R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。
大阪編(12)
俺は残る夏を多忙に過ごしてた。
何日か呆然として、ふと気がつくと、夏の試験もあれば課題もあった。
試験は別に楽勝や。受ければ普通に優はとれる。自分で言うのも何やけど、俺は秀才やった。餓鬼のころから成績は良かった。うちのおかんに言わせれば、俺はお父さんに似て頭のええ子やったんや。
何やらせても、涼しい顔して、そつなくこなす。
そんな、おとんに似てるという自分が、ほとほと嫌で、ちょっと好き。まあ、そんな子供時代やったな。
そんな愛憎入り交じったオイディプスな俺の、幻想の塊みたいやった肝心のおとんは、今や脱力の塊で、ジュニアの意見を百パーセント受け入れ、あっさりカミングアウトして、おかんと嵐山でいちゃついてるらしい。
そんなお喜びの声を、おかんから電話で聞かされ、今年は夏も、帰省はせえへんからと、俺はそれを内心に誓った。ただでさえ凹んでるところに、手痛い追撃や。帰ってやるもんかと泣く泣く決心する気の毒な俺に、おかんはさらに、とどめをさしてきた。
舞ちゃん寄越して、おとんとハネムーンに行ってくるわて言づてしたきり、生まれて初めて作ってもろたパスポート持って、世界周遊気まま旅に出かけていきはった。
プサン、ソウルに上海 と、近場の街の消印つけた、どう見ても普通の郵便やない手紙が、じたばた羽ばたきながら、出町のマンションのポストに届き、封を切るなり紙人形が飛び出してきて、アキちゃんお元気ですか、今日はお兄ちゃんとどこそこへ行ったんえと、聞いてへん俺は聞いてへんみたいな事をぺらぺら喋った。写真付きで。
それは俺には軽く、拷問みたいやったで。
せやけど、実はカメラマンやったらしい俺の名義父、本間さんの撮った写真の中で、おかんは幸せそうやった。着物着てるところしか想像つかんかったおかんが、ソウルではチマチョゴリ着て、上海ではチャイナドレス着てた。チョゴリはともかく、チャイナはあかんと思う。おかんの生足なんか見たことない俺に、膝丈までとはいえサイドスリットは鬼やと思うねん。
にこにこしてるおかんを、にこにこして抱き寄せてる俺そっくりなおとんの写真を、これは俺やと自分に言い聞かせて、俺は耐えた。でもすぐ我慢の限界で、泣く泣く亨に頼んで封印してもらった。あれは俺やない、俺のおとんや。だって俺にはコスプレ趣味なんかない。あってたまるか。
そんな虐待を親たちから日々受けながら、俺は亨を連れて学校へ行き、一緒に絵を描いた。絵なんか描けるんかお前と見くびってる俺の目の前で、あいつは俺が前に付き合ってた女から引き継いだという画風で、鮮やかな絵を描いた。綺麗なもんをそのまんま綺麗に描く、あいつらしいといえば、あいつらしい、あっけらかんとして、まっすぐな絵やった。何の衒 いもなく、ただ描いて、深い意味もないんやけど、綺麗やなあって見る者の目を惹き付けて離さない、そんな画風やで。
見に来たうちの教授が激しく凹んで、亨くん、それは惨いわ。今まで隠してたんか。あまりにも反則やと、がっくり床にくずおれて言うてた。日本画やからな、本来、床にくずおれて描くもんやねんけどな。でも苑先生のは、あれ、ダウンしてたんやと思うわ。
俺は亨の絵に惚れた。思い返してみると、亨が話してた女の描いた絵を、俺は見たことなかった。同じ日本画科にいて、半年も半同棲状態やったのに、俺は彼女の絵を見たことがなかった。見て欲しくないて言われてたんや。自信のある絵がまだ描けへんから、恥ずかしいて言うて。
何が恥ずかしかったんやろ。こんな絵描けてて。俺は自分も大概照れ屋やと思うけど、描いた絵を他人に見せるのを、恥ずかしいと思ったことはない。昔からそうや。なんでかそれには自信があるねん。ただの自惚れなんかもしれへんけど、全力で打ち込んで描いたもんを、隠し立てしてもしょうがない。これが俺やて、そのまま見てもらうしかない。そんな気がするんや。
俺がそう言うと、確か彼女は、暁彦君は素敵やなあと、俺に惚れてる顔してた。それは俺には、恥ずかしかったんや。
本人が見るなと言うもんを、無理矢理暴こうとは、俺は毛ほども思わへんかった。しょせん、その程度の情の薄い男やったんやろ。俺の絵を見ろってそればっかしで、お前はどんな絵を描くんやって、全然思わへんかった。
それも俺の未熟さやった。亨が描いてる花の絵を見て、俺は遅まきながらそれを悟った。きっと、暴いてでも見るべきやった。まだ俺が、彼女に惚れてたうちに。そして、お前の絵が俺は好きやて言うてやるべきやった。それが甲斐性ってもんやろ。
でも、それももう、後の祭りやで。亨の話によれば。彼女はもう、あらゆる意味でこの世の人間やない。俺の声も、聞こえてへんのかもしれん。彼女のほんまの名前を、俺はそうなってから知った。亨が苑先生を脅しつけて強奪してきた倉庫にあった絵に、名前が入ってたんや。富美子 というらしい。
その名に宛てられた字について、亨は心底気の毒やという口調で解説していた。本人から聞いた話では、彼女が生まれる前に、彼女の父親が女やったら富美子と神社から名前を拝領して用意してたんやけど、生まれた赤ん坊の顔を見るなり、その字はあかんと決心して、トミ子と書き換えて戸籍を作らせた。
せやけど巫女の血筋やったという母親のほうが、神様にもらった名前変えたらあかんえと言うて、本人に本来の当て字を教えていたので、それを雅号として使ったらしい。
痛い話やと、亨はコメントしてた。何が痛いのか、俺にはよう分からんかったけど、とにかく画風に合った名やと思う。大体、どんなブスやねん。その名前がまずいというのは。俺は見てへんから知らん。どんなブスでもええやん、こんだけ綺麗な絵が描けたら。どんな美人より、絵上手い女のほうが俺には良かったやろけどな。
俺のその話に、亨は金盥 でも脳天に落とされたような、震えた衝撃の顔をした。アキちゃん、絵がうまいやつが好きなんか、と言って。
そらそうやろ。俺は絵描きなんやで。絵うまいやつが好きや。顔がいいのも好きやけど、それだけやのうて、絵もうまけりゃ無敵やで。
俺がそう言うと、亨は薄汚い作業室で跪 き、手を合わせて祈ってた。富美子、ありがとうやで。ほんまに、おおきに、って言って。何があったんや、お前と彼女の間には。俺に黙って、なんでそこまで信頼関係を深めてたんや。
でもとにかく、亨が絵描いてる姿というのは、俺には意外すぎて、その画風の妙味と相まって、亨の新たな魅力やった。亨が黙々と絵描いてるのを時々眺め、教えてくれ言われて手取り足取り教え、出来上がっていく絵を目の当たりにしてると、それはもう、未だかつてない甘い罠の世界。気は散らへんけど、没入する。紙と絵の具の世界に。あるいは、そこから沈み込んでいく、静かに燃えるような、絵の中の異界に。
俺はその深いトランス状態のような気分の中で、一度は破り捨てた絵を描いてた。一応は夏の課題にあてるつもりで、日本画にした。それなら亨と一緒に描いてても画材が同じで都合がええし。
せやけど、後で考えてみたら、その絵は亨の見てる前で描くようなもんやなかったな。もう描いてもうたから、そんな反省しても意味ないけど、俺は白い犬の絵を描いたんや。
その絵はずっと夏中、俺の頭の奥底にあった一枚やった。その犬は、時にはじっと見つめ、時には甘えかかってきたけど、俺はずっとそれを描かずにおいてた。それが自分にとって、どんな絵なんか、向き合うのが怖くて。
でももう描かずにおれんて、そういう気がして描き上げたんは、すうすう寝てる犬の絵やった。
亨はそれを時々眺めに来て、ものすご嫌みったらしい顔で、可愛い犬やて言うてた。俺はそれに苦笑したけど、なにも答えへんかった。異論無かったこともあるけど、描いてると俺は、喋らなくなる。集中してるんや。そんな愛想ない俺に、亨は何も文句言わんでいてくれた。
あいつは焼き餅焼きやけど、それでもなんでか、控え目なとこある。俺のおかんみたい。綺麗な顔して、えげつないぐらい怖くて強引。でもただじっと我慢して、静かに待ってるようなところが、亨にはある。
おかんが待ってたのは、おとん大明神やった。おかんが抱えてた空洞を、俺では埋めてやられへんかった。せやけど亨が待ってるのは俺なんやろうという、そんな気がしてた。自分一人では完成しない絵の、欠けたところを俺が持ってる。ふたりでぴったり寄り添えば、欠落のない一枚の絵に。その空白を埋めて、満たしてくれと求めるような、誘うような気配が亨にはいつもあって、俺はあいつを強く抱きしめる。そうすると埋まる何かが、自分にもあるような気がする。
それが具体的にはなにか、なんて言って説明すればいいのか、俺には相変わらず分からへん。口下手やからな。もっと何か甘いようなことを言えって、亨にはぎゃあぎゃあ言われるんやけど、それでも相変わらずの無愛想。しょうがないねん、それはもう、ちょっとずつ進化で勘弁してもらわへんと無理。黙りつづけた二十一年の沈黙を破って、ころっと口の上手い男にはなられへんねん。
もう、その話はやめよ。恥ずかしいから。次の話題です。仕事の話。
疫神の絵から始まった俺の不始末は、大阪での長い一日によって、とりあえず解決した。それでも、それが全部やなかった。狂犬病が残っていたし、俺は幸い、それをひとりで解決することができた。例のごとく、ご馳走の絵描いて、こっちへどうぞと二次会に誘う。それで疫神たちは大人しく移動。そんな無難なルーチンワークで、次から次へ病院巡り。
病気のもとが消え去っても、すでに蝕まれたもんが治せるわけやない。狂犬病は人の神経を食う病 らしい。助かっても、重い後遺症が残る人もいた。それでも生きてたって、家族の人たちは泣いて感謝してくれた。俺のことを先生と呼んで、涙ながらに縋 り付く人たちが。
俺にはそれが、後ろめたかった。もともと俺のせいなんやって、土下座して詫びなあかんのは、こっちのほう。
それでも、それについては、黙っとかなあかんえと、おかんに釘を刺されていたし、亨や水煙も、折に触れて忠告してきた。
知っても恨みが残るだけ。知らぬが仏や。死ぬはずやったもんが助かった、嬉しかったと幸せに思ってもろて、この先の人生を恨みを抱えずに生きていってもらうほうがいい。お互いのために。恨みは人を鬼に変えるし、恨まれれば弱る。いいこと、ひとつもあらしまへんえと、おかんは平気な顔や。慣れたもんやというところか。
それも修行のうちやというんで、俺は堪えた。自分はずるいんやないかという自責の念に駆られ、何度か口が裂けそうになったけど、でも結局黙ってた。それは俺の堪え性と、打算と、気の弱さ、そんなもんのない交ぜになった結果やねん。
お大事にと挨拶して、謝礼をとらず帰る俺を、人は善人を見る目で崇めるように見送ってた。でも、ほんまの俺の正体は、罪人やねんで。大勢死なせた罪業が重くて、身動きとれへんような気がするときもあった。
誰か俺を責めてくれって、そんなふうな気分でいたな。
せやから、由香ちゃんのお母さんが、お前のせいやて泣き叫んで、俺を罵った時には、腹はぜんぜん立たへんかった。むしろ感謝してたくらいやったで。
絵を描きながら気を鎮めて、急いでやらなあかん事から、俺は片付けてた。それは生きてる人を助けることのほうで、もう死んでしもてた人たちへの挨拶は、ずいぶん後回しになってもうてた。由香ちゃんには、合わせる顔がない。なんて言えばええんやっていう気後れも、正直あって、俺は逃げてたんかもしれへん。
それでも仕事の順番が巡ってきて、もう行かなあかんて覚悟決め、気合い入れて新調したスーツ着て、俺は由香ちゃんの家に行った。勝呂と同じ、大阪の子やった。
お前が殺したんや、そうに違いないって、由香ちゃんのお母さんは鬼みたいな顔で泣きながら、俺の襟首つかまえてた。そうです、すみませんと、俺は言いたかったけど、ただ詫びただけやった。由香ちゃんのお父さんも、俺に詫びてた。妻はまだ錯乱しているんですと説明して。
由香ちゃんは、俺と同じひとりっ子やった。可愛い可愛いて甘やかされて育って、何でも自分の思うようになるって、何となくそんな自信を持ってる。そんな子やった。
将来ハリウッドで映画のCGやりたいねん、うち才能あるからと、両親を説得し、留学もさせますよと高校生を口説いてる、うちの大学の学生課の宣伝を真に受けて、希望を持ってやって来た。実際そういうチャンスはあったんや。
彼女は学年でいちばんイケてる対抗馬やという勝呂に近づき、その次は俺に惚れた。軟派な子やってんな。支離滅裂やねん。留学目指して頑張る言うてるくせに、遊び回って学校休む。勝呂に、うちら親友やんねと親しげにしながら、あいつの気持ちを踏みにじる。そんな普通の女の子やってん。わがままやけど、女なんて、普通みんなそうやろ。
由香ちゃん、俺は嫌いやなかった。特に好きでもなかったけど、明るくて、元気な子やった。調子が良くて、けらけら笑って、べたべた甘えて。妹みたいな子やったわ。
そういうの、きっと見抜かれてたんやろ。本間先輩て、うちのお兄ちゃんみたいて、いっつも口説かれてたし。うちら、ほんまの兄妹みたい、明日から本間由香になろうかな、そうや、結婚しましょか、今。奥さんでもええわ。ふたりでハリウッド行きましょお、って、由香ちゃんは冗談なんかアホなんか分からんようなことを、平気でべらべら話してた。勝呂もいる狭い作業室で、俺とべたべた腕組んできながら。
殺されても、しゃあなかったんかもしれない。猛犬注意の檻の中で、無邪気にはしゃいでたんやから。勝呂はずっと由香ちゃんに、内心キレてたんやないか。あいつは俺の手触っただけで、気弱そうに震えてた。そんなやつの目で見て、俺の顔見ればべたべた抱きつこうとする、そんな気ままなわがまま女や、アキちゃん好きやて甘え声で膝に乗ってくる、亨みたいなやつが、どんだけムカついたか、なんとなく想像はつく。
でもそれが、殺されても文句の言えんような罪とは到底思えへん。由香ちゃんは気の毒や。俺がもっと鋭く気がついて、気つけてやれば、死んだりしなかった。きっとそうなんや。俺のせいやって、そう思えてきて、底抜けの笑顔で遺影に写ってる、普段通りの由香ちゃんの日焼けした顔を、正視でけへんかった。
こんな子が親は、可愛かったやろ。どうせ留学なんかでけへんて、そう思ってても、好きにさせてやってたんやろ。女の子やし、幸せな結婚でもして、それで普通に幸せになってくれればって、そんな世界観の匂う家やった。普通の子や。そんな子が俺のせいで死んでもうて、もう、詫びるしかない。
すみませんでした、お嬢さんを助けられずにと詫びる俺に、人殺しと泣き叫ぶ母親、どうぞ気にせず、どうか許してやってくださいと頭下げる父親、そんな地獄絵図やったで。
でもそれは、一連の焼香ツアーの皮切りに、通らなあかん関門やってん。俺にとっては。
守屋刑事に電話して頼むと、一連の事件での被害者のリストをくれた。ほんまはこんなことできんのですよ、バレたら私も首が飛ぶんやからと、重々念押しして、守屋さんは出町柳 の駅の通りすがりに、俺にデータの入ったUSBメモリーをくれた。大阪の、下駄みたいな顔した後藤刑事が、アメ村封鎖解決の礼ということで、特別にくれたモンらしかった。
被害者たちにとって、俺は誰とも知れない赤の他人やった。ほぼ全員が二十歳前後の若い奴で、みんな大阪の人間やった。友達でもない見ず知らずの他人が、突然家に行って焼香させてくれは非常識。それは分かってたんやけど、それでも行くのは俺のわがままなんやろな。
黙って焼香させてくれる親もいた。友達なんやと誤解して、訊いてへんのに思い出話を滔々 と語る家族もいた。俺の顔をテレビで知ってて、好意や敵意を示す人も。鼻先で戸閉めて押し黙る家。心をえぐるような大阪弁で怒鳴る怖いおっさんもいた。
そういう時思うんやけど、大阪弁というのは、人に喧嘩を売るときには最高の言語やな。ものすごい、凄みがある。怒っているんや、俺は悲しいんやというのが、言葉面を越えてストレートに伝わってくる。
そうやって悲しみに怒る家族がいる一方で、うちの馬鹿息子がどうなろうと知らんという、薄情な親もいた。慰謝料出るなら話聞くけどと、貪欲そうに言われ、俺はその家の死んだ息子が、ほんまに気の毒になった。
世の中の人間はいろいろや。幸せなやつもいれば、不幸なやつもいる。何が普通かわからへん。俺は普通やなかったけど、たぶんいつも幸せやった。今も幸せや。そのお幸せな京都の坊 が、うっかり描いた身の不始末で、こんなに大勢死なせてしもた。俺はその罪滅ぼしに、なにができるんやろって、それからずっと、そのことが、俺の人生の課題やねん。
アキちゃん真面目やなって、亨は褒めてんのか馬鹿にしてんのか、はっきりせんような事をコメントしてた。そんな悩んだような顔されたら、むらむらしてくるやん。スーツ脱ぐついでに一発やろかて、真顔で誘ってきて、あいつは帰宅するなり俺を抱く。
それを、アホかとも言えず、俺は黙って言うなりになってた。たぶん、めちゃめちゃ疲れてたんや。家に戻ってきて、亨が待ってて、アキちゃんお帰りって、にこにこ言うて、いい匂いのする柔肌で抱いてくれる。それで帰ってきたんやって思える。その単純なことに癒されたかったんやと思う。
スーツもええなあ、って、亨はめちゃめちゃ萌えてた。
あいつな。絶対そういう趣味あるねん。衣装倒錯の気が。なんとなく、そんな気配が時々むんむんするねん。なんでそうなんや、皆して。おとんはチャイナドレスのおかんに、にっこにこしてて、亨はスーツ萌えか。お前やっぱり、おとんの海軍コスプレにも密かに萌えてたんやろ。
なんでスーツ萌えが分からんのやって、亨は嘆かわしそうに言って、自分もわざわざスーツ着てきた。おかんが仕立ててやってたらしい。なんやそれ、お前、そんな怪しいスーツの男なんかおるか。何者なのか謎すぎるって、俺は正直びびってた。
それは亨がな、エロかったからやねん。スーツがやないで、亨のせいやって、絶対に。あいつには何かそういう、独特の能力みたいなのがあるみたいやねん。人を誘惑するようなな。スーツ萌えやないねん。そんなん、あるわけないから俺に。あるわけないって。
あるわけないんやって、ほとんど悲鳴。着たばっかりのスーツを脱いで、半裸で襲いかかってくる亨に跨られ、めちゃめちゃ燃えた。そんな悲しい新境地やった。
これでアキちゃんも、立派な変態の仲間入りやなって、亨は自分の白シャツの中に俺の手を入れさせながら、嬉しそうに言ってた。それが嬉しいのはお前だけや。次は軍服かなって、やっぱり言うた。お前の芸風分かってきたわ。まともな俺を、そんな変な世界に引きずり込まんといてくれ。やめてくれ、それが無理なら小出しにしてくれ、俺の体が保たへんから。
しばらく大人しめに生きてたはずやったのに、俺と亨はまた、どっぷり溺れたようなエロエロ地獄やった。俺は自分で自分が情けないほど、それに溺れた。底無しの沼にぶくぶく沈むみたいに。
亨と抱き合ってると、なにか、際限がない。気持ちよくて、お前が好きやって胸が熱くて、その瞬間、他のことを何もかも忘れてる。それに癒されて、亨に縋 り付くみたいに、もう一回、もう一回って、恥ずかしげもなく強請ってるような自分がいてる。
俺って、もしかして、全然淡泊なんかじゃなく、実は相当に淫乱なんやないかって、またそう思えてきた。それも亨のせいや。いや、責任転嫁やのうて、その、血の話。あいつと血が混ざって、人ならぬ身になってから、俺は気づいた。あいつと抱き合う時の、自分の感度がな、前よりずっと、その、敏感みたいやねん。音やら気配やらが前より良く分かるようになったんやから、他の感覚も鋭くなってるんやろな。あいつがなんで、抱くと気持ちええわって悶えまくるのか、ちょっと分かってきてもうた。
でも俺は、我慢する。そんなの恥ずかしいから。せやけどな、もともと、これより気持ちよかったら頭おかしなるって思ってたぐらい、悦 かったもんが、さらに品質アップみたいな話なんやで。実際、頭おかしなる。
早く慣れないと。亨ににやにやされて、俺は悔しい。気持ちええってよがってる亨を、綺麗やなあって少々の余裕持って見てる、それぐらいが俺には一番心地ええねん。そうでないと困る。アキちゃん最速記録更新めざしてんのかって、やったあと言われてるようでは。
ちょっと落ち着こう。話変やで。要点逸れて喋りすぎてる。
とにかく、事件はじょじょに過去のものとなっていった。亨は元気で、俺も元気やった。相変わらずの出町の家で、それまで以上に仲良く暮らしてる。
俺はまた、気づくと亨にめろめろやった。それを我慢せなあかんって、もう、あんまり思えなくなってきた。慣れたんやろ、それに。
出会ってから、もう半年。そして一緒に死線をくぐった。もしもこいつが、あるいは自分が、明日にはもう死んでていない、そんなことは無いけど、もしもそうやったときに、後悔しないように、言いたいことは、その時言っておかなあかんて、さすがの俺も、そんな気がした。
朝目が醒めて、亨が俺の隣に寝てる。アキちゃん眠いて、熱の籠もった素肌で、抱きついてくる。それを抱きしめて、頭か額か、とりあえず目についたとこにキスして、起きよう、腹減った、お前が好きやって言う、そうやって始まる毎日や。
今日もそうやった。そんな風にして続く、普通の、それでも普通でない、永遠に終わらない、お幸せな日々。
それに今日は、祭りの日やった。祇園祭。京都の夏が、静かに沸点に達する、そんな日を待つ、山鉾巡行に続く、今日が宵々山。
俺と亨は祇園にいた。画商西森の店に。
俺は自分が夏の課題を兼ねて描いた犬の絵を、競売に出すことにした。そしてその実務を、西森さんに依頼した。前に別れ際、何か描けたら連絡よこせって、言うてもらってたからな。
それにこのオッサンやったら、きっとこの絵の取り扱いは、心得ててくれる。そんな予感がしたんや。
案の定、西森のオッサンは、また学校まで取りに来てくれた絵を見るなり、目醒ましたら、絵から出てきそうな犬や、檻にでも入れときましょか、って俺に笑って言うた。目利きや。そう思うのは、俺の自惚れかもしれへんけどな。
競売の顛末について、俺は話を聞きに来た。買い手が決まったと、連絡があったんで。
西森さんの事務所は、ギャラリーを兼ねたこざっぱりした店で、古びた赤い絨毯が敷かれ、時代を経た雰囲気のある建物やったけど、隙無く管理された、粋な内装やった。そこに仕立てのいいスーツ着た、割腹のいい実年男の画商西森がおって、その助手やってるらしい若い事務員がひとり。男やで。普通女やろ。それは俺の偏見か。
これまたレトロっぽい趣味の、深い緑色したビロードのソファセットに、きりっと冷えた麦茶をガラスの茶器で出してきてくれた事務員さんは、和顔でぱっと見個性はないけど、涼しいような穏やかな美形やった。ぜったい顔で選んでる。二十五、六くらいに見える年上のその人の、にこにこ顔に会釈しつつ、俺はそう確信してた。
画商西森、怪しすぎ。
亨はえらい、このオッサンに懐いてて、店に着くなり俺は放置。最近どうやって、オッサンと話してた。俺はつらい。この店に来るのは。でも何か時々来てしまう。いい絵があるし、西森さんには何か、人間的な魅力がある。人間的なやで。非人間的な魅力やないと思うんやけどな。
それに俺、じつはファザコンなんとちゃうか。マザコンだけやのうて。
西森さんは何となく、親父キャラやねん。お父さんぽい。どっしり構えてて、多少のことでは揺るがへん、そんな感じ。むかつくが、この人の店はなんや、入るとほっとする空間なんや。
まあ、それも、商売のうちなんやろ。俺はそう結論してた。俺も商売やねん。絵描きやし。絵を売ってもらいに来てるだけ。この人、その方面も、やり手らしいからな。
前回の、亨の絵の一件で、面識ができた大崎先生にも、じゃんじゃん絵を売ってるとかで、今日も狐の秋尾さんが店に居合わせた。
こんこん狐や、なんでおるんやと、亨はびっくりした顔で、先に客用のソファにいた秋尾さんの丸眼鏡を睨み付けてた。それに糸目で笑い返してきて、西森さんに愚痴聞いてもろてたんや、最近仲良しなんやでと、亨をからかう口調やった。
亨はもろにからかわれていた。なんでそれがお前にとって痛い話やねん。それについて聞きたいわ、俺は。ほんまにお前は信用でけへん相方やで。
「大崎先生、まだ拗 ねてはりますわ。秋津の坊 は可愛げがない言うて。ぷんぷんぷんぷん怒ってはります」
悔やむような口調で俺に言い、それが秋尾さんの挨拶代わりやった。その苦笑と見交わして笑い、俺はなんと言うていいやらやった。
大崎先生には、実はまた世話んなった。焼き豚に釣られて入り込んだ疫神の絵を、始末してくれてんのは、大崎先生やったからや。実はまだ、一面識もないんやけど、あの人もどうも、覡 の類らしい。秋尾さんはその式 やし、他にも何人か使うてるらしい。俺に会いにくるのは、秋尾さんだけやけど。
いっぺんくらい、挨拶に行くのが筋やろな。その道の先輩なんやし。世話になってんのやし。絵も贔屓にしてもろてんのやし。でもまだ機会がない。それはまたいずれ。
「せやけど絵を売ろうやなんて、また、どういう風の吹き回しなんや」
秋尾さんは出先巡りのついでに寄ったというような、スーツ姿ででっかい書類鞄を抱えた、腰の落ち着かん雰囲気やった。
「坊 もそろそろ一人前なんやなあ」
しみじみ急に親しげなこと言うて、秋尾さんは俺を見た。この人いったい何年くらい居るんや。
「いったい誰が買うたんか、聞き出して来いて、大崎先生に怒鳴られとるんですよ。僕もつらいんですわ。教えてください、西森さん」
しばらく居ったようやのに、今やっと本題かという油の売り方で、秋尾さんは思い出したように画商に訊いた。
「祇園 、木屋町 、先斗町 あたりの、夜の蝶ですわ」
画商西森は言った。
駆けつけ一杯で麦茶を飲み干して、俺を含め全員が、ギャラリーの壁に掛けられた話題の絵の前にぞろぞろ立ってた。
西森さんは、今日もピンストライプの趣味のええスーツ着て、ポケットに手突っ込んで絵を斜に見た。
「ろくに絵も知らんような女が、一目惚れして血迷って、せっかくおっさんに跨って稼いだ虎の子の有り金全部つぎ込んで、それでも足らんもんで、命より大事なクロコのバーキン全部売るんや言うてましたわ。せやからちょっと支払い待ってほしいて。まったくアホな話や。絵は、そうまでせな買われへんような女が手出すもんやないですよ。本間さんも罪な男やなあ」
西森はもっともらしく言っていたが、それを聞きながら、亨はずいぶん離れたところにかかる別の絵を眺めながら、くすくすと堪えがたいように笑うてた。
「しゃあないわ、それは。欲しいうてんなら買わせてやったらええやん、西森さん」
「せやけど、可愛い顔して、えげつない女なんやで、亨君。絵買うてやったんやから、本間先生に会わせろ、休みないから店に顔出せて言うとったで。まだ支払い終わってへんのにやで」
「なんやと、その女、美人なんか。図々しいわ、絶対行ったらあかんで、アキちゃん」
亨は血相変えて命令してきた。俺は苦笑して、それを眺めた。
「そうは言うてもなあ。描いた絵がどんな人のところに行くんか、見てみたい気もするわ」
可愛がってくれるんやろか、その女は、あの犬を。俺はそれが心配や。また寂しなって、ふらふら出てきたりしたら、まずいしな。
「そんなんあかんわ。絶対行ったらあかん。俺のいうこときいといて」
ずかずか歩いて戻って来ながら、亨は必死にそう言って、俺の前に立った。そして向き合った俺の首を両腕で抱いて、唇を合わせてくる亨の顔を、俺は間近に見つめた。綺麗やなと幻惑されて。
やめなあかんで。みんな見てるやんか、亨。それにこの店、ガラス張りやで。ギャラリーなんやから、外から中が丸見えや。
そう思ったけど、ぼんやり許してるうちに、亨のキスはずいぶん長かった。やっと離れると溜め息が出た。
「おいおい、お熱いなあ、亨くん」
呆れはてたテノールで、西森さんは言った。
「お熱いで、めちゃくちゃお熱い」
まだ俺を見つめたまま、亨はうっとりとそう答えた。
「アキちゃん、浮気したら食うてまうからな。おぼえとけよ。ほんまに骨まで全部食うてまうから」
本気で言うてるとしか思えない口調で、亨はうっとりとそう囁いた。
「怖いなあ」
俺は正直な感想を言った。
「でも愛してるやろ」
そうだと言ってくれという、すがりつく目で、亨は俺を見つめてた。それに苦笑して、俺は眩しく亨を見つめ返した。
「まあ、そういうことにしとこうか」
「なんやと、こら。実は違いますみたいな言い方すんな、アキちゃん。まだまだ浮気する気なんか!」
首に巻き付いてた白い腕を無理矢理解かせて、俺は売りに出した絵を眺めに行った。
絵の中で、可愛いような綺麗なような、淡い色合いの犬が、うっとりとくつろいで眠ってる。お前の長い眠りが安らかやとええんやけどなと、俺は絵の犬に心で語りかけた。
それでも、どうしても寂しくなったら、また来たらええよ。あいにく抱いてはやれんけど、名前くらいは呼んでやれるやろ。
端希 って呼んでくれて、お前は何回頼んできたやろ。いつも聞き流して、いっぺんも聞いてやらへんかった。小さい男やったよなあ、俺は。
亨はまた、めちゃめちゃ焼き餅焼くやろけど、別にええやん、名前呼ぶくらい。減るモンやなし。
それで片づく問題やったんかもしれへんで。誰も死なんでよかったんかもしれへん。
名前呼んでやるから、それで我慢せえて言うたら、お前は我慢したやろ。そういう奴やったんと違うかな。貪欲な蛇と違うて、お前は健気な犬やったんやから。
勝呂には本当に、親がいて、家があったんか、俺はどうしても気になって、焼香ツアーの終幕に、それを確かめに行った。行く必要もあった。あいつが自宅のパソコンに残してたという、例のCGのデータを、抹消 せなあかんからやった。もしも何かの間違いで、あれがまた外に漏れてくるようやとまずい。
俺はあいつの家にだけ、なんでか普段着で行った。いつもと変わらないような、普通の格好で。それでも、先方の親に失礼のないように、精々、京都のボンボンらしく、身なりは整えて。
あいつの家は、大阪にほんまにあった。意外なことに、金持ちやった。
なんやこれみたいな洋風の白い家で、うちのおかんが好きな『風と共に去りぬ』とかに出てくる家みたいなんやで。白い円柱とかあってな。勝呂の住んでる家とは思われへんかった。
でも間違いなくあいつの家やねん。黒い鉄で編まれた格子の門の脇にある、その家の表札には、ちゃんとあいつの名もあった。三人家族やった。話してたとおり、あいつもひとりっ子。
前もって電話してあったんで、インターフォンに話すと、中から綺麗なお母さんが出てきた。ひらひらの襟の、白いブラウス着た、黒いフレアスカートのおばちゃん。それは喪服のようでもあり、地味なようでいて、なんやら花のような軽やかさのある人やった。
瑞希ちゃんの、お友達の方ですねと、悲しみ疲れたような顔で、その女の人は俺に尋ねた。そうですと、俺が答えると、その人はやっと微笑んだ。
息子は家に友達を連れてきたことがない。せやから友達がいないんやないかと、お母さんは心配してはったらしい。もらわれっ子やからて、いじめられてるんやないかと、子供のころからずっと心配してたんやと、レースのハンカチで目頭を押さえながら、その洋風でひらひらのおかんは話してた。
あいつは養子やったらしい。幼稚園くらいの年頃に、家の前に突っ立ってんのを拾われて、いろいろ経てから、この家の子になったんやって。首輪を持ってたんやと、ひらひらのお母さんは、涙ながらに震えながら話してた。この人もちょっと、錯乱してるんやないかと、俺は身構えて話聞いてた。
この家は長く、子供が授からんで悩んだ。とうとう諦めて、代わりに犬を飼った。血統書付きのマルチーズ。男の子が欲しかったから、オスにして、ひらひらのお母さんは、生まれれば息子につけたいと憧れてた、瑞希 という名を犬に与えた。そしてほんまの息子のように可愛がって育てた。お前がほんとに息子やったらよかったのにと、時々話しかけてみたりして。
そんなこと、したらあかんかったな。犬は犬でよかったんや。人の子の代わりなんか、できるわけない。
それでもその犬は忠犬やったんやろ。そして深情けやった。
白い犬はある日ふらっといなくなり、ひらひらのおかんを発狂させたが、やがて戻ってきた。幼稚園ぐらいの子供の姿で、いなくなった時に持ってたのと同じ、犬の首輪持って。
それは怪異やったんやと思う。神か悪魔に、あいつは出会った。そういうこともあるんやろ、不思議なことばっかりの、この世の中やから。
おかんは悩みもせず、拾ってやった子を瑞希 と名付けた。そいつはイイ子で育った。おとんにも忠実やった。賢かったし可愛いから、会社継がせよって、実の子みたいに可愛がってた。わがまま言わん子やった。物もねだらん。躾も行き届いてた。親孝行やった。どこに出しても恥ずかしくない我が息子。
賢いからアメリカ留学やって、おかんは一緒に行くつもりやったらしいで。
でもその肝心な時になって、可愛い瑞希ちゃんは突然我が儘を言った。友達と長堀のほうへ行く言うて出かけて、帰ってくるなり、京都の美大へ通いたい、留学はやめてもええかと、思い詰めた顔で頼むんやって。それで、ひらひらのおかんは可哀想になって、そうしましょう、画家もええわねと、あっさり迎合。
そして可愛い瑞希ちゃんは、おらんようになってしもた。どこ行ったかわからへん。
居なくなる前、京都から傷だらけで帰ってきて、お母さん、許してくれとあいつは詫びたらしい。人間になられへん。なりたいもんには、俺はなにひとつなられへん。悪い子やから出ていくと、そう言って、そのまま消えたらしい。
あの子はほんまにええ子やったのにと、ひらひらのおかんは泣いていた。
どうなんやろう、それは。あいつは、ええ奴やった。でも、ほんまにそれだけか。人にも、人でなしにも、綺麗なとこと、醜いところがあるやろ。亨かて、そうやないか。その清濁合わせてはじめて、一個の存在なんとちゃうか。あいつはいつも、自分の綺麗なとこだけ人に見せようとしてたんやないか。俺もそうやけど。人が好みそうな、無難なとこだけを見せて、それで許してもらおうとしてた。それでやっていけると。でも、それやと寂しくて、俺はほんまはこんな奴やと、誰かに見せたかった。
あいつにとっては、その誰かが俺やったんやろ。
ひらひらのおかんに頼んで、勝呂の部屋に入れてもらって、パソコンの中にあったデータを消した。
ログイン用のパスワードはな、スタートレックやったわ。STAR TREK。俺の好きな映画。
あいつも好きやって話してた。映画好きやねん。CGやる奴やしな。その辺の話、話し出したら止まらへんみたいなところあった。なんでもよく知ってた。ほんまに好きやったんやろ。制作終わったら、一緒に映画行こうって約束してた。由香ちゃんと三人で。でも、たぶん、あいつは俺を誘ってたんや。二人で行こうって。行ったらきっと楽しいやろなあ、て、俺は普通に思ってた。それが後ろめたいとは、気づいてるような、気づいてないようなで。
でも、行けず仕舞いで良かったな。寂しいけど、行かなくて正解やった。
勝呂の部屋は、可愛いような部屋やったわ。ひらひらのおかんの趣味なんやろ。子供のときのまま。親孝行な瑞希ちゃんが頑張った、表彰状とか、トロフィーとかが一杯飾ってあって。
でも、がらんどうみたいな場所やったで。
あいつは絵を作らせると、なにか、おどろおどろしいようなもんばかり作ってた。ほんまは悪い子やったんやな。そうなんやろ、勝呂。お前はほんまは、性悪な犬やったんや。
それでも俺は、お前のことは嫌いやなかった。今もたぶん嫌いやない。なんでやろ。俺はお前がいつも、可哀想なような気がしてた。寂しいなあって、困ってるようなところが、ちょっと前までの自分に、そっくりなような気がしたんや。
きっとお前と俺は、似たものどうしやったんやろなあ。
そう思って絵を眺めると、犬はすやすや気持ちよさそうに寝てた。その絵がものすごく可愛いと、俺には思えた。抱きしめたい、骨までばりばり食いたいような、そんな可愛い犬や。
これぞまさに、自画自賛やな。
「アキちゃん、何考えてるんや」
心なしか、ワナワナしながら、亨が背後に立っていた。超怖い。
「お前にバレるとまずいことや。知りたいんやったら口に出そうか」
「出すな。出さんでくれ。だいたい分かるから。せやけどアキちゃんの口から直に聞いたら間違いなくキレるからな、俺は」
「怖いなあ」
心底ほんまに怖いと思って、俺は振り返った。亨はちょっと思い詰めたような顔で突っ立っていた。
「犬の方が好きか、アキちゃん」
そうやて言われたらどないしようっていう顔やった。ここまで来ても、俺がよそへ行くんやないかて不安なお前は、俺にはめちゃくちゃ可愛く見える。
「いいや。そうでもないみたいやで」
「断言してえな、そういう時には。俺、切ないわ」
ほんまに切なそうに、亨はぼやいた。
それが可哀想なような、可愛いようなで、俺は亨の肩を抱いた。京都はまだまだ暑い夏のまっさかりやった。亨の体はひんやりと冷たく、抱いてると気持ちよかった。
「ツレが切ないらしいんで、もう行きます。お邪魔しました、西森さん。祇園の夜の蝶によろしく言うといてください。本間先生は焼き餅焼きのツレが怖いて会いに来られへんて」
「ほな、そう伝えますわ」
ふっふっふと苦笑のような冷やかす笑いで、画商西森は請け合った。
「先生、なんか描けましたら、ぜひまたうちへ、よろしゅう頼んます。犬でも蛇でも、なんでも引き受けますさかい」
「蛇はもう描かないです、西森さん。描けたらうちに飾っとく」
店を出しなにそう言う俺に、西森さんは、また、ふっふっふと笑っただけやった。秋尾さんは、こらもうあかんでという嘆かわしそうな顔で、首を横に振っていた。
「ほんまにもう、ごちそうさまやで。腹一杯ですわ。甘辛う炊いた油揚げ百枚食った気分やわ。甘いの最初のうちだけで、とっくに通り越して胸焼けしますわ」
「ほんまですわ。ムカムカしてしゃあない。今日は早めに店閉めて、伏見 あたりで一杯どうです? うまい地酒の生搾り飲ませる店で、塩でも舐め舐め口直しすんのは。伏見の鳥せい、焼き鳥うまいですよ」
「俺も行きたい、西森さん」
俺に抱かれて店出る際に、漏れ聞いた亨が振り返ってそう言った。
亨。お前はほんまにどうしようもないやつや。
自分のことは棚上げで、俺は腹が立った。
それでこのくそ暑いのに、亨の肩をがっちり抱いて、まだ人気の薄い真昼の祇園を歩いた。花屋が店の仕度をはじめ、店の女に貢ぐために、酔眼の客が夜買うような、不実な蘭を売っていた。
「焼き鳥ぐらい、俺が食わしてやるやん」
「なんや妬いてんのか、アキちゃん。いい気味やわ」
亨は可愛い顔で憎ったらしいことを言った。
にやにや笑っている顔が綺麗やった。
炎天のまぶしい道筋には、人気がなかった。ここは夜の街で、昼間は人もまばらや。
「誰も見てへんし、キスしよか」
そうしたい気がして、俺は亨に意向を訊ねた。
「いややわ、俺は。もっと人のいっぱいおるところで、してほしい」
すねてるらしい、しかめっつらを見て、そう来るかと俺は思った。お前はよう人前でそんなことを平気でやるよ。むしろ人が見てるほうが嬉しいらしいで。変な奴や。
「わかった。そんなら四条大橋のど真ん中でやったるわ」
俺が受けて立つと、亨はびっくりした顔をした。
四条大橋は人の絶えることがない、にぎやかな橋で、鴨川を渡り、田の字エリアと呼ばれる四条河原町の繁華街と、八坂神社へ続く参道を繋いでいる。
四条河原町は繁華街でありながら、神社へと続く、聖域への入り口でもあるわけや。そんな神さんのお膝元で、人は飯を食い、酒を飲み、河原でいちゃつく。八坂神社の神さんは、それを鷹揚に眺めて鎮座し、祇園祭りともなれば、よっこらしょと御輿に乗って、京都の街を清め祓いにご出張なさる。気のいい神様やで。
そんな神さんを、京都の人たちは、親しみを込めて、八坂さんと呼んでる。この街には、いつも生活の隣に神がいて、辻辻には怪異とも神威ともつかない何かが、うずくまっている。
祇園界隈を出て、とろとろ橋まで歩いていくと、そこはいつも通りの人通りの多さやった。
この暑いのに、スーツ着込んで汗をふきふき歩くサラリーマンがいるかと思えば、祭りの仕度で白い着物着た人が、白足袋はいてうろうろしてる。いかがわしい店のチラシを配る、白衣着た茶髪のミニスカ女の向こう岸に、笠かぶってうつむき、経を唱える墨染めの托鉢僧がいる。
「キスしよか、亨」
「ええ。マジですんの。ここですんのか。マジで?」
嫌そうな言い方しながら、亨は嬉しそうにもじもじしてた。それがおかしなってきて、俺は笑った。顔を寄せると、漏れる息がくすぐったいんか、亨ははにかんだような顔をした。
そして亨は俺の首を抱いて、キスを受けた。暑苦しい橋の上の、熱く甘ったるいキスだった。俺は心行くまで亨の唇を貪った。それが何や、気持ちよかったらしくて、亨はヘナヘナになってた。
唇を離すと、亨は、もう立ってられへん抱いといてみたいな顔で、うっとりと俺を見上げてきた。
「こんなことしてええんかな、天下の往来で」
「ええんやないか。誰も見てへんみたいやし」
俺がそう言うと、亨はむっとかすかに顔をしかめた。そして、橋を行き過ぎていく人の群れを見た。
誰も俺らを見てへんかった。往来のど真ん中に突っ立ってて、相当邪魔なはずやけど、人も、車の中にいる連中も、ぜんぜん気づいてないような知らん顔で、せわしなく普段通りに行ったり来たりしてた。
「なんでや。なんで誰も見てへんのや」
亨は不満げにわめいた。それに何の問題があるんや。
「なんでや、アキちゃん」
抱きついてた俺の体を突き放して、亨は悔しそうに、さらにわめいた。それでも誰も見てへんかった。
「さあなあ。なんでやろ。そういうことも、あるんとちゃうか」
にやにやして、俺は答えた。
「ずるいわ、アキちゃん。何かしたんやろ」
「何かって、何やろなあ。そんなことより、もういっぺんキスしよか。悪趣味なお前が、ここで抱いてくれ言うても、俺は平気やで。なんでもやったるわ」
にこにこ請け合うと、亨はあんぐりしてた。抱き寄せて、またキスしようとすると、亨はじたばたした。負けるもんかと思うらしい。
ちょっと前なら、力技では俺より上だった亨も、今ではひ弱なもんやった。俺の方が、力が強い。
やっぱこうでないとあかん。格好つかへん。
そう思って満足しながら、俺はもう一度、亨の唇を奪った。熱いなあと、甘くぼやきながら。
「あのねえ君たちね、困るんやけどな。こんなとこで、いちゃつかんといてくれるかな」
唐突に話しかけられて、俺はびっくりして脇を見た。紺色の制服を来たお巡りさんが、俺らのすぐ横に、いつの間にか立っていた。
橋のたもとにある交番から来たんやろかと、俺は一瞬びびったけど、そんなはずなかった。なにしろ、そのお巡りさんは、能面みたいな面をつけていた。
「あのねえ。祇園祭りやろ。みんな仕度で忙しいんや。橋に蓋せんといてくれるか。八坂さんと行き来でけんようになるやろ」
遠く八坂神社のほうを指さして、お巡りさんは言った。眺めると、はよ道あけろとイライラしてるらしい、人ではないようなモンが、橋の両端にたむろしていた。
「迷惑なんや。よそでやってくれるか」
「すみません」
俺は能面のお巡りさんに、素直に謝った。軽率でした。ちょっと浮かれとったんです。それは認めます。せやけど祭りの日なんやし、大目に見てもらえへんか。まだまだ新米なんやから。
「怒られよったわ」
気味良さそうに言うくせに、口元をぬぐう亨の足下はふらふらやった。
「ふらふらやで、お前」
「誰のせいや、誰が俺をふらふらにしたんや。ちゃんと責任をとれ」
酔っぱらってるみたいに、亨は俺の腕に腕をからめて、すがりついてきた。
「橋の向こうにラブホあるろ。そこで一発やって行こうや、アキちゃん。家まで待ちたくないねん。今したい、今すぐしたいんや」
「病気やでお前」
「そうや。俺は病気や言うてるやん。アキちゃん恋しい病」
恥ずかしそうに、にっこりして、亨は言った。俺は真顔でそれを見つめた。
なんかな、あまりにも恥ずかしすぎて、リアクションできる限界をはるかに越えてたんやな。
こいつはほんまに羞恥心がないわ。よう、そんなこと家の外で言えるわ。能面お巡りさんも聞いてはるんやで。
「はよ帰りなさい」
案の定、呆れ果てたという声で、お巡りさんは言った。
俺は言われたとおりにした。
いやや、いややて駄々こねてる亨を引きずって、電車で出町まで帰り、マンションに帰って、クーラーのがんがんに効いた快適な寝室で、心行くまで亨を喘がせた。
地球に厳しい設定温度にしてても、めちゃくちゃ汗かいた。それで、しゃあないから風呂入って、そこで亨に襲われて、やたら時間食って、ええかげんにせえ言うて風呂から逃げ出して、浴衣着て祇園祭りの宵々山に湧く四条河原町に舞い戻ったんは、もう夏の長い陽も、すっかり沈みきった、暑い夜になってからやった。
録音されたのが再生されてるだけの、嘘モンの祇園囃子が、あちこちで鳴り響いていた。いつもなら車がひしめいてる四条通りが歩行者天国になり、能面つけてない人間のお巡りさんが、この暑いのにスワットスーツ着て、一生懸命街を守ってた。
お疲れさんですと、俺は彼らを眺めた。やってることはずいぶん違うけど、この人らは俺の同業者ってことになるんやろ。京都の街を守ってる。日ノ本を、秋津島を、ニッポンを、呼び名はなんでもええけど、とにかくこの島を守ってゆくのが、我が血筋の勤めらしい。この屈強な兄貴たち同様。
暑い中、向こうはスワットスーツで立ちん坊やのに、こっちは浴衣で、綺麗なの連れて、ちゃらちゃら歩いて、どうもすんません。せやけどこれでも一応、命がけなんやで。
本日、宵々山、明日が宵山、真夏の大掃除イベント、山鉾巡行まで、あと二日。巡行当日には国内外から、ものすごい人出が押し寄せる。身動きとれんような、ひしめく人混みが、山鉾が辻回しする四条河原町の交差点を埋める。
何が入ってくるやら、わからへん。元々京都にはびこってたモンも祓わなあかんけど、今時、観光客にくっついてきた、外来のモンも、厄介やでえ。ルール分かってへんからな。
明後日、めちゃめちゃ消毒する神さん通りますから、逃げるなり帰るなり、しとかんとあかんですよって、教えといたらなあかん。怪異も神のうち、お客様は神様て、それがこの国のモットーやからな。
やっつけりゃええってもんやないねん。まずはネゴシエーションから。時には偉そうなボンボンの俺でも、頭下げて頼まなあかん。相手は神さんやからな。まあ、近頃ちょっと、俺もそれに近いような気がするけど、そう思うのは自惚れか。俺の悪い癖や。
ご奉仕せなあかん。神さんには下手に出てご奉仕。そしたら気持ちよく、仲良くなって、無難に過ごしてくれはるかもしれへんからな。
「亨、錦市場になんか食いにいこか。夜店もあるけど、錦の豆乳ソフトクリーム美味いで。練りもの蒸してる店もあるし、魚屋が刺身の串売ったりもしてるで」
餌で釣ると、亨は釣られた顔して、色の薄い綺麗な目をキラキラさせた。
「そんなんあるんか。行きたい。ソフトクリーム食いたい」
「ほな手つないで行こか。ものすごい人出やし、迷子んなったら困るから」
「うんうん、手つないで行きたい」
デレデレして、亨は嬉しそうやった。まあ、しゃあないわ、こいつもたぶん、神さんの一種やから。精々ご奉仕。
「でもな、亨。食ったら働かなあかんのやで。おかんに言いつけられてるやろ。街見回って、道に迷てはる外国の神さんいてはったら、ちゃんと道案内せなあかんえ、って」
「いやや、俺、アキちゃんとデートしてたい」
「あかんあかん、仕事やねんから」
手を引いて、錦通りのあるほうへ、亨を引いていきながら、俺は諭した。亨はそれに付いてきながら、しばらくぶうぶう言うてた。けど、しゃあないからキスしてやったら、大人しくなったで。
さあ大変な夏や。責任とらなあかん。
知らんと放った疫神が、どこまで飛び散ったやら。それに、こんな血筋に生まれついた宿命もある。お仕事三昧、頑張らなあかん。もう俺のせいで、誰かが死ぬのはご免やで。
「お前まで、俺の仕事に付き合わせて悪いなあ」
連れて歩きながら、俺は亨に謝った。こいつはもともと、勝手気ままにふらふらしてた自由人やったのに、俺なんかとデキてもうたせいで、こき使われる羽目になるんやからな。
「気にせんでええよ。俺はアキちゃんと一緒に居れれば、それでええねん」
観念した笑みで、亨は少し眩しそうに俺を見た。闇の中でも、亨の目には、俺は光って見えるらしい。
「好きや、アキちゃん。俺をずっと、傍から離さんといて」
少し離れた祭り囃子の音を背に、亨はぎゅっと手を握ってきて、小声で俺に頼んだ。
「離さへん、ずっと、俺が生きてるかぎり」
「そうか。嬉しいわ。二人で永遠に生きよう」
切ないような、愛しげな淡い笑みを浮かべて、亨は俺を見た。美しすぎるわ、お前は。
「永遠か。そらまた長いなあ」
苦笑して、俺は答えた。たぶんちょっと照れ隠しやねん。まともに見るのも恥ずかしいようなお前に、好きやて言われて、俺はほんまはめちゃくちゃ恥ずかしい。
せやけど永遠か、って、俺は安心した。そんだけ時間あれば、さすがの俺も、いつか慣れるやろ。平気でお前と見つめ合って、俺もお前が好きやって、平気で言えるようになるやろ。それまで何百年かかかるかもしれへんけど、気長に待っといてくれ。
それまではと思って、言葉で言うかわりに、俺は亨の白い頬を指で撫でた。亨はうっとりと気持ちよさそうに、俺の手に顔を擦り寄せてきた。
好きやて言う言葉は、ほんまは必要ないんかもしれへん。こいつは分かってくれてる。うっとり見つめ合う時、俺がものすごくお前を好きなのを、きっと分かってくれてる。せやから、別に言わんでもええかなあ、なんて。
それは俺の身勝手か。
しゃあないねん、ボンボンやから。
「アキちゃんと居るのに、永遠でも長いってことはないで」
ちょっとすねたような顔を、亨はしてた。
「そうやな。亨、ずっと俺の傍に居ってくれ。お前が居らんと、俺はあかんねん。そんなん、言わんでも分かるやろ」
せやから普段は言わへんしな、今夜だけ特別なていう含みで伝えると、亨はまた、むっとしたような顔で、それでも笑ってた。
「しゃあないなあ、アキちゃんは。言われんでも、ずっと傍におるよ。ずっとずっと離さへん。ずっとずっとずっと居るよ、ずっと……」
亨はふざけてんのか、ずっとずっとうるさかった。それを連れて、俺は夜の街を歩いた。照れくさかったけど、ほんまは嬉しかったんやで。
お前が好きや、亨。お前とずっと一緒にいられて、俺は幸せや。
そう思ってそぞろ歩く夜の河原町は、途方もなく綺麗やった。こんな美しい街やったやろかと、俺は思った。
きっと亨と一緒やからやろ。こいつと手繋いで眺めれば、きっとどんなもんでも美しく見える。ああ、早よ帰って絵描きたいて、俺は静かに焦れた。
帰って絵描いて、それから亨を抱いて眠りたい。せやけど仕事あるし、それはまだちょっと無理やわ。時間はいっぱいあるんやし、焦ることない。焦ることないけど、気が逸って待ちきれへんわ。
俺にとっては二十一回目の京都の夏やった。
せやのに俺は今年はじめてこの世に生まれ出たような気がしてた。
ずいぶん長いこと、おかんの腹に抱かれたボンボンで、今やっと生まれてきたんかもしれへん。亨と出会ってから。生きていきたいと思ったんや。こいつと生きていけるんやったら、どんな力を自分が授かってようと、どんな怪異と向き合おうと、怖いことあらへん。こんな俺で良かったわ、お陰でお前と手繋いでられる。
愛しい俺の蛇。そう思って見つめた亨は、この世のモノでないような美しさやった。亨は微笑んで俺を見つめ返してた。何も言わずに、お互いの手の温もりだけを感じながら、亨と俺は歩いた。
祇園囃子が遠くで響いていた。
来年もその先も、ずっと二人でこれを聞くやろう。この街がある限り。
それが永遠やったらええなと、俺は願った。この街は俺の故郷、愛しい美しい街で、この美を俺は永遠に守りたい。時とともに変わり続けても、目を覆う醜さを隠し持ってても、それでもこの街の美しさに揺るぎはないやろ。俺はそれに、心底惚れている。
俺は永遠に、お前を守ってやる。この美しい街、美しい島の、えもいわれぬ美を。なにものにも代え難い、美しいお前の、美しい微笑みを。そうやって生きていく。永遠に。お前と手を繋いで。愛しく見つめるその目と、見つめ合いながら。
コンチキチンと、どこかで囃子が鳴っていた。
それはこれから無限に繰り返される、永遠の調べだった。
《おわり》
何日か呆然として、ふと気がつくと、夏の試験もあれば課題もあった。
試験は別に楽勝や。受ければ普通に優はとれる。自分で言うのも何やけど、俺は秀才やった。餓鬼のころから成績は良かった。うちのおかんに言わせれば、俺はお父さんに似て頭のええ子やったんや。
何やらせても、涼しい顔して、そつなくこなす。
そんな、おとんに似てるという自分が、ほとほと嫌で、ちょっと好き。まあ、そんな子供時代やったな。
そんな愛憎入り交じったオイディプスな俺の、幻想の塊みたいやった肝心のおとんは、今や脱力の塊で、ジュニアの意見を百パーセント受け入れ、あっさりカミングアウトして、おかんと嵐山でいちゃついてるらしい。
そんなお喜びの声を、おかんから電話で聞かされ、今年は夏も、帰省はせえへんからと、俺はそれを内心に誓った。ただでさえ凹んでるところに、手痛い追撃や。帰ってやるもんかと泣く泣く決心する気の毒な俺に、おかんはさらに、とどめをさしてきた。
舞ちゃん寄越して、おとんとハネムーンに行ってくるわて言づてしたきり、生まれて初めて作ってもろたパスポート持って、世界周遊気まま旅に出かけていきはった。
プサン、ソウルに
それは俺には軽く、拷問みたいやったで。
せやけど、実はカメラマンやったらしい俺の名義父、本間さんの撮った写真の中で、おかんは幸せそうやった。着物着てるところしか想像つかんかったおかんが、ソウルではチマチョゴリ着て、上海ではチャイナドレス着てた。チョゴリはともかく、チャイナはあかんと思う。おかんの生足なんか見たことない俺に、膝丈までとはいえサイドスリットは鬼やと思うねん。
にこにこしてるおかんを、にこにこして抱き寄せてる俺そっくりなおとんの写真を、これは俺やと自分に言い聞かせて、俺は耐えた。でもすぐ我慢の限界で、泣く泣く亨に頼んで封印してもらった。あれは俺やない、俺のおとんや。だって俺にはコスプレ趣味なんかない。あってたまるか。
そんな虐待を親たちから日々受けながら、俺は亨を連れて学校へ行き、一緒に絵を描いた。絵なんか描けるんかお前と見くびってる俺の目の前で、あいつは俺が前に付き合ってた女から引き継いだという画風で、鮮やかな絵を描いた。綺麗なもんをそのまんま綺麗に描く、あいつらしいといえば、あいつらしい、あっけらかんとして、まっすぐな絵やった。何の
見に来たうちの教授が激しく凹んで、亨くん、それは惨いわ。今まで隠してたんか。あまりにも反則やと、がっくり床にくずおれて言うてた。日本画やからな、本来、床にくずおれて描くもんやねんけどな。でも苑先生のは、あれ、ダウンしてたんやと思うわ。
俺は亨の絵に惚れた。思い返してみると、亨が話してた女の描いた絵を、俺は見たことなかった。同じ日本画科にいて、半年も半同棲状態やったのに、俺は彼女の絵を見たことがなかった。見て欲しくないて言われてたんや。自信のある絵がまだ描けへんから、恥ずかしいて言うて。
何が恥ずかしかったんやろ。こんな絵描けてて。俺は自分も大概照れ屋やと思うけど、描いた絵を他人に見せるのを、恥ずかしいと思ったことはない。昔からそうや。なんでかそれには自信があるねん。ただの自惚れなんかもしれへんけど、全力で打ち込んで描いたもんを、隠し立てしてもしょうがない。これが俺やて、そのまま見てもらうしかない。そんな気がするんや。
俺がそう言うと、確か彼女は、暁彦君は素敵やなあと、俺に惚れてる顔してた。それは俺には、恥ずかしかったんや。
本人が見るなと言うもんを、無理矢理暴こうとは、俺は毛ほども思わへんかった。しょせん、その程度の情の薄い男やったんやろ。俺の絵を見ろってそればっかしで、お前はどんな絵を描くんやって、全然思わへんかった。
それも俺の未熟さやった。亨が描いてる花の絵を見て、俺は遅まきながらそれを悟った。きっと、暴いてでも見るべきやった。まだ俺が、彼女に惚れてたうちに。そして、お前の絵が俺は好きやて言うてやるべきやった。それが甲斐性ってもんやろ。
でも、それももう、後の祭りやで。亨の話によれば。彼女はもう、あらゆる意味でこの世の人間やない。俺の声も、聞こえてへんのかもしれん。彼女のほんまの名前を、俺はそうなってから知った。亨が苑先生を脅しつけて強奪してきた倉庫にあった絵に、名前が入ってたんや。
その名に宛てられた字について、亨は心底気の毒やという口調で解説していた。本人から聞いた話では、彼女が生まれる前に、彼女の父親が女やったら富美子と神社から名前を拝領して用意してたんやけど、生まれた赤ん坊の顔を見るなり、その字はあかんと決心して、トミ子と書き換えて戸籍を作らせた。
せやけど巫女の血筋やったという母親のほうが、神様にもらった名前変えたらあかんえと言うて、本人に本来の当て字を教えていたので、それを雅号として使ったらしい。
痛い話やと、亨はコメントしてた。何が痛いのか、俺にはよう分からんかったけど、とにかく画風に合った名やと思う。大体、どんなブスやねん。その名前がまずいというのは。俺は見てへんから知らん。どんなブスでもええやん、こんだけ綺麗な絵が描けたら。どんな美人より、絵上手い女のほうが俺には良かったやろけどな。
俺のその話に、亨は
そらそうやろ。俺は絵描きなんやで。絵うまいやつが好きや。顔がいいのも好きやけど、それだけやのうて、絵もうまけりゃ無敵やで。
俺がそう言うと、亨は薄汚い作業室で
でもとにかく、亨が絵描いてる姿というのは、俺には意外すぎて、その画風の妙味と相まって、亨の新たな魅力やった。亨が黙々と絵描いてるのを時々眺め、教えてくれ言われて手取り足取り教え、出来上がっていく絵を目の当たりにしてると、それはもう、未だかつてない甘い罠の世界。気は散らへんけど、没入する。紙と絵の具の世界に。あるいは、そこから沈み込んでいく、静かに燃えるような、絵の中の異界に。
俺はその深いトランス状態のような気分の中で、一度は破り捨てた絵を描いてた。一応は夏の課題にあてるつもりで、日本画にした。それなら亨と一緒に描いてても画材が同じで都合がええし。
せやけど、後で考えてみたら、その絵は亨の見てる前で描くようなもんやなかったな。もう描いてもうたから、そんな反省しても意味ないけど、俺は白い犬の絵を描いたんや。
その絵はずっと夏中、俺の頭の奥底にあった一枚やった。その犬は、時にはじっと見つめ、時には甘えかかってきたけど、俺はずっとそれを描かずにおいてた。それが自分にとって、どんな絵なんか、向き合うのが怖くて。
でももう描かずにおれんて、そういう気がして描き上げたんは、すうすう寝てる犬の絵やった。
亨はそれを時々眺めに来て、ものすご嫌みったらしい顔で、可愛い犬やて言うてた。俺はそれに苦笑したけど、なにも答えへんかった。異論無かったこともあるけど、描いてると俺は、喋らなくなる。集中してるんや。そんな愛想ない俺に、亨は何も文句言わんでいてくれた。
あいつは焼き餅焼きやけど、それでもなんでか、控え目なとこある。俺のおかんみたい。綺麗な顔して、えげつないぐらい怖くて強引。でもただじっと我慢して、静かに待ってるようなところが、亨にはある。
おかんが待ってたのは、おとん大明神やった。おかんが抱えてた空洞を、俺では埋めてやられへんかった。せやけど亨が待ってるのは俺なんやろうという、そんな気がしてた。自分一人では完成しない絵の、欠けたところを俺が持ってる。ふたりでぴったり寄り添えば、欠落のない一枚の絵に。その空白を埋めて、満たしてくれと求めるような、誘うような気配が亨にはいつもあって、俺はあいつを強く抱きしめる。そうすると埋まる何かが、自分にもあるような気がする。
それが具体的にはなにか、なんて言って説明すればいいのか、俺には相変わらず分からへん。口下手やからな。もっと何か甘いようなことを言えって、亨にはぎゃあぎゃあ言われるんやけど、それでも相変わらずの無愛想。しょうがないねん、それはもう、ちょっとずつ進化で勘弁してもらわへんと無理。黙りつづけた二十一年の沈黙を破って、ころっと口の上手い男にはなられへんねん。
もう、その話はやめよ。恥ずかしいから。次の話題です。仕事の話。
疫神の絵から始まった俺の不始末は、大阪での長い一日によって、とりあえず解決した。それでも、それが全部やなかった。狂犬病が残っていたし、俺は幸い、それをひとりで解決することができた。例のごとく、ご馳走の絵描いて、こっちへどうぞと二次会に誘う。それで疫神たちは大人しく移動。そんな無難なルーチンワークで、次から次へ病院巡り。
病気のもとが消え去っても、すでに蝕まれたもんが治せるわけやない。狂犬病は人の神経を食う
俺にはそれが、後ろめたかった。もともと俺のせいなんやって、土下座して詫びなあかんのは、こっちのほう。
それでも、それについては、黙っとかなあかんえと、おかんに釘を刺されていたし、亨や水煙も、折に触れて忠告してきた。
知っても恨みが残るだけ。知らぬが仏や。死ぬはずやったもんが助かった、嬉しかったと幸せに思ってもろて、この先の人生を恨みを抱えずに生きていってもらうほうがいい。お互いのために。恨みは人を鬼に変えるし、恨まれれば弱る。いいこと、ひとつもあらしまへんえと、おかんは平気な顔や。慣れたもんやというところか。
それも修行のうちやというんで、俺は堪えた。自分はずるいんやないかという自責の念に駆られ、何度か口が裂けそうになったけど、でも結局黙ってた。それは俺の堪え性と、打算と、気の弱さ、そんなもんのない交ぜになった結果やねん。
お大事にと挨拶して、謝礼をとらず帰る俺を、人は善人を見る目で崇めるように見送ってた。でも、ほんまの俺の正体は、罪人やねんで。大勢死なせた罪業が重くて、身動きとれへんような気がするときもあった。
誰か俺を責めてくれって、そんなふうな気分でいたな。
せやから、由香ちゃんのお母さんが、お前のせいやて泣き叫んで、俺を罵った時には、腹はぜんぜん立たへんかった。むしろ感謝してたくらいやったで。
絵を描きながら気を鎮めて、急いでやらなあかん事から、俺は片付けてた。それは生きてる人を助けることのほうで、もう死んでしもてた人たちへの挨拶は、ずいぶん後回しになってもうてた。由香ちゃんには、合わせる顔がない。なんて言えばええんやっていう気後れも、正直あって、俺は逃げてたんかもしれへん。
それでも仕事の順番が巡ってきて、もう行かなあかんて覚悟決め、気合い入れて新調したスーツ着て、俺は由香ちゃんの家に行った。勝呂と同じ、大阪の子やった。
お前が殺したんや、そうに違いないって、由香ちゃんのお母さんは鬼みたいな顔で泣きながら、俺の襟首つかまえてた。そうです、すみませんと、俺は言いたかったけど、ただ詫びただけやった。由香ちゃんのお父さんも、俺に詫びてた。妻はまだ錯乱しているんですと説明して。
由香ちゃんは、俺と同じひとりっ子やった。可愛い可愛いて甘やかされて育って、何でも自分の思うようになるって、何となくそんな自信を持ってる。そんな子やった。
将来ハリウッドで映画のCGやりたいねん、うち才能あるからと、両親を説得し、留学もさせますよと高校生を口説いてる、うちの大学の学生課の宣伝を真に受けて、希望を持ってやって来た。実際そういうチャンスはあったんや。
彼女は学年でいちばんイケてる対抗馬やという勝呂に近づき、その次は俺に惚れた。軟派な子やってんな。支離滅裂やねん。留学目指して頑張る言うてるくせに、遊び回って学校休む。勝呂に、うちら親友やんねと親しげにしながら、あいつの気持ちを踏みにじる。そんな普通の女の子やってん。わがままやけど、女なんて、普通みんなそうやろ。
由香ちゃん、俺は嫌いやなかった。特に好きでもなかったけど、明るくて、元気な子やった。調子が良くて、けらけら笑って、べたべた甘えて。妹みたいな子やったわ。
そういうの、きっと見抜かれてたんやろ。本間先輩て、うちのお兄ちゃんみたいて、いっつも口説かれてたし。うちら、ほんまの兄妹みたい、明日から本間由香になろうかな、そうや、結婚しましょか、今。奥さんでもええわ。ふたりでハリウッド行きましょお、って、由香ちゃんは冗談なんかアホなんか分からんようなことを、平気でべらべら話してた。勝呂もいる狭い作業室で、俺とべたべた腕組んできながら。
殺されても、しゃあなかったんかもしれない。猛犬注意の檻の中で、無邪気にはしゃいでたんやから。勝呂はずっと由香ちゃんに、内心キレてたんやないか。あいつは俺の手触っただけで、気弱そうに震えてた。そんなやつの目で見て、俺の顔見ればべたべた抱きつこうとする、そんな気ままなわがまま女や、アキちゃん好きやて甘え声で膝に乗ってくる、亨みたいなやつが、どんだけムカついたか、なんとなく想像はつく。
でもそれが、殺されても文句の言えんような罪とは到底思えへん。由香ちゃんは気の毒や。俺がもっと鋭く気がついて、気つけてやれば、死んだりしなかった。きっとそうなんや。俺のせいやって、そう思えてきて、底抜けの笑顔で遺影に写ってる、普段通りの由香ちゃんの日焼けした顔を、正視でけへんかった。
こんな子が親は、可愛かったやろ。どうせ留学なんかでけへんて、そう思ってても、好きにさせてやってたんやろ。女の子やし、幸せな結婚でもして、それで普通に幸せになってくれればって、そんな世界観の匂う家やった。普通の子や。そんな子が俺のせいで死んでもうて、もう、詫びるしかない。
すみませんでした、お嬢さんを助けられずにと詫びる俺に、人殺しと泣き叫ぶ母親、どうぞ気にせず、どうか許してやってくださいと頭下げる父親、そんな地獄絵図やったで。
でもそれは、一連の焼香ツアーの皮切りに、通らなあかん関門やってん。俺にとっては。
守屋刑事に電話して頼むと、一連の事件での被害者のリストをくれた。ほんまはこんなことできんのですよ、バレたら私も首が飛ぶんやからと、重々念押しして、守屋さんは
被害者たちにとって、俺は誰とも知れない赤の他人やった。ほぼ全員が二十歳前後の若い奴で、みんな大阪の人間やった。友達でもない見ず知らずの他人が、突然家に行って焼香させてくれは非常識。それは分かってたんやけど、それでも行くのは俺のわがままなんやろな。
黙って焼香させてくれる親もいた。友達なんやと誤解して、訊いてへんのに思い出話を
そういう時思うんやけど、大阪弁というのは、人に喧嘩を売るときには最高の言語やな。ものすごい、凄みがある。怒っているんや、俺は悲しいんやというのが、言葉面を越えてストレートに伝わってくる。
そうやって悲しみに怒る家族がいる一方で、うちの馬鹿息子がどうなろうと知らんという、薄情な親もいた。慰謝料出るなら話聞くけどと、貪欲そうに言われ、俺はその家の死んだ息子が、ほんまに気の毒になった。
世の中の人間はいろいろや。幸せなやつもいれば、不幸なやつもいる。何が普通かわからへん。俺は普通やなかったけど、たぶんいつも幸せやった。今も幸せや。そのお幸せな京都の
アキちゃん真面目やなって、亨は褒めてんのか馬鹿にしてんのか、はっきりせんような事をコメントしてた。そんな悩んだような顔されたら、むらむらしてくるやん。スーツ脱ぐついでに一発やろかて、真顔で誘ってきて、あいつは帰宅するなり俺を抱く。
それを、アホかとも言えず、俺は黙って言うなりになってた。たぶん、めちゃめちゃ疲れてたんや。家に戻ってきて、亨が待ってて、アキちゃんお帰りって、にこにこ言うて、いい匂いのする柔肌で抱いてくれる。それで帰ってきたんやって思える。その単純なことに癒されたかったんやと思う。
スーツもええなあ、って、亨はめちゃめちゃ萌えてた。
あいつな。絶対そういう趣味あるねん。衣装倒錯の気が。なんとなく、そんな気配が時々むんむんするねん。なんでそうなんや、皆して。おとんはチャイナドレスのおかんに、にっこにこしてて、亨はスーツ萌えか。お前やっぱり、おとんの海軍コスプレにも密かに萌えてたんやろ。
なんでスーツ萌えが分からんのやって、亨は嘆かわしそうに言って、自分もわざわざスーツ着てきた。おかんが仕立ててやってたらしい。なんやそれ、お前、そんな怪しいスーツの男なんかおるか。何者なのか謎すぎるって、俺は正直びびってた。
それは亨がな、エロかったからやねん。スーツがやないで、亨のせいやって、絶対に。あいつには何かそういう、独特の能力みたいなのがあるみたいやねん。人を誘惑するようなな。スーツ萌えやないねん。そんなん、あるわけないから俺に。あるわけないって。
あるわけないんやって、ほとんど悲鳴。着たばっかりのスーツを脱いで、半裸で襲いかかってくる亨に跨られ、めちゃめちゃ燃えた。そんな悲しい新境地やった。
これでアキちゃんも、立派な変態の仲間入りやなって、亨は自分の白シャツの中に俺の手を入れさせながら、嬉しそうに言ってた。それが嬉しいのはお前だけや。次は軍服かなって、やっぱり言うた。お前の芸風分かってきたわ。まともな俺を、そんな変な世界に引きずり込まんといてくれ。やめてくれ、それが無理なら小出しにしてくれ、俺の体が保たへんから。
しばらく大人しめに生きてたはずやったのに、俺と亨はまた、どっぷり溺れたようなエロエロ地獄やった。俺は自分で自分が情けないほど、それに溺れた。底無しの沼にぶくぶく沈むみたいに。
亨と抱き合ってると、なにか、際限がない。気持ちよくて、お前が好きやって胸が熱くて、その瞬間、他のことを何もかも忘れてる。それに癒されて、亨に
俺って、もしかして、全然淡泊なんかじゃなく、実は相当に淫乱なんやないかって、またそう思えてきた。それも亨のせいや。いや、責任転嫁やのうて、その、血の話。あいつと血が混ざって、人ならぬ身になってから、俺は気づいた。あいつと抱き合う時の、自分の感度がな、前よりずっと、その、敏感みたいやねん。音やら気配やらが前より良く分かるようになったんやから、他の感覚も鋭くなってるんやろな。あいつがなんで、抱くと気持ちええわって悶えまくるのか、ちょっと分かってきてもうた。
でも俺は、我慢する。そんなの恥ずかしいから。せやけどな、もともと、これより気持ちよかったら頭おかしなるって思ってたぐらい、
早く慣れないと。亨ににやにやされて、俺は悔しい。気持ちええってよがってる亨を、綺麗やなあって少々の余裕持って見てる、それぐらいが俺には一番心地ええねん。そうでないと困る。アキちゃん最速記録更新めざしてんのかって、やったあと言われてるようでは。
ちょっと落ち着こう。話変やで。要点逸れて喋りすぎてる。
とにかく、事件はじょじょに過去のものとなっていった。亨は元気で、俺も元気やった。相変わらずの出町の家で、それまで以上に仲良く暮らしてる。
俺はまた、気づくと亨にめろめろやった。それを我慢せなあかんって、もう、あんまり思えなくなってきた。慣れたんやろ、それに。
出会ってから、もう半年。そして一緒に死線をくぐった。もしもこいつが、あるいは自分が、明日にはもう死んでていない、そんなことは無いけど、もしもそうやったときに、後悔しないように、言いたいことは、その時言っておかなあかんて、さすがの俺も、そんな気がした。
朝目が醒めて、亨が俺の隣に寝てる。アキちゃん眠いて、熱の籠もった素肌で、抱きついてくる。それを抱きしめて、頭か額か、とりあえず目についたとこにキスして、起きよう、腹減った、お前が好きやって言う、そうやって始まる毎日や。
今日もそうやった。そんな風にして続く、普通の、それでも普通でない、永遠に終わらない、お幸せな日々。
それに今日は、祭りの日やった。祇園祭。京都の夏が、静かに沸点に達する、そんな日を待つ、山鉾巡行に続く、今日が宵々山。
俺と亨は祇園にいた。画商西森の店に。
俺は自分が夏の課題を兼ねて描いた犬の絵を、競売に出すことにした。そしてその実務を、西森さんに依頼した。前に別れ際、何か描けたら連絡よこせって、言うてもらってたからな。
それにこのオッサンやったら、きっとこの絵の取り扱いは、心得ててくれる。そんな予感がしたんや。
案の定、西森のオッサンは、また学校まで取りに来てくれた絵を見るなり、目醒ましたら、絵から出てきそうな犬や、檻にでも入れときましょか、って俺に笑って言うた。目利きや。そう思うのは、俺の自惚れかもしれへんけどな。
競売の顛末について、俺は話を聞きに来た。買い手が決まったと、連絡があったんで。
西森さんの事務所は、ギャラリーを兼ねたこざっぱりした店で、古びた赤い絨毯が敷かれ、時代を経た雰囲気のある建物やったけど、隙無く管理された、粋な内装やった。そこに仕立てのいいスーツ着た、割腹のいい実年男の画商西森がおって、その助手やってるらしい若い事務員がひとり。男やで。普通女やろ。それは俺の偏見か。
これまたレトロっぽい趣味の、深い緑色したビロードのソファセットに、きりっと冷えた麦茶をガラスの茶器で出してきてくれた事務員さんは、和顔でぱっと見個性はないけど、涼しいような穏やかな美形やった。ぜったい顔で選んでる。二十五、六くらいに見える年上のその人の、にこにこ顔に会釈しつつ、俺はそう確信してた。
画商西森、怪しすぎ。
亨はえらい、このオッサンに懐いてて、店に着くなり俺は放置。最近どうやって、オッサンと話してた。俺はつらい。この店に来るのは。でも何か時々来てしまう。いい絵があるし、西森さんには何か、人間的な魅力がある。人間的なやで。非人間的な魅力やないと思うんやけどな。
それに俺、じつはファザコンなんとちゃうか。マザコンだけやのうて。
西森さんは何となく、親父キャラやねん。お父さんぽい。どっしり構えてて、多少のことでは揺るがへん、そんな感じ。むかつくが、この人の店はなんや、入るとほっとする空間なんや。
まあ、それも、商売のうちなんやろ。俺はそう結論してた。俺も商売やねん。絵描きやし。絵を売ってもらいに来てるだけ。この人、その方面も、やり手らしいからな。
前回の、亨の絵の一件で、面識ができた大崎先生にも、じゃんじゃん絵を売ってるとかで、今日も狐の秋尾さんが店に居合わせた。
こんこん狐や、なんでおるんやと、亨はびっくりした顔で、先に客用のソファにいた秋尾さんの丸眼鏡を睨み付けてた。それに糸目で笑い返してきて、西森さんに愚痴聞いてもろてたんや、最近仲良しなんやでと、亨をからかう口調やった。
亨はもろにからかわれていた。なんでそれがお前にとって痛い話やねん。それについて聞きたいわ、俺は。ほんまにお前は信用でけへん相方やで。
「大崎先生、まだ
悔やむような口調で俺に言い、それが秋尾さんの挨拶代わりやった。その苦笑と見交わして笑い、俺はなんと言うていいやらやった。
大崎先生には、実はまた世話んなった。焼き豚に釣られて入り込んだ疫神の絵を、始末してくれてんのは、大崎先生やったからや。実はまだ、一面識もないんやけど、あの人もどうも、
いっぺんくらい、挨拶に行くのが筋やろな。その道の先輩なんやし。世話になってんのやし。絵も贔屓にしてもろてんのやし。でもまだ機会がない。それはまたいずれ。
「せやけど絵を売ろうやなんて、また、どういう風の吹き回しなんや」
秋尾さんは出先巡りのついでに寄ったというような、スーツ姿ででっかい書類鞄を抱えた、腰の落ち着かん雰囲気やった。
「
しみじみ急に親しげなこと言うて、秋尾さんは俺を見た。この人いったい何年くらい居るんや。
「いったい誰が買うたんか、聞き出して来いて、大崎先生に怒鳴られとるんですよ。僕もつらいんですわ。教えてください、西森さん」
しばらく居ったようやのに、今やっと本題かという油の売り方で、秋尾さんは思い出したように画商に訊いた。
「
画商西森は言った。
駆けつけ一杯で麦茶を飲み干して、俺を含め全員が、ギャラリーの壁に掛けられた話題の絵の前にぞろぞろ立ってた。
西森さんは、今日もピンストライプの趣味のええスーツ着て、ポケットに手突っ込んで絵を斜に見た。
「ろくに絵も知らんような女が、一目惚れして血迷って、せっかくおっさんに跨って稼いだ虎の子の有り金全部つぎ込んで、それでも足らんもんで、命より大事なクロコのバーキン全部売るんや言うてましたわ。せやからちょっと支払い待ってほしいて。まったくアホな話や。絵は、そうまでせな買われへんような女が手出すもんやないですよ。本間さんも罪な男やなあ」
西森はもっともらしく言っていたが、それを聞きながら、亨はずいぶん離れたところにかかる別の絵を眺めながら、くすくすと堪えがたいように笑うてた。
「しゃあないわ、それは。欲しいうてんなら買わせてやったらええやん、西森さん」
「せやけど、可愛い顔して、えげつない女なんやで、亨君。絵買うてやったんやから、本間先生に会わせろ、休みないから店に顔出せて言うとったで。まだ支払い終わってへんのにやで」
「なんやと、その女、美人なんか。図々しいわ、絶対行ったらあかんで、アキちゃん」
亨は血相変えて命令してきた。俺は苦笑して、それを眺めた。
「そうは言うてもなあ。描いた絵がどんな人のところに行くんか、見てみたい気もするわ」
可愛がってくれるんやろか、その女は、あの犬を。俺はそれが心配や。また寂しなって、ふらふら出てきたりしたら、まずいしな。
「そんなんあかんわ。絶対行ったらあかん。俺のいうこときいといて」
ずかずか歩いて戻って来ながら、亨は必死にそう言って、俺の前に立った。そして向き合った俺の首を両腕で抱いて、唇を合わせてくる亨の顔を、俺は間近に見つめた。綺麗やなと幻惑されて。
やめなあかんで。みんな見てるやんか、亨。それにこの店、ガラス張りやで。ギャラリーなんやから、外から中が丸見えや。
そう思ったけど、ぼんやり許してるうちに、亨のキスはずいぶん長かった。やっと離れると溜め息が出た。
「おいおい、お熱いなあ、亨くん」
呆れはてたテノールで、西森さんは言った。
「お熱いで、めちゃくちゃお熱い」
まだ俺を見つめたまま、亨はうっとりとそう答えた。
「アキちゃん、浮気したら食うてまうからな。おぼえとけよ。ほんまに骨まで全部食うてまうから」
本気で言うてるとしか思えない口調で、亨はうっとりとそう囁いた。
「怖いなあ」
俺は正直な感想を言った。
「でも愛してるやろ」
そうだと言ってくれという、すがりつく目で、亨は俺を見つめてた。それに苦笑して、俺は眩しく亨を見つめ返した。
「まあ、そういうことにしとこうか」
「なんやと、こら。実は違いますみたいな言い方すんな、アキちゃん。まだまだ浮気する気なんか!」
首に巻き付いてた白い腕を無理矢理解かせて、俺は売りに出した絵を眺めに行った。
絵の中で、可愛いような綺麗なような、淡い色合いの犬が、うっとりとくつろいで眠ってる。お前の長い眠りが安らかやとええんやけどなと、俺は絵の犬に心で語りかけた。
それでも、どうしても寂しくなったら、また来たらええよ。あいにく抱いてはやれんけど、名前くらいは呼んでやれるやろ。
亨はまた、めちゃめちゃ焼き餅焼くやろけど、別にええやん、名前呼ぶくらい。減るモンやなし。
それで片づく問題やったんかもしれへんで。誰も死なんでよかったんかもしれへん。
名前呼んでやるから、それで我慢せえて言うたら、お前は我慢したやろ。そういう奴やったんと違うかな。貪欲な蛇と違うて、お前は健気な犬やったんやから。
勝呂には本当に、親がいて、家があったんか、俺はどうしても気になって、焼香ツアーの終幕に、それを確かめに行った。行く必要もあった。あいつが自宅のパソコンに残してたという、例のCGのデータを、
俺はあいつの家にだけ、なんでか普段着で行った。いつもと変わらないような、普通の格好で。それでも、先方の親に失礼のないように、精々、京都のボンボンらしく、身なりは整えて。
あいつの家は、大阪にほんまにあった。意外なことに、金持ちやった。
なんやこれみたいな洋風の白い家で、うちのおかんが好きな『風と共に去りぬ』とかに出てくる家みたいなんやで。白い円柱とかあってな。勝呂の住んでる家とは思われへんかった。
でも間違いなくあいつの家やねん。黒い鉄で編まれた格子の門の脇にある、その家の表札には、ちゃんとあいつの名もあった。三人家族やった。話してたとおり、あいつもひとりっ子。
前もって電話してあったんで、インターフォンに話すと、中から綺麗なお母さんが出てきた。ひらひらの襟の、白いブラウス着た、黒いフレアスカートのおばちゃん。それは喪服のようでもあり、地味なようでいて、なんやら花のような軽やかさのある人やった。
瑞希ちゃんの、お友達の方ですねと、悲しみ疲れたような顔で、その女の人は俺に尋ねた。そうですと、俺が答えると、その人はやっと微笑んだ。
息子は家に友達を連れてきたことがない。せやから友達がいないんやないかと、お母さんは心配してはったらしい。もらわれっ子やからて、いじめられてるんやないかと、子供のころからずっと心配してたんやと、レースのハンカチで目頭を押さえながら、その洋風でひらひらのおかんは話してた。
あいつは養子やったらしい。幼稚園くらいの年頃に、家の前に突っ立ってんのを拾われて、いろいろ経てから、この家の子になったんやって。首輪を持ってたんやと、ひらひらのお母さんは、涙ながらに震えながら話してた。この人もちょっと、錯乱してるんやないかと、俺は身構えて話聞いてた。
この家は長く、子供が授からんで悩んだ。とうとう諦めて、代わりに犬を飼った。血統書付きのマルチーズ。男の子が欲しかったから、オスにして、ひらひらのお母さんは、生まれれば息子につけたいと憧れてた、
そんなこと、したらあかんかったな。犬は犬でよかったんや。人の子の代わりなんか、できるわけない。
それでもその犬は忠犬やったんやろ。そして深情けやった。
白い犬はある日ふらっといなくなり、ひらひらのおかんを発狂させたが、やがて戻ってきた。幼稚園ぐらいの子供の姿で、いなくなった時に持ってたのと同じ、犬の首輪持って。
それは怪異やったんやと思う。神か悪魔に、あいつは出会った。そういうこともあるんやろ、不思議なことばっかりの、この世の中やから。
おかんは悩みもせず、拾ってやった子を
賢いからアメリカ留学やって、おかんは一緒に行くつもりやったらしいで。
でもその肝心な時になって、可愛い瑞希ちゃんは突然我が儘を言った。友達と長堀のほうへ行く言うて出かけて、帰ってくるなり、京都の美大へ通いたい、留学はやめてもええかと、思い詰めた顔で頼むんやって。それで、ひらひらのおかんは可哀想になって、そうしましょう、画家もええわねと、あっさり迎合。
そして可愛い瑞希ちゃんは、おらんようになってしもた。どこ行ったかわからへん。
居なくなる前、京都から傷だらけで帰ってきて、お母さん、許してくれとあいつは詫びたらしい。人間になられへん。なりたいもんには、俺はなにひとつなられへん。悪い子やから出ていくと、そう言って、そのまま消えたらしい。
あの子はほんまにええ子やったのにと、ひらひらのおかんは泣いていた。
どうなんやろう、それは。あいつは、ええ奴やった。でも、ほんまにそれだけか。人にも、人でなしにも、綺麗なとこと、醜いところがあるやろ。亨かて、そうやないか。その清濁合わせてはじめて、一個の存在なんとちゃうか。あいつはいつも、自分の綺麗なとこだけ人に見せようとしてたんやないか。俺もそうやけど。人が好みそうな、無難なとこだけを見せて、それで許してもらおうとしてた。それでやっていけると。でも、それやと寂しくて、俺はほんまはこんな奴やと、誰かに見せたかった。
あいつにとっては、その誰かが俺やったんやろ。
ひらひらのおかんに頼んで、勝呂の部屋に入れてもらって、パソコンの中にあったデータを消した。
ログイン用のパスワードはな、スタートレックやったわ。STAR TREK。俺の好きな映画。
あいつも好きやって話してた。映画好きやねん。CGやる奴やしな。その辺の話、話し出したら止まらへんみたいなところあった。なんでもよく知ってた。ほんまに好きやったんやろ。制作終わったら、一緒に映画行こうって約束してた。由香ちゃんと三人で。でも、たぶん、あいつは俺を誘ってたんや。二人で行こうって。行ったらきっと楽しいやろなあ、て、俺は普通に思ってた。それが後ろめたいとは、気づいてるような、気づいてないようなで。
でも、行けず仕舞いで良かったな。寂しいけど、行かなくて正解やった。
勝呂の部屋は、可愛いような部屋やったわ。ひらひらのおかんの趣味なんやろ。子供のときのまま。親孝行な瑞希ちゃんが頑張った、表彰状とか、トロフィーとかが一杯飾ってあって。
でも、がらんどうみたいな場所やったで。
あいつは絵を作らせると、なにか、おどろおどろしいようなもんばかり作ってた。ほんまは悪い子やったんやな。そうなんやろ、勝呂。お前はほんまは、性悪な犬やったんや。
それでも俺は、お前のことは嫌いやなかった。今もたぶん嫌いやない。なんでやろ。俺はお前がいつも、可哀想なような気がしてた。寂しいなあって、困ってるようなところが、ちょっと前までの自分に、そっくりなような気がしたんや。
きっとお前と俺は、似たものどうしやったんやろなあ。
そう思って絵を眺めると、犬はすやすや気持ちよさそうに寝てた。その絵がものすごく可愛いと、俺には思えた。抱きしめたい、骨までばりばり食いたいような、そんな可愛い犬や。
これぞまさに、自画自賛やな。
「アキちゃん、何考えてるんや」
心なしか、ワナワナしながら、亨が背後に立っていた。超怖い。
「お前にバレるとまずいことや。知りたいんやったら口に出そうか」
「出すな。出さんでくれ。だいたい分かるから。せやけどアキちゃんの口から直に聞いたら間違いなくキレるからな、俺は」
「怖いなあ」
心底ほんまに怖いと思って、俺は振り返った。亨はちょっと思い詰めたような顔で突っ立っていた。
「犬の方が好きか、アキちゃん」
そうやて言われたらどないしようっていう顔やった。ここまで来ても、俺がよそへ行くんやないかて不安なお前は、俺にはめちゃくちゃ可愛く見える。
「いいや。そうでもないみたいやで」
「断言してえな、そういう時には。俺、切ないわ」
ほんまに切なそうに、亨はぼやいた。
それが可哀想なような、可愛いようなで、俺は亨の肩を抱いた。京都はまだまだ暑い夏のまっさかりやった。亨の体はひんやりと冷たく、抱いてると気持ちよかった。
「ツレが切ないらしいんで、もう行きます。お邪魔しました、西森さん。祇園の夜の蝶によろしく言うといてください。本間先生は焼き餅焼きのツレが怖いて会いに来られへんて」
「ほな、そう伝えますわ」
ふっふっふと苦笑のような冷やかす笑いで、画商西森は請け合った。
「先生、なんか描けましたら、ぜひまたうちへ、よろしゅう頼んます。犬でも蛇でも、なんでも引き受けますさかい」
「蛇はもう描かないです、西森さん。描けたらうちに飾っとく」
店を出しなにそう言う俺に、西森さんは、また、ふっふっふと笑っただけやった。秋尾さんは、こらもうあかんでという嘆かわしそうな顔で、首を横に振っていた。
「ほんまにもう、ごちそうさまやで。腹一杯ですわ。甘辛う炊いた油揚げ百枚食った気分やわ。甘いの最初のうちだけで、とっくに通り越して胸焼けしますわ」
「ほんまですわ。ムカムカしてしゃあない。今日は早めに店閉めて、
「俺も行きたい、西森さん」
俺に抱かれて店出る際に、漏れ聞いた亨が振り返ってそう言った。
亨。お前はほんまにどうしようもないやつや。
自分のことは棚上げで、俺は腹が立った。
それでこのくそ暑いのに、亨の肩をがっちり抱いて、まだ人気の薄い真昼の祇園を歩いた。花屋が店の仕度をはじめ、店の女に貢ぐために、酔眼の客が夜買うような、不実な蘭を売っていた。
「焼き鳥ぐらい、俺が食わしてやるやん」
「なんや妬いてんのか、アキちゃん。いい気味やわ」
亨は可愛い顔で憎ったらしいことを言った。
にやにや笑っている顔が綺麗やった。
炎天のまぶしい道筋には、人気がなかった。ここは夜の街で、昼間は人もまばらや。
「誰も見てへんし、キスしよか」
そうしたい気がして、俺は亨に意向を訊ねた。
「いややわ、俺は。もっと人のいっぱいおるところで、してほしい」
すねてるらしい、しかめっつらを見て、そう来るかと俺は思った。お前はよう人前でそんなことを平気でやるよ。むしろ人が見てるほうが嬉しいらしいで。変な奴や。
「わかった。そんなら四条大橋のど真ん中でやったるわ」
俺が受けて立つと、亨はびっくりした顔をした。
四条大橋は人の絶えることがない、にぎやかな橋で、鴨川を渡り、田の字エリアと呼ばれる四条河原町の繁華街と、八坂神社へ続く参道を繋いでいる。
四条河原町は繁華街でありながら、神社へと続く、聖域への入り口でもあるわけや。そんな神さんのお膝元で、人は飯を食い、酒を飲み、河原でいちゃつく。八坂神社の神さんは、それを鷹揚に眺めて鎮座し、祇園祭りともなれば、よっこらしょと御輿に乗って、京都の街を清め祓いにご出張なさる。気のいい神様やで。
そんな神さんを、京都の人たちは、親しみを込めて、八坂さんと呼んでる。この街には、いつも生活の隣に神がいて、辻辻には怪異とも神威ともつかない何かが、うずくまっている。
祇園界隈を出て、とろとろ橋まで歩いていくと、そこはいつも通りの人通りの多さやった。
この暑いのに、スーツ着込んで汗をふきふき歩くサラリーマンがいるかと思えば、祭りの仕度で白い着物着た人が、白足袋はいてうろうろしてる。いかがわしい店のチラシを配る、白衣着た茶髪のミニスカ女の向こう岸に、笠かぶってうつむき、経を唱える墨染めの托鉢僧がいる。
「キスしよか、亨」
「ええ。マジですんの。ここですんのか。マジで?」
嫌そうな言い方しながら、亨は嬉しそうにもじもじしてた。それがおかしなってきて、俺は笑った。顔を寄せると、漏れる息がくすぐったいんか、亨ははにかんだような顔をした。
そして亨は俺の首を抱いて、キスを受けた。暑苦しい橋の上の、熱く甘ったるいキスだった。俺は心行くまで亨の唇を貪った。それが何や、気持ちよかったらしくて、亨はヘナヘナになってた。
唇を離すと、亨は、もう立ってられへん抱いといてみたいな顔で、うっとりと俺を見上げてきた。
「こんなことしてええんかな、天下の往来で」
「ええんやないか。誰も見てへんみたいやし」
俺がそう言うと、亨はむっとかすかに顔をしかめた。そして、橋を行き過ぎていく人の群れを見た。
誰も俺らを見てへんかった。往来のど真ん中に突っ立ってて、相当邪魔なはずやけど、人も、車の中にいる連中も、ぜんぜん気づいてないような知らん顔で、せわしなく普段通りに行ったり来たりしてた。
「なんでや。なんで誰も見てへんのや」
亨は不満げにわめいた。それに何の問題があるんや。
「なんでや、アキちゃん」
抱きついてた俺の体を突き放して、亨は悔しそうに、さらにわめいた。それでも誰も見てへんかった。
「さあなあ。なんでやろ。そういうことも、あるんとちゃうか」
にやにやして、俺は答えた。
「ずるいわ、アキちゃん。何かしたんやろ」
「何かって、何やろなあ。そんなことより、もういっぺんキスしよか。悪趣味なお前が、ここで抱いてくれ言うても、俺は平気やで。なんでもやったるわ」
にこにこ請け合うと、亨はあんぐりしてた。抱き寄せて、またキスしようとすると、亨はじたばたした。負けるもんかと思うらしい。
ちょっと前なら、力技では俺より上だった亨も、今ではひ弱なもんやった。俺の方が、力が強い。
やっぱこうでないとあかん。格好つかへん。
そう思って満足しながら、俺はもう一度、亨の唇を奪った。熱いなあと、甘くぼやきながら。
「あのねえ君たちね、困るんやけどな。こんなとこで、いちゃつかんといてくれるかな」
唐突に話しかけられて、俺はびっくりして脇を見た。紺色の制服を来たお巡りさんが、俺らのすぐ横に、いつの間にか立っていた。
橋のたもとにある交番から来たんやろかと、俺は一瞬びびったけど、そんなはずなかった。なにしろ、そのお巡りさんは、能面みたいな面をつけていた。
「あのねえ。祇園祭りやろ。みんな仕度で忙しいんや。橋に蓋せんといてくれるか。八坂さんと行き来でけんようになるやろ」
遠く八坂神社のほうを指さして、お巡りさんは言った。眺めると、はよ道あけろとイライラしてるらしい、人ではないようなモンが、橋の両端にたむろしていた。
「迷惑なんや。よそでやってくれるか」
「すみません」
俺は能面のお巡りさんに、素直に謝った。軽率でした。ちょっと浮かれとったんです。それは認めます。せやけど祭りの日なんやし、大目に見てもらえへんか。まだまだ新米なんやから。
「怒られよったわ」
気味良さそうに言うくせに、口元をぬぐう亨の足下はふらふらやった。
「ふらふらやで、お前」
「誰のせいや、誰が俺をふらふらにしたんや。ちゃんと責任をとれ」
酔っぱらってるみたいに、亨は俺の腕に腕をからめて、すがりついてきた。
「橋の向こうにラブホあるろ。そこで一発やって行こうや、アキちゃん。家まで待ちたくないねん。今したい、今すぐしたいんや」
「病気やでお前」
「そうや。俺は病気や言うてるやん。アキちゃん恋しい病」
恥ずかしそうに、にっこりして、亨は言った。俺は真顔でそれを見つめた。
なんかな、あまりにも恥ずかしすぎて、リアクションできる限界をはるかに越えてたんやな。
こいつはほんまに羞恥心がないわ。よう、そんなこと家の外で言えるわ。能面お巡りさんも聞いてはるんやで。
「はよ帰りなさい」
案の定、呆れ果てたという声で、お巡りさんは言った。
俺は言われたとおりにした。
いやや、いややて駄々こねてる亨を引きずって、電車で出町まで帰り、マンションに帰って、クーラーのがんがんに効いた快適な寝室で、心行くまで亨を喘がせた。
地球に厳しい設定温度にしてても、めちゃくちゃ汗かいた。それで、しゃあないから風呂入って、そこで亨に襲われて、やたら時間食って、ええかげんにせえ言うて風呂から逃げ出して、浴衣着て祇園祭りの宵々山に湧く四条河原町に舞い戻ったんは、もう夏の長い陽も、すっかり沈みきった、暑い夜になってからやった。
録音されたのが再生されてるだけの、嘘モンの祇園囃子が、あちこちで鳴り響いていた。いつもなら車がひしめいてる四条通りが歩行者天国になり、能面つけてない人間のお巡りさんが、この暑いのにスワットスーツ着て、一生懸命街を守ってた。
お疲れさんですと、俺は彼らを眺めた。やってることはずいぶん違うけど、この人らは俺の同業者ってことになるんやろ。京都の街を守ってる。日ノ本を、秋津島を、ニッポンを、呼び名はなんでもええけど、とにかくこの島を守ってゆくのが、我が血筋の勤めらしい。この屈強な兄貴たち同様。
暑い中、向こうはスワットスーツで立ちん坊やのに、こっちは浴衣で、綺麗なの連れて、ちゃらちゃら歩いて、どうもすんません。せやけどこれでも一応、命がけなんやで。
本日、宵々山、明日が宵山、真夏の大掃除イベント、山鉾巡行まで、あと二日。巡行当日には国内外から、ものすごい人出が押し寄せる。身動きとれんような、ひしめく人混みが、山鉾が辻回しする四条河原町の交差点を埋める。
何が入ってくるやら、わからへん。元々京都にはびこってたモンも祓わなあかんけど、今時、観光客にくっついてきた、外来のモンも、厄介やでえ。ルール分かってへんからな。
明後日、めちゃめちゃ消毒する神さん通りますから、逃げるなり帰るなり、しとかんとあかんですよって、教えといたらなあかん。怪異も神のうち、お客様は神様て、それがこの国のモットーやからな。
やっつけりゃええってもんやないねん。まずはネゴシエーションから。時には偉そうなボンボンの俺でも、頭下げて頼まなあかん。相手は神さんやからな。まあ、近頃ちょっと、俺もそれに近いような気がするけど、そう思うのは自惚れか。俺の悪い癖や。
ご奉仕せなあかん。神さんには下手に出てご奉仕。そしたら気持ちよく、仲良くなって、無難に過ごしてくれはるかもしれへんからな。
「亨、錦市場になんか食いにいこか。夜店もあるけど、錦の豆乳ソフトクリーム美味いで。練りもの蒸してる店もあるし、魚屋が刺身の串売ったりもしてるで」
餌で釣ると、亨は釣られた顔して、色の薄い綺麗な目をキラキラさせた。
「そんなんあるんか。行きたい。ソフトクリーム食いたい」
「ほな手つないで行こか。ものすごい人出やし、迷子んなったら困るから」
「うんうん、手つないで行きたい」
デレデレして、亨は嬉しそうやった。まあ、しゃあないわ、こいつもたぶん、神さんの一種やから。精々ご奉仕。
「でもな、亨。食ったら働かなあかんのやで。おかんに言いつけられてるやろ。街見回って、道に迷てはる外国の神さんいてはったら、ちゃんと道案内せなあかんえ、って」
「いやや、俺、アキちゃんとデートしてたい」
「あかんあかん、仕事やねんから」
手を引いて、錦通りのあるほうへ、亨を引いていきながら、俺は諭した。亨はそれに付いてきながら、しばらくぶうぶう言うてた。けど、しゃあないからキスしてやったら、大人しくなったで。
さあ大変な夏や。責任とらなあかん。
知らんと放った疫神が、どこまで飛び散ったやら。それに、こんな血筋に生まれついた宿命もある。お仕事三昧、頑張らなあかん。もう俺のせいで、誰かが死ぬのはご免やで。
「お前まで、俺の仕事に付き合わせて悪いなあ」
連れて歩きながら、俺は亨に謝った。こいつはもともと、勝手気ままにふらふらしてた自由人やったのに、俺なんかとデキてもうたせいで、こき使われる羽目になるんやからな。
「気にせんでええよ。俺はアキちゃんと一緒に居れれば、それでええねん」
観念した笑みで、亨は少し眩しそうに俺を見た。闇の中でも、亨の目には、俺は光って見えるらしい。
「好きや、アキちゃん。俺をずっと、傍から離さんといて」
少し離れた祭り囃子の音を背に、亨はぎゅっと手を握ってきて、小声で俺に頼んだ。
「離さへん、ずっと、俺が生きてるかぎり」
「そうか。嬉しいわ。二人で永遠に生きよう」
切ないような、愛しげな淡い笑みを浮かべて、亨は俺を見た。美しすぎるわ、お前は。
「永遠か。そらまた長いなあ」
苦笑して、俺は答えた。たぶんちょっと照れ隠しやねん。まともに見るのも恥ずかしいようなお前に、好きやて言われて、俺はほんまはめちゃくちゃ恥ずかしい。
せやけど永遠か、って、俺は安心した。そんだけ時間あれば、さすがの俺も、いつか慣れるやろ。平気でお前と見つめ合って、俺もお前が好きやって、平気で言えるようになるやろ。それまで何百年かかかるかもしれへんけど、気長に待っといてくれ。
それまではと思って、言葉で言うかわりに、俺は亨の白い頬を指で撫でた。亨はうっとりと気持ちよさそうに、俺の手に顔を擦り寄せてきた。
好きやて言う言葉は、ほんまは必要ないんかもしれへん。こいつは分かってくれてる。うっとり見つめ合う時、俺がものすごくお前を好きなのを、きっと分かってくれてる。せやから、別に言わんでもええかなあ、なんて。
それは俺の身勝手か。
しゃあないねん、ボンボンやから。
「アキちゃんと居るのに、永遠でも長いってことはないで」
ちょっとすねたような顔を、亨はしてた。
「そうやな。亨、ずっと俺の傍に居ってくれ。お前が居らんと、俺はあかんねん。そんなん、言わんでも分かるやろ」
せやから普段は言わへんしな、今夜だけ特別なていう含みで伝えると、亨はまた、むっとしたような顔で、それでも笑ってた。
「しゃあないなあ、アキちゃんは。言われんでも、ずっと傍におるよ。ずっとずっと離さへん。ずっとずっとずっと居るよ、ずっと……」
亨はふざけてんのか、ずっとずっとうるさかった。それを連れて、俺は夜の街を歩いた。照れくさかったけど、ほんまは嬉しかったんやで。
お前が好きや、亨。お前とずっと一緒にいられて、俺は幸せや。
そう思ってそぞろ歩く夜の河原町は、途方もなく綺麗やった。こんな美しい街やったやろかと、俺は思った。
きっと亨と一緒やからやろ。こいつと手繋いで眺めれば、きっとどんなもんでも美しく見える。ああ、早よ帰って絵描きたいて、俺は静かに焦れた。
帰って絵描いて、それから亨を抱いて眠りたい。せやけど仕事あるし、それはまだちょっと無理やわ。時間はいっぱいあるんやし、焦ることない。焦ることないけど、気が逸って待ちきれへんわ。
俺にとっては二十一回目の京都の夏やった。
せやのに俺は今年はじめてこの世に生まれ出たような気がしてた。
ずいぶん長いこと、おかんの腹に抱かれたボンボンで、今やっと生まれてきたんかもしれへん。亨と出会ってから。生きていきたいと思ったんや。こいつと生きていけるんやったら、どんな力を自分が授かってようと、どんな怪異と向き合おうと、怖いことあらへん。こんな俺で良かったわ、お陰でお前と手繋いでられる。
愛しい俺の蛇。そう思って見つめた亨は、この世のモノでないような美しさやった。亨は微笑んで俺を見つめ返してた。何も言わずに、お互いの手の温もりだけを感じながら、亨と俺は歩いた。
祇園囃子が遠くで響いていた。
来年もその先も、ずっと二人でこれを聞くやろう。この街がある限り。
それが永遠やったらええなと、俺は願った。この街は俺の故郷、愛しい美しい街で、この美を俺は永遠に守りたい。時とともに変わり続けても、目を覆う醜さを隠し持ってても、それでもこの街の美しさに揺るぎはないやろ。俺はそれに、心底惚れている。
俺は永遠に、お前を守ってやる。この美しい街、美しい島の、えもいわれぬ美を。なにものにも代え難い、美しいお前の、美しい微笑みを。そうやって生きていく。永遠に。お前と手を繋いで。愛しく見つめるその目と、見つめ合いながら。
コンチキチンと、どこかで囃子が鳴っていた。
それはこれから無限に繰り返される、永遠の調べだった。
《おわり》
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