SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

大阪編(5)

 あいつが犬や。
 俺は直感的にそう思ってた。
 嫉妬やないで。外道の勘や。あいつは同じ穴のむじな。人やない。俺とおんなじ、人でなしや。
 しかも犬やで。見た目は、いかにも可愛い愛玩犬で、マルチーズです、チワワです、トイプードルです。さあ抱き上げてスリスリしてください、みたいなつらしとるけど、中身は凶暴なけだものなんや。アキちゃん美味そうって、よだれ垂らしてハアハアしてるねんで。
 なんでそんなことも分からへんのや、アキちゃんは。鈍いで、鈍すぎる。
 そんな体たらくで、普通の人間やったら、とっくに食われてたやろう。
 それでもアキちゃんはいっぱしのげきやった。本人は、力の使い方がわからんなんて言うてるけど、要所要所では無意識に使えてる。今にも食らいつこうっていう犬を、その力で押しとどめてる。
 食いとうても、触れることもでけへん。それに焦れた犬が、アキちゃんの周りをうろうろしてる。飢えて、とりあえず他のんを襲う。そしてその血まみれの口を拭って、またマルチーズみたいな顔して、戻ってきてるんやで。
 こいつを追い祓ってくれ、アキちゃん。もう殺さなあかん。こいつは、まともやないで。
 俺は親切にそう教えてやったけど、アキちゃんはそれを、うるさそうに聞くだけやった。
 俺が焼き餅焼いて、そう言うてると思ったらしい。
 妬いてるよ、それは。でもそれとは関係ないねん。俺の目に狂いはないで。
 それでも、出ていけ、家で待ってろて命令するアキちゃんの言葉に、俺は逆らえへんかった。
 ひどいわ、アキちゃん。なんでそんなこと俺に命令すんの。せめて傍で守らせて。
 まっすぐ家に帰らなあかん。そう思えたけど、でもそれはアキちゃんの呪縛や。自分の意志やない。せやから俺は、なんとかそれに抵抗して、CG科の作業室から追い出された後も、大学の中にいた。帰ることは帰る。ただ、道草食うだけや。道草食うな、すぐ帰れとは、アキちゃんは命令せえへんかったしな。
 そこまでの権利無いと、アキちゃんは思ってる。
 俺が帰り道にどっか寄り道してようと、暇やなあて散歩に行こうと、おかんに呼ばれて嵐山までふらふら行こうと、それは俺の自由やからって、アキちゃんは思ってる。元々持ってた携帯電話も取り上げへん。ほんまはそうしたいんやろうけど、でも、我慢してる。
 出ていきたいんやったら、俺の自由や。他のと付き合いたいんやったら、それも俺の自由。縛る権利はない。アキちゃんは、なんでか、そう思ってるらしい。
 それは時々、確かに好都合やった。一歩も家から出るなて言われても、俺も気詰まりや。退屈したら遊びに行きたい。今までせっかく手なづけた連中に、たまには電話の一本もかけてやらなあかん。それは俺の手駒で、いつかアキちゃんの役に立つこともあるやろうから。もちろん俺の役にも立つ。
 せやけど俺は切ない。もっと縛ってくれていいのに。
 お前は俺のもんや、どこへも出さへん言うて、閉じこめてもええんや。だってアキちゃんは俺のご主人様やろ。俺を支配してるげきなんや。
 おかんはそれを弁えてて、支配したしきを勝手にうろうろさせたりは、せえへんで。がっつり家に捕らえてる。舞かて、おかんのお遣いやなかったら、奥座敷の庭から出ることもでけへんのや。
 そういうもんやろ、支配するていうのは。それでも舞は、うっとり奥様にお仕えしてんで。幸せなんや。おかんは舞を可愛がってる。ほんまの娘みたいに、髪の毛といてやったり、いっしょにお手玉して遊んでやったりしてる。それで舞は幸せやねん。
 それでもあの顔無し女、今は顔有りやけど、アキちゃんが来たら、若様若様言いよるわ。それだけアキちゃんの力が強いていうことやねん。
 おかんはそう言うてた。アキちゃんはうちより力が強い。せやからあの子が帰ってくると、捕らえてあるしきたちが、そわそわしよる。もっと力のある巫覡ふげきに身を任せとうて、切のうなってくるんや。
 せやから、どうにも仕方なしに、うちはあの子を家から出したんえ。そうやなかったら、可愛いひとり息子や。ずっと傍に置いておきたかった。せやけどもう、あの子も一人前になる歳で、悪い子や言うて蔵に閉じこめるくらいでは、ちょっとも言うこときかへん。悪さしてばっかりや。
 そうやろう、亨ちゃん。そう言うて、おかんはにやにやしてた。
 やっぱ見とるんやな、おかん。悪趣味やで。のぞきは。アキちゃん知ったら発狂すんで。
 俺がそう言うても、おかんはにやにやしてるだけやった。にこにこしてるだけ、というか。あの人、顔可愛いから、そういうふうにしか見えへん。
 とにかく、アキちゃんが俺を支配すんのに本腰入れへんのは、俺の精進が足らんのやないかと、おかんは嫌みを言っていた。嫁いびりやで。嫁やないけど。しきいびりやで。
 あんたに魅力が足らんから、アキちゃんは血道を上げてあんたを支配しようとまで思わんとちがうやろか。もっと可愛がってもらえるように、精進せなあかんのとちがうか、亨ちゃん。そもそも男のなりやのがあかんのや。うちの息子には、そんな趣味ないのや。女になったらもっと可愛がってもらえるえ。うちも孫の顔見たいし。早いとこアキちゃんを一人前に鍛えて、女に変えてもろたらよろし。
 最後は本音を吐いたみたいやったけど、おかんの言うことにも一理あるように思えてならん。
 アキちゃんは、おかんのしきである舞の顔を、のっぺらぼうに変えたこともあるんやで。狙ってやなく、無意識でや。そんだけの力があるんやで。
 だから、ほんまはアキちゃんが、自分のしきである俺を女に変えることぐらい、力量的には朝飯前らしいで。ただアキちゃんには、そのやり方がわからへんのや。
 でも、もしかしたら、アキちゃんは別に、そんなこと望んでないのかもしれへん。別にかまへんのやないか。俺がどっちでも。男でも女でも、人でも鬼でもどっちでもかまへん。俺が俺なら、それでええのや。そんなふうに思うのは、俺の自惚れか。ただの期待か。そうやったらええのに、っていう。
 俺は今の自分で満足してる。今あるままで、アキちゃんに好かれたい。気に食わんところを、ちょっと作り替えよかなんて、そんなふうに扱われたくない。愛してほしいねん、ありのままで。
 そんなところが、可愛くないんか、俺は。わがままなんやろか。
 せやから縛ってもらわれへんのか。自由にしたらええよって、呆れて、放置されてんのかな。
 アキちゃん、和食党やったんか。好き嫌い言わんと、なんでも美味いて言うもんやから、全然気がつかへんかった。普通に喜んでくれてるんやと思ってた。言えばええのに。そんなこと。
 なんで俺に遠慮するんやろ。なんで俺は、それに気づかへんかったんやろ。
 昨日今日にぽっと出てきたような犬が、それを知ってんのに、なんで毎日一緒に寝てた俺が、そんなことも知らんかったんや。
 出ていけ言われて、俺はつらい。犬に負けた。そんな気がしてくる。
 アキちゃんは、まだ作業あるし、絵描かなあかん。お前が居ったら気が散るし、よそへ行っといてくれ、家帰っといてくれ。自分も今日は早く帰るしと、そう言うて俺を追い出した。
 あの犬が、今作ってんのは死んだ女の遺作やし、仕上げてやらなあかんて、アキちゃんを口説いたからやった。アキちゃんは絵描きとしての本能で、それはもっともやと思ったらしい。
 描きかけのままの絵が、放置されんのは可哀想やって。もともと三人で作ってたもんやった。遺った二人で、最後まで作ってやんのが、せめてもの供養って、優しいアキちゃんは素直にそう思ったらしい。
 それがあかんのや、アキちゃん。なんでそんな甘っちょろいボンボンやねん。そんなん作戦に決まっとるやないか。邪魔な女が死んで、とうとうあの狭い部屋にアキちゃんと二人っきりや。犬はそれにハアハアしてんねんで。あいつはとうとう、仕掛けることにしたんや。
 なんで俺、もっと頻繁に大学まで見に来てへんかったんやろ。ほんま言うたら大学までは来てたんやで。アキちゃんの知り合いに、アキちゃん何やってんのって、喋りに来たりはしてたんや。せやけど、アキちゃんは絵描くときに俺がいるのがうるさいみたいやから、邪魔せんとこって思って、本人のところには行かへんようにしててん。
 そんな俺って、控え目で、健気やろって、内心ちょっと酔ってたんかもしれへん。うるさい奴やって、嫌な顔されんのが、つらかっただけかもしれへん。でも、行かなあかんかったなあ、今にして思えば。行ってれば気づいてたかもしれへん。こいつ犬やって。あの美少年のつらをいっぺんでも拝んでたら、絶対に気がついたのに。
 あいつ。俺よか若い。見た目が。十八くらいか。
 それに可愛い。なんかちょっと女みたいで。髪の毛長いし。
 アキちゃん、あいつのほうが好きやろか。
 もし、そうやったら、俺どうしよう。どうしよう。
 どうしようと、そればっかり思って、俺はふらふらと、教授連中の部屋のある、研究室棟という建物まで来てた。
 研究て。なに研究してんの。研究なんかしてるように見えへんで。少なくとも、アキちゃんの担当教授やってるホモのおっさんは。絵描いてるだけやで。地べたで。
 おっちゃんな、名前、苑一そのはじめて言うんやで。そのが名字で、はじめが名前や。皆は、苑センセて呼んでるんやけど、他の教授連中には、ようネタにされてる。苑先生、いてはりますかて、学生が訊いてきたら、そのセンセて、どのセンセやねん、そのイチや、そのはじめ。その二はおるんかて。その二はおらへん。そのはじめなら、どこそこにおるでと、わざわざ言うのが定番らしい。いじめてんのか、苑先生を。
 まあなあ。いじめたくなんのも分かるわ。なんかそういう愛され方やねん、苑先生は。情けないねん、覇気がなくて。アキちゃんでさえ、全然気づかずに、苑先生には、いつもひどいことばっかり言うてるわ。でも別にそれでええかと思えてまうところが、苑先生の、苑先生っぽいところらしいで。学生たちに言わせれば。
 案外人気あるんや。ホモ先生。
「ホモ先生言うな。そういうことはな、明言したらあかんのや」
 俺が、こんにちはホモ先生いうて、研究室に顔出したら、絵描いてた苑先生は、泣きそうな顔して、そう言うた。おっちゃんは、なんか野菜の絵描いてた。京野菜言うのか。この大変なときに、なんで野菜の絵なんか描いてんのや。アホちゃうかと、俺は思った。そして、思うだけやのうて口にも出した。
「なに描こうと俺の勝手やろ。大変なときやからこそな、気を落ち着けようと思て、絵描いてんのや。ほっといてくれ」
 くよくよ言い訳して、苑先生は筆を置いた。おっちゃんは人の見てる前では恥ずかして絵が描かれへんらしい。野菜の絵のどこが恥ずかしいねん。なんか変な妄想ぶつけて描いてんのか。まさかアキちゃん関連やないやろな。想像するだけでも許されへんわ、このエロオヤジが。
「どしたんや今日は、亨くん。本間くんならCG科におるで」
 デスクの古びた革張りの椅子に座って、湯飲みについであった冷めた茶らしいもんをすすり、苑先生は教えてくれた。部屋にクーラー効いてるせいか、おっちゃんはいつものトレードマークの、枯れた草色のチェックの上着を着ていた。それ、いつ洗濯してんの。実は何着もおんなじのを持ってんのか。クロゼット開けたら、全部その上着なんか。それはそれで圧巻やな。
 アキちゃん、なにげにお洒落やから、その野暮臭さが耐え難いらしいで。アキちゃんにモテたいんやったら、まずそこを直さなあかんと思うんやけど、俺がそんなこと教えたるわけない。敵はたとえ最弱なやつでも、戦う前に抹殺しておいたほうがええんや。万が一にでも、こいつにアキちゃんとられたら、どんだけ悔しいか知れんで。
「アキちゃんとはもう、いちゃついてきた後やねん」
「ああそうか。そんなら何の用やねん、君は。なんでいちいち来るんや」
 くよくよ言って、苑先生はまた泣きそうみたいやった。なるべく俺のほうを見んようにしてはった。
 苑先生は俺の性格は嫌いやけど、顔が好きらしい。アキちゃんと同じで、綺麗なもんが好きらしいで。せやから俺の顔見ると、描きたくなるんやって。でも俺がモデルやれいう話に絶対ウンとは言わへんもんやから、おっちゃん、悲しなってしもて、俺の顔見るのも嫌んなってきたんやって。
 だって。嫌やん。アキちゃん以外に自分の絵描かれるのは困るし。それに、苑先生、ヌード描きたいんとちゃうの。俺、脱がへんで。少なくとも、タダでは脱がへん。
「苑先生、アキちゃんといっしょに何か作ってた女の子、今朝死んだんやなあ」
 俺が戸口で訊ねると、苑先生は、ぬるいお茶を飲みながら、渋い顔をした。
「そうや。花林糖かりんとう食うか」
 木をくり抜いて彫り上げてある赤茶の菓子鉢を持ち上げて、苑先生は茶菓子を俺にすすめた。俺は頷いて、部屋んなかに入った。アトリエ兼ねた十畳くらいの部屋で、デスクと扉付きの本棚がある以外は、がらんとしていて、床にも、壁に作りつけられた戸棚にも、画材が散乱してる。
 相談に来た学生を座らせるためやという、小さな丸椅子を、苑先生は俺にすすめた。学生やないけど、相談に来た俺は、おとなしくそこに座った。そしてカリント食った。甘くて美味い。
「先生んとこにも刑事来たんか」
「来たな。ほんまに参ったわ。まさか警察のお世話になるなんてなあ」
 頭をがしがし掻いて、苑先生は参っていた。
「やっぱり先生が犯人やったんか」
 俺はもちろん冗談で言ったんやけど、苑先生は泣いていた。
「なんで冗談にもそんな事言うんや。そんなわけあらへんやろ。なんで先生が学生殺すねん」
「わからんで。痴情のもつれかもしれへんやん。アキちゃんと痴情をもつれさせたいようなホモ先生やから、他の学生とも、いろいろもつれてるかもしれへんやん」
「もつれてへん。誰とももつれてへんから。君も時々チェックしにくるの、やめてくれへんか」
 空になった湯飲みを握りしめて悔やんでいる苑先生は、まるで飲み屋でくだを巻いている酔ったおっさんみたいやった。
「ほんまか。そんなら先生に関しては別にええんや」
 カリントくわえたまま、俺は許してやった。今日のところは。
 苑先生は、アキちゃんに手を出すつもりはないらしいで。本人の証言やから信用でけへんけどな。アキちゃんは何や、まぶしいんやって。先生には。
 才能あって、描きたいもんがガンガン描けて、それがいちいち上手くて、教えてやるもんなんか何もない。どう描いたらええのかななんて、迷ってることがいっぺんもない。描きたいもんを、ガーッと集中して描いて、それで幸せ。その絵が人にも評価される。そういうのがな、眩しいんやって。
 まあ、しゃあないわな。アキちゃんて、一種の天才なんちゃうかと、俺は思うわ。しかも本人がそれに全然気づいてへんしな。気づいてへんから、鼻にもかけへんし。当たり前やと思ってて、誰でもやれると思ってるんやな。そのへんが、自分にはでけへんと思ってる人間から見ると、むかつくし、切ないし、眩しいんやろな。
 だから変やけど、ホモ先生にとっては、アキちゃんは憧れの人らしいで。眩しいけど、見つめていたいんやって。どんな絵を描くのか、見てたいんやって。
 それって恋やろ、ホモ先生。ええかげんにしてくれへんか。アキちゃん知ったら卒倒すんで。なんで担当教授のおっさんに純愛されなあかんねん。気持ち悪いわ言うて、他の科に転向してまうで。
 俺がそう忠告してやると、苑先生は、そうやなあと言って困っていた。
「死んだ子は、俺は別にどうでもええねん。可哀想やけどな、もう死んでるから悪させえへん。もう片方の、勝呂すぐろて言うやつ、先生はどう思う」
 遠慮なく先生のおやつのカリントを減らしてやりながら、俺はむかむかして訊ねた。
「勝呂君か。顔綺麗な子やなあ」
「美少年やで。あいつホモなんかホモ先生。ぜったいアキちゃん狙いやで」
「その呼び方、頼むからやめてくれへんか……」
 ほんまに泣いてるみたいに、苑先生はうなだれて肩を震わせていた。
「ほな、苑先生」
「うんうん。勝呂くんな……。彼はほんまにそうらしいよ」
 まるで自分は違うみたいな言い方で、ホモ先生は解説した。お前も同類項やろ。アキちゃん眩しいねんから。逃げようとすんな。
「勝呂くんは、刑事にも、そう言うたらしい。せやから女には興味ない、死んだ中谷さんとは、ただの友達やったって。飲み会断られたくらいで、友達殺したりせえへんてな」
「飲み会断られたから殺したん?」
 俺は顔をしかめて、苑先生に訊いた。そういえば詳しい背景、知らへんかったで。
 そういう顔してる俺を見て、苑先生は、あ痛という顔をした。単に俺の顔を見てもうたんが痛かっただけか。
「知らんかったんか……迂闊やで。本間くんから話聞いてるんやと思てたわ。人に言わんといてや。教授が部外秘の話を部外者に喋ってもうたなんて、懲戒もんやわ」
「喋らへんよ、苑先生。俺も刑事に会ったんやで。連中、アキちゃんが犯人やと思ってる節もあんで。それってどうなん。まずいんちゃうの。マスコミにでもネタにされて、アキちゃんの将来に傷がついたら、先生も困るんやろ」
 かりかりカリント食いながら、俺と苑先生は真面目に話していた。
「困る言うか、勿体ないわな。せっかく才能あんのに、それがもとで潰れたら」
 そう言っている苑先生は、アキちゃん犯人説には全く信憑性を感じてないらしかった。なんでや。何を根拠にそう思うんや。惚れてるからか。
 俺でもちょっとは思ったで。まさか何かの間違いで痴情がもつれてもうて、アキちゃんがほんまに殺ったんちゃうかって。顔見たら、そんな気はどっかに消えたけどな。だって、人殺せるような男やないで、アキちゃんは。時々鬼やけど、そういう類の鬼やない。
「どう考えてもあいつや。あいつが殺ったんや。それは間違いないで、先生」
「あいつって誰やねん」
 目をぱちぱちさせて、苑先生はほんまにびっくりしたらしかった。
「あのなあ亨くん、犯人なんかおらへんよ。事故や。不幸な事故やったんや。中谷さんは、犬にやられたんやから」
「その犬や。勝呂がその、犬やねん、先生。意味わからへんやろけど、アキちゃんのこと、気いつけたって。ヤバいねん、あの美少年は。アキちゃんとあいつを、ふたりっきりにさせんといて」
 俺はお願いポーズで、苑先生に頼んだ。ほかに頼めるやつおらへん。この人おっても、いざという時には何の役にも立たへんのやけど、それでもアキちゃんが血迷うのは避けられるやろ。アキちゃんて、押しの強い相手には弱いから、あの美少年が本気で迫ってきたら、案外ころっと行くかもしれへんで。でも、人目があれば、それはない。気にする質やからな。
「そう言われてもなあ。そんなん君の妄想やろ」
「先生。アキちゃんが美少年に押し倒されて、べろべろ舐め回されてもええんか……」
 俺が具体的な危機について教えてやると、先生は、うぐっと呻いた。微妙なところらしかった。まさか見たいんかオノレは。どこまで腐ったホモ先生や。
「とにかくな、先生。あの美少年がアキちゃん狙いなのは事実やねん。よだれ垂らして狙っとんねん。今でももうすでに、犯されてるかもしれへんで。俺は帰れ言われてもうたし、もう帰らなあかん。先生だけが頼りやねん。頑張ってくれへんか。アキちゃんショックで、絵描けへんようになるかもしれへんで」
 がたんと驚いたように、苑先生は立ち上がった。
 結局、絵なんか。お前らは。絵さえ描ければそれでええんか。
 ちょっと様子見てくるわ言うて、苑先生はCG科にいくつもりみたいやった。俺は最後に一個カリントもらって、先生と部屋を出た。このカリント美味い。ちょっとハマったで。どこで買うたんやて訊いたら、伊藤軒のソバ花林糖や。そんなんどうでもええやろと、苑先生はくよくよ言った。
 そして小走りに、おっちゃんは研究室棟を出ていった。
 苑先生は、濡れ場を止めたいんか、それとも見たいんか、どっちなんやろ。見てへんと、止めろよ、エロオヤジ。
 俺は正直、かなり本気で危ぶんでいたんやけど、それでも、おっちゃんはちゃんと仕事したらしい。
 家に帰ってきたアキちゃんが、なんや今日、教授が気持ち悪かったわ、用もないのにずっと作業室におってな、なんやソワソワしてたで、気になってしゃあなかったわと、いかにも気持ち悪そうに俺に話した。
 それで、グッジョブ、ホモ先生と、俺は思ったもんやった。とにかく、あの犬が、アキちゃんといい雰囲気にならなかったことは確実や。
 ならせてたまるか。いい雰囲気なんて。何が瑞希みずきって呼んでください、先輩や。お前なんかポチかジョンでええねん。犬やねんから。
 アキちゃんが名前呼び捨てで呼ぶのって、たぶん寝たことある相手だけなんやで。そういう気がする。
 ていうことは、や。アキちゃんは姫カットのことも、名前呼び捨てで呼んでたんやろなあ。あの女、何て名前なんやったっけ。中のブスも、名前調べといたろと思ってて、忘れてた。アキちゃんといちゃつくので忙しくて。
 あの刑事なら知ってるんちゃうかな。もう一人分、骨出てきたいうて、慌てとったくらいやから。誰の骨なんか、いくらなんでも名前くらいは分かってるやろ。
 ブサイク猫、飯食ったかなと、俺は晩飯のごはんを茶碗によそいながら、ふと思い出した。
 今日は和食にしましたえ。
 ベタやとアキちゃんは思うやろけど、でもええねん。
 俺が料理をおぼえたのはな、昔ちょっと、暇やったんで、レストランの厨房で、コックさんごっこしてたことがあってん。でもそこは、基本、イタリアンの店やってん。せやから俺は、ティラミスとかパスタとかは自分で作れるけど、肉じゃが作ったことはない。
 せやし、しゃあないから、インターネットでレシピ見て、なんとか作ったで。和食の定番といえば肉じゃが。
 それがな。いまいち不味い。なんでやろ。ネットのレシピを公開してたやつの舌が腐っとったんか。ほんま恨むわ。晩飯の肉じゃがに箸つけたアキちゃんは、正直なもんで、不味いという顔をした。それでも文句言わへんかった。黙々と食っていた。いつもなら、一回くらいは、美味いなて言うのに。
 まあでも確かに不味いわ。自分で食っても不味いと思ったわ。けど、どうやったら美味くなんのか、わからへんかってん。
 おかんが言うように、俺は精進が足らんみたいや。精進せなあかん。いろいろ。別に料理なんて、そんなん簡単や。それでアキちゃんが喜ぶんやったら。
 それであなたのお役に立つなら、うちは幸せどす、ってやつや。
 確かにまだまだ、姫カット・ウィズ・ブスに勝ててないかもしれへん。駅の改札で一日二回、通り過ぎる姿を見るだけで幸せやなんて、俺にはそんなふうには思われへんもん。
 抱いてほしい。俺が好きやて言うてほしい。いつも、そればっかりやで。
「アキちゃん、出町の駅に、黒い猫おるの知ってるか」
 食い終わって、まだ残ってたビール飲みながら、俺は試しに訊ねてみた。どうせ知らんやろと思いながら。アキちゃんは、疲れたんか、テーブルについたまま、なんやボケッとしてた。酔ったわけやないやろ。酒豪やねんから、ビール一缶くらいで酔うわけあらへん。
「黒い猫って、切符売り場んとこにいる、めちゃめちゃブサイクなやつか」
 アキちゃんは、ボケッとしたまま、そう答えた。知ってたんや。俺はそれに、驚いた。アキちゃんがあんなブサイクな猫を意識してたなんて、ありえへん。見えてても見てないかと思ってた。
「なんで知ってんのん」
「なんでって……。あいつ、俺が通ると、いつもじいっと睨みよるで。それが何や、気になるねん」
 気になんのか、アキちゃん。それ、アキちゃんが前に、このテーブルで一緒に飯食ったこともある女やで。
 あいつ料理もしよったんかな。和食かな、やっぱ。料理上手かったんか。なんか、そんなような気もするなあ。アキちゃんが半年も付き合ったんやから。
「俺も今日、じいっと見られたわ。ほんま、ブッサイクな猫やなあ。ようあんな醜い顔になれんで。おかんの腹ん中にいたときに象に踏まれたんかなあ」
 俺がそう罵ると、アキちゃんは苦笑した。その話、『エレファント・マン』ていう、古い、えげつない、ホラーっぽい映画やで。ものすごい醜い男が、みんなに憎まれて、見せモンにされたりして、ひどいめにあわされる。そういう話や。
 アキちゃんは相当の映画好きらしい。ひとりででも映画館に行くし、家でもDVDで映画観てる。ボンボンやからレンタルやないで。山ほどDVD持ってるで。その映画も、アキちゃんのライブラリーにあったんで、暇やったから俺は勝手に観てみたんや。いろんな映画観て暇つぶししてんねん。
 変な映画やなあって、アキちゃんに感想言うたら、可哀想な男の話やて、アキちゃんは言うてた。面食いのアキちゃんが、あんな壊れたみたいな特殊メイク顔の男のことを、可哀想やて言うのが、俺には不思議に思えて、なんとなく憶えててん。
 なんでアキちゃんが、あれに感情移入してんのか、今ではよくわかる。たぶん自分に似てると思ったんやろ。化けモンや言われて、いつもひとりで居る。人から理解されない、孤独な男やねんで。
「猫ってな、見た目悪いと、なんでか仲間に虐められるらしいで。それで傷だらけになってな、どんどんブサイクに磨きがかかるんや」
 アキちゃんは珍しく饒舌に、そんな話をしてた。もしかして、猫好きなんかな。
「そうなんか。可哀想やな。駅の猫、ブサイク度では最強レベルやから、実はけっこう苦労してんのかな」
「そうかもしれへんな。なんであいつ、俺をじっと見るんやろ」
 分からんというふうに、顔をしかめて、アキちゃんは首をかしげていた。
 鈍いなあ。巫覡ふげきの血筋やのに。そんなこともわからんのか、アキちゃん。
 俺はちょっと呆れて笑った。
「アキちゃんのこと、好きなんとちがうか。飼ってほしいんやろ」
「そんなこと、あるやろか。あいつ野良猫なんやろ。せっかく自由に暮らしてんのに、なんでわざわざ飼われなあかんねん」
 さあ、なんでやろと思て、俺はまた笑っていた。なんでか知らんけど、自由な野良猫も、時には縛られてみたくなるねん。好きな相手ができたら。
「あんなブサイクな猫、家におったら気持ち悪いか、アキちゃんは」
 試しに俺は訊ねてみた。
「いや、そんなことないけど。あれはあれで、可愛いで。ブサイクやけど、愛嬌あるやん」
 アキちゃんがけろっと言うんで、俺は、参ったなあと思った。アキちゃん、面食いやのに、あんな猫でもええんや。聞こえてるか、駅のブス。聞こえてへんやろなあ。聞いてたら号泣モンやったのに。気の毒やなあ。
 しゃあないから、俺が教えたろ。そのお礼に、俺に料理教えてくれ。
 そう思って、俺は明日、駅にいる黒猫を拾いに行く決心をした。アキちゃん横からぶんどった、罪滅ぼしや。それになんかあいつ、憎めへんねん。同じ男に惚れてる、仲間意識かな。変なの、俺って、かなりの焼き餅焼きやのにな。
「アキちゃん、俺がもしブサイクでも、可愛いって言うてくれるか」
「なに言うとんねん、お前は。アホか」
 照れてんのか、アキちゃんはほんまに憎そうに俺を詰った。
「お前はな、ほんまは分かってて言うてんのやろ。自分がどういう顔してるか。なんで自信ないねん。綺麗なもんは、綺麗でええやん。俺は確かに面食いかもしれへんよ。でもそれの、何が悪いねん。そのお陰で、お前は今、ここにいるんやろ。お前が、のけぞるほどブサイクやったらな、確かに俺はクリスマスの夜にお前を連れ込んだりせえへんかったかもしれへんよ。お前の見た目が好きやってん、それは否定せんわ」
 アキちゃんは居直ったみたいな早口で、滔々とうとうとその話をした。
 やっぱちょっと、酔ってんのかなと、俺は思い直した。
 アキちゃんは俺のほうを見もせんで、床のフローリングの木目を見ていた。
「それが切っ掛けなんが、そんなに嫌か。俺はお前の顔がめちゃめちゃ好きや。綺麗やからな。でも別に、顔だけが好きなわけやないで。顔なんか見えへんでも、お前が好きや。今はもう、そうなんやで」
 アキちゃんは、言ってもうた、もう負けや、みたいな、ものすごい苦い顔してた。
 なんでそんな苦い顔して甘いこと言えんのかな。俺はそう思って、じんわり来てた。
「ほな、電気消して真っ暗にして、目隠ししてやろか」
「やめてくれ。なんでそんなことせなあかんねん。俺は今夜はな、映画観るんや。風呂入ってから、のんびり酒飲みつつ、頭からっぽにして映画鑑賞」
 俺は悔しくなってきて、苦笑した。アキちゃんのいつもの癒しの儀式や。どうせ『スター・トレック』観るんや。何回観ても同じ話やのに、特殊メイク宇宙人出てくる古いSFを、延々観るともなく観て、ぼけっとするんや。
「またスター・トレックか。好きやなあ、アキちゃん。あんな変な宇宙人ばっかの話、どこがええのん。俺と抱き合うよりええんか。信じられへんわ」
「お前と抱き合うよりええわけやない。抱き合いながらお前も観るんや」
 アキちゃんが真剣に言うんで、俺も思わず真顔になった。
 えっ、と、とぼけた声が自分の口から漏れて、俺はしばらく、ぽかんとした。
「観るんか、俺も。スター・トレック。観ながらプレイか」
「いや、観ながらやるわけやないよ。観てる間はやらへんよ。やりながら観るようなもんとちゃうやろ」
 アキちゃんは眉間に皺を寄せていた。
 まあ確かにな。カーク船長とかミスター・スポック観ながらやるっていうんは、あまりにも斬新すぎやな。何に興奮してんのかお互いすごく気になりすぎるよな。
「お前とのんびりテレビ眺めて、ぼけっとしたいねん、俺は」
「そうか……俺は、アキちゃんとベッドで組んずほぐれつしたいけど。ベッドやのうてもええけど。この際、スター・トレック観ながらプレイでもええねんけど」
「なんで俺がそんな変なことせなあかんねん」
 いややというふうに首を振って、アキちゃんは立ち上がった。
「夜食をなんか俺が作るから、それと酒飲みながら、映画鑑賞。お前は風呂の支度」
 そう言いながらキッチンに歩いていくアキちゃんに、バスルームがあるほうを指さされて、俺はしょうがなく立ち上がった。だってご主人様が風呂の支度しろて言うてはるからな、せなしゃあないよな。
 それで風呂入って。ついでやから二人でなんか気持ちいいことしよかって誘ったけど、ピシャーンみたいに断られて。泣きながら普通に風呂入って。泣きながら映画鑑賞。
 せやけど、ソファでアキちゃんとべたべたしながら映画観て、アキちゃんが入れてくれたジンライム飲んで酔って、それはそれで幸せ。
 キスする息がはあはあする頃になると、確かにアキちゃんはカーク船長は見てへんかった。それはたぶん、何でもよかったんやと思う。見慣れてて、映画の続きどうなるんやろって、全然気にならへんような、もう分かり切った内容のやつやったら。
 お前の声は、あからさまやから、俺は恥ずかしいて、アキちゃんはいつも言ってた。でも今夜は、映画の音うるさいから、あんまり目立たへんなって、アキちゃんは言ってた。
 せやし今夜は、アキちゃんも、あんまり我慢せんで、気持ちよかったら声出して。俺がそう頼むと、アキちゃんは黙秘権を行使した。そうか。あくまで我慢するか。
 ほんなら我慢でけへんような事をしてやろうと思って、俺はアキちゃんのを舐めてやることにした。
 不思議やけどな、アキちゃんて、これには弱いねん。自分が責めてる時には、我慢できるもんが、責められてる時には、我慢でけへんもんらしいねん。それは世紀の大発見なんやけど、俺はずっと前から知ってた。弱いところをあれこれされると、アキちゃんが、やめてくれ亨、もうやめてくれ、もう我慢でけへんわって言うのは。
 俺はそれが、けっこう好きなんや。許してやったアキちゃんが、ほんまにもう我慢でけへんというノリで、必死に俺を抱くのが。
 さんざん舐めて虐めてやると、アキちゃんは今夜も、ああもうあかん、と切なそうに言った。もう入れなあかん、亨。我慢できんようになる。お前を抱きたい。
 好きやて言うてくれたら、やらせてやってもええわと、俺が意地悪すると、アキちゃんは観念したみたいに、お前が好きやて言うてくれた。何回も言うてくれた。俺が言わせたからやけど。
 何となく、このままアキちゃんをいかせてやりたいなと思って、俺はずっと意地悪してた。朝のお返しや。
 ああ、つらい、俺はもうつらい、ってアキちゃんが呻いた。苦しそうな声やった。
 何をそんなに我慢してんのやろ。我慢せんでええやん、アキちゃん。
 今さらやけど、今夜はやらへんつもりやったんやって、アキちゃんは俺に白状した。普通に映画観て、それから普通に寝ようかなって、思ってたんやって。でも、もしそれが本気やったら、もっと夢中で見るような映画にするよな。スター・トレックっていう時点で、もうあかんて、アキちゃんはくよくよ言ってた。
 それが面白くて、俺はやりながら笑ってた。それがまた堪らんらしい。しゃあない、それも朝のお返しやから。
 結局アキちゃんは、そのまま俺に飲ませた。これ嫌いな男はおらへんで。アキちゃんも、めちゃめちゃ良かったらしい。せっかく風呂入ったのに、ソファで汗だくやった。もう一回風呂入らなあかんて、アキちゃんは悔やんでた。
 でもどうせ、一晩に二回も風呂入るんやったら、それまでに、どんだけ汗かこうが、おんなじや。
 ベッド行くなら、途中でやめなあかん。それが面倒くさいというか、惜しいような気がして、俺とアキちゃんは、ソファで組んずほぐれつ、果てしなくお互いを嬲り合ってた。
 こんなこと最近、やったことない。もしかすると初めてかも。
 キスと熱い吐息とで、喉が渇くんで、アキちゃんの舌からは、ときどき飲むジンライムの味がした。アキちゃんは、酔っぱらってるんやないかと、俺はまた思った。アキちゃんが、指と舌とで、気持ちよくしてくれる。その合間に、心配せんでええねん亨、俺はお前が好きや、死ぬほど好きやて言うもんやから、これは絶対シラフやないでって、俺は照れくさかった。でも嬉しかった。
「アキちゃん、あいつには近づかんといて。あの、美少年。勝呂瑞希すぐろみずきて言うやつ」
 俺の脚を開かせて、そこに顔を埋めてるアキちゃんの髪を掴んで、俺は切なく頼んだ。あいつ危ないんやで、アキちゃん。近づかんといてほしい。二人きりにならんといて。アキちゃんは、そんなことを必死で頼む俺が、可愛いというふうな顔をした。
「なんで妬いてるんや、亨。お前のほうがええよ。お前のほうが綺麗やし、俺が好きなのはお前なんやで。あいつはただの後輩やんか。もう、そんな話するな」
 興奮させた俺を、愛しそうに見て、アキちゃんはそう命令した。そんなこと言わんといて。どうしたらいいかわからへん。嬉しい。せやけど、あいつの話はせなあかん。アキちゃんに、まだ言ってない。あいつが犬やで。アキちゃんが可哀想や言うてた、食い殺された女の子、その子を殺ったんは、たぶん、あいつなんやで。
「抱きたい、亨。抱いてもええか」
 俺の体を抱き寄せてきたアキちゃんに、俺は必死で頷いた。抱いてほしい。
 ベッド行こうかと、アキちゃんは囁くような声やった。
 もうここで抱いてほしい。足腰立たへんで。俺はもう歩かれへん。
 そんな泣き言言ってたら、アキちゃんは俺を抱いて、寝室まで連れてってくれた。お前、軽いなあて、アキちゃんは驚いてた。
 俺の体重なんて、あって無いようなもんやで。気分次第で、重くも軽くもなるわ。今はその、舞い上がるような心地やったからかな。それで軽かったんやろか。
 アキちゃんの首にしがみついて、そう言うと、アキちゃんは笑ったみたいやった。たぶん照れくさかったんやろ。抱いて運ぶなんて変やったでって、きっと思ってるんや。
 でも、いいやん、変でも。そんなん気にしてたらあかんわ。
 早うしてほしいって頼む俺に、今夜はゆっくりやるわと、アキちゃんは答えた。そして、ほんまに、ものすごく時間をかけて、ゆっくりやった。俺はアキちゃんの我慢強さに舌を巻いた。それだけやのうて、めちゃくちゃ喘いだ。悶えさせられた。
 そこまで陶酔したんは久々やった。近頃アキちゃんはつれなかったからなあ。
 気持ちいいって、その陶酔に酔ってると、あんまり幸せすぎて、すぐ目の前にある危機を忘れそうやった。
 抱き合って、キスしてくれてたアキちゃんに、俺はまた必死で頼んだ。
「アキちゃん、お願いやから、浮気せんといて。俺だけにして。他のとこんなことせんといてくれ」
 アキちゃんにゆっくり責められて、俺は切なかった。泣きつくような口調やった。あんまり気持ちよくて、体が震えてきて、もう限界って感じがした。
 アキちゃん上手い。上手くなった。初めてここで抱いてもらった時には、ほんまに慣れてなくて、やっと抱いてるって感じやったのに、今はもう、全然違う。掌の上で、転がされてる感じがする。
 根が真面目やからか、アキちゃんは俺がえつに入るところを、いちいち全部憶えてて、容赦ないねん。それが時々つらい。自分ばっかり悦んでる気がして。
「アキちゃん、またイってまう。一緒にイってよ……ひとりだけはいややねん」
 震えながら、俺が頼むと、アキちゃんは分かったって言った。そして、もうちょっとの間、我慢しろて言うて、アキちゃんは、激しくやった。
 なんかもう、ほんまにあかん。蕩けそう。抱えられた膝が、がくがく震えてきて、俺はもう、自分がなに考えてんのかも、よう分からんようになった。
 俺ってここまで、気持ちよくなれるんや。そんなことを、考えたような気がする。相手がアキちゃんだからやろう。他の相手で、ここまで感じたことない。そんなに人を好きになったことないねん。
 そんならここが、俺の終着点でもええやん。もうどこにも行かへん。ずっとアキちゃんと一緒にいたい。ずっと。二人で。永遠に。一緒にいたい。
 そんなことを、思ってたような気がする。頭が朦朧として、よう分からへん。
 やっと許してもらえた絶頂感のなかで、アキちゃんにしがみつきながら、俺は必死やった。アキちゃん欲しい。もっと欲しい。他の誰かにとられたくない。もう我慢したくない。もう無理、我慢できへんねん。
 俺と抱き合って、もう一緒に極まってたはずのアキちゃんが、また、愉悦をこらえるような、低い呻きをたてた。
 それに呼び覚まされて、俺は自分が、アキちゃんの首筋に噛みついてるのに、気がついた。俺はアキちゃんの、血を吸ってた。
 飢えたような牙が伸びて、アキちゃんの首に刺さり、そこから漏れてきた熱い血を、必死で舐めてた。アキちゃんは全然、痛そうではなかった。むしろすごく、気持ちいいみたいに、身悶えるのを堪えてた。
 俺は一体、なにやってんのやろ。やめなあかん。こんなこと、したらあかんて、激しく震えてきたけど、それでもやめられへんかった。舌に触れる血が、ものすごく甘い。脳みそが蕩けるみたいな、酔うような強烈な甘さで、長年の飢えが、一気に満たされていくような気がして、俺はアキちゃんの血を震えながら啜った。それが肉体の絶頂感と相まって、ほんまに狂うような快感やった。
 やめなあかんと、何度も聞こえた自分の声に、やっと従えたのは、アキちゃんが急に、痛そうに呻いたからやった。
 びっくりして俺は、唇を離した。どんな顔してんのか、アキちゃんに見られるのが嫌で、俺は両腕で顔を隠して、のけぞった。
 もしかして今、俺は、化けモンみたいな顔をしてるんとちゃうやろか。アキちゃんを食おうとした。ほんまもんの化けモンなんやから。
 あいつは危ないて、言っておきながら、そう言う俺のほうが、一番危ない。アキちゃんを、殺してしまう。ほんまはずっと、我慢してた。ずっと前から、こうしたかってん。アキちゃん欲しいて、苦しかった。いつかほんまに、殺してしまう。血を吸い尽くして。もしかしたらもっと悲惨で、骨一片残らんくらいに、食い尽くしてしまうかもしれへん。
 そうなったらどうしよう。アキちゃんを、もしも俺が殺したら、俺は俺を許されへん。自分が死んだほうがましや。そんなことになる前に、出ていかなあかん。アキちゃんと別れて、出ていかなあかん。
「どうしたんや、亨……」
 ぼんやりした声で、アキちゃんが俺の顔を見ようと、覆い隠した腕をどかそうとしてきた。
「見んといて、アキちゃん。きっと醜い顔してる」
 俺は抵抗したけど、本気やなかった。ほんの一瞬の間に、いろんなことが、頭の中をぐるぐるよぎった。俺は確かに、いつもと違う顔やったやろ。アキちゃんはそれを見て、化けモンやと思うかもしれへん。嫌いになるかも。それはつらい。でも、そのほうがええんや。嫌いや言うて追いだしてくれたら、そのほうが、アキちゃんのためやで。
 そう思えて、泣きそうでいた俺の顔を、アキちゃんは不思議そうに首をかしげて、ちょっと険しいような表情で眺めてきた。
「お前はほんまに、人間やないんやなあ」
 しみじみとした口調で、アキちゃんはそう言った。
「鏡、見るか?」
 アキちゃんが、いかにも見ろというふうに言うんで、俺は慌てて首を横に振った。見たないわ、そんなもん。
「なんで。綺麗やで、ほら」
 ミラーになってる目覚まし時計の、デジタル表示のある鏡面を俺に見せて、アキちゃんは何となく、うっとりとそう言った。
 銀色に磨かれた鏡面に、アキちゃんに抱かれてる、俺の顔が映ってた。
 いつもと大層変わらんような顔やった。寝乱れて上気した顔に、髪が汗ではりついてて、情けないような表情をした目だけが、金色に光っていた。蛇みたいな、細長い虹彩が、じっと悲しそうに、鏡の中から俺を見つめ返した。
 捨てんといてくれアキちゃんと、その目は言っているみたいやった。
 わざとやったんやないねん。夢中やったんや。もうしない。二度としないから、許してくれ。もう俺を、抱かんといてくれ。今夜みたいに、優しいようには、抱かんといて。
「アキちゃん……俺、出てくから、嫌いにならんといて」
 必死でそれだけ言うと、ほんまに涙が出てきた。アキちゃんと、離れたくない。一緒にいたいねん。
「なんで出てくんや。ずっと居るって約束したんとちがうんか」
「でも俺、アキちゃんの血を吸った」
「そうみたいやなあ。吸血プレイか。それはさすがに想定してへんかったわ。お前っていっつも、俺の想像を絶してる」
 苦笑して言うアキちゃんは、なんか全然、堪えてへんようやった。泣いてる俺の顔を、ちょっと困ったみたいに、ベッドに頬杖ついて見てた。
「アキちゃん、平気なん?」
「案外、気持ちよかったで」
 アキちゃんの苦笑は自嘲するようで、相当苦み走っていた。
「そうやのうて……。嫌やろ、俺のことが」
「なんで。綺麗やで、亨。今のお前の顔も。俺は面食い野郎やからな、顔さえ好きなら、後はなんでもええわ。お前がそんな俺は、もういやや言うて、出ていきたいんでないなら」
 にやにやそう言うアキちゃんは、もしかしたら意地悪してんのかもしれへんかった。俺が出ていきたいって、思うと思うんか、アキちゃんは。それ本気で訊いてんのか。
「血、吸いたいんか、俺の。ほんまのこと言うてええんやで」
 震えて答えないでいる俺を見て、アキちゃんはまたちょっと、苦笑して訊いてきた。
「吸いたい」
 しょうがないから、俺は正直に答えた。ものすごい小声で。
「ほな吸ったらええやん。何が違うんや、いつもやってることと。お前、知らんのか。お前がいっつも俺から搾り取ってるあれな。あれも元は血なんやで」
 アキちゃんは照れくさいんか、目を合わせないまま俺を抱き寄せて、ぺらぺら話した。
「そうなん……?」
 俺は知らんかったんで、アキちゃんの腕の中でちょっと身を固くして、反省しながら訊いた。そうなんか。それでか。美味いような気がすんのは。
「そうやで。せやから、一日に何遍もやらされるよりは、血吸われるほうが、むしろラクなくらいやで」
 アキちゃんは、むっちゃ納得してるふうに、そう言って、頷いていた。
「けどな……けど、俺に血吸われたら、とりこになってしまうんやで。何遍もやってると、俺の言うなりになってまうねん」
「それも今と何が違うねん。おんなじやろ。俺は元々、お前の言うなりやろ」
 ものすごい顔をしかめて、アキちゃんは言った。
 それにとっくの昔に、お前のとりこやろ。半年前からずっとそうなんやで。最初に見たときから、ずっとそうやったで。お前はそれを、知らんかったんか。薄情なやつやなあ。さすがは鬼畜生やって、アキちゃんはちょっと、照れたふうな仏頂面で言った。
 俺はそれを、ぽかんと訊いていた。
 なんかもう。全てを通り越して、頭が真っ白やった。
 真っ白。
 なんも考えられへん。
 幸せすぎて。
 俺を支配してるアキちゃんを、俺が支配すんの。そんなん、ありか。
「アキちゃん……キスして」
 頼んでんのか、命令してんのか、自分でも分からん口調で、俺は言ってた。アキちゃんは、まだうっすら鋭い牙の残る俺に、キスしてくれた。唇を割って、からめた舌には、まだ血の味がしてた。それでもアキちゃんは、嫌な顔せえへんかった。
 それが俺に囚われているせいなんか、単にアキちゃんが俺を、愛してくれてるからか、それは区別がつかへん。でも、それは、気の持ちようなんやないかって、俺には思えた。
 愛してるからやって、思いたい。
 アキちゃんは他のやつとは違う。俺を支配する力があるんやから、俺にちょっと血吸われたくらいで、言うなりになったりせえへん。俺が好きやから、キスしてくれるんや。そうやと思わせて。
 せやけど俺は切ない。こんな時に限って、むちゃくちゃ熱烈なキスしたりして、アキちゃんは意地悪やと思う。それが何のせいか、俺には区別がつかへん。
「アキちゃん、好きや、めちゃくちゃ好き。俺に、操られんといて。俺のこと、好きやって思った時だけキスしてくれ」
 俺が頼むと、アキちゃんは笑って頷いて、また俺に、触れるだけのキスをした。それが、俺が好きやと言うてくれてるみたいで、俺は痺れた。脳天から爪先まで。
 守らなあかん。アキちゃんを。俺のご主人様で下僕。この世界でいちばん好きな相手や。俺の片割れで、俺の全て。それくらい好きや、アキちゃん。
 アキちゃんも、俺のことを、そう思ってくれたら、俺はそのために、死んでもええよ。
 でもそれは、口には出せへんかった。言葉にして頼んだら、アキちゃんは、俺もそう思うて、言うかもしれへん。でもそれは、アキちゃんの本心なんか。それとも、俺に言わされてるんか、きっと俺には区別がつかへん。
 ひどい話や。意地悪で。めちゃくちゃ甘いのに、つれない。
 アキちゃんは、俺の首をそらせて、自分も血を吸うみたいに、俺の首筋を甘く噛んだ。それはなんともいえず、官能的やった。
「俺もお前の血を吸いたいわ。なんとなく。お前を食いたいような気がする」
「そら、あかんわ、アキちゃん。俺ら、もう混ざってきてんのかもしれへん」
 首筋を唇でなぞって、耳を噛むアキちゃんの舌の感触に、俺の話す声には、そこはかとない喘ぎが混ざっていた。
「混ざってくんのか」
 アキちゃんが耳元で、ぼんやりと甘く、それを訊ねてきた。俺はその息の熱さに、うっとりと頷いた。
「今朝、飲んだやろ。俺の……。ほんまは、あかんねん。混じり合うと、俺と同じになる。最後まで、生きてられればやで」
「生きてられへんのか」
 顎を唇でなぞってきて、最後にキスしてくれたアキちゃんに、俺はため息が出た。
「普通は」
 俺はやっと、それだけ答えた。なんかこのまま、もういっぺん抱いてほしいような気がした。さっきの続きで、繋がったまま、もう一回。
「俺は普通やないで」
 横たわる俺の髪を撫でて、なんとなく誘うように言うアキちゃんの目は、確かに普通やなかった。何か言いしれない力が、漲っているような目やった。俺はそれに、夜の虫が光に捕らわれるように、捕らわれていた。
「そういや、そうやったわ」
「試そうか。お前のを、飲んでやったらええんか」
 アキちゃんが、真顔で言うんで、俺は恥ずかしくなって、アキちゃんの胸に顔を擦り寄せて、その視線から逃げた。
「やめて、あかんわ、なんや恥ずかしゅうて。今夜は、普通に抱いて……普通に、もう一回」
 俺がそう頼むと、アキちゃんはお願いを聞いてくれた。
 そのまま抱いて、また俺を喘がせた。
 朝まで何回も、果てしないように、俺とアキちゃんは混じり合った。
 明け方に、とうとうまた果てそうな体を、愛しげに吸われ、俺は狂った。アキちゃん恋しい病に。
 たぶんこの恋は、病魔みたいなもんやで。ワクチンもない。加持祈祷でも、陰陽師でも、お医者様でも草津の湯でも。治せるわけない。果てしなく混じり合う悦びに、蕩け崩れるまで。行き着くとこまで行くだけやと、そういう気がした。
 だけどまだ、俺は決心がつかなかった。愛しいアキちゃんを、骨まで食らいつくすだけの決心が。そうしてもアキちゃんが、俺を好きでいてくれるか、その自信がなくて。
 でも多分それは、恥じらいのない俺の、最後の恥じらいやった。
 本音のところでは望んでる。それを。
 アキちゃんが俺の真の姿を見ても、お前は綺麗や、お前が愛しい、お前が欲しいてたまらんと、そう言ってくれる、その時の深い陶酔を。
 それでも、それを望む己の貪欲さが恥かしてしょうがない。
 それで仕方なく、強く抱いてくれるアキちゃんの腕に、うっとりと恥じらって身を任せてた。それが精一杯やった、そんな可愛い夜もあったという、そんな話や。
 暑い夏やった。京都の街にはコンチキチンと、祇園囃子が響き始めてた。それは不浄のモノを追い祓う、破魔の音色やった。いつもなら空恐ろしいはずのその音も、アキちゃんの胸に抱かれて聴くと、うっとりするほど美しい、天上の音色として、俺の耳に響いていた。


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