SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

神戸編(7)

 寛太とかいう、赤毛の式神の運転は、かなり大人しかった。ゆっくり加速して、静かなブレーキを踏む。決して黄色信号に突入したりしない。極めて安全運転で、名ドライバーと言えた。
 運転には、ハンドル握ってるやつの性格が出るもんらしい。
 そやから俺は赤毛を見直した。
 えらい派手な格好して、髪も真っ赤っかやし、初対面が虎虎タイガースの応援ルックやったもんやから、どんなむかつく奴かと思うてたんやけど、落ち着いて顔見たら大人しそうなつらしてた。
 時々バックミラー越しに目が合った。合ったような気がしただけかもしれへん。
 ほんまやったら見えへんはずの、長い睫毛が重そうな目が、興味ありげに瞬いて、ミラーの中の俺を見上げているのが、なんでか見えるような気がしてた。
 しんと静まりかえったような黒い目で、長い睫毛がけむるような、神秘的な目元をしてた。何考えてんのか、さっぱり分からん。もしかしたら、何も考えてへんのやないかって、そんな印象がする目や。
 虎にキスされて泣いた、その時にだけ、得体の知れん表情があった。
 見てないつもりで、俺はそれを見てた。
 野生の鹿かなんかが、猛獣に食われる時に涙を流す映像を、子供のころに見たことがある。こいつが泣くのを見て、それを思い出してた。
 感情のないような無表情やのに、喉笛噛まれて鹿は泣く。食われてまうわって悲しいのかもしれへんけど、それはどうにも恍惚とした目に見える。見開かれて何も見てへん。それでも愉悦のような表情が浮かんでる。
 見たらあかんもんを見た。俺はその時、その結論に達した。これは危険なコース。急いで撤収せなあかん。
 こぼれた涙を虎に吸わせてる、それを平気で許す姿を見て、俺は淫蕩やと腹が立ってた。なんでか嫉妬が湧いて。
 昨日の夜、客間に案内してきたときの去り際、赤毛はじっと俺を見た。なんや値踏みされてるようやった。虎とこいつは、どっちがええやろって、そんな感じの比べる視線で。
 それでもこいつは、未練もなく去った。まあええわって、そんな無感動さで。
 その前の一瞬、ほんの一瞬やけど、明らかな欲情めいた表情が、黒い冷たい目の奥に湧いてた。抱いてみるかって、そんな誘うような目をして、こいつは俺を見たけど、気が変わったらしい。
 虎の方がええわって、お前は思ったんやろ。
 喘ぐような声が、かすかに夜の静寂しじまに聞こえてた。自分たちの絡み合う息の音に紛れて、それはちょっと、くうくう鳩の鳴くような、切なそうな声やった。
 ぼけっとしたこいつが、そんな声で鳴くなんて、それを思うとなんでか俺はつらい。一瞬で値踏みされ、一瞬で振られたような気がしてん。そのオチが、今朝のタイガーとのお熱いキスシーンで、しかにも首には山ほどキスマークつけてる。
 見せつけられてる。そんな気がした。
 キスされながら、赤毛はじっと俺を見ていた。なんで見てたんか分からんのやけど、たぶん、ざまあみろという意味やないかな。
 去り際、欲情した目で見られ、俺がぞくっとしたのを、こいつはちゃんと気がついてたんやろ。それで俺に、復讐をすることにした。たぶん、連続ホームランの。
 やっぱやめるわって素っ気なく立ち去って、虎とやってる声を俺に聞かせた。正直、胸苦しかったわ。なんで俺はこんなに耳が良くなってもうたんやろかって、それを恨んだ。
 その声を聞くと、火をつけられたようにめちゃめちゃ燃えた。俺のほうがすごい。そんな対抗意識で。
 アホです。どうせ俺は。海道家の餓鬼んちょに指摘されるまでもなく、俺はヘタレで、ものすごいアホ。それに面食い野郎で浮気者。亨に殺されてもしゃあない。
 見れば赤毛の男は仏教美術のような顔をしていた。ガンダーラ仏みたいな、アジア系の顔立ちやのに、彫りも深くて、常にうっすらとアルカイックに微笑んだような、有り難い感じのお顔立ち。
 まあ、何というかやな、言うたらあかんとは思うが。美しい。
 古い映画やけどな、『敦煌とんこう』ていう、昔の中国が舞台の作品があって、そこに絵を書くことに魅入られた男が出てくる。戦争の後遺症で足も悪くして、精神的にもちょっとおかしい。そいつが、もう戦火が迫ってきてて、逃げんと死ぬってなってんのに、自分が描いてる仏画に必死で、仲間が逃げようと激しく訴えかけても、絵筆を握って離さへん。
 なんか、そういう執念を掻き立てる美が、仏教美術にはあるらしい。
 わかるような気がするわ、って、今回ちょっと学んだな。学んだら、あかんかったかな。また、学んだらあかんことを学んでしもた。
 どうしよ。俺が暇になった暁に、仏教美術みたいな絵ばっかり描いてたら、それで亨にバレてまうやろか。バレバレやろな。そして、ぎったんぎったんになるんや、俺は。
 そんなん、とっとと吐いて、とっとと土下座しといたほうがええやろか。そのほうがいっそ、潔いかもしれへんで。それでも俺はお前が好きや、許してくれって言うしかあらへん。
 調子いいこと言いやがってって、怒られるかもしれへんけど、でもそれが本音なんやもん。嘘やないねん。
 これはもう、ヤバいから。俺をちらちら見るな、赤い鳥。
 黒い床に写ってた、お前の華奢な鳥の足が、なんでか忘れられへん。その赤い羽根をバリバリ毟って、虎が食うてる妄想が、ついつい深い脳裏に浮かぶ。
 忘れたい。俺は。もしも俺もまだ小学生か、中一の餓鬼やったら、たぶん、おかんに強請ってたやろ。俺も赤い鳥欲しい。せやけどあかん、これはよそんのもんやし、俺には亨がおるんやから。我慢。我慢や。
 そんなことを、つらつら思いつつ、俺は外見上は呆然として見えたやろ。なんかそんな気分やった。
 俺ってほんまに、どうしようもない奴なんやないか。男でもええんや、ほんまに。関係ないんや、男でも、鳥でも。顔さえ好きなら、むらむらするんや。
 もう、絶対油断したらあかん。ちょっとでも顔好きやと思う奴からは、全力で逃げなあかん。亨と永遠に一緒にいたいんやったら。
 いっそ目が見えんようになればええんやないかって思ったけど、それはどうせ本気やなかった。失明したら絵が描かれへんやんか。それに肝心の亨の顔かて、見られへんようになる。そんな一生、悲しすぎるやろ。
 悲しい。せやけど、度々あいつを泣かせて生きていくよりマシなんやないか。自分の目が見えへん悲しさの方が。
 と、そんな、悲惨すぎる結論になったところで、俺はパタパタ飛んできた白い封筒が自分の膝に落ちるのに気づいて、それを捕まえた。
 宛名は、アキ兄へ、となっていた。
 後部座席の隣を見ると、にこにこ笑った海道竜太郎が、ハサミと紙を持って座ってた。
 なんでお前は、蔦子さんやのうて、俺と隣で座りたいんや。そんなの変やろ。俺が助手席行くからって、出発する時にひと揉めあった。
 せやけど、様々な事情が絡み合い、こういう席配置になったんや。
 まず第一に、蔦子さんは助手席が好き。自分では運転せえへんけど、フロントの窓からの景色を見るのが好きなんやって。
 そして俺は、助手席で赤毛の隣に座るのが気まずい。ミラー越しに見られてる気がするだけでビビってんのに、隣の席からちらちら見てくる横顔と目が合ってもうたら、それは非常に困る。
 さらに最終的に、竜太郎は俺に、車内で道々、手紙の飛ばし方を教えてやろうと言うた。例の、霊能力便みたいなやつ。うちの親たちが俺に、頻繁に送ってくる、じたばた羽ばたく手紙や。
 その封筒の中には、喋る紙人形が入っている。そいつが送った本人と同じ声で、伝言を伝えてくる。そういう術やねん。
 膝に飛んできた封筒を開くと、それにも中には紙人形が入っていた。ぺろんと現れ、いくぶん頭でっかちの、子供っぽい紙工作みたいなのが、ぴょんと飛んできて俺の肩に乗り、耳打ちし始めた。
 封筒に入れる前、竜太郎は紙人形に、ひそひそ囁くようにして、伝言を伝えていたから、この術で送られてくる人形は、囁けば囁くし、叫べば叫ぶのかもしれへん。
 録音するとき気つけなあかん。うちの親から来たやつには、時には二枚の紙人形が入ってて、それがいちゃつきながら、おとんとおかんの声で話した。とんだ恥さらしやないか。
 囁く紙人形が、俺に用件を伝えてきた。
 聞こえますか、アキ兄と、笑ったような声で人形が話し、見ると隣の席の竜太郎はまた、紙人形を切っていた。
 この手紙は、別に難しいもんやない。人形作って、相手に伝言を伝えてくれって、頼めばいいだけ。そしたら、人形がこっちの話を、ふんふんて聞いて憶えて、封筒に入れて宛名を書いてやると、勝手に飛んでいく。
 宛名の相手がおるところでしか、人形は口きかへんし、本人以外に秘密の話やったら、こんなふうに内緒話で教えればええねん。
 耳元で、そう囁く声は、吐きかかる息づかいまで克明に再現してた。それでもただの紙やから、呼吸してるわけやない。そういう音がしてるだけ。
 用件を伝え終わったんか、紙人形は、ふわりと力を失って落ちてきた。おかんが送ってきた人形は、話した後もしばらく暇そうに家ん中をうろうろしてたりしてたもんやったけど、この違いは何やろか。術者の持ってる力の差かと、俺はなんとなく推察した。
 竜太郎はまた新しい紙人形に、ひそひそ何かを話してた。それが今度は封筒に入るのも面倒やと思うたんか、ひょいひょい歩いて、俺のとこまでやってきた。
 それが腕をよじ登ってきて、耳打ちし始めるのに、俺は耳を傾けた。
 今度は何の話やろ。まだ続きがあったんやろかって、真面目な顔して聞いていると、人形は竜太郎の声で、ちょっと恥ずかしそうに囁いた。
 あのな、アキ兄、僕もアキ兄と、キスしてみたい。頼めば信太も啓太も、してくれるけど、ちゅっ、て軽くするだけやねん。そういうのやのうて、昨日の夜にしてたみたいなのがいい。誰にも絶対話さへんから、今夜、僕の部屋に来て。って、人形は一気に話した。
 俺はそれを聞きつつ、眉間に皺やった。正直、激しくショック受けてた。
 昨日の夜って。何の話や。
 確かに俺は亨を抱くとき、結界を張らへんかった。むかついててん。聞くなら聞け、見たけりゃ見ろって、そういうやけっぱちやったんや。
 まさか人間の子供がいるなんて、俺は気がついてへんかった。言い訳するわけやないけど、竜太郎は人間やないみたいに見えた。
 最初に見た時も、式神に混じって、そのうちの一人みたいなつらして座ってたし、人間としての気配が薄い。
 これは、後から分かったことやったけど、竜太郎のおとんの血筋は、大昔に神と交わって始まったもんらしい。竜と巫女とが結ばれて、子供ができて、それが一族の祖や。せやから代々の跡取り息子には竜にまつわる名前をつけてる。ちなみに竜太郎のおとんも、海道龍悟かいどう りゅうごという名前やった。
 血が混ざってんねん。人外のと。それで人ではないような気配がするときがある。幾世代を経ても消えない神威が、その血の中にあるらしい。そういう男やったら、うちのおとんの後釜になれんこともないと、蔦子さんは思ったらしい。半神半人や。実際には半分も神の血は残ってないのやろけど、それでも並みの人間とは違う。
 そんな体質もあって、竜太郎は自分は学校で会う人間の餓鬼より、家におる式神のほうに近いんやと思うてるらしい。それであの群れに混じってたんや。
 紛らわしいことせんといてくれへんか。お前が自分の又従兄弟またいとこやって、昨夜のうちに教えてもらえてたら、せめて結界ぐらい張った。俺かてそこまで変態やないわ。
 見たんか。お前は。どっからどこまで見てたんや。何もかも全部見てもうたんか。
 それを考えた瞬間、ものすごい目眩に襲われて、俺は頭を抱えた。
「返事は? 練習やし、アキ兄も返事出してみて」
 はにかむような小声で、竜太郎は紙とハサミを差し出してきたけど、俺にはそれを受け取る気力はなかった。
 返事するも何も。俺には言葉もないわ。
 誘えばしてくれるやろって、こいつは思ってるんやろか。ありえへんやろ、そんなの。そんなん、したらあかんのやで、お前は遠いとはいえ親類なんやし、それにまだまだ子供なんやし、しかも男やないか。誰もお前に、そんな普通のモラルを、教えてくれてへんのか。
「竜太郎、手紙はもうええわ。あのな、お前はもっとちゃんと学校通え。そこでしか学ばれへんことはあるんや。ちゃんと友達作れ。俺みたいになるな」
 俺は思わず、叱りつけるような口調やったやろか。竜太郎はビビった顔してた。
 人様の子に、いきなり言いすぎたかと、俺は助手席の蔦子さんを見たが、なんと蔦子さんは寝てた。なに寝とんねん、大事なところやないか、おかんやねんから、ちゃんと面倒見たらなあかんやないか、蔦子さん。
 それでもそれは、非常識なうちの一族のモンには、無理な相談やったかもしれへん。蔦子さんも多分、一般常識では推し量れないような人物なんや。おかんの従姉で親友で、その上、うちのおとんの婚約者やったっていうんやから。
 俺も大概、非まとも系やけども、秋津の血筋を汲む人間の中では、かなり常識ある部類やと思う。そうや、気が付いてみれば俺はまともや。その路線へ行けないだけで、何が普通かは知っている。
 俺が教えへんかったら、竜太郎は実はものすご非常識のままなんやないか。それで学校でも友達でけへんのや。せやから夏休み終わっても学校行きたくないんや。もしかしたら、虐められてんのやないか。俺が何とかしたらなあかん、親戚の兄ちゃんなんやし、こいつは弟みたいなもん、てな。
 悪い癖やったな。悪い癖の発動や。俺もつくづく学習せえへん男。
「でも僕は、アキ兄みたいになりたいねん。友達なんか要らへん。アキ兄が好き。ほんまに好きやねん。お願いやから、僕のことも、好きやって言うて……昨日の夜、式神に言うてやってたみたいに」
 もはや笑ってない、必死の顔の囁き声で、竜太郎は俺に頼んだ。
 その切羽詰まったような口調に聞き覚えがあって、俺はまたショックを受けた。まるでお前は勝呂瑞希やで。勝呂にそっくり。可愛いような童顔も、ほんまに児童なんやから当然やろけど、なんとなく勝呂を思い出させた。
 俺はあいつに、済まないことをした。つれない甲斐性無しやった。もう憎んでない。お前が悪いとは、俺はもう思ってない。全部俺が悪かったんや。俺はもうお前のことを、嫌いではない。たぶん今でも好きやと思う。亨を好きなのとは、ぜんぜん違うふうやけど、弟みたいやったお前が、俺は可愛かった。なのに俺は、お前を酷い目にあわせた。どうしようもない男やで。
 拙く口説く竜太郎を見て、勝呂が蘇ったんかと、一瞬思った。俺も実はけっこう、悩んでたんやろ。
 どうしたらええんやって、実際悩んでた。なんて答えればええのか分からへん。それは無理やって言えば済む簡単な話が、別件の余波でねじれてた。
 黙り込む俺に耐えかねた空気で、竜太郎がまた口を開いた。
「寂しいねん、アキ兄。僕、ひとりで寂しいんや。手紙で頼んだこと、嫌なんやったら、別にいいねん。代わりに僕の、お兄ちゃんになって。僕とも時々遊んで。一緒にゲームしたり、どっか行ったりするだけでええねん」
 何かを伝えてあったんか、手から逃げ出した紙人形が、俺のほうに来ようとするのを、竜太郎はわしっと掴んで、嫌や言わせてくれって暴れてるそれを、話しながらびりびり破いた。命はないはずの紙人形から、断末魔の悲鳴が聞こえるかのようやった。
「ほんまにそれだけでええか。約束できるか」
 どっちがビビらされてんのか、全くもって疑問を覚える声で、俺は念押ししてた。竜太郎はそれに、何度も頷いていた。
「約束する。僕にはアキ兄が、初めてやねん。自分より力のある相手って。そんなの初めて。好きでたまらへん。僕のこと、嫌いにならんといて」
 竜太郎が泣きそうに見えて、俺は激しく焦っていた。
「ならへん、絶対ならへんから。お前が好きやし、思い詰めるな。ゲームでも何でもするし、水族館で絵描くし、何でもするから、頼むし下手に思い詰めんといてくれ。お前はまだ若いんやし、世の中広いんや。俺よりもっとお前にふさわしいのが見つかる。絶対大丈夫やからな、心配せんでええねん、竜太郎」
 必死すぎたからやろか。俺は自分の話にもショック受けてた。なんでこの話、勝呂に迫られた時に思いつかへんかったんやろ。そう言えばよかったんやないか、あの時。それで納得してくれたかどうか、わからへんけど、それでも、俺があいつに実際に言うたことより数段気が利いてる。
 でも遅い。今さらすぎる。思いついてももう無駄や。勝呂は死んでもうた。携帯の電話番号も、メールアドレスも、もう死んでるのかもしれへん。羽ばたく手紙を出してみたところで、それを受け取れる奴はいない。もう言うてやられへん。
「そうやろか……アキ兄。そんなもんなんか。でもアキ兄は、僕がまだ中一やから嫌なんやろ。けど、僕かて十年したら、もう大人やで。二十三やもん。その時、アキ兄は、何歳なん?」
「三十一」
 答える必要なかったな。あえなく話が蒸し返された。
「それならええやろ。ちょっと年の差あるけど、そんなん関係ないやろ。せやから、これについては、その時また協議のうえ再契約ということで、今後十年についてはお兄ちゃんてことでどうやろ」
 竜太郎は真剣らしかった。
「えぇ……?」
 俺はうめいてただけやった。
 問題先送りされただけやんか。しかも十年と期限を切られた時限式。俺はその、十年間のストレスに耐えられるのか。
 せやけど、俺には打算があった。竜太郎が俺に執着するのは、まだまだ餓鬼やからやろ。きっとそのうち、もっと別のもっとええのが現れて、そっちにしよかって思い直してくれるかもしれへん。
 なんせ十年もある。十年は長い。放っておけば立ち消えて、なんもせんでも円満解決に持って行ける可能性もある。
 それで行こう、それで。それが無難やって、俺は全力で目の前の現実から逃走していた。
 赤信号で静かに車が止まり、赤毛が振り向いた。
「先生、ちゃんと断らないと。俺、頼まれてるんや。先生がよろめきそうになったら、邪魔するように」
 誰に頼まれたんやお前は。誰なのか分かりすぎる。よもやこいつが亨のスパイとは、想像だにしてへんかったわ。ついさっき、お前に萌え萌えしてた俺が気の毒すぎる。
 なんでチラチラ見るんやろって意識しすぎた。お前は俺を見張ってたんやな。そういうことやったんや。別に気がある訳やなかった。どこまで俺を虚仮こけにしてんねん。ひどい。ひどいような気がする。羽根をむしって焼き鳥にして食うてやりたい。
「わかった、ちゃんと断る。変なことチクらんといてくれ」
 俺が内心必死で言うと、赤毛はにこにこ頷いて、はよ断れって待つ顔やった。
「竜太郎、悪いけど、十年後でも二十年後でも無理やねん。俺はお前が子供やから断ってるんやない。俺にはもう永遠に、決まった相手がおるし、浮気はせえへん。せやからな、永遠にお兄ちゃんでええか」
 俺の懇願に、竜太郎は悲しい顔をした。
 悲しい顔せんといてくれ。可哀想になるから。
 ごめんな、ほんまにごめん。堪忍してくれ。ごめん、ごめん、ごめんやで、頼むから堪えて、キレんといてくれ。俺はもう、二度とごめんや。勝呂が死んだような、ああいうコースに入るのは。
 祈る気持ちで待ってると、竜太郎はうつむきがちに答えた。
「うん……お兄ちゃんでええわ」
 泣くんやないか、子供やしと、俺は心配した。せやけど竜太郎は泣きはしなかった。
 膝の上に残る白い紙で、黙々と折り鶴を折った。そして、それをふわりと車中の空間に漂わせた。
 白い鶴はひらひら羽ばたいて、俺の座るシートの脇に、ぽとんと落ち、俺の手の中に入った。
「それ、あげる……」
 切なそうに、竜太郎は目を合わせず教えてきた。
 それも要らんて断るのは、ちょっとどうかと。
「ありがとう。もらっとくわ」
 作り笑顔で、俺はその折り鶴を受け取った。竜太郎は、こくりと頷いたけど、やっぱり目は合わせへんかった。
 また走り出していた車の運転席で、赤毛がくすりと忍び笑いする声がした。
 何が可笑しいねん。
 どうにも気まずく俺は黙って窓の外を眺めた。あるいは、サイドミラーに映る赤い鳥を。鏡に映る顔は、見たまんまと同じ、人間のような顔やった。美しい、素知らぬような、それでいて、じっと見つめてくる、夜の水盆のような目。
 亨に頼まれて俺の監視をするということは、こいつは全く俺に気がない。それでいいです。なのにどうして、俺は切ないんやろ。
 たぶん、きっと、自意識過剰の変態やからやろ。そうとしか思いようがない。めちゃめちゃ恥ずかしい。
「もうすぐ六甲です」
 交差点で右折待ちをするウィンカーを出し、赤毛は教えてきた。そして、助手席の蔦子さんに、穏やかな声で言った。
「蔦子姐さん、寝た振りすんのはやめて、起きてください。もうすぐ着くし」
 そんな気まずい鳥やった。
 蔦子さんは、気絶から醒めたみたいに、はっとシートから飛び起きた。
「なんや……なんやろ、急に気が遠くなってきて、気がついたら寝てましたわ」
 青い顔してそういう蔦子さんには、現実逃避のへきがある。
 その姿を見て、俺は蔦子さんに自分と血縁があることを、しみじみと実感した。俺も鍛えたら、ほんまに気絶するようになるんや。鍛えるべきかどうか、悩むところや。気絶してる間に、何かとんでもない事態になっている可能性もあるし、怖くても意識を保ってたほうがええんやないか、蔦子さん。頑張らないと、お互いに。気絶したいような事は多々あるけども。頑張って乗り越えていかんと。
「ああ、もう、嫌やわ……ウチの悪い癖。時々あるんえ。ぼんのお父さんが戦死しはった時も、ウチ、ショックでなあ。三年も寝てたんや」
 三年寝太郎。よく生きてられたな、蔦子さん。今のおとん見たら、またショックで三年寝るで。見せたろか、亨が作ってる、うちの両親のコスプレ写真集。俺でも気絶しそうやのに、三年も気絶してたことある人が見たら、体に毒やで。
 それは、ちょうどいい復讐やと、俺は気がついた。家帰れたら、蔦子さんに送りつけよう。あの、始末に負えん写真集。お世話になりました、みたいなな。そういう感じで熨斗のしつけて。
 ふっふっふ。って、俺はそんな暗い凶暴性に浸ってた。
 なんで俺がこんな目に遭わなあかんねん。多情らしい、顔の綺麗な男が好きらしい俺を、寄ってたかって翻弄しやがって。水煙といい、赤い鳥といい、竜太郎といい、亨もそうや。ひどい話や。それにこれから会う神父は女顔の美形ときてる。俺の正常な人格が崩れ落ちる日もそう遠からずかもしれへんで。
 せやけど今日は平気なつもり。予行演習はしてきたつもり。写真で事前に顔見てるし、イメージトレーニングはしてきた。危険コースを避けるため、最も危険レベルの高いはずの、顔面周辺を見ないようにすればええんや。そして亨のことを常に念頭におけば楽勝や。
 平常心。それさえ保てれば、恐れることはない。
 平気やって、俺は自分に言い聞かせてた。
 車は滑るように、白い教会の駐車場に入り、時には結婚式もしてるという、その厳かな中にも華のある建物の前で、俺たちを降ろした。
 面会は、約束されたものやったらしい。前の夜のうちに、蔦子さんがアポイントを入れさせていた。
 せやのに、美形神父は不在やった。何か緊急の用事ができたとのことで、出かけてもうてて居らんねん。
 なんて失礼なやつやと、俺は唖然とし、蔦子さんは無駄足に憮然としてた。
 じきに戻ると思いますと、同僚らしい神父さんが詫びてくれた。
 黒い祭服を着て、襟には白い帯のようなカラーを巻いている。神父て言うから、どんな偉そうな人とか、後光のさすような人が出てきはるんかと身構えてたら、案外気さくな人で、人あたりも優しかった。大学の学生課に居るおっちゃんと大差ない。
 この人を責めたら罰当たるって思えるような、柔和な感じ。
 それに毒気を抜かれて、ずらりと並ぶ木製のベンチの一番後ろの列に腰掛け、俺たちは美形神父の帰りを待つことにした。
 竜太郎はぶらぶらと足を揺らし、退屈そうにして、いかにも居心地が悪そうやった。
 教会の礼拝堂の中は、輝くステンドガラス越しに射す光が荘厳で、綺麗やったけど、どうも静謐すぎた。一番奥の正面にある祭壇の十字架も、神聖な感じがしたし、とにかくここは聖域や。聖域やと信じて通っている人らがいてはるからやろう。場違いなところに来てしもたって、そういう気分。
 これでもかと穢れまくっている俺が、こんなとこ座っててええんか。怒られるんとちゃうか、ここの神さんに。どういう神か、実はよく知らんのやけど。禁欲を美徳としてる事くらいは何となく知ってる。
 禁欲という言葉は、最近になって、俺の辞書から消えた。
 それは、試みたりはしても、実際には不可能なことを示す言葉や。
 欲しいもんがあったら即買いしてまうし、亨が、アキちゃん好きやってしなだれかかってくると、それを振り払うのに難儀する。昼となく夜となく、組んずほぐれつでいながら、それだけでは飽きたらず、他にもよろめこうというんやから。この建物に足を踏み入れる資格のない男やで、俺は。
 最近、特にちょっと慎みがない。反省せなあかんわって、俺がそう悔やんだ傍から、隣にいた赤毛が、突然俺の手を握ってきた。
「なにすんねんお前……」
 蒼白な顔で、俺は真顔の赤い鳥に訊ねた。
「出ましょう、先生だけでええから」
 そう言い渡されて、俺は予想を超えて力強い赤毛の男の白い手に、木製のベンチの中程から、情け容赦なく引きずり出されてた。
 あんぐりとして、その姿を、蔦子さんと竜太郎が並んで見ていた。
「やめてくれ、どこ連れていくんや」
 振り払えもしないし、着いていかへんかったら腕を抜かれる。そんな強さで腕を引き、赤毛は聖堂から出ていった。走る足取りは、駐車場に向かってる。車に乗る気か。俺をどこへ拉致するつもりや。これ以上まだ俺になんかする気か。
「抵抗せんと、俺といっしょに来てくれ」
 真面目な顔して、赤毛は言った。そして車のドアをキーのリモコンで開き、開いた助手席のほうに、俺を投げ込んだ。
「来てくれって、どこへ」
「わからへん。どこか遠くへ。追ってこられへんぐらい」
 か、駆け落ち?
 シートベルト締めてエンジンかけてる赤毛を、俺はちょっと震えながら見てた。
 読めへん。こいつの行動の意味が、ぜんぜん読まれへん。
 来るときの、穏やかな運転が嘘やったみたいに、赤毛は激しくタイヤを鳴らす運転で、車を急発進させた。それでも何てことないような無表情やった。
 聖堂から驚いた顔の蔦子さんと竜太郎が出てくるのが見えたけど、赤毛はブレーキを踏む気配もなかった。
 制限速度は目安やからという虎の話を、俺が思い出すような運転で、赤毛は西へ車を走らせた。逃避行ルートに選ばれた幹線道路には、もちろん沢山の車が走ってて、誰も追ってくる気配はないのに、ひとりカーチェイスするような走り方をする俺らの車に、あちこちからつんざくようなクラクションが鳴った。
 それも全く気にならない。ぜんぜん平気という顔で、赤毛はさらにアクセルを踏み込む。
 それにどこかでサイレンが鳴った。たぶん、お巡りさんの白バイの。
 一応聞きたいんやけど、お前、免許持ってるよな?
 制限速度、何キロオーバーやねん。そして、まさか、無免許?
 それはないよな。いくら何でも。
 せやけど亨は免許持ってないで。だいたい外道が教習所通うなんて変やろ。それとも
変ではないのか、神戸では。こいつもちゃんと縦列駐車とか坂道発進とかクリアして免許取ってんのかな。鳥やのに。
 俺は怖すぎて訊けず、助手席で顔を覆ってた。
 そういえば俺、シートベルトしてへんわ。忘れてた。
 もしかして、免停ということもありうる。同乗者にも適応されるんやから。
「来た……」
 赤毛がぽつりと呟く声がした。
 それに被さる、よりいっそうデカい音で、二台の白バイのサイレンが肉薄してきていた。確かに来たわ、運転上手いなあ、さすがプロ。この暴走車にあっというまに追いついてくるやなんて。逃げ切れると思うほうが間違ってるんや。
 これでもう、一巻の終わりな予感。俺を虚仮こけにするだけでは飽きたらず、こいつは無事故無違反の免許証まで俺から取り上げようというんやな。綺麗な顔して、虎よりよっぽど凶暴やった。
 そういや亨もそうやし、勝呂もそうやったな。顔綺麗でも、外道はみんなえげつない。
 そう結論した俺の視界いっぱいに、目のくらむような光が溢れた。
 両手で顔を覆ってても、眩しいような光やった。
 それが弾けるように爆発して、どすんと何か重いもんが、ボンネットの上に落ちてきたのが分かった。車の揺れで。
 ビビったらしい赤い鳥が、急ブレーキを踏んだ。車は激しくスピンしてから、唐突に止まった。
 死ぬ。確かにシートベルトせなあかんわ。死ねるもん、あとちょっと激しいスピンやったら、阪神高速の橋脚に激突してた。車の外に放り出されてたやろ。神戸港に向けて、でかいトラックの走る対向車線のほうへ。
 奇跡や。無事に止まるなんて。俺が止めたんか。それとも鳥がやったんか。
 車の中も外も、白い光に包まれていた。そして、未だかつて嗅いだことないような、甘い芳香に。
 とっさの無意識みたいに、赤毛は俺の腕を掴んできた。俺が生きてるかを確かめたんか、それとも今さら怖かったんか。俺を力づくで拉致ってカーチェイスさせたくせに、何やその弱々しいような手は。もう騙されへん。綺麗な顔なんかに、もう騙されへんで。
 そう決意して、自分の顔を覆った手をどけた俺は、唖然と思考停止した。
 ボンネットの上に人がいた。
 そいつは、たった今上から落ちてきたばかりのような四つん這いで、くらりと来たんか頭を振って、それから俺を見た。
 可愛いような童顔やった。ちょっと天然で巻いてる明るい色の髪が、耳にかかる長さで。黒い革のパンツをはいてる。さすがに暑いんか、毛皮のフードついてた上着は脱いでた。その下に着てたらしい長袖のTシャツの胸に、エロく絡み合う二体の骸骨の銅板画のような絵が印刷されてて、FUCK ME(私を犯して)って書いてあったわ。
 そんなもん着てたんか、お前は。あの上着の下に。俺に告るんが死ぬほど恥ずかしいて言うてた奥手なお前が、なんでそれは恥ずかしないんや。お前の羞恥心のオン・オフが、俺には結局、よくわからへん。勝呂。
 四つん這いのまま、ボンネットの上からガラス越しに、勝呂瑞希は俺をじっと見つめた。食い入るような目やった。勝呂やと思う。だって同じ顔に、同じ姿やし、大阪の夜に死んだ時と、ほぼ同じ格好してる。
 間違いなく本人やと思える証拠に、そいつが着てるTシャツの腹には、剣で突かれたような穴が空いてた。それは水煙が突き刺さった傷に違いない。
 こいつは、そうすれば俺の傍に永遠に居れると水煙に口説かれて、迷わず身を投げた。自分を殺す刀身に。その剣を握っていたのは俺の手やった。せやからな、こいつを殺したのは俺なんかもしれへん。
 俺は、俺のことを死ぬほど好きやという勝呂を、ほんまに殺した。
 俺はずっとそれが、つらくて仕方なかった。ほんまのこと言うたら、何度もお前を夢に見たわ。お前が死んだ、早く忘れたいような、最後の時のことを。
 生きてたんか。
 俺は一瞬、呆然とそう思ったけども、勝呂は生きてはいなかった。もろに死んでた。頭の上にはいかにも死んだっていう、光る輪っかがついてたし、背中には鳥みたいな、でかい翼が一対ついてた。まるで天使みたいにな。
 なんか、増えてるで、勝呂。前にはなかった追加部品が。
 案外、似合うてるけど、天使か悪魔かわからんような顔してる。まるで、怒ってるみたいな。俺のこと、怒ってても当然やけど、でも、天使って、怒ってることもあんのかな。あんまりイメージないんやけど。
 無言で手を伸ばしてきて、勝呂はするりとフロントガラスをすり抜けた。そして、なおも這って、俺の腕を掴んだままやった赤毛の指を、ひん剥くように外させた。
「もう蛇とは別れてもうたんですか、先輩」
 咎めてるとしか思えないような口調やった。
 俺はあんぐりとして、見知った顔と向き合った。
 勝呂。お前。へそまで見えてるで。そんなポーズしてたらあかんわ。ごめんやけど見た。たぶん三秒くらい見た。なんというウエストライン浅めのパンツや。着てない方がよっぽどエロないわ。そして腹にも傷があった。ほんまもんや。
「ひどいやないか。よっぽど好きなんやって思たから、諦めたのに。誰でも良かったんやったら、俺でも良かったんやないか。こいつ鳥ですよ、鳥!」
 責める勝呂の話に、うんうんと、俺は気圧されて頷いた。確かに赤毛は鳥やと思うわ。そういう気がする、俺も。
 せやけどこいつは俺の新しい相手ではないです。今でも蛇とは切れてないから。相変わらず、べったりやから。今日はたまたま、留守番させてるだけやねん。
 そんなこと、怖くて、言うに言えへんかった。後光射してたんやもん。勝呂から。
「お告げがあります!」
 どう聞いても怒声やっていう早口で、あたかも天使なような勝呂は言うた。
「神の戸の、岩戸いわとより、死の舞踏が訪れる。力ある者は備えよ。万軍の神なる主に栄光。天のいと高きところにホザンナ! アーメン!!」
 なに言うてんのや、お前。死んだショックで頭おかしなったんか、って、俺は顔真っ青になってた。勝呂は上目遣いの睨む目で、ぎろっと俺を見て、そして赤毛の鳥を睨んだ。
「触るな」
 びしりと言い置く勝呂に、赤毛はこくこくと頷いていた。気圧された訳やのうて、こっちは言われたから頷いただけみたいやったで。
「先輩、仕事あるから行かなあかん。長くは居られへんねん。また来ますから……」
 一転して、可愛いような声やった。俺はあんぐりしてて、すぐには言葉が出えへんかった。やっと出たのは、アホみたいな台詞だけやった。
「勝呂……お前、死んだんやんな?」
「死にました。でもその後、いろいろあって、天使になってもうてん。話せば長いような短いようなですけど、もう行かなあかん、先輩。免停……残念でしたね。無事故無違反やのに」
 残念やったな。その部分は、なんともならへんのか。ならへんのやな。どんな奇跡を以てしても無理なんか。
「キスしてもええか、先輩」
 切なそうに伏し目になって、勝呂は小声で利いた。いいも悪いも、さらに寄ってきた勝呂の唇が、もう触れそうやった。
 どうしようか、って、俺は胸苦しく悩んだけど、悩む必要はぜんぜんなかった。赤毛が俺の髪を掴んで、遠慮会釈なく頭を引き寄せたからやった。
「痛い痛い痛い! 首折れるから!」
 ほんまに殺されそう。そう思って焦る俺の頭を、赤毛はびっくりしたように、ぽいっと手放した。それでお前の膝の上に倒れる羽目になったんやないか。そして勝呂にめちゃくちゃ怖い目で睨まれる羽目になったんや。
「何をするんや、お前は……」
 恨んでる。そういう気持ちが良く伝わるように、俺はそういう声で赤毛に訊いた。
「だって、止めへんかったら、キスしてまいそうやったから。邪魔せなあかんと思って」
「お前が止めへんでも、ちゃんと断った」
 俺は断言した。せやけど、お膝の上で凄んでも、ぜんぜん凄みはない。
「嘘やん」
 赤毛も真顔で断言してた。成り行きで、俺を膝に抱きながら。
「またもや出遅れたようで」
 唸る犬の声で、勝呂がコメントをくれた。暗い目で睨む勝呂の視線の先には、赤毛の首元に無数についてた赤いキスマークがあった。
 違うねん、誤解やで、勝呂。こいつとは何でもない。俺がつけた痕やない。
 その誤解を解いても、状況に何か変わりがあるわけやないけど、でも誤解せんといてくれ。こいつはただ、俺を踏みにじってるだけのデカい鳥やねん。
「それでも俺、諦めませんから。こいつにはまだ、負けたわけやない。先輩、俺は今でも、先輩のこと……」
 なんやねん、勝呂。俺のこと、今でも、何や。
 アホやと思うてる?
 ぷしゅん、と、立体映像が消えるみたいに消滅した勝呂のいた辺りを、俺は睨みつけて思った。
 お前、なんで肝心のとこ言う前に消えんねん。
 はい時間切れ、みたいな消え方やった。百円入れたら続き見れんのかみたいな。
 そんなわけない。お告げの天使のご光臨やったんや。どうも話せる持ち時間があるみたいやわ。そんなんやったら肝心なことから順に話せ、お前は話の順序がおかしいんや。前かてそうやったやろ。
 車を包んでた白い光が消え、また激しく始まったスピンの続きに、ぐるぐる回りだした景色で目を回しそうになりつつ、俺は祈った。
 死んでたまるか。アホみたいすぎる。我を生みし天地あめつちよ、助け給えって祈ったわ。
 奇跡を起こせるのんは、別にキリスト教の神さんだけやない。俺かて起こせる。本気で祈れば、事故ぐらい止められる。
 ということに、この時初めて気がついた。
 激しく橋脚に激突するはずやった車は、むにゃんと柔らかく、ゴムか蒟蒻こんにゃくにでもぶち当たってもうたみたいに、やんわりと跳ね返されて車線に戻り、そして、漫画みたいに、バラバラっと崩れた。
 この車が大破するという運命までは、変えられなかったんやろ。それでも、車と共に大破するはずやった俺の肉体のほうは、救われた。痛いのは、赤毛に捻られた首だけやった。
 あまりの出来事に硬直してもうたんか、赤毛はあんぐりして、膝に抱いてた俺をさらにきつく抱きしめた。嬉しくない。もう。でも、ちょっと気持ちいい。
 そんな正直すぎる無事だった体を、俺が泣きながら実感してると、ものすごいサイレンの音が駆けつけてきた。
「大丈夫か、怪我しとうか」
 血相変えた神戸弁の白バイお巡りさんは、まずそんな優しい事を言うてくれた。アホか死んで来いて言われても、ぜんぜん不思議ではなかったんやけどな。
「免許見せなさい」
 どう見ても無事らしい俺と赤毛のことを、不気味やという目で見ながら、お巡りさんはそう求めた。赤毛は俺を膝に抱いたまま、ごそごそとパンツのポケットを探り、免許証を差し出した。
 持ってた、免許。びっくりやったで。
「海道寛太、二十歳?」
 写真と見比べられながら訊ねられ、赤毛はこくこくと頷いてた。
「救急車呼ぶから、まず病院へ。それから事情聴取があるから、わかったね」
 それには寛太は顔をしかめた。たぶん、病院がまずかったんやろ。
 せやけど逃げようもないやんか、車は鉄くず、相手はお巡りさんやで。よもや一年に三回も、警察のお世話になるとはな。俺もつくづく悪い子なったわ。
 もうどうにでもしてくれって、俺がぐったりしたところに、キイッとタイヤを鳴らして、一台のグレーの車が横付けしてきた。バタンとドアの開く音がして、血相変えたような蔦子さんの声がした。
「寛太! 怪我してへんか!」
 俺は、蔦子さん。俺は死んでてもええんか。
 裾を乱して鉄くずの中に駆け寄ってきた蔦子さんは、ほんまに心配そうに寛太の顔を両手で包んだ。
「怪我してへん。本間先生が、なんとかしてくれた」
 にこにこ笑うて、鳥はやはり、けろっとしてた。
「ああ、そうなんか。どうもおおきに、ぼん。この子はほんまに大事な子なんや」
 俺の手を握って、蔦子さんは涙ながらに感謝してくれた。赤毛はそれにも、ぼけっとしていた。
「連れて帰ります」
 ぽかんと見てた白バイのお巡りさんに、蔦子さんは断言した。
 いやいや、それは無理やから。常識的に考えて、こんな事故起こして、ほな帰りますわって訳にはいかへん。
 しかし海道蔦子の辞書に常識の文字はない。それはたぶん秋津の血筋や。
 ますます、ぽかんとしてもうてるお巡りさん二人に、ご苦労さんどすと挨拶をして、蔦子さんは俺と赤毛を立たせ、横付けした車に乗りうつらせようとした。
「ちょ……ちょっと、待ってください、奥さん」
 我に返って慌てたお巡りさんは、手を宙に浮かせて、声を上ずらせてた。蔦子さんはそれを、振り返りもせずに、寛太を後部座席に押し込むと、俺にも乗れと促した。
 車内には、後部座席の奥に青い顔した竜太郎がいて、そして運転席には、初めて見る顔が乗っていた。
 厳密には、初めてやない。写真を見たことがある。
 例の神父やった。金髪で、碧眼の。
 ここに来る前に教会で見た、人の良さそうな神父と同じ、黒い祭服を着て、襟には白いカラーをしてたけど、何とはなしに、冷たい感じのする人物やった。
 淡いブルーの目で、神父はじっと俺を見てから、運転席のドアを開けて、車道に降り立った。そして突然にこやかになり、呆然としてるお巡りさんの片方に、名刺のようなもんを差し出した。
「私はこういう者です。どなたか他に事故に巻き込まれて、怪我をされた方はおいででしょうか。私には治療の心得があります。必要のある方がおいででしたら、治します」
 すらすら流ちょうな日本語で、金髪の神父は喋ってた。
 微笑む目に力があるようで、それで見つめられたお巡りさんたちは、いやあ、特に怪我人はいません。不幸中の幸いでした。と、頭を掻きつつ話した。
「それは、きっと、神のご加護があったのでしょう。ついでですので、道も片付けていきます。ご迷惑をおかけしまして、申し訳ありませんでした」
 小さく頭を下げて見せて、それから神父は道に散乱した、元は車やった部品の数々を眺めた。
「いと高き神の御名において命ずる、消えよ」
 誰にも聞こえないような、囁く小声で、神父の口がそう言うのが、俺には聞こえた。そして道に散らばっていた鉄くずが、ふっと掻き消えるのを見た。
 後には何も残されてはいなかった。急ブレーキをかけたタイヤの跡さえ、残っていない。ただひとつ、車についてたナンバープレートを除いて。
 神父はそれを拾いにいって、板に書かれた数字を面白そうに眺めてから、蔦子さんに返してやっていた。
 それから歩いて戻り、にこやかにお巡りさんと顔を見合わせて、優しく呟いた。
「もう帰ってよろしい」
 そう言われて、お巡りさん達は、どことなく、ぼんやりと幻惑されたような目つきでいた。そのまま何も答えず、白バイに跨ってエンジンをかけて、二人は去っていってもうた。
 俺はその光景に呆然としてた。
 お前は、ジェダイ騎士ナイツか。理力フォースが使えるんか。映画「スター・ウォーズ」の世界を地でいってる。どんなんしたらできるんやろ。そんなこと現実に可能なんやったら、俺もしたいわ。
 どうせなるなら霊能者よりジェダイ騎士ナイツやろ。それは霊能者差別か。
 可能なんやったら水煙にライト・セイバーになれって頼もうか。アホかって言われるだけか。でもあいつは一度、おとんに太刀から軍刀に作り替えられてるんやから、一回も二回も同じやろ。
 それに絶対、軍刀よりライト・セイバーのほうが携帯に便利やって。使わへんときには、でかい携帯かカラオケマイクくらいの大きさやんか。ストラップついてるみたいやし、それならお前を毎日連れ回してやれるんやけどな。
 まあ、どっちにしろ普通ではない。毎日、サーベルを持ち歩く男も、ライト・セイバーを持ち歩く男も。幸いにして水煙が、普通の人間には見えないというのが、俺にとっては救いや。
 そういえば水煙は、って、今焦った人は注意深く話を聞いてるタイプかもしれへん。水煙は俺と一緒に車に乗っていたか。そして一緒に事故にあって、鉄くずと共に神父に消滅させられたのか。
 違う。まさか、俺もそこまで薄情やない。
 水煙は、俺とは一緒に出かけたくないと言った。いや、厳密には、何も口利いてくれへんかった。
 さあ出かけようという時になって、俺は気づいた。新開道場のガレージで俺がキレて怒鳴りつけて以来、あいつが一言も口利いてないことを。何を怒鳴ったか、ろくに憶えてへん。何か、よっぽど腹立つようなこと言うてもうたんかな。
 昨日はすまんかった。今日は蔦子さんと、なまずの話をしに、神父んとこ行くんやけど、お前も来るかって、客間に戻って訊いたら、無視された。
 無視されてんのに、そう何度も食い下がるのも、格好つかへん。それで諦めて、置いてきた訳や。
 あいつは一体、何を怒ってんのやろ。思い当たる事が一杯ありすぎて、どこから解決していいかわからへん。昨夜もまたうっかり、あいつをベッドに放置したまま忘れて、亨を脱がせて、あんなことやこんなことや。
 ……くらくらしてきた。自分の最低さに。
 ライト・セイバーとか言うてる場合やないで。ほんまに愛想つかされる。ジュニア、餓鬼の遊びやあらへんでって。
 俺はこの当時、ほんまに餓鬼やったんやと思うわ。車乗り回して、酒飲んで、好きな相手と抱き合って寝て、それで大人になったようなつもりでも、言うてもたったの二十一歳やからな。まだ大学も出てへんかったんや。街ひとつが抱えてる、何千何万という人の命を背負うには、あまりにも自覚が薄かった。
 そやけど、後になってから思うけど、そんな自覚を持てる人間なんて、今時の世の二十一歳に、いったい何人おるやろ。俺が言うのも変やけど、俺はあくまで普通の子やった。自分の幸せ、自分の家族の幸せ、自分の恋人の、自分が顔を知っている人たちの幸せぐらいまでしか、本気の本気では祈られへんかった。
 街を愛するという気持ちは、わからんでもない。俺は故郷を愛してた。自分が生まれ育った京都の街を。そやけど神戸は見知らぬ街で、そこに住むのもほとんどが赤の他人や。
 そんな街のために命を捨てて戦えと言われて、はい、そうですか、誠心誠意頑張りますなんてな、そんな事咄嗟に思えるわけがない。
 自分の幸せが大事やった。いつも通り大学で絵を描いて、時々映画観て、亨と飯食って、そういうのが幸せで、それが永遠に続けばええなって、そういう安易な幸福を夢見てた。
 なんで俺が、見ず知らずの赤の他人達のために、それを犠牲にせなあかんのや。
 まあ、言うなればそれが、子供の考え。そのままでは俺は、永遠におとんには勝たれへん。
 おとんはよわい二十一にして、国のために死ぬ覚悟を決めた。そして実際に死んだ。そんな話は、昔は全然珍しくもなかった。
 おとんも死にたくはなかったやろ。愛しい家族と一緒にいたかったやろ。生まれ育った京都の街が好きやったやろ。
 それでも、やむをえぬ大義と行き合ってもうて、それが我が血筋の務めと覚悟を決めて、故郷を遠く離れた異国の海で戦って死んだ。
 それが大人の男ってもんやった。別に死ぬ必要はないんやけどな、自分の幸福を、赤の他人の幸福ために犠牲として捧げる勇気があるかどうか、それが男気というものや。
 奇しくも俺も、おとんと同じ二十一歳やった。
 お前のおとんにできて、なんでお前にできないはずがあろうかという、そんな天地あめつちの思惑か。俺は試されようとしてた。大人になれるかどうかをな。
 なんで俺がという問いには、明解な答えがあった。勝呂が伝えに来た、神さんからのお告げにも、その答えがあったやんか。
 力ある者は備えよと。
 人にはない力を、俺は授かった。戦える力のある者が戦う。それは当然のことや。力ある血筋に生まれついた俺にとって、それは義務やった。
 お告げの天使は、この時期、様々な人のところに姿を現した。目に見える形で、あるいは目には見えへん形で、それぞれの取るべき道を教えた。総勢一丸となって、この危機を乗り越えよと。
 神父は車の脇に突っ立っていた俺に、歩み寄って挨拶をし、自分は神楽遙かぐら ようであると名乗った。ヴァチカンから特派された悪魔祓いエクソシストで、襲来を予言されている悪魔サタンと戦うために来た。その大事の前には小事にはこだわらない。力を貸して欲しいと、俺に頭を下げた。
 俺はあまりの訳のわからなさに、答礼もせずに、ぼけっと突っ立っていた。まだまだそんな若造やった。
 困惑顔の俺を見て、神楽遙はにっこりと笑った。それは、俺でなくても、うっとり見とれるような顔やった。


--------------------------
←Web拍手です。グッジョブだったら押してネ♪

作者あてメッセージ送信
Name: e-mail:  

-Powered by HTML DWARF-