SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

神戸編(2)

「お前のおかんには、本当に酷い目に遭わされた」
 真剣さながらの闘気をみなぎらせたオッサンが、紺色の道着に袴で木刀を握り、アキちゃんと対峙してた。長身のアキちゃんと向き合っても見劣りしない、ガタイのいいオッサンやった。
 実用の筋肉に覆われた、がっしりした体格で、どっちかいうたらスラリ系のアキちゃんと見比べると、一回り肩がでかい。
 それもそのはず、こいつは武道家で、剣の達人やねん。それに対してアキちゃんは、絵筆より重いもん持ったことないボンボンやねんから、体格差は否めない。
 しかしな、格好良さではアキちゃんのほうが一本勝ちやなと、俺は真剣そのものの顔を崩さず、道場の壁にもたれて腕組みした鬼コーチ風の顔のまま、二人の男の勝負を見守っていた。
 道着着たアキちゃんは、あまりにも美味そうすぎる。萌え萌えや。あかんねん俺、袴はあかん。あまりにも萌えすぎる。犯罪や。
 今すぐ脱がせて襲いかかりたいくらいやけど、さすがに朝から三回目ともなると、俺も少々お腹いっぱいやった。
 それに試合中に横から襲いかかったら、きっと、ドツキ回される。それは悲しい。だからやめとこ。見守るだけにしとこ。
 アキちゃんが、髭面のオッサンに負けるのを。
 アキちゃんな、弱いねん。残念ながら。
 筋はいいらしいけどな、中学まで習ってたきり、その後はなんもしてへん、言うなればド素人やからな、その道の達人に敵うわけあらへん。
 それでも前回おとんに習った速習コースのたまもので、ずいぶん使うようにはなってる。俺も剣豪はいろいろ見たけど、アキちゃんもいつか、そんなふうになるのかな。
 それはそれで、萌え萌えですよ。いやあん、俺も斬られたい、みたいな。いや、むしろ突きのほうが。刺殺でお願いします。なあんてな。
 そんなこと考えてると、どうしてもニヤケてくるんで、それがバレへんように、俺は一生懸命、難しい顔してた。
 この煩悩を、ほんまに何とかせんとあかん。俺の美貌が台無しや。
「師範、小手はもうやめてくださいね。やっても寸止めですよね。俺は絵描きなんやし、手が使えんようになったら困ります。卒業制作かてありますんで」
 真剣そのものの顔で、アキちゃんは情けないことを言うてた。
 この髭のオッサンな、新開しんかいさんて言うんやけど、アキちゃんには恨みがあるんや。
 昔、中学までアキちゃんに剣道教えてた人やねん。それが、道場の門下生どうしの間で一悶着あって、中一やったアキちゃんは、中三の先輩に竹刀でボコボコに殴られた。
 それを恨んだおかんがな、相手の中三男にはもちろんやけど、道場側にも責任がありますえって考えて、えげつないような報復を行った。子飼いのしきをわんさと差し向けて、お化け屋敷みたいにしてもうてんて。
 それで評判悪なって、新開しんかい師匠はうなだれ、諦めて京都を捨てた。そして神戸で心機一転、やりなおすことにしたんやって。
 名前まで変えたんやで。もともとは宮本さんやねん。宮本武蔵の宮本さんやで。ほんまにその血を受け継いでいるつもりらしいけど、ほんまのところは怪しいわ。せやけど剣豪なのは確かや。
 それが、秋津のおかんにドヤされて、ぐったり来てもうて、泣く泣く呪われた名前を捨て去り、神戸出身やった奥さんの姓に乗り換えた。それで、おかんの猛威からも何とか逃れたらしい。そんな可哀想な、もと宮本浩一みやもとこういち、いま新開浩一さんの、新しい道場がこの、新開道場。
 そこへ通おうっていうアキちゃんも、かなり図太いと思うわ。でも水煙が、そこへ通えって言うたんやって。
 宮本道場は、もともと、アキちゃんのおとんが通うてた道場で、そこんちの爺さんだか、ひい爺さんだかとも、縁が深い。要するに、その筋の人らやねん。鬼道きどうと縁のある家やったんや。鬼斬る太刀の振るい方は、宮本道場で習えって、そういうことやねん。
 アキちゃんは、もちろん、新開師匠にめちゃめちゃいじめられていた。超スパルタや。
 防具もつけさせへんし、避けへんかったら木刀でシバかれんねんで。本気の一撃やで。真剣やったら死んでるから。
 アキちゃん俺のお陰で、丈夫になっといて良かったなあ。もしそうやなかったら、あっと言う間に青あざだらけやで。
 見てるこっちが痛いねん。
 ああ、オッサンまた小手を決めてるし。
 小手、とでかい声で宣言してアキちゃんの手首をシバき、木刀を取り落としたのを見て、オッサンはがっはっはみたいな勝ち誇った笑い方やった。そんな喜ばんでも。
「どうや参ったか、秋津の小倅こせがれ
 えっへんポーズで、オッサンは言うた。師匠、マジで嬉しそうすぎ。
 アキちゃんは右手を押さえて、心底キレたっていう顔やった。若干、萌えやな。ほんまにもう男前すぎ、俺のツレ。
「わざとやってますよね、寸止め失敗するの」
「わざとやっている」
 むちゃくちゃ正々堂々と、オッサンは己の卑怯さを告白していた。潔い。なんて汚い奴や。おかんへの恨みを、その息子であるアキちゃんに真正面からぶつけるとは。
 それでもアキちゃんは、新開師匠の銅鑼声に、剣を拾えと怒鳴られて、今度こそぶっ殺すみたいな目してた。
 格好ええなあ。
 これでほんまに強ければ、言うことないんやけどなあ。
 それが中々、今一歩やねん。
「あかんなあ、ジュニアは。なかなか強うならへん」
 俺がもたれてる壁の傍に、水煙は立てかけられてた。毎度、道場にはご同道なさるんや。と言うても自分で歩けるわけやないから、車に乗せて運んできてもらうんやけどな。
「何を言うてんねん、頑張ってるやないか。そんな急に上手になるわけないわ。始めてまだ一ヶ月もたってないんやから」
 俺は健気にもアキちゃんを弁護してやった。
 そうやなあて、水煙は一応同意してたけど、歯がゆいらしかった。
 どうせ、アキちゃんのおとんと比べてんのやろ。こいつはいっつもそうやねん。アキちゃんはもっと強かった、アキちゃんはもっといろいろできたって、そんなんばっかり。アキちゃんアキちゃんて、アキちゃんのおとんの話ばっかりなんやで。
 そのくせ今朝はジュニアのほうに手を出しやがって。どないなっとんねん、この包丁の神経は。
「お前なあ、俺のアキちゃんに手出すの、やめてくれへんか」
 俺は鬼コーチ顔のまま、水煙と並んで壁にもたれ、そう警告を与えた。でも水煙は俺なんか全然怖くないらしい。せせら笑われたで。
「ちょっと、どんなもんかと思うたんや。お前があんまり、さそうな声出すもんやから。そんなにええモンなんかな、ジュニアは、と思えて」
 聞くな、俺様の恥ずかしい声を。聞こえんのはしゃないけど、それについて言及してくれるな。俺はもともとしかめてた顔を、さらにしかめた。
「誘ったところで、やれんのか、お前のそのキワモノの体で」
「いや、無理やろなあ。せやから余計な気回さんとき。何もなかったんやから」
 それでも怪しい。
 たとえ抱き合うのが無理でも、他にもいろいろやれることあるやろ。俺は詳しいで、その方面については。
 いけない想像をいっぱいしてもうて、俺はついつい眉間に皺やった。水煙はそれを、わかってんのかどうか、面白そうにくすくす笑って見てた。
「まだ頑張ってんのか。ジュニアを独占できると思って。ジュニア考えてたで、お前は信用でけへんて。すぐ他の男に目移りして、不実なやつやって。お前が野球見るのも嫌なんやって。焼き餅焼きやねんな、ジュニアは。耐え難いやろ、お互い」
 どういう意味やって思えることを、包丁は笑って言うた。
 どういう意味やねん。耐え難いのは俺だけや。真面目そうなつらして、アキちゃんはフラフラしてばっか。俺が好きやって言うくせに、浮気してばっかりやんか。
 今朝かてそうや。この水色にキスされて、けっこう気持ちよさそうな顔しとったわ。俺のほうがええなんて、珍しく媚びたようなこと言うてたけど、それだけ焦ってたってことやろ。内心本気でこの宇宙人によろめいた瞬間があったに違いないんや。
 犬でも大概むかついたのに、今度は地球外生物やないか。ほんまええかげんにしとけよ。浮気はせめて地球上の規模にとどめとけ。全銀河系に羽ばたくな。いくら「スター・トレック」好きや言うても、それを実践することないやん。
 宇宙一好きな俺が傍におれば、それで満足できるはずやないのか。なんでフラフラすんねん、アキちゃんは。
「不安やねん、ジュニアは。お前が信用でけへんから。代打や代走を用意するようなもんやろ。げきは本来、多頭飼いするもんなんやで。しきがひとりしか居らんで、そいつが死んだら、その後どうやって務めを果たすんや。ジュニアは本能的に、予備を探してる。それこそ一流なんやで。直系の血のなせるわざやないか」
 無節操の血筋を礼賛するような口ぶりで、水煙は話した。その神経が、俺にはわからん。
「それについては、もう解決してる。俺は無敵や、一人で足りる。それでかまへんて、アキちゃんのおとんも言うてたやろ」
 イライラして、俺は答えた。水煙はまだ、くすくす笑ってるような気配やった。
「嘘つけ。新人の犬に噛まれて、あっさり死にかかってたくせに」
「あれは、俺のせいやない。アキちゃんが悪いんや。アキちゃんが熟練していけば、何もかも解決する。アキちゃんにも武器が要るっていうんやったら、お前が居るのは妥協するけど、ずっとその形でいろ。今後一切、水遊びは無しや。それで手を打て。それが嫌やていうんやったら、お前なんか金属ゴミの日に出してまうからな」
 じっと俺を見てる気配で、水煙は黙っていた。でもそれは、ビビってる感じでは全然なかった。なんかこう、観察されてる感じ。
 しばらくそれを我慢したけど、そのうち我慢できんようになって、俺は壁に立てかけられてるサーベルを見下ろした。剣は相変わらずそこにいた。豪勢な鞘に収まって、何となくキラキラしながら。
「なんやねん。お返事はどうしたんや」
「必死やな、蛇。そんなに好きか、ジュニアのことが」
 試すような、その余裕しゃくしゃくの口調に、俺はむっとした。なんやねん一体。なにが言いたいんや、こいつは。
「好きで悪いか。ほっといてくれ」
「悪くはないけど、使役されてるだけやで、お前は。しきやから、あるじに心を捕らわれてる。ただそれだけやねん。もしも何かの拍子に、ジュニアがちょっとでも弱ってみろ。お前なんかすぐ、どこかへ消えてるわ。はっと我に返って、何がそんなに好きやったんやろって、よそへ逃げだす。そういう汚い根性やねん。試しに寝てみ、他の誰かと。こいつでもええわって思うに決まってるわ」
 腹立つっていうより、怖いような気がして、俺は水煙を睨んだ。
 道場ではまたアキちゃんが、イケズの新開師匠に敗北していた。ものすご悔しそうに、小手に一発決められた手首を押さえて膝をついてる。
 それは決して、格好ええわあって萌えられるような姿ではなかった。ちょっと、可哀想すぎ。
 それでも俺は、アキちゃんが好きやろか。アキちゃんは俺にとって、宇宙いちイケてる男か。誰かほかに、もっとええのが現れて、そっちに本気でよろめく。そういうことが絶対ないと、言い切れんのか。
 時々ふと感じるその不安を、俺はまた感じた。感じるたびに否定してきたそれは、それでも悪い種みたいにいつも心のどこかにあって、駆除したつもりが、またいつのまにか現れる。
 アキちゃんと、夢中で抱き合うたびに、いつも思う。お前より好きな相手はいない。いるわけないわって。
 なのに時々、ふと発作みたいに思い出す。生きてんのか死んでんのかわからへん、前の男のことを。
 それが不実やて言うんやったら、そうかもしれへん。だからって過去は変えられへんで。アキちゃんと出会った夜よりも前のことは、どうしようもない。
「何が言いたいねん、水煙」
「ほどほど妥協したらええやん。お前も浮気、ジュニアも浮気。案外それで丸く収まるんやないか。そのほうが、秋津のしきも増えるしな。もしもジュニアがお前より気に入るやつがいて、お前はお前でもっと性に合う相手が見つかれば、お互いそのほうがラクやろ」
 水煙は、けろっとしてそう言うた。まるで、そんなの何でもないわというノリで。
 けど、もしもそうなったら、俺はあまりにもつらい。
 やってみれば案外、なんでもないことかもしれへんけど、今は想像したくない。アキちゃんに俺よりも好きなやつができるなんて。俺にアキちゃんより、好きなやつができるなんて。それは嫌な想像や。
「なんでそんなこと言うんや」
 もう睨む気も起きへんで、俺は訊ねた。
「惜しかったわ、あの犬は。きっと、よう働いたやろ。お前にできるか、あんなこと」
 あんなことって、どんなことやと、俺は訊こうかと思ったけど、ほんまのところ、訊くまでもなかった。
 水煙が言うてるのは、勝呂瑞希すぐろみずきと名乗ってた犬神のことで、この夏、俺がやっつけた相手やった。
 大学の後輩として現れ、アキちゃんを激しくよろめかせて、すったもんだの挙げ句、あいつは死んだ。水煙の切っ先に迷わず飛び込んで自殺した。そうすればずっと、アキちゃんの傍に居れるって誘われて。それに全然、迷う気配もなかった。
 俺がそれと同じことがやれるかって、訊いてるんやろ。
 そんなこと、できるわけあらへん。
 俺は嫌や。ただじっと見るだけで、話すことも触ることもできへん一方通行か。そこからアキちゃんが他の誰かとお幸せなのを、涙ながらに眺めんのか。永遠に。
 そんなん、ひと思いに死んだほうがましやろ。我慢ならんわ、俺には。
「お前は結局、我が儘で、貪欲やねん。独占欲が強すぎて、チームワークを乱す。お前がいる限り、ジュニアにはしきが増えへん。それが力の限界や。どっかねとは言わへんわ、せめて許せ。目をつぶれ。ジュニアが他のと寝てる間、お前もどこか行っといたらええねん」
 どこかって、どこや、と、俺はぼんやり考えた。
 水煙の話を、真面目に聞いてたつもりはなかってん。そんなん、せんでいいって、アキちゃんは怒るやろ。よそ見をするなって、そういう約束やんか。アキちゃん、よそ見しまくりやけど、でもそういう約束なんやで。
 それを反論にする気力はなくて、俺は黙ってた。
 皆、うるさいな。なんやかんや邪魔ばっかりや。
 アキちゃん連れて、どっか消えたいわ。どっか遠くへ。二人でどこか、ものすごく遠いところへ行こうかって誘ったら、アキちゃん一緒に来てくれんのかな。
 俺は寂しい。いつも二人っきりでいたいんやけど、そういう時が案外ないな。アキちゃん人気者らしいから、なかなか俺だけのモンになってくれへん。切ないわ。
 そう思ってしょげてた俺のところに、アキちゃんは唐突に現れた。
 それは別に、唐突にって訳ではなく、普通に歩いてきてたんやけど、俺が見てなかっただけやねん。
 汗だくで現れた姿に俺がびくっとして見返すと、アキちゃんは俺のことは見てへんかった。なんや目も合わせへんと、非常に不機嫌な顔やった。
「勝たれへん」
 それが大問題というように、アキちゃんは壁にもたれて、ペットボトルの水を飲みつつ、水煙にそう言うた。
 汗がぽたぽた髪から滴ってた。
 アキちゃんは汗かくのが嫌いで、俺とやるときはクーラーをガンガンにかける。それでも汗かいたって困ってる。なのに今は平気みたいやで。
 たぶん他のことに、集中してるからやろ。どうやったら勝てるんやろって、そのことが気になってて。
 薄目にそれを斜に見て、俺は悔しかった。俺とやるときも、それくらい集中してくれよ。汗かくぐらい何でもないって、夢中になってくれればええのに。
「教えよか」
 水煙は、その時をずっと待ってたみたいな口調で、どことなくウキウキ答えてた。アキちゃんはそれに、黙ってうなずき、握ってた木刀を壁に預けて、おもむろに水煙の柄を握った。
 鞘走る音がして、煌めく白い刀身が引き抜かれていき、アキちゃんは水を置いて、また戻っていった。今は誰もおらん、一人きりの道場へ。
 新開師匠は休憩か、ざまあみろと満足げな髭面で、道場の反対側の壁で休んでた。
 アキちゃんはだだっ広い道場の中央当たりで目を閉じて、何かを探る気配で水煙の柄を握り、一人で白刃を構えた。やがて刀身から揺らめく薄霧が立つのが見えた。それは水煙が発する力や。鬼殺しの白い靄。外道は迂闊に触れんほうがええで。水煙に食われてまうからな。
 裸足で道場の黒光りする床板をわずかに踏み込んで、アキちゃんは突然の一刀を振るった。それは俺が今まで見たことある中でも、断然キレのある一太刀やった。
 アキちゃんが、上達してるのが、その一瞬で目に見えた。
 おおっ、て向こう岸のひげ面が驚いてた。
 水煙はその一刀きりではアキちゃんを休ませず、そのまま二度三度と、剣を振るわせた。流れるような剣さばき。いつか見た時、まるで剣に振り回されてるようやった、アキちゃんの太刀筋に、今は明らかな違いがあった。
 たぶん、剣との一体感みたいなもの。
 最後の一太刀が空を薙ぐ音が鳴り、それがまるで、空間になにか得体の知れない力を放つみたいやった。
 ああ、って、喘ぐような声で、水煙が感嘆した。
 素振りの残響と絡まって、それはえらく淫靡に聞こえた。
 俺はそれから目を背けた。何かこう、耐え難い感じ。
 ええ感じやでジュニアと、水煙が褒めてる声でない声が聞こえてきた。
 いつも遠慮してんのとちゃうか。当たれば相手が痛いと思って、ビビって剣振ってんのやろ。そんなん気にすることあらへん。あんな熊みたいな髭面のオッサン、ボッコボコの血まみれにしたれって、水煙は上機嫌。
 なんやと、って、髭が怒鳴ってた。せやからどうも、新開師匠には水煙の声が聞こえるし、その刀身も、もちろん見えてる。ただモンやない。
「その剣の言うとおりやで、本間。血まみれは勘弁やけどな、悔しないんか、お前は。俺にさんざんシバキ回されて、なんで我慢してんのや」
 腕組みしたまま、新開師匠は銅鑼声で怒鳴ってた。
「京都の道場で兄弟子とケンカしたときも、お前は殴られっぱなしやったやろ。なんで応戦せえへんかったんや。お陰で俺はお前のおかんにボコられてやな、人生ボロボロやったんやぞ」
 どっちの話が本題かわからへん口調で、髭は教えた。
「お前のほうが強かったんや。シバキ返したったら良かったんやないか。気が優しいねん、お前はな。防具つけてない相手に打って出られへんかったのやろ」
 そうやったろうかという、痛恨の顔で、アキちゃんは背後からの、オッサンの話を聞いていた。
「鬼斬りは、要するに殺しやで。優しいしてたら斬られへん。難しいやろけどな、本間、お前は人を傷つける神経を身につけろ。殺意や。お前もいっぺんくらい、腹の底から怒ってみ」
 オッサンは容易いように言うてたけど、それがアキちゃんにとっては難しいことやというのは、俺はもう良く知ってた。そういう激情を抑えて抑えて生きてきたんや。怒ろうとしても、なんでか自動的にセーブしてる。
 たぶん、ヒューズ切れるみたいなもんなんや。安全弁。その激情に乗って、途方もない力が出てまうんやないかという怖れが先に立って、流れに身を任せられない。そんな感じやで、アキちゃんは。
 おかんは道場での子供のケンカに首突っ込んで、えげつない報復をしたらしいけど、その時、もしもアキちゃん本人が、辛抱たまらんで怒ってたら、どういう事になってたんやろ。オッサンが言うように、応戦してたら、どうなってたん。
 相手は年上言うても、しょせんは生身の人間やったんやろ。我慢してやってて、正解やったんやないか。その相手のためには。
 おかんは報復したけど、殺しはせえへんかったやろ。ちょっとビビらせたっただけや。それは、おかんが熟練者で、手加減できる人やったからで、アキちゃんやったら、そうはいかへん。子供やったし、制御の利かん悪い子やった。相手は死ななくても、廃人くらいにはなったかもしれへんで。
 そんなんしてもうたら、アキちゃんかて立ち直れへんやろ。せやから、おかんは、怒ったらあかんて躾けてたんやないのかな。あの人、アキちゃんには過保護やからな。大事な大事な跡取り息子やしな。
「その壁一枚ぶち抜けたら、お前は化けると思うんやけどなあ、名のある使い手に」
 惜しそうに言う新開師匠は、何か企んでるような顔してたわ。
 オッサンはたぶん、兄弟子にボコられてる可哀想なアキちゃんを、これはチャンスと思って、わくわく見てたんやろ。激怒して、応戦するんやないかって、そんなところか。そして、それを境に、アキちゃんが何かに目覚めるんやないかって。
 とんでもない師匠やな。それで、おかんの報復よりも怖いことになってたら、どないするつもりやったんや。止めるつもりやったんか。そんな力が、この髭にはあんのか。
「俺は絵描きになりたいんです」
 困ったなあっていう口調で、アキちゃんは髭に答えてた。
「それとこれとは矛盾してへんやろ。増してお前も鬼斬りの剣を受け継いだんや。その使い手として、腕上げていかなあかん」
 ちょっと待っとり、と言って、オッサンは道場のご大層な神棚にあった古い剣を、いかにも有り難そうに押し頂いてとってきた。
 それは日本刀で、さやこしらえの具合からして、けっこうな年代物に見えた。長刀の部類で、すらりと引き抜くと、見事に手入れされた刀身に、稲妻のような乱れた刃紋はもんが現れていた。
 この剣の名は雷電らいでんやと、髭はアキちゃんに教えた。
 そして、おもむろにその剣を構え、気合い一声とともに、研ぎ上げられた刃をアキちゃんの眉間を狙って振り下ろした。
 見てるだけのこっちまで、全身痺れてくるような、神業の寸止めやった。アキちゃんがもしちょっとでも動いてたら、オッサンに斬られてたんやないか。
 俺はそれにぞっとして、どこか遠くで鳴り響いた雷鳴を聞いていた。一点の曇りもない晴天やのに、妙な話や、雷なんて。
 オッサンはすぐには剣を退かず、呆然と固まってるアキちゃんの眉間に、ぴたりと狙い定めたような刃を向けていた。
 やがて、ふと空気が解けるような瞬間がきて、オッサンは剣を退いた。アキちゃんはそれに、かすかに首を巡らしてたけども、それっきりやった。ぴくりとも動かへん。糞度胸やで。それとも、固まってもうてたんか。
 新開師匠はそれを見て、にやりとしてたわ。熊みたいな髭面で。
「この剣は、ただの剣や。業物わざものなだけで、ただの道具やけどもな、しかるべき技をもって振るえば、鬼を斬り、雷鳴を轟かせる力があるとされている。これがうちの、伝家の宝刀や。お宅の水煙には、遠く及ばないが、それでも神刀やということになってる。せやから神棚にまつってあるんや」
 そのご神刀を鞘に収めて、オッサンはアキちゃんが握ったままやった水煙の刀身を見てた。
「それを凌ぐ得物を振るおうっていうんや。それ相応の覚悟がいるやろ。その剣が使い手としてお前を選んだんやったら、神刀の力にふさわしい技と心をもってお応えせなあかん。それが剣を祀るということやろ」
 師匠に諭されて、アキちゃんは難しい顔やった。そして自分が握った水煙を見つめてた。ほのかにまだ靄を吐いてる、キラキラ濡れたような白い刃を。
「神棚」
 きっぱりと、アキちゃんは呟いた。
「やっぱり、要るんですかね、そういう置き場所が」
 アキちゃん。何言うてんの。師匠の訓辞に感銘受けて、剣の鬼みたいに目覚めなあかんシーンやないのか、ここは。
 でもアキちゃんは、自分がズレてることに、全然気づいてないみたいやった。
 オッサンも、俺の内心と同様、えっ、ていう微妙顔してたで。
「ないのか、神棚。どこに置いてるんや、普段」
 上ずった声で、新開師匠は訊いた。
「うちのリビングのソファの上で放置です」
 また、きっぱりと、アキちゃんは答えた。新開師匠はそれに、うっ、という顔をした。
「あかんのですかね、それやと」
「あかん……やろ」
 師匠はショック受けた顔で、ぼんやり答えた。
「神棚買うたろか、水煙」
 アキちゃんは真面目な顔で、水煙に語りかけた。
 剣は嬉しそうにキラキラしてた。そして、もしそれが可能やったら、くねくね身をよじりそうな声色で、水煙は答えてたわ。
 ええねんジュニア、そんなんしてくれへんでも。俺は別に、日用の道具扱いで不満はない。せやけど欲を言えば、いっつも身に帯びてくれてるほうが俺は嬉しい。なんやったら抱いて寝てくれてもええし。アキちゃんも、たまにはそうしてくれてた。ジュニアもやってみるか、って。
 やったらあかんから、そんなん。
 ていうか水色宇宙系、お前という奴は、油断も隙もない。鉄格子付きの神棚買うてこなあかん。普段はそこに居れ。使うときだけ出してやるから。
 図々しいねん、抱いて寝てもらおうなどと。それは俺様の位置やから。お前と3Pはやらへんで。やっても精々、やるのは俺だけ、お前は見てるだけの我慢プレイや。
 そうやろアキちゃんて、俺はものすごい眼力で見てた。
 それにもアキちゃんは、全然気づいてへんかった。
 ちょっと困ったように、あごいて、手に持ってる水煙を、どうしようかなみたいな、照れてんのを必死で押し隠してる時の表情やった。
「剣抱いて寝るのって、アリなんですかね?」
 そんなこと訊くなっていう顔を、訊かれた新開師匠はしてた。
「いや、俺はしたことないけどな。普通はせんやろ、戦国武将やあるまいし。飛び起きて、すわ戦闘、みたいなことやったらともかく、意味なく剣抱いて寝てたら、変態やで」
 そうや、師匠は今、ものすごええこと言うてはる。言うこときいとかなあかんで、アキちゃん。変態なってまうんやで。
 それはまずいと、アキちゃんも思ったらしい。なりたないからな、これ以上の変態には。
「おかしいらしいわ……すまんけど、抱いて寝るのは、無しの方向でもええか」
 神妙な顔して水煙に問うアキちゃんは、客観的に見てアホみたいやった。俺はそれから目を背けた。
 やめて。そんなん訊かんと、自己判断で行って。なんで水煙の尻に敷かれとるんや。そんなに気持ちよかったんか、今朝のディープキスが。
 どうせ、そうなんや。水煙も、めちゃくちゃかったっていう顔してた。この俺様の目の前で、ねっとりアキちゃんの舌吸いよってからに。
 あいつ絶対、舌が性感帯。キスして舌絡めたら、気持ちよくなるに違いないんや。広い世の中、多感症で、キスするだけでイってまう奴もおるらしいで。俺はそこまでやないけど、広い宇宙や、そんな水色宇宙人もおるかもしれへんやん。
 もしもそんな事になったら、アキちゃんあまりの衝撃で、水色宇宙人とのディープキスにハマってまうかもしれへん。それは駄目。ぜったいにあかん。アキちゃんが俺以外のやつとキスするなんて、俺には許せへん。
 しゃあないな、ジュニア、って、水煙はアキちゃんに優しく答えてた。ほな、それの代わりに、時々でええから俺とまたキスしてって。
 やっぱりな! 油断も隙もない。
 それを聞いた俺は、壁際でじたばたしそうになった。
 新開師匠も、それを聞いてもうたんか、ゲッフンゲフンなってたわ。
 そらそうやろな。剣抱いて寝るのが変態なんやったら、それとキスすんのはド変態やろ。普通やらへんやろ。
「ちょっとそれは……ちょっとまた後で、相談しよか」
 さすがにアキちゃんも、顔面蒼白やった。相談せんと、この場で即答で断れ。断固として拒否しろ。なんで相談せなあかんねん。もう。
 俺はほんまに、切ないわ。アキちゃん。ひどすぎると思わへんか。俺にぶっ殺されても、文句言えへんよ。よくも相方の見てる前で、地球外の外道といちゃつけるもんやわ。
 もう我慢でけへんし。文句言うたろって思って、俺は憤然と、壁にもたれてた身を起こした。邪魔すんなって言い渡されてたけど、俺の我慢にも限度があるわ。
 小夜子さよこさんが現れたのは、その時やった。新開先生の奥さんや。新開小夜子しんかい さよこ
 明るい茶色に染めた長い髪の毛を、くるっくるの巻き髪にして、きっちり束ね、着物っぽい前合わせの襟のカシュクールな白ブラウスには、ひらっひらのラッフルレースがてんこもり。そしてスカートはネイビーブルーのマリンルック。
 神戸の女やで。大阪の女と違うて、色味は地味やけど、どっか派手やねん。華があるというんか。ものすごいマスカラ効いてる、気合い入った睫毛とか、美白に命かけてますみたいな、桃っぽい白いほっぺたにベビーピンクのチークとかな。
 アキちゃんは見慣れぬそれを初めて見た時、奥さん、スカートにいかりと縄ついてるって、ちょっと呆然としてた。
 見たことないんか、アキちゃん、マリンルックの神戸女を。世界が狭すぎ。京都の女しか知らんなんて。別に知らんでええけど、永遠に。
「さあもうお稽古終わりかしら。ケーキとお茶いかが。宝塚ホテルのチョコシフォン、美味しいから買っといたの」
 ベルサイユ宮殿かみたいな金の取っ手がついた白いお盆に、小夜子さんはチョコレートクリームたっぷりのケーキを切り分けて乗せてきていた。めちゃめちゃ美味そう。
 俺、甘いモンも大好き。それに紅茶の香りが、ふわりとほのかに流れてきた。それが汗だくで道着きた髭とアキちゃんの世界観に、ものすご不似合い。でも俺は紅茶好きやねん。コーヒー党のアキちゃんにつき合うて、このところ滅多に飲んでないしな。
「本間君が来る日やから、お腹空くやろうと思って、おやつ用意したのよ」
 にっこにこして、小夜子さんは旦那を無視し、アキちゃんのほうにケーキを見せにいった。
 アキちゃんはそれを、恐縮したような困り顔で見てた。ケーキ食うような男やないねん。
 それに、さんざん汗流してシバき回された稽古の後に、チョコシフォンてなあ。ちょっと無いやろ。
 でも小夜子さんは、そんなこと気にせえへんオバちゃんやった。歳に似合わんお嬢さんみたいな若作りで、少女マンガみたいな人やねん。それに嫌みはないけど、出てくる茶菓子は常に、ベルサイユ方向に傾いてる。
 紅茶のカップかて、白地にピンクの薔薇の模様なんやで。男がそれで茶飲むなんて、何でも似合う俺にはちょろいが、アキちゃんや、まして髭にとっては、ほぼ罰ゲーム並に恥ずかしい絵面や。それに小夜子さんは、気づいてへん。
 独自の世界観があるんや。彼女には。
 神聖な道場でどうのこうの言うてる髭をスルーして、小夜子さんは皆を床に座らせ、俺のことも亨ちゃんもおいでと呼んだ。そしてアキちゃんの隣に座らせ、桃チーク塗ったほっぺたに手あてて、俺らのツーショットをうっとり眺めた。
「目の保養やわあ。いつ見ても。宝塚のポスターみたい」
 宝塚歌劇団のこと言うてるんやで。
 それについては異論があるやろ。少なくともアキちゃんにはある。見たことあるからな、宝塚のポスター。阪急電車で大阪行ったら、嫌でも目に入る。乗る車両によっては、一車両まるごと宝塚歌劇団の中吊り広告で占められてる。
 女ばっかりの劇団やねん。男役やる女優さんもおって、ものすごい独特のメイクして、キラッキラの舞台で女同士のラブロマンス。小夜子さんは、子供のころからその宝塚歌劇団のファンやねんて。
 様々なことが、そこに結びつけられてる。それについて異論をとなえたらあかん。話長なるだけやから。
 アキちゃんも、とうとうそれに気づいたんや。何も反論せえへんかった。ただ遠い目してるだけで。
「亨ちゃんて、ほんとにいつ見ても綺麗ねえ。服の趣味変やけど。もっと王子様みたいな服着たらええのに」
 にこにこしながら、小夜子さんはさらっと酷いことを言うた。俺は黙ってケーキ食って、それにも何も反論せえへんかった。
 俺が祇園のパゴンで発作買いした、真っ赤な西陣アロハに理解を示す者は、この世には誰一人いないんや。蝶々の模様が綺麗やのに。お店の人も、ようお似合いですよって言うてくれたし、自分ではめちゃくちゃ似合うつもりやねんから、ほっといてくれ。
 そやのに、アキちゃんには、派手やなお前と眉をひそめられ、小夜子さんには変やと言われる。それ言うんやったら小夜子さんかて変やで。スカートに縄ついてるもん。
 それに王子様みたいな格好って、どんなんや。俺にもフリフリのブラウスを着ろ言うんか。アホやで。それ着てたら確実にアキちゃんドン引きしてるわ。
「小夜子さん、紅茶淹れるの上手いですね」
 一応、ツレの師匠の妻やしと、俺は礼儀正しく敬語で話逸らした。早く小夜子ワールドから脱出せなあかん。
「ありがとう。そんなこと気づくの亨ちゃんだけやわ。甲子園のムレスナ・ティーハウスで買うてるの」
 小夜子さんは両手を握ったお祈りポーズでにこにこ言うた。きっと小夜子ワールドでは背景に花咲いてる。
「その店、京都にも支店ありますよ。俺はフォートナム・アンド・メイスンのほうが好きやけど。最近、縁遠いわ。アキちゃんが、コーヒーしか飲まへんから」
 俺がその話をすると、小夜子さんは背景に雷落ちたみたいな衝撃の顔をした。
「えっ。そうなの。私、そんなの全然気づいてへんかった。本間君、コーヒーが良かったの?」
「いえ。お構いなく」
 罰ゲームの紅薔薇ティーカップで紅茶を飲まされながら、アキちゃんは修行僧みたいな我慢顔やった。小夜子さんはそれを、ガーンて顔で見てた。
 わかるわ、その気持ち。俺もアキちゃんが実は和食党やったという話を、恋敵の口から教えられた時には、ショックで頭真っ白になったもんやった。
「いややわ、そんな遠慮なんかしないでちょうだい。今度はコーヒー淹れておくから。にしむら珈琲店でブルマン・ナンバーワン買うておくわね」
 美味いんか、それ。美味いんやろな、わざわざ言うくらいやから。
 アキちゃんはそれに、珍しくも愛想笑いをしていた。大サービスやな。弱みでも握られとるんか。
「ごめんね。昔、お稽古のあとにケーキとお紅茶だしてあげたら、嬉しそうやったから、てっきり今も好きなんやと思った」
「いつの話をしとるんや、お前は。本間が小学生の頃やろ、それは」
 むすっと黙ってケーキ食ってた髭が、むすっと口を挟んできた。小夜子さんはそれに、そうやけどと、スネたように答えてた。
「昔は物珍しかったんです。うちは、おやつ言うたら饅頭まんじゅうとか羊羹ようかんとかやったから。洋菓子系がおしなべて珍しくて……」
 アキちゃんは、今はもう珍しくもなんともない苦手なクリーム系をつつきながら、神妙な顔して解説してた。
 俺の知る限り、アキちゃんは甘いもんは食わへん。和でも洋でも、もはや関係なしや。デザート無しですよ。外で飯食うと、デザート別腹の俺を、嫌そうな顔して睨みつつ、はよ食えという気配むんむんでイライラ待ってる。
 男が甘いもん食うなんて、許せないというのが、アキちゃんの美学らしいねん。
 でもそれは、最近できた美学ということなんやろな。餓鬼のころは小夜子さんにケーキで餌付けされてたというんやから。
 どうせアレやねん。いつもの謎のアキちゃん論理により、ケーキ食うてる姿が恥ずかしいという、その程度の理由やねん。男子たるものケーキは食うなと、それは女子供の食いもんやと、そういう事やろ。
「おうちでケーキ食べさせてくれなかったの。お誕生日ケーキは?」
 もしもそれも無いなら悲劇と、そんな痛そうな顔して、小夜子さんはアキちゃんに訊いた。
「そんなもん見たこともないです。うちは祝い事言うたら、赤飯と鯛やったから」
 バースデー赤飯か。やるなあ、おかん。いつの時代の人やねん。
 それ言うたらあかんか、あの人に。それは禁句や。なんであかんのやろ、ケーキ。それは鬼畜米英の食いもんやからか。どのへんで時代止まっとんねん、あの人は。
「はあ、お赤飯。おめでたくていいけど。ケーキがいいって、お母様にねだったりしなかったの」
 小夜子さんは、いかにも不思議そうやった。そこに何でこだわるのか。たぶんやけど、餓鬼のころのアキちゃんが、よっぽど喜んだんやろ。小夜子さんが餌付けしたケーキ。
「ねだったけど、あれは男の子の食べるもんやおへんて言われまして」
 案の定すぎる返事をしてるアキちゃんに、俺は思わずブッて紅茶吹いてた。おかんか。おかんの美学やったんか。しかもそれを素直に受け入れてる、というか、今だに守ってるアキちゃんて、どこまでマザコンなんや。
 恐るべし、おかん。おとん大明神と地球の裏側まで旅してる途中でありながら、未だにがっつり息子の首根っこ押さえてる。
 一昨日やったか、ブラジルから手紙来てたわ。それで、カーニバル衣装のおかんの写真を見てもうて、アキちゃん二時間くらい意識失ってた。なんで、いちいち写真見て死ぬのか。見たないんやったら無視すればええのに。実は見たいんや。そうに決まってる。
 写真片付けてくれて頼まれて、俺が作ってる、おかんのコスプレ写真集、見せたろか。アキちゃん絶対死ぬわ。まとめて全部見たら。エジプトでベリーダンスとかあるんやで。
「ご家庭の教育やったら、仕方ないわね。まさかアレルギーとかやないのよね」
「そういうのはありません、俺は」
 アレルギーどころか風邪すらひかへん。アキちゃんは丈夫なんや。たぶん気力が充実してるからやろう。
 今や俺のお陰で、小怪我なら一瞬で治るまでになったんやから、アキちゃんはもう、殺しても死なへんような男やで。相手が普通の人間程度やったらな。
 そのはずやのに、アキちゃんの右手首は腫れていた。新開師匠の小手を食らったせいやろ。なんで腫れてんのか、それが気になって、俺はじっとそれを見つめた。
 アキちゃんは、いまだに髭剃ってる。髪も伸びるし、日に三度飯食うし、トイレも行く。俺にはそれが不思議や。
 俺も飯食うけど、それは趣味やねん。別に食う必要はない。アキちゃんの生き血まで吸うてんのやから、普通の飯はいらんねん。並みの体とちがう。食うても余さず消化してるのか、俺、自分が最後にトイレ行ったの、いつやったっけ、何世紀前やろかていうレベルやわ。
 髪も伸びへん。伸ばそうと思えば伸びるけど、そんな必要ないしな。時代ごとに、普通っぽく見えるように調整かけるだけや。
 アキちゃんも、俺と同じ体になったはず。それとも、まだその途中なんやろか。
 なんで髪の毛伸びるんやろ。本人がそうしたいと思うてるとしか考えられへん。普通でいたいアキちゃんやから、そういうこともあるんやろ。人間らしい生き方を、無意識に追求してるんや、きっと。
 その証拠に、俺が犬にやられて死にかけてた三日間、アキちゃんは俺の傍を一歩も離れへんかった。飯も食わず、水も飲まずで、トイレも行かへんかったで。それでも何ともなかってん。それが変やと、本人は気がついてないらしい。必死すぎて、忘れてたんやろ。
 それはそれで、えへっ、みたいな話なんやけどな。でもなんで、また元に戻ってもうたんやろ。
 おかしなもんで、その三日間、アキちゃんが気にしてたのは、三日も髭剃ってないという事だけやった。それが格好悪いと、アキちゃんは思うてたらしい。
 変な奴や。そんな時に、無精髭が格好悪いなんて、そんなこと気にしたりして。実はけっこう必死で男前を維持してんのか。そう思うと、なんか可笑しいな。
 アキちゃんなんで怪我してんのやろって、俺は微笑のまま見てた。
 気にしてんのか、髭にボロ負けしたこと。なんで気にしてんの。傷痛いやろから、早く治せばええのにって、俺はそれが気になって、小夜子さんの話を途中からしか聞いてへんかった。
「これとどっちが綺麗なんや」
 フォークで俺を指して、新開師匠が小夜子さんに訊いてた。何すんねん、この無礼者。俺をこれ呼ばわりすんな。
「それは微妙やけど。もしかすると、あっちかもしれないわ」
 旦那の髭面と顔を見合わせて、小夜子さんは真剣に答えてた。
 ちょっと待て、なんの話や。今なにか、聞き捨てならない話してたやろ。
「なんの話や」
 俺が思わず問いつめる口調で言うと、小夜子さんは真剣に、あらまあという、俺を咎める顔してた。
「聞いてなかったの、私の話。亨ちゃんたら。神父さんの話よ。私が行ってる教会に、新しい神父さんがいらしたの。それがねえ、ものすごい美形なの。男にしとくの勿体ないみたいなのよ」
 それは危険すぎる話やな。どこのどいつや。アキちゃんの半径百キロ以内に近づかんようにさせなあかん。
 まして神父や。俺は大嫌い。どうも苦手や、キリスト教の坊主は。やつらは蛇嫌いやからな。悪魔サタン呼ばわりされて、時々えらい迷惑したわ。
「小夜子さんて、クリスチャンなんですか」
 意外やという顔で、アキちゃんが訊いてた。小夜子さんはそれに、なんでか恥ずかしそうに頷いてた。
「うん、そうやの。家族全員カトリックで、私も生まれたときの幼児洗礼で信者になって、それからずっとそうなのよ」
「それでよく、神棚のある家の男と結婚なんかしましたよね」
 無神経なアキちゃんトークが炸裂してる。それ、言うたらあかんのと違うか。異教徒と結婚したんやな、って。人によってはムカッとするか、ギクッとするかもしれへんで。
 せやけど小夜子さんは、デレッとした。
「一目惚れやったの。友達に付き合わされて、先輩の剣道の試合を応援しにいったら、そのときの対戦者がこの人でね。格好よかったんよ」
「恋愛結婚……」
 アキちゃんは、それ以上なにか言うたらあかん限界ギリギリの返事をしてた。
 余計なお世話やで、アキちゃん。髭かて若い頃は男前やったんかもしれへんやんか。
 たとえブサイクでも、人間なんやで。何かの奇跡が起きて、それに惚れるやつもおるかもしれへんやん。
 とにかく理屈やないんやから、恋は。世の中の人間全部がお前みたいな面食いやないんや。
「えらい目に遭ったで、小夜子と結婚するときは。しばらく教会に通わされてやな、何や訳の分からん神父さんのお説教聞かされたわ。それから結婚式は教会で、妙な歌歌わされて、延々の聖書朗読やからな。俺は神式でやりたかってん。それが結婚式というもんやろ、本間」
 同意を求める新開師匠の照れ隠しの愚痴に、アキちゃんは妙な顔してた。考えたことなかったんやろ。結婚なんて。
 それはこっちにとっては微妙すぎる話で、できれば話題に出してほしくなかった。アキちゃんはもう一生、結婚はせえへん。ほんまに俺と永遠に付き合うつもりなんやったら。
 そのことを考えてるのかどうか、アキちゃんは何となく、苦い顔やった。
「師範が……まさかタキシードか何か着たんですか。羽織袴やのうて」
 アキちゃんは真面目な苦い顔で、新開師匠にそう訊ねた。師匠は、うっ、という顔をした。
「着たらあかんのか」
「いえ、そういう訳では。ただちょっと……」
 アキちゃんは一瞬だけ口ごもった。言うたらあかんと思ったんやろ。でも結局、言わずにおれんかったんか、アキちゃんは続きを言うた。
「ただ、ちょっと、顔と服が一致せえへんような」
「なんやと。失礼なやつや。自分が男前やと思て、平気でそんなこと言いおってからに。お前なんか竹刀でタコ殴られて当然や」
 何なら今からでも続きを自分がやろかみたいな態度で、師匠はぷんぷん怒り、脇に置いてた木刀を振り上げてた。それでも本気やなかった。アキちゃんは困った顔で笑ってた。
 殴られてもしゃあないって、自分でも思うんやろか。それならなんで、そんな気まずいこと言うんやろ。
 俺にはアキちゃんが、このオッサンに甘えてるように見えてしゃあない。
 アキちゃんはきっと、餓鬼の頃、寂しかったんやろ。おかんと二人、別に何の不足もなかったんかもしれへんけど、それでも父親タイプに飢えてた。おとんみたいな強い男に、甘えてみたかったんやろ。
 それが現実には、あんなおとん大明神やったからな。確かに、強いといえば強いかもしれへんけど、あまりにも常識を逸脱してた。アキちゃんの理想のおとんやなかったんやろ。
 新開師匠と小夜子さんの間には、子供がいない。せやから道場に通ってくる餓鬼んちょが、息子の代わり。アキちゃんも餓鬼のころには、その一人やったんやろ。
 一悶着の後に別れたっきりやった師匠の道場の門を、気まずく叩いたアキちゃんを、新開師匠は快く迎えた。でかくなったなあ本間って、懐かしそうに。
 アキちゃんにはそれが、内心ぐっときたんやろ。
 そうでなきゃ、卒業制作とやらで忙しくなるらしい大学最後の夏を使って、神戸くんだりまで足繁く通うはずがない。いくら水煙のすすめや言うても、嫌やったんや、初めは。行きたくないって、そんな顔してたくせに、今じゃ週に二度、気が向けば三度通いやからな。
「まったく、俺に偉そうな口きくのはな、俺から一本とれるようになってからにせえ」
 空になったケーキ皿を盆に放るように返して、新開師匠はぼやくように説教をした。
「そうします」
 苦笑して、アキちゃんは頷いてた。
「まったくなあ、甘いわ。冷たい麦茶かなんか無いんか、小夜子。この糞暑いのに、なんで熱い紅茶やねん。ケーキもええけど、かき氷とかスイカとか持ってきてくれ」
「そんなん、全然ロマンティックやないわ……」
 小夜子さんは口尖らせて、師匠にそう文句言うてた。師匠はそれに、大仰なうんざり顔を作った。
「なにがロマンティックやねん。俺という亭主がありながら、宝塚や、教会通いやって、しょうもないことに現抜かしおって。その上今度は、美形の神父がおるやと。もう行くな、教会なんか。やめてまえ。日本人は神道!」
「ああ、私ったら、なんでこんな人と結婚してしまったんやろ。本間君と話そ」
 いややわあって首振りながら、小夜子さんはアキちゃんのほうに膝詰めてた。
 新開師匠はそれに、こら、みたいな怒り顔やったけど、それも本気やなかった。仲いい夫婦やねん。
 アキちゃんにとってはそれは、一種の理想像やったんやろ。羨ましいなって、そんな目で見てた。
 何が羨ましいんや、アキちゃん。
 俺はそれについて、詮索したくない。
「汗かいて気持ち悪いでしょう。お風呂使ってから帰るといいわ」
 小夜子さんは、にこにこして、アキちゃんにそうすすめた。
 それにアキちゃんは、いつもすみませんと答えた。
 道場には簡単なシャワー室もあったけど、小夜子さんはアキちゃんにいつも、隣にある自宅の檜風呂を使わせていた。風呂桶は檜で純和風やのに、それに、ものすご洋風のシャワーが併設されてる、この夫婦のせめぎあう世界観が凝縮されたような風呂や。
 小夜子さんが、湯加減いかがって、それにかこつけて風呂を覗くというんで、俺はいつも見張りに立たされてた。
 お前もいっしょに入ろうか、なんて、そんな優しい話は出たことがない。まあ、出るわけないんやけど、統計的に見て、アキちゃんの場合。
 今回もそれは類型パターンを踏み外さず、アキちゃんはひとりで檜風呂に浸かり、俺は脱衣所で見張りに立たされ、中を覗きたい小夜子さんを牽制するのに忙しかった。なんでアキちゃんの入浴シーンを見たいんや、小夜子さん。旦那で我慢しろ。他人の男に手を出すな。
 そんなつらして番兵やってる俺が、アキちゃんの何なのか、小夜子さんは知らんようやった。アキちゃんは何も、話してないんやろ。そこを敢えてカミングアウトはせえへんけどもや、怒られたらいややし、せやけど微妙。
 俺はついてこないほうがええんやろけど。でも心配でついてきてまう。アキちゃんの身に、何事かあるんやないかと。それはアキちゃんが俺のご主人様やから。守る義務があるから。
 と、いうのが建前で、嘘ではないけど、本音のところは見張ってんのかもしれへん。心配やねん。俺は不安でたまらへん。
 夏の一件以来、ほんま言うたら不安でたまらんようになった。またあの犬みたいなやつが、俺からアキちゃんを奪おうとするんやないか。今度こそ、そいつが、アキちゃんを盗っていく。そんな心配が、頭の中をぐるぐる回る。
 心配するなって、俺のことが好きやって、アキちゃんは約束してくれたけど、俺はそれを、心のどこかで疑ってるのかもしれへん。
 だってアキちゃんは、なんで俺のことが好きなんやろ。
 もっといろいろ気の合うやつが、おるんやないか。
 水煙の話やないけど、大阪で俺がぶっ潰してやった、あの犬みたいな。
 あいつのほうが実はほんまに、アキちゃんを幸せにできた。そんな事が突然頭をよぎって、不安でたまらんようになる。
 俺はここに居てええのかな。ほんまは居らんようになったほうが、アキちゃんのためなんやないか。水煙が言うように。よそへ行って、他のを食うので我慢する。昔ずっと、そうやって生きてたみたいに。
 なんにも言わへんようになった黙りの水煙を脇に見て、俺は恨んだ。お前が変なこと言うてくるから、また変なこと考えてもうたやないか。
 水煙はアキちゃんが車から持ってきた着替えの服の上に鎮座して、いかにも余裕の沈黙やった。
 たとえば自分に譲れと、こいつは言いたかったんかもしれへん。おとんも好きやけど、ジュニアのほうも、まんざらでもない。あの蛇、邪魔やなって、そういうことなんか。
 俺はお前のこと、仲間やと思うてたけどな。甘かった。お前もあの犬と、なんも変わらへん。横からアキちゃんを盗ろうとする、油断も隙もない恋敵か。
 せやけど、その水煙と、そこそこ仲良しこよしでやっていけてるんやから、あいつとも実は、やっていけたんやないかと、俺は考えてた。
 勝呂瑞希すぐろみずきや。アキちゃんはきっと、あいつのことも好きやった。水煙のことも。今後他にもっと、そんな奴が現れるかもしれへん。そのたびに俺は、そいつを押しのけたり、ぶっ潰したりせなあかんのか。それを永遠に、続けるつもりなのか。
 それがほんまに、アキちゃんのためになるやろか。
 なりはせんやろ。実際のところ。俺はお邪魔虫。アキちゃんが実家の家業を継ぐつもりなんやったらな。
 そういう暗い考えで、浴室に背を向けてた俺の背後で、アキちゃんが風呂からあがってきた。いつもなら恥ずかしいとも思わず見てるそれを、俺はなんでか気恥ずかしくて見られへんかった。よその家の風呂やからやろか。
 それともいつも我が儘言うて、迷惑かけてる自分が嫌になってたからか。
 アキちゃん、俺のことだけ見ててくれ。皆、アキちゃんが好きらしいけど、よそ見せんといて。約束守って欲しいんや。
 俺のこと、好きやって言うて。俺だけにやのうて、皆にも教えてやって。盗ろうとしても無駄やって。アキちゃんは、俺のもの。永遠にそうなんやって、皆にも分かるように。
 俺、不安やねん。幸せやけど、めちゃくちゃ不安。この幸せが、突然消えて、お預け食らうような時が、来たらどうしようって。
 アキちゃんに捨てられたら、俺は惨めや。そうなったらどうしよう。
 大人しく妥協するところとちゃうか。水煙が言うように。アキちゃんの全部やのうて、一部で我慢する。お前が一番好きやって言うてもらえたら、それで我慢する。二番や三番がおっても、それに目をつぶる。そうやって、騙し騙しやっていけば、案外平気なんとちゃうか。だって俺は、ずっとそうしてきた。
 藤堂さんにも、妻子がおったで。俺はそれを考えないようにしてた。
 それでもどこかで遠慮はしてたわ。
 娘がもうすぐ卒業するんやって言う藤堂さんの話に、へえ、さよか、って興味のないふりしてたけど、それまではどうしても生きてたい、欲を言えば娘が結婚するまでは、一人前になるまでは、人並みに幸せになるまでは、俺には責任があるって、必死のようやったあの人に、それがどうしたとは言えへんかったな。
 俺はおまけでお邪魔虫。そういう気がするのを誤魔化して、平伏す男に満足してるふりしてた。こいつは俺がおらんと生きてられへんのやって、そういう上から目線がぶれないように。
 だからできるんやないか、相手がアキちゃんに変わっても。何が違うんや、あの頃と。
 それでアキちゃんのためになるなら、それもアリやろって。
 なんで俺はそう思われへんのやろ。
「どうしたんや、亨。黙り込んで」
 新開道場で次の約束をして、それではまたとお別れをして、車停めてた裏手のガレージに戻り、ドア閉めるなり、アキちゃんは助手席の俺にそう訊いた。
 暗かったですか、俺の顔。気にしてくれって、そういうつらしてたか。
 してたやろ。俺、ずるいから。気にしてほしかってん、アキちゃんに。俺も居る、俺にも気を遣えって。全身でそう叫んでたと思うわ。
 不安やねん、アキちゃん。俺、水煙兄さんにまたイジメられた。俺のこと、守ってくれ。抱きしめて、慰めて。お前が好きやって、いっぱい言うて。後部座席でおくつろぎの、むかつくでっかい包丁に、アキちゃんの俺への愛を、いっぱい見せつけてやってくれ。
「キスしてくれ、アキちゃん」
 頭抱えて、俺が頼むと、アキちゃんはためらう沈黙で、それに応えてきた。
 嫌なんか。なんで嫌やねん、この野郎。
「悩んでんのか、何か、また」
「悩んでる」
 不安そうに訊いてきたアキちゃんに、俺は怒って答えた。それに息を呑む気配がした。
「今朝のこと、まだ怒ってんのか」
「怒ってないわけあらへん。あれで、うやむやか。それでもええけど……」
 ええわけあらへん。
 そう思いながら、それでも俺は我慢しようと思ってた。
 何や、えらい話やった。水煙様が、のんきにも、道場には行けと言わはるもんで、こんなとこまでのこのこ来たが、今朝の地震みたいなもんは、えらいもんの始まりらしい。それをどないするんか、まだ全然なにも決まってない。話してさえいない。
 アキちゃん、また何か、どえらいことに巻き込まれるんかな。
 そんな今、俺は我が儘言うてる場合やない。今度こそドジ踏まんようにして、アキちゃん助けてやらなあかん。お前じゃ不足やって、おとん大明神が思ったら、俺ってどうなるんやろ。
 不足があったら他の式神をアキちゃんに探させるって、おとん言うてたやんか。あれって、ほんまの話なんか。
 水煙の話では、アキちゃんのおとんには、常に十五、六は式神が憑いてたらしいわ。水煙みたいのが、両手の指では足らん数、せめぎ合うような世界やで。
 俺はその中で、何番目。俺って、どのくらい強いんやろ。そんなの、考えたこともない。
 とりあえず、水煙よりかは弱いことは確実やねん。年期が違う。強い奴がええわって、アキちゃんが思ったら、水煙に勝たれへん。
 アキちゃんが俺を好きなのは、ただ好きなだけ。恋してるだけ。
 そのアキちゃんが、一人前のげきに成長した時、どういう目で俺を見るやろ。こんな使えないやつ要らんわって、思われたらどうしよう。
 俺はつらい。それを思うと、つらくてたまらん。
「何があったんや」
 情けなそうに、アキちゃんは俺に訊いてきた。エンジンかけようとして、挿した鍵にやった手が宙ぶらりんやった。
「水煙が、俺にときどきは目をつぶれって言うたわ。そうして欲しいか、アキちゃん。たまには他のともやりたいか。俺は迷惑か。アキちゃんの足を引っ張ってるやろか。迷惑なんやったら俺は……」
 黙れというように、アキちゃんは怒った顔をして、俺の口を手で塞いだ。
 それから、うつむきがちに深いため息をひとつついて、シートに手をかけ、後部座席を覗き込んだ。そこに転がされてた、水煙を。
「水煙」
 アキちゃんは早口に呼びかけた。それでも剣は黙りやった。
「水煙、聞こえてるんやろ。返事せえ」
 どう聞いても怒ってる声で、アキちゃんはイライラ呼んだ。
 それからしばらく水煙は黙ってたけど、やがて億劫そうに答えた。
 なんや、ジュニア、と。
 その何でもない返事に、アキちゃんはどうも、マジ切れしたらしかった。
「誰がジュニアや。ふざけんな。なんでお前は亨に変なこと言うねん。俺に隠れてこそこそすんな。言うてるやろ、いつも。俺はこいつの他に、しきは持たへん。それはもう、とっくの昔に終わった話やろ」
 水煙に怒鳴ってるようなアキちゃんの話で、俺は悪どい宇宙人が、アキちゃんにも浮気のすすめをしていることを知った。
 アキちゃんはそれを何遍、断ってんのやろ。
 水煙は、なにも返事してこんと、黙り込んでいた。
 俺はその沈黙の意味について考えてた。なんでこいつは、俺とアキちゃんの仲を、割こうとするんやろ。
 まさかそれが、おとん大明神のご命令なんか。
 それともこいつ、アキちゃんが好きなんか。おとんのほうやのうて、ジュニアのことも、割と本気で。
 そういえば今朝、風呂場で抱っこされてた時、水煙はアキちゃんのことを、アキちゃんと呼んだ。
 あれは、わざとか。それとも、口が滑ってもうたんか。
 アキちゃんは、水煙には油断してる。こいつはおとんが好きなんやって信じてて、ノーガードなんやで。それで今朝もあんなことに。
 せやけど、ほんまに、こいつはアキちゃんのおとんが好きなんかな。好きなんやろけど、こいつは代々の秋津家の当主に憑いてたんやろ。その代替わりの時期、前のから今のへ、どうやって乗り換えてきたんや。
 別れてすぐには、忘れられへん。それでもいつかは乗り換える。そういうのにこいつは、慣れてるんとちがうんか。
 お前にとっては何人も何人もいた秋津の跡取りの一人なんやろけどな、俺にとってはアキちゃんはこの世にひとりだけやで。その俺と張り合おうなんて、ちょっと甘いんやないですか。いくら年期を積んでるいうても、お前は見たとこ使える穴もないような、キスしただけでめろめろの、初心うぶな宇宙人やないか。
 キスだけやったら俺のが上手いで。アキちゃん、それに慣れてるし。俺のほうが断然ええわって言うてたで。
 アキちゃんは何も答えない剣に、ほとほと困ったみたいな顔して、もう何て言えばええやらと、考えあぐねてるようやった。
 ああもう困ったっていう難しい顔でハンドルのほうに向き直って、アキちゃんは、はあ、と長いため息をついた。
「頼むから、お前ら仲良くしてくれよ。喧嘩せんと、やっていかなあかんのやで。そういう話やったんと違うんか、水煙。おとんはそう言うてたで」
 ぼやくアキちゃんにも、水煙は無反応やった。
 その沈黙に、アキちゃんはまるで呻くような息をついて、ハンドルに額を擦り寄せ縋り付いてた。
 どしたんや、アキちゃん。何がつらいんや。
「水煙……お前はええかげん、俺のことをジュニアって呼ぶのはやめろ。そんなにおとんがええんやったらな、もう帰れ。俺は俺で、自分が使える剣を探すし、そんなもん、元々必要ないねん。俺は絵描きになるんや、剣なんか要らん。口を開けばお前は秋津の家がどうのこうのって、そんな話ばっかりや。そんな話しかせえへんのやったらな、もう黙っとけ。おかしいやろ、剣が口きくなんて。そんなん、ありえへん……」
 アキちゃんそれは、言いすぎやないか。
 俺は黙って聞いてたけど、内心そう思ってた。いくらなんでもちょっと、可哀想やろ。
 水煙はそれに、何も答えへんかった。まるでただの剣になったみたいに、固く沈黙してた。
 アキちゃんは水煙がなんで返事せんかったのか、全然気がついてなかった。鈍い男やわ。何回おんなじ失敗してんのやろ。
 水煙は、お前の剣なんやろ。おとんが家督とともに、アキちゃんにくれたんや。せやから水煙は、アキちゃんの使役を受けてる。新しい使い手に、アキちゃんを選んだ。
 その相手から、もう口きくな、お前はありえへんて本気で言われて、こいつは大丈夫なんか。もう二度と、なんも話せんようになるんやないか。
 俺はそう思ったけど、黙っておいた。
 もしそうなったとして、俺にどんな害がある?
 別にない。うるさいやつが、静かになっただけ。気の毒やなあと思うけどやな、それが何。自業自得やろ、水煙。二股かけてた罰が当たったんや。
「アキちゃん……」
 まだハンドルに取り付いてたアキちゃんの手首の怪我を見て、俺は呼びかけた。
 その傷は、むちゃくちゃ腫れてた。紫色に痣になって、このまま放っといたら、そのうち腐ってくるんやないかと思えるような傷やった。
「手、痛いやろ。俺が治してやろか」
 項垂れてるアキちゃんの肩に触れて、俺が言うと、アキちゃんは何となく、いややって首を振ったようやった。
「怪我なんかな、治れって思えば治るはずやで。気力さえ充実してれば。もう、そういう体なんやで」
 俺とおんなじなんやったら。
 恐る恐る、俺は教えた。それも嫌やって、アキちゃんが爆発するんやないかって、何となく不吉に怯えながら。
 でもアキちゃんは別に、俺にキレたりせえへんかった。
 ただ、もうあかんわ、俺はって、独り言みたいに呟いた。
「何があかんねん」
 俺の席からは見えてない、アキちゃんの顔を、それでものぞきこむ気分で、俺は訊ねた。
「八つ当たりしてる」
「そうやろか。言われて当然のことやろ。アキちゃん、ちょっと、水煙に甘いで。惚れたんか」
 自分を責める口調やったアキちゃんを、俺は責めた。
 ほんま言うたら俺はこの剣が、鬱陶しい。それでもアキちゃんがこいつを立てるんで、俺もそれに合わせてただけ。
 アキちゃんにもこいつが鬱陶しいんやったら、捨てよか、こんな、古い鉄くず。それが無難やわ。
 俺が居れば何とかなるやろ。剣なんかのうても、俺がアキちゃん守ってやるし。水煙抜きでも、おかんは立派に秋津の家を守ってきたやん。
 要らんねん、ほんまのところ、水煙様は無用の長物。どんな偉い神様か知らんけど、要らんもんは捨てよ。
 俺は許せへん。今朝から急に許せんようになった。アキちゃんをジュニアって呼ぶ、こいつの猫なで声が。
 外道の勘かな。気がついてん。こいつ、アキちゃんのこと、実はけっこう好きなんやないかって。
 ほんまはいつも、ぷんぷん妬いてたんやないか。俺のこと。それで妙にイケズで、嫌みばっかり言うてたんやないか。
 ただそれを、プライド高くて言われへんかっただけやろ。アキちゃんには。そんな蛇なんかほっといて、俺のほうを向いてくれって。そしたら愛してやるのにアキちゃんて、そんなつもりでおったんやろ。
 せやけど生憎、お上品な水煙様は口ごもっておいでやったんや。
 ほんならずっと、黙っといたらええわ。道具は道具らしく。
「許してくれ、亨。惚れたとか、そういうつもりやないねん。ただ何となく……」
 何となく、何なのか、アキちゃんは言葉に出しては言えへんかった。それでも俺には、アキちゃんが何を思ったのか、微かに聞こえたようやった。
 ただ何となく、優しかったからやと、アキちゃんは言うてた。
 優しい?
 こいつが?
 それは騙されてるわ、アキちゃん。外道が下心なしに優しいわけあらへんわ。こいつはどうせ、気の毒な犬にお相伴して、ちょっぴり味わったアキちゃんの血の味が、忘れられへんだけやねん。
 アキちゃん欲しいって、そんな下心。俺も分かるわ、ご同類やもん。
 俺はぜんぜん優しない。それでもアキちゃんには優しいで。好かれたいだけやねん。それであわよくば、抱いてほしい。できればちょっと愛してくれって、そういう気分やねん。
 そうに決まってる。
 そんなん、相手にせんとき。俺かて優しいでって、俺はアキちゃんを励ました。
 そして怪我してるほうの手に触れると、アキちゃんはびくりとしてた。
 痛かったんかもしれへん。俺が腕を引いて自分のほうに傷を引き寄せると、アキちゃんは苦痛の顔やった。
 これは普通の傷やない。アキちゃんが自分でつくったまがいモンやで。まあ、言うなれば自傷やな。アキちゃんは、自分を責めてた。なかなか上達せえへんなあって、アキちゃん自身も焦ってたんやろ。
 それは水煙がうるさく急かすからに違いない。
 アキちゃんは、水色宇宙人を巡って、内心のどこかでおとんと争ってた。こいつを使いこなして、俺は立派な跡取りと、偉そうにしてみせたかったんかもしれへん。
 今は自分をほっぽって、南米やカーニバルやって浮かれ騒ぐ薄情なおかんに。俺のほうがええわって、そういうポーズをとってみたかった。
 そういう子やねん。アキちゃんは。それが弱点。おかんにはいつも、精一杯のええ格好して、無理してる。
 そんなん、もう、せんでもええやん。俺が居るやろ、アキちゃんには。
 そう言う代わりに、俺はアキちゃんの傷を舐めた。めちゃくちゃ痛いって、そういう顔やった。それでも俺は遠慮なく、手首に浮いてるはずの静脈に、自分の牙を突き立てた。
 可哀想やん、痛い目あわされて。治してやらなって、それがご都合な言い訳で、単に俺は本能的に、アキちゃんの血を吸いたいだけやった。
 アキちゃんまた、よそ見してるわ。おかんとか、水煙とか、可哀想な犬とか、そんなんばっかり。俺だけを見てくれへん。
 呪縛が切れてんのとちゃうか。他のは皆もうちょっと、俺に夢中でいたけどな。なんでアキちゃんにはそれが、今イチ効かへんのやろ。もしかしてアキちゃんが、強い力を持ったげきやから、俺では籠絡できんのか。
 それじゃあ、あれか。正攻法で行かなあかんのか。何の力もないただの人みたいに、俺を愛してくれって、信じて待つしかないんかな。
 そうなんやってもう分かってるのに、俺は怖い。そんなのやったことない。とっつかまえた下僕には、脳の随まで蕩けるような、強い呪縛をかけるもの。俺の牙には毒があって、ひと噛みすれば効いてくる。大抵それでいいはず。
 一度で足りなきゃ、もう一回。それで無理なら、もう一回。毒がほどほど効いてきて、うっとり俺を見るようになれば、後はもう放置でええわって、そういう仕組みのはず。
 それやのにアキちゃんは、何回噛みついて、これでもかって血吸うてやっても、けっこう平気な顔してる。ちょっと気持ちいい程度らしい。それは癖になるよな愉悦ではあるけど、アキちゃんにとってはもう、日常茶飯事やから。
 今も血を吸う俺が、自分の掌を撫でるのを、苦痛のような、うっとりした目で見てる。ただそれだけ。いつもはそれだけ。
 でも今日は、手首の傷に牙を立てて、流れ出る血を舐めてる俺の体をそのまま抱いてきて、アキちゃんは暑い夏の車内の締め切った温度の中で汗をかき、朦朧としたような金色の目で俺を見た。
 ため息ついてるアキちゃんの唇が、薄く開いた奥に、異様に鋭い犬歯があるのを、俺は見上げた。助手席のシートに押しつけられた俺の首筋に、アキちゃんが少し躊躇うみたいに、ただ唇を押し当ててくるのを、うっとり目を伏せて感じ、その時を待った。
 アキちゃんはいつも、俺の血を吸うのを我慢してるらしい。
 ほんまは吸いたいけど、その必要がないと、アキちゃんは思ってる。俺は精気を吸わんと生きられへん。せやから精気の源をアキちゃんの血に求めるけど、アキちゃんには多分その必要がない。だから吸血したい欲は無駄で、浅ましいと思うらしい。
 そうかもしれへん。でも、ええやん、別に。浅ましく、俺を貪り食うてくれ。
 背を押して促すと、アキちゃんは初めは甘く、俺の首筋に牙を押し当てた。やり方知らへんわけやない。何回かは辛抱堪らず吸うたことある。夜中に抱き合うてるときに、めちゃめちゃ燃えると、アキちゃんは我慢できんようになって、俺の血を吸う。
 それはほんまにヤバい、人外ならではのさや。せやけど吸われる一方やと俺もほんまに昇天しかけるから、甘く浮き出た静脈のどこかから、アキちゃんの血をもらう。吸うのも吸われるのも、めちゃくちゃ気持ちいい。
 この時も、一気に突き立てられた牙の痛みに、俺は期待を込めて喘ぐような悲鳴やった。搾り取られる感覚に、くらりと目眩がきて、俺はシートを掴み、アキちゃんの手首の血の滴りを吸った。
 ものすごく甘い、骨の髄まで甘く蕩かすような味や。今までに吸ったことある、どんな相手の血より甘い。
 アキちゃんて、車で抱いてって頼んでも、アホかって言うて相手にせえへんのに、血を吸うのはええんや。
 なんで。
 車でセックスするのは破廉恥やけど、吸血するのはそうでもないんか。キスするのに毛が生えたようなもん?
 果たしてそうかなっていうレベルの気持ちよさやけど。
 それとも単に、アキちゃんも俺と同じで、我慢でけへんかっただけか。
 そうやといいけど。
 ああもう俺は死ぬ。すぎて気が遠くなってきた。もうやめなあかん。甘く呻いて、それをアキちゃんに教えると、はっとしたようないつものノリで、アキちゃんは慌てて牙を抜いた。それでまだ塞がってなかった牙の傷から血が流れたんやろ。アキちゃんはそれを、熱い舌で舐めた。
 甘いような味がするらしい。俺が感じてるのと同じで。もったいないって思うらしい。
 まだどこか夢中で、アキちゃんの手首から貪ってる俺のことを、アキちゃんは細めた金色の目で見下ろしてきた。アキちゃん美味いって必死になってて、俺はどうもお行儀が悪い。唇が血まみれに。
 アキちゃんはそれを見て、可笑しかったんか、それとも気恥ずかしかったんか、自分の口を拭って汚れてないか確かめつつ、淡い苦笑のような笑みやった。
 さすがにたらふく食いすぎかと、俺は反省して、牙を引き抜き、そこに溢れた血を舐めた。そして口元を濡らした血を舌なめずりして貪る俺から、アキちゃんは目を背けてた。これが何や、エロくさくて恥ずかしいんやって。
 アキちゃんの手首の、師匠にボコられた傷はもう、すっかりどこかに消えていた。俺が治してやったんやで。俺は病気や怪我に効く。毒もあるけど薬にもなる。そういう有り難い蛇神様やからな。アキちゃんの感じてた痛痒は、俺が全部吸い取っておいてやった。
「アキちゃん、めちゃめちゃかった。もう一個の方の気持ちええこともしたい。はよ帰ろ」
 甘える口調で俺が頼むと、アキちゃんは苦しそうな顔をした。アホかって怒らへんかった。効いてる。俺の毒が。それとも抱き合って貪り合う熱が、アキちゃんも蕩かしたんか。どろどろに。
「暑い」
 ため息まじりの熱い口調で、アキちゃんは言い、どう見ても照れ隠しと思える仕草で車のエンジンをかけた。エアコンかけようって、思ったらしい。すぐには車を出さへんかった。
「ついでやから、キスしよか、亨」
 ついでやしって、アキちゃんは照れながら言うてた。
 俺はそれに同意した。ここまで来たら一緒やろ。
 新開師匠の道場のガレージは、木戸で蓋してあったし、それにその気になればアキちゃんは目隠し用の結界も張れる。
 そんなことせえへんでも、鬱蒼と茂る酔芙蓉すいふようの木が、もう夕方やと告げるピンクの花を無数に咲かせて目隠ししてた。恥じらう色に酔っぱらい、ふわりと解けたように咲いている。
 そこでアキちゃんは俺に、貪るようなキスをした。
 それが気持ちよすぎて切なくなって、俺ははあはあ喘ぐ息やった。
 水煙はそれを聞いてたやろ。すぐ後ろにいたんやから。アキちゃんてほんまに無節操。夢中になってくると、そういうことが頭からポカーンと抜けてまうらしい。
 でも、ほんまはそれは嘘やないかと俺は時々思う。アキちゃんはそれを、実はわざと見せてるんやないかって。
 以前は実家でやるときに、声を堪えろって俺に頼んだのに、水煙がすぐ隣の居間にいてるって分かってても、毎晩やるとき俺が喘ぐのを、アキちゃんはぜんぜん気にしてへんみたいやった。
 たぶんな、あてつけやねん。無意識に。俺は性能ええよって、見せつけて誘ってる。それはアキちゃんの本能やねん。段々それに、最近目覚めてきたんとちゃうか。それとも、いけない蛇の血を舐めて、誰か聞いてる、気持ちええわあって、どこかで思える境地に至ったんかな。
 いや、アキちゃんに限って、それはないな。恥ずかしがりやねん。
 ほな、つまり、これは水煙様へのあてつけや。アキちゃんはよっぽど、おとんが憎いらしい。俺よりおとんがええわっていう奴に、目にもの見せてくれようぞ、って、そんなとこやろ。面白い。
 ほんならこれも、怒られへんやろ。
 アキちゃんすごい、蕩けそうやって、キスされながら俺は教えた。
 抱いて、って、その肝心なところを服の上から撫でてやると、アキちゃんは苦しそうにため息ついた。
 そして、それは無理やって言った。
 そりゃそうやろ。うん、やろかとは言わへんわ。そんなん初めから分かってるしな。
 それでも欲しいと、俺は誘った。俺の指の意地の悪さに、アキちゃんはため息ついてた。
 ようく見とけよ、宇宙系。地球では欲しいとき、主にこうやって誘うんや。
 お前のはぬるい。俺の足下にも及ばない。
 だいたいアキちゃんみたいな奥手なやつが、普通に誘って、はいそうですかって来るわけないやろ。百年かかるわ。
「アキちゃん、はよ帰ろ。キスもええけど、ベッドでめちゃくちゃ突いてほしい」
「何回目やねん、お前……頭おかしなる」
 なんとか拒もうという、やる気のない手で、アキちゃんは俺の手を払いのけようとしてた。それでも、やっていいなら今やりたいっていう感じやったで。
「どうせもう、おかしいねん。毎日、すぎて脳みそ沸いてる。アキちゃん欲しい。俺の中で気持ちよくなってくれ。家まで我慢できへんか。今すぐここで舐めたろか。俺、上手いやろ。最高にいいって、アキちゃんいつも言うてるやん。いっぱい飲ませて、いつもみたいに」
「何言うとんねん亨、ちょっとほんまに勘弁してくれ」
 幻惑されるのを通り越して、アキちゃんは焦ってた。誰か聞いてたらどうすんねんて、とうとう思ったらしかった。それで慌てて念のため、車に結界張るのが何となく気配でわかったが、それも車内にいる相手には関係あらへん。
「舐めよう、ちょっとだけ。味見だけ。実は俺、口ん中も感じるねん」
「嘘やろ、そんなん……」
 まだ残る牙を見せて俺が微笑むのを、アキちゃんは想像を絶してるという顔で見てた。そんなもん、見たことないっていう顔やった。俺はそれに、ちょっと安心した。水煙の口に突っ込んだわけやないんや。だってこいつ他に入れるとこないやん。
「ほんまやで。ちょっとだけ。頑張って毎日鍛えれば、お口に突っ込むだけで、めちゃめちゃいわって、イくようになるかもしれへん。調教してみるか、ご主人様」
「いや、いいわ、それは。遠慮しとく」
 興味ないわって青い顔を、アキちゃんはしてた。
 全く興味ないわけやないやろ。男の子やねんから。
 せやけどそれには問題がある。アキちゃん独自のな。
「あかんか、それは。普通でないにもほどがある?」
 アキちゃんはそれに、曖昧に頷いてた。いやあ案外好きかもしれへん。そんな葛藤もない交ぜか。危ない危ない。照れ屋でよかった。ほなやろかっていう男やのうて助かりましたわ。
「ほなしゃあない。いつも通りやろか。今朝のやつかったわ。それでなくてもアキちゃんの好きなのでええよ。どれでやってもめちゃくちゃ感じるから。俺らほんまに相性ええなあ。まるで専用お誂え品みたいやわ」
「お前、変やないか、今。ちょっと言いすぎ……」
 はよ逃げようって、そんなノリで、アキちゃんはギアをバックに入れてアクセル踏んでた。ガレージの木戸はまだ、開いてへんかった。自動ドアやないで。手で開ける、極めて原始的な扉やで。
「アキちゃん、俺、アキちゃんに抱いてもらってる時がいちばん幸せなんやで。ずっと俺の中に居ってほしい。それがいちばん幸せやねん」
 ギアを握ってるアキちゃんの手に自分のを重ねて、俺はにこにこ満面の笑みで教えた。アキちゃんはその俺と向き合って、変な顔してた。なんや気色悪いみたいな。
 俺はそういう笑みやったかもしれへんな。ちょっと、悪い本性出てたかも。
 ごめんな、アキちゃんに言うてるんやないねん。これも一種の言葉責め。
 苦しいやろ、水煙。お前には、そんな芸当とても無理。アキちゃんに抱いて寝てもらおうなんてな、そんなん無理やねん、お前には。
 お顔の綺麗さだけに集中しすぎ。お顔なんか見えへんで、電気消してもうたら。もっと愛される肉体作りに、精力傾けるべきやったな。せめてアキちゃん好みの白肌系で攻めるべきやった。
 ご神刀やって崇め奉られて、うっかりしてたな。
 俺みたいに苦労してる子のほうが、色々分かってんのよ。
「アホなこと言うとらんで、ドア開けてくれへんか」
 白いペンキで塗られた、若干ロマンティックな小夜子ワールドのガレージドアを視線で指して、アキちゃんは俺に頼んだ。
 俺は上機嫌で、そのドアに小さく指を振ってみせた。それでドアはがらがらと、大人しく俺のいうことを聞いて開いた。
 俺にとってはどんな扉も自動ドア。開けゴマでなんでも開く。アキちゃんのマンションと、嵐山の実家の戸は別にして。
 ほんまは俺って、すごいんやで。あんまり見せてないだけで。
 アキちゃんはそれを見て、うっとなってた。
「……誰か見てたらどないすんねん」
 驚いてるらしいのに、口を衝いて出るのはそれや。それでも俺は上機嫌やった。
「見てへん見てへん、はい出発」
 号令かける俺に、アキちゃんは呆れ顔やった。
 せやけど結局ノーコメントで、俺のシートに腕かけて、車体後部を見ながらバックで車出してた。
 出ていく車の後部座席で、ほったらかしになっていたアキちゃんの携帯が鳴っていた。メール着信らしかった。珍しいな、メール来るなんて。
 アキちゃん、メールやでって、俺は教えてやった。見てもええか。運転中やし、俺が代わりに見てやろかって訊くと、そうしてくれとアキちゃんは言うた。
 新開師匠の道場の、ガレージ出てすぐの道は狭くて、アキちゃんは車庫出しのハンドル捌きのほうに気をとられてたんやろ。それでも見られてまずいメールが来るなら、見るなって言うたはず。
 そうやねん。俺は時々、アキちゃんの通信記録をチェックしてるよ。夏のあの一件以来、気をつけてますねん。検閲してる。
 アキちゃんはそれを、もちろん知ってか知らずやろ。
 実は知ってて、もう一台、内緒の携帯持ってるかもって?
 それはないわ。その卑怯さに、アキちゃんは耐えられへん男。意図して俺を裏切りはせえへん。
 後部座席にある携帯をとるふりをして、俺はシートに鎮座している水煙様をつつこうとした。せやけど俺の手には、なんにも触らへんかった。
 目で見れば、そこには確かに、おとんの形見のサーベルが横たわってたけど、触ろうとしても指が触れへん。幻みたいに、指が突き抜けてまうんや。
 こいつは元々、実体がない。せやから幻みたいなもんやったんやろけど、現実にそこにあるものやった。それでも俺には触らせへんかった。アキちゃんにしか触られたくないらしい。
 ええ根性しとるわ。俺がお前に触れるのは、お前がキレて俺を刺そうって時くらいかな。でもそれも無理。誰かが握って振るわん限り、水煙はぴくりとも動けへん。
 ざまあみろやで、宇宙系。
 俺は触れへんなりに、水煙をこちょこちょしてやった。それでも奴は黙りや。もうぐうの音も出えへんのやろ。お気の毒やなあ。アキちゃんには、秘密にしといてやるわ。
 アキちゃん鈍いから、お前が怒ったかスネたかして、ストライキでもしてるんやと思うやろ。そして、そのうち諦めて、愛想つかされるがええわ。
 ゴメンネ。亨ちゃん悪い子で。
 でももう、俺は油断せえへんで。お前も敵やと分かったからには。これを好機と付け込ませて貰うわ。お前が悪いんやで、俺を出し抜こうなんて、そんなアホなこと考えるから。
 大人しく引っ込んで、俺のお友達で居ってくれたらええのに。
 必死の俺をなめやがって。殺さなあかんようになるやないか。
 車は快調に国道に出た。
 京都とは違う六甲山系の山並みが、街の北に延々と続いていた。
 青空を背景にした清涼感のある景色やった。
 その山麓から続く傾斜した街並みが、ずっと南の海岸沿いまで続く。道はそれと並行して、ひたすら続いていく。高速乗るまで地道をドライブ。
 神戸の道はええわ、ほどほど流れてて、街並みもどことなく整頓されてる。
 せやけどちょっと前には、この街は地震で引っ繰り返ったんやで。阪神高速の高架がコケて、海岸沿いの街は猛火に焼けた。山際では土砂崩れ。線路は剥がれる、家はつぶれる、ビルはまっぷたつに裂けるしで、えらいこっちゃやったんやって。
 その傷は、一見もう癒えてた。涼しいような顔をして、お洒落に佇んでる街やった。
 それでも内奥にはまだ、癒えぬ痛みを隠してる。
 神戸はそんな街。
 カーステのKISS FM KOBEから流れてきたサザン・オールスターズの「エロティカ・セブン」にご唱和しつつ、俺は上機嫌でアキちゃんの携帯のメール画面を開いた。
 この曲リクエストしたやつは神。桑田佳祐も神。ええ仕事してるわKISS FM KOBE。
 ほんまに今、最高に気持ちええから俺は。
 そう思って見つめた液晶画面の文字に、俺の目はふっと泳いだ。
 それにはこう書いてあった。
「京阪神霊能者振興会より、ご参加ありがとうございます」


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