SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

大阪編(4)

 キャンパスで学生が死んだというんで、大学構内は騒然としてた。
 大学側は、そんなことはもちろん隠していたが、隠しようもないような血糊べったりの染みが、後始末のために撒かれた砂に埋もれて、キャンパスのどまんなかの広場中央に残されていて、学内のどこへ行くにも大体通るそこで、見間違いようもない白線で描かれた人型を目にして、気持ち悪くなって倒れたり、泣き出したりする女子学生もいた。
 それで遅まきながら、教務課は学園祭の時なんかに使うテントとブルーシートを持ち出してきて、事件現場に仮設の目隠し小屋を作った。
 どっから聞きつけんのか、学生がタレコミでもしてんのか、昼前にはもう、カメラ抱えたマスコミ関係の連中が、取材やいうて大学に入り込んでいた。
 せやからCG科の学棟から出るな言うて、俺と勝呂すぐろは教授たちに足止めされていた。もう昼過ぎやのに、飯も食われへん。
 腹減りましたよね、先輩、と、勝呂すぐろはいかにも平気そうに言い、なんか食うモン調達してきますと、PCの並ぶ作業部屋から姿を消していた。
 こんな時によく、飯のこと思い出せるわと、俺は感心した。
 俺は喉は渇いてたけど、腹が減った気はしてへんかった。減ってるんやろけど、食欲がない。由香ちゃんが犬にやられたという現場の血のあとは、想像以上に悲惨やった。見なければよかったと、俺は後悔した。いろいろ想像すると、食欲なんか萎えた。ただエアコンの風で部屋が乾いてて、喉だけが渇く。
 俺が来たとき、勝呂すぐろはもう、CG科のいつもの作業室にいた。由香ちゃんより先に、大学に着いてたんやという。開門と同時に入って、できあがりのレンダリングした絵を確認し、保存もして、続きの作業にかかってた。そして、いつもなら来る由香ちゃんが来ないのが、変やと思ってるうちに、刑事がふたり現れて、お前が殺ったんか、みたいな、嫌な匂いのプンプンする質問をして、帰っていったらしい。
 守屋さんたちやろう。俺が駅で会ったのは、その後やったらしい。
 勝呂すぐろは怒っていた。俺が由香ちゃん殺すわけない言うて。同じCG科の友達やし、組んで作品も作ってる。仲間やねん。それにもし、殺すようなことがあっても、大学でやるアホがいてますか。もっとバレにくいところでやるわ。そうでしょ、先輩。刑事にも、そう言うてやったんですよ、俺は。
 勝呂すぐろはカチカチとマウスをクリックしながら、ものすごい剣幕でそう言っていた。それが何だか焦っているようにも見え、俺は疑心暗鬼やった。疑うと、誰でも怪しく見える。あの刑事たちが、俺を犯人かという目で見てたんも、あながち批判できへん。
 お前、昨日の夜は、由香ちゃんとカラオケ行ったんか。
 なにげない風を装って、俺が訊ねると、勝呂はまたその話かという、重いため息をついた。刑事にも同じ話をしたんかもしれへん。
 行ってません。先輩が帰る言うて、出町で別れたあと、由香ちゃんは、先輩来ないんやったら、うちも帰る言うて、帰りました。そのあと俺は、他の連中と合流して飲んで、終電で大阪帰りました。
 ほんならお前、由香ちゃんに振られたんかと、俺は思わず訊いた。そして、それを訊いてから、無神経なこと訊いたと気づいて、己のあまりの痛さに、木目がプリントされた合板の長机に、思わず突っ伏した。一番訊いたらあかん奴が、一番訊いたらあかんことを訊いた。
 それに勝呂すぐろは、ちょっとムッとしただけで、淡々と答えた。
 なんで先輩もそんなこと訊くんですか。俺は別に、由香ちゃんとは何でもないです。友達です。時々、恋愛相談とか乗ってましたけど、でも、振られるとか、そういう関係やないです。
 そんなことより、腹減りましたよね、先輩と、勝呂すぐろは話題を変えた。そしてそのまま、部屋から出ていった。あとに残骸みたいになった俺を残して。
 時々な、俺は自分が非常に痛い。勝呂すぐろが言うてた答えが、ほんまのほんまやったら、まだええんやけど、もし嘘やったら、どうすんねん。由香ちゃんが実は俺が好きで、そして勝呂は由香ちゃんが好きで、昨夜振られたばっかりなんやったら、そんなこと訊いた俺はほんまに鬼畜生やで。自分でも痺れるぐらい痛い。
 戻ってきた勝呂すぐろに、なんて言おう。あいつ、ほんまに腹減って、出ていったんやろか。傷ついて逃げたんやないやろか。謝らなあかん。でも、いきなり、ごめんて言うのも変やし。変なこと聞いて、すまんかったなって、それくらいは言うべきなんとちゃうか。
 倒れたまま悶々としてた俺の横に、何か荷物がどさりと置かれる気配がして、俺は、早かったなと思った。合わせる顔がなくて、仕方なく、のそりと起きあがり、すまんな、勝呂、さっき変なこと言うて、お前の気持ちも考えんと、と謝った。
「すぐろて誰や」
 聞き慣れた意外な声に、背後から言われて、俺はぎょっとした。
 振り返ってみると、うっすら汗かいた亨が、パイプ椅子に座っている俺の後ろに立っていた。
「亨」
「アキちゃん、弁当持ってきたで。すぐろて誰や」
 なんとなく詰問する口調で睨んでくる亨の顔を、俺は見上げた。
勝呂すぐろは、CG科の後輩や。アート展の作品制作を組んでやってるうちの一人や」
「そうか。そいつは男か、それとも女か」
 亨は、詰問口調を、いっさい緩めてなかった。なんで俺、こいつに詰問されてんのや。
「男やで」
 俺が目を瞬きながらおっかなびっくり答えると、亨はまだジト目のまま、ふうっとため息をついた。
「そうか。そんなら、とりあえずはええわ」
 何がとりあえずいいのか、俺はぽかんとした。
「コーヒーとサンドイッチ持ってきたで、アキちゃん」
 急ににっこりして、亨は傍にあった椅子を引っ張りよせ、俺のすぐ傍に自分の席をとった。ちょっと近いで、お前。俺はそう思ったけど、にこにこ嬉しそうにしてる亨の顔を見たら、あんまりうるさく言うのも、どうかと思えた。
 なにより、亨の顔見て、ちょっとホッとしたんかもしれへん。
 亨は元気そうやった。死ぬようには見えへんかった。いつも通りの、にこにこ綺麗な顔で、亨が傍に座ってんのが、俺には嬉しかった。それで何となく、何も言えへんかったんや。
 亨は、いかにも嬉しそうに、荷物から魔法瓶を出してきて、俺に差し出した。
「コーヒーやで、アキちゃん。カフェイン切れる頃合いやろ。れたて熱々やで」
 にこにこして言う亨から、それを受け取りながら、俺は困った。
「熱々て。今は夏やで、亨。アイスコーヒーやろ、普通」
 俺がそんな常識について語ると、亨はガーンという顔をした。意外やったらしい。俺が家では夏でもホットコーヒーを飲んでるもんやから、外でもそうやと、こいつは思ったんやろ。
 そういえば最近、あんまりこいつと外出てなかったわ。課題もあったし、このアート展の作品作りもあったんで、土日も大学に通い詰めてて、亨は家でほったらかしやった。
「気づかへんかった……ごめんやで」
 亨は、この世の終わりみたいな顔をしてた。それが可哀想になって、俺は慌てて首を横に振った。
「いや、かまへんよ。今朝、コーヒー買うの忘れてもうてん。せやから助かったわ」
「どっかで氷もろてきたろか」
 それでも亨は健気にもそんなことを言った。可愛いやつやと、俺は内心思った。
 やばいやばい、嫌な予感がする。危険信号点灯や。しっかりしろ俺。ここは大学構内やで。勝呂すぐろもいつ戻ってくるか分からんし、教授も来るかもしれへんで。ここでこいつと、いちゃついてる場合やないで。平常心、平常心。
「いや、別に、ホットでええわ。お前も昼飯食うてないんか」
「うん。ちょっと手間取ってもうて。アキちゃんもまだか」
 勝呂すぐろはどうしたやろと思いつつ、俺は曖昧に頷いた。まだ昼飯食うてないのは本当やったから。
 そしたら亨は、すごく嬉しそうな顔をした。
「ほな一緒に食お。サンドイッチ二種類作ったで。照り焼きチキンと海老マヨと。アキちゃんどっちから食うか」
 いそいそと弁当出してくる亨は、いかにも甲斐甲斐しかった。
 俺ら新婚夫婦か。遠くからそんな自分のセルフツッコミの声がして、俺は呆然としてきた。
 誰も来ないんやったらな、それでもええんやけどな、亨。でもちょっと、まずくないか。公共の場で。
 海老マヨ、アボカド入れたで言うて、亨は今日のおすすめー、と、軽く焼いた山食にたっぷり具をはさんだサンドイッチを、俺に手渡してきた。
 にこにこしてる亨を見てると、食わなあかんような気がしてきた。食欲ない言うて、心配かけたくなかったし、それに、亨の顔見て安心したせいか、なんとなく腹減ったような気もしてきた。
 亨は自分も嬉しそうに、手製のサンドイッチを食っていた。亨はいつでも、いかにも美味そうに飯を食う。生きる上では、こいつは普通の食いもんを食わんでもええらしいけど、美味いもん食うのが趣味らしい。
 ひとりで食うと味気ないような食事も、亨と食ってると、なんでも美味いような気がしていた。亨は案外、料理が得意で、いつも何やかんや買いだしてきては、美味いもん作ってくれたし、俺はそれに甘えて、最近では全然料理なんかせえへんようになってた。
 ほんまに奥さん貰ったみたいやと、時々、ちょっと思った。そして、そう思うのは、ちょっと後ろめたい。亨にまた、俺、女の子やったらよかったのになあと、言わせそうな気がして。
 海老マヨ美味い。
 俺は心持ちしょんぼりと、亨が作ったサンドイッチを食った。
 こいつ、なんでこんな料理上手いんやろ。気になる。でも訊くと、なんか怖いこと答えるんちゃうかという気もする。どっかで別の誰かにも、海老マヨサンド作ってたことあるんかな。あるのかもしれへんな。こいつ長生きしてるらしいし。そういうこともあったやろ。焼き餅焼いても、しゃあない話や。
 それでも反射的に鬱々としてきて、俺はため息ついてた。
 そしたら、亨が顔を寄せてきて、俺の口の端をべろっと舐めた。
「うわっ……何すんねん、お前! びっくりするやないか」
 俺は椅子ごとコケそうなくらい驚いた。それでも亨はけろりとして、うっすら笑っていた。
「マヨネーズついてんで、アキちゃん。格好悪いわ」
「そんなん言うてくれたら拭くやんか。やめてくれ、ほんまに……」
 むっちゃ追いつめられてる自分を感じた。俺は、こいつに迫られると、ほんまに弱い。情けないくらい弱い。今も心臓どきどきしてる。これでこいつが、キスしてくれ言うたら、俺は98%くらいの確率で、それに逆らえない。
「キスして、アキちゃん」
 案の定なことを、亨は言った。いつのまにサンドイッチ食い終わっててん。呑んでんのか、お前は。
「無理や、俺まだサンドイッチ食ってるから」
 顔をそむけて、俺は必死で言った。それでも亨は全然めげず、うっふっふと嬉しそうに笑って、サンドイッチ持ったままの俺の膝に、容赦なく跨ってきた。
「食ってからでいいから、して。俺ここで待っといたるし」
「待たんといてくれ、頼むから。俺、ひとりやないねん。後輩が戻ってくる」
「ほんなら急いで食わな、アキちゃん。俺、キスしてもらうまで、どかへんし」
 にこにこ言っている亨は、どう見ても本気やった。どかへん言うたら、亨はどかへんねん。力ずくでどかそうったって、それは無理や。見た目華奢やのに、亨は怪力で、やろうと思えば簡単に抱き上げられる程度の体格でも、こいつが本気になれば岩のように重かった。
 今は別に、岩のようではない。見た目どおりの重さやったけど、それが膝のうえで、猛烈な存在感やった。
 亨はそこから楽しそうに、サンドイッチ食ってる俺を見下ろしていた。そして、早よ食え早よ食えと歌うように言って、噛んでる俺の頬を指でつついた。それがちょっと、可愛い。そう思う自分のアホさに打ちひしがれながら、俺は泣きそうな気分で海老マヨの最後の一口を食った。
 やっと飲み込んだのを待ちかねたように、亨は自分からキスしてきた。亨の舌からは、照り焼きの味がした。照り焼きのほうも美味い。照り焼き味の亨の舌も。
 海老マヨも美味いと、亨のほうも思ってるんか、いつもより長く、亨は舌をからめるキスをしていた。何かムラムラしてヤバいと、俺が思う寸前まで。
 そしてまた自分から唇を離して、亨はまだ鼻をくっつけたまま、熱いような息をついた。
「アキちゃん、今日は早う帰ってきてえな。俺、寂しいわ。ここんとこずっと、帰って飯食って風呂入って、ちょっとヤって寝るだけ生活やで。朝は朝で、つれないし……」
「そうやな……今日は、もう、仕事にならへんわ」
 作業はぜんぜん進んでなかった。やる気も萎え萎えや。
 由香ちゃんの死で、展示会そのものがどうなるんか、教授はまだ何も言うてこなかった。作品出す学生ひとりが死んだからいうて、展示会そのものが無くなるわけではないのかもしれへんけど、彼女と三人でやってたうちのチームについては、話は別かもしれへん。
 とにかく今日は、アートどころやない。
「大丈夫やったか、アキちゃん。守屋のおっさん来たんやろ」
 唇を寄せたまま、囁く声で亨が訊いてきた。心配げな口調やった。
「なんで知ってんねん」
「俺も出町の駅前で会うたわ。お前が殺した可能性もあるて、言われたわ」
 俺はその痛い話に、顔をしかめた。なんでそうなるねん。
「なんて言うたんや、お前」
「俺が殺したら、血も骨も残らへんて言うといたわ」
 にやにや笑っている亨の返事に、俺は眉間に皺を寄せて見上げた。
「ふざけたらあかんで、亨。調べられたら、厄介やで」
「大丈夫や、アキちゃん。もしそうなっても、俺は自分でなんとかする。アキちゃんに迷惑はかけへん」
「そういう問題やないねん、亨」
 お前がどこかに消えなあかんような事になったら、どうしようかって、俺は心配してるんや。その切なさが、なにか独りよがりに思えて、俺は目を逸らそうとした。けど、顔をそむけかけた俺に先回りして、亨はまた、唇を寄せてきた。
「俺が心配なんか、アキちゃん」
「わからへん。お前には俺の心配なんか要らんのかもしれへん。俺は、お前がいなくなるのが心配なだけやねん」
 視線の逃げ場を探して、俺の目は伏し目に泳いでた。亨は笑って、触れるだけのキスをしてきた。
「俺はどこにも行かへん。アキちゃんが傍に居らせてくれる限りは」
 そう言う亨と、俺は間近に見つめ合った。底知れないような、淡い色合いの亨の目が、すぐ目の前にあった。幻惑するような、その綺麗な目を見つめていると、なぜか悲しいような気がした。
 こいつは俺が年取って死んだあとも、このまま変わらず、ずっと生きていくんやろなあ、と思えて。そしてまた、違う誰かを好きになるんやろか。そう思うと悲しい。
「なんでそんなこと言うんや。ずっと傍にいてくれ」
 俺の脇に添えられていた亨の白い手をとって、俺はそれを握った。亨の手は、なんとなく、ひんやりとしてた。ベッドで抱き合ってるときは、燃えるように熱かったそれが、俺には懐かしく思えた。
 抱いてやると亨は、ものすごく寝乱れる。俺の名前を呼んで、その熱い手で、切なそうに抱きついてくるのが、俺には堪らなく気持ちいい。
「ずっと傍にいてええんか」
 亨は切なそうに訊いてきた。こいつは何を思ってるんやろ。見当もつかへん。
 俺は曖昧に頷いた。傍にいてくれという意味で。亨はそれに、ますます切なそうに顔をしかめて笑った。
「キスして、抱いてくれ、アキちゃん」
 そう言って、また唇を押し当ててきた亨を、拒もうという気も起きなくて、俺は亨にキスしてやり、そのまま抱きついてきた体を強く抱きかえした。亨からは、かすかに甘い果物のような汗の匂いがした。いい匂いやと思って、俺は亨の喉を貪りたくなった。何もかも貪りたい。
 でもそれは、我慢せなあかん。ここは家やないし、早く離れなあかん。こんなことするような場所やないんやで。
 そう思うと、自分の欲と理性の板挟みで、猛烈につらく、自然と眉間に深い皺が寄った。亨はそれが、悲しいみたいで、キスしながら、ふふふと苦笑する声を漏らしていた。
「お堅いなあ、アキちゃん。サンドイッチ食おか」
 唇を離して、まだ抱き合ったまま俺の額に額を擦り寄せ、亨は物分かりのいいことを言った。家では強引でも、外では聞き分けがいい。それでもこんな誘いはかけてくるけど、俺が困れば、さっと離れるのが、亨の常やった。
 亨は、がたんと音を鳴らして、元いた自分のほうの椅子に戻った。俺は気まずい恥ずかしさで、むすっとうつむいていた。濡れた唇を手で拭っていると、亨がまたかすかな笑い声を立てた。
「平気か、アキちゃん。舐めたろか」
「うるさい、俺をからかうな。黙って飯食え」
 早口に俺が説教すると、亨ははいはいと言って、大人しく二個目のサンドイッチを食い始めた。俺はそれが、恨めしかった。他に方法はないけど、なんでこんなところで俺を誘うのかと思って、亨が憎ったらしくなる。
 早よ帰ってこいて、お前は言いたいんやろ。そして、まる一日溜めた欲求不満を晴らせって。
 でも俺は、嫌なんや、今日は。だって、人ひとり死んだ日なんやで。それも俺の後輩の子や。俺ももしかしたら、何か関係ある話なのかもしれへん。
 そんな日に、俺はお前と組んずほぐれつか。どこまで狂ってんねん。俺は。
 お前はどうせ、人でなしなんやろうけど、俺は一応、れっきとした人間なんやで。道徳ってもんがあるやろ。今さらそんなこと、我に返って思っても、とっくに手遅れかもしれへんけどな。
 前に警察に呼ばれて、守屋のおっさんから、前の女が死んでた話を聞かされた日の夜も、その女の遺影を拝んだ日の夜も、俺はお前を抱いてた。何も気にせず、めちゃくちゃにやりまくってたで。
 付き合い始めて間がなかったからか、とにかくあの頃は、お前とやりたくて堪らんかった。抱き合ってないと怖くて、正気でいられんような気がするときもあった。ちょっとでも手を離したら、さっと横から、誰かに持っていかれそうで。
 今ではそれが、ちょっとばかし自信がついて、抱いてくれ言うお前を拒んでも、きっとちゃんと家で俺を待ってるって、そういうつもりでいる。でもそれは、自惚れというか、俺の根性試しかもしれへん。亨はきっと、家で待ってる。そう思って帰っても、ドア開けた先にお前がちゃんといるのを見ると、毎日猛烈にホッとする。
 そんなこと、いつまで繰り返してんのかな。
 いつか、ドア開けたら部屋が真っ暗で、お前がいないっていう日も、来るんやろうか。
 来るんやろうな、いつか。でも、お前がおっさん趣味でよかったわ。若いのでないとあかんて言われたら、俺の寿命も短いで。俺が真っ暗な部屋に呆然とする日も、そう遠くない。
 今日を楽しめばええんかな。たぶん、そうなんやろけど。俺はいろいろ考え過ぎか。
 せやけど、お前と過ごせる一日一日が、いくら惜しいからって、後輩死んだ日にもやるのは、どうやろ。でもきっと、今夜もやるんやろ。めちゃめちゃやるんやで。そういう自分が、俺は恥ずかしい。
「どしたん、アキちゃん。めちゃめちゃ暗い顔して。もう一個食わへんか。チキンも美味いで」
「食欲ないんや……」
 コーヒー飲もうと思って、俺は魔法瓶の蓋を開きながら、うっそりと答えた。暗い。我ながら。
「どないしたん。なんで落ち込むの。せっかくラブラブしたのに。幸せすぎて怖いんか」
「そんなところや」
 亨が淹れたコーヒーを飲みながら、俺は渋々答えた。熱くて美味かった。
「死んだんて、アキちゃんの何?」
 亨が唐突に、それを訊いてきた。俺はコーヒー飲みながら、顔をしかめた。
「何て。後輩やで。一緒に作品作ってたんや。毎日、この部屋でな」
「こんな狭い部屋に、ふたりっきりでか」
 亨はサンドイッチ食いながら目くじら立ててた。
「いいや。三人でや。さっき言ってた勝呂すぐろと、亡くなった中谷由香ちゃんと、俺と、三人チーム」
「ははあん、三角関係や」
 分かったような、冷ややかなジト目になって、亨は言った。アホかお前は。そういう事しか考えられへんのか。
 俺はそんな亨が嫌んなってきて、顔をそむけた。
「そんなこと考えんの、やめてくれへんか。由香ちゃんとは何でもなかったわ。それでも死んだら可哀想やねん。そういうもんや、人間心理っていうんは」
「アキちゃんは優しいからな」
「優しくないわ。俺は鬼畜やで。お前がほんまもんの鬼畜やから分からんだけや」
 くよくよ言う俺を、亨は目を細め、笑って見ていた。
「ほんなら俺とデキてて良かったやん。俺にはアキちゃんは優しい子やで。いっつも優しいで。心配せんでええよ。時たま意地悪やけどな。でもそれもまあ、味のうちやで。意地悪されたあとに優しいと、よりいっそうメラメラ燃えるっていうんか、なんて言うんかなあ、胸キュン?」
「言わんでええから」
 俺は項垂れた。
 恥ずかしいっていうより、もう、情けない。こいつの恥知らずなところが。
 でも、何やろ。いつもその強引さに、救われてる気がする。こいつは俺が好きなんや。そう思えるから、俺も安心して、お前は俺のもんやって自惚れていられる。
「俺にもコーヒー飲まして」
 笑って強請る亨に、俺は持ったままやった魔法瓶を渡した。亨はそこから飲んで、まだ薄笑いしていた。もうずいぶん見慣れてきた、綺麗な顔やった。でも、見る度いつも、綺麗やなと思う。手を伸ばして触りたくなるような白い頬も、まっすぐな長い指の手も。いつも抱いてたいと思うけど、俺はそれを我慢してる。
 我慢せんといてと亨は言うけど、我慢せんかったら一体俺はどうなるねん。際限ないわ。
 結局は、やりまくってた初めの頃と、全然変わってへん。我慢するコツを、掴んだだけで。
「あんまり深く考えへんほうがええよ、アキちゃん。考えすぎんのが、アキちゃんの悪い癖やんか。その、由香ちゃんも気の毒やったけど、事故なんやろ。運がなかったんや。アキちゃんが悩まなあかんようなことは、なんもないよ」
「俺がもっと早く来てて、助けてやれればよかったんかな」
 ずっと悶々と思ってたことを、俺は亨に言った。亨は苦笑したみたいに声もなく笑った。
「そんなん言うてたら、キリないやん。狂犬病の犬とデスマッチするんか、アキちゃんが?」
「狂犬病なんか、その犬」
 当たり前のように言う亨に引っかかって、俺は訊ねた。亨はきょとんとした。
「そらそうやろ。まともな犬やないで。普通、犬は人間食わへんで。頭おかしなってるから、人襲ったんやろ」
 亨の言うことは、なんの裏付けもないのに、きっとそうやという気がした。狂った犬が、京都の街をうろうろしてる。それが今朝、ついそこに来て、女の子ひとり食い殺していった。これはもう、放っとかれへん。何とかせなあかん。そういう気がして、俺は不思議やった。
 何とかって、何や。俺がいったい、何するっていうねん。
「その犬、どこいったんやろ。守屋のおっさんたち、ちゃんと探してんのか」
 魔法瓶の蓋閉めて机に戻し、亨は足を組んだ。パイプ椅子の背に腕を乗せて、何となくしどけないように身をよじる座り姿は、組んだ長い足が綺麗で、そのまま絵のモデルみたいやった。絵になるやつ。俺は描きたい衝動を感じて、それもまた、我慢させられた。
 お前と居ると、我慢ばっかりせなあかんから、俺はつらい。
「探してるらしいで。見つけて処分せなあかんて。教授が張り紙作って、暇なやつに張って回らせてたわ。危険な犬が出没しています、くれぐれも注意して、って」
「どないして注意すんのん。ガルル、みたいな犬に出くわしたら」
「逃げるしかないんちゃうか」
 言われてみりゃそうやと思って、俺は苦笑して答えた。逃げるしかあらへん。
「それもええけど。おかんに訊いてみたらどうや。そういう時、どうすりゃええのか」
 にやにやして、亨は教えてきた。何かを匂わせる、意味深な口調やった。
「普通の犬とちがうんか」
 亨が示唆する意味に察しがついて、俺はうっすら顔をしかめた。
 おかんは巫女や。そんなようなもんや。不思議な力を持つ舞いで、不浄を祓い、幸福を呼べるというので、人には登与様と崇められている。
 俺はその一人息子で、登与様の跡取り。皆はそう期待してるらしい。
 俺にはそんな力はあらへん。俺は長年、そう思ってきたけど、どうも、あるらしい。ただその使い方が、未だにわからへん。
 修行せなあかんえと、おかんはこの半年、ことあるごとに言ってきた。そして亨を手なずけて、何やかんや、こいつに指図してるらしい。
「普通の犬とちがうやろ。狂ってんで。それに、足が強いわ。大阪から京都まで、走ってくるようなやつやもん。人食うて、もっと強うなったかもしれへん。やばいなあ、アキちゃん。誰かが、なんとかせなあかん」
 日ノ本を、厄災より守るが、我が血筋の務め、と、おかんが亨を介して寄越してきた手記に記されていた。俺のおとんが、若い頃に書いてたもんらしい。若い頃いうても、おとんは若いまま死んだ。俺と同じ、二十一の歳にはもう、おとんは死んでた。
 せやけどその頃にはすでに、ひとかどのげきやったと、おかんは話してた。天地におわす神々の力をお借りして、戦うこともできたんや。その血を引いて生まれたんやから、あんたにもできますえと、おかんは俺を焚き付ける。
 虎の子が、猫のふりして生きていくんか。それであんたは、情けなないんか。あんたが好きでたまらんらしい、あの子を捕まえておくには、相応の力が必要どす。しきを捕らえて、満足させておくのは、うちらの務めやで。
 強いしきが必要どす。強い巫覡ふげきとして立つには。
 あの子なら、申し分ない。あんたはやっぱり、秋津の子どすなあ。うるそう言われへんでも、ちゃんと血筋の務めを果たしてます。あとはどうやって、あの子を支配するかや。
 お父さんのお書きになったものを、しっかり読んで、おきばりやすと、おかんはそう言ってよこした。電話でもメールでもない。渡された古いノートの間に、切り紙細工みたいな人型の紙ペラがはさまってて、それがはらりと床に落ち、ひょこっと立ったかと思うたら、おかんの声でぺらぺら話したんや。
 怖い。怖くてたまらん、うちのおかんが。
 紙ペラはしばらくうちにいて、亨とテレビ観てたりした。刑事ドラマ観たい言うてた。
 そのうち動かんようになったんで、亨がキッチンで焼いて、流しに捨てた。まあこれも一種の水の流れやから。トイレよかマシやんね、アキちゃんと、ちょっと悪戯っぽく言って、亨は笑っていた。
 おかんが言う、あの子って、亨のことやろ。
 俺はこいつを、捕らえようとしてるんか。捕らえて、支配して、逃げんように満足させとこうって、そういう腹なんか。自分では、そういう自覚ない。でも結局、俺は自分の血筋に操られてるだけなんか。
「なんとか、ってな……亨。おかんは、お前を戦わせろて言うてんのやで」
「そうや。それは俺も知ってんで」
 薄い笑みのまま、亨は待っている顔で俺に答えた。
「そんなこと、させられへん」
「なんでや。俺、アキちゃんの役に立つんやったら、嬉しいで。戦えいうなら、死ぬまででも戦う」
「やめてくれ、そんなん。俺はいやや。なんでお前をそんな危ない目に遭わせなあかんねん」
 俺は怖くなって、小声で答えた。それは、いかにもびびったような早口で、自分でも、逃げ腰やと思った。
「血筋の定めらしいで、アキちゃん。俺は別に、それでええよ。戦うんやったら、いっぱい抱いてくれ。力が要るんや。腹ごしらえしとかんと」
 にやりと白い歯を見せて、亨は笑った。どことなく陶酔したような、淫靡な笑みやった。
 それは今まで見たような気のしない、俺がまだ知らない亨の顔で、禍々しいような、美しさやった。
 誘うような目をして、亨は俺に何かを強請っていた。
「アートもええけど、家の仕事も大事やで、アキちゃん。悪いワンちゃん退治せな」
 亨は俺の手を握ってきて、それに頬ずりした。何となく亨は、飢えてるように見えた。俺の指から何か滴り落ちてるみたいに、亨はその見えない滴が惜しいというふうに、俺の指を銜えて吸った。
 指先に舌の感触がして、俺はなんとなく呆然とした。
 こいつはほんまに、人間やないんや。俺の精気を吸って生きてる。抱いてやらんと腹が減るんや。
 いじましいように俺の指を舐めてる亨を見て、つらいような、愛しいような気持ちがした。
「やめろ、亨。変なことすんな」
 手を取り上げると、亨は顔をそむけて、小さくはあはあと飢えたような息をしてた。
「早う帰ってきてほしい、アキちゃん。俺、我慢すんのいやや。切ないわ」
 それでも我慢はするらしい様子で、亨はくよくよ言った。
「分かった。ごめんな……ごめん」
 俺は顔をしかめたまま、亨に謝った。
 こいつは、俺と寝るのが、腹を満たすことやと思ってるらしい。
 でも、ほんまにそうやろかと、時々思う。アキちゃん抱いてくれ言うて、しなだれかかってくるときの亨は、別に必ず欲情してるわけやない。
 こいつはただ、寂しいんやないか。こいつが飢えてる精気なるもんは、ただの愛情のことなんやないかって、そういう気がするときがある。
 別にいいねん。お前が抱き合って悶えたいなら、俺もお前を悦ばせたい。でも何や、それは本体やないという気がするんや。
 愛か。と、俺は悩んだ。苦手や。それを、ストレートに表現するのは。
 でも亨、お前が欲しいのは、それなんやろ、結局。
「どしたん、アキちゃん。困った顔して」
「亨。あのな、俺はお前が好きや」
 意を決して言うと、亨はぽかんとして、それからちょっと赤くなった。
「な、なに。なんやのん、急に。俺も好きやで」
 もじもじしながら、亨はまた、にこにこしはじめた。
「寂しならんでええねん。帰ったら、久しぶりにのんびりしよか」
 うんうん、と、嬉しそうに言って、亨は擦り寄ってきた。擦り寄るな、家の外で。
 そういう言葉が舌先まで出てきたけど、俺は我慢した。言うたらあかん。亨は寂しいらしい。ちゃんと毎晩抱いてやってんのに、腹減った腹減ったって言うてるで。愛に飢えてんねん。たぶん。
 分かるけど、ここでは味見程度にしといてくれへんか。外やし。家の外なんやし。亨。
 戻ってきたらしい勝呂すぐろの、今いいですかみたいな咳払いの音をドアの外に聞いて、俺はぐんにゃり嬉しそうに甘えている亨を、必死でぐいぐい押し返した。亨は未練がましく、めそめそ言うてた。
「先輩、ツレに頼んで、おにぎり買いにいかせたんですけど。もう腹いっぱいですか」
 勝呂は、どうしたらええんかなという顔で、戸口から言った。
「いや、食う。ありがとう。すまんかったな、さっきは」
 俺はほとんど反射的に、そう答えてた。道義心が俺を喋らせてたんや。
 だって悪いやろ。せっかく昼飯を調達してきてくれたのに。気まずいやろ、食わへんかったら。
 勝呂はそれには何も答えず、コンビニの袋をさげたまま、つかつかと部屋に入ってきた。
 そして、空いてる椅子をとりあげて、どかんと俺の横に置き、亨と反対側に座った。しかもそれが。近い。
「アイスコーヒー買うてきてもらいました。駅前の、いつもの店のです」
 氷の入った、美味そうに見えるアイスコーヒーのプラスチックカップを俺の目の前に差し出して、勝呂すぐろは言った。なんとなく、お前はこれが欲しいやろと言われてるような気がした。
「おにぎり、明太子と昆布と、紅鮭でいいですよね。先輩は、和食が好きなんですよね」
 和食が好き言うところを、勝呂すぐろはむちゃくちゃ強調して言った。亨に。
 亨はゆっくりと、ガーン、みたいな顔になった。
「アキちゃん……そうなんか」
 亨はよっぽどショックだったんか、呆然とした小声で訊いてきた。
 そうやとは、言いにくかった。亨は洋食系ばっかし作るからや。たぶん得意な料理がそういう系統のばっかりなんやろ。でも別に、俺は和食でないと死ぬわけやないから。
「知らんかったんですか。変やなあ。一緒に住んでる人が知らんなんて。俺はすぐ気づいたですけどね」
 お茶もありますよ先輩、と、勝呂は愛想良く言った。
「こいつ、こいつ、なんやねん、アキちゃん……」
 頭をかかえて、亨は俺にお茶のペットボトルを見せてる勝呂のことを訊いてきた。
「CG科一年の後輩で勝呂すぐろや」
瑞希みずきって呼んでください、先輩」
 にっこりと愛想良く、勝呂は強請るみたいな口調で言った。
「いや、それは変やろ。普通は名字やろ」
 俺は動揺して、いつも勝呂に言っていることを、また言った。
「なんやねん、こいつ……」
 わなわなして、亨は身を起こし、勝呂の顔を震えてるみたいな指で指さした。
「美少年やないか!!」
 それがとんでもない俺の罪みたいに、亨は詰る口調の大声やった。
 それに勝呂は、ふっふっふっと笑った。
「美少年ですけど、何か」
 亨は口元を覆って、青い顔をしてた。亨が指さしたままの、勝呂の顔は、確かに綺麗やった。男にしとくの勿体ないみたいな、そういう系統の。しかもちょっと髪長くて、天然やいう癖のある巻き毛が、肩にかかってて、ちょっと触りたいような柔らかそうな感じやった。
 俺は何となく、気が遠くなってきた。そして、なんで気が遠いのか、なんとか考えないようにするには、どうすればええのかな、と思っていた。


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