SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

神戸編(3)

「京阪神霊能者振興会?」
 運転しながら俺が訊ねると、亨は首をすくめて頷いた。
 どうも怒ったような声で訊いてた。
 なんやそれ、アホみたいな集団やと、情けなくて涙出そう。しかもそのアホ集団に、身に覚えのないまま自分が参加したことにされてるというんやから、もうどうしようもない。
 自分のせいやないのに、亨は助手席で携帯持ったまま、俺に叱られたみたいな顔をしてた。
「なんやねん、それ。もう一回読め、亨。途中から気が遠くなってしもて、今イチ聞いてへんかった」
 どっかに車停めようかとイライラ悩みながら、俺は亨に頼んだ。
 頼んだって言わへんか、こういうの。
 ほんなら命令した、や。命令したんかもしれへん。どっちでもいいやんか、それは。
 とにかく亨はおとなしく、受信されてたメールの文面をもう一度読み返した。
「京阪神霊能者振興会より、ご参加ありがとうございます。本会は京阪神在住の、もしくは主に京阪神を活動地とされている、霊能者の方々によって構成されている互助会です。いわゆる自称霊能者のたぐいの、実際には霊能力を持たない方の入会はお断りしておりますので、極めて充実した活動内容を保証いたします。つきましては入会金として十万円以上のお心付けを頂戴したく、下記の振り込み先にご入金願います」
 俺は二回目も、途中からちょっぴり気が遠くなってた。
 たぶんキレそうやねん。頭に血がのぼってきて、ブチッみたいな。それを堪えて頭がくらくらする。ふらあって目眩がして、思わず目を閉じそうになるけど、それはヤバい。運転中運転中。
 やっぱりどこかに車停めたほうがいい。このままやと事故ってまう。
 そう思って俺は、見慣れぬ街の見慣れぬ道に、車を停められる場所はないか探し、しばらく走った路肩に停めた。
 エンジン止めようかと思ったけど、暑いしやめた。
 そんな地球に厳しい俺に、カーステのラジオは地球を大切にしようという環境CMを呼びかけてた。なにがクーラーの設定温度を下げましょうやねん。それが極めて重要というのは頭で分かるが、今はまず自分の脳みその温度を下げることが重要や。
 マジでキレそう。ここまで怒ったことって、最近無かった。ほんまにヤバい。
 ついさっき道場で、師範にめちゃめちゃイケズされた時にだって、ここまで怒ってへんかった。ちょっとムカッときた程度やったで、あれは。
「振り込め詐欺やろ」
 俺はなんとかそう結論をつけた。
 亨はそれを、じとっとした反論したそうな横目で見てきた。
「誰がこんなピンポイントなスパムを送れるっていうんや……」
 そういえば誰なんやろうって、俺はやっとそれに気がついた。
「差出人は誰になってるんや?」
「せやから、霊振会れいしんかいやんか。メールアドレスも、ウェルカム、あっとまーく、れいしんかいドットJPやで」
 俺はその話にもなぜかキレそうになった。それで慌ててハンドルに突っ伏してた。
 なんでそんなアホみたいな会が存在すんねん。しかもドメインまで取ってる。誰でもドメインとれる世の中って、実はまずいんとちゃうか。そんな怪しい団体にまで、インターネットは両手を拡げて待ってるんか。なんでもありやな、インターネット。表現の自由を与えすぎ。
 俺がそんなこと思う間にも、携帯はまた亨の手の中で、メールの着信音を鳴らした。
 それを開くために操作してる気配がしてから、亨はぽつりと言うた。
「アキちゃん、メルマガ来たわ。霊振会から」
 メルマガまで発行してる。
「霊振会通信Vol.138」
 そんなにバックナンバーあるんか。
「よ、読む? 読んでいい?」
 ちょっと読みたそうな顔で、亨はおずおず訊いてきた。俺はそれを、思わずじろりと睨み付けてた。
「読みたきゃ読め。俺の携帯で、そのアホみたいなメルマガを、読みたいんやったら読め」
「えっ。読みたいやろ、アキちゃんも。気になるやん、どんな内容なんか」
 ごめんなごめんなと言いながら、亨は気まずい顔して、携帯を操作した。メルマガを開いたらしかった。そして目をすがめて、それを読んでた。
 亨の目はいい。せやからそんな顔するのは、内容がすごかったからやろ。
「うおー……なんやこれ……京阪神の霊能者の皆様のステキな活動記録やで」
 読もか、って、亨は俺に訊いた。
 読むな。知りたない、そんなもん。
 俺は、霊能者じゃ、ないから。ええか。ここ重要やから、もういっぺん言うけどな、俺は、霊能者では、ありません。
 絵描きや。画学生やねん。
 実家は確かにアレやけど。俺はそれを継いだらしいけどやな。とにかく霊能者なんて得体の知れんモンやないから。そんなもんになった覚えない。
 なんでそういうことになるねん。これでも一応、普通でまともを心がけて生きてきた俺やのに。履歴書の職歴欄に、『霊能者』と書けというんか。そんなん、激しく普通でないわ。
 思えば確かに、昔から、普通でないような面はあった。
 おとんがいないという点で、まずちょっと他人と違う不自然な子として小学校時代がスタートし、その他にもいろいろあった。目には見えないお友達がいるとか。学校の一階にあるトイレにいくと、なぜか決まって一番窓側の個室から、おいでおいでって声がして、怖すぎて行けないとか。そういうのから始まって、ふざけて俺を生徒会に推した奴が、原因不明の水ぶくれのできる病気で一ヶ月も学校を休んだり。
 それでも俺はできるかぎり、目立たぬように生きてきた。注目されたらバレるから。俺がまともでないことが。
 大学に入ってからや、その運気が本格的に傾いてきたのは。
 実家を追い出された心の傷が癒えず、ついついやってもうた女がらみの無節操が祟り、タラシの本間と後ろ指を指されたりしたけど、それは単にモテてただけ。人間、一生に一回くらいはそういうモテモテの時期があるって聞くし、俺の場合はそれが大学の一回生、二回生のころやったんや。その後は遊んでない。全然遊んでないで。三回に入ってちょっとしてから、半年付き合ってた女がおったんや。
 ……死体やったらしいけどな。
 その後が亨やろ。こいつも、どう見ても人間ではない。
 そして俺自身、もはや、どう考えても少々人間ではない。
 せやからな、自分が普通の大学生やなんて、そんな贅沢は言わへんよ。そのへんの身分はわきまえてるつもりや。
 けどな、それでも、たとえ普通でない大学生でも、少なくとも俺はまだ京都の美大に在籍してるから。学生なんやから。まだ働いてへん。一回だけ、実家の手伝いということで、疫神退治をしたけど、それは自分の不始末の後片付けやから、仕事というわけやない。
 俺はな、活動してへん。霊能者としての活動なんかな、してへんのや。
 せやから霊能者ではない。霊能者ということになってまうのか。家業を継いだら。そういうことなんか、おかん。それが俺の現実なんか。受け入れたくない。
 ううう。なんや頭痛うなってきた。ちょっと、頭に血昇りすぎか。死んだらヤバい。せっかく亨と永遠に生きられる予定やのに、キレて死んだら化けて出る。
「アキちゃん、大丈夫か。ものすごい顔色悪いで。し、しんどいんか」
 俺がよっぽど崩れ落ちて見えたんか、亨は携帯握りしめたまま、隣でオタオタしていた。その綺麗な顔も、なんや朦朧と見えるわ。
「若干吐きそうや」
「よくそこまで変調きたせるな、霊振会通信ごときで」
 空いてるほうの手で、俺の背をさすってきながら、亨はちょっと呆れ顔やった。俺は心なしか、額に汗やった。なんか気分悪くて、脂汗出てきた。
 昔から何か、ものすごくショックなことがあると、俺は吐きそうになる。でも、ほんまに吐いたことはない。我慢強いからな、嘔吐感くらいは真顔で堪えるわ。
 たぶんストレスやねん。胃の弱いほうとは思わへんのやけど、それでも胃がおかしなるんやから、相当ヤバいくらいにストレス物質出てるんやろ。
 胃が弱いんやのうて気が弱いんやって、おかんには言われてた。子供の頃だけやけどな。そんなもん治ったというふりを、中学ぐらいからは敢行中。
 けど実は、ぜんぜん治ってない。
 亨にはその話を、したことないけど、したら爆笑されそうやな。言わんとこ。格好悪すぎ。俺はこいつに、格好悪いとこ見られたくないんや。
 なんでって、それは単に、俺の見栄やけど。見栄張ったら悪いんか。だって嫌なんや。俺はこいつに、アキちゃん格好悪いわって言われるのが、死ぬほど嫌や。
「捨ててくれ」
 そのメールを削除しろと、俺は頼んだ。亨はまた文面を未練がましくスクロールさせながら、はいはいと気のない頷き方をした。
「削除、と……」
 消してる様子の亨は、それでもまだ惜しそうやった。
「消してもな、アキちゃん。また来るんとちゃうか。Vol.138やもん。139が来るんやで、そのうちに」
「そんなん、受信拒否しといてくれ」
 俺のその頼みに、亨は、えーっ、と不満そうに呻いた。
 何で嫌やねん。俺の頼みが聞けへんのか。
「なんで拒否すんの。面白かったで、けっこう。ほら、道場でな、小夜子さんが話してた神父の話とかな、載ってたで」
 にこにこ言うてから、亨は突然真顔になった。そして、ふと素知らぬ顔を作って、さあ行こかと言った。
「なんやねん、どうしたんや」
「何でもない。全く興味がなくなった。どうでもええわ霊振会通信。受信拒否しとこか」
 操作しつつ、嘘くさい声で亨は言うてた。
 変や。何かある。
「なんやねん。急に態度おかしいで。神父がどしたんや」
「いや、どうもせん。アキちゃんは、神父は好きか」
 操作が終わったらしい携帯を、亨は俺の手に返してきた。そうしながら訊かれた事が、あまりにも普段考えたことがない種類のもんやったから、俺は何となくぽかんとしてた。
「好きか、って……好きでも、嫌いでもない。本物を見たこともないわ」
「そうか。見んといて。映画の『エクソシスト』とかに出てきてたやろ。ああいう、えげつないオッサンやで。悪魔サタンよ去れ〜、みたいなな。あいつら蛇嫌いやし、俺ぜったいイジメられるから。アキちゃんも近づかんといて」
 横目にじとっと俺を見て、疑わしそうに亨は言った。
 なんでその話を、こいつ信用でけへんわみたいな目で見られながら聞かされてるんやろ、俺は。
 でも、とにかく、別に神父なんぞ知り合いにおらん。近づかないと約束しても、困ることなんか、特にありそうもない。
「近づかへんよ」
 俺は安請け合いした。亨はそれも、疑わしそうに見た。
「そうか。絶対やで。約束破ったら何してくれる?」
 何って。何か罰ゲームでもあんのか、その約束には。
「破らへんから、そんなもん決める必要ないやろ」
 俺はたじろいで、じとっと見てる亨の横顔を見返した。なぜか追いつめられている自分を感じる。なんでやろ。まだちょっと腹痛いせいか。亨の目が痛い。疑念に満ちた視線が俺に突き刺さるかのようや。
「いや、決めとこか。それも何らかの抑止力にはなるかもしれへん」
 何の抑止や。
「もしこの約束破ったらな、六甲山の山頂とかから、亨好きやって大声で絶叫してくれ。なるべく大勢の皆さんに聞こえるところでや。結界とか、そういうズルは無しやで。ガチで絶叫なんやで、アキちゃん」
 それは絶対、約束守る必要が出てきた。
 怖い。それって、将来もし親戚の結婚式とかに呼ばれて、それがキリスト教式で、神父がいたりする場合でも適用されるんか。あるいは道で偶然神父にすれ違ったとかいうのもカウントされるんか。詳細ルールを決めといてくれ。電車で隣り合わせたとか、そういうのやと俺も気をつけようがない。
「会うって、どこまでの範囲が会うたことになるんや」
 俺は契約書はすみずみまで読むタイプ。うっかりハンコ捺したりせえへんで。
「ちらっと見るだけでもアウト」
 亨はなぜか鬼気迫る勢いでそう即答してた。
 なんでや。なんでそんなに必死やねん、亨。
 その腹を探ろうして、俺は小夜子さんの話を思い出した。
 ものすご美形の神父さんが来たと、確かそんな話やった。そんな神父さんもいてはるんやと、その程度にしか思わへんかったから、思い出してへんかったわ。
 俺はな、確かに面食いかもしれへんけど、それは無意識やねん。美形漁りをしてるわけやない。たまたま見たのが綺麗やったときに、ぼけっとなるだけ。話だけやと何とも思わへん。
「お前な、俺が小夜子さんの言うてた神父によろめくと思ってんのやろ」
 亨にそれを指摘してやると、微かにギクッとした顔をした。
 そうか、お前はそういうふうに思ってんのや。俺が意図的に浮気してると、そんなふうに疑ってたんや。
 そんなこと、するわけないやろ。神父や言うねんから、男なんやで。俺は顔綺麗な男をわざわざ見にいってよろめくほどにはイカレてない。そこまでするわけあらへんわ。だって今でも女の子のほうが好きやもん。
 たぶんそうや。きっとそうやと思いたい。
 確かに今朝、水煙にちょっとクラッとしてた。でもそれは、なんというか、事故や。事故みたいなもん。それに水煙も、もしかしたら宇宙では女なんかもしれへんやんか。まだはっきり訊いたことはない。お前は男なんかとは。せやから女やという可能性はあるやん。ゼロではない。
 それに勝呂のこともあると、亨には言われるやろけど、あれはなんというか、不可抗力やで。俺が好きやったんやない。あいつが俺を好きやったんや。そうして始まった話や。
 可哀想なやつやった。俺のせいで、酷い目にあって。ほんまに済まんと思うてる。
 でも何もしてへん。ほんまに何もしてへん。
 浮気なんかしてへん。しそうになったけど我慢した。
 亨だけやんか。俺が抱きたいと思う男なんて。そんなの誰も彼もに思うてたらヤバいで。普通やないやろ。
 せやからな、俺は基本的には女のほうが好きなんやって。
 そう結論して、俺は最近、胸がときめいたリストの中の女の子を一応チェックした。
 そしたらな。
 おかんと舞ちゃんだけやったわ。
 ……。
 ひとりは実の親で、ひとりは人間やない。
 ちょっと、それはどうやろ。
 俺って、もしかして、冷静に振り返ってみると、大学三回生に入ってからちょっとして以降、まともな人間の女と全く縁がないんとちがうか。ときめいてない。通常、恋愛対象とおぼしき、人間で、生きてて、血縁のない普通の女に。
 本気で恋して一ヶ月以上保った一般的な女が過去にいない。というか、過去にちょっと付き合うたことある女も、向こうから告白してきて、そんなら付き合うかって、そういう流れで何となく付き合うてただけ。自分から行ったことない。
 それに俺はちょっと、震えてきた。
 神父。避けよう。まともでいたかったら。美形の神父なんて、ちらっと見るだけでもリスクが高すぎる。
 そもそも亨についても、水煙も勝呂もや、顔がいいのが敗因やった。顔さえ良ければ、それによろめくというのが、最近の俺の傾向なんや。
 確証はないけど、どうも外道の皆さんというのは、霊力が高ければ高いほど、美しいことが多い。まさに人並み外れた美貌やねん。
 きっとそれも、一種の神威なんやろ。力の現れや。皆が皆、美形ということはないやろ。疫神みたいに、ブッサイクなのもおるしな。ブサイク言うたらあかんわ。神様やから。申し訳ありません。
 とにかく、威力が見た目の美として発露する種類の連中もおる。そういうのが要注意なんや。俺にとってはハイリスク。
 もともと絵描きとして俺は、綺麗な景色とか花とかいった、美しいモンを描くタイプやった。せやから見とれるような綺麗なもんには、問答無用で目が釘付けになるねん。描きたいなあって、頭ん中で下絵を描いてしまう。
 その性癖を直すのは無理や。それはもう俺の人格の一部やねんから。
 だったらもう、そういう類のもんを見ないように気をつけるしかない。
 なんて悲しい人生なんや。
 でもまあ、ええわ。幸い俺には亨が居るから。綺麗という点では、こいつの顔は折り紙つきや。毎日見てても飽きへんし、これで手を打とう。
「わかった。約束する。もしその美形神父をちらっとでも見たら、俺の負け。せやけどな、他の神父は別にかまへんのやろ。親戚の結婚式に来るオッサンの神父とかな、そういうのは別に気にならへんのやろ、お前は。まずいのはその、美形神父だけなんやろ?」
「ぶっちゃけそういう話や……」
 流し目のまま俺から目を背けて、亨はちょっとスネたように、路肩に止めた車の窓から、車道を流れていく車の群れを眺めるふりしてた。
「約束するから、そんな心配せんといてくれよ。情けなくなってくるわ。俺ってそんなに信用ないんか」
 信じてくれと亨に言うには、ちょっと最近悪い子すぎた俺は、どうも言葉に力がなかった。参ったなと思って、自分の首を揉んでる俺を、亨はちらりとまた横目に見てきた。
「無い」
 一刀両断の即答やったな。
 そうか、無いんか。そうか。
 この野郎。みたいに思うけど、あまりにも反論できなさすぎて、俺は痺れてた。
 まあ、そうやな。今日は無理やろな。今朝あんなことあったばっかりやし。確かに俺は今朝、改めて振り返ってみると、風呂場で全裸の水煙と抱き合うてたよな。
 でもそれも、不可抗力なんやで。そうやろ。そういう話やったやろ。俺に罪なんかないやろ。
 でも、黙っとこう。もっと、偉そうな口きいてもかまへんような、イイ子になってから反論しよう。その日がくるまで気をつけよう。美形神父とか、美形なんとかに遭遇しないように。
「行こうか、話もついたことやし」
「そうやな。とっと帰ってベッドで組んずほぐれつしよか」
 納得したんか、亨はいつも通りのアホみたいな事を言うてた。
 まずは飯やろ。それより先にベッドに引きずり込まれるんやろか、俺は。恐ろしい悪い蛇や。ある意味、悪魔サタンそのものやけど。でも、そんなもんが好きになってもうたんやから、どうにも仕方ない。
 諦めて、俺はサイドブレーキに手をかけようとした。車を出すために。
 その時、今度は通話の着信音で、シャツの胸ポケットに入れてた携帯が鳴った。
 誰か、知り合いからの電話やなかった。登録してある着信音のどれでもない。聞き慣れないその音に軽い驚きを感じながら、俺は携帯を引っ張り出した。
 そこには携帯からの発信者番号が表示されてたけど、知らない番号やった。
 出るべきかどうか、ちょっと迷って、それから俺は電話に出た。
 耳に受話器をあてると、車の走り過ぎていく道の傍から、通話してきてるような背景音がした。
 もしもし、と、若い男の声が話した。それは関西の訛りやったけど、どことなく聞き慣れない話しぶりやった。
『本間先生ですか』
 俺の名前を確かめるときに、先生つけるような奴って、そう沢山はおらん。画商の西森さんか、それ以外というと、マスコミ関係者とか、できれば話したくないような相手がほとんどや。
 せやからその時も、どこかのうるさい奴が、いまだに俺を追い回そうとして、携帯の番号を調べあげてきたんかと思って、俺は電話を切ろうかと迷った。
 その沈黙を受けて、電話の向こうの声は、軽快に笑った。
『切らんといてください。初めましてやけど、先生のことは、ご幼少のみぎりから、ようく存じ上げてます。信太しんたて言います。海道蔦子かいどうつたこ先生の、しきやねん。以後よくお見知りおきを』
 詠うような調子のある、軽快な早口で、電話の相手はそう言うた。
 海道蔦子かいどうつたこしき
 その単語から、俺には電話の相手が、どこの誰とも知れない不審者ではないという判断をした。
 海道蔦子というのは、俺のおかんのイトコで、長年の親友やということで、時々家でのおかんの話に出てくる名前やった。確か、おかんにとっては幼馴染みで、昔は京都に住んでたけど、お嫁に行って、今は神戸の人やって。そんな話やったはず。
 せやから秋津の親戚筋やねん。結婚して名前は変わってるけど、旦那さんも一応、その筋の人なんやって、おかんは言うてた。
 なんやっけ。確か、風水師。そう言うてた気がする、蔦子ちゃんの旦那さんは風水の人やって。大昔、蔦子ちゃんの旦那さんのご先祖様は、海を渡って、向こうのほうから来はったんえ、って。
 向こうって、どこや。中国?
 その家のしきが、信太しんたっていう名前なんか。むちゃくちゃ和風なんやけど、それはええのか。
『なんで黙ってらっしゃるんですか。何か言うてくれへんと、間違い電話してもうたんかと思いますやん』
 笑いながら言う声は、これが間違い電話ではないという確信があるような口ぶりやった。
「失礼……驚いたんで。海道蔦子さんは存じ上げてますが、いったいどういうご用件ですやろか」
なまずの件で話があると、あるじから、面会の申し入れをするよう言いつかってます』
 俺は相手の話に、一呼吸の絶句をした。
「分かりました。いつ伺えばよろしいですか」
 スケジュールきついなと思ったんやけど、話題が話題やった。
 水煙が今朝、なんとなく洒落にならん気配で言うてた話や。なまず
 その話を、無視していいわけがないと、そんな気がして、俺は早々に頭の中のカレンダーを繰ってた。
『今からおいでください』
 断固とした、というか、それが当然という、くつろいだ口調で、電話の向こうの、信太しんたなる式神は言うた。
 なんなんやと、警戒したような顔をして、亨がうっすら顔をしかめ、俺と顔を見合わせた。こいつにはたぶん、電話の声が漏れ聞こえてるはずや。
「そちらのお宅を存じませんが」
 俺は、どうしたもんかと考えつつ、生返事をしてた。
『俺が案内します』
 きっぱりと言うて、式神・信太はぷっつりと通話を切った。
 どういうことや。
 俺はツーツー鳴ってる自分の携帯をじっと見つめた。電話切れてる。
 俺は海道さんちに行ったことはない。その蔦子さんという、おかんのイトコ兼親友にも、会ったこともなければ、写真で見たこともない。
 そんな人が、ほんまに居るんかって、俺がぼんやり思った時、ごつごつと運転席の窓を叩く手があった。
 中指にはめた、でっかい銀の指輪が髑髏どくろの形をしてて、そいつはその指輪が窓ガラスに当たらないよう、気をつけて窓を叩いたらしかった。
 窓の外に、極彩色のような、真っ赤と真っ青でプリントされた、波濤に虎の吠えてる絵のドッ派手なアロハシャツ着た男の胸と、ベルトにじゃらじゃら銀の鎖を下げた、ウエスト低めの、薄白くくたびれたジーンズが見えた。それにも白い塗料で、波濤の模様が描き込んであった。
 その派手くささに、俺は一瞬、ぽかんとした。
 それで無反応やったせいか、窓を叩いた男は、ひょいと腰をかがめて、運転席の俺を覗き込んできた。
 金髪やった。染めてんねん。毛先だけ金で、地髪は黒い。そのちょっと伸びすぎた、もう切りに行かなあかん、みたいな髪が、軽く巻いてて、しかも真っ黒なサングラスかけてる。耳にはピアス。それも三個もや。そして銜え煙草やった。
 ものすごガラ悪い。むしろチンピラとしか言い様がない。
 それでもそいつは、綺麗な手をしてた。ちゃんと手入れされた爪やった。
 そいつがどんな生活してるか、手を見ればわかる。こいつは少なくとも、見た目ほどには、やさぐれた暮らしはしてない。この格好は、ファッションで、こいつの趣味なんや。
 つまり趣味が派手。かなり派手。
 俺はちらりと、背後の助手席にいる亨を見返す視線になった。
 アゲハ蝶の模様の、赤いアロハ着てる。もともとかなり地味やったこいつは、最近なんでか、時々ものすごく派手な服を買うてくる。もしかして、それが亨の本性なんではと、俺はときどき思って、嫌な予感がする。
 窓を開けろと、ポケットに片手を突っ込んで立っている金髪男が、指を振って促した。俺はそれで、仕方なく窓を開けた。でも半分だけ。
 ほんまにこいつが、電話してきた式神なのか、確証がなかったし、そうでないなら関わり合いになりたいタイプではなかった。
 開いた窓から、さらに覗き込んできて、金髪男はサングラスのまま、にっこりと笑う口元になった。その口の犬歯が、必要以上に尖ってた。犬か狼か、もしくは虎みたいに。
 ぷっと銜え煙草を道ばたに吐いて、男は挨拶してきた。
「お初にお目にかかります。先程お電話さしあげた信太です。後ろのドアあけてください、先生」
 指輪した握り拳で、後部のドアをごんごん叩いて、式神・信太は言うた。
 やめろ。俺の車に、傷つけんといてくれ。まだどこにも、ぶつけたことないねん。たぶん今後もないと思う。せやからその車体に、指輪の傷なんかつけんといてくれ。
 やむをえず、俺は扉のロックを開けた。
 男はにやにや乗ってきた。
 そして、後ろのシートにどかりと座り、それから、むっ、という口元になった。
「何やこれ。ケツの下になんか敷いてもうた……」
 ごそごそと自分の尻の下から引っ張り出してきたサーベルを、信太は首をかしげて眺めてた。
 水煙。
 迂闊な俺を許してくれ。まさかお前を尻に敷く奴がおるとは。俺も大概、お前にはひどいことしてるかもしれへんけど、尻に敷いたことはない。お前の尻に敷かれてる予感がすることはあっても、その逆はない。
 だってお前は、神様なんやから。確かに放置はしてたけど、最低限の敬意は払ってたつもり。でもやっぱ、神棚買うてやらなあかん。放置してたら、こんなことになる。
「いい剣やな。せやけどちょっとお高いわ。俺の趣味やない」
 ぽいっと水煙を脇に放って、男はにっこりとした。
「早速、出発しましょか。それとも、自己紹介したほうがいいやろか、本間先生」
「……せめてサングラスとってくれへんか。顔も見えんやつを、信用でけへん」
 俺が内心むすっとしてそう言うと、男は、あははと面白そうに声あげて笑った。
「そらそうや。失礼しました。目立つんで、隠してるんです。他意はないねん」
 あっけらかんと詫びて、信太はサングラスをとった。
 そして身を乗り出し、運転席の俺のほうに見せてきた顔は、人なつっこいような、なかなかの男前やった。そしてその目が、爛々と光る、琥珀みたいな薄黄色で、あたかも虎の目や。
「アキちゃん……虎やで、こいつ」
 亨がぽかんとして、俺にそう言うた。
 その声に、信太は運転席と助手席の、両方のシートを掴んだまま、くるりと亨のほうに首を巡らした。なんとはなしに、見つけた獲物を付けねらう、野生の虎みたいに。
「そうや、虎やで、俺は。しかも虎キチ、阪神ファンやから、ほんまもんのタイガーや」
「阪神ファン……」
 亨は呆然みたいな口調で、信太にそう呟いた。
「そうや。当然や。京阪神に住んでて、阪神ファンやないやつはモグリやで」
「そうやろか……」
 亨は何となく、もじもじしながら聞き返してた。お前。なんや、それは。なんでじっと、こいつの顔を見つめてんのや。それに、ふっと、信太は笑ったような声を漏らした。
「そうや。俺と一緒に、聖地行くか」
「聖地って?」
「アホか、そんなん、甲子園球場に決まっとうやろ。うちの近所や。歩いて行けるで。今夜もナイターしとうわ。目指せ日本一や。蔦子さんがな、阪神ファンやねん。それでわざわざ、球場の近場に家買うたんや。場外ホームランが庭に飛び込んでくるような目と鼻の先なんやで。歓声も聞こえる。びりびり聞こえてくるで」
 すらすら語る信太の話に、亨はどことなく、うっとりと耳を傾けていた。
「赤星、見たことあるか」
 はにかんで訊く亨に、信太は牙を隠さん口元で、にやにやしてた。
「あるで。選手なんか、全員見たことあるわ。球場行ったら、生なんやで」
「生」
 ものすごい熱のある声で、亨はそう呟いた。
 その顔に、信太は今度は明らかに、くすくす笑った。
「可愛いな、お前。なんて名前や」
「亨」
「そうか。亨ちゃん。後で仲良うしよか。俺は信太や。めっちゃ強いで、タイガーやからな」
 そう言う信太の言葉に、亨はため息みたいな声で、めっちゃ強いんやと繰り返していた。どう見ても、亨はぼうっとしてた。そして俺は、それに愕然としてた。
 お前。なんで。ぼうっとしてるんや。顔、ちょっと赤いで。ほっぺたのとこらへん。なんで、赤いんや。それに、なにが、めっちゃ強いんや。
 超絶不愉快。
 俺は慌ててハンドル握って、フロントガラスから見える道を睨む目になった。そこにはポイ捨てされた吸い殻がいっぱい落ちてた。お行儀悪い。街の美観を完膚無きまでに損ねてる。煙草臭い。俺の車は禁煙車やのに。なんでこんな奴を、俺が乗せてったらなあかんねん。むかつく。激しくむかついてきた。
「行きましょか、先生。この道ずっといって、ひょいっと曲がったらすぐやから」
 それは道案内ではない。そういう事を、信太は平気な顔して言うて、にっこりとした。そして、後部座席にどかんとデカい態度でふんぞりかえった。夏やのに、足下が白いウエスタンブーツやった。どこまで派手やねん。頭おかしいんとちゃうか。
「いざ出発」
 そう促して、またサングラスかけた男を、亨はわざわざ助手席から身を乗り出して眺めてた。なんやドキドキしてるふうに。
「前見ろ、亨! 車出すから!」
 なんで俺、怒鳴ってんのやろ。
 亨はその声に、びくっとして、助手席に戻った。そして気まずそうに顔をしかめた。
「アキちゃん……なんで怒ってんの……?」
 何を訊くねんということを、亨は恐る恐る訊いてきた。
 訊かんとわからんのか、お前は。アホか。わからんのやったら、何が気まずいんや。ほんま言うたら、やってもうたと思ってんのやろ。
 浮気すんなって、ついさっき俺を責めてたお前が、どのつらさげてタイガーとうっとり見つめ合うてんのや。もうほんまに我慢でけへん。一瞬で沸点まで来てる。
 怒鳴りたい、俺は。怒鳴り散らしたい。道行く神戸の人に。この蛇、人に浮気すんなて言うといて、その舌の根も乾かんうちに、新しい男にうっとり来てますよって、全世界の人々に、こいつの不実を告げ知らせたい。
 KISS FM KOBEに投稿したいくらいや。水地 亨は信用できない。てめえのことは棚上げで、俺のことばっかり責めやがって。お前も大概浮気者なんやぞ。俺よりひどいかもしれへん。俺には罪の意識があるけど、お前にはないみたいやからな。
 CM明けの、ラジオのタイトルコールを聞きつつ、俺は妄想した。それはひどいと世界中の人が俺に同意してくれる。世界中は大げさや。このラジオ局は地方局やから、全・神戸の人ぐらいやろ。それでも皆が俺を気の毒やと思う。亨がおらんようになったら俺は死ぬ、ほんまにそう思ってるのに、そんな俺を横に座らせ、こいつは赤い顔して虎と見つめ合う。それが拷問でなくて何なんや。
「アキちゃん……?」
「考えろ! 俺がなんで怒ってんのか、お前のその、ピンク色の脳みそで。分かるまでお前とは、もう口もききたないわ」
「そんなこと、言わんといて。俺まで口きけんようになる」
 焦った顔で、亨はそう俺を止めた。
 俺までって、他に誰の口がきけんようになるんや。
 俺はむっとして、サイドブレーキを解除した。イライラしてアクセル踏んだら、ぶうんと空ぶかしの音がうるさく鳴って、俺をむかむかさせた。タイヤを軋ませて、車はまた、流れる車道に割り込んでいった。
 追い越し車線を行く俺の運転の荒さに、虎がひゅうと口笛を吹いた。
「先生、やるやん。ロックな運転してる。やっぱこうやないとな、制限速度は目安や」
 違う。制限速度はルールや。守らんと免停くらう。俺は無事故無違反や。その輝かしいイイ子の歴史を、こんなところで終わりにさせんといてくれ。
「バリバリ行きましょ。湾岸沿いにぶっちぎろうか。それとも裏六甲で死ぬほどヘアピンカーブ?」
「ぶっちぎらへん。さっさと道案内せえ!」
 思わず怒鳴りつけてた俺に、虎はひゃあとビビったような声を出し、そしてけらけら笑った。
「バリ怖い」
 それは神戸弁らしい。めちゃくちゃ怖いっていう意味や。
 どことなく標準語じみた神戸弁の、それでいて港くさい響きが、俺は大嫌いになった。
 変や、神戸は。女はしましまのニットとか、縄やら錨やらヒトデやらついたワンピース着てるし、髪もやたらと巻いてる。やたら明るい色に髪染めて、ぐるぐる巻きや。
 それはそれで可愛い。なんや、小夜子さんみたいやしと、初めはちょっと好きになりそうかもしれへんかった、そういうもの達まで、この虎のせいで、坊主憎けりゃ袈裟までや。
 俺は神戸の海臭い空気が大嫌いや。
「先生、キレ芸派です?」
 笑って訊ねてくる虎に、亨があかんて首を振ってた。
「やめとき。アキちゃんマジ切れしてるんや」
「なんで。何をキレんといかんことがあるんや。ラブ&ピースでお願いしますわ。それより俺、煙草吸うてもいいですか」
「あかん、あかん」
 早くもアロハの胸から、見かけない銘柄の煙草の箱を取り出して訊ねる虎に、亨はどことなく青い顔して首を横に振って見せてた。
「禁煙や、禁煙。アキちゃん嫌いやねん、煙草の匂いが」
「ええー……俺、モク中やのに。お前も嫌いなんか、煙草」
 後部座席を覗き込む亨の顔に、必要以上に鼻を寄せて、虎は訊ねた。わざわざサングラスを上げて、奴は亨に自分の目を見せた。それを食い入る目で見て、亨はなんとはなしに、切なそうに答えた。
「いや、俺は別に……その、嫌い、ということもない……けど、むしろここは、嫌いと答えておくほうが、後々のためにいいか、みたいな、そんな気がちょっとしたり? しなかったり?」
「ほんならキスできへんな、亨ちゃん」
 くすくす笑って、虎はそう言うた。言うたで、俺は聞こえた。これ以上ないほど、くっきりはっきり聞こえてもうたわ。亨がそれに息を呑む音まで、否応もなく聞こえた。
「それでも嫌いなんか。困ったなあ。ほんまにそうなん?」
「いや、なんというかやな……」
 あからさまに、口説く口調の虎に、亨は足でも痺れてんのかみたいな、悶え苦しむ気配で口ごもってた。そしてたっぷり悶絶する気配をさせてから、亨は小声になった。
「それは……それは、秘密です」
 つらい、という気配やった。
「ああ、そうなんか。ほんなら後で、答え合わせしよか」
 ふっふっふと余裕の笑みで、虎はまた、シートに戻った。
 そして遠慮無く、くわえた煙草にライターを出して火をつけた。
 ふはあと吐き出す煙には、独特の珍しい匂いが混ざっていたけど、それは俺には悪臭やった。
 俺の車で、喫煙するな。吸うやつは死刑。俺の亨と、キスしようという奴も死刑。
「亨……」
 ものすごい力で、ハンドルを握りながら、俺は呼びかけた。
「信用してるからな、お前のこと」
 それは嘘やて思えることを、俺は助手席に語りかけてた。
 信じてない。全然信用できない。ちらりと見ると、亨は自分の口を両手で押さえてた。まっすぐ前見て、激しく葛藤するような顔してたわ。
「し……信じて」
 吐きそうなんか、みたいな、そんな青い顔で、亨は俺にそう頼んできた。
 俺はそれに、なんにも答えへんかった。信用するのが難しい。俺はそう思ってた。それが正直なところで、実は脳裏のどこかに、虎とキスしてる亨の姿が、ほの暗い闇にまぎれて、ちらりとよぎってすらいた。
 つらい。すごく。想像だけでもつらい。激痛が走る。俺はぜったいそれに、耐えられへんと思う。もしほんまにそんな光景を目にしたら。目にはしなくても、そういう事実があったという話だけでも、気絶する。もしくは内臓を全て吐く。
 もしくは、俺はこいつと別れようと思うかもしれへん。
 つらくて思わず閉じそうになる目をなんとか開いて、運転する先を見つめながら、俺は思った。
 それは俺の、悪い癖やった。
 気に食わんことがあると、その相手と別れる。それが俺の癖。
 半年付き合うて仲も良かった女とも、クリスマス・イブのたった一回の喧嘩だけで別れてもうた。
 実を言うたら、今さらやけど、俺はあの女とずっと一緒にいてもええなと思ってた。その当時には。気も合う気がしたし、控え目やったし、和風の美人で、はんなりした京都弁で喋り、しかも料理が上手やった。
 俺の言うことに反論したことが一回もない。そうやねえ暁彦君て、常に同感。あれせえ、これせえって、うるさく言うこともない。にこにこ優しくて、頭も悪くなかったし、美大の同級生なんやから、絵のことも理解してた。そして、通い妻みたいに、呼ばなくても、程ほどの日数あけて、うちまでやってくる。
 俺には都合のいい女やったんやろ。
 こいつとなら、俺みたいな我が儘なぼんでも、なんとか一生付き合うていけるんやないかって、そんな勝手な思いこみもしてた。
 結婚とか、そういうことは、まだぜんぜん視野に入れてなかったけども、でもこの道がしばらく続いたら、その先に婚姻届が置いてある。そんなような気持ちではいたんやで。その程度の真面目さはあったわ。
 それがたった一回の喧嘩で破談やからな。
 俺は我が儘な男やねん。それにボンボンやし。今まで一度も自分に逆らったことがなかった女が、ちょっと我が儘言うてきて、怒ったような顔しただけで、なんでか怖くなったんや。
 俺はあいつに、妄想を抱いてた。
 たぶん、おかんの身代わりやった。いや、むしろ、おかんよりも、さらに何倍か理想化された、自分に都合のいい、お人形さんみたいな架空の女を、俺は抱いてた。そしてその女が本性をかいま見せた瞬間に、その、餓鬼の玩具みたいなアホな夢から醒めた。
 怒って、俺に文句を言う女と食ってた飯の席を蹴って、俺は、もうお前なんか知らんと捨て台詞を吐き、そのまま彼女と永遠に別れた。相手がなにを考えてるか、ぜんぜん頭になかった。ただもう、とにかく、その場から逃げたかった。
 そして逃避したんや。飲んだくれて寝ようと思って、泊まる予定やったホテルのバーに行き、どろどろに酔うまで飲んで、その相手してくれたバーテンの亨をお持ち帰り。
 その時俺は、ほんまにこいつに惚れてたんか。単に何か、抱いて寝られるもんが欲しかっただけやないかって思える。
 それを思うと、亨に済まない。こいつも人ではないなりに、人並みの心は持ってる。そんなふうに、俺の自己都合で好きにしていいような相手やないわ。
 昨日には、お前が好きでたまらんて、お前なしでは人生ありえへんみたいな顔で愛を囁いて、今日にはもう要らんて、そんなことしていい相手とちがう。
 醒めたらどうしようって、俺はそれが怖い。そういう性癖のある自分のことを、嫌というほど自覚しつつ生きてきた。もうええわ、お前には醒めたって、そういう理由で別れた相手が何人いたか。
 俺はその時、どんな冷たい鬼やったんやろ。皆、大抵、どうしよもうなく泣き崩れてた。ひどいて言うて、怒って泣いてた女もいたわ。それでもそれが、可哀想やって、もう思われへんかった。それが恋が醒めるってことやと、俺はあっさり理解してた。
 しょうがない、醒めてもうたもんは。俺も新しい誰かを探すから、お前もそうしろって、そういう態度でとんずらこいてたわ。
 俺は亨にも、同じことをするんやろか。もしもそういう時が来たら、一度はお前のために死ぬって思ったような相手やのに、亨が泣いても、それが何って冷たく思って、とっとと去るのか。家から追い出すんか、前の女を追い出したみたいに。もう俺の家に入って来んといてくれ、お前は赤の他人やって、平気で鍵をドアまでまるごと全部変える。エントランスの顔認証の、ご家族リストから、亨の顔を消す。
 そしてもう、永遠に見ない。今は好きでたまらんこいつの顔を。切なそうに俺を見る、アキちゃん好きやって言うてくれる、この愛しい顔を。
 そんなことが、あるんやろか。俺の人生に。
 あってほしくない。その時は、俺も鬼やろ。もはや完全に人でなしや。
「次の角、右へ行ってください、先生」
 煙草を吹かしながら、あたかもお前がご主人様かというデカい態度で、式神・信太は俺に伝えた。その角を、曲がるかどうか、俺は悩んだ。
 こいつを車からたたき出して、知らん顔して京都に帰る。そういう手もある。今やったらまだ、それはものすごく非礼やろうけど、でも不可能やない。
 俺は微かに振り返る視線で、後部座席にいる虎と、その横に放り出されていた水煙を見た。その剣は、おとんから受け継いだ秋津家の伝家の宝刀で、それを振るうことは、俺がその家の家督を継いだという意味を持っていた。
 水煙はいつも、俺のことを、ジュニアは秋津の跡取りやからと、隅にも置かんような口調で話す。
 それは俺の義務なんや。
 自分の血からは、逃れられへん。
 苦い気持ちで、俺は夏を振り返った。
 俺のせいで、大勢死んだ。勝呂も死んでもうたし、他にも沢山。それをひとりひとり焼香に行った。その死は普通の死とは違う。俺の血のなせるわざ。知らんと描いた絵が暴れて、その人たちを死に追いやった。
 亨が好きや、離れたくない、永遠に一緒にいたいって、それは俺の願望であり、ただの欲。いわば俺の我が儘や。
 それより俺には、やらなあかん事があるんやないか。
 それを全部ほったらかして、俺は夏中、亨に狂ったみたいにして生きてたわ。
 それを永遠に続けるつもりなんか。それで秋津の跡取りとしての名を継げるもんやろか。男としての身が立つか。
 自分が救えるかもしれへん人の命を無視して、そこからとんずらこいて京都へ直進。それが格好いい生き方と言えるかな。
 もしも水煙が言うように、ほんまになまずなるモンがこの街の地下にいて、そいつが暴れようとしてて、その結果、大阪の夏よりもずっと大勢が死んでもうたら、俺の後悔は深い。その傷は、俺を一生負け犬にする。
 そんな一生は、俺は嫌や。それが永遠に続く、そんな長い地獄に耐えられるような、そんな強さは俺にはないわ。
 そやから、行くしかないな。海道蔦子さんのところへ。なまずとは何か、俺は何をすればええのか、それを訊ねるために。
「先生、その角やで、早く曲がってください」
 ちょっと驚いたような口調で虎が教えた。
 俺は黙って急ハンドルを切った。耳障りな音をたてて、タイヤが神戸の道に、俺の惑い傷みたいな黒いあとを残していった。
 それでもとにかく、車は右折した。それによって俺は、ひとつの選択をした。危機に続く、あるいは、英雄になるための道筋を行くという。
 亨はまだ自分の口元を押さえたまま、じっと俺を見てた。綺麗な顔やなあと、俺はまた思った。お前がずっと、俺だけのモンやったらええのに。
 そう思うと、また悲しかった。その願いが悲しいと思えたことも、俺には悲しかった。亨はもう、永遠に俺のもんやって、そう信じてたことも、実は俺の妄想やったんやないかって、そんな気がして、胸が苦しくなってた。
 車は海に向かって、南へと進路をとった。
 どこかから、わあわあと、活気のある気配が湧いているのが感じられた。
 それは、甲子園球場やった。阪神タイガースがナイターやってるという、その蔦のからまる緑色の野球場は、海道蔦子さんの家の、すぐ背後にあった。
 何やらまるで、熱く沸騰した坩堝るつぼみたいな、何かの神殿みたいな、そんな威容を発して、その球場は、日の傾きはじめた甲子園の空を背景に、薄暗く浮かび上がって見えた。
 綺麗な建物やなあと、俺は初めて見るその蔦の聖地のことを思った。それがなぜ美しく見えたのか。それは、もしかしたら、大勢が祈ったり喜んだり、時には泣いたりする場所やったからかもしれへん。
 そこはまさに、ひとつの聖地やった。
 神殿が、必ずしも神をまつっているところとは限らない。祈る人の心が、その地を聖なる場所にする。
 そういう基本則を、俺はその地に学ぶことになる。神戸にて。
 神の戸と書いて、神戸や。その名前に意味があるとは、俺はまだ、知らへんかった。


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