SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

神戸編(4)

 信太が俺とアキちゃんを連れてきた家は、ほんまに甲子園球場の目と鼻の先やった。聞いた話に嘘はなく、そろそろ試合が始まるらしい球場の中から、応援歌を歌う声や鳴り物の、にぎやかな音が湧きだしていた。
 それはなあ。なんて言うんやろ。みなぎる熱い力のようやった。
 暗くなりはじめた球場を照らす、まばゆいライトの光線よりも強く、人々の思念が散らす熱い火花が立ち上り、球場の上を照らして泡立つような色合いや。
 すごいなあと、俺は思った。
 人間の祈りや熱意というのは、外道にとっては何よりの甘露のひとつや。恐れや憎悪を食らうような、たで食う虫も好きずきの、悪食な連中も居るけど、俺はそういうのは好きやない。
 跪いて崇めてくれる、そういう熱っぽい感情が、俺の大好物やねん。
 アキちゃんと抱き合う時も、やんわり抱かれるのやのうて、お前が好きやって熱く燃えてる時のほうが、俺は何倍も満たされる。
 球場から溢れ出そうな熱い情念は、俺の目にはうっとりくるような何かやった。あれがもし、自分が全部食うてええようなもんやったら、どんだけ力がつくやろかって、俺は羨ましく眺めてた。
 世の中の外道の中には、人間たちに神様と呼ばれて、自前の神殿持ってるようなセレブなやつらもおるで。そういうやつらは悠々自適や。ほっといても信者が集まってきて、神様神様ってあがめ奉ってくれる。それはそれで、時には応えてやらなあかんから、全く気楽というわけでもないやろけど、いかにも無難な商売や。
 しかし見たとこ、この、蔦の絡まる神殿には神がいない。いるといえばいるのかもしれへんけど、特定の神を崇めてるわけやない。それでも人は祈ってる。熱く燃えるような情念をこめて。阪神勝ってくれ。阪神阪神。三度の飯より野球が好きやって。
 そんな不思議な場所やった。
 神はおらんのに、まさに聖地。球場につめかけ、全身全霊で祈り歌う奴らもおれば、それが無理でも、テレビやラジオで試合中継に釘付けになって、七転八倒してる奴らもいてる。そんな遠方からのご声援までが、流星のように降り注ぐ。
 ヤバすぎ。ヤバい。これはたまらん。あの中に行って、降り注ぐ流星のような力の雨を浴びたい。誰のもんでもないんやったら、俺が食うてもええんやろ。
 それを思うと、ついついよだれが出てきそう。
 そういやこの球場は、高校野球にも使われてて、日本全国の高校球児たちの青春の聖地でもあるんやで。若い日の三年を野球に捧げた少年たちが、選りすぐられて蔦の聖地へ。そこで血と汗と涙のにじむ戦いや。それ勝て、やれ勝てって、大の大人までもが夢中になって、いたいけな若い連中に激闘させる。その戦いを見て、人は熱く燃えてるわけや。
 これは豆知識やけどな。古来、試合というのは、神事やった。神に捧げるもんやった。南米の古代文明では、選りすぐりの男たちにサッカーみたいな球技をやらせて、勝ったほうのチームを生け贄として、地下の神に捧げたっていうで。
 神様っていうのはな、そういうもんが大好きやねん。スポーツ競技に戦争に、血と汗と涙のにじむ骨肉の争いごとが、そしてそれの生む、人間たちの強烈な思念が、我が身にがっつり精のつく、辛抱堪らんご馳走やねん。
「球場行きたい」
 車を降りたガレージから、蔦の聖地をはあはあ見上げて、俺は誰にともなくそう頼んだ。アキちゃんに言うてんのか、それとも虎の信太に言うたんか、自分でもよう分からへん。
 とにかく行きたい。だって目と鼻の先にご馳走があるのに、何でお預けやねん。行こうよう、ナイター見に行こう。ほんのちょっぴり味見だけでもええねん。行きたい、俺は行きたいんや。辛抱たまらん。
「あかん。何言うてんのや。用事で来たんやで。遊びに来たんやない」
 ピシャーンみたいな容赦ない激怒口調で、アキちゃんは俺に説教してた。
 嫌や、アキちゃん、めちゃめちゃ怒ってる。怖いよう。
 バタンと激しい音で運転席のドア閉めて、アキちゃんは水煙をとるために後部座席のドアを開けた。それで気づくかと思ったけど、頭に血が上りすぎてて気が回らへんのか、水煙が一言も発しないことに、アキちゃんは気づきもせんかった。
 信太はうっとり球場を見上げ、アキちゃんの車にもたれてた。
「ええやろ、聖地。こんな近くに住めるなんて、俺は幸せな虎や」
「い、行ってんのか……毎日行ってんの?」
 思わず上ずる声で、俺は信太に訊いた。
 うっふっふと含みのある笑い方をして、信太は目を細めてた。
「行っとうで、毎日毎晩通い詰めや。蔦子さんも虎キチやしな、それのお供ということで、年間契約の特等個室から、心ゆくまでご観覧なんや。ほんまにもう蔦子さんはいい。最高のご主人様や」
 何やデレッとて悶えるような信太の様子に、俺はちょっとガーンてなってた。ショックやってん。そんないい目を見てるやつもおるとは。
 ある意味俺も毎日毎晩やけど、でも、でもアキちゃんは野球には興味がないんやで。一緒に野球見てくれへん。いっしょにハマってって誘いかけても、俺はそんなん知らんからって、愛想ないねん。
 俺がそんな悲しい思いをしてるというのに、この虎は、ご主人様と試合見物。しかも、こ、個室でやで。
 ひどい。あまりにもひどい。なんや、この、待遇の差は。
「もたもたすんな。さっさと案内してくれ」
 デレデレ話してる信太に、アキちゃんはキレてますからみたいな声で怒鳴ってた。何をそんなに怒ってんのやろ、もう、敵わんわ。信じてくれって言うたのに、未だに焼き餅焼いてんのかな。
 確かに信太はええ感じ。男前やし、力もあるようや。
 せやけど俺は、外道は食うたことない。人間専門。共食いはなし。
 果たして美味いもんなんやろか。外道ばっかり食うやつもおる。水煙かてそういう種類やろ。人間食うより桁違いに精がつくって、そんな話は聞いたことあるけど、俺は今まで試したことはない。
 どんなもんなんやろ。
 俺はじっと興味持って、信太の真っ黄色な目を見た。溶けたバターみたい。どろどろ熱くて、光ってる。
 その目でちらりと俺を見て、信太はにっこりとニヤリの中間の笑みやった。
「怒られとうで。あんまり俺のほう見んほうがええんやないか」
 この場にいるのが我慢ならんと、とっとと玄関らしきほうへ行ってしまったアキちゃんを追う気配もなく、信太は俺と向き合っていた。
「そんなん言うなら口説かんといてくれ」
「そうやな。すまん。癖やねん」
 どんな癖やと俺は思った。
 信太はそれには解説を入れず、ぶらりと車を離れて、ポケットに手を突っ込んだまま、大股の軽い足取りで、ひょいひょいとアキちゃんの後を追いかけていった。
 俺は未練の顔で、その背と、燃え上がるような白熱の球場とを眺め、それから諦めて玄関のほうへ行った。
 辿り着くと、もう、玄関の引き戸が開いていて、アキちゃんはその中に入った三和土たたきのほうにいた。
 真新しいのに、古い日本の家そのものの、和風の建築やった。
 どことなくアキちゃんの実家の、嵐山の旧家を思い出させるような雰囲気や。
 黒い板の間も、見上げるような玄関の吹き抜けも、秋津の家によう似てる。
 その、広い玄関でしばらく待つと、奥から軽い足取りで、すたすたやってくる誰かがおった。
 暗い廊下をやってきて、そいつはにこやかに、アキちゃんに会釈をした。
 真っ赤な髪した、長髪の男やった。肩ぐらいまである赤毛の髪を、後ろにひとつで束ねて、やっぱり耳にはピアス。そんで、そいつはTシャツの上に、阪神タイガースの黒と黄色の法被はっぴを着てた。そして膝までで破いたジーンズに裸足。
 とても客の応対に出るような格好とは思われへんかった。なんというか、まるで、試合のテレビ観戦の途中に、客か、しゃあないなって抜け出てきたような。
「なんやねん、寛太かんた。そのなりは。お客様なんやぞ」
「すまん、兄貴。蔦子姐さんが、この格好しろって言うんや。もうナイター始まるで」
 にこにこしながら、赤毛は信太に言い訳をした。
「マジか。それはヤバい。蔦子さんが正気のうちに、話すこと話させとかんと」
 足を振って、ぽいぽいとブーツを脱いで、信太はずかずか上がっていった。その姿は何の遠慮もなく家の中に消えてもうて、後にはにこにこした法被の赤毛だけが残された。
 アキちゃんと俺は、その有様を何となくぽかんと見てた。アキちゃんのは、ぽかんというより、愕然て感じやったけどな。
 まともなやつが出迎えへんかったのが、プライドに堪えたんやろ。
「適当に、上がってください。その剣、置いとく? それとも、持っていく?」
 玄関の傘立てを頭で示して、赤毛はアキちゃんに訊いた。
 置いていけ、傘立てに。
 俺はそう思ったけど、アキちゃんはムカッて顔して、預かろかて手を出してきた赤毛が水煙に触らんように、鍔のあたりを握ってた手を引っ込めた。
 そういや俺、今日は裸足で来てもうたけど、ええんかな。まあええか。どうせ皆、裸足やし。アキちゃん以外。赤毛はスリッパ出さへんし、このままで行こ。
 なんやこの家、見かけは嵐山の秋津の家とそっくりやのに、家ん中の空気はぜんぜんちゃうな。相当ユルいわ。めちゃめちゃダラけてる。
 それはたぶん、家の主のカラーなんやろ。
 おかんは旧家のお姫様。
 海道蔦子さんも、元はそういう系統の人のはずやのに、おかんとは全然違うタイプやった。似てるところは、美人やていうことぐらい。そして、お前何歳やねんていう事ぐらいやった。
 蔦子さんは、縞模様の絽の着物着て、板張りの居間の壁にある、超巨大スクリーンの前に置かれた、ぶあつい座布団の上にきちんと正座して待っていた。スクリーンのほうを向いて。
 その巨大な画面には、試合中継の甲子園球場が映っていた。それを食い入るように見てる蔦子さんの着物は、黄色と黒のシマシマで、座ってる座布団も、ガオーて言うてる虎のシルエットに、阪神タイガースの球団名とロゴが入ってた。
「遅い!」
 ピシャーンみたいな、秋津家独特の怒声で、蔦子さんはアキちゃんに言うた。
 開口一番、ファーストコンタクトがそれで、アキちゃんは居場所もなく立ちつくし、すでに暗い目眩の顔してた。
 蔦子さんの脇には、板の間に立て膝したお行儀のいい格好で、信太がすでに座り込んでいて、団扇でパタパタ自分を扇いでたけど、その団扇も虎系やった。他にも何人か、似たようなドッ派手なやつらが座り込み、はよ試合初めてくれって、鳴り物入りでビール飲んでる。
 その、いろんな色の髪の毛を見て、俺は完全にポカーンて来てた。
 ちびっこから、三十路手前くらいに見えるやつまで、いろいろ居るけど、みんな人でなしやった。しかも全員が男や。その中に鎮座まします蔦子さんは、どう見てもハーレムの主やった。
 振り向きもせん首筋は若くて、白肌がまぶしい。そこに結い上げた夜会巻きの後れ毛が散ってて、徒っぽい。とても、おかんの幼馴染みには見えへん。だって、おかんが幼かったんて、何十年前やねん。後ろ姿だけやけど、この人、どう見ても四十前やで。
 アキちゃんの家系って、みんなものすごい長生きなんとちゃうかって、俺はふと思った。それとも、おかんと、この人だけが異常なん?
「なんで黙っとるんどす。挨拶ぐらいしおし」
 こっちを向きもせんと、蔦子さんはアキちゃんを叱った。
 アキちゃんはそれに、何やねんこの女っていう顔はしたけど、それでも血縁を考えたんか、渋々の顔で床に正座した。水煙を脇に置いて、いかにも躾の行き届いた子って感じで、ぜんぜん見てへん蔦子さんに頭を下げた。
「はじめまして。暁彦です。いつも母がお世話になってます」
「あんたもお世話になるえ」
 ものすごイケズな声で言い、蔦子さんはちらりと初めて振り向いた。体をひねって色っぽく、アキちゃんを流し見た蔦子さんは、口元に目立つ泣きぼくろがある、垂れ目のオバチャンやった。
 類推される年齢から考えたら、驚異的に若い。せやけど、おかんに比べると、ちょっとばかしとうが立ってた。さっきは見た目、四十手前と思ったけど、もうちょっといってるかな。そんな感じ。せやけど、その寄る年波が、ええ感じのする人やった。
「まあまあ……」
 シマシマの袖で、赤い唇を隠して、蔦子さんはアキちゃんをじろじろ上から下まで眺めてきた。
「そっくりやないの、アキちゃんに。トヨちゃんの話、ほんまやったんやわ。そやから何遍写真送れて言うても、送ってこなかったんやね。根性悪やわ、昔から……」
 チッみたいな顔をして、蔦子さんは恨めしそうに言うた。
 アキちゃんはそれに、むっとしたリアクションやった。ここでもいきなり、おとんの話や。機嫌がよかろうはずもない。
「知ってるか。ウチはな、ほんまやったら、アキちゃんのお嫁さんになるはずやったんえ。そやのにいくさで死んでしまいはって。他のと添う気はおへんて意地はって、いかず後家になってもうたんえ」
 アキちゃんはそれに、ノーリアクションやった。
 そんなん言われても、俺かてノーリアクションやわ。だってなんて言うの。
「結婚……してはるんですよね?」
 しばらくの沈黙のあと、アキちゃんは耐えられんようになったんか、絞り出すような声でそう訊いた。
「してますえ。しょうがないやないの。跡取りが要るんやから。アキちゃん死んだて諦めて、若いツバメと結婚したんや」
 まるで、アキちゃんが悪いみたいに、蔦子さんはガオーッて吠えてた。それにアキちゃんは、ううっていう脂汗の顔やった。だってこのオバチャン、何となくやけど、おかんに似てる。おとんにも似てる。それが秋津家の血筋を汲むってことなんかもしれへんけど、アキちゃんにはそれがキツかったみたいやで。自分も同じ顔やのにな。
「ツバメって……人間ですか」
 そんなこんなでテンパってたんか。アキちゃんはまた、ブッ飛んだことを言うてた。真面目に訊いてんのやから恥ずかしいわ。なんでも恥ずかしい奴のくせに、自分のこの天然ボケは恥ずかしないんか、アキちゃん。
「人間どす! ツバメと結婚できるわけおへん。あんたはアホなんか」
 蔦子さんはブチブチ来てた。この人、なんとなく、嵐山のおかんよりも、アキちゃんのおかんみたいやないか。すぐ怒るし、ギャースって言うしやな、けっこう似てるで、キレ芸派なんかな。
「式神のことかと思うたんです」
 アキちゃんは今さら自分が痛くなってきたんか、正座した膝を掴んでへこたれていた。俺もなんとなく、すみません、うちの相方がこんなでと、うなだれて座ってた。俺ら最高に格好悪くないか、今。
しきと結婚するアホがどこにいてますのん。人間の女を孕ませられるほどの力のあるのは滅多におりまへん。神様並みに力があれば別やけど、あいにくそんなの手駒にいてへん」
 ぷんぷん言うてる蔦子さんの横で、ふっふっふと面白そうに、虎の信太が笑って言った。
「あかんなあ。みんな種無しばっかりやねん」
「気にすることおへん。式と人とは相容れんもんどす。そんな半神半人が、ぼろぼろ生まれてしもたら、えらいことやないの。この世の秩序が乱れてしまうわ」
 嘆かわしそうに言う蔦子さんの話に、俺はちょっとギクッとしてた。
 やっぱり、できへんのや。子供。女に変転して、アキちゃんとやっても、子供できるわけやないんや。
 おかんは絶対、それを狙ってると思うたんやけど。それは俺の勘違いやったんか。あの人、俺の顔見るたび言うで。亨ちゃん、いつになったら女になるんや。いつになったらなるんやって、まるで俺がいつか性転換するのが当然みたいな言い様なんやで。
 ならへん。俺は。とりあえず、やり方は分かったけど、トミ子とフュージョンしたあとに、いつのまにか女の体になってた時から、いっぺんも試してない。あれは事故で、実はもうでけへんのかもしれんけど、試そうという気はしてない。
 だって、アキちゃんが嫌がってたもん。今のままの俺のほうがいいって、言うてたやんか。どっちでもええんやったら、俺は今のままがええわ。慣れてるんやもん。
 それに、子供できへんのやったら、男でも女でもおんなじやんか。アホくさ。悩んで損した。
 そう毒づいてから、俺は気づいた。けっこう自分が悩んでたっぽいことを。
 実はちょっと、責任を感じてる。俺はアキちゃんの人生の軌道を変えた。普通の人コースに行けるかもしれへんかった無難な道から、俺とふたり人ならぬ身で異常な毎日を永遠に繰り返すコースへ。それでアキちゃんが幸せかどうか、俺は自信がない。
 今からでも実は、遅くはないんとちゃうか。アキちゃんがもし、普通コースに戻りたいって思ってるんやったら、戻れんこともないんとちゃうか。
 体はもちろん、元の普通には戻らへん。せやけど、アキちゃんちの人たち、どう見ても普通やないで。おかんも蔦子さんも、真人間とは思えない若さやし、元々そういう血筋なんとちゃうの。人並み外れて長生きで、鬼道を極める人たちなんや。その世界観の中でやったら、今のアキちゃんかて、まあまあ普通なんやないやろか。
 車の中で読んでた、あの異常なメルマガ。霊振会の皆さんとかさ。普通なら、ありえへんような話をしてた。予言であるとか、結界がどうのこうのとか、どこぞの奥地のシャーマンと交流会とかやな、アキちゃん聞いたらアホかて気絶、そんなような話がずらりやったんやで。
 それはまあ、アキちゃんにとっては、予定と違う吐き気を催すような変人コースなんかもしれへんけど、それでも一応、人間界や。人間向けの会なんやもん。
 あの中でやったら、アキちゃんかて人間の彼女見つかるかもしれへんで。ちゃんと生きてるやつ。アキちゃんが絵に描いた神様が、暴れ出てきて大変やったって話しても、それは大変やったわねって、普通の話として流せるような女が。
 そいつと結婚して幸せな家庭を築くとか、子供生まれて幸せなダディとか。そういうのも、一応まだまだアリなんとちゃうの。選択可能なコースとしてさ。
 それを思うと、俺は凹んだ。
 その女を押しのけるのは、水煙や勝呂瑞希をやっつけるのとは訳が違う。相手はアキちゃんと同じ、ほんまもんの人間で、俺みたいな外道と違う。アキちゃんが、そっちがええんやって言うんやったら、行かんといてて追うわけにはいかへん。
 なんや、そんな気がするねん。俺は変転すれば女や大蛇おろちの姿にはなれるやろ。他のモンにかて、心がけしだいで変転可能なんかもしれん。
 せやけど本物の人間にだけはなられへん。そんなふりして見せることはできても、精気を吸わな死んでまうし、アキちゃんの子供かて産んでやられへんのやって。
 それって、アキちゃんにとって、どのくらいの欠点なんやろ。俺は怖くて、訊いてみたことない。アキちゃん、子供欲しいんかって。
 欲しいって言われたら、俺はその時、どうすればええんやろ。
 水煙が言うてたみたいに、どこか行っといたらええんかな。アキちゃんが、人間の女を抱く間。それとも、ずっとずっと永遠に、どっか行ってもうたほうがええのか。
 なんということや。なんて鬱になる話。そんなん考えたらあかん。まだそうなると、決まったわけやない。元気出さなあかん。にこにこしとこう。アキちゃんは俺の、笑ってる顔が好きなんやって。どんよりしてたら嫌われてまうかもしれへん。
 そう思って、暗い顔のまま顔を上げると、にやにやしてる虎の信太と目が合った。虎の団扇でぱたぱた扇ぎながら、信太は分かったような顔で俺を見た。
 なんやねん、もう、見んといてくれ。アキちゃんに怒られる。
「あんたのことは、ウチはぼんと呼びます。何や気持ち悪いんどす。アキちゃんと同じ名前で呼ぶんは。ぼんでよろしおすな」
 よろしくなかったんやろ。アキちゃんは黙ってた。蔦子さんは、それに怒りもせず、にこりともせんかった。
「ウチのことは、蔦子さんとお呼びやす。あんたのお母さんから、留守中になんぞありましたら、息子をよろしゅうお頼み申しますて頼まれてるんや。そやから、今はウチがあんたの親代わりどす。そのつもりで、礼儀をわきまえなはれ」
 蔦子さんの背景にある巨大画面で、試合が始まった。選手がグラウンドにわらわら現れて、着ぐるみのトラッキーが舞い踊り、観覧席のファンはすでに熱く燃えていた。虎がガオーッて吠えるアイキャッチが、蔦子さんの背後に現れて消えるまでの間、アキちゃんはたっぷり押し黙ってた。
 そして押し殺したような声で訊いた。
「何を、教えてくれはるんですか」
「ええ質問どす。あんたは何にも知らんのですやろ。トヨちゃんに散々甘やかされてきて。ウチはそんなんしまへんえ。ビシビシやらせてもらいます。まずは基本や。しきの扱いについてどす」
 画面のほうに向き直り、テレビ観よかていう後ろ姿で、それでも蔦子さんは、ぺらぺらと歯切れ良く話を続けた。
 どこかから、せんを抜いたキリンビールの瓶を三本ぶらさげて、赤毛の男が戻ってきて、信太の反対側に座り、蔦子さんにビールを注いだ。
 信太はそれを見ながら、自分の胸ポケットに入ってた煙草を一本取り出し、それに火をつけて、ふはあと一息吸ってから、差し出された蔦子さんの指にそれを渡した。
 どう見ても、女王様と下僕どもやった。それでも、にこにこくつろいで、連中はテレビを観てた。蔦子さんを守るように、やんわりと取り囲んで。
「あんたにはしきがその蛇しかおらへんのどすか。水煙を別にして」
「そうです」
「情けない」
 追い被せてくる蔦子さんの口調は、どことなく罵るようやった。
「探しなはれ、もっと。ウチでもこれだけ侍らせてんのや。あんたにはもっと力があるのやろ。トヨちゃんの子なんやから。それでもちょっと、分をわきまえたらどうやろ。その子はちょっと、今のあんたの手には余ってるようや」
 そう話し、ごくごくビールを飲んでる蔦子さんの背中を、アキちゃんは睨んでた。
「どういう意味ですか」
「言うたまんまどす。使いこなせてないやないの。聞くところ、見たところ、捕まえとくだけで必死のていどす」
 なにか言いかけて、口をつぐんだんか。それとも、開いた口がふさがらんのか、アキちゃんは、薄く唇を開いたけども、そのまま結局黙っていた。
「強いのんが一人おるより、使い勝手のええのんが、何人かおるほうが初めはよろし。水煙と、ふたりから始めなはれ。水煙は器量よしやし、新人に慣れてるんどす。水煙の言うこときいて、もっと熟練してから、強いの使うたらよろしいわ」
 右手にビール、左手に煙草のシマシマのオバチャンは、そんなこと言うてた。俺はそれに、顔面蒼白になってた。なに言うてんのやろ、この人。
「それまで、蛇はウチで飼うときます。球場もあるし、夏が終わっても、阪神競馬がありますよって、飢えもせず、飽きもせんやろ。信太に面倒みさせたらよろし」
 にやにやテレビ観ながら、虎はさきイカを食らってた。それでも話は聞いてたんやないか。それで笑ってたんやないかと、俺には思えた。
 面倒みるってなに。何してくれんの。
 だいたい分かるけど、でも、それがアキちゃんの代わりか。
 俺は、そんなん嫌や。
 信太のことは、嫌いやないけど、でも、アキちゃんは俺をこの家にほっていくんか。水煙だけ連れて、京都に帰ってまうの?
 嘘やろ、そんなん。アキちゃんがそんなの、耐えられるわけないわ。だって、俺のこと好きなんやろ。俺がおらんと、アキちゃんは一日だって保たへん。そのはずや。だって、誰と抱き合うて寝るの。水煙か。そんなん、あんまりや。
「嫌やて言うたら、それで通るんですやろか」
 キレはせず、静かに訊ねたアキちゃんに、蔦子さんは振り向いた。眉をひそめた、なんやこの子は、ウチに口答えしてって、そんな顔やった。
「通りますやろ。あんたみたいなぼんに、うちに偉そうな口きくだけの、実力があるって言うんやったら、ウチかてあんたを先生とお呼びして、きちんと上座で持てなすえ」
 ツンとした、きつい横顔で、それでも艶っぽく、蔦子さんは言うた。
 アキちゃんはそれに、ふうって深いため息を漏らした。
 そして指さした。皆が見てるテレビ画面を。
 そこには打席に立つ、阪神の対戦相手のバッターが映ってた。
 バットを構えて立つ背後から、ピッチャーマウンドを眺める位置でとらえられた映像を、指さして見せるアキちゃんは、本人にはそんな意識はないんやろけど、あたかもホームランポーズやった。
 蔦子さんはそれに、盛大に顔をしかめた。
 その背景で、これを打てるかみたいな剛速球が投げられた。
 アキちゃんはそれを黙って見ていたが、バッターが打つと、微かに笑って目を閉じた。
 打球はみるみる伸びた。なんでそんなに飛ぶんやろっていうぐらいの、大ホームランやった。
 ああっ、打たれたって、テレビを観てた誰かが叫んだ。
 打線はそれでは止まらへん。
 ピッチャーは投げ、がんがん打たれた。どう見ても神業みたいな球やのに、打席の選手はそれを上回る神業で、じゃんじゃん打った。ホームランを。
 それには強面の海道蔦子も、ああって短く喘いで、画面に食いつきこちらに背を見せた。
 ホームランに次ぐホームランで、甲子園球場は大絶叫やった。阪神ファン、ほとんど発狂。そのものすごい声が、かすかにこの家まで聞こえるようやった。それとも、それは海道家で飼われてる、人でなしの虎キチどもが、七転八倒する阿鼻叫喚やったんかもしれへん。
 信太はあんぐりして、画面を見てた。さきイカを銜えたまま。
 そして新しく現れたバッターが、またホームランを打った。それは、カキーンと音高く鳴って、びっくりするほどの大アーチを甲子園の空に描いた。ぐんぐん伸びますっていう血の出る絶叫のアナウンサーの声に送られ、打球は悠々と甲子園の電光掲示板を越えた。そして、さらにぐんぐん飛んだんやろ。中継カメラに映らんようになった後も。
 純和風の平屋で立てられた、海道家の屋根のどまんなか、俺らが全員いる居間の真上の屋根に、ドゴーンてものすごい音がした。まさかという気はするが、たぶんホームランボールやろ。
 その音にびくうってしてから、蔦子さんは振り向いた。なんとなく疲れた後れ毛が、額からはらりと落ちてきた。
「やめておくれやす。大事な試合なんや、ほんまに正念場なんどす」
「力見せろって言わはったんで。こんなもんでどうやろ。まだ足りませんか」
 首をかしげて、アキちゃんは意地悪そうやった。そうやって眺める大画面に、また、新しいバットの男が立っていた。
 それを見つめるアキちゃんに、蔦子さんは、ひってなってた。
「あきまへん、そんなことに力使うたらあかん。ズルいやないの、ズルどすえ」
「そうやろか。俺は相手チームを応援してるだけなんやけど」
 カキーン、と、バッターが十二本目のホームランを打った。
 それにはさしも蔦子も崩れ落ちた。がくりと、板の間に手をついて。
「分かった。よう分かりましたえ。あんたはトヨちゃんの息子や。せやからもう、やめとくれやす。試合に手出ししたらあきまへん。神聖な試合なんやから」
 どこが神聖なんですか、ただの球遊びやないかって、アキちゃんはスポ根漫画の嫌みなライバルみたいな台詞を吐いた。いかにも悪役や。少なくともこの居間では、どう考えてもアキちゃんは悪魔そのものやった。
 阪神が、ボロ負けしてる。
 俺も涙出そうやった。
 半分つらくて、半分嬉しい。
 アキちゃんが俺のために、ここまでしてくれるやなんて。でももう、ほんまにやめて。日本一なられへんようになる。お願いやからもうやめてえ。
「アキちゃん……鬼畜すぎや」
 思わず傍にあった腕をとって、俺は呻いた。ほんまは、ありがとうって言うべきところやったんやろけど。
「何が鬼畜やねん。誰のためにやったってるんや」
 アキちゃん、ムッとしてたわ。
「俺や。俺やろ。でも見て、球場に居る大勢のファンの皆さんを。皆、一生懸命応援して楽しみに来てんのに、どっちが勝つか、アキちゃんが決めんのか。そんな権利、アキちゃんにあんの?」
 俺が縋り付いて頼むと、アキちゃんはちょっと悩んだようやった。
「……野球やで?」
 たかが野球ですが、みたいな、そんな口ぶりやった。
 そ、そうや。野球ですよ。それに必死なんやん、虎キチは。
 見ろ、海道蔦子の憔悴ぶりを。五歳は老けたわ。髪の毛ぐちゃぐちゃなってはるやん。蔦子さんは、もうあかんみたいに折れた背中で、ごくごくビール飲んで、テレビ消しなはれって、自分のしきに言いつけていた。体育座りで見てたチビッ子が、すたすた行って主電源を落としてやっていた。
 蔦子さんは、額に落ちた後れ毛を撫でつけて、アキちゃんのほうに膝を向けた。そうして、ふうっと不機嫌なため息をつく渋面は、俺にはやっぱり、アキちゃんそっくりに見えた。
「ようく分かりました。あんたの根性悪も、持ってる力も。要するに、あんたは我が儘なんや。天地あめつちに、自分の願いを聞き届けさせる力がある。あんたが強請れば、神風かて吹くのやろ」
 残ってた煙草を一息吹かしてから、それを蔦子さんはどこともない場所に差し出し、赤毛がそれを灰皿で受けてた。
「ウチはな、占いを生業としてます。未来を見る力がありますのんや。それは得意やけどな、あんたや、トヨちゃんみたいな力は振るいまへん。そやから、あんたを秋津の跡取りと見込んで、やってもらいたい仕事がありますのんや」
 蔦子さんの、きちんと背筋をのばして座る姿は、今度はおかんに似てた。
 アキちゃんはその姿を、俺を腕に縋りつかせたまま、じいっと見てた。
「読みましたやろ、霊振会のメールマガジンとかいうの」
 当然見たよなという口調で言われ、アキちゃんがうっと呻いてた。
 蔦子さんの仕業やったんか。あのスパム。アキちゃんをふらふらにさせた霊振会。
「蔦子さんやったんですか! あんなもんに俺のアドレス登録したんは!」
 アキちゃん思わず怒鳴る口調やったわ。キレ芸VSキレ芸や。それでも蔦子さんは、逆ギレはせえへんかった。そうや、っていう何気なさやった。
「うちはやり方わからへんから、信太がしてくれたんどす。茂ちゃんがな、大崎先生や、あのお人が、あんたも霊振会に入れておやりて言うもんやから、ほなそうしましょうと思ってたんやけど、ずっと忘れてたんや。それが今朝、なまずが騒ぐもんやから、これはとうとう、あんたを呼びつける時が来たと思うてな」
「それと霊振会と何の関係があるんや」
「読んでまへんのんか。迂闊な子ぉやわ、ほんまに。なまずのことが書いてありましたやろ」
 そんなん書いてあったっけ。俺、人面魚の話しか読んでへんかったわ。アキちゃんが消せって急かすもんやから。人魚というか、半漁人というか、人面魚みたいな海モノが、最近、神戸の須磨海岸に上がったんやって。それで、何やおかしいなって、そんな話。
 すげえ、人魚やで。俺、見たことないし見てみたい。あっ。顔綺麗なんかな。それやったら見にいかれへんわ。アキちゃん、さらわれてもうたら大事やから。
「読んでません……」
 反省した声で、アキちゃん答えてた。ほらな。読んどいたら良かったやろ。俺の言うこと聞いといたらええねん。アキちゃんの超常アレルギー、なんとかせなな。
「まあ……よろし。明日にしましょ。ウチはもう、今日は疲れたさかい、寝ます」
 燃え尽きた顔で、蔦子さんは寝る宣言。
「そやけどな、ぼん。あんたに心があるんやったら、水煙に頼んで、試合を巻き戻しといておくれやす。その子は時間を戻せるんや。アキちゃんにはできたそうや」
「時間を戻す?」
 俺はアキちゃんと、声をそろえて聞き返してた。
 そんな荒技、聞いたこともない。怖い。水煙、どんな秘技を持ってんねん。
 どうしよう、俺、そんな強そうな奴にめちゃめちゃ喧嘩売ってもうた。
「決まった範囲だけのようやけど。球場の時間を戻すくらいはできるんやおへんか?」
 どことなく、泣きつく口調で言う蔦子さんは、ちょっと可哀想やった。
 オバチャン、ほんまに悲しいんやな。阪神、負けるんかな、今夜。
「無理やろ、蔦子さん。中継されてるんやで。テレビとか、ラジオとか、ネットでも。それを全部巻き戻せなんて、いくらなんでも無茶やろ。命懸けでやるような事やないわ」
 床にごろんと寝転がっていた虎も、燃え尽きてたんか。諫める信太の声には力がなかった。がっくり来てる。
「ああ、そうやった。ほんならあの十二点は諦めなあかんのか。むごいわあ」
 よろよろ立ち上がって、蔦子さんは居間から出ていった。後に残されたしきの中には、どろんと消える奴もおったし、彼女の後に付いていく奴もおった。
 信太は赤毛と二人でその場に残って、まだ残ってるビールを片付けようという気配やった。
「飲みますか、本間先生も」
「いや。車で来たんやし、もう失礼するわ」
「帰れませんよ。しばらく居てもらわないと」
 すげなく断るアキちゃんに、信太は苦笑いで教えた。
 煙草を取り出し、一本銜えた信太の口元に、隣の赤毛が手を差し出した。ライター持ってんのかと思うたら、素手やった。その、なんにも持ってへん指の先から、ふっと小さな火が現れて、信太の煙草に火を入れた。
 こいつも蔦子さんの式神なんやろと、俺は赤毛の正体を見定めた。なんかの鳥っぽい。どことなく、異国モンくさい顔立ちの赤毛男を、俺はじっと見つめた。
「寛太、寝床の用意はさせたか」
「抜かりなく」
 新しいグラスにビールを注ぎながら、赤毛は答えた。
「ご案内しろ」
 虎の命令口調にも、赤毛はにこにこ機嫌がいいままやった。返事の代わりに頷いて立ち上がり、裸足の足でひたひたと、俺らの方へやって来た。
「客間のほうへ」
 にこにこ愛想のいい顔で、赤毛は俺とアキちゃんに、立つように促した。何とはなしに離れがたくて、俺はアキちゃんの腕にぶら下がったままやった。そやからアキちゃんは成り行き、片手に俺を、もう片方に水煙をぶら下げて歩く羽目になったんやけど、手を放せとは怒らへんかった。
 そんな異様といえば異様な俺らの様子を、赤毛はちっとも不思議に思わんようやった。黒光りする板間の廊下を、ひたひたと裸足で行く赤毛の足は、写り込む床のほうでは、固いウロコのある鳥の足やった。
 この家にいる人間は、蔦子さんとアキちゃんだけや。あとは全員人でなし。そんな予感がした。ひそひそと、噂するような囁き声が、天井裏から聞こえてた。きっと海道家に憑いてる何か下等な霊やろう。
 アキちゃんの腕に縋りつつ、俺はその沢山いる気配を感じつつ歩いてた。
 客間は薄暗い廊下の奥にあり、和室かと思ったら、和風の黒い板間のまま、でっかいダブルベッドが置いてあり、赤い和紙を張った行燈あんどんみたいな照明があった。
 ライトなんかと思ってたら、赤毛は傍に行って、それに火を入れた。ふっと指先から移す、赤い和蝋燭に灯したほんまもんの火やった。
「電気もあるんやけど、暗いほうが雰囲気いいでしょ」
 雰囲気って、何のって、訊くだけ野暮やという気配やった。
 寝間着にパジャマ、着るんやったらと言って、赤毛はベッドの上にある真っ白なパジャマを指さした。そして、風呂やトイレは奥に客間専用のがあるし、クロゼットには当座の着替えが、それから酒もあるしと俺に教えた。
 それにな、やるんやったら、枕元にある練り香を使い。あれは、それ用やからと、あっけらかんとして言った。まるでそんなもん日常茶飯事、声をひそめる必要もないわっていう、そんな態度やった。
「先生、剣はどうします。預かりますか」
 あぜんとしてるアキちゃんに、赤毛は訊ねた。アキちゃんはそれに、首を横に振っただけやった。
 たぶん、思ったんやろ。こんな得体の知れん奴らに、伝家の宝刀を預けるわけにはいかん。信用でけへんわって。
 せやけど赤毛は、親切で言うてたんやろ。預けへんのかって、皮肉な笑みやった。
「三人でやんの?」
 ひそめた声で、赤毛は俺に尋ねてきた。俺も何も言わんと、ただ首を横に振っただけやった。そんなんせえへんで。やるとしても、俺とアキちゃんだけやでって。
「すごいなあ、お宅の先生。何人でも養えるやろ。さっきは痺れたわ。せやけどお前、損したで。信太の兄貴もなかなかすごい。まさに虎並み」
 にやにやと、俺にそう囁いて教えて、赤毛は出ていく素振りやった。
 それではどうぞごゆっくりと、慇懃に言うて、ちらりと値踏みする一瞥をアキちゃんにくれ、赤毛は去った。床に写り込む鳥の足で、ひたひたと。
 そして水入らずになってからも、俺とアキちゃんは、しばらくぽかんとしてた。なんやろ、この家。何や変なん、いっぱいおるわ。
「いつ帰れるんやろ……」
 どうも弱気になってきて、俺は腕にすがったままやったアキちゃんに訊いた。せやけどアキちゃんかて、そんなことは知るわけもない。何も答えへんかった。
 それでも組んでた腕を解かせて、その手で俺の背を優しく撫でてから、アキちゃんはベッドの上に水煙を置きにいった。他に置くとこないねん。部屋は狭くはなかったけど、ベッドがでかいもんやから、ベッドを置いたらそれで何となく埋まった感があり、他には赤い行燈があるだけで、椅子もテーブルも何にもなかった。
 一応、和室なんやから、床に置けばええのかもしれへんけど、ロー・ベッドとはいえ、とにかくベッドがあるからには、床に置いたら可哀想やと、アキちゃんは無意識に思ったんかもしれへん。
 せやけど、どっちが可哀想やったやろ。
 見た目が剣やと、アキちゃんは水煙のことを、道具の部類と思うてまうらしい。枕元の目覚まし時計が普段気にならんように、水煙のことも気にならへん。
 それともげきというのは、本来そういうもんなんかもしれへん。式神なんて道具やと、そういうふうに思ってんのかも。
 どうしたもんかと戸惑い顔で突っ立ってる俺のところへ、アキちゃんは戻ってきて、やんわりと、それでも強い腕で抱きしめてきた。その上背のある体を、俺はうっとり抱き返してた。
 アキちゃんの肩に頭をもたれさせると、とろんと心地ようなってきて、すごく安心できた。ああ良かったと、俺はやっと思った。捨てていかれんで良かったわ。今夜もこうして、アキちゃんに抱いててもらえる。他の誰かやのうて、俺の一番好きなアキちゃんに。
 このところの道場通いの効果やろう。アキちゃんの胸は前よりちょっと、逞しくなった。それに抱かれると、なんかこう、守られてるような気になる。実は俺のほうが強いんかもしれへんけど、それでも、なんでやろ。アキちゃんに抱いててもらうと安心する。ここに居るかぎり、俺は大丈夫。きっと幸せやって思えるんや。
「亨、俺はお前と、離れられへん。なんでやろ。お前が居らんようになると思うと、めちゃくちゃ怖い。ほんまにずっと、俺と一緒に居ってくれるか」
 俺の背を撫で、頭に頬ずりしながら、アキちゃんは何となく気弱そうに訊いた。それが何や可哀想に思えてきて、俺はもっと強くアキちゃんに抱きついた。
「ずっと一緒やて、いつも言うてるやん。居ってええんやったら、ほんまにずっと居るよ。永遠にずっと」
「居ったらあかん理由が、どこにあるんや」
 もどかしそうな声で、アキちゃんは抱いた俺の背に訊いた。
 そんな理由は、いくつかあるような気がする。
 俺が居ったら、アキちゃんは強うなられへん。しきが増えへんからな。
 それに俺と居ると、アキちゃんは普通からほど遠い。結婚して子供できてって、そんな普通の幸せには縁遠くなってまう。
 それでもええのか、アキちゃんは。それでもほんまに幸せなんか。
 俺は幸せ。アキちゃんと抱き合って、永遠に生きられたら、それで幸せやねん。せやけどそれは、俺の我が儘やんか。それにアキちゃんを付き合わせてもうて、ほんまによかったんやろか。
 俺はアキちゃんに幸せでいてほしい。ふたりで幸せやったら、それが一番ええけど、それが無理なら、俺はアキちゃんだけでもええから、幸せになってほしい。
 最近なんでか、よくそう思う。ときどき発作みたいに。
「亨、そんな理由、なんもないやろ」
 黙ってる俺に焦れたんか、アキちゃんは抱擁をゆるめて、俺の顔を見た。切なそうなような、不安そうな顔やった。アキちゃんは俺といて、時々つらいんやないかと思う。そういう顔してる時あるわ。
「うん……ないな、そんな理由」
 切なく見つめて、俺は微笑んだ。作り笑いやったんか。それでもアキちゃんを安心させてやりたかってん。たとえ嘘でも、そう言うてくれってアキちゃんが望んでるんやから。
 淡い笑みでいる俺を、アキちゃんはつらそうなまま見つめ、顎を上げさせてキスをした。熱いようなキスやった。
 もう、数えきれへんくらいしたけど、アキちゃんとキスすると、最初にした時とおんなじくらい、胸が騒ぐ。震えそうに気持ちよくて、もっとしてって思う。
 そうやって夢中で貪るようにして、ここまで来たけど、ほんまにそれでよかったんか。
 アキちゃんに服を剥がれながら、俺はそんなことを考えてた。
 半裸に剥いた俺を、アキちゃんはどことなく焦ったような手でベッドに押し倒した。そして続きを脱がせながら、裸の胸を舐められて、俺は喘ぐ息になってた。
「アキちゃん……俺、口に何か詰めへんと、声が」
「そんなん気にせんでええねん」
 どことなく、つらそうにそう言うて、アキちゃんは自分も脱いだ裸の胸で俺を抱いた。触れあう素肌の感触が、一瞬で胸を安堵と愉悦で満たしてきて、ふたり同時にため息ついてた。
「結界張んの?」
「そんなんせんでも、どうせ同じ穴の狢ばっかりやないか」
 吐き捨てるように言うて、アキちゃんは俺の体を知り尽くした手で、どんどん煽ってきた。
 声は筒抜けやろう。ここにも欄間らんまがあった。薄暗い廊下の天井が、そこから透けて見え、その向こうに、なんか小さいモンが、いっぱい居てるような気がした。
 俺は一応、声を堪えた。それでも押し殺したような喘ぎが漏れてきて、アキちゃんはもっと歌えっていう手つき。ほんまにキレると、何するかわからん男やで。
「あ……っ、気持ちいい」
 中を撫でられて、俺は仰け反ってた。ほんまにええねん。そういう体なんやろな。
 アキちゃんの指は、早く入れよう、一刻も早くやろうって、そんな感じの性急さ。
「畜生、なにが虎並みやねん」
 やっぱりそれでキレてんのか。
 小さく呟くアキちゃんの声に、俺は喘ぎながら苦笑やったわ。
 虎並みかあ。どんなんやろタイガー。確かに惜しいことしたんかもしれへんけど、今夜のアキちゃんもなかなかすごいで。たぶんこの一戦に面子をかけてる。
 それでももう、深く考える余裕はないんか、猪突猛進型。とにかく激しい。
 いつにない強引な手で愛撫してきて、俺の体を開かせてから、アキちゃんは汗だくで中に入った。たぶん、相当我慢してたんやろ。入れるなり喘いだわ。日頃は堪えてる声で。
 それでも、口を衝いてもそれは結局、我慢の声やった。アキちゃんは近頃いつも、俺とやるとき、ひたすら絶頂感を堪えてるらしい。入れた瞬間、イキそうに気持ちええんやって。
 そら汗も出るやろ。アキちゃんはほんまに、滴るような汗をかいてた。それでも夢中で、めちゃめちゃ激しく俺を突いてた。
 昇天しそうやって、俺も朦朧としてた。気持ちええんやで。しみじみ言うけど。アキちゃんてほんまに上手いと思うわ。狙いは正確やしな、わざとかどうか謎やけど、時々入る乱調が、それはそれで堪りません。
 あまりのさに、あっというまにドロッドロです。体が溶けそうみたいになってきて、声を堪えるのなんか、綺麗さっぱり忘れたわ。
 ひんやりとした、秋の花を思わせるような香りがしてた。赤毛の鳥が用意してった例のアレの匂いやろ。いい匂いやけど、これ、何か変なもん入ってたんやないか。あまりにすぎで、癖になりそう。それともドーピング疑惑は濡れ衣で、押し寄せるようなアキちゃんの怒濤の愛が、危険なほど気持ちいいだけやったんか。
「気持ちええか、亨」
「気持ちええわ。ものすごくいい……いきそうや、アキちゃん」
 俺の脚を押し開いて、真面目に訊いてくるアキちゃんに、俺は切羽詰まって答えてた。
「我慢せえ。もっといっぱいしてやるから」
「ああ、そんな……無理や……」
 もう無理、ちょっと緩めてほしいぐらいや。またもや最速記録更新というのでは、ちょっとどうやろ。もっとゆっくりやったほうが、ええんやないか。長い一生なんやし、時間なんかいくらでもある。焦ってイクことないやんか。
「亨、好きや……好き」
 ぐわあ始まった、アキちゃんの言葉責めが。最近の癖やねん。燃え燃えになってくると、好きや好きやってずっと言うんや。やめてほしいねん、俺はそういうのに弱いんやから。我慢でけへんようになるやんか。
「やめて、アキちゃん、それは……やめといて」
 いや、やっぱ、やめんといて。もっと言うてくれ。もっと激しくやって。でももう我慢でけへんようになる。つらい。気持ちいい。天国と地獄がいっぺんに来たみたい。盆と正月とクリスマスもついでに来たみたい。つらくて、気持ちよくて、めちゃくちゃ幸せ。ああ、ほんまにもう、これは、堪りません。
 激しくやられながら、俺は絶頂に達してた。吹き出たやつが、アキちゃんの汗に濡れた体を、さらに濡らした。恥ずかしい。それはそれで、堪らんようなさや。すぎて、なかなか終わらへん。
 狂ったように喘ぐ俺を、欄間から誰かが見てた。無数の小さい目みたいなのが、じいっとこっちを見てる。ああ何やねん、見んといてくれ。恥ずかしいやんか。それに俺は、見られると感じるほうやねん。変態か。まさにそれですやん。外道なんやから。
 くすくすざわめいて覗き見してる見たがり屋は、どうやらここの家憑きやった。新しい家やのに、どこかからあいつらも一緒に引っ越してきたんやろ。
 物見高くガン見していた連中やったけど、途中で半分どっかへ消えた。あっちもすごいわって、見よう見ようみたいなノリでやな、ざわざわ逃げていったわ。
 闇夜にかすかに喘ぐ声が、聞こえたような気もしたな。それは自分の声の木霊やったんか。それともタイガーに食われてる誰かか。わからへん、それは。
 もしかしたら今夜、虎に食われて死ぬ目にあってたんは、自分やったんかって、俺はぼんやり思ってた。アキちゃんに抱かれながら、もうどうしようもないくらい気持ちええのに、そんなことを思いつけた。
 俺はなんて、不実で淫乱なんやろって、そう思うと燃えた。
 アキちゃんが二回目をやる間、俺はずっと、咆吼する虎の絵が、頭にちらついて離れへんかった。それは居間のテレビで観たようなやつとは違う。見上げるようなでかい虎やねん。それが炎をまといつかせて、激しく吼えてる。俺が震え上がるような、ものすごい声で。そしてそいつが、貪り食いに来る。
 ああ、やめて、って、それを拒み、その空想を振り払おうとした。
 何でそんなこと思うんやろ。それが悲しくなってきて、俺は泣いてた。気持ちよすぎて涙出てきてただけか。泣くほど気持ちええんやって、アキちゃんは思ったらしかった。
 それは、嘘やない。本当や。気持ちよかった。
 せやけど俺の目には、ベッドに放置されたままやった水煙の、煌めくような鞘が見えてた。
 確かに俺は、あいつが言うように、誰でもええのかもしれへん。アキちゃん好きやって狂ったようやのに、その同じ頭で、虎が吼えてる。そんなん嫌やって泣いてみせても、結局お前は淫らな蛇やろって、ものを言わんようになった水煙が、思うてるような気がして、見んといてくれって俺は焦った。
 また口きけるようになったら、水煙はそれを、アキちゃんにチクるやろか。言うやろ、当然。ジュニア、あの蛇は、お前とやりながら、他の男のことを考えてる。アホな夢から醒めろって。
 ああどうしよう。
 その焦燥感の中で、俺はアキちゃんに追い上げられて、またイってた。気持ちいい。でも、不安で胸が騒ぐ。その恐れと、感極まった愉悦とで、俺の体はがくがく震えてきてた。
 アキちゃんはその体を抱いて、俺が好きやって言うた。そして奥深くでその言葉と同じ熱い愛を注いだ。絶頂に強ばるアキちゃんに、強く抱かれて、俺は息もできんようになってた。
 嫌や。こんなのは。アキちゃんのことだけ想っていたい。他のなんか要らん。
 それでも、あれもいい、これもいいって、よろよろ惹かれてまうんは、俺の性癖か。どうしようもない奴なんか。
「アキちゃん……」
 終わった後のはあはあ荒い息で抱き合うと、アキちゃんの体は汗で濡れていた。俺もすっかり汗だくやった。それでもアキちゃんは、気にせず抱きしめてくれてた。
「アキちゃん、俺が、浮気したらどうする?」
 つらいか。アキちゃんは。怒ってくれるか。それともいつもみたいに、好きにしろって言うんか。やせ我慢して、なんでもないわっていう顔を作って。
 抱かれて見上げてる俺を、じっと伏し目に見ながら、アキちゃんは考えてるようやった。何度か瞬きする間、アキちゃんは考え込んでた。
 そして、ぽつりと答えを出してきた。
「殺す」
 その答えに、俺の頭は真っ白になってた。
 殺されるんや、俺。アキちゃんに。許せへんのか。それぐらい、怒ってくれるんか。
「そうして……アキちゃん、ほんまにそうして」
 もしも俺にアキちゃんより好きな相手ができてもうたら、殺してくれ。俺は死にたい。そんな自分が、許されへんから。水煙に、やらせてもええよ。あいつに捕らわれて、永遠の拷問みたいに、アキちゃんが他の誰かと幸せになるのを、震えながら見てる。それぐらいの罪やと思う。もし俺が、アキちゃんを裏切って、他のに走れば。
「そんなこと、俺にさせるな」
 唇が触れそうな近さで、俺の頬を包んで、アキちゃんはそう命令してきた。俺はそれに、黙って頷いた。そして、アキちゃんにキスしてもらった。
 蒸れたベッドの上で抱き合うと、夏ももう終わりやという気がした。秋のような匂いがしてたせいか。ふと首筋の寒いような気分のせいか。
 寒いと言うと、アキちゃんは抱いてくれた。熱い腕で。それに縋って、俺は眠った。深い安堵と不安の両方がある。幸せで、寝苦しい夜やった。


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