SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

京都編(7)

 朝になると、俺はめちゃくちゃ落ち込んでいた。
 初夢の夢見が、今いち良くなかったせいかもしれへん。
 大学で描いている例の川原に立ってたら、真っ白い金の目の大蛇おろちが出てきて、俺を食おうとする夢やった。その蛇が恐ろしく醜悪なような、魅入られるほど美しいようなで、なんともいえずエロくさい。ちろりと時折出す舌が異様に赤いのが、やたらと目について、俺はうんうんうなされていたらしい。
 亨が明け方に俺を起こして、そう言っていた。うなされてたで、アキちゃんと言って、亨は今夜もまた裸で抱き合ったまま眠った素肌の腕で、俺の胸をやんわり抱いてきた。それが誘うようで、たまらんような気がして、殺されるとまた思った。
 昨夜は、蔵であんなことした後やったから、自重しようと俺は思ってた。言い訳かもしれへんけど、一応本当やった。
 寝入りばなにはちゃんと寝間着を着てたし、浴衣の着方がわからへんと甘えた声を出す亨にも、昨夜はちゃんと着せてやった。寒いのもあって、ひとつ布団に潜ったのが、間違いやったんか。
 俺が寝ようとすると、アキちゃん、眠らんといて、足舐めてくれる言うてたやんと、亨がひそやかな声で耳打ちしてきた。冗談やなかったんかと、俺は焦った。亨はなんでそこまで、沢山したいんやろう。
 でも、誘われるから言うて、それに付き合える自分も自分やと俺には思えた。けっこう淡泊なつもりでいたけど、そんなん嘘やったんや。ほんまは俺も性欲の権化やったんや。
 アキちゃん、その気にさせたるわと言って、にやにや布団に潜った亨に、たっぷり舐めたり吸ったりされて、それを納得させられた。もうあかん、ほんまに。
 声が漏れへんようにといって、亨は自分の口に、うちの蜻蛉とんぼの家紋の入った手ぬぐいを詰めさせた。そうまでして、やって欲しいという亨に負けて、思い切って足指を舐めてやると、亨は布団の中でのたうち回るほど身悶えた。木綿で塞がれた亨の口から、それでも苦しいみたいな喘ぎが漏れてきて、俺も理性が吹っ飛んだんかもしれへん。
 入れてくれと、布を吐き出して泣きついてきた亨に、痛いんちゃうかと一度は拒んだものの、やりたいのが本音やった。もう何ともないという亨の話を、そんなアホなとは否定できへんかった。
 でも嘘でなく、亨は痛がりはしなかった。どうやって慣らすのか、亨は俺に教えた。それに萎えるとは、もう全然思えなかった。むしろヤバい。焦らされたように亨が身悶えるのに、興奮してくる。
 やっと押し入れて、夢中でふけりだす頃合いに、亨は爪先で俺のあごを撫でてきて、舐めろというように誘った。普通そんなもん嫌なんとちゃうか。でも、半時ばかり前に、白足袋から剥いてやった亨の、やけに真っ白いような足は綺麗で、舐めろと求められても嫌ではなかった。
 なんか危ない陶酔感がある。
 なんでこんなことやってるんやろと、頭の隅にでも冷静な自分を残そうとしたけど、仰け反って悶える亨の、声を押し殺して、汗をかいた顔を見てたら、そういうのも全部どこかへ吹き飛んでいた。亨は堪えきれへんかったのか、また自分で手拭いを口に含んだ。それがまた、やらしい気がして、背筋がぞくっとする。
 足は弱いという、亨の自己申告は、嘘やない。むちゃくちゃ気持ち良さそうに、亨は早々とイった。その体の中に自分のを入れてることに、俺は勝ったような気がしていた。
 誰に。
 たぶん、亨が電話してた、どんなやつかも知らん相手に。
 俺のほうが、亨をもっと気持ちよくしてやれる。俺がただ入れるだけで気持ちいいって、亨はいつも言ってた。そのうえ足まで舐めてやるんやから、亨は満足するやろ。俺ひとりで満足する。ろくにたへんような死にかけのヘタレと浮気したりせえへん。
 亨は俺が一回やる間に、二回もイった。最後のほうはほとんど、正気じゃないような悶えかたやった。そこまでこいつを、気持ちよくさせてやれるやつが、俺のほかにいるわけない。亨にとって俺は、特別な存在のはずや。
 そう思って悦んでる自分に気がつくと、ものすごい自己嫌悪がした。
 俺は何で、こんな嫌な奴なんやろ。そんな俺に、亨はほんまに惚れてるんやろかと、また心配になってきて、頭がくらくらする。
 それでも亨は、終わってうっとりしてる所に、可哀想に思って、口に入れた布をとってやると、微笑んで、大好きやアキちゃんと言った。どことなく枯れたような声で。俺にはそれが、堪らんかった。
 早く帰って、絵、描きたい。亨の絵を。川辺に立って、こっちに微笑みかけてる顔を。
 うまく言葉にならん自分の感情を、吐き出したかった。
 それを亨に見せたら、分かってもらえるかもしれへん。俺がお前を、どう思ってるか。
 だから帰らなあかんと、決心がついた。
 それに帰れば、いつでもそうしたい時に、亨を抱いてやれる。こいつが俺を、欲しがった時に。俺がこいつを、欲しがった時に。
 だけど、そんなので、ほんまにええのか。俺は亨がどこの誰かもまだ知らへん。鬼か蛇かもしれへんで。そんなのに入れあげて、実家の正月も放り出して、とっとと逃げようっていうんか。
 そんなん、許さへんえ。
 怖い顔して、そう言うおかんが想像ついて、俺は結局それに落ち込んでるのだった。
 なんかもう、ボロッボロやな、俺。この上なく格好悪いわ。そういう自分が、嫌でたまらへん。
 そう思って朝飯食ってる俺は、果てしなく暗かったようで、おかんも亨も、なんとなく引いていた。
「どないしたんや、アキちゃん。青い顔して、元気もないわ。疲れたんか。お腹でも痛いんか」
 おかんは心配そうに訊いてきた。
「いや、なんともない。それより俺、おかんに話があるねん。今年は悪いけど、四日には出町に戻ろうと思うんや。大学戻って、例の絵を仕上げたいねん」
 味噌汁を飲みかけてたおかんは、思考停止、みたいな顔をした。
 嘘ついた訳ではないのに、俺は後ろめたかった。絵を描きたいんが先か、亨を抱きたいんが先か、分からへんかった。どっちにしろ俺は今、亨に夢中らしい。色恋にかまけて、この家の人間としての仕事を、放り出そうとしてる。おかんはそれを見抜くかもしれへん。
 今度はお客さん扱いでは済まず、二度と敷居をまたぐなと、言うかもしれへん。数は減っても、まだまだ年始客は来るやろし、その面々に、跡取り息子はどこいったんやと訊かれ、おかんは情けなくて、むしゃくしゃするんやないやろか。なんでお前は、家を継げんのかと。
「例の絵って、うちが頼んだ、大崎先生にさしあげる絵のことやろか」
 おかんは、きょとんとしたまま訊いてきた。
 俺は頷いた。おかんはそれに、にっこりした。
「ほんなら、ちゃんと描いてるんやね。偉いわ、アキちゃん。おきばりやす」
 機嫌良く言って、おかんは赤漆の汁椀をあげた。それは、おかんが子供の頃からこの家で使っていたという椀で、底には黒い漆で、トヨちゃんと描いてある。
 それが、おかんの名前や。秋津登与あきつとよ。秋津というのは蜻蛉とんぼの別名で、そやからうちの家紋が蜻蛉とんぼやねん。
 日本は蜻蛉とんぼの国なんやで、アキちゃんと、昔おかんが教えてくれた。秋津島あきつしまいうのや。うちらの家は、大げさに言うたら、この国を守るためにあるのやで、と。
 天地あめつちは、アキちゃんにも、そのための力を授けてくれてはる。あんたがその気になったら、秋津の姓を名乗ってもええんや。それがどうしても嫌やったら、本間暁彦のままでおり。血筋やからいうたかて、嫌々やらなあかんような、そんな時代やないんやから。みんなも秋津の家のことなんて、もう忘れてしもたんやないやろか。
 おかんはそう言って笑い、俺をいつも甘やかして好き勝手にさせていたが、それでも人に頼まれれば、豊作のために舞ってやり、何やら難しげな顔で現れた政治家のおっさんが選挙で勝てるようにも、出し惜しみなく舞ってやっていた。
 そんなおかんのことを、人はお屋敷の登与様と崇めていた。おかんは芋の煮えたもご存じないおひいさんやけど、それはおかんがほんまのおひいさんやったからやないやろか。俺にはそんな気がする。
 せやけど秋津の家も登与ちゃんの代で終わりなんやろかと、誰かが嘆いていたのを夜中に聞いたことがある。子供の頃やったろうか。子供部屋のはりの上から、時には欄間らんまの猿が、それを喋ってたような。
 俺には子供の頃から、友達には見えんものが見える時があって、それが怖かった。小学校の教室の、空いているはずの席に、誰やか名前の知れんやつが座っているのが見えたり、飼育小屋の池の亀が、夕方から雨じゃ、はよお帰りと教えてきたりした。
 そんなやつは、頭が変なんや。そんなやつ、他にはおらへんかった。それに気づくと、俺は自分の中に籠もるようになり、人が見ないものを何とか自分も見ないようにしようとした。そうするうちに、ほんまに見えんようになってきて、俺は安心したが、結局それは、一生俺が本間暁彦として生きていくということやった。
 別にええよ、それで。そのほうが、まともやから。
 そう居直っていたけど、おかんががっかりしていることは、肌で感じた。この家が、がっかりしていることも。お屋敷の暁彦様は、どうもぼんくららしいと、辺りの連中が噂しているのも、耳に届いた。それは実在してる生身の人間の話す声だったからだ。
 なんで、やつらは、俺が人には見えんものを見るからといって、化け物扱いしておきながら、それが見えんようになったといって、馬鹿にするんやろうか。どうしたらいいか、わからへん。どうすればええんや。俺は寂しい。
 そんなような話を、おかんにはしたことはない。なのに、亨には話した気がする。最初の夜に、めちゃめちゃに酔っぱらって。こいつはそれを、にこにこ聞いていた。それで俺と朝まで一緒にいてくれてん。そういう亨を、おかんより好きやったらあかんやろうか。
「大崎先生がな、アキちゃんの絵を見てくれはって、力があるて言うてはったわ。登与の舞いによう似てるて。それで、うち、嬉しなってしもて。ご贔屓ひいきにて、言うてしもてん。そしたら先生が、どれ一枚描いてくれて言わはってなあ。まさか、できまへんとはよう言われへん。それで怖々、アキちゃんに頼んだんえ」
 おかんはうきうきと話し、それから漬け物を口に入れて、かりかり噛んだ。その話に、俺は呆れた。
「なにが怖々やねん、おかん。ものすごい強制的やったで」
 いきなり電話してきて、描け言うたんやないか。あんたもそろそろ大人やし、親のすねかじっとらんと、家のために働いてもええころや、って。
「あと、どのくらいで仕上がるんや。大崎先生も楽しみにしてくれてはる」
 おかんは全然聞いてなかった。俺は苦笑した。
「わからへんけど、うちの松が取れる頃には何とかなるかな」
 それも亨しだいというか、俺の自制心しだいやけど。だってこいつが我慢するわけあらへん。振り捨てて大学行けるかどうかや。
「そうか。いやあ、楽しみやわあ、アキちゃんの絵。どんなんやろか」
 おかんは嬉しそうに言い、食事に戻ったが、俺はやっと、我に返っていた。
 そうや。人にやる絵なんやった。おかんもそれを見る。そんなもんに亨を描いて、変やと思われへんやろか。
 それはもちろん変だったが、とにかく描きたいもんは、どうしようもない。他のものとして、あの絵を仕上げるのは、嘘やと思えたし、たぶん俺にはもう無理やった。今は他に描きたいもんがない。
 なんで、そんなこと、もっと早くに悩まへんかったんやろ。おかしいわ、俺。どうかしてる。
「アキちゃん、食べたらちょっと、うちの部屋へおいで。うちも話があります」
「なんや。見合いの話やったら、俺は嫌やで」
 俺に見合いさせんのは、いつものおかんの発作やけど、会って断るだけでも、今はあかんで。
 先回りして断った俺の話に、黙々と飯を食っていた亨が、げほげほとむせていた。
「なんでやのん。どこに良縁が転がってるか、わからへんやないの。ひとりでは生きていかれへんえ。跡取りかて仕込まなあかんのやし」
「そんなん分かってるけど、おかんに探してもらわんでも、自分で探すわ」
 俺の隣で、顔を背けて茶を飲んでいる亨が、どんなつらして聞いているのか、ちょっとばかり怖かった。
「そうや。その話どす」
 ぴしゃんと死刑宣告みたいに、おかんはきっぱりと言って、箸を置いた。
 ごくりと俺の喉が鳴った。亨が、堪えてたらしい咳を、堪えられんようになったのか、とどめに一回だけした。
「とにかく、それ、食べてしまいなはれ。亨ちゃん、あんたは、客間で待っておいで」
 おかんが優しくそう指図すると、亨はなんとなく青い顔して、こくりと頷いていた。こいつが素直にいうこと聞くなんて、さすがはおかんと言うべきか。
 おかんは特別なにか強いことを言うわけではないのに、人を使うのが上手くて、おかんの客としてやってくる偉いおっさんたちも、結局は下手におだてるおかんの口車に乗って、なんでもしてくれるような気の毒な連中や。俺に絵を依頼した大崎先生なる爺さんも、本音では、おかんが喜ぶと思って、欲しくもない俺の絵を買おうというんではないかと、俺は疑っていた。
 そういう俺も、おかんに指図されたら、ぐうの音も出えへん。食えと言われて、食欲もないのに、なにを食ったかわからんような案配で、純和風の朝飯を平らげた。
 その俺とおかんが、母屋の奥にあるおかんの部屋へ行くのを見送る亨は、この上なく哀れっぽかった。まるで俺がいない間に、自分は肉屋に売られるみたいやった。
 アキちゃんと、亨は物言いたげに俺の名を呼んだが、結局それ以上はなにも言わず、客間へどうぞとすすめるおかんの言う通りに、とぼとぼ離れに戻っていった。
「アキちゃん、あの子はどこで拾ったんや」
 すたすたと姿勢よく廊下の先を行きながら、おかんは世間話みたいに訊ねてきた。
 嘘ついてもしゃあない。俺は居直るしかなくて、ホテルのバーで会ったんやと正直に吐いた。
「そうか。あんたは、あの子は変やと、思わへんのんか」
 ちらりと肩越しにふりかえって俺を見る黒い裾模様の着物のおかんは、髪に挿した鶴に梅のかんざしが艶やかで、綺麗だった。
「どこか変やろか」
 俺はとぼけた。真顔で。
 確かに亨は変やと思うけど。別にええやん。そんなん、おかんに関係あらへん。そういう気がして、そう答えただけで、俺は嘘を言ったつもりはなかった。
 聞いたおかんは向き直りざま、にこりとした。いや、ニヤリとしたんかもしれへん。顔が可愛いから分からへん。でも、うちのおかんは案外、怖い女なんやないかと、その瞬間は思えた。
 おかんはその後、結局なんにも話を継がず、部屋に着くと床の間を背にした上座に座って、俺にも、どうぞお座りやすと下座をすすめた。
「アキちゃん、あんたももう子供やないわ」
 おかんは、ずばり言うけどみたいな口調で、その通り、ずばっと言った。その言葉が自分の頭に突き刺さった気がして、俺はくらっと来た。座ってなかったら、絶対よろけてる。おかんが何のことを言うてんのか、直感的にわかったんや。
「ほんまに、あんたは小さいころから、いい子みたいやのに、うちの言うこと全然きかへんと、悪さばっかりして。ほんまにもう、かなわん、悪い子ぉやわ、アキちゃん」
 切々とおかんに愚痴られて、俺は絶句していた。そういう時になんか丁度いいリアクションあったら教えてくれって感じや。土下座したいというか、泣きたいというか、何しても無駄みたいな、気絶寸前五秒前って感じやったで。
「そういうことなら、あんたももう、自分がどういう人間か、知っとかなあきまへん。普通の人のふりして、生きていくんやないんやったら、今さらながらに、それ相応の修行も積まなあかん」
 修行ってなに、おかん。修行って。修行ってなんや。俺は頭ん中で悲鳴みたいにぐるぐる絶叫してたけど、それも口を突いては出えへんかった。たぶん怖すぎたんや。おかん、朝から何言うてんねんと思えて。
「なんでなん、アキちゃん。なんで今さらそんなんやの。あんたは何から何までお父さんにそっくりやな。遅いんどす、いちいち」
 ちょっと悔やんだふうに、おかんはここには居ない誰かを責める口調で可愛く愚痴り、それから何かを差し招くような仕草をした。すると誰の気配もしない廊下から、唐突に、はあい奥様ただ今と答える女の声がした。
 すうっとふすまが開き、俺は座ったまま飛び上がりそうになった。見たこともない女の子が立っていた。赤い椿つばきの柄の白い着物着て。肩を過ぎたあたりで切りそろえた黒髪がまっすぐで、俺は一瞬、この前別れたばかりの女が、着物着て現れたんかと思った。
 でも、その女の子はもっと活発そうやったし、年ももうちょっと若かった。見たとこ十七歳かそこらで、古いアルバムらしい、赤い革表紙の真四角の本を捧げ持っていた。
まいちゃん、お疲れさんどす。うちの息子に見せたっておくれやす」
 誰やねん、このと、唖然と見上げる俺に、舞ちゃんなる女の子は、にっこりと笑って隣に座り、アルバムを開いてみせた。それでも俺はなんとなく、彼女のにこやかな顔から目が離せなかった。めちゃめちゃ可愛かったからや。今まで、おかんは何度も発作みたいに、俺に見合い写真を押しつけてきたが、その中にはこんなはおらへんかった。
 もしもっと前に、このが晴れ着着た写真をおかんが持ち出して、お見合いしなはれ、ちょっと会って美味しいもん食べてくるだけでええんやでと言ったら、案外俺は、うんと言ったかもしれへんという、嫌な予感がした。
 と、亨、と、俺は客間にいるあいつに呼びかけた。ごめん。決して悪気はないねん。でも、しゃあないやろ、めちゃめちゃ可愛いねんで、この
「アキちゃん、どしたん。見忘れたんか、舞ちゃんやで。小さいころは、よう一緒に遊んでたのに」
 おかんは俺の薄情を責める口調やった。
「薄情どすなあ、若様」
 正座してる俺のももをつねるかのような口ぶりで、椿柄の女の子は言った。
 知らんで、俺。こんな。それに何でか、いやな汗出てきた。
「……なんやったら、今からでも遅うないえ、アキちゃん。こうなったらもう、舞でもええのや。どこの馬の骨ともしれんようなのよりは」
「いや、なんやって。なんの話やねん、おかん」
 にこにこしてる女ふたりに睨め付けられて、俺は思わず後じさって逃げそうになった。
 亨。亨も連れてくればよかった。まずいんやないか、今の俺、相当ヤバいんちゃうか、状況的に。
 俺以外に気を向けんといてくれって、さんざん泣きついたくせに、お前はこれかみたいなのを亨が見たら、あいつはどう思うやろ。怒るんやったら、まだええよ。でも、なんか、あいつは、何も言わんと、ふっと居なくなりそうで、怖いんや。どこも行かんといてくれ、亨。ほんまにごめん。俺もう、このの顔は見ないから。不実な俺を堪忍してくれ。
 そう思って、それでも舞ちゃんの顔をつい見ると、さっきまであった可愛い顔が、なくなっていた。のっぺらぼうやねん。
 俺は腰抜けそうになって、さすがに正座を崩した。おかんもびっくりしたらしく、まあと小さく叫んだ。
「いややわ、奥様。うちの顔がのうなってしもた」
 白い両手で顔を撫でて、口もないのに、舞ちゃんは喋っていた。それはどうも、音に聞こえる声ではないらしかった。俺は顔面蒼白でそれを見た。ざあっと血が下がるのが、自分でもわかった。
「なんてことするんや、アキちゃん。可哀想やないの」
 咎めるおかんの声に、俺は内心、だらだら脂汗をかいた。舞ちゃんは床にアルバムを放り出して、顔を覆ってうな垂れ、めそめそ泣き声をあげていた。
「泣かんでええよ、舞ちゃん。うちが後で治してあげますよって。お庭へ行っとり」
 おかんに慰められ、舞ちゃんは哀れっぽく頷いて、とたとたと小走りに、おかんの部屋の座敷を出ていった。襖も開けずに。その、古びて鈍色になった金箔の襖を、破りもせずに通り抜けていき、すうっと消えてしまった。
 あんぐりとして、俺はそれを見送った。
「悪さしたらあかん、アキちゃん」
 めっ、と、おかんは叱りつける声で俺を咎めた。あんぐりしたまま、俺はおかんの困った子やという顔と向き合った。
「な……なんや、あれ、おかん」
「なんやや、あらしまへん。舞はうちのしきどす。あんたの好きずきで、勝手なことせんといておくれやす。そういうのは自分のにだけにしなはれ。まったく我が子ながら躾がなってないわ。お恥ずかしいこと。うちはあんたを甘やかしすぎたんやなあ」
 くよくよ言って、おかんは眉間に皺を寄せた痛恨の表情で、床に開いたまま落とされていたアルバムを指さした。それでやっと、俺はそこに貼られていた、一枚の大きな白黒の写真に目を向けた。
 それは、昔の軍人の写真やった。日本史の資料集とかに載ってるようなやつや。白黒やからわからへんけど、たぶん赤かと思える、豪華に束ねられたビロードの幕を背景に、サーベルを床に立て、その柄に両手を乗せた軍服の若い男が、ぴんと背筋も正しく椅子に腰掛けて、どこか遠くを見つめる目をしていた。いかにも時代がかった写真やった。
 その男の顔が、びっくりするくらい自分に似てることに、俺は気づいて、軽く息を呑んだ。
「あんたのお父さんどす」
 おかんは、けろりとしてそう教えてきた。
 これが、鞍馬のカラス天狗か。どう見ても、昔の軍人やで。海軍の、白い軍服着て、肩章に金モールついてる、まあまあ偉い人っぽいで。やっぱり人間やったんやないか、おかんと、俺は一瞬ツッコミかけたが、すぐに気づいた。計算が、めちゃめちゃ合わないことに。
 この人、どう見ても旧日本軍の人やで。それって、いつの話なん。俺が二十一やから、おかんが妊娠してたんは、二十二年前やろ。戦争終わったんは、六十年以上も昔なんやで。
 それとも、これ、コスプレか。俺のおとんは、そういう人やったんか。
 一瞬、そんな目眩がしたけど、アルバムの写真は、ほんまに古いもんに見えた。こころもち黄ばんで、色も褪せてきていて、写っている男の輪郭は、淡くぼやけてきていた。
「見たら、閉じといておくれやす。昔の写真やから、光に弱いんどす。それ一枚しかないんや」
 心なしか、急かすように、やんわりと言って、おかんは俺にアルバムを閉じさせた。そして、軽くため息をもらした。
「ほな、何から話そうか。あんたが聞きたいことからにしよか、アキちゃん」
「……突然すぎて、何から訊いてええか、わからへんわ」
 この人、カラス天狗ちゃうやんと訊きそうな無粋な自分を感じて、俺はおかんに話を任せた。
「あんたのお父さんはな、大きい声では言われへんけど……うちの兄やってん」
 俺はまた、内臓を吐きそうになった。今度は大腸まで余裕やで。
 なに言うてんの、おかん。確かにカラス天狗のほうがましやで、それは。
「お兄ちゃんはな、ほんまに惚れ惚れするほど、男前でした。例えやのうて、うちはお兄ちゃんに惚れてたんや。でもまさか、向こうもそうとは、夢にも思わへんかった。でもなあ、いよいよ出征という時になってな、暑い夏やったわ。お兄ちゃんは、うちが好きやと言わはるねん。えらいことやったわ、貴船の神様もご笑覧やったやろ。せやけど、お兄ちゃんは、もう死ぬお覚悟やったんえ。そういう時代やってん、アキちゃん」
 おかん、いったい何歳やねんと、俺はぼんやりした頭ん中で、ツッコミ入れてた。でもそれは、どうでもええことやったやろうか。無茶苦茶な点が多すぎて、どこからつっこんだらええか、わからへん。
「皇国のために戦うけど、死ぬときはお前のためや言うてくれはってな。それでうちも、神罰当たって死んでもええわと思たんや。おかしいやろか、アキちゃん。それはあんたにとって、恥やろか」
 恥やろか、って、おかん。恥かどうかもそうやけど、大丈夫なんか、俺は。おかんと、さっきの写真のサーベル男は、ほんまに実の兄妹なんか。出征って、それ、第二次世界大戦のことか。
「結局、ほんまにお兄ちゃんは外つ国とつくにの、海神わだつみのお気に召したようでな、帰ってきはらへんかった。うちは悲しかったけど、仕方ありまへん。それに泣いたのは、うちだけやあらへん。そういう世の中やったんえ」
「おかん、その話はいくらなんでも、変やわ。おかんがその、貴船でどうのこうの……それはいくら最近でも、1945年とかやろ。俺も学校で日本史は習ったで。俺は今年、二十一なんやで。その、四十年くらいの時間は、どないなってんの」
 俺は思いきって訊いた。おかんが、ちょっと頭変なんは、昔から覚悟してた。それが、実際どのくらい変なんかを、確かめる勇気はなかったけど、こういう話になったからには、いい機会やと思った。話題も話題やし、訊かずにおれへん。
「産むの、我慢してましてん」
 おかんは、にこりとして、けろっと言った。ああ、そうなんやと、素直に相づち打ちたくなるような、あっけらかんとした告白っぷりやった。
「我慢て……」
 俺は呆然と、そう繰り返しただけで、精一杯の気分やった。
「だって、人に知れたら、堕ろせ言われるやろ。うちは、それは嫌やったんや。大好きなお兄ちゃんの子や、なんとしても、産みたかってん。それでな、四十年も経ったし、偉い御方たちも、もはや戦後やない言うてはったし、もうばれへんやろと思て、あんたを産んだんや。それであんたは、ひとりっ子やねん」
 ひとりっ子部分はどうでもええやん、おかん。それ全然、重要な話ちゃうで。なんでそれが結論みたいになってんねん。兄弟おらんで堪忍えという顔つきでいるおかんに、俺は愕然としてきた。
「おかん……何歳やねん」
「うちは十八どす」
 にっこり艶やかに笑って、いつも通り答えるおかんに、俺は身悶えたかった。そうやないねん、ほんまは何歳かっていう話やんか。おかんもそれを察してはいるらしく、多分ものすごい情けない顔でいる俺を見て、くすくすと笑った。
「ほんまにな、十八のつもりやねんで、アキちゃん。お兄ちゃんとお別れしたとき、うちは十八やったんや。親戚筋の殿方に、お嫁入りも決まってましてん。せやけど、その許嫁も戦争で死んでしまわはった。それでうちが独身のまま、秋津の家を継いだんどす。もうずっと昔の話やけど、もしお兄ちゃんが何かの拍子に、ふっと戻ってきはったら、あの時のままのうちでお出迎えしたいと思えてな。トシとるの、忘れてしもたわ」
 けろりと言って、ちょっと寂しげに笑うおかんの顔は、俺を見つめて愛しそうでいる亨の笑みと、どこか似ていた。
 俺がなんで、あいつを一目見て好きやったか、それはあまりに無茶苦茶な話やと情けなく思えた。俺はどこまで、マザコンなんやろ。亨にバレたら、それはさすがに怒られるやろか。
 怒ってくれたらええのにと、俺には思えた。アキちゃん、むごいわといって、あいつが怒ったら、俺もごめんと言える。俺が一番好きなのは、お前なんやから、許してくれって。
「さっきの……あのサーベル男な。俺の、おとんやて言う。あいつは……おかん、なんて名前なんや」
 俺は怖々訊ねた。おかんは、にっこり首をかしげた。言おうか言うまいか、迷っているような、躊躇ためらい顔やった。
 しかし、おかんは、結局俺に教えた。こっそり秘密を囁くみたいな小声で。
秋津暁彦あきつあきひこや、アキちゃん」
「……それは、あんまりやで、おかん。無茶苦茶すぎる話や」
 やっぱりと思える怖い答えを返されて、俺は内心、泣きそうやった。
「俺は、いったい、誰やねん。おかんの、何やねん。なんで本間さんに名前借りたんや。俺では足りんということか。その名前で生きていくには、不足があるって言いたいんか」
「不足はあらしまへんえ。あんたは、お兄ちゃんの生まれ変わりか、それ以上やわ。足りひんのは、覚悟やないか。うちの子やという、秋津の家を継ぐんやていう、その力と生きていく覚悟が、あんたにはないんとちがうやろか」
 優しい、厳しい目で、おかんは俺を見ていた。
「うちのせいや、アキちゃん。うちにはあんたが、可愛い可愛いてな、お友達と違うのは嫌や言うて泣くのが、可哀想て、しかたなかったんどす。女親だけやと、男の子はあかんのやろか。どうやって戦ったらええか、あんたに教えてやられへんかった」
 そうやな。俺はナヨい男やで。おかんに甘やかされて育ったボンボンで、何かいうたら、すぐ逃げる。そういう、根性無しのアホやで。
 せやけど、もう、それがみんな、おかんのせいやて言うてもいいような年やないやろ。俺はもう、大人なんやで。マザコンのぼんはもう、卒業せなあかん。
「おかん。別れた時、サーベル男は何歳やった」
 俺は何となく、おかんの答えを予感しつつ訊いた。ものごとには不思議な符合がある。運命的な。俺はそれを昔から知ってた。見えへんようになったつもりの、諸々の怪しいものも、ほんまは心のどこかで見えていた。おかんが言う、俺に力を授けたという天地あめつちは、ほんまはずっと俺を許しはしてへんかった。
 明け方に見る夢の中で、ふっと街ですれ違う影のない誰かの微笑の、誘うような何かで、俺に知らせつづけてた。お前は普通の人間やない。普通の人間みたいには、生きていかれへん。覚悟を決めろ。吉と出るか凶と出るか、それはわからへん。それでも逃げ場はないんやで、と。
「二十一やったわ、アキちゃん」
 教えてくれたおかんに、そうか、やっぱりなと俺は答えた。せやけど俺の一生は、その男の続きやないで。ほかのやつが途中まで描いた絵の、続きを描くために生まれてきたんやないんや。俺には俺の、描きたい絵がある。それを描くんやなかったら、生きてる意味はないねん。
 俺がそう言い渡すと、おかんは、はぁ、と寂しそうにため息ついて、とうとう、お父さんのお墓を作ってさしあげんとあかんなあ。鞍馬山のどこかがええやろか、それとも、うちの庭に立派な石で、作ってあげるのがええやろかと言った。
「好きにしたらええわ、おかん。俺は知らん。そんな無責任な男のことなんて」
「あらまあ、アキちゃん。そんな薄情な。そういうあんたは、責任取れるて言うんか。自分が何者なんかもわからんまま、相手がどこのどなたともよう知らんと、一丁前の悪さしてるくせに」
 からかうように、おかんはくすくす笑って言った。
 しかし俺を馬鹿にしてるわけではなかった。
 おかんは今でも、俺が可愛い可愛いて、仕方ないという顔をしてた。俺にはそれが、恥ずかしかった。小6まで俺は、大人になったらおかんと結婚するんやて、普通に信じてた。それが変やと気づいてからは、信じてることを他人に言うのをやめた。
 それが現実には無理なことやと腑に落ちたんは、たぶん今さっきや。おかんが惚れてんのは、あのサーベル男で、薄情にもそいつは、外つ国とつくに海神わだつみと浮気してしもて、家に戻らへんのやって。可哀想なおかんは、それでも信じて待っている。いつかそいつが、帰ってくると。
 そんなら俺は別にどうでもええやん。家におらんでも。本間暁彦でも。秋津暁彦でも。どっちでもええんやないか。関係あらへん。おかんにとって俺は、昔撮った写真みたいなもんや。いつか消える面影の、その身代わりとして、年ごとに似てくるだけの、可愛い可愛いボンボンなんや。
 だけど亨は、俺がめちゃめちゃ好きなんやって。他の誰でもない、俺が好きなんやで。そういうやつが、どこのどなたでも、俺には関係ないわ。関係ない。だってあいつがおらんようになったら、俺はまた、ひとりぼっちやないか。
「亨と帰るわ、おかん。悪いな、家のことみんな押しつけて、なんの役にも立たへん、ぼんくら息子で」
「そないな嫌なこと言うたらあかんえ。あんたは出来もよろしいし、なにより親孝行やで。ちゃんとうちが頼んだ絵を描いてくれてるんやろ。あんたがどないな絵を描く男か、うちにも見せておくれやす」
 にこやかに言って、おかんは心持ち、俺に頭をさげた。
「そうやな、おかん。記念すべき一枚目や。手抜きはせえへん」
 俺は素直に頷いて、足の痺れんうちにと思って、立ち上がった。実家を出てから、すっかり怠けて、正座のしかたも忘れたわ。それでも忘れたふりしてるだけなんやろけど、とにかく忘れた。俺は現代人なんやで。旧家のボンボン暮らしには、ほんまにもう飽き飽きしたわ。
「電話すんのも、二週間に一回くらいにしよか、おかん」
「せやなあ、寂しいけど、アキちゃんももう大人なんやもんなあ。うちも我慢します。でも何かあったら、いつでも何でも相談してええんやで。あんたの面倒みるのだけが、うちの生き甲斐なんやから」
 おかんは、それだけは言っとかなあかんというような、べったり甘い口調やった。
 ああ、ほんまにな、これがあかんのやって。おかんの悪い癖や。これが俺をマザコンにするんや。振り切って出ていくのも一苦労やで。亨といい、おかんといい。
「絵が仕上がったら、電話するわ。ほな帰るしな、なんかあったら電話してくれ」
 つい、いつもの口調で別れを告げて、俺はそれは何か変やろと気づいた。俺はこの家を出てくんとちがうんか。
 でも、もう言ってもうたもんは、今さら仕方ない。
 そして座敷を出ようとして、床に落ちてるアルバムが、ふと気になった。そこで時の波に洗われて、消え失せかけてたサーベル男のことが。
「おかん、あのな、この写真やけど、借りていってもええか。パソコンで取り込んで、撮った時みたいに戻したやつを、焼き増ししといたるわ」
「そんなことできるん? しくじって、消えてしもたりせえへんか」
「せえへんよ。そんな難しい事やないねん」
 出町柳のマンションに帰れば、スキャナもあるし、画像処理のソフトもあるで。そう言おうとしたけど、おかんは文明の利器にはまったく疎い。携帯電話もまともに使われへん。デジカメだって、もしかしたら存在自体知らへん。俺に昔、誕生日プレゼントでプレステ買うてくれた時も、デパートの外商のすすめるまま買っただけで、アキちゃんこれレコードか言うてた。そんなおかんが俺は可愛い。それはもうどうしようもない。
「大丈夫やから、おかん。俺に任せといたらええねん。できたら速達で送るし、待っといて」
「ほな、そうしよか。アキちゃんがそう言うんやったら……」
 それでも心配そうにしているおかんから、古いアルバムをふんだくって、俺はふすまをがらりと開けた。そしたらそこにはまだ、めそめそしている顔のない美少女がちんまりと座って待っていて、俺はのけぞりかけた。
「ご……ごめんな、舞ちゃん」
 思わず謝ると、舞ちゃんは座り込んだまま、しなを作って、儚げに俺を見上げた。
「また近々帰ってきておくれやす、若様。うちの顔がお嫌なんやったら、このままのっぺらぼうでええから」
「いや、嫌いなんやないで、お前は可愛いよ」
 可愛かったよ、と言うか。
 たぶん、縋り付く風情で俺を見上げてるらしい、舞ちゃんの何もない顔と、俺は見つめ合った。たぶんこのへんが目やろうという辺りと。舞ちゃんはそれに、頬を赤らめていた。どんな顔してんねん今。
「可愛いやなんて、うち恥ずかしい。でも嬉しおす。うち、ほんまはずっと若様のこと好きやってん。何やったら、うちも出町柳に連れてっておくれやす。いろいろお役に立てますえ」
 すりすり足元に寄ってきて、舞ちゃんは俺をかき口説いた。ヤバいってそれは。顔無くて良かったで、ほんまに。もろに俺の好みのタイプやったし、それに着物姿なんやもん。
「いや、それはまずいよ。ほんまにまずいから、舞ちゃん」
「なんでどす。若様はうちがお嫌いなんや。どうなってもええとお思いなんや」
「いや、そんなことない。嫌いやないけど……でもちょっと待ってくれ、待っ」
 気づくと脚にがっちり抱きついている舞ちゃんを、引き剥がそうとして、俺は気づいた。廊下の向こうに、なんともいえん顔した亨が突っ立っているのを。
 げふっと喉が鳴ったような気がした。亨が、泣こうか、怒ろうか、みたいな表情やったからや。
「アキちゃん……なにやってんの」
 ぼんやりとしたような声で、亨が訊いてきた。
 なにって、何やってるんや俺は。
「なんもしてへん、亨。お前んとこに戻ろうとしてたんや」
 きっぱり答えたつもりが、俺の声は明らかに上ずっていた。舞ちゃんが全然離れてくれへんかったからや。
「アキちゃん……そんな顔もないような女のどこがええんや。体が女やったら顔なんかのうてもええんか」
 亨はどうも、怒るほうに転んだようやった。わなわなしながら、そこはかとなく怖い形相で、それでもまだ泣きそうなような顔はして、遠目から睨んだまま俺をなじった。
「そんなん当たり前やわ、亨ちゃん。うちの息子は元々そんな趣味はあらしまへんえ。あんたも悔しかったら、女になってみなはれ。でけへんのか」
 ひょっこり座敷から顔出したおかんが、亨にそう言った。亨はそれに、見るからにガーンみたいなリアクションやった。
「できんのやない! やりかた忘れただけや。それにアキちゃんは、そんなん関係ないて言うてます。俺が好きやって言うてたもん」
「ああ……そうなんやったら、まあよろし。せっかくうちが、変転のこつを教えてやろかと思うてたのに。残念どすなあ」
 わざとらしく首をふりつつ、おかんは座敷に戻ろうという素振りを見せた。
 それに亨は、さらにガーンみたいなリアクションやった。
「やりかた知ってんのか、おかん!」
「誰があんたのおかんや。せめてお母様と呼びなはれ、お母様と!」
「お母様!!」
 恥はないのか、亨は命令されたとおりに呼んでた。
 俺はなんか、その有様に、気が遠くなってきた。
 たったの今さっき俺を激しく袖にしたおかんが、亨と嫁姑状態でぎゃあぎゃあ言い、それを呆然と見てる俺は、もとカラス天狗のサーベル男の写真を抱きながら、顔のない美少女に腰に頬ずりされてる。しかもここが俺の実家や。これが俺の家族なんやと思ったら、ものすごく逃げたくなった。けど、逃げ場はなかった。なんや知らんけど、自分で選んでもうた道や。
 取り消せへんのかな、今からでも。
 何とかならんのか、これ。
 何とかしてくれ、神様でもなんでもええけど、そういうのがいるんやったら。
 俺が内心、半ば本気でそう祈っていたら、廊下の天井板の上から、無理やなあちょっと、ごめんなあ、という、おっさんみたいな声がした。答えんでええねん、神様。ほんまに呼んだんちゃうから。黙っといてくれ。
 ていうか、この家どないなってんねん。頭が割れそうに痛い。
「俺、帰るから。もう行くで、待たへんで、亨!!」
 若様若様言うてるのっぺらぼうを、なんとか引き剥がして、俺は廊下を早足に行きながら、ふりかえって呼んだ。亨はそれにぎょっとしていた。
「待ってぇな、アキちゃん。こんな化けモン屋敷に俺を置いていかんといて!」
「まあ、なんて失礼な子やろ。自分のことは棚上げで」
 慌てて走ってくる亨のことを、おかんが眉をひそめて批判していた。舞ちゃんは、よよと床に泣き崩れているっぽかったが、顔がないから今イチわからへんかった。
 亨がなんやって、と、一応気にはなったけど。それはもういい。亨が何でも、この際どうでもええわ。俺かて人のこと、とやかく言える素性やないらしいんやから。割れ鍋に綴じ蓋やろ。
 とにかくさっさと帰ろう。俺はそう思って、客間に荷物をとりにいった。まだ二日やけど、三が日すぎるまでこの実家におったら、俺の頭までおかしなる。
 だから早よ帰らな。自分の縄張りへ。
 そう思って、俺は亨の手を引いて、ものすごい早さで実家の長廊下を渡った。亨はちょっと照れくさそうに、それでも帰れるんが嬉しいんか、にこにこして付いてきた。
 ガラス窓から見える庭には、赤い椿が咲き乱れていて、早朝降ったらしい、うっすらと積もる雪の上には、子供用の下駄のあとらしい小さな歯のあとが、点々と残されていた。それは例年の、でも、去年までとはヤバい感じに何かがちがう、俺の実家の元旦の景色やった。


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