SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

神戸編(18)

 スポーツ・バーは外道で満員なってた。
 店の人には、有り難いんか、迷惑なんか、さっぱりわからへん。
 晩飯時からわらわら現れた人ならぬお客さんやら、それを連れてる巫覡ふげきの皆さんやらで、細長い店内はあっというまに超満員。
 普段そこの席を埋めてる常連さんや、たまたまちょっと覗いてみようかという普通人の一見さんは、今夜はなんでか都合が悪うなったり、家族で過ごそかと思ったりして、偶然来えへんかったらしい。
 そんなん、霊振会の手にかかれば何とでもなる。アキちゃんみたいなのが、うようよいてる会なんやから。一般の人は、ちょっと遠慮してくれへんかって思うだけで充分なんや。
 アキちゃんと俺と、そして水煙様を従えて、海道蔦子おばちゃまはスポーツ・バーに乗り込んだ。今日は前に見たような、黄色い縞々の虎応援ルックやのうて、夏とはいえ、これでもかと値の張りそうな薄鼠うすねず牡丹ぼたんの訪問着を着込み、裾には金糸の刺繍糸をきらきらさせてる。
 せやけど帯は虎やった。帯のお太鼓に、ほんまもんの金糸で描かれた虎が、ガオーて言うてる。それが鬱蒼と茂るつたと、青海波の濃紺に飾られている。その上の空には、赤い千鳥が飛んでいた。泣きながら。たぶんそうなんやろうと思う。涙か雨か、そんな雫のようなもんが、銀の糸で刺繍されていた。背景には六甲山。その頂には白々と雪が降り積もっていた。
 他にも何やいろいろと、これは何やろと意味深な絵が浮かんでたけど、じろじろ見るなて言われたもんで、ちら見で分かったのはそのへんまでや。
 たぶんそれは蔦子さんの式神を描いた絵やった。虎は信太で、千鳥は寛太やろ。それから六甲山の雪はたぶん、あの眼鏡の銀髪や。なんて言うたかな、名前。
「啓太」
 本人がいた。
 いかにも冷徹そうな真面目顔をした、銀髪眼鏡くんを労う声で、蔦子さんは席を温めていた式神の名を、挨拶代わりに呼んでいた。
 温めてたというより、むしろ冷やしてたというべきか。何とはなしに、ひんやりした空気を纏ってる。こいつは氷雪の精なんやと、確か信太が言うてたはずや。
「あんたはもう、帰ってよろし。会合の手配、お疲れさんやったな。皆さんお揃いのようで……」
 テレビではもうとっくに試合が始まっていた。店の壁には、でっかいスクリーンがあり、そこに阪神タイガースの試合中継が映し出されてる。蔦子さんはそれを一時、じいっと見たけど、点数表示が0対0なのをチェックすると、ふんと小さいため息をついて、自分のために空いていた席にすとんと腰掛けた。
 そこは長いテーブル席やった。蔦子さんの席は中央あたりにあり、その横にアキちゃんと俺を座らせた。水煙は剣やったから、椅子は無し。行き場もなくてジュニアの膝の上やしな、お役得やで。
 こんな店やけども、集まった面々はみんな、正装していた。男はだいたい和装かスーツ。女の人らも着飾っている。それで蔦子さんはアキちゃんに、おめかしして来いて言うたんやな。
 ドレスコードどおりに、アキちゃんは久々でスーツを着ていた。学生のくせに、割とよう着こなしている。昔から、おかんのお供で大人のいる席に出ることが多くて、アキちゃんはなんと幼稚園のころからスーツ着用の餓鬼やったらしい。半ズボンやで、嵐山の家で写真見たもん。可愛いねんで。俺は幼児趣味はないけどな、それがアキちゃんやと思うと萌え萌えで、べろんごっくんしたいぐらいや。
 育ったら育ったで、萌え萌えやけどな。まったく、せっかくアキちゃんがスーツ着たのに、そのままベッドに押し倒せないとは、なんというつらい夜やろ。とっとと帰って脱がさなあかん。
 そういう俺はスーツではない。そんなもん用意されてなかった。その代わりに、いかにもこれを着ろという感じで一揃い、前に信太が言うてたような、グレーの錦蛇パイソン柄のパンツと、若干ウエスタン調の白いシャツがクロゼットの戸に掛けられていた。
 いいよ。なんでも着るよ、亨ちゃん。でもな、ほんまにこんな格好でええの。これが、おめかししたという服なの? ただのネタやないの?
 せやけどまさかアロハ着ていくわけにもいかへんしな、他には普段着のラフな格好しかない。それやったらもうパイソンでも何でも同じようなもんやろ。
 それはどうも、蛇なんやから蛇っぽい格好をしろという意味らしかった。店にたむろする式神たちは、皆それぞれ、なんとはなしに正体の匂う格好をして現れていた。信太が居ったら、きっと虎の絵のあるアロハで来てたやろ。
 けど、信太の姿は見えへんかった。鳥さんもおらへん。蔦子さんは、店の段取りをやらせたらしい氷雪の精を帰してしまうと、一人も式神を連れてない丸腰やった。
 他の巫覡ふげきは、最低でも一人は連れて来てるようやのに、なんで蔦子さんは単身乗り込んできたんやろ。あいつらも阪神戦、見たかったやろうにな。
 しかしこれは、野球を見る会ではなかったんや。
「お忙しいところを、またようお越しくださいまして、大司教様」
 餅みたいな太った神父が蔦子さんの向かいに居った。今日は正装でということか、大司教は平服の黒い詰め襟やのうて、白服やった。ケープのついた、赤紫の縁取りのある白い長衣に、頭には赤紫の、つぱのない丸帽子をかぶってる。腹に締めた幅広の帯も、目にも鮮やかな赤紫。その色は大司教の色や。
 そして、その隣には痩せた海原遊山が。これが大崎茂やろう。その横に狐の秋尾が控えとるから、間違いないわ。こっちは濃紺の和装やった。真っ白けに色抜けた白髪やけど、まだまだ精気がみなぎっている。怪しい虹色の光輝を帯びた目が、灰色のようにも見えるけど、よう分からん色してる。眼力のある爺や。
 爺は一時じいっと俺を見た。たぶん、あの絵のしきやとでも思うてたんやろ。何となく、物色された気はするけども、俺は爺は趣味やないから。お金持ちなら別やけど。大崎先生、お金持ちやけど。それでもアキちゃんのほうがええから。見んといて。
 狐はその横で、いつも通りのこんがり狐色のスーツ着て、丸眼鏡の奥の糸目でにこにこしていた。それとも素でこういう顔なんか。どっちでもええわ。俺にはどうでもええ奴やから。
 蔦子さんが席につくと、それで役者が揃ったようやった。
 テーブルに、指を組んだ両手を置いていた白服の大司教が、何から言うてええもんかなあという口調で口火を切った。
「四日後だそうで」
「そのように出ております。こちらの占いには。そちらではいかがでしたやろか」
 蔦子さんが聞くと、大司教は困ったような顔をした。
「こちらは占いはいたしませんので。ただ、夢に聖霊が現れる者が教会におりますので、その者の話にれば、本日この場で何かしらの奇跡により、神が予兆をお与えになるだろうと……」
「夢占いとどう違うんですやろか」
 蔦子さんは真顔で突っ込んでいた。それに餅は、さらに困った顔をした。
 あのなあ、蔦子さん。キリスト教の人らは、占いしたらあかんことになっとんのや。知るべき未来があれば、神が天使をパシらせてお告げを伝えてくる仕様やから、勝手に未来を視ようなんてことは、やったらあかんねん。ヴァチカンではな。
 歌の文句にもあるやないか。The future's not ours to see, Que Sera Sera.(未来は人間が見るもんやない、ケ・セラ・セラ)ってな。占いは、敬虔なる信徒がやることとしては、魔術的で不道徳な恥ずかしい事やねん。
 ま、そんなん、未来を視るのが稼業やという蔦子さんは、なんのこっちゃな話やろけどな。
「細かい部分の摺り合わせは後日、私がします。要点からお願いします」
 あたかも餅の番兵かというノリで、太った白い僧服の陰から、神楽遥が蔦子さんに差し出口をきいた。お前はほんまに、しゃしゃり出る男やなあ。恥ずかしないんか、破戒した身で、大司教様の隣に座したりしてやな。罰当たんで、この薔薇男。
 せやけどな、恥知らずという点で言えば、もっと上行くのは、藤堂卓とうどう すぐる。なんで居るの、藤堂さん。神楽遥の隣には、なんでか藤堂さんが座っていた。
 今や血を吸う外道に堕ちた身でやな、恥ずかしないんか、藤堂さん。大司教の隣の隣に座したりして。お前それでも元・敬虔な信徒か。雷に打たれて死ぬかもしれへんで。時々そういうことするからな、キリスト教の神さんは。ガラガラピシャーンで神罰一撃やで。
 やられたらええねん、ビリビリ来たらええねん。ほんまに悔しい。まさか神父が心配で、こんなとこまでくっついてきたんか。俺にはそんなんしたことなかったくせに。
 神楽遥は僧服は着ていなかった。戻ってきてから着替えたらしい。何で着替えたんか謎や。たぶん風呂入ったんやろけど。なんで風呂入る必要があったんか、極めて遺憾や。
 きっと汗かいたからやろう。それ以上は詳しく考えとうない。俺かて、ここ来る前に、アキちゃんと汗かいて風呂入ってから来たわ。負けるもんかやで。
 とにかく、いかにも六甲のお坊ちゃんみたいな、紺のパンツに白シャツや。テーブルの上にある左手の薬指には、もちろん金の指輪が光ってる。せめてそれを大司教様から隠そうとは思わへんのか。この罰当たりめが!
「本日は最終的な打ち合わせということで、お呼び立てしましたんや。予知が当たれば、実質あと三日どす。本決まりの段取りやら分担やらを、決めとかなあかしまへん」
 蔦子さんは、この会合を取り仕切っていた。アキちゃんの名代やったからや。ほんまやったらこれも全部、秋津の当主がやるべきところなんやけども、アキちゃんはまだまだ若輩の身やということで、蔦子おばちゃまがやってくれてはるわけ。
 アキちゃんは完璧に蚊帳の外やった。ついていかれへんよな。だって何も知らされてない。
なまず、死の舞踏。そして龍どす」
 断言する蔦子さんの、黒いテーブルを見下ろす伏し目の顔を眺め、大崎茂がやっと口を利いた。
「やっぱり龍なんか、お蔦ちゃん」
 お蔦ちゃんやで。なんやそれ。親しげやなあ。
 それもそのはずで、大崎茂と海道蔦子は幼馴染みである。おかんと蔦子さんが幼馴染みで、おかんと大崎茂も幼馴染みなんやから、その三名はご幼少のみぎりからの仲やということや。えらい年の差ついてる。片や白髪の爺さん、片や色っぽい熟女やからな。
 それは鬼道における両者の力量の差を物語っている。蔦子さんは今でこそ海道蔦子やけども、生まれは秋津の分家やねんし、分家や言うても秋津家は、親族間での結婚を繰り返してきたお家柄。実際の血の組成という点では、実は本家も分家もあったもんやない。蔦子さんも、相当に血が濃かったんやろな。たぶん、戸籍上の歳聞いたら、げって思うような婆さんなんやで。
 大崎茂でも、実年齢からしたら驚異的な胆力なんやろうけど、秋津家の皆様は、さらにそのはるか上空を飛んでいる。アキちゃんなんか、そのさらに上やから、ほとんど人工衛星かUFOみたいなもんなんやで。頼りないけどな、その割に。
「龍や、茂ちゃん。それはもう、十中八九間違いおへん。誰に占わせても龍が出ますのや。今、うちの竜太郎が、もっと詳しいところまで視ようとしてます」
 険しい暗い顔をして、蔦子さんはそれを報告していた。
 竜太郎の、姿を見てへん。ヴィラ北野に泊まっているという話やけども、その割には、愛しいアキ兄のところにちっとも現れへん。餓鬼やからな、もう飽きたんやろか。それとも、そんなことする暇も惜しんで、頑張ってるということか。あいつには、でかい宿題出してあるからな。
「八月二十五日に、なまずは起きる。いつかは分かりませんのや。この日から先の未来は、混沌としてます。視ようにも、なまじな術者では視えてきまへん。壁があるようで。どう転ぶか分からしまへんのや。せやけど竜太郎は、龍が淡路島を食うと言うてます」
「島を?」
 微かにしかめた顔で、大崎茂は蔦子さんに聞き返した。それに蔦子さんは、ゆっくり頷いていた。
「海上に現れて、まず淡路島を食うそうどす」
「それは、いつや?」
 強い声で訊く大崎茂に、蔦子さんは涼しげに答えた。
「分からしまへん。なまずよりは後え」
「そんな曖昧ななぁ……もっと詳しく視られへんのか」
 ぼやく大崎茂を、蔦子さんはじろりと見つめた。それに、さしもの会長さんも、ちょっとばかし気まずそうな顔になってた。怒らせてもうた、みたいなな。
 どうもこの爺さん、アキちゃんのおかんだけやのうて、お蔦ちゃんにも頭上がらんみたいやな。どこまで秋津家コンプレックスやねん。
 つんと澄ました女の子みたいな調子で、蔦子さんは答えてた。
「そんな簡単なもんやおへん。ただの未来とは違うんどす。殻に包まれたように中が見えにくい……今のところ、その中を見られるのは、竜太郎だけどす」
「見えへんのか? お蔦ちゃんにも?」
 驚いた声やった。大崎茂は、そんなアホなという顔で、蔦子さんを見ていた。
「うちは視まへん。視んほうがええように思うんどす。そろそろ竜太郎に家督を譲る支度をせなあきまへん。あの子のほうが、きっと明るい未来を視られるやろと思うんえ」
「そんな無責任な……」
 呆れたように、大崎茂はぼやいて見せた。せやけど蔦子さんは、それに全く取り合わへんかった。
ぼん、そこで折り入って頼みがあります。竜太郎に、あんたの水煙を貸してやっておくれやす」
 いきなり話を振られて、アキちゃんはぽかんとしてた。
「うちも昔、あんたのお父さんから借りたことがある。未来を視るためや。その太刀には、時の流れに打ち勝つための力がある。せやから水煙の力を借りれば、術者の能力を超えた未来さきも視られるのや」
 アキちゃんの膝にある水煙の、キラキラした刀身を見つめて、蔦子さんは話した。水煙は起きてんのか寝てんのか、ぜんぜん何にも答えへん。
 特に異論がないということなんやろか。それてもまさか寝こけてる? 起きとかなあかんよ、水煙兄さん。めちゃめちゃ大事な話なってるよ?
「ただ、リスクもあります。うちは三年寝込んだ。体に悪おすなあ……」
 徒っぽい苦笑の顔で言う蔦子さんを、大崎茂は腕組みをした渋面で見つめてた。アキちゃんも急に、難しい顔をして、膝の上に転がしてあった水煙の柄を、やんわり握り直していた。
「せやけどな、なんと言うても有事どす。なにがしかの予知ができて、それで有利に事の運ぶような備えのできるものなんどしたら、命がけで視る価値はある。視ても結局、何の意味もないことかてありますやろけど、それでも視てみるのが予知者の務めどすからなあ」
 箱の中身は、蓋開けるまでわからへん。中に何が入ってるのか、それがもしも、視たら死ぬようなヤバいもんでも、視るのが仕事なんやからと、それが海道蔦子流。そして、その後目を継ごうという跡取り息子も、少々早いがそれをやれということらしい。
 蔦子さんがやらせた訳やない。竜太郎本人が、自分が視ると言うたんや。なんでそんなことを中一ふぜいが偉そうに言うのかは、今ここで敢えて語るまでもないやろ。竜太郎はおかんより先に、その日の予知をしたかった。蔦子さんは視るかもしれへん。もしも先に視させたら、本間暁彦の死を、ずばりと予言するかもしれへんからや。
 蔦子さんは水煙が言うように、三都随一の予知能力者やった。未来を視る分野において、この人を凌げる巫覡ふげきはおらんと、長らくそう思われていた。
 蔦子さんはいろいろ正確に予言してきたらしい。しかしそれは主に悲劇の予言やった。カッサンドラやな。
 知らんか、カッサンドラ。古代ギリシャのお姫様で、太陽神アポロンとええ仲になり、その恋人特典で予知能力を授かったんやけど、うっかりその神さんと関係がもつれてもうて、別れ際の捨て台詞で呪われてもうた。ほんで、不吉な未来ばっかり予言するようになり、皆さんに嫌われたという、可哀想な人やねん。せやから、ネガティブな予見をする奴のことを、今でもカッサンドラと呼びます。
 予知能力者にも癖があるらしい。楽天的とか悲観的とか、人にはそういう性格があるやんか。それと同じで、明るい未来ばっかり予知するやつと、暗いのばっかり視るやつと、そういう性質の個人差があるようなんや。
 蔦子さんは、悪い予感ばっかりよう当たるという、そんな気の毒な予言者やった。
 かつてはいくさの動向を占うて、祖国の敗北を予感した。大勢が焼かれて死ぬのを視てもうた。そして大好きやった許嫁いいなずけの男が、どこか遠い海の底で死ぬのも視てもうた。
 なんとかその未来を別の方向へ。心配することはない。いくさには勝つやろし、神国日本が負けるわけがない。秋津暁彦が死ぬはずはない。きっと、勝ったで蔦子とにこにこ笑って、故国に凱旋し、約束どおり自分と結婚するやろと、そんな未来を視たかったんやろな。蔦子さんは頑張った。今、たぶん竜太郎が頑張ってるように、蔦子さんかて必死で頑張ったんやろ。
 それでも視える未来は変わらんかった。予見したとおりの出来事が起こり、秋津暁彦は戦死した。お兄ちゃんは死んだと、幼馴染みで従妹の登与ちゃんから聞かされた。それやと本家の血が絶えたことになると、登与ちゃんに訊くと、心配おへんと、おかんは答えた。お兄ちゃんのたねは、出陣前にうちのはらに仕込んであるえ。これが秋津の跡取りと、そういうふうに教えられ、仰天した蔦子さんは、最後の気力も尽き果てて、寝込んでもうたらしい。三年ぐらい。
 まあ、寝込むかな。予知で頑張りすぎてヘトヘトやったんやしな。それに普通はショックやろしな。まさか自分の婚約者を、その妹が寝取ってたやなんて、想像もせえへんよなあ。しかし三年は長いよ。寝てる間に死ぬかもしれへんよ。寝過ぎよ、蔦子さん。
 その当時の蔦子さんが、アキちゃんのおとんとおかんのタダレた関係を、全く知らんかったのか。薄々は感づいていたんかもしれへん。女の勘や。自分の男に誰か他に、心底好きな相手がいそうやと、そんなことは予知能力がなくても、なんとなく分かってまうもんやろ。それが女という生き物や。
 せやけど蔦子さんは、それを予知したわけやなかった。未来を何もかも知っているわけやない。むしろ、ほとんど知らん。それは普通人と大差ない。視ようと思った未来の事柄を、じっと目をこらして見つめ、鍵穴から覗くようにして、チラ見してくる。予知とはそういうもんらしい。鍵穴のでかさとか、どんだけ覗いていられるか、または視たもんの解釈をどうつけるか、そのへんに術者の力量が現れるらしい。
 何度も予知を試みて、元絵のわからんジグソーパズルのピースを一個ずつ取ってくる。それを組み立てていって、もしやこんな絵やないかと、予測をつける。そんな作業らしい。
 どんな絵になるか、どんなピースを取ってくるか、そこには予知者の性格が表れる場合がある。別の奴が視れば、全く違う絵になるピースを取ってくることもあるらしい。
 水煙兄さん言うてたやんか。未来は不確定。いくつか分岐点があって、どっちへ行くか分からんような時がある。右へ行くか左へ行くか、勝つか負けるか、どっちへ向かう道へ入るか、それを決めるのは、最初にその分岐点に到達した者の、ほんのちょっとの気の向きやという、そんな偶然のようなもので決まるらしい。
 まさに、当たるも八卦、当たらぬも八卦や。視えた未来が、必ず実現するという保証はない。より強いヴィジョンを示す者がいれば、そちらに流れる未来もあるということで、未来パズルのピースは必ずしも、一枚分の絵にぴったりと過不足無しに散らばっているわけやない。
 蔦子さんは自信がなかった。自分がまた、暗い展開の絵を作るんやないかと。それで息子に賭けていた。あの、自信たっぷりで、まだ何の傷もついてない、きっと明るい未来もあるやろ的な、のんきで絵が下手なボンボンに。どんなんでもいい、皆が幸せになれそうな絵を作ってみせてくれと。
 二十一年、怠けに怠けたアキちゃんと違うて、竜太郎は予知をするげきとして、英才教育されていた。せやから中一とはいえ、力量的にはもう一人前に開花してたんや。中一言うたら昔なら、もう元服をして大人になる歳やねん。
 秋津の皆さんはそういうもんらしいで。十二歳ぐらいまでに能力が発露してなかったら、そいつはぼんくらや。せやからアキちゃんは、ぼんくらのぼんやと陰口きかれてたんやんか。可哀想やけど、実際そうやったわけやから、言われてもしゃあないなあ。ぼんくら、ぼんくら。まさにそれです。
「神剣があったら、竜太郎はその殻を破れるんか」
 腕組みしたまま、大崎茂は眼光鋭く蔦子さん見て言うた。
「やってのけると思います。親馬鹿で言う訳やないけど、あの子はうちより力が強い。父方の血が、神人かみびとの流れを汲んでいるんどす。龍の血や。せやから、うちより上手に時空を泳ぐ……」
 水なん、時間て。泳ぐもんなの。知らんかった。そういや時は流れるもんやしな、日本語では。水なんかもしれへんわ。この秋津島ではな。
 俺はそっち方面、さっぱり疎いのよ。亨ちゃん、過去は振り返らん主義やし、先のこともくよくよ考えたりせえへんのよ。藤堂さんやないけど、なるようになるさケ・セラ・セラと思っちゃう性格やねん。
 それでヤバい方向行ったりするわけやけど、そんな性格やなかったら、アキちゃんとデキたりせえへんよ。どうなるか分かってたら、怖くて飛び込まれへんかった。アキちゃんと生きる一生なんかには。後先考えへんからええんやろ、恋は。
 しかし時が流れるもんならば、それは水の一種や。秋津家の皆さんの十八番おはこ。秋津は水と縁のある鬼道のお家柄。水と言えば蛇、そして龍、あるいは半人半龍の怖い怖い怪物、水煙様や。こいつが秋津の守り神。というか、どうもこいつが秋津の血筋を起こした張本人やないかと俺は思うんや。
 代々の当主は、神剣・水煙を家督の証として受け継いできた。水煙が認めへんかったら当主になられへん。それは実質、こいつが家長やということや。ご乱行には定評があったらしいアキちゃんのおとんも、水煙と相性悪いからというだけの理由で、信太のツレの茶髪のしきを放逐していた。水煙が、こいつは要らんと言えば家を出される。たぶん、そういう世界なんやで。
 おとん大明神は自分自身死んでもうて、この世の肉体をロストした身でありながら、他の式神は全部いくさで消耗させたというのに、水煙だけは連れて帰ってきた。それが家督を継ぐのに必要やから、可愛いジュニアが困るやろという事なんやろうけども、たぶん秋津の家を守るということは、水煙を守ることと同義なんや。
 この古い神は、秋津の血族に捕らえられているやのうて、自分がその血筋に連なるものを隷属させている。ある種、俺と同じや。アキちゃんに、支配されるだけでは飽きたらず、アキちゃんを支配しようとする。そして崇めてもろて、気持ちよう過ごせたら、それでええわという、そんな神さんやで。
 水煙兄さん、キリスト教の神さんよりもキャリアは上やみたいな事をほざいてたけど、それがほんまやったとしたら、こいつがもし本気の本気を出して気張れば、でかい宗教起こせてたんやないか。なんで気張らへんかったん、水煙兄さん。ごっつ美味しいことになってたかもしれへんのに。
 ヴァチカン見てみ、キンキラキンやで。今でこそ、あれで地味になったほうやけど、最盛期なんか見てみ、金銀財宝でキラッキラやったで。うなるほど金と権力を集めてた。今の秋津も大概金持ってるみたいやけどな、そんなんヴァチカンの至宝と比べたら、どうせ個人資産の世界やないか。水煙様の頑張りしだいで世が世なら、アキちゃんもローマ教皇みたいになれてたかもしれへんのになあ。
 そのキンキラの玉座に座す膝に、俺が甘えて座っとったら邪教やろうか。ええやん別に、蛇神様やで。どうせ蛇の宗教やんか、水煙かて半分蛇みたいなもんなんやしさ。その神官が蛇と仲良うしてたかて、誰も文句言うわけあらへん。むしろ有り難いくらい。
 ステキ。そんなんやったらええのに。俺も小夜子ポーズで妄想したい。ヴァチカンなみの大宮殿の、金とルビーの天蓋ベッドで、アキちゃんと心ゆくまで組んずほぐれつ。いいよう、ゴージャスだよ。金貨がうんうん唸ってる声が聞こえるようだよ。
 目指そうか、そういうの。目指す? 目指さへん? アキちゃん、絵描きになりたいだけ? 教祖やのうて? 無欲やからなあ。性欲と物欲はムンムンあっても、権力欲とか名誉欲の薄い男やからあかんねん。ぼんくらや、うちのジュニアは。ぼんくら、ぼんくら。
 俺が真顔でそんな空想に浸る間にも、話はガンガン進んでいた。アキちゃんは渋々やけど、水煙を竜太郎に貸してやることにしたようや。何というても有事やからな。それに三都の命運がかかっていると言われてもうたら、水煙は俺の剣やしなんて、餓鬼くさい我が儘も言うに言われへん。
 貸してやれジュニアと、水煙様が許したんかもしれへんわ。水煙はアキちゃんに何か話していたようやった。そのほうが都合ええわってところやろ。こいつは竜太郎に都合のええ未来を視させたいんや。自分が傍について、それを監督できたら、こんな渡りに船はない。
「返してもらえるんですよね」
 アキちゃんは、言わんでええのに、未練がましいことを蔦子さんに訊いた。あかんねん、それが格好悪いんや。しかし重要な言質ではあった。もしも返してもらわれへんかったら、家督を竜太郎に譲ってもうたことになる。本家と分家の後目争いやで。
「当然お返しいたします。未来が視えたら、速やかに。なまずが起きたら、あんたには水煙が必要になる。せやから遅くとも三日後の夜までには、あんたの手元に戻します」
 蔦子さんはきっぱり保証した。それで合意が成立や。
 三日もおらんのや、水煙。
 俺はその不在の朗報に胸がドキドキしてきたよ。ああ、とうとうアキちゃんと風呂エッチできる。あのグラタン皿みたいな、エロくさいジャクジーで。そんなこと考えてた、俺はアホか。しゃあない、蛇やから。亨ちゃん淫蕩やねん。いっつもそんなことばかり考えてまうんやないか。
「必要になるとは、どういう意味やろ、蔦子さん。こんな席で何やけど、俺は何も段取りを聞かされてません。何をさせるつもりなんや、俺に」
 アキちゃんはとうとう、訊くべき事を訊いた。蔦子さんはちらりと、話を迷うような顔をした。
「鬼斬りや」
 代わって話そうかという引き取り方で、大崎茂が唐突に教えた。大声やないのに、腹にずしんと来るような、よう響く声やった。
なまずは目覚めると、地上に姿を顕す。人食うためや、腹が減っとる。せやけど自分でうろうろ食いに廻るわけやない。死の舞踏を、従僕のように連れている。骸骨や。狂骨きょうこつともいう。教会の人らは死の舞踏ダンスマカブルと呼んだはる。なまずはそれを、ちょうど巫覡ふげきが式神を使役するように使役して、自分の口までエサを運ばせるんや」
 そう話す爺さんの隣で、使役されている狐はにこにこ聞いていた。爺の従僕なんや、お前。恋人やのうて。いろいろやなあ、巫覡ふげきしきとの関係も。アキちゃんは自分の式神を、ツレやと思うてる。おかんは舞を、娘みたいに可愛がってた。そして大崎茂はしきを使役する、従僕か、自分とこの社員みたいに。
「エサとはつまり、人の命や。肉やら精気やな。それを剥がして食うて、骨と魂だけにしてもうて、残ったそれは死の舞踏に加えて使役する。そういう性質の神や」
「それって、神ですか?」
 アキちゃんは恐ろしげもなく会長様にツッコミ入れてた。大崎茂は誰が見ても怒ってるみたいな眉のひそめかたをした。
「神や。そんなこともわからんのか。ぼんくらやな、お前は」
 ぼんくら言われてた。アキちゃんはそれに、むっとした顔をした。むっとしてもしゃあない、事実やねんから。アキちゃんもそう思うたんか、キレたりせずに自重してたわ。けど恨んでるでえ、絶対に。
「荒ぶる神や。鎮めて寝かしつけなあかん。それには腹の満ちるように、精気を食わせなあかんのやけど、人の命をじゃんじゃん食わすわけにはいかん。それを守るのが我々の仕事なんやからな。死の舞踏から、人命を守る義務がある」
「それで鬼斬りということですか。骨を斬ればいいだけですか。しかし、それやと、なまずは腹減ったままですよね。どうやって寝かすんですか」
 アキちゃんは殊勝な態度で訊いていたが、大崎茂はそれに、むっと顔をしかめた。たぶん、そんなことも知らんのか、秋津のぼんは。ほんまに、ぼんくらなんやな、よういわんわ、という顔やと思う。そのように顔面に記載されていた。
供物くもつを捧げる。精のつくもんなら、人の血肉でのうてもええんや」
「豚の丸焼き?」
 前に疫神退治をしたときに、そういう儀式をおかんがしていたからやろ。アキちゃんは平和な話をしていた。それに大崎茂は静かに苦笑した。もう呆れるのを通過したらしい。
「そんなもんなまずが食うわけあるか。生き餌でないとあかんのや。祭壇を組んで呼び寄せて、生け贄を捧げる。そして、なんとかこれで眠っとくれやすと祈るんや。十年前には、お前のおかんがやった儀式や」
 その時の有様を我が目で見たという顔で、大崎茂は話していた。そら、見たんやろ。ほんの十年前や。十年一昔。爺にとっては昨日の事のようやろ。アキちゃんにとっては大昔やけどな。その時十一歳やったはず。小学生やで、なんも訳わかっとらんわ。
「生け贄、とは……?」
 さすがに嫌な予感はしたんやろ。訊ねるアキちゃんの声は遠慮がちやった。
しきやないか。お前んとこのしきを全部出せ。それでも足りんようならお前が行くしかない。祭主やからな」
 険しい顔して、大崎茂は叱りつけるような口調やった。
 眼鏡の奥の糸目から、狐のしきがちらりと流し目をくれて、横にいる主人を眺めていたわ。
 アキちゃんは、真顔で押し黙っていた。いつも顔や、テンパってる時のアキちゃんの。なんて返事していいかわからへん、頭真っ白っていう時の顔やんか。
「先生、差し出口で相済みませんけどやな……」
 やんわりとそんな前置きをして、狐が口利いた。
「なんや、うるさいぞ、秋尾」
 罵ったけど、大崎茂は喋るのを止めたわけではなかった。黙れとは言わへんかったんや。
「秋津にはもう、ろくな式神は居らんのですわ。この蛇と、あとは水煙、それで全部やろ。舞は登与姫さまが連れていってもうたし、だいたい、あいつは前も食い残された。水煙もあかんのですやろ、なまず様は鉄気かなけは食わんとかで……」
 横目にチラ見しながら話す狐のほうを、大崎茂はチラとも見ずに腕組みをして、どことなくぼけっとして見えるアキちゃんを睨み付けていた。
「それはそうや。せやけど蛇が居るやないか。十年前にたらふく食うて眠った後や、何かの拍子に目醒めてもうたけど、何かちょっと摘みたいという程度なんやで。蛇一匹食えば足りるやろ」
 ほんま洒落ならん。
 大崎茂はじろっと俺を見た。値踏みするような目やったわ。目利きが絵やら骨董やらを、じっと鑑定するみたいなな。
 俺は目を眇めてそれと向き合っていた。何が蛇一匹食えば足りるやねん。こっちにもこっちの都合があるわ。そんな簡単に食われるわけにはいかへんで。食われたら死んでまうやんか。死んだらアキちゃんと永遠に生きられへんやんか。ハッピーエンドにならへんで。
「せやけど先生、それはどうですやろなあ。昔の秋津は確かに三都を守護する巫覡ふげき宗主そうしゅで、どえらい式神もいっぱいお抱えやったけども、こう言うたらなんやけど、年々それも衰えてきて、さきいくさの後にはもう、宗主というほどの権勢はない。なんというても今時の世や、民主主義デモクラシーですやろ、四民平等しみんびょうどうやんか、お殿様とその家来みたいな、そんな時代やないんですやろ?」
 しんみり話す狐の話を、大崎茂は顔をしかめて聞いていた。
「お前は、いつの時代の話をしとるんや。四民平等は明治維新やで。わしもまだ生まれとらんわ。そんな昔の話すな」
「はい、すんまへん。そんな昔のことやったっけ……」
 狐にとっては百年一昔らしかった。マジでボケてたみたいな顔をして、狐はしおしおなってた。そんな有様にイラッと来たんか、大崎茂はばしばしテーブル叩いて言った。
「要点はなんや、お前は何が言いたいんや。イラッと来るわ、お前と話しとると」
 大崎茂はイラチらしかった。イライラ言われて、狐はおっかないわあという風に、小さく首をすくめていた。
「要するにですねえ、先生。民主主義デモクラシーの世や。くじ取りで決めたらどないですやろ。秋津家にだけ厄介を押しつけて、後は知らん、お殿様やから、それで当然や言うてやっていってたら、今後はもうあかんのやないか。だって実際のところ、それでやっていけるだけの力が宗家にありませんやろ?」
「ない」
 大崎茂は勝手に断言してやっていた。
 他人の家やで、大崎先生。アキちゃんが言うならまだしもや、それか蔦子さんくらいまでやろ、うちはもう落ちぶれてるからって言うてもええのは。なんで他人のあんたがそんな事まで言えるんや。
 しかしな、この爺さんは、秋津家マニアというかやな、自分もその血族の一員であるかのような意識が根強くある男やった。
 赤ん坊の頃に嵐山のお屋敷に預けられ、げきとして一人前になって独り立ちするまでいたらしい。聞けば、十六、七の頃まで住んでたそうや。
 そうして家を出される時に、登与姫を嫁として貰い受けたい、うちの実家は豪商やし、決して不自由はさせへん。お姫様みたいに大事にするって、ほんまに土下座して頼んだらしい。
 でもあかんかってんて。お前は力が足りんと言われ、血が濁るから論外やと蹴られたらしい。登与ちゃんにやないで、その親にやで。
 まあでも、登与ちゃん本人に頼んだところで、どうせ振られるということは、大崎茂は知っていた。それでも駄目もとで親に土下座してみたんやないか。案外、ええよって言うかもしれへんしな。娘は兄貴に惚れてるけども、兄妹ではさすがにまずい。ヘタレの茂でええかって、万が一にも言うかもしれへん。
 しかし結果は玉砕で、登与姫はなんか関東のほうの、鬼道きどうの家の跡取りと、結婚させられることに決まってたらしい。せやけど、そいつも戦争で死んでもうてな。登与ちゃん、いかず後家やないか。
 そやのに結婚してくれへん。いつの間にやら誰のたねとも知れん子を産んで、それがアキちゃんなんや。鞍馬のカラス天狗の子やと、おかん、大崎茂には言うてたらしい。それは嘘やけど、一種の愛やろ。知ったら傷つくと思うたんやろ。
 大崎茂と秋津暁彦はライバルどうしやった。仲が悪かったんや。もちろん登与姫様をめぐってのドロッドロやで。そこに、この子はお兄ちゃんの子やしと話せば、男心が傷つくやろうと、おかんにも、その程度の常識はあったんや。子供のころからずっと自分のことを好きやて言うてくれてたヘタレな子にも、その程度の愛情はあった。それで未だに執念深く通うてくる爺を、にこにこ迎えてやってるんやないか。
 とにかく、そんな経緯があってやな、大崎茂にとって秋津家の衆は、赤の他人ではない。身内というほどでもない。しかし無視して通れない、そういう、愛し恋しで面憎い相手やねん。爺も切ないのよ。
「もう無理や、秋津家だけで三都を守護するのは」
 それが結論、という顔で、大崎茂はアキちゃんに宣告した。
「伝統やさかいな、祭主はお前にやらせたろ。しかしお前にはこの大役はひとりでは務まらん。どんなに素養があるて言うたところで、素養は素養や。発揮されてない力は、力ではないわ。一生そのままかもしれんやろ。どえらい力を秘めてる言うても、死ぬまで秘めたままやったら、ただの人やで」
 大崎茂は容赦のない舌鋒でアキちゃんをびしびし攻撃していたが、蔦子さんは一切フォローせずやった。もしかしたらアキちゃんのこと、嫌いなんかな、この人は。もしもそうでも、しゃあないよなあ。自分を裏切った許嫁と、親友で従妹の間にできた子なんやから。
 アキちゃん本人も、黙ったままやった。言い返せる事なんか、なんもない。言われてる事そのまんまやからな。反論しようにも、その余地がない。
「以降、三都の守護職は秋津家一家ではなく、霊振会で摂る。今は秋津家当主が若輩につき、会長はわしがやったけども、これは金出したからや。一種の摂政やと思うてもらいたい。こいつが一人前になった暁には、会長には秋津家当主が就くようにする」
 大崎茂はアキちゃんの目を見て話していたけど、たぶんその場にいる全員に向けて話していたんやろ。
 聞いてるんやら、いないんやら、テレビ観てたり酒飲んでたり、あてにならん様子の面々やったけど、聞くべきことは聞いている。そんな不思議な連中やった。
 会長代理の言うことに、耳そばだてている気配がしていた。ひそひそ言い交わす様子の奴らもおって、その目はじっと押し黙ったままでいるアキちゃんを眺めてた。これが秋津のぼんか、初めて見たわというような、好奇の目やった。
 そんな沢山の目に、アキちゃんはどう見えたやろ。こいつに任せておけば大丈夫っていう、でんと構えた秋津の総領やったやろか。
 残念ながら、そうではない。どう見ても若造やった。歳が若いことは問題ではない。げきにとっては歳は関係がない。その力をどの程度発露していて、どの程度の使い手かが重要なんやからな。
 アキちゃんのおとんはよわい二十一にして、三都の守護を任された家柄の総領としてだけでなく、三都の巫覡ふげきを束ねる親玉として出陣したらしい。おかんが姫なら、おとんはほんまにお殿様やった。その務めを果たすのに不足はないと、そう思われてるような立派なげきやったわけ。
 それにくらべてジュニアのほうは、ちょっと頼りない。しきも足りてない。本丸の窮状は目にも明らかや。もはや三都を秋津家一家で守れというのは現実的でない。それがもう、言わんでええからみたいな分かりやすさで分かるわな。
供物くもつに出すしきも、当然、秋津も出すけども、宗家の窮乏を察し、うちのを出してやってもええわという人物が居れば、ぜひくじ取りに参加してもらいたい。その名は永遠に讃えられるであろう」
 めちゃめちゃ強いカリスマまみれの声で、大崎茂は朗々と宣言していた。歓声も拍手もなかったけども、皆が間違いなく、爺の話を聞いていた。
 テレビでは阪神が甲子園の空に満塁ホームランを放ち、観客席からの大歓声が鳴り響いていたけども、店内はしんと静まりかえっていたんや。皆、にやにや笑ったような、またはじっと考えこんだような目で、腕組みして語る大崎茂に注目していた。
「ええか、皆、よう考えろ。自分らがなんで、こんな力を授かって生まれたか。人の役に立たねば、お前らはただの化けモンや。英雄になれとは言わへん。せやけど負け犬にはなるな。こんな、まだ学校も出てへんような青臭い餓鬼に、何もかも押しつけてもうて、それでうちらは助かったって、そんなことで大人としての面目が立つやろか。そんなやつはただの負け犬や。今すぐんでよし。この会は、ほんまもんの巫覡ふげきのための集まりや」
 ぺらぺら滑舌もよく、爺は演説していた。大勢相手に日頃から、スピーチしてる奴の話し方やった。なんせ某企業の会長さんやからな、偉そうな話するのに慣れている。
「秋津は十年前に、持てる式神の全てを出した。それで空っぽなんや。自分でもしき連れ回すようなご身分やったら、あらいざらいなまずに食われてまうのが、どんなつらいことか身にしみてわかるやろ。登与姫、泣いてたで。あの女がやで。祭壇で泣き崩れてたわ」
 おかん、どんな女やと皆に思われてんのやろ。全員、ぐっと来たらしかった。
 そして、こんなことを今さらここで暴露されてるなんて、知ったらどんなに怒るやろ。想像するだに怖い。
 絶対チクったろ。もしも俺がまた生きて、登与姫様に謁見できる機会があったらやけどな。ほえ面かくなよ大崎茂。俺のアキちゃんを皆の前で道化にしやがって。
 しかしそんな恨みがましい俺の目に、大崎茂は全く気づいてへんかった。めちゃめちゃ名調子で喋ってた。
「十年後の今にして、こんな不測の事態やけども、これも天意やと思え。こころざしを見せるべき時や。総力を結集して、戦う時やで。なまずは今回の真打ちではない。龍の出現が予言されているんや。滅多にあることやない。命惜しむな、神として、巫覡ふげきとしての名を遺せ。子々孫々まで語り継がれるようなな」
 急ににっこりとして、大崎茂は隣に座る狐を眺めた。
「秋尾、わしらも久々に戦おか」
「はあ。それもよろしいけども、先生は生け贄のくじ取りに出すしきはどないしますの?」
 秋尾はけろっとしてそう聞いた。むっと困った顔になり、大崎茂は絶句した。
「出しはりますんやろ、もちろん。こんな大演説ぶってもうて、わしは出さへんなんて、今さら言えるわけないわ」
 狐に言われて、大崎茂はさらに困った顔やった。
 まさか……考えてへんかったんか、爺。狐に乗せられた延長線上で、発作的に言うたんか。お前がご主人様やないのか。どっちが主導権を握ってるんや、この二人連れは。
 秋尾は絶句しているご主人様を差し置いて、にこにことしてアキちゃんを見た。
「心配せんでもええで、ぼん。僕もくじには参加するしな、そしたら確率二分の一やろ。後は天地あめつちが選ぶ。うちはもうええねん、長いこと生きたしな、どうせこの爺さんも長くは保たへん。ちょっと早いか遅いかの差や。ちょっと先逝って黄泉で待っとくだけのことやしな。丁度良かったわあ」
 言われて狐を見つめしはたが、アキちゃんも何も言わへんかった。
 秋尾はアキちゃんに、お前の蛇の代わりに死んでやるから気にするなと言っていた。大崎茂はもう爺。老い先短いから、そのうち死ぬやろ。それに殉じたんやと思えばええねんと、アキちゃんを励ましていた。
 お狐様はな、神の遣いやねん。神獣やねんで。油揚げ食うたり焼き鳥食うたりする生臭い神さんやけどな、それでも神は神なんやで。気に入った奴には優しいねん。
 せやけど、それに、秋尾さん優しいなあ、ほなそうしてください、とは言われへん。アキちゃんはそういう性格やない。けど、だからって、いいですいいです、うちの亨を殺しますから、とも言えへん。そんなこと言えるわけない。俺はそう信じてる。
 そんなことを自分から、言えるような奴が居るわけない。なんで他人の代わりに死ななあかんねん。ありえへんから。そんなこと。
 英雄やとか、子々孫々まで名が残るとか、そんなことに何の価値があんの。今を楽しく生きることだけが、この世で生きる価値やないんか。アホばっかりやで、霊振会。
 この夜のアホは、大崎茂とその狐だけでは済まんかった。
 押し黙っていた蔦子さんが、またやっと口を開いた。
「茂ちゃん……うちも出します、自分のしきを。初めから、そのつもりやったんや」
 やっとその話をする決心がついたみたいな、重たい語り口調やった。
「あんたの話やないけどな、登与ちゃん、泣いてましたやろ。可哀想でなあ。あの子が泣いたとこなんか、見たことあらしまへん。子供の頃でもないんえ。気の弱いうちとは違うて、気位高うておひいさんみたいでなあ。でも、あれは……あの子なりに、意地張って頑張ってたんやないかしら」
「そうやろか。それは女同士の話やろ。わしには分からん」
 知りたくないという口調で拒み、大崎茂は苦笑していた。たぶんこの人は、お姫様みたいやった登与ちゃんが好きなんやろう。
「いろいろと、つらいこともあったやろけどな。うちがショックで三年も寝てた間に、気がついてみたらいくさは終わってて、気がついたらあの子が秋津の総領におさまっていたんや。うちのほうが年上やのにな。分家の娘やいうても、いっつも自分が面倒見てやってるお姉ちゃんのようなつもりでいたのに、気がついたら何もかも終わってましたんや」
「しゃあない、あんたは力を使い果たしてたんやから。人にはそれぞれ、適材適所の働きどころがある。皆で力合わせて頑張って、それで丸う収まれば、それでええんやで、お蔦ちゃん」
 爺に言われて、熟女はやんわり頷いていたが、蔦子さんはどことなく、遠くを見つめるような目やった。
「なんでアキちゃんが、うちより登与ちゃんを選んだか、なんとなく分かるんどす。あの子はいつも明るいし、強いしな、まるで日輪の女神様のようやろ。可愛いようなところもあるし、敵わへん。ほんまにもう、どういう了見で、息子を頼みますやなんて、選りにも選って、このウチに押しつけてもうて、自分はどこをほっつき歩いてるんやろ。えげつない子ぉやわ、登与ちゃんは……」
「手紙も寄越さへんのか」
 苦笑して、大崎茂が訊ねると、蔦子さんはぼんやりと、首を横に振ってみせた。
「いいえ、来ましたえ。今、ブラジルにいますって。もうじき帰るらしいですわ」
 そんな話は初耳やった。おかんが帰宅するとは。アキちゃんのところに寄越す手紙には、そんなこと一言もなかったで。
「ウチなあ、茂ちゃん。頼まれましてん。息子はまだ若輩やさかい、あんたが秋津を守っておくれやすって。登与ちゃんが、不在の間な。それに、任しといてて約束しましたんや。これでまた、何のお役にも立てずやったら、ウチはもうあかん。これが正念場やねん。登与ちゃんが、しきを全部出したんや、ウチかて出せます」
「張り合うための場やないんやで、お蔦ちゃん」
 しかめた顔を、苦笑で隠して、大崎茂はたしなめたけど、蔦子さんは相変わらず、ぼんやり頷いただけやった。
「分かってます。せやけどな、十年前には、ウチはびびってもうて、お断りしたんや、登与ちゃんに。信太を寄越せと頼まれたんどす」
 突然出てきた虎の話に、俺は静かにびっくりしていた。
 テレビの野球中継では、熱狂した声のアナウンサーが、虎虎虎の快進撃やと怒鳴るように解説していた。もはや解説になってない。自分も燃えてもうてるだけや。
「本家と分家を合わせたら、中でも信太が一等強い式神なんどす。せやから、あの子を供物に捧げて、それで済ますのが筋やったんや。なのに、ウチは踏ん切りつかんでなあ、嫌やわって登与ちゃんに言うてもうて。ほんならよろし、って事も無げに言うもんやから、どこか他で調達したんかと。ましか自分の式をあらいざらい食わせるやなんて、思いもよらへんかったんや……」
 苦々しく言い終えてから、蔦子さんはムッとしたような顔をした。それはどうも、自己嫌悪の顔やったらしい。
「いいや、ほんま言うたら、困ればええわと思ったんかもしれまへん。嫌は嫌やしな、ウチかて信太を出すのは。それは本音のとこどす。せやけど、茂ちゃん、あんたが言うように、こんなヘタレのぼんにその痛みを押しつけて、またもやウチは胸撫で下ろす、そんなことでは情けない。意地を見せます、ウチかて秋津の女やで。惜しまへん、式神の一人や二人、それが血筋の務めやて言うんやったら、なまずにでも何でも食わせてみせます」
 蔦子さんは、ものすご激しく断言していた。
 それが式神を誰も連れてきてない理由やったんや。そいつの口から信太に漏れたら困るからか。聞いたあいつがビビってトンズラこいたら恥やもんな。
 でもな、逃げへん。信太は逃げへんような気がするわ。だって昼間はそう言うてたやんか。蔦子さんが死ねと言えば死ぬって。あれは冗談とか、ええ格好して言うてるような目ではなかった。
 もしかして、あいつ、知ってたんちゃうんか。こういう話になるって、もっと前々から、よく知ってたんやないか。
 もう最後やしと思って、可愛い鳥さんと仲良うしてたいんやないか。アキちゃんのおとんが、出征する前に、鞍馬でおかんと蜜月やったみたいにな。
 でもそんな、無責任な。どうすんの、それで遺されるほうの気持ちは。鳥さん、アホやからええの。信太おらんようになったわあ、って困るやろけど、別にええんか。他にも居るみたいやしな、面倒みてくれそうな奴らが。
 だけど寛太はお前が好きやて言うてんのやで。
 そんなんやったら、俺はあいつを焚き付けたりせえへんかった。虎が死ぬ気で居るんやったら、愛やろなんて教えへんかったで。気がつかへんまま別れたほうが、鳥さん絶対ラクやったんやから。それこそアホやねんから、俺さえ妙なこと吹き込まへんかったら、あいつ自力では気づかんままで済んだかもしれへんのにさ。
 やってもうたよ、亨ちゃん。よかれと思ってやったんやけど、痛恨のエラーやで。絶対に客席からブーイングとか座布団とか飛んでくる。ヤカンまで投げられるかもしれへん。投げられてもしゃあないような、要らんことをした。そんな気がする。
 せやけど俺は、因業な蛇なんや。それやったら代わりに俺が行こか、って、到底言われへん。怖いもん。アキちゃんと、ずっと一緒に居りたいもん。どうせ誰かが泣く羽目になるんやったら、俺やアキちゃんやのうて、他のがやってくれって、それが本音やもん。
 鳥さん泣いたら可哀想やけど、ええやん別にフェニックス。あいつが泣けば皆喜ぶ。そういうことでハッピーエンドやって、それやったら、あかん?
 あかんよなあ……。
 それはあまりに俺も気まずい。誰にって、誰よりも、この話を聞いてくれてる皆に気まずい。亨ちゃんサイテーみたいな、そんな白い目で見られると、俺もつらい。
 かくなる上は、狐に死んでもらおか。まあええかて本人言うてるしさ。別にええんちゃうか。さようなら秋尾さん。忘れへん、あんたのことは。俺が永遠に語り継いでやるから、恨まず成仏してくれ。俺かて狐の怨霊は怖い。
 そう思ってチラ見すると、秋尾はにやにや笑って俺を見た。
「ほな先生、ここで決めても何やから、くじ取りは明日以降にでも、有志が出尽くした頃に改めてしましょうか」
 いかにも事務的な口調で、狐は朗らかに場を取り仕切った。いかにも秘書らしい仕切り方やった。
 大崎茂は苦い顔して、それに頷いただけやった。ウムて言うとけば狐がなんでもそつなく処理するていう、そんな暮らしに慣れてるみたいな様子やったわ。
 この人かて、秋尾死んだらつらいんやろか。つらいんやろうなあ。たぶん。
 なんにも言わへんかったけど、眉間の皺がめちゃめちゃ深い。まるで苦悩してるみたいや。してんのかもしれへん。話によればこの狐、大崎先生が赤ん坊の時に伏見稲荷から遣わされ、ずっと仕えてきた式神らしいねん。
 人ならぬ目をして生まれてきた赤ん坊にビビった親が、大金積んでお稲荷さんに、どうかこの子が人並みの暮らしができますようにって願掛けて、今では立派に人並み以上の大名暮らしやろ。とっくの昔に大願成就してんのや。
 それでもしつこく傍に憑いてて、離れがたかった間柄やねんから、契約以上の何かはあるわ。ほんまはしきやないんやないか。だってもう契約切れてるはずなんやから。まだまだ人並みやないって、狐が認めてないだけで。
「皆さん、そんな段取りですので。供物の件は後日。死の舞踏とのチャンバラは、もちろん全員態勢で。龍については予知ができたら発表と、そういうことで、よろしゅうお頼み申します」
 にこやかに話をしめて、狐は大崎茂に訊いた。先生、ビール飲みはりますか。ヱビスにしますか、それともキリンにしはりますかと。
 ややあってから、大崎茂は怒ったような声で答えた。アサヒにしろと。狐はそれに、はいそうしますと答え、それから蔦子さんにも何飲むかと訊ねた。蔦子さんは、よっぽど元気ないんか、茂ちゃんと同じもんでええわと投げ遣りに答えてた。クヨクヨするなら言わんかったらよかったのに、姐さん。
 しかし、元気ないと言えば、この場で最も元気ないんは、アキちゃんやった。気配薄い。居るのか居らんのか、全くわからんぐらいに気配が死んでいる。
 隣の席にいるアキちゃんの、じっと考えてんのか、もう脳みそ死んでんのか、よう分からんような微動だにしない横顔を、俺は遠慮しつつ見た。
 アキちゃんは、膝の上にある水煙の柄を握りしめていた。そのこしらえには、秋津家の家紋である蜻蛉とんぼのマークが入ってる。この剣が家督の象徴で、アキちゃんはこれを投げ捨てようか、それとも握ったままでいようかと、悩んでいるように見えた。
 でもな。投げたところで、どうすんの。俺とどこか遠い、地の果てまでも逃げてくれんのか。亨死んだら嫌やって、そのことだけを考えて、一緒にトンズラこいてくれるんか。そして何もかも忘れて、俺とふたり、面白おかしく生きていけるか?
 時々ものすご暗い顔とかせえへん? あの時逃げたの間違いやったって、死ぬほど悩んだりせえへんやろか。
 もしも逃げてもうたら、アキちゃんはもう二度と、大好きな京都には帰られへん。祇園祭も見られへん。嵐山の家にも帰られへん。おかんにも、おとんにも合わせる顔がない。ご先祖様にも申し訳が立たない。絵ももう、描かんようになるかもしれへん。アキちゃんはきっと、生ける屍みたいになるわ。
 それでもお前が生きてて良かったわって、俺を愛しく見つめてくれるか。きっとそうやろ。アキちゃん優しい子やしな、俺のこと愛してくれてる。お前を守れてよかったわって、きっとそう思ってくれる。
 その時のアキちゃんにとって、俺は世界の全てやろう。俺の他には何もない。そのために、全部捨ててもうた後なんやからな。
 そうなったらいいのにと、ずっと願ってたような事やわ、俺にとってはな。
 せやけど、何でやろ。ちっとも嬉しい気がしない。そんなアキちゃん見たないわって、怖いような気がする。可哀想やし見てられへん。
 亨死んだら可哀想やって、それにほだされトンズラこいたら負け犬や。そのままずっと生きていく。大阪で死んだ犬とか人間どものことさえ、時々思い出して、ものすご遠い目してたのに、今度はずいぶん事が大きい。アキちゃん抜きでも、上手く行ったらええんやけどな、もしも失敗でもしてみ。アキちゃんきっと、激しく自分を責めるやろ。
 目には見えへん自傷の傷で、満身創痍みたいなツレを、俺は何百年、何千年と生かし続けなあかんのか。それはあんまり外道やないか。あまりに切ない。アキちゃんが幸せでないなら、一緒に何年生きようが、ハッピーエンドにならへんで。
 これはどうも、トンズラこいたらあかん山やな。覚悟決めろて爺が言うんや。俺も俺なりに覚悟決めてかからなあかん。他のことならともかくも、他ならぬ愛しいアキちゃんのためなんや。こいつを男にしてやらなあかん。
ぼんもビール飲むか?」
 にこにこした優しい顔で、狐がアキちゃんにも訊いてやっていた。アキちゃんはそれに、小さく首を横に振っていた。そんなもんは、喉通らんということなんか。それほど追いつめられてんのか、アキちゃん。
「俺、車で来てるんや、秋尾さん……」
 険しい顔で、アキちゃんは突然喋った。むちゃくちゃ現実的な話やった。
 そういえばそうやった。アキちゃん、車で蔦子さんの送り迎えしてやる約束なんやった。
 そんな現実的なこと考える余裕あるんや。実は見かけほど脳みそ死んでない?
「ほなミルクでも飲む?」
 冗談なんやろ。狐は笑いながら、アキちゃんにそんな意地悪なことを訊いていた。アキちゃんはそれを、真顔で見つめた。注文とって、伝えに行こうとしている下僕の狐を。
「俺って、そんなにあかん奴やろか、秋尾さん」
 なんでアキちゃんは、狐に訊いたんやろ。たまたまその場にいたからやろか。それとも、自分が死ぬかもしれへんのに、にこにこ余裕の顔をして、注文とってる狐の後光に、てられてもうたんか。お告げを求める顔やったで。
「あかんことないよ、ぼんは逸材やでえ。きっとそのうち、立派なげきになれる。何飲む。ほんまにミルク?」
 励ます口調で狐は答えたけども、アキちゃんはさらに険しい顔になってた。
「何かないの、秋尾さん。そのうちやのうて、今すぐ立派なげきになる方法って。なんか無いんですか……」
 悔やむように言い、目を閉じるアキちゃんを、狐は可愛いぼんやなあという目で見下ろしていた。
「無いよ、そんなもん。ゆっくりなったらええんやないか。別に焦ることない。ぼんにはたっぷり時間あるやんか」
「無いねん、無いやんか、あと三日やないか。それでどないすんねん。地震来たら人死にますよ。それはどないすんねん、ビール飲んでる場合やないです」
 飲もうとしてた餅の大司教を指さして、アキちゃんはほとんど八つ当たりみたいにビシッと言うた。それに大司教は申し訳なさそうに、上げかけていたグラスを引っ込めた。しかしその横で、大崎茂は遠慮無く、アサヒをごくごく飲んでいた。
「熱うなるな、秋津のぼん。しゃあないねん、それは……天災なんやから」
 いさめる年長者の口調になって、大崎茂はアキちゃんを止めた。
なまずに食われずに死ねば、また転生できるしな。しゃあない、天地あめつちのなさることやから。それから見たらわしら人の子なんて、虫けらみたいなものや」
「奇跡は?」
 またビールを飲みかけていた大司教に、アキちゃんはめっちゃキツい口調で訊いていた。それで餅は気の毒に、またグラスを引っ込めた。
「奇跡は、とは?」
 目をしょぼしょぼさせて、餅はアキちゃんに聞き返してた。
「本日この場でなんか奇跡起きますて、はじめに言うてはったやないですか。あれ、どこ行ったんです?」
 約束違うやんか、って、アキちゃんはものすご遠慮無く言うてた。
 アキちゃんてな、約束違うの耐えられへんねん。そういう性分の子やねん。怖いよ。買った商品に問題あったら、クレームの電話とかも平気でするよ。ソフトウェアの契約書とかもな、普通の人が「同意する」ってボタンを何かに操られるように自動的に押す、あの画面、アキちゃんはちゃんと全部読むよ。それで納得いかへんかったらな、開発元に電話すんねん。普通やないよな。本人気がついてへんけど、その点についても普通やないねん、アキちゃんは。ネチっこいねん。
「どこと言われましても……」
「ものすごい奇跡が起きてなまずキャンセルとか、そういう事はないんですか」
 アホみたいな話を、アキちゃんは大真面目な顔して大司教に訊いていた。餅はそれに、困ったように目を瞬いたが、結局答えたのは、その番兵のほうやった。
「本間さん、この八月の厄災は予言されているんです。ヴァチカンにその予言書があります」
 今いるコースでは地震は絶対起きる。見えてるレーンを走らへんジェットコースターなんかない。乗ってもうたら、二回転半ヒネリやろうと、百メートル素直落下やろうと、そういうコースであるかぎりは、ヒネるし落ちる。やっぱやめよかって、直前で言うても無理やねんアキちゃんて、神父は諭そうとしてた。
「でも神楽さん、言うてたやんか。俺がなまず退治の依頼を請けんかったら、予言書の内容そのものが書き換わるんやないかって。ものすごい大災害になって、もっとひどいことになるように」
「そうです。可能性論ですが、そのほうが辻褄が合っています」
「なんの辻褄?」
 真面目に答える神楽遥に、アキちゃんは何か引っかかったんか、鋭く問いただしていた。
「なんの、って……神の予言が成就しないはずはないからです。とにかく地震が予言され、それが起きる世界で、あなたがなまずなる悪魔サタンを地獄へ追い返せると記されています。ですが、もし、あなたが依頼を受けず、悪魔サタンを追い返さないのであれば、予言書自体が書き換わるしかありません。神は時空をも支配しておいでです、ですから、あらゆる時空の未来をご存じなのです」
「あらゆる時空? いわゆる平行世界パラレルワールド?」
 いわゆる平行世界パラレルワールドって何や、アキちゃん。それって常識?
 微妙なところや。従って、ここで解説しよう。
 時空、すなわちこの世には、人の目で見て、過去から現在、そして未来へと流れる一つの流れしかないが、実はそれと平行して流れる別のコースがあるという考え方がある。この、隣り合った別の流れというのが平行世界パラレルワールドや。
 もしもあの時、俺とアキちゃんが出会ってなくて、もうちょっと我慢して藤堂さんとこに居ってたら、今ごろどないなってたかな。あるいは、あの時天丼やのうて、カツ丼食うてたら、どないなってたかなみたいな、そんな「もしもあの時」によって分岐する、別の流れや。
 そんな、今の現実と大体同じやけど、肝心なとこがちょっと違う、別の時空があるという考え方。
 そんなん、無数にありすぎや。ほんまにあると思われへん。どっかでリニューアルした藤堂さんと、よろしくやってる俺がいる宇宙があるやなんて。そんなん、時たまでええから一瞬換われ。未練ないけど、好奇心やんか。いっぺんやってみたいねん。
 話逸れてる。平行宇宙パラレルワールドや。とにかくその、無限「もしも」ワールドみたいなのがあるという考え方は、SFマニアには定番らしい。宇宙が一個だけやのうて、沢山あるんやないかという考え方も、物理学の世界では割とマジもんらしいで。
 変な奴らやなあ。そんな夢みたいなこと、真面目に考えてるなんて。まあ、しき悪魔サタンや天使やなんて、そんなもんが実在してるなんていう事が、実は内緒の現実なんやから、平行宇宙パラレルワールド、んなアホななんて、俺が言うたらあかんかなあ。あるかもしれへんよなあ。俺がこの世にいるんやから、平行宇宙パラレルワールドはあると信じてる奴らが居るんやったら、あるんかもしれへん。それも一つの信心やからな。
「それってつまり、地震もなんも起きへんコースがあるってことでしょ?」
 アキちゃんはしつこかった。神楽遥は眉間に皺寄せて、悩む目をした。
「可能性としてはあるでしょうが……ですからすでに、八月の厄災は予言されています。それは必ず起きて、あなたが何とかするんです、本間さん。私たちはそういう時空にいるんです。逃れようがありません」
「何とかって……何をするんです、俺は。生け贄捧げてなまずに寝てもらうって、そこに書いてあったんですか」
「いいえ、方法論までは……でも、事実なんとかしつつあるじゃないですか?」
 今さらそんな話をするなという顔で、神楽はアキちゃんと言い合っていた。大人たちはそれを、ああもうビール飲もかという顔で、他人事のように眺めてる。舌戦は若いモンに任せて、自分らは休憩入ってる。
「お宅の神さん、全知全能なんやなかったんですか。人死ぬの、なんで放置すんの?」
 ずばり訊きますみたいな無遠慮なアキちゃんに、神楽の目は一瞬泳いだ。餅はその横で、ごくごく美味そうにビール飲んでた。
 ぷはあみたいな顔をして、空っぽになったグラスを置いて、大司教は淡い苦笑を浮かべた。
「思し召しです、本間さん。人は生まれて、いつか死ぬ、これは思し召しです。どのように死ぬかは、人それぞれです。残念ながら、神はそれに頓着なさいません。与えられた時を、いかに生きるかが人生なのです」
 神楽が言葉に詰まるところを、餅は心得ていたらしい。まるごと話を引き取っていってた。
「じゃあ、全知全能とは言えなくないですか」
 アキちゃんは大司教を相手にしても、ちっとも舌鋒鈍らへん。このケバい帯したおっちゃんが、どんな偉い人か知らんからやろう。日本でいちばん偉い神父の一人なんやで。
 しかし餅はそんな偉そう風はちっとも吹かさず答えてやっていた。
「言えなくないことはないです。動機の問題です。神に、地震によって死ぬ人々を、生きながらえさせる動機があるかです。死は一種の救済でもあります。死後には天国に行けるのですから。善人だったらね」
 うっふっふと笑って、餅は酌をとろうとした狐に、どうもどうもみたいな仕草でグラスを差し出していた。餅の丸っこい手で持ってると、グラスがすごく小さく見えた。
「死んでもええわということですか」
 愕然みたいに、アキちゃんが言うた。餅はそれに、ゆっくり何度か頷いてやっていた。
「そういうことです。残念ながら。それがうちの神さんの特性なんです。キリスト教では、この世に生きることは罰なんです。原罪への報いです。刑務所みたいなもんです。ですから、真面目で健全なる良き一生を、精一杯豊かに終えて、労働や出産、家庭を守る義務などを善良に果たして天寿を全うし、天国へと旅立つことこそが、幸いなのです」
「そんなアホな……」
 アキちゃんは二千年来の教義を一瞬で蹴飛ばしていた。せやけどそれは、ボンボンならではの発想や。もしくは幸福な日本の、豊かに育って今も平和な人生送ってる奴の。
 俺は死ぬのは怖いけど、生きていくのも怖かった。
 明日はどこで寝てんのか、分からんような毎日なんやで。死んだらラクになるんかなと、思うたことないと言えば嘘になる。それでも死ぬ方がよっぽど怖いと思えたもんで、しつこく生きてきただけや。
 だって俺には天国は待ってない。ただ消えてまうだけか、今より怖い地獄に行くんやって、そう思ってたんやもん。楽園は現世に求めるしかないわ。とうとうそれを、見つけたけどな。俺にとってはアキちゃんのところが天国で、楽園やねん。もう離さへん。
「そんなアホな、でしょうかね。そう思えるのはあなたが幸せだからです。たとえば昔、気がついたら奴隷の生まれで、一生どこかの坑道や、船倉の底で強制労働させられたりとかですね、あるい娼婦で、死ぬまで客の相手をさせられるような一生を生きるような人生だったら、たとえこの世はつらくても、死ねばあの世は天国と、そういうふうに思いたい人もいるでしょう。そんな天国は妄想かもしれませんが、それを必要とする人々もいるんです。この世は苦しいけども、これは原罪を購うためで、死ねば終わりだと、そう思ってほっとしたい人もいる。もう二度と、この世に蘇っては来ない、期待どおりの天国で、今の自分のまま永遠に生きられるんだと、そういう救いもあるわけです」
 にこにこ話す餅を見て、アキちゃんは分からんという顔やった。アキちゃんは賢い子やし、話の意味は分かるんやろけど、なんでその話をされるんか、それが分からんのやろな。
「どういう意味です? 一体何が言いたいんですか」
 顔をしかめて訊ねるアキちゃんに、大司教様は秘密を話した。
「死のほうが現実なんです。残念ながら、人は死ぬんです。それをどう解釈するかが教義です。天国あるから平気やと、そういうふうに言うことはできます。けどね、それは、気休めです。そうでも思わな、どうしようもないからです。死ぬもんを救うことはできへん。それは奇跡や。人間には無理なんです」
 神でないとね。
 餅の神父はひそひそ話の真似をして、皮肉めかしてそう言うた。
 キリスト教の教会にはな、階層制度ヒエラルキーがある。会社みたいなもんや。大司教言うたら、偉いサンやで。誰でもはなられへん。神楽みたいなアホやとなられへんねん。馬鹿正直に通り一遍の教義を信じてたらなられへん。これは仕事やと割り切って、性根を据えたビジネスマンとか政治家みたいな奴でないと、ヴァチカンの上のほうには行かれへんねん。
 そして餅は大司教やった。出世街道まっしぐら。ヴァチカンの玉座から連なる神聖な位階ヒエラルキーを、上り詰めていくおっさんや。ちょいわるなエリートなんやで。無害そうな見かけによらず。
「神の思し召しに逆らったらあきません。せやけど、あんたは異教徒や。異教の神官やからな、そんなん関係あらへんでしょう。救えるようなら救ってください、もののついでに。死すべき魂でも、何かの間違いで助かってまうかもしれへん。神にもいろいろあるようやから。どうせやったら刑期延長で、天国行きはまたこんど……慣れたら楽しい監獄暮らしという説もありますやろ」
 そう語り、餅はまたごくごくとビールを飲んだ。神楽遥は、それをぽかんと眺めてた。蔦子さんは、じとっと見つめてた。
「そんなこと言うて、大司教様。うまく行ったら、成果はそちらのもんやって、そういう契約にしてはりますやろ」
 蔦子さんがぶつぶつ指摘した。
「そらあ、そうです。奥様マダム。もしも何か奇跡が起きて、人々が救われたならば、それはうちの神さんの思し召しに違いないです」
 ふっふっふと可笑しそうに笑い、餅はさらにもう一杯のビールを狐に要求する手つきやった。秋尾さんは愛想よく酌してやってた。この人、伏見稲荷の系列の、下っ端の狐らしいんやけど、そんなんが酌した酒でも別にええのかな。神楽なんか、俺はともかく水煙とさえ、口利くの嫌やって言うてたけども、たぶん秋尾より水煙のほうが、よっぽど強い神さんなんやで。
ずるおすなあ……なんもしてへん、予言だけやのに」
 感心したという声色で、蔦子さんが餅を罵った。
「なんも、って、金は出すやないですか。それかて善良なる信者からの貴重な献金なのですよ、教会の金や。おろそかにせんといてください」
「そら、そうやろけども。成果は全部取りやなんて……」
 蔦子さんは渋々やった。餅はそれにも、気味良さそうに、太った僧衣の体を揺らして笑っていた。
「折半してもええけども、奥様マダム、今のこの日本でですよ、巫女やらげきやら陰陽師やらが、力を合わせて戦って、地震起こしたなまずをやっつけましたて言うて、誰が信じます? 言うだけ無駄ですわ。キリスト教社会でなら、神戸の奇跡ということで、まだまだ通用しますけどね。都合よく、天使の一人でも現れて、それが普通の人らにも見えてくれたら万々歳」
 三杯目のビールを飲み干して、餅は祈る口調で言った。
「天使といえば、霊振会うちのモンにも、天使がお告げに現れたというのが居りますえ。神の戸の、岩戸がなんとか……あんたも見たんやろ、ぼん
 アキちゃんの前のテーブルをばしばし叩いて、蔦子さんは急かすように訊いた。それにアキちゃんは、痛いところを突かれたような顔をした。
 その天使って、勝呂やな。勝呂瑞希。まだ天使やった頃のあいつなんや。
 そういえば、あいつが居るやん。水煙言うてた。あいつを生け贄にすればええんやって。
 そうやん、それがあったやんか。ナイスアイデアですよ。こうなるともう、あいつが一番無難やで。狐死んだら大崎先生困るしな、俺が死んだらアキちゃん困るし。信太死んだら鳥さん困るやろ。
 けど、勝呂が死んでも、誰も困らへん。あいつが死ねばええんや。どうせいっぺん死んで、しぶとくカムバックしたんやから、もういっぺん死んでも平気や。一度も二度もいっしょやて。せっかくまた新しい命を吹き込んでくれた、親切な神さんにそむいてまで、異教の神官とよろしくやろうなんていう、根性腐った奴なんやから、もういっぺん死んで来い。
 せやのにあいつ、どこで油売ってんのやろ。間に合わんようになるやないか。あと三日しかないのにやで、何もかも終わってもうてから戻ってきても、何の意味もないやんか。
 まさかあいつは未来さきを知ってて、俺が死んだ後の後釜せしめるつもりで居るんやないやろな。許せへん、そんなのは。俺は絶対死なへんからな。あいつにアキちゃん盗られるくらいなら、狐か信太を見殺しにしてでも生き残ってやる。
 俺って、醜い?
 基本、そういうキャラやねん。かつてトミ子を食うてでも生き延びて、アキちゃんの傍に居座りたいって、そう思った時と同じ。一切変更ございません。日頃どんな美しい事を思うても、土壇場なると悪魔サタンに戻る。そういう自分が醜いなあって、今は思うけど、だからって止められへんねんで。気づいただけ不幸やわ。
 トミ子、恨んでるかな、俺のこと。恨んでへんのやろけど、もう、忘れてもうたんかなあ。お前がおったら相談すんのに。俺、どないしたらええんやろ。お前やったら何か、相談してみてもええんやけどなあ。腹割って、困ったなあって。
 そう思ってため息ついてた俺の目の前に、赤い薔薇が咲いていた。半透明の、甘く香る。
 またか。また神楽遥か。お前はこんな時になにをやっとんねん。すぐるさんが手でも握ってくれたんか。ほんまもう殺さなあかん。
 むかっと来て顔を上げた俺が見たのは、餅の周りに咲き乱れている薔薇また薔薇やった。そして大崎茂の周りにも。皆の周りというか、店じゅうに薔薇が咲いている。半透明やけど。絵に描いたような、綺麗な薔薇やった。というか、絵に描いたような薔薇やった。
 昔の少女漫画の飾りで出てくる、あの薔薇。なんていうの、小夜子ワールド? 咲き乱れちゃってる感じ。一部ちょっと散ってるような感じ。気高くも美しいみたいな感じ。私は薔薇の定めに生まれた感じやないか。
 しかも俺はその画風にちょっと見覚えがあった。俺も描けるんや、おんなじ画風の薔薇が。生き汚く黒猫食うて、ブスのトミ子とフュージョンしてもうてから、俺はちょっと変やねん。少女漫画にめちゃめちゃハマる。『ベルサイユの薔薇』で泣けるようになってきた。秘密やでアキちゃんには絶対言うたらあかんで、どんな蔑んだ目で見られるか、想像しただけで泣きそうやで。
 絶対、トミ子のせいや。あいつ漫画オタクやったんや。猫やった時に、暇やていうから、少女漫画読みたい言うし、買うてきて読ませてやったこともある。親切やろ。仮にも男の俺が、ブッサイクな猫抱いて本屋まで行って、これ買え言われた恥ずかしい表紙の漫画全巻セットとかを買うてやってたんやで。めちゃめちゃ見られたわ、店員の女子に。
 そんな恩も忘れて、命助けたるから言うて、俺に変な病気をうつしていきやがったんや、あの女。『王家の紋章』の続きどないなったんやろって、気になってしょうがない病とかな。そんな不治の病をや!
 文句言うたる。もしもまた会えたら。
 どこやトミ子。あの、どブス。絶対いるはず、これはあいつの絵や。俺には分かる。
 そう思って必死で店内に目を走らすと、白いネグリジェみたいなんを着た裸足の若い女の子が、空中にごろごろ寝転がるようなポーズで、背中に生やした羽根をぱたぱたさせながら、白い羽根ペン走らせて、薔薇の絵を描いていた。
 せやけど知らん、俺の知っているトミ子ではない。めちゃくちゃスリムでプロポーションがいい。長い黒髪だけに見覚えがあった。それを巻いてきたんか、お蝶夫人かみたいな縦ロールになってんのや。
「こらあっ、トミ子! なに少女漫画みたいな髪型してんのや!」
 とっさに我を忘れて、俺はその姿に叫んでた。
 すると縦ロールの天使はびくうっと飛び上がった。見えてへんつもりやったらしい。
 振り向き様に、顔が見えるかと思うたんやけど、天使は顔出しせえへんかった。ものすごい白い光が、背中からというか、顔からというか、その天使の存在自体から発して、目がくらむようやった。
 それはさすがに店内にいた全員に見えた。今まで半透明やった薔薇の花が、カチッとピントが合うみたいに、突然店内のそこかしこに出現した。
 アキちゃんは、自分の周りにも取り巻くように描かれていた赤い薔薇に、うわあってマジで悲鳴を上げていた。花に包まれたことないもんな。アキちゃんそんな、ヴェルサイユ系の王子様キャラやないもん。どっちかいうたら背景に杜若かきつばたとかやもんな。和風やもん。行ってもせいぜいその辺りやで。
 トミ子と思える少女天使は、あらかじめ出現予定場所として花描いといたらしい、すごい背景のあたりに、後光を発して顔隠しつつ、マリア様みたいなお祈りポーズで現れた。なに世界作っとんのやトミ子、ブスのくせに。顔出せ、顔を!
「天使や……」
 呆然とした声で、神楽遥が呟いた。餅も唖然と見てた。藤堂さんさえ驚いていた。ビビるな、カトリック系。あれは絶対トミ子なんや。ものすごいブスなんやで、騙されたらあかん。
 しかし顔が見えてへんと美少女みたいに見える。ええ体してたんや。それが生足露出やからな、とりあえず皆見てた。え。生足関係ないかな。天使やからかな。まるで奇跡みたいやから?
 店内には、ものすごく甘くかぐわしい花の芳香がたちこめていた。よく見ると薔薇だけやのうて、百合の花も描いてあった。ちょっとミュシャ系も入ってた。飾り罫まである。ベルサイユの薔薇とアルフォンス・ミュシャを足して二で割ったような感じ。わかるかなあ、そういうの。女の子の好き系なんやで。ロマンチックな。
 トミ子、お前そういう女やったんやな。和風の京女やと思ってたのに。実は少女漫画系やったんや。これで間違いない、俺の少女漫画病がお前のせいやということが。それともそう思いたいだけで、俺は実は少女漫画が好きな男やったんか。
 面白い、『ガラスの仮面』とか。語り合いたかった、トミ子、お前と日がな一日、オールド少女漫画談義。ぜったい楽しかったのに。アキちゃん聞いてくれへんどころか、表紙に触るのもさぶいぼ出るらしいよ。アレルギーやねん。宇宙人平気なくせに北島マヤがあかんねん。水煙とキスできんのにな、『ガラスの仮面』のヒロインが怪物に見えるらしいで。聞いてくれトミ子! 俺の愚痴を!
「万軍の神なる主、いと高き御方の命により、預言を述べ伝えに参りました。わたくしは聖スザンナです」
 めちゃめちゃ気取った声で、トミ子は伝えた。まさしくあのブスの声やった。
「嘘や、お前はトミ子やろ! お見通しやぞトミ子!」
 思わず椅子から立って、俺はトミ子を指さした。何が聖スザンナやねん。トミ子です。トミ子!
「聖スザンナです」
 俺に向かって、トミ子はまた断言した。
「なんやとこら……それはええけど、お前えっらいダイエットしたな。足痩せたやん。どないして痩せたんや」
 空中にある脚線美に、一応ほんまに感心はして、俺は訊ねた。女ってこの手の話に弱い。聞いて聞いてみたいになる。トミ子ももちろん女やった。怪物的ブスでも、中身は乙女やで。
「ほんま? 痩せたやろか? そうやねん亨ちゃん。林檎ダイエットしてみたんや。そしたらこれが効いてなあ、あっというまに痩せたんえ。やっぱり楽園エデンの林檎は違うわあ」
 嬉しそうに引っかかって、トミ子はゲロった。しかし顔を隠す光までは消えてへん。
「やっぱりお前か……顔を出せ、トミ子。せこいことすんな。自分の顔で勝負しろ」
 はっとしたように、顔無し美少女天使は空中でうろたえた。
「トミ子って……」
 アキちゃんがまず我に返っていた。アキちゃん、その名前にはもう憶えがある。自分の元カノやと理解してる。それで気まずいというか、懐かしいというか、どうしてええやらという顔をした。
「お前か……あり」
「聖スザンナです!」
 何か言いかけたアキちゃんに、聖スザンナは断言した。
 あれ。そういえば俺、アキちゃんの元カノのガワのほうの名前知らんで。なんやったんやろ。
亜里砂ありさやろ?」
 俺の手前か、呼びにくそうにアキちゃんは呼んでた。
「違う。聖スザンナ!」
 ほとんど同時に追い被せるように、アキちゃんと聖スザンナは喋ってた。
「亜里……」
「聖スザンナ!」
 も一回言おうとしても邪魔されたんで、アキちゃんは困ってた。
 亜里砂ちゃんか、あの姫カット。可愛い名前しくさって。美少女っぽいやないか。トミ子も戦え。お前、漢字で書いたら富美子やで、強そうやで。別にええやん、トミ子で。それがお前の名前なんやから。
「トミ子……何しに来たんや。アキちゃん恋しくなったんか?」
「もうっ、聖スザンナやて言うてるやろ。しつこい子やなあ、ほんまに、この蛇め!」
 しつこかったのは俺やないのに、俺がトミ子に怒られた。いや、聖スザンナに。ぜったいトミ子やと思うんやけどなあ。
「俺、ちゃんとご飯は炊きたてのを冷凍してんで」
「そうか。ちゃんと、いつ冷凍したやつか書いとかなあかんえ。あんまり古なったら捨てなあかんのえ。冷凍庫は魔法の箱やないんやから」
 うんうんと、俺は頷いた。天使のお告げや。冷凍庫は魔法の箱にあらず。三ヶ月前の冷凍ゴハンとかアキちゃんに食わしたら神罰があるんやで。いつ冷凍したんか謎なアジの開きなどには挑戦したらあかん。不味いだけならええけども、腹壊すかもしれへんからな。何でも冷凍しといたらええかみたいなノリではあかんのや。厳しいでえ、主婦道は。トミ子の猫パンチで痛点殴られる。
「お前が作ってた佃煮みたいなの、どうやって作んのか聞く暇なかった」
 俺が甘えて訊ねると、光り輝く美少女天使(顔無し)はうんうんと頷いたようやった。
「ああ……あれはな、出汁とった後のお昆布さんで作るんえ……って、そんなことを話に来たのではありません!」
 急に芝居臭い標準語に戻り、聖スザンナは、はっと聖なる任務に立ち返ったようやった。そこまで言うたんやったら言うていけ、佃煮のレシピ。
 がばっと姿勢正したお祈りポーズに戻り、天使は荘厳に述べ伝えた。
「三日後、神戸の全天に、天使の輪が現れます。それによって神戸は異界となり、近隣の都市は神戸の厄災より守られます。ただしこの輪が消える時まで、神戸への出入りはできなくなります。輪のあるうちに、厄災を片付けるべし」
「その輪は何日保つんや、亜里砂」
 アキちゃん無意識やったんやろ。ついつい昔の癖というか。その名前で憶えてんねんから無理もないけど、天使は亜里砂と呼ばれたことにマジギレしていた。
「亜里砂ではない! トミ……やのうて、聖スザンナです! 同じこと何遍も言わせんといてちょうだい!」
「はい……すみません。聖スザンナです……」
 ピシャーン言われて、アキちゃん顔を覆っていた。たぶん情けなかったんやろ。アホらしすぎて。それとも、何かの幻想が崩れてもうたんかな。トミ子がこんなアホみたいで。もっと可愛かったんかな、亜里砂ちゃんの頃は。どうせ可愛いフリしとったんやで。こっちがこいつの本性で間違いないんやから。
「神はあなた方の戦いを祝福しておいでです。天使の輪の中では、神の聖なる力場により、御心にかなう者には霊力さらに倍のボーナスが付与されます。もしも死んでも殉教者として、無条件で天国にお迎えできます。その際、過去の行いは不問です。心おきなく戦いなさい」
 どんな特典や。死にとうないわ。復活ボーナスとかないんか。ケチやなあ神!
「霊力、さらに倍……」
 そこやないやろ、っていうところに、大崎先生は反応していた。コンプレックスやったんか、霊力不足が。あるよね、そういうの。人それぞれあるよ、悩みはね。
 霊力不足になんの問題があるかというと、まあ一つには、強い式神を従えられへんということや。相手をねじ伏せるのに力が要るし、養うていくにも血の力が要る。
 せやけど秋尾みたいに、神に遣わされてやってきたようなのは、げきに見合わんような力を持ってても、大人しく付き従う。主神である神、秋尾の場合は伏見稲荷の権現さんやけどな、それとの主従関係があるから、任務には逆らわれへんのや。
 せやけど肝心のげきに、それを操るための力がなければ、せっかくのお狐様を付き従わせてても、霊力をフルには発揮させられへんもんらしい。すごい車持ってるけども、運転が下手、みたいなもんか。
「倍かあ……」
 しみじみと秋尾が言うてた。
「倍あったら先生、僕もいけます」
 何の話や狐。俺はすごく期待して見たが、そんな話ではなかった。
「変転して戦える。ほんまもんの姿に。白狐びゃっこやで先生」
「そうか。張り切ろか、今生の思い出に!」
 爺、むっちゃ張り切ってたで。思わず立ち上がって宣言していた。そこまで燃えて大丈夫なんか、いきなり倒れたりせえへんやろなあ。年寄りなんやから、ほどほどにしとかんと。
 しかしそれが心配ではないんか、秋尾はにやりと笑っていたわ。こいつがこんな顔すんの、初めて見たわ。うっとり徒っぽいような、けだものくさいほくそ笑みやった。やっぱり嬉しいんやろ、水煙やないけども、時には燃えたい。それはそうやろ、こんこん狐は神やけど、けだものでもあるんやから。
「そんなん、十年前にもしてくれはったらよかったのに」
 蔦子さんがぼやいた。それを聖スザンナが、びしっと指さした。
「そこです! この戦いは我が主にとっては骨肉の争いです。蛇との!」
 俺は本能的にオタオタしていた。そして餅は本能的にか、胸の前で十字を切っていた。
「東の海より蛇の眷属が現れます。それが地下の悪魔サタンを目覚めさせようとしています。これが全ての元凶です。倒しなさい、本間暁彦!」
 蔦子さんを指していた指で、聖スザンナは今度はアキちゃんを指し示した。
 えっ、俺、って、アキちゃんはまた動揺していた。
「龍を倒すの?」
 どう見ても、昔は親しかった相手に訊いてる口調やった。アキちゃん、聖スザンナやから。知らん人なんやからさ。そういうフリしてやれよ。
「それは無理どす」
「できるわけがない」
 蔦子さんと大崎茂が同時ツッコミやった。
「神に選ばれし者に、不可能はありません!」
 トミ子はがつんと言うてやっていた。いいぞう、トミ子。お前は強い。最強なってきてる。アキちゃんを守ってやってくれ。せっかく羽根まで生えたんやから、守護天使をやれ。
「自分を信じなさい。神は他ならぬ貴方を名指されたのです。貴方にはできる。もっと自分の可能性を信じるのです」
 ビシイみたいに指さしたまま、聖スザンナはむちゃくちゃ強い声して、アキちゃんに暗示をかけていた。たぶん、そういうことなんやと思う。信じなあかんねん。アキちゃんはもっと、自分の力を信じなあかん。トミ子が言いたいのは、そういう事なんとちゃうやろか。
 しかしアキちゃんにとって聖スザンナは、天使やなかった。昔の女やった。だって信仰心なんかないんやもん。キリスト教徒と違うから。アキちゃんにとっては天使なんて、絵の題材か、せいぜいが萌えキャラやで。
「可能性って……できへんよ。龍なんか、見たことないしな。せめて、何かないの、龍はこう倒せ、みたいな、初心者向けの入門編みたいなの。そういうのでも無いと無理やで、亜里砂」
 猿でもできる龍退治、入門編。そんなもんはない。
 それにまた言うてもうてた。亜里砂って。
 怒ったよ、聖スザンナも。仏の顔も三度って言うけど、これ三度目やったっけ。天使でも三回目で限度なんかな?
 もともと指さしてた指を、空中からさらにずずいとアキちゃんの眉間を指して押し出してきて、天使は言うた。
「逃げ腰やねん、暁彦君は」
 どう聞いてもそれは、天使やのうて、別れた元カノの声やった。アキちゃんは、いきなりのその罵倒に、ガーンてなってた。言われたくなかったんやろ、亜里砂には。
「いっぺんでもウチに、自分から電話してきたこと、あった? 何食べたいのって訊いても、なんでもええよって、いつも言うてたでしょ。お前の料理はなんでも美味い? それはね、ちょっと聞く分にはええんよ、優しいみたいなんよ、せやけど結局ね、あんたは自己主張が薄いんよ!」
 めちゃめちゃ言われはじめていた。しかも皆さんお揃いの場で。
「絵の中でしか、本音出されへん。せやから絵を貶されたら耐えられへん。この絵は嫌やてウチが言うたくらいで、一瞬でキレてもうて、子供やないんやから。言いたいことあるんやったら、言うたらよかったんえ。もっと自分をさらけ出して、絵描く時みたいに生きたらええんよ。変やて言われても、そんなアホ笑い飛ばしてやったらよかったんや!」
 トミ子にドヤされ、アキちゃん顔面蒼白なってたわ。さっそく許容量越え。またもやノーリアクションやで。
 怒ったらあかんとか、キレたらあかんとか、そういう事を思ってたんやろな。長年染み付いたアキちゃんの癖や。激情を抑える。穏和にクールに。熱くはならず。それが俺のキャラやって、自分に言い聞かせてきた。
 せやけどアキちゃんて結構、熱血な子やで。情熱的やし。燃える時には熱く燃えてる。それがきっと、ほんまのアキちゃんの正体やねん。
「格好悪うてもええやないの。それがほんまの自分なんやったら、それでええんよ。ウチが惚れたんは、絵描いてる時のあんたなんえ。暁彦君は、絵描いてる時が一番素敵や。一番格好ええわ。夢中で本性さらけ出してる時が、一番ええんやもん。だから心配することなんもないんえ」
 諭すおかんのような口調で別れた女に言われ、アキちゃんはぐうの音も出てへんかった。ただただ困ったような険しい顔をして、指さす天使を振り仰いでた。
 ていうか、トミ子。お前もそんなこと言うんやったら、顔出して見せろ。お前のあの、怪物的な非・美貌を。せっかくやからアキちゃんに見せてから行け。いったい自分がどんな女と付き合うてたか、アキちゃんには知る権利があるやろ。
 俺はもちろんそれを、トミ子に突っ込みたかった。せやけど、この時ばかりは空気を読んだ。だって絶対正念場やで。ここでスカしてもうたら、アキちゃんにはもう後がない。あと三日やしな、正味の話。ドラゴン倒さなあかんのやしな。目覚めてもらわなあかんやんか。自分の持ってる真の力とか、そういうのがあるんやったら、突然使えるようになってもらわなあかん。
 トミ子はきっと、その奇跡を起こすために来たんや。そのための天使やねん。せやからガンガン行け。もう一押し、なんか言えトミ子。なんか言えとテレパシーを送る俺の念波は、なんでか聖スザンナではなく本間暁彦のほうを喋らせた。アキちゃんがここで何か話せるとは俺は全く予想だにせんかった。きっと永遠に固まったままやと思ってたわ。
「お前な……そんな女やったっけ……」
 悩むような顔をして、アキちゃんがぽつりと言うた言葉に、今度はトミ子がぎくっとしてた。どうも逆襲が始まるらしかった。
「いつも大人しそうな、大和撫子みたいでさ、俺に文句なんかいっぺんも言うたことなかったやないか。それが何やねん、今さらんなって、思い出したみたいに偉そうな愚痴言いやがって」
 アキちゃんは、なんか思い出してるような顔をして、眉間にしわ寄せ、天使の光輝が照らす、店のコンクリート敷きの床をじっと見つめた。もちろん店にいた他の皆さんも、そんな本間暁彦を、黙ってじっと見ていた。
「そう言うお前も嘘ばっかりやったやないか。俺のこと騙しやがって、死んだ女の皮なんか被りやがって、俺が何言うても、そうね暁彦君、そうね暁彦君て、基本同意の言うなり女やったやないか。そのくせ、そんなこと思うてたんか。言えばええやん、お前こそ、ほんまのこと言えばよかったやないか!」
「ウチ死人やねん、死んだ美少女の皮被ってんの、それでも好きやねんて言えばよかった? ドン引きするやろ!」
 トミ子、トミ子、天使キャラどこいったん。マジで喧嘩したらあかんのと違う? 今、すごく大事なところと違う? 正念場なんと違う?
 俺はそう思ってオロオロ見てたんやけど、どこで入っていいやら、割って入れるタイミングが無いねん。痴話ゲンカやで、痴話ゲンカ。トミ子マジギレ。そしてアキちゃんもけっこう真面目に怒ってた。
「ドン引きするわ! せえへん奴なんかおるか! 実は死体やねんて言われて、ああそうかぁ、別にええよみたいな男がどこに居るねん!」
「ウチのこと愛してなかったんや」
「そういう問題やないやろ。死体なんやで。死んでんのやで。よう半年も保ったわ!」
 死体がな。愛やのうて。デッド・ボディがですよ、腐りもせずに半年間、よく保ったなあ、っていう話ですよ。そういう事なんやで、トミ子。お前と俺がよくぞ半年続いたわという意味やないねん。アキちゃん、時々言葉が足りないの。分かってやって、お前かて半年付き合うて、それくらい知ってんのやろ?
 せやけどトミ子は知らへんかった。アキちゃんと本音トークしたことがない。実はこんなエグい我が儘なボンボンやって、あんまり知らんかったみたい。
「よう半年も……って。ひどい。好きやったんやもん。好きになってもらおうと思って、なんでもあんたに合わせてたんやないの! 死体に取り憑いて半年も、にこにこ綺麗なままで居るんが、どんだけ大変やったか、あんたに分かる?」
「わからへんよ、そんなん分かる人間おらんよ」
 まあ、そうなんやけどな、アキちゃん。その返事はまずいよ。トミ子の気持ちも考えてやらんと。
 天使はオタオタしてる俺の目の前で、今にも泣きそうみたいな、握り拳を口元にもっていくポーズになってた。少女漫画やったらもう確実に、でっかい目が涙でうるうる来てる。せやけど、この天使の顔は相変わらず目映い光の目隠しの中にある。
 それでもアキちゃんは、泣かしてもうたというのは理解したらしい。急に凹んだ。首を垂れ、がくっと激しく落ち込んでた。こういう風になるのが嫌で、本音トークはせえへんかったんやって、考えてるような顔やった。どうせそうやねん。アキちゃん確かに、逃げ腰やからな。女泣かせるなんて、格好悪いし、そんなんしたない、可哀想やもんて、そういうふうに思う子や。
「ごめん……あのな、お前が描いた絵、見たよ。亨が描いたやつやけどな、お前の絵やろ、芍薬しゃくやくの……綺麗やったわ、お世辞やのうて、ほんまに綺麗や。俺はお前の絵が好きや。なんでお前がいるうちに、あの絵を描いてくれへんかったんや。そしたらお前が死体でも、のけぞるほどの凄いブスでも、全然平気やったかもしれへんのに」
 アキちゃんは、それ言う自分がどんだけ痛いんか、頭痛いわって額押さえてブツブツ吐いてた。今言うとかんかったら、もう言える機会がないかもしれへんて、思ったんやろな。言わずに済ますと薄情で、そういう自分が許されへん。アキちゃんはずっと、そう思ってたんかもしれへん。俺が描いて見せた、トミ子の芍薬しゃくやくの絵を、初めて眺めた時からずっと。
 トミ子は、うえーんて泣くような仕草をした。嬉し泣きか、ブス。良かったなあって、俺も思わずもらい泣きしかけたんやけど、洟をすする天使が、くるりと俺のほうを見て言った。
「亨ちゃん、ちょっと何か喋って繋いどいて。ウチ、なんや、目から汗が……」
「涙や、トミ子。泣きながらでええし何か言うとけ」
 俺は舞台袖から励ますマネージャーみたいな囁き声で、トミ子を必死で励ました。お前、これラストチャンスかもしれへんで。
「そんなん言われても……何言うてたんか忘れてもうたわ。天使やなかったら成仏してる」
「したらあかん、したらあかん。お前、なんか任務あって来てんのやろ?」
 俺はまたオタオタした。頭真っ白なってる、トミ子。大満足しかけてる。本題忘れてもうてる。アキちゃんのケツ叩きに来たんとちゃうの。そういう事やったんやろ?
「任務? 任務て……なんやったかしら。暁彦君、ウチな、天国で絵描いてんの。お前、絵上手いしって言うてもろてな、この世の美を描き出せって、ものすご大きい壁画を描いてんの。いつまでかかるか分からへんのやけど、綺麗なもんいっぱい描けて、それで天国に来た皆さんに楽しんでもらえてて、ウチは楽しい」
 一生懸命話すハナタレのトミ子の話を、アキちゃんは、うんうんて聞いてやっていた。聞くしかなくて、他の皆さんも聞いていた。
「今ね、いまだかつてないぐらい穏やかな気分やねん。今の仕事が、合ってると思うんえ。せやし、ウチは幸せやねん。心配せんといて。暁彦君と別れて寂しいけど、でも絵描いてたら幸せやから、それでええの。ウチの絵好きやて言うてもらえたしな……ウチ、頑張って絵描くわ」
 なんでか蔦子さんがもらい泣きしてた。うっ、て泣き崩れてハンカチを探す蔦子さんの、手間取る手を見かねたんか、大崎茂が困ったような渋面で、懐にあった手拭い貸してやってたわ。見たけどな、俺は目ざとい。それはアキちゃんちのおかんが作らせている、蜻蛉とんぼの柄のやつやったで。爺、どこまで秋津家マニアやねん。
「ウチ、天国からいつも、暁彦君のこと見守ってるから……。あっ、見守ってもええ時だけやからね、気にせんといて。覗いてないから」
 言わんでええねん、トミ子。言わんかったら気にせえへんのに。言われてもうたら余計気になるやんか、今見てんのかなとか気になって、アキちゃん自由に俺といちゃつかれへんようになるやないか。
「亨ちゃん……ええ子やで。二人で幸せになってね。指輪、金よりプラチナがええって、亨ちゃん言うてたわ。自分の世界で……」
 なに暴露しとんねん!!
 覗きまくってるやないか、お前! センチメンタルな俺の世界を!
 確かにそんなこと言うた。心の中でやで。確か、喫茶「いつも朝飯」を出たあたりでや。トミ子、いつからストーカーしとってん。まさか常時か。常時監視か。俺がうだうだ考えてたことも、実は全部知っとったんか。それで俺がトミ子来てくれって頼んだから出てきたんか? ひどい、もっと早うに来てくれよ!
「プラチナ……?」
 アキちゃんがぽつりと言うて、俺を見た。皆、俺を見た。蔦子さんもボロ泣きしながら俺を見た。半笑いで神楽遥も見た。苦笑いで藤堂さんも見た。見るな皆、俺の赤い顔を!
「なんでもない! なんでもない!! 要らんこと言わんでええねん、聖スザンナ。ありがとう、もう帰ってええわ! もう用事ないならとっとと帰ってくれ!」
 顔を隠して、俺はほんまにジタバタしていた。知らんもん、こういう時にどのようにやり過ごすもんなのか。
 アキちゃんは、そうかプラチナかぁ、って、ぼけっと言いやがるし、何の話どす、って蔦子さんは泣きながら興味津々すぎるしやな。堪えきれずに、しおしおなって席に戻って、テーブルに突っ伏していた俺を、トミ子は薔薇に包まれて、有り難い後光を背負って見下ろすし、それがサービスとでも思ってんのか、俺の頭の上に薔薇の花びらと何や知らんキラキラしたもんを、じゃんじゃん降らせてた。
悪魔サタンを改心させた偉業を思えば、次なる蛇も何とかできるやろ。よろしゅうお頼み申しますって、我がしゅからの預言です。神戸は大事な布教の足がかりやし、ここらで一発、ど派手な奇跡を見せとこかって、そんな思し召しやさかい、なるべく派手めにお願いいたします。天の父なる主には栄光。地には、御心に適う人々に平安を。讃えよ、讃えよ、救いの御業をハレルヤ ハレルヤ ホザンナ。父と子と聖霊の御名によりて、かく行われるべしアーメン
 じゃんじゃん花を撒き散らしながら告げ知らせ、聖スザンナは猛烈な光を発して、一瞬にして店内から掻き消えた。
 後にはまだしばらくの間、沢山の薔薇の花と、その芳香が残されていた。そしてもちろん、気まずい沈黙も残されていたんや。
 わあわあと、テレビ中継の阪神戦が、よそ事みたいな歓声を上げていた。
 俺は未だに恥ずかしく、テーブルに突っ伏したままでいた。ほんまに勘弁してくれトミ子。いずれ折を見て返事しようかなって、そんなほのかな気持ちでいたのに。なんで暴露すんねん。しかも衆人環視のもとで。恥ずかしいやないか。
 えへん、と、餅が咳払いをした。
「見ちゃいましたね、天使」
 初めて見たわあ、って、そんな感じで、餅は感慨深そうにコメントをした。
「見てもうた。ほんまに居るんや、天使……」
 くらくら来たみたいに、藤堂さんが呟いた。なんやねん、居らんと思ってたんか。見たことないもんな、普通。俺かて正真正銘のは初めて見たわ。勝呂はもう堕天使やったしな。
「ほんまに居るんや、神様」
 しみじみと言う藤堂さんの声がして、俺は突っ伏した腕の合間から、その険しい顔を盗み見た。居らんと思うてたんか。なんで。居らんと思うぐらいやったら、一体あんたは何を恐れてたん。信じてたやんか、ずうっと信じてた。神様居るって、思ってたやん。それで蛇が怖かったんやないか。
 天使出てきて、ビビってもうたか。遥ちゃんと別れよか。
 藤堂さんも、そう思ったんかもしれへんわ。冗談言うてた。神楽遥に。
「やっぱり無かったことにしよか」
 にやにや笑って訊く藤堂さんを、神楽遥は青い顔して、じろっと睨んだ。
「何を今さら言うとうのや。こうなったら居直りですよ。天使もこの蛇を祝福していったんや、何でもありです。僕は別れませんから」
 神父はビビってもうて、返ってヤケクソなってきたらしい。ブチキレたみたいに小声で宣言いた。
「ロレンツォ……」
 目をしょぼしょぼさせて、餅が神楽遥を呼んだ。それに破戒神父はびくっとしていた。怖いんやったら、やめてもええんよ、遥ちゃん。離婚して元鞘戻るという手もありよ。
「あのね、今のやつね、報告書にまとめてヴァチカンに送っといてくれるかな? 写真撮ってみとけばよかったなあ。絵でもいいんだけど。確か本間さん、絵描きさんでしたよね?」
 餅がアキちゃんに、今の奇跡の絵を描いてくれと頼んでた。さすが大司教、強者や。アキちゃんに少女漫画みたいな光景の絵を描かせようとは。
「描けますけど……ああいうのは、こいつの方が得意ですし、こっちが描いてもいいですか」
 こっちって誰。俺やないか。
 アキちゃんは俺に、神父がヴァチカンに送る添付資料の絵を描けと言うてた。
 あのなあアキちゃん、俺は蛇やで。教会の敵なんやで。その俺がなんで、ローマ教皇に少女漫画ふうイラスト描いて送ってやらなあかんねん。どんな仕事やそれは。大司教、あかんて言うわ。
「いいですよ、別に誰が描いてくださっても。広報に使ってもいいですか」
「いいですよ、タダやないなら」
 さらっとアキちゃんはそう答えた。何言うてんの、ケチやなあ、ボンボンのくせに。
 せやけどアキちゃんは、絵描きを志していた。タダで絵描くのやめようって、思ったらしかった。どうもそれは、おかんの教えらしい。タダで働いたらあかんえと、あのおかん、息子に教えてたらしいわ。おかんは無料では舞わへん。アキちゃんにとっては絵がそれに当たるもんなんやから、タダで絵描いてやったらあかんらしい。それが稼業や、それで一族を養っていくわけやからな、当主としての心構えやで。
 でも、描くの俺なんやろ。俺も一家のひとりなんや。そらそうやろな、結婚すんねんから。家族やもんな。ていうか元もと、アキちゃんに養われてる身なんやけど、俺は。アキちゃんのおかんに養われているというかやな。
 それが先々はアキちゃんが絵筆一本で俺を養うつもりらしいで。勇気あるなあ。それに不足があるとは思えへんのやけども、どうせやったら俺も働こうかなあ。アキちゃんと一緒になんかできるんやったら、それはそれで幸せ。トミ子のお陰で、俺も絵描けるようになったしな。何とはなしに女くさい絵なんやけど。この際、贅沢言うなやで。
「ええやろ、亨」
 一応、今さら訊いてくれたアキちゃんに、俺は渋々頷いた。まだ恥ずかしかったんや。
 だって藤堂さんが心底驚いたという顔で俺を見た。
「絵、描くの。お前が? 絵、描けんのか?」
 めちゃめちゃ真面目に真正面から目を見て訊かれた。お前、俺んとこ居た時には、そんなんせえへんかったやんかという事やろう。
「うるさい。描けるようになったんや、諸般の事情で。お前にはもう関係ないやろ、ほっといてくれ!」
「どんな絵描くんや。いっぺん見てみたい」
「絶対見せたくない。見んといてくれ」
 ほんまに見んといて。ファンシーな絵なんやから。それはトミ子の画風なんやと思うけど、いちいちあいつが来て描かせてるわけやない。たぶん俺が描いてんのや。綺麗なお花とか、そんなセンチメンタルな絵をさ。それが猛烈につらいのよ、俺のキャラと合うてへんのよ。恥ずかしいのよ、藤堂さん。
「届いたら、見せてあげますよ」
 悪魔サタンそのものみたいな声で、神楽遥が藤堂さんに囁いていた。おのれ神父。まだまだ俺を苦しめる気か。羞恥プレイや、ひどすぎる。
 ていうか、おっさん、何しに来てん。要らんやん、藤堂さん。要らんのに居るからやな、こんな恥ずかしい思いを俺がするんや。帰れ。お前も帰りなさい。霊振会の人と違うんやから。ただの宿泊先の支配人やろ。素人やんか。
「さて、そちらのお話は終わりましたか、大崎先生」
 ああ、しんど。狐とビール飲もかって、こっちに心持ち背を向けていた大崎茂に、藤堂さんはにこにこ声をかけていた。
「んっ。なんや、まだ居ったんか、藤堂卓とうどう すぐる
 ビール飲みかけていた大崎茂は、なんでかちょっと気まずそうに、わざとらしくびっくりしていた。
中西卓なかにし すぐる
 にこやかに、藤堂さんは訂正を入れた。大崎先生はそれを斜に見た。
「それがどないしたんや、死にぞこないが、儂になんか用かいな」
「いくら打診しても会うていただけないんで、こんなところまでお邪魔しまして。うちのホテルの構造がおかしい件で、先生にちょっとお伺いせんとあかんと思いまして」
「なんでこんな会合の場所まで知ってんのや、しつこい男やな」
「蛇の道は蛇です。情報源なんかいくらでもあります」
 その情報源は誰の目にも神楽遥やったけど、破戒神父は完璧に居直っていた。フンみたいな顔をして、ごくごくビールを飲んでいた。案外いける口らしい。薔薇の花びらに埋もれたグラスから、軽く一杯飲み干して、注いでやろかという大司教様から、遠慮なく酌を受けていた。
「うちのホテルは七十五室しかありません。どうやって二千人も泊まってらっしゃるんですか」
「うるさい。金払うて言うてるやろ。ごちゃごちゃ言うな。わしを誰やと思うてんのや」
 追求を受けて、大崎先生は駄々っ子みたいな返答をした。それに狐は苦笑してたが、特に諫めはせえへんかった。甘やかしてるらしい。お前が甘やかすから、こんな爺になってもうたんやないか。
「大崎先生、あんたはマナーの悪い客や」
 にこにこしながら、藤堂さんは断言した。それに大崎茂はむっとしていた。
「契約書、読んでないんですか。ホテルの設備に損害を与えるようなお客様は宿泊をご遠慮いただくことになってます。勝手なことしてもろたら困るんです、あんたのホテルやのうて、俺のやから」
 スーツの内ポケットから煙草を出して、藤堂さんは銀色のライターで火をつけた。その一口目の薄煙を、ふはあと吐くと、大崎茂は隣の隣の隣やのに、敏感そうに鼻を覆って、ものすご嫌そうな顔をした。
「やめろ、煙草を吸うな。わしは喘息の気があんのや。それに癌にでもなったらどないしてくれんねん」
「しんどいですよ、癌は。どんだけしんどいか。早う死ねみたいに思ってくれはって、ありがとうございました。まだまだ死にませんから。たぶん先生よりも先まで生きてる。絵をお譲りできそうもなくて残念です」
 めちゃめちゃ嫌みに、藤堂さんは言うた。それに大崎先生は、さらにむかっと来ていた。
「あの絵ねえ、そろそろ見飽きたんで、棄てようかな。俺もあの絵の蛇には、ほんまにひどい目に遭うたんですよ。腹立つし、めちゃめちゃ破いて燃やしてまいましょうか」
「よせ! 絵に罪はないやろ!」
 ひどいこと言う、藤堂さん。よくも俺の目の前で。
 そして大崎茂も、なんでか知らん、ギャアってなってた。
「聞いたんですよ……西森から。ご存じでしょう、先生も。あの祇園の画商の男ですよ。大崎先生、本間先生のファンなんでしょ」
 アキちゃん、ぶうってジンジャーエールを吹きそうになっていた。可哀想に。ほんまはビール飲みたいのに、運転せなあかんからジンジャーエールで我慢してる。それをやっと飲もうとしたら、今度は吹かされて気道に入った。しかも炭酸なんやからつらい。げっふんげっふん言うてるアキちゃんの目の前で、爺は若干、赤くなっていた。
「誰がファンやねん! この若造が、駆け出しで可哀想やから、目ぇかけてやっとるんやないか!」
 いきなり退路なしやで、大崎茂。なんでそんな慌ててんのやろ。
 たぶん、藤堂さんが、もっと何か言いそうな、意地悪そのものの顔してたからやろう。
「他にもね、聞いたんですよ。大崎先生、ずっと前から探してる絵があるらしいですよね。所蔵してへんか、西森にも訊きはったとか」
「な、なんや……知ったことか。わしは好事家なんや。絵を集めんのが趣味なんやで。探してる絵くらいあるわ」
「その絵の画家の雅号は、暁雨《ぎょうう》というらしいです。探しに来た秘書の子が、いろいろ喋っていったらしいですわ」
 あ痛ぁ、っていう気配のため息を、口を覆った狐が吐いた。
 大崎茂はそれを鬼のような目して睨み、秋尾、と、唸るように呼んだ。せやけど、口の軽かったらしい狐は、ブルってもうてて一言も答えられへんかった。
暁雨ぎょううって、アキちゃんの雅号やわあ」
 空気読めない蔦子さんが、泣き濡れて益々色っぽさを増した濃い睫毛のまま、小さく洟をすすってビールを舐めていた。たぶん言わんでええことやった。大崎茂にとって。
「茂ちゃん、なんでアキちゃんの描いた絵なんか探してんのや。嫌いなんやろ、あの子のこと……ほんまは好きやったん?」
 とろんと言われて、大崎茂は暴発していた。
「好きなわけあるか! あ、あ、あいつな……勝手に絵描いて売りよったんや!」
 幼馴染みのお姉ちゃんに、あの子が憎いとチクるノリで、大崎茂は話してた。
「勝手にって、アキちゃん、何を描いたん?」
 知りたいわあ、って、蔦子さんは無邪気なもんやった。この人ちょっと、天然入ってるところあるんやろなあ。アキちゃんにもあるもん。おかんにもあるしな。きっとそれが秋津家の血なんやで。
「妖怪図や。白狐の絵やないか。こいつな……」
 横にいる秋尾を指さして、大崎茂はぷんぷん言うた。
「俺がどんなんしてやっても変転せえへんのに、アキちゃんが肩に触っただけで、白狐に変転したんやで。どう思う。伏見権現の言いつけやなかったら、俺よかアキちゃんに仕えたかったんや。絶対そうやねん」
「そんなことない、先生。そんなことないですよ。先生が世界一やから」
 狐は必死でヨイショしてたけど、大崎茂は嫌やみたいに首を横に振っていた。
「エロ臭い絵なんですよ、奥様マダム。その狐の絵ね」
 わざわざ席を立ってまで、藤堂さんはテーブルごしに、蔦子さんに酌をした。その妖しい感じのする目を見上げ、蔦子さんは、まあ、ええ男やわあみたいな顔をした。
「なんでご存じなんどす?」
「持ってるからですよ、そんなん決まってるやないですか」
 まさに縁とは異なものやった。藤堂さんは気持ちようてたまらんみたいな顔をして、また席に戻った。それを眺める大崎茂の顎は、がくんと落ちていた。
「ずうっと前にね、俺が仕事で京都に移ったばかりの頃です。東山の某ホテルに居りまして、そこの絵を買い付ける縁で、画商の西森という男と知り合いまして、俺の仮住まいのマンションが殺風景やなあということで、絵を買え言うんです。それで、仕事でギャラリーに寄ったついでに、自宅用のも買うたんですよ。その狐の絵ね、部屋には合わんかったんですけど、どうしても気になる変な絵でね。なぁんとなく買うたんですよ」
 店が出してた突き出しのピスタチオを、藤堂さんはにやにや割った。器用そうな指やった。実際、器用やで。ただ豆の殻割ってるだけやのに、なんとなく、手品師の指先みたい。その優雅な手つきを、蔦子さんはじっと面白そうに見ていた。
「縛ってあるんですよ、狐」
 苦笑して、藤堂さんはピスタチオを食うてた。
「しごきっていうんですか、着物の帯やと思うんやけど、七五三のときに、うちの娘も使ってました。真っ赤な薄い帯やねんけど、それで狐が縛り上げられてる絵なんです。エロティックでねえ。しかもそれが、夜中になると、くんくん鳴くようです。ちょっと、切ないみたいにね」
「そんな絵やとは聞いてへん……」
 わなわな来ながら大崎茂はビールを飲んだ。せやけど飲んでるようには見えへんかった。飲んでるフリしてるだけやねん。
 秋尾は痛恨の表情で押し黙っていた。
「僕も知りませんよ、見たことないんやもん」
「絵は見たことなくても、身に覚えはあんのか」
「ありませんよ、そんなん。暁彦様の意地悪やろう。そんなん描いたら先生怒るやろうと思って、ふざけて描きはったんですよ」
「怒るわ!」
 宣言どおりにプンスカ怒って、大崎茂はがつんとビールのグラスをテーブルに戻した。
 俺は、ほんまの話かと思って、殊勝に首を垂れている眼鏡の狐を盗み見た。その視線に気がついたんか、狐もちらりと俺を見た。そして、一瞬、にたりと笑った。照れくさそうな、気まずいけども、根性悪そうな笑みやった。
 狐やからな。大崎茂では調伏できない、伏見の白狐なんやろ、秋尾の正体は。
 しきは自分を支配してる巫覡ふげきに嘘はつけないんやけどな、こいつはほんまに大崎茂のしきやろか。実はただの守り神やないのかな。自分の意志で憑いている。俺がアキちゃんとの契約を切った後にも、未だに取り憑いて離れへんみたいに、大崎茂が気に入って、ただずっと居座ってるだけやないのか。式神みたいな顔をして。
 式神が他のげきから使役を受けるなんて、そういうこともあるんかな。アキちゃんのおとんのほうが、大崎茂よりも能力が上で、そやから秋尾を変転させられたんか。アキちゃんのおとんて、そんな悪い子やったん。他人のしきを寝取ろうなんて、そんな悪党やったんや。
 ふうん。さすがはアキちゃんのおとんやな。手癖が悪い。
「幾らや」
 ドスの効いた声で、大崎茂は藤堂さんに訊いた。
「売りません」
 豆食いながら、藤堂さんはにこにこ言うた。
「なんで売らんのや。素人がそんな絵持ってても、ええことないで!」
「けっこう可愛い狐やし、気に入ってるんです。でも、そうやなあ、先生。今回うちで何してはるか、詳しく教えてくださったら、俺も考えます。それが嫌なんやったら、俺も素人やから、祟るような絵やった怖いし、西森に言うて競売にでもかけましょうか。先生の知らんところで」
 うふって笑って、藤堂さんは機嫌が良かった。
 こんな悪い子やったっけ、藤堂さん。まさか俺の血?
 それとも、もともと、仕事場ではこんな、根性悪いおっさんやったんかなあ。
「……藤堂卓とうどう すぐる
 唸るみたいな声で、大崎先生は呼んだ。その歯がみしそうな歯列の中に、鋭い犬歯が混ざってた。
 大崎先生は相当な歳やろうけど、歯は全部そろってた。肌の色も綺麗やで。爺なんやけど、色白で健康そうな肌や。ほんまやったら、とっくに死んでるような歳かもしれへん。それでも超人的な胆力で生きている。たぶん、狐憑きやし、ちょっとばかし混ざってもうてんのやろ。狐と仲良うしすぎたんかな。
中西卓なかにし すぐる
 藤堂さんは、わざわざまた訂正していた。にこにこと。
「どっちでもええわ! この、外道めが。何が目当てや」
 爺、マジで怒ってた。それでも藤堂さんは余裕で豆食うてたわ。
「いやあ。目当てというか。ひとつには、うちのホテルで好き勝手せんといてくれという話ですけどね。もうひとつには、せっかくお泊まりいただいているんで、当方でも何かお役に立つことはないかと思いましてね」
「お役に立つやと?」
「地震でしょ、先生」
 藤堂さんは、ちょっと切なそうに苦笑した。
「うちの親は、先の震災で死んだんです。妹夫婦もね。甥っ子たちも。皆、長田に住んでましたんで。火事でやられてもうたんです。それに、うちの従業員にも、被災した者は多いです。みんな地元の子やからね。これも何かのご縁でしょう。こそこそせんと、一枚噛ませてくださいよ」
 にっこり笑って、狐とは違う蛇の歯のある口元を、藤堂さんは見せた。
「そんなん……最初からそう言うたらええやないか」
「いや、恨んでるから、大崎先生のこと」
 むっちゃ爽やかに、藤堂さんは教えてやっていた。大崎茂はそれに憮然としたけども、言い返しはせえへんかった。
 まあ、そりゃあ、禿鷹みたいに、藤堂さんが死んで、あの絵が戻ってくんのを待ってたんやで。恨まれてもしゃないよな。そいつのホテルに泊まろうなんて、大崎茂も無神経というか、ええ面の皮なんやで。
 しかしやな、そんなことは、大事の前の小事である。神楽遥の言葉を借りれば。
 些細な恨みや鞘当てで、ギスギスしている場合ではない。総力をあげて戦うべきときだ。他ならぬ大崎茂が、ついさっきそう言うてた。
「わかった。始まればな、何日かかるか分からへん。できたら近隣の住民の避難所にもしたいんや。野戦病院というかやな。普通の怪我やないからな、死の舞踏にやられた怪我は。そういうのに、お前のホテルを使うてもええか」
「いいですよ。人を泊めんのが商売やから。それに、うちには最近、医者も居るしね」
 それで満足したように、藤堂さんは灰皿をとって、煙草を揉み消した。
 そして大崎茂と、おとなしく聞いていた餅の大司教の空っぽなってたグラスに、ビールをなみなみと注いでやり、自分のグラスも手酌で満たした。
大司教様ファーザー
 カトリックの礼儀やわ。まずは高僧に酒杯を上げて首を垂れ、藤堂さんは敬意を表した。そして大崎先生に、自分と乾杯させていた。
「先生、お代はがっぽり取りますからね」
「取れ取れ、払うたる。俺を誰やと思ってんのや。世界でも有数の大金持ちやで」
 ヤケクソみたいに、大崎茂は酒をくらってた。大司教もにこにこ付き合い酒やった。秋尾はほっとしたように、いつもの淡い笑みやった。蔦子さんは、みんなアホやと言いたげな苦笑顔。そしてアキちゃんは、誰も見てないテーブルの下で、俺の手を握ってた。
 亨、どうしようかと、アキちゃんの心が俺に囁くのが聞こえてた。
 心配せんでええねんジュニアと、水煙がそれを慰めていた。たぶん俺のことも、水煙は慰めていた。心配することはない。秋津の者は俺が守ってやるからと。
 だけどまだ、アキちゃんに打ち明けてない。水煙と俺が、あの犬を生け贄に出すつもりなことを。肝心の祭主であるアキちゃんには、話していない。
 トミ子にも、相談できへんかった。結局、肝心のところは何も。トミ子やない。聖スザンナやけど。それでも神聖な輪っかをかぶった身の上で、俺とアキちゃんを祝福してくれた。ええ奴や、あいつはほんまに、ええ奴なんやで。
 厄災の日まで、あと三日。平和な夜は、あと三回しかない。アキちゃんと抱き合って眠る平和な夜が、まさかあと三回しかないってことは、ないやろなって、俺は内心不安やったわ。たぶんアキちゃんもそうやったんやろ。人前や。誰も見てへんけども、皆の居るとこやねん。そこでもずっと、俺の手を握っててくれた。お前の手を離さへんて、そういう意味に思えたし、俺はその手の温もりに、なんとかギリギリ癒やされていた。
 皆が酒飲んで見上げるテレビ画面では、阪神がボロ勝ちしてた。今夜負けたら敗退と、心配していた信太のことが、ちらちら脳裏に過ぎっていたけど、それはいつか、アキちゃんに抱かれて想ったような、不実な虎の幻影ではない。
 まさかあいつが死ぬなんて、そんなことあったら、どうしよう。何の義理もない虎やけど、それでも縁のある虎や。あいつが死んだら可哀想。何とかできへんもんやろか。アキちゃんには、そんなこと、どうでもええんやろか。信太のこと、あんまり好きやないみたいやしな。せやけど、たとえそうでも、死ねばええよと割り切るような、そんな子やない、アキちゃんは。優しい子やねんで。
 そうやろ、アキちゃん。
 何とかしてくれるんやろ、って、何の根拠もない頼る気分で、俺はアキちゃんのぼけっとしたような横顔を見た。アキちゃんは、何か考えてんのか、何も考えてへんのか、よう分からんような、ちょっと遠い目の真顔でいたわ。
 その手は水煙の柄を握ったままやった。俺と手を繋いでへん、右手のほうには、それはそれで、しっかり離さん強さで、水煙を握りしめていた。
 結局それが、本間暁彦の人生の縮図やった。右手に水煙、左手に俺の手を、握りしめている。守るみたいに。あるいは、頼るみたいに。その手を離すことはない。絶対離さへんて、そういう強さで握っててくれる。そうやって守ってやれるのは、精々が俺と水煙だけで、アキちゃんには手が二本しかない。それで定員いっぱいや。しきを連れ合いにして、手を引いてつれていこうと思うてんのやったら、それがアキちゃんの、限界やねん。
 おとんはどうやって、両手の指でも足りへんくらいの数の式神を、従えていたんやろ。血をやってたと、水煙は言うてたけども、けだものにエサやるみたいに、時々血を舐めさせて、時々気ぃ向いたやつと寝てやってって、そういう毎日やったんかなあ。そうして山ほど式が居るのに、それでもまだまだ欲しいと思えて、ヘタレの茂の白狐しろぎつねまで、ぶんどろうとしてた。
 それは血筋の性癖かもしれへんのやけど、アキちゃんのおとんには、義務があったんやろ。手駒として使える強い式神を、たくさん抱えておかへんかったら、秋津の総領としての面目を保たれへん。それはそれで必死やったんや。お殿様かてな。
 アキちゃんも、そんな風になりたいやろか。情けないわって、そんな辛そうな顔してた。秋津の家には、そんな力はもうないと、大崎茂に断定されて、アキちゃんは死にそうな顔してた。
 板挟みやな、アキちゃんは。いつだってそうやねん。俺と水煙の間で苦しい。自分の恋愛感情と、家を愛する気分の間で、ゆらゆら揺れてる。その波に激しく揉まれている時にはいつも、苦しい苦しい船酔いみたいな顔してる。
 それでもこの時アキちゃんは、俺が心配して顔見ると、うっすらやけど、優しいような微笑を浮かべた。
「阪神勝ったみたいやな……嬉しいか?」
 やんわり小声で訊ねられて、俺は苦笑で答えてた。
 ほんま言うたら、もうどうでもええねん。それどころやない。俄ファンやしな。どうせモグリやねん。アキちゃん心配やしな、日本シリーズどころやないで。
「指輪、買いに行こうか。この後」
「もう九時やで、アキちゃん」
 普通の店は閉まってる。明日にしたら、って、俺はそういうつもりで教えてやった。
 いくらアキちゃんの神通力がすごくても、もう閉まってる店を開けさせるのは、我が儘やないか。ボンボンやから、別にええやろみたいな気がするんかな。
 アキちゃんは苦笑の横顔をして、伏し目に答えた。
「ええねん、中西さんに頼むから」
 ホテルのショップを開けてくれと頼むつもりらしいで。しかも俺の元カレに。アキちゃんも大した面の皮やわ。せやけど元はと言えば、あのおっさんが勧めた縁談なんやしな、責任とるやろ、俺の元パパも。それのスイート・ハートかて、大喜びで神父やるやろ。すぐるさんを誘惑してた悪い蛇は、可能な限りさっさと片付けてまおうって思うはずやしな。
「三日だけかもしれへんけど、それでもええか」
 照れくさそうに、アキちゃんは俺に訊ねた。
 そう言われた質問の意味を考えて、俺は真顔になっていた。
 アキちゃんは、死ぬつもりみたいやった。三日したら、もう死ぬけど、それでもええかって、俺に訊いていた。何も説明されへんかったけど、そういう意味や。俺には分かる。
 でも、なんでそうなんの。アキちゃんが死ぬ必要はない。なのになんで俺は死ぬって、覚悟決めてるみたいな顔をしていたんやろ。
 訳も分からんのやけど、恥ずかしそうに俺を見る、アキちゃんがいつもよりずっと、大人みたいな顔してる気がして、俺はカタカタ震えが来てた。アキちゃんはその手を、もっと強く握ってくれた。
「そのほうがええか。お前の性には合わんやろからなあ。ずっと俺に縛られてるみたいなのは……」
 眩しいみたいな目で俺を見て、アキちゃんはいつもの、俺が好きやという顔やった。いつもは嬉しく見つめ返したその顔が、今夜ばかりはつらい気がして、俺はそれから目を背け、テーブルの上にグラスの水が描いてた、いくつも重なった輪っかみたいな模様を眺めた。
「そんなことない……永遠にずっとって約束やったやん。そういうもんやろ。そうやないならな、誓いますアイ・ドゥ言わへん。三日だけなんて、そんな、どんだけケチやねん」
 藤堂さんよりひどい。泣いていいなら泣きたいような気がしてた。
 せやけど嫌や。その藤堂さんも、むかつく神楽遥も、大司教も、他の皆も居る前で、俺は泣き崩れたりせえへん。俺にも意地や面子はあるわ。トミ子や蔦子さんみたいに、めそめそせえへんからな。
「そうか……。永遠やったらええのになあ」
 アキちゃんは俺に同感らしかった。でもそれは、約束やない。ただの願望や。
 それにクラクラ目眩がしてきて、飲んでもないのに酔うたみたいやった。たぶん酔うてる。船酔いや。でっかい波に翻弄されてる。もうあかん、船が沈むよりましやから、げきを海に放り込めって、そんな冷たい現実が、嫌でも胸に押し寄せてくる。
 水煙は、大丈夫やと言うけども、ほんまに大丈夫なんやろか。アキちゃん、龍に食われてもうたりせえへんか。アキちゃんのおとんが、海神わだつみに食われたみたいに、その息子であるアキちゃんも、同じ運命辿るってことはないか。
 俺はもうほんまに、元気が出ない。お前は元気が取り柄やと、いくらアキちゃんに言われても、俺かて元気が無いときはある。
 そういう時にはアキちゃんが、俺を励ましてくれる。明日は用事ないみたいやし、どこかに画材を買いに行って、信太や鳥さんに約束してやってた不死鳥の絵とか、藤堂さんに描くて言うてたホテルの絵とかの、下絵でも描いていようかなあって、アキちゃんは俺に話した。そして、お前も仕事やねんから描けよ、スポーツ・バーに光臨した天使の絵をと、アキちゃんはそれがいかにもアホみたいなように笑って言った。
 試合後のヒーロー・インタビューも終わり、店に集まっていた有象無象は、散り散りに帰っていった。大崎茂は狐が送る。蔦子さんは、まるで気を利かせたように、今夜はえらい、昔なじみの茂ちゃんが懐かしいわという顔で、それに同乗すると言い残して、とっとと帰った。
 餅を送っていくとかで、藤堂さんは自分と神楽が乗ってきた車を六甲まで走らせるつもりのようやった。あんた酒飲んでたやろ。飲酒運転やで。悪い奴やで。
 舐めただけやと藤堂さんは笑って答えた。酒強いねん。ぜんぜん酔わへんのやで。酔わせて理性失わせよかみたいな戦法は、一切通用せえへんで。
 いっしょに付いていくつもりでいた神楽遥を、藤堂さんは空気読めへんことに、アキちゃんと俺の車に乗せようとした。お前は先にホテルに帰れと言うて。蔦子さんでさえ空気読んだのにやで。鈍すぎやわ、藤堂さん。
 俺は一瞬恨んだけども、神父はにこにこ悪びれへんかった。
「ホテルのマスターキーを預かってますから、礼拝堂チャペル開けましょうか。僧服がよければ着替えますけど、とにかく早くがよければ、このままででも。たかが服やし、関係ないです。大事なのは誓うことやから」
 早うせえと、神楽遥は勧めてた。決心の鈍らんうちに。はっと我に返らんうちに。アホがアホやと気がつかへんうちに。そんな気分の消えへんうちに、誓いますアイ・ドゥ言うてまえって。
 藤堂さんが、命より大事なホテルのマスターキーを、こいつにほいほい貸すなんて。たかが店と礼拝堂チャペルの鍵開けるためだけに。
 俺は悔しかったけど、それはしょうがなかった。俺と藤堂さんの道は、もうとっくに別れてる。お互い、ただの通過点やった。そこが終着点ではなかったんや。それで良かった。たぶん俺は今のコースで幸せや。しんどいことも多いけど、それでも引き返したいとは思わへん。このまま突き進む覚悟やで。
「ロレンツォ」
 心配そうな顔をして、餅の大司教が俺らのほうを振り返り、白い僧衣を神戸の月のある夜に、白々と浮かび上がらせていた。
「一緒に教会に戻ればええのに。破門やなんて。お前は思い詰める質やから、発作的にそんなこと、願い出てもうたんやないか。気にすることない。懺悔して、悔い改めればええんやで。誰にでも、魔が差すことはある」
 これが最後の機会やと、そういう手を差し伸べる司祭の顔で、餅はやんわりと優しい笑みやった。言わへんかったらバレへんでと、そんなずるさも含ませて、口を拭って戻ればええよと、大司教は神楽を誘うように言っていた。
 神楽はそれを、ちょっと不思議そうに振り返っていた。
大司教様ファーザー、ありがとうございます」
 ほんまに感謝してるみたいに、神楽は小さく頭を下げた。せやけどな、顔を上げたその目は、月明かりの下に立つ、妖しい目をしたスーツのおっさんのほうを見ていた。うっとりと、灯りに吸い寄せられる虫みたいにな。
「でももう、いいんです。悔い改められへんから。このまま行きます。さようなら」
 さあ行こうか、って、神楽は俺とアキちゃんの背を押した。悪い司祭やった。悪魔憑きや。なんせ神聖な教義に叛いてまで、蛇と異教の神官を、結婚させようという破戒神父やからな。
 それじゃ行きましょうかと礼儀正しく大司教を連行していく藤堂さんに、餅はぼやく声やった。ほんま敵わんわ、上になんて言うたらええんや。あの子はお気に入りやのにと、愚痴愚痴文句を言いながら、藤堂さんがエスコートしてやった車に消えた。
 あっさりしたもの。それでバイバイや。必死で仕えてた階層社会ヒエラルキーとも。長年、俺を邪悪な蛇と、さんざん追い立てつづけた怖い僧衣の連中ともや。
 なんやそれが可笑しい気がして、俺がくすくす笑っていると、神楽も可笑しいて堪らんらしくて、一緒にくすくす笑ってた。水煙のいる後部座席で、平気な顔をしていたわ。
 なんせ満月の夜やった。月夜には心の騒ぐもんがある。外道やからな。
 えらい機嫌がよろしいなあと、不思議に思って後部うしろを見ると、リアの窓から月を見上げている神楽遥の青い目が、銀色がかって光って見えた。藤堂さん、相当こいつに入れあげているらしい。とにかく早くモノにしたいと、けがしまくっているんやろ。
 長年、ひとりで彷徨ってきたけども、仲間が居るのはええもんですわ。今はムカつく神楽遥でも、そのうち気の合う友達になれるやろ。なんせこいつも遠からず、血を吸う外道になるんやから。それとのんびりご近所付き合い。そんな未来やったらええのにな。
 祈るしかない。そうなりますようにって。俺にはできることが、何もなかった。竜太郎や水煙みたいに、アキちゃんのために頑張れることもない。永遠に、一緒にいよかって、アキちゃんと約束をして、白金に光る指輪を填めてやる。精々それっぽっちやで。
 おかんがなんで、もう死ぬ男と寝てやって、兄貴やいうのに子供まで、わざわざ孕んでやったんか、俺にはその夜、つくづくようく分かったわ。
 なんでもしてやる。アキちゃんが、そうして欲しいて言うんやったら、たぶん子供でも何でも生んだ。なんでもしてやる。無責任やなんて、全然思わへん。絶対帰ってきてくれるって、おかんはそう信じてたんやろ。踊る骸骨でもええし、大明神でも何でもええわ。とにかく戻ってきてくれる。それでええねん、死んだ男が、もうええわ、消えてもうてももうえわって、そんな気弱にならへんような、後ろ髪を引く何かがあれば、それをよすがに戻ってきてくれる。
 そうと信じて、お兄ちゃんと寝たんやろ。きっとその夜も煌々と、鞍馬の山を照らしてた、明るい月から逃げも隠れもせえへんと。
 その縁が、死んだ男を引き寄せる。ぐいぐい強く引き寄せられて、海神わだつみの手の内からも、愛しい男を奪い返した。それが今では暢気なもんや、愛しいお前と手に手を取って、ラブラブ世界一周旅行やからな。
 せやけど、それまで六十有余年やで。気が長い。いくら長生きする血筋でも、それでも一生のほとんどをかけた、長い長い物語やで。
 それでも信じる者は救われるんや。俺も信じよう。先人を見習って。
 たとえ龍でも冥界の王でも、俺からアキちゃんを奪おうという奴とは、戦ってみせる。奪われたかて、絶対に奪い返してやるで。大人しく泣き寝入りなんて、俺のキャラやない。前にしか進まれへんねん。武闘派やねん、俺は。
 負けるもんかと歯を食いしばり、俺はその夜もアキちゃんに抱かれ、アキちゃんを抱いて眠りについた。これは永遠に続く、ずっと変わりない、いつもの夜のことやと、そう強く信じて。
 やっぱりアキちゃんには、金よりプラチナのほうが似合うてた。俺の目に、狂いはないで。その輪の光る手を、俺はしっかり握りしめてた。誰にもやらへん。俺の男や。アキちゃんは永遠に、俺のもの。そう誓った。今夜の月に。
 アキちゃんが、それでええかと言うたんや。
 何に誓うの、って、神楽に訊かれて。
 普通はな、神に誓うねん。せやけど、誓うてもしゃないやろ、キリスト教の神さんなんかに。
 ほんならどないすんの。おとん大明神か。あの人もいちおう神やけど、一言も相談せえへんと結婚したしな、気まずいやん。
 何でもええねん。すぐるさんなんかホテルにやで。このホテル。ヴィラ北野に誓ったんやで。売ったり潰れたりしたらどうするんやろって、司祭は結婚式の最中やというのに、遠慮無く愚痴愚痴言いやがったが、そうか、そんなんでええならって、アキちゃんは、ちょうど出ていた月を見て、あれでええやんて言うたんや。
 月読命つくよみのみことやて。月も神さんやからな、ちょうどええわということらしい。たまたま礼拝堂チャペルの窓からご笑覧やったしな。それに俺らは夜の眷属、月明かりにはご縁があるわ。そして月は海や水とも縁があるしな。潮の満ち干を起こさせるのも月の力やし、水と月とは切っても切れへん。コップの水かて、実は月に引かれてるんや。
 まあまあ、それならお誂え向きと、そういうことらしい。
 でもな、アキちゃんは知らんのやろか。月に愛を誓うのは不実なんやで。観たことないんか、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』。俺は大昔のロンドンの、地球グローブ座での初演で観たけどな。
 ロミオ曰く。あの月にかけて、あなたへの愛を誓います。それにジュリエット、答えて曰く、あんな不実な、変わりやすい月にかけてはいけません。あなたの愛がそれのように、変わってしまってはいやだもの。あなた自身にかけてお誓いください。あなたこそが私の崇める神だから。
 でも俺は、それをアキちゃんには教えへんかった。月であろうが、自分自身に誓おうが、アキちゃんがあてにならんのは変わりない。それでもええねん。俺は文句は言わず、誓いますアイ・ドゥと言ってやり、アキちゃんとキスをした。
 それは何百何千としたことのある、そしてこれからもするキスの、ほんの通過点やったけど、たぶん一生に一回しかしないキスやった。ただ触れるだけやけど、俺はきっと一生それを憶えてる。今このときの自分が、どんな名で、どんな姿をしていたかを忘れはて、アキちゃんが、どんな姿に変わってしまっても、俺は忘れはしない。この夜に誓ったことを。
 アキちゃんは永遠に俺と居る。俺にとってはそれは、願望ではない。決意やねん。
 俺はもちろん、自分自身にそれを誓った。俺は神やで。他の神なんか要らんから。我と我が身にかけて誓ったわ。アキちゃんを、崇め、守り、愛してやる。永遠に。死にも神にも分かたれぬ、永遠の俺の相方として。
 アキちゃんはそれに、自分も誓うアイ・ドゥと言った。知ろうが知るまいが、それが誓いや。誓いというのは約束で、これは神聖なものや。好き勝手には破られへん。ましてそこらの人間ではない。お前は神と結婚したんやで。俺に黙って死んだらあかん。そんなもん、誰が許そうが、俺が許さへん。
 アキちゃんを抱いて、その手を握り、ぼんやり見上げて眺めると、天蓋の鏡には、眠るアキちゃんの顔が映ってた。まだ若い。ものすごく若い。たった二十一年しか生きてない。死ぬというには、あまりにも若すぎる寝顔やったわ。
 それが俺には、ほんまに泣けた。めそめそ泣いて、心おきなく、神戸に篠突しのつく雨を降らせた。夏の終わりの豪雨やったわ。雨は夜明けまで降り続き、風が鳴き、遠くでは海鳴りが、ごうごうと聞こえてた。まるで海まで、俺の気持ちを理解しているかのようにな。
 泣いてくれ、海にも心があるんやったら。俺は悲しい。アキちゃんとずっと、一緒にいたい。そういう気持ちを、わかってくれよ。お前も神やというんやったら。神戸の海よ。
 しかし荒ぶる海神わだつみは、なんにも答えてけえへんかった。
 ただただ激しく、のたうつばかりや。
 そう。今のところはな。
 明日はどうか、わからへん。未来は見えへん。ケ・セラ・セラやで。俺は絶対あきらめへん。そういう、しつこい蛇やねん。だって、諦めてもうたらお終いやんか。俺は信じる。アキちゃんはきっと、すごい男や。すごい覡《げき》になる。誰も死なへん。きっと待ってる。俺とアキちゃんのための大団円ハッピーエンドが。
 そうと信じ、それを祈って眠りに落ちると、アキちゃんの胸は、すごく温かかった。そこが俺の終着点。間違いなくそこが、俺の楽園やった。


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