SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

京都編(9)

 絵は完成した。
 俺の自制の甲斐あってか、おかんに約束したとおり、うちの実家の正月が明ける一月半ばの頃やった。
 冬期の課題を兼ねて描いていたので、まずは担当ゼミの教授に見せた。
 教授は作業棟に現れ、壁一面を埋める巨大サイズの俺の作品を、腕組みして眺めて、ううんと唸った。そして、本間君、これは油絵とちゃうか、と言った。
 そうや。油絵です。見りゃわかるやろ。
 せやけどな、俺は日本画の先生やでと、教授は困っていた。
 そんなことは言われんでも俺も知ってる。だからちゃんと日本画の画風で描いたやろ。なんの文句があんねん。
 そういう目で俺が黙っていると、教授は困ったなあという顔で、頭をぼりぼり掻いた。いつも着ているトレードマークの、肘に革の継ぎがあたっている、枯れ草色のタータンチェックのジャケットが地味なような派手なような人で、見るからに野暮くさかった。
 まあええわ。いい絵やわと、教授は結論した。しかし日本画の学生が油絵描いてどないすんねん本間君。油絵に転向するんか。
 そう言ってくよくよしている教授を、俺は励ました。
 そういう訳やないです。別に俺は、画材はなんでもええのです。描きたいもんが描ければ。日本画でもCGでも。その時々のノリです。だから別に、日本画科でかまへんのです。どこでもええんやし、先生のことは尊敬してますから。それやと何か不満なんですか。
 いや、不満やないよと、教授はいかにも気弱そうに言っていた。不満やないけど、君はほんまに我が儘な子やなあ。この絵で単位くれ言うんか。俺に判子押せ言うんか。日本画の教授に油絵でアタックか。無茶苦茶やで本間君。普通なら単位やれへんで。前代未聞なんやで。せやから他の先生には黙っといてくれ。恥やから。この絵はさっさと、どっかに隠しといてくれと、教授は課題満了の紙ペラに判子を捺しながら、俺に頼んだ。
 その予定やった。
 教授が判子捺すにしろ、捺さへんにしろ、この絵はもらい手が決まってた。そいつが一刻も早く絵をよこせという腹やったんで、教授がとっとと出ていくのを待って、絵を搬出しようというのが後ろに控えていた。
「前途洋々やなあ、君は。卒業する前から、絵に買い手がおるんか」
 くよくよしている教授は、あんまり絵が売れへんらしい。上手いのに変やなあ。でもまあ分かるわ、教授の絵は、気合いが足りんねん。何かこう、ふにゃっとしてて、何描きたいんかわからんようなやねん。上手いんやけどな。以前俺がそう教えてやったら、教授は三日ぐらい大学を休んだ。今もそのとき、ずる休み明けから戻ってきたばっかりのときみたいな、情けない顔を教授はしてた。くたくたです、みたいな。
「人手に渡すんやったら、写真くらい撮っといたらどうや。自分が描いた絵でも、人に買われていったら、死蔵されることもある。もう二度とお目にかかれん絵かもしれんで」
 教授は珍しくこの道の先輩らしいことを言った。
 俺はそれに頷いた。そのつもりで、滅多に使わんデジカメも持ってきてた。面白がって買った一眼レフのやつ。亨か面白がって撮った、とても人には見せられんような写真は、もちろん消してきたで。
 せやけどこれで俺が撮って、まともに写るんやろか。買った時に喜んで、嵯峨野に試し撮りにいったら、竹林に棲んでるえらいもんが、みんなピースして写ってて、俺はそれを見なかったことにしたんや。データもその場で消した。心霊写真ていうんか。それとも妖怪写真かな。そんな新分野で有名になりたくないやろ。俺は絵師やで、写真家とちがう。
「亨」
 俺が呼ぶと、作業室の薄汚い壁にもたれて携帯のメール打ってた亨が、ふと顔を上げた。今日の亨は、新しく買った、それでも目立ったとこのない格好をしてた。けど、どんな格好してても目立つやつや。こんな陰気な作業棟にいても、亨のところだけ、何やらキラキラした雰囲気やった。
「なんや、アキちゃん」
 電話を畳んで、ジーンズのヒップポケットに入れ、亨は愛想のいい淡い微笑で、俺のところにやってきた。教授はなんかそれに、ドギマギしたらしかった。なんでドギマギしてんねん、おっさん。まさか亨に気があるんやないかと、俺はむかむかした。帰れ、教授。いてまうぞ。
「絵の写真撮ってくれ、亨。俺やと上手く写らへんから」
 一眼レフを渡して頼むと、亨はカメラを見て、きょとんとした。
「なんで。アキちゃん写真上手いやん。玄人ハダシやで」
 それは何や。何の写真のことを言うてんのやと、俺は真顔で焦った。
 亨はだんだん、写真に写るようになってきてた。何かコツがあるのを、掴んだらしい。それでも普段は鏡にもカメラにも写らへんけど、俺がシャッター押すと、亨ひとりでも写真に写る。それを絶対外には出さへん、人には見せへんという約束のうえで、亨は俺に写真を撮ってもいいと言っていた。そんなん言われんでも外には出さへん。恥ずかしいやろ。
「君、写真もやんのか、本間君」
 大ショック、みたいな顔で、教授が訊いてきた。
「やりませんよ。遊びで撮るだけです。写真くらい誰でも撮るでしょ」
 俺が愛想なく言うと、教授は胸を押さえてがっくりとした。
「そうか。ほな良かったわ。写真科まで敵かと思った。やめてな、本間君。教え子の出世も俺の点数のうちなんやし。これまでどんだけ本間を寄越せという教授連中の鬼の攻撃に俺が泣きながら耐えてきたかや。それもこれも将来出世しそうな君の卒業時、担当教授の欄に俺の名前を書くためや」
「アキちゃん、案外おっさんにもモテんねんなあ」
 横で話を聞いていた亨が、しみじみという感じで、疲れたみたいにコメントした。なんやそれ。おっさんにもっていうのは。俺が他の何にモテんねん。お前以外の誰にもモテてへんやんか。むしろ全然モテへん男やないか。お前が来てからなお一層やわ。別にそれでええねんけど、でもなんか複雑やで、男としては。
 亨は暇なんか、俺にくっついて大学にちょくちょく来たので、『本間のツレ』として、学内でも知られるようになってもうてた。亨は誰が見ても忘れがたい顔やろうから、いっぺんでもすれ違えば、皆俺に、あいつ誰やねんとわざわざ訊きに来た。
 そんなご質問に俺はなんて答えればええねん。しゃあないから、あいつは俺のツレやと答えてた。便利やでツレは。関西には便利な言葉がある。友達でも幼馴染みでも恋人でも、相方やったら何でもツレや。関西人でほんま助かったわ。
 まあ、そんなこんなで、本間にはどえらい顔の綺麗なツレがいるという話で、亨を見物にしにくる奴はいても、俺をモテさせようという女はいなくなった。鮮やかなほど、きれいさっぱり。以前なら、たまたま資材の片付けとかの用事で一緒になったりしたときに、何かちょっとのきっかけで、本間君は彼女いるん、と、控え目に訊いてきた女もおったのに。
 過ぎ去りし日々や。別にええけど。
 別にええんか。ほんまにええんかな、それで。正直未だにちょっと悩んでるけど。俺のツレが怒るんで、あんまり顔には出されへんけど。
「これ、シャッター押すだけでええのん?」
 知ってるやろと思ったけど、なんとなく頼りなげに訊いてきた亨に絆され、俺はつい構ってやってた。亨は別に機械音痴やない。それでもこいつは俺が人にものを教えるのが好きらしいと踏んで、知ってるようなことを、わざわざ訊いてきやがったりする。あざとい。あざといのだが、それにまんまとハメられてる俺も大概アホや。
 ひとつのカメラを覗き込んで、広角で撮るからとか、そういう話を聞いてる亨の顔は、話聞いてないうえ、近かった。うっとり俺を見てる亨を、激しくドギマギして見ている教授を感じて、おっさん早よ帰ればええのにと俺は気の毒になった。あんたみたいに気の弱いのには、目の毒やで亨は。そのうち絵のモデルやれ言いだすんとちゃうか。ほんで断られるんやで。ほんでまた三日ずる休みか。学習しろ教授。
 こいつは俺以外の誰にも描かせへん。すでに何人か振ってる。そういう時の亨は極めて残酷で、描かせてくれ言う相手に、いややときっぱり答え、描いたら殺すと真顔で脅していた。その顔がまじで怖く、傍目に見てる俺でさえ、若干チビりそうやった。
 亨はたぶん、いつもにこにこしてる訳じゃないんやろう。俺の前ではいつも、にこやかやけど。
 今も、くつろいだような淡い微笑を浮かべて、俺に頼まれたとおりに、カメラを構えて、俺の絵の写真を撮っていた。ピッ、かしゃり、と独特の音が何度もして、亨が何枚も撮ってるのが遠目にもわかる。撮る度に、亨は背面の液晶で、自分が撮った絵の写真を、うっとりと、少し照れくさそうに見た。
 絵は仕上がった。思い描いてたとおりに。
 早春の川原に、亨が立っていた。服装や髪型は、資料をあたって描いた、古代の日本人が着てたというものだった。白い簡素な服に、何連かの勾玉まがたまの首飾りをしていて、そこだけ色とりどりだ。いくぶん淡い色合いの柔らかな長い髪を、角髪みずらとか言う、両耳の脇で結う髪型をしてる。なんか昔の人の絵って、みんなこの髪型やってん。変かなと思ったけど、絵の中の亨には、不思議とよく似合っていた。長い髪が、亨のどことなく中性的な美貌と相まって、綺麗だった。
 髪伸ばそうか、アキちゃんと、この絵をはじめて見た亨は、恥ずかしそうに俺に言った。仕上がるまではと思って、こいつを作業室には入れへんかった。せやから完成品を見て、亨は驚いたらしかった。前に見たときにはいなかった自分が、絵の中にいたからやろうか。
 なんかいろいろ物言いたげやったけど、言葉にならんという顔で、じっと俺を見て、やっとそれだけ言ったんや。俺も髪伸ばそうか、アキちゃん。こういうのもええな、と。
 俺はそれに、どういうのでも、お前はええよと答えた。そしたら亨は、絵の中の亨と、同じ顔をした。切なげなような、かすかに苦しいような憂いを帯びた、愛しいものを見る目を。俺は亨のその顔が好きで、それまで何日も見つめ合ってきた絵のほうではなく、生きて動いているほうの亨と、しばらく見つめ合ってた。
 しかし、それからが問題やった。
 やれやれというふうに、苦笑してため息をついた亨は、困ったようにうな垂れて、アキちゃん、まずいでと言った。この絵は、ナントカ会館に飾られるんやろ。そこで何人がこれを見るんやろ。俺は見せモンにされるのは嫌やと、亨は甘い声でだだをこねた。絵に描いてくれたのは嬉しいけど、この絵はナントカ会館の爺さんには売らんといてくれ。お願いやからと言って、亨はその場で電話をかけた。
 誰と話してるんやろうと思った。でも、それを訊ねるような隙はなかった。そして訊ねる必要もなかった。そんなことを詮索するのは無様だろうし、それに、亨は電話の相手の名前をはっきり呼んだからだ。
 こんにちは藤堂さん、えらいご無沙汰やったなあと、亨は親しげな口調で話した。元気にしてたん。えっ。入院したん。手術。へええ、そうなんや、大変やったね。俺のせいやないよ、俺が病気にしたんとちゃうやん。それは、あんたの運不運やで、藤堂さん。出世もええけど、いい機会やったんとちゃいますか、ここらで休憩すんのは。死なへんで良かったやん。あのまま突き進んでたら、どうせ半年保たへんかったで。
 死ぬ目にあってるとこに悪いんやけど、絵、買わへんか。俺のツレが描いたんやけど、後でメールで写真送ります。俺の絵やで。上手に描けてるわ。それ見たら藤堂さんも、納得するわ。なんで俺があんたを捨てたか。俺なあ、今、恋をしてんねん。むっちゃ幸せやねんで。
 幸せそうに電話にそう話し、亨はそれに何か答えた相手の言葉に、身をよじって爆笑した。
 そして、どことなく冷たい声で答えた。
 酷いて、そらそうやで。知らんと付き合ってたんか。俺はもともと、鬼畜生やで。
 さよなら藤堂さん。長生きしてなと、そう言って、亨は相手に返事する暇も与えず電話を切った。それから携帯のカメラで絵に描かれた微笑む自分の写真をとって、たぶん、同じその相手になんやろ、短いメールを送りつけていた。
 酷い話やと、横で見ていた俺にも思えた。相手に妬けるというより、同情のほうが強かった。俺ももし、亨にふられたあとに、今幸せやねんという電話をかけられたら、どんなにか辛いやろ。
 メールの返信は、すぐに来た。
 亨はそれを、ふふふと笑いながら読み、俺に強請る口調で言った。
 アキちゃん、武士の情けやで、死にかけの藤堂さんに、俺の絵を売ったってくれへんか。この絵を眺めて死にたい言うてはる。
 俺はそれに、いいとも、だめだとも返事できへんかった。この絵は、おかんの頼みで描いたもんで、元から買い手が決まってるものや。それを横から盗るような形で、他のやつに売るなんてことは、失礼すぎる。だから無理やと、俺は答えた。亨はそれに頷いて、もう一本電話をかけた。
 相手は祇園で画商をやってるという、割腹のいいおっさんだった。
 なんで割腹がいいと分かるかというと、そのおっさんも、今この場にいるからだ。
 おっさんは、いかにも仕立てのいい、黒の三つ揃いを着こなして、短めに刈った七三の髪を、艶めに仕上げていた。堅気とも、玄人ともつかんような、怪しい熟年の男やった。おっさんは飽きもせず、部屋のすみから俺の絵を眺めていた。いや、たぶん、俺の絵をではなく、絵の中の亨をだ。
「西森さん、絵はどうやって持っていくんや」
 写真撮るのに飽きたんか、亨は部屋の真ん中に立ってカメラを構えたまま、後ろのほうにいた画商のおっさんを少し振り返って訊ねた。
「専門の業者がおるよ、亨くん。部屋の外で待っとるわ。早うしてくれんかな、先方もお待ちなんで」
 急かすわりには、ゆったりとした低い美声で、おっさんは言った。懐の深そうな人やった。たぶん、こんなシチュエーションでなく出会えば、訳なく尊敬できるような人柄の人や。けど俺はもちろん素直にはそう思えへんかった。こいつも亨となんかあんのかと思えて。
「そんな急かんでも、今にも死にそうなんか、藤堂さんは」
「いいや。そういう訳やない。一時危なかったらしいけどな、それで観念して手術したからやろ、持ち前の根性汚なさで、総力をあげての療養生活や」
 わっはっはっと豪快に笑い、画商は軽口をきいた。
「この絵があったら、また違うやろ。アキちゃんの絵には、なんかそういう力があるで。癒し系」
 納得したような顔で、亨は天然かみたいな事を言った。相手がこの絵を欲しいのは、笑ってるお前が描いてあるからやろ。その絵見て蘇ってくるとしたら、それはお前への執念やで。俺は正直、胸糞悪いわ。
 せやけど、どこの誰とも知れん恋敵とはいえ、人ひとりの命のことやし、死ねばええわとは思えんな。俺の絵一枚で人が助かるんやったら、それはそれで、絵描きとしては光栄なことなんとちゃうやろか。
「藤堂さんも案外、不死鳥のように返り咲いてくるかもしれへん。あの人、ネチっこいからなぁ」
 何かを思い出しているような口調で、亨はしみじみ言った。
 ほんまにもうお前はどんだけ無神経やねん。このシチュエーションで、よくもそんなこと堂々と言うわ。うっすら想像させられた事の、あまりの痛さに痺れて、俺はうな垂れ、自分のうなじを揉んだ。
「いくら払ろたん、藤堂さん」
 にやにやして、亨は西森という、画商のおっさんに訊ねた。それは臆面もない問い方やった。
「クライアントの秘密や、それは」
 教えなかったおっさんに、亨は皮肉たっぷりに顔を歪めた。そして、部屋の反対側にいる別の男のほうを、ふりかえった。
「いくら貰ろたん、秋尾さん」
 急に話を向けられて、ぼけっと傍観していた丸メガネの男は、なんだいという顔で笑った。
 その男は、ナントカ会館の爺さんの秘書で、絵の争奪劇の顛末を見届けに来ている。ひょろっと背の高い中年の男で、亨は何度かやってきたこの男のことを、狐やと言うてた。狐みたいやで、あの人は、と。
 言われてみると確かに、にこにこ愛想のいいメガネの奥の糸目が、なんとなく狐っぽい人や。でも彼が薄茶のスーツの中に尻尾を隠してんのかどうか、詮索するのは失礼なんやないか。人にはそれぞれ都合があるんやし。
「それは教えられへんよ、クライアントの秘密や」
 秋尾さんは、にこにこ機転をきかせてそう答え、画商西森と、軽い会釈を交わした。
「なんやねんケチやな。油揚げ買うてきたろか。そしたら喋るか」
 亨が本気みたいな口調で茶化すと、秋尾さんは、面白そうにくつくつと笑った。
 ナントカ会館の爺さんは、横からかっさらわれるのは面子が立たんといって嫌い、秋津からいったん買い取った俺の絵を、さらに藤堂さんなる死にかけ男に転売してやることにした。画商西森が直談判に行き、クライアントの心情を切々と訴えたらしい。それに爺さんは武士の情けをかけた。そういうことらしい。
 絵を買い取った客が、他のやつにそれを売るというなら、俺には手も足も出なかった。画家なんて虚しい商売や。亨の絵なんか描くんやなかった。こいつが俺の目の前で、右へ左へ売り買いされんのを、指をくわえて見てる羽目になるとは。
 けど、絵の出来映えは上々やった。おかんも喜んでた。俺にはそれが一番嬉しかった。
 おかんは絵を見て、アキちゃんあんたはこの子がほんまに好きなんやねえと、納得したように言った。俺はなんも答えへんかったけど、答える必要もなかった。それは絵に描いてあるやろ。
 俺は亨が好きや。言葉ではうまく言い表せない、その単純なことが、絵に描くと一目瞭然やった。何日もかけて絵の具まみれで仕上げた絵の中で、亨は愛しげに俺を見つめていた。その微笑みを、俺はいつも愛しく眺めた。やがてその絵が人手に渡ることは知っていたけど、それで手加減したりはせえへんかった。今この時の思いの丈を、一枚の絵にして残したかったんや。
 だけど初心うぶな絵やと、ナントカ会館の爺さんは評したらしい。実物見んと写真でやで。失礼な話や。それで一度として俺の絵を手元に置くこともせんと、右から左に転がして、なにがしかの大枚は懐に収めた。根性汚い爺さんや。
 それでも、その因業爺の寛大さのお陰で、あちこち丸く収まったわけや。爺は俺に改めてもう一枚絵を描けと発注してきた。それはもう描くしかなかった。こっちの我が儘きいてもろてんから。
 今度もまた古代の日本なんかと思ったら、爺は舞妓の絵を描けという。ふざけんなと思った。俺は人物は描かへん言うとるやろ。風景か静物しか描かへんねん。それに舞妓さんなんか、まじまじ見たこともないわ。
 俺がそう文句を言ったら、おかんはけらけら笑い、ほんなら祇園にお座敷遊びにし行ったらええやないの、あんたは、ええとこのぼんなんやし、それにもう大人なんやろ、と言った。
 たぶん嫌みなんやろ。おかんが俺に嫌み言うなんて、うっかり涙出てきそうやわ。
 それでも、おかんは亨を気に入ったようやった。何くれとなく世話焼いてやり、着るもん買うてやったりしていた。時々嵐山の家に呼びつけて、なんやかんや教えてるらしい。いびってるだけかもしれへんけど。
「そろそろ搬出しますわ。よろしいな、本間さん」
 そう言って了承を求める画商西森は、なんでか俺を一人前の絵描きとして扱ってくれていた。まだ学生の身の上なのに、分不相応な気がして、俺はそれに恐縮していた。なんかこう、敵に塩を送られる気分や。そりゃあまあ、まだ敵やと決まったわけやないんやけど。俺の邪推かもしれへん。だいたい亨かて、知り合い全部がそういう相手ってことはないやろ。
「亨くん、この後、どないするんや。木屋町で湯豆腐でも食わしたろか。それとも南座の吉兆がええか」
 搬送業者に絵の梱包をさせながら、西森は気安く亨を誘った。亨は一応、その提案を受けるかどうか検討したらしかった。検討すんな。即答で断れ。
「うーん、せっかくやけどな、西森さん。俺はこれからアキちゃんと大阪行くんや。デートやで」
「なんやそれ。ラブラブなんか」
 画商西森は、残酷なほどよく通る声で、驚いたように言った。めちゃめちゃ響いてるんやけど、やめてくれへんか、おっさん。
「そうやで。ラブラブや」
 恥ずかしいみたいに、もじもじして、亨は臆面もなく答えていた。俺はなんとなく気が遠くなっていた。
「しゃあないな。ほんなら順番待ちしよか。亨くんのことやし、どうせすぐ飽きるんやろ」
「待ってもええけど、千年後くらいにもういっぺん訊きにきて。そん時にラブラブやなくなってたら考えてもええわ」
 亨はにやにやして、そう言った。
「それは生きてられへんなあ」
 西森はわっはっはと豪快に笑った。話はそれで、終わりらしかった。
 そして西森はきゅうに画商の顔に戻り、俺のところに名刺を持ってきた。今まで亨を介して話が進んだので、俺は西森の名刺はもらってなかった。
「今後も何か描けましたら、ご一報ください。飛んできますよって」
 名刺に書かれた住所は、花街、祇園のど真ん中やった。
「なんやったら、亨くんの絵をいっぱい描いたらどうやろ。絶対ばかすか売れまっせ」
「俺は人物は描きません」
 むっとして、俺は答えた。画商はいかにもおもろいというように、げらげら笑った。
「そうですか。そりゃあ大したもんだ。女衒ぜげんやないという訳で。お見それしました大先生。人が無理なら、鬼でも蛇でもなんでもええです。何か描けましたら、よそへ行かずに、まずうちへ」
 わざとらしく頭を下げて、画商は引き上げていった。
 まったく。むかつくおっさんや。ほんまにむかつく。めちゃめちゃむかつくわ。
「なんやねん、あのおっさん。むかつく」
 いくら言っても気が済まず、俺は口に出して亨に文句を言った。亨は面白そうに苦笑していた。
「ええ人やで。美味い店いっぱい知ってるしな。高級料亭から屋台まで、どこでも連れてってくれはるで」
「飯さえ食えれば誰でもええんか、お前は」
 ぷんぷんしてきて、俺はその腹立ちを隠しもせず亨をなじった。亨はちょっと照れたように、鼻を掻いていた。
「誰でもええわけないよ。今はアキちゃんだけや」
 そう言われて俺は、たいへん満足したが、そこで今さら我に返って気づいた。みんな見てるやんということに。
 狐みたいなつらの秋尾さんは、うっふっふと笑っていたし、教授は真っ青な顔をしていた。やばいで。ちょっと待ってくれ。俺のまともなイメージが完膚無きまでに粉砕されていく。
 きっとそのうち、学内でも悪い噂が立ちはじめるんや。本間は学年いちの美少女を振って、顔の綺麗なツレを選んだ。それがもとで、美少女は学校やめたって。というか、その噂はすでにもう流れていた。
 前の女はなんでか、クリスマス前にもう退学届けを出していた。そんな相談、いっぺんもされたことなかった。
 結局彼女にとって、俺はその程度の相手やったということか。そう思うと悲しいけど、でももう過去のことやった。ほんの一月前のことやのに、薄情なまでに遠い過去に思えた。
 思い出せと言われても、彼女と暮らした半年ばかりのことは、思い返してみると、ごくわずかの時間やった。本当に一緒に住んでいたわけではなく、考えてみると、彼女は時々泊まりにくるだけの人物やった。大学では俺はほとんどの時間を絵を描いて過ごしていたし、思えば彼女と接点があったのは、その合間の時間だけや。お互いが何を考えて、何に悩んでいたのか、よく知らないままやった。
 それでも、思い出せと、刑事は俺に言った。
 任意同行や言うて、お前はコロンボか銭形かみたいな、くたびれたベージュのコートの刑事が、わざわざ大学で絵描いてた俺んとこに来てん。
 彼女の死体が出たというんや。
 それは俺にも青天の霹靂やったけど、彼女の親にとってもそうやったらしい。
 彼女は実家から大学に通ってたけど、刑事が言うには、素行の悪い娘やった。一年の頃から、友達の家に泊まるとか言うて、ほとんど家に戻ってなかったんやて。せやから娘が半年もろくに実家に顔出さんと、元気やから、絵描くので忙しいから言うて、手短な電話だけで話をすますのに、何の疑問も抱いてへんかった。
 死体が出たと、これはお宅のお嬢さんではないかと言って、刑事が家に来るまで、彼女の親は娘が死んでたことに気づかへんかった。それで慌てて死因を探ることになり、刑事は俺に行き着いた。
 そりゃそうやわな。半年間、俺が彼女とつきあってて、半同棲状態でしたという話は、うちの学生なら大抵のやつは知ってたみたいや。それで刑事は、俺が彼女を殺したんやないかと、目星をつけたらしい。
 ある意味そうかもしれへんと、俺は反省した。もしかしたら彼女は、俺と別れたことがもとで、死んだんかもしれへん。自殺のように見えるがと、刑事は話してた。作業棟の屋上から、飛び降りたんやろうって。せやけど、そうは見えるが、もしかして、お前が突き落としたか、首でも絞めて殺してもうて、焦って自殺に見せかけようと、屋上から遺体を落としたんちゃうかと、刑事は俺に尋ねた。
 その時、これが取調室かと、俺は思っていた。テレビで見たことあるわ。ほんまにあるんや。まさかそこに、自分が犯人役で座るとは、夢にも思わへんかった。人生て、いろいろあるんやと、俺は実感した。
 しかし分からないのは、刑事が繰り返し、俺が彼女を殺ったのは、半年前やと言うてることやった。どういうことやねんと、刑事は俺に尋ねた。どういうことやと、俺も思った。
 作業棟の裏から出た死体を検死したら、半年前ぐらいに死んだものだったらしい。それは、俺が彼女と出会った頃のことやった。
 お前は死体と寝てたんかと、刑事は俺に凄んだ。凄まれても困る。
 しかしクリスマス前に提出されている退学届けは、彼女自身が学生課に持って来たんやという。判子忘れて、判子なかったらあかんと学生課のおばちゃんに言われ、彼女は判子なんか持ってきてへんと怒り、拇印ぼいんでええやろと言って、親指の指紋を残していった。それは間違いなく、本人の指紋やったというんや。
 なんで半年前に死んでる女が、拇印ぼいん捺せんねん。
 刑事はその辻褄の合わなさに、怒っていた。怒っているのではなくて、ほんまは怯えてたんかもしれへん。
 お前はなんか、この女の死について、知ってることはないかと、刑事は繰り返し俺に答えさせようとした。しかしな、知らんもんは、答えようがない。
 そうこうしてるうちに、刑事は電話やいうて呼ばれ、戻ってきたときには、顔面蒼白やった。そして、角度九十度以上の、猛烈に深いお辞儀を俺にして、申し訳ありませんでしたと言った。
 お帰りいただいて結構です。大変失礼しましたと、刑事は平謝りし、この件については記録が一切残らないと確約して、俺を車で大学まで連れて帰ってくれた。心配してくっついてきてた亨も、もちろん一緒にや。
 なんやったんや、あれは、と俺が亨に訊くと、おかんやろと言った。アキちゃんのおかんが、電話してきたんやろ。本人かどうかわからへんけど、刑事が青なるような誰かが、直に電話してきはったんちゃうか、ほんで、アキちゃん帰してやれと、言ったんちゃうか、と。
 世の中の不思議な仕組みやった。
 しかし、守屋もりやとかいう、その刑事に後日電話して、俺は彼女の実家の住所を聞いた。焼香に行きたかったからや。刑事は教えてくれた。その場で直にではないんやけど、何日かしてから、彼女の親から学校経由で、焼香に来てもらいたい旨が俺に知らされた。
 それで行ってみたんやけど、ものすごく普通の家やった。テレビで見るような、ものすごく普通のマンション。そこに両親と、なんか若干グレてるっぽい高校生の弟と、四人家族で彼女は住んでて、本人の部屋も、高校時代のまんまやという、ありきたりの女の子の部屋やった。
 一年のときはまだ、彼女はそこから大学に通ってた。建前上は、死ぬまでずっとそうやった。
 花柄の壁紙の、ベッド脇の壁に、彼女が描いた鉛筆線のスケッチが掛けてあった。俺を描いた絵やった。そういえば一年の新入生の頃、教養課程で人物デッサンの授業があって、適当な相手と組まされてお互いを描いた。その時、俺は彼女と組んだらしい。憶えてるような、憶えてないようなやった。
 その頃から、娘は本間君のことが好きやったみたいですと、彼女のお母さんは言っていた。涙を拭いながらの話で、要領を得なかったんやけど、娘が死んでから、母親は日記を読んだらしい。日記言うても携帯で書いてたブログみたいなもんらしい。せやから個人名なんかは曖昧で、誰が誰やかわからんような、十代終わりの女の子の心の日記なんやけど。
 一年のときに、組んでスケッチした相手の男の子が好きやけど、住んでる世界が違いすぎると、彼女は嘆いてたらしい。そんなことないよ、告白してみなよと、どこの誰とも知れんやつがコメントつけてたらしい。そのあと彼女は延々と悩み、絵が描けへんようになった。絵が描けへん。もう死にますと、それだけ書き残して、心の日記は終わりやった。死んだらあかんと止める者は、誰もおらんかったらしい。
 たぶん、狂言やと思われたんやろう。そんな自殺予告みたいなブチキレ日記、珍しくもない。それでいちいち捜査してたら、刑事が何人おっても足らんのです奥さんと、例の守屋刑事は済まなさそうに言うたらしい。
 薄情な世の中や。二十歳なりたての女の子が、もう死ぬ言うてんのに、誰も止めへん。死んでても、実の親でさえ、半年も気づかへん。その女に惚れてるつもりの男が、相手が実は死人やったということに、いっぺんも気づかへんかった。俺はほんまに、彼女が好きやったんやろか。鈍いというか。鬼みたいな男やで。
 遺影に写ってる彼女は、相変わらず可愛かった。そういえば、付き合ってる半年間、一枚も写真を撮らなかった。俺が撮ると、何や変なもんが写るからやったし、彼女も写真撮りたいて言わへんかった。それも変やと、なんで思わんかったんやろ。
 もし写真撮ってたら、あのはどんなふうに、写ってたんやろ。実はのけぞるようなモンが、写ったんかもしれへん。だったら、一枚も撮らんで正解やった。俺は彼女の、綺麗なとこしか知らへん。可愛いやったと、今でも思ってる。可愛かった。最後は喧嘩別れやったけど、でも、最後まで、可愛いやった。
 俺は幽霊と付き合ってたらしいと、俺は外で待ってた亨に報告した。
 ふうん、そうなんやと、亨は驚きもせずに答えた。
 俺と付き合い始めた時には、もう幽霊やったんや。一年の時から俺が好きで、部屋に俺を描いたスケッチが飾ってあったわと、なんとなく呆然と俺が話すと、亨はそこで初めて驚いたみたいやった。
 そして、なんやって、ブスだけやのうて姫カットにもモテてたんか、と言った。ブスって、誰やねん。
 亨はそのことに、ひとしきり驚いていた。意外オチやと、ぶつぶつ言っていた。最後のおまけで、アキちゃんて生きてる女には全然モテへんなと言った。余計なお世話やった。
 まあ、とにかくそれが、年明けてからこっちの、忙しく激しい一連の出来事と、新しく俺の前に現れてきた人々のあらましや。
 よく絵が仕上がったもんやと、俺は思う。自分の集中力と、創作への情熱に讃辞を送りたい。
 今年はどんな年になるんやろと、俺が思ってた時には、毛ほども想像してへんような滑り出しやった。
 もしかすると、この後の十一ヶ月ちょいも、ろくでもないんとちゃうか。亨と出会ってから、ずっとそんな調子や。こいつのせいか。それとも全部、俺のせいで、生まれつきこんなもんやったんか。
 どっちでもええわ。どうせもう、どっちのせいなんか、確かめようがない。亨はべったり俺に取り憑いていて、離れる気配もないし、俺も亨と離れる気はない。せやからどっちのせいでも、結局同じや。
「アキちゃん、用事済んだんやったら、早よ行こう。梅田の阪急の駅にある寿司屋、めっちゃ美味いで。昼飯に寿司食おう」
 にこにこして亨は作業棟を出ようと誘っていた。
 ほな僕も帰りますわと、狐男が床に置いてた書類鞄を持った。
「暁彦君、大崎先生ご依頼の絵、早いとこお願いしますよ。ラブラブもええけど、仕事やねんから。先生もお待ちかねやし。何やったら僕がご案内して、祇園のいいをご紹介しますんで、今度一杯やりましょ」
 銚子から飲む手真似をして、時代がかった丸メガネの秋尾さんはにこにこ言った。
「なに言うとんねん、この狐! アキちゃんに変な遊び教えるんやない」
 亨が目の色変えて怒鳴っていた。
「かなわんなあ、若い子はうるそうて。元気だけが取り柄やなあ、亨君は」
 あっはっはと笑って、ほなよろしゅう、と手を振ると、狐はドロンと帰っていった。もちろん歩いて出ていったんや。いちいちドロンしてたら、現代では大騒ぎやからな。狐かて今時は、スーツ着て現れ、車乗って帰るんや。
「もう、ほんま油断ならんわ。あいつ爺が老い先短いんで、転職先探しとるんちゃうか。気つけやアキちゃん。アキちゃんは外道にはモテモテなんやから」
 そういうお前に一番モテとるんやけど、外道言うていいんか、亨。
 俺はそれを口に出すかどうか、ものすごく悩んだ。なんでって、まだ、青い顔した教授が居ったからや。
「先生、まだいてはったんですか。俺、帰るんですけど、作業室の鍵閉めたいんで、出ていってもらえませんか」
 俺が頼むと、教授ははっとして我にかえったような様子でいた。
「そうかそうか、すまんな。しかし本間君はあれやな、いつ話しても口が悪いなあ」
 しみじみしたように、教授はまだ青い顔のまま言った。
「それはもうええんやけど……君は、あれか。その。男でもええんか」
 むっちゃ訊きにくそうに訊いている教授に、俺はぽかんとした。
 何言うてんねん、この人。ええわけないやろ。俺はな、女の子のほうが好きや。いや、そうやなくて、女の子が好きや。亨がたまたま男なだけや。それもどうかと思うけどな。言い訳か。実は好きなんか。男が。というか、男も。どっちでもええんか。
 自問して俺もだんだん青い顔になってきた。
「おっさん、教え子に手え出すな。誰でもええんか、おのれは。俺にも色目遣いくさって、そのうえアキちゃんにまで粉かけるんやない。頭からバリバリ食うぞ」
 亨はもう必死みたいに、その声でそう言うかと思えるような凄み方をした。お前、顔綺麗やのに性格汚いんとちゃうか。それに何言うとんねん。俺の平和やった大学生活の世界観を、些細な一言でめちゃくちゃにすんな。俺はまだ三回生やぞ。まだ一年、この教授と付き合っていかなあかんのや。
「い、いや、誰でもええわけでは。君は顔綺麗やなあと思って見てただけで、どっちかいうたら……」
「どっちか言うな!」
 どっちか言いかけた教授に、俺は怒鳴った。
「大阪!」
 そして隣にいた亨に向き直って、話の勢いで、そっちにも怒鳴った。亨はびくっと驚いていた。
「大阪行くぞ、亨。電車で行くからな。叡電で出町まで行って、そこから京阪で四条まで出て、また阪急に乗り換えやからな。迷子にならんようにちゃんと付いて来いよ」
 俺がつい命令口調で言うと、亨は素直にうんうんと真顔で頷いていた。
 この癖ぜんぜん治らへん。それでも亨は偉そうな俺に文句も言わず、時には素直だった。
「先生、妙な気起こしたら、俺、別の科に転向しますから、そのつもりで」
 指さして言い渡すと、教授は蒼白の顔でうんうんと頷いた。
 俺は全員追い出して、作業室に鍵をかけ、亨を連れて脱兎のごとく学内を通り抜けた。
 畜生、おっさん、噂はほんまやったんか。あいつは怪しいという、そんな話は学生たちが酒飲み話に一通り教員名簿をひと舐めするようなもんで、信憑性はないと思ってた。でも、火のないところに煙は立たずか。人の噂は馬鹿にはでけへん。今まで気づかへんかった俺が鈍かったんや。
 寒い。寒すぎ。鳥肌立ってくる。我慢ならんと俺がぶつぶつ言うてると、寒いんかアキちゃんと亨が猫撫で声で言い、腕を組もうとしてきた。それを、お前も寒いと思わず振り払って、むごいわアキちゃんと、亨に涙目で言われた。
 俺が悪いんか。
 そうかもしれへん。
 けどな、俺にも我慢の限界があるんや。
 この世には、まともなやつは一人もおらんのか。どいつもこいつも皆、変やで。異常すぎ。その上、まともと信じてた自分まで異常で、俺のこと嫌いなんかとめそめそ言う亨に、人目もはばからず、ごめんなごめんなと謝らされる羽目に。
 それでなんとか機嫌を直してくれた亨に、手を繋がれたのは仕方ないと妥協して、ほとんど引っ張る速さで俺はふたたび学内を駆け抜けた。こっちも必死だった。できれば誰の目にもとまらず行きたい。
 しかしもちろん、それは返って目立った。あいつは誰や、本間のツレやという話が時々聞こえた。なんでか知らんが、全身真っ白に絵の具を塗って、その上にトイレットペーパー巻いて、ミイラ男みたいになった三人組が、変な踊りを踊りながら、おおい本間のツレと、親しげに亨に呼びかけてきた。なんやねんあいつら、それ何のアートやねん。お前ら人間か。それとも人外か。どっちなんかパッと見に区別つかへん。ここも異界や。亨のほうがまだまともに見えるくらいや。
 たまたまホームに滑り込んできてた叡電にダッシュで飛び乗り、がら空きの車両に例のお婆ちゃんがいないことにホッとしながら、俺は亨と終点の出町柳を目指した。そしてそこで京阪電車に乗り換え、緑色で、ブレーキかけるとやたらとキイキイ言う車両に揺られ、四条河原町についた。
 そこは京都でいちばんの繁華街で、昼時にさしかかった街には、大勢の人が行き来していた。
 地下駅から階段上がれば、目の前は鴨川やった。川原の話をする亨を無視して橋を渡って、そこから対岸にある阪急電車の地下駅へと降りていく。薄暗い階段と地下通路には、なぜかいつも、ちょろちょろ細い水が流れていて湿っぽい。雨でも晴れでもおんなじくらい流れてる。この水どっから来てるんやろと、来るたび不思議やけど、その程度の不思議はもう、俺にとって、ものの数ではない。
 梅田行きの切符を買って、さらに地下にあるホームへ降りると、タイミングよく出るところだった特急列車の、対面式になっている席が、タイミングよくふたりぶん空いていた。
 今日はついてると思って、俺は亨とそこに座った。
 ぷしゅう、がらがらと音を立てて、小豆色の車体の扉がいっせいに閉じた。走り出したら梅田まで、半時ばかりのはずやった。なんてことない。旅行ってほどでもない。ちょっとそこまでや。
 それでも俺は緊張した。梅田行きの特急は、桂川かつらがわを越え、京都側での最後の停車駅、長岡天神ながおかてんじんを出たら、次はもう高槻たかつきまで止まらない。そこはもう大阪やった。
 実家のある嵐山にも、桂川は滔々とうとうと流れてる。渡月橋のかかる、いかにも京都の川だ。
 しかしそれが下っていく先には大阪がある。桂川はいずれ大阪の大河川、淀川と合流する。そして最終的には大阪湾に注ぐ。
 そんな基本的な地理情報は、もちろん俺でも知ってるんやけど、それを自分の目で確かめたことはなかった。二十一年間、いっぺんもない。行こうとしても、俺が乗ってると、電車が止まったりして、他にも迷惑がかって、えらいことやったし、俺は修学旅行にも行ったことがない。別に京都で良かったし、面倒くさかってん。
 せやけど、ほんまにそうやったか。ほんまは行きたかったんやないかという気がした。
 お前がおるから電車止まるわと、人に言われんのが怖かっただけや。そんなはずないと思える出来事も、人の噂になれば、まことしやかやった。本間おるから新幹線止まるわ、本間来るから雨降るわ。なんかそういう呪縛のようなもんが常にあって、しかもそれが事実やった。せやから面倒くせえし俺抜きでやってくれと、遠慮したんだか何だか、参加しないでいるうちに、気づくとひとりぼっちだった。
 それが心地いいと思ったことはない。面倒くせえし仕方ないから一人でいただけや。
 亨が俺を絶対に大阪まで連れて行くというので、心強かった。おかんがマンションに張ってるという結界を突破できんかったお前に、そんなことできるんかという論理的な考え方は、この際捨てなあかん。手を繋いで入れば通れたという、その理屈を信じている亨の言うことを、俺も信じなあかん。
 世の中、気の持ちようや。そうやなかったら、一生京都から出られへんのやで。亨が行きたいと言う大阪にも、神戸にも、もっと遠くにも、一緒に行ってやられへん。それは俺にも、寂しいと思えた。お前とあっちこっち行ってみたいな。それがどんな遠くでも、二人で行けば似たようなもんやろ。大阪でも、ローマでも。
 走り出した電車の座席は、足元から温風を吐き出していた。なんかもう、それに眠り薬でも入ってんのかというような心地よい眠気が襲ってきた。亨は疲れたんか、ふわあと欠伸して、なんや眠なってきたわアキちゃんと、俺の手を握り、肩にもたれてきた。
 やめろ亨、向かいの席の人、見てはるやないかと、青くなって向かいを見て、俺はびくっとした。
 黒いビロードの外套を着た、にこにこ顔のお婆ちゃんが、そこに座っていた。しかも二人。そっくり似たような顔で。そっくり同じ、冬枯れの裾模様の着物着て。にこにこ、ちんまりと並んで座ってた。
 あんたら双子なんか。誰やねん、もう片方。比叡山か。お友達か。実はうようよいるんか。梅田行くんか。なんで行くねん。どうせ俺らをウォッチしにきたに決まってるんや。
 亨はもう、すうすう寝息を立てていた。
 お婆ちゃん達は蜜柑みかんを出してきて、仲良くそれを剥き始め、なんでか一房、俺にもくれた。食っていいんか謎やったけど、受け取ってもうたんで、仕方なく俺はそれを食った。甘かった。
 ぐうすか寝ている亨を肩にもたれさせたまま、俺は桂川を渡り、京都を出た。なにも起きなかった。亨は眠ったままでも、ぎゅっと俺の手を掴んでいた。その温かさと、シートの温風と、がたんがたんと鳴る心地よい車輪の音とで、俺もいつの間にか眠っていた。心地よい、深い眠りだった。
 梅田と駅名を告げる声で、俺はがばっと起きた。気がつくと、車両には俺と亨しか残っていなかった。お婆ちゃん達もいなかった。車両の中は、すっからかんやった。ここが終着駅やからや。
 車両清掃をするから、全員降りろというアナウンスが流れていた。
「亨、起きろ。降りなあかんのとちゃうんか」
 俺があせって揺り起こすと、亨は呻いて、眠そうに起きた。
「なんやねん、アキちゃん、俺がせっかく気持ちよく寝てんのに……」
 目を擦りながら、亨は車窓から外を見て、いくつも並んだホームを流れていく大勢の人の群れと、その合間の線路に何台も停まっている、小豆色の列車を眺めた。
「……うわっ、梅田やん、アキちゃん。降りなあかんよ」
 俺がさっき教えてやったことを、亨は今気づいたみたいに大声で言って、繋いだ俺の手を引き、足早に車両からホームに降りた。それを待っていたみたいな素早さで、ぷしゅうと空気ポンプの音を響かせて、全ての扉が閉じた。
 梅田は大きな駅やった。高い天井から、でかい広告が、いくつもぶら下がっていた。新春の初売りを告げる、景気のええ真っ赤なポスターやった。
「大したことなかったやろ、京都出るの」
 まだ俺の手を繋いだまま、亨がちょっと得意そうに俺に訊いた。
「大したことなかったな……でも、天狗おったで。天狗っちゅうか、前に叡電で会った、あの婆さんやけどな。二人に増殖してたで」
 いつの間に、どこで降りたんか分からんお婆ちゃん達の姿を探すともなく探して、俺はだだっ広い梅田駅のホームを見渡した。そこは、知っている京都の街とは、どことなく空気が違った。港の突堤みたいに、いくつもホームが突き刺さっている端にある改札口に、ものすごい早足で人々が殺到していた。なんでみんな、そんなに急いでるんや。
「婆さん? 俺、寝てて知らんかったわ。とにかく行こか、ここに突っ立ってたら邪魔やし。ぼけっとしてたら蹴られんで、アキちゃん。ここは大阪なんやから。めちゃめちゃ速く歩かんと」
 楽しそうにそう言って、亨は俺の手を引き、改札口を目指して、めちゃめちゃ速く歩いた。
 どこへ行くんやろうかと、俺は何となく戸惑いながら付いていった。行き先を決めてない。大阪に行くって決めただけで、ちゃんと着くのか自信なかった。せやから、そっから先は決めてへんかった。
「どこ行くんや、亨」
「そんなん歩きながら適当に決めたらええねん、アキちゃん。寿司食う? それとも、やっぱり先に街見よか?」
 腹は減ってた。
 せやけど、すぐそこに、まだ見たこともない巨大な街への入り口があると知っていて、のんびり駅構内で寿司を食おうという気は、俺には全然しなかった。
 亨にはそれが分かるのか、にやにや苦笑して、俺の手を改札があるほうに引いた。
「寿司美味いのに。しゃあないなあ、お上りさんは。行こか」
 そして、何台あるねんという、横並びの改札機を通り抜けて、俺と亨は縦横無尽の人混みを縫い、階下へ降りるという、エスカレーターのところまで行った。下りだけで六基もあった。なんでそんなにエスカレーターあんねんと謎に思い、それに乗ってから、俺はその理由を悟った。
 階下に見下ろせるのは、広場のような開けた大空間だった。そこには、さっきの人混みがまだ序の口やったと思える、うようよとした人混みが蠢いていた。それが全て人間なんやということが、ぱっと見に驚きに感じられる。
「なんか祭りでもあんのか」
 深く考えず、俺は一段前に立っている亨に尋ねた。京都の街にこんなふうに人があふれるのは、祭りのある日だけのことや。祇園祭や、桜、紅葉に押し寄せる人の群れで、ほんの一日、二日、異界の蓋が開いたかのように街があふれかえる。
 眼下に近づく人の群れは、俺にはそういうもののように見えたんや。
 うっすらと微笑んだ横顔を見せて、亨は嬉しそうに、同じ人混みを見おろしていた。
「そうやなあ。毎日が、祭りみたいなもんやなあ、この街は」
 振り返って、俺を見上げ、亨はにっこりとした。綺麗な顔やった。
「どこ行こうか、アキちゃん。この街は楽しいことばっかりやで。俺がどこでも、つれてってやるわ。手えつないで、迷子にならんように、気いつけや」
 そう言って、亨は俺の手を掴んだ。
 そのままエスカレーターが尽きて、俺と亨は階下の床に降り立った。
 ここ、何階やねんと、俺は混乱して訊ねた。
 ここは地上やでと、亨は教えてきた。さっきのホームが三階で、二階分一気に降りてきた。地下は三階まである。地上は三十二階までかな。よう知らんけど、とにかく京都タワーなんかメじゃないで。どこ行く、ビルの上にある観覧車乗ろか。それとも、地下のいちばん深いとこまで、もぐってみよか。
 アキちゃんと、亨が呼びかける声が、なんとなく、うっとりと響いた。
 あんまり広すぎて、どこから行ったらいいか、わからへん。
 どこ行こうか、亨。
 綺麗に微笑んでいる亨の、のんびりと付き合ってくれる顔を見て、俺はなんとなく幸せな気分やった。
 お前と行かなあかんところが、いっぱいあって良かったな。どこへ行っても、俺には初めて見る場所や。せやから、どこでもええよ。まずはお前の好きなところから、連れて行ってみてくれ。
 そう頼むと、亨はにっこりとして、俺の手を引き、歩きはじめた。さらに地下に潜るつもりみたいやった。
 その道がどこへ続いてるのか、俺にはわからへんかった。
 それでも、亨の連れて行くところへ一緒に行くのに、不安はなかった。
 一体これから、どうなるんやろ。明日は一体、どんな日なんやろ。それは全然分からなくても、ひとつだけ確かなことがあった。
 どこへ行っても、何が起こっても、その時たぶん、俺は亨と一緒にいるやろ。それだけ分かれば、幸せでいるには充分やった。
 お前もそれで幸せなんかと、俺が亨に言葉でなく訊くと、亨は俺を見つめて、うっとりと微笑んだ。それはまるで、それで俺も幸せやと、答えてくれてるみたいやった。

《おわり》


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