でもええねん、愛してくれれば……」
「お前じゃあかんの」
 わかってないふうな虎に、俺は一応訊いといた。
 お前らちょっと、すれ違ってないか。若干、韓流ドラマ入ってないか。甘く切なく、すれ違う愛、みたいなやつ。どうせやったら臭い台詞も入れとけばええのに。お前ももっと、蔦子さんと泣きながら『冬ソナ』見とけばよかったのに、信太。これ若干、愛のバイブルやで。
「俺か。俺やったらええけどな」
 照れた風に呟いて、信太はそれでも苦笑の顔やった。
「お前やろ」
 俺は念のため、アホでも分かるように言うてやった。信太はそれにも、とぼけていた。
 わざとか。わざとやってるんとちゃうか。分かるやろ普通。俺かな、みたいな、そんな手応えくらいは掴んでるんやろ。敢えてすれ違っているとしか思えない。
 まさかと思うけど、照れてんのか。恥ずかしいのか。あいつが自分のこと愛してるんやって結論するのが。愛してくれって、頼むのが。
「飯行こか、亨ちゃん。元町の南京町行って、フカヒレラーメン食わせたろ」
「ちょっと待て、話逸らすな。そこが逃げたらあかんとこやないか」
 さあ行こう、みたいな元気さで、すっくと立ち上がってた信太を、俺は思わず足に縋って引き留めていた。フカヒレラーメンより大事なことが世界にはあるやろ。
「やめてくれ……俺はもうけっこういいトシやねん。恥ずかしい、あんなお肌つるつるの奴に惚れるのは」
 いややいやや、絶対無理やみたいに、信太は首を振っていた。
「いや、もう手遅れやから。お前、客観的に見てベタ惚れくさいから。往生しろ」
 ポケットを掴む俺の手を、信太は焦ったみたいに振り払ってきた。それで俺は、がっくり床に崩れ落ちてた。ご無体な。
「いいや、そんなことない。俺はそんな純情な男ではない。今日かてお前とデートするし、隙あらば食うてまうつもりやから」
「やめとけ、そんなん。お互いツレのある身やないか。操を立てろ、虎」
 俺は説得したが、信太はいくぶん青い顔して、ぶんぶん首を振っていた。
「いいや、そんなことせえへん。車出すから、赤いオープンカーで行ってまうから。しかも二人乗りのスポーツタイプで、エンジンぶんぶん改造してあるやつやから」
「そんなんええねん、普通のセダンでええねん。無駄に悪い子ぶるな、素直になればええねん」
 素直に、なれたら、こんなの、十年もやってへんて、信太はほとんど身悶えつつ頭掻きむしってた。
 なんやねん、お前。不器用な不良みたいな。そういうノリか。顔だけにしとけ、そんなん。
 それでも信太はもう俺の素直のススメには取り合わず、言うてたとおりの真っ赤な車の助手席に、俺を座らせエンジンをかけた。ぶるん、て、ヤケクソみたいな音がした。
 それで真っ直ぐな道をぶっとばすと、最高に気持ちよかったけど、風がうるそうて話にならへん。
 逃げるな、戦えと、俺は説得を続けたが、信太はカーステをがんがんにかけ、俺は聞かんの構えやった。動揺を読まれたくないんか、真っ黒いサングラスまでかけてもうて、蕩けたバターみたいな目を隠してた。
 こいつはいつも、どんな顔してあの鳥を見てんのやろ。アホみたいに進歩なく、おんなじところをぐるぐる回って、溶けてバターになっちゃった、みたいな。そんな話か。
 ぼけっとしてる赤い鳥さんを、蕩けたような目をして見ているこいつが、何となく想像がついて、俺は悔やんだ。寛太が妬かへんのは、こいつが自分に惚れてることを、どこかで分かってるからやないか。それとも妬けるけど、素知らぬ顔をしてるのか。意地悪したろって、ほったらかしてやって、向こうが折れて泣きついてくんのを、気長に待ってるんとちゃうか。
 白亜の長安門をくぐった先のチャイナタウンの食堂で、仲良く二階の個室に引きこもってフカヒレラーメンとフカヒレまんを食らいつつ、俺がそう説得すると、虎はうつむき、わなわな来てた。
「あのなあ、亨ちゃん。せっかく来たんやし、デートに集中しよか。うまいやろ、フカヒレラーメン」
「うん、美味い。それでな、どうして信太はやるとき鳥を噛むんや」
 激ウマのスープで炊いたフカヒレが、たっぷり詰まった饅頭マントウかじりつつ、信太は泣きそうな顔してた。
「なんで訊くの、そんなん。知ってどないすんの」
「いやいや、俺も噛まれたら困るし、誰でも噛むのかなと思いまして」
 にこにこ訊ねる俺に、虎はくうっと小さく泣いて、廊下で番してるおばあちゃんに、中国語で怒鳴った。どうも追加注文をしたみたいやった。
 愛想のいい満面の営業スマイルを浮かべた華僑かきょうのお婆ちゃんが、ゴマ団子と桃饅頭を持って現れ、ほかほか湯気をあげるそれを、翡翠の腕輪をしたしわしわの手でテーブルに並べた。信太はそれを一人でがつがつ食らい、俺には一個もくれへんかった。せめて桃マン一個くれよ。俺それ好きやのに。
「誰でもなんか噛まへん。心配すんな」
 鉄観音をぐびくび飲んでから、信太は気合いを入れた声でやっと答えた。
「あれはな……あれは、なんでか噛んでまうんや。あいつな、誰とやっても一緒やけどな、俺が抱いた時だけ、気持ちいいって、ぽろぽろ泣くんや。それが可愛いねん、堪らんのです。それで気がつくと、がじがじ噛んでまうんや。癖やねん、たぶん……その、めちゃめちゃ燃えた時の」
 言うてもうた、もっとなんか食おかって、虎は悔やんで、またお婆ちゃんに何か叫んでた。やけ食いするほど困ることないやんか。別に普通に話せば。
「俺のことは、噛まんといて。アキちゃんに、殺されるから」
「心配すんな。滅多に噛まへん。千年に一人ぐらいや」
 最後の桃饅頭を食いつつ言って、信太はきゅうに、ぼんやりとした。
「どしたん」
 俺が微笑んで訊ねると、信太はため息をついた。
「なんや、急にムラムラ来たわ。帰って、寛太とやりたい」
 ほんまにそれが切なそうな言い方で、俺は笑けてきた。
「ほな、そうしたら。俺はアキちゃんとやるし」
「いや、それやと、連れ出した手前、格好がつかへん。キスぐらいしとこか」
 真面目な顔でそう言って、信太は茶を飲み、それからおもむろに、テーブルの斜に座る俺の顔を引き寄せて、唇を塞いだ。
 それは不思議なもんやった。微かにざらつくような猫科の感触がある舌で、信太は俺の舌を吸ってた。そのキスは巧みやったけど、俺は特に何も感じへんかった。相当遊んでんなあ、こいつって、思うだけ。
 じっと見つめ合って、しばらく舌を絡めて、それから信太は苦笑いした顔で、俺を離した。
「なんともないんか」
「なんともないな……」
 アキちゃんとする時みたいに、うっとりけえへんわ。
「自信なくすわ」
 くすくす笑って、信太はまた茶を飲んだ。そして、負け惜しみなんか、照れ隠しなんか、小声で吐いた。
「でも俺も、実はなんにも感じないんや。寛太がええわ。あいつとする時が、一番気持ちいい」
 そういうもんなんやなあと、俺は初めて気がついた。
 アキちゃんと出会ってから、他のやつとキスしたの、これが初めて。それまでは、誰とやっても同じやと、何となく擦れていた俺が、アキちゃんに抱かれて、熱くキスされると、それだけで初心うぶな子みたいに、ぶるぶる震えてる。
 アキちゃんを他と、比べようがない。たぶん、それくらい好きやねん。
「ごめんな、嫌やったか」
 信太は済まなそうにそう詫びてきたけど、俺は一種爽やかな気持ちでにこにこしてた。
「いや、ええわ。勉強になった」
「何の」
「深淵なる愛の世界の」
 俺がにやにや答えると、信太もにやにや苦笑していた。
「何や腹立つ。俺より、あの先生の、どこがええんや」
 悔しいらしかった。分かる気はする。それは男の性や。
「お前の舌はな、微妙に痛いねん。ちょっとけだものすぎへんか。本性出過ぎ」
 俺は自分の舌を見せてやり、それを指さして教えた。亨ちゃんは蛇やけど、別に舌先が二つに割れていたりはせえへんで。好きな子相手とそれ以外とで、声色違う二枚舌かもしれへんけどな、見た目は普通。せやからキスした感触かて、普通というか、普通以上や。
 言うとくけど俺は、長い時をかけて、自分の体を恋愛体質に特化してきてる。ほぼ全ての精力をその方面に傾けてる。人並み外れた磨きかけてるでえ。それにいろいろ器用やからな、アキちゃん悶絶するわけですよ。
 外道がどんな姿をしてるかは、そいつの性格でもあるんや。なにを重視してるかがな、表に出てくる。信太はあくまでタイガーで、それに誇りを持っていた。そういう気分が滲み出てる。
「ええやん別に、けだものすぎでも。この舌もこれはこれで、ええもんなんやで」
「なんで。皿からミルク舐める時に便利とかか」
「いやいや。乳首舐める時とか。他もいろいろ。慣れると泣けるさらしいで」
 ああ食った食ったみたいに煙草を一本取り出しながら、信太は真顔で言うてた。まったく誰から聞いた感想や。わかるけど想像させんといてくれ。俺までムラムラしてくるやんか。
「何なら亨ちゃんも体感しとく? いっとく? この場で少々体験版を」
 まだ火のついてない煙草を口の端に銜えたまんま、信太はマジなんか冗談か、よう分からん口調で言うて、アキちゃんが一番上まで留めてた俺の服のボタンを、上から順に外してきた。
「えっ、何すんの。やめといて。それはさすがに何かは感じるはずやから」
「何かって何やろ。俺アホやから分からへん」
 にやにや笑って、信太は遠慮無くボタンを全部外した。そして本気で鼻先を服の中に突っ込んでくるもんで、ぎゃあって避けて、俺は信太に迫られたまま、背のない椅子ごと、ごろんと後ろにコケてもうた。
 信太はそれでも全然気にもせず、でっかい猫がじゃれつくみたいに、俺の胸から喉首を、べろんと舐めた。
「やめてえ! めちゃめちゃくすぐったいというかキモい!」
「平気平気、そのうち快感になってくるから。寛太なんかいつも鳥肌立ってるで」
 虎は自信ありげに、やめる気配もあらへんかった。俺は焦った。
「それはあいつが鳥やからやろ! キモいけど我慢してんのとちゃうか。いっぺん、ちゃんと訊け、ほんまに気持ちええのかどうか」
「ええ? 気持ちよくないか?」
 こっちもちょっと焦ったような顔になり、信太は首を傾けて、俺の乳首をぺろっと舐めた。
 いやいや、ちょっと待てって。それは少々気持ちいいから。ほんま堪忍してください。我慢が効かない体やねんから。
「やめ! やめやめ中止中止やって。そういうことは、鳥とやれ!」
「ええ? なんで。マジで気持ちよくないか」
「ない。全然」
 俺は断言した。でも嘘やった。ほんまはいです。ちょっぴりやけど!
「嘘やん、顔赤いで……ってないか確かめてみよか」
 信太は遠慮無い手で俺の腹のボタンも外そうと手を出してきた。
「わー、やめやめ!」
 俺はやむをえず信太を蹴っ飛ばして逃げた。
 犯される!
 というか、犯してちょうだいみたいになるから。
 やばいから、それは。アキちゃんと約束したんやもん。信用してよって。
 すでにちょっぴり違反ラインを割ったような気がするが、走って戻ればバレへんやろって、俺は慌てて考えた。
 まったく信太。お前の鳥は浮気に寛大かもしれへんけどな、うちでは殺し合いになるんや。殺されんねんぞ俺は。
 しかもその時、信太の電話が鳴って、着歌が大音響の『六甲卸ろっこうおろし』やったんで、めちゃめちゃビビった。
 ひいって叫んで籐の丸椅子に抱きついた俺を笑い、はいはい何やろ信太ですう、って携帯を耳に当てた虎の顔が、話を聞きつつ、みるみる変容していった。真っ青に。
「う……嘘やろ。寛太は、どないなったんや、蔦子さんっ」
 俺の足にのしかかり、床に膝ついたまま電話に齧り付いて、信太はえてた。お前はなんという位置で動転してんのや。何があったんやって、俺はよく聞いてなくて、訳がわからんようになっていた。
「わかった。すぐ帰る」
 そう言って、電話を切るなり、信太はほんまにすぐに帰った。俺を床に放置したまま、ものすごい速さで店の階段を駆け下りていき、中国語で怒鳴るように何か言って、店のおばちゃんに金を払ってた。
 俺は必死で後を追ったわ。追いついてなかったら、絶対にチャイナタウンに置いてけぼりにされてたはずや。
 戻る道を運転する間にも、信太はほとんど口を利かへんかった。
 どしたんや、何があったんやって、何度も叫ぶ口調で俺が訊いて、やっと、事故ったらしいわと信太は言うてた。でもお前んとこの先生は無事やから、心配するなと真っ青な顔で言い、まるで自分とこの鳥はもう死んだみたいな目をしてた。
 それで俺もそれに呑まれてテンパってもうてな、顔面蒼白で海道家の玄関をくぐったんやけどな。ぴんぴんしとるやないか。赤い鳥さん。
 見たとこ、寛太にはかすり傷ひとつ無かった。首の噛み痕以外には。
「なあ、兄貴、俺もっと頑張るから、怒らんといてくれ……」
 何とか機嫌をとろうという、気弱な声をして、寛太はげんなりしている虎を盗み見ていた。
「何を頑張るんや」
「わからへんけど……」
 ふにゃふにゃ、みたいな気合いのない答えで、信太はますますげんなりしていた。
「わからへんのか。まったく、お前はどうやったらほんまもんのフェニックスに化けるんや。自分を生んでくれた街が、愛しくないんか! まあ、そうやろな。お前はアホで、愛がどんなもんか、耳クソほども分からへんのやもんな」
 お前ちょっと、言い過ぎやないですか。皆さんもお聞きになっている前でやな、そこまで罵ることないやん。俺やったら怒るで、そこまで言われたら。
 しかし鳥さんは怒らへんかった。代わりに自信なさそうな真顔で、とんでもない事を言うた。
「わからへん……だって、愛してもらったことないもん」
 ちょっと弱ったなみたいな困り顔で言う鳥さんに、信太はゆっくりと、ガーン、ていう顔をした。まったく、お気の毒なほどの悲壮顔。
 ほらな。全然伝わってないやん。すれ違ってんねんて。
 その事実に信太はやっと直面させられてたが、鳥は気づいてなかった。こいつには難しいことは、分からんのやろ。信太が自分をどう思ってきたか、ほんまに気がついてへんかったみたいや。その証拠に、寛太は引き続き、とんでもない話を続行した。
「確かに、俺が居るのを誰も知らへん。蔦子さんも、皆も、ほんまは信じてへんかったんやろ? それなら俺は、ただの鳥かもしれへん。それやと、もう、必要ない……?」
 少しは寂しそうに、それでもにこにこ言いつつ、寛太はすうっと半透明になった。それを見ていた蔦子さんに信太、竜太郎や海道家の面々が、うわあって血相変えて身を乗り出していた。
 アキちゃんはびっくりしたんか、慌てたように俺の手を握った。
「き、消えそうなってるで、あいつ」
「己の存在意義を見失ってきたんやろ……」
 俺はまた許されたアキちゃんの手の感触にうっとりしながら、それと指を絡めた。
 ああ、浮気せんで我慢してて良かった。
 え? してる?
 してへん、してへん。あんなん浮気したうちに入らへん。バレへんねんから。
 それより寛太や。そっちが一大事なんやからさ。
 ぼんやり透けて、向こう側が見えている寛太の体を捕まえようと、信太は恐る恐る腕を伸ばして、それが手には触れないことに、また真っ青なってた。
「やめろ、寛太。みんなお前が必要や」
「そうやろか……」
 首を傾げる蜃気楼のような寛太の姿に、そうやそうやって、海道家の皆さんは慌てた早口やった。えらいことなってきた。
 これで消えてもうたら、俺のせい?
 どうしよ。それは、寝覚めが悪い。それに信太が可哀想すぎ。
 虎は今にも死にそうという顔やった。
 なんでもっと何か言わへんの、お前。ここで何か、ガツンと一発、引き留めるようなことを、言わなあかんところやないかって焦れて、俺は口を挟んだ。
「信太、なんか言え!」
 えっ、なんかって、なんですかみたいな、完全にテンパってる顔をして、信太は俺を見た。
「ぼけっとすんな。俺にはお前が必要やって言え。鳥でも虫でも何でもええから好きやって言うてやれ」
 そんなこと、アキちゃんかて言うてたで、俺が死にかけてた時。アキちゃんかてやで。アキちゃんですら言えたんやで。それを何でお前みたいな、タラシくさい奴が言われへんねん。
「なんでもええの……兄貴?」
 ゆらゆらしながら、寛太は不思議そうに訊いた。
 何でもええって言えみたいな息詰まる空気で、皆じっと信太を見てた。
「なんでも、ええこと、ない……」
 暗い顔して、信太は呆然と言うた。
 アホか虎! なんでもええって言わなあかんやないか。
 そんな激しい衝撃が、居間を静かに駆け抜けた。そんな中腰の人々に見守られ、信太はぐったり猫背になって座ってた。
 そしてぽつりぽつりと話した。自信がないように。
「俺が見つけた時な、お前は鳥の姿やったで。夜明けとともに、山のほうから飛んできて、瓦礫の中に降りたって……そしたらな、お前の周りにヒマワリが急にいっぱい咲き乱れてきて、俺がお前は何者やと訊いたら、不死鳥だと答えた」
 床に頽れたまま話す信太は、黒光りする床板にうつる鳥の姿を見てた。ぼんやりと定かでないその幻影は、赤い羽毛をした大きな鳥で、錦と金色の飾り羽根を尾に生やしていた。
「なんでお前は憶えてないんやろ。俺の夢やったんやろか。そうかもしれへん……お前は俺の夢やねん。頼むから、一緒に俺の街を、蘇らせてくれ。それがお前の仕事やったら嫌か」
 必死の体で話す、信太の口説き文句は、愛の話ではなかった。それでも考えようによっては、愛の話やった。でもそんな、遠回しな語り口で、アホな鳥さんに理解してもらえるやろかと、俺は心配やった。
「嫌やないよ」
 それでも、ぼんやり揺らめきながら、信太の不死鳥は淡く笑って答えた。
 もしかしてこいつは、ほんまに信太が作った幻の鳥やないかという気がその時して、俺は静かに驚いてた。人の願いや夢が結実して生まれる神や精霊がいる。神から生まれる神もいてるんや。そんならこいつが、廃墟になった神戸の復活を願ってた信太の、その祈りに喚ばれて飛来した鳥でも、おかしくはないんとちがうか。
 そういうこともあるかもしれへん。
 もしもそうなら、寛太は信太のためにいる神の鳥やった。それが運命の相手でなきゃ、この世のどこを探しても、そんな相手はおらんやろ。
 まあステキ。みたいに、世界に浸ろうかなと思う俺を無視して、信太は青い顔のまま、いきなりキレてた。
「嫌やないんやったらな、ぼやっとすんな!」
 がおっと吼えられて、びくっとしたように激しく揺らめき、寛太はぶれてたカメラのピントが合うみたいに、突然また、かちっと実体のある姿に戻ってた。
 よかったよかった。よかったけど、最高にぶち壊し。あかん虎や、甲斐性がない。俺はそんなご感想を抱いた。
 せやけど信太は戻ってきた赤い鳥を見て、深いため息をつき、焦ったわ、もう辛抱たまらんというように、寛太の背中を引き寄せた。そしてきつく抱きしめながら、泣き言みたいに話した。
「お前、愛してもらったことないて、それはあんまり酷くないか。俺はどうなんの、俺の立場は。お前を愛してんのに……」
 そうや、その路線! いいよ虎、ええ感じになってきたよ。その線を俺は待っていた。
 俺はほとんど監督気分で、声にならない声援を送ってた。
「そうなん? 知らんかったわあ」
 赤毛の返事はあくまでぼやあっとしてた。ぐっ。でももうこれは、しゃあないんとちゃうか。そういう性格なんやろ。
 ものすご二人の世界に入ってる虎と鳥を、現実には二人でないそれ以外の外野の人々として、俺らはおろおろ居心地悪く見守るしかなかった。
「言うたことなかったっけ」
「聞いたことないなあ」
 恨んでる気配もなく、寛太は答え、そうやったっけという気まずそうな顔で、信太は抱きしめてた体をちょっとだけ離して、薄い笑みの覆う寛太の顔を睨んだ。見つめてるんやろけど、気合い入りすぎてて、睨んでるようにしか見えへんかった。
「愛してる。バリバリ愛してんで寛太。さっき南京町で亨ちゃんとキスしたけどな、屁でもなかったわ。お前とすんのに比べたらな、なんでもない……お前が一番、最高や」
 そう言って、信太はほとんど押し倒す勢いでがばっと赤毛を抱き、ぶちゅううっと熱烈なキスをした。
 それや! ハッピーエンディング!
 って。信太、てめえ……余計なこと言うてくれたな……。
「……今のほんまの話か、亨」
 横からすごく冷たい声がした。あれっ。空耳かな。誰の声やろ。
 アキちゃんの声に決まってた。
「えっ、なに? 話ってなに? 俺聞いてなかったわ。いやあ、よかったなあ、ハッピーエンドで……」
 必要以上にきつく、アキちゃんは俺の手を握ってた。
「あいつとキスしたんか……」
 ホラーとしか思えへん声やった。
「し……」
 してへん。と、嘘つこうと思ったのに、ギラギラしたようなアキちゃんの鬼っぽい目で睨まれている自分に気付いて、俺は首絞められたみたいに言葉に詰まってた。
 そうやった。俺はアキちゃんには、嘘つかれへん。アキちゃんのしきやから。
 大失敗。信太のアホのせいで。バレへんはずの事が、バレバレに……。
「し……ましたけど、でも、でもなアキちゃん、聞いて、不可抗力やねん、俺は虎に襲われたんや、事故やと思って水に流そう、虎に噛まれたんやと思って」
「噛まれたんか!!」
 血相変えて怒鳴るアキちゃんが、いけない想像をしたのは確実やった。噛まれてへん。舐められただけ。でも黙っとこうと思って、俺はふるふると首を振って答えた。
 その逃げ腰の姿を見て、アキちゃんが、はっとした顔になった。
「お前、なんでボタン全開なんや」
 泣ける話やった。
 そうや。急いで戻ったもんやから忘れてた。信太に迫られたときに外されて、そのまんまなんや。
 まさかアキちゃん憶えてたなんて。そら憶えてるか。自分でボタン留めたんやもんな。
「暑いかな、みたいな?」
 もじもじ目を逸らして、俺は膝の上で自分の指を触ってた。気まずい。
「留めとけ言うたやろ、今朝。なんで言いつけ守らへんねん。お前は俺の命令には逆らえへんはずやろ」
 そんなことがあってええのかという震えのある声で、アキちゃんは訊いてきた。
 ナイス着眼点。鋭い。こんな必要もないところでだけ勘が鋭いわ。
「あー、先生、心配ないですそれは。俺が開けたんや。乳首舐めたろ思って。でも気持ちよすぎるからやめろ言われてやめたし、それ以上はなんもしてません」
 信太やった。お前、俺になんか恨みでもあるんか。
 青い顔して信太を見ると、床にだらけて、ごろにゃんみたいな鳥を抱っこしていた。そして、ああ良かったみたいなハッピーエンド後の顔で、にこにこしていた。
 てめえ。せめて一発殴らせて。できたら首を絞めさせてもらってもええですか。
 俺は本気でそう思ってたけど、本気でそう思ってるんは俺だけやなかった。何の前触れもなく、突然キレたみたいに、アキちゃんが平手で俺の横っ面を張った。
 ひどい。父さんにも殴られたことないのに。なんて言うてる場合やない。その上、押し倒されて首を絞められたんや。
ぼん! やめなはれ!」
 ぎょっとしたらしい蔦子さんの声が、鋭く止めてはいたものの、アキちゃんは全然聞いてなかった。
 やばい。マジ切れしてるわ。目を見ればわかる。アキちゃんがここまでキレるとは、俺は初めて見た。
 俺は外道やねんから、息が詰まったくらいでは簡単には死なへん。せやから余裕といえば余裕やったけど、俺がもし人間やったら、アキちゃんは今度こそ殺人犯。そんな渾身の力がこもった指やった。
 俺はほんまに、びっくりしてた。アキちゃん、妬いてんのか。さすがに気も遠い気がして、俺はぼんやり目を閉じた。
 亨ちゃん、なんてあえないご最期。
 せやけどこれはこれで、実はまあまあ幸せかという気もして、俺はぼんやり迷ってた。アキちゃんの手を、はねのけるかどうか。
 首を絞めても死なんけど、アキちゃんほどのげきが、本気の本気で渾身の殺意をぶつけてきたら、俺はたぶん殺されるやろ。
 そしたら二、三の問題は解決する。アキちゃんにはしきが増えへんけど、それでええのか。俺と居ると、不幸になるかもしれへんけど、それでええのか。そんなふうな、俺さえいなければ立ち消える、いくつかの問題が。
 どうしようかなって、俺が迷ううちに、蔦子さんが這い寄ってきて、怒ったような呆れたような、冷や汗かいてる顔をして、アキちゃんの腕を白い指で掴んできた。
「やめなはれ、無様やで! 式神相手に血道をあげて。それで秋津の跡取りが勤まりますのんか。トヨちゃん聞いたら泣きますえ」
「許せへん、こいつが」
 案外、冷静なような声で、アキちゃんは蔦子さんに答えた。
 それでもアキちゃんの腕の力が抜けるのが、俺にはわかった。
 なんや結局おかんかと、俺は思った。おかんのためなら我慢できるんか。俺よりおかんか。お前は結局そういう男なんやな。
「なんで怒るんや、先生」
 ぽかんと聞いてきた寛太のほうを、アキちゃんはきっと睨んだ。まともなやつなら怯んだやろけど、寛太は引き続き、信太に抱かれてぐちゃぐちゃなった赤毛の頭で、ぽかんとしてた。
「先生かて、天使とキスしてたやんか。お互い様やろ?」
 なんやと。
 俺は、ばちっと目を開いてた。
 今、なんて言うた赤毛。
「天使って、勝呂なんやろ……アキちゃん」
 めちゃめちゃ掠れた声で、俺は話してた。めちゃめちゃ首絞められたんやから、生身やったら死体かもしれへんで。とにかく常の美声ではない、我ながら壮絶な声やった。
 アキちゃん真顔のまま、ものすごショック受けてる目をしてた。
 たぶん俺が、死体のような顔色やったんやろ。いっぺん死んでるわ、お前に殺されたんや。俺が不死系アンデッドやということが、お前にもこれで分かったやろ。やってもうたと青ざめたかて、普通やったら手遅れなんや。俺が普通でないツレで良かったな。
「とうとうやりおったな……勝呂瑞希と……」
 ゆらりと起きて、俺はアキちゃんを責めた。
「してへん……されそうになっただけで。そいつに訊けばわかる」
 虎に抱っこされてる鳥を指さして、アキちゃんは俺に言い訳をしてた。寛太はきょとんと俺を見た。そして、何か答えなあかんと思ったんやろ。奴はよく考えたようやった。それから爛々と金の目の光る俺を見て、寛太は教えた。
「してへん。あと二ミリぐらいのとこで、俺が止めといた」
 貴重な証言、ありがとうございます。
 したも同然ということが、俺の中で瞬時に裁決された。死刑。
「アキちゃん……お前もいっぺん死んでみる?」
 それとも、今度こそ、べろんごっくんしてやろか。
 勝呂瑞希てな。俺はあいつにだけは負けたくないんや。ぽっと出の犬に、この夏心底ビビらさせられた。死ぬ目に遭わされ、俺にはあいつはトラウマやねん。
 それと知ってて、俺を裏切ろうなどと。おのれアキちゃん。恨めしや。
「亨……魔闘気みたいなの出てるぞ」
 アキちゃんは目を見開く蒼白の顔で、ちょっとばかし後ずさっていた。俺はそれに、にやりと口の端で笑いかけた。
「そら出るやろ、それくらい出る。俺の怨念レベルはいま最大や。やるならやるで、相打ち狙いでお前と心中したる」
 俺も若干キレていたかな。
 ん? 若干ではない?
 まあまあ、そういうふうに見えるかもしれへんけどな、外道VS外道の痴話ゲンカやないか。核爆発とかせんだけマシやで。
 とにかくな、これがアキちゃんと俺の、痴情がもつれた死闘の、記念すべき一回目やった。言うても長い一生や。そしてお互い浮気性と来てるもんやから、デスマッチの一度や二度や、三度や四度はあるわ。ほんまはもっとあるけども、もう数えてない。
 俺はよっぽど本気に見えたらしく、アキちゃんは、得物はないかと水煙を探す目やった。
 素手で来い素手で。俺を殺す気か。サシの勝負にまで浮気相手を利用しようとするんやない。
 それがあまりにムカついて、気付くと俺は白い大蛇おろちに変転してた。まるごとひと呑み。それで俺の勝ち。そういう作戦やったけど、アキちゃんは、食われてたまるかという睨む目やった。
 そうか。あくまで俺が悪いと言うんやな。許せへん。なんもしてへん言うてるやんか。
 信太が俺を襲ったんやで。健気にも俺はそれに必死で抵抗し、貞操を守ったんやないか。
 それをやなんやねんお前は、俺を留守番させといて、その隙に勝呂瑞希とチューしようとは。
 しかもそれを、赤毛が言わんかったら秘密にしておくつもりやったな。絶対そうやろ。ギクッとしてたもん。その根性が許せへん。たとえ俺がそういう根性でも、お前は俺に一途でいろ。そんなん基本やないか。当然や。
 許しまへんえ、このマザコン野郎。おかんより誰より俺が好きと言え。この皆さんの前で言うてみろ。それが嫌やて言うんやったら、今すぐ号泣して暴れまくって、ご近所の武庫川を増水させて水浸しにしてやるで。
 こんなとこでいきなり豆知識やけどな、蛇は古来、川の流れの象徴で、水の神でもあるんや。せやから水流に影響を与える力があるわけ。アキちゃんはどうも、子供のころから無意識に、水モノと縁の深い子らしい。実家の近所の桂川を暴れさせかけたとか、そんな話をおかんがしてた。
 まあ、今ここで言うのも何やけど、俺も毎晩アキちゃんには、さんざん暴れさせられてるしな。うふっ。川やのうて、ベッドの中でやで。もう大洪水。
 おっと、そんなん言うてる場合やない。殺す、本間暁彦。とことん俺を虚仮こけにしてからに、もっと愛してまつれ。俺はお前んちの守り神なんやぞ。おとん大明神の教えを忘れたか。この未熟者。
 日頃は温厚な神様でも、きちんと祀って敬意を払っていないと、荒ぶる神となって祟ることがある。まして俺のような、日頃から温厚でない神様が、祟らないわけがないやろ。俺は悪魔サタンと紙一重なんやぞ。俺のげきであるお前がしっかりしとかんかったら、俺は祟る神になってまうんや。それがお前の国の世界観やろ。
 つまりな、皆さんお住まいの秋津島には元来、神の善玉悪玉をキッパリと区別する考え方がない。人間と一緒で、一柱の神の性格にも、良い面と悪い面があるんやろ的な見方をしてる。せやから荒れてる神さんも、お祀りしてご機嫌うるわしゅうなっていただいて、できたら人間様の生活の助けもちょこっとしてくれたらええなあって、そういう、緩うい世界で暮らしてる。
 神でも鬼でもいっしょくた。強大な力を持った超常の存在が神で、そこそこのやつは妖怪とかな、ぱっと見怖かったら鬼か怨霊か、それでも改心して、ええモンになってまえば、やっぱり神さんや、みたいな。ええかげんやねん、いい意味でアバウト。
 決めつけたらあかんねん。人間かてそうやろ。お前は悪いやつやって決めつけられたら、ほんまに不良になってまうねん。周囲の愛と理解が重要やねんて。神が荒れるも恵むも、それは人間しだいやねん。
 俺をもっともっと愛してよ、アキちゃん。ほんまにもう、俺がムカつくことせんといてくれ。俺はお前が好きなんやから。俺を悪魔サタンにせんといて。ずっとイイ子で居りたいねん、お前の傍で、永遠に幸せで、ご機嫌うるわしゅうしていたい。
「アキちゃん……お前が先に俺に謝れ」
 蛇体のまま、俺は命令した。アキちゃんはそんな俺を、怯まず睨んで答えてきた。
「嫌や。なんで俺が先や。お前が先に謝れ」
 絶対嫌や。なんで俺が先やねん。
 やるしかないようやな。神とげきとの、痴情がもつれたデスマッチを。
「やめなはれ、ほんまにもう、二人とも! アホやと思わへんのか」
 渋々やけど、巫女の血筋を引く海道蔦子さんが、鎮まり給えと俺を拝んでくれた。でも悪いけど、蔦子さん、それはアキちゃんの仕事やねん。アホは俺やのうて、俺のツレのほうやねん。あいつに俺を拝ませろ。
 惚れた弱みで下手したてに出てりゃ、付け上がりやがって。この際、俺の恐ろしさを思い知らせて、向こう百年の布石としてやるんや。尻に敷いてやる。
 そう決心して、俺はアキちゃんを、尻に敷きはせえへんかったけど、ぐるぐる巻きにしてやった。そして、食べちゃうぞみたいに凄んで見せたんやけど、アキちゃんは参ったような顔やなかった。それどころか、ちょっと眩しいわみたいな顔された。
 しまった、そうやった。うちのツレはちょっと変態で、蛇体の俺が好きなんやった。美しいなて思うらしい。しかも何やら妙なエロスを感じるらしい。
 いやあん、みたいな。普段はそれでええねんけどな、アキちゃん、今は喧嘩してんねんから。何やってんのか分からんようになる。せやからそんな目で見んといて。俺もうっとり来てまうやんか。
 それで何や恥ずかしくなってきて、さんざん海道家の居間をのたうち回った挙げ句、俺は気がついた。奥の離れに続く廊下から、何事かという顔で現れた金髪碧眼の黒衣の男が、そのお綺麗な女顔で、ぎょっとして俺を睨み、一瞬、アキちゃんと同じ、魅入られたような目をしたのを。
 そいつは神父と思われた。写真で見たのと、同じ顔してる。
 それにそいつは、はっと我に返る顔で胸から下げた銀の十字架を握り、俺に向かって叫ぶ声になった。
「いと高き神の御名において命ずる、悪魔サタンよ去れ!」
 嫌と言うほど聞き覚えのあるそのフレーズに、俺は条件反射で、ひいいいってなってもうて、一瞬にして人型に戻り、それまで蛇体に抱いていたアキちゃんに、今度は逆に抱きついた。
「助けて、助けてアキちゃん、悪魔祓いエクソシストや!」
 ムカついて、いろいろみなぎったせいか、俺はすっかり元気になっていた。声かて、すっかり元の通りの、可愛いような美声やで。しかもちょっぴり甘え声。
 海道家の皆さんは、散々暴れた俺を避けて、蔦子さんも含めた全員が居間の壁に張り付いていた。その迷惑顔のど真ん中で抱き合って、俺はアキちゃんの首に縋り付いてた。
「怖いよう。俺、何にもしてへんのに、こいつら俺が悪魔サタンやって言うねん。お願い、アキちゃん、俺のこと守って」
 泣きつく俺を見て、アキちゃんはほんまに呆然というか、開いた口がふさがらんという顔やった。
 部屋にあったでっかいテレビも調度品もボロボロで、ガラスの茶器は砕け散り、見る影もなく荒れた居間のそこかしこから、なんか冷たい視線が俺を刺してた。
 あれれ。なんでやろ。俺って今、実は悪モン?
 そんなことない、イイ子やろ? めっちゃイイ子やで?
 アキちゃん、愛してる。お願い、助けて。俺のこと、愛してるやろ?
 俺が必死にそう囁くと、首に俺を抱きつかせたまま、アキちゃんは泣くみたいに、ふふふと笑った。
「残念やけど、愛してるみたい」
 自分の心とじっくり相談から、アキちゃんは嫌々みたいに答えてきた。それでも一応、俺を抱いててくれた。せやし、まあええかと、俺は思った。アキちゃん大好き。気持ちええわあ、もっと強く抱いて。
 そして、恐る恐る神父を見つめた。
 神父は青い顔で、俺を見ていた。
 それが神楽遥かぐら ようと俺との、初対面。
 まずは、最悪の第一印象と言えた。


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