SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

大阪編(11)

 早朝から起き出して、俺とアキちゃんは出発した。
 まだ七時半やのに、すでに何となく暑い。みんみん蝉が鳴いている。京都の夏やった。
 空調のないガレージは、むわっとした外の熱気を籠もらせてた。昨日は一日雨やったらしい。集中豪雨で皆えらい目にあったという話を、朝ニュースの可愛い天気予報の姉ちゃんが伝えてた。
 大阪の天気を知るために、朝飯食いながらテレビつけたんやけど、普段アキちゃんはテレビは観ない。うるさいんやって。せやけど今朝は、なんやアキちゃんの沈黙に耐えられんようになって、俺がテレビつけたんや。
 大阪の街は変わりなかった。
 狂犬病騒ぎは相変わらずやったけど、大量の人死にがからんできたせいか、ワイドショーめいた朝番組さえ、それについては沈黙がちやった。報道規制でも敷かれてるんか、大阪の街で何が起きてんのやら、行ってみんことには、真相はわからへん。
 テレビが黙れば、ネットは騒ぐ。そういうもんらしい。アキちゃんは黙ってパソコン見てた。
 画面を見ながら、アキちゃんはぽつりと、アメ村ってどこやって、俺に訊いた。
 それは大阪のミナミにある場所の名前やで。正式名はアメリカ村やけど、どこらへんがアメリカなのかは謎。ただの若い子向けの服の店があったりするだけやけど、真ん中あたりにある三角公園に、意味なく群れて遊んでる連中もおるわ。
 一種のたまり場やねん。人が吹きだまるところ。鴨川の川原と似たようなもんか。あそこはカップル限定やけど、アメ村の三角公園は、有象無象のたまるとこ。昔はずいぶん荒れたこともあったらしいわ。
 俺がそんな豆知識を教えてやっても、アキちゃんはふうんとも言わへんかった。しばらく黙って画面を眺めて。それからノートパソコンを終了させた。
 そのアメ村の、不発弾のニュースをテレビはやってるかて、アキちゃんはコーヒーを飲みながらまた訊いてきた。
 そんなニュースはやってへん。
 大阪ニュースはひたすら阪神タイガースや。今年は早くもマジック点灯か、優勝か、御堂筋を凱旋パレードかって、景気のええ話が目白押し。写るのはひたすら甲子園球場とトラッキー。
 大阪の人らは、阪神勝ってりゃ幸せやみたいな底抜け感がある人多くて、特に夏場は、阪神勝ったか負けたかで、街の空気まで違うてる。その阪神が連戦連勝で、大阪の街は浮かれてた。
 まるでお祭り騒ぎや。怖いモンなんか見たないて、阪神阪神、どないなったかな昨日のナイターはって、誰が打ったか走ったか、そんな現実逃避の空気なんやろ。
 そりゃ怖い。特効薬のない病気が流行って、ワクチンも足りないて言うてる上に、犬に食われたていう死体がざくざく出てきて、肝心のその犬はちっとも見つからん。警察は野犬狩りして、犬を殺しまくってる。それでもなぜか新しい死体が出るんや。
 事件はミナミに集中してた。せやからミナミに行くなって、そう言うわけにはいかへん。大阪南区は大商業地やし、ビジネス街でもある。みんな働かなあかんのやし、犬怖いし休みますってわけにはいかんやろ。ワンと吠えればスーツ着た、大の男が逃げまどうような状況らしいけど、それでも日常生活は続く。がんばらなあかん。人間て大変や。
 ネットではまことしやかに噂されてるらしい。警察がもう三日も四日も、アメ村を封鎖してる。工事してたら不発弾が見つかった言うて。
 せやけど工事なんかしてへんかったで。ツレがミナミに行ったきり、帰って来ない。携帯も圏外やって、心配してる奴も居る。
 どないなってんの、大阪。変やで。誰かこれからアメ村行って来いて、ほんなら行ってきますわって、夜陰にまぎれて突撃したやつが音信不通。
 まあ、そんな感じ。区画封鎖のお巡りさんも、お疲れ様やで。世の中、アホばっかりや。
 そういう俺らも、そんな特攻するアホのひとり。いや、ふたりなんやけどな。
 アメ村怪しいわ、断然怪しい。駄目もとで、行ってみよかって、アキちゃんとそういう話になった。
 蒸し風呂みたいになってた車の中に、クーラーがんがんに効かせながら、アキちゃんが携帯で電話してた。話す相手は、コロンボ守屋や。大学で、アキちゃんが共同制作やってた女が死んだ時に、捜査に来てた刑事。アキちゃんが、なんでかそいつを、コロンボ守屋って時々呼ぶねん。
 電話ではもちろん、そんなことは言わへんかった。一応、クライアントやからな。
 もしもし、本間です、ご無沙汰でしたって、アキちゃんは挨拶した。そして、実はお願いがあってと、単刀直入やった。
 大阪のアメリカ村っていうとこで、警察が区画封鎖してはるとか、ネットで見たんですけど、その中へ入りたいんです。捜査でお忙しいとこ申し訳ないんですけど、守屋さんの口利きで、なんとかしてもらえませんやろかって、アキちゃんは、いかにも京都のボンボンみたいな喋り方やった。
 なんでそんなこと本間さんが私に頼みはるんでしょうかって、刑事は答えてた。
 そりゃそうやわな。そんな現場主義の刑事のおっさんなんかアテにせんと、おかんのコネを使えばええやんか、アキちゃん。もっと偉い人知ってはるやろ。
 せやけどな、頼りたくないんやって。この期に及んでもまだ、おかんにええ格好したいんか。自分の力だけで頑張りましたみたいなな、そんなノリなんやで、絶対。
 俺は扇子でぱたぱた自分だけを扇ぎながら、冷たい目で、電話してるアキちゃんを横目に見てた。
 バックシートには、水煙すいえんとかいう、おとんが置いていった、でっかい包丁が置いてあった。きんきらきんのカバーつき。でっかい包丁のくせにご大層やのう。
 でも正直いって俺は、水煙すいえんには頭があがらへん。あいつのほうが強い。歳も食ってるみたいやし、自分より歳食ってるやつが、フリーでうろうろしてるの、初めて見たわ。そこまで古いキャリアのやつは、みんなどっかの神社とか、神殿とかに囲われて、悠々自適なもんなんやと思ってた。
 どうもアキちゃんの夢の中らしい、真っ暗な不思議時空で、俺も水煙すいえんの人型バージョンを見たけど、あいつ絶対宇宙人やで。地球産やない。『スター・トレック』やったら間違いなく宇宙人。
 だって、肌色が青やし、髪の毛触手系やった。それに、ぼやっと光ってて、自前のスモークまで焚いてはるんやで。おかしい。普通やない。
 そういうのな、古い土地に行ったら、たまに居るねん。お宅、どこの星から来はったんですか、みたいなな。そんな古い神さんが。
 そんなんでもええんや、アキちゃんは。顔さえ好きなら。
 俺はジト目で後部座席のサーベルを睨んでた。
 微妙なとこやった。
 水煙は、ただの剣やし、いくらなんでも剣と浮気はでけへんやろ。せやからギリギリでオッケイか。いちいち怒ってたらキリないしな、アキちゃんは。
 そう結論して、俺は首を振り、電話してるアキちゃんに向き直った。
「うちの実家にお祓いを依頼しはったでしょう。秋津です、嵐山の。秋津登与。それが俺のおかんなんです。ええ。そうです。名字違ったら何なんですか。ほっといてください。とにかく家業の手伝いで、今回の件は俺が担当を。はい。そうです。いや、拝み屋て……俺は画学生ですけども。話せば長いんです」
 話の分からんオッサンやなあ、みたいな、苛立った顔して、アキちゃんは髪の毛掻き上げてた。苛々しとるで。ボンボンやから我が儘やしな。堪え性も、あるようで無いねん。
「京都ではもう、新しい事件は起きないと思います。でも、その原因が、今はたぶん大阪のアメリカ村の中にあるんです。せやから中に入らんことには、話にならんのです。力貸してくれはったら、恩に着ますけど」
 運転席のシートにもたれて、アキちゃんは、こころもちのけぞり、目を閉じてた。ああ、クーラー効いてきたわっていうような顔やった。
 アキちゃんのお願いに、コロンボ守屋はどうも渋々やった。うだうだ言うとんのが受話器から聞こえてる。アキちゃんはそれを、ほとんど聞いてへんみたいやった。
「あのですね、守屋さん」
 向こうの話に割って入るような声で、アキちゃんは決然と言った。
「連日の捜査、お疲れ様ですけど、それやと解決しないです。俺はもう、犯人見つけてありますから。これからそいつを、捕まえに行こうっていう話なんです。それ以外では決着しませんよ、この連続殺人。いいんですか、それで。迷宮入りやけど」
 脅迫やん、みたいなことを、アキちゃんは平気で言うてた。気弱いくせに、変なとこで気強いなあ。
 アキちゃんに力貸してやったとこで、守屋のおっさんの点数あがるわけやない。事件は結局、迷宮の中で解決してまうんや。その外には出てけえへん。ただ単に、殺された連中の仇をとってやれるっていうだけ。復讐や。
「前に言うてはったあれですよ。霊感捜査?」
 苦笑しながら、アキちゃんは電話に話してやってた。
 その笑うてる横顔は、昨日見た海軍コスプレのおとんと瓜二つやった。
 アキちゃんのおとん、格好良かった。俺、正直言うて、ちょっとクラッと来てた。でも、そんなん言うたらアキちゃん怒るし、怖いから黙っといたけど。昨日は昨日でブチキレて、アキちゃんには、この浮気者みたいな事わめきちらしたけど、俺もぜんぜん人のこと言われへん。
 アキちゃん、よく平気やな。そんな俺に。ちょっと愛が足りないんとちがうか。もっと焼き餅焼けばええのに。
 内心そんな気分で俺が口を尖らせてると、後部座席のスモーク宇宙人が、アホかて言うてた。
 お前ちょっと、アホすぎやで、亨。アキちゃん大好きは別にええけど、焼き餅焼きすぎ。お前のせいで、ジュニアは迷惑してんのやで。立派なげきになられへんやんか。お前しかしきがおらんようでは。
 説教してくる非・地球系の心の声を、俺は鬱々と無視してた。聞こえへん。俺にはなんにも、聞こえへん。
 せやけど、アキちゃんのおとんには、いったい何人くらいしきがおったんやて、俺は水煙に訊いた。
 そうやなあて、数えてるみたいな気配をさせて、その後水煙はけろっと答えた。
 増えたり減ったりしてたけども、常時、十五、六はおったんやないか。手紙届けたり、そういうしょうもない仕事させるのまで入れたら、数えきれへんくらいおったわ。そういう下っ端のは、従軍させへんかったから、今でも嵐山におるやろ。
 からんころんみたいな奴らのことかなあって、俺はアキちゃんの実家におった下駄の妖怪のことを思い出した。
 あいつらは、無駄におるだけやで。長年使い込まれると、道具もあんなふうになってまうねん。ほんま役立たずやで、あいつらは。その割に強欲やしなって、水煙は下駄が嫌いらしかった。
 考えてみれば、こいつも道具類なんやし、使ってもらわれへんときには、蔵に仕舞われてたんやろう。それが、ひさかたぶりのご活躍とかで、水煙先輩はほんまに嬉しそうやった。
 戦う時しか、触ってもらわれへんのって、どういう感じなん。寂しないのかって、俺は水煙に訊いた。別に、って、そっけなく水煙は答えた。
 確かに、お前に比べたら、俺は放置されぎみかもしれへんけど、それでも死線をくぐるときには、いつもアキちゃんと一緒やった。それでええねん、別にって、水煙はアキちゃんのおとんの話をしてた。
 それに俺はちょっと、安心した。こいつが好きなんは、ジュニアのほうやないんやって思って。
 隣の席では、アキちゃんがとうとう、コロンボ守屋を攻め落としたようやった。
 どうせ一連の事件は解決せえへん。犯人も、人間やない。妖怪みたいなもんやったんやって、アキちゃんはオッサンに説明してやってた。鬼です、守屋さんて、アキちゃんは平然と断言して、自分が鬼退治するから、力貸してください、それで死んだ人が戻ってくるわけやないけど、少なくとも仇はとれる。今後もう誰も、死んだりしませんからって、アキちゃんは守屋のおっさんに約束してた。
 気合い入ってる。
 アキちゃんは、覚悟決めたんや。あの犬をぶっ殺すって、ちゃんと決めたんや。
 俺はそうやと信じたかった。
 アキちゃんは昨日、俺の催眠から黄昏時に目を醒まして、すぐに鬼退治に行くかどうか考えてた。せやけど水煙が、昼間にやったほうがええって言うんで、翌日持ち越し。
 それで、ふたりで晩飯食って、朝まで布団の中で絡み合ってた。俺を抱いてる間も、アキちゃんはなんとなく上の空やった。明日どうなるんやろって、どこか緊張してたんやろ。日頃は淡泊なようでいて、俺が誘わへんかったらやろうとしない男やのに、昨日の晩はアキちゃんから誘ってきて、もう一回もう一回で、明け方までかけて三回もやったわ。なんや、めちゃめちゃみなぎってんで、アキちゃん。
 でも、明け方に大満足の俺に、これで力いっぱい付いたかって、アキちゃんは訊いてた。
 なんや、そういうことかと思って、そりゃもうフル充電やで。空かて飛べそうやって、俺はそれに答えた。
 未熟者やけど、よろしくと、アキちゃんは殊勝なことを言うてた。明日また、俺があの犬にコテンパンにされたらどないしようって、アキちゃんは不安らしかった。
 そんなわけない。アキちゃんはただ俺に、戦えって言えばええねん。それだけや。そしたら多分俺は、一瞬にして、戦いのことを思い出す。あの犬をひねり潰してやる。俺の憎悪を思い知れ。
「ありがとうございます」
 ほんまに感謝してんのかみたいな棒読みで、アキちゃんが電話に礼を言ってた。
 そして通話を切り、携帯を閉じた。
 車の中はもう、ギンギンに冷えてた。ちょっと冷えすぎ。それでもアキちゃんは暑いらしい。暑がりやねん。それに今日はきっと、ボルテージ高すぎやで。
 めちゃめちゃ昼寝したとはいえ、徹夜で三発やって、ひとっ風呂浴びて、その足でご出陣やからな。極めて盛り上がってるわ。緊張してて飯も喉をとおらへんのかと思ったら、俺様がお作りした和朝食を、全部平らげてたわ。
 アキちゃんもほんまやったらもう、飯食う必要ないんやないかと思うけど、本人それに気づいてへん。ひげもなんで伸びるんやろって、俺には不思議。俺なんて、ひげ生えへんし、美形やからトイレも行かへんで。アキちゃんは、それにも気がついてない。猛烈なまでの鈍さや。
 そんな男やからな、猫がおらんようになったことにも、気がついてへん。最初は俺のことで、今は鬼退治のことで、アキちゃんの頭はいっぱいになってる。薄情な男やで。
 それもまあ、仕方ないわて、トミ子は言うてた。暁彦君は絵描き出すと何もかもそっちのけやった。それくらいの集中力無いとあかんのや、絵が仕上がるまでは、親が死のうが家焼けようが、気づかへんくらいでないと、いい絵師にはなられへんのやて、トミ子は平気なもんやった。
 さすがやな、お前。アキちゃん理解が深すぎ。師匠と呼ばせてくださいや。
 そう言うトミ子は猫型に戻って俺の膝にいた。後部座席への同乗を、水煙が拒否したからやった。畜生と同席はせえへんて、宇宙人言うてたわ。
 可哀想になあ、トミ子。お前、もとは人間やのに。水煙は、お前がブスやから差別しとるんとちゃうか。
 トミ子はまた元の、ものすごブサイクな顔の猫に戻ってたんや。
 トミ子は俺とくっついてからしばらく、いろんな姿を試したらしい。俺の中には、過去に食らってきた人間やら何やらの容姿の、ライブラリみたいなもんがあるらしい。その中から適当に組み合わせたもんを着てみたけど、どうも、しっくりせえへんのって、トミ子はぼやいてた。
 うちはブスに慣れすぎた。ブス以外で自分のアイデンティティを保たれへん。
 そう気づいて、トミ子は堂々と元のブスに戻ることにしたらしい。立派や。俺ももう、お前のブサイク顔には見慣れた。その顔やなかったら、お前やという気がせえへん。
 せやけどもう、アキちゃんには、お前が全然見えてないみたいや。残念やな。
 俺がそう慰めると、トミ子は不思議そうに、ひょいと隣のアキちゃんの膝に飛び移った。カーナビ操作してるアキちゃんは、それに全然気づいてへんかった。
 水煙が言うには、アキちゃんの能力はまだまだ未開発なんやって。せやから、見えるもんもあるけど、見えへんもんもある。それを意図的に選んでるようなところがあるから、一種の自己暗示やないかって、水煙は分析してた。使うてるうちに、きっと目覚めるんやろうって。
 アキちゃんにもまた、トミ子が見えるようになったらええのにって、俺は思った。
 それも不思議や。でっかい包丁にすら焼き餅焼く俺が、このブスは平気やなんて。命の恩人やからかな。それとも、友達やからか。
 嫌やわ、さかりついた蛇と友達やなんて、恥やわって、トミ子は冷たく言うてた。ええなあ、お前はそれでないと。しゃあないから、当分ふたりでドツキ漫才してよか。
「道路状況しだいで二時間以内やな」
 エンジンかけながら、独り言のように話しかけてきたアキちゃんに、俺は頷いた。
 リモコンで地下ガレージのシャッターを開け、アキちゃんは車を出した。低いエンジン音が、コンクリートの壁に籠もって木霊した。
 ぴかっと明るいおもてに出ると、そこには今日は山勘が当たったらしい、表現が自由なストーカーがいた。一眼レフを構えて。撮ったんかどうか。たぶん撮ったんやろけど。俺はどうせ写らへん。けど、その、写ってないという事実が、たぶんまずい。
 アキちゃんは、出したばっかの車に急ブレーキかけて、何にも言わずに車外に出ていった。
 ばたんとアキちゃんが乱暴にドア閉めた後に、俺も続いたほうがええんかなって、窓から見てたら、アキちゃんはつかつかとカメラ男のほうにまっすぐ歩いて行ってた。
 あっと言う間の出来事やったで。
 アキちゃん、たぶんキレててん。
 どう見ても逃げようとしてた、緑色のカメラジャケット着た小太りで無精髭の男は、なんでか足が絡まって、倒れ転びしてもうて、結局逃げられへんかった。
 アキちゃんはそいつが後生大事に抱えてた一眼レフを、むんずと掴みとり、撮れてる画像も確認せんと、カメラを壊した。勝手に壊れてん。漫画みたいに。バラバラって。部品がばらけて。
 そうやってアキちゃんの手からこぼれ落ちた精密部品たちは、じゅうじゅう灼熱して、アスファルトの上で煙りを上げてた。
 そのまま帰ってくんのかと思ってたら、アキちゃんはズボンのケツから長財布出してきて、あわあわしてるカメラ男の頭上に、ばらっと一万円札をばらまいた。たぶん、カメラの代金のつもりなんやろうな。
 何枚くらいあったんやろ。アキちゃんて、なんでかいつも大量の現金を持ってる男なんやで。クレジットカード信用でけへんねんて。それでも出先で欲しいもんあったら即金で買いたいからって、めちゃめちゃ金持ってる。凄いなあ。その凄さに気づいてないところが、また凄いと思うわ。普通でいたいんやったら、現金少なめにして、あとはカード精算のほうが、よっぽど目立たへんと思うけど、そういうとこ、結局は金持ちのボンボンやねんなあ。
 風にひらひら飛んでいく万札に、さらにあわあわしてるカメラマンにくるりと背を向けて、アキちゃんはまだ怒ってる顔で戻ってきた。
 ばたんと音高くドア閉めて、エンジンかけて、アキちゃんはストーカーいてまうでっていう乱暴さで車を出した。
 そんな気まずさを全く意に介さず、カーナビのおねえさんが、次、左です、って爽やかに言うてた。
 京都の道はよく知ってるから、普段は使わへんけど、本日は慣れない大阪ツアーや。アキちゃんは、うるさいカーナビにも、今日は仕事させようと思ったらしい。
「亨」
 大通りを流しつつ、アキちゃんは突然、俺の名を呼んだ。なんやっていう顔で、俺が運転席を見ると、アキちゃんは気合い充分の真顔で、前見てた。
「手、握ってもええか」
 アキちゃんが真面目に訊くので、俺はびっくりしてた。
 えっと。なんでやろ。
 まだ京都のど真ん中やで。おかんの結界越えるんやったら、もうちょっと先やろって、俺はなんでかドギマギしてた。
 京都出るのに、そんな必要あるのか、今はもう怪しい。それでも、俺とアキちゃんの儀式みたなもんや。いつも俺が、アキちゃんの手握ってやってた。
 せやのに今日にかぎって、アキちゃんのほうから、俺の手握りたいて言うなんて、珍しいこともあるもんや。
「嫌なんか?」
 答えない俺に、かすかに顔しかめて、アキちゃんが訊いた。俺は慌てて首振ってた。
「嫌やない。びっくりしただけ。何や、恥ずかしいな」
 急ににこにこしてきて、俺はギアを握ってるアキちゃんの指に、自分の手を重ねた。アキちゃんはすぐに、俺の手を下にさせた。熱いようなアキちゃんの手に、ぎゅっと強く握られて、俺はなんでか照れてた。
「何が恥ずかしいんや」
 アキちゃんは、ぼんやり不思議そうに、そう言うてた。
 意外なやつが、意外なことを言うもんやて、俺は内心デレデレし、見た目にはもじもじしてた。
 アキちゃんが、俺と手繋ぐの、恥ずかしがらへんなんて。人って変われば変わるもんや。
 何があったんやろ、この三日四日で、俺とアキちゃんの間には。
 いろいろあったよ、死ぬような目に何度も遭ったわ。昨日なんか、俺はアキちゃん食い殺そうかと、けっこう本気で思ってたしな。
 せやけどそれで、何が変わったんやろ。
「信号で止まったら、またキスしてくれるか……」
 俺は恥じらいつつ、そうお願いしてみた。前もしてくれてた。滅多にしてもらえへんけど、いっぱいお強請りしたら、誰も見てへんときに、してくれることあった。
 いいよっていう意味か、アキちゃんは浅く頷いてた。
 信号は、すぐに赤になった。アキちゃんがちらっと見たら、信号が赤になったんや。
 それが偶然なのか、偶然のはずないっていう気がして、俺はまたびっくりした。
「アキちゃん……どうやってやったんや」
 思わず訊くと、アキちゃんは妙な顔してた。自分でも不思議らしい。
「なんでやろな。赤になればええのにって思って見ただけや」
 ちょっと照れくさそうに、アキちゃんはそう答えた。
 俺はにっこりして、アキちゃんのキスを待ってた。早うせんと、また青になるしな。
「亨……」
 それでもアキちゃんは、なんや急にもじもじしてた。早うしてくれ、待ってんねんから。
「俺ら、元通りか?」
 アキちゃんは急に、心配そうにそれを訊いた。なんや可笑しなってきて、俺はくすくす笑った。
 なんで今、それを訊くんやろな。昨夜は三回も俺を抱いといて。今さらそれは変やろ。
 でも何か、分かるような気もする。アキちゃんの気持ちが。
 行き先は、あいにくアレやけど、アキちゃんと二人で長距離ドライブするの、久しぶり。ここしばらく、アキちゃんはずっとお留守やったし、俺はほったらかしにされてた。だから何か、こういうの、久しぶりやったんや。
「元通り以上やな」
 にこにこして教えてやると、アキちゃんは照れた。その顔を見られたくなかったんやろ、アキちゃんは手を伸ばして俺の顎を引き寄せてきて、熱いキスをした。
 誰か見てるんやないかって、今日は言わなかった。
 もしかして、見ててもええわって、思ってくれてんのかな。俺はそんな想像をして、嬉しくなってた。
 目の前の横断歩道を渡っていくサラリーマンは、全然俺らのほうを見てなかった。案外、見てないもんなんかな。見ればええのに、おっさん。せっかくラブラブなんやから。
 信号はいつまでたっても赤のままで、アキちゃんはたっぷりキスしてくれた。さすがにもう行かなあかんて、アキちゃんが思うころ、唇が離れ、信号が青に変わった。
 車が走り出しても、俺はなんや、まだドキドキしてた。なんでやろ。アキちゃんずっと、このままやったらええな。今日だけやろか。今だけか。それとも、前よりずっと、俺のこと好きになってくれたんか。
 もしそうなら、犬に感謝せなあかんな。お前のせいで死にかけて、それのお陰でラブラブさらに倍増やからな。そんなん聞いたら、あいつどんだけ悔しがるやろ。いい気味や。
「やりすぎやったかな……」
 アキちゃんはまた、反省したようなことを言った。俺はそれに、ぎょっとした。
「やりすぎなことないよ。もっとしてもええよ」
「いや、キスの話やない。さっきのカメラマンや」
 慌てて言う俺に苦笑して、アキちゃんは訂正してきた。
 ああ、なんや。その件か。俺にとっては、もはやどうでもいい過去の出来事やったわ。
「凄いやん。あれも、どうやってやったんや」
 つまらん。もうラブラブ終了かって、俺は内心すねて、手に持ったままやった扇子をいじいじしてた。
「あいつ、お前を撮ったんやと思ったんや」
 アホやな俺も、みたいな口調で、アキちゃんは前見たまま話してた。俺はその話の意味を考えて、目をぱちぱちさせた。
「俺は、写らへんで」
「そうやな。忘れてた訳やないんや。でも、あいつはお前を撮ってたと思うんや。それで、むかっときて、つい、何も考えんと、あんなことやってもうた」
 怒ったらあかんねん、俺はと、アキちゃんはぶつぶつ言うてた。
 昔から、怒ったら教室のガラス割れたり、街灯弾けたりして、面倒なことになるから、今までずっと、出来る限りクールに生きてきた。何されても怒らんように。不愉快なものは無視して、無心、無心に。それがアキちゃんの、何とはなしに醒めた感じの正体やったらしい。
 まあ、確かにな。ちょっとツレの写真撮られたくらいで、いちいち物壊してたら、普通やないからな。
 くすくすと、俺は気恥ずかしく笑ってた。
 アキちゃん、ひとりで運転してたら、あんなの無視して通り過ぎたっていうことなんやろか。俺がいるから怒ったんか。そうか、そうなんや、って、嬉しくなってきて、ちょっと照れくさかった。
 俺は幸せ者やなあ。アキちゃんに大事にしてもろて。
 そんなアキちゃんのげきとしての力の解放は、どうもその、無心無心の世界からの解脱に鍵があったらしい。アキちゃんはずっと、自分の心に鍵をかけてた。その中にある得体の知れん力が、うっかり漏れ出て来んように、皆と変わらん、普通の子でいられるようにって、本来の自分を閉じこめてたんや。そして、その渦巻く力がアキちゃんに与える力が見せてくれるもののことも、見れども見えずで誤魔化してきた。それがすっかり板に付いてる。
 せやけど、運命的な恋によって、それが変わったんや。俺に恋して、アキちゃんは無心ではいられなくなった。そうとしか思われへん。俺は、アキちゃんがこの二十一年、固く閉じてきてた心のロックを開けた。やったらあかんて、いつも引っ込み思案。そういう性格やったのに、俺のせいでこの様や。
 狙ってやってたわけやないけど、結果としては、亨ちゃんのおかげ。
 良かったなあ、アキちゃん。俺のおかげで一人前のげきになれて。まだまだ修行中の身やけど、いい線行くって、おとんも言うてた。アキちゃんがいい線行くまで、もっともっとラブラブしよか。そしたら力はつくし、俺はうっとりやし、一石二鳥やんか。グッドアイディアですよ。
 やっぱアキちゃんには、俺がおらんとあかんわ。
 また四日ぶりで俺は、そんな自信が湧いてきた。
 犬なんか目やない。あんなやつ、ちょっと顔可愛いだけのパソコンオタクやないか。亨様の足下にも及びまへん。俺は親公認なんやぞ。おかんだけやない、おとんも俺でいいて言うてはったわ。お前なんか殺せってな。どうや参ったか。
 それでいい気分になってきて、俺は歌歌いたくなってきた。
 音楽かけてもええかって訊いたら、アキちゃんが頷いたんで、持ってきてたiPodを操作して、車のオーディオに繋いだ。アキちゃんが発作買いした玩具やけどな、欲しいから買うたけど、よう考えたら歩きながら音楽なんか聴きたないし、絵描いてる時に音はうるさい。要らんやんて気がついて、俺にくれてん。買う前に考えへんのかな、そういうの。俺は使うもんしか買わへんけどな。
 とにかくそれに、好きな曲片っ端から放りこんである。ビートルズとかな、ウルフルズとか。曲調とびすぎか。でも好きやねん。別にええやん。
 便利なもんやで。ビートルズがリアルタイムで流行ってた頃、世界はレコードの時代やったで。それがカセットテープになって、CDになって、今やネットからダウンロードやからな。世の中みるみる変わっていく。変わらへんのは、いい歌は歌い継がれるってことだけや。
 適当に再生ボタンをいきなり押すと、車のスピーカーから落語が流れてきた。アキちゃんはそれに、ぎょっとしてた。なんやこれ、って、ゴキブリでも見つけたみたいな言い様やった。
 ひどいわ、アキちゃん。落語も知らんのか。ニフ亭やで、ニフ亭。ネットで落語もダウンロードできるんやで。ポッドキャストで落語。上方芸能やんか。大阪の人らは昔から、腹抱えて笑うために、惜しまず金払う人種やねん。アキちゃん、京都の子やから、わからんのやろうけどな。
 しゃあないなあ、もう、と思いつつ、俺がまた適当にシャッフルかけると、おあつらえむきにビートルズやった。ポール・マッカートニーのリバプール訛りが、『Can't Buy Me Love』を歌いだした。ええ歌や。俺も歌った。カーステよりもでかい声で。

 I don't care too much for money.
 (お金のことはあまり気にしないんだ)
 For money can't buy me love.
 (だってお金じゃ愛は買えないから)
"Can't Buy Me Love" (1964 / 歌:the Beatles / 作詞作曲: John Lennon/Paul McCartney)[全歌詞]より引用

 俺が歌うと嫌みやって、藤堂さんはいつも言うてたな。
 そうかもしれへん。あの人は元は神戸の貧乏人で、苦労して出世したらしい。根っからボンボンのアキちゃんとは違う。きっと俺に食わせた札束の数を、内心数えてたんやで。お前にここまで尽くしてやってんのに、何が不満なんやって、そんなことばかり。
 どうでもええねん、そんなこと。I don't careやで。愛してるってキスして、抱いてくれればそれでよかってん。
 もう死んだんやろか、藤堂さん。思い出の絡む曲を歌ってると、ふとそんなことが気になってきて、俺も参った。
 アキちゃんはそんなこと、ぜんぜん気づきもせえへんと、お前は歌上手いなあて、カーステの音量下げてた。たぶん俺の声のほうを聴くためなんやろ。
 確かに俺は歌上手いんやで。昔どっかの国の、どっかの酒場で、歌歌いごっこしててな、金曜の夜だけ来る男がおって、ええ男やったわ。妻子がおるんやて言うてたわ。
 俺が食うのって、そんな奴ばっか。藤堂さんもそうやった。神戸に奥さんと娘がおるんやって。
 たぶん、羨ましくなるんや。家族がおって、それを愛してる男を見ると、羨ましなってきて、横入りしたくなる。俺のほうを見てくれへんかって、誘惑しまくり。
 それでちょっとは夢中になってもらえて、虜にしてやったわって満足するけど、何か違うねん。それやないって、いつも思う。夢中で俺を抱いてても、何時に帰ろうって、気もそぞろ。それが俺には分かるんや。それで白けてくるんや。
 せやけどしょうがないよな。人様のもんを横からぶんどろうっていうんやから。
 今まで何人泣かせてきたんやろ。横から盗られるんが、ここまで悔しいもんやとは、俺は今まで思いもよらずやったで。
 藤堂さんは、妻子を愛してたんやろ。俺のことも愛してたけど、基本、奥さんと娘のためやった。死にたくないって、その一心やったんや。
 愛してるわけない。相手の弱みに付け込んで、人は食うわ金は食うわで我が儘ほうだいの俺を、どうやって好きになるんや。
 俺かて藤堂さんを愛してなかったわ。今から考えたら、全然好きでもなんでもなかった。アキちゃん好きやが東京ドーム一杯分としたら、あちらさんには、耳かき一杯あったかどうかやで。
 タダでは瞬き一回してやるのも嫌やって、俺はそういうノリやった。スマイル0円はマクドだけやで。
 せやから藤堂さんは万札敷き詰めたダブルベッドに、俺を寝かせたこともあったんや。バブルやろ。あるとこにはあるねん、銭は。
 俺がその福沢諭吉にまみれたベッドで、『Can't Buy Me Love』を歌ったら、藤堂さん笑うてたわ。嫌みやて。そらそうやわなあ。嫌みで歌ってたんや。
 金やないねん、俺が好きなのは。それはまあ、ひとつの目安。金運なんか、俺がつけたるやん。せやけど、ろくなことないで、元は貧乏なやつに、いきなり大金掴ませても。
 アキちゃんみたいなのがええねん。札束見慣れてて、その価値の分かってない奴。口座の桁が、一個増えても二個増えても、鈍くて気づいてないようなボンボンが。
 前にアキちゃんが描いた、俺が川原に立ってる絵な。いくらで売れたと思う。八千万やで、ようやるわ。
 おかんがな、これはアキちゃんが自分の絵で稼いだ金やから自分で管理させなさい言うて、口座に振り込んできはってん。このボンボンな、自分で通帳記入にも行かへんねんで。なにが悲しいて俺様がATMに行ってやらなあかんねん。でも行ったわ、おかんが確認しろて言うもんやから。ちゃんと入ってたわ、八千万。
 大崎先生とかいう、おかんのファンみたいな爺さんが、あの絵を買うたんや。そして藤堂さんに転売してやった。絵の売買を取り仕切った画商の西森さんも、なんぼかは手間賃取るわけやから、実際には爺さんはもうちょっと払ってたんやろ。この不景気続きに、景気のいい話やで。アキちゃんが発作描きした絵に、爺が一億近く払い、それより積んだ金額で、藤堂さんが俺の絵を買ったて言うんやから。
 それを思うと、時々切なくなってくる。
 俺は、ざまあみろと思って、あの絵を藤堂さんに買わせたんやけどな。でも、あの絵にそんな価値があったんやろか、藤堂さんにとって。
 アキちゃんの絵はよう描けてた。せやけど藤堂さんは、絵に注ぎ込むような男やなかったで。ケチやってん。それでも俺には惜しまず札束切ってた。最後の最後まで、金食う蛇やて思うてたやろな。
 あの絵を見ながら、藤堂さんはもう死んだんか。
 あの人死んだら、絵は買い戻すって、大崎先生は言うてはったらしい。せやから、その先生の使い魔の、狐の秋尾さんに電話して、もう絵は戻ってきたんかって訊ねたら、生きてるか死んでるか分かるはずなんや。
 電話してみようかな。この山が無事に済んだら。もしもまだ生きてたら、なんか一言詫び入れたい。俺が我が儘やった、すまんかったって。でももう今の俺には、アキちゃんが全てやねん。ごめんなって。
 そんなこと、わざわざ言うのは変やろか。お前なんかもう、爪楊枝つまようじの先ほども愛してないって、言われるだけか。
 元々そうやったんや。アキちゃんは、俺のこと愛してくれる奴なんか、いくらでも居るて言うてたけど、そんなことない。そんなことないと思う。
 アキちゃんと会うまで、俺はずっと飢えてた。腹減ってたまらんで、愛をいっぱい持ってそうな奴を見つけるなり、俺によこせってガツガツ食うてた。でもそれは、他人の皿から盗み食いするようなもんやってん。いくら食うても腹が減る。アキちゃんだけや、自分を骨まで食うていいって、笑って許してくれるのは。
 切なくなって、まだ俺の手を握ってくれてるアキちゃんの横顔を見ると、アキちゃんはぽつりと俺に訊いた。
「もう歌わへんのか」
 もっと歌えばええのにって、そういう感じの訊き方やったわ。昨夜に続き、もう一回アンコールか。
「なんや、いろいろ思い出して、疲れてしもたわ」
 俺がそう言うと、アキちゃんはどういう意味やっていう、難しい顔してた。でも、それだけやった。
「疲れへんような、楽しい歌歌え」
 難しい顔のまま、アキちゃんはそう命令してきた。
 それに俺は、ちょっと笑った。
 ほんなら、ビートルズ消さなあかんな。藤堂さんが好きやってん。それやとあんまり不実やろうか。アキちゃんと楽しく過ごしつつ、前の男の好きな歌歌うんは。
 せやけどアキちゃんは、歌には興味ないらしい。すごいオーディオセット持ってんのに、それは映画観る用やねんて。音楽うるさいし、要らんらしいわ。
 それでも俺が歌歌ってると、ちょっと好きみたい。何でもええねんて、俺が歌いたい歌やったら。難しいな、それは。俺はアキちゃんの好きなの歌ってやりたいんやけどな。
 思い出のある歌なんて、俺らにはまだないわ。まあ、それはまたいずれ、追々な。長い一生なんやから、焦ることない。アキちゃんは、ずっと俺の傍にいてくれるんやから。
 その考えに、俺は、こそばゆいような気分になって、思わず助手席側の窓に頬杖をつき、その向こうの景色を見てた。面白くも何ともない、高速道路の風景やった。
 カーステは飽きもせず嫌みにビートルズのナンバーを歌ってた。なんやねん。こう言いたいんか、お前は不実な淫売や。アキちゃん浮気したって怒れるような資格はないわって。
 なんもしてへんて、アキちゃん言うてたやんか。
 キスもしてへん。いっしょに絵描いてただけなんや。
 それでも好きって、俺にはそれが悔しい。俺はアキちゃんと、何かを一緒にやったことなんかない。飯食ったり、ベッドで組んずほぐれつか。それもええけど、それだけや。
 俺もアキちゃんと、なんかやりたい。ただ抱き合う以外のこと。
 藤堂さんとすら、一緒に歌歌ったことある。ほんのちょっとだけ。それでも俺には嬉しかったんや。今でもしつこく憶えてるくらいには。
 俺は結局、あの犬に、勝ってるんか。それとも、負けてたんか。脅迫までした泣き落としで、アキちゃん困らせて、ほかにどうしようもなくて、俺を選んでもらっただけか。
 考えてると、ぐるぐる回る。俺は勝った。俺は負けた。トミ子に負けたみたいに、アキちゃんに振られた奴に、また負けた。
「亨」
 黙り込んでた俺が不思議なんか、アキちゃんが心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫か。具合悪いんやったら言えよ。お前、病み上がりなんやから」
 お前もある意味そうやろってことを、アキちゃんは訊いた。それでもアキちゃんは元気ハツラツらしいで。丈夫やわ、ほんまに。俺にさんざん噛まれておきながら、結局、病気もうつらへんかったし。
「具合悪ない。悩んでただけ」
「何を今さら悩んでるんや」
「あの犬、どうやって殺ったろうかなと」
 俺がぼけっと言うと、アキちゃんは苦い顔やった。
「戦えって、ちゃんと言うてよ。俺、たぶん変転するし。アキちゃん、それでも平気なんやんね。俺のこと、嫌いになったりせえへんか。嫌やったら別に、人型のままでもやれるけど」
「どっちが強いんや」
「さあ。たぶん、蛇のほう」
 俺がさらっと答えると、アキちゃんは少しだけ考えてる沈黙になってた。
「強い方でいけ」
「そうさせてもらうわ。万が一にも負けたくないから、全力でやらせてもらうし、手加減なしやで」
「とどめは刺すな」
 ぴしりと釘をさすアキちゃんの命令に、俺はものすごい不満顔になってた。
「なんでや」
「俺がやる。俺と、水煙すいえんが」
 やっぱりあれなん。おとんが言うてたみたいに、水煙すいえんに犬食わせて、ずっと手元に置いといてやろかていう、そういうのか。
 嫌やわ。俺は。結局それか。武士の情けか、アキちゃん。
水煙すいえんの餌か」
「そうや」
 アキちゃんは淡々としたものやった。
「俺が、嫌やて言うたら、どうすんの」
 トミ子はよくて、あいつが駄目な理由って、なんなんや。俺にとって。
 可愛い顔しとったからか。
 トミ子の化けの皮の姫カットかて、可愛い顔やった。
 ほんなら、あいつも男やからか。
 そんなん、何の関係があるんや。惚れてもうたら関係ないって、アキちゃんのおとんは言うてた。俺もそう思う。そんなのもう関係ない。
 俺はあいつの、何がそんなに許せへんのやろ。
 駅ビルの屋上で、抱き合ってるのを見た。
 あんなやつの、どこがええんやって、俺のこと言うてた。自分でも、代わりをやれるって。
 俺の代替機やて。
 アキちゃんにとって、そんなものはない。俺でないと駄目なんや。アキちゃんは、俺を愛してる。俺以外の誰かと、幸せにはなられへん。そう思いたい。
 それは俺の願望やけど。事実なんやって思いたい。アキちゃんがそう思ってくれてるって、俺は信じたいんや。
 トミ子は、そう言うてたで。アキちゃんには、俺が必要やって。あいつにもそれを、認めさせてやる。きっとそんな気分やねん。俺は。
 一体どこまでわがままに出来てるんやろ。笑けてくるわ。
 苦笑してる俺の質問に、アキちゃんはなかなか答えなかった。呆れてるんかな。お前はわがままやなあ、って。
「アキちゃん……考えんでええよ。好きにしたらええやん。アキちゃんがご主人様や。俺は言うこときくだけ」
「納得いかへんのやったら、もっと相談して決めよか」
 どっかに車止めようかって、そんな気配で、アキちゃんは訊いてきた。俺はなんでか、慌てて首を横に振ってた。
「そんなん、せんでええよ。時間の無駄や」
「無駄やない。納得でけへんのやろ、亨。お前もう、我慢すんのやめろ。思ってることあるんやったら、ちゃんと言え。言ってくれへんと、俺は分からへんねん、鈍感やから」
 鋭い自己認識や。アキちゃんは確かに激ニブ。いつも俺の気持ちには気づかへん。つれない男やねん。
 なのに、なんでか、要所要所で、美味しいところは持っていく。ほんまは俺のこと、よう知っててくれてる。そんな期待を持たせる、ずるい手口や。
「何が嫌なんや、亨。俺はお前が好きなんやで。お前がどうしても勝呂を自分で殺すって言うなら、そうしてもええよ。でも、お前はあいつが憎くて殺すんやろ。俺はそんなん見たないねん。鬼みたいなお前なんかな、見たくないんや」
 だから自分でやりたいと、アキちゃんは言うてた。それは言い訳やったんか。それとも本音か。アキちゃんは俺が、嫉妬に狂って鬼になってまうんではと、怖かったらしい。
 さすがと言うべきか。確かにそういうヤバさはあったで。これまた鈍いアキちゃんの、鋭い直感。
「相手は神やで、亨。斬る時は、泣いて斬らなあかんねん。おとんの手記に、そう書いてあった。そうやろ水煙すいえん
 アキちゃんは、後部座席で寝てんのかみたいな、のんびり旅ムードの水煙すいえん先輩に教えを乞うてた。
 ふわあと欠伸して、水煙すいえんは声でない声で、ぼそぼそ言うた。
 そうや。鬼とは申せ神なれば、泣いて斬るべし。それが礼節や。よそもんの蛇には、この島国の奥ゆかしさは理解を越えてんのやろって、水煙すいえんはしっかり俺への批判も混ぜ込んできた。いらんねん、それは。
「アキちゃんがあいつを泣きながら斬るんか」
「いや、それはものの喩えや。そういう気持ちでやれってことや」
 うじうじ訊く俺に、アキちゃんは焦って答えてた。
「何が不満なんや、亨」
 運転しながら、アキちゃんは、困ったなあていう顔やった。困るがええわ。この浮気者。
「誰にでも優しいんやなあ、アキちゃんは。蛇でも犬でも別にええんや」
 俺がついねて、嫌みたっぷりに言うてやると、アキちゃんは苦い顔やった。
「いいや、俺は動物の中では猫がいちばん好きや。その次はキリンかな」
 キリン。知らんかったでそんなん。初めて聞いたわ。ていうか、なんでそんな話なんや。
 トミ子はお役得なんか、猫派カミングアウトに喉をごろごろ鳴らして、アキちゃんの膝に甘えてた。アキちゃんに見えてへんからって、お前、ちょっと慣れ慣れしすぎやないか。
「へ、蛇は、ランキングで何位くらいや。犬より下なんか」
「下やろな。滅多におらんやろ。犬より蛇のほうが好きっていうやつは。十位以内に入るのも稀やろ、普通」
 真面目に言うてるアキちゃんは、本気としか思われへんかった。俺はガーンやったで。だってランク外やで。キリン以下なんやで、俺は。どう悔しがっていいかわからへん。
「そ……そんな……」
 悲しなってきて、俺はくらくらした。アキちゃん、やっぱ嫌なんや、俺の正体のこと。それでもまだ手握ってくれてる。その暖かみにすがりたい気分で、俺はがっくり来てた。
 アキちゃんはそれが面白うてたまらんみたいに、難しい顔して笑いを噛み殺してた。
「心配すんな、亨。俺はもう普通やないから。今は蛇が一位や。ただし白くて目が金のやつ限定な」
 アキちゃん。
 俺は絶対うるうる来てた。
 後部座席から、水煙すいえん先輩の、アホやアホやっていう、鳥肌立ったみたいな愚痴愚痴言う心の声がしてたけどやな、それは無視。
「犬より上か。キリンと猫を抜いて堂々一位?」
 そうなんやねっていう期待の声で訊く俺に、アキちゃんはキリンは捨てがたいなあって意地悪く言うてた。やめて、そこで照れんの。そうやって優しく言うとこやんか、ここは。
「アキちゃん……俺、切ないねん」
 いじめられた勢いで、俺はめそめそ泣きついた。
「なにが切ないことあるんや」
「俺もアキちゃんと絵描きたい」
「はあ? 絵なんか描けんのか、お前」
 心底びっくりみたいな声で、アキちゃんは声裏返らせてた。よっぽど意外やったんやろ。俺も意外や。絵なんか描いたことない。描こうと思ったことさえないで。
「描けるか知らんけど、俺もアキちゃんと何かしたい。犬がやってたみたいに。俺もしたい。ただ待ってるだけやと寂しいねん」
 情けない声でゲロった俺に、アキちゃんは、そうかって、びっくりした顔のまま、ぼけっと答えてた。予想もしてないエリアからの投球やったらしい。あんぐりしたまま、目が泳いでたわ。
「ほな、お前も大学来て、俺と一緒に絵描けばええやん。どうせ時たま、ぶらっと来てたんやろ。教授が言うてたわ。君んとこのツレ、時々来て俺の研究室の菓子食い尽くしていくんやけど、なんとかならんかって」
 食い尽くしたりしてへんやん、苑センセ。俺の話題を口実にアキちゃんと会話を持とうとすんな、このホモ教師が。
「菓子ぐらいで釣られて、ふらふらついて行ったらあかんのやで。あの教授、その筋の人なんやから。行くとこないんやったら、俺の作業室来たらええやん」
「でも、俺、邪魔なんやろ……」
 そんなことないよって言うかと思ったら、アキちゃんはきっぱりと、邪魔やって言うた。俺はそれにコケそうになったが、何とか持ちこたえた。
「何もせんとウロウロしてるから邪魔やねん。お前もおとなしく絵描いてるんやったら別に平気かもしれへん」
 なんでか照れくさそうに、アキちゃんはそう言うて、それから、俺もお前と一緒に居れたほうが楽しいし、って言った。
 それや!
 それですよ!
 そういう事をもっと声を大にして言うべきなんや、アキちゃんは。お前に足りないのは、それやねん。
 のろけ! ラブラブなんですよ、足りてへんのは!
 俺は思わず力説し、アキちゃんは針のむしろみたいな顔して真面目に安全運転してた。
 言うてるやん、俺、ちゃんと言うてるのに、お前がいつもスルーしてるんやって、と、アキちゃんは蚊の鳴くような声で言い訳してきた。
 えっ、なに。聞こえへん。声が小さいねん。もっと大きい声で要点だけ言うてくれへんか。そうでないと、俺アホやからわからへん。
 もういっぺん言うてえなって、ハンドル握ってるアキちゃんのほうに身を乗り出して、俺がべたべた甘えると、危ない危ないってアキちゃん青い顔してた。平気平気、運転上手やから。
「俺のこと好きなんやったら、好きやって、いつもちゃんと声に出して言うてくれ」
 アキちゃんの肩に頭をもたれさせたまま、俺はけっこう本気で頼んでた。アキちゃんはそれに、うんうんと、恥ずかしそうな渋面で頷いてた。
 うんうん、やないねん。好きやって言え。
「好きや」
「無理矢理言わされてるみたいやないか……」
 俺がなんや切なくなって、アキちゃんの首筋を甘く噛みながら文句言うと、アキちゃんはぎょっとなってた。
「無理矢理言わせてるんやろ、今。噛むな、事故ってまう」
 平気平気、運転上手やねんから。もっとすごいことしようかなと思ったけど、それはさすがにやめた。マジで事故ってまうからな。
「アキちゃんは俺のものなんか」
「そうや。ずっとそうやったやろ。お前どこ触っとんねん、ほんまええかげんにしてくれ」
 どこってシャツのボタン外して手入れただけやで。だって触りたいねんもん、しゃあないわ。それでもアキちゃんは顔真っ青やった。また無心無心やで。しゃあない奴やなあ。もっと自分を解放せなあかん。
「亨! もう高速降りるから。大阪やで。やめろ」
 こらって叱る口調で命令されて、俺は渋々やめた。やめろ言われたらやめなしゃあないわ。やめたくないけど。
 それにもう、いちゃついてる場合やないしなあ。
 大阪も真夏の入道雲が立つ、蒸し暑い晴天やったけど、眺めれば空の一点に、雷雲のような薄紫の分厚い雲が、みっちりと集まった場所があった。阪神高速のすぐ脇らへん。どう見ても、あれは異界や。暗い雲にすっぽり覆われて、中が見えへん。
 それは、どえらいことやった。
 ここまで凄いとは思ってへんかった。ただの犬っころやったんやで、勝呂端希は。いい線行って、せいぜいが妖怪変化やと思ってた。それがどんだけ人食って、どんだけ人を恐れさせ、ここまでの力を付けたんか。
「アキちゃん、あれやで。探すまでもないわ。ここにいてますって、書いてあるようなもんやわ」
「そうやな」
 横目に暗雲を見ながら、アキちゃんは高速を降りた。あとは見知らぬ大阪の街のこと、カーナビの姉ちゃんが頼りや。
 俺にとっては、ミナミは馴染みのある街やった。何がいいって、賑やかなのと、底抜けのアホさみたいなんが、この街のええとこ。
 ネオンぎらぎら。美味いもんもいっぱいあって、度肝を抜かれるようなケバいおばちゃんも、うようよおって。阪神勝ったら道頓堀にダイブ。御堂筋には大使館やら領事館やらが並び、秋になったら銀杏いちょう並木から銀杏ぎんなん落ちてきて、めちゃくちゃ臭い。路上駐車に放置自転車。とにかく、無秩序やねん、この街は。
 みんながわがまま勝手に生きてる。それがエグいねんけど、でも、それが人の本音やろ。誰かて好き勝手に生きたいわ。美味いもん食いたい。綺麗なお姉ちゃんの乳触りたいわって、そんな感じ。それを包み隠さない猥雑わいざつな街。
 ここでは俺も、別に普通やで。普通程度のわがままさ。俺がアキちゃんと腕組んで歩いても、きっと誰も気にせえへん。ちょっとは見るやろけど、でもそれだけや。なんやそれ、まあええかって、皆そう思う。
 アキちゃん嫌かな。腕組んで歩きたいて俺が強請ったら。いつもみたいにアホかって言うだけかな。
 車どこ停めようかって、アキちゃんは悩んでたけど、悩む必要なかった。御堂筋ぎりぎりまで、警察が区画封鎖してて、コロンボ守屋の口利きで、話繋いでもろた大阪府警のおっちゃんに電話してみたら、現場に停めたらええよって、適当なこと言うてた。そのほうが、うろうろせんで済むから、こっちも有り難い。
 車停めたら、電話の相手のおっちゃんは、すぐ見つかった。下駄みたいな顔したやつやって、コロンボ守屋はアキちゃんに教えてたらしい。その下駄が、こっちに気づいて、車から降りてきた。
 開襟シャツに、ネクタイも外してもうてる。暑うてたまらんみたいな、太ったおっちゃんやった。そして顔は下駄みたいやねん。
「後藤です、どうも。守屋から聞かされとります」
 本間さんは、京都の拝み屋さんやそうで、と、下駄はずばっと言った。ほんまにもう、拝んで解決するんやったら、いくらでも拝みたい気分ですわ。この際、よろしゅう頼みますって、後藤のおっちゃんはクサクサした顔で頼んできた。
 コロンボ守屋とは、中学時代の親友らしい。下駄はおとんの仕事の都合で、高校入る頃に大阪に引っ越したんやって。その後も二人には付き合いがあり、アホかと思うが文通をしていた。それでお互い、将来は刑事にと夢を語り合って、現在に至る。そんな仲良しオヤジどもやねん。気色悪いやろ。
「着替えたりしはるんですか」
 どう見ても街の子なアキちゃんと俺の格好を見て、後藤のおっちゃんはそう訊いてきた。
「着替えなあかんのですか?」
 何に、っていう顔で、アキちゃんは訊き返してた。
「拝み屋さんなんですよね。ええと。先生は。そんな普段着で行きはるんですか。なんや、それっぽい格好の人が来はるんやと思うてましたわ」
「……服なんか、どうでもええんです」
 アキちゃんは、なんかショックだったみたいに、自分をじろじろ見てる下駄顔のおっちゃんと睨みあってた。
 確かにな。説得力ないよな。
 ちょっと遊びに来ましたみたいな、普通の服で、さあやろかって言われても、一般人にはピンと来えへんよな。せめて着物を着てくるとかやな、そんなんあっても良かったんちゃうか。
 でももう、ええか。面倒くさいし。アホみたいやん、いちいち着替えるなんて。ええねんべつに普段着で。気にすることあらへん。アキちゃん、何着てても男前やから。
 せやけど、おとんの軍服姿、格好良かったなあ、ハアハアなんて、俺が思ってぼけっとしてると、アキちゃんは車の後部座席から、抜き身の水煙すいえんを連れてきた。鞘は置いていくつもりらしい。
 水煙すいえんは気合い十分なのか、すでにむらむらと、名前の由来になってる水煙を発して、濡れたような光りかたやった。
「ほな行ってきますけど、何日経っても戻らんようでしたら、うちの実家に連絡してもらうよう、守屋さんに伝えてください」
 アキちゃんはあっさりそれだけ挨拶して、下駄顔の刑事に会釈をすると、行くでといって、俺の手を引いた。後藤刑事は、なんやろこいつらという目で俺を見たけど、俺はただ、にやにやしてただけやった。
 ええやろ。ラブラブやねん。はぐれたら厄介やからな、手繋いでいこうということやねん。
 水煙は、ちりちりと鍔鳴りしてた。なんでかトミ子まで、とぼとぼ歩いてついてきた。
 安全なとこに待たせてやりたいけど、トミ子は俺と繋がってるのやし、一緒に来るしかあらへん。
「元の手はずでええんやな」
 アキちゃんは俺の手をぐいぐい引いて歩きながら言った。
「俺がやる。とどめは刺ささへん」
 渋々でもなく、俺は答えた。アキちゃんはそんな俺の方を、ちらりと振り返った。
「それで納得いってるんやろうな。俺はお前に、命令する気はないんや。言いたいことあったら、今のうちに言え」
 厳しい目で言うアキちゃんは、いつもに増して格好良かった。それで俺は、歩きながらぼけっと見とれて見てた。
「言いたいこと、ある」
「なんや。あるならさっさと言え」
 急かされたんで、俺はさっさと言うた。
「アキちゃん、好きや。めちゃめちゃ愛してる」
「……アホか、お前は。ほんまにアホか」
 痛いみたいな顔で、何か振り払うように首振って、アキちゃんは喚きながら歩いてた。
「愛してないんか、アキちゃんは俺のこと」
「愛してないことない」
 怒ってるようにしか聞こえん声で、アキちゃんは抑えた怒鳴り声。なに怒ってんのや。
「愛してんのやろ。ほな、そう言ってよ」
「愛してる!」
 怒声やんか、それ。なに怒ってんの。もっと優しく言うてほしいわ。せやけどな、アキちゃんはどうも、照れてたらしいねん。恥ずかしい度がMAX越えると、怒りに変換されるらしいねん。謎めいた構造やな。
「俺が一位で、二位以下は無しって、約束してくれるか」
 俺が最後に訊ねると、アキちゃんは眉間に皺寄せた、怒った顔のまま、振り返った。
「しつこい、お前は。約束する。俺が愛してるのは、お前だけや」
 めっちゃ怒った顔で、アキちゃんはそう約束した。それでも、ぎゅっと手を握ってくれた。その時の強さを、俺はずっと一生忘れへん。
 約束するって言うたかてな、アキちゃんは結局、気の多いやつやねん。絵描きやし、面食いやから、あれも綺麗、これも綺麗で、目移りばっかりしてる。それはもう、何年生きても変わらへん、アキちゃんの性癖やねん。
 それでも、約束してくれた。それはアキちゃんの意志やねん。ずっと俺だけを見てるって、そういう決意表明や。もしも目を逸らしそうになったら、俺はアキちゃんをどついていいし、場合によっては食うてまうぞって、そういう話やねん。それでもええよ、そんなことには、ならへんようにするって、アキちゃんなりに努力することにしたらしい。
 とりあえずは、それで満足しとこ。それ以上望んだら、罰当たるんちゃうかって、その時は思ったんや。俺も初心うぶやった。俺のこと、アキちゃんが誰よりも愛してくれてる。その事実だけで、満足できてた。幸せやってん。しょうもないけど、日頃口下手なアキちゃんが、愛してるのはお前だけって、ちゃんと口に出して言うてくれたし。それでなんや胸一杯になってな。一生ついていきますみたいな感動に包まれてたんや。
 けど、恋なんて、そんなもんやろ。妄想やねん。信じる信じないの世界や。神や妖怪とおんなじ。いると思えばいるし、おらんと信じればおらへん。恋もそうやねん、きっと。信じてるうちが花や。疑い出したらキリない。
 アキちゃんは、俺が好き。そうなんやって信じて、それに頼って生きてれば、アキちゃんは優しい、俺を見捨てたりせえへん。俺が傷ついて泣き崩れるようなことは、もうしない。もう懲りたんやって、そう信じてやらな、アキちゃんかて傷つく。なんでお前は俺が信じられへんのやって。
 どっちが先かわからへんけど、信じなあかんねん。アキちゃんは、俺が好き。俺を好きなアキちゃんを、俺は好き。アキちゃん好きやっていう俺を、アキちゃんは好き。お互いをお互いが、必要としてる。ぐるぐる回る輪みたいなもの。途切れ目のないその輪っかに、途切れ目を作ったらあかん。俺とアキちゃんは、永遠を誓いあった仲なんやで。せやからな、その途切れ目のない愛の連鎖は、永遠に続く、そんな魔法でないとあかんねん。
 わかるかなあ、この心意気。わからへんやろうなあ、生半可な恋しかしたことない奴には。とにかく俺はこの恋に、命懸けてた。本気も本気、大マジですよ。
 アキちゃんを好きやて思う気持ちの強さで、俺に勝てるやつはおらへん。犬でもキリンでもかかってきやがれ。片っ端から蹴り倒して、俺がいつもアキちゃんの一番好きな相手でいてみせるわ。
 俺はな、本来そういう武闘派やねん。それを忘れてたね。幸せな恋に溺れて、ついついナヨくなってたよ。女々しいのは顔だけにせんとあかん。俺も一応、男の子やねんから。黙って俺に付いてこいみたいなな、そういう強気のノリで行かな。なんか違うか。でもまあええか。深く考えたら、訳わからんようになる。とにかく受け身で待っててもしゃあない。そんなんベッドの中だけでええねん。
 いや、俺はベッドの中でも。必ずしも受け身とはかぎらへんのやけどな。むちゃくちゃ襲ってる時あるけど。まあなんちゅうか、襲い受け? 恋にもそれくらいの気合いでいかんとな、って。なんかそんな覚悟決まってたんやで。
 アキちゃん盗られてたまるかですよ。
 だってな。俺はもう、アキちゃんなしでは、生きてられへん。一日だって無理や。せやから、必死やねん。
 けど、向こうも必死やったんやで。勝呂端希も。向こうは向こうで、ガチで死にかかっとったんや。それでも漲る霊力はまさに最高潮やったわ。
 俺が脳内恋色で歩く間にも、辺りはだんだん、異界の空気やった。なんでかな、夜やねん。さっきまで昼間やったのに、空見ると、今にも降り懸かってきそうな満月がかかってる。
 そこらじゅうに、食い散らかされたピザ屋の宅配みたいに、無惨な人間の残骸がほったらかしになってた。それに犬やカラスが集ってて、あたかも合戦の後や。
 あおーんと遠吠えする声が、どこかから幾つも聞こえてた。それは一体、何の声やったんか。
 このピザ食ったんは、あいつやろ。勝呂端希。完食せんと、お行儀悪いやつや。
 俺はそう思っただけやったけど、アキちゃんは立ちすくんでたで。ホラー映画は平気やのに、本物怖いんや。映画は作り物やって分かってるから平気で観てられるけど、これはほんまもんの人間の死体やもんな。
 アキちゃんは今までそんなもん、見たことなかったんや。平和な時代の子やからな。
 それ見て、勝呂端希への恋も醒めるやろって、俺はほくそ笑んでたけど、アキちゃんの人がええのも、俺の想像を絶してる。
 アキちゃんはそのピザが、自分のせいで死んだんやと思ったらしい。
 つまりな、アキちゃんが疫神の絵描いて、それで勝呂端希がラリって、この人は死んだ。せやから自分のせいやってな。
 アホやねん、俺のツレ。人が良すぎ。どう考えてもな、アキちゃんは悪くない。だって絵描いただけやで。人殺しなんかしてない。全部、あいつがやったんや。
 そうやない、あいつは悪くない、俺が悪いんやって、アキちゃんがそう思うのは、やっぱりあいつに惚れてたせいやろか。俺にはそうとしか思われへん。それとも誰にでもそれくらい優しいのが、アキちゃんの悪い癖なんやろか。罪やで、優しいのも、そこまで行くと。
 死屍累々を数えて、数えるのもイヤやって嫌気がさす頃、俺らは探し人と出会った。
 墓場みたいな公園の石段に、勝呂端希はたくさんの犬と群れて座ってた。犬か人か、よう分からんようになった、たぶん人なんやろ、それのなれの果て達と。
 そのくせ自分だけは、元通りの可愛い顔のままやったで。京都駅で見せてたような、いかにもけだものみたいな、そんな醜悪さは、欠片もなかったわ。
 このくそ暑いのに、寒そうにがたがた震えて、銀狐の毛皮ついたフードの革ジャケ着て、ポケットに手突っ込んでた。まるで、あいつの周りだけ、冬みたい。吐く息が白く凍らないのが、嘘みたいやった。
 ズボンまで革やしなあ。重そうなブーツはいて、ベルトのバックルには銀で狼犬ウルフハウンドやで。喉には首輪までしてる。ワンワンやからな、首輪してると安心なんやろ。やっぱりこいつは、しょせん犬やねん。
 それにお前、実はパンク系かヘビメタ系か?
 顔可愛いから、わからへんかったけど、学校来るときは、いい子っぽい普通の服着てきてたんやろ。鋭い。ヘビメタやったら、アキちゃん間違いなく引いてる。普通という名の軌道から外れたらあかんからな。
 俺もなんか無意識に、突飛な格好は避ける路線を採用してるわ、アキちゃんと付き合うようになってから。たとえ誰も見てへん室内でも、衣装倒錯は無しの方向で。裸に毛皮とか、そんなんNGなんやで。アキちゃんの場合。
 そんな俺の共感をよそに、アキちゃんは案の定、ドン引きしとったわ。服にやないかもしれへんけどな。
 勝呂端希はずいぶんやつれて、可愛いなりに鬼の形相やったし、口元には乾いた血のあとがべったりついてた。服も黒いからわからへんけど、きっと血塗れなんやで。
 それに、奴が取り巻きに連れとるやつらも、すでにもう哀れな犬面いぬづらで、よだれ垂らして人の言葉は舌にのぼらんようやったけど、苦しいて、そんなことを口々に言うてた。それがパッと見、四、五十人は居る。
 それにせっつかれても、勝呂端希は知らんていう顔で、じっと一点を睨んでた。たぶん、本人もふらふらなんや。酔ったような、据わった目やったで。どことなく、銀色がかった、冷たく燃えてるような目やったわ。
 その目で、しばらくたってから、奴はこっちをダルそうに見た。ダルいんやろう、ほんまに。熱にうかされた病人の目やで。
「勝呂」
 ほんまにお前かって、確かめるような口調で、アキちゃんは呼びかけてた。
 それにあいつは、ほんのちょっと目を泳がせたけど、すぐには何も答えへんかった。
 もしかして、もう口がきけんのやないかって、俺が疑い始めた頃、奴は口をきいた。
「何の用ですか、先輩。お手々つないで散歩の途中に、気ぃ向いて寄ってくれはったんですか」
 アキちゃんは俺の手を引いたままやってん。
 それがとんでもない失態やったっていうように、アキちゃんは、俺とつないでた指をほどいて、さっと手を引っ込めた。
 何やとコラって、俺はむっとしたけど、この際まあええわ。勝呂端希はピリピリ来てた。下手に相手を刺激せんほうがいい。ぶちきれて暴れられたら、火事場のバカ力ってこともあるからな。
「お前、なにやってるんや。なにやってるか、わかっててやってんのか」
 分かってないといいって、そんな気配のする訊き方やった。アキちゃんは鍔鳴りのする水煙すいえんを握りしめて、遠目に座っている勝呂端希をつらそうに見てた。
 つらいんか、アキちゃん。なんでつらいんや。こいつはもともと、こういう化けモンやったやないか。
「人食うてるんです。腹が減るんで……。でももう、食い尽くしてもうたし、あとはこいつらを食うしかあらへん」
 膝元にすり寄ってきてる、でかい犬たちを、勝呂端希は冷たく見下ろしてた。
「みんな俺のツレやったんです。中学くらいからかな。ここに溜まって遊んだり、歌歌ったり、ゲームしたり、普通に楽しかったですわ。別に普通にです。俺が好きやていう奴もおって、遊びで付き合ったこともあるんです。遊びでね……」
 震えて歯の根の合わない舌で、勝呂端希は何となく掠れた声で話してた。そのうち咳込んできて、ほんまに苦しそうに咳したあと、奴はぺっと唾吐くように血を吐いた。
 アキちゃんはそれに、ショック受けたみたいやった。こいつも死にかかってるんやって、実感湧いたんやろう。
「でもね、先輩と共同製作やってるときの方が、楽しかったです、俺は。絵描くやつはツレにおらんかったし、いっつもひとりで描いてたんで」
 なにまた改めて告っとんねん。隙あらばやな、こいつ。もう殺らなあかん。話聞きにきたんとちゃうねん。
 さあ、やろかって、俺はやる気まんまんの目をアキちゃんに向けたけど、まだやって顔された。
 むかつく。早く戦えって命令してくれ。こいつの口車に乗せられてどないすんねん。
「犬やねん、こいつらは」
 お前も犬やろっていうような事を、憎そうに言って、勝呂端希は足下にいた犬人間を蹴りとばしてた。その悲鳴は、あたかも犬のものやった。
「群れとく仲間がほしいだけやねん。一人ではなんもでけへんのや。わんわん騒ぐばっかりで、楽しいのが取り柄やけどな、まともな話はでけへんねん。付き合う言うても、やるだけですよ。それだけやねん」
 喉痛いんか、勝呂は顔しかめて、ポケットに入れてた手を出し、自分の首を掴んだ。元の手やなかった。青黒い、もう死んでるみたいな、鉤爪のある鬼の手やった。
「先輩は、俺には格好よく見えたんや。いつも一人でいて、ポリシーあって、頭も良くて、ちゃんとまともな話もできる。それに絵が……絵が好きやったんです」
 自分の手を見て、泣きそうな顔して、勝呂はアキちゃんに話してた。
「地下道に、絵描いたでしょ、先輩」
 アキちゃんは、そんな話、出ると思ってませんでしたっていう顔やった。深刻なまま、何度か瞬きして、アキちゃんは思い出したみたいやった。
「描いた。大阪の、長堀ってとこの地下道で、近畿の美大の作品コンペやるから、何か描け言われて描いたわ。一年の時にやで」
「うん、それや。見たんです、俺。長堀で。ツレと意味なく歩いてて。森の中を、走ってる狼の群。それで惚れてもうて、先輩のいる大学に来たんや。三年前です」
 三年前なんやぞって、勝呂端希は熱で潤んでぼんやりした目で、ちらりと俺を一瞥した。
 アキちゃんは見るからに、その意図に気づいてなかった。鈍ッ。それもこの際、それでええけど。
 つまりこいつは、こう言いたいんや。俺のほうが先やったんやぞって。三年前から好きやったんやって。
 せやけど、お前、ちょっと待て。それは一方的なファン活動やろ。ストーカーみたいなもんやで。実際会ったのは入学してからなんやから、俺より後やんか。それで勝ったみたいに言うな。未練がましいねん。もう振られたんやから、おとなしく往生しろ。しっしっ。
「そんな話、お前いっぺんもしてへんかったで」
 アキちゃんの鋭いツッコミに、犬は泣き笑いみたいな顔で頷いてた。
「してませんでした」
「なんでや」
「なんでって……先輩が逃げてたし。それに、恥ずかしかったんや」
 恥ずかしいって、そういう、つらそうな顔して、勝呂端希は言った。アキちゃんはそれに、またショック受けてた。
 共感できすぎやったんやろ。
 似たもの同士やねん。結局な、そこやねん。
 俺とアキちゃんは正反対。犬とは酷似。
 似たもの同士VS正反対ですよ。ベタやけど、つまりそういうことやってん。
 犬が可愛い顔してるくせに無愛想やったんは、照れ隠しやったらしいわ。それが、俺はもう死ぬて覚悟決めて、それこそ死ぬような想いで、京都駅で大告白やってん。そして玉砕。それでもまだ、言い残したことがあったわけや。
 お前、必死すぎて、話の順番おかしいねん。まずは馴れ初め編からやろ。いきなり結論から言うたら、アキちゃんついていかれへん。順々に話進めてたら、うまく落ちたかもしれへんのに。お前も口下手なんやな。おかげで俺は助かったよ。
 そもそも三年も好きで、一回も会いに行かへんかったというのが変や。学祭とかいろいろチャンスはあるやろ。アキちゃんの大学、お前が人食う前は、門なんか常に全開で、誰でも入れたで。会おうと思ったら会えたやろ。恥ずかしすぎて行けへんかったんか、ヘビメタ少年のくせに、なに可愛いこと言うとんねん。純情なんか、お前は。
 それ以前にやな、絵見ただけで惚れるっていうのが、俺にはわからんわ。絵やで。ただの絵。本人いたわけやないやろ、その頃アキちゃんまだ京都の外には出られへん体やったんやから。
 わからん。絵描くやつらの、この異常さが。
 アキちゃんは、不思議やと思ってないみたいや。絵見て惚れられてたという、この話の脈絡の無さに、ぜんぜん異論がないみたい。
 俺だけか。取り残されてるのは。皆は分かってるんか。この話の理屈が。
 絵見て惚れた、三年前やった、俺の勝ち、っていう、この三段論法。通用してんのか。したらあかんやろ。
 俺が先。俺の方が先なんや。犬より俺が先。
「偶然やけど、苑センセに声かけてもろて、一緒に共同製作やろかて。それで、こんなチャンス二度とないと思って。運命なんやって……」
 言うたら死にますみたいなつらで、犬は喋ってたで。恥ずかしいんやろ。アキちゃんとおんなじ性格なんやったらな。
 それに、それ、偶然やないで、たぶん。お前、苑センセに嗅ぎ付けられたんや。ホモ臭を。ご同類やないか。それに顔可愛いんやから。チェックされとったんや、新入生名簿とかで。苑センセのパラダイス計画やったに違いないわ。全ての元凶はあのオッサンやったんや。
 そこまではな、偶然やないぞ。でもな、運命でもない。運命の出会いは、俺のほうや。お前やないねん。この図々しい犬め。
「俺がアホでした……」
 そうや、お前がアホやったんや。
 勝呂端希は、ぶるぶる震えてて、もう恥ずかしいて目も合わせてられへんていう顔やった。お前、今ちょっと可愛いぞ。演技か、それ。マジもんやろ。恐ろしい子。
「もう、ほっといてください、先輩」
「ほっとかれへん」
 アキちゃんは押し殺したような声で断言した。
 犬は、なんか期待したんやろ、そんな顔して、いかにも切なそうにこっちを見たわ。
「お前を殺さなあかん」
 それが俺にはつらいって、アキちゃんの心は泣いてたと思う。
 それは、おとんの教えのせいか。鬼とは申せ神なれば、泣いて斬るべし。か。
 それとも、ほんまに泣いてんのか、アキちゃん。
 勝呂端希は、言われた意味が、とっさに分からへんかったらしい。そのまんまの意味やのにな。
 あいつは首傾げて、しばらくの間、アキちゃんが握ってる水煙すいえんの刀身を見つめてた。
 でも、どんなアホでも、ちょっと考えたら分かるやろ。アキちゃんは、お前を許さへんて言うてんのや。
「なんでや、先輩。なにがあかんのですか。生きるために食うてるんです、遊びやないで」
 お前の言うとおりやって、俺には思えた。それでもアキちゃんは人間の仲間やで。仲間食われて、放置はでけへんねん。
 アキちゃんは犬に、なんも答えてやらへんかった。なんて言うていいか、わからへんかったんやろ。こっちはこっちで口下手やからな。
「ひどい話や……先輩が俺を、殺しに来るなんて。鬼としか、思われへん」
 そんな恨み言言いながら、喉痛いのが、もうたまらんのか、勝呂端希はもがくみたいに、首輪を引きむしって捨てた。喉乾くんやろ、傍の石段に置いてあった水か何かわからんようなペットボトルの中身の透明な何かを、奴は飲もうとした。でも飲まれへんねん。喉痛くて。
 分かるわ。俺もそうやった。アキちゃんが病気治してくれるまでの三日間。ずっとつらかった。
 お前はいつからそうなんや。もう何日それを我慢してんねん。我慢強いなあ、犬は。俺なら耐えられへんで。
 結局飲めなかったのを、奴が取り巻きの犬どもに振りまくと、犬どもは恐慌してぎゃんぎゃん鳴いた。
 こいつら元は人間やったんなら、勝呂が自分の血飲ませて仲間にしようとしたんやろ。でも大元が病気なんやから、いくら増やそうと、みんな結局、病気の犬や。それにどうも、変成に失敗してる。だって、どう見ても怪物そのものやで。
 アキちゃんもあんなふうにならんで良かったわ。成功してて良かった。あまりにも悲惨やで、あんなんなってたら。ただのモンスターですよ。殺すしかあらへん。
「よう助かったな、蛇」
 突然、勝呂は俺に話しかけてきた。犬人間見てた俺は、ふと奴を見た。そして微笑してやったわ。
「おかげさんで。今日はそのお礼参りやで」
「しぶといわ……もっとちゃんと、とどめ刺しとくべきやった」
「そうやなあ。でも俺が死んでたら、アキちゃんお前の話なんか優しゅう聞いてはくれへんかったで。とっくにもう八つ裂きにされてるわ。なんでかわかるか」
 わかってたまるかという目で、勝呂は俺を睨んでた。いい目やなあ。敵なんやから、そういう目してへんとな。
「アキちゃんが惚れてんのは、俺やねん。お前なんか要らんのや。さっさと死んで、残った半日、俺らに大阪デートさせてくれへんか。ちょっとは気利かせろ、わがまま犬」
 俺ってなあ、口悪いねん。昔から。それで悪い子やって誤解されちゃうみたい。せやけど悪気はないんやで。つい、ほんまのこと言うてまうだけ。根が正直やねん。
 けど、そんなん言うたらあかんて、アキちゃんは思ってたらしい。実は俺もちょっと思った。
 聞いた勝呂がわなわな震えてきて、もはやだんだんと、可愛くはない鬼の形相やったからな。
 あかんわ。めちゃめちゃブチ切れさせてもうた。おかしいなあ。なんでやろ。俺も内心キレてたんかなあ、実は。
 キレててもおかしない。目の前で再び大告白なんかされてやで、正気でいられるか。一度ならず二度までもやで。こいつ、あきらめてへんのや。まだ脈あるって思うてる。口説けばアキちゃんなびくかもって、そんなアホみたいなこと期待してんのや。
 もう殺さなあかん。
 俺はそう、確信してた。それは勝呂もそうやったんやろう。やつは変転した。でっかい銀色の狼犬ウルフハウンドに。
 狗神いぬがみや、こいつ。
 病みやつれたとはいえ、なかなかどうして、美しいやないか。
「俺も変転させてくれ、アキちゃん」
 こうなったらもう、戦うしかあらへん。
 狗に釘付けになってたアキちゃんに、俺が頼むと、アキちゃんははっとしたみたいやった。見とれてたやろ、てめえ。ほんま悪い癖や。
「変転して戦え、亨」
 俺を見つめて、アキちゃんは命じた。その目には、まだどこか、苦々しいような迷いがあった。
 気にすることないねん。今の俺には、アキちゃんのために戦ってやるのが、何よりの喜び。
「承知しました、ご主人様」
 笑って答え、俺は再び、敵を睨んだ。爛々と光る、金の目で。
 さあ、変わるわよ。蛇神様に。
 そんな俺様の、魅惑の変身シーンの間に、ちょっとだけ解説しよう。
 この島国では古来より、蛇は豊穣や繁栄の象徴で、縁起のいい神さんやった。神話に出てくる、国を作った神様のひとりとされてる大国主命おおくにぬしのみことなんて、正体は蛇なんやで。
 遠く異朝をとぶらえばやな、古代ギリシアでは蛇は医術の象徴で、今でも国際的に医療のシンボルマークは杖に巻き付いた蛇なんであります。なんとこの蛇杖マークは、アキちゃんの大好き映画『スタートレック』にも医療船のマークとして出てくる。
 つまりやな、蛇は一概に悪ではない。気持ち悪いとか言わんといてくれ。
 蛇が悪やていうイメージは、基本、キリスト教の影響やで。エデンの園でぼけっと生きてたイブとかいう名の女に、知恵の果実食うたら賢くなるでって親切に教えてやった俺の仲間がおって、余計なことすんなって、そこの管理人やった神さんに怒られただけや。せやけど、そのおかげで人間たちは、今や悲しき失楽園後で、好きな服着て、美味いモン食って、彼氏とエッチしたり、デコ電にハマったりできるんやないか。ビバ堕落。そういう考え方かてできるやろ。
 以上、アキちゃん調べ。最後のは俺の考えやけどな。
 人生、気の持ちよう。神も悪魔も、価値観次第や。
 俺が果たして善なのか、はたまた悪なのか、それを決めるのは人間様やねん。もっと言うなら、今やそれはアキちゃんしだいや。
 アキちゃんが、殺せと命じれば、俺は犬でも赤ん坊でもなんでも殺す。正義の味方にでも、悪魔にでも、どっちにでもなれる。
 結局、俺はもともと、そういうもんやってん。神であり、鬼でもある。美しくもあり、醜くもある。それが異界の力というものやないか。
 アキちゃんのお陰で、俺は今回、人々を救う正義のヒーローで、ええモンの側。せやけど、哀れ勝呂端希はアキちゃんに振られ、悪モンに墜ちた。自業自得や。けどそれは、紙一重やった。
 もしも何かのちょっとした手違いで、アキちゃんが俺でなく、犬の方を選んでたら、裏切られた俺は、鬼と化してたかもしれへんで。そして今回、それを討つのは狗神のほうやったかも。
 それについては、俺は自惚れはしない。自分がどんだけ性悪で、わがままな蛇か、よく知ってる。アキちゃん抜きでは、俺はただの鬼。きっとそうなんや。
 それを、お前は美しいわって崇め奉ってくれて、大事に愛してくれる、そういう誰かがいてくれたから、俺もあたかも神のごとく振る舞えるんやないやろか。
 可哀想にな、勝呂端希。お前にもそういう誰かがいたら、良かったのかもしれへんな。
 恨むんやったら、アキちゃんやのうて、俺を恨め。言われんでも、そうするやろけどな、お前の場合。
 変転を終えた俺を、見上げる銀色の狗の目は、明らかな憎悪に燃えていた。どう見ても悪モンやった。
 せやけど、ちっぽけな狗やったで。大蛇おろちに化けた俺から見たら。
 やろうと思えば、お前をまるごと一呑みや。
 純白の鱗に守られた俺の体は、ゆったりとトグロを巻いて、持ち上げた頭を支えてた。
 そこから見下ろす俺の金の目を、アキちゃんがじっと見上げてた。芯から痺れたような、陶酔した目で。
 そのアキちゃんの目が、お前は美しいわて言うてくれてるような気がして、俺は思わず身悶えた。でもそれは、戦いの前の舞踊のようなもんやったかもしれへん。
 狗は俺を一目見て、勝てるわけないと思ったようやった。勝てるわけない。力量が、あまりにも違うやろ。それは一口に言うと、まあ、サイズの問題。フルパワーみなぎる俺は、あいつから見て、見上げるような天を衝くデカさやったんや。
 はぁ、と凍り付くような息を、俺は狗に吐きかけてやった。それだけでも苦痛やったやろ、向こうは元々、疫神たちに蝕まれ、寒うてたまらず震えてんのやから。
 それでも狗は、逃げへんかった。死ぬ気で戦う覚悟やったんやろ。
 どうせ死ぬんや。しっぽ巻いて逃げた負け犬として死ぬよりは、戦って死にたいて、そう思ったんかもしれへん。
 それはそれで、敵ながら天晴れな心意気。
 それでも俺はこの時点でもまだ、こいつをナメてたんかもしれへん。
 とにかく死闘は始まった。死ぬのは俺やない。狗のほうやて決まりきったような戦いがな。
 アキちゃんも、ぼけっと見てる訳にはいかへんかった。いっぱいおった犬人間達がな、あれっ、なんか美味そうな臭いするわって、今更ながら気がついたらしい。
 アキちゃんて、そうやねん。外道にモテモテ。それは根本的にはな、なんともいえん甘露が匂うからやねん。アキちゃんが持ってるげきとしての血の力のせいや。俺も元々それに釣られた、例のあれ。
 血でも肉でも何でもええから、ちょっと食わせろって、すっかり頭おかしなって襲いかかってくるワンワン達の群に、アキちゃんぎょっとしてたわ。俺も正直、ぎょっとしててんけど、そこはそれ、水煙《すいえん》先輩がおるから。俺に任せろ、蛇は犬やれって言わはるもんやから、水煙兄さんが。任せなしゃあない。
 アキちゃんも、なかなかやるなと俺は思った。それともあれは、けたけた嬉しそうに笑ってた水煙兄さんの仕業やったんか。剣士が剣を使ってたんやのうて、その逆か。とにかくアキちゃんの剣さばきは、なかなか華麗なもんやった。おとんの危ない速習コースが、よっぽどためになったんかな。
 これなら平気や、心配いらへんと、俺は安心して犬を追いつめた。あいつも善戦したやろ。後で思えば、何千年を経た俺と、互角に戦えるような経験値のないやつやった。
 それでもあいつに強みがあったんは、あいつが俺の急所を心得てたからや。
 とうとうとっつかまえて、トグロを巻いた胴体で締めあげてやると、犬は哀れに呻いてた。痛いやろな、それは。すぐには死なせへん。ゆっくり絞り上げたるわ。お前の首を引っこ抜いてやるくらいは、俺には簡単やけど、アキちゃんがとどめは刺すなって言うてるんや。せいぜい、時間かけて弱らせたるから。
 俺はそれを、どんな顔で喜んでたんやろ。ちょっと夢中で気づいてへんかった。アキちゃんがワンワン退治で忙しくて幸いやったで。
「どうやって、助かったんや、お前は」
 それは実際に、耳元で訊かれたような、はっきり響く声やった。ほんまもんの声やないと思う。狗はその間も、獣にふさわしい悲鳴をあげてたからな。それでも紛れもなく勝呂端希の声やったで。
 それで俺はふと、どこかで正気に返った。
「どうって……アキちゃんに助けてもろたんや」
「先輩の、血もらったんか。それで死ぬかもしれへんのに。蛇の仲間にしたんか。先輩は、人間やったのに。もう違うやないか」
 俺を咎める苦悶の声で、勝呂端希は静かに言うてた。
「あいつら見たやろ。失敗したら、ああなるんやで。化けモンやないか。今かて、ある意味そうかもしれへん。お前みたいな蛇の、仲間にされたんやで。それでほんまに、先輩は幸せになれるんか」
 なれる。俺と永遠に一緒にいてくれるって、アキちゃん約束してくれた。それで幸せみたいやったで。俺のこと、愛してるからな。
 そう言う俺の返答は、勝ち誇るというよりは、なんとなく言い訳めいてた。自分が何を責められてるか、なんとなく分かってたんや。
「わがままな蛇や……お前は。親兄弟も死んで、友達もみんな歳食って死ぬのに、自分だけ若いまま永遠に生きていくんやで。お前しかおらん、そういう世界で、生きて行かなあかん。お前を好きなうちはええかもしれへん。でも、それはほんまに、永遠に続くんか」
 わからへん。そんなもんは。試してみんことには。
 俺は信じてる。アキちゃんを。
 俺の答えに、勝呂は笑ってた。
「先輩は、そうやろ。優しいからな。でもお前はどうやろ。さっさと飽きて、捨てていくんやないか。たった一人で、永遠に生きていかなあかん、地獄の底に」
 藤堂さん、て、俺はまた唐突に思い出してた。優しい人やったで、あの人も。俺のわがままを、果てしなく聞いてくれた。生き延びるために俺が必要やったからや。
 でもほんまに、それだけか。わからへん。あの人はなんで、俺が描いてあるあの絵に、億のつくような大金払ってもうたんやろ。
 あの人、もしかして、俺のこと好きやったんやないか。俺はそれを、ほんのちょっと気に食わんところがあるから言うて、さっさと次の男に乗り換えた。どこの誰とも分からん、甘露の匂う、顔が好きやった若い男に。
 そいつが運命の相手やってベタベタに惚れて、今こうしてここにいる。でも、また何か些細な気の向きで、突然裏切ることがないって、言い切れるやろか。アキちゃんを置き去りにして、どこかへ消える。そういうことが絶対ないと、俺は保証できるか。
 そんなこと、考えてみたこともなかった。この半年、切ない恋に溺れてて。アキちゃん、離さんといててすがりつくのに必死で、俺は性悪な自分の根性のことは、ぜんぜん考慮してへんかったわ。
「俺なら先輩を、外道に堕としたりせえへんかった。ちゃんと人として、生涯全うさせて、死ぬときは一緒に死んだわ。俺のほうが、先輩を幸せにできた。普通の人間として、人並みの幸せを……」
 うるさい、犬。
 ゆっくり虐めて弱らせるだけって、そう心に決めてたはずが、気がつくと俺はキレてた。
 一瞬でいろいろ想像できたんや。
 俺がおらへんかったら、アキちゃんは普通に学生やって、絵描きにでもなったんかもしれへん。お嫁さんもらって、子供もできて、そんなありきたりの家庭に白くて可愛い巻き毛の犬が一匹飼われていますって、そんな極めて普通の風景や。そこでアキちゃんは爺になって死ぬ。それで終わり。なんで俺は、永遠に生きなあかんのやろって、苦しむこともない。もしも嫁や子供に先立たれても、なんでかやたら長生きな犬が、いつも慰めてくれるやろ。好きやって、見返りは求めない、そんな感じの純愛で。
 嫌や。そんなのは。そっちのほうがいいに決まってる。アキちゃんにとって。つらいことなんか何もない。きっとそうなんや。
 アキちゃんの、幸福なゴールに続く運命の出会いに、ずるく横入りしたのは俺のほうなんとちゃうか。そして、何もかも、むちゃくちゃなほうへ変えてもうた。不幸な悲惨オチのほうへ。
 違う。そんなわけないやろ。
 嫌な想像させやがって、この犬畜生め。お前が憎い。お前なんか、おらんかったらよかった。今すぐ消えてくれ、この世から。アキちゃんと、俺の前から。
 そんな呪いを吐きながら、俺はくわえて持ち上げた狗の体を、地面に叩きつけてめちゃくちゃにしてる途中やった。まさに八つ裂き。
 殺したらあかんて、アキちゃんが叫んでるのが聞こえた。亨、殺したらあかん、お前は今、悪鬼の形相やって、アキちゃんが俺に教えた。
 見られたわ、って、その一瞬で我に返ってなかったら、たぶん、勝呂を殺してたやろうな。それは確実。
 俺がビビって投げ出した狗の体は、ほんまにボロボロやった。元は銀色で美しかった毛並みも、すっかり血にまみれて見る影もない。
 それでもあいつは、変転して人に戻った。残り少ない力やのに、なんでやって、俺は別に思わへんかった。
 もう死ぬって、分かってたからやろ。せめて別れの挨拶くらいは、アキちゃん好みの可愛い顔で言いたいと、あいつも思ったんや。俺も四日前、そう思ったみたいに。
 水煙すいえんはもう、たらふく食ってた。鬼食って満足やって、げっぷしてたで。悪食やな、兄さん。あんだけおった犬人間、どこ消えたんや。
 アキちゃんは見事に無傷の体で、血相変えて駆け寄ってきた。俺やのうて、犬のほうにや。俺はその脇で、いつの間にか人の形に戻ってた。無意識に対抗してもうたんかな。アキちゃん、俺の方がええよって。
 でも、そんなこと言えるような気分やなかったわ。俺はもう、どうしたらええんやろって、怖くなって、がたがた震えてた。
 アキちゃんは、なんでかそれに気がついてくれた。こっち来いって怖い顔して差し招き、俺の腕引いて、脇に抱きかかえた。
 なんかもう、俺と犬、山で遭難してて、たった今アキちゃんにレスキューされた二人連れみたいやった。俺は蒼白でガタガタ震えてるし、倒れたままの勝呂は、どう見ても死相が出てる。
「苦しい……先輩。性悪な蛇に、めちゃめちゃやられた」
 それがおかしいみたいに、勝呂はアキちゃんに感想述べてた。
「すみません、俺、なんでこんなことやってんのやろ。先輩の絵を、もっと見たかっただけやねん。ほんまにそれだけやったんです、初めは。それがだんだん、欲が出てきて……なんでやろ」
 なんでやろって、朦朧と言いながら、勝呂はアキちゃんの肩に抱かれてる俺を見上げてた。
 羨ましかったんやろ、お前は俺が。わからへんのか、自分では。
「すみません、もう、殺してください。死んだ方がましや」
 でも、その前に、もう一個だけ、俺のわがまま聞いてもらえませんか。俺のこと嫌いやなかったら。一滴だけでええねん、俺も先輩の血飲みたい。喉乾いてて、つらいんやって、勝呂は強請った。
 渇いたような顔やった。
 そんなもん、飲ませてやったらあかんでって、俺は言うべきやったかな。けど誰も、止めへんかったで。俺も、水煙も、猫のトミ子さえ、脇からひょっこり顔出して、痛そうに見てたけど、何も留め立てせえへんかった。
 アキちゃんは、へたってる俺を置いて立ち上がり、右手に握ってた水煙に、悪いけど、使ってええかって訊いた。それに水煙は、かまへんで、俺も棚ボタでお相伴するわって、くすくす笑って答えてた。
 一滴と言わず、いくらでも飲めっていう、そういう気分やったんやろ。アキちゃんは自分の左手首の、ちょい上くらいを、ためらいもなくざっくり切った。みるみる血が溢れた。せやけど因業な話やで。アキちゃんの体は、俺と血を混ぜたせいで、傷ができてもすぐ治るようになっとったんや。
 せやからな、流れ落ちたのは、ほんの二、三滴で、勝呂の渇いた唇に、ぽつりと落ちた赤い血は、たったの一滴だけやってん。
 せこいなあって、あいつは思ったんやろか。かすかに、にやっと笑ってた。それでも血の気の醒めた舌出して、美味そうにその血を舐めてたわ。
「甘い……」
 うっとり目を伏せて、勝呂はそれだけ言った。
 ほんまはもっと欲しかったやろ。その味を知ってる俺には、あいつの堪え性が信じられへんくらいや。
 言い残したことは、山ほどあるけど、なんて言うたらええか分かりませんて、そういう目で、勝呂はアキちゃんを見た。
「もう死んでもいいです、先輩。俺の家のパソコンに、例の作品のマスターコピーが入ったままなんで、もしまずいようなら消してください。パスワードは、先輩の好きな映画のタイトルやし」
 ばつ悪そうに教え、勝呂は水煙を眺めた。
 そして、綺麗な剣やなあって誉めた。
 それに水煙は、くすくす笑って、返事をした。
 見る目のあるやつやなあ、どこぞの蛇とは大違いや。甘露のお相伴に預かれた礼に、お前にはええこと教えてやろう。俺は水煙と言うて、アキちゃんの守り刀や。俺に命を食われるやつの魂は、二つの道を選択できる。そのまま散り果てて、また何かに生まれ変わるか、あるいは俺に囚われて、隷属する霊として永遠に仕えるかや。後者の道は厳しいけどな、永遠に生きられる。俺の中から見るだけやけど、アキちゃんをずっと眺めていられるんやで。
 お前の自由で、好きに選ぶ権利をやろう。
 笑う気配のする声で、誘うように教える水煙は、勝呂が隷属するほうを選ぶと、頭から思いこんでるようやった。俺もそうやった。もしかしたら、アキちゃんかてそう思ってたんかもしれへん。勝呂自身も。
 その話を理解してから、決断するまでの、奴の素早さは、驚くほどの一瞬さやった。
 もう死ぬばかりと思ってた奴が、血の一滴で少しばかりの力が湧いたんか、目にも留まらぬ早業で、アキちゃんが握ったままの水煙の、刀身を掴んだ。
 あっという間もなかったわ。勝呂は、自殺したんや。水煙の刀身を、自分の腹に呑んでた。痛くないわけではないらしい。苦悶の顔やった。水煙は、いつもにまして白刃を光らせ、むらむらと靄を発してた。
 それでも、血は一滴も流れなかった。たぶん水煙が食うてまうんやろう。なかなか上玉と、悪食の外道は喜んでいた。
 それを眺めるアキちゃんは、沈黙してたなかでも、さらに硬直したような石の沈黙に陥ってた。息もしてへんかったんやないか。瞬きもせず、真っ青な顔して、自分が構えた剣に腹貫かれてる勝呂を見てたわ。
 さすがによろめいた勝呂の体を、アキちゃんは抱き止めた。だってまさか、避けるわけにはいかへんやろ。そんなこと、考える余裕はあらへん。茫然自失やねんから。
 殺す覚悟で来たとは言うても、アキちゃんはまともな神経の子や。人殺しなんかしたことないんや。自分の持ってる剣が、人の形したもんを傷つけたって、それだけのことで、頭はもう真っ白やったんやで。
 それも、憎からず思うてた相手なんやからな。俺はその時には、妬けるとも、憎いとも思われへんかった。アキちゃんが、可哀想やってん。なんでこんな目に遭わなあかんのやろって、なんや急に可哀想になってきた。
 俺が許してやったらよかったんやないか。俺が一番。あいつが二番で。まあ何とか折り合いつけてやっていこかって、そういう寛容さで。
 嫉妬深い俺が、そんなこと思うくらいに、その時のアキちゃんは悲痛やった。なんでもない無表情やったけど、それがまるで、心が死んだみたいでな。
 勝呂は目を開けて、一時アキちゃんを見たけど、もう言葉は出てこなかった。水煙に食われはじめて、そんな気力なかったんやろ。むらむら煙る靄に薄れて、勝呂は今にも消えそうやった。
 選んだな、って、水煙は言った。皆にも教えたろって、単にそれだけの意味やったんやろ。
 まさかそれに異議のある奴がおるとは、俺は予想してなかった。俺もちょっと呆然ぎみやってん。
 このまま死んだらあかんえ、って、猫のトミ子が突然我に返ったように、ぎゃあぎゃあ鳴いた。水煙がそれに、ぎょっとしてた。
 贖罪はどうなるんや、贖罪は。自殺も罪なんえ。罪人は悔い改めて浄められなあかん。広い世の中、赦してくれはる神様もいてはるんや。
 このままこの喋る包丁に食われてしもたら、あんた永遠に罪人のままなんやで。うちと一緒においで。ちゃんと見捨てずに連れていったげるからって、トミ子は唐突に宙に駆けあがった。
 トミ子、お前……頭に目に優しい蛍光灯みたいな輪っかついてるで。それになんか、全体的に光輝いてる。まさかお前、お前の信じてる神さんに、なんか、どえらいモンに認定されたんとちゃうか。ようこそ天国へ、特別心が清いので、今なら大サービスで聖女にしてあげます、みたいな。
 それにお前も、水煙のこと、喋る包丁やて思ってたんや。気が合う。それなのに、俺を捨てて、犬を選ぶんか。しばらく居るって、言うてたやないか。捨てんといて、お前みたいなインパクトあるブスがおらんようになったら、俺、寂しいわ。もうちょっとでええから、俺らと一緒にいてくれよ。
 俺が思わず泣きつくと、トミ子はぴしゃりと、うちに甘えんのも大概にしとき、腹出して寝たらあかんえ、炊飯ジャーのごはんは炊き立てを冷凍せなあかんえ、わがまま言うのは、ほどほどにせなあかんえと、矢継ぎ早に答えた。
 ほかにもっと何か、言うことはなかったんか、トミ子。これが永のお別れやったのに。
 朦朧と消え入りかける勝呂端希の魂を、わっしとひっつかんで、トミ子はそれを水煙からパクっていった。
 なにをするんや、このブスと、水煙はものすご怒っていた。やっぱりお前も、トミ子を顔で判断しとったんか。それはいろいろ、語ってきかせなあかん。
 でもその時は、トミ子を弁護してやる余裕もなく、俺は呆然と座り込んだまま、自分を捨てて出ていった女の後ろ姿が天に消えるのを見送ってた。
 トミ子……帰ってきてくれ。俺は、命助けてもろた礼も、ちゃんと言うてなかったんやないか。アホなことばっか話しとらんと、もっと真面目に語り合っとけばよかった。
 ぼろぼろ泣いてる涙もろい俺の横で、アキちゃんは呆然のまま突っ立ってた。どこまで何が見えてたんやろ。見えてたとしても、何が起きたんか、これっぽっちも理解でけへんかったんとちゃうか。
 勝呂が消えたからやろ。周辺を閉じてた夜の結界も、ふわっと解けるように消えた。
 ああ、一件落着、というノリのこっちとは対照的に、お巡りさんたちは、これからが大騒ぎやった。
 速効でヤバいもんは、全部俺らが片づけてたけど、匿われてたらしい本物の犬たちが、わっと溢れ出していったし、それのどれが狂犬病に感染してるとも知れへんかった。それに、人の死体もごろごろ落ちてた。
 大阪府警の下駄顔のおっちゃんも、おっかなびっくり探しに来てみたら、京都から来た拝み屋ふたりの、片方は茫然自失で、片方は号泣やろ。アホやと思ったやろな。まあ新米やったんやから、そのへんの手抜かりは大目に見て欲しい。
 結界が晴れても、大阪の街は結局夜やった。中と外とで、過ぎてる時間が狂ってたんか、それとも単に、実は長い戦いやったんか。
 アキちゃんは、すぐに帰ろうとはせえへんかった。車の後部座席に、ぷんぷん怒ってる水煙を放り込んで、そのまま置き去りに鍵閉めて、どっか行こかと俺を誘った。
 楽しいお散歩って感じではぜんぜんなかったで。手も繋がへんと、アキちゃんは適当に黙々と歩いた。すごい早足やったわ。初めて歩く街やのに、ためらいもなく突き進んでた。道を知ってたわけやないんやろ。ほんまに適当に歩いてたんやと思う。
 俺はしゃあないから、黙々とそれに付いて歩いた。
 ミナミの夜は、俺が知っているよりずっと、人もまばらになってた。人食い犬が怖くて、みんなこの街を避けてたんやろ。
 ほんまはもっと、賑やかな街なんやでって、俺はアキちゃんに教えた。寂しい街やなあって、アキちゃんが突然ぼやいたので。
 いつもは人もあふれかえるくらい、沢山おるし、店やら飲み屋やら、いっぱいあって、友達と遊びに来てたり、デートしてたり、なんとなく一人で来たり、そんな奴らが好き勝手に歩いてる。そんなのが、群を成してる。そんなような世界やった。
 いろんな力がみなぎってる。そんな活力のある、楽しい街やねん。
 せやけど、合うやつと、合わへんやつが、おるかもしれへんな。おとなしい奴は、この街には合わへん。強気で欲しいもんぶんどるような、がめつい根性のやつでないと、ここはパラダイスとは行かへんかもしれんわ。
 俺には合ってるけど、あいつには、合ってなかったんかもしれへんなって、俺はたぶん、余計なことを言うた。
 アキちゃんは、そんな話するなて言うたきり、またずっと黙って歩いた。
 ギラギラ光る、道頓堀どうとんぼりのネオンが現れるまで。
 なんやこれって、アキちゃんは呆れた顔して呟いてた。
 みんなも一回くらいはテレビとかで見たことあるやろ。大阪の、グリコの走ってる人とかの、あのネオン看板やで。アキちゃんも、ぜんぜん知らんかった訳やないんやろけど、実物見て、そのケバさに絶句したんやろな。
 京都には、ネオン看板なんてないからな。
 人気も薄いのに、溢れるほどの、賑やかな光やった。この灯を消さへんかったのって、大阪の人の底力というか、意地なんか。消してたまるかみたいなな。
 でもそれは、京都のぼんには分からへんかったみたい。ただ惨いようにしか、思われへんかったみたいや。誰が死のうが、この街は知ったこっちゃないんやみたいにな。
 そういうんやないねん、アキちゃん、大阪は。京都みたいな風情はないかもしれへんけどな、この街は、元気なのがええとこやねん。元気無いときでも、空元気出して生きていく人たちやねん。
 せやけど元気出せとは、その時のアキちゃんは言われへんかったな。代わりに俺は、ネオンが映る暗い道頓堀川を見下ろす橋の上で、アキちゃんにこれまで俺だけが知ってた事をあらいざらい話した。
 姫カットの話もしたし、そいつの正体が実は怪物的なブスで、しかもそいつが猫になって、しばらく俺らと住んでて、そいつが俺の命の恩人で、そいつが居らんようになってたことに、アキちゃんはぜんぜん気づいてなくて、そして、そいつがさっき勝呂を成仏させるて連れてった。成仏ちゃうか。トミ子はクリスチャンや言うてたし。せやけどクリスチャンが猫に転生したりすんのか。あいつ、実はめちゃくちゃテキトーな女なんとちゃうか。
 でもな、ええ奴やってん。あいつアキちゃんが好きやった。そして俺の友達みたいなもん。あいつなら、信用できると思うし、きっと大丈夫やでって、俺はアキちゃんを慰めた。
 それにもアキちゃんが黙ってるもんやから、俺はどうにもつらくなってきて、なんでもかんでも話してもうた。藤堂さんのことも話した。アキちゃんがたぶん、聞きたくなかったような他のいろんな事も、思いつく片っ端から全部話した。
 アキちゃんはそれを、橋の柵にもたれて、痛恨の表情で聞いてた。きっと、つらいんや。あの犬が死んでもうて、アキちゃんはつらい。好きやったんやろ、俺に遠慮してただけで。
 ほんまは抱いてやりたかったんか。せめてキスくらい、してやりたかったか。してやったらよかったんや、俺に遠慮なんかする必要ないねん。
 不実というなら俺かてそうやで。俺のほうがひどいかもしれへん。アキちゃん好きやて夢中のようでいて、あの人もう死んだやろかって、前の男も気になるねん。いろいろ思い出す。それとアキちゃんとを比べてるんかもしれへん、アキちゃんのほうが優しい、アキちゃんのほうがええわって、そうやって安心してる。
 でももしいつか、アキちゃんよりも好きなのがいたら、俺はどうしたらええんやろ。そんなの鬼畜そのものやないか。
 せやからアキちゃんは、もし俺より好きな奴ができたら、そっちへ行ってもええねん。そんなことしてほしくないけど、でももし、そんな目に遭っても、俺は自業自得やねん。今まで人のもんをぶんどってきた、罰があたったんや。因果応報やねん。きっとそうなんや。
 そう思って俺が我慢するから、アキちゃんは何も我慢せんといて。俺が泣いても気にせんと、したいようにしたらええよって、俺は一人でべらべら話してたわ。
 アキちゃんは聞くだけ聞いてくれたけど、そのへんでもう黙れと思ったみたいやった。
 俺を抱きしめてキスをした。
 橋には誰もおらへんかった。もう真夜中やってん。いつもなら、それでも人だらけのはずの戎橋えびすばしから、真夏の怪異が人払いしてもうてた。
 そのせいか、アキちゃんのキスは、むちゃくちゃ激しかった。俺はそれに深く酔いながら、ちょっと悲しくなってた。もしかしたらアキちゃんは、あいつにこうしてやりたかったんか。最後に見つめ合った時の、可愛いあの犬に、こうしてキスしてやりたくて、俺は今、その身代わりなんやろか。
 訊かなきゃええのに、俺はそれをアキちゃんに訊いた。
 それにアキちゃんは、心底腹立つっていう顔で、アホかって言うた。
 なんで俺がお前以外のやつに、こんなことせなあかんねん。するわけないやろ。お前にしたくてしてるんや。お前が俺のほかのやつを好きになるようなことも、今後はもう永遠にない。そんなこと、ないようにしてやる。
 だからお前はもう、その古い携帯は捨てろ。むかむかしてきた。この小汚い川に捨てていけって言うて、アキちゃんは勝手に俺の携帯電話をとると、最近かなり綺麗になってきてた道頓堀川に、それをドボンと投げ捨てた。
 あーあ。
 やってもうたわ。
 川にゴミ捨てたらあかんのやで。
 これでもな、大阪の人ら、この川綺麗にしようとして、頑張ってんのやで。ヘドロまみれの汚い川で、どぶさらいしたら、自転車やら骨やら、なんか途方もないゴミがいっぱい出てきたらしいわ。
 せっかく掃除しはったのに、そこにまた物捨てて。アキちゃん、ほんまに悪い子やわ。
 俺が思わず言うと、アキちゃんは苦虫噛みつぶしてた。
 電話なんか、俺がまた買うてやるからって言うてた。そういう問題やないと思うけど、この際、それでまあええかってことで、ごめんなさいやで。道頓堀。
 アキちゃんは、捨ててやって清々したっていう顔やった。それで少し、憑き物が落ちたみたいに、アキちゃんのいつもの呼吸が戻ってきた。
 帰ろうかって、アキちゃんはやっと言うた。俺は頷いた。それで二人で手繋いで戻った。
 車では水煙がまだ怒ってたけど、戻ってきた俺らを見て、お帰りって言うてくれた。
 下駄顔の刑事に挨拶して、そのまま、まっすぐ京都に帰ったわ。真っ暗な山抜けて、出町のマンションの灯を見た時には、ほっとした。
 疲れすぎてたせいやろか。その夜は、エロくさいことは何もなしで、ただ抱き合って寝た。
 アキちゃんは、喪に服してたんかもしれへん。それとも俺を身代わりにするんは、キスだけにしとかんとって反省したのかも。そう思うのは俺のひがみか。そうなのかって訊かへんかったのは、俺にしては上出来やったな。
 それから後の何日かの間、俺とアキちゃんはぼけっと生きてた。
 約束通り、新しい携帯買ってくれた。それに登録されてる番号は、アキちゃんも顔知ってるような名前だけ。
 大学に連れてってもらって、一緒に絵描いた。別々の絵やけどな。俺が絵上手いって、アキちゃんはびっくりしてた。俺もびっくりした。知らんかったで、そんな特技。
 隠れた俺の才能かって、言いたいとこやけど、たぶん違う。これはブスのトミ子の置き土産やろ。女の描くような絵やって、アキちゃんが言うてた。
 それで、はっと思い出して、俺は渋る苑センセにアキちゃんのためやから言うて無理矢理倉庫の鍵を借り、トミ子が言うてた、あいつの絵を探した。
 絵は一本だけ見つかった。埃まみれになって、一本だけ残ってたのは、描きあがったものの、絵の具かなんかこぼされて、台無しになってた絵やった。その絵がな、俺が描いた絵と寸分狂わず同じやってん。
 不思議やな。別に不思議やないか。
 トミ子はおらんようになったけど、ある意味では今も居る。そんなような気がして、なんや嬉しかったな。
 俺がその話をすると、絵を完成させろってアキちゃんが言うんで、俺はそうした。訳わからん日本画やし、困ったらアキちゃんがいろいろ教えてくれた。筆持ってる俺の手をとって、こうやって描けってな。
 ほんまは俺、そういうのも分かってたかもしれへん。絵の描き方。でも、分からへんふりしててん。アキちゃんが真面目に絵の話してくれるの、うっとり聞いていたかったんや。
 芍薬しゃくやくの絵やった。綺麗な絵やなってアキちゃん褒めてたわ。綺麗なもんが好きなアキちゃんが、うっとり見惚れる趣味の絵やった。それを俺は、できるもんならあのブスに教えてやりたいけど、そんな機会は、あいにくまだない。でも、その絵は、その後もずっと、出町の家の飯食うときに見える壁に、いつも飾ってあるんやで。
 俺が絵描く横で、アキちゃんも描いてた。
 なんとなく予感はしたけど、犬の絵やったわ。やわらかそうな毛した可愛い小さな犬が、すやすや寝てる絵やった。可愛いなあって、思わず撫でたくなるような犬やった。
 それは何やねんて、俺は訊ねはせえへんかったけど、家には飾らんといてくれって、アキちゃんに頼んだ。もしもその犬が、絵の中から抜け出してきて、部屋をうろつくようになったら、俺は嫌やからって。
 アキちゃんは、飾らへんて言うてた。この絵は売るんやって。誰かこれを気に入って、愛してくれる人に売る。そのつもりで描いてるんやって。
 そう言いつつも、絵筆くわえて犬の毛塗ってるアキちゃんは、猫派や言うてたのが嘘やろみたいな打ち込み方やったで。
 けどそれも、しらんふりせなあかんかな。長い一生や、この先もいろんなことがあるやろ。これぐらいで、いちいち妬いてたら、あかんのやろけどな。それでも妬けるわ。結局それが、わがままな蛇の、本音のところや。
 アキちゃんが、勝呂ともうひとりの女の子と、三人セットで作ってたCGは、結局、出品されないことに決まった。
 それが御の字やった。出したらあかんて、アキちゃんは苑センセを説得しようとしてたけど、その必要なかってん。
 コロンボ守屋が、一連の変死事件は、事故か殺人か、未だに結論は出てないけど、大阪で失踪または死亡が確認された被害者のメンツが、偶然やでは押し切れん割合で、勝呂端希の友人知人ばかりやった。携帯の通信記録によれば、本人がメールで現地に呼び出してる。
 勝呂本人も行方不明で捜索願いが両親から出てる。未成年やから実名は出ないが、場合によっては容疑者や。そんな作品、世間に出すと、あんまりええこと言われませんよって、苑センセに耳打ちしてやったらしい。それで根性なしの苑センセは、簡単にビビってくれたわけ。出品辞退で、あっさり解決。
 それでも噂っていうのはよく走る。たて続いてた変死が途絶えて、あの恐怖はもう過去のことやって、世間が敏感に察知したんやろう。恐れのあまり引っ込んでたはずの好奇心が、またぞろ頭をもたげてきてた。
 大学で絵描いてると、どっから来るんやっていう突撃取材の人が、文字通り突撃してくることがあった。最初は嫌がってたはずのアキちゃんも、もう慣れたというか、居直ってきてもうたというか、お前等どっから来るねんというのが、ちょっとツボになってきたんかもしれへん。
 駅前のコーヒー屋のバリスタの姉ちゃんが、実は突撃取材班のリポーターやったときには、アキちゃんあぜんとしてたわ。
 アキちゃんてな、コーヒー飲んでる時は隙だらけみたいやねん。ぼけっとしてるんや。
 それで、そんなココロのゆるむ瞬間に、コーヒー渡してきた可愛い姉ちゃんに、一連の事件の犯人はあなたですかっていきなり訊かれて、頭真っ白やったんやろな。お堅いはずのアキちゃんは、その質問に、思わず答えてもうた。
 違います、って。
 でも、俺やったらよかったですよね。そのほうが、死んだ人の身内も、誰を恨んだらいいか分かるし。あなたたちも、そういう悪モンが欲しいんですよね。勝呂か俺かて言うことやったら、俺にしといたらどうです。俺やったら成人してて名前も出せるし、別にいいですよ、ご自由にどうぞって、アキちゃんはその女に真顔で言うた。
 しかもそいつ、撮ってたんやで、その時の映像を。どこにカメラあるやら分からんハイテク時代の迷惑さやで。
 勝呂くんとあなたは、どういうご関係ですかと、リポーターの姉ちゃんに問われ、ちょっと長すぎやろっていうぐらい真顔で沈黙してたアキちゃんが、ふと目を泳がせて、分かりません、と、つらそうに答える映像が、その日の夕方にはもう、テレビでがんがん流れ、それを俺らが知るより先に、おかんからはお叱りの電話ががんがんかかってきてたわ。
 世間ていうのは、恐ろしいところや。その映像はな、夕方頃のワイドショー時間帯に速報映像として間に合ったらしいねん。まあ、どうせ、この手のニュースはもう、まとも系報道番組には出てこなくなった頃合いやったんやけどな。
 それを流した局の電話も、放送直後から、がんがん鳴ってたらしい。アキちゃんがな、男前やからやねん。
 今さら言うのも何やけどな、アキちゃんて、真顔でじっと見つめられると、俺かて今でも、恥ずかしなってきてもうて、もじもじしてまうような、凛々しい感じの男前やねん。それでほんまに、ええとこのぼんて感じ。
 それを公共の電波で流したらあかんのですよ。写真でも少々やばかったのに、一分ガン見のあとの苦悩顔はあかんわ。エロいねん、悩んでる時のアキちゃんは。なんや妙な色気があるんや。
 これ見た有象無象やおばちゃんや外道が、どっと押し寄せてきたらどうしようって、俺は脂汗だらだら出ながらテレビで見たわ。こいつ誰やねんて、世間がじっとアキちゃんを見るのを。
 本間暁彦とは、世間から見て、京都の旧家のぼんぼんやった。
 踊りの師匠のひとり息子やった。
 父親は誰ともわからんが、公にはできんような、どえらい男なんやないかというのが世間の空想やった。それはある意味、当たらずとも遠からず。
 そして本間暁彦は、犯人なのかという世間の問いに、警察はやがて、こう答えた。あれは事故。従って、容疑者はおらん。狂犬病の犬が、気の毒な犠牲者を襲ったんやって、そう結論した。
 それで晴れて本間暁彦は、世間にとって、どうしてええかわからん奴になった。
 画学生やった。絵描きや。日本画描いてるらしい。どんな絵描くんやって、まあ順当にそういう話になり、まだ学生やから世間に出回ってる絵はほとんどない。
 テレビに出ろと局の人がアキちゃんに電話してきて、お断りやと冷たく切られ、それで困ったおばちゃんとかが、どういう理屈か日本画ブーム。猫も杓子も絵描くねん。
 京都にも行かなあかんて、京都に観光客もいっぱい来る。街が混む。アキちゃんうんざり。そんな感じ。街を歩くと、やたらとストロボぴかぴかするんで、嫌んなってもうて、初めは怒り、怒っても意味なくて、これも居直るしかあらへん。
 そんな一方で、犬に噛まれた人が、皆死んでもうた訳やない。闘病中やった人のところには、警察通じて病院にアポとって、アキちゃんが疫神を回収しに行ってたわ。豚の丸焼きの絵描いてな。もう、おかんが踊らんでも、一人でやれるようになったんやって。がっかりやな。
 とにかくそれで、皆治った。発病後の狂犬病が治癒したのは世界的にも珍しいケースやねんて。でもその記録にアキちゃんの名前は残らへん。残るとまずい。医者やのうて、拝み屋なんやもんな。狂犬病には、豚の丸焼きの絵が効きますって、そんなん、いかにも怪しいやんか。効かへん。そんなもんは迷信やねん。信じる者は救われるっていう論法は、現代では通用せえへん。
 でもそれで、なんとか八方丸くおさめた。アキちゃんは自分の不始末にすべてオチをつけ、犬の絵も仕上げた。その絵が高値で売れたて言うて、苑センセはくよくよし、大崎先生なるおかんのファンは、儂に一言の相談もせんと、勝手に絵描いて競売したりして、けしからん言うて、くよくよしとったらしい。おかんがそう言うてた。
 ほんで、おかんがどうしてたかというと、どうもしてへん。嵐山でラブラブやった。鬼やで、あの人も。
 おとんがな、帰ってきたんやって。神隠しにあってた人が、ふらっと戻ってきたみたいに、おーい、ただいま、帰ったでって、嵐山の家の玄関に現れて、おかんの腰を抜けさせたらしい。あのおかんがやで、玄関先にへたりこんで、お兄ちゃんお帰り言うて、わんわん泣いたらしいわ。
 舞がうちにお使いに来て、そう話してた。アキちゃん、ものすご目泳いでたで。自分もわんわんもらい泣きして話してる舞が、編み上げコルセットで乳バーンみたいな、レースひらひらの白ゴス服で、髪なんか縦ロールやったからやろか。
 奥様お幸せそうです、おふたりで旅行に行きはるそうです。これ、ご帰還記念の写真です。祇園祭りはよろしくて、若様にお伝えするよう言付かってきました。うちも旅のお供で参ります。後のことは、よろしゅうお頼み申しますって、舞は写真をテーブルの上についっと差し出した。
 おかん……洋服着てたで。ほんでな、おとんに腰抱かれて、超笑顔で写ってた。紺色の、地味なワンピースやねんけど、よう似合うてて美人やったわ。アキちゃんは何か、ココロの中にあった大事なイメージが、がらがら大崩壊みたいな顔してた。
 その写真な、おかんの弟子の本間さんが撮ったんやって。あの人、カメラマンやってん。知らんかった。おとんの出征前のあの写真、撮ったんは、本間さんのお父さんらしいわ。親子代々で秋津家に仕えてるんやって。
 今のおとんとのツーショット写真撮ってやれるんやから、あの、いつも嵐山の家の玄関先を掃除してるオッサンかて、実はただモンやなかったんやで。
 とにかくその人のおかげで、おうちに帰れてダディ大満足みたいな、両親のラブラブ写真を見せられて、アキちゃんはがっつり凹んでた。ものすご傾いてた。
 そして、もうすぐ祇園祭りやな、亨、って俺に言うた。俺と一緒に行ってくれるかって。そんな訊くまでもない当たり前なことを、敢えて訊いた。癒されたかったんやろ。わかるで、アキちゃん。失恋したんやろ。つらい夏やったな。せやけどまだまだ終わってへんで。俺といっぱい遊んで、楽しい思い出作ろう。
 祇園祭り楽しみやわ。何着ていこか。やっぱ浴衣やろ。せやけど俺、ちょっと怖いわ。お前も悪い鬼やて言うて、俺も追い祓われたりせえへんやろか。
 ソファで傾いてるアキちゃんに、俺も傾いて甘えると、アキちゃんは、大丈夫や、亨、心配いらへん、俺が守ってやる、神さんにも、話つけたる。お前は俺の大事な式やから、悪いモンやないですって、ちゃんと言うとくからって、アキちゃんは俺を励ました。俺はそれに抱かれてデレデレし、キスしてもろて、どろどろに溶けてた。
 そんなこんなしてる日々を、俺らが禁欲して過ごしたかというと、そんなわけあらへん。前にも増して、やりすぎやったわ。どっちもどっちの蛇淫の相やで。我慢なんか二日は保たへんねん。暇さえあれば、絡み合って生きてたわ。
 アキちゃんはもう、それでいいらしかった。俺に夢中やねん。それにはちょっと、そうでいたいっていう願望も入ってたかもしれへん。それでもええねん。ベタベタに甘やかされて、俺は幸せやった。これも何かの埋め合わせやろ。
 幸せならそれでええねん。理屈やないねん、恋は。
 いろいろ頭で考えるより、なんも考えんと抱き合ってる時のほうが、よく分かってることがある。その事実に、俺は気づいた。
 好きや好きやって熱くキスしながら抱き合って、深くお互いに溺れてると、お前が俺の片割れやって、よく分かる。その間にいったい誰が割って入れるんやろ。
 アキちゃんとひとつになれば、俺は完全無欠になれる。その愛と愉悦を甘く貪るのに、永遠でも短い。うっとりじっと見つめ合って、お前が俺の全てやって思う、その瞬間、アキちゃん以外の誰かが、この世界にいることなんか忘れてる。そして、この宇宙の時が、ほんまに永遠に続く無限のものならいいのにって、心底そう思う。そしたらずっと、いつまでも抱き合って、見つめ合ってられるやろ。アキちゃんも俺も、それに忙しくて、時の経つのを忘れてるんや。たぶん、百年でも、千年でも。せやからな、実はなにも、心配せんでええねん。
 長い話やったな。結局、のろけやねん。びっくりしたか。
 誰かに盗られる、俺はもう死ぬ、そんな話もな、ふたりの限りなき愛の世界の、ちょっとしたスパイスみたいなもんなんや。本人たちは必死やけどな、周りはもっと迷惑やねん。ええかげんにしてくれって、水煙いつも言うてるわ。
 あいつ置き場が決まらんで、いつもリビングのソファにいるんやけど、頼むからここでいちゃつくのやめろって、それが無理なんやったら、どこかに俺を片づけろって、常に言うてる。
 ごめんて言うけど、アキちゃんはいつも忘れる。肝心の時には、いつも忘れてて、無節操やねん。俺しか見てない。俺しか見てないねん。この集中力。揺るぎないその集中力によって、アキちゃんはいつも俺を幸せにしてくれる。手を握って、果てるまで愛してくれて、そしてまた、もう一回アンコール。俺は歌うで、愛の歌を。誰憚だれはばからず喘ぐ。
 たぶんそれが、俺が歌う歌のなかで、アキちゃんが一番好きな歌やねん。夜明けまででも歌い続けるわ。アンコールの続く限りな。
 ちょっと長く喋りすぎたわ。俺の美声も嗄れてくる。今夜の歌に障りがあったらあかんし、長い無駄話はこれくらいにとこか。
 しかしほんまにつくづく話せば長い話やったわ。ほんの何日かの出来事やったのに。それから長い時を一緒に過ごすことになったアキちゃんと俺の、おそらく一番長い日やった。
 俺には恐ろしい敵やった、勝呂端希。
 でももう、あいつは死んだ。この世のどこにも、おらんようになった。あの世にはどうか、知らへんで。それもますます怖い話や。
 せやけどそれくらいの緊張感は、あったほうがええやろ、俺みたいに、すぐ調子乗る自惚れ屋さんには。
 勝った負けたは関係ないねん。最後に俺は、あいつに負けてた気がする。それでも俺を選んでくれって、信じる目で行くしかないわ。そうして自分がいつもアキちゃんにとって一番好きな相手でいられるような、そんな精進が必要や。
 愛してるって見つめるしかないねん。信じて見つめれば、同じ目で、あいつは答える。そういう奴やねん、アキちゃんは。裏切らない。くそ真面目で、誠実で、浮気者、ときどき憎い、骨まで食いたいような、愛しい俺のツレ。ただいま売り出し中の、画家の卵で、その正体はげきやねん。
 何かあったら呼んだって。アキちゃん、何とかしてえなって。
 きっと何とかしてくれる。優しい男やねん。
 せやけど惚れたらあかんのやで。あれは俺のもんやから。皆さん、そういうことで、よろしゅうお頼み申します。
 俺の話はとりあえず、これでお終い。大トリは、相方に譲るわ。
 それではまたいつか、どこかでお会いしましょう。そう遠くない、いつか。どこか普通の街の、普通でない出来事の中で。水地亨が駆けつけます。なんせ秋津には、蛇が一匹、予備は無しなんやからな。それがこの話の、一番重要なところなんやで。皆もしっかり、憶えといてや。


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