SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

神戸編(27)β版

 大崎茂先生所蔵の太刀は、名を飛燕《ひえん》という。
 これまた、うちの水煙《すいえん》と同じく、伊勢の刀鍛冶の手によるもので、名工の技により打ち出された、神の宿る業物《わざもの》や。
 それが秋尾さんに次ぐ、大崎先生の第二の式《しき》で、秘蔵の懐刀《ふところがたな》でもある。
 大崎茂は飛燕《ひえん》を、秋津家より拝領した。大崎先生が覡《げき》として、独り立ちする時に、うちの蔵にあった幾多の名刀の中から選び出し、一振りもらってきたという、曰くつきの品や。
 その事からも分かるように、秋津の覡《げき》は代々、剣士である。それはまあ、当然の流れやろう。なんせ太刀の神である水煙が、若気の至りでうっかり興した血筋なんやしな。
 秋津の男子たるもの、幼少の頃より木剣《ぼっけん》と戯れ、長じれば道場に通って竹刀《しない》を振るい、やがて一人前になったという証として、自分と連れ添う刀剣を拝領する。当主である場合は、それが家宝の神刀・水煙《すいえん》で、それ以外の男子の場合は、代々所蔵している名刀の中から、連れ合いのおらん神さんをもらえる。
 確かにうちの実家の蔵には、訳の分からん道具類に混じって、古い刀や太刀がごろごろしていた。まさかあれ全部に、神が宿っているとは、俺は想像もしたことがなかったけども、いるというんやから、いるんやろう。
 どえらい宝の山や、うちの蔵。
 当主になるということは、通常、その霊的な資産を受け継ぐということも意味していたけども、おとん亡き後、長らく当主の座を守っていたのは、秋津登与、うちのおかんであり、もちろんおかんは女やった。
 他の家ではどうか知らんが、秋津では、女に太刀や刀は握らせへん。あくまで秋津の巫女は豊穣を祈るための存在で、斬った貼ったはせえへんねん。
 せやから、俺はおかんが蔵から刃物を持ち出してきたところなんか、見たことはないし、そこに眠っている刀剣類が、どんなもんかは、よう知らん。
 子供のころに悪さして、蔵に閉じこめられていた時には、なんとはなしに怖ろしいもんやという気がしていた。桐の箱に仕舞われた、古い刀や太刀の包みを解き、こっそり覗いてみたことはあるものの、すぐに蓋閉めて逃げた。
 何が怖かったのか、俺にはさっぱり分かってへんかったけど、たぶん俺はその武器たちの持つ霊威を恐れたんやろう。子供心にな。
 飛燕《ひえん》は美しい太刀やった。何とも言えへん絶妙の反りに、波打つ海のような刃紋《はもん》が浮かび、それに乱れかかるように、飛び交う燕《つばめ》に似た文様がある。それが名前の由来やろう。
 神速の太刀や。その切っ先は、速さにおいて水煙《すいえん》を凌ぐ。
 ただし、あまりに速いので、飛燕《ひえん》は自分を振るう剣士にうるさい。タイミングや呼吸が合わへんと、キレるらしい。怖っろしいような癇癪持ちで、気が短い。それゆえ長年、連れ合いがおらず、こう言うたらなんやけど、業物《わざもの》とはいえ難物《なんぶつ》として、ずうっとうちの蔵で、埃《ほこり》を被っていた逸品らしい。
 なんでそれが大崎先生の持ち物になったんか。
 ぶっちゃけ大崎先生は、ゴミをもろたんやと思う。大きな声では言われへんのやけど、そもそも飛燕《ひえん》がうちの蔵に収まったんも、扱いに困った持ち主が、次から次へと飛燕《ひえん》を手放し、あちこちさすらううちに、この太刀は少々、世を拗《す》ねた。本来、神通力を持つ神の太刀のはずが、剣士を死ぬまでこき使う妖刀みたいになって、あともう一歩で鬼ですよ的なところまで、煮詰まっていたらしい。
 それを、うちの何代目かの当主が引き取ってきて祀り、とりあえず蔵に突っ込んだ。そして幾星霜。飛燕《ひえん》は延々、秋津家で死蔵されてきたというわけや。
 生前、俺のおとんは絵師やったけど、もちろん剣士でもあった。高い霊力を持った優秀な覡《げき》でもあった。若い頃、いずれは神刀・水煙と、連れ添う定めではあったけども、祖父さんが存命の頃には、水煙は祖父さんのもんや。せやし、普段使いの武器が要る。
 おとんはモテモテ。蔵で唸っている神刀から、よりどりみどりのご身分で、その日の気分で得物《えもの》を替えた。今日はこの太刀、明日はこの太刀、やっぱりやめて、この刀。そんな浮気な、腰のもんの定まらん剣士やったらしい。
 その背景には、いずれ自分は水煙をモノにすんのやし、これという連れ合いがおらんほうがいいというような配慮が、あったとかなかったとか。どこまでほんまか知らん。必要にかられて、この柄《つか》、あの柄《つか》を握るものの、おとんの本命は水煙と、そういうことになっていた。
 水煙は、うちが所蔵する刀剣類の中でも、ずば抜けた霊力を持つ名刀として、君臨していたわけや。何がいいって、惚気る訳ではないけども、水煙はバランスがいい。顔のやないで。顔もええけど、剣として、太刀としてのバランスや。
 斬って良し、薙いで良し、突いて良し。重からず軽からず、独走はせず、振るう剣士の技の限界の、ちょい先くらいを引き出してくれる、ようできた剣なんや。水煙あったら他はいらん。おとんもそう思うたんやろな。正式に家を継ぐずっと前から、老衰していた祖父さんの名代で仕事するときに、借りた水煙を振るったことがあったらしいから。
 浮気者なようでいて、剣については俺のおとんは、水煙に一途であったわけやな。
 そんな状況に、静かにムカついている刀もおった。それが飛燕《ひえん》や。
 名刀ハーレムみたいな蔵に突っ込まれて、当主も若も俺には見向きもせえへん。水煙ばっかりチヤホヤしよって。祭祀は欠かさず行われ、腹は空かんものの、暇で暇でしょうがない。もういっぺん娑婆《しゃば》に出て、暴れたい。暴れたい。暴れたい……というのが、飛燕《ひえん》の抱える鬱憤で、そこへ現れたのが当時、まだ二十歳にもならん頃のヘタレの茂や。
 大崎茂は消沈していた。
 おとんが出陣し、いずれ死ぬと予言されていたところに、自分はなんと兵役検査をパスできず、従軍すらできへんかった。したくもなかったけども、したくてもできんという状況やった。大崎先生は体が弱かったし、俺が初対面のときに思ったとおり、目が見えへんのや。盲目やねん。
 大崎先生が見てんのは、ありきたりの人間の視界とはちょっと違う。霊的なものを見るための眼力は人一倍あり、その点はずば抜けてんのやけども、視力検査の、ほら、あれやん、上とか下とか右斜め上とか、あの記号が見えへんのや。紙に書いてある字も、そこに霊力のこもる何かでないと見えへん。
 それで企業の会長とかやってられんのかって?
 やってれらる。優秀な秘書が居れば。
 読むもんは秋尾さんが読んで聞かせ、書くもんは秋尾さんが書く。服も秋尾さんが着せるし、他にも何か不足があれば、何もかも狐がやってくれる。後は慣れがあれば、特に不自由なことないらしい。霊視のみの、特殊な目を持って生きててもな。
 けど兵役検査はパスでけへんかった。それは大崎茂の人生最大の汚点らしい。現代っ子の俺にはようわからん感覚やけど、その当時、従軍でけへんというのは恥やったらしいわ。皆が命がけで戦う時代に、お前は日本軍の兵士になる資格がないと言われんのは、途方もない恥やった。
 ほんま言うたら今は亡き、大崎先生のご両親が、一人息子を戦争で失いたくない一心で、やったらあかん金を動かしたらしい。血筋が絶えんように、当初、一人っ子には兵役の減免があったんや。
 しかし、それを言うなら、うちのおとんかて、たったひとりの跡取り息子やった。そのアキちゃんが行くのに、なんで俺は行かんのかと、大崎茂は悩んだらしい。
 おとんはそんな凹みまくっている大崎茂に、蔵から一振り、どれでも好きなの持っていって、秋津の家を出ろと勧めたそうや。そして独立自営の覡《げき》として、自分の家を興せと、そういうことやな。
 もともとお前は養い子、秋津の一族ではないんやし、すでに一通りの修行を終えた今、なんでこの家にぐずぐず残ってんのや。生家に帰って家を継げと、放り出されて、それっきり。
 その時、大崎茂が選んだ、というか、大崎茂を選んだのが、飛燕《ひえん》やった。当時まだ生きていた、うちの親戚のオバチャンたちは、茂に神刀をくれてやるなんてと、否定的やったらしいけど、選んだのが飛燕《ひえん》やと聞いて、飛燕《ひえん》やったらまあええかと思ったらしい。どうでもええか、と。
 せやし、飛燕《ひえん》は秋津家から出された、金属ゴミやったんや。棄《す》てられた太刀やねん。
 飛燕《ひえん》が大崎茂のどこを気に入ったかというと、どこでもない。
 ヘタレの茂にくっついていけば、忌々しい秋津の蔵を出られる。それだけのことやったようや。飛燕《ひえん》は秋津家に囚われていた神で、うちに居るのが嬉しいわけやなかったんやろな。
 そんな、なしくずしのタッグやったけども、大崎先生にとっては、その縁組みには救いがあった。
 飛燕《ひえん》はとにかく速い。めちゃめちゃ速い。神速とはまさにこのこと。ただの太刀やない。神が憑いてて、好き勝手に動こうとする太刀やねん。柄を握る剣士は、それについていくのでヒーヒーや。ついていかれへんかったらキレるしな、水煙みたいに優しくはないんやで。文字通りキレて、鎌鼬《かまいたち》のようなもんを発し、我が身を振るうヘタレ剣士を血まみれにしてくれるらしい。ヘタすると死ぬ。キレた飛燕《ひえん》は風刃で、自分の柄を握っていた剣士の首を吹っ飛ばしたこともあったらしい。ほぼ鬼や。
 ぜひ、イタチと改名することを勧めたい。そのほうが合うてる。性悪な剣やねん。
 俺ならそんな性悪の太刀には逆ギレ必至やけども、大崎先生はああ見えて、辛抱強い。そうでなきゃ、秋津家みたいな変な家で、立場の弱い養い子として暮らすのには、耐えられへんかったやろ。水煙からして大崎先生のことを、ヘタレの茂と呼び習わし、自分ちの子とは身分の違う目下のモンとして、一段低い扱いにしてきたんや。
 それに耐え、鬼道《きどう》の修行を積むうちに、大崎先生には負けず嫌いの性格と、その性格には似合わん忍耐強さと根性が、いつしか備わっていた。
 キレる飛燕《ひえん》にも、大崎先生はキレへんかった。その太刀の持つ通力を使いこなせるようになるまで、とにかく頑張った。めちゃめちゃ頑張って、我を忘れるほどに、剣の修行に打ちこんだ。
 そうでないと、耐え難いもんがあった。
 日本が戦争に負け、他国の占領を受ける時代となり、自分はそれに手も足も出ず、頼みの兄貴やったアキちゃんは死んで戻ってこない。戦後処理で、秋津家も大崎先生の実家も落ちぶれた。人々は食うや食わずやった。道ばたで親のおらん子供が死んだ。そういう悲惨な時代やった。
 その耐え難きを耐え、忍びがたきを忍ぶのに、キレる飛燕《ひえん》に付き合うて、めちゃくちゃ頑張るのは都合がよかった。
 人間、体を動かしている限り、無心になれる。なんも難しいことは考えんでええし、太刀と舞う無我の境地の中で、自分を支えられるだけの力が得られることもあるやろう。
 大崎茂はひたすら飛燕《ひえん》と舞い、戦後の日本に次から次へ湧く鬼を斬って斬って斬りまくり、その一方では生家である商家の跡取りとして、戦後の好景気に乗ったビジネスを展開。その財力によって、秋津家を支えた。秋津家をやない。秋津登与、俺のおかんを。
 認めたくはないけども。大崎先生はうちのおかんと、婚姻関係もないし、たぶん肉体関係もないんやろうけども、おかんの夫のようなもんやったんかもしれへん。少なくとも、家族であったことは確かやろう。
 出征前夜のおとんに家を出されて以来、秋津家の一員ではない建前ではあるけども、それでも大崎先生は、うちと縁を切りはせえへんかった。心では、秋津家の家族のままやった。
 それも、秋津家のではないかもしれへん。アキちゃんと、登与姫と、お蔦ちゃんのいる、その家の一員でありたいと、大崎先生は願ってたんかもしれへん。
 血の繋がった実家の親よりも、一緒に育った義兄弟たちのほうが、大崎先生にとっては親しい相手やった。それは言い換えると、特にこれといった神通力など持たない、一般人《パンピー》やった親や親類よりも、同じ鬼道《きどう》の世界を視ることのできる、秋津の子らのほうが、心底深く分かり合える相手やったんやろう。
 その気持ちは、俺にはなんとなく分かるんや。
 幼い頃から、俺には人には見えへんもんが見えてもうて、苦労した。正直言うて、寂しかったわ。自分だけが、異質な人間に思えて、心底から心を許せる相手なんて、実は一人もおらんかったんやないか。
 そこに同じような境遇の、ほとんど同い年の兄弟たちが居って、大崎先生はラッキーやった。うちの亡き親類たちは、ヘタレの茂に冷たかったらしいけど、おとんやおかんや蔦子さんは、そうやなかった。血筋の子のひとりのように、茂ちゃんを受け入れた。
 特におとんは、性格が悪かったんか、いつも偉そうで、大崎茂をからかい、お殿様面をし、時に四条河原で酔いつぶれさせて全裸《マッパ》に剥くような、悲惨な目にあわせはしたものの、基本的には優しかったらしい。友達か、兄ちゃんとして意地悪いだけで、茂は下賤《げせん》の養い子というふうに、冷たくあしらいはせえへんかった。
 偉い秋津の若殿様やという、体面を守らなあかん都合の中で、ギリギリいっぱい茂ちゃんを可愛がっていた。一緒に飯を食わせ、一緒に学ばせ、凹んでいたら励ましてやり、鬼退治にも連れていった。
 ええコンビやったと、朧《おぼろ》も言うてたやろう。確かにそうで、おとんは自分の背中を、大崎茂に守らせていた。そんなもんは必要がない時でも、それは茂の受け持ちと、自分の死角を守らせた。
 それだけ信頼していたということやろう。
 もしかしたら、おとんも、寂しかったんかもしれへん。俺と同じで。自分と同じ境遇の奴が、身近におらへんところに、大崎茂は弟みたいやったんやろう。力を合わせて家を守っていく、そんな協力者として、大崎先生の存在が、ありがたかったんやないか。秋津家の次の世代を一緒に担う、ふたりめの剣士として、大崎茂の存在が、ありがたかったんや。
 俺には生憎、そういう相手がおらんかったんで、羨ましい限りやねん。俺もずっと、子供のころから、自分にも弟がいたらええのになあと、思ってた。そしたら俺は、ひとりで家を守らんで済むやんか。
 それは弱さかもしれへん。誰かを頼りたいという。実際にはなんもしてくれへんでもええねんけど、傍に居って、血が繋がっている、俺はひとりやないと思える相手がいてくれたら、心強いねん。それを支えに頑張れる。そういう時もあるんやないか。
 しかし、おとんは、大崎先生を秋津家から出した。
 実際のところ何の血縁もない、赤の他人の大崎先生を、戦争まっただなかの、いずれは玉砕戦《ぎょくさいせん》かと噂されていた時に、秋津の覡《げき》の最後のひとりとして、残していきたくなかったんやろう。おとんは死ぬつもりでおった。そして自分が死んだ後、残された面々がどないなるか、考えたんやろう。
 おかんや、蔦子さんは、しょうがないと、おとんは思ったんやろな。何があろうが、血筋の定めや。しょうがない。しかし大崎茂は他人やないかと。なんで秋津に付き合うて、死ななあかん義理がある。ヘタレの茂は出ていけと、そういうことに決めたんやろな。
 追い出さんといてくれアキちゃんと、ヘタレの茂は蔵で泣いたらしい。水煙がそう話していたので間違いない。茂はヘタレやから、すぐ泣きよるんやと、水煙は言うてた。水煙にとってはそれは、なんちゅう情けない奴やと思えたらしい。
 せやけど、おとんはそうは思ってへんかったんやないか。
 家に残してくれと泣きつく茂ちゃんを、出ていけといって、説き伏せたらしい。
 新しい世が、もしあれば、その時こそ死力を尽くせと言うて。大崎茂を秋津家から逃がした。
 その後、大崎先生はほんまに死力を尽くしたんやろう。新しい戦後の世の中で。
 大崎先生の会社は、ただ儲かってるだけやない。戦後の日本経済の復興に、多大な貢献もしたし、今でも慈善事業とか、いろいろやってる。大崎先生はめちゃめちゃ偉そうやけど、それは実際めちゃめちゃ偉いからで、詳しく聞いたら皆も、そらしゃあないわと思うレベルや。
 大崎先生は商才もあったし、戦後向きやったんやろう。
 それでも、おとんが戦地に連れて行けば、そこで死力を尽くしたんかもしれへん。おとんと共に戦って死んだんかもしれへん。
 もしそうなってれば、戦後の日本にとっては多大な損失やったな。死なんで良かった。
 俺はそう思うけど。大崎先生はどない思ってんのかな。
 もしかしたら案外、ずっとクヨクヨしてたんかもしれへんで。朧様と同じで、あの時ついていって、一緒に死んどきゃよかったと、後悔していた一人やったんかもしれへん。
 そこをつつくと、藪蛇になりそうなんで、俺は誰にも訊いたことない。大崎先生本人にはもちろんやけども、おとんにも、秋尾さんにも、誰にもや。
 けど、そこにはたぶん何か、気軽につっついたらあかんような、秘められた物語がある。モテモテの暁彦様の、昭和モテモテ伝説の、曖昧なままの淡い色した書きかけの一頁みたいなもん。
 もしも日本が戦争なんかしてなくて、太平洋には艦隊はなく、おとんが平和に絵描いて、呑気なボンボン暮らしを延々と続けて行けてたら、一体どないなっていたんやろう。案外、大崎茂はいまでも秋津家の一員で、俺の戸籍上の親である本間のおじさんみたいに、ずっと嵐山の家に住んでたんかもしれへん。
 でかい会社も、会長の椅子も、飛び出す薄型テレビもなかったかもしれへんけども、それもまた人生。
 場合によっては俺は、この世に生まれてもおらんかったかもしれへんのやけども、それでも大差ない。おとんと大崎先生、アキちゃん茂ちゃんコンビが、三都の闇を守ってくれていたやろう。皆が平和に暮らせてることに変わりはなかったんやないか。
 大崎先生はほんまはずっと、そういうコースを望んでたんやないやろか。子供のころから、ほんまはずっと、腹立つ兄貴のアキちゃんと、時々ふたりで鬼退治して、時々ふたりで絵描いて、時々、祇園で羽目はずす、そういう時代が永遠に、続けばええなあと思ってたんやないか。
 大崎先生がなんで俺に、平安コスなんかさせたんか。ほんまになんでやねんて思い出すたび目眩《めまい》してくんのやけども、亨はそれは、おとんコスを朧《おぼろ》に見せてやって、ちょっと萌え萌えー、癒やされるやろ? みたいな話ちゃうんかって言うんや。
 でも、ほんまにそうかな。俺はちらっと思うんやけど。大崎先生は単に自分が見たかったんやないか。俺がおとんの服着てるとこ。つまりは懐かしいアキちゃんの幻影を。黒い平安服着て水煙を振るう、秋津の当主で三都の巫覡《ふげき》の王様の、二十一歳やったアキちゃんの続きを、見たかっただけなんやないかな。
 なんでおとんは、そんなにモテモテなんやろう。俺と同じ顔やのに。通力なんかたぶん俺のほうが上やのに。モテモテ度で勝ててないような気がすんねんけど、なんでやろう。何が足らんの、ジュニアには。
 別にモテへんでもかまへんのやけど。俺には亨が居るんやし、大崎先生にモテたかて微妙すぎ。せやし別にかまへんのやけど。気になるな。何が違うんや、俺とおとんは。
 いざ出陣、という段に至り、ヴィラ北野の中庭に、水煙を携え平安コスで立つ俺を見て、大崎先生はものすご険しい顔つきやった。じろじろ見られた。ファッションチェックのおすぎやピーコでも、そこまで俺をガン見はせえへんやろう。
「違うな。しょせんは猿真似か……」
 フッ、みたいに笑って言われた。爺さんに。
「おかしいなあ、本間の暁彦。顔はそっくり同じみたいやのに、アキちゃんと同じ服着てて、同じ太刀まで持ってんのに、一体なにが違うんやろか」
 あかんなあ、みたいな批評を垂れて、大崎先生は首を振っていた。その手には、鞘から抜き放たれた例の妖刀・飛燕《ひえん》が握られていた。
 あぜんと眺める俺の目の前で、大崎先生の右手に握られていた太刀はぐにゃりと姿を変え、にょろっと細長い、銀色の滑らかな毛皮をまとった、四つ足の小動物に変身していた。そいつは大崎先生の黒絹の服を容赦なく引っ掻いて肩口まで登り、赤い血のような目で、じいっと俺を見た。
「なんやねん、これが秋津の坊《ぼん》か」
 キンキン甲高く響く、金属質の声で、そのイタチみたいな動物が言った。
 やっぱりイタチやないかと、俺は思った。
「貧相やなあ、茂。お前のほうがマシや」
 キンキン嘲るように、イタチは俺に嫌みを言っていた。
「あのまま秋津の蔵に残らんといてよかったわ。こんなんの持ち物になってたんかと思うと、つくづく気が滅入るわあ……」
 イッヒッヒッヒッといかにも楽しそうに笑い、イタチはじとっと嫌みったらしく俺のほうを流し見た。いや、俺やのうて、俺の手に握られている、太刀に戻った水煙のほうを。
「気の毒やなあ、水煙。こんなしょうもない餓鬼んちょの太刀になってもうて。ほんま可哀想やわなあ。イッヒッヒッヒッ」
 言いながら笑う、飛燕《ひえん》はほんまに気味が良いらしかった。それを淡々と眺め、水煙はちょっと、失笑したっぽかった。
「久しぶりやな、飛燕《ひえん》。刃こぼれもないようで何よりや」
「刃こぼれなんぞあるわけあるかい! 俺もさんざん血を吸うたからな。お前がどこぞで寝とる間に、俺はずうっとご活躍やったんや。今さらのこのこ戻ってきやがって、偉そな面《つら》はさせへんで!」
 いきなりブチキレ口調になって、イタチは言うてた。イタチやないわ。飛燕《ひえん》。
「何を言うんや、このイタチが」
 極めてさらりと、水煙は答えた。その瞬間、飛燕《ひえん》の全身の毛が逆立って、ハリネズミみたいになっていた。
「誰がイタチや、もういっぺん言うてみろ、このグニャグニャ野郎」
 ぷんすか怒っているハリネズミみたいになったイタチが、大崎先生の肩の上で、ぴょんぴょん跳ねてた。腹立ってもうて、じっとしてられへんみたいやった。それを大崎先生は迷惑そうに首を倒して斜に見ていた。
 客観的に見ても、どうしようもない懐刀《ふところがたな》やった。どうりで秘密にするわけや。今まで大崎先生が太刀を持ち出してきたような事は、いっぺんも無かったが、そらできれば出したくないわ。このイタチはな。
「どう見てもイタチや、お前は」
 水煙は極めて冷静にそう言うた。俺もそう思う。イタチに見えるに一票いれる。
「なんやとこの野郎! イカ! タコ! クラゲ!」
 飛燕《ひえん》はキイキイ言い続けていた。水煙はそれを難なくスルー。言われ慣れてるようやった。飛燕《ひえん》の小うるさい芸風は、水煙の覚えている限り、室町時代ぐらいから変わってへんらしい。まさに時代を超える小物っぷりやった。
「もう、そのくらいにしとけ、飛燕《ひえん》。これは神事なんや。不謹慎やで……」
 ほとほとうんざり、みたいなノリで、大崎先生が飛燕《ひえん》を窘《たしな》めた。ふんっ、と盛大に、飛燕《ひえん》はふんぞり返っていた。
「神事か。鯰《なまず》がまた出たそうやな。なんでや、前の神事で秋津の小娘が、うまいことやったんとちゃうかったんか。それがまたお目覚めとはなあ。あかんかったんやないんか、しょせん代打のご当主様では。登与はいくら通力があるて言うても、女子《おなご》やさかいなあ。大人しゅう、お前を婿養子にとって、家督を渡せばよかったんや」
 ぺらぺら話すイタチのキンキン声に、俺は正直むかっと来たよ。
 なんやねん、この小動物は。俺のおかんを虚仮《しけ》にしよって。女や言うても俺のおかんは、おとん亡き後の秋津家を、立派に一人で切り盛りしてきた、直系の血を継ぐ巫女なんやで。
 俺は子供のころからずうっと、おかんのことが怖かった。優しくて、美人で、いつもはんなり微笑んでいて、温《ぬく》い手した女やけども、おかんはどこか底知れなかった。黒々と澄んだ綺麗な目の奥に、俺にはわからん、この世のモノではない世界があるような気がした。
 俺はそれを恐れ、それに惹かれた。
 それはちょうど実家の蔵の、古い時の降り積もる薄暗がりで、こっそり覗いた太刀の包みの、古びた鞘から現れた白刃に、芯から身震いするときの気持ちに似てた。
 強い通力《ちから》を秘めたものと、相対した時の震えや。
 そんな女が斎主を勤めた儀式に、いったいどんな不足があったというんや。
「強情な女や。血筋がどうのこうの言うて。茂。お前やったら不足はなかったやろ。秋津の血を残すにしても、お前の血を継ぐ子を成すにしてもや。申し分のない縁組みやったやろ。登与にしたかて、どこの馬の骨とも知れん男と子を成すよりは、茂のほうがずっとええやないか。なんやねん、この坊主は。面《つら》だけは一丁前に、秋津の顔をしとるようやが、覇気《はき》のない」
 覇気ってなんやねん。このイタチが。
 まだまだブツクサ言うてる毛玉を、俺はじろっと睨んでやった。そしたらイタチは、ビクッと引いたようやった。
「な、なんやねん、小僧のくせに俺様にガン垂れよって」
 口だけ偉そうなままで、飛燕はこそこそ大崎先生の頭の後ろに丸っこくなって隠れる構えやった。それを大崎先生は、情けないという顔で耐え、横に控える秋尾さんは、かすかに項垂れ、すみませんという顔をしていた。
「アキちゃんの子や、これは。正真正銘、ほんまもんの直系の子や。登与姫はずっと、孕んどったんや。誰もそれに気がつかんかっただけで。誰の子やか、ずうっと教えてくれへんかったけど、そういうことやったんや、飛燕《ひえん》」
「な、なんと!」
 ピョーンみたいに、イタチは大崎先生の首んとこで飛び上がっていた。よっぽど驚いたらしかった。
 何が、なんと、や。なんか文句あんのかこら。
 俺はうっすら頭に来ていて、普通やったら後ろめたいはずのそのことが、何とも思われへんかった。うちの両親、実の兄妹やねんという、その異例のできごとが。
「あれとあれが子を成したんか。それでよう、お前は人の形して生まれてこれたもんや」
 不吉な化けモンでも見たように、飛燕はさらに、腰が引けてた。俺はそれに、ちょっぴり傷ついた。むかつくイタチや。
「アキちゃん、気にすることはない。生まれ持った通力にふさわしい、善行を成せばええんや。神も化けもんも、詰まるところは紙一重やで。人の世に愛されるような、行いをすればええんや」
 握った柄から、水煙に手を、握り返されたような気がした。温《ぬく》い手やった。おかんの手と同じ。
「自分で自分にかけた、覆いを脱ぐべき時やで、アキちゃん。天与の通力《ちから》を使って、人の世を救うんや。怒ったらあかん。心底怒ったらお前は、ほんまに物の怪になってしまうで」
 アキちゃん、あんたは決して、怒ったらあかんえと、おかんと同じことを、水煙が俺に諭していた。
 俺はそんなに、腹立ててたやろか。
 怒ってたかもしれへん。こんなイタチに、おかんのことを悪く言われて、ムカッと来てた。
 それに俺は、化けもんやない。皆となんも、変わらんし、ちょっと変かもしれへんけども、誰にも迷惑、かけてへんやろ。
 昔からの癖で、そう思い、俺は気付いた。
 いや、そんなことない。迷惑、かけてる。夏に狂犬病が流行った時も、あれは俺のせいやったやろ。他にもいろいろ、思い返せば、変やと思える出来事はあった。
 霊感強いとかいう、遠くから来た転校生が、たまたま俺の隣の席になり、よろしくなと愛想よく、見つめ合った瞬間に、突然泡吹いて倒れ、俺が怖いといって、またすぐ転校していった。
 俺はなんもしてへん。虐めもしてへん。それどころか、口もまともに利いてない。ただ目を合わせただけ。そやのに相手が、勝手におかしなったんや。俺がただ、見るだけで怖いと言うて。何もせんでも、俺がただ、そこにいるだけで、怖いと言うて。
 そんな無茶な言いがかりがあるかと、俺は腹立たしかったけど、なんでか知らん、皆がそれに、不思議な納得をしているらしいのを、ただじっと、黙ってやり過ごすしかなかった。
 俺はもう高校生やったし、小学生のチビのころみたいに、蔵に走って帰って、そこで泣くわけにはいかへんかったからや。
 桁外れの通力《ちから》を持つモノを、人は恐れる。それは神か、そうでなければ物の怪やからや。
 人は俺を恐れ、俺は俺を恐れる世間を恐れた。自分が人ではないと、言われているような気がして。
「行こうか、本間の暁彦」
 肩口で、じたばたしている飛燕《ひえん》をひっつかみ、大崎先生はその白銀の体を扱《しご》くようにして、また太刀に戻した。手品のようやった。
「飛燕の言うことは、気にせんでええ。こいつは口が悪いんや」
 今はもう、押し黙っている太刀を見下ろし、大崎先生は伏し目に言うた。
「しかし、ほんまのことや、坊《ぼん》。通力《ちから》のある者が、子を成すのは簡単ではない。通力《ちから》の釣り合いが取れてる相手とでないと。それに天地《あめつち》の加護がないと。せやけど通力《ちから》がありすぎても、危ないんや。人間の領分を、越えてしまう」
 中庭を抜けて、ホテルのロビーへ通じる道筋に、大崎先生は俺を促した。
 朧《おぼろ》が作った、だだっ広い異界を抜けて、現実の世界へと戻る道筋を、大崎先生は知っているようやった。爺さんの歩く数歩先に、暗いトンネルのように、別の位相へと続く道が、踏み分けられていくのが見えた。
 俺はそれに、ついていった。皆もそれに、ついていくようやった。ほんまやったら、俺がやらなあかんかったんかもしれへん、現世へ戻るための露払いを、大崎先生がしてくれていた。
 薄暗いトンネルを、抜き身の太刀を持ったまま、半身遅れて並んで歩き、俺は大崎茂の後を追った。
「登与姫は、相当の危険を冒してお前を産んだやろう」
 回想するような、ゆっくりとした声で、大崎先生はそう話した。
「秋津の跡目をとらせるんやと、お前がまだ赤ん坊やった頃には、そう言うていた。水煙は失われ、主立った一族の者たちも死に絶えたが、血筋を絶やすわけにはいかんと」
 ゆっくりと歩いていく先には、埃っぽいような闇が、待ち受けていた。外は闇夜やった。崩れ落ちたロビーに、崩落した天井と、落ちて壊れた鉄のシャンデリアが散乱していた。
「いつ頃からやったかな、登与姫が悩みだしたんは。お前が鬼道《きどう》を嫌い、その道から目を背けるもんで、登与姫もほとほと困ったんや。せやけど、お前がどうしても、つらいんやったら、家など滅びてもいいと、登与姫は言うていた」
 鋭く痩せた大崎茂の横顔は、行く先を見つめた険しい無表情やった。それが話す、おかんの話を、俺は黙って聞いていた。
「でも、それは、おかんの我が儘やないやろか、本間の暁彦。俺にもあるが……お前には、男子一生の仕事があるやろ。命がけでも、戦わなあかん戦《いくさ》が、いつもお前を待ってるんやで」
 俺を振り向き、そう言う大崎先生の肩越しに、ロビーに立っている、骸骨が見えた。まずは一体。崩れた瓦礫の上に立ち、かたかたと鳴るような、微笑めいた表情を浮かべて見えた。
「逃げても鬼は、お前を追ってくる。戦うしかないんや。背中から、斬られて死にとうなかったらな」
 肩越しに、俺を振り返って見つめ、大崎茂はにやっと笑った。
 そして俺は、異界を脱し、現実の世界へと、立ち返ってきた。ふわふわ漂うような、夢みたいやった美しいところから、土埃の漂う、真っ暗な瓦礫の中へ。
 一体どっちが現実か、瞬間ふっと、わからんようになる光景やった。
 元の美しかったヴィラ北野のロビーとは思えん。あちこち崩れてもうて、綺麗やったソファやカーペットも瓦礫に埋まり埃だらけや。生けられていた花瓶の花も、盛大に撒き散らかされ、濡れた陶器の破片が飛び散っている。
 ひどいもんやと俺は驚いた。何もかも、壊れてもうてる。中西さんが築いた完璧やった世界が、めちゃくちゃや。
 しかもそこには、骨が立っていた。朧《おぼろ》が化けてるような、麗しい骨とは違う。かさかさに乾き、古びた墓から現れたような、正真正銘、現実の人間の骨やった。とっくに死んでる。そう思えるのに、そいつは突っ立ち、こちらを見ていた。何もなくなった、がらんどうの眼窩から。
「どないしたんや。亡者がこんなところを、ほっつき歩いて」
 古い友達にでも出会うたように、大崎先生は骨に声かけた。骨はじっと、押し黙っていた。声が出えへんのやろか。喋る骸骨も幾つか見たけど、こいつは無口やと、俺は水煙の柄を握りしめて思った。
 水煙は微かにむらむらと、刀身に淡い靄をまとっていた。それが意味する所はひとつ。水煙は、臨戦態勢やった。やる気やねん。
「冥界へ戻る道がわからんようになったんか。早う戻って、成仏せなあかんやないか?」
 優しく諭すように、大崎先生は骨と話した。骨は不思議そうに、首を傾げた。
「ここは現世や。お前は迷うてる。逝くべきところへ逝って、また新しく始めなあかん。極楽へ往生してもええし、また現世に生まれ変わってくる手もあるで。いつまでそんな形《なり》で、迷うているつもりや」
 話しかけても骨は、答えへんかった。代わりに、こちらとの間合いを計るような、身構えた仕草をした。
 大崎先生は飛燕《ひえん》を握る手に、力をこめた。それでもまだ、構えはせえへんかった。
「お前は鯰《なまず》の斥候《せっこう》か。ただの亡者ではないんやな」
 大崎先生が訊ねると、骨は笑うように下顎を開き、はあ、と暗い紫の障気を吐いた。そして、じわりと一歩、前に出てくる身のこなしは、拳法か何かをやっている者の、隙のない動きやった。
「中国の武術やな。危ないですよ先生」
 いつの間にか背後にいた信太が、俺に声かけた。信太は薄暗がりでも目の醒めるような、黄色の絹を着ていた。たぶんそれは、信太が昔、異国の宮廷で身に纏っていたような、華麗な刺繍で飾られた、宮廷衣装やった。朝胞《チャンパオ》とか言うらしい。後で訊いたらな。
「鯰《なまず》は地震で死んだ人間の中から、選りすぐりを集めてるんや。狩人として。こいつらは鯰《なまず》に仕えて、年期が明けたら、下級の鬼として生きながらえられる契約やねん」
 語る信太は素手やった。武器はなんにも持ってへん。それでも歩み出てきて、俺を守るように、大崎茂と反対の側に、俺を挟んで立った。
「俺が行きましょか。あれはもう、人ではないで、先生。人殺しの鬼です。殺るしかないんや」
「まあ、待て。そう焦るな、異朝の虎よ。鬼かて聞く耳くらいは、あるかもしれへん」
 行く気まんまんの信太を止めて、大崎先生が言うた。
「見たとこお前はまだまだ、人の身やろう。今からでも遅くない。鯰《なまず》の遣いはやめにして、また人間に生まれ変わる道へ、戻ってはどうや。戻る道がわからんのやったら、俺が送ってやる」
 大崎先生が優しく言うと、骨は喋った。嗤うように、なんて言うてんのか分からん、異国の言葉で。
 それを眺めて、信太が通訳した。
「ぶっ殺す、言うてますけど? 年季明けまであと二千五十八人」
「あかんな、それは。説得失敗か」
 がっかりしたように、大崎先生は言うた。
「ていうか多分、言葉通じてませんよ。通訳します?」
 しても無駄やし、みたいなノリで、信太は面倒そうに訊ねてきた。俺にかもしれへんし、大崎先生にかもしれへん。
「神剣に斬られて死ねば、輪廻転生の輪に戻れると言って勧めろ」
 苦虫をかみつぶしたような顔で、大崎先生が信太に命じた。信太はそれに、一応頷きはしたが、納得してへん顔やった。
 それでもぺらぺらと、信太は何やよう分からん言葉で、骨に話しかけていた。たぶん中国語なんやろう。骨はやっと、聞く耳持ったような顔をして、信太のほうをじっと見ていた。
 ぺらぺら話した信太の話を聞き終えると、骨はあっさり一言、返事をした。信太はそれに、何度か頷いていてから、俺らのほうに向き直った。
「ぶっ殺す、言うてますけど?」
 気持ち変わってない。大崎先生はがくっと来てた。
「もっと熱心に説得しろ。鬼かて改心することはあるんや」
「そんなことあるやろか。見たことないですけど、そんなん」
「見たことないことないやろ。お前、朧《おぼろ》とデキとったんやろ。あれがその実例や!」
 大崎先生が叱咤すると、信太は、ええ、と異論ありげに唸った。
「怜司は鬼やで。今でも鬼やん」
「誰が鬼やねん」
 ふわあ、と漂う煙の文様が見えて、それから湊川怜司が現れた。噂をすれば影や。湊川怜司はぷかぷか煙草をふかしつつ、どこか疲れたような顔をして、信太の隣に立った。
 大崎先生の作ったトンネルは、通れて精々、2人、3人用の狭さやったんで、朧《おぼろ》はその拡張工事をしてから出てきたらしい。霊振会のメンバーは二千人以上いてるんやし、それの連れてる式神かて、けっこうな数になる。それが通り抜けられる通路でないとあかんのやからな。
「怜司、行くんか」
 軽く驚いたふうに、信太は湊川に尋ねた。
「行くよう。行かんでええなら行きたないけど、俺もくっついていって近道つくる約束やねん。襲われたらフォローよろしく」
 離れて瓦礫の中に立っている、乾いた骸骨を遠目に見つめて、湊川は気怠げに言うた。信太はそれに、ぽかんとしていた。
「フォローよろしくて、俺がお前を守らなあかんの? 本間先生も守らなあかんし、お前も守らなあかんの? そんなん聞いてない。誰か他のに援護してもらえ。啓ちゃんとか居るやろ」
「あかん。啓ちゃん忙しい」
 言うたそばから、背後の暗い通路を抜けて、ぬっと現れたでかい何かに、湊川は視線を向けた。白くてでかい、狼やった。
 俺は内心、飛び上がりそうになった。前には骨、背後には狼。それも狼のほうは、至近距離やで。ただの狼やないで、見上げるようなのやで。『もののけ姫』に出てきた、美輪明宏さんの声で喋るやつみたいなのやで。ぎゃあっ。
 と思ったが、俺が取り乱すより早く、その狼は喋った。喉の奥から漏れてくる、低く籠もったような声ではあったが、俺にも聞き覚えのある声で。
 美輪明宏さんやないで。啓太の声や。蔦子さんが侍らしている、銀髪で銀色の目した、眼鏡の式《しき》や。氷雪系!
「なに待っとうのや。早う行け、信太。後ろがつかえとうで」
 狼なっても、真面目でお堅い銀行員みたいな話しぶりやった。
 啓太は首より少し上あたりに、優雅な青い裳裾を引いた、横乗りの蔦子さんを乗せていた。長い緋色の領巾《ひれ》をはためかせ、長い髪を結い上げた蔦子さんが、白銀の狼に運ばれている姿は、あたかも古代の絵からそのまま抜け出してきた、高貴な女王様みたいやったわ。
「茂ちゃん。あんた、ええトシして、先陣を切るつもりなんどすか」
 高いところから、蔦子さんは大崎先生を咎めた。
 続々と、異界より現れてくる霊振会の面々は、皆それぞれに武器を携え、式を従えていたけども、俺らの立ってるあたりより前へは、出られへんようやった。
 骨もこちらには、近づいてくる気配がなかった。見えない緩衝地帯を挟み、こちらと向こうは向き合っていた。まるで、これから始まる試合に向けて、じりじり待っているような緊張感の中で。
「いつになく気分がええんや、お蔦ちゃん」
 蔦子さんを振り返りはせず、大崎先生は真面目くさった顔で言うてた。確かにいつになく、顔色が良かった。いつもより少し、若く見えるような気さえした。髪にも肌にも艶があった。
 きっと、とうとう、効いてきたんや。ダーキニー様の、くるくるドーンが。
「無理せんと、若いのんに任せよし。あんたは生きて祭壇に辿り着かなあんのえ」
「そう言うお蔦ちゃんも、女だてらに戦場へ、なんの用や。ついてくる気か、旦那の留守中やのに、万が一にもくたばってもうたら、竜太郎はどないすんのや」
「そん時は、そん時どすわ。うちも儀式を見届けます。心配ですのや、坊《ぼん》に全てお任せで、ずうっと後ろで武運をお祈りするだけというのではな」
 うろうろする狼の背で、蔦子さんは恐れる様子もなく言うた。薄い絹をまとっただけの、武器も持たへん丸腰やった。
 秋津の巫女は戦ったらあかんのやって。戦うたら、身が穢れると、先祖代々言い伝えられてきたらしい。豊穣の神と交感するには、身を清く保っとかなあかん。それは俗に言われるような、処女でないとあかんとか、そういう事ではのうてな、戦いや、殺しの穢れに中《あた》ったらあかんという、そういうことらしいわ。
 うちのおかんなんて、悪口言うのもあかんと、俺を躾けていた。それも身の穢れや。悲しい顔するのもあかん。怒るのもあかん。いつもにこにこ微笑んで、明るい歌歌うて、優雅に舞い踊って、綺麗な着物着とかなあかん。それが秋津の女子の嗜みなんやって。
 せやけど俺は男やしな。おかんは秋津の男子がどういうふうに躾けられるもんなんか、よう知らんかったんやろう。おとんはおらんのやし、父親代わりやったかもしれへん大崎先生かて忙しい。女手ひとつで俺を育てて、手探りで頑張ったけど、結果、結局よう分からんと、そういうことやったんやろう。
「狂骨《きょうこつ》を斬った、灰を浴びたらあかんで、お蔦ちゃん。身が穢れる」
「心配おへん。穢れたところで、かましまへん。うちにはもう竜太郎という、立派な跡取りが居りますのんや。うちが死んだかて大事《だいじ》おへんわ。それに前《さき》の震災のときには、登与ちゃんも祭壇まで連れて行ったんどすやろ。うちが行けへんわけはない」
 心なしか、張り合う口調の蔦子さんに、大崎先生はもうそれ以上、止め立てするような事はなんも言わんかった。
「ほな行こか、坊《ぼん》。あの一匹目は俺がもらうで。久々やさかいな、まずは小手調べに、ちょうどええわ」
 これで死んだら俺もほんまにヘタレもヘタレ、ヘタレの茂やでと、大崎先生は笑って言うた。苦み走った得意げな笑みやった。
「結界開くで、皆の衆。巫覡《ふげき》も式《しき》も、準備せえ」
 かたかたと、骨の笑っている音が、かすかに聞こえた。
 そして、ふっと薄膜が蕩けて消え失せるように、ひやりとした現実の空気が、流れ込んできた。
 それを待ち受けていたように、なんともいえない咆吼を、骨がとつぜん上げた。人の声とは思えへんかった。まるで鬼。人ではない、人でなしの声やった。
 大崎先生が飛燕《ひえん》を構えるのを、俺は見てへん。何か風のようなもんが、自分の隣で渦巻いたのを、一瞬感じた。その次の瞬間には、もう、大崎先生は骨と対峙していた。目にも止まらぬような速さで、突っ立っていた骨の懐に入り、振り上げた飛燕《ひえん》の白く輝く刀身を、骸骨の眉間に突き立てていた。
 かたかたと、骨はまた笑った。歯噛みしたんかもしれへんかった。
 眉間を刺し貫かれた骸骨の、まず指先が崩れた。そして、はらはらと、全身から灰を撒き散らし、骸骨の骨組みは崩れ去りながら瓦解した。最後に、真っ二つに割れた頭蓋骨だけが、はらりと別れ、それぞれ別のほうへと、瓦礫の床を転がっていった。
 破片は深い紫の、煙のような障気を吐いて、細かな塵になって霧散した。
 そうなってやっと、大崎茂は刀身に残る、闇色の澱《おり》を振り払って、こちらに向き直った。
「どうや、水煙」
 めっちゃ偉そうに、大崎先生は言うた。
 ふふん、と俺の手の中で、水煙が面白そうに笑うた。
「見事や茂。腕を上げたな」
「俺もこの六十有余年、ずっと寝とったわけやない」
 甘く褒めてる水煙の言葉に、大崎先生は得意げやった。
「そのようや。飛燕《ひえん》もとうとう、連れ合いを見つけたようやなあ」
 どこか満足げに、水煙は言うた。驚くべきことやけども、水煙は飛燕《ひえん》のことが嫌いではないらしい。それどころか、こいつは一体どないなるんやろと、ずっと心配していたらしい。
 優しいなあ、水煙はやっぱり。優しい神さんなんやないか。亨は、そんなことない、水煙はエグいて言うんやけど、そうやろか。俺の目が眩《くら》んでるだけか。
「先導役はお前に任そう。当主はまだまだ若輩やからな。茂、お前と飛燕《ひえん》、それから、雷電《らいでん》と新開浩一に、うちの坊《ぼん》と三つ巴を組ませよう」
 水煙は三人セットの陣形《フォーメーション》を提案していた。俺と師範と大崎先生。そんなトライアングル・アタックや。そして、それに加えて式《しき》が付く。大崎先生には秋尾さんがおるし、俺には信太と瑞希が。
 亨もおるやろって?
 そうやな。亨もいてる。せやけど亨は、もう俺の式神ではない。
 戦え言うたら戦える程度には、亨は強いんかもしれへん。全く戦闘能力がないという、朧《おぼろ》でさえ行くというんや。大蛇《おろち》で悪魔《サタン》の水地亨が、戦場に出て足手まといということはないわ。
 それでも亨はこの戦いに、なんの関係もない奴や。俺は亨を連れて行きたくなかった。巻き込みたくなかってん。
 そんなん、もう今さらすぎる話やけども、土壇場になってビビってもうてん。
 巫覡《ふげき》にも式《しき》にも、死者が出る戦いやと、大崎先生も言うてたやんか。その一人が亨ではないという保証はない。
 俺は、俺が死ぬのには耐えられた。それは、しょうがない。血筋の定めやと、もう何となく、割り切れていた。でも亨が死ぬのだけは、耐えられへん。そんな目にはもう二度と、亨を遭わせたくないねん。
 死ぬ時は一緒やって、約束したやないかって?
 したかな?
 したなあ。したけど、ほんま言うたら俺はずっと、亨に嘘をついていたと思う。そんなことするつもりは、最初から全然、毛頭、これっぽっちも無かったんやで。
 俺は死んでも亨だけは、なんとしてでも助かるように。俺はずっと腹の底では、そう祈ってた。誰にでもない、俺を守護する天地《あめつち》に。どうか亨だけは殺さんといてくださいと、強く祈ってた。
 俺は死ねる。ヘタレでアホなボンボンやけど。他の誰のためでもない、亨を守るためやったら、死ねると思う。それで亨は助かるんやからと思えば、死ぬのが怖いと思えへん。
 そやから亨には無事でいてもらわへんと困る。弱っちい俺が、斎主として、あるいは龍への生け贄として、なけなしの勇気を振り絞るためにも、亨は俺に守られといてもらわな困るんや。
 そんなんは、裏切りやろか。俺がずっとそんなことを考えてたなんて知ったら、亨は怒るやろうか。ずっと最後まで、行き着くとこまで一緒に行くって、約束したのに。それが俺の、嘘やったなんて。
「遅れまして申し訳ありません」
 雷電を携えた新開師匠が、人垣を押し分けて現れた。いつもの髭面に、見慣れんかんじのスーツ着た格好で、仮装パーティー並の時代祭な面々の中では、むしろ師範のほうがコスプレみたいやった。『一般人』て書いた、お題の札がさがってそうな。
「なんやその格好は。神事やぞ、宮本の」
 咎める口調で大崎先生は言い、師範は気まずそうにうつむきがちやった。
「すみません、嫁が斎服やら何やら一式、まとめて荷物に入れ忘れまして」
「そんなアホなやで。素人の女なんか娶《めと》るからや」
 それがまるで、あかん事のように、大崎先生は言うていた。
 小夜子さんは、確かに一般人。キリスト教徒で、それはちょっと一般的ではないかもしれへんけども、でも普通の世界の普通の人やで。鬼道《きどう》を行ってる俺らとは違うてる。
「申し訳ありません」
「いや、それはかまへん。そんなもんお前の自由やさかいな。ただ、なんでもうちょっと、嫁を教育せえへんのや」
 なんでせえへんの、師範。
 なんでかなんて、訊かんでもわかるやん。鬼道《きどう》の世界にどっぷりの、大崎先生にはわからんのかもしれへんけど、俺にはわかるで、なんとなく。
 言いづらいやろう、何となく。隠しておきたいやろう、ほんまのほんまの所はさ。
 うちの家業は剣道の道場やというので、済ましておきたい。まさかそれが副業で、ほんまのほんまの本業に、鬼斬る仕事をしています。そのための剣が伝家の宝刀で、それには神が宿っていますとは、言いづらい。それがただ単に、一般人には聞こえへん声で話すっていうだけの剣やったら、まだしもや。その声が囁くのが、一般的でない痺れる話やったら、気楽に嫁さんに打ち明けるような事やないやんか。
 小夜子さんは追ってきた。可愛いドレスの裾を乱して、なんや訳のわからん人やら式やらを押しのけて、新開師匠を追いかけてきた。
 いつもふわふわの巻髪が、ちょっと乱れて、小夜子さんは青い顔やった。
「浩一さん!」
 捨てないで、みたいに、小夜子さんは必死の声で師範を呼んでた。師範は困ったように、半身にそれを振り返っていたけども、何も答えず、ただ握りしめた抜き身の雷電《らいでん》を、握り直しただけやった。
 そういえば雷電も、美しい剣や。稲妻のような刃紋が踊る。通力を持って振るえば、雷鳴によって答える。
「どこへ行くの、浩一さん。私も連れて行って。置いていかないで」
 必死の体で呼びかける小夜子さんを、皆が見ていた。でかい狼の上から見下ろす蔦子さんの伏し目な視線は、冷たいまでに冷静やった。そうして見比べると、蔦子さんと小夜子さんは、おんなじ女やと言うても、全然別種の生きモンやった。小夜子さんは、可哀想なまでに通力がない。ごく普通の、可愛いらしいおばちゃんで、とてもやないけど、これから出て行く戦場へ、つれていけるような人やない。まだしも竜太郎のほうが見込みある。たとえ小夜子さんの半分も生きてないような子供でも、竜太郎はこっちの世界の人間や。
 可哀想やけど小夜子さんは、お留守番やな。亨はそういう目で、ふわふわの小夜子さんを横目に見ていた。他人事みたいに。
「ホテルで待っとれ、小夜子。明日には戻ってくる」
「どこへ行くの、こんな時に」
 なんでこんな、どえらい地震が起きて、心細い時に、自分を放っていくのかと、小夜子さんは戸惑っていた。どこへ行くんか、師範は奥さんに何も説明してへんかったんやろう。
 師範は骨と戦いにいく。死の舞踏と。そして鯰《なまず》を鎮める神事に参加する。それが覡《げき》としての、血筋の義務やったからや。
「待っといてくれ、小夜子。このホテルは安全や。ここを守るための者も残されているし、ここには危険は及ばへん」
「危険ってなに? どうやって地震から守れるの」
 真剣に訊ねている小夜子さんに、師範はちょっと笑ったように見えた。困ったなあて言うふうに。でも、よう分からへん。だって髭面なんやもん。どんな顔してんのかも、ようわからん。
「一緒にいて」
「すまん。これが俺の、仕事やねん」
 師範はすげなく、詫びていた。それでも事情を話すつもりはないみたいやった。この期に及んで、まだ黙りや。それはちょっと、薄情なんとちがいますか師範。俺ならもう、話してまうけどな。居直って。だってこれが、場合によっては今生の別れやで。なんや知らん理由で出て行った旦那が、死体になって戻ってくる。あるいは死体さえ戻ってこない。そんなん、ひどいと思わへんの?
 師範は生きて戻るつもりやったんやろ。何としても生きて戻り、小夜子さんとの、ごく普通の暮らしの続きに、戻るつもりでいた。そうせなあかんと思ってた。そうでないと、小夜子さんは可哀想や。変な旦那と結婚してもうたせいで、不幸になってまう。
 それは何としても避けなあかん。だって師範は小夜子さんを愛してんのやもん。当たり前のありがちな話やけども、俺らの世界では根性のいる話やで。普通に結婚して、普通に奥さん愛していくというのは。
 奥さんだけを、愛していくというのはな。
「景気の悪い顔すんな、縁起でもない」
 呆れたように、誰かが喋った。ビリッと痺れるような、威勢のいい声やった。
 それが誰か、俺は一瞬悩んだけども、悩むまでもない話やった。雷電や。雷電が、喋ったんや。
 そらそうやろな。水煙が喋り、飛燕が喋るんやから、雷電かて喋る。そういう剣やねん。魂が宿り、心がある。ただの鉄くずやないんや。
 師範の右手に握られていた剣が、一瞬の稲光のような閃光とともに、変転した。人型に。それはそれは気まずいような、真っ赤に灼けた色合いの、すらりと細い裸体やった。少年の。
 剣てヌードが基本なん? なんで裸なん? 水煙も、雷電も。一応言うなら飛燕もか。まあどうでもええか飛燕は。
 水煙が青鬼さんやったら、雷電は赤鬼さん。その赤い肌した、まるで華奢なような長く細い腕で、雷電は絡みつくように師範に抱きついていた。体重がないみたいに、宙に浮いてる。触れるとビリビリ痺れそうな、帯電した空気をまとって、にやにや笑っている顔は意地悪そうでな。今さら言うまでもないかもしれへんけど、美貌やった。俺はなるべく雷電の顔は見ないようにした。だって、この土壇場で何やかんやあるとヤバいから!
「久しぶりやなあ、浩一。なんやねんこの髭は。見苦しい」
 師範の髪を掴み、もう片方の手の平で、雷電は髭を蓄えた師範の頬から下顎をさわりと撫でた。その指は、優しく甘いような仕草やったのに、それでも鋭い刃やったようで、師範の顔を覆っていた髭が剃られ、その下にあった顔が露わになった。
 師範て案外、色白い。そういいうのが第一印象やったかな。こんな顔やったんや師範。子供のころからずっと、師範は髭のおっさんて、そういう印象しかなくてな、どんな顔やか、実はよう見てへんかったんかもしれへんわ。
 知らんかった。師範てけっこう、男前やったんや。いかにも和風の、切れ長の一重瞼で、色白きりりの、剣豪青年みたいやねん。
 いや、青年というにはちょっと、トシ食いすぎか。でもきっと、若い頃にはほんまに、格好良かったんやないか。まさか高校生の頃から髭面ってことはないやろ、そんなん校則で禁止やねんから。
 小夜子さんが剣道の大会で見初めた頃の師範て、きっと、乙女が一目惚れするような、格好ええ男やったんやで。
 そして師範はそれからほとんど、変わってへん。青年というには老けたかな、という程度。実年齢から見ると、異様に若い。とても小夜子さんの旦那とは思えへん。師範のほうが一応、年上のはずやけど、ヘタすると若いおかんと、その息子みたいに見える。
 そうやねん。ありがちな話やけどな、霊振会では。通力の強い者は、加齢が遅い場合がある。新開師匠もそういう一人やった。俺のおかんがめちゃめちゃ若いのと一緒や。長年血筋に降り積もった通力が、師範の肉体を常人からかけ離れたモンにしてもうてたわけ。
 そして師範は、それを隠したかった。奥さんには。自分が只人《ただびと》ではないことは、隠しておきたかったんや。
 でももうそれも、限界なんとちがうの。だってやっぱ、どう見ても変やもん。向き合って微かに呆然としてる、小夜子さんの姿と、雷電を抱いて立つ師範の姿を見比べると、その二人の間は、深くて遠い隔たりがある。
「浩一さん……?」
 あなた誰、みたいなニュアンスを含んだ声で、小夜子さんは小さく訊いた。
 それが常人の反応か。
 俺も驚きはしたけども、師範は俺が思ってるより、強い通力があるねんなあて、思った程度やったわ。なんで若いのドン引きや、とかは思わんかった。だって、そんなんもう、見慣れてもうてんのやもん。外見とトシが釣り合わんような奴ばっかりなんやで、俺の周りには。
「小夜子。戻ったら、説明する」
「今さら何を説明するんや、浩一。これは話して分かるような女やないやろ。西洋かぶれしてもうて、手前《てめえ》の家の神棚も、いっぺんも拝んだことがない。異教の女やないか」
 甘く媚びるように言うて、雷電は抱きついた師範の顎にできてた、微かな剃り傷からベロリと、遠慮もなく滲んだ血を舐めた。赤い舌やった。燃える火のような。
「お前もおとんの言うこときいて、名だたる巫女と縁組みすればよかったんや。そしたら今頃、跡取りもおったやろうし、俺かて何年も日照りに喘ぎはせえへんかった」
 切なげに、雷電は師範の耳の後ろあたりに顔を埋めてキスをした。じゃれつく猫のように。あるいは、まるで、古い古い恋人のように。
「何年も変転せえへんかったら、俺はやりかた忘れてまうわ。お前は俺に、ずうっと剣のままで居れというんか。神棚祀って鬼斬って、それで終いか、浩一。つれないなあ、お前は……」
 それで終いでない時が、あったかのような口ぶりやった。
 師範はそれにも、無表情やった。まさに鉄の無表情。甘く絡みついてくる、真っ赤に燃えた獣のような、長い巻き毛の剣の精なんか、この世に居らんかのような、平静さやった。
 実際そうかもしれへん。雷電は、この世に居らん。一般的な意味では。小夜子さんの住んでいる、一般的な位相では、剣が人型に化けたり、喋ったりすることなんか、ありえへん。だってただの道具やし、鉄なんやから。
 しかし聞くところによると、雷電も出自は隕鉄《いんてつ》らしい。ただし雷電は水煙とは違い、地面に落ちた。墜落の突風と熱で、あたりの森林をなぎ倒して焼き払い、その時受けた地球の大地との猛烈な摩擦によって、今以てなお帯電している。びりびり痺れる神さんや。
 水煙よりは随分若いが、それでも人のタイムスケールで見れば、恐ろしくトシを食っている。こいつも宇宙から来た神さんやねん。そして水煙より若い分、水煙ほどには堪え性がない。それともそれは単に、性格の問題やろか。猛烈燃えてる。
「さあ行こう、浩一。こんな、しょうもない女なんか放っておいて、俺と一戦交えよか」
 骨との戦いのことを言うてんのやろうけど、雷電の息は微かに喘いでた。技を尽くした戦いは、こいつら剣の神にとってはアレや。抱き合うて喘ぐのと同じ。水煙かて、思い通りの技が決まれば、いつも決まって、熱い熱い溜息をつく。
「浩一さん……」
 雷電は、師範の顎を引き寄せて、その唇に口付けようとした。それはさすがの師範も、無視はせえへんかった。
 避けたんや。顔を背けて、神の接吻を拒んだ。雷電はそれに、微かに顔をしかめ、師範の名を呼ぶ小夜子さんは、それに、さらに呆然として見えた。
 新開師匠は雷電を、伝家の宝刀として、お父さんから世襲したんやと思う。
 そのへん詳しく突っ込んで訊いたことはないけども、だいたいの察しは付くわ。どうせ、秋津家《うち》と大差ない事情なんやろ。
 剣豪の血筋に、剣の神が憑いていて、熱く燃えてるその神は、時々接吻を強請る。血もよこせと強請る。そして他のモンも、時には強請る。それを拒むのは非礼やないやろか。ご神刀なんやし、まして雷電は美貌の神やった。見ているだけで痺れるような。それと一体になって舞い、その刃の鋭さに震えた後に、熱い腕で甘く抱かれて、拒める奴がどんだけおるやろ。
 それには鉄の意志がいるわ。
 そして師範には、その鉄の意志があったってことやろ。
 師範は神として、雷電のことは崇めていたけど、でも小夜子さんを愛してた。祀りはしても、それだけやった。ただ、朝な夕なに拝むだけ。時には祝詞《のりと》も上げてやったかもしれへん。お前は美しい、素晴らしい神や。心から崇めてる。そう言いはするけど、師範にとっては雷電は、親から託された重荷でしかなかった。それを拒み続ける限りはな。
「因果ななぁ……」
 皮肉とも、同情ともつかん響きで、水煙がぼやいた。
 俺も水煙を、同じ境遇に追いやっているとも言える。師範ほどの鉄の意志がないだけで、結論を言えば同じやないか。水煙を蔵に片付けて、別のとばかり愛し合っている。それは正しいことか。それとも間違ってんのか。俺にはもう、ようわからん。
「そんなん、土壇場でやらんと、前もって話つけとけ、ドアホ」
 ケッと吐き捨てるように、銀色のイタチが喋った。太刀のままでやけど、もう、一遍正体見てもうたら、こまっしゃくれたイタチしか頭に浮かばへんから。何のロマンもない。
「しょうがない……浩一《こいつ》が俺とは口きかんのや。封印されてもうて、化けることもでけへん。今になってやっと、ここで一息つけた。なんや今日は、ただならぬ霊気が、漲っているようやな」
 ヤハウェ様の霊力二倍ボーナスエリアやから。この時ホテルのロビーからでは、見えてへんかったけども、神戸の上空には、全天を覆う天使たちが、手に手をとった天使の鎖が、大きな円環になって、巨大な結界を形作っていた。神戸から何者も出さず、神戸に何者も侵入させない、天使たちの神戸封鎖や。鯰《なまず》や骨を外へ漏らさず、この街の中だけで事を解決できるようにという、ヤハウェ様からの援助やな。
 かごめかごめや。皆も子供のころに遊んだことある? 俺はないなあ。あはは。アキちゃん、そんなんしてくれる友達おらへんかったから。せやけどあれには呪力があるねん。普通の人がやるだけやったら、ほんの軽いもんやけど、手を繋いで環になると、その環の内側には、特殊な位相が生まれる。結界や。それを通力の強い者がやれば、おのずと強い結界が形成される。まして霊力の塊みたいな天使たちが手を繋ぐんやから、それはそれは強力なかごめかごめや。
 どうせやったらもっと、ピンポイントの結界張ってくれたらええのに。鯰《なまず》様だけ囲い込むとかさ。どうせやったらそのまま永遠にずっと、鯰《なまず》様捕まえといてもらうとかさ。そしたら俺らも死なんで済むのに。あからんしいで。天使は長い時間、下界に降臨してられへんねん。今も上空に居るように見えるけど、あれは見えてるだけで、いくつか隣の位相に居るだけらしい。それでも大きな影響力を、人界に対して行使できるけども、永遠にずっとというわけにはいかへん。人界は天使の棲む位相やないんや。
 人界のことは、人間達でなんとかせんとな。人事を尽くして天命を待つって、昔の人も言うてるやんか。神様ヘルプは、ここぞという時にしか使えへんのや。
「剣に戻ってくれ、雷電。骨を斬りにいかなあかん」
 師範はやっと、雷電に話しかけた。それも目も見ず独り言のようやった。
 雷電はそんな仕打ちに、少々傷ついたような顔をしたけども、しょせんは式神で、使役を受けてる霊であり、雷電は新開師匠が好きらしかった。戻れと命じられたら、戻るしかない。
 また小さな雷光を閃かせ、一振りの見事な日本刀に戻った雷電は、おとなしく師匠の右手に収まっていた。それが人型に化けたことなんて、まるで悪い夢やったように。
「行ってくるわ、小夜子。堪忍してくれ」
 詫びるしかないというように、師範は詫びていた。そういう日はいつか来る。ずっと正体を秘密にしておくのは無理や。それが今日やと決めたのは、運命やのうて、師範本人やないかな。奥さんをこのホテルに連れてきた時から、師範はほんまは覚悟決めてたんやないか。俺にはそんな気がするわ。
「そんな形《なり》で行くんか。格好つかんわ。ちょっと着替えさせてやれ、秋尾」
 師範が小夜子さん好みのスーツ着てんのを、大崎先生は気に食わんかったようや。はいはい言うてる秋尾さんが、師範の右腕に触れ、あっという間に着替えさせていた。俺や大崎先生と同じ、真っ黒けの斎服に。
 それは師範にも、よう似合うてた。いかにも鬼道《きどう》の家の跡取り息子やった。
 しかし見慣れぬ姿をした旦那を、小夜子さんは気の毒なようなぼんやりした目で、悲しげに見つめてた。それを眺める亨が、ちょっと困ったように、同情の顔をしてたのを、俺は憶えてる。
「朧《おぼろ》。戦いに出るもんが皆出ていったら、もう一度結界を閉じておいてくれ。強く強く、悪いモンが入ってこんようにな」
「ええけど……それで俺が死んでもうたら、皆、出られへんようになるよ?」
「死なへんかったらええだけの話やないか」
 可笑しそうに、大崎先生は答えた。朧《おぼろ》はそれに、妙な顔をした。なんでそんな、困ったような顔すんねん。死ぬつもりやったんか、湊川。わざとやなくても、そういう事も、あるかもしれへんなあと、思ってたんか?
 残念やけども、そうはいかへん。
 湊川怜司は霊振会と契約していた。依頼された仕事を完遂するという、雇用契約や。鬼道《きどう》の世界では、契約は神聖であり、絶対的なもんなんや。人の世でもそうかもしれへんけど、最後までやるといって引き受けた仕事がある限り、それは最後までやらなあかん。そういう呪力によって、縛られている。途中で死んでもうたりする、不可抗力でもあれば別やけど、そうならへんように努力するのかて、契約者の義務やろう。
 大崎先生は、案外、機転の利く人や。
 守らなあかん人々を、湊川怜司に命じて神隠しに遭わせ、その人らを現世に連れ戻す仕事を、最後の最後に奴に残した。それで帰ってけえへんかったら、隠された人らはどないなんの。その中には、竜太郎かて居るんやで。それを無視して、お前は死ねるやろうか。永遠に出られへん、どこかの位相に、竜太郎たちを閉じこめて、そのまま消えたりできるかな。
 できるかもしれへんという疑いが、俺にはまだあったんやけど、大崎先生はそうは思うてへんかったようや。朧《おぼろ》は戻ってくる。ただ鍵を開けて、中に仕舞った人たちを、現世に連れ戻すために。そのためだけにでも、生きて戻るやろうと、信じていた。あるいはそう信じてやることが、今この神さんには必要や。なにか用事がある限り、湊川は消えはせえへんやろう。案外、律儀な奴やねん。
「朧《おぼろ》を守ってやれ、虎。秋津の坊《ぼん》には儂らがついとる。それに自分でも戦いよるやろ。水煙《すいえん》の使い手なんや、そこそこやるんやで」
 俺なんかほっとけと、大崎先生は信太に命令していた。俺の虎やのに。めっちゃご主人様みたいやった。
 信太はそれに困ったような顔をして、俺の顔色をうかがったけども、頷いて許してやると、どことなくホッとしたようやった。たぶん信太は、朧《おぼろ》が心配やったんやろう。骨との戦いのどさくさで、あっさり死んでまうんやないかって。
 確かに朧《おぼろ》はちょっと影が薄かった。なんとなく元気もなかった。無理はないけど。俺のせいかもしれへんけど。でも俺を責めんといてくれよ。おとんのせいやんか。おとんが全て悪いんやで。俺に文句言われても困りますんで!
「戦闘員は支度が整ったようや。行こか。斥候の骨がいたくらいや。外にはもう、うようよしとるやろ」
 にやにや笑うたような顔をして、大崎先生はホテルの外を透かし見ているような目やった。
「ええか、坊《ぼん》。お前は未熟者やさかいな、教えといてやるけども、これからお前がする仕事はな、正義の味方とちゃうんやで。悪事ではない、せやけど、善行でもない。お前はな、畏れ多くも天地《あめつち》の神々の、ごく自然のなさりように、差し出口を利こうというんや。それを恥と思いこそすれ、俺は偉いと思うたらあかん。よくよく自分の身を弁えて、心から祈り、そして神々の慈悲を乞うんや」
 薄い笑みのまま、大崎先生は秋津の巫覡《ふげき》の心得の、速習コースみたいなことを俺に話した。せやけどそれは、一応言うけど、俺が理解できるとは、思うてないような話しぶりで、確かに俺は、わかってへんかった。
 神を倒すのやと思うてた。鯰《なまず》という、人殺しの悪い神さんを、これから皆でやっつけんのやと。そうして神戸を救えれば、俺らはヒーローや。そういうもんやないかと、心のどこかでは思っていたやろう。
「慈悲を?」
「そうや。鬼と出会うたら、泣いて斬れ。それは神や。生きてる人間の分際で、神殺しをやろうというんや。お前の身は呪われるやろう。それによって救われる者も居るかもしれんが、それはたまたまや。自分が偉うなったと勘違いはするな」
 淡々と言われ、俺は混乱して、口ごもっていた。
 それは何? 謙虚でいろということなんか。俺はそんなに、偉そうにしてたか。そんなつもりはなかったんやけど。
 そう悩んで目の泳ぐ俺を見て、また大崎先生はにやりとしていた。
「行けば分かる」
 出陣の合図が、何かあったやろうか。俺にはわからへんかった。
 強いて言うなら、蔦子さんを乗せた白銀の狼が、天を突くような朗々と高い声で、鋭い遠吠えをした。そして奴は、雪と氷を纏い付かせたような毛皮を靡かせ、踊るような足取りで、その場から駆けだした。
 頬を凍らせるような、冷たい木枯らしが吹き付けてきて、雪狼の蹴る一歩ごとから、白い雪煙が舞った。
 不思議な絵のような一瞬やった。
 誰も一歩もその場から動いてへんのに、景色のほうが動いて見えた。くらっと頭が酩酊したようになり、瓦礫に埋もれていたヴィラ北野のロビーが遠のいて、背後にみるみる消え失せていく。閉じられるトンネルの向こう側にいるみたいに、そこに残される人やら式《しき》の姿が、暗く遠くなっていき、どこか遠い別の場所へ隠されようとしていた。
 それは朧《おぼろ》の力やったんやろう。まさに神隠しや。ヴィラ北野というホテルごと、それが元々そこにはなかったみたいに、別の位相へと切り分けられていき、これから戦おうという奴らだけが、何もないその場に残されていく。
 俺は見つめた。その取り除けられる人の群れの中には、小夜子さんもいたし、竜太郎もいた。命をかけて戦うには、竜太郎はまだ小さすぎたし、それにあいつの戦いは、もう一足先に終わっていたやろう。
 じっとこちらを見ている姿が遠のいて、小さく消え失せていく横で、なんでそこに残されたんか、不死鳥の寛太が立ちつくしていた。ぼうっと心ここにあらずの顔をした、呆けたようなその姿を、俺はじっと見つめた。そしてその横で、唖然と驚いている顔をした亨が、俺からどんどん遠くなるのを、ただじっと、黙って見送った。
 亨はなにか、叫んでたような気がする。声は聞こえへんのやけど、たぶん、アキちゃんと、俺の名前を呼んでいた。
 亨はさぞかし、びっくりしたやろう。自分も行く気で、俺の傍におったはずやのに、急に世界が違ってもうて、俺はこっちに、あいつはあっちに。俺は骨の出る戦場に。亨はホテルに。安全で無難な、中西さんもいるヴィラ北野に。そしてたとえ俺が死んでも、あいつはきっと安全やろう。あっちに居るかぎりは、俺を助けようとして、とばっちりで死ぬような事もない。
 まだ遠ざかっていっている、小さな暗い点のように見える向こう側の世界から、俺は目を背け、自分の手にある水煙の柄を、ぎゅっと握り直した。
 ええのかアキちゃん、亨を置いていってと、水煙は俺を気遣ったふうに訊ねてきたが、俺はそれには何も答えられへんかった。
 俺が亨を置いてけぼりにしたんやろうか。
 何でそういうことになったんか、ほんま言うたら分からへん。自分がどないしてそれをやってのけたんか、実を言うたら分からんねん。
 ただ俺は亨に、ついてくるなと強く念じた。ただそれだけや。
 ついてきたらお前は、骨にやられて怪我するかもしれへん。下手したら死ぬかもしれへん。俺が龍に食われる時に、龍と戦おうとするかもしれへん。そういうことになってはまずい。誰にも迷惑をかけず、綺麗に別れるんやったら今ここで、あっさり別々の道へ別れたほうが、ええ引き際やとその時には思えてん。
 それで気がついたら、そういうことに。
 現世から切り分けた、神隠しの安全地帯を閉じながら、朧《おぼろ》はじっと俺を見ていた。恨んだような、怖い目やった。それでも異界を閉じようという、与えられた仕事をやめようとはしなかった。奴は霊振会との契約に縛られていて、やめようったってやめられへんかったんやろう。
 それに、亨たったひとりのために、途中でやめてもう一回ってわけにはいかへん。さあ行くでって、手に手に武器を携えた戦闘員たちは、すでにもう、あちこちへ散る足取りで、その場から立ち去り始めていた。
 蔦子さんを乗せた狼はまだ、辺りを走り回る軽快な足取りで、舞うように駆けていて、蔦子さんが引いた裳裾や領巾《ひれ》からは、光る太陽の粉のようなものが、きらきらと散り、戦いに出ていく者たちの体にまとわりつくように飛び交っていた。それは武運を祈る蔦子さんの霊力の光で、蔦子さんが祈った天地《あめつち》の神が垂れる祝福の光でもあった。
 アキちゃんと、俺を呼んでる亨の声が、空耳のように、何度も聞こえた。俺はその声に、さよならと言うた。
 さよなら亨。これでほんまに、さよならかもしれへん。俺はもう、明日の朝には死んでんのかもしれへん。そしたらお前とはもう、会われへんけど、俺のことなんか忘れて、誰かと幸せに生きていってくれ。
 でももし俺に運があって、明日も生きてここに戻って来られたら、お前と一緒に生きていく一生の続きに、何食わぬ顔で戻ってきてもええやろか。
 俺はほんまにそうしたい。生きて戻って、またお前と出町の家で、絵描いたり飯食ったりしたい。いつも通りの平和な毎日に戻りたい。
 せやけど俺は逃げるわけにはいかへんねん。
 なんでって。そうやなあ。それはたぶん、俺が三都の巫覡《ふげき》の王やからやない?
 別に、自惚れて、そう言う訳やないんやけども。もし仮に、俺が今ここでトンズラこいたら、一体誰が俺の代わりをやれるやろ。血筋からいって、竜太郎? それはどうやろ。あいつは中一なんやで。それとも蔦子さん? それもどうやろ。おかん死んだら竜太郎が可哀想やしなあ。第一、俺は、女に庇ってもろて助かりたいとは思わへんわ。
 そんなら大崎先生か? 先生死なんでよかったわって、ちょっと前に秋尾さん喜んでたやん。それをやっぱり死んでくれなんて、さすがにちょっと気まずうて、言うに言われへん。
 一体誰が他におるやろ。その血筋に生まれついて、その座を継ぐべき立場の俺を差し置いて、他の誰が斎主をやれる?
 しょうがない。
 これは、そう……血筋の定めやねん。
 そういう妙な諦めが、俺の体の中にはあって、逃げようという気は全くせえへんかった。
 それも血筋のせいやろか。しょうがないアキちゃん、しょうがないわって、水煙はいつも言うけども、土壇場で足掻かへんのは、水煙由来の秋津の悪い癖か。
 すぱっと潔いのはええけども。往生際がよすぎんのも、どうかなあ……。それはほんまに、正しいことやったろうか。
「アキちゃん、蔦子についていけ」
 剣のままの水煙が、俺の手の中から語りかけてきた。
 俺はちょっと、ぼんやりしとったかもしれへん。これで亨と今生の別れかと思うと、頭がくらくらした。せっかく掴んだ幸せが、あっさり手の中からすりぬけていったようで、ほんまはものすご辛かった。指先が凍えるほど冷えて、脳みそが凍り付いて縮んだみたいに、頭がズキズキ痛んだ。
 俺は悲しかった。悲しいというのがどういう気持ちか、生まれて初めて知った。
 そういう俺の気持ちに察しはついてたやろうけど、水煙は亨を置いていくことには、何一つ言わへんかった。いいとも、悪いとも。
 なんでやねんと突っ込んできたのは、水煙やのうて朧《おぼろ》のほうやった。
 言われたとおり出ていこうという俺の後を追って、朧《おぼろ》は丸腰でついてきた。
「なんでや先生、なんで蛇を置いていくんや。傍から離すな言われてんのやろ」
 怒った顔して、朧《おぼろ》は鬼みたいやった。隣を歩く白い顔が、いつもに増して冷たく青ざめて見えた。
「おとんがそう言うてるだけや。言うこときかなあかん義理はない」
 俺は瓦礫を踏みしめながら、朧《おぼろ》と目を合わせる勇気のないまま答えた。
「なにか考えがあって言うてんのやないか……先生のおとんは」
 庇う口調の朧《おぼろ》は、今でもおとんの式神のようや。
「亨を生け贄にしろて言うのやろ。俺はそんなん嫌や」
 拒む俺の口ぶりは、少々意固地やったかもしれへん。なんで皆、おとんの味方すんねん。皆やないって? そうやろか……。亨を殺せという奴を、庇う奴が居るなんて、それがたとえ朧《おぼろ》でも、俺は許せへん。
 思わず恨みがましいジト目で睨むと、朧《おぼろ》は悩んだような、難しい困り顔やった。
「せやけど、龍の生け贄にって、あの子はなんやねん。そこらの蛇と違うんか? 名のある古い神さんやったんか? そんなら何で、あの子の力を信じてやらへんねん。先生が信じてやらな、あかんやないか。あの子は先生を助けたいんやで」
 朧《おぼろ》にくどくど言われながら、俺は歩いた。なんて返事をしたもんか、考えてる暇はなかった。
 目の前に迫る現実に、俺は圧倒されていた。
 真っ暗闇の街を照らす、天空からの一条の光に浮かび上がっていたのは、崩れ落ちた北野の街並みやった。
 ほんの何日か前に、亨と手繋いで歩いた北野坂。美形の小説家がやっている、緑のドアの朝飯屋。ちょっとレトロな異人館。気持ちいいジャズの流れるカフェも、全部瓦礫になっていた。
 そしてそこには、ぞっとするくらいの数の骸骨が、群がっていた。角砂糖にたかる蟻の群れのように。崩れ落ちた街の下に眠る人らの、死体にたかる禿鷹のように。
 俺は呆然とそれを眺めた。
 なんやろ、これは。こんな景色は、生まれて初めて見た。これがほんまに日本やろうか。昨日までの、お洒落で綺麗で、安全で清潔やった神戸の街やろか。
 きっとこれは、悪い夢や。
 俺はとっさに、そう思おうとした。
 でもこれは、醒めへん夢やった。そう簡単には醒めへん。
 俺が何とかせえへんかぎりは醒めへん。もっとひどい夢になる。龍がこの街にやってきて、まるごとひと呑み。誰ひとり助からへん。スッカラカンのがらんどうになって、この土地は海に呑まれる。
 その事実が急に胸に迫ってきて、体のどこか、ものすご深いところで、身震いがした。俺はたぶん、恐くて震えてたんやと思う。
 恐くてたまらへん。こんな力を持ってる神に、ただの人の子が、どないして太刀打ちできる。たったの一瞬で、この街をぶっ壊してもうた、鯰《なまず》とかいう神さんに、俺みたいなひよっ子が、のこのこ出ていって勝てるわけがない。
 勝てるわけない。
 そう、俺はまだその時点までは、神に勝とうとしてたんかもしれへん。そして、それがどんだけ愚かな考えか、やっと気づいた。崩れ落ちた街を目の当たりにして、やっと。
 せやけど、ブルッてもうてたのは、実は俺だけやったんやないか。
 言うても霊振会の人らはベテランぞろいや。なにしろ十数年前の震災の時にも、これと同じことをした。
 蔦子さんは、全然まったく動揺してへんように見えた。
 白い狼に乗って、先頭をいく蔦子さんは、確かにどことなく、うちのおかんに似てるところがあった。毅然としてて、何があろうがビビらへん。ほんま言うたらビビってんのやろけど、それを外には出さへん。秋津の女や。皆の先頭に立って、荒ぶる神と渡り合う巫女が、恐い言うてたら始まらへん。
 蔦子さんは、俺の目で見ても、まるで女神のようやった。強い霊力を発して燦然と光り、隊列を率いていた。
 何もせんでも、弱い骨はその光を恐れて、じわじわと仲間のいるほうへと逃げ去った。
 しかし何と言っても相手は多勢《たぜい》や。
 やがて、こちらとあちら、二つの群れは、霊力と霊力の押し合いが拮抗し、これより先へは進まれへんようなところまで来た。
 手練れらしい骨たちはこちらを見つめ、暗い障気をむらむらと吐いた。
 それを睨み、さらに進めと命じるふうな、蔦子さんの命令を、白い狼は拒んでいた。女主人が骨の穢れに触れるのを、啓太は拒んだんやろう。
 しかし骨は骨で、蔦子さんのふりまく金の粉を、怖がっているようやった。日輪の加護に触れると、闇の眷属である奴らは、ダメージを受ける。
 それはもちろん、こっちかて同じや。闇が濃ければ、人は蝕まれる。ゆっくりと骨まで染みこむ、地獄の毒にあてられて、死へと、冥界へと誘われる。
 まず第一の仕事は、その毒を持った障気から、神戸の街を守ることやった。そこでまだ生きていて、今まさに死のうとしている人らを、守ること。
「戦わなしかたないようどすなあ。闇の障気が濃すぎて、押し通るわけにはいかへんようどす」
 悔しげに、蔦子さんは振り向きもせず、背後に話しかけてきた。
 それは俺に言うてんのやなかった。
 たぶん俺なんか役に立たへんと、蔦子さんは始めから、割り切ってたんやないか。
「下がっときや、お蔦ちゃん」
 俺のすぐ傍で、大崎先生がゆったりと、そう言うた。その手には抜き身の飛燕《ひえん》が、ぎらぎらと光って見えた。
「行こか、坊《ぼん》。ブルってもうて動かれへんか」
 からかうような、大崎先生の口ぶりに、俺は腹が立たへんかった。なんとなく、呆然として、黙ってそれに頷いた。
 大崎先生が笑う声が、したような気がする。
「なんや、骨の数見てビビってもうたんか。しゃあないなあ、水煙《すいえん》、お前が連れてったれ」
 大崎先生が太刀を構える、鍔《つば》の鳴る音がした。それはひとつではなく、あちらこちらで同じ音がしていた。
 俺の背後で雷電《らいでん》が、低く唸るような鳴動をしていた。そこに新開先生がおったんやろう。てんでガラ空きの俺の背中を、師範が守ってくれてたわけや。
 アキちゃんと、水煙が密やかに俺に語りかけてきた。
 ビビらんでええねん。あれ全部をやっつけろという話ではない。それはお前の仕事やないし、もともと人間業ではないんや。鯰《なまず》は人を食う神や。それはどうにも避けられへん。お前は鯰《なまず》の元までいって、神と話をせなあかん。そのための道を作るための斬り合いや。お前の前に立ちふさがる骨だけを、斬ればええんや。
 俺はそれに頷いたやろか。自分のリアクションを憶えてへん。脳天まで完璧にテンパってもうてたんやな。いやあ、もう、ほんまにどんだけ青かったんやって話やで。
 せやけど事実やし言わなしゃあない。
 俺はたぶん、微かにぶるぶる震えながら、神剣・水煙に寄っかかるようにして突っ立っている青二才やった。
 きっと皆が心配げにそれを見ていた。
 俺の無様を。あるいは、かつて三都の巫覡《ふげき》の王と謳《うた》われた、秋津家の凋落を。
「大丈夫やで先輩、俺が守る」
 気づくと喋る黒い犬が、俺の足元にいた。それは勿論、瑞希やったやろう。俺の腰まで届くような、でかい犬やった。夜中に俺の血肉を食らって、こいつも成長していたらしい。
 なんで亨を置き去りにして、瑞希は連れてきたんか、俺にはようわからへん。
 いや、正直に白状すると、俺はたぶん、こいつのことなんか、忘れてもうてた。何かにつけ一杯一杯で、この時、でかくて黒い猟犬が、温かい鼻先を俺の脚に擦り寄せてくるまで、瑞希もおるわということを、忘れてた。
 堪忍してくれと、俺は瑞希の柔らかい毛並みを撫でた。指先に触れるその感覚が、俺を少し正気に戻した。そうや俺は、ひとりで戦うわけやない。霊振会の巫覡《ふげき》がわんさと居るし、その式神たちだって居る。
 俺にも居るやん、式神くらい。
 信太が俺の半歩先に立った。目の醒めるような黄色い宮廷服やった。
 あくまで眩しい男や。でもその輝くような黄色は、闇の障気のたちこめる風景の中で、神聖な光を放って見えた。
 信太はもともと絵やったらしいが、ただの絵やない。魔除けの絵やった。不吉の方角、いわゆる鬼門とかいうのから、進入してくる鬼やら邪気をやっつけるための、防衛の呪術として描かれた虎の絵でな、宮廷の守り神やったんや。
 つまり信太は生まれた時から、皇帝陛下のボディガードで、主を邪気から守るためにいた。
「先生、斥候やりましょか。道を作れと、ご命令を」
「お前が死んだら儀式はどないなんねん」
 斬り込もうという信太に、俺は案外打算的なことを言うていた。言われた信太は、にやっと笑った。悪戯っ子みたいな笑みで。
「そら困るけど、俺が死ぬわけないですよ。あれっぽっちの骨ではな。恐いのは、鯰《なまず》と龍だけや。その、おっかねえのに、急いで会いにいかなあかん」
 ご命令をと、信太は恭しく俺にお辞儀をしてみせた。胸のあたりで両手を握り、拝むように腰を折る、中国風の作法やで。
 俺はそれに、うんとかすんとか言うたやろうか。とにかく信太は行く気満々らしかった。
「お前も来い、瑞希ちゃん」
「えっ、なんで俺?」
 信太が命じると、犬がぎょっとしたふうに言うた。
「なんでって、俺ひとりやと活躍しすぎやもん」
「そんなん気にせえへんから、気にせず行ってきてください」
「いやいや、そんなん言わんと、瑞希ちゃんも一緒に行こう。骨やで、ワンワンの大好きな骨。いっぱいあるで」
「いやいや、俺は骨なんか食わへんのです」
 瑞希は俺と一緒にいたかったらしいわ。それでうだうだ言うとったんやけど、いつまでもうだうだは言うてられへんかった。
 ズバーン、みたいに水煙が怒鳴った。
「はよ行かんか、獣《けだもの》どもが、イラッとするわ! さっさと行って掃除しろ!」
 焼けた鱗《うろこ》が鳴るような、金属的な怒鳴り声やった。
 俺はそれでちょっと目が醒めた。水煙が、化けもんやということを、たぶん始めて認識した。
 ケツ叩かれた犬のように、びっくりした声で鳴き、俺の足元にまとわりついていたでかい猟犬が駆けだした。それより速い俊足で、信太も薄暗い障気の中へ、苦しむふうも全く見せず、笑った顔で突撃していった。
 軽快に走り、迎え撃つようやった骨に、信太は鮮やかな跳び蹴りを食らわしていた。その、たったの一撃で、骨は脆くも崩れ去り、信太は浴びた灰を振り払いながら、そこらの骨を手当たり次第にぶちのめしはじめた。
 まるで演舞のような、見事な武術で、信太はばったばったと骨を倒した。一昔前の香港映画でも観てるみたいやった。
 瑞希は信太の呆れるほどの強さに、びっくりしてもうたようやったけど、すぐに任務を思い出したんか、自分も骨に飛びかかっていってた。楽勝、というほどではないにしろ、骨は死ぬほど手強いわけではないらしい。むしろ、あっけないほどに、ばたばたと倒され、片っ端からさらさらと飛び散る灰になっていった。
 奴らが厄介なのは、強さというより、数のほうや。仲間がやられたと感付くやいなや、様子見していた骨どもは、一気に襲いかかってきた。辺りは突然に、乱戦の構えになった。
「いくで、アキちゃん。気を引き締めてかかれよ」
 手の中の太刀に、そう言われ、俺には頷く暇もなかった。
 水煙に操られるように、俺は乱戦の中に突撃していた。それは合図でもあり、霊振会の巫覡《ふげき》や式は、俺の背を追い一斉に戦闘を開始していた。武器を手に手に、乱戦の中で斬り合うような、合戦映画の一場面やった。
 まさか自分がそんなもんの中にいることがあるとは。人生って思いもよらへん。
 水煙は俺にとって無難な敵を選んで斬った。骨は面白いように、よう斬れた。強いのんもいるようやったけど、水煙はそういうのは他のにやらせ、俺には無難な敵ばかりを回してきた。
 どんだけ甘いねん。いつもはもっと、もっと強いのを、もっと凄いのをって、熱うなってるくせに、この時ばかりは無難路線。
 それは俺に万が一にも脱落があってはならんかったからや。
 この戦いは、俺と信太を鯰《なまず》のところまで運ぶために行われている。俺がヘタってもうたら元も子もない。それでも水煙が信太を止めへんかったのは、それだけ奴が強かったからやねん。
 なかなかやるなと、水煙は戦いながら、感嘆していた。俺がやないで。信太がやで。
 確かに信太は嘘みたいに強かった。戦いを、心底楽しむふうやった。いつもの、だるそうな男やのうて、燦然と輝くような戦場の虎やった。たぶんこっちが本来の姿で、信太はずっと、自分本来の力を発揮する場を持てずにいたんやろう。
 黄金の残像が、薄闇の中に光って見えた。それが信太の霊威やったやろう。本気出せば強い、あいつはもともと神やったんやという、朧《おぼろ》の話の意味が、俺にはそん時やっとわかった。あいつを信じてついていけば、難なく鯰《なまず》のところまで行けるやろう。俺にとっては最高の露払いやった。
「鯰《なまず》のそばへ行けば行くほど、骨はどんどん強うなる。強いのんが居るほうへ行け」
 怒鳴る声で、大崎先生が俺に教えた。
 教えられなくても、信太はどんどん、手強い敵の居るほうへと、道を切り開き始めていた。その一歩ごとに自分の死へと近づいてんのに、怯む様子も全くなかった。
「朧《おぼろ》、近道はまだ見つからへんのか」
 自分も骨と切り結びながら、大崎先生が朧《おぼろ》に訊ね、朧《おぼろ》は全く戦う気配も見せず、苛立ったふうに、いつもの煙草をふかしてた。
 骨は朧《おぼろ》を不思議そうに見たが、それはあいつも骨やったからやろう。お前は仲間なんかと、訊ねるように見つめ、そうではないと気づいたやつは、もちろん襲いかかってきた。しかしそいつらは一匹漏らさず虎に食われた。見上げるような、でっかい金色の虎が、がおー言うて飛びかかってくんのは、正直俺でも怖かった。それが味方やってわかっててもびびる。
「もうちょい先へ行けたら、地下へ伸びる道がありそうや。茂ちゃん。全員は無理やけど、儀式をやるのに主要な面子は連れて行けるやろう」
 ここではないどこかを見つめているような目つきで、朧《おぼろ》はそう話し、知らん顔して信太に守られていた。信太はそれにも知らん顔して、俺を守り、湊川怜司を守り、皆を守っていた。守護することが、やつにはほんまに性に合っているらしかった。もともとそのために描かれた絵やと言うてた。都を、その中心である王城を、そしてその主である天子様を守るための虎やというのが、やつの誇りで、一度は挫かれたそれを、再び取り戻そうとしていた。やつが守りたかった都に比べたら、今の神戸はちっぽけなもんかもしれへん。せやけど全身全霊を尽くせば守れるもんが、ここにはあって、そのために死んでくれと命じる主《あるじ》が、今は居る。それがほんまに、信太には嬉しいらしかった。
 そこはそれ、守護せよと命じられて、生まれた神の性分か。
「音楽かけよか、茂ちゃん」
 酒場で踊る気楽さで、朧《おぼろ》が訊ねた。大崎先生は骨を切り捨てながら、笑っていた。
「ええなあ、そろそろ、ひとさし舞おか」
 うんうん、と朧《おぼろ》が微笑で頷くと、そこらにあった倒れかけの電柱のてっぺんに、黒くてもじゃもじゃのダスキンみたいなのが、ぽかんぽかんと現れた。
 あれに口があるって知らんかった。そやのに黒ダスキンどもは大口あけて、突然しゃべり出した。瑞希の声で。それは宴会のときに録音されてた音みたいやった。
『えっ、そんなん言われても、俺知らないですよ。ハクション大魔王なんて』
 なんの話。水煙の柄を握り直しながら、俺は力が抜けた。骨も抜けたみたいやった。
『ええから、ええから。知らんでも歌詞出るから。適当に歌えばええから。いっしょに歌てやるやん瑞希ちゃん……はいはいマイク持つ持つ』
 むちゃくちゃ強引な口調でマイク押しつけてる朧《おぼろ》の声がして、えっそんなと争うようなノイズが混ざり、無理矢理に曲のイントロが始まっていた。

くしゃみひとつで 呼ばれたからは
それがわたしの ご主人様よ
ハ ハ ハクション大魔王
(「ハクション大魔王の歌」1969年 作詞:丘灯至夫、作曲:市川昭介)

 ハクション大魔王ていうのは、昔のアニメや。俺も実物はよう知らん。なんか昔流行ったもんらしい。そしてその主題歌が『ハクション大魔王の歌』ていう、そのまんまタイトルな歌やけども、朧《おぼろ》の好きな歌らしい。なんでそんなもんが好きなんやて訊くと、この歌はな、式神暮らしの悲哀を的確に表現した名曲なんやって。聞くと切なくなってくんのやって。
 アニメ『ハクション大魔王』に登場する魔神ハクション大魔王は、壷に囚われていて、くしゃみで召喚され、使役されるという、悲しい運命の魔物で、しかもあんまり万能ではない。むしろ役に立たないことのほうが多い。そのへんがリアルやと、やつは思うらしいねん。
 そもそも一般社会ではフィクションでしかない存在の魔神や式《しき》やいう連中から、うわっこれリアルや言われても、アニメ作った人もびっくりしはるやろけどな。式神仲間の間では、『ハクション大魔王』リアルやという話には定評があるらしい。DVDボックス持ってる奴もおるらしい。もちろん朧《おぼろ》も持ってる。ハクション大魔王の描いてあるTシャツまで持っているらしい。
 やつがそんな昭和アニメのファンやというだけでも、俺の美学がちょっと傷つくのに、まして朧《おぼろ》がハクション大魔王のTシャツ着てるときがあるなんて、チラッと想像の段階でもアウトや。
 しかもそんな衝撃的な話に、こんな緊迫の場面で出会うてしまうというのは、俺にとっては予想もせんかったような衝撃やった。斬ったはった、生きるの死ぬのの大合戦とちゃうの、これ。
 もちろん、そうや。状況はなんも変わってへん。
 実際俺の目の前で、誰だか知らん霊振会の覡《げき》が一人、ものすごい跳躍で飛びかかってきた骨に、喉首食いちぎられて死んだ。俺はそのホラー映画なみの場面に自分でもびっくりするような悲鳴を上げた。
 アホみたいな曲を聴かされて、大抵の骨はぽかんと我を忘れたようになっていたが、中には余計に激昂して、襲いかかってくる奴がいた。そいつらこそが倒さなあかん敵やった。骨の髄まで鯰《なまず》の手下の、地獄の眷属どもや。
「アキちゃん、ぼやっとするな! 来るで!」
 俺の横っ面をひっぱたくような声で、水煙が怒鳴ってきた。それで我にかえらんかったら、ちょっとヤバかったかもしれへんな。
 鋭い爪のある骨の手刀の一閃が、俺の喉首をかすめていった。焼けるような痛さがあったけど、そんなことには構ってられへん。一太刀二太刀と切り結び、俺は結局、その骨を自分では仕留められへんかった。背後におった新開師匠の助太刀が、骨の眉間をとらえ、そいつは歯噛みするようにカタカタと、歯を打ち鳴らしながら崩れ落ちていった。
 命取られるとこやった。
 冷や汗だらだら垂らしながら、俺は気がついた。
 ひとつは、今のこの骨は、神戸港の白い結婚船で戦ったやつと同じ、見慣れん体術を使うということ。
 もうひとつは、霊振会の軍勢は、骨と戦うためにやのうて、俺の護衛として戦っているということや。厳密には、俺と信太を守ってんのやろけど、信太には自分で自分を守るだけの力がある。せやのに斎主である俺には、まだそれだけの力がなかった。
 なんで俺は、この土壇場で、力が及ばんのやろ。二十一年も生きてて、いったい何をやってきたんやと、ほんまにその時、腹の底から後悔したわ。
 普通でないのが嫌やって、そんなの餓鬼臭い我が儘やったな。人にはみんな人それぞれの、自分にしかない道があったやろうに、なんで俺はその道を、もっと一生懸命歩いて来なかったんやろ。
 恥ずかしいのは、そっちのほうで、自分が人とは違うことではないやんか。
 今ここで、水煙を振るうて戦っているのが、俺やのうて、おとんやったら、きっともっと立派に、当主の努めを果たしたんやろうな。俺みたいな、ぼんくらやのうて、おとんがちゃんと生きていて、ここに立ってたら、きっともっと、俺よりずっと何倍もイケてた。きっとそうやったわって、悲しなってきて、しかもそのBGMがハクション大魔王なんやからな。泣いてええのか笑えてくんのか、もう訳わからへん。俺はほんまに情けない。情けなすぎて涙出てきそう。
「行くで、アキちゃん。嘆いとらんで進まなあかん。もう儀式は始まったんや。お前が斎主なんやで」
 水煙に叱咤激励されて、俺は頷いた。
「歌は骨に利いているようや。アホみたいやな」
 ふん、と皮肉に笑って、水煙が褒めた。確かに骨たちの多くは戦意を喪失していた。ぼうっとして、流れてくる歌を聴き、中には小躍りする骨もいた。その中には、まだ小さい子供のような骨もいるのに、俺は気づいた。
 次から次へと、俺の知らんような、どこかで聞いたような、古い歌が流れ、その歌を歌う様々な、綺麗な歌声が、瓦礫になった街に流れ流れて消えていった。
 その中には俺にもよう聞き覚えのある、亨の声もあった。俺はそれに、心のどこかで泣いた。俺がもう、二度と会うことがないかもしれん懐かしい声を聞き、うっとり酔うたようになって踊る骨たちが、もう誰も襲わんのを眺め、同じ歌を聴いて美しいと思い、同じように酔えるのに、なんで俺らは斬り合うてんのやろと、悲しくなった。
 たとえ悲しくても、斬り合いは止みはせえへん。うっとり立ちつくす骨のいる横で、怒り狂う別の骨が、こちらの喉笛を狙ってくる。それを斬らねば、こちらが斬られる。斬って斬って斬りまくらなあかん。なんでかそれが、悲しいねん。
 そういう骨には、もう耳がないんやろう。うっとりと心を蕩かすような、美しい亨の声も、迦陵頻伽《かりょうびんが》も、やつらの心には、もう響かへんのや。鬼になってる。斬るしかないんや。
 なんでなんや。なんでもっと、楽しいふうに歌歌《うと》て、のんびり平和にやっていかれへんの。なんでこの世には鬼が居るんや。なんで俺は戦わなあかんの。なんでずっと、亨とのんびり二人っきりで、だらっと暮らしてられへんのや。
 なんで俺は、あいつとずっと一緒に居られへんかったんやろう。なんでや。亨。俺を許してくれ。お前を捨ててきてもうた、俺を許してくれ。
「あいつら元は人間やないか。亡者にも踊る権利はあるやろう。歌を聞いても何も感じへんのは、ほんまもんの鬼になってもうた奴だけや」
 朧《おぼろ》がそう答えると、水煙はますます、ふふんと笑った。
「ほんならお前も鬼やないというわけや。えらい調子のええ話やなあ、朧《おぼろ》」
 俺を操り、素早い骨の眉間をとらえて討ち滅ぼしながら、水煙は甘く罵る口調で言うた。それを聞いてる朧《おぼろ》のほうは、手持ち無沙汰に立ってるだけや。
「俺は違うよ。暁彦様がそう言うとったもん」
 そう言う朧《おぼろ》は拗ねたようで、自信なさげやった。
「それがあの子の手管やないか。アホやなあ、お前も。猫なで声で口説かれて、ころっと参ってまうやなんて。それでよう、四条河原の人食い鬼が務まったもんやわ」
 そう吐き捨てて、水煙はまた戦いに戻りたいようやった。剣のやつらというのんは、どうしてこう、ときどき痛いんやろ。悪気はないんかもしれへんのやけど、刃物やからしょうがないんか。
 俺には朧《おぼろ》がどうにも可哀想に思えて、水煙に連れ去られながら、振り向き様になんとか言うた。
「お前は違うで。鬼やないで朧《おぼろ》……」
 すると俺の手を引く水煙が、ぷんぷん怒った鉄火のように熱くなり、あいつはちょっと妬いてたんかもしれへん。それでも朧《おぼろ》が微かな笑みで俺を見るのが、少しは元気があるように見えて、ほっとした。
 猫なで声で口説くぐらいで、鬼が神さんに変わるんやったら、安いモンやで、そう思わへん? そんなもんで、誰も死なんでええなら、なんぼでも口説くわ。鬼でも蛇でも、なんぼでも口説く。
 ただし、そっから先をどうしていくかが難儀やねんなぁ……。
 せやけど、それはまあ、それとしてやな……。
 俺はもう、人が死ぬのはいややねん。さっきも目の前で人が死ぬのを見た。一人二人やない。いちいち説明する間もないくらい、霊振会の巫覡《ふげき》にも脱落は出た。主の死を嘆く妖鳥の絶叫があたりに木魂していた。その弔いもせずに、俺らは行かなあかんかった。斬り合う骨も元は人やと言われれば、確かにそうで、斬り合わんですむなら、アホでもエロでも、なんであろうと俺はかまへん。
 早く鯰《なまず》の所へ行って、頼まなあかん。もう殺さんといてくれ。何とぞ宜しゅう、お頼み申しますって、拝み倒して分かってもらわなあかん。それが俺の仕事やいうんやったら、その務めを果たさなあかん。
 そう思うだけのもんが、ぐらっと来たあとの神戸にはあった。
 崩れた瓦礫を泣きながら掘っている女の子がいた。お父さん、お父さんと、女の子は祈るように瓦礫に呼びかけていた。その涙もない顔は真剣で、手は血まみれやった。そのすぐ傍には同じように、血まみれの手をした母親が、座り込んで泣いてたけども、誰も二人を助けへんかった。どの家も崩れてもうて、みんな自分の家族を掘り出すので精一杯やったからやろう。
 泣きもしてへん女の子が、おとん生きてると信じてるのは分かったが、掘り起こされてる父親が、もう死者の列に加わっていることも、俺の目には明らかやった。
 どうってことない、禿げて太ったオッサンが、瓦礫の上にちょっと浮いて、骨にがっつり肩を組まれて立ち、ぼんやり悲しそうに娘を見ていた。日頃なら、娘に口もきいてもらわれへんような、脂ぎったさっぱり冴えへんオッサンやった。
 そのオッサンが、娘がお父さん、と呼ぶたびに、無言のまま、うんうんと頷いていた。すごく悲しそうに、頷くばかりやった。
 それをどうしてやることも俺にはできへんかった。もう死んでもうたもんは、冥界の神さんのもんや。ただ黙って泣くしかなかった。抜け落ちた魂が、骨に連れ去られて飛び去るのを、ただ黙って見るほかはないんや。いかに優れた覡《げき》であっても、ただの人である限りはな。
 見ているしかない。俺らは先を急がなあかんのやから。儀式があんのやし。鯰《なまず》を鎮めなあかん。
 せやけど、どうにも見かねて、俺は骨に連れ去られようとしている女を助けた。瓦礫に押しつぶされて、体半分は見えへんかったけど、確かにまだ息はしていた。彼女を連れて行こうとしている骨は、腕に骨の赤ん坊を抱っこしていて、もうふたり、ほとんど同じ背格好の子供の骨を連れていた。
 お母さん、早く行こうよと、骨の子供が手を引くと、瓦礫に挟まれて動けへんはずの、母親らしいその女の体が、ずるずる引きずり出されてきてな、見るとその手が骨やねん。
 今まさに、逝こうとしている瞬間を目にして、俺はたぶん焦ったんやろ。助けなあかんと思って、皆がやめろというのも耳に入らず、とっさに駆けてってもうたんやろ。
 自覚は今イチ無いけども、俺には位相を渡る力があってな、その気になればあっちからこっちへ行き来できたんや。その時も必死やったし、行けたんやろうなあ、あっちのほうへ。生きてるもんの世界から、死んでるもんの世界の方へ。
 俺は慌てて駆け込んでいき、女の手を引く骨を引きはがした。やめろと言うてんのに、骨は怒って、俺に襲いかかってきたんで、斬るしかなかった。俺もそっち側の仲間になりたくなければな。
 せやけど、嫌なモンやった。いくら正当防衛でも、子供や赤ん坊の形をしたもんを斬るのは。それでも俺が助けへんかったら、その女の人は連れていかれてたやろ。亡者たちのいるほうへ。
 助かってよかったわ。俺はそう思ってたかもしれへん。何も考えてない頭でも。女の人が目を開いたときには嬉しい気がした。
 でも彼女は俺を見て、鬼の形相やった。おかしいな、普通に生きてる、普通の人間のはずやのに。なんでこんなとこに、鬼が居るんや。
 彼女は朦朧としたままの口ぶりで、譫言みたいに俺を罵った。
「この……人でなし! よくも私の子を、殺したな……ゆるさへんから……お前のことは一生、ゆるさへんからな! ゆるさへん……ゆるさへんで!」
 呪いをこめたひと睨みやった。俺は心底震え上がったよ。
 それでブルッてもうてたんかな。俺は気付かへんかった。いきり立った体術を使う骨が、俺の背中を狙ってたことなんて。
 危ないとこやった。水煙は俺を呼んだらしいが、俺は気付かへんかった。新開師匠が俺を助けにきてくれて、俺がそれに気付いたのは、師匠に斬られた骨が霧散する、不吉な暗い灰を、背中一面に浴びた瞬間やった。
 灰には嫌な臭いがした。死の臭いやった。焼け跡と、腐敗の臭いや。俺はそれに、顔をしかめた。吐きそうやった。でも、それは、冥界の臭いのせいだけやなかったかもしれへん。
「先へ行け、本間。細かいことに関わり合ってたら、お前はどこへも行かれへん」
 まだ呆然としている俺に、師匠はいつもの怒鳴り声で、檄《げき》をとばした。せやけどその顔は、俺の知らん人やった。俺が知るより、ずうっと若い。手に携えた剣は、腕に絡みつくような赤銅色の霊威を発して帯電していた。俺にはそこにはいないはずの、薄笑いする赤い肌の神が見えるようやった。
 いつもの師匠は、どこへ行ってもうたんやろう。冴えへん髭モジャのおっさんで、どうってことない、どこにでも居るような、奥さんを愛してる、普通の人となんも変わらん剣道の道場主やったのに。
「鬼道のことは、只人に説いて聞かせても、どうせ分からんのや。考えるな。考えても答えはない。お前はお前の仕事をせえ」
 師匠は俺の目を見つめて、早口にそう教えた。見つめ返す目の奥に、俺と同じ世界を視ている、闇があった。
 瓦礫にはさまれた女は、恨みの涙に泣き咽びながら、まだ俺のことを罵っていた。たぶん、この人には俺のほかに、恨めるもんがなかったんやろう。なにかを恨み、罵っていないと、耐え難いような悲しみが、その時あの場にあったんや。
 俺はそれを、全身で受けた。そうする以外に手がなくて。
 でも、ほんま言うたら俺は、感謝されたかった。助けてやったのに、なんで文句言われなあかんねん。ほっときゃよかったんか、こん畜生と思った。そうして恨むと、俺も悲しかった。自分は正義のヒーローのつもりで、人助けをしたのに、現実はそんな、単純やなかった。
 ええことしたわというオチやったはずが、俺は恨みに背を焼かれ、泣く泣く逃げなあかんかった。虚しくて、悲しかった。俺はお前らのために、神戸を助けるために、今から死ななあかんのやぞと、俺は内心ぼやいた。俺を誰やと思うとんねん。なんでそんな、俺に感謝の欠片もない奴らのために、俺は死ななあかんのや。納得でけへん。納得でけへんと、俺もたぶん、誰をともなく、恨んでいたやろう。こんなところへ俺を追いつめた、運命の悪戯を。
 この世で一番恐ろしいのんは、鬼でも蛇でもない。人間の恨みや。
 助けたつもりが、俺は浅はかやったろうか。未だにそれは、わからへんねん。それの答えは誰にもわからんと、皆、口をそろえて言うわ。鬼道には、わからへんこと、割り切れへんことばかりがあって、あれは正しい、これは間違いなんていう、学校で習う算数のようにはいかへんのや。
 自分は正しいとは、思わんことやと、大崎先生はいつも言う。いかにも、俺は正しいという面《つら》で。何が正しい行いかなんぞ、伏見の大権現さんでもわからへんと、いつも笑って言う。儂らはな、頑張ったかて誰にも褒めてはもらわれへん。只人には、見えへん世界でやる仕事やさかいな。力があれば、化けモンやと畏れられ、忌まれるだけの存在や。お前が期待しているような、正義の味方とちゃうんやでと。
「魔がさしたな、坊《ぼん》」
 俺を迎えに来たのは、その大崎茂大先生やった。
 ぽんぽん肩を叩かれて、恨みつらみで思わず棒立ちになってた俺は我に返った。
「儀式に行かなな。気持ちはわかるが、この街の死人を全部助けて回るのは無理なんや。朧《おぼろ》が近道見つけたらしいわ。そこから先はすぐやさかい、大した人手もいらへんし、余った奴らは人助けに回そうか」
 街に残れば、龍に食われて死ぬかもしれへん、そんなところに残ってくれるのんが、何人おるかはわからへんけど、頼んでみよかと、大崎先生は俺を励ました。
 俺はそれに、頷くことも、拒むこともできんまま、ただ黙りこんで、水煙の柄を握りしめていた。
 そうやった。俺が絶対に龍を止められるとは限らへんのや。逃げればまだ、助かる道はあるかもしれず、なんで霊振会の皆が逃げへんのか、そのほうが不思議なんやな。
 なんでやろう。逃げようなんて選択肢は、俺の中にももう無かった。突き進むしかないと、その時にはもう何の理由もなくそう思っていた。目の前に危機があり、それをなんとかせなあかんていうので頭がいっぱいになってて、自分だけそこからトンズラこけるかもなんてことは、一ミリも思わへんかった。それも不思議やな。
 しかしそれは、誰のためなんや。助けたところで、神戸の人らのうち何人が、俺らに感謝してくれる? 誰も知らん。誰一人、俺がなぜ死んだか、知りもせんような薄情な街で、なんで俺らが、たったひとつしかない大事な命を張らなあかんねん。
 それが虚しく、悔しい気がした。もう止めたい。俺はつらい。せやけど、俺らがもしここで引けば、鯰《なまず》は止まらへん。もっともっと、数知れんぐらいの人が死ぬやろう。俺らが命がけで守らへんかったら、この街は滅ぶ。そしてそれは俺のせいなんや。俺のせいやと、俺はそれを全部、ひとりの背に背負い込んでいた。あまりにも何もかも思い詰めすぎて、もう訳がわからんようになってもうてた。
 アキちゃんな、もうフラフラやねん。もう、フラッフラ。もう頭フラッフラでな、なぁんも分からんようになってもうててん。ただもう、必死。必死。必死やねんなぁ。
 おかしいやろ。傍目に見てると。俺もおかしいよ。後になって思えば。
 そやけど、そのまっただ中では真剣そのものやん。俺の目も血走るよ。なんや、よう分からん火が燃えていた。どこかで出た火が、消すための水もなく街を舐めていく。家も人も全部燃えてまう。瓦礫から吐き出される土埃も、すごいもんやった。もうもうたる粉塵の中で、みんな真っ赤な目をしていたよ。まるで一晩ずっと泣いてたみたいな赤い目や。
 戻ると、霊振会の巫覡は円陣を組んでいた。その中央で、蔦子さんが舞っているのを、俺は見た。長い領巾《ひれ》を、赤い尾鰭のように、ひらひらとはためかせて踊る、青い衣をまとった蔦子さん姿は、なんでか俺には人魚のように見えた。
 秋津の巫女が舞う姿を、俺はそのとき初めて見たんやと思う。おかんは俺に、舞うところを見せてはくれへんかったし、秋津家に残る舞い手はもう、おかんと蔦子さんの二人っきりや。
 蔦子さんがふわふわと優雅に舞って、華麗に地を踏むと、そこから水が湧いた。まるで噴水の中で踊っているみたいやった。
 六甲山から下ってくる地下水が、神戸の街には縦横に走っている。蔦子さんは、その水脈を見つけ、舞いによって地下の水霊に働きかけたらしいわ。そんなん、ひとくちに言われてもな。そんなんできんのや。すごいな、うちの親戚。ほんまに、ただモンやない。
 人も人でなしも、蔦子さんの神通力のお陰で、乾いた喉を潤すことができた。俺も冷や水を頭っから浴びて、ちょっとは目が醒めたわ。神戸の水はめちゃめちゃ冷たかった。六甲山の雪解け水やからな。
 そうして人心地つき、数を数えると、霊振会の巫覡《ふげき》の数は減っていた。死んだか、はぐれたか、逃げたのかは知らん。とにかく、五人に一人は消えた計算やった。
 それについては、誰も驚きもせず、嘆きもせえへんかった。俺らはそんなことをするために、ここに円陣を組んだわけではないらしい。
 朧《おぼろ》が近道を見つけたんや。大崎先生がそう言うてたやろう。
 そこは、見た目はただの、公園やった。どこにでもあるような。せやから俺らは、公園にたむろっている、見るからに怪しい霊能者の群れやった。もっともそんなこと、わざわざ見とがめる人もおらへん。なんでかな。その公園には、普通の人らもいっぱい居ったんやで。崩れた家や、火から逃れて、開けた公園に座り込んでいる人たちが、いっぱい居った。
 ただ、俺らとその人らとは、ちょっとばかり違う位相におったんやないか。蔦子さんの舞いによって湧いた水は、向こう側には見えてへんかったけど、でも、水道管が壊れて断水していた水飲み場の水道から、突然、水が出るようになった。
 奇跡やというて、向こう側の人らは喜んでいた。なんせ断水してもうたら、飲み水もないんや。みんな喜んで、その出所の怪しい水を、平気で飲んでいた。それで生き返ったようやった。そういう人らの様子を、舞い終えた蔦子さんは、満足げに見ていた。自分が起こした奇蹟が、人々を救うのを。そして救われた人の誰一人、自分に感謝せえへんのを、平気で笑って眺めていた。
 俺はそれに、ちょっと凹んだ。俺って、甘い? 甘いかな、アキちゃんは。ありがとう言うてくれと思うほうが間違ってんのかな? しょせん、蔦子さんとは年期がちゃうな。ごめん、アキちゃん自意識過剰やねん。ええことしたら褒めてもらいたいねん。ようやったアキちゃんええ子やなぁ言うてもらいたいねん。
 どうせ餓鬼やねん俺は。自分のことだけで頭がいっぱいなんや。俺が俺がって思うてまうねん。とことん人間ができてないねん。もうあかん。
 いやいや、凹んでる場合やないって。もう行かなあかん。アキちゃん仕事があんのやったわ。
 今から死のうという虎が、朧《おぼろ》が開いた別の位相への入り口のところで、俺を待っていた。その入り口は、なんでかしらん、公園の小山のような、コンクリートでできた滑り台の、中程にある横穴やった。
「なんでこんなとこに別世界への入り口があんの」
 位相やなんやには詳しくないらしい虎が、朧《おぼろ》に文句を言う口調やった。
「あるんやもん、しゃあないやん。これでロックガーデンまで行ける」
 コンクリの山に突き刺さっている土管に片腕をかけて、朧《おぼろ》はダルそうに答えた。
「いやいや、あのな、怜司。ここからロックガーデンまでバリ遠いで。それに、この土管バリ狭いしな。どうすんの、これ……」
「どうすんのって、這っていくんや。四つ足得意やろ。文句言わんとさっさと行け。一本道やし、それにワープ的な仕様になっとうから実測的な距離をハイハイするわけやない」
 信太に文句言う時の朧《おぼろ》は神戸弁やった。それにワープ的な仕様って。まさか自分が生きているうちにワープを体験するとは、俺は思ってもみいひんかった。
「ワープってワープですかね」
 ごくりと唾飲む口調で、瑞希が真剣に訊いてきた。
「ワープっていうんやしワープやろうな」
 俺も一応真面目に答えた。冗談言うてるような精神的余裕はないから。ボロボロやねんからさ、こん時のアキちゃんは。
「ワープってあれか、アキちゃん。スタートレックでやっていたやつか」
 水煙が不思議そうに俺に訊ね、瑞希がギクッとしていた。
「スタートレック知ってるんですか」
「知ってる。DVDでアキちゃんが見せてくれた」
「うわ……そんな……」
 瑞希がなんやようわからんことでショックを受けている間にも、朧《おぼろ》は信太をワープ土管にぐいぐい押し込んでいた。
「バリ急がなあかんで信太。この中、時間の流れが速くなっとうから、もたもたしとったら着くの明日か明後日になってまうで」
「それほんまに近道なんか怜司」
 もっともなツッコミやったけども、もう押し込まれた後やった。朧《おぼろ》は長い足でげしげしと虎を土管に押し込んでいた。手加減無しやった。
「大丈夫や、俺がなんとかしとくから、行ってこい。とにかくめちゃめちゃ急げばええねん」
 土管に入って、そして三年後とか、そういうのないよな。
 そういう目でいる俺は朧《おぼろ》と目が合い、次お前行け的なニュアンスを感じとってもうた。きっと気のせいやろうと思いたかったが、俺の勘には間違いがなかった。
「先生、早う」
 早う早う、早うせえて、俺もワープ土管に突っ込まれた。幸い、足やのうて、手でな。
 入った先の感触は、公園の遊具って感じではなかった。コンクリートのはずの土管の手触りは、ふかっとしていて落ち葉の積もった腐葉土のようで、まるで、でかい地虫の巣にでも入ったみたいや。まさしくワーム・ホールということか。
 その中をごそごそ這うていって、ワープできるやなんて、嘘みたい。
 でも、入ってもうたからには、進むしかなかった。振り返ったけど、後ろはもう見えへん。前に進むしかなくて、しかも先に入ったはずの信太の姿は、チラリとも見えへんかった。前後不覚のワーム・ホールに一人っきりや。いや、厳密には一人やない。俺は水煙と一緒やったから、まだマシやったろう。
「大丈夫なんか、これは。あいつの十八番《おはこ》の神隠しやないか」
 怖気だったように水煙が言うので、俺は鞘もない水煙をがっちり抱いて進まなあかんかった。水煙は妖怪のくせに、異界があんまり好きやないらしい。自分の作った異界ならいいが、他人が作ったもんは、自分のテリトリーやないし、怖いということらしいわ。まして朧《おぼろ》の作ったワームホールではな。警戒しまくりやろう。
 しかしなあ。亨を後に置き去りにして、水煙と抱き合い高速ハイハイとは、俺の人生、一体どないなっとんねん。でもまあ、そん時は必死やねんからなあ。客観的に自分を見る余裕はないよ。なくて良かったな。微妙に変やから。我にかえらんで正解やったよ。
 敵はいないと思ったせいか、それとも落としていかれたら難儀やと思うたんか、あるいは単に怖かったからか、水煙は何となく人型に戻っていたような気がする。俺もなるべく深くは考えへんようにしたんやけども、絡みつくような柔な手足が俺の体を抱いてたような。
 早よう出なあかんと、それもあって何となく焦ったな。そんなお役得してる場合とちゃうねん。急がなあかん。もたもたしてて、出たら明日になってたなんて事になったら、えらいことやで。
 急げば急ぐほど、自分が遅い気がして、俺の気は焦った。道はどんどん俺を包み込むように狭く、細くなっていった。
 息苦しさと暑さで朦朧としてきて、それでも必死で進み続けると、土中にはひそひそ騒ぐ、ちっさいエノキダケみたいな小人がおった。地霊やと、水煙は俺に教えたが、それが何なのかはわからん。
 神戸の地下に住んでいる、土地の霊らしい。日本中どこにでもおるらしい。
 白くてヒョロッとしたそいつらは、顔も目もないのっぺらぼうやのに、寄り集まってカタカタ震えてて、怯えているようやった。
 そら怖いやろう、神戸は。
 こんな度々の大地震に襲われて、鯰《なまず》にぐらぐらやられたら、たまらんやろう。逃げまどう白い地霊の群れを追うように、ひたすら進んでいる間にも、俺はそいつらが可哀想になってきて、心配いらへん、俺がなんとかするからな、鯰《なまず》と話つけてくる、もう何も、怖いことが起きへんようにしてやるからなと、ずっと呼びかけていたような気がするわ。
 そういうのって、伝わるもんなんか。やがて地霊の一群が、道案内するように俺の先導をしてくれた。とはいえ一本道なんやけど。
 そうやって進む有様は、ちょっとしたガリバー旅行記みたいやったやろなあ。ちっさい連中に先導されて、ごそごそ進む大男というのはさ。
 そのせいやったんか。一体どこで追い抜いたんか、俺は信太より先に目的地に着いた。突然、がぼっと出口を踏み抜いて、俺は六甲山の山中に転がり出る羽目になった。
 もちろん水煙は守った。勢い余ったエノキダケの人々も、何十人かおまけで付いて出てて来てもうて、大あわてで穴に戻っていったりもしていた。
 やつらが慌てる理由は、俺にもすぐわかった。
 そこは緩やかな美しい岩場で、岩の庭《ロック・ガーデン》と呼ばれるに相応しい景観やったけども、それが透ける布に映し出された幻灯みたいに、中にある何かを透かして見えていた。
 岩場になっている壁の向こう側は、冥界やった。黒い、何かおどろおどろしい、沢山の蛇か蚯蚓《みみず》が寄り集まったような巨大な塊が、じっと神戸の街を見下ろしていた。透けるヴェールのような岩場の、向こう側から。
 これが鯰《なまず》やないかと、俺は思った。その直感を疑う余地はほとんど無かった。
 あちこちから飛び集まってくる手下の骨たちが、岩場の麓あたりにある、そいつの口らしきところに、狩り集めてきた人間の命を、差し出していた。鯰《なまず》はそれを、ものすごい牙のある洞穴のような口で、むしゃむしゃと貪欲に食らっていた。手下の骨どもの中には、ドジって一緒に食らわれるのもいた。地下にとどろくような悲鳴が、ひっきりなしに続いて聞こえた。
 まるで地獄に続く穴が、岩壁にぽっかり開いたようやった。
 あんなもんが、俺の話を聞くやろか。そもそもあれは話して通じるような相手か。
 あれは神やと大崎先生は言うが、俺にはとても、そうは見えへん。あれこそまさに怪物や。悪魔というなら、あれがそうや。あんなもんが潜んでいる地面の上で、よくも俺らは平気で毎日、のんびり平和に暮らしていたものやと思う。
 それはずっと、神戸の地下に眠っていたんやという。そんな怖ろしい荒ぶる神は、実はこの島の地下に、いくらでもおる。俺らが普段、意識してへんだけのことでな。
 呆然と、俺はその神を見ていた。狩り集められた人々の魂が喰らわれるのを。
 俺に抱きついていた水煙が、もう紛れもないような人の姿で、俺の耳元に唇を寄せて教えた。
「鯰《なまず》やで、アキちゃん……」
 言わずもがなのその話に、俺は黙って頷いた。声らしい声が出えへんかったからや。
 水煙は、俺には、あの怪物の正体がわからんと思ったんやろか。心配げな声やった。それでも俺を頼るふうに抱きついている、なよやかな体を、俺は無意識に抱き返していた。そうして強く抱きしめると、俺には自分が、震えているのがよう分かった。
「アキちゃん、恐れることはない。鯰《なまず》はああ見えて、話のわかる神や」
 そうやろうか。俺は頷くこともできず、ただ、岩場に見える鯰《なまず》を見つめた。それがバリバリと、もすごい音を立てて、人間の骨を噛み砕いているのを聞きながら。俺は想像していた。あいつは俺のことも、ああやってバリバリ食うんやないやろか。話なんか、ちっとも聞きはせずに。
 そう思うと、体の芯から痺れるような恐怖が湧いてきた。それが指先まで痺れるような麻痺になって、俺を鈍らせていた。もうこれ以上、一歩たりとも、あいつに近づけへんような気がした。とてもやないけど無理や。怖い。怖い。怖い……。
 水煙はそんな俺の臆病心も知っていたやろうか。ゆっくり宥めるような口調やった。
「生け贄を捧げて、また深く眠るよう、祈るんや。とにかく一心に祈れ。神というのは、因果なもんや。人間に、一心に祈られると、それに縛られる。強い祈念で、あの神をねじ伏せるんや」
 神というのは、そういうもんやろか。祈りというのは、神々にとっては、一種の呪詛か。
 神よと崇め奉る声に、あの化けモンが応えるというなら、確かにあいつは神かもしれへん。想像を絶するような霊威を持った、強い神さんを、人の力で倒すのは無理や。必死で地面を押さえたところで、それで地震が止むわけやないやろ。
 しかし鯰《なまず》に祈ることはできる。
 深く深く眠れと。あと十年、もう百年、深く眠って、地上に災いをもたらさぬよう。今夜も深く眠っていてくれと、人は祈ることができる。祈ることしかでけへんのやけど、それが唯一最強の、人の子が持つ、神さんをやっつけるための霊力《ちから》やねん。
 強い祈りによって、荒ぶる神を和ませて、向こう百年飼い慣らす。そのための霊力《ちから》を持った専門家が、覡《げき》やら巫女やら神官やらいう連中で、俺もそういう一人やねんけど、実はそんな霊力《ちから》は誰にでもある。
 ただ一心に祈ればええんや。そんなん誰かて、できるやろ。
 しかしまあ、そこはそれ、プロとアマとの違いはあるわ。無かったらアキちゃん、三都の巫覡《ふげき》の王とか言うてられへんやん。
 俺の霊力《ちから》はハンパ無い。それがどういう霊力《ちから》かというとな。そうやなあ、分かりやすく言うと、めちゃめちゃ、我が儘ってことかな。
 お願いします、ほんまに心底頼みますって祈ると、俺には神々を聞き入らす力がある。天地《あめつち》の神々に、駄々をこねるための力やな。
 祈りというのは結局そういうもんやんか。お願いします、いうこと聞いてって、神さんに駄々こねてみせる。それをどんだけ押し通せるかが、巫覡《ふげき》の神通力《ちから》やないか。
 無理が無理でも押し通してみせるよ。それが俺の、仕事やねんから。
「そこにおったか、秋津の坊《ぼん》」
 どっから這い出てきてたんか、大崎先生と秋尾さんが、俺を追っかけて現れた。秋尾さんはいつの間にか、いつもの眼鏡の中年男に戻っていた。それが白い従者の狩衣姿で、まるでどっかのお祭りの采配でもしてるスタッフの人みたい。大崎先生が神事をやってる神主さんで、秋尾さんはそのアシスタントの人ってとこか。まあ実際、そういうことなんやけどな。
「生け贄の虎はどこへいったんや」
 慌てたふうに大崎先生は辺りを見回し、そこに信太がおらんことに、しかめっつらをした。
 そういえばおらへん。あいつ、俺より前に行ったはずやのに、一体どこへ行ったんや。
「よもや逃げたんやないか。今さら怖じ気づいて」
 疑う口調で水煙が、それを口に出していた。
「それはなかろう。その坊《ぼん》が、逃がしてやったんでなければ。契約によって縛られているはずや」
 大崎先生はじろりと俺を睨んだ。
 逃がしたっけ、俺は信太を。そんな覚えはないけどなあ。
「アキちゃんが逃がさへんでも、あいつがおるやろ。朧《おぼろ》や。さっきの通路はあいつが作ったもんやったのやろ。あの尻軽は虎ともデキとったらしい。今さら急に惜しなって、どこかへ逃がすか隠すかしたんやないか。あいつはそういう性質の奴なんや」
 朧《おぼろ》の駆け落ち未遂がよっぽど恨み骨髄なんかな、水煙は。確かに、言われてみれば怪しいが、俺がこれっぽっちも思いついてなかった疑惑を、水煙が教えてくれた。
 そんなことあるやろか。朧《おぼろ》が急に、信太とよりを戻すやなんて。そんなこと、あると思う? 二人でいきなり逃避行?
「そんなことあるわけないやろ! ちょっと居らん間に、好き勝手なこと言うな!」
 ぷんぷん怒って現れた朧《おぼろ》本人によって、その疑惑は否定された。朧《おぼろ》はなんでか瑞希の首根っこを掴んで引っ張ってきていた。道に迷いそうな、異界慣れしてない瑞希を、引っ張ってくんので時間かかってもうたんやって。
「信太はあそこや!」
 指さす朧《おぼろ》の長い腕の先に目をやると、そこは鯰《なまず》のいる岩壁を登り切った断崖の上やった。信太は確かにそこにいた。人の姿やのうて、ここから眺めても大きく見える、金色の虎の姿になって。
 うろつくような足取りで、虎はうろうろと岩棚を歩き、そこから一望できるはずの、神戸の街を見下ろしていた。鋭い金色の視線が、街を舐めるのが見えた。
 見下ろした街は、火の海やった。海岸線をなぞるように、うねる火の帯が拡がって、ものすごい黒煙を上げていた。
 あの火の下に、どれだけの人が埋まっていたやろう。
 俺は呆然とそれを見ていた。黒煙の上がる空に、燦然と光る天使たちの輪があり、その下の世界に、死者を狩り集めてくる冥界の骨たちの乱舞する街があるのを。
 ここは、どこやろ。神戸……? それとも、地獄の一丁目?
「始めましょうか、先生。早うせんと神戸が全部燃えてしまう」
 崖の上の虎が、咆吼するような声で、俺にそう怒鳴った。そして岩棚を飛び降りた信太の姿は、また元の、目の醒めるような黄色い宮廷服の男に戻り、奴がすとんと着地した足下には、真っ白な真新しい杉板の、舞台のようなもんが組み上げられていた。それは五角形をしていて、鯰《なまず》のほうを向いた頂点には、真っ直ぐ天を突くような丸太の柱が立てられている。
「当てずっぽうで祭壇作っといてよかったなぁ」
 のんびりした声で、朧《おぼろ》がそう言うた。
「当てずっぽうやないやろ。予知やないか」
 むすっとして大崎先生が文句を言うと、朧《おぼろ》は可笑しそうに笑った。
「当たるも八卦、当たらぬも八卦やないか。そんなもん、当てずっぽうと変わらへん。俺はそんなもん、あてにはせえへん。茂ちゃん……変えられへん未来なんて……そんなもん、ほんまにあるんか」
 日々、蔦子さんが九十九%の確率で未来予知を的中させるのを見てきたくせに、朧《おぼろ》はそんなことを言うていた。
「変えられへんの。なんかもっと、マシなふうには。暁彦様が死んで、あのバカ虎も死んで、この坊《ぼん》まで、死ななあかんもんなん? 他に、もっと、死んでもかまへんような奴がいくらでもおるやん。俺とか、茂ちゃんとかさ」
「誰が死んでもかまへんような奴やねん……」
 どこまで本気で言うてんのかわからん朧《おぼろ》に、大崎先生は煮え切らん突っ込み方をしていた。せやけど朧《おぼろ》は冗談で言うてたわけやなかったらしい。
「居るやん。もう充分生きた奴とか、生きててもしゃあないようなのがさぁ……なんでそういうのが生け贄に選ばれへんの?」
 憎々しげに朧《おぼろ》は言うたが、狐がそれを窘《たしな》めた。それともチクリと一噛み、やり返してやっただけかな。
「そんな命なんかもろても美味くないからですやろ。今を盛りの活きのええのや、まだまだこれからの柔《やわ》い若芽を、引き毟るようにして食うから美味いんですやん。そうやろ、朧《おぼろ》ちゃん。自分かて覚えがあるやろ。泣き喚いて逃げる得物の方が美味いて、昔はそう言うてたで、君も」
 狐にそう言われると、朧《おぼろ》も立つ瀬がないらしかった。苦笑して項垂れたまま、朧《おぼろ》はまたぼやいた。
「ほんなら、あれもこれも、その報いかな。俺は悪さしたつもりはないで。腹が減るから食うてただけや。必要以上に食い散らかした覚えはないで。力をつけるのには、人の精気を食うしかあらへん。それには人を食うしかないんや。並の人間を相手にするんやったらそうするしかない。それが鬼の所行やというんやったら俺は鬼やろけどな。それでも、腹の減るもんはしゃあないやん。それも自然の摂理や!」
 朧《おぼろ》は少々キレてるようやった。痛いところを突かれたんかな。怒ることもあんのやな、こいつも。それも長年、気心の知れてた狐が相手やったからやろか。俺は朧《おぼろ》が怒ったところは、見たことがない。
 見たことがないといえば、こっちもそうや。狐もいっつも余裕の笑顔で、にこにこ愛想良くて、怒ったところなんか見たことない。それでもこの時は、怒っているように見えた。
「あの神さんも、そうして生きてるんです。ただの自然の摂理や。朧《おぼろ》ちゃんみたいに、死にたい死にたい言うて、ふにゃふにゃした活きの悪いのんは、鯰《なまず》様かて、食うても力にならへんのや。甘いんやで、あんた。死んだからってどないなんのや。あてつけか、それは? そんなことしたかてな、なんの意味もないんやで!」
 ギャオーンて言うてる秋尾さん、ちょっとケモノの本性出てた。目が怖かった。牙もちょっと出てた。ほんまに怒ってんのやなって、見た目に分かった。
 ガツン言われて、朧《おぼろ》はちょっと、グッと来たらしかった。そやけど狐の話は無視した。知らん顔して、祭壇の上で鯰《なまず》を見上げている信太の背中に、呼びかけていた。
「怖じ気づいたやろ、信太。そろそろ俺が代わってやろか?」
 その声には、からかうような、恩着せがましい響きがしたが、どことなく、縋り付くようでもあった。朧《おぼろ》は信太に惚れてはおらんかったんかもしれへんけど、それでもどこかで、虎に縋《すが》って生きてきたんやろう。
 せやけど信太は振り替えらへんかった。ただじっと、鯰《なまず》を見上げていた。鯰《なまず》もその巨大な目で、信太を見下ろしているように、俺には見えた。
「誰にもの言うとうのや怜司。俺に怖いもんなんかあるか。強い強いタイガーやのに……」
 そうやろか。俺は正直、めちゃめちゃ怖いけど、鯰《なまず》様。タイガーやないからかな?
 そやけど、やっと振り返った信太は、確かに怖いモンなんか無さそうな、余裕の笑みやった。
「諦めろ、怜司。お前は死なれへん。その狐の言うとおりやわ。死んだところで意味あらへんのやしな。報いというなら、これがそうやろ。悪さしたわって後悔してんのやったら、これがお前の生き地獄なんや。ここで生きて、罪を償え。人界に尽くして、お前も神になれ。それがお前の罪の報いや。暁彦様のおらん世界で永遠に生きていけ。何人も数えきれんぐらい人を殺した奴が、そんな簡単にラクになれるわけないやろ」
 逃げるな怜司、俺も逃げへん。怒鳴った後の、囁き声で、虎はそう言い、それは甘く優しいように聞こえた。俺はその声に、朧《おぼろ》が一瞬、泣きそうな顔をするのを見てもうた。
 見たらあかんかった予感。
 なんで見てもうたんかな。ついつい見てもうてんな……。
 その表情は、ほんの一瞬で押し隠されたが、正直に言おう。可愛かった。それが全然可愛くない朧《おぼろ》様の、化けの皮の下の下にある本性のように見えた。
「……好きにしろ。寛太泣いても知らへんからな!」
 ぐっと堪えて、再び化けの皮をかぶった朧《おぼろ》様の、それが捨て台詞やった。信太はそれに苦笑した。
「あいつはちょっと、泣いたほうがええんや……」
 独り言みたいに、そう言うて、信太はまた鯰《なまず》と向き合うた。そしてもう、振り返りはせんかった。その時、見たのが、信太が見た、最後の朧《おぼろ》の姿やったと思う。
 それっきりやった。二人は。
 どんなに長く付き合うたとしても、別れる時にはそんなもんかもしれへんけども、いくら可愛ない言うたかて、仮にも一時は連れ添ったようなもんなんやないの。虎と雀は。そやのに、こんなんでええの。そうドギマギしてたんは俺だけか。
 皆、さっさとやろかみたいな雰囲気で、実際にさっさとやった。ぽつねんと突っ立っている朧《おぼろ》の姿の哀れっぽさに、後ろ髪ひかれているのは俺だけで、誰もそれには頓着してへんかった。
 八割方仕上がっていた祭壇に、後から運び込まれた、神事のための神棚のようなもんが置かれ、鏡が祀《まつ》られ、立てられた柱には真新しい榊《さかき》が飾られた。
 準備は着々と、あっと言う間に進み、俺は大崎先生に促されて、白木の床板のうえに上がった。
 どうしても気になって、振り向いて見下ろすと、朧《おぼろ》はじいっと、信太の背を見つめていた。どことなく、恨んだような目で。
 そうして佇んでいると、確かに奴も鬼のようやった。青白い血の気のない顔が、怖ろしいほど真っ白な美貌で、背景には崩れ落ちた街と、それを焼き尽くすような猛火が見えた。それを背負って立つ朧《おぼろ》は、肩を落としていたが、かすかに唇を噛みしめて、爛々と鋭い視線を信太の背に向けている表情は、今にも食らいついて来そうな鬼の面構えやった。
 虎はきっと朧《おぼろ》にとって、美味そうやったんやろう。食うても食いきれんような強い神で、愛してくれた。おとんの代打に、ちょうど都合がよかったんやろう。
 せやけど結局、あいつは逃げ切れへんかったんや。おとんが好きやっていう、自分の感情から。全速力で逃げても、逃げ切れへんかったんやろう。
 逃げたかったか。お前は。それで恨んで、そんな目で信太を睨むんか。そやけど、それは、信太のせいではないと思うで。お前が悪かったんや。
 それとも、俺のおとんが悪かったんかな。それとも、誰も悪くはなかったんか。ただどうしようもない、運命の悪戯か。朧《おぼろ》にとっては、俺のおとんが、運命的な相手やったんやろな。ただその相手と、別の運命によって、引き離されただけや。
 そして朧《おぼろ》は信太とも、引き離されようとしていた。それをやる運命の神は、どこを探さんでも、目の前にいた。目の前の崖の中に、繭《まゆ》にくるまる地虫のような姿をした、鯰《なまず》と呼ばれる神が。
 この神の、ほんの僅かの身じろぎが、俺ら人の子の、運命を弄ぶ。しかし神には悪気はないやろ。ただ普通に生きているだけで、この神は、地を揺るがすほどの力を持っているんや。
 祈るしかない。祈るのが、俺の仕事や。拝み屋の息子やさかいな、アキちゃんは。
 そのやのに俺は、どないして祈ればええのか、その作法も知らんかった。なぁんも知らんねん、アキちゃんは。今までずっと、絵だけ描いて生きてきた、ぼんくら息子なんやもん。
 祈祷の代打は、大崎茂大先生がした。
 霊振会の皆々様が見守るなか、鏡と剣と酒を捧げて、大崎先生は厳かに歌うような調子で、鯰《なまず》に何か語りかけていた。鯰《なまず》がそれをどのくらい聞いていたのか、俺には分からん。
 神に人の声を聞かせようとしたら、それには強い通力《つうりき》が必要なものらしい。特に鯰《なまず》のような、あんまり人間に頓着せえへん、話聞いてない神さんに、こっちの話を聞いてもらおうと思ったら、それなりの霊力を注ぎ込まなあかん。ただブツブツ祈っとったら、ほうほう、なるほどねって聞いてくれるような、生易しい神さんやないんや。
 祈る大崎先生のこめかみからは、汗が滴り落ちた。俺はただそれを、脇で畏まって見ているほかに、できることがなかった。
 なんで秋津家の一族が、三都の巫覡《ふげき》の王として、長年崇められてきたか。それは、うちの血筋には、神々と交感できる強い素養があったからや。それは、血筋の始祖の出生に由来する力や。
 初代の暁彦様は半神半人やった。神のごとき通力を持っていた。半分くらいの割合で神さんたちの仲間やった。片親は水煙で天人なんやし、月読《つくよみ》や海神《わだつみ》が祖父さんみたいなもんや。神々にとっては、うちの一族は遠縁の親類なんや。
 せやし、只人《ただびと》が一心不乱に祈祷せな、聞いてもらわれへんような話でも、秋津の子がぼそっと言えば、えっ、なに? って、祖父ちゃんたちは聞いてくれる。それでこそ、天地《あめつち》の愛でし血筋の末裔ってもんやろ?
 そこが教養のないぼんくらの俺が、大崎茂大先生に対して持っている、血筋アドバンテージやないか。まぁ、大崎先生かて、伏見の大権現さんにはツーカーらしいけどな。そやけど、人格もないような、野生の神さんとも交感できるのは、秋津の直系である、俺の特技やないか。
「聞いてはるような気がせんな……」
 しばらく祈ったものの、大崎先生は汗に濡れた顔で、突然ぼやいた。確かに鯰《なまず》様は聞いてなかった。猛烈スルーして、お食事に励んでおられた。
「ヘタレやな茂。そんなんやからお前はヘタレやというんや」
 容赦なく水煙は批判していた。
「そう言うけどやな、水煙……こんな荒ぶる神と交感できる巫覡《ふげき》はそうそうおらんのやで」
「アキちゃんが居る。アキちゃんに祈らせろ」
「しかしこいつは祝詞《のりと》なんぞ上げられんやろう」
 呆れたというより、困ったなぁという目で、俺は大崎先生に見られた。すんません、祝詞《のりと》はちょっと無理ですね。経験ないです。
「この際、形式なんぞどうでもええのや。アキちゃん、やってみろ。お前の言葉で祈ればええんや」
 急かす口調で、水煙が俺を促し、それを聞いていた大崎先生はぎょっとした。
「いやいや、ちょっと待て、それはさすがに失礼やで、水煙……」
 大崎先生の慌てっぷりを見たら、それがどんだけトンデモなことかは何となく察しがついた。水煙も実はけっこう無茶するタイプなんかもしれへん。自分が神なだけに、神に対してフリーダムすぎるというかな。自分が無礼講のほうが好きというのがあって、皆もそうやと思いすぎなんやないか。神さんは本来、礼儀にうるさいもんや。特に初対面ともなるとな。
「誰かが鯰《なまず》と渡り合わねば、この神事は進まへんのやないか。作法が大事というなら、蔦子にやらせてみるか?」
「あかん……お蔦ちゃんは連日の予知で疲れとる。通力を使い果たしたら、万が一のこともあるんやぞ」
 幼馴染みを労るふうな大崎先生の意見に、水煙は少し、むっとしたようやった。
「それもやむを得んやろ。血筋の定めや。秋津の子が祈れんというなら、誰がこの神を鎮められるんや?」
 そうや。俺がやるしかない。秋津家の名にかけて。この地震の神さんを、鎮めてみせなあかんのや。
 せやのにまさか、練習してなくて、やり方が分かりませんなんてな。そんな格好悪いこと、この土壇場で言えるわけあらへん。たとえそれが事実やとしてもや。
 どないすんねんアキちゃん、どないすんの!
 うわあ、どうしようどうしようどうしよう!
 あっ、そうや! こういう時こその神頼みやないか。困ったときの神頼みや。
 思い出せ皆。俺にはありがた〜いご先祖様が居るやないか。
 半神半人やったというご先祖様の、当のご本人や。俺を呪ったついでに、困ったことあったら電話しいや言うてはったやないか。早速あれを試す時や。そうやろ水煙、あいつを喚ぼう!
 せやのに俺の無言の提案に、水煙はものすご顔をしかめた。剣モードやし、そういうのが見える訳やないんやけども、俺には見えた。見えるかのようやった。
「あかん……安易にあいつを喚び出すな。言いたないけど、お前の先祖は悪党やった。鯰《なまず》を見たら、鎮めるどころか、これを支配して一暴れしようとするやろう。下手をすると、お前を乗っ取って、秋津島の征服を再び狙わんとも限らん」
 なんて悪い子なんや先祖! そんなご先祖様を持ってもうて俺は苦労するわ。ちっとも役に立たへんやないか。なんのための呪いやねん。ただの呪いやないか、これは。うっかり喚んだら、アキちゃんがダーク・アキちゃんになってまうんやで。
「あいつを喚ぶくらいなら、暁彦を喚べ」
 えっ、誰? どの暁彦?
 もちろん俺のおとんやないか。暁雨《ぎょうう》のほうや。暁彦多すぎやねん。名前使い回すのもうやめてくれ!
「えっ、喚ぶんか」
 俺はちょっと引いた。この期に及んでも、おとん頼みは負けた気がする。
「なにっ、喚べるんか!?」
 大崎先生は、それはそれはびっくりしはったようやった。
 よ、喚べる……と、思う。けど?
「なんやねん、そんなんやったら、なんでもっとサッサと喚んどかんかったんや! この仕事にお前のおとんほど向いている覡《げき》はおらんのに」
 大崎先生は全身ワナワナ来てもうたみたいやった。むちゃくちゃ俺のアホさに腹立ってもうたみたいやった。俺もさすがに恐縮した。
 なに。実は俺が、おとん、ちょっと来てくれ〜って祈れば、それで済むような話やったん?
「落ち着け茂。あいつはもう覡《げき》やない。神の一種や。そやから、あいつが祈るというのは無理や。けども、息子に教えることはできるやろう。あっと言う間に教えられる裏技があんのや」
 えっ。親子フュージョンか? まさかあれを皆の見ている前でやれと?
 いやや俺は、おとんと合体はいやや。あれはちょっと……さすがに皆の見ている前ではいやや。
 なんで今やねん。もっと前に、結局俺がやらなしゃあないって分かってたら、早めにおとんを喚んで、こっそり習っといたのに。なんでこの土壇場でやねん!
 霊振会の皆さんも見てんのに。朧《おぼろ》も居てんのに。超微妙やないか。空気読めへん俺でも読めるわ。今ここではまずということが!
 そやけど、しゃあないやん。アキちゃん空気は読めてたんやで。やったらまずいな、ということは、何となくは感じ取っていました。それでもな、しゃあないやん。他に方法を思いつかへんかったんや。
 だってな。
 パターンその1。適当に話しかけて、失礼ぶっこいて鯰《なまず》様を怒らせてしまい、神事に失敗して三都を壊滅させる。
 パターンその2。初代様を呼び出し乗っ取られてしまい、ダーク・アキちゃんが日本をめちゃくちゃにする。
 パターンその3。おとんを喚び出して合体技を使い気まずい思いをする。朧《おぼろ》もおとんには会いたくないかもしれへん。しかし神事には成功するかも?
 という、そんな三択なんやで? 3やろ、普通。そうやって言うてくれ、皆……。俺が悪いんやない。
 大事なんは三都の平和や。そうやろ? そう、やろ? そうやということで、ここは話を進めさせてくれ。
 俺はおとんを召喚した。助けてくれ、おとん。ジュニア若干ピンチや。助けて〜。鯰《なまず》様に生け贄を捧げて三都を救おうと思うんやけど、祈り方がわかりません! もうこの際、ええ格好はしてられへん。助けてくれ、おとん!
 祈ったよ。どこにいるのかもイマイチわからんおとんに。
 親というのは有り難いもんや。喚んだらすぐに駆けつけてくれたからな。
 ズバン! て、ものすごい落雷というか火柱というか、何かそういう超常現象的なモンが、祭壇の正面に立てられていた御柱のてっぺんに、天空のどこからか撃ち下ろされてきた。空気の引き裂かれるものすごい音と、灼けた鉄のような臭いが突然、爆《は》ぜて、そして震える大木の丸太ん棒のてっぺんに、おとんが立っていた。
 俺のおかんを姫抱っこしたまま。
 おかん登場という、予想もしなかった展開に、俺は一瞬、ポッカーンとした。たぶん口開いてた。言いたかないけど、マヌケ面やったんやないか。
 おとんの首にしっかり抱きついていたおかんは、白い腕をからめたまま、けほけほと小さく咳をしていた。どことなく、ぐったりもしていた。
「お兄ちゃん……うちは生身なんどすから、もうちょっと優しい降りられまへんのか」
「いやいや、すまん。暁彦がおとん早う来てくれ言うさかい、ついつい急いでもうたわ」
 見上げるような御柱のてっぺんで、二人はそんな呑気な会話をくり広げていた。
 おとんは真っ白な、直衣《のうし》のようなもんを着ていた。なんか、そんなもん着てると、神様みたいやで、おとん。日本画の教材に出てくる神さんみたいやで。それに、おかんも、神代《かみよ》の昔の美し女《くわしめ》かと見まごうような、白い絹の衣を纏い、色とりどりの勾玉《まがたま》を、首や手足に巻き付けていた。
 あのう……。服が若干、スケスケやから。透けてる、までは言わんけど、ほぼ透けてる、ぐらいの、何かはあるで。
 おかんがなんで俺に、秋津家正装の巫女さんルックを見せてくれへんかったんか、よく分かった。これはな……マザコンすぎる息子が見るもんやない。見たらあかんもんやった。しかもその格好のおかんが、おとんに抱きしめられてるところは、生で見るもんやない。写真でもやばいくらいや。俺の中の大切な何かがズタズタになる。
「そ……っ、そんなとこ立つな、アキちゃん! み……御柱《みはしら》やで! 神々の依り給う神聖な御柱や!」
 ギャーッて慌てたふうに、俺のすぐ脇で大崎先生がオタオタしていた。大崎先生も俺と似たような理由でテンパってもうてるみたいやった。
「しゃあないやろう、茂。俺ももう神さんやさかいな、うっかり御柱に依り憑いてもおかしないやないか?」
 にやにや言うてるおとんは、ものすご意地悪そうやった。大崎先生はさらにアワアワ来ていた。
「か、神て……かか神て……そうかもしれへんけどアキちゃん」
 マジで噛んでる大崎先生は俺にもちょっぴり面白かった。おとんには相当面白かったんか、低く笑うてる声が、柱の上から降ってきた。
「俺はもう死んだんや、茂。ほんまやったら、この世にはおらん。そんな男がのこのこなぁ、息子かわいい言うて、いちいち化けて出てたら、とんだ親バカやろが。暁彦ももう一人前にならんとおかしい歳や。ひとりでやらせよと思うてたんやけども……」
 そう言うて、おとんは、じいっと俺を見下ろした。
「まだまだ赤ん坊《ややこ》やなぁ、ジュニア」
 おとんは気味良さそうに、俺のことも笑っていた。
 俺はポカーンとしたまま、それを見上げた。ふっふっふやないねん、おとん。俺、死ぬねんで。死ぬんやで。死ぬっていうのは大の男でもガタガタ言いたいようなことなんや、現代では!!
「やらせるて、何をやらせますのんや、お兄ちゃん」
 不思議そうに、おかんはおとんに抱きついたまま、そう訊ねた。抱きついてないと、立つところもないしな、きっとそのせいやな! 絶対そのせいや。
「鯰《なまず》やで、お登与。鯰《なまず》様がなぁ、また起きてもうたんや。お前のせいやないで。お前はちゃんと祭事を済ませたんやけども、不測の事態が起きたんや」
 おとんは、にこやかに説明したけど、おかんはそれを、今初めて聞いたらしかった。
 しん、と静まりかえったままの、おかんの顔が、見る間に俺の知らん形相へと変わった。それも、そうや……鬼みたいな顔かもしれへんわ。美しいけど、めちゃめちゃ怖い。おかんはたぶん、激怒したんやと思うわ。
「うち、そんなん、聞いてしまへんえ。いつからどすか。お兄ちゃん、いつから知ってはったん?」
「いつからて、最初からやで」
「最初て、いつどすか」
「そりゃあ、お登与、ふたりで世界一周に旅立つ前からや。というかやな、それを知ったさかい、旅に出たんやないか」
「なんで……なんでどす。なんでや、お兄ちゃん。そんな時に、うちが居らんで、暁彦に何ができるやろ。この子はなんも知らんのどす。うちはこの子に、鬼道のことは、まだなぁんも仕込んでへん。ひとりで留守居に残されて、一体何ができますやろか!」
「そやなぁ……お前がそばに居るかぎり、暁彦はずうっと赤ん坊《ややこ》のままやろ。お前が可愛い可愛い言うて甘やかすさかい、こんなんなってもうたんやないか?」
 おとんの声は優しかったけども、冷たかった。斬りつける刀身のよう。地下深くを流れ下る、凍えた水のようやった。
 俺は、おとんはおかんには、べったり優しいんやと思うてた。おかんが俺に優しいように。甘い甘いお兄ちゃんなんやとばっかり。
「鬼道はつらいか。お前がこの子を逃がしたい気持ちは俺にもわかるんやけどな。せやけど結局、どこにも逃げ場なんぞないやないか。戦うんやったら戦い方を、死ななあかんのやったら、死に方を、教えてやらなしょうがない……なぁ、暁彦。お前は結局、俺の子で、どこまでいっても秋津の坊《ぼん》なんやろう?」
 逃げられへん。逃げるとこなんて、どこにもあらへん。結局お前も、逃げる度胸は、なかったんやろう。
 俺とお前は、似たもの親子やなあ、アキちゃん。お前がなんで、結局ここに居るのかは、俺には手に取るようにわかるよ。
 なあ。その太刀やろう、アキちゃん。水煙やなあ。怖い神やで、そいつは。秋津の男を狂わせる妖刀やねん。お前もどないなるかなあと、心配はしてたんやけど、結局そうなったなあ?
 俺の手にある水煙を、じいっと見つめて、おとんは笑った。にやぁり、と。
 俺はなんや、おとんにハメられたような気がした。
 お前の好きに生きればええよと、俺を励ましたくせに。それでも水煙を渡していった。そうすれば、こうなることは、おとんには読めてたんやないか。水煙からは、逃れられへん。それは秋津の男の血の中に書いてある、血筋の定めや。
 おとんも俺を、逃がすつもりはなかったんや。
 おかんが結局ずっと、俺を自分の結界に閉じこめて育てたように、おとんも俺を、どこへもやらへん。
 俺ら秋津の血筋のモンには、逃げ場はないねん。先祖代々、俺らが歩いてきた道は、逃げる脇道なんかはない、一本道や。鬼道って、そういうもんやねん。まさしく鬼になるための、逃げ場のない一本道やねん。
「暁彦、鯰《なまず》は冥界の眷属で、地霊の一種や。黄泉《よみ》の神々に祈れ。祝詞《のりと》は俺が教えてやるわ。依りましになって神懸かりしろ」
 なんのこっちゃやで。やめてくれへんか、そんな、専門用語のオン・パレードは。
 そやけど、こんなもん、まだ日常会話のうちやったで。
 神懸かりしろて。そんな凄そうなこと。何をすんのかと思たら、単におとんとフュージョンやないか。結局それなんやないか。
 いややで、俺は。なんか、それ、言うたらあかん感じに、気持ちええんやもん。そんなん、人前ではとても、恥ずかしいてやられへん。
 やられへんのやけど、やられてもうたら、しゃあないな。無節操やな、俺のおとん。妹でも息子でも躊躇なしやで。
 せやけど霊振会の皆さん、驚きはしたけども、ちっとも引いてはらへんねん。なんか、これ、普通みたいやで、神懸かり。こっちの業界では、さほど突飛なことではないらしいで。
 確かにおとんも今や神で、死んでもうてて幽霊やからな。人に取り憑いたりできるんやろう。その、取り憑かれる奴が、俺やていうだけの話で。別にちっとも変やない?
 ただ、なんかこう、その時の気持ちよさが、人には言えへん感じやっていうだけで?
 あかんて、おとん! ほんまにもう、勘弁してくれ!
 ひょい、と御柱のてっぺんから、身軽に飛び降りたおとんは、姫抱っこしていたおかんを大崎先生のそばに降ろすと、ひょい、とまた簡単そうに、俺に憑依した。
 うわあそんな、ちょっとそこまでみたいなノリで、俺ん中に入ってくんな! 初代様といい、これは秋津の得意技なんか。中に入るにもほどがある!
 俺はまたもや、おとんに着られた。どっと全身に汗が噴き出た。
 俺の手の内側から、もうひとつの手が、ぴたりと指の先まで寄り添って、水煙の柄を握り直すのが感じられた。そしてその瞬間、びくりと太刀が震えるのも。
『お前、ちょっと見いひん間に、えらい開眼したなあ。前にやったときとは、比べモンにならん漲《みなぎ》り方や』
 にやにや言うて、おとんは俺の内側に漲《みなぎ》る霊力を褒めた。
 これでもかなりセーブしてんのやで。一時は、栓《せん》の締め方がわからんようになって、霊力ダダ漏れで溶けかけたんやで。
 俺がぼやくと、おとんは笑ってた。それは大変やったなぁ、ジュニア。無事でなによりや。おとんが来たからには、もう何も心配いらへん。
 そう言うて、おとんは俺の体を操って、祭壇の真ん前にいた大崎先生を、ぐいと押しのけた。
 大崎先生はえらい素直に、俺に押しのけられていた。食い入るような目で、じっとこっちを見つめたまま。
「アキちゃん……戻ってきたんやな……」
「そうやで、茂。えらい爺んなったなぁ、お前は。情けないことや」
 嘆かわしいと、そういう口調でおとんに言われ、大崎先生が真っ赤になるのを見た。怒ってんのか、爺さん。まさか恥ずかしいんやないやろな。恥ずかしいのか? そんなん俺が恥ずかしいわ! そんな目で俺を見るな! 頼むからやめてくれ!!
 爺に赤面して見つめられても嬉しない! それは俺の守備範囲に入ってへんのや!
 やめて! やめてくれ頼むから! やめ……って、あれ?
 大崎先生は、おとんに貶《けな》されて、よっぽどショックやったんかな。たぶん度を超えてショックやったんやろなぁ。
 見る間にもやもやと容姿が歪んで、真っ赤に紅潮した顔も醒めんまま、若返ってもうた。
 効いてたんやなあ、ダーキニー様のくるくるドーンが。大崎先生も、もう半分、人間やめてもうてたんやで。だって普通の人間やったら、七十八十の爺さんやったのが、いきなり十代の男の子には戻られへんやろ? そんなん奇跡すぎやんか。
「と……歳なんか、とってへんわ!」
 確かにな、と思えることを、大崎先生は吠えるように言うた。俺は内心、ものすごあんぐりしていたけども、それを顔には出せへんかった。表情筋をおとん大明神に完全に支配されていたせいや。
 おとんは、ぷっ、と、いかにも面白そうに笑い、それきり大崎先生に知らん顔をした。
 それに大崎先生は、さらに赤い顔になった。なんか恥ずかしかったんやろな。ちょっと言われたくらいで、六十歳以上若返ってもうたというのはな。なんかちょっと過剰反応しすぎやな。やりすぎや。
 でも、それ、ちょっと可愛いな。可愛いような気がしてもうたわ。俺も。
 なんでか言うたらな、言わんでも分かると思うけど、大崎先生て、若い頃にはけっこう可愛かったんやな。うん。何というかやな。なんとはなしに、瑞希系やな。ケモノ系や。狐憑きやし。耳とか尻尾とか似合いそうやな。
 いやいや、ちょっと待って、あかん。そんなことを考えたら俺はどないなってしまうのか。この件については最大限、冷静に、できる限り気を遠くに持たなあかん。あれの正体はしわしわの爺や。ジジイ。ジジイやで、しっかりしろ俺、大崎先生はよぼよぼの爺さんなんや。しかも性格が悪い。俺も今までどんだけイビられたことか。むかつくな。それをゆめゆめ忘れる事なかれやで、俺! 顔可愛いからって、全部許せるような気持ちになったらあかんのやで。
『茂なぁ、ケツに伏見稲荷の紋に似た痣がある。それで親が伏見稲荷に連れていったらしいんや。ただの偶然と思うんやけどなあ、確かに似てんのや、その痣な』
 言うなおとん。頼むから言わんといてくれ。今めちゃめちゃ緊迫のシーンで、虎なんか生きるか死ぬかの瀬戸際や。真剣に行ってくれ。めちゃめちゃ真剣に頼む。信太が可哀想すぎるやないか。
 俺はもう泣きそう。
 この儀式の供物として、祭壇にいる真っ黄色の虎は、なんとも言えん顔つきで、おとんとフュージョンした俺を振り返っていた。
「暁彦様で?」
 敵意とまでは言わんけど、虎はおとんを警戒していた。そら、まあ、しゃあないな。
「そうや。長く蔦子姉ちゃんに仕えてくれたそうやな。今回のことは、お前に礼を言わんとあかん。人ならぬ者とはいえ、たった一つしかない命や。死ななあかんのは怖いやろ。よう覚悟してくれた」
 落ち着き払った大人っぽい声で、俺が言うた。いや、おとんが言うた。
 信太はそれに、見た目にはっきりわかるほど、顔をしかめた。心中かなり複雑そうな表情やった。
「神戸のためや……。俺が死ぬのは、本家のためでも、暁彦様、あんたのためでもない。礼を言われる筋合いやないです」
「それでかまへん。始めよか」
 えっ、もう始めんの?
 俺は内心そう思ったが、もう遅すぎるくらいやった。何をもたもたやってんのやと、おとんには思えていたんやろ。
 のろのろやろうが、さっさとやろうが、虎が死ぬのは決まってる。そんなら早うせな、延ばし延ばしにしてる間に、助かるはずの人間が、どんどん死んでいってんのやしな。
「掛巻《かけまく》も最《いと》も畏《かしこ》き天地《あめつち》の御神《おんかみ》──」
 鞘はないはずの水煙の刀身を、抜き放つようにして、おとんが押し頂くと、白銀の刀身が、濡れたように輝くのが見えた。自分の喉から流れ出る、まったく聞き覚えのない、それでいて、なぜかよく知っているような気のする言葉の連なりを、俺はぼんやりとして聞いた。
 祝詞《のりと》や。うわぁ、なんでか俺が祝詞《のりと》を。
 おとんが俺に取り憑いて、操っているからこそできた神業やけども。
 うちの家には様々な、祝詞《のりと》や呪文のたぐいが伝わっている。先代当主を務めたおとんは、もちろん幼少の頃からそれを学び、秋津に蓄えられたあらゆる知識に精通してんのや。俺と違うてな。
 それは本来、門外不出の秘密の呪文みたいなもんやねん。おとんは大声で祝詞を唱えたわけやない。囁くような声やった。それでも天地《あめつち》の神は聞いている。言霊《ことだま》に乗せて祈られる言葉の数々を。
 言霊《ことだま》というのが、どういうもんか、俺は自分の口がそれを使うのを見て、初めて理解した。霊力をこめて語られた言葉や。
 ただペラペラと、決まった文句を唱えれば、それでいいというもんやない。これは呪術で、おとんは言葉に乗せて呪法を使うてるんや。
 言葉自体は、古い古い時代のもんで、今を生きてる俺らが聞いても、ぶっちゃけ意味なんかわからへん。ほとんど外国語みたいなもん。
 そやけど鯰《なまず》様は古い神さんや。ずうっと昔から、近畿のこのあたりに棲み付いていて、地下深くで眠っている。ときどき出てくる。そんな神さんやからな、現代語なんて、わからへんのや。古い古い言葉で話しかけてやっと、なんとなく意味分かるという、そういうことなんやで。
 皆も、フランス人に話しかけるときには、フランス語やないと通じへんな、と思うやろ。それと一緒。
 神様と話す時には、その神さんの聞いてくれる言葉で話さなしゃあない。というのが作法。とりあえず礼儀。いきなり今の京都弁で、あのう、ちょっとすんませんけどなんて話しかけるのは失礼なんやで。俺はそうするしかないから、そないするけど。ほんまはあかんのやで? 全然気にせえへん神さんも多いんやけど、通じてへん時もあるしな?
 ましてや鯰《なまず》は人と積極的に交流したがる神やない。
 おとんの祝詞も、始めはさほど、聞いてるようには見えへんかった。チラリとこちらに目をくれはするものの、聞いてるようには見えへん。
 そやけど、おとんは根気強く鯰《なまず》を口説いた。
 あんたはほんまに雄大な神やなあ。びっくりしたわ。恐ろしいて敵わん。こんな強い神さんを今まで他で見たことない。神の中の神やないやろか。そんな偉い神さんに、偉そうな口きいておこがましいんやけども、このあたりの地面には人間が住んでるんです。あんまり無茶苦茶せんといてもらえないでしょうか。もちろんタダでとは言いません。そんな図々しいこと、よう言わへん。あたりの住民をお助けくださる代わりに、この虎を生け贄に捧げます。ウマいよう、この虎。めちゃめちゃウマい。どんだけウマいか見当もつかへんくらいウマい。人間何千人ぶん。下手したら何万人分より、ウマいかもしれませんよ。どうやろう、この生け贄を受け入れて、また腹減って辛抱たまらんようになるまで、静かにお眠りいただけませんか。もしもそうしていただけたら、あたりの住民は、あなた様に百年千年感謝して、社を建ててお祀りし、年々歳々、感謝の祈祷を怠らんのですけども。どうかそれで、手を打ってもらえませんやろか。
 どうぞ、よろしゅう、お願い申し奉る──。
 それは祈りや。そして同時に呪詛や。鯰《なまず》はうっかり、おとんの祝詞を聞いてもうたんやろう。耳心地のええ話やった。心揺さぶる言霊《ことだま》やった。
 そして、いったん心を捕らえたら、決して離さんように、がんじがらめにするような、強い呪縛のある術法やった。
 お願いしますと祈る、強い呪力が、言葉という音の形で、俺の喉から流れ出ていた。それは一種の催眠術みたいなもんらしい。鯰《なまず》は明らかに、俺の、おとんの口車に、乗せられていた。
 じっと見つめる巨大な目が、祭壇の上で頭《こうべ》を垂れる、俺を見下ろしていた。
「恐《かしこ》み恐《かしこみ》み白《もお》す──」
 囁き声やのに、ずしんと腹に響くような霊威をもって、俺の祈る声はあたりに響いた。それは音ではなかったんかもしれへん。声に乗せた、霊的な何かや。
 只人《ただびと》に、それがとういうふうに聞こえるんか、俺にはわからへん。普通やったことがないから。せやけど、その場に居合わせた、霊振会の皆々様には、その声が、ちゃあんと聞こえていたやろう。誰も彼も皆、この世ならぬものの力を見る目を持ち、常ならぬものの声を聞くための耳を備えた巫女やら覡《げき》やら、式神たちやらや。
 祭壇から響く、俺の声は、三都の巫覡《ふげき》の王を名乗るにふさわしい霊威に満ちていた。その偉容に、神事に馳せ参じた霊振会の面々は、自然と跪いていたそうや。
「効いてる、アキちゃん……聞いてるで……!」
 囁く声で、すっかり美少年モードの大崎茂がご注進してきてくれた。やめろ気が散る、俺に話しかけんといてくれませんか!
 しかし勿論、それは俺に話しかけてるわけやない。勘違いすんな俺。お前やのうて、おとん大明神にや。
「皆にも唱和させろ、茂。なんのために、ここにぎょうさん集まっとんねん。仕事せえ。こういうのは、強いのがひとりより、ヘタレでも大勢のほうがええんや」
 霊振会の皆さん二千人ぐらい全部まとめてヘタレ呼ばわりやった。これについては皆には黙っといてもらいたい。今さら揉め事なったら俺も秋津の当主として立場がない。針のむしろや。そういうのは勘弁してもらいたいんや。
「そや……そうやった……!」
 焦りまくって茂ちゃんは、跪いた姿勢のまま、祭壇の外に集う皆の衆に向き直っていた。
「皆も一緒に祈れ。ひとりでも多くの祈りが必要なんや!」
 大崎先生、そやそや、そうやった、ってさぁ、忘れてたんか。あんた鯰退治はこれで二回目なんやろ。自分で段取りした神事なんとちゃうの。その段取り忘れてポカーンて見てるなんて、一体どんだけブッとんでもうてたんや、この時。見とれとったんか、この俺様の完璧な祝詞シーンに。
 違うよな! おとんの祝詞シーンにやな! なぜかむかつく! むかついたらあかんとこで俺はムカついているな!
 霊振会の皆さんもやな、何かないのん。うわあ大崎茂若返ってる、いきなり美少年なってるドン引きやとか、そういうのあるやろ。
 無いねんなぁ、なにも。内心どうかまでは知らんけど、えっザワザワこれ誰やねんとか、そういうの一切なしやねん。変やない? 全員おかしいよ。なんでそういう普通でない出来事を普通に受け入れてまうねん。それでええんか霊振会。
 見た目ピチピチの美少年みたいになってもうてる大崎茂の命令でも、皆さん素直に聞いてた。たとえほっぺたピンクでも、天下の大崎茂やからかな。飛び出す液晶テレビがもうすぐ発売やからかな。ポケットマネーが何億とかいう、ものすご金持ってる会長さんやからかな。そやからみんな言うこときくんか。
 違うな。たぶん皆は大崎先生の言うことを聞いていたんやない。
 別に、いきなり美少年やったからって、大崎先生の株が下がったわけやない。むしろ一部で変な風に株価がアップしていた恐れはあるが。
 皆は、俺の言うことを聞いていたんや。三都の巫覡《ふげき》の王の。その名に恥じない霊威を発する、秋津の暁彦様の、ものすごい霊力に、深く考えるまでもなく自然と平伏していた。
 それも、俺の、ではなかったやろな。使うてる霊力は紛れもなく俺に由来するもんやけど、俺自身はそのふんだんにある天地の恵みを使いこなすだけの器量がなかった。そやけど、おとんは違う。見事に使いこなしていた。
 そして、それは……俺が本来ここにいる時、使いこなしているべき力やったんかもしれへん。
 恐《かしこ》み恐《かしこみ》み白《もお》す、と相和《あいわ》する、二千名を数える巫覡《ふげき》の祈りが、冥界を透かす岩だなに、繰り返し木魂した。それは地を揺るがす鯰《なまず》という神を、地の奥底に再び押し戻すための、霊的な力合戦やった。
 鯰《なまず》様はクラクラ来ていた。明らかに酩酊したようになっていた。
 ふらりとよろけるような一歩で、足とも手ともつかん、でかい何かが、岩肌の向こうから伸びてきて、ずしんと六甲の地面に振り下ろされた。それだけで、神戸は強い余震に揺れた。
 祝詞に誘われ、ずるりと這い出してきた地の底の神が、ゆっくりと頭をもたげ、覆い被さるようなでかさで、祭壇にいる俺を見下ろしてきた。涎《よだれ》とも何ともつかん滴りが、どろどろと、洞穴のような鯰《なまず》の口から流れ落ち、祭壇を濡らした。
 水煙を構えた腕で、おとんは祭壇に立つ、虎を指し示した。俺の腕で。信太のことを。あれを食えと、鯰《なまず》に教えた。
 おとんを見据える信太は暗い目をしていた。
「本間先生。正直に言う。ほんま言うたら俺は怖い。こんなもんに食われんのはなぁ、バリ怖いんやで。たまりませんよ。それでも、先生やったらまあ、生け贄になったってもええかな、と思えた。それがまさかこういう事になるとはなぁ」
 誰にも聞こえんような、ひそやかな声で、信太は愚痴った。俺にはそれは、よう聞こえたわ。
「ちゃんと修行してくれ先生。立派な覡《げき》になって。俺はそれをあの世から見てますから。先生がちゃんと、三都の巫覡《ふげき》の王様になるのを」
 先生はまだまだ、ほんまの自分の人生を、生きてないんとちゃいますか。それで龍に食われて死ぬなんてのは、俺にはあんまり可哀想すぎるわ。
 なんとかならんの、大先生。それともあんたは、自分の子でも、平気で食わせる鬼なんか。
 そうかもしれんな。鬼や、あんたは。
 怜司がどんだけ、あんたのせいで苦しんだか、ちょっとは分かってやってくれ。
 人でなしにも、心はあるんや。
 虎はそう、恨み言をおとんに吐いたが、それは人の耳に聞こえるような、言葉ではなかった。もしかしたら俺とおとんにだけ聞こえた話やったんかもしれへん。
 おとんには、ちゃんと聞こえていたんやと俺は思う。そうでないと困る。信太がそれを言いたかったのは、俺にやのうて、おとんにやったんやろうからな。
 そやけど、おとんはなにも返事せえへんかった。俺も信太に、なんも言うてやられへんかった。なんせ祝詞《のりと》を唱えなあかん。鯰《なまず》様を操ってんのは、他でもない、俺の唱える祝詞《のりと》の力で、それと拠り合うように唱えられる、皆の祈りの力やった。
 いつのまにか、神戸が祈る声がした。
 遠くのどこかで、教会の鐘が鳴っていた。なんで鳴ってんのかわからへん。もともと、そういう手はずやったんか。あれはたぶん、三ノ宮や六甲にあった、キリスト教の教会がうち鳴らす、鐘の音やろう。
 それだけやない。寺の梵鐘《ぼんしょう》まで鳴っていた。
 また別のどこかからは、イスラム寺院から響く、アザーンの声が。
 あるいは、お助けください、お救いくださいと、誰にともなく、何に祈ってよいかもわからんままに、家族や自分や、友達や、誰でもない誰かの無事を祈る、無数の人々の声がした。
 それぞれ流儀は違ったやろう。祈る相手もバラバラやけど、祈る心のキモにあるもんは、同じやった。死にたくない、死なんといてくれ、無事でいてくれと、ただ一心に祈る言葉、そして、言葉にもならない、呆然とした祈りやった。
 ひとつひとつは、ちっぽけな力やったかもしれへん。しかしそれが拠り合わされて、しだいに強い思念の糸になり、やがて揺るぎない祈念の引き綱になるのを、俺は感じた。
 それは自然に起こっているんやない。俺がやっているんや。俺を操り、おとんがやっている。お前の力は、こうやって使うんやでと、おとんはこの土壇場で俺に教えていた。
 いかにして強大な神と渡り合えばいいか。
 それは単に……言葉にすれば単純や。ただ神に、祈ればええんや。皆でな。
 鯰《なまず》は確実に、祈りに操られていた。もう骨たちの狩り集めてきた人々の命を食おうとは、思うてもみないようやった。おとんの繰り出す祝詞《のりと》が示す、虎食って満腹のコースに、すっかり魅了されてもうたらしい。
 美味そうやなあと、ますます滴る涎《よだれ》を垂らし、ずらりと鋭利な牙が無数に渦巻いて生えた大口を開いて、鯰《なまず》は信太の真上へ身を乗り出していた。
 信太はもう、それを見上げはせえへんかった。ただじっと、目を閉じて立ち、かすかに項垂れているだけやった。
 怖いんやろう。誰かて怖い。俺もおとんに操られてへんかったら、とても正視はでけへんかった。信太があれに、食われようとするのを。
 せやけど、おとんはじっと、それを見つめた。
 そして俺に、お前は目を逸らしたらあかんと、やんわり叱る口調やった。
 皆は怖ければ、目を背けてもええやろ。確かに凄惨な光景や。そやけどお前はあの虎の主《あるじ》やろ。あいつが死ぬのを、見届けてやらなあかん。そして憶えといてやらなあかん。皆が気づきもせえへん、いずれ忘れてしまう、誰のおかげで、この街が助かったか、永遠に生きるというんやったら、お前は永遠に、それを憶えといてやらなあかん。
 それぐらいしかないやろ。お前や俺に、してやれることは。せやし、まっすぐ見つめなあかん。お前にしか見えへん、現実を。
 そう話す、おとんの話は、親が子供に教えこむ話というより、まるで同い年の友達が、思いの丈を俺に語るようやった。
 お前はそうは、思わへんかと、おとんは俺に訊いた。
 俺はそれに、なんも答えられへんかったけど、目の前の光景から、目を逸らしはせえへんかった。
 鯰は手とも足ともつかん、無数の蛇のような何かで、いかにも大事そうに、信太を掴んだ。これはなんという美味そうな虎やと、慈しむような仕草やった。
 鯰《なまず》に祈る、大勢の巫覡《ふげき》の言霊が、押し寄せるように渦巻いていた。
 儀式は成功するやろう。失敗する余地なんかあらへんくらい、おとんの祝詞《のりと》は完璧やった。
 許してくれとは、俺は信太には祈らんかった。
 痛くて苦しいかもしれへん。俺を恨め。お前をこんな目に遭わせたんは俺や。俺をずっと、恨んでくれてかまへん。俺はずっと、お前のことを憶えとく。お前が神戸を、俺が守護する三都を救う、生け贄になってくれたことを、忘れへん。誰が忘れても、たとえ俺が死んでも、お前の苦しみのことは、俺の魂に刻んでおくから。
 そう祈る俺を、信太はほんの、一瞬だけ見た。その食い入るような黄金の目と、見つめ合えたのは一瞬やった。
 鯰《なまず》はとうとう、信太を食うことにした。一口でぱくりと。一気にごくんと。呑もうと思えばできるやろうに、なんでか奴は、味わって食った。たぶん美味かったんやろ、本当に。
 足から呑まれて、信太は悲鳴をあげた。でもそれは、もう人の声やのうて、虎の咆哮する声やった。あんまり辛うて、人型でいられんかったんやろう。見る間に変化して、元の正体である、巨大な虎の姿になっていた。
 それでも信太は、逃げはせえへんかった。とらえた鼠《ねずみ》を少しずつ食うような、残酷な怪物に、おとなしく食われていた。
 俺はもう悲鳴どころか声ひとつ出えへん気分やった。祝詞《のりと》どころやない。俺が一人で事にあたっていたら、ここであっさり儀式は失敗しとったんかもしれへん。
 しかし、さすがはおとんと、言わなしゃあない。おとんは少しも揺るがず俺を操り、儀式を続けさせた。
 それでも、おとんが泣いてるような気がして、俺には不思議やった。おとんにとって、信太はちょっと、気にくわん奴やったんやないか。朧《おぼろ》をとられて、焼き餅のひとつやふたつ、あったんやないか。場合によっては、死ねばええわ、ざまあみろと、思いはせんかったか。
 生け贄にされて、苦しむ式《しき》を見て、おとんは泣いてた。こんなことは俺は子供のころから何度も数知れずやった。あの虎は俺のことを、鬼やと言うたやろ。ほんまにそうや。あいつの言うとおりや。お前には、こんなことはさせとうないという、お登与《とよ》の気持ちもよう分かる。
 そやけど、暁彦、この仕事はお前にしか、でけへんのや。お前は俺を越える、比類ない覡《げき》になれるやろ。逃げてもええとは、俺はよう言わん。こんな恐ろしい神が、三都にはうようよいてんのに、守護する者が誰もおらんで、なんの力もない民が、恙《つつが》なく幸せに生きていけるわけがあるやろか。
 あの虎のように、お前も覚悟するしかないんや。お前はこの都《みやこ》の安寧のために捧げられた、生け贄なんや。秋津の家督を継ぐとは、そういうことや、暁彦。恨むんやったら俺を恨め。お前をどこにも逃がさへん。お前はこの三都を守る、人柱になるんや。
 わかってくれ、アキちゃん。辛いやろうけど、伏して頼む。この都を守る、巫覡《ふげき》の王になってくれ。
 お前のほかに、それをやれる奴はおらへん。
 三都を守護する、鬼になれ。
 そう祈る、おとんの口調が泣いていて、この人も、鬼とは言え、自分の子を食わせるのんは、辛いんやろなと、俺は思った。
 俺も辛い。そうやけど。俺はもう、始めてしもた。いつからやったやろ。いつも逃げてて、思えばヘタレやった俺が、逃げるのをやめたのは。
 たぶん亨と、出会ってもうたからやろ。
 あの夜、ホテルのバーで、なんでかあいつと出会ってもうて、あいつがおらんと生きてられへんような気がしてん。俺がなんでもない、ただの人でも、あいつはかまへんて言うんやろうけど、これは見栄かな。
 いつも逃げてる、ヘタレのままやと、俺はあいつにふさわしい相手に、なられへんような気がしてん。俺のほんまの、ほんまのところを、あいつに全部、見てもらいたかってん。
 俺がほんまは、三都の鬼でも、あいつは俺を、愛してくれるやろか。アキちゃん好きやって、そんな俺の正体を見ても、ずうっと変わらず、そう言うてくれるか。
 そんなの無理でも、俺にも無理やってん。ずうっと自分を偽って、騙し騙しやっていくには、俺はあんまり、水地亨が好きすぎた。
 ほんまもんの俺を、あいつに見てもらいたかってん。たとえそれが、鬼でも蛇でも。精一杯、全力で生きてる俺を、あいつに見せたかったんやと思う。
 俺でも目を背けたいような、ほんまもんの俺を、あいつが好きやと言うてくれたら、俺もやっと、本当の自分の人生を、生きることができる。向き合いたかってん、自分が生まれ持った運命と。今までずうっと、その勇気がなかったけど、でも、もう、逃げ隠れしたらあかんような気がしてん。亨のことを、好きやって思った、その瞬間からずっと。
 逃げるのんは、もうやめやって、そういえば信太も言うてたな。
 信太はいったい、何と向き合おうとしたんやろ。いったい何を覚悟して、何に命を賭けたんや。
 その結論は、南のほうから飛来した。
 一見、真っ赤に燃える火の玉やった。
 ものすごい速度で突っ込んできた、白熱するほどの火の塊が、あっという間もなく、虎を食うてる鯰《なまず》に激突していた。六甲の岩肌のような、ひどく固いらしい鯰《なまず》の体に叩き付けられた、燃えさかるでかい火球は、よう見れば鳥やった。
 不死鳥や。俺がまだ、平和そのものやったヴィラ北野の中庭で、寛太に描いてやったのと同じ、真っ赤に燃える鳥が、炎のようなオーラの中にいて、鋭い金のかぎ爪で、鯰《なまず》に食らいついていた。
 山が軋むような、恐ろしい声で、鯰《なまず》が呻《うめ》いた。悲鳴というより、不愉快そうな声やった。痛いのか、熱いのか、何かそういうものは感じたようやったけど、それが何か、鯰《なまず》にとって、脅威やという感じではなかった。
 せっかくの食事の最中に、飛んできた虫に刺されてもうて、不愉快やったわという程度や。
 鯰《なまず》はどれだけ、強大な神なんやろう。この神を倒せるやつなど、どこにもおらへん。たとえそれが、倍にも育った、巨大な不死鳥でもや。
 寛太はアホやし、そんなことも分からんかったんやろうか。
 不死鳥は明らかに、鯰《なまず》を攻撃していた。金色の鋭い嘴《くちばし》とかぎ爪で、蠢く鯰《なまず》の咀嚼する口元を、一心に引っ掻き、こじ開けようと必死やった。
 皆、騒然とした。神聖なる神事で、鯰《なまず》様をなんとか宥《なだ》め賺《すか》して説き伏せようとしているときに、何をすんねんお前はという、そんな空気やった。
 おとんが小さく、舌打ちしたような気がした。まずいなと、おとんも思うたんやろ。もしこれで、神事が失敗するようなら、大事《おおごと》やった。
 そやけど寛太の特攻は、鯰《なまず》を痛めつけるというより、ほとんど自傷みたいなもんやった。強すぎる相手に戦いを挑んでも、傷ついてるのは不死鳥のほうや。悲鳴のような鋭い鳴き声を上げ、不死鳥は無我夢中で鯰《なまず》を突っついていた。
 今すぐやめさせなあかん。そう思いはしたけど、俺の体は動かんかった。どないして止めたらええのか、見当もつかんかったし、なんで寛太がそんなアホなことをしてんのか、理由がわかってる身では、やめろと言うのも鬼な気がして。
 そやけど、ほんまは、俺が止めなあかんかったはずや。俺が祭主で、鯰《なまず》様を接待している神官なんやし、粗相があってはまずいやろ。
 でも結局、俺は修行が足らんかったわ。情《じょう》が勝ってもうて、鬼になりきられへんかった。
「あかんで、寛太。お前は下がって、大人しいしとけ。お前いったい、どないしてここへ来たんや……?」
 ゆらゆらと、曖昧に輪郭をゆらめかせ、胸まで食われた虎が、また人の姿に化けた。片腕だけ残った右手で、信太が金の嘴に触れると、不死鳥ははっとしたように、鯰《なまず》を突っつくのをやめた。
「兄貴、やっぱり無理やわ。こんなんやめて、もう帰ろ」
 触れられた信太の手のひらに、頬をすり寄せるようにして、不死鳥もまた寛太に戻った。あちこち焼けこげた格好で、髪も乱れ、まるで火事場を突っ切ってきたみたいやった。
 寛太は必死で信太の腕を引っ張っていたけども、鯰《なまず》ががっちりくわえ込んでて、びくともせえへん。まるで六甲の岩肌に挟まれてるみたいや。鯰《なまず》が咀嚼するような、ものすごい音は、ずっと止まずに聞こえてた。いったい何を噛んでんのや。
「やめろ言うても、もう無理やなあ、寛太。こう見えて、もう結構食われとうで……」
 皮肉めかせて笑う信太はぐったりしていた。顔色も蒼白を通り越して紙のようやった。
 いや、紙というより、漆喰で塗られた壁のようやった。信太はもしかしたら、元は真っ白い壁に描かれた絵やったんやないか。鯰《なまず》に命と霊力を吸い取られ、信太はまた元の、一枚の絵に戻ろうとしていた。その、岩に描かれた絵のような、信太の手に触れ、寛太は見るからにわかるほど激しく震えていた。
「い……嫌や。嫌や。嫌や。嫌や……痛いやろ、兄貴」
 涙をぽろぽろこぼしながら、寛太は信太にすがりついていた。その哀れに打ちひしがれた背を、信太の手が、よしよしと、やんわり撫でてやっている。
「いいや、大丈夫や。もう、言うほど痛くない。むしろ何にも感じんようになってきた」
 寛太を見つめる、信太の目は虚ろやった。邪魔が入らんようになり、鯰《なまず》はまた機嫌を直したようや。岩肌にとりつく寛太には目もくれず、鯰《なまず》はごくりという音とともに、信太をまた少し、呑み込んだ。深い底なしの沼に、ゆっくり沈む餌食の虎が、少しずつ消えていくかのようやった。
「嫌や! 嫌や、兄貴、逝かんといてくれ!」
 火がついたように焦り、信太の肩に縋りつくようにして、寛太は煤《すす》で汚れた頬に、ぽろぽろ大粒の涙を流していた。
「来たらあかんて言うたやろ……なんで俺の言うこときかれへんかったんや、寛太」
 寛太の額に頬を寄せて、信太は片腕だけでも、鳥をしっかり抱いてやっていた。寛太はそれに寄りすがる雛鳥《ひなどり》のように、信太を食うてる岩肌に、身をすり寄せた。
「堪忍や、兄貴。でも、無理やわ、そんな……死なんといてくれ。置いていかんといて。死ぬんやったら俺も、一緒につれていって……」
 自分もその岩に、共に呑まれようというように、寛太は六甲の岩肌に身を寄せたが、鯰《なまず》はもう、なりを潜めて、もう元のとおりの岩山に、戻ろうとしていた。儀式は無事に完遂されたらしい。山は供物を受け入れ、再び長い眠りに落ちようとしてる。うとうとと、まどろみながら、虎の最後の一片を、食うてしまえばそれで終わりや。
「無理やな、それは」
 苦笑して、寛太は抱き寄せた寛太のくしゃくしゃになった赤い髪を撫でてやっていた。
「お前は不死鳥なんやろ。不死鳥は死なれへん。死ねるようならお前は、最初から存在せえへんかった鳥や。神戸が喚んだんは、ただの鳥やのうて、フェニックスなんやしな……寛太。そうでないなら……お前は、存在せえへんのや。この手も……命も……魂も、お前には、なかったことに、なるんやで……?」
 じっと見つめて、信太は寛太の白い手を握り、不死鳥の赤い目を見つめた。強く言い聞かせるような、信じる目やった。
「不死鳥やろ、寛太。いつまでも……ぼやっと霞んだみたいなままでは、あかんのやで。お前はあいつとは、別モンやないか。怜司の真似すんのは、いいかげんやめろ」
 真正面から言い聞かせられて、寛太は震えたようやった。ただ荒い呼吸に胸を喘がせるだけで、なんも答えられへん。
「やめてええねん。お前が好きや。お前らしくしたらええねん。お前は神戸の……俺の不死鳥なんやろ?」
 再び寛太の腕を引き、抱き寄せる仕草をする信太の頬に、びしっと細かい亀裂が走った。崩れ落ちる壁が、そこに描かれた絵を道連れにするように。
「嫌やぁ! 信太……!」
 悲鳴そのものの声で、寛太は叫び、逝こうとする虎を現世に引き留めようとでもいうんか、強い手で、信太の腕を握りしめていた。
「キスしてくれ寛太。俺はもう逝く」
 囁く声で、虎が強請ると、寛太は少しためらいがちに、信太の唇に、唇を寄せた。虎が寛太にキスしてやってんのは、よう見たけども、その逆は、これが始めてやったんかもしれへん。
 尽きようとしてる命の火を、口移しに分け与えようとするような、甘くはない、神聖なような口付けやった。
 何度もそれを繰り返し、寛太はやがて、嗚咽した。しても無駄やと、悟ったらしい。何度、唇を合わせたところで、それで死に行く虎を、引き留められる訳やなかった。
「なあ寛太、さっき俺のこと、信太って呼んだやろ……。それも、ええなぁ……なんか、ええわあ。俺もとうとう、お前の兄貴を卒業できるんかな……?」
 虎は細かくひび割れながら、それでもにこにこ笑って見えた。ほんまに嬉しそうやった。
「俺を探せ、寛太……俺にも魂があるなら、死んでもずっと、お前のことが好きや。俺をまた、蘇らせてくれ。俺の神戸を……俺の不死鳥。お前とまたこの街で……もう一遍、出会いたいなぁ……寛太。思えば、お前に言うてへんこと……一杯、一杯、あったわ」
 屈託のない、子供みたいな笑みのまま、信太は寛太の腕を握りしめていた。
「ごめんな、寛太。俺らには、ちょっと、時間が、足りへんかったな。ほんま言うたら、怖かったんや。お前が俺を、ほんまに好きか……ずっと怖くて。俺はほんまに、弱い弱いタイガーやったなぁ」
 寛太、と、呼びかけている信太の声は、ほんまに掠《かす》れて弱々しかった。
「俺のこと、好きやったか?」
 消え入りそうな、声で訊ねる相方に、寛太は泣いた。
「なに……言うてんの……ずっと、ずっと好きやった。生まれた時からずっと、お前のことが、めちゃめちゃ好きやったのに……なんでや、なんでや畜生っ! 嫌やっ! こんなん嫌や……嫌やああああああっっ!!」
 絶叫する寛太の声は、長く尾を引く怪鳥の声にふさわしく、耳をつんざくような鋭い悲鳴やった。天を仰いで嘆く寛太の手の中に、もう信太の手はなく、白く崩れた漆喰壁の、細かい砂のようなのが、六甲颪《ろっこうおろし》に吹かれてあえなく飛び散っていくだけやった。
 わなわな震えた赤い翼の、悪鬼のような目をした男が、ゆらりと立って俺を見ていた。
 枯れたような、乱れた赤い髪。暗く光る、爛々とした目。
 これは誰やと思うくらい、俺の知らない神やった。
「なんでや先生……」
 慟哭《どうこく》に嗄《しわが》れた声で、そいつが俺に訊いた。
「なんでお前らのために信太が死ななあかんのや。返してくれ。俺のもんやった。俺のもんやないか……。元に戻して。元通りにして……俺に返してくれ、先生ッ!!」
 鬼や。
 俺を見据える、寛太の目は、暗い血のような赤に染まり、深い暗黒を宿してた。寛太の立ってるところから、真っ白やった祭壇の床が、めらめらと燃え、見る間に黒く焼け落ちていき、その燃えさかる炎の上を、寛太はこともなく、それでも微かによろめきながら、俺のほうへ近づいてきた。
 熱い。熱を感じる。それよりも強く、自分の身を焼く恨みの思念を、俺は感じた。
「他の誰でもよかったんやろ。なんで信太なんや。なんの恨みがあって、信太を選んだんや、お前は……」
 燃える手で、俺の首を絞めようとする赤毛の男は、もう人間の顔はしてへんかった。
 斬れ、アキちゃんと、水煙が俺に呼びかけた。
 まだや、堪《こら》えろと、おとんが俺を諭した。
 俺は堪《こら》えた。水煙の柄を握りしめて。
 水煙の鍔《つば》が鳴る、かたかたという微かな音が、聞こえていた。
 寛太は確かに、もう、鬼になっていたんやろ。それは、しゃあない。こいつはほんまに、信太が好きやったんやろ。俺かて、そうなる。もしも誰かが亨を俺の見ている前で、鯰《なまず》の生け贄にして殺したら、俺かて、とても、正気ではいられへん。
 誰かて鬼にはなれる。鬼やというて、いちいち斬って捨ててたら、この世には誰もおらんようになってまうわ。
「お前が死ぬんやったらあかんかったんか……」
 囁きかけるような熱い息で、寛太はまた、俺に訊ねた。間近に見える悪鬼のような寛太の目と、俺は黙って見つめ合った。
「なあ先生。人でも式《しき》でも、なんぼでもおるやないか。あの化けモンに、食いたいだけ食わしたったらよかったんや。そうやろ。俺の信太はな、一人しかおらん。一人しかおらんかったんやぞ……!」
 寛太の深紅の瞳の奥に、俺への憎悪が燃えていた。俺にだけやない。この神事にまつわる何もかもを。信太を食らった鯰《なまず》という神を。それを鎮めなあかん理由やった、神戸という街に住む人間の全てを、寛太は恨んでいるようやった。
 確かに、そうや。お前にとって信太は、掛け替えのない相手やったやろ。そんなことは俺も、分かっていたはずやったんやけど。
 ほんま言うたら俺は、分かってへんかったんかもな。お前がどんだけ辛かったか、分かってへんかった。皆、自分の辛《つら》い苦しいは、よう分かっているけど、他人のことには無頓着や。自分が可愛い。
 ほんま言うたら俺は、ここで鯰《なまず》に亨を食わせ、龍には自分か水煙を、くれてやればよかったんやろ。信太を巻き込む必要はなかった。俺はただ、あいつより、亨や水煙が、可愛かっただけで、我が身可愛さに目がくらみ、虎が死んでもしゃあないわと、どこかで妥協したんやろ。
 あいつも、それでいいと言うてたし。それでええわって、そういうことにしたかったんやろ。
 お前の気持ちなんて、これっぽっちも分かってなかった。寛太。
 お前は今、神戸を呪う悪鬼になってもうてるかもしれへんけど、お前にとっては、俺が鬼やろ。血も涙もない。愛しい者を平気で殺す。そういう、恐ろしい、憎い相手や。
「返してくれ、先生」
 流れ出る血のように、とめどない涙をこぼして、寛太は俺に頼んだ。
「できへん。俺には無理や。死んだもんを生き返らせるのは……」
「無理でもやれ!」
 怒鳴る寛太の声は熱風のような霊波になって俺の体に押し寄せた。恐ろしいような霊力《ちから》やった。
「お前が絵を描け……。信太の魂が戻ってこれるような、ものすごい絵を、一生かけてもお前が描け。お前が信太を殺したんやないか。お前が責任をとれ……!」
 抑え込まれた、化けモンみたいな声で、寛太はゆっくりと俺を締め上げながら、言い募った。
 自分の体が少しずつ焼けこげるような痛みと、燃える絹の臭いがした。
 俺の体を鷲づかみにするかぎ爪のある手を、寛太はがたがた震えさせていた。その目から止めどなく流れ出る涙が、炎に触れて、じゅうっと爆ぜて、次々に白木の床に落ちると、そこからなぜか、杉の若芽が、どんどん湧き出すように萌え出て、燃える床板を圧倒する勢いで、俺の足下を埋め尽くそうとしていた。
 濃密な、杉の匂いが立ちこめていた。深い深い、森の奥にいるみたいに。
「寛太……すまん。俺には無理なんや。けど、お前には、できるんやないか。お前は神戸の不死鳥で……死んだもんでも、蘇らせる霊威を、持っているんやろう。信太はそう、信じてたやないか。お前がそうなんやって、ずっと言うてた。お前はほんまに、そうなんやないんか……?」
 お前はほんまに神戸が喚んだ不死鳥で、ただ自分で自分の力をどう使うてええか、知らんだけ。俺がずうっと、秋津のぼんくらの坊《ぼん》やったみたいに、お前も自分の正体を、まだ知らんだけなんやないか。
 五芒星《ごぼうせい》を象っているらしい、祭壇の上から、寛太の放つ炎は、外へ漏れ出ていかんようやった。ここは一種の結界で、俺がやったんか、誰の仕業か知らん、寛太はその内側に、閉じこめられているらしかった。
 その閉じられた中で、何もかも焼き尽くすような火と、萌え出《いず》る生命とが、せめぎ合っていた。まさにそれが、不死鳥・寛太の持っている霊威やったんや。
 伝説によれば、不死鳥は、我が身を焼き尽くした灰の中から蘇り、ふたたび誕生する神や。死と生とが、終わりのない輪のように、永遠に繰り返す。不死鳥は時を、死を、超越できる鳥や。
「信太がお前を見つけた時、お前のいる周りに、数え切れんぐらいの、ひまわりの花が咲いたって、言うてたやろ。今も見てみ、この床の、もう材木になってる木から、どんどん芽が出て伸びてるわ。これはお前が、やってんのやろ。俺はなんにも、してへんのやし」
 俺がぶつぶつ言うたところで、それが寛太の心に届くのかどうか。
 それでも寛太は悲しそうに、自分の涙から生まれ出る、再生の奇跡を見下ろしていた。
「木なんか生えても、しゃあないねん……先生。信太がおらん。死んでもうた……」
 嗚咽して、寛太は小さい子供みたいに、一心に嘆いていた。
 それがあんまり可哀想で、俺には言葉もなかった。俺のせいやという、自責の念もあって、なんと言うていいか、それ以上なにも思いつかんかったんや。
「死んでもうた……」
 ほろほろと、燃え崩れるように、寛太が端から、ほどけるのが見えた。髪の先から、燃える炎にゆらめく肩や、指先から、燃えかすみたいなんが、ほろほろ風に飛ばされていく。
 えっ。なにこれ。ヤバ……?
 消えてもうて、それで終わり……?
 そんな。
 そら確かに、こいつが鬼になってもうて、俺はそれを斬って捨てなあかん。そんなオチは嫌やけど、これも、どうやろ? これって、ちょっと……俺はちょっと……。
 そんなオタオタしてきた使えない俺の、至らないところを埋めるように、ものすごドスの利いた、どっかで聞いたことあるような声がした。祭壇の、下の方から。
「なにフェイドアウトしとんねん、寛太! このドアホ!!」
 誰!?
 俺も思わず、その声のしたほうを見た。
 水地亨やった。
 なんや亨か。
 えっ、亨!? なんで居るねんお前。ホテルに置いてきたのに!
 しかも服なんか燃えててボロボロや。なんで燃えてんのや亨。それに鼻の横んとこに、ぐいって擦ったっぽい黒い煤のあとがある。間抜けやでお前。せっかくの美貌が台無しやないか。なんでもっと綺麗なままで登場でけへんかったんや亨!
 そやけど亨は全然気づいてないみたいやった。片方だけ微妙にナマズ髭っぽい煤汚れが自分の顔についてもうてることなんて。そんなこと、これっぽっちも気づかへんで、ものっすごシリアス顔やった。
「お前がしっかりせなあかんところやないか! お前、不死鳥なんやろ! ツレが死んだぐらいのことでガタガタ言うな!」
 亨は大マジで言うてるみたいやった。寛太は俺の首をまだ軽く絞めたまま、どことなく、ぽかんとして亨を見下ろしていた。
「亨ちゃん」
「蘇らせろ! お前がやりゃあええんや。Do it yourself !!《ドゥー・イット・ユアセルフ》」
 英語やった。勿論、自分でやれという意味や。それくらいは俺も普通にわかる。ただなんで今ここで英語なんやというのが意味わからんだけで。
「信太もさっき言うとったやないか。俺を探せて言うとったやろ。案外どっかそこらへんに落ちとんのやないか、あいつの魂は」
 そんなわけないやん……。
 俺は聞きながら青ざめていた。
 鯰《なまず》に食われたんやで。地霊のボスみたいなのんやで。冥界の眷属なんやで。怖い怖い強面の神さんなんや。それに命食われたやつの魂がどこへ逝くか知らんのか、お前は。俺も実は知らんかった。この時点では。
 行き先はな、冥界や。鯰《なまず》の体は冥界に繋がってるんや。鯰《なまず》は命を食うけども、魂は食わへん。それは冥界の神さんたちのもんで、とりあえず地獄とか天国とかにいき、ものによっては、そこで終わりやけど、多くの魂はいずれまた新しい命を与えられて、現世に再生されてくる。いわゆる輪廻転生やな。
 せやし虎の魂も、絵の妖怪に魂があるんやったらやけどな、鯰《なまず》に命をとられた後は、冥界にいるはずなんや。
 そこらへんとちがうで。冥界やで。冥界は、そこらへんか?
「そこらへんて……どこらへん?」
 寛太はほんまに気の毒なくらい心細そうに震えた声で、亨に訊いていた。
「知るか! 人を頼ろうとするな。すぐ人に甘えんのがお前の一番悪い癖や。自分でやれ。Do it yourself !!《ドゥー・イット・ユアセルフ》」
 また英語や。
「Do it yourself 《ドゥー・イット・ユアセルフ》……?」
 寛太リピートしてるわ。それに亨はめちゃめちゃ頷いてる。
「探したら……見つかるのん?」
「わからへん。でも、探さへんかったら、見つからへんやないか。他になにができるんや、寛太。お前があいつのためにしてやれることが、今、他にあるんか? あいつは死んで、お前は消えて、それでええんか。それで信太が喜ぶとでも思うとんのか、このアホ! 無能! ただの鳥!」
 ただの鳥……。
 そう言われて、寛太はものすご悲しい顔をした。
 もう、鬼のようではなかった。いつも見ていた、ちょっとぽやんとしたような、癒し系の美貌や。それが悲しみに窶《やつ》れ、疲れ果ててはいるけども、もう、誰かを恨むようではなかった。
「俺……ただの鳥なん?」
 涙目で、寛太はまた亨に訊いた。
「それはお前が自分で決めればええんや! 信太はお前が不死鳥やって信じてた。最後までずっと信じてたやないか。それを何で、お前が信じてやられへんねん。気合いを出せ!」
 気合い……? 不死鳥って、気合いでなれるもんなんか……?
 俺は目が泳いだ。でもこの際、亨の話に口を挟むのはやめた。挟みたいような気もしたけど、鳥さんが案外強く俺の首を絞めてくれてて、苦しいて声が出えへんかった。むしろ息も苦しかった。
「気合い……?」
 不可解そうに、寛太はうっすらと天を仰いだ。
 理解しようとするな、亨の話を。口から出任せ、無茶苦茶言うとるだけや。
「そうや気合いや。好きなんやろ、信太のことが。あいつが生け贄になったのはな、神戸のためもある。せやけどな、お前のためでもあるんやで。このまま、ただの鳥コースでいったら、お前には将来《さき》がないんや。腹減って死ぬか、人食って鬼んなるかや。その中間でもな、霊力《ちから》のある奴に次々抱いてもろて生きながらえなあかんのや。そんな皆さんの妾《めかけ》のコースでお前はええんか! 信太はそんなん見たないらしいわ! そんなんな、ずうっと我慢するくらいやったら、命かけても逆転満塁ホームランのコースを狙いたかったんや」
 ええんか、そんな一気にネタバレして。せっかく信太はこいつに何も言わんと逝ったのに。お前がまとめて全部バラしてええんか。
「お前がほんまに信太を愛してんのやったらな、あいつを蘇らせたい一心で、不死鳥としての霊力《ちから》に目覚めるやろうって、信太はそれに賭けたんや。あいつは信じてたんや、お前のことを。ほんまに不死鳥やって。その賭けに、命張ってもええわっていうくらい、お前のことを想ってくれてたんや」
 バンバン祭壇の床を叩いて、亨は力説していた。
 そ、そういう話やったっけ。そうやったような気もするけど。
 えっ。でも、あれやない? 神戸を救うためとか……その部分はどこいったんや。お前この話のピンク色の部分しか見てへんやないか。それは……それでええんか?
 それもな、アキちゃん黙っといた。息が詰まってたから。
「愛や! それが信太のお前への愛なんや! なんという、慈しみという愛や!」
 最後んとこ『風の谷のナウシカ』の台詞のパクリや。そやけど寛太は気が付かんかったらしい。観たことなかったんかな、『風の谷のナウシカ』。俺、アニメには正直あんまり興味ないんやけど、それでもジブリのは一応ひととおり観てんねんけどなあ。
「信太……」
 感動したんか、寛太はやっと俺の首を絞めてた手をゆるめてくれた。アキちゃん、めちゃめちゃ呼吸した。生きてるって実感があった。
「信太……俺、絶対に見つけるから。信太の魂……必ず見つけて、また、生き返らせてみせる」
「そうや。羽ばたけ神戸のフェニックス!!」
 亨もめちゃめちゃノリノリで寛太を激励していた。ものすご厳しいけど、ものすご人情深い、鬼コーチみたいやった。
 そんなんでええのかって思うけど、余計な口を差し挟む余裕は俺にもまだ無かった。実はほんまに若干、窒息しかかっててんで。死にかけてたんやで俺も! 殺されかかってた!
 そんな、ぜえぜえ言うてる俺の目の前で、寛太は鮮やかに、また赤と金色の燃えさかる鳥の姿に変転していた。その光にはもう邪悪なところは一点もなかった。あくまで眩しい、愛に燃える神聖な火の鳥や。
 ばさばさと優美に羽ばたき、不死鳥は金色のかぎ爪で、すっかり杉の若芽の草原みたいになった祭壇の上を数歩歩いたが、それを助走に、ふわりと重さを感じさせない動きで、天に舞い上がっていった。
 ぽろぽろとこぼれた涙が華麗やった。その涙には、すでに、愛しいものの再生を祈る霊威が秘められていた。具体的には、それが、怪我や病気を治す霊薬やったということや。
 飛び去る寛太の風圧と、それに乗った涙のしずくを浴びて、じりじり焼けこがされていた俺の火傷がみるみる完治した。自分で治したんかもしれへんけど、床からまた盛大に杉の芽がにょろーっと伸びてきていたから、たぶん不死鳥の涙の効用や。
 俺はそれを感じつつ、ヘトヘトんなって座り込んでいた。
 ものすご疲れた。儀式にも疲れたし、寛太にビビったのも疲れた。おとんとのフュージョンにも疲れた。神懸かりって疲れるんやで。正直もう、くたくたや……。
 そんなジュニアの状態に、おとんも察しはついていたんやろう。もう、神懸かっとく必要はないしな。それでおとんは、にゅるっと俺の中から出ていった。出るのは出るので、背筋がぞわっとしてもうて、気色悪かった。
「よう頑張ったな、アキちゃん。ようやった」
 おとんがにこにこして褒めてくれた。
「お兄ちゃん……」
 おかんが、ものすご激怒した声のままやった。
「なんやねん、お登与。そないな怖い声出して……」
「どういうことどすか。説明しておくれやす。儀式はこれで無事終わったんですやろ。なんで暁彦ひとりにこんな危ない目ぇをさせたんか、ウチにもようわかるよう、きちんと説明しておくれやす」
 ぴしゃぴしゃと、おかんは言った。怖かった。
「……いやいや、まだ終わってへん。まだ前半戦や」
 おとんはにこにこしていたが、気まずそうやった。作り笑顔やった。
「前半戦てなんどすか。後半戦にはなにがあるんどすか」
「龍や。新しい龍がな、神戸から天にお昇りになるんや。その時に、ここら一帯を食うてしまうという、お蔦ちゃんの予知でな。ヴァチカンの人らも、そないなことが予言書に書いてあった言うて、なんとかせえて頼んで来てはるらしい。……なんとかせなな?」
 おとんは事も無げに説明しようとしたらしいが、話聞いてるおかんの顔が、みるみる怒っていくのを眺め、だんだんその笑顔にも無理が出てきた。最後のほう、ほとんど無理すぎる笑い方やった。
「なんとかするって、どないするんどすか」
「どない、って……それはまあ、普通、生け贄やろ。伝統的には」
「うちの知る限りでは、龍神や海神には覡《げき》を捧げるのが普通どすな?」
「そやな。お前はほんまに女だてらに昔からよう勉強しとるわ」
 おとんは少々、わざとらしいまでの褒める口調やった。そやけど、おかんは当然、そんなもんでは誤魔化されへんかった。
「誰を遣るんどす?」
「えっ、何にや?」
 とぼけてるおとんの声を聞き、俺は自分が父親似やという確信を深めた。
「暁彦を生け贄にするつもりなんどすか」
「いやいや、そう結論を急いだらあかん、お登与。神事というのはな、土壇場になってみな、どう転ぶかわからんもんなんや」
「そないなこと、お兄ちゃんに言われるまでもおへん。うちかて秋津の当主として、この六十有余年、留守を守ってきましたんや!」
「堪忍してくれ、お登与」
 おとんは光の速さより速く謝っていた。おかんには謝るしかないという事を熟知しているような神速のごめんなさいやった。
「お蔦姉ちゃんの予知で、暁彦が祭主をつとめるのが一番良い卦《け》やったんや。ヴァチカンの人らも、予言書に暁彦の名前が書いてあると言うてはる。これは運命なんや。しょうがない」
「しょうがない……?」
 ものすご怖い感じに、可愛い顔をしかめて、おかんが聞き返していた。おとんは高速でこくこくと頷いていた。
「しょうがないことおへん! お兄ちゃんはすぐそうやって、したり顔どすな! 我が子が可愛いないんどすか。平気なんどすか、暁彦が龍神の生け贄になっても!」
「平気ではない。平気ではない」
 祭壇で言い争う、三都の巫覡《ふげき》の王様一家を、皆さんがポカーンと見てはったけど、今さらどうにもならんかった。俺もぽかんと見てた。
「お蔦姉ちゃん!!」
 おかんは、キリッと激怒の矛先を、祭壇の下にいた海道蔦子おばちゃまに向けた。蔦子さんは話が回ってくるのを予知してたらしい。さすがは稀代の予知能力者や。観念したような、来たかという顔で項垂れていた。
「堪忍しとくれやす。分家もそれはそれは必死で予知はしましたんや。竜太郎は危うくそれで命を落としかけたんえ。それでもな、どないしても、その未来になるんどす、登与ちゃん。ほんまの話、尽くせる手は尽くしたんえ?」
 蔦子さんは青ざめて、ものすごい早口でそう答えた。蔦子さんを乗せた雪狼の啓太が、ものすご後ずさっていた。
「茂ちゃん……」
 じろっと、おかんはゆっくり大崎先生を見た。大崎先生は祭壇に座ったまま、ビクッとしていた。
「茂ちゃんも全部知っておいやしたんやなぁ? それでもウチに黙ってたんどすか」
 おかんにねっとりと言われ、大崎先生は見た目にもわかるほどの脂汗をかいていた。
「そそそうやけど、堪忍や。言うに言われへんかったんやないか。それでのうても、お登与ちゃん、旅に出とって雲隠れやったんやし……」
「ウチのせいやて言うんどすか!」
 そう言うおかんの声は雷鳴のようやった。
「堪忍してくれ」
 おかんに怒鳴られ、大崎先生もかなり即答でごめんなさいやった。両手を合わせて拝みさえしていた。生き神様か、うちのおかんは。
「アキちゃん」
 おかんはしばらく唇を噛みしめて考え、そのあと急に俺に話を振ってきた。俺はびっくりした。自分とこに話が来ると思てなかったんで。
「アキちゃん。嫌やったらな、やりたないて、断ったらよろしおすえ。あんたはまだ一人前やないんやさかい、家のことはな、ウチに全部任せておけばよろし」
 おかんは深刻やったけども、俺の知ってる、いつもの優しい声やった。俺は見慣れたはずの、おかんの顔と、まじまじとしばらく見つめ合っていた。
 俺のおかんて、こんな甘い女やったろうか。
 おかんは確かにちょっと、俺には甘い。ずっと甘やかされて育ったなあ、て、そういう実感はあるつもりやったけど、俺はたぶん気がついてへんかった。自分がどれだけおかんに過保護にされ、現実の世の中から隔てられて生きてきたか。
 神やら魔やらが蠢いていて、それがひとたび生け贄を求めたら、自分の命をかけなあかんという、俺にとっての現実から。俺はずうっと、守られていた。
 おかんはこのまま、逃げ切れるもんやと、本気で思うていたんやろうか。
「お登与、今は暁彦が秋津の当主や。家督は譲った」
 おとんが困ったような顔をして、おかんを諭した。それに、おかんはキッと睨み付ける怖い目で、おとんと睨み合った。
「ウチが秋津の現当主どす」
「女子《おなご》では当主になられへんのや」
 おとんは、きっぱりとそう答えた。なんでお前はそんな当たり前のことも忘れてもうたんやと、微かに叱るような口調やった。
 おかんはムッとしたように、赤い唇を引き結んだ。俺の初めて見る、強情そうな顔やった。
「もうそんな時代やおへんえ」
「時代とか、そういう問題やないんや。秋津の当主になるというのはな、水煙の連れ合いになるということなんや。お前もそれくらいは分かってると思うてたわ」
 あっさりと言う、おとんのその話に、おかんはますます柳眉を釣り上げた。
 怖ッ。おかん怒ってるわ。どう見ても怒ってる。マジギレや。両親の痴情のもつれやで。そこに、実の子である俺が居合わせてもええんか。アキちゃん、マジでおろおろするわ。どないしよ!
 しかしさしあたっては、祭壇でヘトヘトになったまま崩れ落ちてる以外にすることはない。俺はめちゃめちゃ押し黙っていた。しんどくて口をきかれへんのもあったけど、何も言うたらあかん気がして、言葉が出てけえへんかってん。
 おかんは居住まいを正し、つんと顎を上げた気位高い様子を見せた。
「それくらいは勿論、わかってます。うちが水煙の連れ合いになればええんどすやろ」
「えっ……ちょっと待て。お前は急になにを言い出すんや」
 おとんの目が一瞬ものすご遠いところまでいってた。
「うちではあかんのどすか、水煙」
 じっと俺の握る水煙の刀身に目を向け、おかんは真剣そのものの声で訊ねた。
「えっ……ちょっと待てって、お登与。水煙は、その……男しかあかんのやで?」
 何が言いにくかったのか、おとんは言いにくそうやった。その言いにくさには俺も共感できた。
 それでも、おかんの真剣さには揺らぎがなかった。ただじっと水煙を見つめていた。
 水煙の刀身が、だらだら汗をかいていた。たぶん脂汗や。
『トヨちゃん……あのな……言いにくいんやけど、その……俺にはもう心に決めた相手がな』
「お蔦姉ちゃんが、水煙と接吻したことがあるて、言うておいやした」
 水煙にそれが可能やったら、たぶん吹いてた。でも剣やし無理やから、代わりに俺とおとんと大崎先生が吹いといた。
「なんやと水煙。どないなっとんのや、それは。お蔦姉ちゃんは俺の許嫁《いいなずけ》やぞ。しかも女子《おなご》やないか。な、な、なんで、そないなことになったんや! 俺は聞いてへん!」
 おとんも軽くマジギレしていた。マジギレしてええのか、おとん。何にマジギレしてんのや。
『人工呼吸やないか。蔦子が時流に溺れたもんやから、助けなあかんと思て……』
 水煙はなんで、おとんに言い訳する口調なんや? なんで、おとんに……? 俺にやろ、ここは?
「二回したて言うておいやした! 二回!!」
 おとんの陰から、おかんも何故かマジギレしたように指摘していた。
 二回!?
『二回て……二回やない。一回や。息継ぎしたから二回になっただけや』
 水煙は、怯んだようになって、律儀に説明していた。な、なんやそうか。それなら一回でええんやないか? 俺なんかはそう思たんやけど、おかんは納得してへんかった。
「二回どす! うちなんか、あんたが人型になったとこを見せてもろたこともあらしまへんえ! 夢にも現《うつつ》にもあらしまへん!」
『見てどないすんのや、そんなもん……』
 水煙、若干、おかんに引いてた。
「どないもしまへんけど、うちも見たいんどす! お蔦姉ちゃんが、綺麗やったわぁ、て言うてはったもん。お兄ちゃんにかて、夢枕には立つんどすやろ? なんでうちだけ仲間はずれなんどすか。ずるい。ずるいわ」
 ずるいか。
『それはお前に位相を渡る力がないせいや。どうも秋津の女子《おなご》には、その力より、時流と関わる力のほうが伝わりやすいみたいでな……ずうっと昔からそうやねんから、しょうがないやないか……?』
 そういうもんやろと、諭す口調でなだめすかす水煙に、おかんは、ぷう、とむくれた顔をした。
 俺はショックやった。俺のおかん、こんな人やったっけ?
 なんていうか、こんな……妹キャラみたいな人やった?
 おかん、俺の前では、ほんまの自分を隠してたんか。ずうっと隠してたん?
 俺がずうっと、子供のころから、俺のおかんはこんな女やと思うて信じてきてたものって、実はおかんの、ほんまの姿とちがうかったんか。
 ぽやんと可愛い、お姫《ひい》さんみたいで。優しくて。でも時々、すごく怖くて。強い巫女《みこ》さんで。いつもどこか、捕らえどころのない綺麗な笑みで、ちんまりと奥座敷の床の間の前に、座っている。いつも綺麗な着物着て。自分の親とは思われへん、若い、綺麗なままで。
 俺はおかんの、ほんの一面しか、知らんで生きてきたんやろうな。自分にとって、都合のいいところしか、見てへんかった。
『ようそんな、おぼこいことで、仮とはいえ、秋津の当主が務まったもんやなあ、登与ちゃん』
 危ないところやった、という響きのある口調で、水煙はぼやいた。それにも、おかんはまた一層、むかっとしたように、むくれた。
「うちかて精一杯頑張ってましたんや。仮やおへんえ。お兄ちゃんが出征された後、六十有余年、うちが秋津の当主どした。あんたもそれを認めておくれやす。それを認めておくれやしたら……」
 おかんは、ちらっと一瞬、俺のほうを見た。せやのに、視線を合わせようとすると、ふいっと他所向いて、また水煙の刀身に目を戻す。
「うちが現当主どすやろ。暁彦やおへんわ。うちが斎主をやります。それが筋どすやろ」
 おかんはぎゅっと、着ている裳《も》の裾を握るように、白い小さな手を握り合わせていた。おかんの手って、こんなに小さかったやろかと、俺はぼんやり驚きつつ、それを見つめた。
『登与ちゃん……お前には、もう、生け贄に差し出す式《しき》がおらんわ』
「わかってます。うちがなります。生け贄に」
 おかんは、あっさり、そう言うた。何の迷いも、躊躇いも、ないようやった。
 水煙は、それには答えず、黙り込んでいた。
「龍は、うちとは、口を利いてはくれはらへんのやろか。水煙。龍と話すには、それ相応の通力が、必要どすやろ。うちでは無理かもしれまへん。けども、あんたがうちの式《しき》として、後見に立ってくれたら、話は別なんとちがうやろか。あんたは龍の眷属や。月から落ちてきたんやて、代々言い伝えられてます。あんたは神々や、神格のある龍とも、口が利けるんどすやろ。そうやおへんか?」
 訊ねるおかんの話に、水煙はしばらく、うんともすんとも言わんかった。
 でも、それは、そうやと言うたも同然のようやった。水煙は、自分にできないことを、できると嘘つくようなタイプやない。つつましいんやから。
『登与ちゃん。やってみてもええ。試してもええよ。せやけど、蔦子の予知を聞いてからにしぃや。お前が斎主では、九割方、龍をなだめられへん。それが分かっていたから、暁彦はお前を三都から遠ざけたんや』
「なんやて……」
 おかんは突然、怖い声を出した。俺の知ってる、怖いほうのおかんの声やった。
 それを聞いただけで、俺はいろいろ縮こまった。俺だけやない。なんでか大崎先生や蔦子おばちゃままで、縮こまってるみたいやった。
 縮こまってへんのは、その声で言われ、じろりと振り向かれた当人。俺のおとんだけやった。
「お兄ちゃん」
 ものっすご怖い声で言い、おかんはおとんを睨んだ。
 蔵があったら逃げ込みたい。傍観者ポジションでも、そのレベルやった。
「何や、お登与。怖い声出して」
「お兄ちゃんが、旅行行きたいなあ、一緒にいこか、て呑気に言わはるから、うちものこのこ付いていったんやおへんか」
「そうやろ? 楽しかったなあ、お登与。ついでに俺の仕事も済んだわ」
 にこにして、おとんは言うてた。気の良いボンボンみたいやった。
「お兄ちゃんは、全部わかったうえで、ウチを連れ出したんどすな。ウチには一言も事情を話してくれはらへんと」
「そうや。知ってたら、強情なお前が、大人しい付いてくるわけないやないか。家に残って、邪魔しようとするやろ。今ちょうど、してるみたいにな」
「邪魔どすか? 邪魔やおへん。ウチが斎主をつとめますて言うてるだけやおへんか」
「それが邪魔やねん。頭冷やして考えてもみい。蔦子姉ちゃんの予知は外れへん。お前がやったら九割は失敗すんのや。失敗するというのが、どういうことか、お前はわかってんのか、お登与。三都は滅びてしまうのやで。龍に食われてしまうんや」
 おとんは、やんわりと、昔話でも語ってきかせるような、柔らかな口調で語った。
 おかんは黙った。石のように。いや、鉄のように、かもしれへん。おかんの黙《だんま》りは、どことなく水煙の沈黙に似てた。
「それでもかまへんて言うんか? ほんならお前は、秋津の当主やないんやわ。三都の守護が、お家の勤めや。三都を滅ぼし、我が身を助けて、それで何の当主やねん。お前も死にたいんやったら、死ねばええよ。殉死してやれ、暁彦に。可愛い可愛い、アキちゃん可愛い言うて、さんざ甘やかしてもうて、死ぬのにも、おかんに付いてきてもらわなあかんのか、俺の息子は。情けない話やで……」
 ちろりと、おとんは俺を流し見た。お前はそういう子なんか、と、問いただすような目やった。
「そろそろ放してやり、お登与。お前が捕まえてるかぎり、こいつは一人前になられへん。お前の可愛い息子はな、秋津の跡取りやねん。お前も当主やていうんやったら、そのことを思い出せ」
 それが血筋の定めやねん。
 おとんは少々、面白そうに、謡《うた》うみたいに、そう言うた。
 おかんはじっと、固く黙り込んだまま、それを聞いていた。
 返事があるとは、思えんような、かっちり固い沈黙で、おとんも返事は、待ってへんみたいやった。
 登与ちゃんと、水煙が心配げに、微かにその名を呼んでたような気がする。
 軽く項垂れて、じっとしているおかんは、いつもよりずっと、小さく見えた。
「うちは嫌どす、お兄ちゃん……」
 悲しい目して、おかんが急に言うた。
 俺は、おかんが泣いてんのを、たぶん初めて見た。
 おかんの大きい目に、大粒の涙が浮いてて、それがぽろぽと堰を切ったように流れ、白い頬を濡らした。大崎先生や蔦子さんは、それから目を背けていた。他の人らもそうやったやろう。
 泣いているおかんを、じっと見つめているのは、俺と、おとんだけやった。
「嫌や。龍に食われるために生まれたんやおへんえ。この子は画家さんになるんや。なりたいもんになって、幸せに生きていくんやから。暁彦……!」
 縋り付く目でおかんは俺を見て、息を喘がせた。
「嫌やとお言い。あんたも、ちゃんとはっきり、嫌やとお言いやす。皆に義理立てすることはないんえ。あんたの人生なんやから。あんたのしたいように、したらええのよ」
 したいように、すればええよと言いつつ、決まった答えを促すような、おかんの口調に、俺もしばらく言葉に詰まった。
 おかんはたぶん、俺のことを、大事に思ってくれてんのやろ。可愛い我が子や。死なんといてくれって、そう願ってくれてんのやろ。
 その、おかんを裏切るような返事は、しばらく喉につっかえて、そう簡単には出て来てくれへんかった。
 でも、いつかは、言わんとあかん。後で思えば、俺はこの時、そう長い時間は、黙り込んではおらんかったわ。
「おかん、俺は斎主をやりたい。自分で決めたんや。これは俺の仕事やねん。行ってくるわ。まだ死ぬとは決まってへん。泣くんは、俺がほんまに死んだ時にして」
 俺がそう言うと、おかんは泣き顔のまま、すごくびっくりしたようやった。ぽろぽろと光る涙が、ふたつみっつ、宝石みたいにこぼれ落ちていった。
「アキちゃん……」
 泣き崩れる声で、そう呼んで、おかんは両手で顔を覆い、なぜかおとんの胸に崩れ落ちていた。
 なんで俺やないんやろ?
 まあいい。まあ、それはいい。それはいいとして、……や。
 そんな疑問を頭にぐるぐるさせつつ、俺はとうとう、最後の戦いへと赴《おもむ》く時を迎えようとしていた。
 霊振会の皆さんも、よく秋津家の身内だけの家族劇場に付き合うてくれはった。しかしもう、時間切れや。これ以上ゆっくり親子の別れを惜しんでる場合やない。
 ほんま言うたら、俺はちょっと、自分はほんまに死ぬんかなって、不思議に思ってた。絶対死ぬという実感はなかった。
 それこそ未経験者ならではか。龍とサシで渡り合うたら、絶対に死ぬようなもんなんか、案外なんとかなんのとちゃうかっていう、楽天的すぎる感覚が、俺の心のどこかにあった。
 もうここまで来たら、なるようになれっていう、居直りもあった。
 生きるか死ぬかやない。やるか、やらんかや。俺は、自分がやるって、この仕事を引き受けたんや。生きようが死のうが、やることをやるだけや。突き進め。
 なんや、そういう境地になってな。もう、悩むの飽きてん。疲れたわ。それまでに、色々ぎょうさん苦悩しすぎた。もう今さら悩むことが特にない。
 あとはもう、ただ行くだけや。レッツ・ゴーやでアキちゃん。
「俺も連れてってもらうで、アキちゃん」
 そうやった。俺は一番怖い真打ちの蛇のことを、おかんに血迷うあまり、うっかり失念していた。
 亨はもちろん、ずっとそこに居った。煤で汚れたナマズ髭も、生憎そのまんまやった。その顔のままで、亨はものすご決意を秘めたシリアスな表情をして、俺んとこに来た。
 その顔から目を背けて立ち、俺はぶるぶる震えた。たぶん武者震いやった。俺も怖ないわけやないんや。怖いのは怖いんや。ただそれに慣れただけ。基本、震えが止まらへん。
「顔拭け、亨。変な模様ついてるで」
 ナマズ髭のマヌケ面をなるべく見ないようにして、俺は亨に頼んだ。えっ、なに? とか言うて、亨は顔をゴシゴシしていたが、そんなもんで落ちる煤やなかった。ただ真っ黒になるだけや。
 しょうがないんで、俺は自分の着ていた斎服の袖で、亨の顔をゴシゴシ拭いてやった。最後の時に見る亨の顔が、ナマズ髭のまんまやったら、あんまりやろ。俺、吹いてまうわ。そしてそれが自分の人生の最期やったら、あまりにも虚しいわ。美しい顔でいろ、亨。
 ゴシゴシしてやって、黒絹の袖の中からまた現れた亨の白い顔は、珠《たま》のようやった。
 美しい蛇や。
 その白い頬にまた触れると、俺の心もぐらぐら揺らいだ。
 ずっと亨と一緒に居りたい。ずっと一緒に。
「アキちゃん、なんやかんや済んで帰ってきたらなあ、俺をホテルに置いてけぼりにしようとした罪は、全身全霊で償ってもらうからな」
 じっとりと恨んだ目で言う亨の話は、今はそれを咎めへんという意味やった。優しい蛇やなあ、お前は。今ここで半殺しにしたいところなんやろうけどなあ。許してくれるんか。さすがは水地亨大明神の大御心《おおみこころ》や。
「堪忍してくれ、亨」
「堪忍はせえへんで。ほんま、ふっざけんなよお前。俺がここまで来るのにどんだけ苦労したと思てんのや。それも解説は後回しにするけどやな。三回ぶっ殺しても足りんくらい怒ってるからな、アキちゃん。覚悟しとけよ」
 俺の手に頬を擦り寄せながら、それでも亨は凄んだ。
 龍より怖いで、水地亨。前門の龍、後門の水地亨や。前に進むしかない。俺はそれを決意した。
「進もうか」
 誰に言うたんか自分でもわからへん。皆に大号令するような立場とも思えへんし。俺は自分に言うたんかもしれへん。
 亨は微かに頷いたようやった。
 見渡すと、もうそこに、信太はおらんかった。当たり前や、鯰《なまず》に食わしてもうた。
 この石の庭にたどり着くまで、俺を先導してくれた護衛の虎は、もう居らん。ここから先、俺はあいつの助け無しで進まなあかん。
 遠慮がちに、瑞希《みずき》はでかい犬の姿で俺を待っていた。たぶん亨が現れたからやろう。人型になるのを遠慮したらしい。
「先生、案外、手間取りましたんで、急がんとあきません。乗ってください」
 どこかへ消えていたらしい秋尾さんが、ドロンと水干《すいかん》姿のお告げ少年の格好で、大崎先生のところに戻ってきた。
「メリケン波止場まで、とって返さなあかん。道は瓦礫で塞がっていて無理です。走っていかなあかんのやし、人間の足では無理ですわ」
 誰の足なら間に合うんや。
 それはもちろん、人ならぬモノたちの俊足や。それも、ただの物の怪ではあかん。現世《うつしよ》とは、ちょっとズレた別の位相を駆け抜けることができる、そういう能力を持ったやつらの出番やで。
「変化《へんげ》させてください、先生。白狐《びゃっこ》に」
 秋尾さんが急かすと、大崎先生は、えー、できるやろかみたいな事をもごもご言うた。
 煮え切らん人やな、なんででけへんねん! 変化しろて言うだけなんやで、なんででけへんねん!
 なんでもな、今まではでけへんかったらしいんや。秋尾さんは、大崎先生に仕える式《しき》やし、それをより強い形態に変化させるには、それなりの通力がいるんやって。
 おっかしいなあ。俺なんか割と素で亨を大蛇《おろち》に変化させたりできたけどなあ。もしかして俺って天才なんやないか? 知らんかったぁ。アキちゃん天才やったんや!
 そして、天才ではない大崎茂大先生がもたもた言うてるのに焦れて、秋尾さんは茂ちゃんの足にがっつり縋り付いていた。
「できますから先生。仙《せん》になったんでしょ? それに霊力二倍なんやから。今日はいけますよ! はよう、やりましょう! やってください!」
 何か変なプレイみたいになってる。
「わかったわかった、ダメ元や! 御先稲荷《おさきとうが》、秋尾の君よ、真の御姿を、顕《あらわ》し給え!」
 いかにもダメ元みたいな、言うだけ言うとけ的な大崎先生の口上が、終わるか終わらんかのうちに、少年の姿やった秋尾さんの体が、ものすごい光を発し始めた。その輪郭が崩れ、眩しく光る白い珠《たま》になったかと思ったら、次の瞬間には、それが弾けて、見上げるデカさの、真っ白な狐が現れていた。
 しっぽが二本ある。そして切れ長の目尻には、いつぞや見たダーキニー様とそっくりな、朱色のアイラインがくっきりと染められていた。
「やった、成功ですわ!」
 その神々しい姿には全くに合わない身近さみなぎる喜びの声をあげ、秋尾さんは小躍りした。もちろん、でっかいお狐様の格好のままで。
「乗ってください、先生。港まで走ります」
 そこから乗れというふうに、首を垂れてる白狐を眺め、大崎先生は自分でもびっくりしたんか、ぽかーんとしてた。成功すると思てへんかったんやろな。
「乗れて……乗られへん。白狐に乗るなんて畏れ多いやないか」
 大崎先生、もじもじしてもうてた。なんやそれ。若返り後の美少年顔でするな。可愛い!
「今さら何言うてますのん。いつも乗ってたくせに」
 うわあ、やっぱそうなんや。俺、聞きとうなかったわぁ、ていうことを、秋尾さんはさらっと言うてた。いいや、狐の言うことや。信じたらあかん。きっと嘘や!
「いや、そうや言うたかて……」
 躊躇うふうな大崎先生は、言うてる間にももう、白狐にぱくっと襟首を銜えられ、ぽいっと背に乗せられていた。仕事が早い。
「本間先生はどないしますか? 僕にいっしょに乗りますか?」
 乗っていいんですか。
「あかん。秋津の当主が相乗りやなんて。暁彦、その犬に乗れ」
 瑞希をすいっと指さして、おとんが俺に指図した。瑞希はよっぽど驚いたんか、指されてギャワンて言うてた。
 の、乗れるんか、これ。
 確かに乗れんこともないやろ。瑞希は狗神モードのときは馬並みにでかい。
「白狐《びゃっこ》のほうがええけどなあ。今さら秋尾をむしり取るわけにもいかへんのやし。その犬も聞くところによると、なかなかええわ。位相も渡れるみたいやし。ぎょうさん人食うた狗神やそうやないか。ちょっとまだ若いけど、そういうのを段々慣らすのもええで?」
 おとんはそうアドバイスしてくれていた。
 ええで、って何がええねん、おとん! さらっと言うな!!
「あかんあかんアキちゃん、あかーん!! 犬に乗るなんて言語道断や! 蛇に乗れ!!」
 亨が俺の耳元で喚いていた。鼓膜の危機や。いや、夫婦の危機。一体何を思ってんのか、それは大体分かるけど、亨はなんでか怒ってるみたいやった。なんでやろ?
『蛇は位相は渡られへんやろ……』
 水煙がツッコミ入れると、亨はギクッとしたようやった。
「犬は渡れんのかい!」
『渡るどころか、新しい別位相を作ったりしとったやないか。大阪の疫病みのときにや。忘れたんか? なかなか使いでのある犬やで。この際、実地訓練や』
「そんなアホな!!」
 思わぬ敗北に、亨は頭を抱えて天を振り仰ぎ、絶叫していた。
 そんな悔しがるな。乗るって、ただ乗るだけなんやで。ただ乗るだけ……。
 まあ、確かに、それ以外の場合に知り合いに乗ったりせえへんから、確かにちょっと意識してまうけど。なんせ俺は瑞希に乗るのは初めてなんやしとか、いろいろ思った。それは認める。しかし非常時や。そんな雑念は追い払え。
「乗ってもええか、瑞希……」
 一応、遠慮がちに、俺は訊ねた。瑞希はオロオロしたみたいやった。見た目、オロオロしたデカい犬やった。
「ちょ、ちょっと待ってくださいね……もうちょっと大きいならな……乗れませんよね」
『そうやなあ。大きいほうが見栄えがええわ。変転してみ。なにごとも練習や』
 水煙に諭されて、瑞希はうろうろ歩き回りながら、苦心して何度か化けた。だんだん大きくなる犬の姿は、大きくなるにつれて、毛並みが白くなり、山犬か狼のような姿をしている割に、くるくるした巻き毛になっていった。
「マルチーズ丸出しなってきてるで、瑞希ちゃん……」
 亨がぽつりと言うと、なぜそれがショックなんか、瑞希がまたギャワンと追いつめられた泣き声をあげた。
 嫌なんか、マルチーズ。可愛いのに。
「毛並みまで手が回らへんのです! これで一杯一杯なんです!」
 でかい巻き毛の狗神が、心持ち後じさりながら言い訳していた。
『なんや、今ひとつ、締まりのない犬やなあ。牧歌的というか。精悍さがない』
「そやな。お前、『ネバー・エンディング・ストーリー』に出てきた、でかくて長〜い空飛ぶ犬みたいやで」
 水煙と亨が、瑞希の気持ちは一切考えないことをビシバシ言うてた。
「うっさい、あんなニョロッとしてへんやろ!! それにあれは犬ちゃうわ、龍や!」
 瑞希は同次元で反論してたけど、そういう問題でもないやろ。
 映画『ネバーエンディングストーリー』に出てきたファルコンという名前の龍がな、確かに白くてふさふさした毛並みで、長〜い犬みたいやねん。幸運の龍なんやで。なんで毛が生えてんのか謎やけど。龍って鱗系なんとちがうんかな。俺も見たとき疑問やったけど。
『見た目もなぁ……大事やねんけどなぁ……せめて、ああいうふうには、なられへんのか?』
 ねっとりと、不満そうに言うて、水煙は蔦子さんを乗せている白狼の啓太のことを言うてるらしかった。
 確かに、あれも白くてフサフサしてるけど、方向性が違うな。なんでなんやろなあ。元が愛玩犬やと、あかんのかな、瑞希。努力は感じられるんやけども、やっぱり、どことなく愛らしいな、お前は。可愛いわ。
「が……頑張ります」
 まだまだ変転してみる気なんか、瑞希は気合いを入れ直していた。そやけど、水煙がそれを許さんかった。
『いや、もう、頑張ってる暇ないから、これでいこか。アキちゃん、はよ乗りや』
 そうや。龍がやってくる。
「ごめんな、瑞希。乗ってもええか……?」
 一応、本人の意志は確かめとかなと思って、俺は瑞希のつるんと黒い目に訊ねた。
「ど、どうぞ……乗ってください」
 緊張したような面持ちで、瑞希は俺に自分の背を向けてきた。
 その時やった。
「俺も乗らしてもらうわ、犬! 歩いていくの嫌やねん」
 俺の横からひょい、と素早い身のこなしで、亨が瑞希に跨った。
「わああああああっ、なにしとんねん蛇!! 誰がお前まで乗ってええって言うたんやあああ、降りろおぉぉっっ!!」
 瑞希はジタバタ暴れたが、亨は狗神の背の柔らかい巻き毛をがっちり掴んで、ロディオマシーン状態やった。
「どうどう、瑞希ちゃん。四の五の言うとる場合やないから。ほら、アキちゃんも早う乗りや! 出発するで!!」
 どっちが主役かわからんようなリーダーシップをとって、亨は俺を急かした。急かされると素直に急いてもうて、俺も慌てて、でかい白犬の背に跨った。俺が後ろで、亨が前や。やっぱなんか俺ってオマケっぽくないか?
『当主が相乗りなんてあかんて、アキちゃん言うとったのに……』
 ぶうぶう言う水煙に、亨は断言した。
「ええねん! 俺はヒロインなんやから。ヒロインとは相乗りでええねん! ものども出発や! 走れ犬!」
 亨の踵に容赦なく腹キックされて、瑞希はほんまに痛かったらしく、飛び跳ねるようにして竿立ちになっていた。
 堪忍してくれ瑞希。俺が前に乗っといたらよかった。なんで亨に手綱をとられてんのか。手綱なんかないけど。
「アキちゃん、怜司兄さん忘れていったらあかんで。あの人がおらんようになったら、ホテルに閉じこめられてるやつらを現世に呼び戻されへん。あの人な、えっらいところに連中を匿ってるわ」
 えっらいところ、って?
「地獄の釜ん中やったで! たぶん、あれ、原爆んときに人助けしようとして、作った位相なんとちゃうかな。なんもない防空壕みたいなところでな、一枚剥いだら、すぐ外は焦熱地獄や。人逃がそうとして隔離したときに、あん時の火も熱も、全部いっしょに包んで持ってきてもうたんやないか?」
 そんなもん抱えてんのか、湊川怜司。それは、ほんまにほんまの歩く爆弾やないか!
「俺らは無理矢理突破してきたけどな。鳥さんは少なくとも、火の鳥やからな、熱いのんは全然平気っぽかったけど、俺は平気やないからな。死ぬわ! というか、死んだわ! 普通の人間やったら瞬殺やで絶対。怜司兄さんが、あの防空壕を、現世と繋げてくれへんかったら、誰も脱出でけへんで」
 焦げてる亨の服を見て、そういえばそれが、ホテルで別れた時に着ていた平安ルックやないことに、今さら気付いた。お前、あの服、どないしたんや。まさか、燃えたん? 全部燃えたんか……?
「心配すんなアキちゃん。俺は不死身や。お前のためなら、たとえ火の中、水の中やで。せやけど、次は水の中か? ほんまに、そんなん、マジでやるんやのうて、口先だけにさしてもらいたいわ」
 くくく、と亨は苦笑して、岩だなのハズレの、針葉樹の森の中に、ぽつねんと立っている、どことなく青白いような、湊川怜司の影を顎で示した。
「拾っていこ、アキちゃん。置いていったらもう、見つからんようになる気がする。まだアキちゃんがあの人の、ご主人様やろ?」
 そうなんやろうか。
 森の際に佇んでいる湊川怜司は、ものすごく、ぼうっとして見えた。まるで何もかも燃え尽きてもうた幽霊みたいや。
 もう一人、瑞希に乗れるとは思えへんかったけど、とにかく俺らは白犬に運ばれ、ぞろぞろ全員で、白く朧《おぼろ》な亡霊のところへ駆け寄った。
 側へやってきた俺を、湊川怜司はぼんやりと見上げた。
「大丈夫か、湊川? 海へ行かなあかん」
「海へ……?」
 朦朧と答える声が、正気ではないような気がして、俺はごくりと唾を飲んでた。
「海へ行ったら、お前は死んでしまうんやで、坊《ぼん》」
 自分も死んでるような、蒼白の顔をして、朧《おぼろ》はそう言うた。
 俺のことを見てるんかどうか、怪しいような目付きやった。
 こいつ、また、おかしいんとちゃうか。俺とおとんのこと、ちゃんと区別ついてんのやろか。俺はそう思ったけど、いちいちそんなん確かめてられへん。
「そうや。知ってる。俺はこれから死にに行くんや」
 ようそんなこと言うわ。俺もヤケクソやったんかな。肝が据わったというか、訳分かってへんというか。……たぶん後者やな。
「お前も一緒に来てくれ。そういう運命なんやろ?」
 俺が言うたんは、蔦子さんの予知のことやで。水晶玉で見たとき、津波の襲ってくる神戸港に、こいつも俺と一緒に立っていたやろ。そのことを言うただけなんやで。
 そやのに、朧《おぼろ》はなぜか、ものすご驚いたようやった。
「俺も一緒に行ってええんか?」
 なんや、えらく心細そうに言われて、俺は正直ちょっとトキメいたよ。そして亨に怖い顔で見られた。死ぬかと思った。
「行ってええよ。お前も俺の式《しき》やろ。来んで一体どないするんや」
「そうやな……」
 呆然としたまま、朧《おぼろ》は呟いた。掠れたような声やった。それでも急に、俺を見る奴の目が、爛々と光り出したような気がした。
「俺を連れていかんで、どないするんや。俺はお前の役に立つわ。能なしみたいに言いやがって。目にもの見せてやるわ!」
 爛々すぎた。若干妖怪っぽかった。いや、それ以上か。
 俺はなんか、とんでもないスイッチ押してもうたんやろうか。呆然としてフラフラやったはずの朧《おぼろ》から、急に魔闘気みたいなのがモヤモヤ出てきた。魔闘気やで。黒いで、オーラが。オーラって言うの? 奴の体からもやもや出る、ちょっぴり透けてる霊力の蜃気楼みたいなのやで? 見えるやろ? 見えへん? 普通は?
 俺には見えるんやって。
 出てる。めちゃめちゃ出てる。なんやろうこれ。どう見ても神威や。こいつただの妖怪やないで。朧《おぼろ》。お前どんだけ霊力ためこんでたんや。なんというか。ほら。神? 神レベル? それもただの神やのうて、邪神? なんかちょっとな、なんかちょっと……神聖ではないな、というかな、いい神さんではないな、というか、危ないな、というか、これほっといたらヤバいんやないかな、という……。
「水煙」
 朧《おぼろ》は急に水煙名指しやった。
 なんやろう、怖いいい。ケンカせんといてくれ。
「なんやラジオ」
 水煙、怖いいい。頼むしケンカせんといてくれ。
 俺の手の中で、太刀のまんまの水煙が、あれって思うくらいドスの利いた声で答えるのを、俺はビビって聞いてた。
「俺がほんまはどの程度のもんか、お前に見せたる。お前がついていながら、坊《ぼん》を死なせよって、お前は腰抜けや」
 確かに腰は抜けてる。でもアキちゃんとてもそんなボケ言われへんかった。さすがに空気を読めた。
「俺が行けばよかった。俺がついてたら、みすみす坊《ぼん》を死なせはせえへんかった。命がけでも助けてた。お前はな……水煙。命が惜しかったんやろう。そうに決まってる。坊《ぼん》には跡取りがおる。その子が居れば、お家は残る。お前はそう思って、死ぬのが怖くなったんや。違うんか!」
 なんで急に今そんなこと言うのん。やめよ。やめてくれ朧《おぼろ》。
 水煙は、黙っていた。でも、別に無視してる訳ではないようやった。しばらく押し黙る間、水煙は何かを、考えているようやった。
「そうかもしれへん」
 水煙は急にぼつりと、そう答えた。
 それは内容の割に、えらくあっさり聞こえた。
「そうかもしれへん。俺はアキちゃんが死んでもええわと思ったんかもしれへん。そういう俺を選んだ時点で、あいつの死は確定していた。あいつ自身が選んだんや。自分の死を」
「都合のええこと抜かすな、このマグロが!」
 ものすご怖い声で朧《おぼろ》が怒鳴った。
 なんの話。なんの話。口を差し挟めへん状況だけに黙るしかないねんけども。なんの話や言ってええことと悪いことがある、朧《おぼろ》!
 俺は内心ジタバタしていた。立ってたら意味無く地団駄くらい踏んだかもしれへん。
 亨も、お口アーンてなってた。何か言いたいけどタイミングがないんやろ。ないよな。俺もなかった。瑞希も完全に硬直してた。意味分からへんかったんやろ。俺も分かりたくはなかった。
「お前が、殺したんや。見殺しにしたんや。なんでお前はそんな……酷いことができるんや……」
 思い返してもつらいんか、朧《おぼろ》は顔を覆って呻くように言うたが、むらむら出てる魔闘気は、いっさい弱まることがなかった。むしろ強くなってた。
「酷いか? そうでもないわ。人間はみんないつか死ぬんや。それがあいつの場合、たまたまちょっと早かったというだけやろ。俺はな、そういうのは慣れてるんや」
 まるで、けろっとしたふうに、水煙は朧《おぼろ》に言うてた。
「どんなに目をかけて育ててやっても、秋津の子はみんな死ぬしな。あいつもそうやった。しょうがない。人には寿命があんのや。神と違って。不死ではない」
「それでも、死なんといてほしいと思うのが……当たり前やないか! なんでお前はそうやなかったんや!」
 そう問われ、水煙はまた、押し黙った。答えを考えているんか、何も考えてへんのか、俺にもさっぱりわからへん。せやけど水煙が、全然動揺してへんのだけは、わかる。握った柄から伝わる、水煙の気は、まるで静まりかえった水面のようやった。
「さあ。なんでやろ。俺が大した神やなかったからやないか。俺はな、薄情やねん。お前もずうっとそう言うてたやないか。俺は、アキちゃんが思うような有り難い神やない。ただの、刃物や。神やない」
「居直るんか、水煙」
 朧《おぼろ》はたじろいだようやった。
「そうやな。今さらこの土壇場で、ええ格好しても始まらんやろ。正直言うてな、朧《おぼろ》、この後どないするか俺にも皆目見当がつかへんのや。とりあえず行かなしょうがないから、海までは行くが、策はない。また秋津の子が海神に呑まれるんやなと、思うてるところや」
 さらさら喋る水煙の話に、朧《おぼろ》はショックを受けたようやった。
 亨もガッツン来たらしく、あわあわしながら、俺にぶるんぶるん首を振って何かを否定していた。その必死のブロックサインを見ながら、ああ、水煙が本気やないて言うてんのやろ、わかってるわかってるって、俺は頷いて見せてた。
 何でか知らんけど、俺は全然ショックやなかった。こんなこと水煙が本気で言うわけあらへんて、腹の底から思ってたんやろな。
 俺、甘い? アキちゃん、騙されるタイプ?
 そやけど、ほんまにそうやから、しょうがないな。
「どないするんや、それで……どうやって坊《ぼん》を守るつもりや」
「さあ。俺はもう九割方諦めてる。お国のためや、しょうがない。それが秋津の子の定めなんやろう。あとは立派に勤めを果たすのを、見届けるだけやな……」
 しれっと話す水煙の話を、朧《おぼろ》はワナワナ震えながら聞いていた。怒ってる、というより、あいつは怖かったんかもしれへん。アキちゃんが、また死ぬのが、嫌やったんやろう。
「嫌や……俺は、それは嫌や。我慢ならへん。二度目はもう、我慢できへんわ」
 朧《おぼろ》は頭を抱えんばかりやった。声に苦しみが滲み出ていた。
「ちゃちな奴やなあ、お前は。俺なんか何遍耐えたか。そんなに嫌なんやったら、お前が何とかせえ。神なんやろ。アキちゃんがそう言うたんやろ。おだてられて、いい気になりよってからに。偉そうに……。神やて言うんやったらな、それ相応の働きを見せてからにせえ」
 水煙はむっちゃ偉そうやった。何の根拠もないのに、ものすご尊大やった。それがものすご自然に板に付いていた。
 水煙て、そういえば、なんで偉かったんやっけ。なんかよう分からんけども、秋津の主神で、一番偉い神さんやねん。俺は何の説明もないままそれを信じてたけど、そういえば水煙て、何をした神さんなんやっけ?
 俺がそんなことを、ぼんやり思ううちにも、朧《おぼろ》はよっぽど動揺したんか、ぜえぜえ言うてた。大丈夫か、朧《おぼろ》。お前ちょっと体弱いんとちゃうか、見かけによらず。やっぱまだ古傷が治ってへんのやないか。無理すんな!
 しかし朧《おぼろ》は相当に無理をしたようや。
「分かった……」
 何か分かったらしい。
「俺が助ける」
 朧《おぼろ》は断言した。亨はあわあわした。
「えっ、ちょっ……と待って。俺やない? それ、俺がやるところやない? ヒロインなんやし……」
 今、言っていいですかって気まずそうなノリで、亨が口を挟んだ。
「しっ。黙っとれ蛇。誰でもええんや」
 水煙がツッコミ入れてた。
「あいつにやらせろ」
 人型やったら顎で指すような、尊大な態度で、水煙は朧《おぼろ》のことを言うていた。
 朧《おぼろ》は相当に余裕がないようやったけど、顔を覆って何かぶつぶつ考え込んでいた。そして、はっと驚いたように、顔を上げた。
「あかん、来る」
 何が。
 それはもちろん龍や。
「もう行かなあかん。海へ。間に合わんようになる」
 朧《おぼろ》はひどく急いていた。まだこの場の誰も気付いていないような出来事が、遠い海の中で起きたのを、こいつだけが分かっていたんや。
 それは遠く岸辺を離れた、太平洋の海の底で起きた。
 神戸で起きた地震は、連鎖的にあちこちの土地神や海神を揺り動かした。鯰《なまず》の身じろぎが、あっちを揺らし、こっちを揺らしして、目覚めたらあかん神が、あちらこちらでお目覚めに。
 それは運悪く、長いこと眠っていた海の底の神をも身じろぎさせ、霊的な扉を開いてしもた。そこへ現れたのが龍や。ずっと、天に昇るための出口を探して、地球上をのたうっていた青い龍が、俄に開いた現世への出口を見つけて、一気に駆け上って来たんや。
 海神《わだつみ》の一種や。海そのものやねん。激しい鳴動とともに隆起した海、のたうつ巨大な波や。天界へと登る道を探して、神戸へとまっしぐらに押し寄せてくる。何物もそれを阻むことはできない。何もかもを押し包み呑み込んでしまう強大な神やからや。
 それは未曾有の大津波やった。衛星の目が、それを見ていた。そしてその映像を、朧《おぼろ》は見ることができたんや。
「そんな犬っころに乗ってちんたら走ってたら間に合わへん。乗れ、坊《ぼん》」
 犬ころ言われた瑞希はショックやったやろうけど、俺はその後に起きた出来事のほうが、もっとずっとショックやった。
 朧《おぼろ》が化けたんや。
 まさかこいつまで変身するとは。
 例の骸骨にやないで。龍にや。龍やで。龍! 龍やで!
 うぎゃああああああ。蛇やったあああああああああ!
 また蛇やったあああああ! なんで俺、蛇が好きなんやろう!
 朧《おぼろ》は化けた。むらむらドロンと漆黒の霊威を発して、黒光りする艶やかな鏡面仕上げの、長々とのたうつデカい龍にや。
 蛇というより、まさしく東洋の水墨画にあるような龍や。角と鬣《たてがみ》がある。稲妻を身に纏っている。そして赤い血のような珠《たま》を、後生大事に握りしめた、鋭いかぎ爪のある手と、足が一対あって、俺を見つめる目は、煙る月夜のような、煌々《こうこう》として黒い、潤んだ瞳や。
 胴の太さは馬程度。せやけど長い。うねうね蜷局《とぐろ》を巻いて、どれくらいあったんやろ。
 美しい龍や! なんともいえん艶めかしさがある。
 でもそんなこと言うとる場合やない。アキちゃん超ピンチや!
 俺もうすぐ死ぬねん。どないしようって、ずっと優雅に言うとったけど、今までのは寝言みたいなもんやったな。いよいよ本番。しかももう待ったなしや!
 黒い龍に鷲づかみにされたが、いやいや待ってくれって思ったよ。ちょっと待ってまだ心の準備が! アキちゃんまだ心の準備ができていないような気がするし、もうちょっとだけ待つとかなんとかできないですか!
 しかし待ったなしや。
 湊川怜司は、必要と思える面子をわしわし掴むと、一気に神戸の空へと舞い上がった。
 なぜ飛べるんや。翼もないのに。
 龍やから飛べるんや。雀ちゃんやし、朧月夜《おぼろづきよ》の龍なんやしさ、こいつは空の眷属なんや。元々からして天を舞う龍やねん。電波や噂は飛び交うもんやろ?
 霊振会の皆さんがみるみる小さい地上の芥子粒になっていき、その一粒一粒が、皆、ものすご驚いた顔をしていた。間近に龍を見る機会というのは、さすがの霊能者の皆さんにも、滅多にあることやなかったっぽい。
 いつも朧《おぼろ》を知ってるつもりやった大崎茂大先生も、控え目に言うて、腰抜けそうにびっくりしていた。白狐に化けた秋尾さんも、そらもう魂消《たまげ》たという様子やったけど、でもちょっと嬉しそうやった。
 おかんもびっくりしていた。蔦子さんも。その二人に縋り付かれたお役得の俺のおとんは、なんでか面白そうに空を見上げて、こちらを見ていた。俺やのうて、たぶん朧《おぼろ》を。
 ちょっと待て、俺死ぬねんぞ、おとん。何笑うとんねん。お前の息子が死のうっていう時に、一体どういうことや!
 俺がそう思うくらいに、おとんは面白そうやった。
 もしかすると、おとんには、ずっと昔から、湊川怜司のこの姿が、見えていたんかもしれへん。そやからずっと、お前は神やって、言うてやってたんやないか。
 それは別にお世辞でも、口説きでものうて、おとんはただ、見たまんまのことを、朧《おぼろ》に教えてやってたんやないか。本人すら知らん、自分の正体を、あいつに教えてやってた。お前は今、ただの性悪雀やろうけど、頑張れば龍になれるでって。
 それはひとつの可能性や。
 あいつは鬼。
 あいつは神。
 どっちになるかは、自分しか決められへん。
 あいつは選んだ。神になるほうを。
 おとんはそれを見て、満足やったんやろう。良かったと、ほっとしたような面《つら》やったわ。
 良かったなあ、ほんまに。良かった良かった……、って、何が良かったんや。良うない! 俺死ぬんやで、おとん! 俺のことを心配しろ! 頼むし心配してくれ! 俺これからどないなるねん。ほんまに死ぬんか! 助けてー!
 アキちゃんのそんな悲鳴も虚しく、俺、水煙、亨、瑞希の四名は、黒い龍・朧《おぼろ》様に神戸港まで連れ去られた。
 眼下に見下ろす神戸の街は、それはそれは、俺が地上で想像していた以上にひどい有様やった。
 何もかもが瓦礫と化し、あちらこちらで火が燃えていた。あの火が焼き尽くす瓦礫の下にも、人が埋まっているのかと思うと、怖気立つような怖ろしい火やった。
 地上にいる人らが、何を言うてんのかは分からん。
 大崎先生は俺を追うのは諦めたようやった。他の皆もそうや。おとんもおかんも俺を追ってはこなかった。追いつかれへんかったからやろう。それとも追っても意味がなかったからか。
 霊振会の皆さんが、神戸の街にあふれる踊る骸骨《ダンス・マカブル》の残兵と、未だに戦っているのが見えた。見下ろすと、それはミニチュアの古戦場みたいやった。
 戦って、一人でも多く救おうとしたんやろう。霊振会の人らが逃げる気配はなかった。ここに残っていて、もし俺が失敗したら皆死んでまうのに、なんで逃げへんのやろう。俺がちゃんとやるって、信用してんのやろか。
 いいや、そうではなく。もし失敗したとしても、逃げはせえへん。どうせ逃げられへん。押し寄せる海神《わだつみ》は一瞬で神戸を呑む。それを皆、知っていたはずや。
 この戦いに参加すると決めた時点で、それは死を含む契約やった。死を賭して挑む仕事やったんや。
「朧《おぼろ》、津波が来るんか!」
 びゅんびゅん飛ばれながら、俺は黒い龍に訊ねた。
 そうや、来ると、朧《おぼろ》は答えたような気がする。
「逃がさなあかんのやないか。皆、それを知ってるんやろか。皆を逃がさなあかん。俺は失敗するかもしれへん。その時ひとりでも多く助かるようにしてくれ」
 今さらや。どこへ逃げるっていうんや。失敗なんかできへんのやで。
 朧《おぼろ》はそうぼやいたようやったけど、でも俺の頼みを無視はせえへんかった。
 眼下の街に緊急放送が入った。それまで音楽を垂れ流していたラジオの音やった。地震が起きる前に霊振会が勝手にあちこちとりつけていた、スピーカーから流れる音や。その時はどさくさで、電池切れてるラジオとか、これラジオちゃうやんみたいな縫いぐるみなんかからも、緊急放送が流れていた。
 放送の途中ですが、皆さん、緊急事態です。太平洋岸に津波警報が発令されました。今すぐ高台に避難してください。今すぐ高台に避難してください。津波は三十分以内に到達します。荷物を取りに戻るなどはせず、今すぐそのままで避難してください。
 お姉さんの声やった。なんでお姉さんの声が出るのかは謎や。
 たぶん湊川怜司はどういう声でも出せるんやろう。放送電波やから。実際どんな声でも出るみたいやった。
 ありとあらゆる声色で、全てのチャンネルが、逃げろと放送していた。
 その時、街の噂では、この放送ほんまかしら、逃げるってどこへ逃げるの、などという、市民の動揺する声に、これほんまらしいですよ、とにかく坂の上へ向かって逃げなあきませんと、誰だかわからん親しげな奴が、その場に居合わせ忠告していたらしい。
 湊川怜司には使い魔が居るからな。ほら、あれやん。黒いダスキンみたいなやつ。あいつらも人間に化けられるんや。ほんの一時、誰かわからんような、とりあえず人かなみたいなのでよければな。この緊急事態、通りすがりの誰かのことを、そんな詳しく見るやつおらへん。
 信じたやつは逃げたやろう。高いほうへ。
 ほんまか嘘かわからんような、噂の言うことを信じて。あるいは、停電したはずのテレビが突然点いて話す、緊急番組や、壊れたラジオの教えてくれる、逃げなあかんでという話を信じて。
 どんだけ信じる奴がおるやら分からんで。俺は信用のない神やと、湊川怜司は言った。まあ、確かにな。テレビやラジオや街の噂を、誰がどれだけ信じるか、怪しいものや。そういうもんやろ、噂というのは。
 当たるも八卦、当たらぬも八卦や。
 でも俺はすごく、気が楽になった。皆きっと逃げてくれるやろう。できるだけのことはやった。あとはもう、心おきなく死ぬだけや。
 南無三。
 なんて、そんな簡単に悟れるか!
 俺たちは、蔦子さんの水晶玉で見たのと同じ、神戸港の中ふ頭に軟着陸した。ほんま言うと少々、胴体着陸した。湊川怜司はまだ龍の姿に慣れてないんやろう。若干、不時着の状態やった。
 ズザーってしたけど、とにかく全員無事やった。落っこちたショックか、もう飛ばんでええからか、湊川はまた元の人間の姿に戻っていた。
 疲れたらしかった。
「あかん、これは疲れる……」
 肩で息をしながら、湊川はぼやいた。
「大丈夫なんか、それで。肝心の時に力が出るんか」
 水煙が呆れたように鋭い指摘をしていた。こっちはまだまだ剣のままや。パワー温存の構え。使うなら他人の霊力《ちから》に限るという、巧妙かつ老練な作戦やな。さすが水煙、年季が違うんや。
 瑞希はストレートに目を回していた。亨は普通に酔っていた。気持ち悪そうやった。
「アキちゃん、船酔いするくせに、龍酔いはせえへんのか……」
 亨はオエッてなりながら俺に文句を言うた。
 ごめん。せえへんみたい。言いたないけど、あれかな。ウロコ系に乗り慣れた家系やからかな?
 ごめん。言わへんかったらよかった。アキちゃん最低や。
「大丈夫か亨」
 最低やけど一応俺はとっさに亨に駆け寄ってはいた。
「大丈夫やない。ゲー吐いていいなら吐いてもええかなっていう程度にはアレな状態や……」
 それはヤバイ。目を回している瑞希も心配やったけど、俺はとりあえず、亨の背中をさすった。しんどそうやった。もともと、ロックガーデンの祭壇に来るまでに、相当苦労したようやったから、こいつも疲れてたんかもしれへん。
 大丈夫やろか、亨。このまま連れてってええんやろか。
 そう心配して、そして気付いた。
 俺ら、水晶玉で見た蔦子さんの予知の映像と、着ている服が違う。
 そういえば俺の着てるもんも違う。水晶玉の中の俺は、練習用の道着を着ていたような気がする。今、着てるような、真っ黒けの平安コスプレやのうて。
「俺、この格好でええんやろうか……」
 ふと不安になって、それを口にすると、皆そのことに気づいたらしかった。
「少々違う未来のようやな」
 落ち着き払った声で、水煙が答えた。
「ほんまや。蔦子さんの予知と違う」
 まだゼーハーしたままの湊川怜司が、俺を見て言うた。今やっとそれを考える余裕ができたという風やった。
「着替えさせるか。あの服はそんなに大事なもんなんか? なんで服が違うんや」
 こちらは動揺しまくりの声で、湊川怜司が言うた。奴は蔦子さんの予知能力を高く買っていて、現実がそれと少し違う成り行きになったことに、びびったらしいわ。
「さあ……どうやろな。アキちゃん。お前にその斎服を着せたのは誰やった?」
 水煙はそんな小さいことは、いちいち憶えてないらしかった。
 人間は、式服や斎服やって、格好を気にするが、神さんは実はそんなもん大して意識してへんということかもしれへんな。斎服やろうがTシャツやろうが、実は関係あらへんのや。むしろ儀式に臨む人間側の気持ちの問題でしかない。あるいはコスプレの問題や。
「大崎先生や。神事に臨むのやったら、斎服でないとあかんと言うて……」
「狐が出したんや。四次元ポケットから。たぶん、アキちゃんのおとんの着とった服やで」
 亨がまだまだ吐きそうな声で口を挟んだ。亨が分かってて言うたんかは謎やけども、それはかなり重要な要素やったらしい。
「先代の……?」
 水煙は考え込むふうやった。
「なんでそんなもんを茂ちゃんが持っとんのや」
 朧《おぼろ》は不満げやった。
「わからん。先代が形見分けにくれてやったんやろう。あいつは茂を秋津から出すとき、いくらかの物を分けてやっていた。飛燕《ひえん》もそうやし。もう使うこともない斎服を、自分の形見としてくれてやったんかもしれん。出征するとき、あいつは死を覚悟していた。もう戻ることはないと理解してたんやからな」
 大崎先生はそのおとんの斎服を、自分で着ることはなかった。大崎先生は小柄や。寸法も違うしな。解いて縫い直して着るというには、心残りがあったんやろう。そんなんしてもうたら、もう二度と、アキちゃん帰ってけえへんて、認めたみたいで嫌やった。
 それで斎服は狐の四次元ポケットに仕舞われ、戦後の六十有余年、少なくとも今回の事件の起きる間、ずっとそこにあった。宴会の夜に、酔っぱらった大崎茂が、俺におとんコスをさせようなどと思い付くまで。
 それはずっと、この世には無いものやった。
「えぇぇ……」
 その事実について推論する水煙の話に、湊川怜司はあんぐりしていた。
「服やで、ただの」
 ただのおとんのシャツに気が狂うくせに、湊川はそんなことを言うていた。
「ただの服やない。先代が儀式の時に身に纏っていたものや。その前にはこれは確か、先々代のものやった。それを暁彦が譲り受けたんや。地紋《じもん》を見ろ。蜻蛉の柄やろ。先々代の、父親が、西陣の機屋《はたや》に織らせたもんや。秋津の留め柄やねん。この向かい蜻蛉《とんぼ》は先先先代の……えぇ、ややこしな、弓彦が、好んで用いた図柄や」
 なんのこっちゃ。
 確かに、俺が着せられた斎服は、二匹の蜻蛉《とんぼ》が向かい合う模様になっていた。黒一色の絹やけども、織り地の柄がある。織る時に糸のかけ方を工夫して、模様が浮き上がるようになってんのや。それを地紋《じもん》という。
 沢山の向き合った蜻蛉が、びっしりと織り出してある。その隙間を、三角形をびっしり敷き詰めた細かい柄が埋めている。この三角形の柄は、鱗《うろこ》という名のついた文様や。鱗に蜻蛉。まさしく秋津家の意匠やな。
 それを先々代の父親、つまり俺から見て、ひい爺さんにあたる当主・秋津弓彦が、西陣の機織りの店に依頼してデザインさせ、うち以外の客には絶対使わせたらあかんと、専属契約をさせた。それが留め柄ということや。昔の大名や藩は、自分とこオリジナルの文様を持っていて、それをみだりに使用させないような権限を持ってた。そういう特権を、うちの先祖も持ってたということやな。
 せやしこの斎服は紛れもなく秋津家の蔵から出たもんや。うちの血筋の意味がこめられた文様。無数の蜻蛉《とんぼ》や。
「服というのは霊の依り代《よりしろ》のひとつや。ましてお前の父親ほどの術士が祭儀の折に繰り返し着たもんや。何かの守りにはなるやろう。それを着ていろ」
「でも、予知と違うてええんか」
 俺は心配やったけど、水煙はなぜか、くすくすと笑うた。鍔《つば》が微かに鳴るようやった。
「違いはしない。アキちゃん。お前がその服を着ている時流をひとつだけ見た気がする。その時は、なにも深く考えなかったが……」
 水煙は何か、気味がいいらしかった。そういう笑い方やった。
「竜太郎や、アキちゃん。あいつが時流に溺れて死んだ時、掴もうとしていた未来はこれや。でもあいつは失敗したはずや。あの時、溺れたんやから、手は届かなかった」
 くすくすと、水煙は笑った。意味がわからず、俺も皆もぽかんとしていた。湊川は不安げに俺の目を見た。そして、俺の手にいる水煙を見つめた。
「どういうことや」
「予知をしたんや。竜太郎は。あの後、もういちど潜ったということや。あいつは未来を変えたんや。蔦子が最後の予知をした後、一人でな。今も潜っているのかもしれへん。諦めの悪い子や」
 俺にはそれは、ぞっとするような話やった。
 水煙の介添えがあっても溺れたような難儀な仕事や。しかも一遍溺れ死んでるのに。もう二度とするなって俺は言うたのに。あいつは全然、俺の言うことをきいてへんかったんやな! 竜太郎!!
 失敗したらどないするつもりや。今度は俺かて助けにいかれへんのやで。ほんまに死んで、それっきりなんやで!
 ……せやけど竜太郎は成功した。そういうことやった。なにしろ未来は変わったんやから。着てるものが違う程度の、ほんの些細な違いかもしれへんけど、でも、とにかく変わった。
 これはまだ俺が、視たことのないコース。どないなるか分からん、まっさらの未来やで。
「先輩……」
 ヘタってて物も言わんかったはずの瑞希が、急に俺を呼んだ。見ればもう、狗神《いぬがみ》ではなく、人の姿をしていた。俺のよく知ってる、いつも大学でよく会うたような、ありきたりの学生みたいな格好や。
 瑞希はその、いかにも日常そのものの姿で、海を指さした。それに促されて見た先には、到底、日常的ではないもんが見えた。
 海が立ち上がって見えた。壁のような大波が、ものすごい速さでこっちに押し寄せて来ていた。
 なにあれ。津波や。
 俺はぼけっとそう思った。それ以上のことは、なにも考えられんかった。
 これからどうすればいいのかも。考えられへん。
 俺にはのたうつ龍が見えた。押し寄せる大波と二重写しで。
 遠目にも明らかな、巨大な龍やった。東海《トムヘ》の王や。
 龍は独りでやってくるのではなかった。数知れないほどの、海の眷属を引き連れていた。人魚のような、鰭《ひれ》のあるもの。深海からやってきたような、怪物的なもの。陸でしか生きたことのない俺たちには、見当もつかんような有象無象の神々や霊、聖でも邪でもなく、その両方でもある者たちを、逆巻く波に紛れさせ、従えていた。
 まさしく王と呼ばれるに相応しい、威風堂々の風格やった。あまりに巨大や。
 竜宮城の王様って、あんな感じなんかなと、俺はぼんやり思った。あまりにも現実離れしていた。あんなもんがこの世に居るとは。俺にはとても抑えきれへん。まさかこの世に、鯰《なまず》より強い神が居るとは。俺みたいな、ちっぽけな人間が、止めて止められるようなもんやあらへんわ。
 覡《げき》としての直感やったんやろうか。俺は呆然と無抵抗やった。あれれは平伏《ひれふ》して待つしかないものやと思った。逃げて逃げられるようなもんやない。戦って、勝てるようなもんではないんや。
 祈るしかない。そうやった、俺はそのためにここに来たんや。
 どうか皆を殺さんといてください。俺だけにして。
 俺は生け贄としてここに来ました。どうかそれに免じて、他の皆は助けてやってくれ。
 お願いします。
 俺はとっさの無意識で、心の中でそう祈ってた。襲い来る波に向かって、そう呼びかけていた。ただ呆然と立ちつくすだけやったけど、心は平伏《ひれふ》していた。東海《トムヘ》の王に。
「逃げろ、皆。俺に付き合うことはない。もう主《あるじ》でも式《しき》でもない。どこへでも好きなところへ行け。俺についてくるな」
 俺は水煙を手放した。なぜか無意識に言葉が口を衝いて出た。
 そうするつもりでいたかどうか、記憶にはない。深く考えることもなく、気がついたらそう言うててん。
 俺は自分の式神を全部解放したらしい。
 皆びっくりしていた。水煙も、朧《おぼろ》も、瑞希も。ものすごショックを受けたようやった。皆、うんともすんとも言わんかった。
 だた、ぷつりと切れた何かの絆が、心のどこかで確かに感じられた。
「亨、お前もどっか行け。逃げて生き延びろ。まだ間に合う」
 逃げて逃げられんことはないやろ。ただの人間と違うて、こいつら妖怪なんやから。めちゃめちゃ急げば時速百キロくらいで走れるかもしれへんやん。朧《おぼろ》なんか飛べるんやから。
 俺は逃げへん。俺が逃げたら、助からんかもしれへん。神戸は。
 神戸? ほんま言うたらそんなこと、俺にはどうでもよかった。どうでもいいとすら思ってなかった。何も考えてへんかった。
 見ると亨が呆然と俺を見ていた。青白いけど、綺麗な顔やった。
 亨の背後に神戸の街が見えた。見えたって、肉眼で見たんではなかったんかもしれへん。いくらなんでも人間の目で、街を一望するのは無理や。でも、今、すごく遠いところにいるはずの、俺の知ってる人らの顔が、ひとりひとり見えたような気がした。
 俺のおかんは無事やろか。蔦子さんは。竜太郎は。大崎先生は。新開師匠は。小夜子さんは。中西さんと神楽さんは。霊振会の皆は。ヴィラ北野のフロントのお姉さんは。朝飯屋の店主は。前にこの近所の公園で犬の散歩させてた女子高生は。俺の知ってるあの人たちは。ちらっと顔を合わせただけの、あの人やこの人は。今どこで何をしてるんやろう。生きてるやろうか。皆、無事なんか。
 俺が死んで助かるもんなら、俺は一歩も逃げられへん。
 俺はおかんに生きといてほしかった。亨も、水煙も、他の皆も。俺が死んで、何とかなるんやなったら、何とかしたいと思った。
 助けたかったんや。守りたいと思った。
 守らなあかん。俺は三都の巫覡の王で、秋津の末代、暁彦やから。
 神よ。
 それは、たまたま俺が着ていた、秋津の文様の斎服に、たまたま宿った代々の秋津の巫覡の、想いやったかもしれへん。それとも俺自身の想いか。どっちにしろ同じことや。
 俺はその血筋に連なる者やった。
 神よ。恐《かしこ》み恐《かしこみ》み白《もお》す。
 祈り方なんか俺は知らん。でも聞いてください。
 この街には俺の大事な人たちが居るんや。俺に皆を救わせて。俺の命ひとつで取引しようなんて、図々しいのは分かってる。でも、そこを何とか。俺のわがままを、聞いてはもらえませんでしょうか。
 何とぞひとつ、よろしゅうお頼み申します。
 俺は祈った。全身全霊で。
 波は俺を呑んだ。あっという間の出来事やった。
 そしてそれからどうなったか。
 俺にはそれを語ることはできへん。
 なぜかって。
 俺は死んだからや。
 死んだ。
 本間暁彦、享年21歳。まだまだ夏の気配の残る、神戸の海でのことやった。

【28章につづく】


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