SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

京都編(8)

 アキちゃん、なあアキちゃん、と、助手席からずっと話しかけてたけど、アキちゃんは運転に必死なんか、険しい顔して、ぜんぜん構ってくれへんかった。
 それでも俺が寂しくなって、ギア操作してるアキちゃんの手を握ると、それを払いのけはされへんかった。それどころか、手を入れ替えて、俺に握らせ、上から手を包んでくれたりしたんで、そりゃあもう、俺はデレデレした。
 いややなあ、アキちゃんがこんなことする男やったやなんて。知らんかったわ俺。車ん中って、なんとはなしに二人っきりの密室感があるからやろか。アキちゃん、ずっとこの甘々モードのまんまでいてくれへんかな。
 なんか喋ってくれへんと、逆にモヤモヤするなあ。いい感じすぎて。指を絡めたままギアチェンジで強く握られたりすると、なんかこう、萌えてきます。みたいなな。
「お前さっきから何をにやにやしてんねん」
 気持ちわるそうに助手席の俺を横目で見て、アキちゃんは突然言った。嵐山を出て、四条界隈に戻り、なんとなく、おかんの縄張りを脱出したような心地のするあたりでのことやった。
「ええ。何をって。何か幸せやなあと思って。帰ったら何しよか」
 つまりその、ベッドの中でっていう意味なんやで。だけどアキちゃんは真顔できっぱりと答えた。
「掃除やろ」
 えっ、と、俺は答えた。掃除って、掃除か。
「大掃除するんか。あれ、もうええわって言うてたやん」
「あの時はな。けどな、俺は部屋が散らかってんのは、大嫌いやねん。綺麗にしとかんと、ろくでもないもんが寄ってくるで。病気とかな」
 病気なんかせえへんやろ、アキちゃんは。そんだけ力がみなぎってたら、悪いもんなんか寄りつかれへんやろ。歩く消毒薬みたいなもんやで、アキちゃんは。そう思ったけど、俺は反論せえへんかった。せっかく手を握ってもらってんのに、ご機嫌そこねて放り出されたら損やもん。
「分かったよ。分かったけどな、ふたりで居るときは、そんなんせんとこ。アキちゃんが留守の間に、俺がやっといたるから。せっかく一緒に居られるときは、せいぜい仲良くしてよ」
「仲良くって何や。まさか、あれのことか。お前はそればっかりやな。一体どないなってんねん、お前の体は」
 怒った口調やったけど、アキちゃんは照れてるだけみたいやった。その証拠に、握った俺の手を離しはしなかった。
「お前に、うちの鍵、やらんとあかんな。俺と一緒やなかったら出入りできないんじゃ、不自由やろ」
「鍵くれんの」
 びっくりして、俺は聞き返した。アキちゃんは恥ずかしいんか、信号待ちしてる道路の先を睨んでるだけで、俺のほうを見なかった。
「いらんのやったら、やらへんで」
 すねたような言い様が可愛くなって、俺はくすくす笑った。
「いらんことない。欲しいなあ」
 大事にするわ。でも、それをほんまに鍵として、使うことがあるやろかと、俺は心配やった。おかんは結界を解いてくれたんやろか。なんや随分、ひどい扱いされたけど、それでもアキちゃんのおかんは、自分のことを俺にお母様と呼べと言うてはった。あれはその、そういうことなんとちゃうか。俺がアキちゃんと一緒に住んでもかまへんという、お許しというか。まあその何や、親公認みたいな。
 うっふっふっ、と、またデレデレしそうになって、俺は何とか耐えた。アキちゃんにアホやと思われる。すでに十分思われてるかもしれへんけど。
「腹減ったなあ。街で何か食べて帰る?」
 昼時やったから、俺はアキちゃんを誘った。このまま家に帰ってもええけど、アキちゃんと出歩く機会はそうそうない。せっかくやしと思って、誘ってみたけど、アキちゃんは首を横に振った。
「帰ろう。とにかく。俺は帰りたい」
「なんで。アキちゃん、デートしてくれへんのやなあ。川原で懲りたんか」
 ちぇっと思って、俺はぶうぶう言ってやった。
「そうや。懲りたわ。人の見てるとこですんのは恥ずかしい。だから早よ帰りたいねん」
 俺の手を握ったまま、アキちゃんはそう言った。俺はデレデレを通り越して、なんや、ぽかんとした。
 アキちゃん。どうしたん。一体、おかんと何話したん。
「亨。あのな、お前は俺のこと好きか。それは、他の誰かの代わりにか。もしそうやったら、今のうちに言うといてくれ。後になってから、実はそうでしたなんて言われてもな、俺はもう我慢でけへんから」
 人出の多い街を走る車のフロントガラスを、何かがこつんと打った。あられか、ひょうみたいやった。小さい氷の粒が、空から落ちてきて、こつこつとガラスを打ち鳴らしはじめた。何か荒れ狂うような強い力が、この街の上空に集まっているのを、俺は感じた。
「誰かの代わりやないよ。俺はアキちゃんが好きなんやで。なんでそんなこと訊くんや」
 まだ妬いてんのかと、俺は心配になって、アキちゃんの横顔を見た。ぱらぱらと落ちてくる氷の粒と、その向こうの景色を、アキちゃんは睨んでいた。
「お前が俺みたいのを好きになる理由が、よく分からへんねん。お前はいったい俺の何がよくて、付き合ってるんや。気持ちいいから、それだけか」
 苦笑して言うアキちゃんの口調がずいぶん嫌みで、俺は困った。わざとやないんやろうけど、なんか非難がましいで。何があかんの、ふたりで気持ちいいことして、幸せんなって。それがなんで、まずいんや。俺は幸せやけどな、アキちゃんと抱き合ってると。
「嫌やったら、我慢するけど。でも、そんなに長くは保たへんと思うわ。アキちゃんかて、保たへんかったやん。禁欲。一晩しか」
 俺も嫌みを言ってやった。それにアキちゃんは、ますます苦笑の顔になった。
「そうやな」
 握って絡めた俺の指を撫でて、アキちゃんは何となく、愛おしそうに続けた。
「なんでやろ。俺は元々、そんなにやりたいほうやなかったで。我慢してたんかな、お前と会うまで」
「我慢、せんといて。俺と居るときは」
 そう頼むと、アキちゃんは何を思ってんのか、ふっと吹き出して、しばらく、小さく笑い声をたてていた。
「それはな、ヤバいで、亨。ちょっとは我慢せんとな」
「なんでや。何がやばいねん。例えば何を我慢してんねん」
 俺が詰問すると、アキちゃんは困ったという笑い方だった。そのまま何も答えなかったけど、降りつのる氷の粒が、ざあっとうるさいほどの激しさになった。道を歩いていた人影は、すっかりどこかの軒先や、建物の中に逃げ込んでいた。こんなもんが降ってたら、出歩こうなんて思わへんやろ。それがまるで、アキちゃんの仕業のような気がして、俺には面白かった。
「さっきから、信号で止まるたびに、お前にキスしよかなって思うんやけど、どうも気合いが足りへんねん。人目が気になって」
「でももう、誰も歩いてへんで、アキちゃん。みんなひょうに、追い払われてしもたわ」
「そうやな」
 アキちゃんは、照れくさそうに同意した。そして、何も言わなかった。だけど、俺には分かった。
 それじゃあ、次の信号で止まったら、ちょっと我慢すんのを、やめてみようかな。
 そんなふうな事を囁いてくる、アキちゃんの心が。
 せやのに、そういう時に限って、信号というのは青なんや。不思議なもんやで。まさか、おかんの、いや、お母様の差し金か。あの人はいったい、どこらへんまでカバーしてんのか。出町柳のマンションに結界を張れるんやから、まさかうちに帰っても、逃げられへんのか。
 けどそれは、俺の思い過ごしやったんか、ぴかぴか黄色く光っていた信号が、やっと赤になって、アキちゃんにブレーキを踏ませた。転がる小さな氷で滑る道の上で、車は慎重に減速して、すうっと緩やかに止まった。サイドブレーキを引いて、それからアキちゃんは、俺のほうを向いた。
 期待しまくりで待っている顔に、ちょっと苦笑されたみたいやった。それでもアキちゃんは、結局気合いを見せた。たぶん周りに誰も、見てるような顔がなかったからやろう。それとも見てても、してくれたんか。
 隣に寄せた俺の顔の、顎を掴んできて、アキちゃんは触れるだけかと思ったら、しっかり舌入れるキスをした。
 それは、えらいことだった。ざらざらいうひょうの音に包まれて、密室のような気もする街のド真ん中で、アキちゃんは俺に相当に深いキスをした。なんでアキちゃんは、俺をそんなに好きになったんや。
 嬉しいけど、ちょっと怖い。怖いけど、すごく嬉しい。
 このままずっと、信号赤やったらええのに。
 信号壊れてて、夜までずっと、このまま立ち往生やねん。そしたらアキちゃんずっと、俺にキスしててくれるかな。
 そんなことを、朦朧として思ったけど、結局そんなはずはない。うるせえクラクションの音がして、それがアキちゃんを我に返らせた。
 またハンドルを握って、アキちゃんはちょっと反省した顔つきで、濡れた唇を無造作に手で拭った。その仕草が、なんかやらしくて、俺はうっとりアキちゃんを眺めた。
 えらいことになったなと、俺はぼんやり思った。
 なんでやろ。俺はこいつにベタ惚れや。ほんまに好きでたまらへん。たぶん冗談でなく、何かそういう力を持ってるんやろう、アキちゃんの一族は。あの家に群れてた、有象無象を見たら、どうもそういう気がする。
 俺もその中のひとりとして、アキちゃんの手駒になるんか。オカンが飼ってた、あの顔のない女みたいに。ずっとあの家に繋がれて、下僕よろしく使役されんのか。それでええのか俺は。
 アキちゃんがもし、俺に飽きて、他のがええわってことになっても、その時逃がしてはもらわれへんやろ。もしもその時にもまだ、俺が今と同じか、もしかするとそれ以上に、アキちゃんが好きなら。逃げようもないやろ。自分の意志では。
 そうなったら、惨めやで。戻るんやったら、今のうちやで。
 俺は一応ちょっと、自分に最後の警告を与えてやった。それに自分がどういう反応をするかと思って。
 だけど結局俺は、信号も一回赤になればええのにと、そのことのほうが気になった。
 あかんわ、それは。考えるだけ、無駄。もう、アキちゃんを信じて、身を任せるしかあらへんわ。それでもし、ひどいめにあっても、その時泣いたらええやん。
 濡れた唇を、指で拭って、俺はそのまま、まだ熱く戦慄くようなそこに、目を閉じて触れていた。
 怖いなあ、恋をするのって。今までしたことなかった。色んな恐ろしいもんは、この目で見てきたけど、アキちゃんより怖いもんなんて、何もなかった。
「亨、帰ったらな、お前の絵描いてもええか」
 突然誘うみたいに、アキちゃんが訊ねてきた。
 俺は助手席でかすかに震えながら目を開いた。もう、すぐ近くにアキちゃんの巣が迫ってきていた。あそこに戻ったら、俺はもう終わり。自分で出られる出口はないし、出ようという気も、どこにもないし。
「絵って……なんで」
 すぐには返事できなくて、俺は意味なく訊いた。理由なんて、ほんまは関係ない。俺は人に自分の絵を描かせたらあかん。そんなことして目立って、何かまずいことになったら、どうすんの。
 人はみんな、俺みたいなのを愛したり憎んだりする。人間に殺された仲間も沢山居るで。愛憎の果ての報いとして。だから絵になんか描かれたらあかんのや。みんな自分がそこにいた証拠を、なるべく残さないようにして、身を守っていた。だから俺も、今までずっと、そうしてきたんや。
「なんでって……ただ、描きたいねん。お前を」
 アキちゃんは、たどたどしくそう答えた。
「惚れた相手の絵描くのって、アキちゃんの癖なんか。クリスマス・プレゼントに、姫カットにやろうとした絵って、本人の絵なんやろ」
 図星やったんか、アキちゃんはぐっと詰まったみたいやった。恥ずかしいぐらいに、わかりやすい奴や。
「なんか燃えるんか、描くと」
「いや、そういう訳やないと思うけどな」
 否定してるのが、明らかに言い訳やった。そうか、アキちゃん、姫カットの絵描いたんか。それはなんというか、妬けるな。教えてやらんけど、姫カットはな、ほんまはブスらしいで。それで、そんな化けの皮のほうの絵描かれて、むかついたんやで。みんながみんな、嬉しいとは限らへんで。俺かて、どう思うかわからへん。
 実は、俺は自分がどんな顔してんのか、ようは知らへんのや。人が見て、綺麗やとおののくような、そういう顔やというのは、経験上知ってるんやけど、でも鏡にもうつらへんし、写真にもうつらへん。自分で自分の顔を見る方法がないねん。
「でも……俺、自信ないねん。アキちゃん、どう考えても面食いやろ」
 気づいてなかったんか、アキちゃんは俺に断言されて、愕然としたらしかった。
 自覚ないんか。鈍いやつや。どう考えてもそうやろ、アキちゃんは。あのオカンに、前の女は姫カットやろ。それに俺のことだって、顔が好きやったに違いないんや。だけど絵に描こうと思て、じっくり見たら、こいつ大して綺麗やないななんて、思うかもしれへんで。それで急に、恋がさめたら、俺はどうしたらええんや。
「なんで自信ないねん。お前、鏡見たことないんか」
 アキちゃんは、苦い顔でそう訊いてきた。マンションの地下ガレージに続くスロープが、黒々と口をあけて、俺を呑もうとしていた。
「見たことない。俺、自分がどんな顔してんのか、よく見たことないねん」
「そうか。ほんなら見せたるわ」
 苦笑して言って、アキちゃんはガレージに車を入れ、薄暗いその地面の下で、車の室内灯をつけた。そしてバックミラーを動かして、俺に自分の顔を見せたつもりのようやった。だけどそこには、もちろん、俺の顔は写ってへんかった。
 アキちゃんが、急にそんなことしたのに、俺は肝が冷えた。アキちゃんが見て、お前鏡に映ってへんやん、気持ち悪いって思ったら、俺はどうしたらええんや。
 なんか、そんなことばっかり気にしてる気がするわ。ずっと。
 ため息ついてる俺には気がつきもせず、アキちゃんはに後部座席からなけなしの荷物をとって、車をロックすると、俺を連れて、地下から一階のエントランスに繋がる階段を上った。俺は慌てて、アキちゃんと手をつないだ。そうしてへんかったら、おかんの結界に追い出されるかもしれへん。あの人、可愛い顔して、けっこう根性悪そうやったやんか。
 せやけど、いつもなら感じていた壁みたいなものを、俺はその時感じなかった。するりと当たり前に、あったかいゼリーの中を抜けるみたいに、俺はいつも壁だったところを通り抜けた。
 もう、アキちゃんと手を繋いでる必要はなかったけど、それでも手を離さないでほしかった。
 ああ、良かったよアキちゃん、俺もここに、住んでていいらしい。アキちゃんのおかんが、それを許してくれたらしい。なんでやろ、俺はなんもしてへんのに。
「ここのエントランスやけどな、亨」
 壁にある、数字やら何やらのボタンがついたような操作パネルのほうへ行って、アキちゃんはいつもなら触らないでいいらしいそれに触れた。たぶんそれはインターフォンやった。外から来た客が、中にいる家人を呼ぶための。
 だけどアキちゃんがどうやってここの自動ドアを開けてるのか、俺にはわからへんかった。ポケットに鍵を入れてるだけで、部屋のドアは解錠されてるし、玄関の自動ドアもそうなんやろうと、深く考えてなかった。
「顔認証やねん。業者呼んだらええねんけど、正月やし、悪いな。自分でやれへんかな。何かそんなこと、前来たとき言うてたんやけど……」
 鍵を使って、操作パネルの下の銀の扉を開いて、アキちゃんはそこにあったモニターを出した。
 俺はその光景に、鞭打たれたような気がした。アキちゃんが、画面にうつってる自分を見てた。そして、そのすぐ隣にいるはずの俺が、ぜんぜんうつってないのを。
 アキちゃんはしばらく、そのまま、固まってたみたいやった。
 俺は怖くなって、思わず一歩後ずさった。
 アキちゃんは、ゆっくりと、天井に埋め込まれてたビデオカメラらしい、丸い小さな穴を見上げた。あれがカメラやったなんて、考えてなかった。いつもオカンの結界のことで、必死やったから。
 逃げようかと、発作的に迷ってる俺のほうを、アキちゃんはゆっくりと振り返った。なんともいえん真顔やった。
「亨」
 アキちゃんは、ぽつりと俺を呼んだ。
「お前、映ってへんで……」
 そして、かすかに眉間に皺を寄せた顔で、アキちゃんは逃げようとする俺の腕を掴んで、引っ張り寄せてきた。
「なんで、見えてんのに、カメラに映ってへんのやろ。ちゃんと、触れんのに」
「アキちゃん、俺……」
 なんて言えば、言い訳になって、ごまかせんのかと、俺は必死で考えていた。でも何も思いつかなくて、また震えてきた。アキちゃんは、俺なんか、出ていけというやろか。それとも、家族や恋人やなんて、厚かましい言うて、俺をどこかに閉じこめて、捕まえとくことにするやろか。もう今までみたいには、優しくしてくれへんようになるか。
「だましてたわけやないねん。ただ、なんて言っていいか、わからへんかったんや」
「お前はいったい、何やねん、亨。幻やないよな、おかんにもお前が見えてたんやもんな」
 腕をつかんだ俺の目を、じっと見つめて、アキちゃんは真剣に訊ねていた。俺はそれに、何か答えないとあかんようやった。だけど俺も、自分がなんなのか知らへんかった。そんなこと訊かれても、ただ苦しいばっかりや。
 それで俺は、悲しくなって、ぜえぜえ身悶えてた。アキちゃんはそれを、困ったように見てた。
「大丈夫か、亨。心配せんでええねん。お前が何でも、俺はかまへんから。お前もわからんのやったら、答えんでええねん」
「アキちゃん、怒らんといて。俺を、捨てんといて。嫌いにならんといて」
 すがりついて頼むと、アキちゃんは苦笑していた。ちょっと照れたみたいに。優しい顔やった。いつもよりずっと。
「なあ、亨。俺はたぶん知ってたで。お前が正体不明なのは。でも、それに、気づかんようにしててん。気づいたら、お前がどこか行ってまいそうな気がしてん。でも、まさか、カメラに映らへんとはな……困ったな」
「困るんか、やっぱり」
 俺が悲しくなって、悲鳴じみた返事を返すと、アキちゃんは頷いた。
「困るやろ、それは。だってどうやって顔認証やるねん。まさかお前、ずっと俺と一緒にしか出入りせん気か?」
 アキちゃんは、さらっと、そんなことを言った。
 俺は言われた話の意味を考えて、しばらく呆然としてた。
 それって。つまり。追い出されへんのやろか。
 アキちゃんは、俺がカメラに映らないようなやつでも、別にかまへんの?
 嘘お。そうなん。そんな子やったっけ。
「でもまあ、ええか。それはそれで。お前もうっかり浮気したりでけへんもんな。お前なあ、亨。悪さしたら、家に入れてやらへんからな」
 うっ、と、俺は呻いた。アキちゃんは、まるで機嫌がいいみたいに、にこにこしていた。
「なんやそれ。お前かて実家で顔のない女と抱き合ってたやないか。あれは何やねん、俺は忘れてへんで!」
「あれは舞ちゃんとかいうんや。おかんの式神らしいで。俺とは関係ないんや、誤解やで」
 アキちゃんは早口に言い訳をした。そんなことない。目が泳いどるでアキちゃん。
「嘘や、怪しいわ。何やねん、もう、俺にはさんざん焼き餅やいといて、自分は姫カットとか下駄とか舞ちゃんとかなあ! 俺が可哀想やないんか!!」
 俺はもう、今まで我慢してた分の限界ですみたいな感じで、悲しくて情けなくなってきた。アキちゃんはちょっと、ずるいんやないか。俺には一途になれみたいに要求してくるくせに、自分はぜんぜん一途やないやん。あのおかんかて怪しいで。みんなして、よってたかって俺のもんを横から盗ろうとしくさって。むかつくんじゃ!
「ごめんて。でも、ほんまに俺は、お前が好きやで。だから心配すんな」
「そうか。そんならその証拠に、ここでキスしてくれ」
 俺はごねた。アキちゃんは真顔を崩さへんかったけど、明らかにドン引きしていた。
 だけど色々計算したみたいやった。
 エントランスの二重の自動ドアは、ガラスやけど、スモーク加工で、その合間にいる俺らは、中からも外からも見えはしてへん。それに、俺はビデオカメラには映らへん。誰も見てへん、みたいなな。
 それで、俺を睨んだまま、深いため息ひとつついたのが、アキちゃんの結論やった。
「いいよ。やったろうやないか」
 売られたケンカは買ったろうやないかというノリで、アキちゃんは俺の首根っこを掴み、引き寄せてキスをした。触れるだけのそれに、俺は抱きついて応えた。
 なんで今ここで、そんな素っ気ないキスやねん。憎いわアキちゃん。逃がさへん。
 そう思って俺が挑みかかると、アキちゃんはじたばたしていた。それでも、知らんかったけど、俺のほうが力が強いらしかった。逃げられへんアキちゃんが面白くなって、俺は唇を合わせたまま含み笑いした。そして、なんとなく周りを見るうちに、はっと気がついた。
 開いたままやった、壁のモニターに、アキちゃんと抱き合ってる誰かが映ってた。
 それはもちろん、俺のはずやった。だって、今、アキちゃんと抱き合ってるのは俺やもん。
 そいつは、むちゃくちゃ綺麗な顔をしていた。そして、アキちゃんとは、なかなかお似合いやった。
 なんでやろ、不思議。俺、アキちゃんと抱き合ってると、カメラに映るんやろか。それとも、キスしてるから映るんか。
 いろいろ試したけど、どうも、アキちゃんとくっついてる時だけ、俺はカメラに映るらしかった。手をつないでるだけでもいい。もちろんキスしてても。他にもたぶん、あれとか、これとか。
 一緒におらへんかったら、意味ないんやから、エントランスの顔認証には、登録せんでいいよ別にと、俺は正々堂々と断っておいた。
 だけど、あれやん。早く帰って、いろいろ試そう。アキちゃんちの洗面所とかさ。でかい鏡あるやん。なんでこんなのあるのかなみたいな、今まですごく迷惑やった鏡がさ。でも、それのお陰で今日は、俺も今まで見たことないような、すごいもんが拝めるんやで。
「洗面所でやろう、アキちゃん。鏡あるし。あそこではまだ、したことなかったやん。さ、早く行こ、早く」
「ちょっと待て亨、俺にはそんな変な趣味はない。お前は変態か!」
 アキちゃんの顔でエントランスを開けさせて、ずるずる引きずっていく俺に、アキちゃんはそんな愚問を投げた。
「そうやで。知らんかったんか。鈍すぎるわな。ていうか、やってみたらアキちゃんも、案外好きかもしれへんで。今までも充分いろいろ、俺の調教に応えてきたアキちゃんや。まだまだやれる」
 最上階までエレベーターで一直線。家のドア前までたったの五歩や。
 おかんが買ってくれた最上階の部屋ペントハウスは、このフロア唯一の世帯やから、たとえばこのエレベーターホールにもまだまだ開発の余地はあるんやでアキちゃん。
 そう話してやりながら、ピッと鳴って勝手に開いたドアをくぐると、アキちゃんは悲鳴みたいな声で、やめてくれ亨と叫んでいた。
 いややなあ、アキちゃん。そんな俺が好きなくせに。
 それからどうなったかというと、アキちゃんが発狂するかもしれんから、あんまり詳しくは話されへんのやけど、まあ、俺は、やるといったらやる男。アキちゃんは、いやよいやよも好きのうちな男。
 アキちゃんが、めちゃめちゃ気持ちいいときの俺の顔を、めちゃめちゃ好きらしいのを、心ゆくまで鏡で見たわ。いいねえ、鏡。ずっと大の苦手やったけど、今は大好物。
 それからアキちゃんが持ってたデジカメも試したんやで。変なもんが写る言うて、アキちゃんが嫌気がさして封印してたらしい、本格的な一眼レフやった。それがこれまた綺麗に写るねん。いいもんですな、文明の利器も。
 それで散々遊んで、俺は気づいた。これで自分の写真撮れるんやったら、パスポートとか作れるやん。そしたらアキちゃんと、飛行機乗って、どこでも行けるやん。ローマとか、ロンドンとか、俺、懐かしいわ。
 そう言って誘うと、アキちゃんは、びっくりするような事を言った。
 俺は京都から出たことないねんと。
 出ようとすると、何か壁みたいなもんがあって、電車が故障で止まったり、車がエンストしたりするらしい。
 おかんの仕業や。そうに違いない。それは何としても、外に出てみるべきや。総身の力を振り絞ってでも。
 励ます俺の絵を、自分も素っ裸で描きながら、アキちゃんはちょっと恥ずかしそうに言った。
 そうやなあ。何となくやけど、お前と手繋いでやったら、どこへでも行けるような気がするわと。
 俺はその話に、もちろんデレデレした。そんな俺に追い打ちをかけるように、アキちゃんは、お前が好きや亨と、何度も囁いた。俺はそれに、ふにゃふにゃになった。
 幸せすぎると、俺は思ったけど、どうもそれは、アキちゃんの作戦やったらしい。そういう時の俺の顔を、絵に描きたかったんやって。
 今すぐ行こう、車でもええし、電車でもええし、どこか京都じゃないとこ行こう。大阪なんかどうやろう。俺は大阪大好きなんやでと話すと、アキちゃんは首を横に振った。
 俺は、絵を描かなあかん。何もかも、それからやと。
 夜までずっと、何枚も、俺の絵を描き続けるアキちゃんを、俺は邪魔しないようにした。
 それで、晩飯作ってやったら、アキちゃんは感動していた。俺があんまり料理が上手なんで。
 そうや、知らんかったやろ。俺にはいろいろ、隠し球があるで。だから俺に、飽きんといて。いつもお前は何者なんやと、俺を見つめて、俺を知って、それを受け入れて、いつもずっと、今日よりも明日、明日よりも明後日の俺を、好きやって言うてくれ、アキちゃん。俺もそうする。そう決心しなくても、今まで毎日がずっと、そうやったみたいに。一年過ぎても、十年過ぎても、それを続けて。百年たっても、千年過ぎても、俺はアキちゃんとずっと一緒にいたい。
 そういう気持ちを、人はなんていうの。俺は知らへん。今までそんな気持ちになったことがなくて、だからそれを誰かに伝える必要もなかった。
 なんて言えばええんや、アキちゃん。そう思って切なく見つめると、アキちゃんは俺に、お前はその顔が、いちばん綺麗やなと言った。そういうアキちゃんの、ちょっと照れたような顔が、俺はめちゃめちゃ好きやった。
 それでいつまでも、ぼけっと見つめ合っていた。言葉もなく。ただなんとなく、手を握り合って。
 さらさらと降る音のする静寂の街。
 それは、いつまでも忘れがたい、京都での幸せな夜やった。


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