SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

神戸編(1)

 ピピピッ、と耳慣れた目覚まし時計の耳障りな音が鳴っていた。
 二回目のアラームだった。一回目が鳴った後、二度目の警告を鳴らすように、俺がセットしなおしたんや。
 今日は用事があるから、タイムリミットがある。夏休みやからって、のんびりしてられへんねんて、寝起きの熱のままからみついてきた亨の耳に、約束してくれって囁いた。目覚まし鳴ったら、もう終わり。あっさり止めて、俺を出かけさせてくれ。
「ああ、アキちゃん、目覚まし鳴ってるわ……もう、いかなあかん」
 俺に突かれながら、ベッドのヘッドボードに背を押しつけてた亨は、泣きそうな声でそう言い、ナイトテーブルにあった鏡のような目覚まし時計に手を伸ばした。光る赤い文字で、デジタル時計が、朝の七時を告げていた。
 いつも六時に起きて、ベッドでだらだらしてる。俺は寝起きはいいほうやけど、亨はいまいち。眠い眠いで、しかもエロい。なんでか朝には、そういう気分になるらしい。
 朝起きて、腹減ってるのとおんなじで、なんか、そっちのほうも飢えるらしい。
 アキちゃん、朝立ち直そうかって、余計なお世話なことを口実に、ねっとり甘く絡みついてきて、俺に自分を抱かせようとする。
 用事あるからって、拒むこともあるし、何となく気恥ずかしくて、アホなことしとらんと、さっさと起きろ、朝が勿体ないやろって、逃げることもある。でも、それをどうしても、拒めないこともある。
 たぶん、基本的には俺もしたいんやと思う。
 亨はいつも、裸で寝てる。俺もそうやけど。
 昨夜の愛欲の続き。一回やって、時には二回とか、とにかく抱き合って心地よく疲れ、そのまま何となく寝て、朝はその続き。どことなく甘い汗の匂うような、亨の白い体を抱いて目覚めると、時々堪らんような気がすることがある。
 お前が好きや。抱きたいって思う。そういう時に巧みな指で誘われると、どうやって拒むのか、思いつかないこともある。
 今朝がちょうど、そんな朝で、亨が熱い息で耳元に、アキちゃん、抱いてって誘うもんやから、それはもう、しゃあないわと思った。
 何がしゃあないんやろ。ほんまに言い訳や。
 一時間もあったのに、うっかり激しくいちゃつきすぎて、入れたのは、ついさっき。それで目覚まし鳴って、そんなアホなという情けない顔を、亨はしてた。入れたばっかでお預けかと。
「アキちゃん、嫌や、やめんといて……」
 やめる気配は微塵もない俺に、膝をとられて押し開かれながら、亨は目覚ましを止めて呻いてた。
「憎ったらしい目覚まし時計や。いつかぶっ壊してやりたい……」
 そんな恨み言を呻く亨の耳を、俺は舐めた。頼み込みながら。
「壊さんといてくれ。おかんから貰った入学祝いやねん。ここに住むとき、買うてくれたんや。寝坊したらあかんえ、って言うて」
 耳も弱いし、そっと舐めてやると、亨は喘ぐ。それで、優しく舐めながら話してやると、亨は震えながら悶えた。
「そ……それは、なおさら、壊さなあかんわ……」
 やめといてくれ。亨がその暗い陰謀を早々に忘れるように、俺は激しく責めた。
 いちばん盛り上がるところで、申し訳ないんやけど、俺は出かける用事があるねん。こんなこと、やってる場合やないねん。風呂入って飯食って、めろめろですみたいな表情を押し隠し、とっとと出かけなあかん。道場へ。
 昔、諸般の事情でやめてもうた剣道を、遅まきながらまた習うことにした。夏休みやし、それを利用いたしまして。
 ほんまは卒業制作で、そんな暇ないんやけど、でもこれも、実家の家業やねん。
 秋津の当主には、剣術の技がいる。ほんまのこと言うたら、別にいらんのやけど、無様に剣を振り回すというか、剣に振り回されるのが嫌なんやったら、得物に匹敵する技を、身につけてこいと、おとんから譲り受けた伝家の宝刀、水煙すいえん様が、そのように仰せなんや。
 水煙は、喋る剣。声に出して喋るわけやないけど、心に訴えかけてくる。時に厳しく、時に嫌みたっぷりに。
 お前のおとんは、もっとかったわ、って。
 太刀筋のことなんやろうけど、その言い方がやけに意味深でたまらん。
 俺は別に、水煙を巡って、おとんと張り合うつもりはない。そういうわけやないけど、お前のほうが下手やなって、正面きって言われると、なんやと、って思う。お前より、アキちゃんのほうが上手やったわって、しみじみ言われると、くそう、今は俺がアキちゃんやと、意味不明の闘志が湧いてくる。
 それで、あっさり言い含められて、昔おとんも通ったという、古い知人の道場へ、入門することになったんや。
 俺って水煙に、操られてる?
 亨にもちょっと、操られてるような気がする。
 白い亨の柔肌から、離れがたいような、こんな朝には特に、そんな気がする。
 俺はこんな、意志の弱い男やったっけ。人の言うなりに、ああせえ、こうせえ言われて、はいそうします、みたいな。そんな自分の意志のない奴やったっけ。
 ほんまにもう、どないなってんねん。亨とデキてもうてから、何もかも変わった。いい方へかもしれへんし、悪い方へかもしれへん。自分ではもう、良く分からへん。
 亨はめちゃくちゃ気持ちよさそうに喘いでた。白い喉を仰け反らせ、上気した顔で喘ぐ。綺麗な声で、絶え間なく歌う。アキちゃん好きや、気持ちええわ、もっとして、もっとして、って。
 そのうちそれが、何を言うてんのか分からんようになって、亨は震えてくる。それは快楽の震えで、辛抱堪らんらしい。それでも我慢してる。早々にイってもうて、抱き合う時間が、あっさり終わってしまわないように。
「あ……っ、いやや、イキそう。も、もう無理そう、我慢できなさそう」
 はよイけって、追い上げるつもりで、俺は亨の前も愛撫した。ついでに足の指も舐めてやる。そしたら亨は明らかに顔色が変わった。
「ずるいわ、アキちゃん、それは……反則」
 ルールがあったんや。俺は亨を責めつつ、その新事実に驚いてた。そんなん知らんかったわ、いつのまにできてたんや、そのルール。
「まだ、入れて三分ぐらいやで。五分は経ってない。まだ、早いわ……」
 時間計ってたんかと、俺は亨がまだ持ったままやった目覚まし時計を見た。
 もともと俺は亨を、触れなば落ちんのところまで追い上げてから、中に入った。そうしないとな、ヤバいねん。こいつとやるのは、ほんまにめちゃくちゃ気持ちいい。
 正直言うたら、入れた瞬間、俺はいつもイキそうになる。それを堪えて、五分十分、十五分と励むわけやから、相手がまだまだ余裕ですみたいな状態から始めると、こっちが先に墜ちてまうやん。俺はそれは嫌やねん。亨を先にいかせたい。
 こいつが感極まって小さく叫ぶのを聞きながら、俺はいきたいねん。それが至福。ものすごく、達成感がある。
 今朝もそうなるように、頑張ろうって思って、俺は頑張ってた。たぶんそうなる。もう慣れたし、亨とやるのは何回目やろ。そんなのもう、数えてない。数え切れないくらいやった。
 去年のクリスマス・イブに出会って、その夜から始まり、半年が過ぎて、たぶん一目惚れやったこいつのことが、俺は今、ますます好き。もうお前なしでは人生ありえへん。そう思うけど、それを普段は黙ってる。何も言わないでいる、その情熱を、抱いた体にぶつけてる。たぶん、そんな感じ。
 アキちゃん激しいって、亨はいつも悲鳴みたいに言う。でも、悦んでるんやで、たぶん。ああもうやめてって言われるけど、やめたら怒られるから。なんでやめんねん、て。
「あかん……アキちゃん、そんな気持ちええとこばっか、突かんといて」
「そう言われてもな……」
 やめたら怒るんやろ。せやから、やめへんけど。でも、もう、最後の坂道やった。甘く喘ぎながら上り詰める。
 確かに今朝は、ちょっと早すぎた。前座が長すぎた。ちょっとお互い、いろいろふざけすぎた。お互いの弱点を、知りすぎてる。ほどほど手加減せなあかんねん。一瞬でしたみたいなのが嫌なんやったら。
 それか、ものすごく我慢強くなるか。お前が好きやって、崩れ落ちそうになるのを堪えて、堪えがたい快楽に必死で耐える。そんな我慢強さで。
「無理。もう無理やから。俺はギブアップ」
 わかりやすい降参宣言で、亨は潤んだ目で俺を見た。その目はどことなく、金色がかって輝いて見えた。
「いかせて、アキちゃん……俺、もう、我慢できへんわ」
 涙目で頼まれ、俺はうなずいた。それには激しく賛成やった。人間、我慢できることと、できへんことがある。それは人でなしでも同じや。ましてお前も俺も、人並み以上に敏感なんやから、我慢せえて言うても、それには限界がある。肉体の相性も、あまりに良すぎた。普通なら考えられへんレベルの気持ちよさや。
 だからこれを、早いと言うな。早くない。今朝が特別早いだけ。急いでるねん、俺は。用事があるんやって、最初から言うてるやろ。それにはもう、若干遅れ気味やし。もうイかなあかん。もうイキそう。我慢するの無理。
 亨、好きやって、堪えきれずに俺は教えた。なんで我慢してんのか、自分でも良く分からへんけど、俺はいつも、我慢してる。こいつに愛を囁くのを。
 たぶん恥ずかしいんや。我慢せえへんかったら、四六時中そんなこと言うてるんやないかって怖い。そんなの変やろ。俺のキャラやないわ。そんなの俺らしくない。
 だけど近頃、それを我慢できないときもある。
 一度、口を衝くと、その言葉は堪えきれず堰を切ったようやった。
 お前が好きやって、何度も教えてやると、亨は震え、それに同意した。アキちゃん好きやって、ほとんど泣きながら答えてた。すぐにそれは、言葉を越えて、亨は俺に抱かれながら絶頂を極めた。その悲鳴のような声が、耳に心地いい。
 震えてる体を責めて、俺も亨の中で極まった。そしてキスをした。恥ずかしいような愛を囁こうとする、自分の口を塞ぐために。
 その強烈な愉悦の時間は、ずいぶん長かったような気がする。たぶん一瞬なんやろうけど、無限に引き延ばされたような一瞬で、ときどき気が遠くなる。
 頭が真っ白になって、その白熱がゆっくり過ぎると、その後に、深く安らいだような虚脱がやってくる。
 その時はじめてまた亨の顔を見ると、亨は大抵まだ、うっとりしてる。熱い余韻に浸ってる時の、こいつの顔が俺は好き。お前は俺のもんやって、いつもそんな執着を感じる。
 前にはそれに、痛みがあった。それが事実とは違う、自分の願望なんやって思えて、なんとなくつらかった。でももう、最近では胸が痛まないこともある。ただ何となく幸せで、それが願望でなく、当たり前の事実だと思えるような時もある。
 実際のところは、わからへん。俺の妄想かも。でもええねん。悩んでもわからへん。悩み始めたら地獄やし。深く考えなければ天国。それなら、深く考えないほうが吉やろ。
「ああ……めっちゃ早かった。めちゃめちゃかったけど。最速記録更新とちゃうか」
「計らんでええねん」
 恍惚からさめた亨の第一声がそれで、俺は顔をしかめた。お前はほんまにムードもなんもない奴や。一瞬でぶち壊し。
 亨は目覚まし時計のデジタル表示を見て、最速かな、それとも前のアレのほうが、とか、ぶつぶつと一人会議してた。そんなの口に出さずにやってくれへんか。
「前戯をタイムに含めるかどうかやな、アキちゃん。それが割と重要になってくる、ここまで来ると」
「俺に相談するな」
 激しく萎える。
「抜くぞ」
「ああ、待って、そんな。もうちょっと余韻を楽しませて」
 それはこっちの台詞やろみたいな事を、亨は切なそうに頼んできたけど、俺は無視した。時間ないて言うてるやん。それにもう、恥ずかしいわ。このままお前の、えげつない話を聞いているのは。
 繋がってるのを解くと、亨は、心底がっかりですみたいなため息を漏らした。
 こいつはほんまに、抱き合ってるのが好き。できるもんならずっと、体を繋げていたいって思うらしい。本人がそう言うてたから間違いない。
 でもそれは無理やから切ないんやって。無理やって理解しててくれて助かったわ。常識ないから、頑張ればやれるんちゃうかなって言い出しそうで怖い。
 さすがにそれは言わへんけど、でも、できるだけ我慢して、ゆっくりやってくれって頼まれてる。その割に最近早いわ、って。それが意地悪やって、こいつは言うねんけど、わざとやってるわけじゃない。
 気持ちええねん。ただそれだけ。我慢できへんだけ。
 それを思って、俺はつい、苦虫かみつぶした顔やったらしい。亨が、なんでやねんという、切なそうな顔で俺を見上げてた。
「どしたん、アキちゃん。不機嫌な顔して」
「いや、不機嫌なわけやないけど。まあ確かに、早かったなと思って」
 身を起こして、間近に向き合ってきた亨と気まずく目を合わせて、俺は白状した。それに亨は、ちょっと恥ずかしいように笑った。
「なんや、反省してんのか。気にすることあらへん。そのうち慣れてくる」
 俺の頬を両手で包んで、亨は唇にちゅうちゅう音を立てて、ふざけたみたいな淡いキスをした。
「気持ちええんやろ、体が変わったからな。ようこそ、果てしなき快楽の世界へ」
 なにアホなこと言うとんねんと恥ずかしくなってきて、俺は亨から目を逸らした。それでも頬を包む手からは、逃げられなかった。それが心地いいような気がして。
 亨は蛇の化身で、人の血を吸う人でなし。俺はそれを知ってか知らずか、亨に血を吸われ、自分もこいつの血を舐めた。ほかにもいろいろ舐めた。昼となく夜となく抱き合って、暇さえありゃあ、キスしてアキちゃん、キスしてキスして、なんやから、そりゃあ、いろいろ舐めもする。
 それによって、俺がまともな人間の体ではなくなると、亨は最初から気づいてはいたらしい。気をつけてたって、こいつは言うけど、絶対嘘や。気をつけてた事なんかあらへん。
 初めから俺を、自分の仲間にするつもりやったんや。はっきり意図してではないかもしれへんけど、とにかく、俺を止めはしなかった。俺がだんだん、自分のとりこになるのを、今か今かと楽しみにしながら、きっとこいつは待ってたんやで。
 ご期待どおり、今や俺はこいつのとりこで、蛇の眷属。うっかり感極まると、亨の血を吸いたくなるし、体も人並み外れてきて、感覚も鋭敏になり、その気になれば道行く人が話す携帯電話の向こうの声にまで、耳を澄ますことができる。目もずいぶん良くなった気がする。遠くの小さな文字までくっきり見えて、超便利。
 しかもそのまま、ほとんど年をとらずに、半永久的に生きているという。どこかから精気を調達して、死なないようにする限り。
 それは俺には、大した問題ではなかった。もともと調達してるらしいねん。
 俺の血筋は鬼道きどうを行う巫覡ふげきの家系で、おかんは踊る巫女や。しかし神社にいるような、無難な巫女さんやない。拝み屋やという人もいるし、占い師とか、陰陽師のようなもんとして見ている人もいるらしい。
 せやけど突き詰めれば正体不明。魔術師みたいなもんなんやないかと、俺は時々思う。
 神や鬼と通じ、天地あめつちと交感して、そこから力を得てる。それこそまさに神通力か。
 そうやって、でっかい精気タンクから随時ちゅうちゅう吸ってるわけやから、俺の力は尽きることはない。ほぼ無尽蔵にある。無限に湧き出る泉みたいなもん。
 亨はその俺から血やら何やら搾り取る事で、お腹いっぱいになるらしい。こいつは俺といるかぎり、精気吸いほうだいのパラダイスなんやって。
 せやからもう他の男なんて漁る必要はない。せやから浮気なんかせえへんし、要らん心配せんといてって、亨はにこにこ言うけど、その点はどうか怪しい。
 亨は長年、自分の身を保つため、精気を貢いでくれる男を山ほど下僕として飼っていたらしい。とっかえひっかえ、それを食うてた。
 でもそれは、こいつの趣味も兼ねてたに違いないんや。俺とデキてから、腹減る心配がない、もう他の男は要らんて言うくせに、道歩いてる時とか、チェックしてるで。あいつ美味そう、あっちもええなあ、みたいにな。
 それはもう、どうしようもなく染み付いた、癖みたいなもんらしい。わざとやってる訳やないって、亨はしょんぼり言うけど、わざとのほうがマシやで。
 最近のお気に入りは、阪神タイガースの赤星あかぼしや。そういう選手がおるねん。俺は野球には全く興味がないから、知らんけど、亨はタイガースのにわかファンになってて、快進撃ののちリーグ優勝して、今や日本一を目指して激闘しているタイガースの試合をテレビで見て、日々びりびり痺れてる。
 タイガースを応援するのは、京阪神の人間にとっては、基本的な嗜みやと亨は言うてる。お前、人間ちゃうやん。外道でも、京阪神在住やったら、虎ファンなのは基本やというんか。
 そうや、って、亨はナイター見ながら、ろくに聞いてない声で答えてた。阪神タイガースのマスコットキャラの、トラッキーのぬいぐるみ抱いて、ソファに倒れ、びりびり痺れながら。
 赤星、かっこええんやって。
 それは、俺よりか。
 どうやって比較してんのや。
 絵描きの俺と、しましまのユニフォーム着て盗塁してる、いっぺんも会ったことない男と、どうやったら比較できるんや。
 そう訊いても、亨は聞いてなかった。赤星様が盗塁を成功させたから。痺れ過ぎてて、ぐうの音も出ない。
 それで、ナイター終わったし、さあやろかって言われても、誰がやりたいねん。俺はもう寝る、あるいは忙しい、お前なんか知らんやで。
 赤星様に限らず、亨は何にでもそうやねん。テレビ観ては、あいつがイケてる、こいつが格好いいやし、映画観せたら観せたで、スクリーン上のイケメン探し。そういう観点でしか、ものを見られへんのか。果ては俺のおとんにまで、なんやうっとりしてるし。
 おとんだけはやめろ。本気でそれを口にしたら、俺も本気でお前の首を絞めるかもしれへんから。洒落にならへんねん。
 おとんはお前のこと、可愛いて言うてた。今は、おかんとラブラブ世界周遊ツアーで留守やから、無難やけど、帰ってきたらどうなるか、わかったもんやない。
 あいつはもう、死んでもうて神様に昇格したらしいから、まさか今さら式神欲しいて言わへんのやろうと思うんやけど、油断は禁物。だってどこの神様が、重度のマザコンやと分かっている息子に、おかんのコスプレ写真を毎日のように送りつけてくるんや。しかも、てめえとツーショットのやで。
 旅行の思い出を写真付きで語りたいんやったら、俺に送りつけるんでなく、旅行ブログでも作れ。そういう時代や今は。
 でも、うっかりそんな事言うて、ほんまに実行されたら怖いから言われへん。ジュニアええこと言うなあって、ほんまにやりそうやん、あいつ。
 それに実は、返事も出されへんねん。送り方が分からなくて。
 親どもから送られてくる手紙は、普通郵便やのうて、霊能力便とでもいうのか、旅先の記念に切手は貼ってあるものの、じたばた羽ばたきながらポストに飛び込んできてる。その白い封筒の封を開けると、人型に切った紙切れが出てきて、それが、おかんやらおとんの声でぺらぺら話すんや。ときどき二人同時に話してて、何言うてんのかわからへん。それが写真を見せながらうきうきと話し、ときどきいちゃつきもする。
 殺すって思う。脳みそ灼けそうや。
 でも最後に、おかんの猫なで声で、アキちゃんたまにはお返事くださいって寂しそうに言うのを聞くと、そういえば、どうやって返事出すんやろうって、それを知らない自分に気づく。
 俺はつくづく未熟者。
 なんも知らんのやって、そういう時に実感する。
 おかんに返事の一通も出してやられへん。まだまだ修行が足りなすぎ。
 でも、そんな修行、どうやって積めばええんやって、くよくよしながらバスローブ着て、風呂に入ろうと、だらだら居間を横切っていくと、ソファに落ちてた水煙すいえんが、どしたんやジュニアと、ちょっと怒ったようなドスの効いた声で語りかけてきた。
 朝から辛気くさい顔してため息ついて。やりすぎか。お前らちょっと、うるさいで。気になってしゃあないやんか。猿ぐつわしてやれ。それか俺をどっか、家の中でいちばん遠いところに片付けろって、水煙は俺にわなわな頼んだ。
 いつものことやねん、こいつが怒ってるのは。
 欲求不満やねん。俺が不甲斐ないばかりに。気の毒なやつや。
 そう思って、俺はじっと、ソファの上に転がってる、旧海軍仕様のサーベルを見た。
 悪いけど、俺にはお前を満足させてやられへん。だって剣やし。どうやって満足させんのや。
 道場で頑張れってお前は言うけど、でもお前は普通の人間の目には見えへんらしい。剣の魂だけやねん。実体がない。人でなし相手に戦う時にしか、水煙は燃えへんらしい。
 でもそんな機会、無いほうがええねん。俺はもうご免やわ。
 それでも一応、道場通いはするけど。それも言い訳みたいなもんやで。秋津の当主として、恥ずかしくない体裁を整えろって、それだけの話やねん。ええ格好してるだけ。せやけどそれもまだ、修行中の身やから、とてもやないけど水煙様にご満足いただけるような仕上がりではない。
 それでずっと、イライライライラしてんねん。水煙は。
「今日はちゃんと道場いくから。お前も連れていくし」
 気まずいなあと思いつつ、俺は水煙に声をかけた。それに水煙は、ふん、と答えた。
 そして、蛇は置いていけよ、って念押しした。あいつ連れていったら、修行にならへん。道着萌え萌えとか言うて、べたべた甘えたがって、気が散るばっかりや。ひとりで行けと、水煙はいかにも青筋立ってるような口調。
 お前はほんまに、アキちゃんそっくりや。朝っぱらから組んずほぐれつか。ようやるわ。お盛んなことで。
 それでもお前のおとんは、それを俺に聞かせたりはせえへんかったで。その程度の慎みはあった。使わへんときは、俺を蔵に片付けてた。なんでお前はソファに放置やねん。ひどい扱いされてるわって、水煙は怒ってる。
 片付けるって、どこに。納戸とか、クロゼットとかにか。
 でも、こいつは喋るし、心もあるらしい。それを物みたいに、箱に入れて、普段使わへんがらくたと一緒に仕舞い込んでもうて、ほんまにええんかな。可哀想やないかって、俺はそう思うんやけど。
 他にすることもないんやったら、ソファに座ってテレビでも観てたら。そう思って、映画のDVDを観せたったこともある。水煙は、しょうもないとブツブツ言いながら、でも大人しく観てた。たぶん、面白かったんやで。
 SFが好き。俺が好きな「スター・トレック」も、面白い言うて観てた。気が合う。亨はあれは、ぜんぜん面白くないらしい。あいつとは、趣味が合わへんねん。価値観もぜんぜん違うし。合ってるのは、体だけなんやで。
「水煙……お前は俺のおとんの、何が好きやったんや」
 思わず訊くと、水煙は、ブッて吹いてた。突然すぎたか。
 な、な、何がって、何の話やって、むちゃくちゃ動揺してたわ。水煙。
「何がよくて好きなんや。あの、ええ格好しいで、お調子者のエロオヤジ……どこがええんか、わからへん。お前を道具みたいに使ってたんやろ。それで、もう要らんからやるわって、俺にくれてやったんやで。そいつのどこがええんや。教えてくれ」
 どんより聞くと、水煙は明らかに、ドギマギしていた。ほんまもんの剣になってしもたみたいに、押し黙っていた。でもそれは、息詰まるような沈黙で、何か答えようとしてるのは、良く分かった。ただそれを、口に出すのに気合いがいるらしい。口に出すわけやないけど、口はないから。
 でも俺が、黙って待ってると、水煙はぼそりと、やむを得ずのノリで答えた。
 どこって……、全部やって。全部好き。理屈やないねんて。
 ああ。そうなんや。お前も可愛いとこあるやん。
 俺はそれを聞いて、なぜか落ち込んだ。
 お前やっぱり、おとんがええんやな。せやけど息子に仕えろって命令されて、仕方なしに俺の面倒見てくれてるんや。ほんまは、おとんのところに帰りたいんや。ほんまもんのアキちゃんのところへ。
 俺は偽者や。一分の一スケールのレプリカやけど、性能の点では激しく劣る。
 おとんは二十一でもう国を守って戦ってたけど、俺はそれどころか、激しくご近所迷惑の、ぼんくらのボンボンやから。悪い蛇に騙されて外道には墜ちるし、剣の腕もいまいちやし、最速記録更新やし、卒業制作の絵のテーマも全然決まらへん。
 もうあかんわ。俺はダメな男やねん。頑張ってるけど空回り。なんもええとこないんやって、だんだん激しく凹みつつ、俺は足を引きずるようなノリで、バスルームに向かおうとした。
 それを聞きつつ水煙は、なにやら焦っていて、ちょっと待てジュニアと、あわてて俺を呼び止めた。
 そないに落ち込むことあらへん。お前もなかなかイケてるで。これまで全然修行して来なかったんやから、今きゅうに天才みたいに、力を発揮できなくても普通やし、それはお前のせいやないやんか、って、ソファから叫んでた。動けないから、叫ぶしかないしな。
 あのな、お前も好きやで、ジュニア。アキちゃんの次にやけどな、お前もなかなかいいと思うで、ほんまにそうやでって、どう聞いても励ます口調で言われ、そんな慰め要らんねんて俺はスネた。
 そしたら水煙が、予想もしてへんかった事を俺に言うた。
 慰めやないで、ほんまやで。一緒に風呂入ろうか、って。
 なんで剣が風呂入るんやろ。そんな話、聞いたこともない。正しいサーベルのお手入れ方法なんて、俺は知らんけど、時々風呂入れろって、そんなことはないはず。こいつ鉄なんやから、錆びたりするんやないのか。それとももう実体はないんやから、関係ないのか。特にお手入れ不要やって、本人は言うてたけど。
 風呂入りたいんかって訊くと、入りたいって水煙が言うんで、そうやったんかと驚いて、俺は水煙を風呂に入れてやることにした。
 いっつも放置で可哀想やなって思ってたしな。変やけど、誰が見ている訳で無し。亨はあっさり二度寝してて、何の文句もないやろし。
 そう思って、出町柳のマンションの、広々とした黒いバスタブに湯を張って、入れてやったよ、水煙を風呂に。猫かてたまには洗ってやるんやから、日頃世話になってる水煙様を、風呂入れてやるぐらいさせてもらうしって、その程度の感覚やった。
 自分がシャワー浴びるついでやしな。横で頭洗いながら、湯加減どうやって訊くと、水煙は答えた。
「気持ちええわ」
 って。
 まるで肉声みたいやなって思いつつ、俺はなにげなくバスタブのほうを見て、シャンプーで滑ってこけそうになった。
 肉声やったんや。
 うす青い肌した美貌の何かが、足伸ばして入れる洋風のバスタブに、ああ極楽みたいな顔して、のびのび浸かってた。
 いつか夢ん中みたいなところで見たことがある、水煙様の正体やった。肌も髪も、なにもかも真っ青のグラデーションで、ところどころの差し色が鮮やかな黄色。海の生き物っぽい。
「ジュニア。いい体してるな。お前も一緒に風呂浸かるか」
 ふはあ、ってため息ついて、水煙はうっとり俺を見てた。
 ぎゃああっ、て、叫びたい気分やったけど、俺はすでに固まってた。髪の毛泡だらけのまま、風呂場の壁に張り付いてた。
「これはな、俺の秘密やねん。蛇には内緒にしときや。アキちゃんかて、知ってんのかどうか、よう分からへんわ。水に浸けたら人型になれるって、俺が気がついたんは、アキちゃんが死ぬ時やってん。船が沈んでな、海に投げ出されたんや。その時気づいたのが最初やってん」
 黒目がちというには、あまりにも地球外生物っぽい、瞳のない黒目で、水煙はじいっと俺を見てた。いや、たぶん、俺やのうて、俺の裸を。
「もっと早く気がついてたらなあ……アキちゃんと一発やったのに」
 にこにこして、バスタブの青い宇宙人はそう言い、ゆったりと足を組み替えた。爪先に、水かきついてた。
 どう見ても、人間やないけど、やれんのか。その。いろいろと。
「切ないから、代わりに、ジュニアとやろか?」
 目を細めて笑う顔は妖艶やったけど、目に瞬膜があった。瞬きすると、それがほの白く透けて見えてた。
 キワモノすぎると、俺は思った。それでも何か、例えようもない何かはあるんやけど、でも、それはちょっと、地球から遠すぎる。
「嫌か?」
 そうやろなあ、っていう笑う口調で、水煙は訊いてきた。
 ごくりと俺の喉は鳴ってた。追いつめられててん。俺はなんて、答えるべきやったんやろ。
 でも、あまりに上級編すぎて、言葉が出なかった。
「アキちゃんも、嫌やったろうか。結局そうやったんかなあ」
 シャワーを不思議そうに見あげて、水煙はぼんやりと俺に訊いた。珍しいんか、シャワーが。見たことないんかな。そういえば実家の風呂にはシャワーなんかないしな。それに水煙は、実家の風呂も見たことないんやないか。
 もしかして、ただいま、お風呂初体験かって、俺はいかにも気持ちよさそうに湯に浸かってる水煙を見た。目のやり場に困りながら。
 どう見ても、水煙は女ではなかったけど、男にも見えへんかった。こいつには性別がないんじゃないかと、そんなような気もした。
「気持ちええもんか、ジュニア。アレはそんなに。毎日毎晩やりたいくらいにか」
 俺はますます、返答に窮した。水煙は穢れないような、つるりとした目で、物欲しそうに俺を流し見た。
 どこを、見てるんや、お前は。
「俺もやってみたい。アキちゃんと。この際、ジュニアでもええわ。いっぺんやってみたかってん。無理やろか、もっと人間に近づかへんかったら」
 じいっと、観察してる目で、俺は見られた。どこを、見てるんや、水煙。見るな、そんな、ただいまスキャン中みたいな、精査する目で。
 それにお前、バージンか。勘弁してくれ。そんないきなり、ロストバージンのお相手にご指名してくるのは。それに、この際お前でええわっていうのは、俺も傷つく。
「立たれへんねん、ジュニア。こっちに来てくれ。重力重いねん」
 おいでおいでと、濡れた薄青い手で差し招いて、水煙は俺を呼んだ。
 行くべきなのか、これは。行かなあかんのか。ほっといて逃げたら、今後の家業に差し支えんのか。それにあんまり、可哀想か。
 こいつ人型になっても、結局自分では動かれへんのか。俺が放って逃げたら、もしかして、次また誰かが助けるまで、ずっと風呂に浸かってんのかな。それが亨でもか。
 それは超ヤバい。
 あいつが目を醒まして、風呂でも入ろうかって、ここに来て、水煙人型バージョンがバスタブに浸かってるの見たら、一体どうなる。
 激怒するに決まってる。あらぬ想像をするに決まってる。そして俺はあいつに、ぎったんぎったんにされる。今度こそほんまに食われるかもしれへん。濡れ衣でやで。なにもしてへんのに、浮気したみたいに言われて、頭からガツガツ食われるんや。大蛇おろちに。
 悲惨な最期すぎ。それは何としても避けたい。
 水煙を水から出して、元の剣に戻しておかなあかん。それに道場にもこいつを連れていかなあかん。そういう約束やねん。今さら反故にするわけには。
「シャンプー流してからでもええか」
 それでも覚悟が決まらず、俺は無駄な逃げを打ってた。考える時間を確保したくて。
 にやにやうなずいて、水煙は、それでええよと俺を許した。
 それで、シャワーでシャンプー流しながら、俺は考えた。なんて言って断ったら、水煙は傷つかへんのやろ。俺は地球人やし、ちょっと無理。お前はほんまに綺麗やけど、性欲の対象から外れてる。いや、それは人によるかもしれへんけど、とりあえず俺には無理。おとんにはどうか知らんで。あいつなら、やってのけるかもしれへん。でも俺のような若輩者にはハードルが高すぎる。
 それに俺には亨がおるし。あいつが好きやねん。だからごめんやでって、その線で行くか。それやったら水煙は、傷つかへんのやないか。だってこいつは、俺に惚れてるわけやないんや。一発やりたいだけなんや。誰でもええんやから。
 そうやって覚悟を決めて、俺は頭の中で無意識に、なんて言おうか反復してたらしい。それはどうも、水煙には見え見えやったらしい。
 水浸しの俺が、ぽたぽた水滴を垂らしながら、バスタブに屈むと、水煙は苦笑の顔やった。
「嫌やったら、嫌やでええねんで、ジュニア。難しく考えることあらへん」
 間近で見ると、水煙の口には歯があった。そんなの当たり前なのかもしれへんけど、その事実に俺は、ぎくりとしてた。生々しくて。
 真っ白い綺麗に並んだ歯やった。その奥にある舌が、なんでか真っ白やった。もしかしたら白い血が流れてるのかと、俺はそれが不思議で、薄く開かれた唇の奥の白い舌に、しばし目を奪われてた。
 白い血って、どんな味がするんやろ。もしかしてミルクみたいな。
 水煙は、ミルク味。それとももっと甘いような何かか。
 その空想に、俺は心底ぞくっときてた。自分のキャパの広さというか、人でなしさに。
 吸血したいという、この新しい欲は、食欲なのか、それとも性欲の一種なのか。その両方なのか。俺はにはわからへん。でもとにかく、秘密にしておきたいような恥ずかしさのあるもので、俺はその悪い妄想を、頭から追いやった。
「水から出してくれ」
 微笑を崩さない顔のまま、水煙は青い指で俺の腕に触れて、抱き上げるように促した。ほかに風呂から出る方法がないんやろ。自分では出られへん。
 水から上げたら、すぐに剣に戻るのかなって、俺は薄ぼんやり悩んでた。それを考えながら、湯の中にある、水煙の脇から腕を入れて、華奢な背中を抱え上げた。
 横抱きにして湯から上げると、水煙は細長い腕で、俺の首に抱きついてきた。ぎゅっと抱いてるんやろうけど、それはどうも、弱々しいような抱擁やった。
 水煙の体は、頼りなく、ふにゃっとしてた。強く抱いたら、壊れそうなような。
「アキちゃん……」
 とろんと抱きついてきて、水煙は俺の肩に頭を埋め、囁くような小声でそう呼んだ。でも俺を呼んでるわけやないんやと、そんな気がする、甘いような囁き声やった。
「生きてるうちに、こうしてみたかったわ。俺が抱いた時、アキちゃんはもう死んでもうててん。海の中で、息が詰まって、死んだんや。可哀想やったわ。苦しかったやろ。助けてやりたかったけど、なんにもできへんかったんや」
 役立たずなんやで、俺はと、水煙はぼんやり悔やむ口調で言った。
 せめて魂の朽ちないように、暗い水底で抱いていてやることしかできない。
 せやけど、さすがにアキちゃんは並はずれた力のある男。やがて力をつけて、こうして舞い戻れたけども、それは俺のお陰やのうて、アキちゃんは必ず生きてると、いつか戻ると信じて待ってた人のなせる技かもしれへん。それとも、何としても戻ると、願って死んだ執念か。とにかくそこには、お役に立てない守り刀の、出る幕はあらへん。
 ジュニアをよろしくて、アキちゃんが言うんやから、お前のことは、俺が一人前にしたる。心配するなと、水煙は約束した。
 よろしく頼むとお縋りするには、どうも頼りないような、弱々しい体やった。
 それでも水煙が俺を風呂に誘ったんは、こうして抱いてやろうと思ったからなんやろう。そんな気がする、優しい抱きかたやった。お前が好きやって、言うてくれてるみたいな。
 湯からあげても、水煙はすぐには剣に戻らへんかった。濡れてるとあかんのかなって、俺は気恥ずかしく思ってた。湯で温まってた体が気持ちよかったし、気持ちよさそうに抱きつかれて恥ずかしかった。
 これはちょっと、ヤバいんとちゃうか。即刻なんとかしなければ。
 なあんかちょっと可愛いなみたいな。そんな、いけない印象を水煙から受ける。ばりばり貪り食いたいような。地球外の何かとファーストコンタクトしとかなあかんのかなみたいな。
 キスのひとつもしといたら、水煙喜ぶのかなみたいな、そんな考えたらあかんことが脳裏をよぎり、あかんあかん、それは無理やからって、俺は我慢の顔でうつむいてた。
 いつ戻るんやろ、水煙は。元のサーベルに。はよ戻ってくれへんと困る。バスルーム出て、タオルで拭いてやらなあかんなって、ふと思い立ち、磨りガラスのドアのほうに目をやって、俺は凍り付いてた。
 誰かいるわ。
 誰やろ。
 トラッキー?
 そんなわけないな。
 たぶん俺がいま一番、そこにいてほしくない奴やろ。
「アキちゃん、なんか寝られへんかったわ。俺も風呂はいる」
 もちろん亨の声やった。
 何で今日に限って惰眠をむさぼらへんのや。野生の勘か。
 亨はにっこにこした上機嫌の顔のまま、何の遠慮もなくバスルームのドアを開いた。そして、そのまま固まった。
 まるで静止画像のようやった。
 ドアの取っ手に手をかけたまま、満面の爽やかな笑みで、亨は青いのを抱っこしてる俺をにこにこ眺めていた。
 どれくらい、そのまま睨み合ってたんやろ。
 笑いを引っ込めるタイミングをなくしたんか、それとも、これは夢やとでも思ってんのか、にこにこしたまま亨は訊いてきた。
「アキちゃん……それ、なに?」
「す……水煙や」
 俺は正直に答えた。
 すると、首に抱きついてた水煙が、のそりと億劫そうに頭を起こして、つるんとした黒い目で、ドア前にいる素っ裸の亨をじっと眺めた。それも何となく、観察してるような目やった。
「水煙」
 他に言えることがないみたいに、亨はその名を反復した。
 亨は水煙の目と、またしばし見つめ合ってた。
「なんで、お姫様抱っこやねん」
「立てへんのやって。せやから、しゃあないし、抱いてって体拭いてやろかなと……」
 事実やねんけど、その言い方はまずかったと、俺は言いながら気づいた。
 違うねん。亨。そういう意味やない。水煙は、もともと自立できない奴なんやで。自分で立たれへんねん。本人がそう言うてるんや。たぶんほんまにそうなんや。信じてくれ。俺がなんかしたから腰抜けたわけやない。誤解やで。
「アキちゃん」
 どことなく蠱惑的な小声で、水煙は言った。間近で見ると、意地悪そうな顔やった。そんな綺麗な顔を寄せて、水煙は俺の口元に鼻を擦り寄せた。キスしたんかもしれへん。それについては詳しく考えたくない。
「気持ちよかったわ。また入れてな」
 甘い囁き声で、水煙は俺にそう頼んだ。
 風呂の話やで。風呂の話やろ?
 風呂の話やからな、亨、って、俺は言おうとした。でも無理やった。笑ってたはずの亨の顔が、だんだんと鬼の形相になってくるのが怖すぎて。
「もう殺さなあかんわ」
 蒼白な真顔で、亨はそう告げた。目が爛々と光って見えた。
 さようなら皆さん。この物語はこれで終わりです。
 いかにも、そんな感じやった。
 もしもその時、最初の一撃が、街を襲っていなかったら。
 揺れた。
 ずしんと下から叩き上げるような揺れが、マンションを揺さぶった。
 それは何か、地面の下にいる巨大なものが、身をうねらせてのたうったような、鋭い衝撃波やった。
 それでもバスタブの水面には、変化がなかった。せやから本当には揺れて無くて、なんというか、霊的な波みたいなもんやったんやないか。人によっては何も感じないような。しかし、わかるやつには、わかる。
 きいんと耳に響くような悲鳴を、水煙があげた。びっくりしたみたいに一瞬激しく暴れた水煙を、俺は落っことしかけて、慌ててよろめいた。
 咄嗟のことやったからか、亨がそれを支えてくれた。お前、ええとこあるやん。
 取り落とされかけた水煙は、遠慮無く亨の肩を掴んでた。
「今の聞こえたか、蛇」
 水煙に訊ねられながら、重い重いと亨は文句言うてた。大して重くないのに。
「聞こえた聞こえた、痛い痛い」
 ほんまに痛いらしく、亨は水煙に掴まれた肩をかばって、ひいひい言うてた。
 変やなあ。俺に抱きついてた時には、ふにゃふにゃやったけどなあ。水煙て、もしかして、俺には優しいんかなあ。
「起きたで、なまずが」
 顔をしかめて言い、水煙は気配を探るような半眼の目をしてた。
「ジュニア、アキちゃんに手紙書け。なまず起きたでって。都を守る結界を張らなあかん」
 俺のほうに戻ってきて、水煙はそう教えた。
 おとんに手紙って、そんなの、どうやって書くねん。
なまずが都で暴れたら、えらいことやで。どっかよそにやらなあかん。登与ちゃんもおらんし、なんちゅう間の悪いこっちゃ」
 水煙は俺の目を見て、困ったような目をした。
「やれるか、ジュニア。お前がやってみるか。やらなしゃあないな、秋津の跡取りなんやから」
 でも心許ないという目で見られ、俺はむっとした。
 なんやねん、一体。なまずって。
「失敗したらな、大地震やで。時々はしゃあないねん。いくら力のある巫覡ふげきでも、自然の摂理やからな。でもちょっと前に暴れたばっかりやろ。一体どうしたんや」
 水煙が言う、なまずがちょっと前に暴れた時というのは、阪神淡路大震災のことやった。あの時は、なまずが神戸のほうに行き、そこで一暴れして、また何百年かの眠りについたはずやった。悲惨な地震やったけど、これでしばらく三都に危機はない。そういう事で落ち着いたはず。
 その時俺はまだ小学生やった。おかんが大忙しで、ばたばたしてたのを憶えてるけど、自分が役に立つような歳ではなかった。
 それでもそれが、世間が震撼する出来事やったというのは憶えてる。
 なまずは秋津島の地下深くに住み着いていて、普段はぐうたら寝ているが、時々腹が減って目を醒まし、何か食わせろと暴れ出す。下手すると、街や都のふたつみっつ呑んでいく。それは困るということで、巫覡ふげきが祀って腹を満たさせ、またしばらく眠らせるんやと、水煙は俺に教えた。
 それを俺にやれと。
 都の鎮護も秋津のお役目で、都が京都から東京に移ってからも、その任を解かれてはいない。せやから引き続き、三都の霊的な防衛を行う義務があるんやと、水煙は言うねん。
 聞いてない、そんなのは。おかんは何も言うてへんかった。秋津の家を継げっていう話だけや。継ぐとどうなるのか、そういえば詳しく聞いてへんかった。
 今言うてるやないかと、水煙は真顔で言った。
 水煙は俺を一人前に修行させるため、いろいろ教えにやってきた。せやから今教えてやってるんやないかという話やった。
 実地訓練が大好き。口で言うより、やったほうが分かりやすい。水煙は、そういう性格やった。百聞は一見に如かずや。うだうだ言うても、わからへん。やってみれば一発や。
 でも、それで、もし失敗したら、どないなんねんて、俺はビビった。普通そうやろ。予行演習とか、そんなん無いのか。
「無い、演習なんて。これは訓練ではない。皇国の命運、この一戦にありやで、ジュニア。人生はいつでも、ぶっつけ本番や」
 それはお前がそういう性格やからやろ。そんなことない、練習させてくれって、俺は頼んだ。せやけど水煙は聞いてくれてなかった。
 燃えてきた。景気づけやっていって、水煙はまた俺の首にとりつき、ぎゅううっと抱きついてきて、がっつり舌入れるキスをした。
 ぎゃあああああって亨が絶叫していた。俺もしたかった。できるもんなら。でもそれが無理なような、息詰まる甘さのある長いキスやった。
 熱いため息をついて、崩壊寸前の亨にはお構いなしに、水煙は気持ちええわあって言った。こんな、ええもんとは知らんかった。またしよなジュニア、でもとにかく今日は、道場へ行けと、俺に指図して、水煙は唐突にぽかんと剣に戻った。
 危ない! めちゃめちゃ危ない!
 お前は真剣で、こっちは二人とも素っ裸なんやぞ。
 俺はとっさに抱いていた腕を引っ込め、水煙は支えを失って落ちた。激しく切っ先を煌めかせながら。
 また亨と俺は、ぎゃあああってなって、なんとか白刃を避け、それから風呂場の床に崩れ落ちてた。床に転がった抜き身の水煙を挟んで、肩で息しながら。
「アキちゃん……」
 やがて怨念を感じる声で、亨がくずおれたまま呼んだ。
「ほんま死ぬで、俺は。どないなってんの、これ……」
「なんにもしてない……水煙が風呂入れろ言うから入れたら、こうなったんや」
 俺もくずおれたまま、きらきら輝いている水煙の刀身を見てた。剣はもう、居眠りを決め込んだように何も言わず、ただの剣のようやった。
「迂闊やねん、いつも。犬の時かて、そうやったやろ……。外道とふたりっきりになるな、襲われるから」
 亨の忠告に、俺は大人しくうなずいた。
 まさに言われた通りやった。
 もしもお前の目が冴えてへんかったら、今ごろ俺は地球を離脱してたかもしれへん。宇宙系とランデブーやで。
 俺ってほんまに、顔さえ良ければ、なんでもええんや。そんな自分に、やっと自覚が湧いた、そんな残暑の頃やった。
 まだ俺は、自分がこれから始める偉業のことを、想像もしてへんかった。呼び声は神戸から聞こえていた。さあ、やろかという、自分の人生の幕が開く音が。
 その芝居に必要な役者がそろうまで、まだしばしの時が必要やった。まずは幾つかの出会いや再会について、語ることになる。
 せやけど、その前にやるべきことは、服着て出かけることや。その前に亨のご機嫌直し。
 水煙と、キスしたって、亨はじっとりと俺に言うた。どんな味やった。宇宙人。
 いや、忘れた。ぜんぜん憶えてない。でもとにかく、お前のほうが断然良かった。ほんまにそうやでって、俺は焦って言い訳をした。
 そしたら亨は口直しや言うてキスしてくれた。
 そっちのほうが断然良かったか。正直それは微妙なとこやねんけども、亨が俺に愛想つかさなくて、ほんまに良かったと思った。
 だって俺が好きなのは、水煙やのうて亨やねん。水煙もええけど。いや、それは、論旨がずれてる。とにかくお前が俺のこと、アキちゃん好きやて言うてくれへんようになったら、俺はもう終わり。それだけは確実にそうや。
 でも、なんでなんやろ。それはよく分からない。でもそれが、好きってことかもしれへん。理屈やないねん。理由はないけど、自分と全然似てないお前のことが、全部好き。
 そんな甘ったるいこと考えてたせいかな。それとも外道と二人きりになったせいか。
 俺は風呂場で亨に襲われ、そして約束の時刻に遅刻した。


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