SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。
二回目追加ぶんまでジャンプ
三回目追加ぶんまでジャンプ(2009/10/06)
四回目追加ぶんまでジャンプ(2009/10/16)
五回目追加ぶんまでジャンプ(2009/12/09)
六回目追加ぶんまでジャンプ(2009/12/16)

神戸編(26)β版

 アキちゃん、ほんまにもう、ええかげんにせえ! もう、やめてえ。ほんま頼むわ、俺もうマジでキレそうやしな、マジでキレるで。俺が本気でキレたらどないなるか、てめえ分かってんのやろな。神様なんやぞ。むしろ悪魔《サタン》か。ただで済むとは思うなよ!
 なんかもう、聞いてえな。
 俺って最近、ずうっと怒ってへんか。内心ずうっと怒ってんねん。しゃあないなあアキちゃん、これが血筋の定めというやつか、しょうがないしょうがないって、理解したろうとは思うんやけどな。
 そんなん、理解できるわけあるか!
 俺は水煙様とは違うんや。海よりも広い心やないで。精々、川やから。水地亨は淡水の蛇なの。水蛇さんなんやで。
 メソポタミアの、チグリス・ユーフラテス川流域発祥やって言うてるやろ。皆も高校の世界史で習ったやろ。メソポタミア文明やで。忘れたか。寝とったんか、世界史の時。ちゃんと聞いといてえな。俺の故郷の話やないか。
 しょせん多神教か。日本人は。俺の生まれた土地の奴らも、そうやったわ。神様いっぱい居るねん。
 大体初めは、ひとつの街に一柱やったりするんやけどな。都市国家やで。村が町になって、都市国家になるんや。近所に住んでる奴らどうしでコミュニティ作って、必要とあれば武装もするしやな、必要とあれば戦争かてする。その時、都市を守護する神様が要るやんか。せやし最低でも一柱は居るんや、その都市の、守護神が。
 ほんで戦争するやんか。そしたら、どっちかが負けてもうて、勝った方の支配下に入るやろ。そん時、負けたほうの神さんは、どないなるのや?
 負けて消滅する神もいてるわ。きれいさっぱり消えてもうて、元から居らんかったことになる。
 あるいは、勝った方に食われて、吸収合併される神もいる。
 そこまで荒事にならへん場合はな、勝った方の神に仕える神になるんや。
 例えば日本では、そういうのを、随神《ずいじん》とか、伴神《とものかみ》と呼んでいたりする。
 わかったわかった、お前のほうが強いということで、序列をつけて、仲良うあんじょうやっていくという事やな。そのほうが人間にとっても都合がええわ。味方につけて、守護してもらえる神さんなんて、多いに越したことないやろ。
 俺かてずっとナンバー・ワンの最高神やったわけやないで。どっちか言うたら微妙かな。亨ちゃん、詰めが甘いのよ。なんでかいつも、二番か三番なのよ。
 メソポタミア時代にもいたよ。エア様より偉い、マルドゥーク様とかな。
 南米時代にも微妙やったよ。ケツァルコアトルは確かに強い神やったけど、キレ度の点で、双子の蛇神やったテスカトリポカに一歩及ばずの感はあった。ええ線いってた時代もあったが、なんせ向こうは人間の生け贄をバリバリ食いよるねん。生きたままの生け贄の、心臓抉《えぐ》って、それを食うねんで? 怖いよう……。テスカちゃん邪神すぎなのよ。
 そんな怖い強烈な神さんに、亨ちゃん勝てる? 極めて微妙よ。俺こそ万物の創造主、至高の神やてドツキ合う、そんな怖い兄弟ゲンカには勝たれへんねん。どっちでもいい、誰が創造主でも、みんなが平和に暮らせれば、そのほうがええやん。その弱腰が、俺の弱点なんやなあ。
 せやけど、結果な、海の向こうから、ヤハウェが突然現れて、このケンカに水注した。
 俺が万物の創造主や、いいや俺が万物の創造主や言うてる蛇に、いきなり横から蹴り入れてきやがって、お黙り、俺が万物の創造主やと怒鳴ったわけや。そして勝手に他人の土地に教会とか建ててもうて、神聖なる太陽神殿はぶっ壊すしやな、ほんま滅茶苦茶。そして俺も双子の兄弟テスカトリポカも、悪魔《サタン》ということになったんや。
 ほんま、かなわん話やで。もう昔々の事やけどな。
 蛇って大概、ヤハウェには、酷い目に遭わされている。それってどうも、ヤハウェ様のメソポタミア文明ごろの下積み時代に、蛇神を主神として崇める連中に、酷い目に遭わされたとか、そういう幼年期トラウマっぽいねんで。
 もともと、あそこらへんの出身やねん、ヤハウェ様は。あちらさんの聖書には、洪水伝説とか出てくるらしいねんけど、それも元を辿れば、おそらくチグリス・ユーフラテス川流域の民話や。
 洪水、大変やったんや、あそこらへんの人らにとっては。いつ起きるかわからへん、怖ぁい大災害で、せっかく作った畑やら家やら、全部おじゃんになってまうしな、人々は洪水を恐れ、それをなんとかして調伏しようとしていた。
 それで蛇神なんやで。荒ぶる大河を支配したいという、切実な願いの現れや。のたうつ大河を彷彿とさせる、水蛇の神を崇めて、それをお祀りした訳やな。
 神官たちは、よう頑張った。荒ぶる蛇を調伏していた。月齢をもとにした暦を作り、星も見たりして、川がいつ氾濫するかを予知していた。そして高い塔のような神殿を築き、そこに非常食量も備蓄しておいて、すわ洪水となったら、その高台へ、民を避難させたんや。
 昔々の、蛇を崇めた異国の覡《げき》のお話やな。
 ちなみにその、避難所になった高層建築のことを、現地の人らは高き峰《ジッグラト》と呼んでいた。これがキリスト教の聖書に出てくる、バベルの塔の元ネタや。あれはシュメール王国の、バビロンという都にあった、高き峰《ジッグラト》のことやねん。
 ヤハウェを初期に崇拝していた民は、戦争に負けて捕虜になり、バビロンに捕らえられていたんや。
 坊主憎けりゃ袈裟までって言うけども、国敗れて虜囚の身になり、恨んで見上げた高き峰《ジッグラト》は、悪いもんに見えたんやろな。
 畜生コノヤロウ、なんやねんあの目障りな高い塔は。むかつくわ。悪党どもの建てたもんやし、ぜったい悪いもんや。きっと俺らの神さんが、いつかぶっ壊してくれるやろって、そう思ったんちゃうか。
 ヤハウェは結局、その祈りに答えたんか。バビロンは滅びた。けどそれは、ヤハウェの神威ではない。バビロンを滅ぼして、ヤハウェの民を解放したんは、ペルシャ人やで。
 奴らの神はヤハウェではない。アフラ・マズダーという火の神やった。
 この、アフラ・マズダー様は、世界の終わりに現れて、善悪を裁く、最後の審判を行うと信じられていた。
 キリスト教にも、最後の審判ネタはあるけど、これが元ネタちゃうか。なんせヤハウェは、虜囚の民の守護神として、ペルシャ人の攻め寄せてきたバビロンで、奴らの神アフラ・マズダー様と遭遇しているはずなんや。
 実はいろいろパクってんのやな、ヤハウェはな。
 俺の教義が唯一絶対、他のは全部嘘やて、居丈高なんやけども、その裏では、イケてるもんはイケてると、がんがんイタダキしてきた神や。やり手やで。美味しいネタはもらっとく。
 ネタだけやない。後々、叩き上げの苦労が実り、他の神やら民を征服し、支配するような立場になってからも、その地にイケてる神や精霊がいたら、それかてもらっといたんや。
 もしも俺が蛇でなく、蛇嫌いのヤハウェと仲良うあんじょうやれてたら、今ごろ亨ちゃんかて、天使やで。ヤハウェ様の随神《ずいじん》や。そうやねんで、キリスト教って。一神教やて言うてはるけどな、実はかなりの、神様寄り合い所帯やねんで。
 神は俺だけ、あとはみんなヒラやて、ヤハウェが焼き餅焼くもんやから、神やのうて天使とか、聖人てことになってるけどな、結局神やろ、それは。
 天使もな、全裸《マッパ》でケツ丸出しの、赤ちゃんに羽根生えてますみたいな、ちびっこーいのしか知らん人もいてるやろけど、それは下っ端や。下も下の使い魔レベル。その階層構造《ヒエラルキー》の上の上のほうを見たら、お前らどう考えても神やろみたいな、ものすごいエゲツナイのかていてるんや。もはや人界には降臨でけへんみたいな、強大なパワーを持った天使どもやで。そんじょそこらのチッポケな神さんに比べたら、よっぽど本格的に神やで。
 もしも日本に居ったなら、名のある天使なんて、神の部類や、神社できてる。実際、キリスト教の世界にも、特定の天使や聖人を、讃えるための教会はある。ヤハウェが主神で、他はその伴神《とものかみ》やねん。
 せやけどな、最高神《しゃちょう》が、神は俺だけ、お前はちがうて言うてはんのや、さようです、ははあ、天使《ヒラ》でいいです、貴方こそが唯一無二の神、至高の御方て、頭下げとくしかないわ。それが序列ってもんや。どんな強くても、社長に仕えて働く時には部下は部下。いかにチッポケでも、自分で社長やってる独立自営《フリー》の神さん連中とは、立場が違う。
 どんな世界でもあるなあ、序列って。どっちが偉いとか、俺がナンバーワンやとか。そんなんばっかりやんか?
 俺もアホやで、つくづく懲りへん。
 せっかくナンバーワンの座につきながら、また出し抜かれるんか。水煙に!
 かつてマルドゥークにええとこ持って行かれたように、テスカトリポカのえげつなさに、してやられたように、そしてアフラ・マズダーに勝たれへんかったように。俺の負け!?
 あいつが至高の御方で、俺はナンバー・ツーか。その二か、俺は、筆頭やのうて。
 むかつく。あの苑先生かて、その一《はじめ》やのに。ある意味、苑先生以下か、俺は。
 悔しい! 悔しいてたまらへん!!
 アキちゃん俺に、先帰っとけ言うてたで。聞いた? アキちゃんその部分、カットせずにちゃんと話してたか? そう言うたんやで、亨は要らんし出町《でまち》帰っとけ。生きてたら俺も帰るわ。ほなさいなら言うてたでえ!!
 それが仮にも、永遠の愛を誓った配偶者に対する、正しい態度か。それでもお前は俺を祀る覡《げき》か。怠けすぎやねん、俺を拝むのを!
 満ち欠けしてんで、あいつの愛は。波があるんやで。
 海の桃太郎の子孫やからかな。犬も可愛いなあ、雉《きじ》も可愛い、お猿さんも可愛いなあって、誰にでもキビ団子くれてやる。鬼退治するんやけど、ついてくるかて誘って、行く行く言うたら、どんな奴でも連れて行こうとする。そういう男や、アキちゃんは!!
 水煙と、犬とラジオ居るから、亨は帰れということか。むかつく。極めて胸がムカムカいたします。モヤッモヤする。俺も腹になんか溜まっとる。腹蔵虫や。アキちゃんトイレで吐いてたやろ。なんかな、黒くてモヤモヤした、百足《むかで》みたいなやつや。
 あんなもん腹に飼うてたんか。引くわ! ドン引き!
 何をどんだけ我慢したら、あんなん出来るんや。というかやな、お前が一体、何をどんだけ我慢できたというんや。全然我慢なんかできてへんやないか。
 水煙ともやったんや。そうに違いない。証拠はないんやで。ただの勘やねん。亨ちゃんの第六感やないか。神様やからな、第六感くらいあるんやで。ただの勘やけどな。
 あいつは昨夜《ゆうべ》、何かの一線を越えた。水煙と。
 それが何かは知らん。どうせ気持ちのええことや。そうでないなら、何か猛烈に、萌え萌えするような事や。もしくはその両方や。アキちゃんが、もうあかんて、メロメロんなるような、辛抱堪らん何か。
 何をしたんや、水煙は。わからへん。
 でも、どうせ、エロに決まっている。エロやろ? そうやろ? そうやったやろ? 皆はもう、知ってんのやろ? ちょっとでええし、教えてえな。
 ……教えへんのか、こん畜生。他になにがあるねん。どうせエロ!
 俺はな、未だに知らん。何もかも過ぎた後になっても、アキちゃん結局、教えてくれへんかった。だんまりや。水煙由来の、必殺技。石より硬い、鉄の沈黙やで。
 夫婦に秘密なんかあってええの? あかんやろ? でもな、教えてくれへんねん。
 水煙かて当然、黙りや。あいつの黙りなんて、今に始まったことやない。言いたいことしか喋らへん。都合悪なったら剣やしな、太刀やから、口きかへんて、それで終いやで。
 そんなん理由になるかやで。俺かて蛇やん。どこに喋る蛇が居るねん。いや、ここに居るけどやな、俺がそうなんやけども、話ややこしなるから、今はツッコミ入れんといてくれるか。
 ずるいんや、水煙兄さんは。都合ええ時だけ可愛いふりやねん。
 ほんまにあいつが可愛いような珠《たま》かよ。秋津家の代々の若当主を、育ってきたなと思う傍から、唾つけてたような淫らなお方やで。
 アキちゃんのおとんの事かて、蔵の古道具で遊んでるようなチビの頃から、唾つけとったんやないか。若い方がええなあって、舌なめずりして見てたんやんか。
 何が違うの、俺と。
 あの男、美味そうやなあって、涎《よだれ》出そうになる点で、俺と水煙は何も違わへん。同じ外道や。せやのになんで、水煙様は、高貴な至高の御方で、俺はアホやの。淫らな蛇か?
 どこが違うんや、俺と水煙。教えて。マジで。どこか直して、あるいは、この際、あざとい演技でもええわ。それでアキちゃんが亨もイケてると、美しいなあ惚れそうやって、また思い直してくれるんやったら、なんでもするよ、俺は。
 めちゃめちゃ惨め。心の広い振りなんて、せえへんかったらよかった。
 もともと心の狭い、蛇で悪魔《サタン》の水地亨やのに。アキちゃん好きやで、独占したい。それを他人とシェアなんて、絶対イヤやが本音やったのに。
 ええ格好したんかな、俺も。神様みたいになりたいって、頑張り過ぎちゃった?
 そんなことして、馬鹿を見たな。お前は神やと信じてる目で俺を見る、アキちゃんの気持ちに、ストレートに答えすぎたか。純情やってんなあ、俺も。真面目に神様やってる隙に、水煙に男をぶんどられてるとは。
 アキちゃんはまるで、水煙のこと、愛してるみたいやった。好きやていう目で見てた。そんな目して、うっとり虜になったように見つめる相手は、俺やないとあかんのに。それがこの世の法則のはずやったのに。なんでそんな目して、水煙を見るんやろ。
 俺のこと、もう飽きたんか。とうとう飽きたか。
 そんな日が、来たらどないしようって、俺は内心ずっと恐れていた。
 アキちゃんが、この蛇はもう要らん、飽きたわって、俺をぽいっと道ばたに捨てていく。そんな悪夢のような瞬間が、いつか来るんやないかって、どこかでビクビクしてた。
 だって、そういう子なんやろ。アキちゃんを知っている大学の連中も、そんな話しとったで。本間は飽きる時は一瞬やてな。鬼やねん、亨ちゃんもフラれんように気つけやって、皆言うてたわ。
 ケッ。余計なお世話やで。アキちゃんにとって俺は、特別なんやから。フラれるわけないよって、強がってみてもな、その可能性が、一ミリでもある限り、いつも不安で切ないねん。アキちゃん俺を離さんといて、ずっと抱いてて、毎晩一緒に、抱いて寝てくれ。お願い、ずっと俺だけを、愛しててくれって、縋り付いて頼みたくなる。
 そんなことしても、無駄やねんけどな。
 飽きてもうたら、それまでや。愛してくれって頼まれたかて、それで愛せる奴なんか、居るわけない。
 恋愛て、自発的なもんや。アキちゃんが自発的に、俺を好きやと思われへんようになってもうたら、それでアウト。もう、どうしようもない。
 それで消えてもうてたら、俺はほんまにアホな蛇さんやなあ。
 もっとがっちり、アキちゃん捕まえておけば良かったよ。水煙なんか放っといたらよかった。あいつが死のうが、呪われて苦しもうが、俺には関係なかったはずや。
 でも、なんでやろ……。
 良かったなあみたいにも思う。
 呪いを解いてもらえて良かったなあ。アキちゃんお前に、好きやて言うてやってたか。それで満足したんか、水煙。お前も報われたか。
 なんか、えらい和んだような顔をして、水煙は朝早く、俺をゆさゆさ揺り起こしてきた。
 剣やない。人型に戻っていた。
 うとうとしていた俺は、ビクッとしたよ。だってベッドに真っ青な宇宙人おるねんで、びっくりするよ。しかもそれが、眠りこけてるアキちゃんの胸に、のんびり裸でおくつろぎやねんから、ギョッとするよ。
 てめえ、いつのまに人型なってたんや。気がつかんかった。いつのまに俺は眠ってもうてたんや。
 慌てて、がばっと身を起こし、改めて眺めてみたら、すごい光景やった。ベッドは血の海や。昨夜《ゆうべ》、犬が食うていた、アキちゃんの首筋のあたりから、枕を真っ赤に染め上げて、ものすごい出血やった。
 これで死なんのは普通ではない。アキちゃんはもう、普通やないんや。
 実はいっぺん死んで、生き返ってるだけかもしれへんで。
 だって人間は、体重の半分くらい、約二リットルの血を失うと、失血死するようにできている。ペットボトル四本分やで。おおよそやけども、そんだけ出血すると、人は肉体を維持できんようになり、その魂は、冥界の神々のものとなる。
 その時のベッドは、ペットボトル四本分以上の血をぶちまけたような有様やった。狂犬に頸動脈を噛みきられたんやからな、それは死ぬ。アキちゃん実は、ものすご痛くて、しんどかったんやないか。途中で俺が、催眠かけてやらへんかったら、きっともっと苦しんだやろ。
 そんな苦痛に耐えて、犬に食われようというのは、勝呂瑞希への罪滅ぼしか。それとも、ただの、愛情か。
 犬は満足したようやった。アキちゃん食いたい、そんな欲と懊悩に、さんざん苦しんできたけども、それがとうとう満たされたんや。
 本音言うたら、骨まで食いたい、そんな切ない気持ちやったやろけど、そこまでやってもうたらなあ。いくらアキちゃんが不死人やというても、蘇れるかどうか怪しいしな。やめといてくれて、正解やった。
 とにかく、たらふく血を吸うた。それだけやない、先輩好きやて、ありったけ齧り付いてた。そうやって浅ましく血を啜り、疲れて眠ってもうたわけ。
 抱きついたら殺すって言うといたのに、がっちりアキちゃんに抱きついて、おねんねや。
 勘弁してくれやで、ほんまにもう。俺が抱きつくとこ無くなるやないか。
 イヤやねん、なんで犬とアキちゃんの胸をシェアせなあかんねん。ていうか、それを言うなら水煙もやしな。犬と水煙が抱っこされてるとこに、俺も抱きつけいうんか?
 侮辱だわ。亨ちゃん、そんなんせえへんから。プライドあるのよ、これでも。
 今夜くらいは、譲ってやるわ。もう一晩あるんやし。明日はてめえら出ていけよ。俺はアキちゃんと、ふたりっきりで寝るしな、がっつりやるで。最低三回くらいはやる。
 だって翌朝にはもう、鯰《なまず》様やら龍やらが現れて、下手ぶっこいたら、熱き血潮のある身では、もう永遠に抱き合うことのない憂き目に、あうかもしれへんのや。
 せやしや、やり納め。いっぱいやるでえ。亨ちゃん、もうあかんてなるまで、アキちゃんにご奉仕させるから。俺が気を失うまでやってもらうで。いっぱい愛して、アキちゃん。死ぬほど抱いて。いやあん、ほんまに死んだらどないしよう! 平気やで、亨ちゃん、不死系やから! 死んでも平気! めちゃめちゃやってもかまへんのよ! 情熱的にお願いします!!
 ……って、そんなプランやったんやけどな。
 …………徹夜?
 不寝番やて?
 なに、それ? 寝ないの、今夜?
 えっ、じゃあ……ということは、俺とアキちゃんの、夫婦水入らずのめくるめく夜はというと……えー……と。……どないなる予定?
 無しやで。
 な・し。
 な・し?
 な・し……?
 って、どないなっとんねん! ふっざけんな。なんでアキちゃんの今生のラスト・エッチのお相手が、水煙様やねん。俺やろ普通! ヒロインやねんから! 亨ちゃんがやるとこやないんですか!?
 おっかしい……なに風呂入っとんねん、この青い人。なんで可哀想な俺が下僕のごとく、この包丁を風呂に入れてやらなあかんねん。俺からラスト・エッチ権を奪ったらしい、この、えげつない鬼にご奉仕して、風呂までお姫様抱っこしてやらなあかん、どんな理由が俺にある?
 そんなもんあるわけあるかい。行きかがり上や。
 あたかも当然のごとくに、水煙様が、ゆさゆさ俺をお起こし遊ばし、亨、亨、風呂入りたいから湯を張ってくれ、温《ぬる》いほうがええなあ、と言わはりましたもんで、ええ、なんで風呂、と寝ぼけつつ、うっかりご奉仕しちゃったのよ。
 見たとこ、水煙の体には、呪われてるような形跡はなかった。綺麗さっぱり、ぷにぷにのお肌やった。青いから、特に何とも思わへんけど、肌色やったら絶対エロい。確かにケツも華奢で可愛い。アキちゃん好みか……。
 しかし、勿論やけども、その時点では何かこう、何かしちゃったような形跡は、なんもなかったんやで。汗一つかいてるわけでなし。ただ、水棲で、水に浸かってると和むから、風呂入りたいだけみたいやった。
 ほんなら風呂ぐらい入れたろかと思うたんや。
 そして寝こけてる犬とアキちゃんをベッドに残して、水煙を横抱きしてやな、風呂に連れ込もうとしていたら、部屋のドアがバーンと開いて、ものすご怒ってはる怜司兄さんがご登場やった。
 ざけんな先生、誰か貸せと、妙なる美声で怒鳴り込んできはってな、兄さん、音にびっくりしたんか、反射的に俺に抱きついてた水煙と、それを抱っこしている俺を、愕然みたいに見てた。
 ほんまに十五秒くらい、お口開いてた。ものすご気まずい静止画像やった。
「なにしてんの、亨ちゃん。水煙と、やるの?」
 愕然のまま、怜司兄さんはマジとしか思えない口調で訊ねてきて、ものすご水煙のケツをガン見していた。若干、戸惑ってはるようやった。これ美味しいのかな、みたいな、そんな戸惑い方やけどな。
 俺はふるふる首を振って、ちがいますとお答えしていた。そんなわけない、俺は怜司兄さんとは違うから。下ではするけど、上ではいい仕事せえへんのやで。ツッコミ入れへん。俺は基本、ボケやから。それに恋敵とやる趣味もない。宇宙人ともや。
 お前もなんとか言え、水煙。むかつく誤解やろ。否定しろ。
 しかし水煙は、朧《おぼろ》を見るのも嫌なんか、知らん顔のお澄ましで、俺に抱きついていた。
 お高いような神さんやけども、運ばれるのは慣れてるらしい。誰かに抱きかかえられるのを、恥やと思うてない。駕籠《かご》か輿《こし》にでも、乗ってるようなつもりらしいで。
「早う風呂行け、水地亨。目障りなモンが来た」
 つんと澄まして愛想ない、水煙様の全身を、怜司兄さんは眉間に皺寄せて、しげしげと見て言うた。
「お前、ちゃんと足もケツもあるんやなあ。あの、下半分が蛇みたいなのと、どないしてやるんかと、実は悩んでたんや」
 余計なお世話や。怜司兄さん、本気で悩んでたみたいな顔で言うてた。
「でも、ケツはあっても穴無しなんやで」
 もっと悩ませたろと思って、俺は教えてやった。それには水煙が、ぎょっとしていた。
「余計なこと言わんでええねん、このアホが!」
 水煙が俺の耳元に怒鳴っていた。キイキイうるさいような、水中対応の超音波みたいなのまで、ぎゃんぎゃん怒鳴っていた。蛇やし聞こえる、俺かて耳ええんやから、そんなに怒鳴らんといてくれ。
「えっ、マジで無いの? ちょっと見せてみろ」
 知的好奇心かなあ。そう言うて、ずかずか近寄ってきた怜司兄さんが、いきなりケツに触ったもんやから、水煙はキャアアアアアっ、て、イルカみたいな悲鳴を上げてた。
 怜司兄さん、びっくりしていた。
 びっくりしたで俺も。まさか水煙が、そんな悲鳴上げられるやなんて。いつもお高くとまってんのに、まるで襲われた女みたいやないか。いやん。ちょっと可愛いな、お前。そんなん俺に思わせんといてくれ。変な気起きたらどないすんねんな。
「触るな、阿呆っ。何しに来たんや、この淫売がっ」
 蹴飛ばせるもんなら蹴りたいと、そんな目付きで、水煙は怜司兄さんを睨み付けていた。でも若干、涙目やった。なんで泣いてんのや。何を泣くようなことがあったんや。
 怜司兄さんはそれに睨まれ、ますます愕然みたいな顔をして、水煙に触れた手を、宙に浮かせていた。
「なんや、このケツ。ぷにっぷにやないか、気持ちよすぎ!」
 真面目に叫ぶような話やなさすぎ……。
 そうなん? 水煙のケツって、気持ちええんか。そんなん俺、触ったことないもん。姫抱っこするとき、太腿までは触るけど、ケツまでは触らへんもん。確かに太腿もむにゅっとしてて気持ちええねんけど、ケツもそうなんか。どんなんやねん。触りたい衝動に駆られるから、言わんといてくれ。
「一発やろか、水煙? 穴なしでもいい、何かテクい方法を、考えるから」
 変な気起きたんか、怜司兄さん。ほんましょうがない人やあんたは。節操がない。さすがは蛇の眷属や。
「考えんでええねん! 何か用があって来たんやないのか! アキちゃんやったら、まだ寝てる。出直せ、朧《おぼろ》」
 顔真っ白なって、水煙様は俺の首をぐいぐい絞めてた。力あったら首ねじ切られてる。そんな気のする、八つ当たりめいた抱きつかれ感やった。微妙に苦しいよう。
「誰でもええんやな、怜司兄さん。てめえの仇《かたき》の青色宇宙人でもええんや」
 感嘆して、俺は褒めた。褒めてるんやで。
 怜司兄さんは、それに力強く頷いてくれた。
「誰でもいい。ケツ可愛ければ、とりあえず入れてみる、それが宇宙の法則や。ラブ&ピースやで亨ちゃん。それで全宇宙が平和になれる」
 どこまで本気かわからへん。どこまでも本気やったら、どないしよ。亨ちゃん、思わず上ずった笑い声やった。だって、どないすんねんな。
「全宇宙の平和もええけど、とりあえずは犬にしといてくれへんか。水煙を怜司兄さんにレイプされたら、うちのアキちゃん発狂すると思うから、犬で我慢しといて。あいつもケツは可愛い」
 俺は説得した。怜司兄さんは、そうやなあって、素直に頷いてくれてた。話のわかる人や。
「そういやワンワン、どないなったんや。腹減って死んだか、発狂してへんか?」
「してへんよ。昨夜、アキちゃんバリバリ食うて、血吸うて、すやすやネンネしとったわ。もう元気なってんのとちゃうか」
 ぷんぷんしてる水煙に、首を絞められながら、俺はトホホ顔で答えてた。
「ああ、そうなんか。良かったなあ、ワンワンも餌もらえて。本間先生も、我慢プレイにもほどがある。それも心配しとったんや」
 そう言うて、にこにこしている怜司兄さんは、ほんまにホッとしたようやった。水煙・龍神様モードと、どないしてやるか悩むついでに、それも心配してくれてたんか、怜司兄さん。案外、優しいんやなあ。エロと、おとん大明神以外のことも、考えてる時あるんや。
「ほなワンワン、もう大丈夫なんやろ。ちょっと俺に貸して。仕事手伝わせたいんや」
 俺に犬を貸すとか貸さんとかいう、許可を与える権利があるんか。怜司兄さんは俺に訊いていたけども、お答えのしようがなかった。
「貸せ言われてもなあ……アキちゃん寝てるし、わからへん」
「何言うてんの。お前が筆頭の式やないんか?」
 怪訝な顔して、怜司兄さんは俺を見下ろした。俺が筆頭の式ならば、勝手にワンワン貸してええんや。知らんかった。そんな権力を手にできるとは。
「こいつは開放されたんや。もう秋津の式ではない」
 俺に抱きついたまま、水煙が偉そうにぶつぶつと、口を挟んだ。それでも朧《おぼろ》に背を向けて、目も合わせとうないという態度ではいた。
「なんや。そんなら、まだまだ、水煙様は健在か」
 チッとあからさまな舌打ちをして、朧《おぼろ》は伏し目になっていた。淡い鳶色の目が、じいっと水煙の青い背を、見つめていた。
「俺はワンワンより上? 下? どっちやねん、水煙様」
「……お前のほうが上でいい。あの犬は、経験の面でお前に劣る。いろいろ教えてやれ」
「いろいろ教えてやるわ」
 ものすご含みのある艶めいた口調で言うて、朧《おぼろ》はにやにやしていた。
「ほな、序列的には、水煙様、俺、可愛いワンワンということで」
「そういうことや。今後もし、式《しき》が増えたら、お前が面倒をみろ」
 俺にしがみついたまま、水煙様は朧《おぼろ》に指図した。そうするのが当たり前みたいな、慣れた口調やった。
 そういえば怜司兄さんは、昔も一時期、秋津の式神やったわけやから、実はほんまに慣れてんのやろ。蔦子さんの式《しき》としても、はっきりせえへんなりに、喚ばれたら出向いていく程度には、仕えていたんやしな。フリーダムみたいに見えて、これでも式神キャリアのある人なんやで。
 でも秋津家では合わず、水煙様に嫌われて、追い出されたんやろ。見たとこ、確かにラブラブの二人には見えへんけどもな、でも、そう険悪にも見えへん。オシゴトですからって、割り切って付き合うぐらいなら、やっていけそうやけどなあ。
 なんせ、もう、水煙様はおとんユーザーではない。同じ男を取り合って、メラメラ燃える必要は、もうないんやしな。
「俺はお前がランク落ちして、ヨソモンの蛇にこき使われるところが見られんのかと、ちょっと期待してたんやけどなあ」
 水煙がどんな顔してんのか、見たいみたいに、朧《おぼろ》様は脇から覗いて、じろじろ冷やかす目になった。それにも水煙は、フンて感じで背を向けていたけど、ええかげんにしてくれやった。抱っこさせられてるほうの身にもなれ。いくら軽いいうても、俺はお前の乗り物やないんや。さっさと降りろ。アキちゃんと違うて、俺はお前をずうっと抱っこしてたい訳やないんやぞ。
「それはそれは、ご期待どおりに行かずで、済まんことやったなあ」
 ツンツン答え、水煙は早う風呂に行けというふうに、ぐいぐい俺の首を引っ張っていた。馬か、俺は。
「亨ちゃん……油断しとったらあかんで。昔聞いた限りでは、こいつのケツにはなあ、病みつきなるような機能があるみたいなんやで。ほんまに穴ないの? どないしてやるんや……」
 セクシャル・ハラスメントやで、朧《おぼろ》様。ひとつ屋根の下に棲んだら、水煙は、怜司兄さんにえげつない嫌がらせされるでって、信太が笑って言うていたけど、ほんまやな。ほんまやった。俺が思ってたようなのとは違うけど、確かに嫌がらせといえば、そうかもしれへん。水煙、嫌がってたから。
 怜司兄さん、どうしても気になるんかな。また、おもむろに、水煙様のケツを掴んでいた。うわあ、ええのか。たぶん神聖なケツやのに。アキちゃん見てたら、気絶する。
「あ……阿呆ッ。触るな言うてるやろ!」
 ちょっと震えちゃうみたいな声で言い、水煙様は全身ビクッとしてた。どこ触ったんや、怜司兄さん。やめてえ、俺が抱っこしてる時に、いきなりそんな行為に及ばんといてくれ。俺まで参加してるっぽくなるやん。
「助けろ、水地亨」
 逃げろって俺に命令してきて、水煙はなんかを堪えてるような顔してた。ははぁん、なんやろ。亨ちゃん、わっからへん。
「亨ちゃんは俺の味方やろ? 助けてやる義理なんか、何もないよな?」
 にやにや俺ごと抱いてきて、青い宇宙人をサンドイッチにしている朧様は、耳元に囁く声で、それを確かめた。うん、まあ、無いな。確かに無いけどな。でも俺、こういう趣味もないな。宇宙人に、悪戯しちゃう趣味はない。
「気持ちいい? ほんまに穴無いな。どなしてやったんや、暁彦様と。逃げても無駄やで、俺は位相を渡れる神や。気に食わん奴には、触らせへんて、そういう訳にはいかんのやで」
 ねちっこいなあ、朧《おぼろ》様。ごそごそしてる。水煙ちょっと、太腿が、わなわなしてる。なんかちょっと、変な気分になってくる。エロいなあ、朧《おぼろ》様。こんなんして迫られたら、確かにアキちゃんみたいな初心《うぶ》な奴なら、いちころか。
「やめてくれ……お前なんか嫌いや」
 堪えたような小声で、水煙はそう言うていた。いつも深遠な黒い目が、ちょっと潤んで見えてたわ。
 偉そうに言うてみたところで、水煙は、足腰萎え萎えの神。自分では逃げられへんのや。相手が自分の霊威を畏れないんやったら、されるがままで、どうしようもない。哀れやなあ。助けへんかった俺が悪いんか、水煙兄さん、朧様に、さんざん恥ずかしい目に遭わされちゃったみたい。
「俺、いっぺんお前のこと、肥溜めに捨てたったことあったよなあ。ごめんなあ。こんな可愛いケツなんやて知ってたら、そんな酷いことせえへんかったのに。もっと嬉しく泣けそうなこと、いろいろしてやったのになあ。ええ気味やろなあ、お前がひいひい喘ぐの見られたら」
 青いほっぺに、ちゅう、と音するキスをして、朧《おぼろ》様はおイタをやめた。にやにやしていた。楽しかったらしい。
「感度ええで? ツボはある。変やなあ、なんで穴はないんやろ」
 しみじみ不思議そうに言うて、怜司兄さんは興味津々みたいやった。宇宙人、好きなん? ラジオUFO特集か。
 水煙は、よっぽど屈辱やったんか、怒った顔して、わなわな来ていた。もう怒鳴る地点を通り過ぎてんのか、ぐっと堪えて、口もきかへん。えー。ちょっと、可哀想やったかな。逃がしてやればよかった? いやいや、つい静観してもうた。なんか見たくて。えへっ。
「今度、三人でしよか。亨ちゃんのも舐めたるよ。気持ちええでえ、どんなのが好き?」
 耳に息のかかる近さで、怜司兄さんに囁かれちゃって、ちょっぴりモジモジしちゃったよ。
 えー、どんなんが好きかなあ……って、前向きに検討してる場合やないな。俺はぶるぶる首を振ってた。拒否したというより、己のエロエロ煩悩を振り払ってただけ。
「せ、せえへん……やめといて。チーム秋津は健全やから!」
「そうなん? つまらんなあ……気持ちええのに。本間先生より俺を愛しちゃうくらいやで?」
 にこにこ悪気なさそうに言う怜司兄さんは、本気みたいやった。ええよ言うたら、本気でいっとくっぽい。俺は焦って、ますます首ふるふるしてた。
「そんなんなったら困るし、やめとくわ。おとんと3Pはイヤやもん」
 イヤかなあ。イヤ……かなあ? 断言できへん。おとんかあ。あの人、どこいってもうたんや。戻ってきて早くなんとかしてえ。暴走してる朧様を止めてくれ。
 にこにこ絶好調みたいやった怜司兄さんは、俺の話に、ふと唐突に暗い笑みをした。
「そんなんせえへんよ。暁彦様は、もう俺んとこには戻ってけえへん。そうやろ、水煙」
 苦み走った笑みで、そう言うて、怜司兄さんは平気そうに見えた。うーん、でも、ほんまにそうかな。俺は何も、言うに言われへんような気持ちやった。デリカシーあるんやで、水地亨は。
「そうや! アキちゃんはお前の事なんて、この六十年ほどの間、一言も言うてへんかった。忘れたんやろ、もう半世紀以上も前に捨てたお古やからな、お前は!」
 デリカシーがない、水煙様は。気持ちを察してやれよ。鉄でできてるお前と違って、怜司兄さんは繊細なんや。しかも頭おかしいんやで。そんなこと言うてイケズして、ショックでまた発狂したらどないすんの!
 幸いな、発狂はせえへんかったけど、怜司兄さんは、ものすごイヤそうな顔をした。むっと思わず顰めたような顔で、腹立つというか、つらいというか、そういう顔やった。
 あんたもや。言われたないんやったら、そんな話を振るな。自虐ちゃんなんか、朧《おぼろ》様は。確かにちょっと、そういうとこある。怜司兄さんはな。
 ふん、て拗ねたように、小さく鼻で笑い、怜司兄さんはそっぽ向いてた。アキちゃんが寝てる、ベッドのあるほうの壁を見やって。
「なんやねん、もう。可愛くないなあ。心配して来てやったのに。呪いは解けたんか。昨夜はさぞかし、お楽しみやったんやろなあ。本間先生、上手やったか?」
「なんの話や、このアホが。心配なんか、していらん。余計なお世話や。式《しき》がいるなら、叩き起こして、犬を連れて行け。ついでや、何かと仕込め。なんも知らんアホやから」
 水煙にとっては誰も彼もアホな子なんか。そらあ、お前みたいに長生きしてる神から見たら、誰でも彼でも幼くて、ものも知らんし、何も経験していない、そんなチビっ子なんやろうけど、お前ちょっと偉そうすぎへんか。そんな言い方するから、ムカッと思われるんやんか。口が悪いねんから、ほんまにもう。
 アキちゃんのあれ、遺伝かな? あいつも口が悪いんや。デリカシーがない。言うたらあかん事を、まず最初に言いよるねん。なんとかならへん、あれ? 無理? 血筋の定め? 呪われた家やなあ、ほんまにな。
「仕込む言うても、なにができんの、あいつ。顔とケツ可愛いことしか判ってない」
 ぶうぶう拗ねつつも、怜司兄さんは仕事した。鬼道の話に関しては、ちゃんと真面目に取り合うらしい。いつも話聞いてへん、俺とは違う。聞いてんのか亨、って、水煙様に怒鳴られたりせえへんねん。
「地獄の眷属やし、元は天使で、その前は犬神やった。たぶん火の属性を持っている。前に大阪で見た時には、ええ身のこなしやった。武闘派ではないか」
 気を取り直したような、わざとらしいお堅さで、つんつん澄まして、水煙はそう評論していた。
 ええ、瑞希ちゃんが武闘派かぁ?
 そうかもしれへん。俺もさんざんボコられたしな。霊力的には俺が上やけど、マーシャルアーツではあいつが上かもな。犬やしなあ、運動神経においては、あっちが優位や。蛇キックより犬パンチのほうが強い。残念ながらそれは事実や。
「武闘派かあ。それはええなあ。どう見てもインドア派みたいなのばっかりやもんなあ……うちは」
 うちって、チーム秋津のことですよ。それを、そう呼ぶのに、怜司兄さんはなんか、微妙らしかった。気恥ずかしいらしかった。そしてちょっと、懐かしい気もする。古巣に戻ったって、そんな感じやったんやろうなあ。出戻りやから、朧《おぼろ》様。
「ええことや。手勢が大いに越したことない。アキちゃん守らなあかんのやから。お前はほんまに役立たずなんやしな。もっと式《しき》が居ればよかったんやけど……」
 むっとしたような、意地悪い流し目で、水煙はその人手不足が俺のせいやみたいな、恨みがましい睨み方やった。
 ええ、なんで!? 俺のせいやった!?
 ちゃうやん、ちゃうやん。おとんのせいやんか。家にいたイケてる式神を、全部戦につれてって、死ぬまでこき使ったんやろ。それで式神貧乏なってもうたんやないか。俺なんて、そんな気の毒な家に現れた、有り難い救世主みたいなもんやで。むしろ親切なんやで?
 それを、ほんまに。よう言うわ!
「信太が来るやろ」
 それが決まった事実みたいに、朧様はけろっと言うてた。
 なんで信太が来るというのか。それは、この後の籤取《くじと》りで決まる、鯰《なまず》様への生け贄が、名義上、儀式の斎主であるアキちゃんの式《しき》となる手はずやったからや。斎主は自分の式神を、鯰《なまず》に食わせる段取りやから、生け贄になる式《しき》は、アキちゃんの所有でないとあかん。
 形式だけでも、生け贄の式《しき》はアキちゃんのモンになる。チーム秋津に、臨時増員や。
 それが信太やと、怜司兄さんも確信していた。たとえ当選しなくても、信太は持って行けと、蔦子さんはそういうつもりやったんやしな。それが虎の運命と、蔦子おばちゃまは予知したらしい。変な理由やで。予知者ならではの、よう分からん理由やな。
「あいつは何ができるんや?」
「強い」
 水煙の問いに、怜司兄さんはむっちゃ単純に答えてた。さらりと言うてる、その話は、冷静に見た場合の客観的事実みたいやった。
「あいつはもともと、中国の、王宮の門を守っていた虎や。外敵が押し入らないように、要所の守り神として祀られていたわけやしな、あっちの武道に通じている」
「信用ならんなあ。あっちの王朝は滅びてしもたやないか?」
 水煙は信太が好かんのか、渋い顔して、否定的やった。そら確かにな、信太は水煙の好み系やないやろうけどな。怜司兄さんもそう思うのか、答える顔は、面白そうな苦笑顔やった。
「しょうがない。来たのはヤハウェの軍隊や。極東アジアの神やら鬼やら、霊獣なんぞは信じていない。それに、信太が下手こいたわけやない。皇帝が、もはやこれまでと諦めて、城を明け渡したんや。ご主人様が退けというのに、逆らうわけにはいかんやろ?」
「異朝の帝《みかど》も難儀な目に遭うたわけやな」
「そういうことやで。こちらの帝も京から東《あずま》へ、お移りになったくらいやからな、それも時流や、しょうがないやろ」
 しょうがないんや。知らんわ、亨ちゃん。俺はぜんぜん政治には、興味ないねん。なんかな、もう、うんざりやねん。政治がどうとか、戦争やとか、そういうのはもう、古代の川辺でやり尽くしてきた。もうイヤやねん、のんびりフラフラしてたいねん。なあんも考えんと、アキちゃんとラブラブラブラブしてたいねん。
 せやから何か、ああそうか、それはしょうがない、ツーツーカーカーみたいな、水煙様と朧《おぼろ》様に、ついていかれへん。えーと。中国史ですか。誰でしたっけ、最後の皇帝って。
 ……ああ、そうか! ラスト・エンペラーや!
 『ラスト・エンペラー』っていう古い映画があるの知らん? 俺、見たことある。アキちゃんがDVD持ってたから、出町の家で、ひとりで暇な時に観たわ。主演のジョン・ローン、ええ男やわあって、ぐにゃぐにゃしながら観た。
 あれが信太のご主人様や。ジョン・ローン。……やのうて、なんやっけ。なんて名前やった? えーと。愛新覚羅溥儀《あいしんかくらふぎ》。愛新覚羅《あいしんかくら》が名字で、溥儀《ふぎ》がファーストネーム。それは日本語読み。中国語読みは発音できません。怜司兄さんか信太に聞いて。俺は中国語はあかんから。
「飛び飛びの話から察するに、信太は逃げろと命じられたらしいわ。それで、しゃあなしに逃げたけど、あん時、玉砕するまで戦っておけばよかったと、未だにネチネチ思うらしい」
 それがいかにもアホみたいという口調になって、怜司兄さんは、極めて軽うく話していた。
「ふうん……それはまあ、忠義な虎や。しかし、死んだところで犬死にやろう。どうせ王朝は滅びた」
 犬死に言うたらあかんのやで、水煙。犬差別やで。瑞希ちゃん、怒ってくんで。犬にケツ噛まれたらどないすんねん。せっかく可愛いケツやのに。大事にせんとあかん。
「俺もそう言うたんやけどな。アホやし意味わかってへんのとちがうか」
 ふんって、ちょっと怒ってるみたいに、怜司兄さんは陰口きいてた。なんや、結局、フラれて怒ってんのやな、この人も。
 アホなんか、信太。ちょっと気の毒。こんなとこで元彼にアホ呼ばわりされて。
 それって、あれやん。武士道というかやな、大陸でいう、武侠《ぶきょう》の心意気なんや。お城を守って玉砕や。日本で言うなら白虎隊やんか。あっ、あれも虎か。縁起悪いな、虎。負けて切腹みたいなジンクスあるんとちがう? 大丈夫かな、タイガース。そういや、どないなったんやろ、日本シリーズ。まだ虎、生きてんのかな? 俺の赤星様はどないなったんや。
「まあいい。強いというなら、お手並み拝見や。犬と虎とが露払いにつけば、アキちゃんにも一応、格好がつくやろ。お前はどないすんのや」
 一応、心配はしてる。一応は仲間やという口調で、水煙は横目にちらりと朧《おぼろ》を見ていた。そこはそれ、男を巡ってドツキ合おうが、ケツに悪戯されようが、チーム秋津のメンバーやから。同じ釜の飯を食う仲間。この場合、飯ってアキちゃんやけどな。
「俺もついてくよ。本間先生にやないけど、霊振会に頼まれてる仕事があるから」
「どんな仕事や。こっちにも段取りがある。秋津に戻ったというなら、ちゃんと手はずは連絡していけ」
 つんけん言うてる水煙様にも、怜司兄さんは気を悪くしたふうもなく、そうやなあと、うんうん頷いていた。
「鯰《なまず》がどこへ出るやらわからへん。あたりはつけてるけども、結局は、その時が来るまで分からんのやしな。祭壇を築くのは、実際に鯰《なまず》が現れてからという計画やねん。俺はここから、その場所までの、移動用の位相を探して、最短コースを造ってやる予定。いわばバイパス工事やな」
「工兵か、お前は」
「通信兵もするよ。霊振会の皆さんどうしの連絡から、一般人《パンピー》の皆さんの避難誘導まで。八面六臂《はちめんろっぴ》のご活躍よ。忙しいわあ。茂ちゃんも式使い荒い」
 モク中やねんなあ。ちょっと話す間も我慢でけへんのか、怜司兄さんは煙草を取りだし、銜えたそれに、蜻蛉《とんぼ》の飾りのついてるライターで、火を入れた。独特のお香みたいな匂いが香って、水煙はその煙と、それ越しに見える朧《おぼろ》の手が、いかにも大事そうにライターを仕舞うのを、じっと眺めていた。
「気をつけろ。茂は昔からお前が欲しいんや。あいつはアキちゃんの持ってるもんは何でも欲しがる。ごうつくな、商人の子やねんからな。お登与を寄越せというたのも、あれがアキちゃんの妹で、想い合うとると察したからやないか」
「そうかもしれへんな。複雑なとこやで。憎いあん畜生やけど、茂ちゃんは暁彦様とはけっこう、仲は良かった。なんだかんだで、連んでいたし、戦がなければ、茂ちゃんも案外あのままずっと、秋津に居ついて、ええコンビになっとったんやないか。チーム秋津で鬼退治。暇な時には絵描いて、祇園で遊んで。ええ時代もあったやんか」
 それが懐かしいみたいに言うて、朧《おぼろ》は伏し目になって床を見ていた。きっと怜司兄さんは、そのまま時が止まってくれてたら、よかったのになあと思うてんのやろ。
「昔の話や。茂もえらい爺になってもうて。アキちゃん見てたらトシ忘れるけども、それももう、半世紀以上前のことやで、朧《おぼろ》。もはや今さらや」
「あれ。暁彦様って、爺やないのか」
 あっさり言うてる水煙の話に、朧《おぼ》はびっくりしたふうに、目を瞬いていた。おとん大明神が人並みに老けてると思うてたらしい。
「なんも変わっていない。いっとき少々老けたけど、精々四十路くらいかな。俺は、あれはあれで、ええ男ぶりやと思うてたけど、本人はくよくよしていたな。若いままがよかったとかで」
 なんでや、おとん。ええトシして、なんでそんな若作りなんや。秋津のおかんといい、なんでこの血筋のやつらは、トシとるのを怠けるやつらばっかかりなんや。
「でも、その後ジュニアが若い頃のアキちゃんの絵を描いて、それを足がかりに若返りを果たしたんで、にこにこしていた。えらい若作りやで。実の息子と同い年のようや」
「ほんなら若いの?」
「出征した頃のままやな」
 水煙が、それを教えてやると、なんでか怜司兄さん、ちょっとトキメいちゃったみたいやった。目が泳いでた。胸がドキドキしちゃったみたいやった。
 乙女か、兄さん。おとん若いくらいでソワソワせんといて。水煙のケツ触ってたくせに。
「変わってないんや……」
「それが、お前になんの関係があるんや」
 むっとしたみたいに、水煙は冷たい声で言い、朧様のトキメキをぶち壊していた。焼き餅か、水煙。二股かけるのやめへんか。今はジュニアやろ。それとも、おとん争奪戦にカムバックする気になってくれたんか。それでもいいよ、俺は。大歓迎よ。
「関係、ないけど……別にええやん。ちょっと思い出すくらい」
 じとっと言うてる朧様に、水煙はものすご、ふんっ、て言うてた。
「別にええよ。思い出すだけとは言わず、よりを戻したければ、戻せばいい。保証はせんけどな、あの子がお前をまだ相手にするかどうか、そんな脈があるか、俺にはさっぱりそうは思えへんけどな。お前にも当たって砕ける権利くらいはあるやろな」
「砕けんの!? ぎょ、玉砕か、俺は……」
 本気で受け取ってんのか、朧様、顔面蒼白やったで。マジにするだけアホやのに。水煙、イケズで言うてるだけやのに。それも分からんくらい必死なんか。おとん関連では。おもろいなあ、怜司兄さん。可愛いとこあるやん。水煙のケツ触ってたくせに。
「知ったことか、そんなん! いつぞやは、お前んとこに式差し向けて、折檻させたりして、えろう済まんかったな。皆、お前にはムカムカしていたらしいんでな、それもしょうがない。ルール無視して、アキちゃんを幾夜も独り占めしたお前があかんのや。自業自得やったと思って、許してくれ。お前のせいやった」
「謝ってるつもりか、それ」
 怜司兄さん、混乱しちゃったみたい。俺もしちゃった。
 ていうか折檻て。リンチか水煙。超怖い。鬼みたいというか、とっくに鬼やんか。鬼そのものやで、これ。この青い人。アキちゃん気付いてないだけで。鬼ですって。
「何で俺がお前に詫びなあかんのや。そんな謂われはないわ。汚らわしい物の怪め。それでもアキちゃんが、お前のようなのがいいと言うんなら、好きにすりゃええ。俺はもう、ジュニアに乗り換えたから」
 俺に乗ってる状態で、そんな堂々と、ジュニア乗り換えた宣言すな。姫抱っこされてんねんぞ。そのジュニアのご正室様に。ご正室様っていうな。まるでご側室様がいてるみたいやないか。いるけどやな。現実問題として。水煙とも契ってもうたんやしな。正室と側室と犬と、それに怜司兄さんという妾まで居るんやないか。どないなっとんねんアキちゃん。いっぺん死んでこい。
「そんなこと……ありえんの? 俺、もういっぺん暁彦様と、寄り戻せんの?」
 ドキドキ不安そうに、胸締め付けられてるような顔して、怜司兄さんは訊いていた。水煙はそれを、しばし、じいっと眺め、それから断言した。
「ありえへんな」
 きっぱり言われて、怜司兄さんの繊細な心が、がらがらガシャンて砕け散る音がしたような気がした。俺は慌てた。猛烈に。
「あかんやろ水煙。お前はなにを言いたいんや。なんのための話題やねん」
「いや、つい本音が出てもうてな。嫌いやねん、こいつが」
 ぷんぷん灼いてる声でゲロって、水煙はずり落ちそうなんか、よいしょと俺の首に腕かけて、座り直していた。
「でもな、そんな私情抜きで言えば、あいつはお前に未練があるやろ。ダメ元で、当たって砕けてみたらどうや。案外、失われた時間の埋め合わせが、できるかもしれへん」
「そうやろか……」
 朧様、むっちゃオドオドしてる。アホみたいになってきてる。
「さあな。そうでなくても、しっかり働いておけば、声のひとつもかけるやろ。息子が世話になったんや。あいつも隠居の身とはいえ、秋津の前当主やで。礼儀は尽くすわ」
「そうやな。俺ともまた、口利いてくれるやろ。挨拶くらいは」
 不安げに、でもうっすら嬉しそうに言う、その話のみみっちさに、俺は唖然とした。話すだけでええのん? 挨拶って。そ、そんなんで、ええのん? そら、それくらいしてくれるやろ。それもしてもらわれへんと思ってたんか、怜司兄さん。哀れっぽすぎる。
「あいつはお前が、憎くて捨てたわけやない。俺に言われて、しょうがなくや。それは分かってんのやろな?」
 水煙も、若干引いたんか、こわごわ確かめるような口ぶりやった。
「そうやろか。ほんまは俺に、飽きてたんやないか。遊びやったんやしな、俺とのことは」
 本気で言うてるらしい怜司兄さんの姿を、水煙は真顔でじっと見つめていた。黒い目が、つるりとした無表情で、なにを思うてんのやら、分からん感じ。
「遊びか。そうかもしれへんな。お前がそうやって、最初から分を弁《わきま》えてたら、追放などしなくて済んだんや。愚かやったな、朧《おぼろ》」
 冷たく言うてる水煙様の、鋼でできてるはずの心が、なんでか震えているような気がして、俺はすぐ傍にある青白い顔を見つめた。
「分かってるよ。お前が主神で、あとは雑魚やろ。俺かてそれはもう、身に染みて分かったよ。遊びでええねん。それで別にかまへん」
「そうか。それならお前にも、希望はあるかもしれへんな。精々気張れ。ええ仕事して、アキちゃんに、秋津が世話になったと思わせろ」
「そうするわ」
 こそばゆそうに、怜司兄さんは照れながら、そう言うていた。それを見つめる水煙の目は、冷たかった。抱っこしている青い体が、冷たいのと同じで。
「ワンワン借りていくしな」
 にっこりとして、怜司兄さんは俺と水煙に、そう断った。
 そして、すたすたとベッドのあるほうへ消えて、またすたすたと、半分寝ぼけているパジャマ姿の犬の手を引いて、連れて戻ってきた。
 瑞希ちゃんは、頭寝癖でぐちゃぐちゃで、着物みたいな打ち合わせになっているパジャマも半分はだけて、肩が見えてた。ヨレヨレやった。本気で寝ていたらしい。
 その、隙だらけみたいな姿を見てると、可愛かったけども、犬は半分血まみれやった。髪にも顔にも、もとは白かったパジャマにも、アキちゃんの血が、べっとり染みついていた。
 それを眺めて、水煙は、はしたないという咎める目をした。確かにちょっと、お行儀悪い。吸血が下手。毎度これでは困ってまうわ。それも仕込まなあかん。まったくワンワンは、躾ることだらけ。
「先にシャワー浴びさせるわ」
 まだ寝ぼけてヨタヨタしている犬を引っ張っていって、怜司兄さんはバスルームに消えた。瑞希ちゃんは素直にそれに引かれていったけど、あんな寝ぼけ具合では、ついでに一発やられても、気がつかんのやないか。
 平気かなあ、というかですね。ちょっとした興味で、俺も見たくて追いかけちゃった。水煙も、ほら、風呂入りたいんやし。ねっ。
 でも怜司兄さん、むっちゃ真面目やった。普通に犬洗ってた。裸に剥いて、シャワーブースに叩き込んだ犬に、じゃぶじゃぶシャワーかけてた。しかもそれが水やったみたい。
「……っ、冷たい!!」
 びっくりしたんか、瑞希ちゃんは水かけられながら目を覚ましていた。
「起きたか、ワンワン。おはようさん。これから俺と働いてねー」
 煙草吸いながら、にこやかに犬洗ってる怜司兄さんを横目に、俺は水煙をからっぽのバスタブに座らせた。貝殻みたいな、白い浴槽やで。
「服、適当にとってきたるし、体ふいとけ」
 びしょびしょなってる瑞希ちゃんに、白いバスタオルを渡してやって、怜司兄さんはバスルームからまた出て行った。
 瑞希ちゃんは、今さらガン見の俺らに気付いたようで、慌ててタオルで体拭いてたけど、後の祭りやった。全部見ちゃった。裸見ちゃった。まだちょっと少年なんですみたいな体つきやった。こういうの、好きな奴は好きやなあ。
「お……おはようございます」
 言うこと他になかったんやろう。瑞希ちゃんはドギマギしたふうに、俺と水煙に挨拶した。たぶん、主に水煙に。
 水煙はそれに、鷹揚に頷いていた。偉い人みたいやった。偉いんか。秋津の守護神なんやもんな。ぽっと出の犬とは違うよな。
「腹満ちて和んだようやな。今日は朧《おぼろ》の下について、手伝いをしろ。あいつにいろいろ教えてもらえ。お前も秋津の式になったんや。いつまでもアホでは困る。持てる力を発揮して、アキちゃんの役にたってやってくれ」
「はい……」
 まだ寝起きの、喉が渇いている声で、瑞希ちゃんは返事していた。
「素直で結構。お前は亨とは、一悶着あった間柄やけど、それはこの際、綺麗さっぱり水に流して、これにも目上への礼儀を尽くせ。今はこいつが秋津の主神や。朧《おぼろ》よりも、俺よりも序列は上や。亨にも、俺にするように、分を弁えた口の利き方をしろ。命令されたら素直に従え。わかったな?」
 分かったと、それに返事はしたくなかったんやろか。瑞希ちゃんは緊張した顔で、じっと俺を見て、こくりと頷いただけやった。
 それでも水煙は、良しとしたらしい。俺も別に、それでいい。序列なんて、うるさく言う気はなかったし、犬がいちいち喧嘩売ってけえへんのやったら、それでええねん。
 銜え煙草で鼻歌歌いつつ、朧様は上機嫌で戻ってきた。手にはクローゼットから引っ張り出してきたらしい、瑞希ちゃんの服を持っていた。遥ちゃんルックではない、犬がアキちゃんと神戸デートして買ってきた、普通の服の方。普通というか、若干悪い子寄りのほう。鋲《びょう》打ってある悪い子ジーンズに、でっかい髑髏《スカル》の絵が入ってる、悪い子Tシャツ。アキちゃん、ようこれ買うの許したな。
「髑髏《スカル》大好き」
 にこにこ言いつつ、怜司兄さんは犬に無理矢理Tシャツ被せてた。着せてやる必要ないやん。それに、やっぱり髑髏《スカル》大好きなんや。あの、信太とおソロの髑髏の指輪してたの、実はほんまに髑髏が好きやっただけなん? あんまりやで兄さん。ただの自己愛《ナルシズム》か?
 しかし、そんな俺のジト目に気付く気配もなく、怜司兄さんは、自分で着ますってオタオタ言うてるワンワンに、遠慮無く次々服着せて、悪い子ぶってますけども、可愛い弟キャラですみたいなのを、あっというまに仕上げた。
 寝癖でぐちゃぐちゃやった髪の毛も、洗面台にあったヘアワックスで、適当でありつつ、実は計算しましたみたいな無造作ヘアに仕上げてやってた。
 まるで瑞希ちゃん、これから売り出すアイドルみたいやったで。それかペットショップでトリマーさんに服着せられてる、きゃんきゃん哀れっぽいマルチーズみたい。
 そらまあ、哀れっぽくもなるわ。いくら犬とはいえ、ええトシした男がやで、他人にパンツはかされてみ? 格好悪うて、なんか凹むよ。三万十八歳にもなって、まだ自分でパンツはかれへんのか、犬。はけるやろ。
 とにかくそれで、朧様について歩いても、格好のつく見た目になったってことやろ。怜司兄さんは、どことなくションボリしている瑞希ちゃんを眺め、にこにこ満足そうに微笑んでいた。これでよし、みたいなな。
「よーし、それでは、行ってくるわ。それはええけど、居間のコーヒーテーブルにあった、飴でできてる京都タワーって、あれなに?」
 目ざといなあ、兄さん。それは昨夜《ゆうべ》アキちゃんが作った、霊水飴の試作品や。作ったものの食いにくい。でかいから。だけどお部屋の飾りになるよ。桃みたいな匂いがぷんぷんするし。霊力たっぷり、霊験あらたかよ。いざというときには非常食にもなるしな。
 そんな話をかいつまんで説明すると、怜司兄さんは面白そうに、ふうんと言うて笑っていた。
「おもろいなあ、本間先生。そんな小技があるとは。そんなんできると分かってたら、暁彦様も腰痛い言わんで済んだのになあ」
 くすくす茶化す口調の朧様に、水煙はまた、むっとしていた。
「あれは先代には無理や。人の身ではやれへんような大技やで。アキちゃんがずば抜けて、高い霊力を持っているだけや。もはや仙か、神の領域や」
 先代言うてる、おとんのこと。もう乗り換え完了か、水煙様よ。
「そんな凄そうに見えへんのやけどなあ、あのボンボン」
 水煙に、俺とおんなじことを思ったんか、苦笑して言うてる朧様は、灰皿探しているようやったけど、生憎バスルームには、そんなもんはなかった。
「ま、それがアキちゃんのええとこか? 俺は知らんけど。それに期待して、鯰《なまず》も龍も、サクッとやっつけとこか。あの京都タワー、もらってっていい? 今日の宴の歌比べの、賞品にすんねん」
「歌比べ?」
 まさか和歌でも詠むんやろかと、俺が若干引きつつ訊ねると、怜司兄さんは燃え尽きかけの煙草をふかしつつ、うんうんと、いかにも嬉しそうに頷いていた。
「そうやで。カラオケ大会やんか。明日、ラジオで流す用に録音するしな、亨ちゃんも、いっぱい歌歌うてね」
 えっ、なにそれ。公開収録? 明日って、鯰様の出る日のはずやけど、そんな日にラジオで歌流すの? なんやそれ。意味わからへん。
「それが、ヘタレの茂の作戦か?」
 蔑みきったような白けた視線で、水煙様は朧を見ていた。
「そうや。なんせ相手は死の舞踏《ダンス・マカブル》やしな。音楽かかれば、踊るんやないかと、そういう読みやで」
「狂骨が、踊るか?」
 ものすご否定的に、水煙は問いただしたけども、朧様はものすご普通みたいに、うんうんて頷いていた。
「そら、踊るよ。何度か試したもん。船でも踊ってたやろ?」
 踊ってたな、そう言えば。中突堤のウェディング船に、神楽遥の助っ人で、アキちゃんや俺が乗り込んだ時、そこに現れた骨の人ら、ジュリアナ系ダンスミュージックで超ノリノリやった。
 でも、あれは、あの骨たちが死ぬ前から、踊るタイプの人間やったからやないの?
「踊る踊る。殺し合うより、歌うとて、踊ってるほうが楽しいよ。みんなそうやろ。そうでないやつなんて、一握りだけや。チャンバラすんのは、そいつらとだけでええねん」
「妙な話やで」
 ふん、と水煙は鼻で笑ったが、それは否定ではない。一応、納得したらしい。
「茂ちゃんは、自軍の死者を減らしたいんや。前にも相当死んだやろ。それが歌歌う程度のことで、ちょっとでも減るんやったら、儲けもんやんか?」
「えらい茂の肩持つなあ、朧《おぼろ》。アキちゃん聞いたら何て言うやろ。茂んとこ行け言われるで?」
 イケズそうな水煙に言われ、朧様はたじろいだようやった。気まずい顔して、ぶつくさ言うてた。
「肩持つわけやないよ。道理やないか。チクらんといてくれ。暁彦様は焼き餅焼きやしな、それでゴネたら面倒や」
 昔、いっぱいゴネられた。そんな渋々の顔で、朧《おぼろ》はため息をつきながら、犬を連れて出ていくみたいやった。白い手で、おいでおいでされて、瑞希ちゃんは大人しく、怜司兄さんについていくつもりらしい。
「朧《おぼろ》」
 すたすた出ていく後ろ姿を、水煙は呼び止めた。
 まだ何かあったかと、意外そうに振り向いて、湊川怜司は無防備そうに、水煙を見つめた。
「しっかりやれよ。ええ働きしたら、褒美にアキちゃんに会わせてやろう。挨拶だけとは言わず、あいつにまだ脈があるなら、もっと身のあることをしてもいい。許してやる」
 水煙に、それを許してやる権利があんのか、俺にはさっぱり分からへん。でも、許してやると、きっぱり言われて、朧様は相当びびったようやった。そんなこと言われるなんて、想像もしてへんかったみたい。しばらく、あんぐりして、それから、ごくりと唾飲み込んでた。また目が泳いでた。かなり動揺しちゃったらしかった。
 結局そのまま、怜司兄さんはなんも言わんと、なんかそわそわしたような上の空の顔をして、すたすたと早足で部屋から出て行った。瑞希ちゃんは、ついていけばええのかなという戸惑い顔で、それを追いかけてったけど、案外気の利く犬や。怜司兄さんがすっかり失念しまくっていた、コーヒーテーブルの上の京都タワーを、忘れず引っつかんでいっていた。
「大丈夫なん? 犬を朧様に貸してやって。あの人ちょっとイカレてんのやで?」
 二人が出ていくのを見送ってから、俺はバスルームに戻り、カラッポの風呂におくつろぎやった水煙様に、そう訊いた。
「かまへん。何もせんやろ。仮になんか不都合あっても、もう、どうでもええ犬や。生け贄にするんでなければ、生きようが死のうが関係あらへん」
「冷たいなあ、お前」
 なんちゅう愛を知らん神や。
 俺はつくづく呆れて、水煙の横顔を眺めた。
 けど、そうして見つめ合っててもしょうがない。風呂入れてやる言うて連れてきてやったんや。さっさと湯を張ろう。そう思って、バスタブに栓して、俺は温《ぬる》めの風呂になるように調節した湯を、蛇口をひねって出してやった。
「なあ、水地亨」
 足指の先を浸し始めた湯を、微かにぱしゃぱしゃやりながら、水煙はぼんやりと訊ねてきた。
「愛とはなんや。お前には、民を守護した経験があるのか。俺にはない。この星に落ちてきてからずっと、人間は俺にとっては怖ろしいもんやった。愛おしいと思うたことがあるのは、秋津の子らだけで、人の世に尽くすのも、結局は、その子らを守るためや。悪鬼か化けモンとして憎み嫌われるより、お屋敷の殿《との》として畏れられるほうが、まだしもマシやと思うたからな」
 水煙は真面目な顔をして、俺をじっと見上げていた。ほんまに俺に、教えを乞うてるらしかった。まさか博識な水煙様が、アホの亨に教えを乞うとは、そんなことがあってええのか。
「人の世への、愛を知らねば、神にはなられへんのやろなあ」
 ぼんやり言うてる水煙が、なんか影薄いような気がして、俺は正直、いやぁな予感がしていたよ。
 お前、なんか、変なこと、考えてませんか?
 なんか、すごく、フェイドアウトしていきそうな、脱力感ありますよ。
 なにか、ものすご満足するような目に遭うて、もはや思い残すことが無さすぎるんですか。
 なんやねん、それは。てめえアキちゃんと何をしたんや。何をしたらそんな、悪い憑き物落ちちゃったわみたいな、アクのない顔できるようになるねんや。今までずっと、イケズで焼き餅焼きの、根性悪な包丁の神やったくせに。
 なんかお前、清らかですよ、今。
 やめて。
 俺、そういうの、どうリアクションしたらええか、わからへんようになるんやから。
「神に、なりたいの? お前?」
 目ぇショボショボしてきて、俺は気まずく、そう訊いた。
「なりたいというか、ならなあかんのやないかと、思うんやなあ。言うても長年、秋津の子らには、正義の味方になることを推奨してきたんやし、その血に憑いてる俺が、ただの妖怪やったら、まずいやろ? まずは模範を示すのが、親というもんや」
「親、なの? お前?」
 ますます亨ちゃん、お目々ショボショボしてきた。正視に耐えない。なんでやろ、水煙、なんかキラキラしてない? なんかな、いつもと同じ姿のはずやのに、キラキラが見えて、眩しいねん。邪悪な俺様の目で見るとな、清らかすぎて、眩しいねん。
 まさかお前、神聖系? なんかホーリーっぽい、オーラ出てる。いっぱいついてた恨み辛みの煤払いをしたら、ものすご眩しい清らか系出てきたわみたいな、そんな感じ。穢れないアイドルみたいな感じ。そんなオーラを感じちゃうんやけど、な、なんで?
「親やで。親というか、俺はほんまに、アキちゃんの祖先神やねん。たぶんやけどな」
 若干気まずそうに、水煙は俺と目を合わせず、もじもじ言うてた。
「近親相姦やないか?」
 今さらやけど、一応言うといた。ほんま今さらやで。だってアキちゃんの親なんて、実の兄と妹なんやしな。そういう家なんやで、秋津家は。だから今さら、水煙が、それについてどうのこうの、気が咎めるとは思うてもみいへんかったんやけどな。
「そうやで。それが何か、あかんか」
 むっとしたように、むくれて、水煙は意固地なような反論をした。気が引けるらしかった。あかんて言われたら困るなあみたいな、そういう顔やった。
「今に始まったことやないやろ。古今東西の神話を紐解けば、産んだ子やら孫やらと、デキてもうてる神なんて、いくらでも居るわ。それにアキちゃんと俺は、世代にして充分に離れてる。もう他人やで。そうやろ?」
「誰も、あかんて、言うてへんやん?」
 そんなん、亨ちゃんかて一応知ってるよ。神様が身内とくっつきがちなことくらい。古代ギリシアの神さん達かてそうやった。地母神ガイアなんて、自分が産んだ息子や孫を、バリバリ食うてた。日本神話の国生みの神、イザナギ・イザナミかて、兄と妹や。
 せやし、そこがあかんて言うてへん。たとえお前がアキちゃんのご先祖さまでも、それやしあかんなんて、言うてへんやん。
 そういう問題やないねん、水煙。アキちゃんは俺の男やねん。それを食うても別にかまへんやろ的な質問されてもな、困るねん。あかんとしか、言い様がないやろ?
「しかし世間は気にするやろう」
 ほとほと参ったみたいな哀れっぽい面《つら》で、水煙様は肩を落とし、しょんぼりしていた。俺はちょっと、目のやり場に困った。お前ちょっと、可愛くないですか?
「俺は身を引く。後は任せた。お前が秋津を盛り立ててくれ。それが無理でも、アキちゃんを幸せにしてやってくれ。それが俺の一生の願いや」
 こいつも目のやり場に困るんか、水煙は俺にそう頼みつつ、俺の顔は見ようとしなかった。照れるというより、つらいみたいやった。それは当然、つらいやろ。仮にも恋敵に、そんなことを頼むのは。
「身を引くって、どないすんの……具体的には」
 ほどよく溜まった湯の中にいる水煙を見下ろし、俺は訊いた。そろそろ湯を止めてやらなあかん。
「どっか行くんか、水煙」
 どこか上の空で、蛇口を閉めつつ、俺がさらに訊くと、水煙はやっと俺の顔を見て、困ったなあみたいな、淡い微笑やった。それも随分、つらいみたいな顔で、まるでどこか、痛いみたいやった。
「約束してくれ。お前は性悪な蛇や。それでもアキちゃんを捨てんと、ずうっと傍にいてくれると、俺に約束してくれ。あの子は寂しがりやねん。ひとりでは生きていかれへん。その一生が永遠やというんや。ともに永遠に生きる、連れ合いが要る。お前があの子をそんな体にしたんや。ちゃんと最後まで、責任をとってくれ。永遠にずっと……傍にいて、守っていてやってくれ。たとえ何があろうと、どんな世になろうと、それだけは守り抜くと、誓ってくれ。神と神との約束や。それにお前の名をかけてくれ」
 ひやりと濡れた、冷たい手で、水煙はバスタブにかけた俺の手を、やんわり握ってきた。冷たいのに、熱いような、不思議な熱のある指やった。
 その手に触れられていると、もうどこにも逃げられへんような気がした。威力のある神の手で、ひっつかまれている。その手を振り払うことなんて、誰にも絶対にできへん。
 たとえ神の手でなくても、それは無理。なりふり構わず好きで、狂って鬼になるほど好きな相手を、こいつは諦めようというんや。俺に譲ると水煙は言うている。もう争わへん。アキちゃんは、徹頭徹尾、俺のもの。それでええから、俺の頼みを聞いてくれと、水煙は俺に、頼んでいた。
 いつもの偉そうなような、お高い神さんの顔ではない。見てるこっちが辛いみたいな、ものすご真面目な無表情で。その黒い目の奥に、食い入るような必死の視線を宿して。
「……そんなん、約束でけへん。お前が見張れ。どうせ俺は性悪な蛇や。いつ裏切るともしれへん。すでに裏切ってるしな。藤堂さん食うてもうたし。それにもまた次回が、あるかもしれへんで。アキちゃんよりオッサンのがええわって、トンズラこくかもしれへんで!」
 心にもないような、話のつもり。それでも、そう言うといたら、水煙を引き留められるかなって、とっさにそんな野生の勘で、俺はわざと荒っぽく、そう答えといた。そして、あと一捻り、閉められてなかった風呂の蛇口を、えいと気合いを振り絞って閉めた。
 その時やった。アキちゃんが風呂場に突入してきたのは。
 その瞬間、まさかこいつ立ち聞きしてなかったよなと、俺はぞっとした。アキちゃん、嘘やで、今の話はな、俺の機転やねん。亨ちゃん本気やないから。堂々・浮気宣言とかやないから。いきなりマジギレせんといて!
 それで、ひいいっ、て青い顔なって、思わず身構えたけど、アキちゃん、アレやん。トイレでゲロやん。なんや知らん、めっちゃ気色悪い、キィィ、カシャカシャー! みたいな、耳障りな音で鳴く、腹蔵虫《ふくぞうむし》とかいう、モヤモヤ黒い影のような、でかい百足みたいな虫をざくざく、トイレでゲロっておられましたやんか。
 大丈夫か、俺のツレ。どないしたんや、それ。そんなん、体のどこに仕舞ってあったんや。まともやないで、アキちゃん。もはや人間やめてるで。気がついてへんかったんか、そんなもんが腹にいて! 丈夫にも程がある。というか、自傷にもほどがある。
 何をそんなに気が咎めてたんや。そんな暗いモヤモヤを腹に飼うほど、何を悩んでたん。
 何をって……それは勿論、分かってるけど、そんなに困ってるって、思ってへんかった。亨もええなあ、水煙も好き、犬もかわいい、ラジオもイケてるって、そんな優雅なボンボンの、道楽みたいな二股三つ叉で、けっこう楽しんでんのやと思ってた。俺のこと、好きや好きやは言うてるだけで、ほんまのところ、ええように弄ばれてんのかと。俺はどっかで僻《ひが》んでいたよ。
 それでも好きやし、しょうがない。覚悟決めよかって、意地と気力で、保ってたようなもんやねん。アキちゃん、悪いと思うてへん。俺のことなんて、なんにも気にしてへん。それでもしゃない、惚れた弱みや。我慢せなしょうがない。そう思うてたんやけどな。
 ほんまはアキちゃん、俺に悪いと思うてたん?
 ほんまはずっと、しんどかったんか。
 苦しそうに吐いてる、その姿を見ると、なんや可哀想なってきて、アキちゃんよしよしみたいな気になっていたけど、それも俺の甘っちょろさか。
 そんなふうに、苦しまんといて。俺はアキちゃんを、幸せにしてやりたいねん。水煙とそう、約束した。約束するとは、言うてへんけど、でも俺は、どこか言外にあるやりとりの中で、わかった約束するわと、水煙様にお答えしていた。
 その誓いは、神聖か。神と神との約束か。俺にはそれを守る義務が、あるやろか。永遠にずっと、アキちゃんを幸せにしてやる、そんなノルマがあるやろか。
 あるといい。俺がそのための、神やったらいいなと思う。神様は人間を愛して、守ってやって、幸せにしてやるために、この世に居るんやで。あいにく俺を神として、崇めてくれる人間は、今んところアキちゃんぐらいやし、俺が守ってやれるのも、アキちゃん一人が精々やけど、でも、それでいい。アキちゃんの、幸せ守ってやりたいねん。
 だけど俺に、そんなことできるのかな。アキちゃん、お家の勤めやとかで、鯰《なまず》や龍を、やっつけなあかん。そんなん亨ちゃんの神パワーで、ちょちょいのちょいやでって、あっさり解決してやりたいのに、俺にはそんな力はない。
 甲斐性無しの神や。守るどころか、実をいうたらアキちゃんに、守ってもろてる立場なんやで。アキちゃんがものすごい危機に直面してるて分かっていても、実はただそれを、じっと見てるほかに、なにもでけへん。
 もどかしい。
 そんな俺に、水煙様の代わりが、勤まるやろうか。水煙にはずっと、居てもろといたほうが、ええんとちがうか。
 アキちゃんかて、そのほうが、嬉しいはずや。
 水煙好きやし、頼ってる。水煙水煙て、懐いてる時のアキちゃんは、俺には見せへん顔してる。俺にはそれが悔しいけども、でも、アキちゃんには水煙が、必要やねん。俺がいればそれでいいという訳やない。もしもアキちゃんが、三都の巫覡の王として、立派に秋津の家督を継ぎたいというんやったら、俺とふたりきりでは、きっと、あっというまに路頭に迷う。
 俺はたぶん水煙に、頼まなあかんやろう。アキちゃんのために。水煙が俺に、頼んだように。お前もずっとアキちゃんの傍にいてくれと。
 でも俺には、それは無理。まだ無理やねん。そんなこと、言わなあかんと思うと、心が震える。怖くてたまらへん。
 そんなの許して、アキちゃんがもし、俺より水煙に心を移したら、俺はどないしたらええやろ。アキちゃんに捨てられたら。アキちゃんが、いつも握ってくれている俺の手を捨てて、別の手を、やんわり非力な、青い指と手を繋ぎたいって、そう思ったら、俺はどないしたらええやろ。アキちゃんなしでは、生きていかれへん、惰弱な蛇さんやのに。
 そこがたぶん、俺が水煙に、勝たれへんとこ。我が身が可愛いとこ。アキちゃん幸せにしたいけど、それと一緒に、自分も幸せになりたい。そういう欲があって、捨て身にはなられへん。水煙のようには。何世紀たとうが、俺にはとても、でけへん芸当やろう。
 その後の話は、ちょっと端折《はしょ》ろう。俺もしんどい。皆はアキちゃんからもう聞いた話やろ。俺の知らんようなことまで、あいつは全部ゲロったか。
 トイレでゲロゲロ。そして水煙を龍の生け贄に捧げるという話。それから、亨は出ていけ、遠慮しろと、水煙兄さんに追い出され、俺はベッドでフテ寝。
 ほんまに寝てたんやで。聞くのが怖くて。眠かったんもあるけど、あの二人が、もしやこれから、どないして亨をポイしよかという相談をしてたら、俺はつらい。アキちゃんが俺より、水煙を好きやったら、どうしようかと、そんなことをグルグル考えてたら、なんや気が遠くなってきて、ちょっぴり消えそうなってきて、そんなん考えたらあかん気がして、何も考えずに寝たほうがええわと思ったんや。
 忘れよう、そんなん俺の被害妄想や。アキちゃんが俺を捨てるわけない。アキちゃんは俺のことが好きやねん。世界一好きやねん。ずっと永遠に俺のツレやて、誓ってくれた。結婚までしたんやで。
 せやし、結局最後はいつだって、俺んとこに戻ってくる。戻ってきてくれるはずや。それを待てばいい。たとえそれが、何百年、何千年の後でも。俺は待つ。ずっとお前を信じて、待ってるから。
 戻ってきてアキちゃん。もういっぺん俺を、強く抱きしめて。お前が好きやって、甘く囁いて。照れ屋のお前が、やれるぐらいの、ほんのり程度の、淡い甘さでもいい。亨、好きやって、また囁いて。その、ひとかけらの甘さで、俺は幸せになれるねん。それで千年生きられる。そこに本当の、お前の深い、心底からの愛があれば。
 しかしアキちゃんは、俺が好きとは囁かへんかった。抱きしめもせえへんかった。
 さっさと行けと水煙様に急かされて、とっとと出かける支度して、神事があるとかいう会議室に、俺のことなんかほったらかしで、車椅子押して出ていったよ。
 ほんまにもうブッコロス。俺の切ない胸のうちを、お前はほんまに、はっきりくっきり言うてやらな、意味わからへんのやな?
 鈍い。というかアホ。というか鬼。悪魔。くそったれ。憎いアキちゃん、憎いあん畜生やで。
 ずうっと傍にいたいのに、俺だけのもんでは、いてくれへん。後を追いかけまわして、なあなあアキちゃん、一緒にいてえなって、オネダリせえへんかったら、一緒にも居られへん。そんな憎い男やで。
 俺はこれを永遠に、続けんのかな。トホホ。トホホですよ、ほんまに。
 それでもしゃあないから、俺はアキちゃんを追っかけることにして、とっとと身支度しまして、とっとと適当な服着といた。この際、格好なんか構ってられるかやで。
 会議室はヴィラ北野の一階や。前に餅みたいな神父と初顔合わせの会合やったのが、その部屋やったはず。俺も場所は知ってるわ。部屋についてる館内マップに載ってたもん。
 その場所を、どこやったっけと頭ん中で思い出しつつ、亨ちゃん思わず、走ってもうたよ。あかんあかん、美青年は必死こいて走ったりしたらあかんのに! いつも優雅に歩いとかなあかんのにさ。めっちゃ走ってたよ。
 だって俺がおらん間に、重要イベント終了してたら、嫌やん? 俺がヒロインなんやで。水煙ちゃうで? 俺です、俺。水地亨がこの物語の、ヒロインなんやんか。そんな重要キャラ抜きで、ストーリー進めてもろたら、困るんですよ。
 ほんまにもう、よう言わんわ。
 俺が会議室に到着した頃には、うっかりストーリー進みかけてた。ギリギリセーフやった。
 会議室の戸を開くと、そこには、でかい洗面器をじっと見つめている、霊振会《れいしんかい》の人らが、ぞろぞろ何人かと、アキちゃんもいた。水煙も。大崎茂と狐もいた。そして朧《おぼろ》と虎もいた。蔦子さんも。
 皆、えらい真剣な顔して、青銅でできてるらしい、古びたデカい盥《たらい》みたいなもんを、じっと見下ろしていた。
 中国からの渡来モンかな。盥《たらい》の側面にある古い文様は、のたうつ龍か、水の流れを意匠化したもんのように見えた。それを木組みの台座に据えて、水を張ってある。水盆や。
 かすかに揺らめく水面には、短冊《たんざく》状の二枚の紙が浮いていて、盥《たらい》の底には、何枚かの同じような紙が、沈んでいた。浮いてる二枚を、皆は眺めているようやった。
 誰に声かけていいやら。誰もなんにも、声たててへん。部屋はしいんと静まりかえっていて、突然乱入してきた俺のことを、何人かはちらりと見たものの、誰も何も声かけてけえへんかった。
 どうしよ。俺、入ってきたら、あかんかった?
 なんかね、空気読めみたいな空気よね。ここ、遠慮するところやった? でも、水煙が、来てもええって言うてたんやけど?
 そんな俺が、ドア前にもじもじ立っていると、苦笑顔の狐の秋尾が、おいでおいでと差し招いた。極めて控え目に、ご主人様から三歩さがって付き従っているお狐様に、俺はこの際、擦り寄ることにした。皆、真剣すぎて、俺にかまってくれへん奴らばっかりみたいやったから。
「秋尾さん……なにやってんの、これ?」
 静かに訊いたつもりやったけど、秋尾は笑った顔のまま、しいっと口元に指をあてる仕草をした。
「籤占《くじうら》やで、亨くん」
 ひそひそ囁く声で、三十路スーツの狐が教えてくれた話では、水盆の中にある短冊には、鯰《なまず》の生け贄に志願したやつらの、名前が書いてある。そしてそれを、一斉に水に投げ入れ、最後まで浮いていた紙の上にある名の持ち主が、占いに現れた天地《あめつち》の意志によって選ばれた、生け贄当選者や。
 俺は水の底のほうに、秋尾の名のある紙が沈んでいるのを、見つけた。
 ハズレたらしい。それは、めでたい話やった。背中しか見えへん、大崎先生も、平然みたいやけど、ほんまのところ、ホッとしてるんかもしれへん。
 それでも狐は、複雑そうやった。いつも、にこにこ愛想のいい糸目の顔に、今はどことなく憂いのある笑みが浮かんでいた。
「えらいことやで、亨くん。君のご主人様、まだ水面におるわ」
 なんのこっちゃと、水盆を見て、俺はびっくりした。
 そうするやろなあと思うてたけど、アキちゃんほんまに、自分の名前を書いて出してた。本間暁彦と書いてある籤《くじ》が、まだ水面にあり、微かに揺れてた。
 それと争うようにして、浮いているもう一枚には、なんて読むんか分からん漢字の名前が、書いてあった。なにこれ。なんか分からん。ナントカ・カントカ王。ごめんな、亨ちゃん、漢字苦手やねん。難しいねん。メソポタミアに漢字はないから。楔形《くさびがた》文字なら読めるんやけど、漢字があかんねん。アホなだけ?
 それでも俺は、念力をこめたよ。コノヤロウ、名前読めへんナントカ・カントカ王、お前が逝け。アキちゃん沈め。生け贄なってる場合と違う。それは予言とも違うから。ハッピーエンドのコースやないから。ナントカ・カントカ王が死ねばよし。
 誰やねんお前。誰やねんて、しばらく本気で思ってから、俺はやっと気がついた。
 じっと伏し目に、水面を見てる、信太の顔が、目について。
 そうや。
 信太やで。
 信太というのは仮の名で、蔦子さんがつけた。こいつには、それとは別に、真の名があるんや。俺が水地亨やのうて、深い水底の王の家《エエングラ》に棲むエア様であるように、信太にも、生まれた土地での名前があるんや。
 その名を書き記す文字は、たぶん漢字やない。俺がアホやから読めない訳やない。たぶん皆も読めへんで。もっと古い、古い時代の、絵のような文字で、そこには虎がいて、燃えさかる火のような文字が連なっていた。
 何て読むやら、わからへん。でも俺は、その名に祈ったかもしれへん。あるいは、水占の神に。
 すまんけど。お前が、逝って。アキちゃんを、死なせる訳には、いかへんねん。
 お前、言うてたやん。鯰の生け贄になるのは、自分の運命やみたいなことを。それに鳥さんにも、スパルタ教育で不死鳥育成コース。それが狙いやって、そんな話やったやん。
 ほんなら、ええやん。たとえお前が選ばれも、それで予定通りやろ。そうなるはずや。蔦子さんがそう予知したんや。絶対そうなる。そうやなかったら、俺は困るんや。アキちゃん守ってやるって、水煙と約束した。守ってやりたい。アキちゃんはずっと、俺が守ってやるから……。
 そう思う俺の目の前で、水盆にはまた、微かな震えが走った。水面が震え、そのさざ波は、なんでか知らん、信太ではなく、アキちゃんを選ぼうとしていた。鯰《なまず》が食いたい、その生け贄は、本間暁彦やと、震える水が、教えようとしてる。
 あかんで、そんなん。アキちゃんはもう、死んだりせえへん。俺とずっと永遠に生きる。信太を選べ。誰か食いたいんやったら、虎を食え。俺のアキちゃんやのうて、虎を食えばいい。俺のアキちゃんに、手出しせんといてくれ!
 強く念じた、その気合いが通じたんか。
 それとも。
 俺は水の神か。
 さざ波が立つだけやった水盆に、突然渦が巻いた。渦は、本間暁彦を引っつかみ、たちまちにして溺れさせた。そして、渦から逃れた、名も知れぬ古い虎の神は、弾き出されて水盆の端へ。ゆらゆら翻弄されて、それでも浮いていた。沈む気配もなく。水から拒まれてるように、水面に留まっていた。
 信太がちらりと、目を上げて、俺の顔を見た。それと目が合い、なんでか俺は、ぎくりとしていた。
 偶然やで、信太。占いや。天地《あめつち》の思し召しや。恨まんといてくれ。
 恨まんといて……。
 そう気が咎めて、俺は気がついていた。
 俺は水占いの結果を、弄《いじ》ったと思う。俺は水を操れる。それが真水であれば。かつて遠い遠い異郷の地で、俺は川の王やった。川辺の神殿の、水底《みなそこ》の玉座にいた。俺は淡水に君臨する、蛇神やったから。
 そんな、昔とった杵柄《きねづか》か。
 俺はアキちゃんの代わりに死んでくれる奴を、選んだんかもしれへん。
 もしも、俺がもっと早くに、この部屋に辿り着いていたら、誰やお前っていうような、死んでも気が咎めへんやつを、選んでやったかもしれへん。信太みたいな、俺にとっても死んでほしくない奴でなく。
 でももう、そこは、運命や。そうとしか言い様がない。俺が来たときには、もう運命は、二択になっていた。アキちゃんか虎か。俺にとっては、その問いは、悩む余地のないもんやった。
 ごめん信太。俺がお前を、黄泉《よみ》に追いやったやろか。
 俺のせいやったか。そしてそれを、お前は気がついていたか。蔦子さんも、皆も、そのことを知ってたんやろか。
「決まったようどすな」
 決然とした声で、蔦子さんは動揺した気配もなく、そう結論した。
「信太。本家の坊《ぼん》のとこへ行きなはれ。今この時限りで、あんたとの縁を切ります。本家に仕えて、鯰《なまず》を宥《なだ》める生け贄になりなさい」
 まっすぐ見つめて、そう言う蔦子さんの命令に、信太はただ、ゆっくり頷いただけやった。
 朧《おぼろ》は横目に、それを見ていたが、逝くな逃げろとは、言わへんかった。ただ黙って、煙草吸おうかなみたいな、そんな仕草で、新しいのを一本出して、それでもなかなか、火はつけへんかった。
「本間先生」
 いつもと変わらん、愛想のええような顔で、信太は軽薄な笑みやった。アキちゃんはそれと、むすっとしたような青い顔で、向き合うていた。
「短い間ですけど、世話になります。まさか要らんとは、言いませんよね」
「ほんまにええのか。生け贄なんて……」
 アキちゃんが、苦しんだような声で訊くと、信太は面白そうに、くすくす笑った。
「いいもなにも、誰かがやらなあかんのですよ。誰をやるつもりやったんですか、先生は。まさかほんまに自分が逝く気やったんか。龍もおるでって、蔦子さん言うとうのに、なんにも聞いてへんかったんですか? 死んでる場合やないでしょ」
 苦々しそうに、信太はそうぼやいた。
「命令すればいい。俺は式《しき》なんやから。人の役に立ってこその神ですやん。逃げろ死ぬなて言われてもね、……困るんですよ」
 それで困ったことがあるみたいに、苦笑を浮かべた顔で、信太はアキちゃんに、説教していた。
「俺を使ってください、先生。神戸を救うために。それでええねん。かつて俺を救ってくれた街や。こんどは俺が、救ってやります。それで本望。俺もきっと、成仏できるやろ」
 面白そうに、笑って言うて、信太は自分のそばに突っ立っていた、いかにも面白くなさそうな、朧《おぼろ》の顔を見やった。
 そしてその白い真顔と、笑った顔で向き合うて、信太は訊ねた。
「可笑しいか、怜司。俺もやっと、生きててよかったと思えることができるわ。精々、格好良く死ぬから、お前も見といて」
 全然笑ってはいない、むしろ青ざめてるぐらいの朧《おぼろ》が、まるで笑って聞いてるみたいな調子で、信太はそう頼んだ。
「俺がそれに、なんか感銘を受けるとでも?」
 青ざめたまま、朧《おぼろ》はやっぱり、にこりともせず、そう答えた。信太は笑って、首を横に振ってた。
「いいや。受けへんやろう。でも信じてくれ。これから生け贄なって死のうという俺が言うんや。頭いかれて死ぬわけやない。何かを守って死ぬんやから、それで本望と思えるんやで」
 そう言う信太は、ちょっと切なそうやった。朧《おぼろ》と目は合わせず、信太は溶けたバターの色の目で、会議室の床を見つめて、淡々と話した。
「お前誰やねんみたいな、顔も知らん奴のために死ぬわけやない。俺にとって神戸は、お前とか、蔦子さんとか竜太郎とか、皆が生きてる街や。寛太が生まれた街や。甲子園球場もあるしな、南京町の包子《ぱおず》もええな。もう消えそうなって辿り着いたんやけど、ここで過ごした間、俺はまあまあ幸せやったよ。お前もそうやったやろ。面白可笑しく生きたやろ。それをずっと、続けていけるように、皆が生きてるこの街を、守って死にたいんや。誰かがやらなあかん。そやからな、俺が戦うねん。俺の言うてる意味、わかってるか?」
 ぺらぺら軽快に長台詞を喋り、信太は難しい顔で、それでもぽかんと話見えてへんらしい朧《おぼろ》様に、聞いてんのかと確認していた。何度か瞬く朧《おぼろ》の目は、小さく視線を彷徨わせていた。
「なんの話……?」
「俺は寛太をな、捨てていく訳やないねん。神戸が消えてもうたら、あいつも生きてられへんやろ。この街が、神としてのあいつの母体なんやし、結びついてる。寛太は神戸と一心同体なんや。せやしな、俺は神戸を守らなあかんのや。あいつは神戸の不死鳥やで。必ずそうなる。あいつが神戸を救う日は、必ず来る。俺はそう信じとうのや。あいつは神やで。ただの鳥やない」
 静かに熱っぽい、信太の話は、嘘やない。こいつは本気でそう信じてんのやろ。でも、この時信太が言いたかった話は、そんな事ではなかった。
 皮肉に笑って、信太はどことなく、寂しそうに続けた。それでも、まるで、朧《おぼろ》を励ますような声やった。
「お前の暁彦様も、そう信じてたんやろ。お前がただの性悪雀《すずめ》やのうて、神なんやって。そして、自分の愛しい人らの生きてるこの国を、守ろうとして戦ったんやで。それにはお前も、含まれてる。捨てられた訳やない。それしか道が、なかっただけや」
 そこまではっきり言われると、さすがの怜司兄さんも、話の意味を理解せんわけには、いかへんかったっぽい。
 朧《おぼろ》様は、感激しちゃった。という顔は、全然せえへんかった。むしろ怒っていた。ワナワナ来ていた。まだ火つけてなかった煙草が、もろに握りつぶされていた。案外、力はあるんやから、怜司兄さん。握力強いんやから。
「なにを言うかと思たら、そんな話か。アホッ。てめえの心配しとけ。この、お節介焼きの、バカ虎め。お前が死んで、せいせいするわ。それでも寛太が可哀想や。てめえみたいなアホでも、あいつには、大事な男なんやろからな。後に遺されて、哀れやわ。片意地張らんと、代わりに死んでくれって、俺に泣きついたらよかったんや。格好つけやがって……むかつくんや!」
 握りつぶした煙草の破片を投げつけられて、信太は、うわあ怖いわあという顔をした。
「むかつかれても……。しゃあないやん。俺もたまには、格好つけたい。お前も見てくれ、俺の天晴れな死に様を。そしたらちょっとは、惚れ直すかも?」
「惚れ直さへん」
 即答でおっ被せて完全否定な朧《おぼろ》様は、イライラすんのか、また新しい煙草を出してきていた。それを眺めて、信太はけらけら笑っていた。
「そうやろな。お前は俺に惚れてたことないもんな」
「……そんなことない。時々はお前が好きやった。……畜生、なんでこんな話せなあかんねん! このアホッ!!」
 罵りまくりやで。朧《おぼろ》様は恥ずかしいのか、顔面蒼白になって怒っていたけど、信太はそれを眺めて、なんか満足そうやった。
「時々かあ。それっぽっちか。それでもまあ、いい冥土の土産になったわ。元気でな。お前の暁彦様に会えたら、よろしゅう言うといてくれ」
 信太のその話に、朧《おぼろ》は返事をしなかった。無視することに決めたらしい。ワナワナ来てるままの手で、ライターを取り出し、さんざん手間取りつつ、煙草に火をつけていた。
 そしてそのまま目を背けて、信太を見ないようにしている。その姿を見る限り、怜司兄さんも、全く脈無しではない。やっぱり虎が好きやったんやないかと思うんやけど。
 それを見てると、俺はさらに気が咎めた。なんで、この人の好きな男って、次々死んでまうんやろな。前はおとんで、今度は虎で。
 外道の生涯って、そういう死別の連続やけども、それにしても、つらいよな、朧《おぼろ》様。
 何事もなければ、もうちょっと一緒に居れそうやった相手が、運命の悪戯で、ころころ死んでいく。自分を捨てて逝ってまう。
 それは、たまらん。たとえ強面の外道でも。いや、永遠に生きられる身やからやろか。後に遺されていくのは、つらい。俺もそれは、身に染みている。死に別れるとつらいので、もう誰も、愛したくない。誰でもええわ、おんなじやって、強がっていたい。そうして、ふらふら、何も深くは考えず、愛など知らず、流れ流れて生きていたい。誰かと強く結びついてもうて、その糸を断ち切られる苦痛に、もう耐えんでええように。
 俺もそう思ってた。ずうっとそう思ってたけども、でも心のどこかでは、それとは全然、裏腹なことを求めていた。
 俺は寂しい。誰かと強く抱き合いたい。もう二度と、引き離されないくらい強い手で、運命にも逆らって、死の神にも負けない、そんな強い力で、抱き合える誰かが欲しい。
 俺にとっては、それがアキちゃん。こいつが俺の、運命の相手。俺はもう、それを選んだ。
 せやけど朧《おぼろ》様にとっては、それは誰やったんやろ。
 アキちゃんの、おとんやろ。
 選べるもんなら選びたかった、運命の相手や。
 信太ではない。それは信太ではなかった。
 こいつにとって自分は、運命の恋人みたいな、かけがえのない相手ではない。遊びや。そう感じる相手に、ちょっと本気で惚れてもうたら、それはどんな気分やったやろ。
 好きな男がおったんや、そいつに振られてもうたんや、あいつはもう死んでもうたし、自分ももう死にたいんやていう恋人を、そうかそうかと毎日抱いて眠るのは、幸せというより、苦行やったんやないか。
 誰にとっても、そうや。たとえ強い強い、タイガーでもやで。
「儀式とかするんです?」
 もう朧《おぼろ》様に用はないみたいに、信太は事務的な匂いのする口調で、蔦子さんに訊いていた。
「一応しましょうか。こういうのも形やから。水杯《みずさかづき》でも」
 作ったような無表情で、蔦子おばちゃまは言うてた。信太はそれに苦笑したらしかった。
「ええ。まるでもう死ぬみたいやな」
 冗談めかしてそう答え、信太は納得したようやった。
 それを待っていたかのように、まるで示し合わせみたいに、会議室の扉が開いて、ものすご不機嫌そうなメガネの氷雪系が、黒漆の盆に乗せた真っ白い土器《かわらけ》の盃と、水が入っているらしい、黒漆の水差しを持ってきた。
「あれえ、啓ちゃん、お疲れ様やな。こんな雑用までお前がせんでもええのに」
 茶化したような口調で言う信太に、氷雪系はますますむすっとしていた。
「雑用やない」
「そうやろか」
 にこにこ答える信太の顔を、氷雪系はじろっと見た。それだけで、顔の表面温度が二度は下がりそうな、冷たい目やった。
「知ってたんやったら、なんでもっと早う言わへんのや。まるっきり蚊帳の外やったわ。言うても長い付き合いやのに。お前は水くさい」
 ぶつぶつ言いながら、氷雪系は、黙って見ている蔦子さんに、黒塗りの盆を差し出した。
「ええー、なにそれ。啓ちゃん俺のこと好きやったん?」
 さも、びっくりしたように、信太は口調を作っていた。からかってるんやろうけど、メガネの式《しき》はそれを無視して、蔦子さんが白い手でとって、水差しから盃に注ぐ、澄んだ一筋の水の流れを、見下ろしたまま答えた。
「お前が嫌いなやつは、うちには居らんかったやろ。なんだかんだで、お前はええ奴やった」
 そんな感想、初めて聞いたわという顔で、信太は笑った。にやっと。でもちょっと気まずそうに。たぶんちょっと、恥ずかしかったんやろ。
「そうなんか。ありがとう啓ちゃん。長いような短いような間やったけど、世話んなったな。寛太よろしく。俺がおらんようになっても、皆で信じてやってな。あいつがこの街を救う、不死鳥やってことを」
 信太はそう頼んだけども、蔦子さんが注ぎ終えた盃の盆を、身を返してアキちゃんと信太のほうへ差し出した氷雪系の目は、分かった任せろみたいな表情ではなかった。
「そんなん、どうでもいい。俺にとっては、あいつが不死鳥かどうかなんて、関係ない。なんでもええんや」
「薄情やなあ、皆」
 困ったように、信太は詰った。それでも氷雪系は、知ったことかな無表情やった。
「薄情なのは、お前のほうや。寛太がどうなってもええんやな。不死鳥でないと嫌やなんて、お前は我が儘や。もし違ったらどないすんのや。あいつはお前が好きなんやで。そのお前は死んでもうて、自分はただの鳥やったら、寛太はどないなんねん。その時お前の死は、ずっとあいつの傷になる。それに気が咎めたまま、ずっと永遠に生きていくんやで」
 咎められて、信太はますます、困ったような苦笑やった。
「そうやけど、それは負けた場合やろ。勝てばええやん、この賭に。それに誰かが神戸を救わんかったら、あいつも神戸とともに消える公算が強い。寛太だけやない。そんな運命《さだめ》の奴は大勢おるやろうって、蔦子さん言うてたわ。ひょっとしたらお前もそうやで。六甲山とのご縁があんまり深ければ、それが消えたら消える運命や」
「俺にも恩を売ろうっていうんか」
 険しい無表情で、氷雪系は水の盃を乗せた盆を、信太の手元に差し出してやった。それを受け取れという仕草で。
「違うよ……啓ちゃん。俺はあの甲子園の家が好きやった。皆で暮らして、野球見て、楽しかったやろ。あれがずうっと、神戸にあればいいと、思うだけやん。そこに俺がいてもいなくても、大差はないやろ」
「そうやろか」
 啓太の声は、冷たくきっぱりとしていた。そしてさらに、盃をとれと、信太の手元に盆を差し出した。
 取らなしゃあない。信太はそう思ったらしく、二つ乗せられている白い水杯の、浅い水面を零さないように、どことなく厳《おごそ》かな手つきで取った。
 その水面の底には、赤い色で、秋津の家紋である蜻蛉の紋が入っていた。蔦子さんは、結婚したけど、まだまだ秋津の女らしかった。たぶんずっと永遠に、秋津の女なんやろう。旦那の姓を名乗って、海道蔦子になったけど、それも仮の名。ほんまは今も、秋津の分家の当主なんや。男子が絶えてた分家の血筋を、この人が受け継いで、守ってきた。秋津登与が本家の当主の部屋の空席を、戦後ずっと温めていたように。
「俺が逝ってやってもいい。信太。その盃を俺に回せ。霊威の点で、お前には及ばないかもしれへんけども、俺も一応は、三都の山々に君臨する冬の王やで。まだ鯰《なまず》の相手くらいはできる」
 強い説得の口調で、啓太は信太にそう言うた。かき口説かれる虎の手元に、死に水を注がれた小さな白い盃があった。
「そうかなあ。鯰様、かき氷は好きやろか。暑いしなあ。冷たいもん食いたいかもしれへんなあ。けど、啓ちゃん。お前は全く甘さがないねん。シロップ抜きやったらいらんわって、鯰様も言うんやないか。やめといたほうがええよ」
 笑って拒む信太を、メガネは薄氷のようなレンズの奥から、伏し目に見ていた。
「なんであかんのや。考え直せ。寛太は俺には惚れてない。俺なら死んでも、泣きはせえへん」
「それやからあかんねん。俺でないとな。あいつを不死鳥に仕上げられんのは俺だけやで。そういうふうに、自惚れたらあかん? もしもこの勝負に勝って、無事に凱旋パレードと相成りましたら、啓ちゃん。俺はもうお前にも誰にも、あいつに指一本触れさせへん。あいつがほんまの不死鳥と、神戸の人らが信じてくれたら、もう、あいつは誰にも餌を強請る必要はない。ひとりで生きていけるんや」
 びっくりしたふうに、啓太はその話を聞いていた。
「結局それが、お前の本音か」
「そうやで。そんなもんやろ。俺が平気と思ってたんか」
 真面目に頷く信太は、小声で答えた。それはメガネには、よっぽど衝撃やったらしい。
「思っていた」
 反省したふうに答え、啓太はうっすら顔をしかめた。信太はよっぽど、平気そうに見えてたんやろうな。
 それはこいつの見栄やろか。平気なふりで、意地を張ってた。それでもほんまは、しんどかったんやろな。寛太をみんなとシェアすんのは。
 そして朧《おぼろ》様を、亡き暁彦様とシェアすんのは。
 独占したい。それって、ただの、我が儘やろか。
 俺はそうは、思わへん。愛しいお前は、俺だけのもん。そういうことにできるんやったら、命でも、何でも賭ける。それでふたりは、いつまでもいつまでも幸せに暮らしましたというオチへ、持って行けるんやったら、怖いもんなんかない。鯰《なまず》でも龍でも、かかってきやがれやで。
 なんせあいつはタイガーで、強さがウリや。龍でも鯰《なまず》でも、どんと来いや。
 時々うっかり負けちゃうけどもや、それはまあ、ご愛敬。次の試合に乞うご期待。今回負けたけど、次は勝つから。
 それに、結果よければ全てよし。この試合はボロ負けしても、結果的に優勝してくれれば、それでファンは大酒呑める。やったあタイガース優勝やって、ビールかけもできる。重要なのはオチやねん。それがハッピーエンドであれば、どんな形であっても、タイガーは常に勝利。
「平気やないねん。啓ちゃん。俺もうこの冬は我慢できんわ。それでこの、伸るか反るかの賭けやねん。我が儘言わせて。一冬越せずに飢え死にさせるんやったら、俺ひとり死んだほうがましや。目の前から俺が消えれば、あいつも忘れるやろ。お前と怜司で面倒みたってくれ」
「俺は知らんで。面倒なんか見いへんで。京都へ行くんや。わざわざ鳥の餌やりに戻ってきたりせえへんで!」
 煙草すぱすぱ吸いつつ、怜司兄さんぶうぶう言うてた。空気読んでよ、怜司兄さん。今そんな我が儘言うてる時やないやん。信太めっちゃ真面目やで。超シリアスな虎やで。せめて元彼の最後の願いくらい、ちょっと聞いてやれば。
 確かにそれが、俺のイイ子とエッチしてやってという話だと、さらっと聞きづらい面はあるけどもや。でもええやん。寛太好きやったんやろ。ほんならええやん。わかった心配すんな、あとは任せろ。必ず戻れて、言うてやればええやん。ちゃらんぽらんな、いつもの調子でさ。
「心配はするな。でも……ほんまに戻ってこいよ」
 むっちゃ真剣な顔で、氷雪系が言うてやっていた。ええ奴や。熱い。冷たいけど。案外熱い。大丈夫か。溶けへんか? 地球温暖化の影響かそれも。
「ありがとう啓ちゃん。戻ったらまた俺と、ケンカしてな」
 にっこり言うてる信太は、ちょっぴり可愛い気がしたわ。根はええやつ。どっか子供みたいなやつ。ちょっぴりヒネてるけど、でも、ほんまのところ、素直な可愛い男。そういう感じやで。さすがは猫科やな。ごろにゃんやでタイガー。でかいニャンコや。でも虎パンチされたら、人間やったら即死やで!
「お待たせ本間先生。ではそろそろ、主従誓いの水盃でも。そろそろいっとく?」
「お前ほんまに土壇場でいろいろ喋る奴やなあ。そんなん先に根回ししとけ」
 呆れたんか、アキちゃんはすごい眉間に皺で、信太にそんな説教していた。それにも信太はけらけら笑い、いかにも可笑しいようやった。
「いやいや、言うとかなあかんなあと思ってはいたけど、恥ずかしいんやもん。うだうだしとう間に、とうとう土壇場なってしもたんです」
 アキちゃんは気まずそうに、自分も水盃をとった。その指が微かに震えてるような気がして、俺はじっと気を揉んで、アキちゃんを見た。
 大丈夫かな、俺のツレ。平気なんやろか、虎を殺すって、今決めて。
 仕方ない、それが運命の流れやと、気持ちの整理がついたやろか。
 その運命の流れの最後の切り替えを、俺がやったと気付いていたか。
 いいや。気付いてない。まだまだ鈍いねん、こいつは。修行中の身や。
 そんな力が俺にあったと、アキちゃんは、まだ知らんかった。知らぬが花や。知らんまま、ずっと生きていってもらいたい。虎の運命を弄んだ神の手のなかに、俺の手もあったとは、気付かんままでいてほしい。
 それは定めや。流されてゆくだけや。水は高きから低きへ。理《ことわり》に従って流れてゆく。俺の愛しい男をよけて、別の誰かを死へと押し流す。そうなるように、俺がし向けた。
「許してくれ……信太。俺は龍の相手をせなあかん。鯰《なまず》に食われて死んでたら、肝心の龍と、対決でけへんようになる。だからお前が…………助けてくれ」
 死んでくれとは、アキちゃんはやっぱり、言われへんかったらしい。それですら、信太の目を見て言われへん。アキちゃんは自分の手に持った、ゆらゆら揺れる盃の水面を、見下ろしていた。そこにある、秋津の家紋を。それを見つめて映る、自分の目を。
「主上、お助けいたします」
 突如、お堅い口調になって、そう請け合う信太の顔は、なんかすごく、晴れやかやった。ずっとモヤモヤ溜まっていた何かが、すっきり晴れたみたいな。
「一命を賭して、主上の民をお救い申します。そしたら俺も、神になれるやろうか。もう一度、神威のある虎に、先生が戻してくれるか」
 そうに違いないと、信じて見つめる虎を、アキちゃんは見つめ返し、言葉ではなく、ただ浅く、何度か頷いてみせていた。なんの保証もない。せやけど、きっとそうなると、答えてやらんと、あまりにも薄情やと、アキちゃんは思ったんやろう。それが、お前は死ねと命じる主の、せめてもの甲斐性や。
「そうか。それなら安心して逝ける。盃、頂戴いたします。神戸の宮水やなあ。この儀式にふさわしい」
 にこにこして、信太は白い盃を見ていた。
「でも先生、せっかくやしな、俺は虎です。肉食の獣《けだもの》や。水よりもっと、食いでのあるもんがいい。肉を食わせろとは言いませんけど、せめて血の一滴も、サービスしといてくれませんか」
 手に持っていた盃を、アキちゃんに差し出して、信太はにこにこ、オネダリ顔やった。もっと入れてて、酌を求めるような。
 アキちゃんはそれに、ちょっとぽかんとしていた。そんな抜けてるジュニアのことを、すぐそばの車椅子にいた水煙様が、しゃあないなあという顔で見ていた。
「アキちゃん、血をやれ。お前の式《しき》にするんやから。水に一滴混ぜて、飲ませてやればええよ」
 えっ。それっぽっちでええの。がっつり吸血かと思って、俺は一瞬焦ったよ。ワンワンに半殺しにされてたアキちゃんやのに、犬でそれなら、虎やったらヤバいんちゃうか。マジで首折れるんやないかって、ぞわっとしたわ。
 信太、案外、行儀がええな。飢えてないのもあるんやろけど、一滴舐めて、それでええんや。
 手を出せと、青い指で差し招く水煙の言うなりに、アキちゃんは自分も左腕を差し出していた。まるで献血しにきた大学生かみたいな、そんな従順な戸惑い顔で。
 その肌の上に、水煙がそうっと人差し指を滑らすと、そのあとには、何か鋭利な刃物で切られたような傷が現れた。それは一応、痛いみたいやった。アキちゃんは、顔をしかめて、見る間に塞がろうとするその傷口を自分の手で覆った。
 赤い血が一滴、腕を伝って流れ落ちてゆき、信太はそれを、盃で受けた。
 清水に深紅の一滴が混ざり、そこから、なんともいえん甘い匂いがした。たぶん外道にしか、感じられへん匂いやろけど、まさに神仙の世界の匂い。アキちゃんから漂う、甘露の匂い。濃厚な霊力が詰まった、外道どもの大好物。人間の精気や。
 ごくりと唾を飲むような、そんな気配が、部屋のそこかしこからした。皆、腹減ってんのやろか。そうでなくても、アキちゃん食いたい。外道であれば誰しもそう思う。俺もそうやで、アキちゃん食いたい。こんなところでなければ、今すぐアキちゃんに抱きついて、がっつり吸血。いただきまあすって、貪りたいわ。
 なんかアキちゃん、確実にクオリティ上がってる。当社比で、三倍、四倍、もっとかな。開眼してから、尋常でない。どうしよう、皆が皆、アキちゃんええなって、言い寄ってきたら。式神だらけみたいになったら。犬と水煙だけでも、俺は一杯一杯やのに、これ以上、誰か増えたらどないしよ。
「ええ匂いやな。さすが本家の坊《ぼん》と言うべきか」
 にやり満足げに、この場で自分だけその甘露を味わう権利を持ってる虎が、批評した。そしてそのまま、信太は一気に、盃を呷《あお》った。迷いのない飲みっぷり。ただの水やし、それも当然かもしれへんけど、飲み干したあとの一息は、まるで強い酒でも飲んだようやった。
 ふはあと熱いため息で、信太は一瞬、酔虎の目やった。アキちゃんを、斜に見上げる信太の黄色い琥珀《こはく》みたいな目の色が、こいつ、美味そうやなあと、物欲しそうに見えて、俺は思わず渋面になった。
 唇に残る、ごく薄・水割りの血を舐めて、信太はにやりとアキちゃんを見た。
「先生も、飲んでください。誓いの盃やしな、俺だけ飲んでも意味がない」
 促されて、アキちゃんは、はっと気付いたように、注がれていた水を飲み干した。ほんのちょっと、ただ一口の宮水やった。
 でも、それだけで、信太はアキちゃんの式神になったんや。それが儀式。アキちゃんが信太を放逐しないかぎり、信太は永遠に、アキちゃんの虎や。
「正体見せようか、先生。俺が何者か。精々、一日限りの主従やけども、主は主や。俺の毛並みも見といたら?」
 信太はちょっとほんまに、酔うてるみたいやった。まるでそんなふうな口振りやった。調子出てきた。そんな感じ。
 でもまさか、たった一滴の血で、虎が酔うはずがない。もともと、そういう性格の奴やったんや。その本性が、顕れてきているだけで。
「化けようか先生。猫科好きです? ほんまもんの虎に、触ったことある? ないやろ。それも、せっかくやしな、冥土の土産に、先生もちょっとだけ、お触りしといたら?」
 くすくす言うて、信太は化けた。どろんと化けた。狐の秋尾が化けんのと、大差なかった。
 肩口のあたりを掴む仕草で、まるで化けの皮でも剥ぐように、信太は何かを一気に剥いだ。その次の瞬間には、たったの今まで信太がいたところに、それが何かの間違いだったように、突然でかい虎がいた。ぽん、と別の映像を、差し替えてもうたみたいなシュールさで。
 うわっと身構える、驚きの空気が、唐突に会議室に湧いた。驚いていないのは、蔦子さんくらいのもんやった。今ではもう、主人ではない蔦子さんやけど、満足げな笑みで虎を見る、その表情は、長らくこの猛獣を従えていた、女主人の顔やった。
 四つ足で、会議室の床に立っている信太の、黄色と黒でお馴染みの、豪華な毛並みで覆われた猫科の体は、いかにも柔軟そうな、猛獣の肢体で、それでも重々しく、力強かった。手の平が、大人の顔ぐらいある。その手でシバキ倒されたら、人生一巻の終わり。鋭く白い牙も、そんなんで噛まれたら、一巻の終わり。爛々と光る目も、そんなんで睨まれたら、どんな獲物も震え上がる。理屈抜きの威力を感じて、素直に死を覚悟する。それこそまさに神の目や。
 その目と見つめ合って、アキちゃんは硬直していた。ビビって逃げるかと思ったけど、アキちゃんはただじっと、信太の目を見つめていた。人の姿をしていた時には、見るのも嫌やみたいな顔をしていた信太の顔を、それが虎の姿になったとたんに、なにか美しいものを見る目で見ていた。
 確かにそれは、美しい虎やった。まるで名人の筆による名画から、抜け出てきたみたいに。毛並みの一本一本まで、精細に描き出された、黄色い縞《しま》は黄金で、黒い縞《しま》は漆黒の、芸術的な虎やった。アキちゃんそれに、すっかり参ってもうたみたい。硬直してる。瞬きもせず見てる。それはアキちゃんが萌えツボ☆ズギュンみたいになってまう絵を見つけた時の、いつものリアクションやねん。
 虎はそのリアクションが、気に入ったようやった。虎には表情はないけど、ぎらぎら光る目が、笑っているように見えた。
 一抱えもあるような、でかいシマシマの頭を、信太は猫がじゃれるように、アキちゃんの腹に擦り寄せた。うっとり甘いような仕草で。
 アキちゃんはそれを、恐る恐るの手で撫でた。そして、ほんまの猫にするみたいに、首の付け根の、猫が喜ぶところを、こりこり掻いてやっていた。
 信太はごろごろ喉を鳴らした。猫よりずっと、低くて怖い音やった。でも、それが、虎の甘えた声やということは、聞けば分かる。こんなでかい虎が、人になつくもんやったら、きっとこんなふうに、ごろごろ甘えるんやろう。
 ぶるぶる首を振って、アキちゃんの指を振り払うと、信太はうろうろその場で向きを変え、また唐突に、どろんと化けた。それはまた、人の姿をしていた。目もさめるような、眩しい色彩をまとった。
 でもそれは、いつもの極彩色アロハの男ではない。
 昔の中国の宮廷の人らが、儀式のときに着ていたような、きらびやかな刺繍と、極彩色の錦で彩られた、全体として黄色の服やった。京劇の役者か、まるでほんまに皇帝に仕える、神獣の化身のようやった。みなぎる霊威を、信太はもう隠してはいなかった。由緒正しき、高貴な虎や。元はそういう神やった。俺がかつては有り難い、川辺の神やったのと同じで。
「先生、俺はな、皇帝に飼われていた虎や。元は後宮の屏風の、絵の中にいた。ほんまに絵やったんです。それがあんまり上手に描けてて、天帝に命を与えられた。絵の虎が、夜中にあんまり吠えるんで、皇帝がわざわざお見えになってな、腹減って切ないんか、そんなら絵から出てきて宴席に侍《はべ》れと仰せで、それからずっと、代々の皇帝に仕えた。由緒正しき虎なんです。一応な」
 アキちゃんを値踏みするように、ゆっくりとした足取りで、周りをうろつく信太の仕草は、まさにさっきの虎のようやった。
「先生は、三都の巫覡の王ですか。俺は、そこらへんのペーペーには、仕えたくないんや。落ちぶれても、誇りがあります。宮廷では、皇帝にしか許されない黄色をまとって、龍と鳳凰の描かれた床を踏んで、うろつくことを許されていた虎や。俺はね、ぶっちゃけ皇帝のペットやけどな、先生。皇帝は神やねん。生きている神で、地上にいる星や。それに匹敵するような人間にしか、仕えたくない。先生は一体、どういう人ですか」
 信太はアキちゃんに近寄っていって、鼻を寄せ、くんくんと匂いを嗅いだ。獣臭い仕草やった。
 アキちゃんはもちろん、甘い匂いがするやろう。その匂いを憶えようとしてるみたいに、信太はいつまでも、うっとりと甘露を嗅いでいた。
「どういう人って……俺は絵描きで、ただの学生や。皇帝とか、王とか、生き神様とか、そんな大層なもんとは違う。それやったら、あかんのか」
 居心地悪そうに、アキちゃんは答えた。嗅ぎ回る信太を横目で追いながら。
「絵師か……」
 にんまりとして、信太はその事実を反芻したらしい。人間の姿のままでも、ごろごろ喉が鳴りそうな顔をしていた。
 そして信太は唐突に、ベロンとアキちゃんのほっぺたを舐めた。アキちゃん、ギャーッてなっていた。そらなるわ。だってもう虎やないんやもん。信太やもん。歴史コスプレの信太やもん。虎のほうがマシらしいで。ベロンされるんやったら、信太より虎のほうがマシなんやって。どこまで信太が嫌なんや。
「うわあ、なんやこれ。気色悪いいっ。お前の舌、ざらざらしてる。ざらざらしてんで!」
 そんなどうでもええような事を、アキちゃんは恐慌して信太に文句言っていた。舐められたことのほうを文句言え。そっちのほうが普通でないやろ。いくら美味そうでも、舐めたらあかんやろ。皆さん見てはるんやからな。舐めてええんやって、皆さん思わはったら、あかんやろ。舐めたらあかん。舐めたらあかんねんから、俺のツレ! 舐めてええのは、俺だけなんやから。皆さん、その点、しっかり理解しといてや!
「そらそうや、虎やもん。猫科ですんで」
 くすくす笑って、信太は上機嫌やった。
「美味いなあ、先生。気に入りました。それに俺、絵師は大好き。元が絵やしな。絵が上手い人は、今も大好きやねん」
「ほんなら、本家の坊《ぼん》にお仕えできるのやな、信太」
 今まで石のように黙っていた蔦子さんが、どことなく甘い猫なで声で、信太に訊ねた。信太はそれに、アキちゃんを見たまま、うんうんと、頷いて答えていた。蔦子さんに懐いてる、でっかい虎猫みたいやった。
「できます、蔦子さん」
「そしたら本家でおきばりやす。坊《ぼん》はあんたも知ってのとおり、まだまだ修行中の身や。知らへんことも沢山あります。あんたが教えてやりなはれ」
「蔦子さんの警護は、誰がやんの」
 名残惜しげに前の主人を見て、信太はちょっと、ごねてるみたいに訊ねた。
「啓太がしますやろ」
「それはそれは、返り咲きやな啓ちゃん……」
 もともと読んではいたけどもという顔でいながら、信太はさも驚いたふうに言うてた。それにメガネはムカッと来たらしい。
「お前がおらんようになって、俺もせいせいするわっ」
 小声でメガネに怒鳴られて、信太はくすくす笑った。
 啓太はもともと、蔦子さんに仕える、筆頭の式やった。それが信太の登場で、押しのけられて、ランクダウンやったわけ。ご主人様に、ごろごろ甘える、猫科アタックに、勝たれへんかったわけやな。
 信太はあくまで、ペット体質。ご主人様にお仕えして、それに甘えて、それのために働いて、ええ虎やなあと可愛がってもらうことに、疑問がないらしい。大好き、ご主人様。
 それが、かつては代々の皇帝で、ちょっと前までは蔦子さんやった。
 そして今、その矛先は、アキちゃんに向いている。だってアキちゃんが、信太のご主人様になったんや。だって、そういう儀式をやったやろ。お水ぐびって飲んで、それで終了やけど、誓いの水杯は神事やで。神聖な誓いやねん。
 アキちゃんは信太に約束してもうた。俺がお前のご主人様になってやるからって。
「先生。先生は確かにまだ今は、ただの絵描きのタマゴやろけど、先々にはきっと、立派な覡《げき》におなりや。俺がかつて仕えた皇帝にも匹敵するような、高い霊威を感じます。最後の主が先生で、俺は嬉しいです。俺の忠誠を、受けてください」
 そう言って、信太はアキちゃんに叩頭した。叩頭ってわかるか。三跪九拝《さんききゅうはい》やで。拝《おが》んで、跪《ひざまず》いて、ひれ伏したんや。しかもそれが、三セットもやで。拝み倒しや。そんなん普通の人間が、してもらえる挨拶やない。信太も神やで。霊獣やねんから。その有り難い虎さんが、九回も拝む。ご主人様はそれほどまでに、有り難い神様やからや。
 アキちゃん、ガーンてなっていた。勿論そんなん、過去には一度もされたことない。普通の人間やったら、あるわけがない。
 真っ黄色の煌びやかな宮廷衣装で、跪いては立ち、また跪いて、澄ました顔の額が床に着くまで、深々と自分に額ずく信太を、アキちゃんものすごショックみたいに見下ろしていた。
 何がショックやったんやろ。
 もしかしたら、その偉そうにさせてもらえる自分が、ちょっぴりどこかで気持ち良かったからかもしれへん。なんというても旧家の坊《ぼん》や。アキちゃんは偉そうやねん。俺は偉いと、心のどこかで思うてる。そら、しゃあない面もある。世が世なら、お殿様になるために、帝王学とかいうノリで育てられてる、大事な大事な跡取り息子や。
 せやけど、アキちゃん、普通の子やで。普通の小学校行って、普通の高校行って、美大でも別に、偉そうにはしてへん。偉そうなんは性格だけや。でも普通におとなしく、他の平民の皆さんと同じように、つつましく絵描いてる。
 普通がええねん、アキちゃんは。
 なんでかな。
 たぶんやけど。
 アキちゃんは、友達が欲しかったんやないか。皆に畏れられ、崇められ、ともすれば忌み嫌われる、そんなお屋敷の暁彦様やのうて、普通のクラスに普通にいてる、お友達のアキちゃんが良かった。そういう子やねん、俺のツレ。寂しいんや。一緒にいてくれる誰かが、いっぱい欲しいんや。そうして皆に愛されて、自分も皆を愛して、生きていきたいねん。普通にな。
 まるで普通の子みたいに。
 せやけど、残念。お前は三都の巫覡の王やねん。秋津の末代。そして、もはや人ではないような、不死の体を手に入れた。永遠の恋人は外道の蛇で、しかも男やし。ペットの犬は人型やし。家宝の剣は喋るし青いし清純派やし。妾《めかけ》の朧《おぼろ》様はエロでラジオで血を吸うし。それに加えて虎やろう。虎飼うてるやつが普通のクラスにいるか。それは普通の子か。
 普通なわけない。
 うちのペット虎やねんて言うたら、小学校の友達、家に遊びに来てくれるか。蔵に居る、喋る下駄見せたら、チビって逃げ帰るのが小学生やないか。どう見てもお化け屋敷やもん。
 アキちゃんきっと、子供のころに、そういう目に遭うたことあるんやないか。アキちゃんはずっと、傷ついていた。自分の普通でなさに。
 でももう大人や、アキちゃん。居直らなしゃあない。
 信太はご主人様には叩頭する虎や。メイド・イン・チャイナやしな。極彩色の服着てホッとするらしい。ああやっぱ服はこれでないとと思うんやって。異国モンやで。外国の妖怪や。そんなもんかて、アキちゃんの霊威に胸撲たれて、喜んで仕えるというんや。おとなしく、ご主人様してやるのが、甲斐性なんやで。
「先生、なんでもします。何なりと、ご命令を」
 拝み倒し終えたアキちゃんに、まだまだひれ伏してもいいよみたいな、うっとり顔で、信太はそう訊いた。式《しき》の目やった。ご主人様に心酔している虎や。だんだんアキちゃんの毒が、回ってきたみたい。
「命令なんかない。いつも通り好きにしとけ」
 アキちゃんは、なんかすごく心苦しいみたいに、信太にそう命令していた。
 アキちゃん、ほんまに辛かったんやろ。主のためなら、喜んで死ぬって、そういう顔つきしている虎に、いつも違う何かを感じて、しんどかった。騙しているような気がしたんやろ。都合のええ道具として、式《しき》をぶっ殺す。そういう自分の血筋の因業が、呪わしかったんやろ。
「好きに?」
「いつも通り、鳥さんといちゃついとけ。野球観たいんやったら観たらええし……なんでも好きにしろ」
「でももう寛太はよその式《しき》や。蔦子さんのやから。俺の一存で、どうのこうのできません」
 お堅いな信太! そんなお堅い奴と思うてへんかった。俺のことは、てめえの一存で、どうのこうのしたくせに。実はアレ、からかってただけやったんか。ほんまのところ、どうのこうのする気はなかったんか? むかつく。超むかつく。俺ちょっと本気でドキドキしちゃった瞬間あったのに。ほんまは手出すつもりなかったんやな!
「俺がええって言うてんのや。鳥さん好きなんやろ? もう好きやないんか!?」
 アキちゃん、照れてんのかキレてんのか、なんか怒鳴り気味に信太に訊いてた。それにドッ派手な宮廷衣装の真っ黄色の男は、ぽかんとしていた。
「好きです」
「ほんなら、いちゃついとけ。俺の目のないところでやっとけ。俺の前ではするな。わかったな」
 なんで俺の前ではしたらあかんのや。むかつくアキちゃん。
「わかりました」
 素直にそう答えて、信太はちらりと水煙を見た。車椅子から水煙も、ちらりと信太を見上げた。
「序列は?」
 何で水煙に訊くんや信太。そら、しゃあないか。どう見ても水煙様が一番偉そうな式神やった。それに信太は多少なりと、本家の事情には詳しいんやろからな。
「俺が筆頭。朧《おぼろ》が二位。お前が三位。それから犬。亨は別格や」
「三位? なんでやねん。怜司より俺のほうが強いんやで」
「だからや。お前は朧《おぼろ》に未練があるようや。序列の高位に任せて、虎が雀を食うようでは困る。うちには風紀があるんや」
 いったいどんな風紀があるんや、水煙兄さん。ローテーションのことか。ローテーションのことを言うてんのか。それを秩序だと兄さんは思うてはったんですか。
 ていうか、信太が偉そうぶって怜司兄さんを手込めにしたら困るということですか。そんなこと、ありえんの?
「念のためや。朧《おぼろ》はアキちゃんのもんやしな。それにお前も気軽に手を出すようでは困るんや。理解しろ」
 じろりと疑わしそうに睨《ね》め付けて、水煙は困り顔の信太と、むかむか来てるままらしい朧《おぼろ》を遠目に見比べていた。
 そうか。今や虎とラジオはひとつ屋根の下や。海道家では、仲良しこよしで組んずほぐれつやった皆さんなんやから、それを秋津でも続投しようと、虎が思うかもしれんわけやな。
「そんな悪さは、この子はしまへんえ」
 苦笑して、蔦子さんが水煙を、たしなめていた。
「わからへん。ちゃんと言うておかんと。それに、はっきり命令しておけば、いくら朧《おぼろ》が性悪でも、こいつのほうが拒むやろ。案外、忠実なようやから」
「そんなんする必要はない」
 アキちゃんが、慌てたみたいに、小声で水煙を止めていた。
 なんでやと、不思議そうな顔で、水煙はアキちゃんを見上げていた。
「ええのか。朧《おぼろ》がお前以外のやつと気を通わせても。お前の父は嫌やったようやで。嫌なんやったら、はっきり命じて、縛ればええんや。式《しき》とはそういうものやろう」
「俺はそんなん、したないねん。もうええよ水煙、そんな話は、後でしよ。皆見てるし、この後、俺は、どないしたらええんや?」
 まだ納得いかんみたいな顔をしている水煙の、腕をやんわりと握って、アキちゃんはたしなめていた。水煙は不満やったようやけど、手をニギニギされちゃうと、内心、ふにゃあってなるらしかった。何となく拗ねたような目はしたが、アキちゃんに逆らいはせえへんかった。そうかジュニアがそれでええなら別にええけどみたいな、うやむやさで、青い人は押し黙り、そして話を変えた。
「茂が宴席を張るんやろ?」
 誰にともなく水煙が訊くと、はいはいそうですと、そつのない狐が答えた。大崎茂の式神兼秘書、秋尾や。
「これで下準備的な神事は全部終わりやし、あとは宴会だけです。中庭を中心にメイン会場です。皆さんのお好みの酒食も支度してもろてますし、後は気楽に、飲んで食って騒ぎましょ」
 そんなんしてる場合かみたいな事を、狐はにこにこ言うていた。
 自分も死ぬかもしれへん籤《くじ》取りに、たったの今まで混ざっていたくせに、けろっと平気なもんやった。もう死なんでええわと思うてるから、あっさり元気になったんかな。
 しかし信太も、平気なもんらしかった。
 もはや覚悟が決まりすぎてんのか、それとも、こいつはアキちゃんの式やからか。自分が死んで、それでアキちゃん助かるんやったら、それで嬉しいと、契約の呪縛に縛られた心で思えば、普通にそう思えてまうんかな。以前の俺が、そうやったように。
「結局、秋津が摂《と》るんやな、お蔦ちゃん」
 水盆に顕れた、蔦子さんの予言のとおりの水占の結果を睨み、大崎茂は苦々しい顔をしていた。まさか狐をぶっ殺したかったわけではないやろけど、結果として、この水占は、やってもやらんでも同じな、意味のないもののように思えていた。
「それが天地《あめつち》の思し召しなら、そういうことですやろ」
「神人《かむびと》やからか。秋津の連中は神の血筋を引いていて、他のは違う、只人《ただびと》やから、あかんのか。巫覡の王にはなられへん。秋津の覡《げき》とは格が違うて、そういうことになるんか。せっかく公平に、籤取りして決めよと思っても、天地《あめつち》までが秋津に肩入れするんか」
「たまたまどす、茂ちゃん。たまたま信太が選ばれた。それが、たまたま、秋津の女であるウチの、式《しき》やったというだけのことどす」
「その、たまたまとかいうやつで、アキちゃんは戦で死んだ英霊で、俺はいまだに只人《ただびと》か。底意地の悪い神や、たまたまは。俺がしたのは、ヘタレの茂の余計なお世話か」
 ぷんぷん怒って、大崎茂はジジイのくせに、まるで駄々っ子みたいやった。トシ食うと子供に返るとか、人間どもは言うけど、ほんまやな。それともこの人、実は老けてんのは見た目だけで、中身はピッチピチのままなんやないか? 悪い意味でな。もちろん、悪い意味でやで。
「その通りや、茂。秋津に任せて、お前達はそれの補佐をすればええんや」
 けろっと言うてまう水煙兄さんに、俺はアイタタと思った。黙ってりゃええのに兄さん。茂ちゃん、よかれと思ってやったんやから、そこんとこ理解してやらなあかんよ。
「そうやろな。どうせ俺はアキちゃんより格下や。でもそうやってお前が追いつめるから、アキちゃん、ひとりで何もかも背負ってもうて、果ては死んでもうたんやで。俺には、戦なんか行きたないて言うてた。絵描きになりたいて、言うてたわ! 人間は神になんかなられへんのや。ひとりで背負うことない。ヘタレどもで力を合わせて頑張ればええんや。それが今の世の常識やで」
 どしたんヘタレの茂。緊張の糸がどっと解けて、いろいろ噴出してもうたんか。怒りツボにスイッチオンなってもうて、あれこれ思い出し激怒か。
 大崎茂は、水煙に、不満があるらしかった。ぷんぷん怒って文句言うてた。水煙はそれを、うるさそうに聞いていた。
「飲みましょ、茂ちゃん。ウチ、冷酒が飲みたいんや。付き合うておくれやす」
 蔦子さんは苦笑いして、どう見てもお迎え近いジジイみたいな見た目の大崎茂の肩を、そっと押して連れ出していた。でも、蔦子さんのほうが年上なんやで。それが、まだまだ女盛りの、熟女みたいな見た目なんやしな。秋津はやっぱり別格や。只人ではない。それは見ればわかる。一目瞭然なんやけど、茂ちゃんは認めたくなかったんやろ。子供のころから一緒に過ごした、幼馴染みの兄弟たちのうち、自分だけが、巫覡というても、ただの人で、あとの奴らは、半分がた神仙の世界に足突っ込んでる、そういう格差が生まれつきあって、自分だけが置いていかれる。そんなの認めたくない。寂しいもんな。
 そんな寂しそうな爺さんの、ぷんぷん怒っている後ろ姿を、狐はちょっと切なそうに、苦い笑みで見ていた。その目に送られ、蔦子さんは啓太を従え、爺さんを連れて出ていった。
 その姿が見えなくなってから、秋尾は何か切り替えたんか、小さく頭を一振りしてから、いつものにこにこ顔に戻っていた。
「ほな皆さんも、移動してください。この部屋の後始末は、やっておきますんで」
 如才なく采配して、狐は水占の盥《たらい》を片付けるつもりのようやった。
「手伝おか、秋尾さん」
 アキちゃんが、親切げに申し出ると、狐は笑った。冗談でも聞いたみたいに。
「なに言うてんのや、坊《ぼん》。秋津の当主がそんなんしたらおかしいで。宴席いって、酒でも飲んできたら? 酒は飲んでもええらしいから」
 他の何を飲んだらあかんの。そういうものがあるみたいな言い方で、狐は言うてた。アキちゃんはそれに、きょとんとしていた。
「あれ。知らんのか、坊《ぼん》。一応形だけやけど、潔斎《けっさい》せなあかんのやで。精進ものしか食べたらあかんしな、賭け事、色事、殺生は、控えなあかんのやで」
 なんやと!? 色事控えるやて!? そんな殺生な!
 控えとる場合か、このドアホ! 俺とのラスト・エッチはどないなんのや。やっぱり無しか。無しなのか。それが厳しい現実か!?
 ひどいいいっ。
 宴会や言うて、ご馳走ありますなんて言うて、亨ちゃんの一番のご馳走がお預けなんやったら、結局生殺しやないか。血も吸うたらあかんの。チューもあかんの。ハグもあかんの。握手もあかんの。アキちゃん好きやもあかんの。どのへんまでが色事の範囲やねん。
 そんなこと、訊くに訊かれへん。
 まあ、普通の神経やったらな。
 せやけど、普通でない神経の俺は訊いた。狐に。だって重要なことやで、それは。
「えーと……それは、どのへんまでがあかんのやったかな。朧《おぼろ》ちゃん、憶えてる?」
 朧《おぼろ》ちゃん。ちゃん付け交流や。なにそれ。気色悪っ。なんで秋尾が怜司兄さんのこと、朧《おぼろ》ちゃんやねん。何の知り合いや、てめえら。
 俺はとっさにさぶいぼ出たけど、そういえばそうやった。狐とラジオは、おとんの代からの知り合いやという話やった。秋尾はヘタレの茂が赤ん坊のころから仕える式神で、その茂ちゃんは、嵐山の秋津家で育ったんやで。だから怜司兄さんが朧《おぼろ》と呼ばれ、おとんのご寵愛を受けていた頃、秋尾もそこにいたんや。せやから、こいつら、少なくとも顔見知りなんや。主《あるじ》どうしが連んでたんやから。
「えー。どやったかなあ。血は吸うたらあかんのやで。流血したらあかんのやから。チューとハグはええんやないか? 肝心のとこ触らんかったら」
 肝心のとこってどこかしら。亨ちゃん、初心《うぶ》やから、わからないわ。って、トボけても、あかん? あかんか。超ガッカリ。なんでそんな決まりやねん。ええやん、ちょっとお触りするくらい、減るモンやなし。むしろ増えるモンやないか!
 しかしや。しょうがない。それも伝統やというんやったら。
 ええやんええやん言うて、あれとかこれとかしちゃって、あかん亨が肝心なとこ触ったからドジってもうたなんて事になったら、土下座したかて許してもらわれへん。アキちゃんやのうて、アキちゃんのおかんとか、おとんとかに。きっと絶対、怒られる。どういうつもりどすか亨ちゃんて、おかんに怖い顔で怒られる。俺それチビりそうやねん。怖いねんでえ、登与ちゃんは。俺には一応、命の恩人やしな。今やお姑《しゅうとめ》さんなんやから。
「アキちゃん好きやもあかんの?」
 言うだけタダやろ。それも穢れるなんて言わんといてくれよ。下手すりゃ最後の夜やねん。ただ黙って抱き合うだけなんて、俺つらいねん。アキちゃん好きやって、一杯言いたい。
「あかんことないけどさあ。やめといたら? 変に盛り上がって、いっとこかみたいになったら、余計しんどいよ?」
 何をいっとくの? 怜司兄さん……。経験者は語るみたいな口調やけど、昔、なんかあったの? 変に盛り上がって、我慢すんのしんどかったことあんのかよ。不潔だわ!
「若いって、ええなあ。普通せえへんよ。そんな土壇場の、ギリギリまでは、いちゃつかへんもんやで」
 苦笑の声で、秋尾は茶化して、水がたっぷり満たされていた盥《たらい》の縁に、そっと指先を触れさせていた。
 そしたらそれも、ドロンと狐に化かされたように、うっすら白煙をあげて、掻き消えた。
 おお、と小さく感嘆して、それを眺め、怜司兄さんは煙草を吹かしていた。
「相変わらず手際がええなあ」
「こんなん得意やから、昔も今も、しょうもない雑用ばっかりなんやで」
「まあ、その通りやなあ。それはお互い様や」
 笑い合うてる二人は、親しげやった。怜司兄さんは秋尾が、懐かしいみたいやった。
 たぶん思い出すんやろ。おとんと、自分と、ヘタレの茂と、その狐。そんな面子で遊び歩いていた、祇園の夜が。
「朧《おぼろ》ちゃん、本間先生の、式になったんか? なんで?」
「なんでって……行きがかり上や」
 気まずいんか、怜司兄さんは目をそらし、ものすご渋い顔してた。
「顔、似てるから? 暁彦様に?」
「似てるって、全然似てへんやんか。似てるか、あの坊《ぼん》。おんなじところに目鼻はついてるけど……でも、それだけやで?」
「そうやな。僕もそう思う。暁彦様には、会うてへんの? 病気でもしたんか。なんや、えらい、窶《やつれ》れてもうて、骨と皮みたいやないか?」
 秋尾はただ、心配やったんやろ。狐は神やし、慧眼の主に仕える式や。目がええんやろ。
 怜司兄さんが隠している正体の件を、うすらぼんやり見抜いたらしい。大丈夫かと、親しげに手を伸ばしてきた狐の手を、怜司兄さんは振り払っていた。触らんといてくれと、そういう険しさで。
「なんもない。大したことない。うちの坊《ぼん》連れて、もう行くし。また宴席でな」
 振り払われた手を、狐は意外そうに傷ついた顔で見ていたが、その目は心配そうやった。ほんならこいつら、ほんまに仲はよかったんかもしれへん。それでも朧《おぼろ》はずっと、狐とは会うたことなかったみたい。懐かしいは嘘ではないけど、会うと思い出すし、つらかったんかな。すっかり神戸に引き籠もり、水煙様がかけていた結界が消え去ってからも、怜司兄さんは京都には行ったことがないらしい。
「はよ行こう、先生。ワンワンに仕事任せて、ほったらかしにしてきてるし、心配やわ」
 そういえばいない、と、俺が今さら気付いたワンワンのことも、怜司兄さんは心配してやっていた。もちろん、この場を立ち去るための口実ではあったんやろけど、怜司兄さんはたぶん、俺よか優しい性格や。
「瑞希に仕事?」
 車椅子押そうかって、態度で訊いてた真っ黄色の虎に、アキちゃんは首を振って拒みつつ、意外そうに朧《おぼろ》様に訊ねた。そしてそのまま、水煙の車椅子を自分で押して、扉を開けて待っている怜司兄さんのほうへ、すたすた迷い無く進んでいった。
 信太はそれに付き従って、迷いのない足取りやった。ほどほどの距離をとって張り付いて、ご主人様を守っている。その一足ごとに、信太の姿はゆらゆら揺らめき、身に纏っていた華麗な宮廷服は、いつも通りの派手くさいアロハ着た、チャラい神戸の兄ちゃんの格好へと、もやもや移り変わっていった。
 確かに今のご時世、いくら気高い宮廷の虎でも、宮廷服でうろうろしてたら、中華街でお祭りでもあるんですかって、通りすがりの人らに訊かれて訊かれて、どうにもしゃあないやろからな。着替えとくのが無難やで。
 はっと気付けば、チーム秋津は以前とは比べモンにならんような大所帯やった。
 アキちゃんに水煙。それに朧《おぼろ》と信太。そしてワンワンもいてる。俺はその群れに、どう混ざったもんか、ふと自分の居場所が見つからんようになった。
 もう俺が居らんでも、実はアキちゃん、困らんのやないか。亨抜きでもやっていける。ほんまいうたら身を引くべきなんは、俺のほうやないかって、一瞬そんな傷みが走って、俺はどぎまぎしていた。
 その時、ドアをくぐろうとしていたアキちゃんが、俺のほうを振り向いた。
「亨、行くで。お前も来るんやろ、宴会」
 なんや、ちょっぴり、気を遣ったような、遠慮がちな声やった。
「行ったらあかんの」
 来てほしくないのかと、俺は思って、怒ってええやら、泣いてええやら、どっちつかずな力無い声で訊ねた。
 アキちゃん、もう、寂しないやろ。そんだけお付きの妖怪が、ずらり取り巻いてくれてたら、全然寂しくないんとちがう。寂しい、亨。一緒にいてくれなんて、もう言わんのやろ。
「あかんことない。……と思う。お前が来たいんやったら。先に京都に帰るんやったら、早いほうがええと思うけど」
 アキちゃんはまだ、その案を持ってたらしい。亨は先に帰っとけ案。
 帰るんやったら、ぐずぐずせんと、地震がやってくるより、ずっと前に帰れと、アキちゃんは気が急いてたらしい。まだ一日あるけども、もし予言がズレてて、鯰《なまず》様が早めにご出動やったら、困るやろ?
「帰らへんよ。そんなん、さっきもそう言うたやん」
 俺が拗ねる口調でぐずぐず言うて、立ちつくしていると、険しい咎めるような目で、怜司兄さんがアキちゃんを睨んで言うた。
「帰してどないすんのや先生。こいつは補給が要る子やで。もしも何かの不都合で、先生がすぐには京都に戻られへんかったら、こいつ、ひとりで飢え死になんやで」
 それにはオヤツの飴持たす。どうせ、そういう事なんやろアキちゃん。ワンワンだけやのうて、俺のことも、飴玉やって済まそうという腹や。
 アキちゃんはそうは言わんかったけど、ただ気まずそうに押し黙っていた。
「連れていかなあかんで。蔦子さんの予知にも、こいつが居たやんか。それで狂う運命もあるかもしれへんのやで?」
「ええほうに変わる可能性もあるんやろ?」
 うつむきがちなアキちゃんの返事は、どうにも言い訳くさかった。それに怜司兄さんは、さらにムッと不機嫌そうな、眉をひそめる顔になった。
「蔦子さんが予知して、最善のコースがあれやと言うてた。そんなら、あれが最善や。素人判断で勝手に未来変えんといてくれ」
「蔦子は不運を掴んでくる女やで」
 予言者・海道蔦子の肩を持つ怜司兄さんに、水煙は冷たく突っ込んでいた。それにも怜司兄さんはご不快のようやった。
「そうやろか。俺はそうは思わんけどな。運・不運は気の持ちようやで。暁彦様は確かに戦争で死んだけど、それのお陰で今や英霊なんやろ。そうでなきゃ、いくら有り難い秋津の当主様でも、ただの人間やった。いずれは死ぬ身や。同じ死ぬなら、戦で死んで、英霊として神格化されたほうが、末永くこの世に在り続けられる。ある意味、あいつは永遠の命を得たんや。もう年もとらん、死にもしない。肉体の限界にも縛られへん。神としての一生やで? それがお前の、お望みどおりなんやろ。秋津の悲願や。そういう意味では、蔦子さんは最善の未来を、予知していたんやないか?」
 そういう朧様の話に、水煙は黙りやった。石のように沈黙して、うんともすんとも言わんかった。
 たぶん、論破できへん気がしたんやろ。怜司兄さんの言うとおりやという気がして、返事すんのが嫌やったんや。
 つんと澄ました無表情の、目も合わせない青白い美貌を見下ろして、朧様は、ふん、と言うた。笑ったんかもしれへん。
「せやけど、もう関係ないな。あいつも結局、振られたよ。ええ気味やわ。俺を捨てていった報いや」
「登与《とよ》ちゃんがおるやろ」
 それが言い訳みたいに言う水煙の、お澄まし顔を見下ろして、朧《おぼろ》様は、にやあっと笑った。それは少々、邪悪な笑みやった。
「登与様? ああ……そやな。ふうん。ほんなら、知らんのや、水煙様は」
 くすくす気味が良さそうに、朧《おぼろ》様は笑っていた。その顔がちょっと正気やないようで、俺は遠目に眺め、何とはなしに寒かった。
「有り難い水煙様でも、知らんことはあるんやなあ。登与様か。そうやなあ。確かにあの兄妹は、仲はええよ。でも、妹は妹なんやで。あの二人は、相手が自分の兄弟やから、好きなんやで?」
「それがどうした。好き合うてしまえば、血筋の者かどうかなんて、もう関係ないやろ」
 水煙は話が見えへんかったようで、身構えて反論していた。朧《おぼろ》が何を笑ってんのか、誰にもわからへん。この時、その理由が分かってたんは、怜司兄さんだけやったんやから。
「そら、そうや。関係あらへん。親でも兄弟でも。それが秋津の因業らしいけどな。それは血筋の呪いやと、暁彦様は言うていた。呪われた血筋なんや。より血の近い者を求める。暁彦様にとっても登与様にとっても、お互い以上に血が近い相手はおらへんかった。それであの兄妹は、えらい仲がよかったんや」
「何が言いたいんや、お前は」
 さすがに訊くしかなかった。水煙も、気味悪そうに、朧に訊ねた。秋津の子らのことで、自分にも知らんことがあるとは、悔しいというような顔やった。
「子供が欲しかっただけなんや。登与様に、自分の子を産んで欲しいてたまらんのやって。それは変やと思うけど、それを思うと、時々苦しいて、息もできんくらいなんやって。欲しい欲しいで、気が狂いそう。妹がやないで。息子が欲しいんやって。跡取り息子が、欲しいてたまらんのやって」
 堪えられへんかったんか、朧《おぼろ》は、あははと、声をあげて笑っていた。
「変やろ? 暁彦様って。時々変やねん。息子欲しいてたまらんのやけど、でも、死んでも作るもんかとも思うんやって。そしたら自分が末代で……妖刀・水煙を、墓まで持って行ける」
 もう吸い尽くしそうな煙草を眺めて、朧はまだ伏し目に笑う顔やった。
「でも結局、あいつは呪いに負けたんやなあ。だって先生が産まれたんやから。それとも、登与様に負けたんかなあ。あの人、子供のころから、お兄ちゃんの赤ちゃん欲しい欲しい言うてたらしいやん。お兄ちゃんのお嫁さんになって、赤ちゃん欲しい欲しい。でも、それは無理やで、お登与。普通やない、普通やないから、普通やないよって……言うても結局、あいつも普通やなかったやんか?」
 吸い尽くした煙草を、朧《おぼろ》はぽいっと、そこらに投げ捨てた。それは、ぼうっと青白い鬼火をあげて、宙にあるうちに燃え尽きていた。
「よかったなあ、本間先生。お前は両親に望まれた子や。俺も子供が産めたらなあ。それともあれは、秋津の女でないと、あかんのか?」
 アキちゃん、ぽかんとしていたわ。そして、目が泳いでいた。
 アキちゃんは自分の両親が、愛し合って結ばれたんやと思うていたんやろ。そらそうや。兄妹でありながら結ばれて、子供まで作ってんのやで。あきらめきれへん強い愛情が、あったんやと思いたいのが人情や。
 それが呪いのせいやと言われてもなあ。今さら言われても。アキちゃんかて目が泳ぐ。
「朧《おぼろ》。この子は父親のことは、ほとんどなんも知らんのや」
 せやし、なんも言わんといてくれと、そういう視線で、水煙は怜司兄さんを見ていた。新しい煙草を取り出しながら、怜司兄さんは、それを意図的に無視してるような、余裕の笑みやった。
「ああ、そうか……それは、あんまり知らんほうが、ええのやない? なに考えてんのかわからんような、妙なボンボンやったで。優しいねんけど、時々鬼みたい。ちょうど今の、先生みたいに」
「俺のどこが鬼なんや」
「あの子に帰れて言うてたやん。土壇場で捨てんのは親譲りやで。あいつも言うてた。お前はどこか、地の果てまで逃げろ。戦のないような、遠いどこかに逃げて、そこで待ってろって」
 思い出すとムカムカするらしく、怜司兄さんは苦い顔やった。
「帰ってこれるアテもなかったくせに、えらい調子のええ話やで。先生そっくり!」
 それがまるで捨て台詞みたいに、朧様はイライラ言うて、ひらりと身を翻し、背で押さえていた扉をほったらかして、行ってしまった。閉じかけた扉を、淡い苦笑の信太が、代わって押さえてやっていた。
「気にすることないですよ、先生。八つ当たりやから。怜司は未だに腹立つらしいです。先生の、お父さんから、戦には、連れていかへん。お前が居っても役立たずやし、どっか行けて言われたことが」
 信太に説明されて、アキちゃんは気まずいらしかった。朧《おぼろ》様は、虎には口が軽かったらしい。何でもベラベラ話してたらしい。それは朧《おぼろ》が虎とずいぶん深い仲やったことを物語っていたし、そやのに怜司兄さんは、虎には冷たかった。それも気まずい。おとんのプライバシーが虎にダダ漏れなのも気まずい。いろいろ気まずいことばかり。
「でも、それは、ほら。なんていうか……愛でしょ。連れていきたくなかったんは、連れていったら死ぬからや。実際、暁彦様は、連れてった式《しき》は全部殺してる。死闘やったということやろけど、そうなるやろうと分かってて、連れていくというのは、つまり、引導渡す式《しき》を、選ぶということやしな。怜司には生きといてもらいたかったんでしょ」
「俺は知らん。おとんに訊いてくれ」
 アキちゃんはさらに気まずそうに、ぶつぶつ答えた。でも、信太に反論があるようには見えへんかった。
「俺、思うんですけど、先生のお父さんて、割と怜司のこと、マジに好きやったんと違います? 気が多い人やったっぽいけど、でも、怜司はええ線いってたんやない?」
 信太はアキちゃんに話しかけていたけど、もしかしたら、水煙に訊いてるんやった。だって、この場の面子の中で、そのへんの事情が分かってる可能性があるのは、水煙くらいのもんやんか?
 せやけど水煙様は、またしても黙りやった。死んでも喋らんという、頑固極まりないオーラが漏れてた。それに信太は、可笑しそうに苦笑していた。
「まあ、ええか。どうせ、昔々の恋バナなんやし、俺ももう正直、聞き飽きましたわ。怜司もああ見えて、ヘタった時には湿っぽい奴やねん。おんなじ話、何遍も聞かされた。再放送に継ぐ再放送で、もう、しんどいったらないです」
 参ったなあという顔で、信太はにやにや俺を振り返り、そしてちょっと、励ますように言うてた。
「亨ちゃん、京都なんか帰らんと、先生と一緒に居ったら? 怜司みたいになったらウザいでえ。あいつ、ほんまは、振られてフラフラなんやで。そんなん亨ちゃんには、似合わんしな。せっかく可愛いんやから、そんな暗い顔してへんと、可愛い顔して笑っといたら?」
 でっかくおいでおいでして、信太は俺を呼んでいた。
 そうして差し招かれるのに、ほいほい乗ってええのかどうか、俺はまだちょっと戸惑っていて、アキちゃんの顔色を、うかがっていた。
「ええやん先生。たとえ鯰《なまず》様が出ても、このホテル居といたら無事ですよ。龍は先生がやっつけんのやろ? 竜太郎かて、ホテル居残りなんやで。守らなあかんと思うモンが、居てくれたほうが、先生かて何としても神戸を救おうという気合いが出ますよ」
「あかんかった時、どないすんのや」
 アキちゃんは渋々の顔で、信太に突っ込んでいた。それにも信太はにこにこしていた。
「あかんかった時のこと考えたら負けますよ。勝つから、大丈夫」
 調子のええ虎やった。絶対に勝てるつもりみたいやった。それは自信というより、決意かもしれへん。愛しいモンを、なんとしても守り抜くという。
 せやけど勝ったところで、信太は生きては帰ってこない。特攻係なんやしさ。そんな立場で、よう言うわ。心配いらんなんてさ。
「宴会行きましょ。俺も寛太を、中庭で待たせてんねん。早う行ってやりたいんです。せっかくの宴や。先生も亨ちゃんと、心ゆくまでいちゃついといたら?」
 そうしたいやろ、って、それが当然みたいに言われて、アキちゃんは、むっと堪えた顔をした。ちょっと顔赤いみたいやった。怖い顔はしてるけど、それが図星らしかった。
 俺はそれに、なんや心が動いた。アキちゃん冷たい。腹立つ。切ない。ずっとそう思ってたけど、でも、アキちゃんはただ、我慢してただけなんとちゃうか。ほんまは俺と、一緒に居たいと思うてくれてる。でも、いろいろあったし、気まずいしで、言うに言われず、遠慮してんのやないか。そう思うんは、俺の自惚れやろか。
「アキちゃん……」
 我ながら、哀れっぽい声が出た。
 その声で呼ばれて、アキちゃんはちょっと、ぎょっとしたようやった。
 その驚いた顔と目が合って、俺はドギマギ、まるで初恋を告る中坊みたいな面《つら》やったかもしれへん。
「俺、アキちゃんと一緒に居たいねんけど、居たらあかん?」
 上目遣いの子猫ちゃんか俺は。そんな荒技使えたんやな、俺も! 感動した! 自分の可愛さに。言うとくけど演技とちゃうで。マジもんやで。俺も案外、怖ろしい子やったんや!
 アキちゃんそれに、衝撃受けちゃったみたい。萌えツボど真ん中やったみたい。
 どうやアキちゃん、どうや! 犬よりイケてた? 水煙よりは、どう? 水煙には今一歩及ばずやった? なんでやろ。ケツに穴ないほうがええんかな。まさかな。それはまさかやで。そんな我慢プレイには亨ちゃん耐えられないから。それだけはやめといてくれアキちゃん。
 ガーンみたいに萌えているアキちゃんを、俺は可愛い上目遣いキープでじっと見つめた。もじもじ見つめた。もうこれ以上、この清純派をキープすんの無理。もう無理。もう崩れそう。もうあかん〜、みたいになった頃に、アキちゃんがやっと、噎《む》せるみたいな声で答えた。
「あ……あかんことないよ。一緒にいてくれ」
 言うだけで限界くさい。めっちゃ小声でそう言うて、さあ行こか。さあ行くで。ものすごい迅速に立ち去っちゃうよみたいな、猛烈な早足で、アキちゃんはごろごろ車椅子を押していった。
 水煙が、怒ってへんかと思っていたけど、慌てて後をついていって、横に並んでみると、水煙様は苦笑していた。何か可笑しいらしかった。でもちょっと情けないみたいに、うっふっふと低い笑い声で、水煙はほんまに笑っていた。
「何が可笑しいんや、水煙」
 アキちゃん弄るのが恥ずかしいもんで、俺はむっとした声で、水煙のほうを弄っといた。
「性悪な蛇が、ええ面の皮や。可愛いふりが、えらい上手やなぁ、亨は」
 嫌みったらしい声で、水煙はいかにもイケズそうに、俺を詰った。
「そんなんお互い様やないか」
 むかっときて、俺は水煙の車椅子を蹴っ飛ばしてやった。アキちゃんがそれに、うわあってビビっていた。平気やっちゅうねん、ちょっと蹴るぐらい。壊れへんちゅうねん。本気で蹴ってへんやろ。挨拶程度やないか! いちいちビビんな、腹立つねん!
「アキちゃん、手繋いで」
 腕に擦り寄って、オネダリすると、アキちゃんはますます恥ずかしいという、難しい顔でうつむいて、黙々と車椅子を押していた。
「無理や、今は車椅子押すので精一杯やから」
 アキちゃん、歯を食いしばって赤面すんのを堪えてるっぽい。
「ほな俺が押しましょうか?」
 空気読めへん信太が、親切そうに言うてやっても、アキちゃんイヤイヤって、首を振っただけやった。
「なんで? 手繋いで歩けばええやん。なんであかんの?」
 なんであかんのか分からんらしい信太が、不思議がっていたけど、もっと突っ込めやった。でもアキちゃんは、ふるふる首振るだけで、結局俺と手繋いで歩いてはくれへんかった。
 みんな見てるし、恥ずかしいんやろ。それに、さっきの俺に、トキメキすぎたんやろ。そんな自分が情けなかったんやろ。わかるよアキちゃん、恥ずかしがりやねんな。
 そのまま中庭からロビーに至る、パーティー会場とやらに俺らは着いてもうた。そこには、がやがやと、外道やら、巫覡《ふげき》の皆さんが居てたけど、なんと、一般人《パンピー》の皆さんもいた。
 なんで居るのん?
 ホテルの従業員さんとか、その家族とかやで。アキちゃんの剣道の師匠の、新開先生も居たけど、その嫁まで居る。真っ白いひらひらのワンピース着て、髪の毛くるっくるに巻いて、控え目ポニーにしてる、パーティールックの新開小夜子やで。可愛いけど小夜子さん、ちょっと若作りすぎへんか。可愛いけどやで、でも、ちょっと宝塚の姫役っぽすぎへんか? どないなっとんねん、小夜子ワールド。これ普通?
 その格好で、蔦子さんは細長いシャンパン・グラスを持って、ぽかーんみたいに突っ立っていた。新開師匠は気まずいんか、スーツ姿で心持ち、項垂れて立っていた。その手にも、嫁の小夜子と同じく、ピンク色のシャンパンが満たされた、ロマンチックなシャンパン・グラスがあった。熊並の髭面のおっさんに、いかにも似合わん。
「あっ。本間君やないの」
 はっと我に返ったみたいに、小夜子さんはアキちゃんに気がついた。
 そして怪訝そうに、水煙を見た。
 いや。水煙を見たんやない。カラッポの車椅子を見たんや。
「どしたの。どなたか、怪我でもなさったの?」
 これから誰かを乗せにいくと、小夜子さんは思ったんやろう。水煙が見えへんのや。小夜子さんは、霊感皆無の、一般人《パンピー》なんやもん。せやし、美貌の式《しき》にポカーンとしてる小夜子姫には、実はこのフロアに集う美貌の連中の、半分くらいしか見えてへんかったんやないか。
 式神連中の中には、水煙様みたいに、一般の人に見えちゃうとヤバいかもみたいな見た目の方々も、混ざっている。そういう奴らは、自主的にか、ご主人様のご命令でかは知らんけど、一般人には見えへん位相から、出てこないようにしているらしい。せやし、プロには見えるけど、アマチュアには見えへんのや。
 水煙も、新開師匠には見えているけど、嫁の小夜子には見えへん。髭はその世界の違いを、嫁に悟られたくないのか、水煙には、ひっそりと会釈をしてみせた。それに水煙兄さんは、いかにも偉そうに、儀礼的に頷き返してやっていた。髭はちょっと、済まないというか、非礼に気が咎めてるふうな目をしていた。水煙に、合わせる顔がないみたいな、手を合わせて拝まなあかんような神さんやのに、失礼しちゃってるという、そういう自覚がある顔つきやった。
「パーティーあるからって聞いて、頑張っておめかしして来たんやけど、恥ずかしいわぁ。なんだか、綺麗な人ばっかりで、気後れしてしまう……」
 赤い顔してうつむいて、小夜子さんはほんまに、肩身が狭いみたいやった。
 小夜子さんは可愛いけどさ、まあ、一般人やから。神々しいような、あるいは妖しいまでの美貌のやつらに混じったら、まあ、フツーのオバチャンやわ。年の割には若いしさ、綺麗にしてる。これが高校生の頃、クラスに居ったら、可愛い子やなって、微モテするかもしれへんわ。せやけど、今日のヴィラ北野ではな。ちょっぴり気の毒。
 でも、そんな人、小夜子さんだけやないから。どうしようオロオロみたいな一般系の人、今日はなんでか、いっぱいいてはる。
 それはヴィラ北野の、招待客やった。
 藤堂さん、やっちゃった。後で聞いたら、事前に大崎先生と交渉して、了解はとってたらしい話やったけども、地震が来たら被災者になるはずの、地元在住の従業員の家族を、全員招待したんや。プレ・オープンの特別ご招待やで。しかし、勿論それは、家族を守るためや。
 ほんま言うたら、誰でも彼でも招いてやりたいような面はあったんやろけど、それは際限がない。全神戸市民を泊まらせるわけにはいかんのや。せやし、従業員の家族だけっていう、制限つきで、大崎茂が折れたらしい。どうも、ホテルの客室は、無限にあるようでいて、無限ではなかったらしい。それに明日にはここは、死の舞踏との戦いの、大本営になるわけやから、あんまり一般人がウヨウヨしてると、困るってことやろな。
 そこは割り切りどころ。
 俺はその件も、後になるまでよう知らんかったけど、藤堂さんは昔、長田に住んでた自分の実家の親兄妹を、阪神大震災で死なせたらしい。それが未だに悲しいんで、せめてホテルのために働いてくれている従業員の家族ぐらいは、セーフティーゾーンに確保したいなと思ったらしい。
 びっくりするけど藤堂さん、別れた嫁の携帯にも電話したらしいで。俺のホテル泊まりに来るか、って。そしたら初回、無言でブチッて切られたらしい。それは……そうなるで。あんたアホやで。どんだけアホになってんのや藤堂さん。それでも懲りずにもう一回かけて、明日は日が悪いから、神戸に近寄らんほうがええかもって、元嫁に教えてやったら、言われんでも近寄りません、いま日本にいませんから! って、80ホーンくらいで怒鳴られたんやって。
 なんと、元嫁は、傷心旅行で海外脱出してたんやな。しかも時差で、向こうは真夜中やった。藤堂さん、怒鳴られてもしゃあない。間の悪すぎる元夫やった。しかも、よう分からんこと言う、電波系の元夫やった。さらにしかも、すでに若い男と再婚してる、てめえの神経疑うわな感じの、あかん元夫やった。
 そういや、遥ちゃん、どこいったん?
 お前の家族といえば、神楽遥は姿が見えへん。昨日は確か、仕事があって、教会に戻ってるとか言うてたけど、そこでうっかり我に返って、血を吸う悪魔《サタン》と結婚なんかやってられっかって、逃げていってもうたん?
 俺はフロアに突っ立っていた、黒スーツ姿でキメてる藤堂さんに、あんた一人かと、目で訊いた。
 別にわざわざ、藤堂さんに擦り寄ったわけやないんやで。アキちゃんが、そっちへ行ったんやもん。
 小夜子さんと適当に世間話してから、その後アキちゃんは、中庭が見えるガラス扉が開放されて、行け行けなってるロビーを出て、昼下がりの光に照らされている、陽光のもとに出ていった。
 そこはそんなに広い庭ではない。はずやった。
 でも、なんでか異常に広い。元はガーデンテラスがあって、朝飯食うための席が置かれているだけやった中庭が、見渡す限りの庭園みたいになっていた。
 デザイン的には、極めてヴィラ北野なんやけど、ここはヴェルサイユ宮殿かみたいな広さになっている。まるで小夜子ワールドがダダ漏れしてもうてるみたいや。格調高く、ロマンチックな中庭が、無限大に拡がってもうてる。
 藤堂さんは、それにもびっくりしてたようやったけど、それよりも、中庭の、どことも言えん空中に描かれた、花の咲いてる樹の絵に、呆然みたいになっていた。
 その樹はまるで、空中に張られた見えへん透明フィルムに、描かれているみたいやった。
 たぶんやけど、梅? なんで、梅? 今、夏やのに、なんで、梅?
 なんで梅なんや、ワンワン!
 そうやねん、それは勝呂瑞希が描いた絵やったんや。怜司兄さんが犬に、なんか物足りへんなあ。お前、もと美大生やろ。ここに花でも描いといてくれって、頼んでいったんやって。それで瑞希ちゃん、しょうがないから、梅の樹を描いといたんやって。
 絵描くのに使ったんやろう。高い脚立の上で、油絵用のパレット持って、犬はがっくり項垂れていた。もう、あかん、みたいな、そんな悲しい姿やった。
 それを見上げて、まるで樹から降りられへんようになったアホな犬でも眺めるように、怜司兄さんと、藤堂さんがいた。二人とも、おんなじくらいの角度で、うっすら傾いて立っていた。まるで、目の前にある絵に、脱力してもうたみたいに。
「ワンワン……お前……絵が下手やなあ……」
 呆れたというより、可哀想みたいに、怜司兄さんが絵の批評をしていた。
 下手っていうかな。竜太郎並やないで。言うてもこいつも美大生やったんやから、一般水準からしたら、上手いほうやで。上手いんやけどなぁ……。
「なんやこれえ……苑先生の絵みたいやないか、瑞希ちゃん」
 俺が思わず的確な批評を付け加えると、俺らが来たのに気付いてなかったらしいワンワンは、可哀想なぐらいビクッとしていた。もちろんアキちゃんに、ビクッとしたんやで。
「先輩」
 あわあわして、犬はアキちゃんを見た。
「お、俺、……めっちゃ絵が下手になっている!!」
 それが物凄い悲劇みたいに、犬はアキちゃんに縋り付くみたいな声で言うてた。
 アキちゃんそれに、そうやなあって言うたもんか、そうでもないでと嘘ついたもんか、決めかねてるような、煮え切らん顔をした。
「ほんまやで。魂入ってない絵やわ。まるで苑先生が描いたみたいな……」
「うるさい蛇! そんな失礼なこと何回も言わんでええねん!!」
 俺がもう一遍言うてやると、瑞希ちゃん、顔真っ赤になって叫んでた。なんやねんそのリアクション。苑先生が聞いてたら泣くで。
「花とか苦手なんです! 綺麗系のもんて、俺は描かへんのです! 無理やってその人にも言うたのに、ええからええから、さっさと描いといてって、頭ごなしなんやもん!」
 怜司兄さんを指さして、あいつのせいですって、犬言うてた。指さしたらあかんのやで、失礼やないか。怜司兄さん、お前より目上の式《しき》やのに。
 その目上の式《しき》から命令されて、逆らわれへんかったんやな、瑞希ちゃん。そんな不思議不思議を体験しちゃったんやな。式神ワールドの悲しい掟を。お前まだまだ自分の霊力をうまいこと使いこなせてないのよ。
「なんで梅なんか描いちゃったのかな」
 傾いたまま、藤堂さんがさらに批判した。
 瑞希ちゃん、それにもビクッとしていた。なんかオッサンのこと、怖いみたい。
「えっ……なにか変ですか」
「だって今、夏やろう? 梅は春に咲く花やろう? それに……この中庭に梅って。変やろう?」
 変やろう、って言われても、ワンワンの目は泳いでいた。
 知らんの? 瑞希ちゃん。梅が春咲く花やってこと。
 それくらいは知ってんのやろけど、それを夏場のこの庭に描くのが変やってことが、ワンワンにはわからんらしかった。季節感のない犬や。センスがないというかやな。それでよう絵描きになろうとしたよ。お前、実は美大なんて興味なかったんとちゃうか。アキちゃん狙いだっただけなんやろ?
「な……夏に咲く花のほうがええな、瑞希」
 可哀想になったんか、アキちゃんが掠れ声で、犬にアドバイスしてやっていた。瑞希ちゃん、それに、ううっ、てなっちゃったみたい。
「すみません。俺そういうの、全然わからへんねん。花なんか、しげしげ見たことないもん」
 脚立の上で、ほんまに丸くなって、犬はくよくよしていた。
「そ、そうやな……お前そういうの興味ないねんもんな。建造物とか、人物とか動物とか、怪物とかしか描かへんのやもんな……」
 なんでかアキちゃんまで、犬といっしょにオタオタしていた。
 俺は呆れて、それを眺めた。
 そうなんか。この犬って。そういや、どんな絵を描く犬か、俺は知らんかったわ。CG科の犬やったんやで。それが日本画科のアキちゃんとコラボで祇園祭ムービー作ろうとしてたんやからさ。
「代わりに、俺が描こか?」
 アキちゃんが訊ねると、犬は丸くなったまま、うんうんと頷いていた。
「えっ。先生が描くんですか? それはいいけど、これ、どうやって何に描いてんの?」
 すっかりタメ口みたいになっている藤堂さんが、アキちゃんに訊ねていた。そやけどアキちゃんも、何に描いてんのかわからんらしくて、梅の木見上げて首をひねっていた。
「壁に描いてんのやで、支配人。もともとの壁はここらへんにあったやろ? それを俺の魔法でスペース拡げてあるんや。そやけど、壁だけちょっぴり呼び戻して、キャンバス代わりにしてみたんやけどな……」
 代わりに答えた怜司兄さんに、藤堂さんは向き直り、ふんふんて話聞いてたけど、最後には、ますます分からんていう渋面で、首を捻っていた。
「なんやねん、君は。人間やないの?」
「ええまあ、ちょっと」
 極めて真面目な調子でお返事してくれた怜司兄さんに、藤堂さんはまだギリギリ、ビジネスマンの顔で、ふんふん、て頷いたけど、そこでガックリ気力が萎えたらしかった。深く項垂れ、わからんというふうに、小さく首を振っていた。
「なんやねん、この会の人ら」
 ぼやくみたいに呟いている藤堂さんが、今までにない面白さで、俺は思わず笑っていた。変やの。自分も外道なってるくせしてな。
 その俺の笑う声を聞いて、藤堂さんはまた、微かにびっくりしたみたいに、俺のほうを見た。驚いてるというか、オッサン、すごく悲壮なような顔やった。
「お前が普通に笑ってる声、初めて聞いたわ」
 えっ。なに。悪魔のごときキレ笑いではなく、という意味?
 それが若干、可愛かったか? 支配人トキメいちゃった? ゴメンネ。でも亨ちゃん、アキちゃんのものだから。夫のある身やから。詳しい話はまた後でにしてくれる?
 そういやアキちゃん、俺が藤堂さんとなんやかんやあったと知った後、この時はじめて藤堂さんに会ったんやで。それやのに、アキちゃん全然、平気っぽいねん。変やろう?
 前と変わらん。全然、素やで。
 藤堂さんが素やのは、分かるねん。しらばっくれてるというか、黙ってりゃわからんと、オッサンは思うてんのやろ。アキちゃんにはバレてへんと、思うてたんやないか。秘密にしとけって、俺には言うてたんやしな。まさかすでにゲロった後やとは、思うてなかったのやないか。
「何描きましょうか、中西さん」
 脚立から、犬を降ろして、アキちゃんはすでに、油絵用のパレットを、受け取っていた。描く気満々みたいやった。
「何って、何でもいいんですか?」
「変なもん描いたらあかんで先生。花とかが無難やで、お前の場合」
 何かリクエストしようかなみたいな素振りやった藤堂さんより先に、怜司兄さんが注意していた。
「今このパーティー会場な、少し不思議時空やから。現実世界から、ちょいズレてる状態やしな。半分夢んなかみたいに思っといて。ありえへんことが、実現しやすいねん。術法が発動しやすいんやで」
 怜司兄さんに、とんでもないとこ連れてこられてる、俺ら。
 確かに、その通りみたいやった。
 けたけたと笑う鳥のような声がして、俺らが振り向くと、下半身が極彩色の鳥になっている女が、ひらりひらりと舞い飛んでいた。なんか仏教系の天人くさかった。乳、丸見えやった。まだパーティー始まってへんのに、盛り上がりすぎてへんか、姉ちゃん。
 しかしもう、このパーティーには型どおりの始まりはないようで、すでに客には酒が振る舞われていて、料理もそこかしこのテーブルに盛りつけられていた。取りたいモン取って食うビュッフェ・スタイルなんやけども、普通に美味そうなヴィラ北野料理に混じって、なんでかカエルの丸焼きみたいなのまで大皿にうずたかく盛られてる。
 なんやろ、あれ。なんや知らんけど、ああいうのが好きなお客様が、いてはるんやろなあ。藤堂さんはそれにも、トホホと思ってるようやったけど、もう、どうしようもない。妖怪泊めてもうたんやから、今さら文句言うても始まらん。
「術法が発動って、絵描いたらどないかなんの?」
 実は絵描きたかったんやろう。アキちゃんは怜司兄さんがせっかく言うてくれてんのに、聞いてんのかどうか、さっさと嬉しげに脚立に登り、パレットにあった緑色で、瑞希ちゃんの微妙にイケてない梅の木の枝のうえに、太めの筆でささっと、鴬《うぐいす》を素描した。
 そしたらその鳥は、アキちゃんが目を入れるやいなや、ホーホケキョと鳴いて、ぱたぱた飛んでいってもうた。
 藤堂さん、開いた口が塞がらんという顔で、ぱたぱた飛んでる春の鳥を見送っていたが、それからしばらくて、なにこれと、面白そうに俺の顔を見た。その表情が、なんか悪戯小僧みたいで、俺はまた、笑いそうになった。藤堂さんは、なんで最初から、こういう人やなかったんやろ。俺はそれが、ちょっと切ない。
 でも、いつも苦い顔やった気むずかし屋のおっさんが、今こんな顔をすんのは、俺のせいやない。アキちゃんの絵が、好きやったからやねん。
「先生の絵って、じっとしてられん性分なんですか?」
「はぁ……なんか、そうみたいで……」
 アキちゃん、脚立の上でパレット持って、困ったなあって顔をしていた。筆持ったままの手で、頭掻いてるアキちゃん見てると、ただの暢気な絵描きさんみたいやった。
「動かへんモンを描けばええんやで先生。それか、目に瞳を入れへんようにしろ。暁彦様はそうしてた。仕上げたらあかんねん」
「そんなん言うても、せっかく描いたら仕上げたいやんか……」
 ぶちぶち言うてるアキちゃん、また朧《おぼろ》様に甘え声やったで。てめえ! よくも俺様の見ている前で、またやりやがったな!
「アキちゃん、なんか光るモン描いたら? ここ、夜までずっと宴会なんやろ? 俺、ホタル見たいわ。今年、結局、ホタル狩り行かれへんかったやんか?」
 藤堂さんといい雰囲気になっている場合ではない。そうこうしてる間に本命のほうが他といちゃついている。そう思って俺は気を引き締め、アキちゃんのほうへ行った。
 脚立の下の方にとりついて、アキちゃんを見上げると、俺のツレは俺の提案が、気に入ったようやった。
「そういや今年、ホタル見てへんなぁ……」
 すでにもう、頭ん中で絵を描いている顔をして、アキちゃんはうっすら、ご機嫌そうやった。絵さえ描いてりゃお幸せやねん。アキちゃんはな。
 その顔をまた久々の感がありつつ眺めると、俺もなんでか、幸せやった。パレットの上で、絵の具こねこねしてるアキちゃん見てると、なんでか知らん、俺は幸せ。
「あのなあ、瑞希。悪いけど、この梅の絵、消してもええか?」
 パレットを見つめた上の空で、アキちゃん微妙にひどいことを、さらっと言うてた。犬はぐったり、梅の木の根本で座り、うじうじしていた。
「いいですよ。先輩との初の正式コラボかと思ったら、鴬《うぐいす》、一瞬で飛んでいったしね……サクッと消しといてください」
 なんやろ。瑞希ちゃんの周りだけキノコ生えそうに湿ってる。そして暗い。お前なに落ち込んでんの。アキちゃんとお絵かきしたかったんか。ほんなら苑先生アートやめなあかん。アキちゃん、下手絵には興味ないねん。そういう、冷たい鬼やねんからな。
「どうやって消すの?」
 てめえ、また甘え声で朧《おぼろ》様と話しとるやないか、俺のツレ!
 正直、ピクピク来たけど、俺はなんとか笑顔を保って、脚立の下にとりついていた。
「剥がせばええねん。一枚剥いでみ? こう、ぺらーっと、捲《めく》るんや」
 全く説明になってないことを、怜司兄さんは言うたけど、アキちゃんはそれで、試してみようと思ったらしい。眉間にしわ寄せて、筆を持ってるほうの右手で、何かの端っこを探しているような仕草で、空中をごそごそしていたかと思ったら、ふと何か、掴んだようやった。
 そしてそのまま、でかいポスターを剥ぐ要領で、アキちゃんは絵を、ぺらーっと剥いだ。それに、ぎょぎょーってなってるのは、藤堂さんだけやった。
「もっと、大きい筆か刷毛《はけ》ない?」
 剥いだ絵を、情け容赦なくクシャクシャポイしながら、アキちゃんは脚立の足もとにあった、細長い木の画材ケースを覗き込み、犬にそう訊いた。
 ありますよと言って、犬はアキちゃんに、絵筆を渡してやっていた。それと一緒に取らせたテレピン油を、パレットにある油壺にとぽとぽたっぷりと注いで、アキちゃんは、いかにも嬉しそうな爛々とした目で、暗い影色の絵の具を薄めに練っていた。
 そうしてアキちゃんが刷毛《はけ》と太筆で一気に描いたのは、影絵か水墨画みたいな、大きい樹影やった。萩《はぎ》やろか。普通より、薄めに溶いた伸びのいい油絵の具で、まるで日本画のような絵を描いていた。
 あっと言う間に描き上げられていく樹のシルエットは、川辺の木立やった。まだ真っ昼間やのに、まるでそこだけ夕闇が、迫ってきたみたいに見えた。
 ずらりと並んだ涼しげな木立に満足すると、アキちゃんは銀色の絵の具で、流水《りゅうすい》を描いた。日本画で、水の流れを表す、模式化された文様やで。伝統的な文様やけども、日本画の絵で、一番有名なのは、尾形光琳《おがたこうりん》の、「紅白梅図屏風」やろう。美術の教科書とか、日本史の教科書とかで、皆もいっぺんくらいは見たことあるんやないか?
 惚気て言うんやないけど、アキちゃんがこの時描いてた流水も、あれに負けずとも劣らず、イケてる絵やったわ。そう思うんは、やっぱり俺の惚気かな?
 とにかく涼しげ。そんな風景が見る間に描けて、アキちゃんは筆を細いのに持ち替えた。ホタル描くんやろう。
 今までの、大胆な筆遣いとは打って変わって、アキちゃんはちまちま描いた。虫やしな。小さいんやから。
 細く尖らせた筆先が、ちょこちょこ何かを描くと、それが仕上がったそばから、ぼうっと淡い、蛍火《ほたるび》を放った。緑かがった、ほのかな光や。
 でも、真昼の中庭で、そんな光が見えるわけはない。それは絵やった。ホタルが川辺で光り、ふわふわ飛び交っている。そういう絵なんやけど、その絵も生きてた。絵は絵として、描かれたその位相の中で、次々描き出されたホタルたちが、自由きままに飛び交いはじめていた。
「動いてる……」
 呆然と、へたり込んだみたいな姿のまま、瑞希ちゃんが絵を見上げていた。なんかもう、なんて言うてええやらと、うっとり来てるような、打ちのめされてるような、そんなぼんやりした声やった。
「先輩、俺に、お前の描く絵は動いててすごいなあて言うてたけど……先輩の絵のほうが、すごいやん」
 じっとり拗ねたように言う瑞希ちゃんは、恨みがましかった。アキちゃんはそれに苦笑の声で笑い、それでもまだ絵を描き続けていた。
「お前もまた描いたらええやん。三万年も描いてへんのやろ。それは筆も鈍るよ。三日休んだら三ヶ月っていうやん。芸事の勘が戻るまで」
「十倍? ほんなら俺、あと三十万年くらい、苑先生状態?」
 悲劇やな、それは。ていうか瑞希ちゃん、苑先生のこと、なんやと思うてたん?
「そんなにかからへんよ」
 励ます口調でアキちゃんは犬にそう言ってやり、それから脚立の上で、俺を探した。
「もっと描くか?」
 ホタルのことを、言ってんのやろう。
 樹影に紛れて、沢山のホタルが、飛び交っていた。綺麗やなあって、それを眺める人々の目が、アキちゃんの描いた絵と、それを描いているアキちゃんを、素晴らしいモンとして見つめているのが、俺には分かった。
 それはなにか、こそばゆいような嬉しさやった。
 アキちゃんが世の中の人らに、認めてもらえると、俺は嬉しい。俺だけのモンにしておきたいような気もするけども、こいつの描く絵は、そういうモンやない。皆で眺めて、すごいなあ、綺麗やなあって、喜んでもらうようなモンや。それで初めて、絵は本当に生きることができる。生きて動いているような絵でも、誰も見ないまま死蔵されたら、きっと死んでしまうやろ。
「もういいよ、アキちゃん。充分いっぱい飛んでる」
 俺は微笑んで、アキちゃんを見上げた。アキちゃんは、にこにこしていた。最初に東山のホテルのバーで、コースターに七面鳥の絵を描いてにこにこしていた時のアキちゃんと、同じ顔やった。その顔が、他の誰でもない、俺だけを見てることに、俺はこの時すごく、満足していた。
 アキちゃんはこの絵を、俺のために描いてくれたんやろう。俺が喜ぶと思って、描いてくれたんやろう。そしてそれを見て喜んでいる俺を眺め、アキちゃんは嬉しなって、にこにこしてんのやろう。
 それは、俺の好きなアキちゃんで、俺はこの男と、ずいぶん久しぶりに会うたような気がした。
「やっぱり暁彦様とは画風がぜんぜん違うなあ」
 感心したふうに、朧《おぼろ》はそう言い、それはたぶん、水煙に話しかけてるんやった。だって、アキちゃんのおとんの絵を見たことがあるのって、水煙ぐらいやないか?
「そうやろか。俺には全然わからん」
 ほんまに分からんらしい水煙様が、きっぱりとそう断言していた。
 あのなあ兄さん。ここは、そうやなあて言うてやるとこやん。アキちゃん気にしてんのやしさ。意識してんのやから、絵師としてのおとんのことも!
「お前、ほんっまに絵のことはサッパリ分からんのやな。話には聞いてたけど」
「サッパリ分からん。正直いって、さっきの犬の絵のどこがあかんのかも、よう分からん。上手なような気がしたんやけど。この絵とどう違うんや?」
 車椅子の端っこに偏って座り、水煙は足組んで、肘掛けにぐんにゃり凭れていた。どうも疲れたらしい。水煙には、人型を保ってることも、まだまだけっこう大変やったらしいんや。なんや退屈やし、剣に戻りたいなあって、そんな素振りやった。
「あっかんやろ、ほんまに。犬の絵は全然イケてなかったやろ。玉無し男みたいやったやろ。それとこれが同じに見えんのかお前は」
 めちゃくちゃ言うてる怜司兄さんの話に、ワンワン泣いてた。燃え尽きたジョーみたいになってた。しゃあないな。玉無し言われたらしゃあないわ。燃え尽きるわあ。
「わからへん」
 水煙は困ったように顔をしかめていたけど、堂々わからへん宣言やった。アキちゃんも脚立の上て苦笑して、正直微妙そうやった。
「芸術オンチやな!」
 怜司兄さんに断言されて、水煙は横目に目をそらしていたが、反論はせえへんかった。自分でもそう思うらしいわ。
 まあ、ええやん。神にも何かひとつくらい、欠点があるほうが可愛いよ。そんなんせんでも、時々危険なまでにお前は可愛いねんから、そんなんせんといてほしいねんけどな。
「そんなんやから、暁彦様が絵描きになりたい言うてんのを、あかんて言えたんやな。勿体ないことしたで。絶対、名のある絵師になれたのに」
「そうやろか……」
 ぷんぷん言うてる朧《おぼろ》様から、水煙はますます、肘掛けにぐにゃっとして、逃げていた。そう言われると、気が咎めるらしかった。
「そうやろか、って……そうや! お前だけが分かってへんかったんや!」
 怜司兄さん、若干マジギレやった。車椅子の人相手に、むっちゃ怒鳴ってた。髪の毛ちょっぴり、ぐちゃぐちゃなってた。兄さん兄さん、落ち着いて。御髪《おぐし》が乱れてますよ。必死なってますよ。お見苦しいですよ。
「まあまあ怜司。そんな昔の話、今してもしゃあないやろ……」
 まあまあて、いかにも、どうどう、みたいな宥める口調で、信太が割って入っていた。
「なにが、まあまあや。なんでまだ居るねん信太! さっさと鳥んとこ行け! ウザい! お前がいると俺はウザいんや!」
 めっちゃ信太にめくじら立ててる朧様は、どう見ても八つ当たりやった。それでも信太は、困ったなあていう顔のまま、にこにこしていた。慣れてんのか、この程度。
「今、俺にひどいこと言うとうでお前。自覚あるか」
「あるある自覚ある。それでもウザいんやお前が! あっちいっといてくれ!」
 ギャーッて言うてる、そのお姿を見ていると、怜司兄さんちょっと、虎に甘えすぎちゃうかと、そういう気がした。俺が面倒見てやった虎やみたいな話しとったくせに、兄さんめっちゃ、虎のお世話になってるやんか。
 傍目に見て、精神的にはガッツンガッツン足蹴にされてるっぽかったけど、信太はまだまだ平気そうやった。
「あの人そう言うとうけど、俺もう消えてもいいです? 本間先生。寛太も待っとうやろし」
 アキちゃんを見上げて、律儀に聞いてる信太に、アキちゃんはぎょっとしていた。
「えっ。お前、俺がもう行ってええでって言うのを、待ってたんか?」
「そうやで先生。だって先生の式《しき》やもん。忘れんといてくださいよ」
 トホホみたいに、信太は言うてた。アキちゃんもそれに、トホホってなってた。
「すまん。そんなん気にしてもろてると思てなかったんや」
「先生んとこの式《しき》、なってない奴ばっかりなんやで。もっと締めてかからなあかんと思いますけどね」
 苦笑している信太を見ていて、俺ははっとした。アキちゃんも、はっとしていた。信太はそれに、えっ、何? という顔をした。
 その時、俺とアキちゃんが信太の背後に見ていたものは。めちゃめちゃ全速力で、情け容赦なく走ってきてる、赤い鳥さんやった。
 寛太はめちゃくちゃ足が速かった。その気配に信太が気がついて、振り向こうとしたのと、鳥が信太に飛びついたのが、ほとんど同時やった。信太は敢えて避けへんかったんやろうけど、普通の人間やったら、そのまま吹っ飛ばされそうな、ものすごいタックルやった。
 がしいっ、と信太の背中に、鳥さんは抱きついていた。まるで何百年も会うてなかったみたいな、熱い再会やった。
「どこ行ってたんや兄貴。探したんやで!」
「痛いい。手加減してくれ寛太。お前ももう大きいなったんやから」
 ほんまに痛いみたいに、信太はひいひい言うていた。鳥さんの力が怪力なってきているらしい。それでも寛太は全く気にせず、嬉しさ一杯で、信太をぎゅうぎゅう締めていた。
「あかんあかん。ここではあかん。本間先生ご不快やから」
 抱き留めてやりたいけど、そういうわけにはいかんという態度で、信太は鳥をたしなめていた。自分から離れろというふうに。
 それを聞いて、寛太がアキちゃんを、じろりと睨んだ。怖い目やった。目からビーム出そう。鳥さんビィーム。それはどう見ても、アキちゃんを恨んでる熱視線やった。
「なんで? なんであかんの? 別にええやん。本間先生、関係ないやろ?」
 反抗的に、ますます強く虎に抱きついている寛太の指は、白く関節が浮くくらいやった。ほんまに、我が物としてせしめるように、寛太は虎を抱いていた。それがちょっと、傍目に見てても痛そうやった。お前ちょっと、変やない? 必死すぎへんか。
 俺も必死なときって、こんなもん? こんなふうに、見えてんのか?
「関係ないことないよ。今は俺のご主人様やで。言うこときかなあかんのや」
 諭す口調で鳥に教えて、信太は自分に縋り付いているような寛太の手を、よいしょと剥がしていた。それに寛太は、ものすご哀れな顔をした。
「嫌や、なんで? 兄貴は蔦子さんの虎やろ。本間先生、関係ないやろ」
「聞いてへんのか、寛太。こいつは鯰《なまず》の生け贄に選ばれて、その時まで本間先生の式《しき》になったんや」
 また信太に縋り付きたいみたいな鳥さんに、苦々しい声で、朧《おぼろ》が教えてやっていた。その暗い目は、信太を咎める視線をしていた。お前、言うてへんかったんやなという、そういう非難や。
 鳥はほんまに聞いてなかったらしい。それとも聞いたけど、分かってへんかったんか。
「なに? 生け贄って……。それ、どういう意味なん? 死ぬってこと? 兄貴が、死ぬってことか?」
 なんや、それくらい分かるんや。やっぱり分かるよな、普通。いくらアホや言うても、鳥さんもほんまもんの餓鬼やないもんな。生け贄がなにかくらい、知ってるよな……。
 それで相手が青い顔してんのに、信太はそれで誤魔化せるみたいな、作り笑いやった。
「後で話そか、寛太。ここで騒ぐと無粋やからな。後で、二人で話そうか」
 笑って諭され、寛太は淡く喘いでいた。薄く開いたままの唇が、そんなアホなと言いたそうな、そんな唖然の表情やった。
 それでも、そのまま、寛太は兄貴の言うことを聞こうとしたようやった。大人しく。いつもみたいに。
 でも、この時ばかりは無理やったらしい。
 それは普通や。当たり前やと思うけど、信太はぎょっとしていた。鳥が逆らったことにやない。寛太が言うた事に、びっくりしたんや。
「怜司が死ねばええんや」
 暗い声して、寛太はそう呟いた。それには信太の、顔色が変わった。いつもニヤニヤしてるような、ニヤケた虎やのに、ふっと真顔になって、虎のような強い目で、項垂れている寛太を見下ろしていた。
「怜司が死んで。別にええやろ。そうしてくれ、お願いやから」
 本気で言うてるらしい寛太に、怜司兄さんは少し意外そうな目はしたが、そうやなあというふうに、小さく頷いていた。
「そうしよかって、お前の兄貴には言うたんやで。でも、嫌やて言うんや、しゃあないよ」
「嫌やっ。しゃあなくないよ。もっと話して。ちゃんと相談してよ。別にええんやろ。怜司はいつ死んでも、別に平気なんやろ。いつもそう言うとうやんか。ほんなら死ねばええやん。今死んで。俺、嫌やねん。兄貴が死んだら嫌なんやっ」
 寛太は矛先を変えて、朧《おぼろ》に縋り付くつもりみたいやった。そっちへ手を伸ばそうとする寛太の服を掴んで、信太がそれを引き戻していた。
「落ち着け寛太。そんなこと怜司に言うたらあかんで。こいつ本気にとるからな?」
「俺は本気で言うてんのやで、兄貴」
 縋り付く目で見つめ合った虎に、寛太は睨まれたようやった。それがどんな顔やったのかは、俺は知らん。見えへんかった。いつも通りの、派手な背中しか。
 でも、それと見合っている寛太が、ものすご怯えた顔をした。ものすごく、悲しそうな。
「なんであかんの……なんで?」
「後で話そう。な?」
 それに頷けという口調の虎に、寛太は今にも泣きそうな顔で、哀れっぽく頷いていた。押し黙る寛太に、朧《おぼろ》は渋いもんでも食うたような顔やった。
「後なんかないで、寛太。言いたいことあったら、ちゃんと今言うとけ」
 そっちの言うことも聞くべきか、寛太は困ったようやった。
 今まで周りの奴らの言うことを、ハイハイて聞いてきたんやろ。アホやしな、何がなにやらわからへん。にこにこして、ハイハイ言うて、言うなりや。それで可愛いなあ寛太は、アホな鳥さんやなあって、愛されて、それで食いつないできた。こいつはそういうキャラや。
 でもそれが、ほんまにこいつの本性やろか。それが全てか、アホの鳥さんは。
 そうやない。俺にはそうは、思えへん。
 寛太は暗い伏し目で、疲れたみたいに、ぼそっと言うた。怜司兄さんにかな。いや、もしかすると、信太にかもしれへん。
「兄貴は怜司のことが好きなんやで。俺のことなんか、ほんまはどうでもええんや」
「そんなことないよ。どうでもええわけないやろ。何を言うとうのや、お前は」
 困ったなあ、って、信太はゴネてる子供を宥めるみたいに、寛太の肩を抱いてやってた。それで鳥が幸せそうになったかというと、全然、そうやない。暗い顔やった。まるで火が、消えたみたいに。
「先生、寛太ちょっぴりテンパってもうてるから、あっち連れていっときます。後で戻りますから」
「戻らんでええよ」
 アキちゃんはさすがに、気を遣ったらしい。力無い小声でそう言うた。アキちゃんも気を遣えるんやで。びっくりしたやろ。
 そんな快挙やのに、信太は苦笑いして、あっさりその好意をフイにしていた。
「ダメなんですよ、先生。今夜は式《しき》は、主《あるじ》と行動をともにする建前です。先生は祭主なんやし、ルールブック通りにやらんとね。それに精進潔斎やろ。それは式《しき》も同じです。せやし寛太……今夜は蔦子さんとこ戻ってな、寂しいんやったら、啓ちゃんに相手してもらえ」
 その話には、寛太もさすがに口ぱくぱくしていたよ。俺もなんや、目ぇショボショボしてきた。そんなん言うてええの、信太。それはどうやろ。ちょっとどうやろ。鳥さんちょっと、可哀想やない? アキちゃんかてそこまで、鬼やないで。鬼やない。……と思う。鬼やないと、いいな。違うよね? えーと……違う、よね?
「い……い、嫌や。兄貴、俺、そんなんしたくない。嫌や」
 嫌でも寛太は、哀れっぽく頼み込むだけやった。嫌やて駄々こねてみたら、虎が折れてくれはしないかと、淡い期待をかけてるみたいで、その我が儘言うてみんのが、精一杯らしいわ。どんだけ立場弱いんや、お前は。そんなんやから、虎にええようにされんのや。せめて叫べ。嫌やって、叫んでもええで。誰でもそれくらいはする。怒鳴れ鳥さん!
 そんな有様を、俺はあんぐり眺めていたが、寛太がもじもじするうちに、また新たなる乱入者が現れて、さらに俺をあんぐりとさせた。
 ロビーの、エントランスのあるほうから、誰かがつかつかと、一直線に歩いてきてた。真っ白い服着てる奴やった。どっかで見たことある。あるに決まっている。だってそれは、遥ちゃんやったから。
 ただの遥ちゃんやったら、驚かへんで。だって遥ちゃん、ここに住んでんのやもん。藤堂さんの嫁なんやしさ。それにヴァチカンのパシリで、鯰退治に来てる、悪魔祓い《エクソシスト》の神父やないか。元・神父やけどな。だってもう破門されてるはず。
 そやのになんで、遥ちゃん、むっちゃ神父みたいな服着てんのやろ。神父みたいっていうか。ケープつきの純白のコートの、膝上までの裾《すそ》から見える脚には、やっぱり白いブーツを履いてた。でも、そのブーツ、膝上丈《ニーレングス》やで。しかも胸にさげてる十字架、黄金ですよ。サファイアと真珠ついてますよ。ほんで金髪ですよ。そして百合の浮き彫りのある、金無垢のクロス・ボウを、背負っておられましたよ。
 なんのコスプレやねん遥ちゃん! しっかりして!!
 頭おかしなったんか、神楽遥。藤堂さんにレイプされて、とうとうキレたんか。それとも外道と交わってもうて、すでに化け物みたいになってきてんのか。大丈夫か遥ちゃん!!
 もちろん大丈夫やった。その服は、ヴァチカンが遥ちゃんに送ってよこした、祭壇で聖別された糸で織ったという、特別誂えの聖衣やった。ヴァチカンのデザイナーの人が、遥ちゃんのためにわざわざデザインしたという、遥ちゃんルックやで。お前ちょっと、ヴァチカンの人らに弄ばれてない? だってどう見ても萌え萌えみたいなんやで。しょうもないとこに金かけてるで、ヴァチカン。だって全身シルクやったんやもん。それに金糸で刺繍してある。奇しくも薔薇の裾模様やで!
 その格好で、ずかずか歩いてくる嫁を、藤堂さんはぽかんとして見ていた。そら、ぽかんとするわな。だってそんな恥ずかしい格好して、てめえのツレが歩いてきたらな。しかも、ほら。なんていうか。鬼みたいな形相で。
 遥ちゃん、めっちゃ怒ってたで。控え目に言うても、激怒やったで。
 俺ちょっと逃げようかと思うたもん。だって十字架さげてる人が激怒して歩いてきたら、外道は引くよ。特にヨーロッパで苦労したことある、邪悪系はさ。怜司兄さんも引いてたもん。いけない、やられる、みたいな感じするんやもん。
 しかし、そういう感じを最も濃厚に感じてたのは、俺やラジオではなく、藤堂さんやったみたい。
 なんで。なんで、やられるの。なんで身構えてんの、藤堂さん。ものすご身構えてたで。
 遥ちゃんは、そんなツレを睨みつけ、一直線にやってきた。
 どう見てもお取り込み中の、信太寛太にも全く気がつかず、それを押しのけ、俺のことも、なんか、意図的ですかこれはみたいな、ものすご乱暴な手で、あっちいけって押しのけてきやがった。
 何をすんねん、この神父。乱暴やなあって、俺が文句のある目で見返した時。その時やった。俺は思わず叫んだね。
 ひいいいいいいいいいっっっっ、て。
 だって遥ちゃん、殴ったで! 藤堂さんを! 俺の藤堂さんを!! 殴った神父が俺の藤堂さんを殴ったんだよう!!!
 ボカーッ、て、ちょっと信じられへんほどの早い右フックで、遥ちゃんは問答無用やった。藤堂さん、一応避けたの? 避けてへんように見えたけど、避ける間もなかったの?
 思いっきりのパンチで殴られて、藤堂さん、さすがに倒れたで。黒スーツやのに! ホテルの中庭やのに! 一応仕事中やのに! みんな見てるのに! そやのに遥ちゃん、藤堂さんを殴ったんやで! 信じられへんんんっ、どうしよう俺、頭変になりそうっ。
 亨ちゃん、思わず助けに行っちゃったよ。アキちゃん見てんのに、フラッと地面に膝ついたスーツのおっちゃん、助け起こしにいっちゃった。
 でも俺のツレ、あんまし気にしてへんかったと思う。だってアキちゃんも、なんでか青い顔で、いろんな夢が壊れたみたいに、あんぐり見てただけやったから。びっくりしすぎて、頭真っ白みたいやったから。
「痛った……なにをするんや、お前はいきなり……」
 殴られた顎を押さえて、藤堂さんは小声やった。たぶん、普通には声出えへんかったんやで。ただの人間やったら、絶対に骨折れてる。ダウンしてる。それくらいの猛烈パンチやった。遥ちゃんお前、普通の人間やないんやないか。もう、怪力入ってきてませんか?
 青ざめて見返した俺を、遥ちゃんは青い目で、じろりと睨んだ。怖い目やった。
 それであわあわしてもうて、俺はまた、藤堂さんを見た。
「だ、大丈夫か?」
「平気平気……慣れてるから」
 思わず介抱しよかみたいな俺を、藤堂さんは手を挙げて、拒んでいた。それで俺は仕方なく、おっさんの傍に膝ついて、オロオロしてるだけやった。
 慣れてるって何!? 俺、いっつも遥ちゃんに殴られてんのかと思っちゃった。
 でも、この時のは、そういう意味やない。藤堂さん、若い頃、ラグビーやってたらしいねん。それで、どさくさ紛れの顔パンチくらい、慣れてるという事やったらしいけど、もっと詳しく言うてくれへんかったら分からんわ。マジでビビったで!
「な、なんで殴んの……?」
 俺は恐る恐る、遥ちゃんに訊きましたよ。ほんでまた、ぎろりと睨まれた。ハイすいません。ハイすいません。邪悪な蛇です。申し訳ありません。黙っときます! でしゃばってすみませんでした!!
「なんで、殴られたか、分かってますよね」
 遥ちゃん、むっちゃ分かりやすく、一音節ずつはっきりくっきり言うてはりました。藤堂さんはそれに、うんうんて、頷いていた。それも痛いみたいやったけど、特に文句も言わず、やれやれみたいに立ち上がっていた。助けようかとしたけども、俺の手は借りへんらしかった。平気やでって、苦笑いして、腕支えてやろうとした俺の手を、また拒んでた。
「メール見ましたよ。なんやねんあれ。なにが亨と浮気してしまいましたやねん。そんなんいちいちメールで報告するな!! こっちは仕事中やのに、頭おかしなってくるやろ!!!」
 遥ちゃん絶叫してた。いやあ。できるんやなあ、遥ちゃんかて叫べんのや。
「だって隠し事はしないって約束したやろ?」
「ふざけんな浮気もするな!!」
 おっしゃる通りやった。
 俺も怒られんのやと思って、とっさに震え上がって突っ立ってもうてたんやけど、いきなり遥ちゃんにビシイて指さされてもうて、また、ひいっ、てなってた。
「これが! 誘惑する悪魔《サタン》やいうのは、知ってましたよね? こいつのせいやない。卓《すぐる》さん。それに機会を与えたあなたが悪いんや。ていうか拒め!」
 遥ちゃん、俺をビシビシ指さして、これ呼ばわりやった。それでも俺は不満はなかった。殴らんといてくれるんやったら別にいいです。なんとでも呼んでくれていいです。胸に杭打ったりせんといてください。十字架でジューッとかも、やめといてください! もうしません、もうしません、イイ子になりますから!!
「うん。拒もうかなあ……とは思ったんやけどな。でもたぶん、これ拒んだら、この先そういう機会はないなぁ……と思ってな。それで悩んでん」
 藤堂さん、あのな。今ここでする話か、それは。まあ確かに、今の遥ちゃん、キレてるけどな。まあまあ言うて、わかってくれる感じが全くせえへんけども、や。
 信太ですら、後にしよかて言うてたんやで。そやのになんで、このホテルの支配人のあんたが、こんな昼日中、仕事場のど真ん中で、お客様も大勢ご覧になっているというのに、こんなところで鋭意痴話喧嘩やねん。やめとけ。やめてえ! 俺の中の藤堂支配人のイメージが、粉々に壊れていくう。
「悩んでなんで、その結論なんですか!」
 異端審問の宗教裁判官みたいな、容赦なく追いつめる口調で、遥ちゃんはビシッと言うてた。藤堂さんそれが、怖いわぁっていうリアクションやった。嫁やから怖いんやないで。神父やから怖いねん。だってこいつも、血を吸う外道なんやもん。それにキリスト教徒なんやしな。それが外道なってんのやから。悪魔祓い《エクソシスト》の神父が怖いんや。
 ようこんな怖い嫁もろたな、あんた。とんだ恐妻家やで。マゾとしか思えん。
「いや……なんというか……ここでするような話かな? これは?」
 外道なってても藤堂さんには一応、常識感覚は残っていた。
「逃げてへんと今すぐ言え!」
 まだ外道なってないのに、キレてる遥ちゃんには、常識感覚が残ってなかった。猛烈キレてた。髪の毛の先から爪先まで、完璧キレまくっていた。どんだけ腹立ってんのや。そら腹立つやろけど。てめえの男が、前に飼うてたイイ子とやったてメールしてきたら、そらキレるやろけど。なんでメールしたんや藤堂さん。アホすぎる。秘密にしといたらええやん。それくらい。黙ってりゃバレへんやろ。
「ええ……言わなあかんのか。毒食わば皿までか。どうせもう、相当に無様なんやしな」
 痛いけど、笑えてきたんやろ。藤堂さんは、殴られた顎が痛いわあという顔で、苦笑していた。
「こいつに未練があったんや」
 こいつって俺ですか。藤堂さんは俺を視線で示して、その話をした。
 遥ちゃん、ワナワナ来てた。その目で睨まれて、俺は正直、走って逃げたい。
「あったでしょうね、そりゃあ。それは知ってましたよ」
 ここに来ても今さら、なんとか平静を保たなあかんと、遥ちゃんは自分に言い聞かせているっぽかった。あたかも冷静みたいな応答やった。でも顔見たら、それと真逆のシチュエーションやいうことは一目瞭然やった。目が怖すぎる。
 そのめっちゃ怖い顔は、綺麗やった。もともと美貌の奴やけど、それになんや、鬼気迫るような壮絶な迫力があった。背景に教会のゴシック建築見えた。どう見ても悪魔狩りやった。今にも心臓に杭《くい》を突っ込んできそうやった。
「それで……言うたっけ。俺はいっぺんも、こいつと寝たことなかったんや。したことないと、ずっとそれが未練やろ。食うたことない美味そうなもんが、実際よりずっと美味いような気がすることって、あるやろ」
 あるなあ。あるある。はじめ人間ギャートルズのマンモスの肉とか、アルプスの少女ハイジのチーズトーストとかな。食うたら大して美味ないんやろけど、食えへんだけに、めっちゃ美味そうに思えて、食うてみたいんやんな。いっぺん考えはじめたら、どうにも我慢できんぐらい、ものすご食いたいんやな。わかるよ俺もそういうことある。
 って、藤堂さん、なんの話?
「だから、いっぺん試しに食ってみようかと思って。これがお前より、美味いんかどうか」
 藤堂さん、案外けろっと言うてたで。死んでもええんや。悪魔祓い《エクソシスト》に殺されても。ふぁっさー、なってもええんや! そうとしか思えへん。殺してくださいみたいな話としか!
 遥ちゃん一瞬、殺すって目したで。殺意があったで。絶対あれは本気やったで!
 けど、またほんの一瞬の、深い激しい葛藤を目に過ぎらせてから、遥ちゃんは心持ち項垂れて、目を逸らしていた。
「ああそうですか。それで、美味かったんですか。僕より」
「いいや」
 えっ!?
 えっ。ちょっと待って。えっ?
 藤堂さん、今なんて言うた? いいや? ……って?
 それ、嘘やんね。遥ちゃん怖いし、今この場を収めるための、テキトー発言やんね? そんなはずないよね? 俺って藤堂さんの運命の恋人やろ? めっちゃ悦《よ》かったよね? 今でも忘れられへんのよね? 病みつきやんね?
 って……あれ? 違うの? って、俺、お口あ〜んぐりみたいなって、どうも本気で言うてるらしい藤堂さんの横顔を見た。
 ええ男やった。相変わらず。そしてこいつ、嘘はつかへん男やったわ。もう嘘は、つきたくないんやって。前の結婚のオチでは、嫁に隠れて俺と浮気しとったんやんか。そんな騙しが、心苦しい。男らしいと思えへん。せやし、もう嘘や騙しはやりません。全部正直に言うから。相手、神父やから。神父に嘘はつかれへんから。そんなんしたら罰当たるから。懺悔して悔い改めるから。迷える子羊なんやから。よろしくお願いしますという事なんやって。
 だけど遥ちゃん、困るよね。そんなんされても困るよなあ。やってもうたら隠すのが親切やない? 全部言うたら、あかんのやない? ていうか、嫁に懺悔せなあかんような事、しないほうがよくない? って、その浮気の相手って俺か。あれれ。
「いいや、って……それはどういう意味ですか」
「お前のほうが美味いということが分かった」
 調査研究の上の結論っぽかった。藤堂さんは、むっちゃ真面目にそう言うてた。顔だけ見てたら、とてもそんなアホみたいな話してるとは思えへんかった。
「嘘や。そんなん、口から出任せや。しょうもない嘘つかんといてください。僕もそこまでアホやないんやで」
 そうやで遥ちゃん賢いんやで。大学、二回も卒業してるんやで。お医者さんなんやで。アホみたいでもアホやないんや。ガイジンみたいやけど、薔薇って漢字で書けるんや。算盤《そろばん》かて習うてたんやで。珠算二級や。そこまででイタリア帰ってもうたんや。もっと日本に居れたら一級とれてた。アホやない。秀才君なんやで!
「いや……なんというか。ほんまやねん。俺も正直、意外やったんやけどな。期待値が高すぎたというか。それに俺はちょっと、背徳感に燃える質《たち》のようでな。前は自分がキリスト教徒で、こっちが悪魔《サタン》やろ、それがあったけど、今は自分も堕とされた後や。神父のほうが美味い」
 あわあわあわ。
 その身も蓋もない自己分析に、亨ちゃん、むっちゃあわあわしちゃった。
 えっ。そうなの。そういうメカニズムになってんのか、藤堂さん。実はほんまに、ちょっとマゾ? やったらあかん俺と、やりたいやりたいで辛いのが、実は悦《よ》かったの? やってもうたら終わりやったの? あれで終了? おしまい? The ENDなの? いっとくの遥ちゃん。遥ちゃんラブラブなの? 嫁がええんか、こんな鬼嫁でも!? 鬼やでこいつ、従業員さんも見てる真ん前で、お前のことドツキ倒したんやで。それでもええの!? そんなんひどいわっ。俺が東山で、ほんまはお前といちゃつきたいのに、ホテルの人ら見てるしあかんて、どんだけ我慢してたと思うとんのや。泣きたい!! 亨ちゃん惨めやわ。惨めすぎて鼻水出てきそうです!
「そんなことってあるんですか」
 遥ちゃん、フラフラなっちゃったみたいな青い顔になっていた。
 でももう、怒ってへん。こいつ怒ってへんで。藤堂さんのアホみたいな話で、説得されつつあるよ。アホちゃう? 遥ちゃん。お前、騙されてるよ。このオッサンに騙されてる。
 浮気したけど、お前のほうが悦《よ》かった。せやし許せって、そんな暴論があるか。そんなんあきません! もっと怒れ。死ぬほど殴ってやれ。ボッコボコにしてやれ。どうせ死なへんのや。このオッサンももう不死人《アンデッド》なってる! 二、三回、死ぬ目に遭わせてやれ!! そうでないと俺が可哀想すぎるうっ!!
「人生の不思議やな」
 しみじみと、藤堂さんは言うていた。年齢相応の含蓄があった。
「それなら僕、出て行かなくてもいいんですか」
 突然、気弱そうになって、遥ちゃんは訊いた。なんか可愛いっぽかった。ちょっぴり泣きそうみたいやった。
「捨てられんのやったら、その前に一発ぐらい殴ってやろうと思って……」
 まるでそれを後悔してるみたいに、遥ちゃん、両手で目元を覆っていた。反省のポーズかそれは。何でお前が反省する必要あんのや。殴られて当然や、こんなオッサン。もっと殴ったれ言うてるやろ! 聞こえへんのか、俺のこの、喉から血の出るようなモノローグが!
「ごめんなさい。卓さん。痛かったですよね」
 えっ。もう終わり? 遥ちゃん?
 許してあげちゃうの? 卓さん、死ぬほど殴ってやらへんのか?
 遥ちゃん、もじもじ俯いていた。許して貰われへんかったら、どないしよみたいな。夫婦ゲンカ終了後の、初々しい新婚さんみたいやった。ぽっかーん……。
「平気平気。自業自得やし。天罰やと思うとく。それにしても、いいパンチやったな。怖いわあ。嫁が男やと。夫婦喧嘩もグーで来るんやもん」
 苦笑して言い、藤堂さんはもう治り始めている、うす青く痣になった自分の顎《あご》を撫でつつ、もう片方の指輪をしている手で、遥ちゃんの手を取りに来た。
「手、大丈夫か、遥。下手に殴ると、指が折れるで?」
 殴った右手がなんともないか、藤堂さんは遥ちゃんの白い指をなでなでしてやって、確かめていた。まるで芸術品でも扱うような、大事そうな手つきやったわ。
 す……好きなん? その神父。まさか、す、好きなのか、藤堂さん。愛しちゃってるの? えっ、そんな。
 まるでほんまに、愛してるみたいな空気やった。今にも赤い薔薇出てきそうやった。お手々にぎにぎが、あともうちょっと長ければヤバかった。
 でも藤堂さんは、触ってみた嫁の手がなんともないのに満足したらしく、すぐにお手々を遥ちゃんに返してやっていた。嫁はもうちょっと、握っててほしそうな顔をしたけど、この場でずっといちゃついとく訳にはいかんと、渋々納得したようやった。
「すみません、お騒がせで。でも、バレちゃったね」
 まだ脚立の上であぜんとしたままやった俺のツレを見上げて、藤堂さんはいけしゃあしゃあと言うていた。
「先生も、殴りたかったら降りてきて、殴っていいですよ。お騒がせついでに」
 藤堂さんにそう言われ、アキちゃんは、なんでかそれが、とんでもない事やというふうに、ぶんぶん首振って拒んでいた。なんやねん、前は水煙でたたっ斬ろうとしたくせに!
「あ、そうか。殴って指折れたらえらいことやね。こんな絵描ける天才が、人殴って指折れたら、途方もない損失や。物で殴ってもいいですよ?」
 オッサン本気みたいやった。アキちゃんが自分をドツキたいやろうと思ってるようやった。でも、アキちゃんそんなん思うてへんで。なんでか知らん、うちのツレ、藤堂さんが好きらしいねん。一体どんな魔法が発動してんのか、アキちゃんは藤堂さんのこと尊敬してるらしい。藤堂卓マジックや。
 とにかく殴って腹いせしなさいみたいな雰囲気を、アキちゃんはぶんぶん首振って拒んでいた。すぐには言葉出てけえへんらしかった。
「い……いいです。知ってましたから。なんかもう、それは……いいです。元はといえば俺が悪いんです。浮気してもうて。それで、こいつがその腹いせに、そちらへ行ったんです。だから……その。ご迷惑おかけしました」
 脚立の上の男は、素直に謝っていた。何で謝んねん、アホちゃう!? アキちゃん!?
 藤堂さんはそれに、ちょっとぽかんとしていた。そら、するわな。どこの世界に自分の嫁を寝取られて、ご迷惑おかけしましたっていう奴がおるねん。そんなんうちのツレだけやで絶対。
「本間さんのせいやったんや」
 突然、恨みがましい声で遥ちゃんが言うので、アキちゃんぎょっとしていた。
「えっ……?」
 ちょっと電話遠いんですけどみたいな聞き返し方で、アキちゃん、神楽遥に訊いていた。
「なんで浮気なんかするんですか。したらあかんでしょ。汝、姦淫するなかれやで」
 ジトッとアキちゃんを見上げて、神楽遥はそう言うていた。神父みたいやった。説教する口調やった。
「……すみません」
 アキちゃん、しょんぼり謝っていた。何がすみませんやねん。そんなん遥ちゃんやのうて俺に言え!
「蛇がもう悪さしないように、しっかり見張っといてください。あなたが責任者なんやから。誓ったでしょう、ちゃんと。病める時も健やかなる時も、面倒みるって。この悪魔《サタン》をイイ子に変えんのが、あなたの仕事でしょう」
「そ……そう、かな?」
 アキちゃん自信ないみたいやった。めっちゃ、しどろもどろになっていた。
「ほんならちゃんと頑張ってください。浮気なんかしてる場合かですよ。今度やったら許さへんから。ぶん殴りますよ。グーで力一杯ですよ。僕これでも野球やってた頃には強肩で慣らしたピッチャーやったんやからね。今でも自信ありますよ」
 そうなんや、遥ちゃん。剛速球投げてたんや。人は見かけによらへんもんやなあ。
「お前、野球好きなのか?」
 意外そうに、藤堂さんが嫁に訊いてた。まだ知らんかったらしい。
 遥ちゃんは、それに気後れもせずに、頷いていた。こっちもまだ知らんのやな。藤堂さんが野球嫌いなこと。電撃結婚の新婚さんなんやもんな。そんな話する暇もなく、やりまくりか。チッ。
「好きです。子供のころは、高校野球で甲子園のマウンドに立つのが夢でした。でもイタリア帰ってもうたし。あっちは野球って、あんまり盛んやないんですけど。でも一応、ずっと趣味的には続けてましたよ」
 そうなん? 遥ちゃん、社会人野球ヴァチカンズのピッチャーやったの? 神父って、野球してええの? 知らんかった。そらまあ、神父も人間や。神に仕える下僕とはいえ、オフはある。そして、オフ日には趣味の野球にうち興じることもあるんやろな。
「最近してないですけど……」
 それがガッカリみたいに、遥ちゃんは言うていた。実は相当好きなんやないか。
「また、したらええやないか。高校野球は無理やけど」
 苦笑いしつつ、藤堂さんは嫁を励ましていた。
 そうやで。またしたらええんや。……って、えっ!? 嫌いなんちゃうの、藤堂さん。野球なんかアホのすることなんやろ。そういう態度やったやないか。それで俺、ビビって野球中継も観られへんかったし、そもそもテレビがなかったわ!
「……じゃあ、しようかな。この仕事終わったら、一緒に野球観にいってください。甲子園球場に」
 嫌やって言われるかなあって、少々ドギマギしている顔つきで、遥ちゃんはぼそぼそ頼んでいた。そら、嫌やって言うわ。藤堂さん、ああいうとこは行かへんねんから!
「僕ね、阪神ファンなんです。卓さん。今年の阪神、かなりいい線いっとうから、気になるんです。優勝するかもしれないんです。日本一なんですよ? こんなん、千載一遇のチャンスやで。たまたま日本に帰ってきた年に、虎が勝つなんて!」
 遥ちゃん、もじもじしながら小声で断言していた。虎が勝つって信じてるみたいやった。若干、虎信者みたいやった。ヤハウェどこいってん! 卓さん>阪神タイガース>ヤハウェかよ。この罰当たりが! ローマ教皇、聞いたら泣くわ!
 皆、どことなくぽかんとして、そんな遥ちゃんを見つめていたよ。
 虎や。虎キチなんや、こいつ。知らんかった! 虎キチの神父が居るなんて!!
「観たいんや、卓さん。生で。甲子園で観たいんです。僕のほうが美味いっていうんがほんまなんやったら、お詫びに連れていってください。まだ何もしてへんやん。クルーズも仕事で流れたし、そんな、記念になるようなこと、なんもしてもらってません」
 新婚野球観戦。そんな企画を、遥ちゃん、恥ずかしげもなく……というか、実は相当恥ずかしそうにやったけど、提案していた。でも、そんなん言うなんてアホとしか思えへん。愛は人をアホに変えるんや。かしこかった神父で医者の遥ちゃんを、ただのアホに変えてる。
 大好きな卓さんと、大好きな阪神タイガースが優勝するところを、憧れの甲子園球場で観たい。そんなステキな遥ちゃんの夢が、果たして叶えられるのでしょうか。
「……そら、ええけど。甲子園くらい……行くけど」
 嘘や、藤堂さん。行ったらあかん……。でも、オッサン、若干引きながらでも、嫁が可愛いんか、ええよって返事しとったで。
 ひどい。そんなん、行ってええなら俺も行きたかった。藤堂さん侍らして野球観戦。そんなんしてみたかった! 憎い遥ちゃん! 憎すぎる!!
「約束ですよ?」
 小声で言うてる遥ちゃんは、恥ずかしそうやけど、嘘ついたら針千本飲ますって顔やった。藤堂さんはそれを眺め、真面目な顔で、うんうんて頷いていた。
「ほな、許すから。もう僕に殴られるようなこと、しないでください」
「努力はします」
 可愛く言うてる遥ちゃんに、藤堂さんはビジネスマンみたいに答えていた。努力はするけど、保証はできへんみたいやった。それに遥ちゃん、ムッとしたけど、でももう、なんにも言わんかった。
 大崎茂に挨拶入れにいくと言って、神父はそそくさと退散した。
 恥ずかしかったんやろ。そら恥ずかしいわ。お前のくり広げたとんだ修羅場でな、鳥さん、ぽかーんてなってもうてるわ。兄貴ひどいわってゴネなあかんとこやったのに、すっかり頭真っ白なってもうてる。鳥頭なんやから。邪魔したらあかんかったのに!
「なにあれ、兄貴」
 信太の腕にがっちり自分の腕を絡めたまま、鳥さんは遥ちゃんについて質問していた。
「知らん。阪神ファンの神父やろ。ええ人や。後でちょっと話してみよか」
 信太は遥ちゃんの立ち去ったほうを、興味深げに眺めていた。虎キチやから好印象やったらしい。あんな暴力神父でもな。
「なんで? 顔、可愛いかったから? 好きなんか、兄貴。さっきの神父」
 ジトッと恨む声出して、寛太が訊いた。それを信太は意外そうに見下ろした。
「どないしたんや寛太。お前、今までそんなこと、言うたことないやんか。焼き餅焼いてんのか?」
 真面目に訊かれて、鳥さんは自分が取り付いていたはずの信太の腕を、振り払うようにして身を離した。後ろめたそうな顔やった。
「そうやで。あかん? 俺が兄貴に焼き餅焼いたら、おかしいんか。兄貴はもう、俺のもんなんやろ。俺以外のやつなんか、好きにならんといてくれ」
 苦しそうに言うて、寛太はくるりと身を翻した。そしてそのまま、来たときと同じくらいの全速力で、どっかに走ってってもうた。
 信太はそれを、ぽかんと見ていた。朧《おぼろ》もあんぐり、眺めていたよ。
「お前、寛太になに食わせたん? 変やで、あいつ。おかしなってない?」
 怜司兄さん、ビビッたみたいに若干引いて、そう信太に訊いていたけど、どこが変やねん。めちゃめちゃ普通やないか。俺はそう思うけどな。
「肉食わせたんがヤバかったんかな。ここんとこ変やねん。それとも単に、育ってきとうだけかもしれへん。本間先生のダダ漏れ飲んでやったやろ。あれからさらに変やねん」
 心配そうに、寛太が消えたほうを眺めて、信太は説明していた。
「あいつ、成長してんのやで、信太」
 朧《おぼろ》にそう言われ、信太は頷いていたが、それは喜ばしいことではないらしかった。信太はいつになく難しい顔をしていた。
「正念場やなあ……」
「蔦子さんとこ置いていくんか? もし、このままどんどん大きいなっていったら、啓ちゃんでは育てきれへんで。だってあいつ氷雪系やんか。寛太は火の鳥やねんで? しかもすでに、雛とは言え、そうとうデカいで。誰か炎系に強い親が要る。それか自力で餌をとるよう躾けるかやで?」
「餌ってなんやねん」
 頭痛いという顔で、むすっと応える信太は、その問いの答えを知ってるようやった。
「人食えばええやん。あいつ可愛いんやし、ちょっと誘えば、ころっと参る人間はいくらでも居るよ」
 狩りをすればええよと、怜司兄さんはあっさり言うてた。
 兄さん、手当たり次第誰とでも寝てるけど、それはどうも、狩人時代の名残なんやで。今でこそ、朧《おぼろ》様はラジオの精で、強大なマスメディアと結びついている。噂が実体を持って走る時代や、現代は。
 そやけど昔はそうでもないやろ。人の口から口へ、朧《おぼろ》に伝わる、はっきりせえへん存在やった。
 せやし兄さんも、我が身を保つために、人の精気を喰らっていた時代があったらしい。京の都の、四条河原で客引いて、それと一発やったあと、都や各地の噂話を教えてもらう。あるいは逆に、そいつの耳に、手持ちの噂を吹き込んでやる。そうしてその、ほんまか嘘か怪しいような話は、街道を伝って北へ南へ、千里を走ったわけや。人々の心を、惑乱しつつ、じょじょに尾鰭をつけて、成長しつつな。それが昔の情報網やな。
 そんなふうに、案外細々と生きていた怜司兄さんが、俄然、神みたいになってきたんは、電信電話や、新聞、ラジオ、そしてテレビやインターネットが、当たり前になっている、現代に近い時代になってきてからの話や。
 おとん大明神と馴れ初めの頃には、まだまだ兄さん食欲旺盛で、人を喰わんと腹が減る日もあったような、そんな具合やったらしいで。これは本人がそう言うてたもん。ほんまやで。
 せやし俺とご同類やんか。そんな奴が、人々の信仰を得て、霞《かすみ》食うて生きられるようになるって、そんなこともあるんやな。亨ちゃんももっと、頑張るべき?
 ええねん、それはもう。面倒くさいねん。アキちゃん食うので満足やねん。でかくなりたいとも思わへんねん。アキちゃんの胸に、すっぽり収まるサイズで結構。
 俺はそれで安定してんのや。せやけど寛太は育ち盛りで、見た目には人型サイズやけども、内実、その霊的なサイズは、どんどんでかくなっていっていた。
 これといった神威や特殊能力を、発揮するわけでもない、まだまだ雛鳥やのに、そこらへんの妖怪よりも、でかい規模になっていってる。まるでカッコウの雛や。
 託卵《たくらん》されて、関係ない別種の鳥の巣に居座って育つけど、やがて親よりでかいサイズになってくる。それでも育ての親にすりゃあ、可愛いうちのおチビちゃんや。必死で餌やる。自分の巣には、収まりきらんような、どでかい雛を、必死で育てる。そいつがいつか巣立って、さようならと去る日まで。
 寛太も、そうなれば御の字。親は大変やろうけど、雛は丸儲け。ごちそうさまと、タダ飯食ってトンズラや。
 せやけど寛太の場合、いつ巣立つんやら見当もつかへん。親が食わせてやられへんくらい育ったうえに、それでもまだまだ雛なんやったら、飢え死にするしかあらへんで。霊的な巨体を維持するだけの餌にありつけず、腹減って死んでまう。
 今や、そうなるのが目に見えていた。
 寛太が相変わらず意固地で、兄貴としかやりとうないとダダこねるんやったら、必ずそうなる。信太はもう、居らんようになるんやで。鯰様の生け贄や。その後、もうこの世にいない信太の兄貴に、操でも立てようもんなら、あっというまに餓死するんやで。
 だってあいつ、どんだけ腹減るねん。ただ好きでたまらんだけの話かもしれへんけど、見たとこ、日がな一日、愛しい兄貴とやりっぱなしみたいな、淫蕩な鳥やったやんか。
 腹減った言うて抱いてもらう。口寂しい言うて、おやつ欲しくてチューしてもらう。そうやって一日中、餌やっとかなあかん。そうせえへんかったら弱ってくるんや。
 一日二日、放っておかれたら、確実に飢えてくるやろ。
 その時、どないするかやな。
 おとなしく飢えて、やがて虚しく消滅か。
 ほかの餌を、自分の力で探すかや。
「人食うのが結局いちばん効率ええんやで。お前は嫌がるけど。なにも丸食いせえへんでもええやん。血か精気を吸って、数をこなせば、別に誰も死なん。いつでも吸わせてくれるような、信者をいっぱい作ればええやん」
「あいつがお前みたいになるのが嫌やねん」
 一応、後ろめたそうに目は逸らしたが、それでも信太はけろっと言うていた。朧《おぼろ》はそれに、ムカッという顔をした。
「俺は別に、精気を吸いたいから、いっぱい飼うてる訳やない。ただの趣味や!」
「もっとあかんやろ……」
 アサッテ方向から怒っている朧《おぼろ》様に、信太はくよくよ言うていた。
 浮気、したんやろうなあ。信太と付き合うてた頃も。怜司兄さん、我慢でけへん人みたいやから。ええのがいたら、ちょっと食うといたんやろなあ。それに乱交か。この人そういうの無節操らしいんやなあ。博愛的というか。誰でもかまへんというか。とりあえず、やっとくというか。ラブ&ピースやねんなぁ……。
 寂しいらしいねん。この人、一種の、色情狂やで。エロが好きというより、人が好きなんや。人が自分に夢中になってくれる。そういうのを見てへんと、不安でたまらんのやろ。なんせ噂なんやし。視聴率が大事。人間どもが自分に興味を持っているか、それが常に心配なんやろ。そらそうやで。怜司兄さんにとってはそれが、死活問題なんやもん。
 でもやっぱ、信太には辛かったんかなあ。訳が分かっていても、辛いモンは辛いやろなあ。信太は人間やない。神の一種で、人ではないんやし、信太にモテても癒やされへん何かが、怜司兄さんにはあったんやろ。人間でないとあかんのや。
 焼き肉食いたい時にラーメン食うてもあかんみたいなもんかなあ。この店、ラーメンしかないし、ちょっと焼き肉屋いってくるわって、飯ならそれで済む話なんやけど、恋愛やと、そうはいかんよなあ。
 それでもしゃあない。それが朧《おぼろ》や。こういう子どすねんて、蔦子さんも言うていたしな。虎もそれは、しょうがないと思って、割り切っていたんやろけど、でもやっぱ、辛いもんは辛い。我慢でけへんかったんやろな。自分のツレやと思うてるやつが、手当たり次第、誰も彼もとエッチすんのは。
 確かに無茶な話やで。しかも怜司兄さん、それが悪やと思うてへんからな。ラブやから。悪やのうてラブ。ただのスキンシップやから。人類皆兄弟。皆で仲良く裸のお付き合いやねんから。
 ズレてんねんなぁ……。だけどそのズレを、どうのこうの言うても、どうしようもないよ。怜司兄さん、そういう人なんやもん。どうしてもそれが嫌なら、別れるしかない。
 それで、しゃあないから別れたんやろ。信太的には。辛抱ならんかったんやろ。
 それでも、未練がましい虎や。まだ好きらしい。
 アホの寛太でも分かる。傍目に見てるだけの俺でも分かる。二人そろって立ってると、怜司兄さんと虎は、長年連れ添った同志のような、一緒に居慣れた雰囲気がある。一度は強く結びついた、縁のようなものが、あるふうに思える。乙女チックに言うならば、それは運命の赤い糸か。元は二つの魂やったもんが、その糸で、がっちり結わえ付けられていた時が、一時はあったんや。ただ、その糸が、一本だけやなかったというだけで。
 怜司兄さんにとっては、虎も案外、運命的な相手やったんやないか。相性よかった。それでも、おとん大明神の霊威のほうが強くて、しかも怜司兄さんは、不実なツレやったし、信太にとうとう愛想つかされたんやで。赤い糸を、ちょきんと切って、トンズラこかれた。結局、信太にも、振られてもうたわけやな。
 それはちょっと、俺のせいかもしれへんのやけど。俺が背中を押さへんかったら、信太は思い切りが、つかへんかったんかもしれへん。鳥も好きやし、怜司もええなあって、そんな宙ぶらりんのどっちつかずで、うだうだ迷っていたままやったんかもしれへんわ。それでももう、押しちゃったし。愛やし言うちゃったし。亨ちゃん、全然悪気はなかったんやけど。もしかして、俺、怜司兄さんにゴメンネ言うといたほうがいい? せやけど自業自得やん? 信太が好きやていうんやったら、もっと虎を大事にしてやっといたらよかったんや。忘れなあかんかったよな、暁彦様のほうは。そうでないと、信太も可哀想やんか?
 愛してくれたんちゃうか。暁彦様の想い出は捨てて、好きやて虎を選べば、信太は今、鳥さんラブラブなように、怜司兄さんのことも、愛してくれたんやないやろか。でも、それはもう、とっくの昔に逸れたコースで、選ばれることはなかった未来や。だって、怜司兄さんが、おとん大明神を捨てられるわけない。それができへんから、困ってる人なんやしな。
 運命の流れは、高きから低きへ、流れるべき筋道を通って、流れてゆく。ここへ来るべくして、やって来た。大陸の虎と、朧《おぼろ》の龍は、結びつかない運命やったってこと。縁がなかった。あったとしても、その縁は、一瞬縺《もつ》れて、やがては解《ほど》ける、通過点にすぎなかったということや。二度とは解けぬ、硬い結び目ではなく。
 それでも信太は、神妙な顔して、朧《おぼろ》に説教していた。まるでその権利が、まだ今も自分にあるみたいやった。
「人食うて生きるのが、あかんとは言わんよ。けど、神として崇められたほうが、気楽やろ。人の世に役立つ霊威を発することもできる。お前かてそうやろ。川原で人食うてた時より、今のほうが幸せやろ。趣味で寝るのと、金で買われて好きなようにされんのとでは、全然違うやろ?」
「そら違うわ。趣味なら好みの相手とやれる。好きな体位も選べるし」
 それ大事やなあ。それ大事や……。
 ふん、て怜司兄さんは、聞く耳持たんふうに、信太から顔を背けてツンツンしていた。全く可愛げがなかった。
「そういう問題か、このエロ妖怪が。なんでそうやねん。いっつも、そんなことばっかり言うとうな、お前は。心はないんか、お前には。人の役に立ちたいとは思わへんのか? お前も神やろ。一時は、それを目指して頑張っとったんやろ!」
 信太は、めっちゃムカついてんのを我慢してるように、抑えた怒鳴り方やった。
 知らんかったんかな。俺らが蔦子さんの部屋で、朧《おぼろ》様のホラーな正体について、知らされるまで、こいつもはっきりとは知らんかったんやないか。怜司兄さんが、神になろうとしていた、そういう時もあったって事を。
 でもそれは、知らんほうがよかったかな。それは虎のためでも、自分のためでもなく、ぶっちゃけ、おとん大明神のためやった。秋津の坊《ぼん》にモテたくて、怜司兄さん、頑張っちゃったんやしな。そんなん知ったら、今でも辛いか。なんで辛いんや信太。
 諦めきれへん、恋ってある? 忘れられへん相手とか。そういうのって、居るもんか?
 居るかもしれへんなあ。俺にも居るわ。今さら誰とは言わんけど。でももう別れた。しんどい恋やってん。あのまま続けていたら、俺はきっと、頭おかしなってた。ほんまもんの鬼になってたやろう。狂って人食う、荒ぶる神に。やけっぱちで悪魔《サタン》になるわ、って、そんな薄ら寒い思いがして、もう、やめなあかん。もう限界。俺はしんどい。幸せになりたいねんて、めちゃめちゃ困っていたこともある。
 つい八ヶ月ほど前のことやで。
 でももう過去や。今は幸せ。神様なんやで。アキちゃんが居るから。
 それが俺にとって、楽園に至るための、正しい運命のコース。悪縁を捨てて。自分の首をぎりぎり絞めてた、赤い運命の糸を断ち切って、そこから逃げていくのが、あの時の俺には、正しい道やったんや。
 そういうことって、あるなあ。不思議な縁の作用で。
 皆もな、いくら好きやいうても、悪い相手とだらだらいつまでも、付き合うてたらあかんのやで。スパッといっとけ。ざっくり切っとけ。悪い運命の糸は。そいつと別れんかったら、新しく巡り会えない、正真正銘ほんまもんの、王子様は居るねん。俺にとっての、アキちゃんみたいなな。
 信太にとってはそれが、朧《おぼろ》やのうて、鳥さんやった。寛太がお前を幸せにしてくれるやろ。お前は寛太を幸せにしてやれるやろ。そのゴールに至るまで、あともう、ほんの少し。せやけどそのハッピーエンドに至る道には、山あり谷あり。死の影のさす、怖い難所もあるんやで。
 せやけど、ほら。神やから。無問題。人間やったら大変やけど、信太も鳥も、朧《おぼろ》様も、俺も水煙も瑞希ちゃんもや。神やし、妖怪なんやしさ。人でなしなら平気やねん。死んでも平気。だって俺なんか不死人《アンデッド》やから。魂はみ出そうな痛い目見ても、痛いい! 言うけど、それだけやから。しんどいけど、強いんやから。我慢せなあかん。耐えなあかん。そんな苦難を乗り越えてこその神や。
 怜司兄さんなんか見てみ? 脳天に原爆落ちちゃってるよ。それでも平気なんやしな。なんともないとは言えへんけども、消滅してへん。ご存命やで。お前が好きやて言うてくれる、人の愛があれば、神様は生きられる。信じてくれる人間が、ひとりでも居れば、神は生き延びられるんや。
 そうやろ、怜司兄さん! やっぱり時代は神様路線やんな! 悪魔《サタン》あかんよ。もうそんな時代やない。皆さん、平和指向なんやし。これからは神様路線がイケてるよね! ねっ?
「そんなん、どっちでも同じや。神様なろうって気張ったところで、結果おんなじやったやないか。どうせ捨てられた。そんなら神でも鬼でも、どっちでもええわ、俺は。食いたきゃ人食う。今回、霊振会の仕事すんのも、別に人助けやないで。ギャラがよかったからや。金が大好き!」
 俺も好き……。
 でも、怜司兄さん、ちょっぴり強がっちゃってない? それ、ほんまの気持ち? お金ほしくて働いてんの? そんなふうに見えへんけどなあ。
 だって、金に困ってるふうに見えへんねんもん。なんとなくやけど。俺、そういうのには勘が働くのよ。金蔵《かねぐら》に、銭がうんうん唸ってる奴は、オーラでわかるのよ。
 たぶんやけど、金持ちやで、怜司兄さん。だって札束の匂いがするもん。ええ匂い! 俺の大好きな、お金の匂い! 亨ちゃん、くらっと来ちゃう。銭が大好き! 怜司兄さん抱いてみたいな、危険な匂いがプンプンするんやもん。
 ごめん、こんなこと言うて。アキちゃんには秘密にしといて。それは俺の性癖やねん。どうしようもないねん、亨ちゃん、白蛇さんやから。銭の神なんやから。豊穣ムードに弱いのよ。お金集めようとしちゃうのよ。本能的にね。
 せやし、金持ってる奴には、ついつい蛇さんアンテナがぴぴって反応してまうんやけどさ。それの検索《サーチ》結果によれば、怜司兄さんはお金持ちやで。だって今してる時計とか見てみ。昨日してたのと違う。兄さん、着替えるついでに、時計も変えたやろ。時計も着替える人なんや。それが昨日はカルティエで、今日はタグ・ホイヤーなんや。最初に見た時はロレックスやったで。腕時計、何個持ってんのや怜司兄さん。そんなに沢山時計って要るか? アキちゃんやあるまいし……一個あれば足りるやろ!
 着てるモンかて贅沢やしな。だいたい金持ってる男というのは、靴見ればわかる。ええ靴はいてる男は金持ってるわ。昔から言うやん。「足下を見る」って。履き物見たら、そいつの懐具合がわかるという、昔々の商人の知恵やで。
 その観点から言っても、怜司兄さんは金には困ってへん。なんなら今すぐ、ケツのポケットから見えてる長財布を奪って中身見たろか? せえへんけどな。そんなんせえへんけどもや。こいつもアレや。現金よりも、魔法のカード使うタイプの男やで。だって財布が薄いもん。
 いくら金持ちや言うたかて、財布で福沢さんたちが、うんうん狭いようって唸ってるような状態は、お洒落じゃないですからね。財布なんてアクセサリーのうちやから。金でパンパンに太ってたら見栄え悪いよね。悪いんやで、アキちゃん。意識してへんのやろけど。バイ・ナウ力《ぢから》はゆんゆん漏れてて、お店の人にはモテるやろけど、そんなんはスマートやないんやで! いっぺん怜司兄さんに指摘してもらえ!
 話逸れてる。ついでに愚痴ってもうた。えーと、なんやっけ。そうそう、怜司兄さんの経済状態や。ぜったい金持ち。せやし、金のために霊振会に雇われるという話は、めっちゃ嘘っぽい。ぜったいに嘘。
 もう。なんでそんなんやねん、怜司兄さん。素直になれ! 未だに、おとん狙いで、神様コース突き進んでいると、素直に認めろ。ええやん別に。それの何が悪いの。振られたけど、それでもまだまだ忘れられへん。今でも好きやって、それでもええやん。なにがあかんの。
 亨ちゃん、そういうの、分かるけどな。気持ち分かるけど。
 だってもし、アキちゃんに振られても、そんなすぐには、忘れられへん。もしも相手がまだ、この世のどこかに生きていて、まだちょっとでも自分に見込みありそうやったら、諦めきれへん。格好良くはないけども、でもずっと、待っているかも。アキちゃんがまた、俺んとこに戻ってきてくれる。やっぱりお前が好きやって、言うてくれるかもしれへんて期待して、ずっと未練で待ち続けるわ。
 そういうの、想像つくしな。そういう奴が居ったかて、変やとは思わへんよ。ええ話よ。大恋愛やないか?
 せやけど。ちょっとアレやな。気まずいな。ほんなら信太って、怜司兄さんにとって、何やったん?
 ……ツナギ?
 ひとりで居ると寂しいし、誰でもええわ、食うとこかっていう、そういう相手の、ひとり? ちょっと摘みたいときに、摘んでみた、中華風味のおやつ?
「金か……確かにお前、金遣いが荒いもんなあ。せいぜい、いい仕事して、大崎先生にいっぱい払ってもらえ。それで満足できるか、やってみろ。お前の暁彦様が、なんて言うかな!」
 ぷんぷん怒って、信太は拗ねてた。朧《おぼろ》が可愛げないのが、イラつくらしかった。
 夫婦喧嘩せんといてくれませんか……。
 そういうふうにしか見えへん、売り言葉に買い言葉やで。信太と、怜司兄さん。
 ガツン言われて、怜司兄さん、内心ピクピク来たみたいやったけど、平然を装っていた。でも、辛抱できへんのが、丸わかり。煙草吸おうっとって、一本出してる指が、わなわなしてたもん。相当キてたで。
「そうやな。仕事しよっと」
 可能な限り、信太のほうから顔を背けて、怜司兄さんは気持ちを切り替え中やった。全身から、虎なんか無視しよう光線が出ていた。居らん居らん、虎なんか居らん。そんな自己暗示をかけてるっぽい。
「先生、歌比べすんねん。ただの収録なんやけどな、どうせやったら皆で楽しめたほうがええしって、大崎先生が言うから、カラオケ大会やねん。先生も歌歌うか?」
 猛烈な猫なで声で、怜司兄さんはアキちゃんに声かけた。まだ脚立の上に居ったんやで、うちのツレ。足下でくり広げられる、各種の醜い痴話喧嘩に、恐れをなしてるような新婚ほやほやの顔で、ひいいってなっていた。必要以上に優しいような手で、自分の脚を掴んできた朧《おぼろ》様にも、若干ひいいってなってた。巻き込まれたくないよな。他人の痴話喧嘩にはな。
「いっしょに歌歌おうか、先生。好きな歌ある? なんでも歌えるよ、俺は。暁彦様は俺の声が好きやって言うてたわ。先生も、好き? 可愛いなあ先生は、ほんまに可愛い」
 可愛いなあって、アキちゃんの脚にすりすりしている朧《おぼろ》様は、うっとり来てるみたいやったけど、どう見てもそれは演技やった。当てつけとしか思えへんかった。俺も妬けるというより、あんぐり来てた。
 怜司兄さんて、普段めっちゃキツいけど、そういう時には、可愛い可愛いなの? デレっとしてんの? 俺、なんか……見たらあかんもん見たような気がする。朧《おぼろ》様、おとん大明神とデキとった時、どんな人やったん? デレッデレ? デレッデレですか?
 それは。そう。たとえば、虎といちゃついてる時の、寛太みたいに。
 そう思うと、なんか怖くて、俺はむすっと立っている、信太を見つめた。
「おとんがダメなら息子でええんか。お前ほんまに無節操やな」
 しょんぼりそう言う、信太はちょっと悔しそうやった。でも、朧《おぼろ》はそれを聞いてなかった。聞いてないように見えた。でも、ほんまは聞こえてたんかもしれへん。
 引いてるアキちゃんにちょっかいかけつつ、ふふんと笑った、怜司兄さんの微笑は、邪悪に見えた。なんかすごく、信太が憎そうやった。
「無節操はお前やろ。なんやねん、寛太。年々、俺にそっくりになってくるわ。気色悪。あれ、なんでなん? お前がそうしろ言うてんのか? ほんで、お前好みの体位で相手させてんの? 勘弁しろややで。肖像権の侵害や」
 朧《おぼろ》様の言葉には、びしびし冷たい毒があった。信太はそれに、ますますしょんぼりとしていた。
「知らん。いつのまにか、ああいう見た目になってたんや。俺がやらせとう訳やない。お前もあいつの親代わりやったんやから、それに似たっておかしないやろ……」
「そらそうや。小虎になるよりマシやで」
 ふんって笑って、怜司兄さん、もう行くみたいやった。ここに居るのが、嫌んなったらしい。
「先生。俺はあっちに居るしな、後でちゃんと来てな。寂しいから。顔見せに来て……」
 にっこり婉然と微笑み、朧《おぼろ》はアキちゃんの太ももナデナデしてやって、そう口説いてから、ふらっと去った。颯爽とした足取りの、後ろ姿は綺麗やったけど、刺々しかった。怒ってんのか、冷たく人を拒むようで、それでもなんや、寂しそうやった。本人がそう、言うてるように。
 確かにあの人、寂しいんやろう。ずっと一人で待ってんのが。
 俺も寂しい。アキちゃんと出会うまで、ずっと寂しかった。それを紛らわしてくれる誰かが欲しくて、いろんな男を貪ったけど、それでも全然、癒やされへんかった。
 アキちゃんでないとあかん。そういう部分が俺の魂にはあって、いつも泣いてた。アキちゃん恋しい、アキちゃん恋しい。まだ誰かも分からんかった、運命の相手を探して、泣いてる部分が俺にはあった。
 怜司兄さんにもある。
 でも、その欠乏を、埋めてやれんのは、ひとりだけなんやろ。代打はあらへん。代わりの誰かと抱き合うても、その寂しさは、埋まらへんのや。
 何をしようが、寂しいままで、寂しい寂しいと嘆く、いつも満たされないままの朧《おぼろ》の龍に、貪られるほうは、もっと寂しかったやろか。信太は強いタイガーで、弱音は吐かへん主義らしいけど、それでも寂しい夜は、あったやろ。そんな夜に、お前の心はかっさらわれたんか。抜け目なく可愛い、赤く燃えてる雛鳥に。好きや好きやって、愛してる目で見つめてくれる、俺の愛しい不死鳥に、すっかり参ってもうたんか。
 でもそれは、やっぱり、ただの身代わりやないんか。解けきらない赤い糸が、今でもまだ、お前の後ろ髪を引いている。そういうふうに、俺には見えるんやけどなあ。
「すみません、先生。お見苦しくて。こういうのなあ、怜司と俺は、日常茶飯事やねん。でも一日だけやから、目を瞑ってください」
 信太は殊勝に、アキちゃんに詫びていた。ご主人様やしな、醜態晒してゴメンナサイやで。せやけどアキちゃん、怒ってはいなかった。ただもう困ったみたいな、しょんぼり顔やった。どないしていいか、わからへんよな。この激しく縺れ合った相関図を。
「どこも色々あるなあ」
 テレビか芝居でも観てたみたいに、藤堂さんが突然ぽつりと言うた。信太はそれに、あははと快活に笑った。
「支配人さんとこよりマシですよ」
 ほんまにそうか信太。藤堂さんとこ嫁が怖いだけやで。グーで殴ってくるだけの話や。お前のほうが、よっぽど悲惨なオーラ出てたで。
「先生、さっきはああ言うたけど、やっぱり寛太が心配やねん。ちょっと探してきてもいいですか。しばらく席外しますけど、すぐ戻りますから」
「かまへん。なんやったら、俺が蔦子さんと一緒にいよか。そしたらお前も寛太と、一緒に居れるんやろ」
 気まずそうに強請る信太に、アキちゃんはまた、気を遣ってやっていた。信太のこと、嫌いやったはずやのにな。よっぽど気の毒やと思うたんか。同情してもうたんか、虎に。アキちゃん、根はイイ子やねん。
「優しいご主人様やなあ、本間先生は」
 にっこりと、微かに苦笑の気配も混じる笑みで言うて、信太はアキちゃんに感謝していた。そしてそのまま、飛び去った赤い鳥さんを探して、信太は中庭に集まり始めていた、人や人でないものの、人垣の中に紛れて去った。
「うるさい連中やなあ、アキちゃん」
 やれやれみたいに、車椅子の水煙がぼやいた。
 そんな憎まれ口に、アキちゃんはただ、苦笑しただけやった。水煙がどこまでマジで言うてんのか、わからへん。案外ほんまにそう思うてんのかも。朧《おぼろ》も信太も、水煙様には、あんまり好みのタイプの式《しき》ではないのやろうしな。
 好みのタイプというたら、そら、瑞希ちゃんやろ。大人しくて、分を弁えていて、命令したら素直に言うことをきく。
「おい犬。朧《おぼろ》に何か教わったか。絵だけ描いとったんか」
「……そうです」
 脚立の脚もとに座り込んだままやった瑞希ちゃんは、水煙に愛想もなく訊かれ、怖ず怖ず答えていた。
 その返答に、水煙はチッと、軽い舌打ちのような音を立てた。
「なにをやってんのや、あいつは。ちゃんと仕込めと言うといたのに。しょうがない。色事ばかりに現《うつつ》を抜かして。あいつはいつもそうなんや。俺がいろいろ教えてやるから、お前ちょっと、この車椅子押して、ついてこい」
 忌々しそうにため息ついて、水煙は犬に命令した。瑞希ちゃんはそれに、びっくりしたみたいやった。
「えっ。でも、先輩のとこ居とかなあかんのやないですか。さっきの虎の人、そう言うてたけど……」
 信太が虎やって、瑞希ちゃんにも分かるんや。珍しくも口答えする犬を、水煙はじろりと睨んだ。怖い目やった。こいつのどこが清純派やねん。どう見ても怖いイケズな小姑や。
「そんなん、いよいよになってからでええんや。蔦子の予知は外れへん。あの子が明日やと言うたら明日なんや。秋津の娘やで。血筋を信じろ」
 そうや。秋津の祖先神には月読《つくよみ》もいてはる。それは時を司る神さんや。時間や予知には、強いんやで。
 詳しい話は訊いても教えてくれへんのやけど、水煙が、最初に仕えていた主神は、この月読命《つくよみのみこと》やないやろか。
 忘れちゃいけない。秋津家に伝わる伝承によれば、水煙様には、時を巻き戻す力がある。神業や。水煙のその能力は、月読命《つくよみのみこと》に由来している。時を司る神の随神《ずいじん》やったから、ご主人様のその力の一部を、こいつも分け与えられていたんや。なんせ、月の欠片なんやしな、水煙は。
「アキちゃん、俺は月が昇る頃合いに、また戻る。それまで戦《いくさ》の前の、骨休めをしておけ」
 それまでは、戻ってこないと、言外に言い置いて、水煙は犬を連れて行った。見た目上は、犬が水煙を連れて行ったんやけど、実際のところは逆やった。
 去り際水煙は、ちらりと俺を横目に見たけど、その目はイケズそうでも、嫌みでもなかった。何を考えてんのかわからんような、深い水の底の暗がりを、覗き込まされたような、深く黒い無表情な目やった。
 水煙は俺に、気を利かせたんやろう。アキちゃんを譲ってくれた。
 下手すりゃこれが最後の夜や。別れを惜しむなら、二人きりがええやろうと、あいつは思うたんやろ。
 なんで水煙が、そんなことをするんやろ。
 それは、俺のためやったんやろか。あいつがそんなことする訳がない。
 そんなら、それは、アキちゃんのためか。なんでそれが、アキちゃんのためになるんやろ。
 大好きな水煙様や、お気に入りの犬が、おらんようになったら、アキちゃんガッカリやないの?
 そうやないのか。
 後に残されたのは、俺とアキちゃんと、藤堂さんだけで、そのオッサンですら、気を遣うつもりらしかった。にこにこ笑って、藤堂さんは去る素振りやった。嫁にぶん殴られた顎の青あざは、虎と雀と赤い鳥さんの、妖怪人生劇場を見ている間に、すっかり消えて、元の通りの渋い男前に戻ってもうてた。
「落とし前つけるのは、また後ほどにしておきましょうか、本間先生」
 そう言うて、オッサンは脚立の上で、まだ呆然みたいなアキちゃんに、軽い会釈をした。
「嫁が怖いし、ご機嫌とってきます」
 まんざら冗談でもなさそうな口振りで、藤堂さんは笑い、すたすたと去った。
 俺とアキちゃんは、ぽかんと突っ立ったまま、そのオッサンの行く先を見ていたが、中庭からガラスの入ったフランス窓をくぐって、ロビーに入ろうとしたあたりで、藤堂さんは朝飯屋のジョージに呼び止められ、がっつりハグされ、がっつりキスされていた。
 ご挨拶かな。ご挨拶やろな、きっと。そうでないなら、遥ちゃんに、また殴られる。こんどは半殺しかもしれへん。嫁に見られていないことを、今は祈るのみやで。
「モテんねんな……中西さん……」
 ぼんやりと、アキちゃんがそう言うていた。
「命がけやな、モテんのも……」
 俺がそう付け加えると、アキちゃんは異論がなかったようで、うんうんと静かに頷いていた。脚立の上でな。
「アキちゃん……いつまでそこに登ってんのや。アホみたいやで。アホと煙は高いところに上りたがるっていうやん。降りてこいよ。なんか食おう。美味そうなもん、いっぱいあるやん」
 パーティーなんやし。ヴィラ北野のシェフたちが、腕を振るったらしい食いモンが、あっちこっちに盛りつけられてるで。美味そうな匂いがしてる。
 ほんま言うたらアキちゃんのほうが、よっぽど美味そうな匂いしてるけど、この際、しゃあない。精進潔斎やていうんやから。アキちゃんに付き合うて、葉っぱだけ食うとこか。
 よいしょと脚立から降りてきて、アキちゃんは、やれやれみたいにその梯子の段々に凭《もた》れて立った。
 見渡すと、中庭にもロビーにも、わんさと人が集まっていた。何千人規模のパーティーなんやし、誰が誰やらわからへん。顔見知りどうしで集まったり、そこらに用意されているソファやらテーブルの席により固まって、無駄話にうち興じている皆様は、楽しげにくつろいでいて、とてもこの中に明日には死ぬ奴が混ざっているとは思えへんかった。
「これから丸一日近く、皆でここに居るのかな。何してりゃええねん」
 手持ちぶさたみたいに、アキちゃんはまだ、筆を握っていた。退屈そうやった。
 それでも何か、落ち着きがない。腹の底にある体の芯が、硬く緊張しているみたいに。
 なんや、そわそわしているアキちゃんの傍に、俺もそわそわ立っていた。
 思い出されへん。ふたりっきりの時、どうしていたか。なんでか急に、思い出されへんようになってもうた。
 なんやろ、これ。俺、なんか……恥ずかしい。アキちゃんと、どれくらいの距離感でいたらええか、わからんようになってもうた。
「飯、食おか? アキちゃん、腹減ったやろ。もう、とっくに昼飯の時間やで。あっちにベジタリアン用のメニューもあるっぽいで。草食いにいこ」
 なんや、手握りたいなあと思って、俺はアキちゃん連れてくのにかこつけて、絵の具ついてるままの右手を、ぎゅっと掴んだ。アキちゃんなんでか、それにびくっとしていた。
 一瞬、驚いたようやった指が、ぐいぐい引いてく俺の手を、ゆっくり握り返してくるのを、じんわり背後に感じつつ、俺はなんでか照れていた。
 なんでやろ。なんで恥ずかしいのかなあ。変やで、俺ら。まるで初恋カップルやで。
 とっくの昔にやることやってもうて、毎日毎晩組んずほぐれつ、果ては結婚までした使い古しやのに、なんでか今になって、アキちゃんと手を繋いでる自分に、俺はドキドキしてもうてた。皆、見てるわ。恥ずかしい。たぶんそれは気のせいやねんけどな。今さらこの妖怪天国ヴィラ北野で、手繋いで歩いてるくらいで、誰も見いひん。がっつり抱き合うてキスしてたかて、誰も見ないんや。そんなん普通やねん。巫覡《ふげき》や式《しき》やら言うてる人らの世界ではな!
 そうや。普通や。一般人《パンピー》おらんかったらな。
 忘れてたそれを。一般人《パンピー》おるんやないか。それでガン見されとんのやないか。おっかしいんや、大の男が、お手々つないで、ラブラブうふん♥、みたいなのは。普通やないんやった。
 俺はそんなん気にせえへんけど、アキちゃん、嫌かな。嫌なんちゃうか。
 ほんまは嫌やけど、手を振り払うわけにもいかへんて、嫌々我慢してんのやろか。
 俺はそれが急に気になってきて、まだ手を繋いだまま、歩いてるアキちゃんを振り返った。
「俺ら、手繋いでてもええのん?」
 小声で訊くと、アキちゃんは、はぁ? みたいな顔をした。
「何言うてんのや、今さら……」
 むっと赤面を堪えた顔して、アキちゃんは毒づいた。それでも手を振り払いはせえへんかった。
「だって。変かなと思って。アキちゃん、嫌なんやろ。普通でないのは」
「嫌や!」
 ガツンと断言されて、俺は内心、ぐふっと思った。久々やな、アキちゃんのこの攻撃は。出会ってすぐの頃には、なんで女の子やない俺と、手繋ぎたいのか、アキちゃんずっと悩んでたけど、今も引き続き、実は悩んでんのかな。
「嫌やといえば、絵の具ついてる手で飯食うのは嫌や。手洗いたい。お前も洗え。飯食う前には手を洗わなあかんねん」
 それもおかんの教えかと思えるようなことを言うて、アキちゃんはどこか、手を洗える場所を探している目付きになった。
 そんなんトイレやろ。ロビーの端に、化粧室があるわ。そこへ行ったらどうやろか。
 パーティー会場には、手を拭くためのウェットタオルも、ふんだんに用意されていたけど、アキちゃん案外、神経質やねん。流水で手を洗わへんかったら、綺麗になった気がせえへんのやって。どんだけ禊《みそ》ぐねん。おしぼりの力を信じろ。
 せやけど、しゃあない。水道が好きやて言うんやからさ。飯はいったんお預けで、俺とアキちゃんは、仲良くお手々つないだまま、ロビーの端までうろうろ行ったよ。
 そしてそこで、心なしか顔青い、小夜子さんと髭師匠に、また行き合うた。小夜子さんはもう、シャンパンのグラスは持ってなかった。
 悪酔いでもしてもうたんやろか。微かに眉間に皺寄った。しんどそうな顔で、小夜子さんはロビーの壁際に突っ立っていた。
 新開師匠はその横で、心配げに立っていたけど、どないしてええかわからんというような、戸惑い顔で押し黙っていた。
「どないしたんですか、師範」
 アキちゃんは、困り顔の師匠のほうに、先に声をかけていた。小夜子さんはその声で、こっちに気付いたんか、ぼうっと立ったまま、じっと暗い目で、俺らのほうを見た。たぶん、がっちり指からめてる、俺とアキちゃんの手を。
「なんやねん本間……。大の男が手繋いだりして」
 やんわり窘《たしな》めるように、新開師匠はアキちゃんにツッコミいれてきた。それでやっと気がついたんか、アキちゃんは気まずく照れた顔で、俺の手から自分の指を抜き取っていた。
「人多いし、はぐれへんようにです」
 そんな嘘でも、いくらか気まずさが紛れるやろうと、アキちゃんは思うたんかな。まるで言い訳みたいに、言うていた。師匠やのうて、小夜子さんに。
 小夜子さんが、あんまりじいっと、俺とアキちゃんの手を、見ていたからやった。
「本間君……さっきね、私、気がついたんやけど」
 ぼんやりした、心が宙に浮いてるような声で、小夜子さんが唐突に言うた。
「さっき、お庭のほうで、本間君たちと話してた、白い服の人、いらしたでしょう。金髪の。すごく綺麗な人。あの人……神父様やない? 六甲教会の。確か、ええと……神楽神父様? それとも、私の、見間違いかしら」
 きっと見間違いやろうと、小夜子さんはそんなニュアンスで、アキちゃんに強く問いただしていた。今にも卒倒しそうな顔色で。
「あの人、私、前にもここで見たわ。ホテルの支配人さんと、玄関で話してるとこ、見たような気がする。その時は、気がつかなかったの。どこかで知ってる人やわあと思ったけど、まさかと思って。だって神父様が、こんなとこにいるわけないものね?」
 そうやろか。神父がホテルにおったらおかしいか?
 そんなことはない。餅の大司教かて、ここには来たんや。神父かて旅行先ではホテル泊まるで。教会の任務には、出張かてあるし、聖職者にも休暇はあるらしいんやから。
 おかしいのは、そこやないんやろ。小夜子さん。あんたが言いたいのは、そこやないんや。
 神楽と藤堂さんが、なんか、ええ雰囲気やったことやろ。なんとはなしに、いちゃつき気味なところや。たしかにおかしい。そんなん、ありえへん。俺の藤堂さんが神父に惚れるやなんて!
 でも、そこでもないよな。小夜子さん的には。あいつらが、どっちも野郎なことやろ。神楽が神父で、遥《はるか》ちゃんやなく、あんな面《ツラ》でも、あるもんはちゃんとある、遥《よう》ちゃんなことや。
 なんで野郎同志でデキてんのやと、小夜子さんは言いたいんやろ。
 そんなん普通やで。やつらはそういう嗜好やねん。遥ちゃん、もともと、小悪魔系やったんやもん。悪魔《サタン》に憑かれて、毎日曜日にミサで会う、年上の男の子を誘惑していた、そんなどうしようもない餓鬼やったんや。それがそのまま大人になってて、藤堂さんと背後位《バック》でやってる。それが何か、おかしいか。順当に成長しただけのことやんか。
 小夜子さんかて、旦那とやるやろ。俺かてするわ、アキちゃんと。だって、愛しあってんのやもん。我慢できへん。手かて繋ぐし、他んところも繋ぐで。遥ちゃんかて、そうや。淫行しちゃうよ。長年、禁欲していただけに、禁を破った、その悦《よ》さに、今やすっかり病みつきや。藤堂さんたら、恥ずかしげもなく、神父と住んでるあの部屋の、黒いベッドで組んずほぐれつ、毎日やってる言うてたわ。
 でもな、それが何? 何があかんの?
 あいつら夫婦や。結婚してる。出だしから、いきなり山あり谷ありみたいに見えるけど、それでも永遠の絆を誓い合った仲や。小夜子さんと、髭とおんなじ。人生の、伴侶やねんで。
 せやのに小夜子さんは一体、何に困ってんのや。
「神楽さん、もう、神父さんやないです」
 アキちゃんの返事は、ちょっとズレてた。
 神父がここに来るわけないという、小夜子さんの話を、そのまま受けた返事みたいやった。
「そうなの?」
 小夜子さんは、長身のアキちゃんを見上げて、きっと若い頃には、もっとお姫様みたいやったんやろなあという、可愛い顔を、まだ青ざめさせていた。
「教会辞めたんです。正確には、まだみたいやけど。今回の仕事かぎりで、辞めるらしいです。そんな話、してました。結婚式してくれた夜に」
「結婚式って、どなたの?」
 小夜子さんは、穢《けが》れない深窓のお姫様みたいやった。
 小夜子姫は、初めて付き合うた、初恋の男と結婚したんやで。キリスト教徒やった。今時、奇跡かと思うけど、小夜子さんは結婚して、旦那と初夜を迎えるまで、ほんまもんのバージンやった。したらあかんのやもの、淫行は。
 髭師匠としか、したことない。
 剣道の試合を観にいって、そこで強くて格好よかった、初見の男に一目惚れ。それがどんな家の奴かも全然知らんと、まっしぐらに乙女チックな恋をして、白亜の教会でウェディングベル。神と天使に祝福されて、子供の頃から憧れやった、純白の花嫁さんに。そして新開道場、当時は宮本道場やった、剣豪の家の妻に、晴れがましく収まったんや。
 せやけど、その旦那は、ほんまに普通の男やったろうか。霊振会のメンバーやのに?
 新開師匠は、ますます心苦しそうな顔をしていた。
「誰のでもええやないか、小夜子」
 窘める声で、また言うてる師匠の目は、抜かりなく、アキちゃんの手にある指輪を見ていた。結婚指輪やで。プラチナにしてん。覚えてるやろ?
 その指輪はアキちゃんの左手の薬指に、今もある。俺のにもある。おソロやねん。結婚指輪なんやから、それは当たり前やな。俺もアキちゃんも、どっちも男ということを別にすれば、至って普通や。
 でも小夜子さん、この世の終わりを見ちゃったみたいな顔で、俺とアキちゃんの指を、見比べていた。
「結婚したの? 本間君。いつの間にしたの。私、そんなん、聞いてないわあ……」
 小夜子さんは、ちょっと悲しそうに、そう言うた。
「すみません。急やったから。訳あって急いでたんです。神楽さんが急かすし。それに時間もないもんで。呼べなくてすみません」
 呼んだら来たんかな、小夜子さん。結婚おめでとう言うてくれた?
 誰かに立ち会わせるような結婚式かよ、アキちゃん。俺そんなの全く想像だにしてへんかったわ。一ミリも思いつかへんかったし、列席させたいような、身内や知り合いもおらへん。強いて言うなら藤堂さんか。
 でもあの人も、餅を車で送っていかなあかんかったしな。第一、あてつけがましいやろ。前の男の見てる前で、誓います《アイ・ドゥ》言うのは、いかにもあてつけみたいやんか。俺はそんなん、したくないんや。アキちゃんと二人っきりがええねん。
 神楽は邪魔やけど、しゃあないやん。司祭やねんから。あいつが儀式を取り仕切る神官やねんから。ほんま言うたら神式のほうが、よかったんかもしれへんけどな。なんせアキちゃんの祖先神である、月読命《つくよみのみこと》に誓った婚姻や。それは一応、日本では、神道の神様なんやしな。
 でもまあ、ええやん。月が見ていた。それに誓った結びつきを、月読《つくよみ》は見ていたやろう。それでええねん。月はなにも、文句言わへん。神やから。そこに愛があれば、文句はないやろ。増して可愛い秋津の末代、かつて命をくれてやった血筋の末裔が、これで幸せやて言うてんのやから。月は上機嫌やった。俺にはそう見えた。
「誰としたの?」
 訊かんでええのに、小夜子さんは訊いた。俺はアキちゃん、適当に誤魔化すのかなあと思うてた。そんな話、すると思うてへんかったんやもん。
「亨とです」
「亨ちゃんて……女の子やったの?」
 乳あんの。ド貧乳か? みたいな目で、小夜子さんは俺の胸らへんを、ちらちら惑う目で盗み見していた。
 いいや。乳なんかないよ。男やで。脱ごか?
 そう言う訳にもいかず、俺は黙っといた。アキちゃんが嫌やと思うような事を、口走りたくなくてさ。
 でもアキちゃん、自分でさらっと口走ってたわ。
「いいや。男です。それやと駄目ですか。神楽さんも、ほんまは教会でしんどかったんです。ここでは一応幸せみたいやし、小夜子さん、あの人の知り合いなんやったら、よかったなあと思ってあげてください。何やったら、後で挨拶でも。おめでとうの一言だけでもええんやけど。……無理ですか」
 無理っぽいけど。真顔のアキちゃんに見下ろされて、小夜子姫は、今から首でも斬られるみたいな顔してた。あたかも断頭台につれていかれるマリー・アントワネット姫や。その、うっすら開いた唇が、なんと言うてええやらという表情を、浮かべていた。
「知り合いという、訳やないの。私……信者なの。あの人、教会で、お説教をしていたの。聖書の話よ。なんやったかしら。ヨハネによる福音書。ローマからいらした、偉い神父様やということでね。私それに、感激したのよ。あれは……なんやったのかしら」
 なんか不思議な夢を見たみたいに、小夜子姫はぽかんとしていた。ついて行けてないみたいやった。現実に。
「何やったか知りませんけど、神楽さん、頭ええらしいから、適当にそれっぽいこと言うてたんでしょう。知りたいんやったら、本人に訊いてみてください。そこらへんに居るはずやから」
「神父様にそんなこと訊いて……失礼やないかしら」
 神楽遥が目から怪光線でも出せるみたいに、小夜子さんはあいつを畏れてた。それは聖職者の持つオーラやったんかもしれへん。そしてヤハウェの持つ神威でもあった。あいつはヤハウェの神兵で、その威容を世界に知らしめるために働く、神の下僕やったわけ。今や脱走兵やけど、それでも小夜子さんは、そんなにころっと頭切り替えられへんのやろ。遥ちゃんみたいに破廉恥やないねん。
 うろたえている小夜子さんに、アキちゃんは気まずい顔やった。
「そんなん気にせんでも、ただの人ですよ、神楽さんは。いや、ただ者やないような気はしますけど。でも……同じ人間やないですか? 歳かて、俺よりひとつ上なだけやし、日本語も普通に話せるんですよ? 普通どころか、めちゃめちゃ神戸弁なんです。せやし、あの話、嘘やったんですかって、訊けばいいだけですよ」
 アキちゃんの話に、小夜子さんは微かに、お口ぱくぱくしていた。それも今にも倒れそうな、青い顔やった。まさか遥ちゃんの神戸弁にびびったわけやないやろ。カルチャーショックにあわあわ来てるだけや。
 もうええやん、アキちゃん。お前にはわからへんのや。キリスト教徒の気持ちなんて。小夜子さんは、イイ子やったんやろ。洗脳されてた。教会で語られる荘厳な戒律や、これが正義という、ヤハウェの意向に、深く納得していた。神父は偉いと信じていたんや。神聖なんやって。ただの人とは違うんやって。
 その神父が破戒したなんて、世界が引っ繰り返ってもうたようなもんやで。小夜子ワールド大ピンチや。
「本間君と、亨ちゃんて……実はずっと……その……付き合うてたの? 好き、なの? その、友達としてじゃなく」
「好きです。友達としてじゃなく」
 居直ってんのか、アキちゃん、即答で断言していた。わかりやすすぎた。誤解の余地はこれっぽっちもなかった。
「つまり恋人なの?」
 それでも小夜子さんは、すごく難解な問題に取り組んでるような顔で、その話をしていた。解けへん数学の問題集の解き方を、デキる同級生に訊いてる、クラスの可愛い女の子が、そのまんま大人になってるみたいな姿やった。
「いや、恋人やないです。結婚してるから。配偶者です。俺のツレ。小夜子さんと、師範みたいなもん」
「そんなこと、できるものなの? だって、親御さんは、なんていうの。男の子どうしだと、子供だってできないのよ?」
 それが心配みたいな、小夜子おばちゃまの話に、アキちゃんは一瞬だけ、言い淀んだ。でも、言うしかないと思ったんか。ただデリカシーがないだけか、アキちゃんは結局、ずけずけ言うてた。
「小夜子さんとこだって、子供いないじゃないですか」
 その話に、小夜子さんの大きなお目々が、ぐるっと視線を彷徨わせた。何を見たらええか、ものすごく動揺したような、パニくった顔やった。
 ひらひらカクテルドレスの裾を握って、小夜子姫はおどおど言うた。震えてるような声やった。
「……私、できなかったの。子供欲しかったんやけどね。でも……できなかったの。病院いって、調べてもらったけど、原因はわからないの。私にも、浩一さんにも、問題ないって、お医者様はおっしゃるのに。ただ、なんでか……できないの。どうしてか……わからないの」
 アキちゃんたぶん、言うたらあかんことを、小夜子さんに言うたんやないか。
 言いながら、小夜子さんは、じわっと泣いた。最初の一滴の涙がこぼれるまでは、すごく時間がかかった割に、一度堰を切ると、小夜子姫はぼろぼろ泣いた。
 アキちゃんはそれを見て、痛いという、痛恨の顔をした。後悔してるっぽかった。遅いから。後悔しても、もう言うてもうてるから。アキちゃんほんまに、しょうがない。
 新開師匠は、ぱっと見には何の王子様性もない髭面で、それでもやんわり優しいような、騎士《ナイト》っぽい仕草で、小夜子姫を抱き寄せて、しくしく泣いてる嫁を、自分の肩に寄りかからせていた。
「アホちゃうかお前、本間……」
 恨んでますけど、しゃあない奴やというような、怒ってはいない声で、新開師匠はアキちゃんを咎めた。
「すみません」
 むすっと反省した声で、アキちゃんはうつむき、師匠に詫びてた。ある意味こうなることは、覚悟の上で言うてたんちゃうか。
 アキちゃんは、小夜子さんのことは好きみたいやったけど、でも一言、言うてやりたかったんやろ。なんでそんなん言うたん。アホちゃうかやで、ほんまに……。どないすんねんな、師匠の嫁を泣かせて。なんでお前はそんな意味のないことをするんや。
 そんなん言うたらあかんて、いくらなんでも分かってるはずや。いくらアキちゃんが、ノー・デリカシーでもな。一応、常識はあるんやで、俺のツレ。
 あんぐりしている俺の横で、アキちゃん、いたって真面目な面《ツラ》やった。思い詰めてるような、真剣な横顔やった。
「師範、子供できへんと幸せになられへんのですか。別にええやん。小夜子さんとは、仲ええんやし、俺にはずっと、憧れのご夫婦でしたけど。お互い好きで、一生ずっと一緒に居ろうというだけの話でしょ。結婚てそういうもんでしょ。師範は幸せやないんですか。小夜子さんが居っても、子供無しやと、不幸せなんですか」
 そんなこと訊くなやで、アキちゃんも。剣道の師匠なんやから。居合いは教えても、人生相談には乗らんのやから。そんなん髭のプライバシーやろ。とっととお手々洗って去ろか。そうしよか。なんか変やでお前。
「不幸せなことないよ。幸せやで。何を言うねんお前はほんまに」
 嫁の背中をよしよししながら、髭はあっさり答えていた。
「ほんならええやないですか。別に相手が男でも。鬼でも蛇でも悪魔《サタン》でも。誰にも迷惑かけてないですよ。俺は亨とずっと一緒に居りたいんです」
 駄々こねてんのかお前は。髭師匠にそんなことほざいてるアキちゃんに、俺はぎょっとしていた。ちょっと待てアキちゃん、いきなり何言うとんねん。お前そんなキャラやったか?
「ええやないですかって、誰もあかんて言うてへんやろ。俺は別になんも言うてへんやん。小夜子が言うとっただけやん」
 ぼやくみたいに、髭はツッコミ入れていた。アキちゃんはそれと目は合わせず、まだゴネてるような返事をした。
「夫婦やから同意見かと思って……」
「同意見やないよ。うちほど意見の合わへん夫婦もないで? 俺は今日は、和装で来ようかなと思うたんや。曲がりなりにも神事やねんしな。和装がええやろ? せやのに小夜子がどうしてもこのドレス着る言うて、聞かんもんやから、なんでかスーツや。スーツしか荷物に入れてへんて言うんやで。そんなん無茶苦茶やないか。入れといてくれて頼んどいたし、入ってる思うやないか。せやのに入ってへんのやで、どないなっとんのや……」
 案外、強引なんやな、小夜子姫。夫の頼みを無視してまで、あくまでスーツか。確かに、ふわふわ系ドレスの女をエスコートする旦那が、紋付き袴やったら変やもんな。スーツのほうが合うてるわ。せやけど髭にはたぶん、和装のほうが似合うてたで。しかしそんなん無視ざます。小夜子ワールドに合わせてもらうから。それでいいわよね浩一さんと、そういうわけやな、小夜子さん。
「俺なんか普段着ですよ」
 普段着のアキちゃんは偉そうやった。言うとくけど俺も普段着や。気がついたらジーンズはいてるわ。ヤバいかこれ。ヤバいんちゃうか。みんな正装か? 少なくともお洒落着か?
 でも、しゃあないやん。水煙が、着るものなんか何でもええって言うてたんやもん。ていうか、あいつなんか裸やで。全裸やないか!
 あいつ興味ないんや、服に。芸術にも興味ないけど、服にもないんや。せやし気付いてなかっただけやないか。実はええ服着てこなあかんということに。
 なんで俺らだけ普段着やねん。パーティーやのに! 考えてみれば、ごっつ変やで。そういや藤堂さんかてパーティー仕様やったで。遥ちゃんは何なんかわからへん。ヴァチカン仕様やったけど。怜司兄さんもええ服着てた気がするわ。あの人いつも、ええ服着てるから、訳わからんのやもん。朝飯屋のジョージさえ、綺麗な服着とったような気がするわ。なんやねん、あいつ、綺麗な服着とったら美しいやないか。たかが人間の小説オタクのくせに、俺より美しい格好で藤堂さんとキスすんな! むかつくんじゃ!!
 うっわ実は俺ら、めちゃめちゃ浮いてたんやないんか。空気読めてない。ドレスコード完全無視や。重要なのはそこや。藤堂さんとキスの件やないで。
「なんでそんな服やねん、本間……お前、祭主なんやろ? 斎服着てこなあかんやないか」
「なんですかそれ。斎服って」
 神社で神主が着てるやつやないか、アキちゃん。平安時代の男が着てるような服やで。そんなんも知らんのか。そういう俺も知らんかったんやけどな。
 ほんまにジュニアはもの知らん。誰か教えてやってえな。今日のドレスコードどないなってんの。全裸の宇宙人、服なんでもええって言うてたけど、あかんみたいやで! 教えて誰か、アキちゃん斎服なんか持ってへん。着たこともない。どないして着るのかも知らんのやって! やばいよう!
「なんですかって…………お前。秋津の跡取りなんやろ?」
 髭、困ってた。うわあ、どないしよ。こいつアホな子やって、哀れむみたいな慌てた目して、嘘やろみたいにアキちゃんを見ていた。
「秋津の跡取りですけど、でも斎服なんていうもんは着たことないです。どこで買うかも知りません。ぼんくらなんです俺は。親がなんも教えへんかったのもあるけど、自分も興味なかったんです。うちの家業のことは」
「知らんのか」
 焦ったみたいに問いただす、髭の話に、アキちゃん堂々と、頷いていた。
「知りません」
 男らしくきっぱり断言する弟子に、師匠は本格的に慌ててきたみたいやった。
「知らんて……どないすんねんなお前! 祝詞《のりと》とか、どないすんねん。もう、今日明日のことやで? 神事なんやで?」
「祝詞《のりと》!」
 感心したように、アキちゃんは、ビシッと反復した。あまりにも無茶すぎる話に、感心したらしかった。
 いきなり祝詞《のりと》上げろ言われてもなあ。皆はやれるか? ただのスピーチとちゃうねんで。祝詞《のりと》やで? しかもアドリブでやで。何の準備もしてへんねんから。
 できるわけない。
 俺のツレも、そう確信したらしかった。
「祝詞《のりと》なんかできませんよ。そんなんできるわけないでしょう。俺は神主とちゃうんやから。ただの美大生なんですよ?」
「ただの美大生ってお前……」
 髭は嫁を抱いたまま、あわあわしていた。
「のんきに結婚なんかしとる場合か! そんなん神事を無事に完遂してからの話やろ。他にもっとやることあったやろ、本間ぁ!」
 がなる髭に、アキちゃんは、一本とられたという顔やった。
「そうかもしれません」
 でももう、がっつり時間を無駄にした後やから。今さら言うても意味ないしな。言われても困るわな、アキちゃん。
 昨夜《ゆうべ》かて、水煙とエッチしとる場合やなかったんやないか。一夜漬けで祝詞《のりと》トレーニングとか、しとかなあかんかったんやないんか。
 服かてどないすんねんな。アキちゃん普通に黒の綿パンやで。袴《はかま》じゃないです。どう見ても袴《はかま》じゃない。どこにでも居るような現代っ子やから。神主ルックやないねんから! 普通にこれからカラオケとか、ラウンド・ワンいってボーリングでもしよかみたいな、そんな格好なんやで。大学の帰りに合コン行こかみたいな、その程度やで。そんなん行ったら半殺しやけどな。
「親はどないしたんや、お前のおかんは!」
 因縁ありありの秋津登与を、あの女どこ行ったんやと探す目で、髭師匠はまるで、アキちゃんのおかんがそこらへんに居るもんみたいに、辺りを見回していた。
「うちのおかんはブラジル行ってます。いつ帰ってくんのか分かりません」
 じとっと暗い声で、アキちゃんは若干、ぼそっと教えた。師匠はびっくりしたようやった。
「息子ほったらかして、なにブラジルなんか行っとんのや、お前のおかんは!」
「知りませんよ、そんなん。俺が訊きたいわ!」
 怒鳴るみたいな銅鑼声の髭に向かって、アキちゃんさっそく逆ギレしていた。さすがはキレやすい現代っ子や。平成の子は気が短い。相手が目上でも関係ないから。てめえの師匠でも平気で怒鳴り返せるから。苑先生なんか、ゴミっかすみたいなもんやから。ゴミ箱の横におちてるクシャクシャのティッシュみたいなもんやから。髭師匠はそれよかちょっとマシなだけ。型どおりの礼儀は尽くすけど、それかてただのポーズやから。内心では対等《タメ》なんや。
 アキちゃんお前ちょっと失礼すぎやで。仮にも剣の師匠に向かってな、その口のきき方はどうかしら。甘えるにもほどがある。
 せやけど髭はそんなアキちゃんが、可愛いらしい。髭の年ならアキちゃんくらいの息子がおっても、変やない。ましてこのオッサン、アキちゃんが小学生のころから知っていて、期待をかけてた。将来有望な、可愛い弟子やった。そんなん、実の子がおらんオヤジにとっては、自分の息子みたいなもんや。我が儘で、慣れ慣れしいのも、好印象のうち。よしよし、お父ちゃんが鍛えてやるからな、覚悟しとけよみたいな、そんなドツキ合い師弟愛やないか。アキちゃんのパパ第何号? もう知らんわ。
「ほんまにわからへんのです、師範。俺はほったらかされてんのです。おかんが今どこに居るかも、実はよう分かりません。連絡のとりようがないんです、俺には。もう一人前やし、ひとりで頑張れ言うことやないでしょうか」
「どないして頑張るんや。なんも知らんのに」
 あっさり言われた正論に、アキちゃんグサッと来たらしい。思わず髭師匠から目を逸らしていた。
 ほんまやでアキちゃん。どないして頑張るんや。水煙おらんと立ちゆかへん。せやけど、水煙だけおってもあかんぽい。あいつ、案外、大ざっぱやねんから。誰かもっと、事細かに面倒みてくれるような補佐役が、居といてくれへんかったら、アキちゃんまともに仕事できへんのやないか。
「あのな……本間。今、誰がお前の面倒見てんのや? 誰かおるやろ、お前の世話してる大人が」
「大人って……俺かてもう大人ですけど」
「そういう意味やないんや。誰か世話役が居るやろ? そこまで何も知らん奴に、ひとりで大役を負わせようというほど、霊振会は無茶やないやろ。相手は鯰《なまず》なんやで。失敗は許されへんのやで」
 嫁を抱っこしてへんかったら、アキちゃんの肩に掴みかかりそうな勢いで、髭は問いただしていた。やっぱこの人も、霊振会の覡《げき》なんや。鯰《なまず》のことを知っている。ただの剣道場のおっさんみたいな顔をして、普通の嫁ハンもらってるけど、でもやっぱ、一般人《パンピー》ではない。
「探したで、秋津の坊《ぼん》」
 鋭く響く、枯れた美声で、背後から呼ばれ、アキちゃんはびくっとしていた。俺も意外で振り向いた。
 そこには、どこかで冷酒の一杯も、ひっかけてきたような、どことなく据わった目の爺さんが、仁王立ちに立っていた。
 大崎茂や。
 もっと言うなら、神主コスプレの大崎茂や。
 黒の直衣《のうし》を着て、長い白髪を結い上げ、冠までつけた、平安朝のお貴族様みたいな格好をした爺《じじい》が、水干《すいかん》姿の狐を連れて、俺らの背後にデデンと構えていた。
 えっ……と。これ、仮装パーティーやったん?
 秋尾さん、着替えるだけやと飽きたらず、しっぽ少年に変身してきてるけど、そこまで仮装せなあかんの?
 なんか爺《じじい》と狐の周りだけ、時代が違うんですけど。
「なんやねん、その、アホみたいな格好は!」
 俺が言うたんちゃうで。爺《じじい》が言うたんやで。アキちゃんを睨んで。
「アホがお絵かき学校行くんやないんや。正装をしろ。衣冠《いかん》や!」
 茂ちゃん、ぜったい酔っぱらってたと思うわ。だってなんか、そんな感じやったんやもん。
 そしてその俺の勘にはハズレはなく、大崎茂は蔦子おばちゃまに付き合わされて、冷酒をしこたま飲んできた後やった。水占の神事のあと、クヨクヨしかけたヘタレの茂を、元気づけるには酒入れるしかないと、長い付き合いである蔦子おばちゃまはよくご存じで、ホテルの人に頼んで、景気よく鏡割りさせたらしい。樽の酒の、木の蓋を、木槌でパッカーンと叩き割って、そこから汲んだ酒を飲むんやで。
 普通やったら、そのままやと常温やけど、なんせ蔦子さんには、冷え冷え妖怪が付き従っているからな。氷雪系の啓太に命じれば、酒なんか一瞬で凍る。氷結冷酒や。蔦子おばちゃまは、ああ見えて、いける口。酒豪やねんて。それも秋津の血筋かな。啓太に酒、冷やさせて、それを嗜むのがお気に入りなんやって。
 茂ちゃんもそれをお相伴した。しかし酔っぱらったのは茂ちゃんだけで、蔦子さんはまだまだシラフやったらしい。うちの本家の坊《ぼん》の、面倒見てやっておくれやす。もはや秋津の家で教育受けた、男で覡《げき》は、あんただけ。茂ちゃんだけが頼りなんどすと、甘い猫なで声で頼まれて、茂ちゃん、よっしゃ俺にまかせとけって、いい気分になってもうたんやって。
 単純やな爺《じじい》。めちゃめちゃ燃えてた。
「お前のおとんが着てたのがある。見たとこ寸法もいけるやろ。それを着ろ」
 必要以上の大声で言う、大崎茂の横で、にこにこ立ってる平安少年が、これですと言わんばかりに、両手に捧げ持っていた着物っぽいものを、アキちゃんに差し上げて見せていた。
 それも黒い装束やった。茂ちゃんが着てんのと同じコスプレや。茂ちゃんとおソロやで。アキちゃん、さっと青ざめていた。鈍いくせに、そういうことはピンと来るのかな。自分が今から、何を着せられんのか、とっさに悟ってもうたんや。
「そんなん着たことありません!」
 悲鳴みたいに、何の意味もない言い訳を、アキちゃんはしてた。せやけど、そんなもんで逃げられる訳あらへん。
「大丈夫です坊《ぼん》、僕が着せますよって」
 普段と口調はいっしょやのに、秋尾はボーイソプラノやった。そらまあ、しゃあない、体が子供やねんから。アキちゃん、それにも引いていた。
「通常、自分で着るもんやない。お前は黙って立ってりゃええんや」
 えらいお殿様は、自分で服着たり脱いだりせえへんのや。側に仕えてるモンが着せ替えしてくれる。
「秋尾は慣れてるさかい、一分もかからんわ」
「はい先生」
 自慢げに言う大崎茂の側に控えて、狐は糸目で笑っていた。
「えっ……ちょっと、待って……秋尾さん? ここで着んの? ここでは、ちょっと……」
 すたすた服持って寄ってくる狐から、アキちゃんはじりじり逃げていた。でも、背後はトイレで壁やし、髭と小夜子姫もいてるし、逃げ場があんまりあらへんかってん。
 水干姿の和顔美少年が、ひょいひょいっと近寄ってきて、片方の手でアキちゃんの、現代服を着ている腕に触れた。そして、もう片方の腕には、アキちゃんのおとんのお下がりやという、黒い平安服が。
 そう思えた次の瞬間には、どろんと甘い匂いのする煙が、もわっと吹き出て、アキちゃんは狐に化かされていた。ただし化けたんは、アキちゃんのほうやで。
 一瞬やったわ。ほんまに一分もかからへん。三秒くらいやったんやないか。
 もわもわ立ちこめた煙から、ケホケホ言いつつ出てきたアキちゃんは、すっかり時代コスやった。時代祭とか、葵祭で、こんな人見たことあるわ。黒い平安貴族の衣装着て、馬乗ってるオッチャンとか。祇園祭の時にも、おったで。八坂神社の神職の人。
 でもみんな、オッチャンやった。若い奴が着てんの、俺は初めて見たな。
 アホみたいかと思ったら。アキちゃん。……けっこう似合うやん。ええ!? いいかも? イケてるかも? 平安コスプレ。いいかもこれ、俺けっこう好きかもしれへん。いやあん、アキちゃん、今度いっとく? 平安プレイいっとく?
 どないしよ、俺ちょっと萌え萌えかもよ!
 なんつって、俺が目をキラキラさせていると、なんでか知らん、つい今まで暗く泣いていたはずの、小夜子姫まで、まだ涙汲んだでっかい目を、キラキラさせていた。
「本間君……宝塚の人みたい」
 鼻声で、うっとり言われ、アキちゃんは、ギャアアアってなってた。自分の姿を見てもうたんや。平安コスの自分に絶叫。
「寸法ぴったりでしたわ、先生」
 にこにこ言うてる水干《すいかん》少年の腕には、つい今までアキちゃんが着ていたはずの、現代っ子服がかけられていた。いったいどんな魔法で、アキちゃんを着替えさせたんや、秋尾。それ、頼むし、後で教えて? そんな技が使えたら、俺とアキちゃんとの楽しい毎日が、もっと楽しくなれると思うのよ。むろん楽しいのんは、俺だけかもしれへんけどな。
「ついでや。蛇も着替えさせとけ」
 じろっと鋭い目で俺を見て、大崎先生は狐に命じていた。
 えっ。俺?
 なんでも着るよ!
「なに着せときましょ?」
「従者や。狩衣でいい」
 秋尾の四次元ポケットには、なんでも入ってるらしい。はぁいと答えた狐は、ぼかんぼかんと、淡い白煙とともに、俺に着せてくれる用の服を、どこかの位相から取り出してきたらしい。
 真っ白の狩衣《かりぎぬ》に、秋津の蜻蛉の紋が入ってて、裾《すそ》が括ってある丈短めの袴は、青灰色で、三角形をずらずら並べた、いわゆる鱗《うろこ》文様ってやつやった。まあ、いうなればこれも、平安朝の蛇さんルックやで。
 うわあ。大変身。
 どんなもんかなと思って、俺はぴょんぴょん跳ねて見た。案外、普通よ。動きやすいよ。
「髪の毛短いから、冠《かんむり》ずれてきますね」
「まっ、ええわ。形だけやし、今だけやから。馬子にも衣装や」
 茂ちゃん、とりあえずこの平安コスで満足してくれたっぽかった。うむうむ、て顔してた。
 そんな爺とは逆に、小夜子さんは、もうヘロヘロみたいな、困った顔をしていた。
「私、夢見てんのかしら。それとも、ものすごく酔っぱらっちゃってるのかしら。シャンパン飲みすぎたかしらね、浩一さん……」
 口元を押さえて、小夜子さんは旦那の肩に寄りかかっていた。
 変なモン見ちゃった。きっと夢よみたいなノリやった。
 夢かもしれへん。ある意味な。
 怜司兄さん、そう言うてたやん。ここは半分、夢みたいな位相やねん。術法が発動しやすい異世界や。
 小夜子さんみたいな一般人《パンピー》にとっては、普通やったら目を醒ましたままでは、来ることのないような時空やで。
 悪い夢やと、思っとくほうがいい。
「なんや、どっかで見たようなと思うたら、宮本道場の倅《せがれ》か」
 平安コスの茂ちゃんは、やっと今気付いたように、新開師匠に声をかけていた。髭の道場、おかんに魑魅魍魎を差し向けられて潰れる前には、宮本道場いう名前やった。ずうっとその名前やったんや。京都にあった時にはな。
 髭はちょっと恐縮したように、大崎茂に会釈していた。そやけど、あんまり、弄られたくないみたいやった。小夜子姫を抱っこしていて、恥ずかしいからか。
 いいや。そうやない。髭には秘密があったんや。
「知らん間に、お前も大きゅうなったなあ。それが嫁か。跡取りはできたか」
 ノー・デリカシー、その二やな。
 どうも秋津家の屋根の下で育った奴らには、デリカシーが欠如しがちや。そんなん、いきなり訊くなやで。また小夜子姫、泣かなあかんやないか。せっかく俺とアキちゃんの麗しい平安コス見て、ちょっと元気出てたのに。
 でももう小夜子さんは泣きはせえへんかった。アキちゃんので耐性ついてたんか、身構えたように首をすくめはしたけども、旦那の側で押し黙っていた。
「いいや、まだです。先生」
 まだやと、髭は言うてた。まるで、まだまだこれから可能性はあるみたいな口振りや。やっぱ欲しいもんかな、餓鬼というのは。俺はどうでもええけどな。ちびっこいのには興味ないし、居ってもうるさいだけちゃうか。
 でも髭は、本音を言うたら欲しいんかもしれへん。子供がというよりな、道場の、後をとってくれる息子がな。
 アキちゃんも、もしかして、そういう面はあるのかなと、俺はふっと、嫌な予感がしてた。でも、頑張って、知らん顔しといた。だってそんなん、悩んでもしゃあないやん。これからな、生きるか死ぬかの瀬戸際やていう時に、そんなしょうもないこと、いちいち悩んでられへん。ワニに噛みつかれて死にそうなってる時に、俺は将来、癌で死ぬんちゃうかって、心配するやつおらんやろ。してもしゃあない。そんなん、ワニをやっつけてからの話や。
「そうか……。なかなかなぁ、難しいやろな。普通の女やとなあ。お前もそこそこ、血が濃いからなあ」
 うんうんと、深く納得したふうに、大崎茂は言うていた。
「雷電は、どない言うてる。跡取りないまま、お前が死んだら、どないするつもりや、あの神剣は」
 雷電いうのは、髭が道場の神棚に祀っていた、古い刀やろ。茂ちゃんは、まるでその日本刀に、口きくことがあるようなふうに、話していた。
 口きくことも、あるんかもしれへん。
 だって太刀である水煙が、喋んのやしな。日本刀かて喋るかもしれへんやん。それが神の宿る、刀なんやったらな。
「わかりません。話してないので」
「なんでや。ちゃんと話つけとかなあかんで。こんなことは、言いとうないけどな、今回の神事では、死人も出んのやで。それがお前でないとは限らんやろう。身辺整理はきちんとしておけ」
「はい……そうですね。しかし当座、雷電を託せるような相手先もないので、そういう場合は、霊振会でお預かりください」
 俯きがちに、ぼそぼそ言うてる髭は、どうも覇気がなかった。小夜子さんの目が、気になるらしかった。あんた何言うてんのみたいな、問いつめる目で、小夜子さんは旦那を見ていた。
「そういうことになるやろな。見込みのある弟子も、ひとりもおらんのか?」
「いるといえば、居りますが、本間ですから」
 ちらりとアキちゃんを見て、髭は言いにくそうに答えた。
 その目は、知ってる目やった。アキちゃんが、この神事の終わりに、死ぬかもしれへん身の上やということを。
 俺はそれを、むっとして見た。
 この髭。こいつはそれを、いつから知っていたんやろう。何を思って、アキちゃんを鍛えてたんや。まさか、最後は死ぬと知った上で、アキちゃんを鍛えていたんか。
 もしもそうやったら、こいつも、もう殺さなあかんリストの上位に急浮上やで。なんやねんそれは。髭。そんなん知ってたんやったらな、もっと早う言え。もっと早うに知ってたら、アキちゃん拉致って、トンズラこかせる暇もあったのに!
「そうか……」
 不思議な光のある目で、伏し目に床を見下ろして、大崎茂は沈鬱やった。
「明日をも知れんという点では、誰も彼も五十歩百歩やなあ。儂にも跡取りはおらんのや。子供はじゃんじゃん産ませたんやけどな、皆、あかんかったわ。どうも儂の目は、一代限りのポッと出やなあ。遺伝せえへん」
 それがいかにも無念というふうに、大崎茂は悔やんでいた。
「祖父は、先生のことを、取り替え子やないかと言うてたそうです。この世の人やないんやないかと」
 ぼそぼそ教える髭に、大崎茂は、ふっふっふと、自嘲したような笑い方をした。
「そうやったらええんやけどな。神か鬼か物の怪の、子であるほうが、ただの人よりなんぼかましやで」
 それは神人《かむびと》やからや。
 大崎茂は、神人《かむびと》になりたかったんや。小さい餓鬼の頃からな。そりゃそうやろう、秋津ファミリーに囲まれて育ち、一般人《パンピー》から見たら、充分にスーパーな神通力があんのに、お前はヘタレやなあ、只人《ただびと》やって、馬鹿にされてきてんのやしな。俺かてやったると思いたいやろな。
 しかし大崎茂が神仙の世界から来た子か、それは微妙なとこや。取り替え子なぁ。たまにはある話やけども。
 世界中に、そういう伝説はある。妖精やとか、妖怪やとか、あるいは鬼とか神とかが、悪さすんのか、なにか目的があんのか知らん、とにかくな、おかんの腹ん中にいる人間の子供を、異界の血を汲む別の子と、取り替えてまうんや。そうして生まれ出てきた子は、異形の子で、ただの人の子にはない特別な力を、持ち合わせている。それが聖か邪かは、その時々やろけどな。
 とにかく、そうして、異界の血筋は、こっそり人知れず、人界に流入してるわけやな。皆もどうかわからんで。ほんまに人間なんかどうか。
 なんか変やと思うんやったら、もののためしに、おかんに訊いてみ。うち、ほんまに人間なんやろかって。そしたら、おかんが急に怖い顔して、とうとうあんたに話す時が来たって、押し入れの奥からなんか、とんでもないもん出してきはるかもしれへんで。そうなりゃ俺らの仲間やな。出町の家まで会いに来て。亨ちゃんが、カレー食わしてやるから。
 なぁんてな、まあまあ、それは冗談。そんな奴は、滅多におらへん。たとえ通力があって、それが並はずれていても、人は人やで。人間にかて、強い通力のある奴はおるんや。
 大崎茂がどっちのほうか、結局わからん。まだまだ人間やめてない。変な爺さんやけど、でもまだ、人のうち。伏見稲荷の狐と通じた、人間の覡《げき》や。
「秋津の坊《ぼん》よ。儀式や祝詞《のりと》は、儂が替わってやるさかい、よう見とけ。お前に次はないやろけどな、それでも秋津の跡を取る覚悟なんやろ。本来それがどういうもんやったか、逝く前に、しっかり見ておけ。ほんまやったらお前の親父が、ちゃあんと生きてて、やらなあかん仕事やったんやしな」
 くどくど言うて、大崎茂はちょっと、元気なかった。いつも元気ハツラツの茂ちゃんやのに、なんとはなしに、傾いていた。
「ほんまになあ。何をやってんのやろなあ、アキちゃんは。肝心の時に親がおらんなんて、お前も可哀想な子やで」
 しみじみと、そうアキちゃんを哀れんで、大崎茂は小さく首を振っていた。まるでアキちゃんの通夜みたいやった。
「登与姫はな、お前を覡《げき》にはしとうなかったんや。したらお前も、アキちゃんのように、お国のためや、三都の守護職やからというて、大義のために死なねばならんようになるんやないかと、登与姫は恐れてた。ぼんくらのままでええから、普通の子として、長生きしてもらいたいと願っていたんや。それが母心というやつやろな」
 ここに、秋津のおかんが居らんのをええことに、ヘタレの茂は勝手に暴露していた。ええんかな、その話。勝手にバラして、おかん怒ってけえへんか。ていうか、そんな育児ネタ、おかんは大崎先生に話してたんや。
 そら、しゃあないわな。母ひとり子ひとりや。たとえあの、鬼より怖い、えげつない秋津のおかんでも、おかんはおかんや。ひとりでは育児に悩むことはある。蔦子姉ちゃんに相談したかて、しょせんは女同士やろ。おとんの意見が欲しいときはあるわ。せやのに、お兄ちゃんは逃げ隠れして、おるんやらどうやら、少なくとも登与ちゃんの前には姿を顕さんかった。育児放棄や。
 せやし、ヘタレの茂にでも、相談するしかないわな。秋津には他に、血の近い親戚の男もおらんらしいから。それにさ、遠くの親戚より近くの他人や。
 大崎茂は何の血のつながりもないものの、一緒に育ったファミリーの一員やったんや。おかんや、蔦子おばちゃまや、そして、おとん大明神にとってもな。大崎茂は、実質、秋津の男やった。当主として、家を支えたのは、秋津登与やったやろけど、それを陰から支えてたんは、大崎茂やったわけ。
 せやしや、この爺さんも、ある意味アキちゃんにとっては、おとんみたいなもんやで。
「せやけどなあ、ぼんくらの坊《ぼん》よ。お前もつらいやろけどな、アキちゃん居ったら、お前に逃げろとは言うまい。我が身の幸せも大事やろけど、それでも秋津の男には、命がけでも守らなあかん名誉があるわ。一命を賭して守らなあかん、民がおるんや。そうとは知らん、薄情な領民どもやけどな、誰もそれを知らんでも、お前は三都の巫覡《ふげき》の王や。大勢救って死ぬんや。犬死にではない。そこから逃げたらあかんのや」
 そんなええ話、平安コスしてないときに言えばええのに。大崎茂、がっつり酔うてるみたいやった。自分の話にやないで。蔦子さんに飲まされた冷酒にや。
 アキちゃん、感動したいけど、どうしても平安コスが気になって、気が散ってしゃあないらしかった。目が泳いでた。熱く語る大崎先生に、なんて言うたらええやろって、そんな困り顔を必死で隠してた。
 でも、ヘタレの茂、すでにもう自分一人の世界に入ってもうてて、アキちゃんの相づちがないのを、全然気にもとめてない。
 会社の偉い人とか政治家のオッサンて、ほぼ独り言で二時間くらい熱く語り続けられたりするけども、大崎茂はその手合いやで。だって世界企業の会長さんなんやもん。皆の家にも、探すまでもなく一つや二つ、大崎先生の会社の商品がごろごろしてるような、超メジャー企業の会長なんやで。
 そんな、世間的には大成功してる男が、なんでか強い劣等感を胸に持ってて、くよくよ泣いてた。アキちゃんアキちゃん言うて。
「しかしアキちゃんも因果ななあ。せっかく跡取り遺していったのに、その子まで人身御供か。結局、本家の血は絶えてまうのか。無念やろうなあ。死にとうないのに、お家のためやで、耐えがたきを耐えたのに。可哀想やったなあ」
 そんなん言うて、大崎先生、めそめそ泣くねん。
 なんで泣いてんのん、茂。あんたアキちゃんのおとんのこと、大嫌いやったんとちゃうの。
 俺も若干ドン引きやった。
「先生、酔うてはります。べっろんべろんです。お蔦様に、浴びるほど飲まされてきはって、たぶんもう記憶が無いです」
 脇に控えた狐が、ふさふさ尻尾をふりふりしつつ、糸目で笑って可愛く言うてた。なんや秋尾は、嬉しそうやった。何がって、たぶん大崎茂が泥酔してんのが嬉しいんやろ。
 爺さん、意地っ張りで頑固やし、素直やないからな。べろんべろんに酔うて、理性ぶっとぶくらいでないと、ほんまのこと言われへんみたいよ。
「俺もう、ほんまにな、ほんまのこと言うと、嫌やったんやで。命がけで戦ったかてな、勝てっこないやろ。負ける戦やったやないか。それをなんやねん。特攻やないか。そんなんに行ってもらいとうなかったわ。戦争なんかな、あほらし。俺は商人の子やさかい、心根が卑しいんかもしれへんけどな、死んでもどないもこないもならんもんやったのに、アキちゃん死んでもしゃあないやんか。生きといたらよかったのにな。そしたら絵描きになれたやろうに」
 くよくよ言うて、大崎茂は濡れた酔眼で、恨めしそうにアキちゃんを見た。
「お前のこともな、なんとか生きながらえさせる手だてはないもんかと、これでも手は尽くしたんやで。しかし無理やった。これがお前の運命や。……堪忍してくれ。堪忍やで、坊《ぼん》。俺はほんまに、登与姫に合わせる顔がない」
 黒い袖で、涙拭いてる爺さんに、アキちゃんはさっきまでとは別の意味で、なんて答えていいか、わからんようになったらしかった。
 なんや、爺も、アキちゃん助ける方法はないか、考えてくれてたんや。でも、あかんかったんや。別に皆も、アキちゃん死ぬけど、他人事やしまあええかって、思ってた訳やないんや。
 そう思うてた奴らも居るやろ。世間はそこまで温かくはない。俺にはそれは身に染みている。世間てお寒いところやで。
 せやけどアキちゃんにも味方はいたんや。この子が死ぬのを、ただ手をこまねいて待っていたわけではない人らは、この世の中にいた。
 そのことが俺には、何でか知らん、大きな力に思えた。
 いくなと祈る声が、恐るべき冥界の神の手を、力ずくでねじ伏せる一瞬が、ないとは限らん。そこに起死回生の策が、ないとも限らんのや。
 今は針穴の先から射すような、一縷の望みでも、俺にとっては熱い、希望の光やってん。それはまだ漠然と、胸騒ぎのように感じられるだけの、淡い予感やったんやけどな。
 アキちゃんを救う、手だてはあるんやないやろか。少なくとも俺が、それを諦めへん限りは。
 俺は憑いた相手に、幸運を授ける蛇で、もとは淡水に君臨した神やった。水と大地と豊穣を司る、身の内に命の源を持った神様で、歴史に残る名を、授けられていたこともある。かつてはエアと。そして南米では、ケツアルコアトルと、あるいはククルカンという名で、深く信仰されていた。
 俺はその、残り火のような欠片《かけら》。せやけど、この身の内のどこかに、往事の力は残ってへんのやろうか。ほんのひとかけらでもいい。アキちゃん救って、それきり力を使い果たし、ただの、もの言わん蛇に戻ってまうような、その程度でもええねん。それでアキちゃんが、助かるんやったらな。
 だけど、そうなってもアキちゃんは、生き残った後の永遠の時を、俺とふたりで生きていってくれるやろか。生きていってくれと願って、かまへんのやろか。俺はそれが、心配やねん。
「先生、もう言うこと言えましたやろか。けっこう酔うてはりますよ。あっちで休みはったらどうやろ。朧《おぼろ》ちゃんがな、歌うたうんやって言うてたし。先生の好きな歌、うとてもろたらどないですやろ。懐かしいなあ。昔の祇園の、夜みたいに」
 よしよしって、小さい子でもあやすみたいに、狐が茂の背をなでて、もう行こうかって、誘うていた。大崎茂は無念らしかった。会えば憎いことしか言わん爺やったけど、この人なりにアキちゃんは、可愛かったんやろか。
「朧《おぼろ》も可哀想やなあ。アキちゃん恋しいやろうになあ。あいつもほんまに……可哀想な神や」
 しみじみと、哀れむ声で言うて、大崎茂は洟《はな》をすすった。ティッシュ無いか、誰か。ティッシュ。おじい、洟《はな》出てきてるし。
 さすが狐は用意がええわ。めっちゃ平安コスな水干の懐から、携帯用の鼻セレブ出してきたわ。さすがや大崎茂。ティッシュがセレブ用や。爺さんそれで、狐に洟かんでもろてた。幼児かあんたは……。洟ぐらい自分でかめよ。情けない。
「あのなあ、秋津の坊《ぼん》。今度は朧《おぼろ》も連れていってやり。あいつは、お前のおとんに捨てられた神や。お前じゃ代わりにならんけど、それでも顔はよう似てる。その服着てたら、まるでアキちゃんみたいや。そんなお前の死出の露払いやったら、あいつもいくらか、慰められるやろ。一緒に来て、お前も歌を聴いてやれ。アキちゃんが昔、そうやったように」
 濡れた袖で、大崎茂はおいでおいでと、アキちゃんを呼んだ。
 なんや、これ、平安コスやなかったんや。おとんコスや。おとんの遺品なんやもんな、この平安服。厳密に言えば、平安服と違う。秋津家の覡《げき》の、正装なんやしな。朧《おぼろ》も昔を思い出すやろ。あいつの愛しい暁彦様が、お屋敷の偉い殿様で、本家の若当主として、生きて頑張っていた頃のことを。
 行くんか、アキちゃん。おとんの代打に。せっかく俺とふたりきりやったのに、それでも行くか。
 行かなしゃあないんかなあ。ヘタレの茂、泣いてるし。秋尾も、すんませんけど、よろしく頼むという、困り顔して笑ってる。ここに残って、すげえ深刻な顔になってる小夜子さんと、また話すんも嫌やし。怜司兄さんとこ行こか。
 俺はあの人、嫌いやないよ。なんや気も合いそうやしさ。ええよ別に、アキちゃんが、行ってやろかなと思えるんやったら。ちらっと、あの人にも、このアホみたいな平安コスプレ、見せてやったら。兄さん、バカ受けかもしれへんで。げらげら笑って、大喜びしはるかも。
 それとも裏目に出てまうやろか。もしそうなったらヤバいけど、俺らのせいやない。全て茂がやったことです。ヘタレの茂が悪いんや。ヤバそうやったら、俺と二人で、とんずらこいたらええやんか。
 兄さん、後で顔見せろって、頼んでたやん。寂しいんやって。
 あれは信太に振られた腹いせの、あてつけをしてやるために、アキちゃんに媚びてみせただけなんやろけど、あれが案外、あの人の、本音とちゃうか。
 怜司兄さん、嬉しそうやもん。アキちゃんが、甘えたの餓鬼みたく、べったり頼った声色で話すと、可愛いなあ先生って、こそばゆいみたいな顔してる。秋津の坊《ぼん》は、おとんにそっくり。可愛い可愛い。ツンツン冷たいふりをしてもな、どうせそれが、本音やねん。
「なんやねん、せっかく、アキちゃんとふたりっきりで飯食おうと思うてたのにぃ」
 俺は歩き出しつつ、秋尾にブチブチ言うてやった。狐は、あっさり和風ダシ風味の美少年顔で、すんませんと恐縮の笑みやった。
「まあまあ、亨ちゃん。後でちゃんと、埋め合わせするさかい」
 レトロ眼鏡のリーマン男の時と、何ら変わらん口調で言うて、秋尾は大股で、大崎茂においてかれへんように、ぴょんぴょん元気よく小走りで付き従っていた。ふわふわ揺れてる狐色のしっぽが、どうにも気持ちよさそうで、見てると無性に、ぎゅうって握りたくなる。
 でもたぶん、そんなんしたらあかんのやろな。尻尾掴んだらあかん。失礼や。でも掴みたい。そんな葛藤と戦いつつ、俺はどさくさにまぎれてアキちゃんと腕組んで、酔っぱらいのヘタレの茂に先導されて、大宴会場へと戻っていった。
 気付くとそこには、淡い夕暮れの気配がした。気の早い、篝火が焚かれ、その火に幻惑されたような、でかい蝶か蛾《が》のようなもんが、ひらひら舞い飛んでいた。ようく見れば、それがただの虫やのうて、めっちゃ小さい人の形をしたもんが、羽《はね》を生やして飛んでんのやった。
 ここは異界や。文句なしに。あの蝶か蛾《が》も、誰かの従える式《しき》なんやろう。
 誰もその異様に、目を向けてへんかった。少なくとも、霊振会に名を連ねる、巫覡《ふげき》の連中はな。
 一般人は、そうはいかへん。皆、一様に度肝を抜かれ、これは夢やという、忘我の顔つきやった。
 運のいい、連中や。ほんまやったら今夜も、普通に神戸の街にいて、普通の一日を終え、自分の家で眠りにつくはずやった人間どもや。そして明日、鯰《なまず》様が目覚め、この街の大地を激しく揺るがすのに、遭遇した。このうちの何人かは、その大災害で、死ぬことになっていたかもしれへん。しかしこの、霊振会が総力をあげて張った結界の中にいれば、安全や。
 カルチャーショックは受けるやろけど、死ぬよりええわ。それにこんな綺麗な世界を、生きてるうちの人間が、目にすることがあるやろか。
 酔うてきたんか、興が乗り始めてきた霊振会の皆さんは、ずいぶんと、あけっぴろげやった。日頃はお堅く、人のようなふりをしている式神の皆さんも、どうにも正体を現しがちで、普段は鈍色の紗《しゃ》に隠れるように、なるべく目立たんようにしてある美貌も、神戸の夕景の空の下で、惜しげもなく暴露されていた。
 アキちゃんはそういう世界を、どこか切なそうに見た。
 今まで長い間、見えんつもりで生きてきた、異形の世界や。
 それでもアキちゃんにはそれが、ほんまはずうっと見えていたやろ。そんなもん、見えたらあかんと、自分を縛ってきただけで、ほんまはアキちゃんはずっと、この世界が好きやった。
 だって、アキちゃん面食いなんやし。綺麗なものが好きやねん。美しいもんを、素直に美しいと思う、そういう心の持ち主や。こんなもん、この世にあるわけがないと、否定したのは世間のほうで、アキちゃんではない。
 見とれかけていた、諸々の光景から、アキちゃんはふと、目を逸らして、自分の腕にぶらさがっている俺の顔を、まじまじと見た。
 俺にはアキちゃんの目が、爛々と光って見えた。それは強い霊力を持った、強い目やった。
 アキちゃんはその目で、俺をじっと見つめた。それを見つめ返し、アキちゃんをじっと見つめる俺の目を。
「亨」
 囁くような秘密の声で、アキちゃんは俺に教えた。
「みんな綺麗やけど、お前が一番、綺麗やな」
「そうやろか」
 マジで言うてるらしいアキちゃんに、俺はびっくりして訊いた。アキちゃんは、真面目な顔で、こっそり頷いていた。
「うん。そうやで。内緒やけどな」
 聞こえたらそれが、後ろめたいみたいに、アキちゃんはひそひそ言うてた。そんなん言うたら、他の人らが怒ってきはるやろと、アキちゃんは思うたらしかった。
 俺は笑った。なんや、照れくさい気がして。
「そうかなあ、アキちゃん。そうやろか……」
「そうやて。何遍も言わせんな。お前、何遍も言わせようとしてるやろ。わかってんのやで、やめろ」
 歩く先を見る、素知らぬ顔に戻ってアキちゃんは、ちょっとキレそうみたいに言うていた。それにも俺は、笑えてきてた。アキちゃん、ほんまに、照れ屋やな。
「アキちゃん……俺のこと好き?」
 半分ふざけて、俺はそんなことを、アキちゃんに訊いた。照れてんのを、からかっただけやけど、そうやって言うてほしくて訊いた。
「好きや。亨。なんで今そんなこと訊くねん。後で二人のときに話せばええやん」
 ぷんぷん照れながら、アキちゃんは早足に歩いていた。それでも腕組んでる俺の体を、突き放しはせえへんかった。
「なんでこんな妙な格好して、そんな話せなあかんねん。アホみたいやないか」
「しゃあないやろう。おとんコスやろ。皆には、ウケてるみたいやで」
 俺は苦笑して、アキちゃんにそれを教えてやった。
 庭に屯《たむろ》する、美貌の有象無象の中には、あからさまに、うっとりした目でアキちゃんを、遠く見つめる外道もおった。たぶん、アキちゃんが美味そうなんやろ。そして、それだけやない。そうやって見つめる目には、懐かしそうな表情も、混じっていた。
 外道にとっては、百年一昔。アキちゃんのおとんが現役で生きていた頃にも、ここにいる奴らのいくらかは、普通に生きていたんやろ。その時眺めた、秋津の殿様が、懐かしいのも居るんやろ。
 アキちゃんを見る、あたりの視線は、斎服のアキちゃんを、やっと頼もしい秋津の後継者として、見つめたようやった。
 馬子にも衣装とは、まさにこのこと。形から入るのも大事やな。
 アキちゃんは確かに、強い霊力を持った、三都の巫覡《ふげき》の王として、君臨するに相応しい、凛々しくも、美しい、ええとこの坊《ぼん》に見えてたわ。
 出会ったときには、まるで普通の子みたいやったお前も、こうしてみると、全然普通ではない。どう見ても、お前はこっちの人間や。異界に片足突っ込んでいる。神やら鬼とお友達。みなぎる霊力を神通力に変えて、鬼を討ち、神々をたらしこむ。そんな極東の島の、妖術使いやで。
 好きやアキちゃん。お前がほんまに普通の大学生で、普通にただの天才で、普通に絵描きになって、俺と生きていってくれたら、俺はどんだけ幸せやったやろ。持てる限りの幸運を、俺はお前に貢いでやったやろ。そして二人で、どっかに豪邸でもたてて、そこでお前は絵描いて、俺はそんなお前を見つめて、永遠に生きた。それで幸せやって、そんなステキな物語みたいな、シンプルな話にもっていけたやろうに。
 憎いアキちゃん。そんな淡い、乙女チックな夢なんて、俺はもう、きれいさっぱり捨てなあかん。そんな未来は、やってこない。
 お前を見つめる外道や神の、熱い目を見れば分かる。アキちゃん、お前を俺だけのもんに、せしめておくのは無理や。俺がお前と二人っきりになれる日は、もう来ない。俺はそう、覚悟せなあかんなと、自分に言い聞かせていた。
 絵のような蛍《ほたる》が、一匹二匹、黄昏始めた美しい庭に、漂うように飛び違っていた。それはアキちゃんが俺のために描いてくれた、絵の蛍《ほたる》。綺麗やなあと、幻惑されて、俺はそれを見つめた。萩の葉陰に舞っている、淡い緑色の光を。
 その時、不意に、ぱちぱちとはぜる篝火の音に混じって、ラララ、と歌う、透明な女の声が、庭全体に響き渡ってきた。
 皆、不思議そうに、それでも嬉しそうに、空を見上げて、その声を聴いていた。
 声の出所は、すぐにわかった。
 酔っぱらいのヘタレの茂が、案内してくれた。
 真っ赤な革張りのソファセットが、なんでか庭にででんと置かれていて、その奥の一段高くなったところに、ロビーにあったはずのDJブースがあった。ここ、ロビー? 庭やんね? なんやもう、よう分からん。無茶苦茶なってる、藤堂さんのホテル。
 でも、とにかくそこに、怜司兄さんはいた。革張りのチェアに座り、収録機材らしい箱形の機械の上に、長々と寝そべっている、鳥のような女に、収録マイクを差し向けてやっていた。
 ラララ、と澄み渡る声で、頬杖ついた女は、また歌った。その声をマイクが拾い、庭中に送り届けた。
「ええ声やなあ。こんど、テレビで歌ってみいへん? えらいオッチャン紹介するよ」
 にこにこ愛想よく、怜司兄さんは鳥の羽を身に纏った半裸の女に、そう提案してやっていた。女の子はにこにこしていたけど、返事する代わりに、また、ラララ、と歌った。
 普通の言葉は、喋られへんらしかった。ただ囀《さえず》るだけで。
「あれえ。茂ちゃんやん。秋津の坊《ぼん》も……」
 こっちに気がついて、怜司兄さんはにこにこ愛想いいままの顔で、俺らに挨拶をした。せやけど笑った顔のまま、アキちゃんの上で止まった視線が、三秒くらい固まっていた。その間、頭真っ白なってたみたいに、瞬きすらも止まって見えた。
「どしたん、先生。そんな格好して」
「祭主やさかいな。斎服着せてやったんや!」
 それがどうしたみたいに言うて、茂ちゃんは、どっかりと、赤いソファに腰を下ろした。それは中央のテーブルを囲んで、ぐるりと二十人くらいは座れそうな、でっかい豪華な年代物やった。
「酔うたわあ、朧《おぼろ》。お蔦ちゃん、どんだけ飲ませんのや。あれもアキちゃんとおんなじで、底無しやな」
 顔ごしごしして、酔いに苦しんでいるらしい大崎茂に、狐がどこからともなく、冷えた水のグラスを、先生はいどうぞと、甲斐甲斐しく差し出してやっていた。大崎茂は、あんまり酒に強いほうではないらしい。そのへんも、秋津の奴らと違うところや。
「蟒蛇《うわばみ》やねん、暁彦様は」
 ちょっと恥ずかしそうに、怜司兄さんはそう答え、マイクテストに協力した鳥の女の子に、ありがとうって優しゅう言うてやっていた。女の子はくすくす笑い、ばさっと唐突に開いた翼で羽ばたいて、上空へと、一気に駆け上っていった。
 あれはハーピーか。それとも、迦陵頻伽《かりょうびんが》か。どっちでもいいけど、美しい声で歌う、鳥のような女やった。
「そうやなあ。あいつは蛇やった。人間があんなに飲めるわけない」
 水を飲みつつ、大崎茂は恨んだような口振りやった。
 大酒飲みの人のこと、蟒蛇《うわばみ》って言うねんで。それは、大蛇《おろち》の別名でもある。蛇はなんでか大酒飲みやと、昔から信じられてきた。嘘やないけどな。俺も酒は好きやし。大蛇《おろち》が大酒飲んで、酔うて暴れるような神話、いっぱいあるわ。
 そんな俺から見てもアキちゃんは、ほんまに酒が強い。最初に会うた東山のホテルのバーでも、めちゃめちゃいい飲みっぷりで、思わず笑けてくるぐらいやった。アキちゃんは底無しや。しかも、酔えば酔うほど、本性が出てくる。
 あいつ、ほんまは、タラシやないか。そんな本性、ずうっと隠しといてもらいたいけど、ここだけの話、例のバーでは、俺のこと、めちゃめちゃ口説いてたんやで。別に何か、色っぽいこと言うわけやないんやけども、アキちゃんが、俺のこと、好きやって顔して、にっこり笑うと、なんや、めちゃめちゃ可愛くて、トキメくねん。ほんまやで。
 その人なつっこい可愛げのある面《つら》で、甘えるように言うねん。寂しいねん。俺をひとりにせんといて。一緒にいてくれ。寂しいねんて、めっちゃストレートなんやで。
 それに何や、絆《ほだ》されてもうて。この子、俺がおらんかったら、生きていかれへんのやないかって、そんな勘違いをさせられた。どっちか言うたら、その時点でも、生きていかれへんのは、俺のほうやったのにな。
 タラシの本間が、本腰あげたら、そらモテるやろ。怖い話や。やめといて。ずうっとシラフでいて。照れ屋で不器用なアキちゃんのままでええねん。俺にはそれでも、モテてんのやから。
 けど、もしかするとアキちゃんのおとんは、ずうっと本性出てたんかもな。そのほうが秋津の覡《げき》としては、普通やったんかもしれへん。神様ホイホイ作動中。そんな怖い吸引ビームに、うっかり捕まってもうて、未だに脱出できてへん、そんな神さんもいてる。
 怜司兄さんはアキちゃんを、ちらちら見てた。見たらあかんと思うけど、でも見てまうらしかった。なんや、そわそわして見える怜司兄さんが、嬉しそうというより、悲しそうに見えて、俺は、あららと思うてた。
 あかんのちゃう、ヘタレの茂。作戦失敗とちがう?
 捨てられちゃった可哀想な朧《おぼろ》様に、大サービスと思って、アキちゃんにおとんコスさせたものの、実は逆効果やったんとちがう?
 さっきまで、ご機嫌よくにこにこしていた怜司兄さんの笑みに、なんか無理があった。無理して笑ってるっぽかった。ヤバいんちゃう? 大丈夫かこれ。アキちゃん脱がそか。今ならまだ、間に合うんとちがう?
「来えへんなあ、アキちゃん」
 ノー・デリカシーの酔っぱらい爺、ヘタレの茂が、そんなこと言うた。アキちゃんの隣に、ちんまり座っていた俺は、それにビクッとしてた。
 あのな。空気読めジジイ。俺でさえ、怜司兄さんの顔色チェックしとんのに。アキちゃんの隣にくっついて座るのも、なんか悪いかなぁ、とか思て、ちょっぴり離れて座ってるくらいやのに。ちょっぴりやけどな。それでも、この俺が、そんな気を遣うてやってんのやで。ほんま言うたらお膝に座りたいくらいやのに!
「来てるやん、アキちゃん」
 苦笑しながら、怜司兄さんは煙草に火をつけて、ヘタレの茂に答えてやっていた。
「えっ。来てんのか? 会うたんか、お前」
 めちゃめちゃびっくりしたように、ヘタレの茂は中腰なってた。それにも朧様は、さらに苦笑して、小さく肩震わせていた。
「今はそれがアキちゃんや」
 俺の隣に座っている、おとんコスのアキちゃんを、煙草持った手で指さして、朧《おぼろ》様は大崎茂をたしなめた。それに茂ちゃんは、なーんやという、がっかりしたような顔をして、どさりと席に戻った。
「倅《せがれ》のほうやない。おとんのほうや。なんでアキちゃんは顔出さへんのやろ。来てもええはずやないか。あいつが秋津の当主なんやから」
「もう死んでんのやで?」
 涼しい香木の匂いのする煙を纏い付かせて、怜司兄さんはさらりと言うてた。アキちゃんを見ないようにして。
「死んだかしらんけど、魂は留まってんのやろ。あいつは神になったのやろ。ほんなら現れて、秋津のために働いたかて、罰当たらんやろ。水臭いわ。お蔦ちゃんには会いに来たらしいけど、俺には挨拶なしやで。どないなっとんのや、アホ!」
 誰に言うとんのか、大崎茂は空中に向かって罵っていた。たぶん、アキちゃんのおとんに言うてんのやろけど、仮にも護国の英霊に向かって、アホはないやろアホは。神様なんやしな、おとん大明神。
 でも、茂ちゃんにとってアキちゃんのおとんは、幼馴染みで喧嘩友達。神様なっても、そっちの想い出のほうが強い。死んだかしらんが関係あらへん。挨拶なしかい、薄情者って、そういう気がしたんやろな。
「なんや……それで怒ってんのん? 茂ちゃん」
 面白そうに、くつくつ笑って、怜司兄さんは酒を飲んでいた。たぶんスコッチかな。底の厚い、クリスタルのグラスに、琥珀色の酒が煌めいていた。
「そうや。怒って当然やろ。無礼やねん、あいつは。俺が戦後、どんだけ秋津家に尽くしてやったと思うとんのや。当主やったら出向いてきて、頭のひとつも下げてやな、えらいお世話になりましたって、挨拶ぐらいあってもええやろ!」
「会いたいなら会いたいて言うたらええやん?」
 怜司兄さんに、さらっとツッコミ入れられて、茂ちゃんは、ぐぐぐ、ってなってた。ものすご歯を食いしばっていた。血管切れんで、ジジイやねんから。大丈夫か茂ちゃん。
「会いたないわ。なんで俺のほうから会うたらなあかんねん」
「先生、出征の見送りのときに、暁彦様と大喧嘩しはってな、気まずいんやわ」
 しっぽ少年のままの秋尾が、まるで茂ちゃん本人はここに居らんみたいに、朧《おぼろ》様にチクっていた。その姿を見ても、怜司兄さんが驚いてへんところを見ると、秋尾のこの格好を見るのは、初めてやなかったらしい。
「そんなん、いつものことやったやんか。何を今さら気にしてんの」
「うん。先生な、暁彦様が、茂、俺は死ぬけど、忘れんと、時々思い出してくれ。盆にでも、って別れ際に頼んできはったのをな、やかましわ、亡者なんぞ知るか、死んだら綺麗さっぱり忘れてまうからな、このドアホーって叫んで、港で号泣しはってん。それで恥ずかしいて、合わせる顔がないわけ」
「かっこわる茂ちゃん」
 情感たっぷりにチクるしっぽ少年の話に、怜司兄さんは顔を顰めて、率直にコメントしてた。
「余計な口きくな、秋尾」
「はいはい、すみません」
 むっとして、ソファで腕組みのまま苦虫噛みつぶしている大崎茂の低い怒声に、秋尾はめっちゃ棒読みに謝っていた。悪いと思ってるようには聞こえへんかった。
「帰ってくるアテがあったんやったらな、そう言うたらよかったんや。水くさいんや、あいつは。アキちゃんはお前にも、なぁんも言うてへんかったんか、朧《おぼろ》」
 ブチブチ言いつつ、大崎茂はなにげに訊いたが、怜司兄さんは、黙っていた。ちょっと考えてみているにしては、えらい長い、だんまりやった。
 アキちゃんがなんや、嫌ぁな予感してるようなビビリ顔で、怜司兄さんの顔を、盗み見していた。俺もなんや、嫌ぁな感じしたわ。怜司兄さんを取り巻いている煙が、えっらい濃いような気がして。そこに座っている姿が、もやもやボヤけるくらい、複雑に絡み合った煙が、細身の体を包んでいた。
「さあ。なぁんも言うてへんよ。言うわけないやんか、茂ちゃん。縁もゆかりもない外道に、偉い巫覡《ふげき》の王様が、なにを言い残していくんや」
 平気そうに言うている、怜司兄さんの声が、微かに枯れているような気がして、俺は心配になり、俯きがちに酒を舐めている、霞みの向こうの黒い龍を見つめた。怜司兄さん、めちゃめちゃ暗かった。こんな暗いと、同じ人と思われへん。まるで暗闇の中に、うっそり蜷局《とぐろ》を巻いてる、手負いの龍のようや。
 秋尾は大崎茂の隣に腰掛けて、座面の高いソファのせいで、宙に浮いている足を、ぶらぶらさせていた。
「保証がないから、なにも言わへんかったんとちがいますやろか。戦後、この国がどないなるか、暁彦様は知らんかったのやし、英霊を神として祀るようなことになるかどうか、わからんかったんやもん。帰ってきはったって言うたかて、それは結果論ですやろ。まかり間違えば、あのまま本土決戦で、日本全国津々浦々まで、焦土と化してたかもしれへんのやし、日本という国は、地図から消えていたのかもしれへん。敵さんは、それくらのいの火力は、持ってたんですやろ、あの当時」
「持っていたと思う」
 ぽつりと怜司兄さんは、秋尾の話に答えた。
「茂ちゃん……あのな。俺はあの当時でも、無線を傍受できた。敵の暗号文も、解読できたと思う。そんな俺が、秋津にとって、ほんまに役立たずやったやろか。俺を連れていっとけば、役に立ったはずや。実際、暁彦様は俺んちで、各国のラジオ放送とか、いろんな傍受電波を聞いて、国際情勢は正確に掴んでいた」
「アキちゃん、お前んちに、音楽聴きにいってたんとちゃうかったんか」
 心底びっくりしたように、大崎茂は訊いていた。怜司兄さんは、それに少々、気まずいという顔をした。
「違うよ。そんな甘ったるい子やなかったよ。気晴らしもしたかったやろけど、それ以外のメリットもあるから、俺んとこに来たんやろ」
 おとん、ニュース見に、怜司兄さんとこ行ってただけやったん?
 皆は知ってるかどうか、わからへんけど、戦時中の日本ではな、新聞に、国の偉い人にとって都合のいい嘘が書いてあってん。戦争、めちゃめちゃ負けてんのに、大丈夫や心配すんな、うちら勝ってるで、とか、そんなテキトーなこと書いてあったんや。
 それが嘘やということは、分かってる人らには、分かっていたけども、ほな、実際にはどうなってんのかという、正確なところは、誰にとっても謎やった。ネットもないし、公式の情報網から正しい情報が得られないんやったら、大抵の人らにとっては、戦局は五里霧中やった。
 せやけど、おとんは知ってたんやな。ラジオの精とデキてたんやから。怜司兄さんは、世界中の国の言葉も話せるし、地球を飛び交うあらゆる電波とも、アクセスできてた。噂を掴むことにかけて、怜司兄さんはプロやから。そういう妖怪なんやから。おとんは怜司兄さんに、最近、国際情勢はどうやと訊けば、知ることができた。日本が負けつつあることを。
 それを知っていたからこそ、怜司兄さんは、おとんを連れて駆け落ちしよかと思い詰めたんやし、おとんも思い詰めた。今戦わんかったら、いつ戦うんやと。
「実際そうやって、俺が役に立つって、知ってたくせに、なんで連れていかへんかったんや」
「死なせとうなかったんやろ。それだけやで。水煙もお前の使いでには、気がついてへんかった。あいつは、斬った貼ったの戦いには、精通しているけども、近代戦には疎い。もはや剣や太刀の時代やないんや。鉄砲やミサイルの時代ですらないわな。情報戦の時代や。金融の、金の時代や、朧《おぼろ》。時代は変わった。お前や、俺の、時代やなあ」
 くすくす笑うて、茂ちゃんは、皮肉に言うてた。
「金持ってるやつが、偉いんや。今のご時世。血筋や官位は、関係あらへん。アキちゃん見たら、びっくりするやろ。俺はもう、アキちゃんより金持ちなったし、お前ももう、今や神のようや。綺麗やなあ、朧《おぼろ》。アキちゃんきっと、後悔してるやろ。お前を捨てていったことを」
「そうやろか」
 ぽつりと返事する、怜司兄さんの声は、否定的やった。ゆっくりと荒い息に、心が乱れたような、大きな胸の動きが、なにかの発作の直前のような、不吉さやった。
「後悔なんて……してへんのとちゃうか。してたら、戻ってきたって、一報くらい、あってもええやん。格好悪うて、できへんのか。そんなこと。それとももう、憶えてへんのかな、俺のことなんか」
「どないして忘れられるんや、お前みたいな神のことを」
 大崎茂は目利きやった。美術品や骨董の、愛好家で、ただ好きというだけやない。集めてる。蒐集癖が、あるんやって。売ってるものなら、金に糸目はつけへんし、売ってないようなもんでも、札束で横面張り飛ばして買い取っていく。そんな、えげつない爺さんや。
 好きなんやろう。美しいモンが。欲しいてたまらんのやろう。それは誰しもに多少なりとある欲や。まして爺さん、それを手に入れられるだけの財力や権力を、持ってんのやから、我慢なんかするはずもない。
 欲しいなあて、書画や骨董を見るような目で、大崎茂は時々俺のことを見る。式《しき》なんて、覡《げき》である大崎先生にとっては、そんなコレクションのひとつなんかもしれへんな。
 怜司兄さんのことも、先生は、欲しいらしかった。欲しいなあて、そんな目をして見てた。
 でもそれは、俺を見る時とは違う。幼馴染みのアキちゃんが持ってる、すごい玩具を俺も欲しい。同じ玩具で遊んでみたい。そんな、えげつない欲のように見えた。
 せやけど、これは俺の勘やけど、怜司兄さんはヘタレの茂と寝てやったことはない。これはたぶん間違いない。藤堂さんの話やないけど、いまだかつて一度も食うたことがない、美味いモンを、食いたいなあて見るときの、垂涎の光が、大崎先生の目にはある。
 アキちゃんが食うてる、美味いらしい龍を、俺も食いたい。そんな貪欲で、子供みたいな、ようわからん欲が、大崎茂にはあるらしいんや。
 そりゃあ、朧《おぼろ》様への執着ではない。秋津暁彦への執念や。大崎先生は、アキちゃんのおとんと同じようでいたかったんやろ。それと並び立てる、同等の覡《げき》でいたかった。なんでって、たぶんやけどな。ふたりは兄弟やったんや。大崎茂が弟で、暁彦様は兄ちゃんやった。茂ちゃんは世の中の、ありきたりの弟みたいに、兄貴のやることは、全部自分もやってみたかった。兄貴の持ってるモンは、全部自分も欲しかったんや。
 突き詰めれば、好きやったんやろな。アキちゃんのおとんの事が。血のつながらへん兄弟で、一つ屋根の下で暮らした友達で、いつもドツキ合ってた、ライバルやったんや。そやのにアキちゃん、死んでもうた。大崎茂は、それが許せへんかったんやろう。
「どうするつもりや、朧《おぼろ》。この坊《ぼん》死んだら、どうするつもりなんや。またアキちゃんのところへ、戻るのか」
 もう、酔うてるようには見えへん顔色で、大崎茂は朧《おぼろ》に訊ねた。怜司兄さんは、もくもく煙をくゆらせていた。その向こう側から見ている、しかめられた伏し目の視線は、どこも見てへんかったけど、鋭かった。
「茂ちゃん。縁起でもないこと、言わんといてくれへんか。この坊《ぼん》は、ちゃんと戻ってくるわ。俺のご主人様やで。滅多なこと言うたら、茂ちゃんでも許さへんからな」
 不愉快そうな厳しい声で言う、朧《おぼろ》の顔を、大崎茂はじいっと見つめた。それから、いかにも面白そうに言うた。
「そうか。それは、アキちゃん、妬くやろな」
 こころもち、仰け反ったように喉を見せ、くくくと笑う大崎茂の歯列には、狐みたいな、小さい犬歯があった。もしや尻尾もあるんではと、思えるような気配が、大崎先生の全身から匂った。秋尾はにこにこ、その傍らに侍り、空になっていた水のグラスに、黒漆《くろうるし》の水差しから注いでやっていた。
「美味い水やなあ、秋尾」
「はい先生。伏見の白菊水ですわ。今朝方、あちらから取り寄せまして」
「そうか、気が利くなあ、お前は。せやけど、そんな気が回るんやったら、なんでついでに伏見の酒も、持ってこさせへんかったんや?」
「はあ、酒ですか」
 それはしまったという顔で、秋尾は驚いていた。
「さっきお蔦ちゃんと飲んだけど、このホテルが用意してたのな、灘の酒やったわ。気が利かんホテルやで。酒というたら伏見やろ。『神聖』がええなあ。アキちゃんが好きやった……坊《ぼん》は、いくつや。酒飲める歳か?」
 唐突に話をこっちに振ってきて、大崎茂はアキちゃんに訊いた。アキちゃんはびっくりしたように、頷いていた。
「飲めます」
「ほな、一献《いっこん》、酌み交わそうか。これが最初で最後に、ならんとええけどな」
 ふん、と忌々しそうに鼻で笑って、大崎茂は狐に命じ、半紙と筆を出させた。
 それは、矢立《やたて》という、パイプみたいな形した、昔々の筆入れや。金属製の墨壺と、筆を入れておく筒がセットになっていて、携帯用の書道セットやな。
 しかし、狐が差し出したそれは、どうも絵を描くための筆で、墨壺の飾りとして、鋳物《いもの》の鳥居と狐が乗っかっていた。ようできた、古い品のようやった。
 大崎茂はその筆で、半紙の上にさらさらと描いた。上手な絵やった。陶器でできた酒瓶と、そこから注ぐための、白い釉薬《ゆうやく》をかけたぐい飲みが二つ。酒瓶の上には、えらい達筆の字で、『神聖』と酒の銘柄が、描き混まれた。
 せやけど、これ、絵に描いた餅ならぬ、絵に描いた酒や。これをどないして、酌み交わそうというのか。
 肝心なのは、こっからや。大崎先生の持っている、特殊能力。
 茂ちゃんは、自分が描いた絵の上を、人差し指で撫でるようにして、何かを探す手つきをした。そして、突然、生け簀《す》の魚でもとっつかまえるみたいに、えいっと素早く、紙の中に手を突っ込んでいた。
 破いたんやない。絵の中に、手が入ってる。
 俺もアキちゃんも、びっくりしてもうて、ただ、あんぐりとして、大崎茂の手の先が、墨で描かれた絵のようになって、紙の中にあるのを、じっと見下ろした。
 爺がそのまま、絵の中の酒瓶を引っつかんで手を引き抜くと、果たして伏見の銘酒『神聖』は、その姿をこちら側の位相へと顕した。ぷうんと甘い、日本酒独特の、いい匂いを漂わせながら。
 ぽいぽいと、二個のぐい飲みも取り出され、半紙また元の、真っ白い紙に戻っていた。狐はその手際をにこにこ眺めているばかりで、怜司兄さんも、やっぱり驚かへん。これは大崎茂にとっては、大して骨の折れることではないらしい。
 しかし、どえらい奇跡や。まさか世の中に、絵に描いた餅を食える奴が居るなんて、俺は知らんかった。
「飲んでみい、坊《ぼん》。末期《まつご》の酒や」
 ぐい飲みに酒を注ぎ、大崎茂は意地悪く、アキちゃんにそう勧めた。
「これ……見た目は酒でも、実は墨ってことは、ないですよね?」
 アキちゃんは酒の匂いを嗅ぎながら、用心深く確かめていた。
「んなわけあるかい。儂の神通力は、狐や狸の妖術とは違うんやで。ほんまもんの酒や! 味わって飲め」
 そう怒鳴る、大崎茂のほうを、じっと見たままアキちゃんは、ちびちびと飲んだ。ものすご警戒した飲み方やった。俺は横でそれを、じっと眺めた。
「絵の中の食いモンて、絵から出せたからって、普通に食うてええもんなんですか?」
 もう飲んでもうた、ぐい飲みの酒を、飲んでもうたと見下ろして、アキちゃんは大崎茂に訊いた。爺さん、可笑しそうに含み笑いしながら、自分も酒を飲んでいた。
「そら、通力しだいや。下手がやったら、紙みたいな味がするかもしれへんで」
「大崎先生も絵を描く人やとは、知りませんでした」
 その絵がけっこう上手かったもんやから、アキちゃん急におとなしなってた。露骨な子や。絵の上手いやつのことは、素直に尊敬できるらしい。大崎茂の絵は、一言で言うと、粋(いき)な絵やった。アキちゃんが描くような、細密な絵とは違うけど、大ざっぱやのに味がある、枯れた筆跡が格好ええような、肩肘張らん、ざっくりした絵や。
「儂(わし)は描かへん。とっくの昔にやめてもうたわ」
「でも上手いやないですか?」
「そうやろか。お前のおとんに勝たれへんもんやから、嫌んなって、やめてもうたわ。一人で描いてもおもろないしな。絵描きになりとうて描いてた訳やないんや。お前のおとんと、張り合うてただけやねん」
 そういう割には、大崎茂は才能あった。そいつは天与のもんやろう。苦労して得たもんやないから、有り難みが薄かったんか、それとも大崎先生は、アキちゃんのおとんが出征したまま戻らんかったことに、よっぽどガックリ来てもうたんか、絵を描くことを放棄していた。人が描いたのは見るし、高い金払うて買うてやるけども、自分はろくろく描かんようになっていて、たまにこうして落書き程度。それで惜しいことないんやって。
 戦争によって、画壇はふたりの天才を逃したんかもしれへん。いや、実はもっと大勢いたんかもしれへん。絵に限らず、すごい才能を持って生まれてきたけど、生憎の戦争で、その才能を発揮する間もなく死んでもうたような人らも、大勢おったんやろな。
 アキちゃん、ラッキーやった。平成の子で。もしも自分に才能があれば、それを活かすことができる。自分の努力しだいや。そういう、自由な世の中なんやもん。
 生憎の鯰《なまず》様や龍に、食われて死なへんかったらな。
「お前のおとんはなぁ、坊《ぼん》、ほんまに絵描きになりたかったんや。とはいえ、ボンボン育ちでな、それで食いたいというほど、金勘定のできる奴ではなかったけども、絵だけ描いて生きてられたら、それが一番幸せやって、そんな男やったわ。家を継ぐのも、内心渋々やったやろ。それでも怠けてはおらんかったで。お前の歳にはもうとっくに、立派に一人前のご当主様で、誰にも文句のつけようのない、実力と経験を兼ね備えた、立派な覡《げき》やった」
 狐が酌とっている、自分が絵から取り出した酒の、とろりとした水面を見つめ、大崎茂は淡々とアキちゃんに話した。
「本音を言うたら、そら嫌やったやろ、アキちゃんも。死にたないわ、誰かてな。好きな絵だけ描いときたい。お前もそう思うてんのやろ。正直に言え」
「思てます」
 アキちゃん、めっちゃ正直やった。即答やった。
「そうやろう。正直でええわ。それでもお前のおとんが逃げへんかったのはな、理由があんのや」
 アキちゃんに、酒を注いでやりながら、ふっふっふと糸目になって笑い、大崎茂は人を化かす狐のようやった。
「あのな。アキちゃんはこう言うていた。茂、いろいろ考えたけどな、活動写真でヘタレなやつは、逃げて背中から斬られるもんやろ。俺はそういうふうには、死にたないねん、と……」
 それがいかにも可笑しいらしく、大崎茂はなにかを思い出している目付きで、微かに身を揉んで笑っていた。
「要するにな、坊《ぼん》、お前のおとんは、格好悪いのが嫌で、逃げへんかったんや。突き詰めれば、ただそれだけのことやねん。アホやなあ、アキちゃんは……ほんまにアホやった」
 懐かしそうに、そう言うて、大崎茂はまた酒を、一気に呷《あお》っていた。ぷうんと甘い、伏見の酒の匂いがした。
「けどなあ、坊《ぼん》。お前のおとんは、ほんまに、格好ええ男やったわ。俺には到底、勝たれへん。誰も勝たれへんぐらい、格好ええ男やった」
 しみじみ言うて、大崎茂は酒に濡れた、自分の唇を舐めた。
「お前もなあ、坊《ぼん》……その血を示せ。アキちゃんと、登与姫の子ぉなんやったらなぁ、できるやろ。お前がただのぼんくらやなんて、俺は信じへん。アキちゃんの子ぉなんやろ、本間の暁彦。えらいおとんの名をもろたんやさかいなぁ、その名に相応しい男に、ならなあかんのやで」
 なんやようわからん、艶っぽい声で、爺さんがそう言うていた。ほんまはこの人、もともと人間やのうて、狐か狸が化けてんのやないかって、そんな気がする、妖しさやった。ほんまにただの人の子の、はずなんやけどなぁ、茂ちゃん。せやけど、狐に取り憑かれ、狐みたいになってきてんのやないやろか。
 秋尾はえらい、にこにこ、にんまりして、ええ気分らしかった。可愛い顔して笑うてるけど、こいつが側についてるせいで、大崎茂は狐憑き。アキちゃんが俺と、一緒におったせいで、蛇憑きになってもうたみたいにな。
 そして大崎茂の場合、狐は一匹だけやない。もっとすごい、狐の神様が、茂ちゃんのバックについてた。
 その神様が、突然ぼよよーんとご光臨なさったんやから、びっくり仰天、ほんまの話や。
 ボワーン、てものすごい白煙が、俺らの座っている車座の、真っ赤なソファの真ん真ん中に、突然降って湧いた。秋尾がドロンするときの煙と同じ、なんかちょっぴり焦げてるみたいな、香ばしくて甘い匂いのする、もくもく白い煙やった。
「秋尾ちゃん!!」
 煙の中から、でっかい白狐に跨った、大あわて顔の美人のオバチャンが現れた。真っ白い、ふさふさの毛皮みたいな長い髪の毛をしてて、狐みたいな吊り目の目尻に、真っ赤なアイラインが入ってる。しかも、なんでか知らん、右側の目だけ二重目蓋で、しかも睫毛が異様に長かった。
 現れた異様なオバチャンを、俺らはぽかーんと見上げた。秋尾と大崎茂も、ぽかーんと口あけて、あんぐり見ていた。見上げるような、でかいオバチャンやってん。
「ダーキニー様」
 ぽかんとしたまま、少年声の秋尾が、そのオバチャンの名らしきモンを呼んでいた。ダーキニー様? って、誰?
 誰あろう。それは伏見稲荷の大権現様らしい。神様やで、ほんまもんのな。真っ赤っかな千本鳥居で有名な、伏見の稲荷神社に祀られている神さんやんか。
「ちょっと、ダーキニー様、やないわよ。なんやのん、うちの留守中に! 出先で留守電聞いて、びっくりしたやないの。鯰《なまず》の生け贄になるかもしれませんが、すみませんて、すみませんやないわよ。何がどないなってそうなるんか、ちゃんと説明しなさい」
 オバチャンは、唾とんできそうな早口で、一気にそれをまくしたてた。
「いや……ダーキニー様の携帯の留守電、録音時間が三分しかないから。要点だけ。ちゃんとお目通りしてご挨拶せなあかんとは思うたんですけども、どこの御旅所にもいてはらへんし、お忍びでどっか行ってはるていうから、探したら失礼かなあと」
「失礼もくそもあらへんわよ! うち、びっくりしたわ! 虫の知らせで、変な留守電入ってるっていうから、聞いてみて腰ぬかして、睫毛エクステンション植えんの途中でほったらかして、飛んできたわよ」
 エステいってたんやって、ダーキニー様。お忍びで。
 俺ら、どんなリアクションしてええか、わからへんかったもんで、ポカーンのまま静止しとったわ。
「やめときなさい、秋尾ちゃん! やめときなさい! いくらあんたでも、鯰《なまず》に食われたら、死んでまうんえ? せっかくの不死の身を、なんでそんな粗末にすんのん。茂ちゃん死んでまうのが、あんたはそないに、つらいんか?」
 真正面から直球で訊かれ、秋尾は一瞬、うぐって顔をした。そういうことは、訊かれたくないらしかった。
 でも、ダーキニー様、つまり荼枳尼天《だきにてん》、もしくは、お稲荷さんとして信仰されている神様の化身らしい、この、ふわふわ白毛のオバチャマは、そんなこと気にせえへん性分らしかった。細かいことは気にせえへん。ぶっちゃけ訊いちゃう。厳《おごそ》かさより、分かりやすさがウリやった。さすがは庶民派の神さんや。
「つ……つらいです。だって、先生、仙《せん》にしてくれって、長年、願かけてはるけど、ダーキニー様はずっと、まだまだ信心が足らんて、出し渋ってはるし。大願成就する前に、先生、死んでしまいはるんやないかと」
 秋尾はもじもじ、うつむいて、そんなことを答えていた。
「そんな、あんた……あんたはうちの稲荷の眷属やないの。そのあんたがそんな不信心で、どないすんの! うちの霊験を信じてへんのんか?」
「信じてますけど……でも、不老不死の仙人になりたいやなんて、そんなどえらい願い事、いくらダーキニー様でも、ちょっとやそっとじゃ叶える訳にはいかへんやろうと思って」
「そら、そうえ。ちょっとやそっとじゃ、叶えてやられしまへん。せやけど、茂ちゃん、後もうちょっとなんやから……もうちょっとの辛抱やないの、秋尾ちゃん」
 ダーキニー様、オタオタしてはった。オタオタする神さん、俺は初めて見たわ。いやまあ、そらな、俺かてしょっちゅう、オタオタしてるけどもや。神社持ってるような、そんなセレブな神さんでも、時にはオタオタすんのやな。
「もうちょっと、って……いつですのん、それ。僕もう、待ちくたびれてしまいましてん。先生もう、トシやしな……いつ何があるか。心配なんです」
 秋尾はしょんぼりしていた。よかったな、しょんぼりするとき、しっぽ少年のほうで。三十路スーツのほうやのうて。だって、ちょっと可愛いもん、今。秋尾ちゃん、耳も尻尾も、ふにゃあ、ってなってた。大崎先生、それに衝撃受けたみたい。ツボやったんやない? やっぱり爺、そういう趣味やったんや。爺の趣味やったんや!
 アキちゃんな、そうやない違うって、いつも言いよるねん。あれはきっと単に時代考証的なもんや、秋尾さんは平安時代から生きてんのや、せやしあれが普通の格好なんや、コスプレやない、しっぽあるのも狐やからや、少年ぽいのも、それが真の姿やから仕方ないんやってな、アキちゃん、ものすご必死で否定すんねんけど、そんなこと、ありえる? ぜったい爺のツボなんやって。
 関係ないか、それは今。なんやったっけ、今の話。
 そうや、秋尾や。秋尾はものすごガックリ来ていた。いつも、平気でにこにこしてるように見えていたけど、こいつ案外、堪えてたらしいで。ご主人様の大崎茂が、世を去るのではないかという件について、自分は普通には死なれへん霊威を持ってるもんやから、困っていた。なんとかして死ななあかんと、どうやって自殺するか、ずっと考えてたらしいで。
 正気やないな! 頭おかしい。怜司兄さんもやけど、秋尾もおかしい。さすがは古いお友達どうしや。チーム頭おかしいを結成していたんや。ご主人様が好きすぎて、頭おかしいねん。
 やめとけ、そんなん。自分が死ぬ方法よりも、相手を永遠に生かす方法を考えろ。そのほうが前向きや。たとえそれが世の中の理《ことわり》に反していてもや。それが何? So What? 文句あんのかって言うてやれ。お前ら神の端くれなんやろ。奇跡を起こせ、奇跡を! 何か方法があるはずや!
 ……って、ないかな? 普通。ないなあ。普通はな。
 人間は生まれたら死ぬもんや。どんな偉い人でも、金持ちでも、王様でもそうや。通常、その因果からは逃れられへん。人は死ぬ。そういうもんですわ。
 しかし例外はある。人類は古代から連綿と、見果てぬ夢として、不老不死を求め続けてきた。その答えの一つが、仙人になることや。もとは人間やったもんが、なんやかんや修行してやな、たとえば特殊なもん食ったり特殊なエッチしたりして、人間やめちゃう。神様っぽくなっちゃう。それは無理でも妖怪ぐらいにはなっちゃう。それが仙人や。
 誰でもなれるわけやないで。それだけの霊力を持った、素養のある奴だけや。
 大崎茂にはその素養があったのか。
 あったんやなあ。生まれつき、強い霊力を持った子やった。その上、今や、狐憑き。秋尾がべったりとりついてんのやし、伏見稲荷の祭神であるダーキニー様も、大崎茂には目をかけていた。ダーキニー様はこう見えて、強烈強大な神さんなんや。お稲荷さんやで。歴史も古いし、稲荷神社はでっかいのから小さいのまでスタバ並みにあるしやな、日本中に信徒がおるわ。その霊験をもってすれば、人を仙にランクアップさせることぐらいは可能や。
 ただし、金があればな。
 うんうん。えっ? やんな。えっ? なんで金? みたいなな。
 それについては稲荷神の個性について、語らねばなるまい。お稲荷さんは、お供え物を要求する神さんや。供物と引き替えに、願いを叶えてくれる。願いが叶ったら、お礼参りも要求してくる。前金、後金と、二回払いシステムやな。
 そういう、ビジネスライクなとこある現実的な神さんで、伏見稲荷大社にある、あの有名な、真っ赤っかの千本鳥居も、あれは信者さんの寄進なんやで。お金を払って、鳥居を買うねん。そしてそれを神社にお供えする。ダーキニー様喜ぶ。願い叶えてくれる。信者も喜ぶ。ありがたい神さんやと、信心を深める。ダーキニー様さらにパワーアップ。ますます商売繁盛。大願成就で、信者の皆さんは懐が暖かくなってきて、また寄進する。ダーキニー様パワーアップ。その無限ループ。そのようにして、ダーキニー様は人々を幸せにしてきたし、自分も幸せになってきた。
 供物はなんでもいいけども、今時の世は金や。ダーキニー様も、お金が大好き。
 大崎茂は、某大企業の会長さんや。もとは豪商の息子でな、お金はいっぱい持ってはるねん。それを惜しみなく、ダーキニー様に寄進してきた。それが積もりに積もって、ものすごい額になっていた。そらダーキニー様かて、茂ちゃん可愛いわけやわ。そろそろ仙人にしてやろかって、思うてはったんやって。信心深い茂ちゃんには、それに足るだけの霊験が発揮できそうやわと。
「あ……あと、たったの25円なんやで、秋尾ちゃん!!」
 ダーキニー様、必死で言うてはった。
 秋尾はそれに、ぽかーんとしていた。
「あと25円?」
「そうや。ほんまはこんなこと、教えられへんのやけど……あんたがそないに思い詰めてんのやったら、もう、しゃあないもん。今、死ぬなんて、ドのつくアホのすることえ! 次の寄進で、大願成就やなあって、ウチ思うててんから。金額にしたら、あと25円くらいえ?」
「それ……今、払うたら、今、仙人になれるんやろか」
 大崎茂が、ダーキニー様にそう聞くと、白毛ふさふさのオバチャマ、そうえ、って、あっさり言うてた。そうらしいです。
 大崎先生の大願成就まで、残金あと25円ぽっちやったんやなあ。そんなん、最後に寄進したとき言うてやっといたら、先生、あと25円くらい、普通に払ったやろに。気のきかへんオバチャマや。そやけど、いくら庶民派の、現実的な神さんでも、やっぱ神さんやしな、あと25円ですけどって、言いにくかったんやろか。嗜《たしな》みやんな、神としての。お供え物足りませんとか、もうちょっとくれとか、そういうの言いにくいよな。俺は言うけど。
「秋尾、あと25円、ダーキニー様にさしあげてくれ」
 大崎茂に命じられて、しっぽ少年は、ぎょっとしていた。
「そ、そうですね……でも、すんません先生。僕いま、お財布持ってません」
「何で持ってへんのや、アホ! お前の術法で取り寄せろ」
「は、はい……そうですね。なんや動転してきてもうて。えーと……どこ仕舞ったんやったかな」
 大願成就に緊張してきてもうたらしい、秋尾はテンパっていた。テンパっている秋尾を初めて見た。なんかこいつまでオタオタしていた。
 それを、あぜんと見ていた怜司兄さんが、ぽつりと提案していた。
「貸そか、25円?」
「えっ、現金持ってんのか、朧ちゃん。ちょっと貸しといて!」
 しっぽ少年、涙目で頼んでた。まるでお遣いの途中に、小銭おとしてもうた小学生みたいやった。今時、25円なくて泣いてる子って、小学生でもおらへんかもしれへんけども。
 怜司兄さん、ごそごそとヒップポケットから長財布を取り出して、コインパースを開いてみていた。
「あー、小銭24円しかないわ」
「えっ、そんな! あと一円、誰か持ってないですか!」
 俺たぶん持ってると思うよ! ……って、しもた! 平安コスなってたんやった。俺の服どこやってん、秋尾。あれのケツにお財布はいってたのに。アキちゃんかて持ってへんで、今は。服ごと財布とられてる。狐に財布パクられてる。その狐がテンパってもうてて、四次元ポケットのどこに道具あるかわからへんドラえもん状態やねんから、どうしようもない。
「クレジットカードやとあかんのですか」
 怜司兄さん、ダーキニー様に尋ねていたけど、オバチャマ残念そうな顔をした。
「ごめんねえ、それまだ対応してへんの。しとかなあかんね、こんな時代なんやものねえ」
「そうですねえ。電子マネーとかね、いろいろある時代やから」
 そんなふうに、怜司兄さんが稲荷神と世間話で繋いでいる間に、俺はふと、そこらへんを通りすがる藤堂さんと、嫁の遥ちゃんを見つけた。遥ちゃん、またぷんぷん怒ってた。どうも藤堂さん、ジョージに挨拶されすぎなのを、遥ちゃんに見つかっちゃったみたい。挨拶は一回だけにしとかんとな。
 そんなところに声かけて、悪かったんやけど、とっさに頼める相手が、他におらんような気がしちゃってさ。俺、叫んじゃった。
「藤堂さん! 1円貸してくれへんか!!」
 思わず頼んじゃったけど、変やったやろか。別にええやんな、俺がオッサンに金借りたって。借りるっちゅうか、1円くらいくれよ。たとえもう、赤の他人でもさ。1円くらいええやん。
 あかんか。そのへんはキッチリしとかなあかんか。もうツレでも下僕でもない、遥ちゃんのモンやしあかんか。
「1円?」
 わざわざ俺らのほうに来てくれて、ジト目の遥ちゃんを連れた藤堂さんは、助かったという顔をしていた。たぶん、遥ちゃんと二人きりで、ぶつぶつ責められるのが、しんどかったんやろう。オッサン俺らと行き会えて、嬉しいみたいな顔をしていた。
「なんで1円なんか要るんですか」
 誰に訊いてええか、わからんという泳いだ目で、藤堂さんは誰にともなく訊いた。それに秋尾がぺらぺらと、ややテンパったままの早口で、事の次第を説明していた。
 そんなしっぽ少年を、これ誰、と、藤堂さんは、いかにも困ったように見下ろしていたが、秋尾があんまり熱心に頼んでいたので、あえて問いただす気も起きんかったようで、上着の内ポケットから、ぴかぴかつやつやの、趣味のええコルドバン革の黒財布を取り出して、1円ないか探してくれていた。
「ないなあ……」
「ないもんやねんなあ、1円玉って、案外な。要らんときにはじゃらじゃらあるのに。それにしても、いい財布ですね」
 じっと物欲しそうに見て、怜司兄さんが、藤堂さんの財布を褒めてた。目ざといなあ、兄さん。本能か。
「ええ男っていうのは小物まで抜かりない。イケてるな支配人。こんどほんまに俺とどうですか」
「話しかけないでください」
 まじめに勧誘している怜司兄さんに、遥ちゃんピシャーンて言うてた。勇気ある怜司兄さん、神父の防衛線をちょろまかそうなんて。そんな気合いが湧くくらい、藤堂さん気に入ったんか。やめといて。俺のやし。お前はおとん信者なんやろ。俺の男に手を出すな。
「1円玉やないとあかんのか?」
 気安いふうに、藤堂さんは俺に訊ね、また遥ちゃんに、じろりと見られてた。遥ちゃん、全方向的に警戒態勢に入ってる。まるで地雷原を這い進む兵士の気分やねんな。まあ、そうなるわな、神さんだらけの魅惑のパーティーやねんしな。
「えっ。知らん。1円玉やないとあかんの?」
「ていうか、25円ちょうどやないとあかんの?」
 俺が訊くと、それに話を継ぐように、怜司兄さんが訊いていた。誰にともなく。
 しかしやな、それに返事できるんは、一人だけやんか。一人やないわ。一柱。ダーキニー様しかわからへんのやから。
 そやのにオバチャン、ぼけっとしてはった。どうなるのかなあって、事態を静観してはった。
「あっ、そうか。ダーキニー様が25円なんて言わはるから。金額、多すぎるんは問題ないんですよね?」
「えっ、なに? ウチに言うてんの? そうえ。多すぎて困ることなんかないやろ?」
 オバチャン、こんな大事なシーンやねんから、ちゃんと集中して話に入っといてもらわな困るよ。大崎茂が永遠に生きるか、それとも老衰で死ぬかの瀬戸際なんやで。あんた神さんやから、そんなのチッポケなことに思えるんかもしれへんけど、大崎茂と狐にとっては、一大事なんやで。
「なんや、もう! そんなん早う言うてください。現金やったら何でもええんですよね?」
 自分がボケ気味なのを棚に上げて、秋尾は少々キレていた。自分の主神に対してそれはどうか。それでもダーキニー様、素直にゴメンネ言うてはった。ごめんね秋尾ちゃん、堪忍え、って、素直に謝ってはった。ちょっと天然やな、このオバチャマ。
「何円でもええからお金かして、朧ちゃん」
「ごめん俺いま現金は24円しかない。あとはカードしかない」
 ほらな、やっぱりそうやろ。怜司兄さん、現金は持ってない人やで。忙しくて、銀行とかATMに、現金おろしにいく暇なかったんやって。怜司兄さんでもATMとか行くんや。行くんやなあ。俺かて行くもん。時々、人感センサー反応しなくて、ピッて押してるつもりが無反応とか、そんな切ない瞬間あるねんけど、怜司兄さん平気やの? ピッピッて、できんの?
 どうでもええか、そんなこと。こんど訊いてみとくわ。
「そうなんか。どないしよ……」
 秋尾はまた青い顔して、ちょっぴり涙目やった。お前がそんな弱い子やったなんて、今まで知らんかった。可哀想に、人知れず思い詰めてたのね、秋尾ちゃん。もっと素直になればいいのに。いっしょにテンパろうよ、いつも。オタオタしようよ、俺らみたいに。
「一万円札しかないですけど、それでよければ」
 やったー。頼れる俺の男、藤堂卓が福沢さんを持っていた。それを、はいどうぞ、って差し出されて、大崎先生は、むっとしていた。
「お前の情けなんか受けへん」
 どないしたんや、おじい。朧《おぼろ》の金なら借りられても、藤堂卓は嫌なんか。誰の金でも金は金やろ。贅沢言うたらあかんのやで。
「えっ、先生! 今さらそんな。借りて寄進したらええやないですか!」
「なんで天下の大崎茂が、たったの25円ぽっちがなくて、他人に恵んでもらわなあかんのや。そんなん、しとうないわ」
「そんな殺生な……わがまま言わんといてください! しゃあないなあもう……言い出したら聞かへんのやもん先生は。わかりました、僕ちょっとお財布探しますから、ちょっと待って……」
 秋尾は血相変えて、ぼかんぼかん白煙を上げ、いろんなもんを異界から取り出しはじめた。茶釜とか、長刀《なぎなた》とか、金魚の餌とか、訳のわからんもんが次々出てきた。狐、ほんまにテンパってるらしかった。果てはオート三輪の小型トラックとか、薬屋さんの前に立ってるオレンジ色の象、サトちゃんの人形まで出てきた。何がどんだけ入っとんねん狐。
「どうしよう、見つからへん。どうしよう」
 サトちゃんには、さすがに参ったんか、狐はオレンジ色の象にとりすがって、また泣きそうなってた。ものすごい光景やった。
「落ち着いて探せ、秋尾ちゃん。どっかにあるはずや。いつもやったら寝ててもできんのやろ?」
「そうやけど……」
 ぼやく狐は鼻声やった。マジで泣きそうなっていた。
 怜司兄さん、それに呆れたみたいで、座っていた椅子から立ち上がり、すたすたと秋尾んとこに来た。
「しゃあないなあ、俺が探してやろう」
 そう言うて、怜司兄さんは狐の腹のあたりに、よいしょと腕を突っ込んでいた。その手が体ん中を貫通している。いや、貫通はしてへんか。背中から出てきてるわけやないから。四次元ポケットを探ってる状態や。ほんまに腹にあるんや、あのポッケ。
 ごそごそ探して、ぽいっと何か取り出したけど、それが古い錦の巾着で、どう見ても現代物やなかった。
「あかん、寛永通宝や。いつの時代の銭やねん、秋尾ちゃん。こんなんとっといても使えへんのやで。時代時代で新通貨に両替していかんと……あっ、これちゃうか?」
 これや、って怜司兄さんが取り出した革財布には、聖徳太子の一万円札が入っていた。知ってるか、旧札やで。今のお金よか、ちょっとデカくてな、黒っぽいねん。
 せやけどまだまだ現役の紙幣やで。聖徳太子かて、まだまだ通用すんのや。
「これ、いけます?」
 聖徳太子の万札を、ひらひらさせて、怜司兄さんはダーキニー様に尋ねていた。
「あら、懐かしい。最近めったに見いへんようになったわあ」
「でもまだ使えるはずやで。なんやねんこれ。百円札まである。懐かし! 板垣退助やないか。これかて、まだ使えるはずやで。これでええんやない? 百円あったら足りますよね」
 青みがかった地味な札に、ものすごい髭を生やしたサンタクロースみたいなオッチャンの絵が描いてある、百円札を取り出して、怜司兄さんはダーキニー様に訊いた。
「おつり出ないけど、ええかしら?」
「おつりなんかとったことないでしょ、ダーキニー様!」
 秋尾、キレそうなってた。早うせえて思うんやろな。
「いやいや、たまにいてはんのよ、秋尾ちゃん。おつり下さいっていう信者さんも」
「そんなんええから、早う仙人にしてください!!」
 すでにキレてた。怒鳴ってた。ダーキニー様びびってた。いやぁんて、逃げ腰なってはった。
「はいはい、わかりました。そんな怖い顔せえへんといて頂戴。いややわあ、もう……」
 ぶちぶち言うて、ダーキニー様はくるくると、空中をかき混ぜるような仕草をした。その指には、ものすご凝ってる付け爪が、はりつけられていた。藍色の地色に、狐火が点々と灯った、伏見稲荷の千本鳥居が、赤く立体的に描かれている。
 その爪を着けた指で、ダーキニー様は、くるくるドーン、みたいな魔法使ってるっぽい動作で、大崎茂を指さした。それによって、ものすごい煙とか、ものすごい光とか、ものすご爺さん悶絶するとか、とにかく何かものすごい事が起きるもんやと、皆、身構えて待っていたけども、しばらくシーンてなっただけで、なんにも起きへん。大崎茂も、ただ突っ立っているだけやった。何事もない。
 失敗したんか?
 そんなふうに、皆の目線が泳いで、お互いの顔を確かめ合う頃、ダーキニー様は付け爪がとれてへんか、一応確認しますって感じで指先をさわさわして確かめてから、にっこりとした。
「ほな、うち、もう行かなあかんわあ。睫毛エクステ半分しかしてへんしな、続きしてもろてくるわあ、秋尾ちゃん」
「ちょっと待ってください!! 今のなんです? 今ので、終わりなんですか?」
 秋尾、顔面蒼白やった。大崎茂本人よりも、よっぽどテンパっている。
「そうえ。仙人なってるやろ?」
「なってます!?」
 秋尾、気が狂いそうになっていた。なってんのかなコレって、怜司兄さんとふたりで、嫌そうな顔をしている大崎茂の顔面といわず体中を、じろじろ見ていた。
「じろじろ見るな、鬱陶しい……」
「でも先生、自覚症状はあるんですか? なってます? 仙人ぽいですか?」
「わかるか、そんなん。仙人なんか初めてなるんや」
「えっ、でも、先生。そこんとこ大事なんやし、ちゃんと確認しとかんと……」
「もうちょっと、演出効果とか効果音とかあってもよさそうなもんや……」
 怜司兄さんも納得いかんかったみたいで、愚痴っていた。
 もしかして俺ら、テレビや映画の見過ぎかな。実際の奇跡って、特に光とか音とかスモークとか、ないもんなんかな。あれは、そのほうが、それっぽいわって、ハリウッドとかテレビの人らが考えた嘘で、実際にはなんもなしなモンなんかな?
 地味や……もっやもやする。もっと派手なもんが見たかった。大崎茂が紫色に光ったりとかするのを見たかった。いっぺん粉々になって、また合体するとかさ、何かあるやん、そういうの。せめて髪の毛金色で、ドン! なってるとかさあ。それやとスーパーサイヤ人やけどさ。パクりはあかんか。怒ってきはるか。それはまずいよなあ。天下の大崎茂なんやもんなあ。
「もし、体の具合おかしいとこあったら、留守電いれといてなぁ、茂ちゃん。平気と思うけど。若返ったりとかは、多少あるかもしれへんのやけど、不老不死やし、これ以上老けはせえへんのやんか。せやし、トシの調節とかは、自分でしといてなぁ」
 にこやかにそう説明して、テキトーなオバチャマは、すっかり安心したように、ドロンて白煙をあげてドロンしはった。
 四条河原町のどこかのエステで、あなたもダーキニー様に出会うかもしれません。オバチャマそういうの大好きで、日焼けサロンできつね色なってみたりもしてるらしいで。ちょっと吊り目の、インド顔の美人のオバチャマいたら気をつけろ。伏見稲荷の神さんやで! 失礼のないようにせなあかんで。気の良い神さんのようでいて、稲荷神は祟るんや。なめたらあかん。
「どないしてすんねん、トシの調節なんて……」
 爺さん、極めて悩んでいた。
「そ、そうですね。僕はどっちかいうたら、十代の終わり頃の先生とか、そうやなあ……三十代はじめくらいまでの先生が、良かったですけども」
 どきどきしているらしい、糸目で笑って、しっぽ少年は嬉しそうに、怖ず怖ず言うてた。ほっぺピンク色やった。大崎茂は、それを鬼みたいにじろっと睨み付けていた。
「誰がお前に好みを訊いてんのや、アホ!」
「今もステキです」
 ぼかーって殴りつけるような勢いで怒鳴られて、秋尾はひいってなっていた。首をすくめて、頭を庇っていた。くわばらくわばらのポーズや。それぐらい、おっかないらしかった。
 そうなんや、若い頃の茂ちゃん、ステキやったんや。秋尾にとってはそのくらいが好物やったんや。どんなんやったんや茂ちゃん。それって、アキちゃんのおとんに四条河原で全裸《マッパ》に剥かれてた頃やろ? まさか、ええ線いっとったんか。気になってしゃあない。
「……なんです、今の?」
 まだ一万円札持ったまま、微かに呆然と疲れたふうな、新しい世界についていけてない藤堂さんが、ちょっぴり可哀想やった。ようこそ、アホアホ妖怪ワールドへ。お前にとっては俺のことが、世界でひとりの怖い悪魔《サタン》やったかもしれへんけどな、実は世の中、妖怪だらけやってんて。普通なんやで、亨ちゃん。普通の部類やったんや。少なくとも、今ここで、この妖怪だらけのパーティー会場ではな。
「伏見稲荷の神さんや。もう帰らはった。忙《せわ》しない人やねん……手間とらせて、すまんかったな、藤堂卓」
「いえ。別にいいですけど」
 別にええけど、この一万円札、どないせえ言うねんて、そんな困り顔で、藤堂さんは突っ立っていた。イラついてるらしい、美形の嫁を連れて。
「仕事終わったんか。付き合うて飲んでいけ。伏見酒飲ましたる。灘の生一本がなんぼのもんやねん、味のわかってへん若造め」
「はあ……」
 よいしょってソファに戻っていく大崎茂に、藤堂さんは付き合うたもんか、それとも怖い顔して、もう行くでって睨んでる遥ちゃんの言うことをきくべきか、迷ったようやった。
 いっしょに飲んでったらええのに。そう思って、俺は見るともなくチラチラ見ていたんやけどな、やっぱあかんか。悪い蛇とか、悪いラジオがおるとこでは、遥ちゃん許してくれへんか。
 しかし大崎茂はそんな空気なんか読めへん。空気読めない爺さんやねんから。
「なにしとんねん、はよ座らんか」
 爺にキレ声で急かされて、藤堂さんは、はいはいって、万札を財布にしまいつつ、真っ赤なソファに腰をおろしにきた。それを待たずに、大崎茂はまた、酒を飲んでいた。
「歌でも歌おうか、茂ちゃん」
 煙草をふかしつつ、怜司兄さんが訊いていた。
「そうやなあ。祇園小唄うとてくれ、朧《おぼろ》。アキちゃんが、好きやったやろう。懐かしいわ」
 にやにや言うて、大崎茂は白い歯列にある犬歯を見せてた。その顔が、いつもよりちょっと、若いような気がして、俺はまじまじと、爺さんの顔を見た。
 ダーキニー様の魔法が、効いてきたんかな。くるくるドーン、が。
 しかし、悶え苦しむでもなく、大崎茂はまた、自分が絵から取り出した、伏見の酒をちびちび飲んでた。その舌が、異様に赤いような気がして、俺はぞわっとしたけども、秋尾はにこにこ、嬉しそうに、その先生の酌をとってやっていた。
「お前も、舞妓に化けて踊れ、秋尾」
「ええ……僕もですか」
 渋々のように、秋尾は言うてたけども、それでもご主人様の命令やった。秋尾はそれに、逆らわれへん。
「懐メロがメインや言うても、まさか歌い出しが祇園小唄とはねぇ……」
 苦笑して、怜司兄さんは、革張りチェアに深く座り、よいしょって、高めに足を組んでいた。長え足やった。スタイルええなあ、怜司兄さん。俺も見習って、ちょっとパクろうかな。まさかアキちゃん、あの身体《ガタイ》が好きやったんやないか。くらっと来たんやないか。俺が一番綺麗やって言うとったけど、ほんまにそうかな。怜司兄さん見てるとさ、自信なくすわ、亨ちゃん。
 この狭いニッポンで、目立ちすぎたらロクなことないと思て、常軌を逸するのもほどほどにしとかんとあかんなって、まだまだ常識の範囲に留まれる美しさにセーブしとったんやけどさ、怜司兄さん明らかに常軌を逸してるわ。一般人の群れに紛れても、たぶん一瞬で発見できるわ。目立つねん。
 芸能界《ショウビズ》の神やから、それでもかまへんかったんかな。俺みたいに、逃げ隠れしているような日陰の蛇さんやのうて、むしろ、綺麗やなあ、まさに神やって崇めてもろて、それで生きてる神なんやから、怜司兄さんは。
 俺も昔、大昔やけどさ、偉い神さんやった頃には、見る者が凄いなあって度肝を抜かれるような、麗しい神さんやったやろか。今でも綺麗やって、アキちゃんは褒めてくれるけども、なんか俺は、自信ない。
 もっとフル・パワーでてる、ハイエンド版・プロユース仕様な水地亨で迫りたい。俺の最大出力でアキちゃんの度肝を抜きたい。向こう千年くらい、浮気する気も起きんくらいのベタ惚れのターンに、アキちゃんを叩き込んでやりたいねん。何ならもう、水地亨が好きすぎるあまり廃人になっててもええから。それくらいの骨抜き光線を俺も出したい。
 ていうか、出てへんかったのかなあ。出てるつもりも、ちょっとはあったのに。アキちゃん余裕で浮気してきやがるんやもん。出てへんかったんやろなあ。
 悔しいわあ、って、俺様、ひとり反省会やった。
 そんな俺の可哀想っぽい胸の内は全く知りもせず、怜司兄さんは嬉しそうやった。歌歌うのが好きらしいねん、この人な。そういう妖怪らしいわ。
 ただでさえ神やら物の怪やらは、歌舞音曲を好むものやけども、中でも怜司兄さんは、歌は世に連れ世は歌に連れ、世相を反映した流行曲を、時代時代に歌い継いできた京雀の化身やねん。お歌が大好き。
 かつては歌った。自分を金で買った客の強請るまま。都の歌をうとてくれと強請る、イナカモンにも、京の都の今様《いまよう》をうとてやり、アキちゃん茂ちゃんコンビが遊ぶ祇園の座敷でも、やつらが聴きたい歌は、なんでも歌うてやっていた。
 ただ歌うだけやない。楽器も弾けるよ、怜司兄さんは。なんでも弾ける。
 怜司兄さんはポカンと、黒くてもじゃもじゃした毛玉みたいなのを喚びだした。バスケットボールくらいの黒いダスキンや。ヴィラ北野の廊下を、掃除しとったやつや!
 そいつは、恨んだようなジト目で空中に突如現れて、喚びだした怜司兄さんと向き合いつつ、ぷかぷか浮かんでいた。
 俺とアキちゃんと藤堂さんだけが、ポカーンとして、大崎茂と狐は平然、平成の鬼嫁・神楽遥だけは、むすっと同じ、恨んだようなジト目で、その妖怪を見つめていた。
「茂ちゃんが、祇園小唄聴きたいんやって。せっかくやから生音でいこか。三味線に化けてくれ」
 のんびりした調子で、怜司兄さんが命令すると、黒いダスキンは、キッキッと猿みたいな声で鳴いた。それは、はい、わかりました的なお返事やったらしい。そいつはまた、ポカンと消え、その一瞬後に、なんか長い竿《さお》のある楽器に変身していた。
 三味線?
 ふわりと膝の上に降りてきたその楽器を、怜司兄さんはとりあえず受け取ったけども、張られた弦にはさまれていた白い撥《ばち》で、綺麗な和音を掻き鳴らしつつ、突っ込んでいた。
「ちゃうで、これ。三味線やないわ。三線《さんしん》やで、沖縄の。微妙に違うな。もういっぺん、やり直しや」
 そう言われ、蛇革が張られた三味線みたいな楽器は、さっきの黒ダスキンと同じ声で、焦ったようにキッキッと、また鳴いた。そうして、慌ててドロンとまた化けたものの、今度はもっとちっさくなっていて、三味線から遠くなってた。
「これ、二胡《アルフー》やで。さらに遠くなっていってる」
 怜司兄さんが突っ込むと、黒ダスキンはさらに慌てた。キッキッと鳴いて、ドロンドロン化けまくった。
「いや、ちゃうわ。これは琵琶《びわ》や。いやそれは馬頭琴《ばとうきん》。月琴《げっきん》。シタール。ウード。どんどん遠なっていってるで!」
 苦笑しながら、怜司兄さんがツッコミ入れつづけていると、空中にまたもう一つ、ぽかんと別の黒ダスキンが現れた。
 そいつは怜司兄さんに、ぺこぺこ頭を下げた。といっても、体と頭の区別があるわけやないから、ゆらゆら揺れているだけやったんかもしれへんのやけど、気持ち的には謝っているように見えた。
「こいつ新米なんか。ベテランは他の仕事で忙しいと。なあるほど……でも三味線弾きたいねん。お前が化けて」
 怜司兄さんがそう強請ると、後から出てきたほうの黒ダスキンは、はいはい、それはもうって、粗相のあったファミレスの店長みたいに、平身低頭しながら、何度目かのお辞儀のあと、ドロンと三味線に化けた。
 ちょっと古びた味のある、それでもええ音出そうな、使い込まれた一竿やった。
 怜司兄さんがそれをキャッチするため、今やもう何やわからんようになった新米のほうは、弦《げん》もだらんと垂れてもうて、床に置かれるなり、パチンとくしゃくしゃの古いダスキンみたいなのんに戻った。もう交換かしらね、みたいな、そんなボロボロさやった。
 キッキッと小さく声を上げて、そいつは泣いてた。ほんで、床に垂れた涙を、自分の体でごしごし掃除してた。
 可哀想やなお前。なんて可哀想な奴や! 気にするな、失敗は誰にでもある。新米なんや。誰かて最初は素人や。気にすることあらへん!
 俺は心でそう励ましたけど、心ででも励ましたらあかんかったんかな。涙目で、新米ダスキンは俺を見た。ジト目やったはずの目が、白いハート型になっていた。
 な、なに? なんやねん。そんな目で見んといて。俺に触ると火傷するぜ。
 せやけどもう、時すでに遅しやってん。ハート目になったボロボロダスキン(新米)、ものすごい早業で俺に飛びついて来よってん。うわあって、俺もアキちゃんも仰け反ってたけど、黒ダスキンはそんなもんお構いなしで、床拭いた体で、俺様の麗しい平安コス(レンタル)に、すりすりしよった! これ借り物やのに! 大崎茂に怒られたらどないしてくれんねん!
「あっ、乗り換えよったな」
 びっくりしたみたいに、怜司兄さんがこっちを見ていた。銜え煙草で三味線の調弦しつつ。
「何こいつ!? 何これ!? 何やねん気色悪い! 剥がしてくれアキちゃん、剥がしてくれ!」
 俺がわめくと、アキちゃんが一応、やめとけみたいに黒ダスキンを俺の胸からひっぺがしてくれたけど、それでもダスキン、はふはふ言ってた。まだまだ擦り寄りたいみたいやった。尻尾あったら振ってそうやった。
「何これって、知らんのか、亨ちゃん。最下等の使い魔やで。どこにでもおるやろ? 持ってへんのやったら、それやるわ」
「いらんて! こんなん、いらんから! お返しします!!」
 まだまだ鼻息フンフン言ってるハート目の小妖怪に、俺はひいってなりつつ、怜司兄さんに丁重に辞退した。そやけど怜司兄さん、調弦すんのが楽しいらしくて、俺の話なんか、全然聞いてくれてへん。
「助かるわぁ。増えて増えて困ってんのや。何やったら、もう五・六匹、もらってってくれてええよ。こう見えて、こいつら役に立つんやから」
「大崎先生、うちの廊下を、それに掃除させてますよね」
 ええタイミングやったんやろか。突然、藤堂さんが喋った。恨んでますみたいな、微妙そうな声色で。
「させとるで。助かるやろう、藤堂卓。ホテル広なってるしな、お前んとこの従業員だけやと、掃除ひとつとっても、どえらい超過勤務で労働基準法違反やろ。せやし、式《しき》を貸してやっとんのや」
 ちなみに、大崎先生んとこの工場の掃除も、この黒ダスキンがやってるらしいです。ほんまやで。もちろん、カムフラージュ用に、ほんまもんの人間の清掃スタッフも入ってはるけど、それをはるかに上回る数の、お掃除式神が、夜の工場をワサワサうろついている。警備も兼ねてな。
「こんなもんが、まともに掃除できるんですか……」
 否定したいが、藤堂さんの声は煮え切らんかった。まともも何も、実際のところ、ホテルの清掃レベルは最上級クラスに保たれている。窓も鏡もぴっかぴか、床には塵ひとつなく、喫煙コーナーの灰皿の吸い殻すら、いつの間にやら一瞬で片付いている。食うとんねん、黒ダスキンがな。大丈夫なんか、そんなもん食うて。ニコチン中毒とかならへんのか。さすがは妖怪やな。
「なまじな人間よりええで。怠けしんへな、給料もいらん。それに、普通のゴミだけやのうて、害虫や害獣も駆除しよるし、悪い霊も弱いヤツなら、寄って集って食い尽くしよるわ。お前んとこも、長いこと営業してたら、そういうもんが憑かんとも限らんやろう。自縛霊とかな、客が連れてきて、落としていったような、始末に困る悪霊がな」
「そんなアホな……」
 藤堂さん、大崎茂の話に、困り顔やった。
 藤堂さんなあ。こう見えて、霊感ないねん。全く感じへんらしい。本人は何や、得体の知れん強いオーラを放ってんのになあ。むしろ、そのせいやろか。藤堂さんには、幽霊とかは、嫌がって近寄らんみたいやねん。せやし、そんなもん、見たことないんやんか。
 ホテルちゅうとこは、出ます、みたいな、開かずの間が、ひとつふたつはあるもんやねん。よっぽどのピーク時で、部屋がもうないっていうような時にしか、客を入れへんような部屋がな。そういうのは、必要な措置なんやで。せやけど藤堂さんは、無意味《ナンセンス》やと思うんやって。
 それで、オッサンが、気にせず幽霊部屋に客を泊めるかというと、そうではない。そういう部屋は、統計的に見て、お客様からのクレームが多かったり、トラブルが起きたりと、ろくでもない客室であることは事実やと、藤堂さんも認めている。意味は分からないけども、経験論的に、そこには極力、誰も泊めへんほうがいいと、藤堂さんも認識している。
 しかし、イラつくらしい。その、意味わからへんトラブルに、非常にイラつく。
 俺が東山の某ホテルの最上階で、オッサンに飼われていた頃にも、隣室がうるさいと度々クレーム電話をしてくる客がおって、客室係が対応して、静かにしてもらうようにお願いしておきますと、客を宥めていたものの、あんまりそれが相次ぐもんやから、その客キレてもうて、支配人を出せとロビーで怒鳴ったらしい。
 それで藤堂支配人がご登場やったらしいんやけども、そのキレ客の、うるさい隣の部屋というのには、実は誰も泊まってへんかったんや。空き部屋やった。開かずの間やってん。
 その、うるさい訳はない隣室が、うるそうて敵わんというキレ客に、藤堂さんは頭を下げて、超ハイシーズンやよって、別室をご用意できませんと、詫びなあかんかった。
 それが納得いかへんのや、オッサンはな。イライラしていた。
 それは、いわゆる、騒ぐ霊《ポルターガイスト》やと、俺はオッサンに教えてやったけども、藤堂さん、とことん渋い顔やった。信じる気が起きんかったんやって。変やな。悪魔《サタン》をスイートに囲っておきながら、そんな不思議が納得いかへんというのは。
 でも、とにかく、藤堂さんは一般人《パンピー》やねん。その点においては、ずっと。
 ホテル経営なんていう、微妙な商売をする上で、それは藤堂さんのハンディやったやろけど、でももう、心配いらへんな。霊振会にコネもできたし、それに、何よりツレの遥ちゃんが、その筋の専門家なんや。悪魔祓い《エクソシスト》やで。その仕事はもう、寿退職するらしいけども、それで神楽遥の霊能力が消えるわけやない。こいつには、もし部屋に悪霊がいたら、それがちゃんと見えるはずや。そいつとどうやって、折り合いつけるかも、詳しいんやで。専門家なんやしな。
「別にいいじゃないですか。部屋数が増えているのは、霊振会の皆さんが滞在している、明日までのことです。そのために、ホテルのスタッフを臨時増員するわけにいかないでしょう」
 自分も憮然としているが、遥ちゃんは、まあまあみたいに、藤堂さんを宥めていた。
「あれ何やねん。お前にもあれが見えてるのか。何で俺に、あんなもんが見えんのやろう」
 亨ちゃんラブラブなって、ふんふん言うてるハート目の黒ダスキンを、唖然と見つめて、藤堂さんは助ける気ゼロみたいに、ぼんやりしていた。アキちゃんですら、もう俺を助ける気がないっぽかった。黒ダスキンは、ただ懐いているだけで、俺に悪さする訳やなかったからや。ただラブラブなだけ。
「あれは、邪《よこしま》な霊ですよ。少なくとも、聖霊ではないです。いわゆる妖怪です」
「妖怪ってそんな。幽霊が出るのと、どう違うんや、それは」
 ますます唖然としてきたみたいに、藤堂さんは参っていた。
「違いますよ。悪霊なわけでは。人に悪さはしないでしょうから、居ても害にはならないんですよ。そういうのまで、いちいち祓《はら》っていたら、きりがないですし。神もお許しになります」
 そんなこと、神父でもないお前が、勝手に決めてええんか。ヴァチカンの悪魔祓いマニュアルに、そう書いてあるんか。たとえそう書いてあったとしてもや、白黒つけたい性分やったお前が、そんなこと言うなんて。
「というかですね、卓さん。貴方が今はここの、邪な霊の親玉みたいなもんじゃないですか。妖怪ホテルの妖怪オーナーでしょう。いちいち気にしてたら、身が保たないですよ」
 苦虫噛みつぶしてる遥ちゃんに、嫌みっぽくそう言われて、藤堂さん、軽くあんぐりしていた。遥ちゃんが、そんなこと言うなんて、思ってもみなかったらしいわ。
 俺も、思ってもみなかったよ。遥ちゃん、どうしたん。急にサトリをひらいたんか。
「ほんなら、今、掃除要員で回してるやつ、ここに置いていってもええか。うちもなあ、増えて増えて困ってんのや」
 伏見酒をちびちびやりつつ、大崎茂は上機嫌に言うていた。えっ、て藤堂さんはびっくりしていたけど、遥ちゃんは平気なもんやった。
「ただでくれるんやったら、もらっておきます」
「ただでかまへん。あんな、しょうもないモンをくれてやるくらいのことで、いちいち金とるかいな、神父さん《ファーザー》。こっちが金払って、引き取ってもらいたいくらいやわ」
 しょうもないんや、黒ダスキン。どんだけ無価値な生き物やねん。可哀想。一生懸命、掃除してんのにな。可哀想やないんか。まるで普段の亨ちゃんみたい。俺もいつもアキちゃんちを掃除してやってんのに、最近その件について、有り難いと思われてないような気がするわ。
 亨は家にいて、掃除とか洗濯とか飯とか、やっててくれて当然や、なんでクリーニング屋にスーツとりにいっといてくれてへんのや怠け者みたいな、そんな視線を感じる瞬間あるで。アキちゃんにとって普段の俺って、この黒ダスキン程度の価値しかないんやないか?
 俺、なんや、悲しなってきた。
 ようし、黒ダス、俺が飼うてやる。お前の頑張りは、俺ががっつり受け止めてやるからな!
 そう思って、がしっと抱きしめてやると、黒ダスキンは、嬉しそうにキュウキュウ鳴いた。どっから出してんねん、その音。まあええか。ポチと名付けよう! 可愛がってやるからな、ポチ。抱っこしたらゴワゴワしてるな、正直、気持ちよくはない。もっとフワフワしとかんかいな。可愛さや、人当たりの良さが武器になる時代なんや、今は。ゆるキャラで行け。
「昔は、こいつらを食う妖怪も、街に普通におったんや。でももう、そういうのが減ってきてもうたから、増えるばっかりでなあ。都会の夜には、闇がないやろ。妖怪どもも、暮らしにくい世の中なんや」
 しみじみと話し、酒を飲んでる大崎茂は、いかにも鬼道の世界の人間やったけど、藤堂さんはポカーンやったやろうな。こんな席での話でなければ、大崎茂は頭がおかしい客やと、藤堂さんは結論づけたやろう。実際に、妖怪変化や神やら鬼が、自分とこのホテルで立食パーティーしてる、今みたいなシチュエーションでなければな。
「お前がさ、チビの頃に、天使が見えると言うていたやろ」
 急に思い出したみたいに、藤堂さんは遥ちゃんに訊いた。鬼嫁はそれに、むすっとしていた。
「言ってましたよ」
「あれ、まさか、ほんまやったんか?」
 遥ちゃんは、パパの友達の藤堂さんにも、そんな話をしてたんか。藤堂さんはそんな遥ちゃんを、さぞかし、変な子やと思ってたんやろなあ。
「まさか、って……信じてへんかったんですか? 信じる言うてたやないですか。卓さん、僕、天使が見えるねんて話したら、それはすごいなあって、褒めてくれてたやないですか!」
 遥ちゃん、さらに不機嫌度アップしたらしい。眉間に皺がくっきりはっきり出ていた。
 そんなことあったんや。昔、神楽遥と藤堂卓は、日曜日の教会でのミサの時、隣り合わせる家族のメンバーやった。ただし遥ちゃんは、半ズボンはいてる小学校低学年で、オッサンはすでにアラフォーや。どうせ真面目には話聞いてへんかってんて。
「そんなこと言うたかなあ……」
 気まずそうに目を逸らしつつ、藤堂さんは大崎先生に注いでもらった酒を、ぐびぐびいってた。俺と東山におった時には、この人あんまり酒は飲まんかったけど、それは病気やったからなんやろな。ザクザク、菓子でも食うてるみたいに、いっぱい薬飲まなあかんかったし、酒飲む余裕なんかなかったよな。
 それが今では、けっこう、いける口みたいやった。日本酒なんか水やみたいな、ええ飲みっぷり。俺も藤堂さんといっぺんくらい、飲みに行きたかったな……。って、おっと、その件については、アキちゃんには内緒やで。焼き餅焼きやねんから、俺のツレ。
「嘘やったんや。信じてへんかったんや。僕、卓さんは信じてくれたと思って、喜んでたのに。嘘やったんや!」
 遥ちゃん、がっつりと、狐が差し出してきたぐい飲みを、キャッチしていた。飲む気まんまんみたいやった。飲まなやってられへんみたいやった。
 神父って、酒飲んでええんやっけ? かまへんのやで。別に。
 日本の坊主は、一応酒は控えろみたいな話になっとるけども、キリスト教の神父は、別にあかん訳やない。ワインはキリストの血やし、修道院でウィスキーやビール作ってるとこもある。生臭い部類では、飲んだくれてアル中みたいな神父もおるんや。そのへんユルい。そして遥ちゃんも、いける口やった。日本酒一気飲みやった。白い喉を反らせ、ごくごくごくーって、あっと言う間に飲み干して、もう一杯注げって、狐に強請っていた。
「美味しいですね、伏見の酒って」
 ぷはあみたいに息ついて、遥ちゃん、青い目が据わっていた。それを藤堂さんは勿論のこと、なんでか、うちのツレまで、あんぐり危なっかしそうに、うっすら慌てて見ていたわ。
「大丈夫かお前、そんな飲み方して。今、曲がりなりにも仕事中なんやろ?」
 やめとけって、やんわり諭す声で、藤堂さんは遥ちゃんを止めた。
「平気です。素面ではやってられません。悪魔《サタン》のツレが神父の服着て、神道の儀式に参加しとうのですよ。まともな神経やったら死んでます」
 死んでます宣言で、神楽遥は狐が注いでやった伏見の『神聖』二杯目も、ぐびぐび飲んでた。遥ちゃん、すごいなあ。酒強いんや。
「ええ飲みっぷりやなあ、神父さん《ファーザー》」
 気に入ったみたいに、大崎茂はにこにこしていた。たぶん、神楽が美形やからやろ。美形好きやねん、この爺さんも。そのへん、さすがは面食いの秋津家で育っただけのことはある。
「お堅い人やと思うてたけど、そうでもないなぁ、あんた」
「お堅くなんかないですよ。お堅くしてへんかったら、生きてられへんかっただけです。厳しいんですから、ヴァチカンは。僕も僕なりに、必死で頑張ってたんです」
 なんか、アフターファイブの居酒屋みたいになってきてる。遥ちゃん、ものすご愚痴モード入ってる。
「あのね、大崎先生。僕、子供のころから、悪魔や天使が見えるんです。なんや得体の知れん妖怪みたいなのも見えます。そいつらが話しかけてくるんです。お前の血は美味そうやなあとか、そういう話です」
「ほうほう……」
 うっすら、酔っぱらいモードで話している、目の据わったヴァチカンの男に、大崎先生は、真面目なんか巫山戯てんのか、ようわからんような相づちを打ち、狐を顎で使って、遥ちゃんの酒を、また満たしてやっていた。
「変ですか、それは。父は僕が嘘つきやと。夜中に、部屋になんか居るから怖いって言うとうのに、ひとりで寝ろって厳しいんです。その、なんや知らん怖いもんが、布団の中に入ってくんのですよ。そんなの放置されてですね、どないしてまともな大人になるんですか」
「苦労したんやなあ、可哀想に」
 そんな猫なで声出せるんや、茂ちゃん。そう思う俺のジト目を浴びつつ、大崎茂は若干、デレッとしとった。確かに遥ちゃん、美形やからな。きっとこのジジイ、祇園で舞妓さん侍らしてる時も、こういう顔しとんのやで。不潔だわ!
「気持ちいいんですよ、それが」
 酔ってる勢いなんか、そんなこと平気で言うてる嫁に、藤堂さん、ブッて酒を吹いていた。よっぽどびっくりしたんかな。何やったんや、その、夜中に子供部屋にいた怖いモンて。
「やばいなあと思うけど、気持ちいいんですよ。でも怖いんですよ。そんなの誰に相談したらよかったんですか」
 僕には天使が見えるという話は、幼少期の神楽遥が周りに発していたSOS信号やったということやな。いきなり際どいほうの話は、口にできへんかったもんやから、自分に見えるモンの中で、いちばん無難なモンについての話を、神楽はまず話してみたんやろう。それが天使の話やったんや。
 そやけど、それすら信じない奴のほうが多かった。そんな奴には、核心部分を話す気にもなられへん。遥ちゃん、幼いなりに、悩んでたんやろう。
 まあ、そりゃあ、悩むよな。夜な夜な気持ちいい怖いモンが、布団に潜り込んできたらな。
「入ってくるなて、言えば終いやったんやで、神父さん《ファーザー》。あんたの血は美味いんやろう、ほんまにな。外道や妖怪にも、欲はあるさかい、美味そうなモンがあれば、食おうとするわ。せやけど、あんたぐらいの霊力があれば、来るなと言えば来んやろう。あんた、ほんまはそれが、嫌やなかったんとちがうか」
 にやにや悪い狐のように、酒を舐めつつ、大崎茂は教えてやっていた。それに神楽遥は、くっと鋭い、苦笑を漏らした。
「そうかもしれませんね……」
 ぼんやり答えて、くすくす笑っている酔眼の遥ちゃんは、正直、凄みがあった。悪い子みたいやった。こいつ、ほんまは悪い子やったんやで。そっちが本性やったんや。それではまずいと、イイ子の皮をかぶってただけで、その中で窮屈で、苦しんでいた。せやし、一皮剥けば狼や。迷える子羊みたいにしてても、中身は邪《よこしま》な、小悪魔やってんて。
「僕って霊力なんか、あるんですか?」
「あるやろう、それは。悪魔祓いをしてたんやろう?」
 ゆったり頷きながら、大崎茂は狐の酌を受けていた。
「でもそれは、神の御技《みわざ》です。僕の力やないです」
「解釈の問題や。特定の神を下ろして神通力を使うのんも居てる。神懸かりでな。力を振るう方法論や流儀は、人それぞれやけどもや、高い霊力があるんやったらな、どんな方法でも、自分が納得できる流儀でやればええのや」
「そうなんですか」
 神楽遥は酔っていたけども、ものすご真剣に大崎茂の話を聞いていた。そらもう、爺さんノリノリや。ええ気持ちなってきてはったで。若いのんが話聞いてくれるだけでも、実はジジイは嬉しいんやから。増してそれが金髪碧眼の、女顔の美形やで。なまじな女より美形なんや。お肌真っ白なんや。爺さんのテンションもそら上がるってもんや。
「なんや。修行したいんか、神父さん《ファーザー》。ん?」
 にこにこご機嫌の顔で、茂ちゃん、儂が教えよかみたいな、心持ち身を乗り出す構えやった。それでも狐はにこにこしていた。そんな先生が可愛いみたいやった。どないなっとんねん秋尾、お前の神経は。
「今からやと遅いですかね。僕もう、二十二歳なんですけど」
「なんや二十二か。かまへんかまへん、若いやないか。トシは関係ないんやで、要は素養とやる気や。まして、あんたは、全くの素人ではないんやしな。努力すれば何とでもなる」
 よしよしって、遥ちゃんの手でも握りそうな勢いで、ジジイはデレデレ言うとった。
「俺のことは、ぼんくらみたいに言うてたくせに……」
 アキちゃん、さすがに引いたんか、思わずそれを口に出してもうてた。
「お前はそうや。秋津の家に居りながら、なんの修行もせんと、遊びほうけて絵ばっかり描いとったやないか。ヴァチカンで一生懸命、つらい修行してはった神父さん《ファーザー》とは話が違うてるわ」
 ツッコミ入れてきたアキちゃんに、ジジイ、ピシャーンて即ギレして、自信満々で反論してはった。依怙贔屓《えこひいき》やな。どう考えても依怙贔屓《えこひいき》や。神楽が好み系やったんやな、茂ちゃん。
「僕が子供のときに、大崎先生みたいな頼れる大人の人が、側に居ってくれたらなあ……」
 真面目にぼやいてるらしい神楽は、どう見てもマジやった。
 そんな美味いことジジイに言うてやって、ええの? 卓さん横におんのに、ええの? さすがの藤堂さんも、びっくりしすぎて声も出てへんで。引き続きずっと、ポッカーンみたいになってるで。
「ほんまやなあ、神父さん《ファーザー》。そん時に会うてたらなあ。儂がきちんと面倒みてやったのに。何なら今から見よか?」
 えっへっへって、茂ちゃん、ボルテージ上がりすぎて暑いんか、懐から出した扇子で左うちわやった。黒地の絹に、黒檀の骨した、金で蜻蛉《とんぼ》の絵が描いてある、粋な扇子やった。そんなもんまで秋津家グッズかよ、爺。お前もあいつらの仲間なんやな! この色魔!!
「見てもらおうかなあ……」
 小悪魔が、小悪魔らしい声でぼやいて、神楽遥は、ものすご冷たい横目で、隣に座っている藤堂さんをチラ見した。
 ぐわ。わざと言うてんのや、こいつ。演技やったんや。妬かせたろとう思って、そんな話しとんのや。
 人は見かけによらへんな。あんなにお堅くて、初心《うぶ》な神父やったのに、この短期間でいきなり小悪魔的な才能が開花しすぎや、神楽遥。歌舞伎の引き抜き、早変わりみたいやで。化けの皮が完全に剥がれてきてる。
「なんなら、京都に新しい別邸を建てますけども」
 にこにこしながら、如才なさ過ぎる狐が、神楽にそんなことを訊いていた。妾の世話までお前がすんのか。水煙以下やな。水煙以上というかな。ほんま、どないなっとんねん秋尾。健気を通り越して神すぎる。どんだけ爺に尽くしとんねん。
「いや……いいです、それはさすがに。神戸が好きやし、この嘘つきのおっちゃんと結婚しちゃったんで。ここに居座っときます。また時々、泊まりに来てください先生。このホテル、潰れたら困るから、先生みたいな上客さんに、贔屓にしてもらわないと」
 苦笑めいた、憂いのある笑みで、神楽遥はやんわり拒んだ。爺に囲われるような、そんな気は毛頭ないみたいやった。そらそうやろう。こいつは卓さんにベタ惚れなんや。
 大崎茂はそれに、気を悪くしたふうもなく、笑っていた。
「よしよし、また来るでえ。こんな美人が居るんやったらな。札束撒きに来てやるわ。この神事を越えて、生きてられたらな!」
 景気よく、左うちわでパタパタしてる、富豪の爺さんの大笑を、神楽遥は妖しいような美貌の笑みで、にんまり見ていた。
 すごいでお前、祇園の料亭の女将とかやれんで。男やけどさ。着物着とったらわからへん。遥《はるか》ちゃんで通るから。爺キラーで大もうけできるで! 花街の星になれるで!!
「妙なこと言うもんやないで、遥」
 やっと喉を言語が通過できるようになったらしい、藤堂さんが、嫁を咎めていた。それにも神楽遥は、自嘲したような苦く淡い笑みやった。
「いいやないですか別に。もし明後日になっても僕が生きてたら、卓さん、このホテルにクリニック増設してください。僕そこで、お医者さんやるから。探してるんでしょう、このホテルの、ホームドクター。僕やりますよ。神大通って、日本の医師免許とるし……」
 それがまるでドライブスルー行ってマックシェイク買うしというのと同程度の話やみたいに、神楽遥は話していた。こいつどんだけ賢い子なんやろう。実はものすご頭がいいんではないか。こんなちっさい頭やのに、どこに人より賢い脳みそが仕舞ってあるんや。まさかこいつも四次元ポケット持ってんのかな?
「あぁ……ほんまにね、明日はどっちだって感じですよ。明後日から先の自分が見当もつかないですもん。この神事で死んでもうたほうがラクやないかと思いますよ。予言書さえなければね、代わってあげるんですけど、本間さん」
 いきなり話振られて、アキちゃん、ビクッとしてた。
 弄らんといて、うちのツレ。小悪魔なんやから、遥ちゃん。話しかけんといてくれ。
 アキちゃんも、一体なにを言われるんやろうって、内心ビクビクしてる顔して、また酒飲んでる神楽遥のことを、もう飲むなと語りかける目で見てた。
「僕ねえ、知ってたんですよ。最初に貴方にこの話持っていく時からね、この人、死ぬかもしれへんなって、知ってたんですけども、言うのやめといたんですよね」
 そんな話、今さらするなやで、テメエ。ぶっ殺す! でも怖いから、とりあえず黙って見てる! なんかすごい、邪悪と神聖さの入り交じった、チョコ&クリームみたいなオーラが、神楽遥から出てる。遥ちゃんは、神聖にして邪悪。神父やし、でも外道の嫁やし、なんでか神聖《ホーリー》系も使えるけど、邪悪《エヴィル》系もいける。なんでそんな事になってもうてんのか。矛盾ありありやのに、その無茶な同居が完成しつつある感じやった。
 ヤハウェがな、こいつに未練あるらしいねん。遥ちゃんイケてる。可愛い可愛い僕《しもべ》やったのに。やめちゃうの? やめんといてよ。ホーリー系使うてええから。やめるのやめといてよって、そんな態度で居るみたい。
 もしかしたら、遠いか近いかわからん将来、ヤハウェ様突然言い出すんとちがうか。やっぱ同性愛もアリなんちゃう? みたいな話をさ。信者の皆さんが幸せならそれでええんやない? ラブ&ピースですよ的な話をさ。
 だって、昔は天動説を唱えただけで、魔女や悪魔やいうて火炙りにしてたのに、今ではヴァチカンの神父が、電波望遠鏡で遠い銀河を観測してんのやで。昔、あれはあかんて言うて、宗教裁判とかやっちゃったけど、やっぱ間違いやったわ、いじめてゴメンネ〜、言うて、ヴァチカンが公式に謝ってはるやん。ゴメンネ〜、で済むの? そんなんでええの? ゴメンで済むなら警察いらんのとちゃうの?
 でも、ええねん。そういう人らやねん。時代に即して臨機応変やねん。なんやそれって思うやろけどな、でも、そのほうがええやん。ずっと永遠に火炙りし続けるよりは、さっと頭切り替えて、あんじょう仲良うしていけたほうがええやん。
 そんなふうに、時代が動くまでには、まだまだ長い時が必要やろけど、遥ちゃん案外、ものすごい時代の分岐点に居る神父かもしれへんよ。だって変やん。明らかに破戒しまくってんのに、まだまだ神に愛されてるなんてさ。
「言ったら本間さん、断ってくるやろなあ、と思って。貴方に引き受けさせるのが僕の任務やったもんやから。狡いなとは思いましたけど、でもそれも仕事やしね。そう割り切って黙っておくことにしたんです。……狡いと思うでしょう」
「狡いけど、普通やないですか、それは。死ぬけど引き受けろて言われてたら、さすがの俺も断りましたよ」
 アキちゃん、怖々やけど、真面目にそう答えてやっていた。それにも神楽は、くすっと笑っていた。
「そうなってたら困ったでしょうね、僕も。でも、思うんですけど、その時貴方に正直に何もかも話して、断られていたら、僕、今、こんな事にはなってないですよね?」
 こんな事というのは、教会を破門になって、妖怪ホテルの嫁になってるという事やで。アキちゃんが仕事を蹴って京都に帰っていれば、俺はそれについて一緒に帰っている。俺は藤堂さんと会うことはない。せやし、藤堂さんに神楽を犯《や》れと命じることもなかった。藤堂さんは、外道としては煮え切らん中途半端なままで、煮え切らん中途半端な恋愛感情を腹に抱えた神楽遥としばらくビジネスライクに付き合い、やがて神楽はヴァチカンに戻ったやろう。穢れなき身の、神父様のままでな。
「正直でないとあかんのやなあ」
 しみじみと、また新しい酒を飲んで、神楽は後悔してるような事を言っていた。
「嫌なのか、お前は」
 困ったように、藤堂さんが、愚痴っぽい嫁に訊ねた。
「嫌ですよ、そりゃあ。結婚までした後でですよ、蛇と浮気はするし、それで懲りたのかと思ったら、こんどは朝飯屋の店主と浮気はするし……」
「してへん。してへんやないか。一緒に酒飲んでただけやで」
「嘘や、どこの世界に一緒に酒飲むときにケツ触る朝飯屋の店主がいとうのや。おかしい。絶対におかしいです。別れてください。綺麗さっぱり別れてください。英国風《ブリティッシュ》な朝飯食うのもやめてください。朝は紅茶やのうてカフェラッテやから」
「わかったわかった、カフェラッテでええから。そんな話を人前でするな」
 ほとほと困ったみたいに、藤堂さんは弱り、嫁の言うなりに頷いてやっていた。
 それを聞き、遥ちゃんは無表情に、押し黙っていた。酔いつぶれる寸前なのかと、俺はその横顔を眺めたけども、案外、こいつ、酔うてへんのやないかと思った。酔っぱらってるような、ふりしてるだけで、実はものすご酒豪なんとちゃうか。
 神楽遥はちょっと、しんどいみたいやった。床を見ている青い目が、落ち込んでいるように見えた。飲まんとやってられんというのは、ほんまの話みたい。
 遥ちゃん、やっぱ、傷ついたんかな。藤堂さんが俺と浮気しちゃって。ジョージとも仲良くて。ケツまで触られていて。
 そら、しんどいかもしれへんな。俺もしんどいもん。アキちゃんフラフラで、俺もしんどい。その気持ちは、わかるんやけど。でも俺がこいつに、情けをかけてやる義理はないやん?
 俺はなんにも、言わんかった。茂と狐も、にやにやしているだけで、何も言う気がないようやった。アキちゃんも気まずそうに、絶句していた。もちろん藤堂さんも、押し黙っていた。何を言うてええやらという空気が、赤い革張りソファーに囲まれたブースに、ただただ充満していた。
「あのさ、もう三味線弾いてもいいかな?」
 どないしよかなって、ずうっと待ってたらしい怜司兄さんが、その重苦しい沈黙を破った。空気読めてないからこそできる技や。
「三味線でもバグパイプでもなんでもお好きなようにどうぞ」
 ものすご暗いまま、遥ちゃんがそう答えた。言葉の端々にウニ並のトゲがびっしり生えてた。
「怖いなあ、神父さん《ファーザー》。しゃあないやん、支配人イケてんのやから、モテても当然なんやで。ケチケチせんと、皆でシェアしよ?」
 あかんあかん。怜司兄さん、空気読んで読んで。頼むから。遥ちゃん今、落ち込んでるっぽいから。やめといてって、俺はそんなブロックサインを、オタオタ怜司兄さんに送ったが、そんなん勿論スルーされたわ。
「シェア?」
 ものすご怖い、冷静みたいな声で、遥ちゃんが怜司兄さんに聞き返していた。悪魔《サタン》は滅びよまで、あと5秒くらいか。秒読み段階には、確実に入っている顔つきやった。
「シェア?」
 こくこく頷いている怜司兄さんに、それだけやと理解不能やったんか、神楽遥はもういっぺん同じことを訊いていた。
「シェアですか?」
 駄目押しで、三度目に念押しされると、さすがの怜司兄さんも、ちょっぴり怖くなっちゃったみたい。うふって笑って、頷くのをやめていた。
「シェアなんかしません。僕のもんなんです。遊びでやっとうのやないんですよ。あなた方みたいに、ちょっとつまみ食いで手出してるんと違うんです。本気で人生捧げてるんです。貴方も本気やないんやったら、やめといてください。ぶっ殺しますよ、ほんまに」
 遥ちゃん、格好イイ……。でも俺、ちょっとチビりそう。ぶっ殺されるんや、やっぱり。遥ちゃんの心の、もう殺さなあかんリストに、俺も載ってるんや。イイ子にしとかへんかったら、ホーリー系で瞬殺とか、そういうのもアリなんや。こいつのバックには、たぶん確実に、ヤハウェが憑いとる。やばいやばい、やばいから! イイ子にしとかなあかんから!
「本気やないです、すみません……」
 怜司兄さん、素直に謝ってはった。うんうん。本気やないよな、うんうん。おとん本命やもんな。俺もアキちゃん本命やもん。オッサン美味そうやし、ちょっと食いたいだけやねん。寂しいなあ、なんや小腹が空いたわっていうときに、ちょこっと囓りたい。それだけやねん。
 ゴメンネ、遥ちゃん。悪気はなかったの。兄さんも俺も、ただ色魔なだけなの。反省するから許して。悔い改めるから。
「黙って三味線弾いといてください。貴方はもう二度とこのホテルに来ないでくださいね。もし来たら攻撃と見なしますから」
「……ハイ」
 怜司兄さん、ものすご素直にハイって言うてた。ほんまや。大崎茂の言う通りや。神楽が本気で、来るなて言えば、外道は来ないもんなんや。俺は気合いが足りてへんだけなんや。なんか許してもうてんのや。アキちゃん浮気せんといてって、凄んでみせるけど、でもそれもしゃあないわ、血筋の定めやって、どっか許してもうてんのやないか。
 許さへん。関係あらへん血筋の定め。ちょっかい出す奴、皆殺し。フラフラしたら半殺し。それくらいの勢いでいかなあかんのや。
 勉強なった……ありがとう、神楽遥。ありがとう……。俺ももう、このホテルに近づいたりせえへんから、攻撃と見なさんといて。
「怖い嫁やで。敵わん、敵わん。とんだ鬼嫁さんやないか? 座が白けたわ。ひとさし舞って賑やかにしてくれ、秋尾。朧《おぼろ》もな、景気よく歌え。お前の綺麗な声聴くの、久しぶりやさかい嬉しいわ」
 藤堂さんの参った顔が、ええ気味やというように笑い、大崎茂が座興の続きを促した。
「しゃあないなあ、もう」
 にこやかに、照れと皮肉の混じった笑みで、秋尾はそうぼやき、ドロンと白煙をあげて、変化《へんげ》した。
 だらりと長い、金糸で狐の刺繍がはいった朱色の帯を垂らした、黒地に紅葉《もみじ》の文様の着物の、可愛い顔した舞妓さんが、つい今の今まで水干姿のしっぽ少年のいたところに、魔法のような入れ替わりで登場していた。
 それにも藤堂さんは、唖然としていた。
 驚くようなことばっかりやな、藤堂さん。はよ慣れなあかん。今後も嫁の遥ちゃんと、仲良うやっていくつもりなんやったら。こいつも異界に片足を突っ込んでいる、非・一般的な奴なんやしな。
「祇園小唄、舞わしてもらいます。朧《おぼろ》ちゃん、お囃子《はやし》、よろしゅうお頼み申します」
 ほんまもんの女としか思えへんような、可愛らしい鈴振る声で、秋尾はそう言い、ご主人様の大崎茂に、一番よう見えるような立ち位置で、長い長い振り袖を胸元にかき合わせ、甘いシナを作って座る、舞い始めのポーズで音楽を舞っていた。
 そりゃあもう、完璧なまでに、ほんまもんの舞妓さんやった。今、目の前で秋尾が化けたのを見ていても、これが本物やのうて狐が化けてる奴やなんて、飲み込みにくい。秋尾の変化《へんげ》は大したもんや。和えかなお香がほのかに香る、綺麗な袖の陰で、うっとり目をとろめかす、その仕草も可愛いけりゃ、小さく紅《べに》をさしている、白塗りの顔も可愛い。
 それがちょっと、アキちゃんのおかんの登与姫に、よう似ているような気がしてな、俺は複雑やった。
 大崎茂は子供みたいに、大好きな登与ちゃんそっくりな狐の舞妓が、踊りを踊ってくれているので、満足しているようやけども、秋尾はどうやろ。嫌なんちゃうか。
 我慢している。諦めている。そういう心境なんやないかと、俺は空想した。お前が好きやて、大崎茂はこの狐に、ちゃんと言うてやってんのやろか。それとも、そんなことは関係なくて、ただ単にご主人様と、その式《しき》で、お前は俺に仕えてナンボやろって、そんな横柄さで押し切られてんのかな。
 もしもそうでも、秋尾は平気なんやろか。平気でにこにこ、踊ってやるし、伏見の酒の酌かて、とってやる。それで満足、先生死ぬなら、てめえも殉死という覚悟でやな、必死のご奉公。
 そんなん、不公平やないか。俺には到底、そんなことはできへん。それをやれと、アキちゃんに望まれても無理や。
 俺も嫌やねん。我が儘言いたい。遥ちゃんみたいに。それが俺の当然の権利として。俺のもんやでアキちゃんは。誰にもやらへんて、駄々こねたい。だってそれが、当然やんか。アキちゃんは俺のツレなんやから。
 それがあかんて、言うんやろうか。秋津のやつらは。水煙や、秋尾みたいなのが、ええ式神で、そうでない相手は、ご当主様にはふさわしくないんか。俺や、怜司兄さんみたいなのは、あかんてことか。
 俺を愛して。神事なんて。お家の務めなんて。そんなもん捨てて、俺と逃げてくれって、そういう邪《よこしま》な奴では、あかんのか。
 上機嫌なふうに、綺麗な声で歌うとうてる怜司兄さんを、俺は見るともなく、じっと見つめた。
 おとんはこの人を、なんで捨てたんやろう。
 アキちゃんも俺を、捨てたやろうか。神事なんかやめて、俺と逃げようって、必死で誘ったら、俺より血筋の務めとやらを、選んだんやろうか。アキちゃんは。
 おとんがそうやったように、俺を捨てて、水煙を選んだか。それともアキちゃん、逃げてくれたかな。俺と一緒に。どこか遠い、地の果てまで。
 それを想像すると、俺は切ない。その気持ちが分かるのか、俺がぎゅうぎゅう抱いていた黒ダスキンのポチも、悲しそうに、低くキュウキュウ鳴いていた。
 寂しいよう、アキちゃんて、こっそり手を握りにいくと、アキちゃんはふと俺を見たけど、うっすらとにっこりしただけで、そのまま俺の手を包むように、握り返してくれた。冷たい手やなあ亨って、暖めてくれてるような指やった。
 なんか変やけど、それだけのことで、俺は満たされた。寂しいのんが、ちょっとずつ癒えて、アキちゃん好きやで、胸があったかくなってくる。これがないと、俺はもう、生きていかれへんやろう。寂しいて堪らんで、凍えて死んでしまうやろう。
 俺にはアキちゃんがいて、よかったな。
 そう思いつつ、俺は少々気まずく、そして気恥ずかしく、優雅に舞っている秋尾を眺め、美声で歌う怜司兄さんの声を聴いていた。
 それはこんな歌やった。昔、昭和の初めの頃に、白黒映画の主題歌やったとかで、えらい流行って、祇園のお座敷でも繰り返し歌われ、舞われてきた、お座敷遊びの定番曲やで。聴いたら皆も知ってるかもしれへん。知らんでも、聴けば、これこそまさに祇園の風情やなあって、思えるような曲や。

 月はおぼろに東山 霞む夜毎のかがり火に
 夢もいざよう紅桜 しのぶ思いを振袖に
 祇園恋しや だらりの帯よ

作詞:長田幹彦、作曲:佐々紅華、昭和5年

 それは祇園の四季を詠った歌で、せやし四番まである。春から始まって、夏、秋、冬と続く。祇園に時たま遊びに来る男を待っている恋のことを、詠った歌やで。あるいはそうして自分を待ってる誰かのことを、想って詠う歌かもしれへん。
 祇園恋しや、か、と、俺はぼんやり思った。
 アキちゃんのおとんはなんでこの曲が、好きやったんやろう。ただ単に、流行っていたからか。ただ単に、祇園のお座敷遊びで、遊びほうけて聴くときに、ちょうどええような、それっぽい曲やったからか。
 それとも、その歌を歌うてくれる、怜司兄さんの艶っぽい声が、好きやったんか。さすがというか、怜司兄さんの歌は良かった。ただ上手いだけやのうて、心にしみいるような歌声やった。この人、歌だけでも食うていける。それ一つとっても神になれる。それでも怜司兄さんは、それを武器にはせえへんらしいで。ただ好きな、気に入って寝た相手のために、歌うてやるだけで、誰でも彼でも寝るくせに、誰にでもは歌ってやらへんらしい。
 好きなやつにしか聴かせへんのやな。
 それは誰とでも寝る怜司兄さんの、不思議な慎《つつし》みやった。愛せる奴にしか、歌は歌うてやらへんねん。
 その声が、祇園小唄の最後の歌に、差し掛かっていた。その歌は、京都の寒い冬のことを、歌っていた。

 雪はしとしと まる窓に つもる逢うせの さしむかい
 火影つめたく 小夜ふけて もやい枕に 川千鳥
 祇園恋しや だらりの帯よ

作詞:長田幹彦、作曲:佐々紅華、昭和5年

「アキちゃん……あのな……」
 歌を邪魔せんように、俺は隣にいるアキちゃんの耳に、耳打ちをした。というのは、ただの口実で、俺はアキちゃんにキスしたかってん。
 耳に唇を押し当てて囁くと、アキちゃんはくすぐったそうにしたけど、逃げへんかった。それがアキちゃんも、俺とキスしたいからやって思うのは、俺の自惚れなんやろか。
「あの人、アキちゃんのおとんと、より戻したら、あかんの? アキちゃんは、嫌か」
 俺が訊ねると、アキちゃんは複雑そうな目をした。
 そら、複雑やろな。だって、アキちゃんのおとんは、アキちゃんのおかんのツレなんやしな、自分の親が浮気すんのを、別にええよと思う子が、おるわけないわ。しかも朧《おぼろ》はアキちゃんの式《しき》やんか。今やあいつは俺のもんやで、アキちゃんは怜司兄さんにも、執着してる。それが分からんほど、俺もアホではないんやで。
 いろんな意味で、ハードル高いな。怜司兄さんが暁彦様と、またくっつくのは。独占欲の塊みたいなジュニアやら、怖い怖い秋津のおかんと戦う羽目になんのか。
 せやけど、この人を幸せにするには、それしかないんとちゃうの。
 俺がアキちゃんと離れては幸せになられへんように、怜司兄さんもそう。好きな相手と一緒でないと、寂しいんや。
 別に、恋人としてでなくても、ええんとちゃうの。それが一番、ベストのコースやろけどな、でも俺、もしアキちゃんに振られても、アキちゃんの側にはいたい。そんなん、格好悪い未練たらたらやろうけどさ、でも、アキちゃんの顔が見えるところに、いつもいたい。
 寂しいねん。ちょっと口きくだけでもええねん。それが無理でも、アキちゃんのこと、見てたいねん。好きやっていう目で見られると、困るていうなら、それも我慢する。ただ見てたいねん、アキちゃんのこと。
 そういう気持ちは、俺には分かる。そんな目には遭いたくないけどな。でも分かる。
 それもあかんの。ええやん、それくらい。ただちょっと会うて、お前も元気でよかったなみたいな、そんな話くらい、してやればええやん、おとん。
 なんで会いに来えへんのやろ、あのオッサン。冷たいやんか。もともとそういう鬼みたいな男やったんやろか。アキちゃんと同じ顔してんのに、アキちゃんとは、確かに全然ちゃうな。アキちゃんみたいに、優しくない。なんで怜司兄さんは、そんな薄情な男が好きなんやろう。
 祇園の冬を歌う歌には、もちろん映像はついてない。ただの歌。それでも俺には、何かが見えてるような気がした。寒い部屋の、あったかい布団の中で、ひとつ枕で眠っている、俺の知ってる、それでも、俺の知らないような、アキちゃんのおとんと、まだ幸せだった頃の、朧《おぼろ》様がな。
 それは俺の妄想やろか。
 それとも、俺が怜司兄さんの心を読めたんやろか。
 わからへん。ほんまのところは。せやけど歌には魔法があるやろ。心を伝える力が。くどくど語ってきかせるよりずっと、気持ちを伝えられる魔法が、歌にはあるやんか。
 そんな魔法は、俺だけやのうて、鈍いジュニアにも、有効やったみたいやで。
「俺が嫌とか、いいとかいう次元の話やないやろ」
 俺の手をにぎにぎしたまま、アキちゃんはなんでか、しょんぼり言うてきた。なんやねんな、しょんぼり言うな、俺のツレ。普通に言え。
「なんとかしたらなあかんやろなぁ……」
 それが他人事ではなく、自分には責任があるように、アキちゃんはぼやいていた。
 そら、あるわ。ご主人様やねんからな。怜司兄さん飼うてんのは、今はアキちゃんなんやしさ、幸せになってくれって、蔦子さんかて言うてたやん。怜司兄さんの面倒を、見るともなく見てた蔦子おばちゃまから、あの人もらってきたんやから、今度はお前が面倒みなあかんのやで。
「でも、どないすんねん、そんなの。おとんに電話すんのか? 携帯も持ってへんのやで、うちの親」
 くよくよ言うてるアキちゃんの話で、俺は今さらピンと来た。ピーンと来た!
「それやん、アキちゃん! おかん携帯持ってるんやんか! 電話すりゃええんやん!」
「アホか、海外やねんから……通じへんよ」
「そんなことないで、今時、海外でも普通に通じる携帯かてあるんやで?」
 知らんのかジュニア。お前はそんなことも。知っとけ現代人やろ。昭和ヒトケタのおとんとは、違うんやろジュニア。
「通じる携帯やないと思うで。何度かかけてみたけど、電源切れてるらしいもん」
 俺にかくれて、おかんに電話しとったんかいジュニア。情けない。お前はほんま情けない!
 でも、とにかくそれで、おとんとの連絡手段が無いことは判明した。ただひとつ、アレを除いてな。
 憶えてるか、皆?
 紙人形飛んでくるやつ。霊能力便みたいなやつ。微妙にハリーポッターとネタかぶってるっぽいやつ。しゃあない、あれも外国の巫覡《ふげき》のお話なんやしな。
 あれを飛ばせばええんやないか。フクロウ便を。いや、それやのうて、紙人形を。あれも式《しき》やねん。いちばん基礎的な式神や。ただの紙切れやったもんに、人型を与え、役目を与えると、主《あるじ》のご命令に従って、飛んでいって話す、そういう式神なんや。
 アキちゃん、これだけ霊能力ダダ漏れなんやから、紙人形くらい飛ばせるやろ。おとんがブラジルにいようが、イスカンダルにいようが、あの式神は、おとんに伝えろと命じれば、どこへでも飛んでいくらしいで。そういう呪術なんや。
「手紙書けばええやん、はよ戻ってこいって」
「そうやけど。それはもう、伝わってると思うんやけどな」
 アキちゃん、ぶちぶち言うてた。祈ったのに、おとんからのリアクションがないから、それにも少々、スネてるっぽかった。そんな、しょうもないことで親子のいざこざやってる場合か。
「神頼みしたからか? おとん聞こえてへんのとちゃうの。登与ちゃんといちゃつくのに忙しいて、守護神モードのスイッチがオフになってんのとちゃう?」
「そんなのにオンとかオフとかあんのか。勘弁してくれよ」
「手紙書けって。いっぺんやってみろって。案外できるって。苦手意識があるからあかんのや。俺にはでけへんて思うてるから、でけへんのや。何事にも挑戦や、アキちゃん」
 俺が励ますと、アキちゃんは難しい顔をして、そうやなあ、と言った。
「うるさいッ。なにをぼそぼそ話しとんのや、若造が!!」
 いきなりキレてた茂ちゃんが、俺らを睨んで怒鳴った。歌聴いて気持ち良うなっとんのに、ひそひそ話すな、うるさいわって事らしかった。
 すんません。俺もアキちゃんも、ひいってなってた。だって茂ちゃん、声でかいんやもん。
「まあまあ、茂ちゃん。ええやんか。若い二人には内緒の話がいっぱいあんのや」
 俺らが何の話してんのか、全く知らんらしい様子で、怜司兄さんはにこにこと、茂ちゃんを窘めてくれていた。
「次なに歌おか。秋尾ちゃん、もっと踊るか?」
「いや、もう、ええわ。暑いもん。それに腹減ったわ。いなり寿司食いたい」
 狐が化けてる舞妓さん、にっこり笑って、お稲荷さん食いたい言うてた。そうして笑った糸のような目の、目尻に挿してある赤い紅《べに》が、いかにも狐みたいで、今にも尻尾出てきそうやった。
「お寿司もありますよ。ビュッフェに。いくつかお持ちしましょうか?」
 にこにこ可愛らしい、舞妓姿の秋尾に、藤堂さんは優しかった。なんか急にホテル従業員モードやった。こう言うたら何やけど、藤堂さんは女に優しい。フェミニストやねん。そいつは西欧仕込みのダンディズムなんかもしれへんけども、ほぼ脊椎反射や。秋尾が女の格好になったとたんに、何かのスイッチ入ったらしいで。
 そんなツレの姿を、遥ちゃんはまさしく鬼か悪魔のような目で、じろりと見ていた。
「優しいですね、卓《すぐる》さん。僕にもなんか持ってきてくれますか」
 むかつくんやったらお前も女装しろ、神楽遥。思わずそう罵りたくなるような、あからさまな焼き餅面《づら》で、神楽は嫌みったらしくそう言うた。
 それに藤堂さんは参った顔をし、秋尾はソファの、大崎茂の隣に座り、けらけら笑うた。
「後が怖いんで、僕は寿司くらい自力でとりにいきます、支配人さん」
「深い意味はないんやけど……」
 嫁に咎められたせいで、自分の優しさが恥ずかしなってきたんやろ。藤堂さんは、悔やむような顔をして、照れていた。おっさん、反省したんか。今までずっと、自覚はなかった天然の、誰彼かまわぬ口説きビームも、今後は遥ちゃんに逐一チェックされんのやな。可哀想。
 まったく、焼き餅焼きの嫁なんか、もらうもんやない。俺は自分のことは棚あげで、その時、そんなことを思うてた。
「あらまあ、茂ちゃん。あんたまだお酒飲んでんのか」
 そんなニヤケたムードの真っ赤なソファ席の車座に、外から声をかけてきた、艶っぽい京都弁の女の美声があった。
 蔦子さんやった。
 水占《みずうら》の神事の時には、蔦子さんは確か、着物姿やったような気がしていたけども、いつのまにやら別の装束に、着替えてきていた。
 いつかホテルの部屋で見たような、古代の巫女さんルックやで。どうもこれが、秋津の女子の正装らしいわ。
 地模様のある、純白の筒袖の着物に、腰から下だけ、目の醒めるような真っ青と金銀の、青海波《せいがいは》の模様のスカートみたいな、裳《も》をつけて、真新しい血のように赤い、透ける緋色の領巾《ひれ》を、ゆったりと長く、肩から腕にまとわりつかせていた。
 出たよ、飛鳥時代ルック。それにはまた藤堂さんが、ぽかんとしていた。
 しかしや。お客様がどんなコスプレで現れようと、びっくりしたらあかん。失礼やからな。たとえ大阪のオバチャンたちが、ヒョウ柄のスパッツはいて到着しようとも、ようこそマダム言うて、礼儀正しく出迎えなあかん。たとえそれがどんなに藤堂さん的にNGな格好でも、今日も素敵ですねマダム言うてやらなあかん。それが客商売のつらいところやで。
 藤堂さんはほとんど本能的と思えるさりげなさで、自分の席をあけ、鬼嫁・神楽遥にも席を立たせて、新しく現れた客たちが座れば満席になりそうな、赤いソファ席の片側を、海道蔦子様とそのお連れ様たちに明け渡す素振りやった。
 蔦子さんが、一人でウロウロするわけはない。山ほど式《しき》を連れていた。全部イケメン。脇に控える眼鏡の氷雪系は、すでに筆頭の式《しき》やという面《つら》で、控え目に侍り、その後に続く連中も、何事かあれば姐さんを、身を挺してでも守るというような、一分の隙もないハーレム陣形やった。
 そんなムフフな輪の中で、蔦子さんは、これまたコッテリ正装させた竜太郎の手を引いていた。大崎茂やアキちゃんと同じ、衣冠《いかん》やで。ちびっ子サイズにわざわざ誂えたんか、新品ぴかぴかの漆黒の絹で、ちらりと赤く鮮明な、深紅の肌着が見えていた。
 そんな格好していると、竜太郎の顔立ちの、いかにも外来みたいなのが、やけに目立った。こいつは確かに半分、秋津の血をもらったやろけど、それでも父方の血のほうが、濃いみたいやで。おかんの蔦子さんや、又従兄弟のアキちゃんとは違って、秋津家独特の、なんとはなしにキリッと硬いようなところが全然あらへん。
 ちょっと気後れしたように、おかんに手を引かれ、はにかむ笑みで突っ立っている様子は、可愛かった。
 竜太郎は少々、気まずいらしかった。誰にって、アキちゃんにやで。
 意識しとんのやろ。死にかけたところを、霊力人工呼吸で救われちゃって。アキ兄とキスしちゃったとか思うてんのやろ。してへん、あれは人工呼吸やから。勘違いすんな中一。
「もう元気なったんか、竜太郎」
 アキちゃんもなんか気まずいんか、その裏返しみたいに、やけに優しい親戚の兄ちゃんみたいな声で、まず竜太郎に声をかけてやっていた。
「お陰様で、どうもないようどす。昨夜はゆっくり休ませましたし、もう心配おへんわ」
 もじもじしている竜太郎に代わって、蔦子さんが答えた。
 そして、竜太郎の手を引いたまま、車座の中へしずしずとやってきて、蔦子さんはまるでそれが当然みたいに、すとんとアキちゃんのすぐ隣に座った。
 俺にはなんかそれが、不思議な気がした。当初あんだけアキちゃんを、ビシビシ冷たくあしらっていたオバチャマやのに、なんか急にな、馴れ馴れしいねん。近いねん、座ってくる距離が。
 それはどうも、アキちゃんのコスプレのせいらしい。おとんコスやろ。蔦子さんには、おとんそっくりなアキちゃんが、おとんの服着てんのが、懐かしかったらしいねん。
「ほんまに、生き写しやわあ、アキちゃんに」
 それに惚れ惚れしたように、オバチャマはそう言うてた。アキちゃん、それに、どないしてええのかリアクションに詰まったのか、珍しくも愛想笑いを見せて、じわじわ俺の居るほうへと、にじって逃げてきていた。身の危険を感じたんか。オバチャマに食われるんちゃうかという、そんな危機感あったんか。
「なんやねん、お蔦ちゃん。そんな顔して、小娘みたいに。旦那に言いつけるで!」
 何をどういう焼き餅か、大崎茂はまるで妬いたような声色で、ぷんすか言うてた。一体誰に妬いてんねん、おじいは。人間関係ややこしすぎやで、秋津の皆様。
 それにしても恐るべきは、暁彦様の吸引力や。秋津のおかんや、骨の髄までやられちゃってる怜司兄さんはもちろんやけど、大崎茂や海道蔦子のことも、未だにがっつりハートを捕まえちゃってるみたいやで。一体何をどうすれば、そんなことができるんやろか。
 確かに、格好ええおっさんやったけど、俺はちらっとしか会うたことないもんな。俺から見たら、あっちがアキちゃんに生き写しなだけで、別におとんに興味はないもん。全然無いと言えば嘘かもしらんけどさ、やっぱ敢えて見んようにはするで。アキちゃん、めちゃめちゃ気にしてるんやもん。おとんのことをさ。
「あら、支配人さん、もう行かはるの? いややわあ、ウチが来たから逃げるみたいやないの」
 立ち去ろうという藤堂さんに、蔦子さんは冷やかすような声をかけてた。
「飲み物でもお持ちしましょうか、マダム」
 困ったらしい藤堂さんは、そう答えたけども、蔦子さんは首を横に振っていた。
「そうしていただきたいけども、結構どす。うちの不足はこの子らが満たしますよって、よそさんのお手を煩わすことはおへん」
 ずらり控えたイケメンたちを、蔦子さんは顎で示して、藤堂さんはそれに、感服したようやった。世の中、いろんな客はおるけども、これだけ沢山侍らしたオバチャマも、珍しかったやろう。
 蔦子さんが連れてる式《しき》は、みんなお揃いの服を着ていた。従者やから狩衣でええわと、大崎茂が言うてたやんか。俺に平安コスさせる時にさ。
 それが、なるほどと思えるような、全員ずらりの狩衣集団やった。眼鏡の氷雪系も、真っ白い狩衣を着て、蔦子様にお仕えしていた。他のもそうや。なんと赤い鳥さんまでが、そんなキャラに合わん格好をさせられ、しょんぼりとしていた。見るからに打ち萎《しお》れたような、がっくりきている猫背で、青い顔して、愛しい兄貴に肩を押されていたものの、それは肩を抱くというより、そうやって押してやらへんと、鳥が一歩も歩けへんからみたいに見えた。
 めっちゃ凹んでる。がっくんがくんやで寛太。大丈夫か。
 俺はアキちゃんの横で、無言で内心慌てた。俺が慌てたところで、どないもならへんのやけど、なんかアワアワしてもうた。
 か、寛太! 大丈夫かお前、ほんまに。なんや影まで薄なってもうてるけど、虎が死ぬより先に、お前が死ぬんとちゃうか。白い服着て、あたかも亡霊みたいやで。しっかりしろ!
「茂ちゃん、あんた、食事はしましたんか。食べずに飲んでばっかりやと、あきまへんえ」
 お姉ちゃんみたいな世話焼く口調で、蔦子さんは大崎茂にビシビシ言うた。それをうるさそうに聞き、大崎茂はソファで狩衣のまま、お行儀悪く足を組み、腕まで組んでいた。
「そんなん言われんでも、これから何か食うがな。ちょうど腹減ったなあいうて話してたとこやないか」
 ぶうぶう口答えする弟そのものの口調で、じじいは蔦子さんに口答えした。
「うちのに何か取りに行かせましょう。何がよろしか、茂ちゃん」
「秋尾がいなり寿司食いたいらしいわ。誰かとってきてやってくれ」
 腕組みしたまま、にこりともせず、じじいは蔦子さんの式《しき》たちに、そう命じた。それに言われて、イケメンの群れのうちの一人が、一礼して車座を抜けた。すうっと、その場から消えるみたいに。
 藤堂さんはそれにも、ポカンとするのを我慢せんとあかんかった。お客様のお連れ様が、突然すうっと掻き消えても、びっくりしたらあかん。失礼やからな!
「それでは私共はこれで。大崎先生、伏見酒、ごちそうさまでした」
 さっさと消えよと、藤堂さんは思ったらしかった。これ以上、この変な人らに付き合うてたら、頭おかしなると、オッサンは思ったんかもしれへん。嫁連れて、さっさと退散しようとしていた。
「チェックアウトまで無事やったら、お前にはまだ話があるで。狐の絵の軸、なんとしても売ってもらうよってな。とっくり価格交渉に応じてもらおうか」
 藤堂さんが、画商西森から気まぐれに買うて、今も所蔵しているという、狐のエロ絵やろう。よう憶えてるな、大崎茂。その絵をよっぽど買い取りたいようやった。
 ガミガミ言うてる大崎茂に、苦笑を隠さず頭をさげて、藤堂さんはその売買に、応じんでもないような気配で去った。まったく縁は異なものや。アキちゃんのおとんが描いた秋尾のエロ絵が、今じゃ藤堂さんちにあるというんやから。
 そういえば俺も、アキちゃんのおとんの絵は、見たことがない。
 雅号《がごう》は暁雨《ぎょうう》っていうんやで。そんなペンネームまで持ってんのやから、アキちゃんのおとんかて、そこそこ本格的にお絵描きしていたんやろう。そやのに、秋津の家には一枚も、おとん画の軸やら何やらが、飾ってあるわけでなし。おかんも一個も見せてくれへんかった。お兄ちゃんの絵は秘密の大事なお宝として、秋津家の蔵に仕舞ってあるんや。
おかんはそれを、息子のアキちゃんにさえ、いっぺんも見せてくれてないらしい。
「アキちゃんの絵が、門外に出てたとはなあ、ウチも知りませんでした」
 蔦子さんは頷きながら、その件を思い出したようやった。
 せっかく藤堂さんが気をきかせて、ソファの席をあけたものの、そこに座ったのは蔦子さんと竜太郎だけで、狩衣の式たちは、いかにも主《あるじ》に隷属する下僕らしく、地べたに座った。寛太はその一員なんやから、当然かもしれへんけども、なんでかその脇にいる信太まで、同じように床に座った。そして戻るのが遅かったんをアキちゃんに詫びるように、無言で深々と頭をさげてた。
 アキちゃんはそれが、ものすご居心地悪いという顔やった。どうしたらええかわからんもんで、思わず自分も深々と、お辞儀して答えたけども、それには信太が、苦笑していた。たぶん、知らん顔しとけばよかったんやろう。信太は下僕の虎で、アキちゃんはそのご主人様なんやから。
 そんな板につかない主従の様子を、蔦子さんは微笑ましそうな淡い笑みで、ちらりと流し見たものの、何もコメントせえへんかった。せやけど信太を惜しむようではなかった。正しいところへ収まったものを見て、満足するような、そんな余裕の顔つきやったで。
「俺も知らんかったんやけどな、アキちゃんの絵はいくつか秘密裏に、売買されてたようやねん。今でもどこかにあるはずや」
「危ない絵やし出したらあかんて、叔母様たちが、きつう説教して、蔵に仕舞ってはったはずやけど……どないして外へ出たんどすやろ」
 まるで絵の軸に手足が生えて、蔵から脱走でもしたみたいに言い、蔦子さんは首をひねっていた。
「外へ出たわけやのうて、外で描かはったんやないですやろか」
 秋尾は言うてええのか、蚊の鳴くような声で、ご注進していた。
「外で? なんでアキちゃんが外で絵描くんや。そんなんしたらあかんのやで」
「そうですけど……、でも、本家には結界があって、絵を外には持ち出されへんかったんやし、その絵を市井で売買しようと思たら、外で描くしかありません」
 ぼそぼそと、訳知ったふうに言うてる狐の話を、難しい顔して聞きながら、大崎茂はしばらくして、さらにむっと、眉をひそめた。
「朧《おぼろ》。アキちゃんまさかお前んとこで、絵描いたりしてへんかったやろうなあ?」
「してへん。なんで?」
 けろっと悪びれへんふうに、怜司兄さんがDJブースから答えると、俺の隣でアキちゃんが、なぜかビクッとした。それを俺と蔦子さんは、横目でじろっと、咎めるように見た。
「あいつが外で絵描けるとこなんて、お前んとこぐらいやないか」
 大崎茂はまるで、それがものすごあかん事のように言うていた。怜司兄さんはそれに、肩をすくめていた。
「そうやろか。絵なんか、どこでも描けるやん。道ばたで描いてるやつかておるで」
「秋津本家の暁彦様が、道ばたで絵なんぞ描くわけあらへん。貧乏絵描きやあるまいし」
 むっとしたように反論している大崎茂に、俺はちょっと驚いた。その言い様は、まるでアキちゃんのおとんが、地べたに座ったら死ぬみたいな、途方もないボンボン扱いで、どこの殿様か天子様か、下々の者とは全然違う、異世界の生き物みたいに聞こえた。
 茂ちゃん、水煙のこと、お前がアキちゃんを追いつめたって、罵ってやがりましたけど、そういう自分も実はその一党やったんとちゃうの。ほんまは自分も殿様みたいなアキ兄に、ときめいていた一人やったんやないの。それがまるで対等な、ありきたりの兄ちゃんみたいに、てめえと遊んでくれてることに、うきうきしていた小僧やったんとちゃうの。
 ちょうど今、竜太郎が、おかんを挟んでとはいえ、大好きなアキ兄のそばに同席しているだけで、ドキドキしてるっぽい、薄赤いほっぺたしてるみたいにさ。
「……まあええわ。もう過ぎたことやしな。せやけど、アキちゃんの絵は危ないんやで。お前もそれはわかっとったんやろ。好き勝手に描かせたらあかんのやで」
「そうやろか。絵なんか好き勝手に描くからええんとちゃうの。暁彦様ぼやいとったで。俺の絵に、茂が勝手に墨入れるって」
 けろっと言うてる、怜司兄さんの話しぶりには、何や知らん、毒があった。大崎先生はそれを言われ、ぎくっとしたように、硬い表情になっていた。狐は気の毒そうな流し目で、首をすくめてそれを眺め、あたかも主人の失態を盗み見するような様子やった。
 大崎茂は、ばれてへんと思っていたらしい。
 茂ちゃんな、アキちゃんのおとんの絵に、こっそり加筆していたらしい。それは絵を殺すためや。絵の中の何かが、勝手に漏れ出て来んように、疵《きず》を付けていた。その一筆で、生きていた絵が死んで、一段落ちた、まるで生きているみたいな絵へと、無難に変わるように。
 それは別に、アキちゃんのおとんの絵に嫉妬して、壊したろうと思ってやったことやない。茂ちゃんは、本家のオバチャマたちの、手先やったんや。可哀想にな。そりゃまあ、しゃあない。怜司兄さんに言わせればやで。茂ちゃんは本家の養い子、弱い立場やねんから。ババアどもが、暁彦様のお供しろて命じれば、嫌々でもついていく。夜明かし飲んだくれる祇園のお座敷へでも、決死で鬼斬る修羅場にでもや。オバハン同伴では、嫌がった暁彦様も、茂やったらまあええかと、妥協したからや。
 ヘタレの茂は弟みたいなもん。たとえババアの手先でも、それさえちょっと忘れといてやれば、まあまあ可愛いもんやった。暁彦様にとってはな。
 ついてくるのが鬱陶しいて、邪魔やと思えば、がっつり酒飲まして巻いてまえばよかったんやし、茂もそれは、よう分かってる。大人しく酔いつぶれていた。お前は遠慮せえと、アキ兄が思うてる時には、いつもよりピッチの速い酌を、拒みはせえへんかった。
 そんなお前が可愛いと、暁彦様はお思いやったらしいで。茂は可愛いやつやと、朧《おぼろ》様にはゲロってたらしい。まるで弟みたいやと。
 ……あのなあ、それって、あれやん。皆はもう、知ってんのやろ。秋津の血筋の悪い癖やねん。アキちゃんかてそうやん。忌まわしくも爛《ただ》れきった近親相姦のお血筋なんや。弟でも妹でも、おかんでもおとんでも関係あらへん。なんでもありやねんから。
 アキちゃんはワンワンのこと、弟みたいで可愛いんやって。そこが犬のチャームポイントやねん。弟みたい、て。普通はそれ、俺はお前には気がないという意味の台詞やで。それが秋津の皆さんにとっては、真逆の意味や。
 茂は可愛いなあ、まるで弟みたいやと、暁彦様は困ってたらしい。血は繋がってへんのに、餓鬼の頃から同じ家に住んでるもんやから、まるで血筋の子みたいに思えちゃうんやろ。
 そういう意味やで。つまり。暁彦様はヘタレの茂に食指が動いたんや。せやけど手はつけへんかった。その理由もまた、弟みたいやったからやろう。
 実の妹とデキてもうてる、あの非常識な舅殿《しゅうとどの》にも、常識は一応あったんや。幸か不幸か。それがヘタレの茂にとって、ええことやったかどうかは、別としてな。
「気がついてへんのかと思うてたわ。なんも言わんのやもん」
 絵に一筆入れていたことについて、茂ちゃんはバレてへんつもりやった。普通やったら許せへん、そのことを、暁彦様が見逃していたせいや。茂やったらしゃあないかと、許してた。気がついてないふりをして。
「気がつかへん訳ないやんか、茂ちゃん。自分の絵に誰かが一筆入れててやで、わからん絵描きがどこにおる」
 悔やむような苦笑いで、朧《おぼろ》様は暴露していた。ヘタレの茂がこの六十年以上も、バレてへんと信じていたことを。
「怒ってたんか、アキちゃん」
 今さらそれに青ざめてきたんか、大崎茂は酔いが醒めたような顔つきやった。
「怒ってへんけど。でもイラッとはするやろ。そんなんされたら、誰かて嬉しくはないわ。せやから隠れて外で描かれんのやんか」
「この世に俺が見たことないアキちゃんの絵があるやなんて……」
 どこか呆然としたふうに、大崎茂は呟いていた。それに朧様は、なにが可笑しかったんか、椅子で悶え、あっはっはと喉をそらして笑っていた。
「そんなん、いっぱいあるで茂ちゃん。山ほどある。別にええやん……それくらい。何が不満なんや。餓鬼のころから、ひとつ屋根の下、どこへ行くにも腰巾着で、正味、十七、八年も、べったり甘えたんやろ。それがなんで出征の時まで、大喧嘩やねん。しんどいで、暁彦様も。ああもう、ほんまにかなわん、茂の子守りはしんどいわ……」
 誰かの口調を真似るような口振りで、朧《おぼろ》はぼやいた。何やしらん、邪悪な冷たさやった。
 それに大崎茂はむっとして、蔦子さんは、むむっという顔をした。
「怜司」
 きりっと厳しい、ご主人様の声色で、蔦子さんは怜司兄さんを叱った。それには兄さん、おとなしく首を垂れていた。蔦子さんには逆らわんらしかった。
 ため息一つで、蔦子さんは怜司兄さんを許した。
「いろいろありますなあ、坊《ぼん》。秋津の家にはなあ。その当主を務めるというのは、大変なことどすわ」
 しみじみ同情したふうに、蔦子さんはアキちゃんに言うた。まるで他人事みたいやった。
 実際それは他人事かもしれへん。蔦子さんには。分家の当主とはいえ、結婚して力を合わせ、家を支えていくはずのアキちゃんのおとんは、許嫁のまま死んでもうて、蔦子さんはすでに他家の嫁なんや。普通やったら知らん顔して、うちはもうヨソもんどすって、ドライにしとってもええはずやった。これは秋津家の問題で、海道蔦子の仕事ではない。ただアキちゃんのおかんに、息子をよろしゅうと頼まれたっていうだけで。
 よろしゅうもなにも、そのおかんは、どこで何をやっとんのや。髭の師匠やないけども、こんな難儀な時に、可愛いひとり息子をほったらかして、ラブラブ世界一周旅行なんか、やってる場合やないよ。さっさと旦那を連れて戻って来んかい。
 ほんまに一体、なにをやっとんのや。アキちゃんの両親は。
 一体、なにを。
 遊んでるんやって、思うてた?
 ブラジルでラブラブ?
 六十年ぶりのハネムーンが嬉しすぎて、息子のことなんか完璧忘れてもうてた?
 鯰《なまず》が出てきて、さあ大変てなってるとは、これっぽっちも気付いてへんかと、思うてた?
 ……そんなわけない。なめたらあかん。秋津の直系や。アキちゃんを別にすれば、この世で最も血の濃い、秋津家の正統な世継ぎの兄と、その実の妹なんやで。
 おとん大明神と登与姫は、遊びにいってたわけやないんや。
 そのことは、この後、すぐに分かった。俺らの誰もが思ってもみないような事を、おとんとおかんはやってた。神戸から、ちょうど地球の真裏にあたる、南米で。
 南米か……懐かしいな。亨ちゃん、南米の蛇やったことある。もう昔すぎて、ようわからへん。ヤハウェにやられて、命からがら落ち延びて、この極東の島へたどりつく前のことは、忘れてもうたり、もう忘れたいと思うたりで、よう思い出されへん。
 せやけど完全には、忘れ去られへんものや。かつて我が身を生み出し、神と崇めてくれた民のことは。信太がかつて中国の、黄砂の大地で世話んなった民人のことを、今でも忘れてへんように、俺かて忘れてへん。この体のどこかでは、今でも深く憶えている。
 俺のことをエアと呼んだ。あるいはケツァルコアトルと。ククルカンと崇めた、もうどんな顔やったかも思い出されへん、無数の人々のことを。今ではもう遠く、冥界へと去った、その愛おしい魂のことを。
「水地亨」
 突然背後から呼ばれて、俺はびっくりした。びくっと来るような声やった。
 それが水煙の声やったからや。俺には怖いねん、こいつは。いろんな意味でな。
 戻ってけえへんと約束してたくせに、水煙は戻ってきた。犬に車椅子押させて。なんや、難しい顔をして。
 俺はびっくりした顔で、ソファの背もたれにとりついて、車座の外にいる、青い宇宙人と向き合っていた。
「なんやねん水煙、約束違うやないか。なんで戻ってきたんや」
「そういうお前こそ、何をしてるんや。ジュニアとふたりきりで別れを惜しむんやなかったんか。なんでこんなとこに居るねん」
 真顔でつっこまれた。確かにそうやった。アキちゃんとふたりっきりでラブラブする予定やったのに、なんでか全員いてますみたいなこの席で、なにひとつラブっぽいことはできず仕舞いで、ただ座ってるだけ。平安コスで。
 虚しい。時間がもったいない。俺とアキちゃんのラブラブな時間が、どんどん無駄に流れていっている。ヘタレの茂の話なんか聞いてる場合やないのに。狐の踊りなんか見てる場合ちゃうのに。怜司兄さんの歌なんかいつでも聴けるのに。なにをやってんのや俺は。
「なんでやろうな……」
 若干かすれ声で、俺は水煙様に尋ねた。水煙はほとほと呆れたという顔やったような気がする。表情ないから、わからへんねんけど、このときちゃんと人並みの顔やったら、そういう表情してたに違いないという確信がある。
「まあええわ。お前がアキちゃんといちゃいちゃしたないんやったら、俺も別に遠慮せえへん」
 いや、遠慮して。遠慮してくれていいのに水煙。いちゃいちゃしたいんですけど。状況がそれを許さへんだけやねん。なんとかして。
「アキちゃん、なんも変わったことはないか」
 水煙は何かそわそわしたような顔で、まじめにそう訊ねてきた。
 変わったことなら、いっぱいあったけど。そういう意味じゃないのよね?
 アキちゃんは目を泳がせ、一度、助けを求めるように俺の顔を見たけど、結局自分で返事していた。
「なにもないと思うけど?」
「そうか? 俺は何か、胸騒ぎがするねん。虫の知らせか……」
 虫なんかおるん、水煙? 気色悪。虫おるんやって。虫湧いてますよ、この青い人。気色悪。ちなみに水地亨は虫なんかいません。クリーンです。クリーンな亨ちゃんです。それでもまだ水煙のほうが清純派やというんですか。虫おるんですよ。俺のほうが清純です。
「先代からなにか、知らせはなかったか」
 一同の耳を憚るような、一段落とした声で、水煙はアキちゃんに訊ねた。水煙にとっては目の前で、暁彦様の話をしたくない面々やったらしい。朧《おぼろ》も、蔦子さんも、ヘタレの茂もな。
「なんもない」
 拗ねた声を無表情で隠し、アキちゃんは断言していた。
「そうやろうか。でも俺は、胸騒ぎがするんや」
 水煙はそれを、確信してるっぽかった。アキちゃんのおとんから何事か、コンタクトがあると、宇宙人なりの勘で、察知していたらしい。UFOからの通信でもあったんか。母星からの電波でもキャッチしたんかな。
 鋭い。
 そしてそれは水煙と、アキちゃんのおとんとの、未だに切れてない縁の作用なんかもしれへん。
 皆のおかんにも、そういうのないか。家族の誰かが帰ってくるとか、電話かけてくるのを、その直前で察知するという、超能力。なんか困ったことある時に限って、突然電話かけてきたり、今月ピンチ飯も食えへんていう時に、偶然宅急便で冷凍の煮物送ってくるような、神通力。それは本来、人間なら誰でも持っている力。いわゆる第六感。虫の知らせや。
 水煙の胸に棲んでる虫が、知らせたらしい。アキちゃんのおとんから、なにか連絡があると。
 果たしてそれは、大正解。ど真ん中。大当たりやった。
 まさしく大当たり。
 皆が車座に座る、真っ赤っかなソファセットのど真ん中に、その矢は突き立った。一体どこから飛んできてん。どこから射たんやっていう、ものすごいど真ん中に、ものすごい速さで、白羽の矢羽根をつけた矢が、がつーんと突き刺さった。
 うわあ、と一同は仰け反った。その驚愕の真ん真ん中で、白羽の矢はびいんと、低い唸りをあげて震え、その軸に結わえ付けられている紙人形を、ぶるぶる振るわせていた。
 皆があっけにとられる目の前で、紙人形は自分で自分を結びつけている、赤い糸をごそごそ解いた。
 けっこう手間取ってから、糸はほどけ、はらりとテーブルの上に舞い落ちた白い人型の紙切れは、なんつうかこう、乗り物酔いした人がゲロってるみたいな、しんどいわあっていう、四つん這いのポーズでふるふるしていた。
 その腹んとこに、字が書いてあるのが見えた。
 秋津暁彦、と。
「酔うたわぁ……」
 息も絶え絶えみたいな声で、おとんが言うた。いや、その、紙人形が言うたんや。
「おとん!?」
 意外にも、この場の誰よりも早く、アキちゃんが叫んだ。
「おとんか!? おとんやろ!?」
 アキちゃん、ソファから転げ落ちる勢いで、コーヒーテーブルの上でがっくり来ている紙人形に、すがりつかんばかりに詰め寄っていた。かなり異様な素早い反応やった。
「そうや……おとんやけど……ジュニア。俺、吐きそうやねん。あかんかったわ、この方法は」
 返事しとるで、この紙人形。おかしいなあ。普通の手紙はさ。普通言うても、霊能力便が普通とは言いづらいけども、通常、おかんから届いた奴とかは、まず伝言をする。それがこいつらの存在理由なんやしさ、伝言を伝えるために力を与えられてるんやもん。
 せやけど、おとんから来た矢文の人形は、伝言を滔々と伝えはじめるような気配はこれっぽっちもなく、普通にアキちゃんと会話していた。
「これやったら直に話せるし、ナイスアイデアやと思うたんやけどな。ものすご吐きそうやで……」
「電話すりゃええやん、おとん! なんで携帯の電源切ってんの!?」
 別にでかい声で話す必要ないんやで、アキちゃん。遠い電話やないんやから。せやのに、うちのツレ、なんかもう必死みたいに、でっかい声で紙人形と話すんやもん。四つん這いでやで。そんな姿に若干、幻滅している俺がいる。
「圏外やってん……」
 息も絶え絶えみたいに、吐いている紙人形は言うた。
 どこに居るのん、おとん。人外魔境か。携帯の電波届かへんとこに居るのん?
「それより大丈夫かジュニア。ひとりで、あんじょうやってるか」
 まだ吐きそうな声のまま、おとんは親らしいことを言うた。
「やってへん! やってるわけないやろ! なんやねんこれ!! 俺死ぬらしいで、おとん!」
 ぎゃあぎゃあ喚いているアキちゃんに、おとん紙人形は、ああ、そのことか……と言うた。気怠そうに。水でも飲んでるみたいな声やった。
「心配せんでええ。おとんがなんとかしたる」
 ごほごほ言いつつ、秋津暁彦人形は請け合った。そして、よっこらしょみたいに、コーヒーテーブルの上に胡座かいた。
「大体なんやねん、男の子が、ちょっと死ぬくらいで、そんな泣きそうな声出すな。格好悪いと思わへんのかお前は……」
 ちょっと死ぬぐらいでか。そうやなあ。確かに格好悪いねんけどさ。
「えっ。ああ、なんでもない。言葉の綾や。なんもないから心配せんでええよ。風呂入るんか。うんうん、かまへん。ゆっくりしとき」
 ぱくぱくしてるアキちゃんを尻目に、紙人形は、何かを振り返るような仕草をして、ものすご甘いような猫なで声で、そう言った。アキちゃんに言うてる訳ではないようやった。
 その証拠に、向き直った紙人形は小声で言うた。
「お登与や。まだ知らんのや、詳しいことは。お前も言うなよ。おかんに要らん心配かけるもんやない」
 要らん心配て……。息子が死ぬかもしれへん場合、おかんは知っといても損はないんとちゃうの?
 つまり知らんかったんや、お登与はな。鯰《なまず》が暴れ出して、えらいことになりそうやとか、龍が現れて、アキちゃん食うかもしれへんなんてことは、気付いてなかった。だってそんな話になるずっと前から、おかんはハネムーンで留守やったんや。
 それは、秋津暁彦も同じはず。せやけどおとんは、知っていたらしい。神様やからかな。それとも蔦子さんと会うたから? 蔦子さんは旅立つ前に、従弟でかつての許嫁、今や英霊となり神となった秋津暁彦の霊と、会見していた。そのとき、おとん大明神は、稀代の予知能力者、海道蔦子から、何か予見を聞かされたんやないか。
「結界張っとかなあかんなあ。あいつは耳がええから」
 ぶつぶつ言うて、紙人形はなんかしてるっぽかった。どこか遠くで、おとん大明神が、お登与の耳をくらますための、結界を張ったんやろう。悪いおとんや。そうまでして、妻に秘密を持とうとは。
「暁彦、初戦からして大仕事やな。心配するな。お前ならやれる」
 おとん、アキちゃんの何を知ってんのや。そんなふうに、俺が心配になってくるぐらいの、めっちゃ確信に満ちた励まし方やった。ただの親バカとしか思えへん。
 アキちゃんにもそう思えたんやろう。ジュニア唸ってた。感動したわけやない。信用でけへんと思って、思わず呻いたんや。
「何をやれんねん……! まるっきりアホやのに、何をやれっていうねん。絶対無理。絶対に失敗する。絶対あかん!!」
 アキちゃん、100%の自信を持って、完膚無きまでの自己否定やった。
 確かに、そこまで思うんやったら、絶対あかんやろ。アキちゃんの自己暗示、相当なもんやねんから。あかんと思えば、できる事でもでけへんのやろ。まして、できそうもない事なんやしさ、そら無理や。120%の確率で失敗するわ。
「そんなん言うな、ジュニア。おとん悲しなってくるわ。俺の子なんやろ、お前。できるできる」
 おとん、超軽い。深刻さの欠片もない。
「それに、まるっきり一人ってわけやないやろ。お蔦ちゃんもおるし、茂もおるやろ? おらんのか?」
 すぐ目の前でわなわな来てる、大崎茂が見えへんのか。おとん人形はきょろきょろしていた。それはまるで、辺りを見回しているような仕草なんやけど、どうもお人形さんには、目はないようやった。喋れるくせに、見えてない。声が聞こえへんかぎり、その場に誰がおるかは、わからへん。電話と同じや。
「茂はおらんのか?」
 不思議そうに、紙人形は言うた。
 その声で呼ばれて、大崎先生、なんや腰でも抜けたみたい。
 これまたソファからずり落ちるみたいに、ぺたんと床に座って、恐る恐るなふうに、秋津暁彦と書かれた紙人形を、覗き込んだ。
「おるで……アキちゃん」
「なんや、おるやないか。それなら当座、心配いらへん」
 声だけ聞くと、紙人形は納得したように、アキちゃんのほうに向き直って言うた。
「アキちゃん。一体。どこにおるんや」
 その目と耳を、もういっぺん自分のほうに向かせたいように、大崎茂はぽつりと訊ねた。人形がまた、声のしたほうを向いた。
「ブラジル。さっきグアテマラから戻ってきたとこや。すごかった、グアテマラ」
 きっぱりあっさりと、紙が答えた。
「なんでそんなとこに居るんや、アキちゃん。帰ってきてくれ。お前の息子が、難儀しとんのやで……」
 いつも偉そうやったくせに、大崎茂は急に、しおらしかった。恐る恐る、龍の逆鱗に触れんようにと、気をつかうふうに、ひっそり喋っていた。
「わかってる。俺には俺の考えがあんのや。もうじき帰る。それまでお前が何とかしとけ」
 顎で使って当たり前。そんな響きのする声で、紙人形は大崎茂に命令していた。天下の大崎茂やで。儂を誰やと思うとんのや。世界でも、上から数えたほうが早いような、大金持ちの会長様やで。俺はもう、アキちゃんよりも偉くなったでって、さっきは言うとったくせに、茂ちゃん、めっちゃ大人しかった。
「何とかって……アキちゃん。そんなんさせるつもりなんやったら、前もって言うといて。俺かて暇やないねん。仕事もあるしな……会議もあるし……急に言われても、困るんやで」
「そうか。そうやろなあ。お前も偉なったらしいやんか。せやけど茂、お前には、男子一生の仕事があるやろ。秋津の覡《げき》として。お前は俺が死んだ後、なにをしとったんや。寝とったんか、ヘタレの茂。このドアホ! 仕事もせんと無駄飯食うな!」
 紙人形に怒鳴られて、ヘタレの茂は、怖いらしかった。びくっとしてた。ただの紙やで。それがただ、アキちゃんのおとんの声で、喋るだけ。
 それでも大崎先生、へろへろなってた。
「なんで神戸を封鎖でけへんかったんや。このヘタレ! お前のせいで人がぎょうさん死ぬんやで。わかっとんのかアホ」
 めちゃくちゃ言うてる、おとん。言うてええんや、天下の大崎茂に。アホ言うてええんや。
 だって大崎先生、ぜんぜん逆ギレしてへんで。正座して聞いてるもん。正座やで。
「ごめん、アキちゃん……俺、頑張ったんやけど」
「聞きたない、お前の言い訳は。時間もないねん。引っ込んどけ茂。暁彦はどこいった」
 お前より、息子が可愛い。そんなふうな冷たさで、押し返されて、茂ちゃんはシュンとしていた。ちょっぴり可哀想やった。そこに正座したまま、大崎茂は押し黙った。アキちゃんが黙れ言うんやから、黙るしかないっていう、そんな感じ。
 当の息子は、青い顔して、そんな大崎茂と向き合っていた。秋津暁彦と書いてある、紙人形を間にはさんで。
「蛇はおるか、暁彦」
 蛇います。
 いきなり話振られて、俺もソファから落ちそうになった。びっくりした。なんで俺が話に出てくるのん?
「え……亨のことか?」
 アキちゃんも意外やったみたいで、答える声が上ずっていた。
「そうや。その亨ちゃんや。まさかもう別れたりしてへんやろな?」
「し、してへん……」
 なんで、どもるの、アキちゃん。別れてへんやろ!? 別れたん、俺ら!? 別れてへん!
「ちゃんといます!!」
 黙ってられへんで、俺も叫んだ。
「よかった、おるな。暁彦モテるらしいから、もう居ないていう可能性もあるなあて、今朝気付いて、おとんブラジルで慌てたわ」
 冗談やんね? と亨ちゃんが微笑むようなことを、舅殿はほがらかに言うた。冗談ですよね、お父さん。居ないわけないじゃないですか、亨ちゃん、アキちゃんの運命の相手なんですから。結婚までしてるんですから。そういえばその事、まだお父さんに挨拶してませんでしたね。すみません、申し遅れまして。ちょい前から亨ちゃん、アキちゃんの正式な配偶者ですから。よろしくお願いしますよ、お父さん。僕らもう家族やないですか。
「暁彦、その子が鍵や。絶対、側から離したらあかんで。縛り付けてでも、お前のもんにしとけ!」
 ナイス命令! お父さん!!
 真面目に言うてる紙人形の声を聞き、俺は感無量で、へたっているアキちゃんの背中に、がしーっと抱きついていた。離さへん。離さへんからアキちゃん。俺のもの!
「な……なんで?」
 アキちゃん、俺にがっつり抱擁されながら、朦朧としておとんに訊いてた。
 なんでって、何がなんでやの! 愛してるからやろ! 愛!
「その蛇、掘り出しモンやで、暁彦。名のある神や。お前はえらいもん拾った。大当たりや。でかしたで!」
 道ばたで、お宝でも拾ったみたいに、おとんは俺のことを褒めていた。そらまあ、しゃあないか。そういう感覚か。おとんにとっては俺は、ただの式神。縛り付けて、使役するための、下僕なんやしさ。そうやって、両手の指でも余るような数の式神を、戦争で使い果たしてきた、そんな放蕩なご当主様やねんからさ。
 アキちゃんとは違う。俺のアキちゃんとは。
「お登与とグアテマラで、そいつの名のひとつを突き止めた。戻ったら教えてやる」
 そういうことや。おとんとおかんは、俺の名前を調べにいってたんや。息子のツレは水地亨やと、それだけでは納得いかず、俺様の霊的な氏素性を、おとんは知りたかったらしいわ。
 なんで名前が必要なんか。
 俺を隷属させるためや。そして使役するため。名前を支配するのは魔法の基本。秋津島の呪術でも、それは有効やったんやろな。名のある者なら、その名を支配することで、使役に答えるようになる。それは鬼道の常識。
 ぼんくらのアキちゃんは、知らんやろけど。でもそれは、常識やねん。外道にとって、自分の真の名を教えることが、どんだけハイリスクか、アキちゃんは知らんかった。
「そんなん……グアテマラまで行かんでも、もう知ってるわ」
 困ったように、アキちゃんは答えた。それにおとんは、はあ? とか、ああ? とかいうような、よう分からん声で答えた。
「どないして知ったんや」
「どないて……こいつが教えてくれた」
 俺をふりかえって、アキちゃんは戸惑う声のまま、おとんに答えた。
「教えるわけあらへん。名のある古い神が、ただで真の名を教えるわけはない」
 おとんが言うてる声を、アキちゃんがちゃんと聞いてたんかどうか。聞いてはいたやろうけど、アキちゃんはじっと、俺を見ていた。俺の顔を。困ったような、切ない目して。
「教えてくれたで」
「そうか……それなら、その名を使って、そいつの神威を蘇らせろ。龍への供物として、その子を捧げるんや」
 なんや、お父さん、そんな事考えてはったんですか。残念です。
 俺はアキちゃんの背にすがりつきながら、そう思ってた。
 それが普通なんかもしれへん。巫覡《ふげき》なんて。使うだけ使うて、あとはポイ。式神なんて、消耗品やていう、そういうのが。
 でもアキちゃんは違う。俺のアキちゃんだけは。違う。
 そう思いたいけど。でも本当に、そうやろか。
「それは……でけへん。それは無理や」
 アキちゃんは小声で、おとんにそう頼んでいた。それだけは、堪忍してくれって。
「無理やと? ほな、どないするつもりや。他に供物のあてがあるんか」
 厳しく問われて、アキちゃんは絶句していた。そして固まっていた。思考停止や。
 あてはあるやろ。
 俺は思わず、苦い顔で、ソファの向こうにいる水煙の、青い無表情を振り返った。水煙は、いかにも涼しい顔のまま、小さく顎をあげて、俺に促していた。お前が言えと。
「水煙や、おとん。龍への生け贄には、水煙をやるんやで」
 石みたいに黙っている、言えるわけないアキちゃんの代わりに、俺がおとんに教えてやった。
 それに、ひいって、引きつったような悲鳴が聞こえた。蔦子さんの口から。
 びっくりして、俺が振り返ると、蒼白な顔をした蔦子さんが、自分の口元を白い両手で覆い、卒倒しそうになっていた。
「……アホッ!! なんやそれは! どこのどいつが考えたんや! 暁彦!!」
 こっちも卒倒しそうというか、ものすご怒っている声で、紙人形が怒鳴っていた。その、抑え込まれた取り乱しぶりに、俺は驚き、ちょっと呆れた。
 もしもここに、秋津のおかんがいたら、おかんも仰天したんやろうか。あの人がビビるとこなんて、俺にはぜんぜん、想像もつかへんのやけど。
 水煙を生け贄にするというのは、秋津家の大人達にとって、とにかく魂消る発想らしかった。ビビってへんのは、ヘタレの茂くらいや。お前も秋津の覡《げき》やろうと、おとんは言うてたけども、大崎先生は、やっぱり他人や。血が繋がってへんのや。せやし、わからへんのや。この青い宇宙人に執着してる、秋津のやつらの怨念が。
「俺が考えたんや、アキちゃん。そう驚くことはないやろ」
 遠巻きに、さしたる気合いもみなぎらせず、水煙はさらりと言うた。
 その車椅子を押している、犬は気まずそうやった。水煙から何やかんや、道々聞かされたんかもしれへん。俺が水煙から聞かされたような、アキちゃんをよろしくっていう話を。
「水煙……なんでや。式《しき》は他にもいる」
 確かにいる。俺とか、ワンワンとかな。
 朧《おぼろ》様とか。
 おとん、それには、気付いてへん。だって怜司兄さん、うんともすんとも言わんのやもん。死んだみたいに呆然の顔して、完璧固まってる。息もしてへんのやないかと思えるような、静まりかえりかたやった。
「龍は鯰《なまず》と違うて、食えりゃなんでもええというような、悪食な神やない。巫覡《ふげき》を人身御供に出されへんというのなら、それに代わる、ええもんでないと」
 さすがは水煙様や。まるで自分がいちばん、ええもんやっていうふうに、平気で言うてた。そう言うてめえも、鯰《なまず》様には嫌われて、金気《かなけ》は食わへんて偏食されてもうてるくせに、龍はどんだけグルメやねん。
 ケッと思うが、それはほんまの話やった。
 龍はグルメというより、神格が高い。そこらの蛇ならいざ知らず、天にも昇ろうかという大物やったら、ちょっとやそっとの飯では、腹の足しにもならんらしい。それ相応の、高い霊威が必要や。
 俺とか犬やと、不足やということなんやろう。今のままではな。
「蛇神の、霊威を上げて、人身御供の代わりにする。まずはそっちを試してからでも、遅うない……水煙」
 ありがたい神さんに、お縋りするような口調で、おとんは言うてた。息子のツレを、先に殺っとけって。それで龍が腹一杯になれば、水煙は行かんで済むやないかって。
 おとんは本気で言うてたと思うで。本気で俺を、龍に食わせるつもりやったわ。
「無理や、アキちゃん。お前は息子を助けたいんやろう。たとえ命が助かっても、蛇を殺せば、お前の息子は幸せにはなられへん。これはただの式《しき》ではないし、第一もう、秋津の式《しき》ではないんや。お前の息子が、解放してもうた。残念やけどアキちゃん、もう万策尽きたんや。俺を龍にくれてやって、お前の息子に三都を救わせろ」
 静かに説得する水煙の話を、紙人形はぴくりともせず聞いていた。あまりに向こうが押し黙っているので、まるで人形は、ただの紙に戻ってもうたみたいやった。
「幸いにもアキちゃん、お前の息子は不死人になった。それは、この蛇の霊威によるものや。せやし、これが末代。これが未来永劫、秋津の家を守る当主として、三都を守護する任に就く。以後は水地亨を秋津の守護神として、祀《まつ》るように」
 水煙の話、おとんはちゃんと聞いてた?
 ほんまに聞いてる? もしもし? ……って、言いたくなるような、死んだみたいな沈黙やった。
 いや、実際もう死んでんのやけど。そうなんやけども。でも、そんじょそこらの死人かて、ここまで死んだようには押し黙られへんでっていうくらいの、深く、雄弁な沈黙やったで。
 おとんはなんも返事せえへんかったけど、じっと堪えたような沈黙は、ひどく物言いたげに、たくさんの言葉を呑んでいるようやった。
「末代?」
 やがて、それだけぽつりと、おとんは聞き返してきた。
「そうや。これで終わりやアキちゃん。全部終わりや。俺を龍にくれてやり、それでお終いにしたらええよ。お前も今後は、好きにすればいい。お家のためや、血筋の定めやと、そんなことはもう、忘れたらええよ。お前はもう、死んだんや。家や血筋に縛られることはない」
 優しく諭すように、水煙は話していた。もうラクになってええよっていう、そんな気楽な話としか、俺には思えへんかったんやけども、なぜか紙人形はぶるぶる震え、突然ぱたっと倒れた。
 おとんがコケたわけやのうてな、なんや一瞬、その式《しき》を使役していた、おとんの霊力が途切れたんや。ものすごボケッとしてもうたんやないか。あんまりショックすぎて、頭真っ白なってたんやで。
 突然また、蘇ったように、紙人形はひらりと立った。おとんカムバック。
「好きに、って……」
「蛇を祀《まつ》るんは、ジュニアがやるやろ。お前はもう、隠居やで。成仏したけりゃ、すりゃあええし、したくないんやったら、化けて出といたらええ。絵を描きたいなら、描いたらええよ。お前ももう、ええ歳やねんから、描いてええもんと悪いもんがあるていう分別くらいは、ついたんやろう?」
「忘れたわ、絵の描き方なんて」
 水煙に、そう答えているおとんの台詞に、なんかこう、ぐっと痛いような空気が、あちこちから湧いた。アキちゃんは身構えるし、ヘタレの茂は痛恨の表情やった。怜司兄さんまで超暗い。憂いのある目で、ちんまり立ってる紙人形を見下ろしている。
「今さら、好きにと言われてもな、水煙。俺にはもう、したいことなんか、なんもないんや。国のため、家のためやと思うて死んだ。今やもう、秋津の家を守ることだけが、俺の願いや。お登与や息子が幸せに、恙《つつが》なく生きていってくれるように。お蔦ちゃんや茂や……。水煙……お前を龍にくれてやって、俺がその後、暢気に絵なんぞ描いてられると思うんか」
 おとんの口調は、切々と掻き口説くようやった。
 水煙はそれを黙って聞き、朧《おぼろ》はそれから目を逸らした。俺は黙ってアキちゃんの背に、縋り付いてるままやった。
 あったかい、アキちゃんの背中は。あったかいなあ……。
「お前は秋津の家宝なんやで。秋津家はお前を祀《まつ》るためにある家や。お前を贄《にえ》に差し出して、なにが当主やねん。絶対あかんのやで、暁彦。絶対にあかん。そんなことのために、お前に水煙を譲ったんやない。お前にはこいつの有り難みがわからんのかもしれへんけどな、ただの太刀やない。神や。ご神刀やねん。心があるんや。大事にしてやってくれ。こいつはお前のことが好きなんやで。お前はそれを知ってんのか。知らんとやってんのやろう、考え直せ!」
 水煙を東海《トムへ》の龍にくれてやるかどうか、決める権利はアキちゃんにある。おとんはただ、頼み込む口調やった。
 俺の抱いてるアキちゃんの背が、堪えるような硬さやった。俺はそれを、ただ抱きしめていた。大丈夫やでアキちゃん、堪えなあかん。ここが辛抱のしどころや。俺と永遠に生きていたいんやったら。堪えなあかん。水煙のことは、諦めてくれ。俺のこと、愛してんのやったら諦めて。
「アキちゃん……そこらへんの何やかんやはな、もう、済んだんや。分かった上での結論なんや。蒸し返さんといてくれ。時間の無駄や」
 やんわり言うてる水煙は、優しげなようでいて、とりつく島もなかった。
「水煙」
「なんやアキちゃん」
 まだ言うかと、取りすがる口調のおとんの声に、水煙は答えていた。それは優しいけど、鉄でできてる、冷たく硬いような声やった。
「俺はお前のためになると思って、息子に譲ったんや。お前も俺と居るより、そのほうが、嬉しいやろうと思って」
「そうやったか。初耳や、そんな話。お前はもう俺が、邪魔でかなわんかったんやろう」
 水煙は、触れば斬れるような、鋭利さやった。なんでか知らん。水煙はアキちゃんのおとんのことも、好きやったんやないんか。なんでそんなに冷たくすんの。
「どうしてこんなことに。いくら蛇が好きでも、お前は別格やろう」
「そうでもなかったようやな……生憎。でも、ええねん、アキちゃん。気にすることはない。これでええんや俺は。短い間やったけど、幸せやったよ、ジュニアのとこで」
 それは少々、嘘やないか。幸せやったか、水煙は。アキちゃんのとこに来て、なんかいいことあったか。ほんま言うたら、つらいばっかりやったんとちゃうか。
 それが可哀想やって、俺がそう言える立場やないけどさ。
「気にせんでもええ。俺はまた竜宮へ戻るだけや。もうこの地上には、疲れたわ。そろそろ潮時……俺にももう、人界を去るべき時が来たわ」
「それでいいのか暁彦」
 紙人形はなぜか水煙でなく、アキちゃんに訊ねた。
 アキちゃんは何か答えようとはしていたけども、うっすら開かれた唇からは、どんな声も出えへんかった。ただ震えたような手で口元を擦り、アキちゃんは黙った。なおいっそう強く、俺はアキちゃんの背を抱いた。
 大丈夫やでアキちゃん。俺が居るやん。水煙が居らんようになっても、俺が居る。
 そういうつもりで、抱いてたんやと思うけど、アキちゃんはつらそうやった。水煙が居らんようになるのが、しんどくてたまらんようやった。俺は黙って、アキちゃんの肩に自分の頬を擦り寄せた。
 つらいんか、アキちゃん。お前の世界には、水煙が必要か。
 しょうがないやつや、お前は。ほんなら何か手を考えて、水煙をこの世に、引き留めなあかんやないか。黙って座ってても、龍はやってくるんやで。
「なんとか言え。居らんのか、暁彦」
 焦れたというより、悲しいみたいに、おとんの声は静かに響いた。
 それがおとんに見えるわけではないのに、アキちゃんは小さく首を横に振ってた。いややって、言うてるみたいに。
「いつまで話しても埒が開かへん。お前は亨の真名《まな》の件を伝えようとして、文を放ったんか? もう用は済んだのやろう」
 水煙はアキちゃんに、もたもたする時間はくれへんかった。あっさり話を進められてもうて、アキちゃん結局、無言のままやった。
 おとんも渋々、黙り込みはしたけども、こっちも結局、話を戻した。水煙が、もう終わりや言うたら、終わりらしいで。素直やなあ。
「いや、用件はそれだけやない。そろそろ時間や。テレビをつけろ、暁彦」
 えっ、なに? この超シリアスな時にテレビ? なに観るねん、おとん。録画しといてほしいドラマでもあんのか?
 皆もぽかんとしたんか、車座の面々の目は、なんのこっちゃという戸惑う視線を、コーヒーテーブルの上に立っている、おとん人形に向けた。
「テレビ……無いけど」
 困ったようにアキちゃんが、おとんに答えた。
「無いことないやろ。そこホテルなんやろ。テレビくらいあるやろ。どんな未開のジャングルやねん。糞ホテルやな」
 藤堂さん、今ここに居らんでよかった。居たら絶対、アキちゃんのおとんのこと、嫌いになってる。
 でも、ないもんはない。蔦子さんがどんだけタイガース戦観たくても、テレビはない。このホテルは現世を忘れてくつろぐところ。テレビなんかいらん。それが藤堂さんの美学なんやから。
「テレビ出せ、秋尾」
 しょぼくれていた茂ちゃんが、やっと喋った。いつの間にやらソファ降りて、舞妓さんルックのままで、ご主人様の背後に控えていた狐に、大崎茂は振り返りもせず、そう命令した。まるでテレビ持って歩いてるのが普通みたいな、出せて当然て感じの命じかたやった。せやけど狐は珍しく、それを渋った。困り顔やった。
「出せますけども、出しても映りません、先生。アンテナ線繋がってないから。コンセントもないですし」
 テレビだけあってもなあ。そんなんも知らんのか、大崎茂。テレビ売ってる会社の会長のくせして。
「朧《おぼろ》」
 床に座った正座のまま、大崎茂は含みのある声で、しかし淡々と、怜司兄さんを呼んだ。
 テーブルの上で紙人形が、びくりとした。それはどういう意味やったんやろう。
 呼ばれた怜司兄さんも、びくっとしてた。。自分のとこに話が向くとは、思ってへんかったんやろう。声もたてずに、なりを潜めて傍観しとったのに、呼んだらそこに居るのがバレてまうやんて、焦ったような青い顔やった。
 大崎茂はそういうつもりで、わざと呼んだんやろう。空気読めへん訳やない。こいつも居るでって、アキちゃんのおとんに、一言言うてやりたかったんや。
「テレビ映せへんか、朧《おぼろ》。できるやろ?」
 出てきて一言、挨拶せえって、そういうノリで、大崎茂は怜司兄さんに言うた。せやけど兄さん、声を出すのが怖いみたいに、自分の喉に手をやって、椅子の上で固まるばかりで、うんともすんとも言わへんねん。
「朧《おぼろ》が居るのか。茂。お前の式《しき》か」
 どことなく、びびったような声で、おとんは訊いてきた。
「いいや。今はお前の息子のや。つい昨日までは、お蔦ちゃんの預かりやった。聞いてへんのか、何も?」
「茂ちゃん、怜司はまだ心の準備ができてまへんのや」
 慌てたように蔦子さんが、大崎茂を止めた。せやけど大崎茂に止まる気はない。
「心の準備なんかいらんわ。テレビつけてくれ、朧《おぼろ》。アキちゃんがテレビ観たいらしいで。何チャンネルや、アキちゃん」
 こっち来いと、朧《おぼろ》に手招きして、大崎茂はぐいぐい話を進めてた。案外、気の利く人やった。空気読めりゃあええってもんやない場合かて、人の世にはある。
 恐る恐るではあるけども、とにかく怜司兄さんは椅子から立った。狐の舞妓はテレビを出した。ぽかんと白煙をあげて、どこからともなく現れた、でかい画面の薄型テレビには、大崎先生の会社の名前とロゴマークが入っていた。最新型やで。さすがやな。
「うちのテレビは世界一やで、アキちゃん。ものすご売れてんねん。絵が飛び出すテレビもな、まだ初期型やけど、あるねんで。すごいやろ」
 自慢げに、大崎茂は語っていた。コーヒーテーブルの脇に鎮座した、我が社自慢の最新型を金屏風にして、アキちゃんの声で語る紙人形に、子供みたいな自慢話を垂れていた。
「すごいなあ茂、お前には商売の才能があるわ」
 付き合いのいい兄ちゃんの声で、おとんが褒めると、大崎茂はほんまの子供みたいに、顔をくしゃくしゃにして照れ臭そうに笑った。それを伏し目に眺めつつ、秋津の家の玄関先の、由緒正しき衝立なみに、でっかい画面の傍へ来た怜司兄さんが、そっと抱くように、テレビに触れた。
 そしたら映った。電源も、アンテナ線もつながってないのに、でかい液晶画面に突然、テレビの画像が映ったんや。
 偶然なのかどうか、その映像は、コマーシャルやった。大崎茂の会社の、今まさに俺らの目の前にあるテレビのCM。そして、まさに、絢爛な金屏風のような、和風の美の粋を極めたCG映像が、テレビの中のテレビに映り、そのテレビの中にも、同じように、薄紅色に縁取られた芍薬《しゃくやく》の花の大輪が、無限の合わせ鏡のように映し出されていた。
 それを観てると何や、自分らもテレビん中に入ってもうたような、変な気がした。その画面を抱いている、怜司兄さんの作る異界へ、皆して閉じこめられてもうたような、妙な感じが。
 怜司兄さんは、白い美貌に憂いを帯びた、なんともいえん無表情で、じっと俺らのほうを見ていた。一言も声は発さずに。
 艶《あで》やかやったCMが終わると、画面は突飛なまでに俗っぽい番組の映像へと切り替わった。生中継《ライブ》と書かれた枠のある、けばけばしい画面の中に、マイクを持ったレポーターの女が立っていて、その背後には、サンバの衣装を着た、臍丸出しのお姉ちゃんたちが、色とりどりの羽根飾りやら、スパンコールを煌めかせ、満面の笑みでポーズを決めていた。
 リオ・デ・ジャネイロの鈴木さーん、と、テレビの中の声がレポーターの女を呼んだ。はあい、と、やたら朗らかな声で、画面の女は返事をした。そして蕩々と喋った。アナウンサー独特の、明瞭な声で。
 それではお待たせしました。これから本場のサンバをお目にかけたいと思います。あれっ。本場のサンバなんてダジャレみたいですね。あはははは。すみません。こちらの美女の皆さんは、今回の中継のために、わざわざ衣装も本番用のものを、身につけてきてくださったんですよう。綺麗ですねえ! あっ時間ですか? それではお願いします。
 ポル・ファボール、と、拙い発音で、レポーターの女は言った。Por favor《ポル・ファボール》。スペイン語やポルトガル語で、お願いします、っていう意味や。片言やけども、俺にもスペイン語やポルトガル語はわかる。かつて中南米で、俺たち古い神を追いたてた、ヤハウェの手先の連中が、喋っていた言葉や。今では現地の公用語になっている。
 下手くそな現地語で話しかけられたサンバチームの女たちは、それでも愛想良く、にっこりと微笑んだ。濃厚な化粧が、地元独特の派手な美貌と相まって、毒々しいような、非日常の美しさやった。
 綺麗な姉ちゃん達が半裸で踊る、そんな祭りやけども、南米のカルナヴァルは、キリスト教の祭りやねん。民の多くが土着の神を捨て、ヤハウェに帰依した。アメリカ大陸は南北ともに、北極海から南氷洋まで、ずずずいっと、ヤハウェの勢力圏や。踊り狂う姉ちゃんたちのエナジーも、信仰心の一種として、天界にいるヤハウェに徴収される。まるで大農園《プランテーション》から収穫される、大量生産の穀物のように。
 そこにはもう、古い神のための食い扶持はない。細々と語り継がれる昔話や、生き残った呪術師《シャーマン》たちの祀《まつ》る、微かな信仰の糸のほかには。
 昔は中南米にも、いろんな神さんが居ったんやけどな。それを祀る巫覡《ふげき》も、大勢おったんやけども。昔々や。昔の話。俺はそんな過去の栄光は、滅多に振り返らへんねん。思い出しても虚しいだけや。今の身の惨めさが募る。いつもそう言うてたやろ?
 古い名を思い出したのも、それがアキちゃんの役に立てばと思うたからやで。俺も偉い神さんやったんやでアキちゃん、そこらの蛇とちゃうねんでって、そんな見栄もあったかもしれへん。俺を選んで。俺が居れば、他の神なんか要らんやろ。俺も偉大な神やったんや。お前と連れ合う神として、不足はないはず。そうやと思ってもらいとうて、ずっと忘れていたことを、ついつい思い出しちゃったんやんか。
 俺ってちょっと、必死すぎ。そんなん、名前だけ思い出したところで、なんにもならへん。水煙には、勝たれへん。アキちゃんをちっとも、助けてやられへんのやもん。
 おとんが発見してきた、俺の神格を上げる方法って、なに? そんなん、あるの? 教えてよおとん、早う教えてよ! そんなドーピングが可能なんやったら、俺にかて見込みはあるやんか!
 サンバ中継なんか観てる場合とちゃうから!
 と言いかけた俺の目の前で、テレビの中のレポーター姉ちゃんが、あっと悲鳴を上げた。それは陽気で派手なサンバの曲と、かなりミスマッチな悲痛な声やった。あっ、あっ、あっ、と、お姉ちゃんは徐々に緊迫する短い悲鳴を立て続けに上げ、テレビの画面はぐらぐら揺れた。カメラマンが動揺したのか、それとも地面が揺れているのか。
 たぶんその両方やろう。
 生中継《ライブ》と枠取りされた画面の中で、遠い異国の街が、ぐらぐら揺れていた。もうサンバどころやない。
 地震ですと、半泣きの声でレポーターが、叫んでいた。
 日本側のスタジオの声が、鈴木さん、鈴木さんと、その女の名呼んでいた。
 あとは悲鳴。何語ともつかない悲鳴。そして何かが崩れ落ちる音。地響き。それから暗転。無音。後に残された、生中継《ライブ》という枠だけが、真っ黒になった画面を縁取っている。
 動揺した泳ぐ目の、スタジオの人らの映像に、画面が急に切り替わった。なんかの生番組をやってたらしい。四十八時間ずっとやるやつ。そこのスタジオには同じ色のTシャツを着た、いろんなジャンルの芸能人やらアナウンサーやらがいて、皆一様に、ぽかんとしていた。なんやこれ、みたいな。
 司会進行役やったらしい、男女二人組のアナウンサーが、鈴木さんとかいう女の名を、まだ繰り返し呼びかけていて、それから、ふと我に返ったように、リオ・デ・ジャネイロで地震があった模様ですと、アナウンサーらしい声で解説をした。
「地震……? 日本やのうて?」
 予言が外れたんやないかと、アキちゃんは思ったんやろな。俺も思った。
 アキちゃんは、そう呟いて、返事を求める目で、後ろに座っていた蔦子さんを振り返った。
「日本だけやおへんのや、坊《ぼん》」
 険しい表情で、蔦子さんはアキちゃんの、問いかける目に答えてきた。
 蔦子さんには、視えてたらしい。ずうっと前から、これから始まる一連の出来事が。
「この度、天界に昇られる龍は、盲目なんどす。龍脈とかいうそうどすけども、気の流れる道筋に添って、三千世界を彷徨《さまよ》っておいでや。あんたも感じたやろう。行き過ぎる龍に触れたんどすやろ。あんたの蓋を開いていったんは、その龍や」
 俺とアキちゃんがベッドで抱き合うてるときに、なんか、でっかいモンが通り過ぎていった。それにシバかれてから、アキちゃんは覡《げき》として本格的に開眼してもうたんや。しかしまさか、龍にどつかれていたとは!
「天界へ昇るための扉を探してのたうつうちに、龍は時折、この現世に顕れるんどす。それがこうして、地震やら何やらの、自然現象として発露します。そして最終的にはまた、ここへ戻ってくる。この神戸に。神の戸に。ここから天へお昇りになるのや。神々のための、いと高き位相へとな」
 そして龍は神格を帯びる。より偉い神さんへとレベルアップや。そしてもう、人界へ姿を顕すことはできんようになる。霊威が高すぎてヤバいんや。いくつも隣の位相を通りすがっただけで、ぐらぐら地震まで起きてまう。そんなんが現実にこの世に現れ出たら、一体どないなるやろ。
 そこが一番の問題点や。
 かつて第二次世界大戦で、どないしてやってのけたんかは知らん、米軍は広島と長崎に、古代の神々を召喚した。ウラヌスとプルトーや。どちらも古代ギリシア時代にはすでに天界へと昇ったハイクラスの神で、本来ならもう人界には姿を顕さへん。それを喚んでもうたせいで、あの惨事やないか。
 ウラヌスやプルトーが邪神やという訳やない。人界には強すぎる力を解き放ってもうたんや。まさに狂気の沙汰と言えよう。人の身で、強大な神々を操ろうというほうが、間違っている。戦争や、殺し合いやとなれば、人はどこまでも狂うもんやなんやろなあ。それだけは、変わらへん。古代の川辺の頃から、今現在に至るまで。たぶん未来永劫、決して変わらん人間の業やろう。
 幸いにして、今回降臨する東海《トムへ》の龍は、ウラヌスやプルトー並のデカ物ではない。デカいことには変わりはないけど、原爆並みの惨事が襲いかかってくるわけではない。龍はただ、未曾有の大津波を起こすというだけや。その津波こそが、龍そのものやねん。人界に顕れる時、東海《トムへ》の龍は、津波の姿をしているんや。
 確かに見た。蔦子さんが見せてくれた、水晶玉の中の未来図には、渦巻く津波のただなかに、海の色した巨大な龍がのたうっていた。あれがそう。アキちゃんを食うという龍。東海《トムへ》の王や。
「神戸より、新たな神がお生まれになるというのは、喜ばしいことどす。龍が突き抜けて顕れる龍脈の出口からは、良い気が流れ込んで、この地を潤すやろう。せやけど難儀なんは、その龍神様が、なんのためかは知らん、よもや空腹ということもないやろに、神戸をまるごと食らうおつもりのようなんどす。それではいくら気が満ちようと、元も子もおへん。神戸を救い、ここから昇竜を生んで、この災いを転じて福と成さなあきまへん。それが今回の、あんたの仕事どす、秋津の坊《ぼん》」
 蔦子さんはこの時はじめて、今回の大仕事の全体像を話したやろう。なんで今まで話さへんかったんや。そりゃあもちろん、アキちゃんがビビって逃げへんようにや。神楽も言うてたやん。この人死ぬんやなあと思うたけど、黙っといたって。それと同じ。蔦子さんも、肝心なところは、黙っといたんや。
 それに腹が立つというより、俺は怖気が立った。秋津の人らって、平気なん。ほんまのほんまに、三都を守って命をかけてんのや。そういう家なんや。ずうっと昔から、そういう家やったんや。それで皆、お屋敷の登与様や、代々の秋津家のご当主様たちを、崇めていたんや。現実に、自分らを命がけで救ってきてくれた、鬼道の王の家柄として。
 おとんはまだその家の、当主のような声で話した。
「失敗すれば、お前も死ぬやろうけど、三都に甚大な被害が出る。この際、己の生き死にには、頓着したらあかん。どうせ死ぬんや、暁彦。成功して死ねれば御の字と思うしかない」
 おとんの紙人形は、あっさりと話していたけど、その話は腹に響いた。実際そうして死んだ男が言うんやもん。人身御供として死んだおとんが、死んでも三都が救われれば、それで成功やと思えというんや。アキちゃんの顔つきも、未だかつて無いほど険しかったよ。
「怖いやろけど、びびったらあかんのやで、ジュニア。気を強く持て。おとんがついてる」
 励ます紙人形を、アキちゃんはじっと、真顔で見ていた。
「怖くはない。まだ実感湧へんだけやろか。怖くはないけど、おとん。俺はまだ、死にたくないねん」
 険しい目つきのまま、アキちゃんは弱音みたいなことを言うてた。でも何でやろ。それは全然、気弱なふうには聞こえへんかった。
「逃げるつもりは毛頭ないねんけどな。でも俺にはまだ、描きたい絵が、いっぱいあるんや。死にたない。死にたくないねん……」
 呟くみたいに、そう言いながら、アキちゃんは俺の手を、握ってた。ぎゅっと強く、抱きつく俺を抱き返すように、ものすごく強い、熱い手やった。
「分かるよ、暁彦。お前は無念なんやろ。心配するな。ただ、覚悟は決めておけ」
 俺の手を握っている、アキちゃんの手が、微かに震えているような気がした。それでもアキちゃんは、おとんに見えるわけでもないのに、はっきりと強く、頷いてみせていた。もう覚悟は決めてると、言うてるみたいに。
 でも、そんなん、どないして覚悟決めんの。たった二十一年しか生きてない若造が、明日死ぬって、どないして覚悟すんの。俺なんか一万年以上生きてんのに覚悟でけへんわ。何年生きようが覚悟なんかでけへん。誰かて死ぬのは嫌や。
 おとんはどうやって覚悟決めたの。自分も同じ二十一で、同じく海に呑まれる定めやったとき。おとんは何を思ってたんや。
 俺はそれを訊きたかったけど、訊く筋合いでもなかった。蛇を殺してジュニアは生きろ言うてるオッサンに、俺がなんで口きかなあかんねん。亨ちゃん正直言うて、傷ついたわ。おとんは俺のこと、式神やとしか思うてない。水煙のほうが大事なんや。俺が死んでも、しょうがないわと思うてる。やむをえない犠牲なんやって。
 それでアキちゃん助かるんやったら、それでええわって、それがまあ、親心ってやつか。おとんかて、並の親と同じで、我が子は可愛いらしい。アキちゃんを助けるために、手は尽くしていた。
「手はないんか、アキちゃん」
 ヘタレの茂が紙に訊ねた。
「手はあるはずや。お蔦ちゃんの予知では、まだ希望はあると出ている。蛇神が鍵や。詳しいことは何も視えへんらしいけど、とにかくその蛇が、暁彦を救う最後の希望や」
 えー、俺? どないしよ。ノーアイデアやのに。
 奇蹟を起こせ俺。奇蹟ってどないして起こすの。なんでもするよ奇蹟を起こせるんやったら。誰か方法考えて。今すぐちょっと皆のおかんに訊いて。知ってるかもしれへんやん。ダメもとでええから電話して訊いて! 俺マジで藁にもすがりたい想いやねん。
 思い出せ俺、奇蹟を起こす方法を。何かないのか、昔取った杵柄みたいな何か。神様時代の名残でさ、何かどっかに残ってへんのか!?
 ほんまにもう、自分を逆さにして振りたいくらいやったで。奇蹟出ろ出ろ。頼むし頑張れ俺。頑張ってくれ俺! 愛しいアキちゃんのために。ふたりで永遠にずっと幸せに生きていくために、奇蹟を起こしてくれ俺!!
 もう万策尽きててな、祈るしかない。神頼みやで。自分自身に俺は祈ってた。方法なんか分からんでも、信じるしかない。まだ手はあるって、強く信じることだけが、この時俺に残された、最後の希望やってん。
「堪忍しておくれやす。うちに、もう少しの力があれば。あとほんのちょっと先の、未来が視えれば……」
 蔦子さんは、苦しげな、未来を透かし視るような目をしていた。竜太郎が東海《トムヘ》の王と、それの起こした大津波を視た、その先の未来については、壁があるようで視られへんのやと、蔦子さんは話していたけども、それでもおばちゃまは、その困難な未来視に、ひそかに挑戦しつづけていたようや。
 それは、凍った海に単身、裸で素潜りするようなもん。下手がやったら命取り。せやけど蔦子さんはプロ中のプロや。誰がやっても見えへんかった、先の先のことを、ちらりと垣間見るまでのところへは、辿り着いていたらしい。
 せやけどそれは、凍った水の中にうつる、ゆらめく影のようなもん。どれが確定的な流れか、さっぱり読めへんのやって。結局、予知には限界がある。先が見えてもな、そのさらに先は闇やねん。一寸先は闇。それが二寸先になるだけのことや。
「無理はあかん、お蔦ちゃん。まだ希望はあると、それさえ分かれば充分や。自分の人生は、自分で斬り拓かなあかんのやからな。そうやろう、暁彦」
 お前も同じ考えやろうと、信じているおとんの声で、秋津暁彦は話し、アキちゃんはそれにも、ただ頷いていた。
「とにかく、蛇を側から離すな。死を恐れたらあかん。せやけど、死ねばええってもんやないんや、ジュニア。生きて戻れ。生きて戻って、お前の描きたい絵の続きを、描かなあかんのやで」
 おとんの力強い声に、アキちゃんはただ、真顔でこくこくと小さく頷くだけで、ぐうの音も出てへんかった。いっぱいいっぱいやジュニア。そういう俺かて、いっぱいいっぱいで、アキちゃんの背中にがっつりしがみつくので精一杯。
 変なもんやで。ええ歳こいた大人や神が、紙人形のペラペラ言うとることを、真面目な顔して聞いとんのやから。何も知らんと見てたらアホやで。今思えばおかしい。せやけどマジやん、その時は。マジもマジやで、超大真面目。皆さん緊張のピークやねんから。
 なんせ東海《トムヘ》の王は、今夜現れる。今日という日が終わり、明日が始まれば、それは厄災の幕開けや。驚天動地の大騒ぎ。
 吉と出るか凶と出るか、当たるも八卦、当たらぬも八卦、何がどないなるやら、さっぱりわからへん。そんな運命の時を、皆で膝つき合わせて、刻々と待っているんやからな。
「龍は今、いずこにおわしますやろ……」
 強い中にも、心細いふうな震えを潜ませた声で、蔦子さんが訊ねた。その手を息子の竜太郎が、労るように握るのが分かった。蔦子さんはその小さい息子の体を抱きしめて、支えるような、縋るような、不思議な抱擁をした。
 そして見つめた。神を見る目で。朧《おぼろ》のほうを。
「わからしまへんか、あんたには。怜司。龍が今、どこにおわすか、視えへんか?」
 視えるやろって、そう励ますような声やった。
 えっ。視えんの? 怜司兄さん、そんな能力あったの?
 そういえば、位相を渡れる神なんや。朧《おぼろ》様はな。そして世界の噂をキャッチしている。電波とか、インターネットを行き交う、情報の波を。
 なんやそれ、すごいやん。怜司兄さん、若干SFやん。サイエンス・フィクションやないか!
 俺にはさっぱりわからん、そういうサイエンスな感じの能力が、怜司兄さんにはあるらしいで。よかった怜司兄さんがいてくれて。俺やったら完全にお手上げやった。
 それではよろしくお願いします!
 と思って、俺がめっちゃ期待して見つめたのに、怜司兄さん、なんでかしらん、青い顔やった。ふるふるって、嫌やわあみたいに、首を横にも振っていた。
 えっ。あかんやん怜司兄さん。そこ頑張るとこやん。今すぐ見せて、兄さんの特殊能力。神パワー。いつも普通にやってたやん。ぺらーってめくって、隣の位相に行ってみたり、今だってほら、コードささってないテレビついてましたやん。すごいよ、神業やからそれ。どないしたん、急に。スランプなったん? なんでなるねん、スランプなんか!
「できますえ。心配おへん。あんたはもう元通りなんやから。昔のままか、それ以上なんえ。怖がらんと、力を振るってみなはれ。あんたの通力で、うちらを助けておくれやす」
 神にすがるというよりは、蔦子さんの口振りは、まるで以前助けた怪我した雀を、すっかり治してやって、また空に放つときの、優しいおかんのような声やった。大丈夫やから、飛んでみなはれ。フライ・アウェイやで怜司兄さん。しのごの言わんと今すぐにやれ! 何があかんねん湊川怜司! ここ見せ場やないか!!
 せやけどな、見せたくない、理由があったのよ。
 見えてんのやないかって、怖かったんよ。おとんにさ。紙人形やけども。見えてへんっぽいけど、でももしかしたら、ちょっとくらいは見えてんのかもしれへんやん、こっち側のことが。だって、おとん人形、きょろきょろするねんもん。見えてるっぽい仕草をするんやんか。
 紛らわしいねん。じっとしとけ、おとん。怜司兄さん、お前には見られたないんやって。力使ってるとこ、見られんの嫌なんやって!
 なんで嫌なん。その理由は、この後すぐに分かった。イヤイヤ言うてた怜司兄さん、案外あっさり折れたんや。なんでって。それもおとんや。おとんが直々にお願いしたから!
「朧《おぼろ》」
 突然、紙人形に呼ばれて、怜司兄さんビクッとしてた。なんでビクッとすんの。可愛いんかお前は! 俺様に輪をかけたエロ妖怪のくせして、清純みたいで悔しいわ!
「分かるんやったら、教えてくれ。龍はいつごろ神戸に現れる?」
 お願いしますって、命令ではない、優しい口調で、おとんは言うてた。それには怜司兄さん、何でかさらに青い顔になっていた。なんか返事しようとは、思ってるらしいけど、声にならへん。あきませんわ。浮ついちゃって。まさかと思うが、脚震えてんのとちゃうの。
 そんな今にも失神しちゃいそうな怜司兄さんのことを、虎は見ていた。じいっと、険しいような顔をして。俺、ついつい気まずうて、見ちゃった。見なきゃええのに見ちゃった。なんかこう、縺れ合う赤い糸みたいなの見たくて。亨ちゃん悪趣味? でも見るやろ皆かて。その場にいたら見るって。絶対に見る。十人中九人は見るわ。絶対にそう。
 たとえ悪趣味でもや、そんな俺のおかげで皆も、このとき虎がどんなんやったか分かるんやないか。感謝しろ。見たくないって? ほな読み飛ばせ!
 とにかく信太は、いっとき朧《おぼろ》を見ていたけども、やがて、ついと視線を逸らした。
 俺らは知らんかったけども、怜司兄さんは戦後、いっぺんもまともに力を使ったことがなかったらしい。小技は使うで? 隣の位相に行ってみたり、そんなんは怜司兄さんにとっては朝飯前の初級編なんや。せやけど、この地球を包む、壮大な情報網に繋がるとなると、それはそれは大変なことや。昔ならともかく、今や地球に何人の人間がいてると思う? 六十八億人やで。テレビやラジオやインターネット、情報網も膨大になっている。それを網羅しようと思ったら、とんでもないパワーがいるわ。本気で挑まなあかん。
 本気出していこうと思ったら、それには問題があった。仮の姿では無理や。
 俺にも覚えはあるけども、フルパワー出していこうと思ったら、俺も人型よりは、大蛇《おろち》に戻ったほうがラク。そうでないと無理なことは多々あるねん。
 ところで怜司兄さんの、正真正銘ほんまもんの、正体ってなに?
 このお美しいモデル並の姿が、ほんまにほんまの正体なん?
 違うよな。それはもう、皆も見たやろ。蔦子さんの部屋で。怜司兄さんの、ホラーな正体を。
 朧《おぼろ》様は嫌やったんや。そのおぞましい姿を、愛しい暁彦様に晒すのは嫌やって、困っていたんや。せやけどしゃあない、その坊《ぼん》が、やれて言うんやしさ。他でもない、暁彦様のお願いごとや。聞かんでどうする。愛しいお前の役に立ちたい。それが式神やらいう外道どもの心理やないか。
 気の毒やったなあ。怜司兄さん。頑張らはったわ。
 怜司兄さんがその美しい、白い顔のまま、天下の大崎茂印《じるし》の最新薄型テレビに添えた手を、かすかに力ませると、テレビ画面に変化が現れた。一瞬、砂嵐のような、ざあっと乱れた画像になったかと思うと、数知れない無数の画面が次々に、現れては消え、消えては現れ、なに言うてんのか分からんような、あちこちの異国の言葉が、スピーカーから流れ出てきた。
 それがあんまり目まぐるしく移り変わるんで、たとえ一部が日本語でも、意味のある話としては聞き取られへん。そこにはテレビだけやのうて、ラジオの音やら、船舶無線やら、果てはヒューストン宇宙基地と交信している衛星軌道上の船《ラボ》からの通信や、天文台とリンクしている電波望遠鏡のとばす電波までもが含まれていたらしい。
 怜司兄さんは、細大漏らさずあっちこっちを見た。その場にいながら、情報の海をかけまわっていた。じょじょに白熱しながら。
 はじめ白かっただけの肌は、それ自体が灼けた金属でできてるみたいに、真っ白に明るく光って見えた。ものすごい光やった。その白い、目を焼くような人型の灯りの中に、赤黒く灼けたような、髑髏《どくろ》が見えた。肌を透かして、均整のとれた見事な骨格と、その中に囚われている、真っ赤に拍動する心臓のような、血の珠が。
 皆、驚愕していて、目が離されへんかった。画面見なあかんのやけど、見てられへん。怜司兄さんばっかし見てまう。その怖ろしい、おどろおどろしいような、それでいて美しい、怖気立つような、目が釘付けになる、透けた美貌と、その中にある忌まわしい骨とを。
 おとんはそれを、見たやろか。
 見えてへんかったやろか。
 紙人形、ノーリアクションやった。
 やがて画面のめまぐるしい明滅が止まり、画面はフランス語で喋る、パリの朝市の風景を映し出した。日本の放送やない。ガチでフランス語。でも心配いらん。俺はフランス語がわかる。なんでわかんのって聞くな。昔フランスにいたんや。怜司兄さんほどやないけど、亨ちゃんかて多言語対応なんやで。すごいやろ?
 Bonjour.《ボンジュール》と陽気に挨拶をして、画面の中のフランス娘は、露天にうずたかく茄子やらピーマンやらを積み上げている青果店に入っていった。おいしそうですねと、レポーターの娘っ子は、朝採りのキノコ《シャンピニオン》を褒めた。確かに美味そうなキノコやった。
 そして、その女がなにか語り始めようとしたとき、ぼろっと、キノコの山が崩れだした。ぽろぽろと、小さく丸っこい、白いキノコが、転がり落ちていく。
 ゆらゆらと、露天の幌も揺れていた。地震やと、市場の人らが慌てだし、積まれたトマトやピーマンが、ごろごろと崩れ落ちていくのが、ゆらめく画面に映し出されている。
 街の悲鳴を、テレビカメラの収録マイクが捕らえてた。動揺して走る子供の声やら、怯えて座る、婆さんの声を。お守り下さい神よと、婆さんは胸に十字を切って喚いた。それをヤハウェが聞いていたかどうかは、誰にもわからへん。
 そんなふうな画面が立て続けに、各地の地震の映像や、速報として、次々にテレビに映し出された。それはほんまに地球全体を暴れ回る龍のようやった。現れては潜り、また現れる。
 ある時はアフリカ大陸に。サファリを走るヌーの群れを見る観光客が、揺れを感じたホームビデオをネットに流していた。果てしない地平線の先に、キリマンジャロ山を望む景色に現れた、もうもうと煙る、水柱のような蜃気楼が、その揺れとともに天を衝くのを。
 そして又ある時には、アラスカでオーロラを観測しつつ待つテレビカメラが、クジラたちが激しく歌い、真っ青やったはずの海水に土砂混じりの黄土色が吹き上げるのを見た。海底で起きた地震に海水が突き上げられ、それが船を激しく揺さぶるのを。
 そしてまた別の時には、宇宙から地球を見つめる観測衛星が気付いていた。急な磁場の乱れが地球全体を包むのを。それを眺めた天文台の科学者は、他の観測所に同時観測を依頼する電話をかけた。中国語の訛りの強い英語で、その男は話していた。これはまるで、太陽の紅炎《プロミネンス》のようだよ。そうでなければまるで、一匹の荒れ狂う龍が、地球の中を暴れ回っているみたいだなと。それに答える声は、笑ってこう言った。アメリカ訛りの英語で。君は詩人だな、さすがは李白《リーボウ》の国の人だよ。ではこちらでも見てみよう。その龍というのを。
 その東洋の龍が、アメリカのおっちゃんには面白かったんか。おっちゃんは天文台のサイトに、その電波望遠鏡の画像を映し出したリアルタイム画像を載せた。荒いコマ落ちした白黒画像やったけど、そのお陰で、俺らもそれを、じっくりと眺めることができた。
 のたうちまわる東海《トムヘ》の王を。
「まだ龍は、いくつか離れた位相に居るわ」
 紙人形が、また唐突にそう言うた。
 その声を聞いて、びっくりしてもうたんか、怜司兄さんは急に、噂を聞くのをやめた。白熱していた骸骨が、突然ふっと消えて、その場にいたのはもう元の通りの、白い肌した美貌の男やった。ただちょっと、額に汗が光り、かすかに御髪《おぐし》の乱れた感はあったけど、それは何のこと無い、人が目を背けるようなもんではない、ちょっと色っぽいような、しどけなくも美しい、いつもの怜司兄さんや。
「茂、鯰《なまず》は龍の到来を恐れて動き出すのやろう。まずは鯰《なまず》をやっつけなあかん。龍の到来まで、どれだけ時があるかは分からんけども、一刻を争うのは確かや。鯰《なまず》の出現地の予知はできてんのか」
 おとんは、くそ真面目な声で、ヘタレの茂と話していた。朧《おぼろ》様にはノー・コメントや。ありがとうも何もなしやで。そういうもんなん? まあ確かに、大崎茂も、狐がどんだけ世話焼いてやったかて、おおきにありがとうとは言うてへんわ。そういうもんなんかもな、偉いご主人様というのはな! その大崎茂かて、がっつりお仕事モードやったで。
「神の戸の、岩戸らしいわ、アキちゃん。耶蘇《やそ》教の天使が予言してきた。布教地・神戸を救済すべく、あちらも出し惜しみはせんらしい」
「岩戸て、どこや?」
「ロック・ガーデンやろうと皆は言うてる。六甲山の中腹にある、岩棚のことや」
 いろいろ調べたらしい。大崎茂の口調は断定的やった。霊振会には、占い師や予知者もぎょうさんいてる。それにな、神戸の街中で、そこらへんの人に聞いて回ったんやって。
 それかて怜司兄さんのコネやねんで。ラジオの企画もんで街頭調査するときに、ついでに訊いてもろたんやって。神戸で岩戸っていうたら、どこやと思うかって、なにげにな。それを集計したら、ロック・ガーデンちゃうかというのが一番多かったんやって。
 そのようにして、鯰《なまず》様出現ポイントは絞り込まれ、実はそこにはすでに、祭壇が組まれてあるらしい。手際がええなあ、大崎茂。実はちゃんと仕事してたんや、ジジイ。俺らが惚れた腫れたですったもんだしてる間に。
「鯰《なまず》に食わす贄《にえ》はどうする」
「お蔦ちゃんが式《しき》を出す」
 極めて事務的に、大崎茂が答え、誰もそれには反応せえへんかった。俺は怖くて、アキちゃんの肩に取り縋ったまま、恐る恐る寛太を盗み見た。
 虎は平然として、その脇に座ってる寛太は朦朧としてた。なんや、ぼけっとしてもうて、心ここにあらずって感じ。青い顔して、首まで若干傾いてる。
 あかん。やっぱあかん。やっぱ全然、平気やない。そらそうやな。そらそうや……。
 でももう見るに耐えず、俺はまた、どこを見るでもない、アキちゃんの肩らへんに目を戻してもうた。もし寛太とうっかり目が合いでもしたら、どんな顔したらええか、さっぱり分からんのやもん。
「すまんなあ、お蔦ちゃん。本家の式《しき》を出すべきところに、なんでそんなことになったんや」
 紙人形は、ほんまに済まなさそうに言うた。そんな声出せるんやないか、おとん。
「気にすることおへんえ、アキちゃん。世が世なら、うちかて本家の嫁や。前の時には登与ちゃんが気張ったのやし、今度はうちが。これには、うちにも考えあってのことどす。ご異存なければ、このままお進めください。式《しき》はすでに、本間先生に譲渡してありますよって」
 はんなりしてるのに、凜《りん》とした、秋津の女子に独特の語り口で、蔦子さんはすらすら話した。なめたらあかん。この女は強い霊力を持った巫女《みこ》やと、誰にでも分かるような、高いとこから語りかけてくる話し方や。
「そうか……」
 それに畏れ入った訳でもあるまいに、おとんは微妙に煮えきらん返事やった。そうやと、蔦子さんは念押しはせえへんかった。ただ何か、おとんがまだ喋ると知ってるような気配で、じっと次の話を待っているように見えた。
 予知者やからかな。蔦子さんは知ってたんか。おとんが何て言うか。それともただ、カマかけたんやろうか。おとんの心を試す、罠を仕掛けて。
「お蔦ちゃん。その式《しき》は誰や」
 迷ったふうな黙りの後、おとんは結局訊いた。蔦子さんはすぐには答えへんかった。焦らすような沈黙の間、蔦子さんは大崎茂と静かな目配せを交わした。
「誰でもいいやおへんか。うちが選んだ式《しき》では不足なんどすか」
「……いや、不足はない。誰であろうが酷いのは同じことや。ただ……」
 ただ、何やねん、おとん。俺やったらかまへんけど、誰やったらあかんねん。ほんまむかつく。でも、怒らんから言うてみ。皆、それを待ってんねんから。
 蔦子さんは怜司兄さんを見つめ、怜司兄さんはテーブルの上の、ちっさい紙人形を見てた。秋津暁彦と書いてある、その紙切れを。たぶんやけど、怜司兄さんが見てたんは、紙に書かれた文字の筆跡やろう。おとんが放った文やねんから、そこに書いてあった名前も、おとんが自分で書いたんや。懐かしい字や、怜司兄さんにとっては。六十年ぶりに見る、暁彦様の肉筆やで。
「あんたの息子は、怜司を生け贄にやるつもりやったんどす。そのつもりで、怜司を自分の式《しき》にしたんや。手癖の悪い子ぉどすわ。うちに何の相談もせず、勝手にそないなことして……」
 いきなり暴露されてる。アキちゃん、くうってなってた。まさか蔦子さんがバラすと思うてへんかったみたい。チクられとるわ。ざまあみろ。
 おとん人形、なんも言わんかったけど、ガーンみたいなリアクションやった。だって、のけぞってたもん。むっちゃショックやったんやで。本人は無表情なつもりやったんかもしれへんけど、如実に気持ちが出てたから。お人形さんのほうにはな。
 むしろ本人おらんで良かったぐらいやで。アキちゃん並のポーカーフェイスやったら、わからへんもん、何を思ってんのかなんてさ。
「せやけど、それはうちが許しませんでした。この神事には、先から縁のある式《しき》が、うちの手元におりまして。それが自分が行くと志願したんどす。拾いもんどすけど、由緒のある神や。鯰《なまず》もお気に召すやろ」
「そうか……」
 心なしか、ぐったり相づちを返すおとんの声は、明らかにホッとしていた。おとんは蔦子さんが、怜司兄さんを鯰《なまず》の生け贄に決めたんかと思うたんやろ。アキちゃんに譲渡した式《しき》というのが、怜司兄さんに違いないと。
 それでかまへんというほどには、おとんも非情ではないらしい。俺もそれには、正直ホッとした。なにか明るい道が、どこかにあるような気がして。
「アキちゃん……他にも話さなあかんことが、ぎょうさんあるんどす。早う帰ってきておくれやす。あんた、いつ戻るつもりなんや」
 一人前の男になった弟を、頼る姉の口振りで、蔦子さんは話した。そこには何や独特の、親密さがあった。
「明日には戻る。お蔦ちゃん。こちらの月の出を待って」
「月どすか」
「そうや。大きな術法を使うには、月読《つくよみ》の加護があったほうがいい。お登与を抱いて、太平洋を越えなあかん。あいつは生身やからな、無茶はしたくないねん」
「そうどすな……気をつけて、お戻りやす」
 かすかに目礼をして、蔦子さんは話を閉じた。おとんはもう行くみたいやった。もう切れる電話の、その直前の気配がしていた。
 アキちゃんは急に、焦ったみたいやった。おとんにまだ何か言うことはないかと、焦ったんやろか。もう切るでって言われて、また急におとんが恋しくなったんか。
 そうやない。アキちゃんもそこまでは餓鬼やない。餓鬼やけど、そこまでではない。生憎な。
 去ろうとする、おとんの霊を引き留めるために、アキちゃんは堰を切ったような早口で話しかけていた。
「おとん! 朧《おぼろ》に何か言うことないんか!」
 そう訊いた、その台詞がアキちゃんの、今回いちばんの失言やったな。後になって思えばな。
 皆がさ、そう言いたいのを何とはなしに我慢する空気やったのにさ、なんで言うてもうたんやろな。情緒がない。言わんかったらよかった。そしたらおとんかて返事せんでもよかったのにさ。触れへんほうがええことってあるよ。特に親子間ではさ。
「何かって、何を言うんや、暁彦」
「何をって……なんでもええけど、何か……」
 何も思いつかんらしい、空気読めないアキちゃんは言うた。
「何もないよ」
 おとんはちょっと、苦笑したような声で、あわあわしている息子に答えた。
「お前もな……水煙だけでは足らんのか。それもしゃあない、血筋の定めや。お前もつくづく、俺の子やなぁ。俺はもう、なんも言うことないわ。大事にしてやってくれ」
 しみじみと、おとんは言うて、それっきりやった。
 紙でできてた人形は、ただの紙切れに戻り、はらりとコーヒーテーブルに伏した。そしてもう、なんにも言わへんかった。
 やってもうた。アキちゃん、やってもうた。
 おとんに身を引かせてもうた。実は脈あったかもしれへんのに、お前にやるわって、明言させちゃった。
「おとん、そうやないねん……そうやのうて……もうちょっと待ってくれてもええやん」
 アキちゃん、自分のまずさに、参ったみたいやった。がっくり項垂れて、もう聞いてへんのがわかりきってる相手に、ぶつぶつ言うてた。
 それを見下ろす怜司兄さん、呆然としてた。怖いのに見ちゃった。なんで見ちゃうんやろう俺は。怖いもん見たさか。ついつい見ちゃうんや。
 そん時の怜司兄さんの顔、さっき見た寛太の顔と、そっくりやった。なんかこう。魂抜けてるみたいなな。悲しいっつか、もう、そのへん通過して、ぽかーん、みたいな……。
 えっと。あの。亨ちゃん、なんか言うたほうがええかな。ここはツレとして、アキちゃんのイケてなさを、さりげなくフォローとかすべきかな?
 でも何を言うねん。あれえ電話切れちゃったね、またかかってくるんちゃうの。おとん明日帰ってくるって。楽しみやね! お土産なにかなぁ〜? みたいな?
 その軽いノリに入る糸口がまったく掴めません。いくら俺でも無理でした。なんか空気重すぎて。
「先生」
 ぽかんとしたままの声で、怜司兄さんがやっと喋った。アキちゃんは、それと合わせる顔がないんか、がっくり項垂れたまま、うんとかすんとか言うた。言葉にならんような返事やった。
「俺、なんで自分が今まで死なずに居れたんか、やっと分かったわ」
 ぼんやり言いながら、怜司兄さんは、イテテ、みたいな顔をして、自分の胸に手をやった。ボタン開けてるシャツの、お美しい胸の、まぶしいような懐《ふところ》に、手を差し入れてから、抜き取ったその手を、不思議そうに見ていた。
「生きてたら、まだ……まだ何か、希望があるかと」
 そう言うて、怜司兄さんは、ものすごく、しょんぼりとした。そして苦しそうに、服の上から自分の胸を掴み締めていた。人間やったらちょうど、心臓のあるあたりを。左胸の。そう。さっき透けて見えてた骸骨《がいこつ》が、後生大事に抱えてた。赤く脈打つ血の珠《たま》が、仕舞ってあったあたりやで。
 小さく呻いた怜司兄さんの、長い指の間から、突然だらだらと、赤黒い血が流れ出てきて、俺は思わず、ぎゃっと喚いた。血が出てる。血が出てるう!!
 そんなオタオタしてる俺の気配に、アキちゃんさすがに、項垂れてられんようになったんか、自分も顔を上げてそれを見て、やっぱりぎょっとなっていた。
 たぶん皆、青ざめていた。蔦子さんが慌てたふうに立ち上がる、裳裾《もすそ》を引く衣擦れの音がした。それでも怜司兄さんが頼ったんは、蔦子さんでも、もちろんアキちゃんでもなかったんやで。
「信太……胸痛い」
 ちょっと甘えたように言う、か細い声やった。怜司兄さん、いつもとは別人みたいやった。こう言うたらなんやけど、完璧に腑抜けてた。若干アホみたいやった。ショックすぎて、頭イっちゃってるっぽかった。
 そうやなあ。なんつうか。寛太っぽい。寛太が怜司兄さんをパクってるという話は、ほんまやったんやなあって、俺もつくづく納得しました。信太が好きやったんは、この怜司兄さんやったんや。
 でも、こう言うたら悪いかもしれへんけども。怜司兄さん、普通やないと思う。ほんまにどっかイカレてると思う。正気やない。そんな感じの顔やったもん。
 たぶん怜司兄さんの心は、ほんまにどっか壊れてんのやで。それは原爆にどつかれたせいやないやろ。それがトドメやったんかもしれへんけど、その前からもう、おかしかったんやで。アキちゃんのおとんに、駆け落ちドタキャンされた時から、もう変やったんや。絶対そうに決まってる。そして全然ちっとも、治ってなんかない。治るわけない。だってアキちゃんのおとんは、この人んとこに、ちっとも戻って来ないんやもん。
 信太にしとけばよかったんちゃうん。怜司兄さん。
 だって信太、優しいで。この時も、優しかったわ。
 皆、ビビってたけど、信太は慣れてた。内心焦ってたかもしれへんけど、でも、こういうのは、これが最初じゃなかったんやろ。怜司兄さんが変になるのは、信太にとっては初めてのことやなかったんや。
 信太は何でもないように立ち上がり、座る他の連中をよけて、突っ立ってる怜司兄さんの傍まで行った。そして、いつも寛太にしてやってるみたいに、痛そうな顔してる怜司兄さんの頭を、自分の肩に抱き寄せていた。
 寛太はぼうっとしたまま、それを見ていた。こいつも今ちょっと、おかしいみたいやった。
「怜司、血出とうで。お前の大事なもんなんやろ。ちゃんと仕舞っとかなあかんやんか」
 抱き寄せた怜司兄さんの耳に、信太は言い聞かせるように囁いていた。
「信太。俺、振られてもうたわ。暁彦様に、捨てられた」
 信太の肩口におとなしく顔を埋めて、怜司兄さんは言うてた。籠もったふうな、悲痛な声やった。
「そんなことない。お前の考え過ぎや」
 髪が乱れんのもかまわず、信太は怜司兄さんの頭を、よしよししてやっていた。いつも寛太にしてやってるみたいに。怜司兄さんもそれに、文句は言わんかった。ただ信太の囁く声を、聞いているだけやった。
 胸を押さえている怜司兄さんの指を覆って、信太は流れ落ちる血を止めようとしてるみたいやった。たぶんそれが怜司兄さんの命綱やからや。その血を失ったら、消えてまうんやないか、朧《おぼろ》様は。この人にはもう、その愛のほかに、この世に在《あ》るための理由はないんや。
「さっき、明日には戻るて言うてはったやんか。聞こえてたやろ。明日になったら会えるんやで。会いたかったんやろ、暁彦様に」
 噛んで含めるように、信太は話した。怜司兄さんはぼんやり虚ろな目で、それを聞いてた。
「会いたかった」
 あっけないほど素直に、怜司兄さんはそう答えてた。いつもなら絶対、可愛げあることなんか言わんくせに。信太の口元がそれに、苦笑すんのが見えた。
「ほな良かったやん。なんも困ったことないで。酒飲んで煙吸って歌うたお。そんなんしてたら、すぐ明日になるで。良かったなあ怜司。そうや夜来香《イェライシャン》歌ってよ。暁彦様が好きやったんやろ」
 元気出せよと信太が促すと、怜司兄さんはぼけっとしたまま、こくこくと小さく頷いていた。そして何も深くは考えてへんような目で、じっと間近に信太を見つめた。
「信太、今日いっしょに寝てくれ。気持ち良うしたるから、一晩いっしょにいて」
「俺を口説かんといて。今夜は寝られへんのやで。徹夜で宴会なんやもん。忘れたか? 忘れたらあかんで、お前の仕事なんやろ?」
 苦み走った笑みで、信太は拒んだ。せやけどこれが、神事を控えた潔斎の日ではなく、誰もおらん二人きりの部屋やったら、信太はそれを拒めたやろか。
「そうやったわあ……歌うたうねん」
 ぼんやり答える朧《おぼろ》に、信太はうんうんて、頷いてやっていた。
「これ、もらっとけ。お守り代わりに」
 よいしょ、と身を屈めて、信太はコーヒーテーブルの上にあった、人型の紙切れをとった。それには秋津暁彦と書いてあった。ついさっきまで、おとんの声で喋っていた紙や。
 それを手渡す信太から、受け取った怜司兄さんの指は、血まみれやった。それでも、にっこりとして、怜司兄さんはほんまに嬉しそうに笑って言った。
「暁彦様の字やわ」
「そうか。字の上手な人やな。これ胸に入れとけ。もう痛くならんようにな」
 信太に促されて、紙切れを懐に仕舞うと、怜司兄さんはうっとりとした。綺麗な微笑やった。
 それで満足してもうたんか、怜司兄さんは押しのけるようにして、信太の胸から逃れた。
「俺、歌うたお……」
 楽しそうに言うて、怜司兄さんはふらふらと、元の席へと引っ込んでいった。ぞんざいに押しやられても、信太は全然、気を悪くしてへんみたいやった。うんうん、て、にっこり頷いてやって、それからぺたんて、へたるみたいに、俺とアキちゃんが抱き合ったまま硬直してた横へ来て座り、はあ、と深いため息をついた。
「びびるわ、毎回。怜司のあれには」
 小声でぼやくみたいに、信太は愚痴った。俺らはそれを引き続き硬直して聞いていた。
「でも可愛いですよね。あっちが正気のほうやったらええのにな。そう思いません?」
 自嘲したふうに笑い、信太はアキちゃんに訊いてるらしかった。せやのにアキちゃん、いろいろ気まずすぎて、うんともすんとも言われへんようになっていた。くっ、と困った息を漏らしただけで、何も言わずじまい。
 言うてええねんでアキちゃん。あれが好きやったんやったら、好きやって。ただし殺すけどな。殺すけど、信太、てめえも殺さなあかん。よくもお前は鳥さんの見ている前で、怜司兄さんといちゃついたりしたな。皆見てんねんで。怖すぎてもう振り返られへんけど、寛太も見てたやろ。寛太があんなアホみたいなのって、お前があんな怜司兄さんに萌えてんのを見て、兄貴はあれが好きなんやと思うたからやないんか。そしたらお前にモテると思うて、あんなアホなってもうたんちゃうんか。みんなお前が悪い。
 せやけど信太がおらんかったらヤバかった。蔦子さんが何とかしたんかもしれへんけども、でも、怜司兄さんが呼んだんは、蔦子さんではなかった。信太やったんやもん。
 怜司兄さん、正気のときには、むっちゃトゲトゲしてて怖いけど、それでもやっぱ信太のことが、好きやったんかな。あの人なりに。いつもダントツ首位の、暁彦様の次くらいに。
 怜司兄さんはにこにこして、機嫌いいみたいやった。収録機材の脇にセッティングしてあったキーボードで、なんか弾くみたいで、どんな音出そうかなって、いかにも楽しそうに機材を調整していた。そのうちそれは、どっかで聴いたことあるような曲になり、それがさっき信太が言うてた、夜来香《イェライシャン》という曲やった。
 これも古い古い歌なんやで。まだ暁彦様が生きてた頃に、めちゃめちゃ流行った曲で、中国語と日本語の両方の歌詞のある、その歌は、日本だけでなく中国や、アジア全域にも流行した。ロマンティックな中華風の曲調で歌う、恋の歌や。今は立ち去った恋人のことを、遠く思って恋い慕う、そういう感じの切なげな、それでもうっとり来るような、綺麗な歌やねん。あなたに会えなくて寂しい、あなたを想うと恋しくて、切なくなるねんていう、そういう歌。そりゃあもう、こってりベタベタの、戦前のラブソングやで。
 ゆったりと優美なその曲を、透明な声で歌い出す、怜司兄さんの歌は、なんでか知らん、中国語やった。おおもとの歌は、中国語らしいねん。日本語版は、その翻訳ということなんやろけども、怜司兄さんはもちろん、中国語でも歌えるねん。何語でも歌えんのやろ。そういうのが得意な神さんなんや。
 信太が最初に聴いた時にも、怜司兄さんは中国語で歌っていたらしい。懐かしい、虎の故郷の言葉でな。
「俺なあ、はじめ怜司は、俺のことが好きで、この歌歌うんやと思ったんですよ」
 参ったなあみたいな苦笑顔で、信太はアキちゃんに教えてた。
「だって中国語なんやもん。それで擁抱着《ヨンパオチャ》、夜来香《イェライシャン》。吻着《グーチャ》、夜来香《イェライシャン》。夜来香《イェライシャン》、我為尓《ウォーウェニィー》、歌唱《グーチャ》。夜来香《イェライシャン》、我為尓《ウォーウェニィー》、思量《スーリャ》。なんやもん。怜司はどんだけ俺が好きなんやって思いましたよ」
 ちょっと待て。中国語部分、意味わからへんから。俺、中国語未対応やから。将来的にも対応予定ないです。ちゃんと日本語で言え信太。
 恥ずかしいて言われへんか。しょうがない。俺が解説しよう。
 夜来香《イェライシャン》というのは花の名前なんや。しかし、ここではな、花そのものやのうて、花の匂いのことや。しかもこれは架空の花やねん。歌が流行った後になってから、歌にちなんで同じ名をつけられた品種があるけども、歌が創られた時には実在せえへん花やった。
 存在せえへん花の匂いって何やねん。それは、ものの喩えや。たとえば恋人の残り香のことや。あるいはその思い出のことや。突き詰めれば懐かしい、愛しい相手のことやねん。それが夜来香《イェライシャン》。字面の通りや。夜に来る香りやねん。
 その夜来香《イェライシャン》を抱きしめて、夜来香《イェライシャン》に口付ける。夜来香《イェライシャン》、あなたを想い、夜来香《イェライシャン》、あなたのために歌う。そういう意味の歌詞やねん。中国語版はな。
 信太はそれを怜司兄さんが、自分のことを想って歌ってくれてんのやと、思うてたわけ。
 まあ。なんつうか。うん。ステキに寒い誤解やったな。
「暁彦様に頼まれて、中国語教えたらしいねん。その時に、この歌も教えたらしいです。単にその、想い出ソングっつうんですか? 一緒に歌って楽しかったなあ、みたいな? ただそれだけの話やったんです。本人がそう言うとうし、間違いありません」
 信太はその気まずい話を、別に訊いてへんのに、アキちゃんの耳にどんどん話してやっていた。アキちゃんはうんうんて、痛そうな顔して聞いていた。
「あいつね、寂しくなるとね、先生のお父さんの形見のシャツ抱いて寝るんです。今着てるあれですよ。やめろ言うても絶対やめへんのです。匂いがね、するんやって。暁彦様の残り香が」
 そう言われて見ると、確かにそのシャツやった。ほんならランドリーの人ら、頑張って袖の染み抜き成功させたんやわ。結局また血まみれなってもうてるけど。それでももう、怜司兄さん気にしてへんみたい。着替えには戻らへんみたい。
「するわけないですよね、残り香なんて。だって何年前の服やねん。洗濯かてしてるんですよ。洗剤の匂いしかしないですよ。でも、するって言うねん。あいつ頭おかしいんですよ。おかしいんです。……でも、それが夜来香《イェライシャン》やろ、先生。ほんまはそんな匂いなんかせえへんのに、あいつは憶えてるんでしょう。暁彦様の匂い」
 ああ、まあ、確かにな。アキちゃん桃みたいな匂いするもん。匂いというか、オーラというかな。神仙の世界の香気やで。ええ匂い。それに抱かれて眠ると、めっちゃ幸せ。いい気分。たとえそれが、漲る霊力の仕業でなくても、好きな相手の肌の匂いやで。それと抱き合うて眠るのが、何より幸せ。天国や。
 俺にはそれが分かるけど、怜司兄さんにもあるの。そういう経験。そら、あるやろな。暁彦様は怜司兄さんの祇園の家に、時々入り浸ってたんやもんな。
「結局あいつは俺が好きやったことなんか一度もないんですよね。困った時だけ信太信太で、俺は手玉に取られてたんですよ。でもまあ、それはええねん。勝手に騙されてた俺がアホやったんです」
 痛い話をくよくよもせず言うて、信太はアキちゃんに何か、言いたい話があるらしかった。アキちゃんは俺を背中に抱きつかせたまま、うんともすんとも言わずに、真面目な面《つら》してそれを聞いてた。
「けどね先生。俺はあいつが可哀想やったんですよ。惨めやろう。あのままやと」
 信太は歌う怜司兄さんを見てたけど、アキちゃんはそんな信太の横顔を、じっと見ていた。
「先生のお父さんに、言うといてください。水煙に、心があるっていうんやったら、怜司にもあるでしょ。ぶっ壊れてもうてるけど、でも、あるやんか。捨てんといてやってください。他の誰かやと、あかんねん、あいつは。暁彦様でないと……そう、言うといてください。よろしくお願いします」
 信太のそれは遺言か。アキちゃんは、その話を聞くと、こちらを見ていないような信太に、しっかり頷いてやっていた。すると信太は、にやっと笑った。ちょっと苦いような、照れたような、妙な笑みやった。
「恥ずかしいわあ。こんな話してもうて。皆さんご覧のとこで、抱き合うたりして。寛太怒ってるかなあ。怒ってると、ええんやけど……あいつ怒らへんのですよね。俺のこと、好きやないんかな」
 困ったように、信太は照れていた。
 お前……鈍いんちゃう? 気は利くようでいて、実はめちゃめちゃ鈍い男なんとちゃう?
 鳥さん、怒ってるかなあ……って?
 そんなん心配する前に、鳥さんが絶命してないか心配しろ。ただでさえ影薄い状態なっててな、その上、あんなん目の前でやられてもうたら、凹んで凹んで死んでるかもしれへんで。ちゃんとこの世に居るかどうかをまず確認しろ。俺は怖くて見られへんから、お前が自分で見ろ!
 そんな俺の心が分かってもらえたんかなあ。信太は寛太のいるほうを、なにげに振り返って見ていた。そして、どないしてんお前みたいに、曖昧な笑みになっていた。
 笑ってるということは、鳥さん生きてんねんや。とりあえず居ることは居るんや。
 それで俺もちょっと余裕ができまして、こっそり寛太を振り返ってみた。
 寛太は蔦子さんの他の式神たちに混じり、めっさ似合わんお仕着せの狩衣の姿で、ちんまり小さく座っていた。その、俺の心も今ズタボロやみたいな、気の毒そのものの疲れ果てた顔のまま、寛太はぐったり信太と見つめ合っていた。若干、涙目やったけど、確かに怒っているようではなかった。
 寛太が怒ってるとこ、見たこと無い。いつも、ぼやっとしてて、ぽやーん、としてて、ほにゃーん、みたいな。とにかく、ぐにゃっとしてる。上の空というか。腑抜けてるというか。ちょっと変。あいつが激しい感情を露わにしたとこなんか、見たことない。せいぜいが最近の、兄貴が大好きすぎて困っちゃう、熱く燃えてる時くらい。それかて、大きな進歩やってんで。亨ちゃんのお陰で。この俺様のお陰様でやな、あいつも自分というものを、外に出していけるようになってきてたんやないか。
 虎はぶっちゃけ鈍いけど、寛太は鈍いわけやない。あれで結構、繊細な奴やねんで。中ではいろいろ感じてる。そうやなかったら、虎とエッチして泣くわけないやん。
 寛太はただ、我慢しとんねん。兄貴に嫌われたくなくて。自分のこと、好きになってほしくて、俺のほうがええよって、アピールしてんのや。兄貴好みのアホにもなれるし、誰かさんみたいに、キレて怒鳴ったりせえへん。八つ当たりもせえへん。他の男に死ぬほど惚れてたりもせえへん。髪の毛ぐしゃぐしゃにしても文句言わん。背かて兄貴より全然小さい。それでいて見た目は朧《おぼろ》様風味。どうや、俺のほうがええやろ、って、そんな浅知恵やねん。
 健気というかな。俺に言わせりゃ、それはそれでアホ。コピーがオリジナルに勝てるわけないやん。自分のネタで勝負せな。それやと結局いつまでたっても、お前は朧様の代用品で、信太の兄貴は忘れへん。好きやったけど靡いてくれへんかった、湊川怜司のことを。
 腹が立ったら怒ればええねん。遥ちゃんみたいに。殺すぞゴルァ言うたればええねん。お前にしかない独自の魅力で迫ればええねん。他のやつなんか関係あらへん。別れた元彼なんかな、関係あらへんねん。
 ガツーン言ってやれ鳥さん。時には怒れ。てめえはよくも俺の見てる目の前で、他のやつといちゃつきやがったな。許せへん。俺の気持ちも考えろ。そんなもんを拝まされて、俺がどんだけつらかったか、お前にはこの胸の痛みがわからへんのか。なんでわかってくれへんねん。ひどいわ兄貴って、怒り狂うか泣きわめくかしてみろ。一遍だけでもええねん。
 たぶん信太はそれを待ってる。
 人間もやけど、外道もそうやねん。無い物ねだりや。恋愛なんて誰でもそうやろ。
 愛されてるという、手応えが欲しいんや。好きや好きやだけでは足りへん。お前が俺に本気やという、証が欲しいねん。激しい情熱が。それを見せてくれって、思ってまう時もあるんや。
 虎はわがまま?
 まあ、そうや。そうやけど、虎は心配やったんや。寛太のことが。
 いつも、ぼやっとしてて、おかしい時の朧《おぼろ》様みたい。もしかして、鳥がそんなふうなのは、自分のせいやないかって、鈍いなりに、信太も感付いてはいたんや。そしてそれが、赤い鳥さんの本性ではないことも、虎は見抜いていた。
 いわばそれは幼鳥の頃の、擬態みたいなもん。和毛《にこげ》を脱いで、鳥はほんまもんの不死鳥に、成長せなあかん。そうでないと、生きていかれへん。信太が生きてようが死のうが、それは変わらん。このまま行くと、鳥さんはいずれ飢える。そういう定めなんや。ここらで一発、逆転しとかんと、寛太に未来はないんやで。
 目覚めるべき時や、神戸の不死鳥として。
「寛太、しょんぼりしとうわ。傍についててやっても、いいでしょうか」
 礼儀正しく、信太が訊くと、アキちゃんは頷いた。かまへん、というか、むしろそうしろみたいな感じで。
 一礼して、立ち去る信太を見送ってから、やっと声が出たように、秋尾が言うた。
「本間先生……朧ちゃん、おかしいわあ。昔はあんなん、無かったですよ。おかしなってる。可哀想やわ。なんとかしてやってください」
 舞妓姿の袖で、口元を覆って話す、秋尾の顔は、心底同情している表情やった。秋尾はほんまに朧《おぼろ》とは、気が合うたらしい。どことなく、似たモンどうしやったんやろか。
「あんまり、おかしなると、外道は人界に仇《あだ》を成すようになることもある。そしたら斬って捨てなあかんようになるで、坊《ぼん》。あいつは力をつけただけに、放置はでけへん」
 脅すみたいに膝詰めて、大崎茂が真剣そのものの面《つら》で言うていた。アキちゃんは素直にそれに、びびったみたいやった。
「そんな殺生な、先生」
 涙ぐみそうな風情で、秋尾が哀れっぽい声を出してた。それがなおいっそう、お気の毒そうなムードを高めた。
「どっ……どないせえ言うんですか」
 アキちゃん、どもってる。やっと喋れたのに、力入りすぎやから。
「どないもこないも無いわ。お前が朧《おぼろ》の主なんやろ。ご自慢の、伝家の通力で、朧《おぼろ》を芯まで誑し込むか、それがでけへんのやったら、アキちゃんに返せ」
 詰め寄るアキちゃんに鼻を寄せ、大崎茂は、それしかないというふうに、断言していた。
「返すて、返せんの!?」
 アキちゃん、びっくりしてた。
 そら返せるやろ。蔦子さんがお前に譲れたんやから。お前もおんなじことして、おとんに怜司兄さんを返せばええんやないか。おとんは明日、ここへ戻ってくるて言うてんのやから。
 というか、返せ。もう要らんやろ、朧様。もともと、鯰《なまず》の餌いるわということで、式《しき》になってもろたんやろ。生け贄にはもう信太が行くんや。怜司兄さんキープしとく必要ないやないか。ちゃんと返してきなさい!
「アキちゃん次第やけどな。要らんもんを押しつけることはでけへんのや。主《あるじ》が望んで、式《しき》もそれに応じるんでないとな」
 ひそひそと、大崎先生は悪いお公家さんみたいに、直衣《のうし》の黒いお袖の陰からアキちゃんに入れ知恵していた。
「見たとこ、朧《おぼろ》に否やはないやろうけど、アキちゃんはどうなんや。ほんまに朧《おぼろ》を捨ててもうたんか、アキちゃんは」
 いやいや、それはどうやろ。俺はまだ、脈ありありやと思うねんけど、皆はどう思う。
「なにを、ひそひそ話してますのん。うちのとこまで聞こえへんえ」
 蔦子おばちゃまが、我慢できずに参入してきはった。なんでか竜太郎までついてきて、ちゃっかりアキちゃんの隣に座りやがった。コーヒーテーブルが一気にちゃぶ台みたいになった。立派なソファがあんのに、なぜか全員、テーブル囲んで床に座ってる。しかも全員、時代コスやで。時代祭の控え室かここは。
「お蔦ちゃん。朧《おぼろ》をアキちゃんに返したらなあかんと思うんやけど、そうなると登与姫はどない思うんやろな」
 ひそひそ話に蔦子さんも混ぜてやって、大崎茂はそんなことを訊いた。蔦子おばちゃまは、卑弥呼ルックの高く髪を結い上げた頭をかしげて、ちょっと悩んだみたいやった。
「登与ちゃんか。あの子が何を考えてんのやら、うちには昔から、さっぱり分からしまへんねん」
 考え考え言うてる蔦子さんに、どうぞて狐が伏見酒のぐい飲みを差し出した。あらどうも、って、蔦子さんはそれに赤い唇をつけた。酒好きやな、オバチャマ。
 一口味わってから、蔦子さんは話を続けた。
「でも昔から、アキちゃんの式《しき》に焼き餅焼くでもなかったですやろ。むしろ、ほら、お兄ちゃんはぎょうさん式神侍らして、ご立派やわあて、言うてたくらいやし。叔母様がたが、どこぞの男の人はんと、お見合いさせはったときも、お兄ちゃんの半分も式《しき》のおらんお人は嫌や言うて、駄々こねてなぁ……」
 おかん、どういう趣味なんや……。
「登与姫はアキちゃんに惚れとったんやろ。それで見合いが嫌やっただけやないんか」
 かつて自分も登与姫様に、プロポーズを蹴られたことがある、天下の大崎茂はぶちぶち言うてた。
 そういや、秋津のおかんは未婚やねんで。いっぺんも結婚したことない。関東のほうに婚約者がいたけど、そいつは結婚する前に戦争で死んでもうたし、その後、他の男がいたという話はない。
 おとんが好きやったんやろ。普通に考えて。一途におとんの帰りを待ってたんですよ、登与ちゃんは!
「それもあったかもしれまへんけど……でも、登与ちゃんは朧《おぼろ》のことは嫌いではないんえ。娘時代も、よう三人で、街のダンスホールやらいうところに行ってましたわ。怜司と踊った言うてましたえ?」
 大崎茂、ブッて伏見酒吹いてた。
「踊った!? ダダダンスホールでか!?」
 ジジイ、びっくりしすぎてラッパーみたいなってる。なんでそんな、ビビらなあかんの。
 それはな。昭和の初め頃、まだ世の中が戦争めいて来る前の話やけども、日本でも最新の遊びとして、ダンスが流行っていた。いわゆる社交ダンスやで。ワルツとかタンゴとか踊るんや。
 そのための社交場として、ダンスホールという、今でいうならナイトクラブ的なもんが、各地にあったけども、社会の目で見てそこは、未婚の男女が行きずりの相手と、お手々つないで踊るという、極めてけしからん場所やった。良家の子女が顔出すような所やない。悪い子専用みたいなもんやで。
「ほんまの話なんか、お蔦ちゃん!?」
 茂、ツバ飛んでるから。蔦子おばちゃま、明らかに避けてはるから。自重せえ。
「ほんまかどうか知りまへん。うちも何度か登与ちゃんに誘われましたけど、そんな恥ずかしいとこ、よう行かんて断りましたもの。後で聞いたら、アキちゃんの仕事やったらしいけども。いわゆる……なんですのん。囮《おとり》捜査?」
 要領を得ないオバチャマの話の代わりに、またまた俺が解説しよう。
 昭和初期の、その当時、ダンスホールに何か出るということで、アキちゃんのおとんは鬼退治へ。若い娘の生き血を吸ってる鬼が、ダンスホールで狩りをしているとかで、妹の登与ちゃんを囮《おとり》に、そいつを探しだそうとしたらしい。それはまた別の話やから、ここでは省略や。
 その時、おとんは湊川怜司を連れていった。登与ちゃんは朧《おぼろ》とも踊ったと、そういう話らしいわ。
「なんで俺を連れていかへんかったんや!」
 何が無念なのか、大崎茂は無念極まりないみたいやった。
「ダンスが下手やからどすやろ」
「ひどい、絶対、俺を登与姫と踊らせたくなかったからなんや」
 的確なことを発言している蔦子オバチャマを無視して、大崎茂は悔やんでいた。
「まあ……ともかく、その時も登与ちゃんは、機嫌良うしてましたえ。水煙が怒るよって、お兄ちゃんも朧《おぼろ》と仲良うでけへんから、水煙だけ先に連れて帰ってきたとか言うて、にこにこしてましたわ」
「要らんこと言わんでええんや蔦子!」
 どんだけ耳ええんや、水煙。そういえば居ったんやった。青い人、ソファの向こう側で、ぷんぷん怒っていた。
 怒鳴られて蔦子さんは、やってもうたわあという痛い顔になり、苦笑してぺろりと舌を出した。
「登与ちゃんと水煙だけ、タクシーで送り返してきた言うて、叔母様がたおかんむりでなぁ……面白おしたわ」
 おとんはその足で祇園の妾宅にしけ込んだというわけか。何やっとんねん、秋津の坊《ぼん》は。仕事せえ。
「あかんことないと思いますえ。もう、叔母様がたもみんな身罷られたんやし。水煙さえ許すんやったら、怜司が秋津の家に戻っても、かましまへんやないか。なあ?」
 蔦子さんは熱心に、アキちゃんに問いかけ、アキちゃんは困ったように、曖昧に頷いていた。確信があるわけやない。おかんがどう出るか。
「登与ちゃんの考えはこの際、二の次や。朧《おぼろ》は秋津に戻さなあかん」
 ぷんぷん怒っていた青い人が、急にそんな事を言うんで、俺らはびっくりした。
 ええ、マジですかって、皆で見ると、水煙は居心地悪そうに、車椅子の片端に座り、足を組んだ格好で、肘掛けにもたれて、まだ楽しげに歌っている朧《おぼろ》のほうを、顎で示した。
「あいつ完全に頭がおかしいわ。アキちゃんに面倒みさせなあかん。とんだ狂骨《きょうこつ》やで。いつ、また元通りの鬼と化すかもしれん。茂の言うとおりや。斬るか、それが無理なら手元に捕らえて、悪させえへんように見張るしかない。それも巫覡《ふげき》の役目やからな」
 そうは言いつつ、水煙は不機嫌やった。ぷんぷんしながら、それを許す話をしている水煙の、気位高そうに、つんと顎を上げた顔は、俺が見たかていつになく、可愛げあるような気がしたわ。
 兄さん、朧《おぼろ》と和解したんか。やるやん兄さん、たまにはええことするやないか。これでまた一段と、朧《おぼろ》様救済計画にも現実味が湧いてきた。
 その前に俺らが死んでもうたりしなければの話!
「朧《おぼろ》! お前はいつまで同じ歌ばかり歌ってるんや。飽きたわ! 腑抜けとらんで、なんか違うのを歌え」
 水煙はめっちゃ偉そうに、車椅子から気の毒な朧様に命令した。すると怜司兄さんは哀れっぽくビクッとして、なんでか大急ぎでアキちゃんのとこに来た。
 俺がまだまだ背中に張り付いているアキちゃんの横に、朧《おぼろ》は逃げ込んできて、何の遠慮もなく、ぎゅうっとアキちゃんに身を寄せた。
「怖いわあ。水煙。あいつ俺をいじめるねん」
 黒い直衣《のうし》姿のアキちゃんに腕をからめて、頬を擦り寄せてくる怜司兄さんは、それが誰か、ちゃんと区別ついてんのか怪しかった。
「ケチやわあ。たまにちょっと会うくらい、ええやないか……なあ?」
 朧様はアキちゃんの耳にそう囁くようにぼやき、俺が居るのも気にならんのか、懐かしそうにアキちゃんの肩に頭を乗せて、甘えかかっていた。
 なにをすんねん、俺の男に。
 そう思わないでもなかったけど、なんでか俺は腹が立たへんかった。なんでやろ、焼き餅焼きの蛇さんやのにな。
 たぶん怜司兄さんが、俺のアキちゃんやのうて、別のアキちゃんの肩に、擦り寄っているからやろう。今はそれを、邪魔したったら可哀想やって、さすがの俺でもそう思った。
「次、なに歌おかなあ……暁彦様」
 にこりと淡い笑みで、怜司兄さんはアキちゃんに訊いた。
「歌もええけど、お前ちょっと休んだほうがええやんないか」
 シャツの白い胸を染める、赤黒い血の跡を見て、アキちゃんは心配げに答えていた。それは怜司兄さんの血ではないけど、ある意味、それ以上のヤバいもんや。
「なんで? 休んでも治らへん。先生もいっしょに歌お。亨ちゃんも」
 張り付いたような笑みで、怜司兄さんに間近で言われて、俺は止まった。
 えっ。なんで。なんで俺のこと知ってんの、怜司兄さん。
 そら、正気やったら知ってるやろう。まさかそんな、一瞬で忘れられるほど、俺かて存在感薄くはないんやで。
 せやけど今、怜司兄さん、夢ん中にいるんやと思ってた。俺のことなんか、アウト・オブ・眼中かと。
「亨ちゃん、声綺麗やし、歌上手いんやないか。俺ちょっと疲れたし、代わりになにか歌っといてくれへんか」
「な、にか……って、何?」
 俺はめっちゃぎくしゃくと、怜司兄さんと話した。そしたら怜司兄さん、なんかすごく、悲しそうに微笑んでいた。
「なんでもええねん。ごめんやで亨ちゃん。今、ちょっとだけ、先生貸してくれへんか。ちょっとだけでええねん。ちょっとだけ……」
 すぐ返すからと、怜司兄さんは俺に頼んだ。そうして、アキちゃんの腕を強く握りしめてる怜司兄さんの手が、いつもに増して白く、骨のような色で、獲物を掴む怖い鳥か、鬼か、何かそういうもんの手のように見えてもうて、俺はまた、まだ綺麗なままの怜司兄さんの顔に、慌てて目を戻した。
「お願いやで亨ちゃん。俺はもう、暁彦様が斬らなあかんような、鬼にはなりたくないねん」
 青ざめた怜司兄さんの額に、一滴の汗が浮いていた。それを見て、そして俺は最後にアキちゃんと、一時見つめ合った。
 アキちゃんは俺に、何か言いたいような、済まなさそうな、頼み込むような、縋り付くような、その全部であり、どれでもないような目をしていた。ただそうやって俺を見るだけで、アキちゃんはなんも言わんかったけど、俺にはなんでか、アキちゃんの気持ちがわかった。自分がいま、どうしたらええのかも。
「しゃあないなあ。歌おか。実は俺も歌には、自信があるねん。何か聴きたい曲ないの?」
 笑って俺が訊ねると、怜司兄さんは、済まんなあというふうに、淡い苦しげな笑みを返した。そして、乾いた唇で、こう言うた。
「Hymne à l'amour《イムヌ・ア・ラムール》」
 それを聞いて、俺は思わず、えへっと笑った。恥ずかしかってん。
 なんでそんな歌、俺が皆の見てる前で歌ってやらなあかんの。恥ずかしいやん、やめて、怜司兄さん。
 でも聴きたいんやったら、しゃあないなあ。歌おか。
 それは古いシャンソンの名曲で、たぶん皆も知ってるわ。日本語にも翻訳されてるし、日本でも流行歌になった。「愛の讃歌」というタイトルで。
 エディット・ピアフという、フランス人のシャンソン歌手が、熱愛していた恋人の、不慮の飛行機事故死の後に歌って、猛烈に流行った曲や。
 原曲は、この世が滅びようとも、あなたが私を愛してくれたら、それでかまわない。あなたがそうしろと言うなら、月でも盗む。祖国も裏切る。友さえ捨てる。何だってする。もしも、あなたが死んだら、私も後を追う。愛してる、愛してるって、いかにもシャンソンらしい、情熱的で暗い、激しい愛の歌や。
 日本語版もええな。でもアキちゃんの前やと、なんや恥ずかしすぎて無理で、しゃあないから俺は、フランス語で歌った。それやったらアキちゃんには、意味わからんのやもん。
 せやけど、意味わからんでは、皆も、はあ? て思うやろから、一応言うけど。教えるけど、日本語の歌詞も。何がどう恥ずかしいんか、俺に訊かんといて。一回しか言わへんしな。一回だけやで。よう聞いといて。
 俺は、がっつり張り付いていたアキちゃんの背を離れ、さっきまで怜司兄さんが座っていた、DJブースの革張りの椅子んとこへ行った。そこから見返すと、アキちゃんが俺のほうを、じっと見ているのが見えた。
 アキちゃんがお仕着せの、おとん譲りの黒い直衣《のうし》の袖で、押し隠すようにして、怜司兄さんを自分の胸に抱き寄せているのを。それは、ちょい前の俺やったら、見た瞬間に、キレるか泣くか、あるいは死んでまうかするような、ショッキングな光景やったかもしれへん。
 でも何でかな。平気やった。全然平気と言うと嘘かもしれへんのやけども、俺を見ているアキちゃんが、なんや複雑そうな目をしてるのを眺め、ちょっと笑えた。
 しょうがない。うちのツレは巫覡《ふげき》の王で、鬼退治が仕事やねん。退治というても、斬った貼っただけが能やない。鬼さん宥《なだ》めて、神さんに変える、そんなミラクルな大技のほうが、性に合うてる。優しい子やねん。
 せやし、しょうがないよなあ。俺はときどき、目をつぶろ。知らん顔してよ。アキちゃんが俺を一番に愛してる限り、怖いモンは何もないって、そういう、でかい態度で余裕ぶちかましてよ。
 だって、しょうがない。それが今、俺がアキちゃんのためにしてやれる、一番ええことやないか。水煙がいつか、言うてたやん。そこらの男に惚れたんやない。こいつは秋津の頭領で、三都の巫覡《ふげき》の王やねん。それと連れ添うつもりなら、それ相応の覚悟が要るわ。
 残念ながら、俺もとうとう、水煙みたいになってきたなあ。
 苦笑しながら俺は、いっぱいある機材の中の液晶画面を覗き、さっぱり意味わからへんと思って、途方にくれた。
「怜司兄さん、これ、どないして音出すの?」
 困って俺が聞くと、アキちゃんに抱かれた袖の合間から、ひょいと白い手があらわれて、ぱちんと指を鳴らした。そしたら、どこからともなく盛大な拍手の音が鳴り、そして聞き覚えのある曲のイントロが、雰囲気たっぷりの伴奏で流れ始めた。
 俺は笑えた。不思議やなあ、よう出来てるなあと思って。それにこの歌歌うの、久しぶりやなあと思って。
 昔、ちょっとフランスに住んでみたことがあって、そこでは亨ちゃん、酒場の歌歌いやってん。どうってことない店やったけど、小さい、クルミの木でできたステージがあって、赤いビロードのカーテンが、薄暗い照明の部屋の中に、かけられていた。
 気まぐれに俺が、そこで歌うと、皆酔い痴れて、俺の歌が聞きたくて、しだいに客が増えた。あんまりまともな奴が来るような店とは、言えへんかったんやけども、毎週、金曜にだけ現れる、いかにも真面目そうなおっさんがいて、その目が他の誰よりも熱く、俺を見ているような気がして、もしかしてこれが、愛やないかと思ってん。
 歌の文句にあるような。永遠に二人で生きて、離ればなれにならない。俺がずっと探している、同じ魂の片割れではないかと。
 俺って惚れっぽいねん。誰にでもすぐそう思う。もう探し疲れてもうててな、お前でええわ、俺を幸せにしてくれって、縋り付きたい気分やってん。
 そのおっさんも、けっこうすぐに食うてもうたよ。ばりばり食うてもうた。ほんまに食うてもうてん。
 その人にも、藤堂さんみたいに、奥さんと娘が居って、家族は捨てられへんと言うていた。そうか、それはしょうがないと、俺も諦めてはいた。そのつもりやったというかさ。
 でもな、ある金曜日、おっさんは俺んとこに来て、仕事で遠くへ行くんだ、もう会えないんだ。さようならだと言った。さよならと、俺も言うたつもりやったんやけど。気がつくと、楽屋が血まみれ。おっさん片腕しか残ってへんかった。
 俺がやったんやと思う。よう憶えてないんやけどさ。
 その人の好きやった歌も、Hymne à l'amour《イムヌ・ア・ラムール》やったわ。せやし、よう歌った、その人のために。
 そして、その時から今まで、いっぺんも歌ったことない。
 思い出してまうやん。自分がただの怪物で、人を食って生きてる悪魔。そんな奴が、いったい誰と幸せになれんの。そんな都合のいい相手はいない。俺が探してる魂の片割れなんてのは、どこにもおらん。俺は永遠に、ひとりで世界を彷徨っている鬼で、未来永劫ひとりぼっちなんやって、そう思えてくる。
 アキちゃんも、もしかすると、そうかもしれへん。ただ俺が思いこみたいだけで、ほんまは運命の相手なんかやのうて、ただ行きずりの、なんでもない男やったのかもしれへん。俺のせいで、ひどいめに遭わされた、過去に出会った偽物の、魂の片割れたちと同じでな。
 だけどもう、俺も終わりにしたいねん。アキちゃんが俺の旅の終着点。俺はアキちゃんのとこで、幸せになるねん。めでたし、めでたし。そういうオチにして、二人でずっと幸せに、生きていけるんやったら、俺はなんでも我慢するよ。何でもする。ほんまにね、お月さんだって、盗んできてやるよ。それでアキちゃんと俺が、幸せになれんのやったらね。
 せやしアキちゃん、俺と生きてよ。俺はお前と生きてやるから。お前も俺のこと、もっと本気で愛してよ。たとえ空が裂けて、俺らの頭上にふりかかろうとも、大地が崩れて、俺らを呑み込もうとしても、そんなん関係あらへん。アキちゃんが俺を愛してくれてさえいれば、俺は幸せ。どんな真っ暗闇の中にいても。
 そう思って歌うと、久々ながら、俺様の喉は冴えていた。めちゃめちゃ良かった。自分で言うのもなんやけど。震い付くような美声やった。さすが神。水地亨は神ですね!
「上手い……」
 アキちゃんの腕に抱かれていた怜司兄さんが、それをぐいっと押しのけて、俺を褒めてた。
「上手すぎる、亨ちゃん。感動した!」
 ありがとう。怜司兄さん感動しはったで。小泉純一郎みたいになってる。
「この曲、俺の持ち歌やったけど、今後は亨ちゃんにやるわ。また歌ってね。なんならデビューする? えらいオッチャン紹介しよか?」
「デビューせんでええねん。元気出たんか、怜司兄さん」
 俺が椅子にふんぞりかえって訊くと、怜司兄さんはまだ青白い淡い笑みで、うんうんと頷いていた。
「いつまでも、先生借りとくわけにいかんから」
 ぐちゃぐちゃなってた髪を手櫛で直しつつ、怜司兄さんは恥ずかしそうに返事していた。
「亨ちゃんのやもんなあ、本間先生は。愛しちゃってんのやもん。ごめんね、ちょっと借りて」
 すみませんて、恐縮したみたいに、怜司兄さんはアキちゃんをぐいぐい押しのけていた。アキちゃんカワイソ。別に無理矢理抱いたわけやないのに、まるでセクハラしてたオヤジみたいやないか。
 俺の歌、そんなに良かった? やめてよ、その、お前の歌聴いてたら分かったみたいなリアクション。そんなに情感こめてへん。こめてた? 愛がみなぎりまくりやった? そんなん言われたら亨ちゃん恥ずかしいわ! よかった日本語で歌うのやめといて。フランス語で歌った今でさえ、なんやアキちゃんを正視でけへん恥ずかしさがある。自分ひとりだけ、アキちゃん好きやで独自の世界いっちゃってるような気がして、アキちゃん引いてんのとちゃうかなってビビってまうわ。
 そんなこんなで、アキちゃんの傍に戻りづらくなって、俺がDJブースでもじもじしてると、狐の舞妓がグラスに入れた何かを、怜司兄さんに差し出してやっていた。
「はい。朧《おぼろ》ちゃん。これ、京都の水やで」
 にっこり可愛い舞妓姿の秋尾から、伏見の水を受け取って、怜司兄さんはそれをちびちび飲んだ。
「懐かしいわあ……」
「帰ってきたらええやん、朧《おぼろ》ちゃん。また祇園で遊んだり、貴船で鮎食ったりしよう。のんびりして、美味いモン食うて、楽しく遊んでたら、きっと元通りになるよ」
「俺、そんなに変やった?」
 哀切な口調の秋尾にたじろいで、怜司兄さんが訊くと、狐の舞妓は長い振り袖の中の襦袢を引っ張り出してきて、目頭の涙を拭い、洟をすすった。
「うん、変やった。僕でできることあったら、何でもするし、何でも言うてね」
「ありがとう。そんなに変やったんかなあ……」
 悩んでいるふうな怜司兄さんは、自分が変やった瞬間のことは、憶えてないみたいやった。信太のことも、憶えてない。この時、怜司兄さんを救ったんは、たぶん信太やったんやろうけど、怜司兄さんな、それを一ミリも憶えてないねん。後で話しても、信太のシの字も、話に出てけえへん。
 調子ええなあ、怜司兄さん。自分はおとんに踏みにじられてるかもしれへんけど、自分も信太を踏みにじっている。困った時だけ虎頼み。それはほんまに、そうなんかもしれへんなあ。
 それでも信太は、別にかまへんのやって。そんなんもう、とっくの昔に、突き抜けてもうてるねんて。
 この時も信太はもう、俺関係ないしみたいな面《つら》をして、ふらふらなってる鳥さんの横に座ってやっていた。一段高い席から見ると、それがよう見えた。朦朧と目の遠い寛太の手を、信太がぎゅっと握ってやってんのが。それは守るというよりは、励ますような手やった。巣立ちの枝先まで連れていき、さあ飛べと押し出すような。
「さあ、仕事せなあかんわあ」
 ものすご立ち直ったふうに見える怜司兄さんが、俺んとこにやってきた。俺が怜司兄さんの席に座っているせいやった。
「もっと歌うか、亨ちゃん。シャンソン?」
 怜司兄さんは俺に、席を譲れとは言わず、自分はそこらの機材のはしっこに、腰掛けていた。長いおみ足の、九頭身くらいあるナイスバディなんやから、どこに座ろうと様になる。俺はそれを少々の劣等感を味わいつつ、じとっと見上げた。
「もうええよシャンソン。別に好きな訳やないもん。あんたが歌え言うから歌っただけやんか」
「それにしちゃ上手かったやん。歌詞もばっちりやったし。フランス語も上手いなあ。住んでたん?」
「そんなん訊かんといて。アキちゃんにかて話してへんのに」
 だっていろいろ話したら、アキちゃん幻滅するような話ばっかりなんやもん。俺の素性なんてさ。
 そういうのも全部、まさかおとんは調べてきてんのやろか。ほんでそれを全部、明日アキちゃんに話すつもりなんか。
 それもあってな、俺は暗い気分やったんや。
 こいつはお前の思うてるような、小綺麗な神やない。落ちぶれ果てて悪魔《サタン》やで。やめとけ、龍にでも食わしとけ。これより水煙のほうが、どんだけいいか知れへんでって、おとんとおかんが二人がかりで言うたら、アキちゃんどないすんのやろなあ。
「好きなん、先生のこと」
 今さら訊くななことを、怜司兄さんはにこにこ俺に訊いてくださっていた。返事すんのも気恥ずかしいて、俺はうんうんて、面倒くさそうに頷いておいた。
「お前と、行き着くとこまで行ってみたいて、本間先生話してた。好きなんやって、亨ちゃんのこと。信じてるんやって、守護神やから、守ってくれるって」
 にこにこして、怜司兄さんは教えてくれた。
「そんな話いつしてん」
 照れ隠しで、俺はぶつぶつ話していた。
「内緒」
 淡い笑みで言う怜司兄さんは、俺に借りがあるくせに、むっちゃ意地悪かった。この恩知らず!
「ええなあ、亨ちゃんは。そんなふうに思ってもらって。俺ももっと、信じてもらいたかったわあ。いっしょに戦って、いっしょに死にたかった。あいつがもっと俺を、必要としてくれてたら」
 なんでそんな話、俺にすんの。気まずいやん、怜司兄さん。
 俺は余りにも気まずうて、またいつの間にか俺に擦り寄ってきていた黒ダスキンのポチを捕まえ、膝の上で、ダスキン的な触手っぽい黒毛を、ぎゅうぎゅう引っ張ってもうてた。伸びるで、この毛。びよんびよんするで。なんやこれ変やわあ。癖になりそう。
「嫌やて言うてたくせに。アキちゃんのおとんと戦争いって、死なんでよかったわって、信太には話してたやん」
「そら嫌やで。嫌やない奴、居るわけないやん。誰かてそうやろ。自由気ままに生きていたいもんやろ。でも違ったんやな。本音はそうでも……あいつには、死んででもやらなあかん事が、あったんやろ」
 にこにこ話してる怜司兄さんは、疲れてて、ちょっと寂しそうやった。
「なんで俺はそれを、分かってやられへんかったんやろなあ。逃げようなんて、誘ったらあかんかったよな。亨ちゃんみたいに、言うてやらなあかんかったんや。それが、いわゆるひとつの、真《まこと》の愛ってやつか?」
 冗談みたいに、怜司兄さんは笑っていたけど、でもその言葉はやけに、ずしりと重かった。長年のしかかる後悔が、重たい石のように、降り積もっている。
「そんなことないよ。何が正しいかなんて、終わってみなわからんやないか。好きやったから、逃げようって思たんやろ。俺も思うわ。今でも思うわ。ほんま言うたら、今すぐでも逃げたいわ。逃げてええなら、アキちゃん攫って、どこへでも逃げる。地の果てまでもな」
 せやけど逃げ場なんかないやん。アキちゃんは自分自身の自責の念からは、宇宙の果てまで飛んだかて、逃れられへん。立ち向かうしかないんや、自分の人生と。そういう性格なんや、あの男はな。
 それを連れて逃げて、幸せになれる場所が、この世のどこかにあるとは思えへん。
 怜司兄さんはどこへ、逃げるつもりやったん。そんなとこが、どこかにあるなら、教えてよ。
「逃げるとこなんか、ないねん。亨ちゃん。駆け落ちなんて、来るわけないって、ほんまはどっかで、分かってたんやけど。それでも逃がしてやりたかってん。生きて、好きな絵描いて、そんな人生生きてもええやんて、言うてやりたかったんや」
 余計なお世話やったみたいやけどなと、怜司兄さんは笑っていた。
 俺はますます、すごく、暗い気分になった。俺にもその選択肢は、あったはずや。アキちゃん逃げようって誘う、そういうコースも。
 俺がそれを、とうとう最後まで口に出されへんかったんは、他でもない、あんたのせいやで、怜司兄さん。俺は、あんたみたいになるのが怖くて、アキちゃんに、捨てられんのが嫌で、それを言い出す勇気がなかったんや。
 大義やし。お家のためやし。血筋の定め。三都の巫覡《ふげき》の王なんやし。男の子には面子があるわ。命をかけても守らなあかん、名誉があるわて。
 それは正しいことかもしれへん。正しいように聞こえる。
 でも、ほんまは、皆が間違っていて、怜司兄さんだけが正しいことを言うてたんやないの。アキちゃんのおとんは、時代の波の、家の名誉の、犠牲になったんや。ただ絵描いてられれば幸せな、息子のほうと大差ない、絵描きのボンボンやったのに、嫌が応にも英雄になった。そういう道しかなかったんや。
 こっちもあるで。一緒に行こう。お前が死ぬなんて我慢できへんて、言うてくれる相手がおって、おとんはほんまに迷惑やったんか。
 俺にはよう、わからへん。そうやとは、思いたくない。
 逃げようって誘うのが、真《まこと》の愛かもしれへんで。名誉も大義も振り捨てて、とにかくお前を守りたいって、言うてくれる誰かのほうが。
 難しいなあ。愛は。ほんま言うたら俺も、ようわからへんねん。アキちゃん好きやより先の、小難しいことは。いろいろ考えてみても、結局のところ、わからへん。
「俺なあ、亨ちゃん。もとは四条河原の鬼なんやで。人食うてたんや、ほんまに。そんなん、したくはなかったけどさ、でも、そうせえへんと、てめえが死ぬんや。しょうがないやろ」
 そうやなあって、俺は黙って頷いていた。
「そんな俺のことを、暁彦様は、お前は雀やないかって。人に尽くせば神になれるでって、言うてたわ」
 その出来事が今も、色あせない総天然色で、心の中にあるように、怜司兄さんは話していた。そうや。それが秋津マジックや。俺かて身に覚えがあるわ。お前は鬼やないと、アキちゃんが言うてくれた時の、胸のざわめきを。怜司兄さんもその手で、落とされてもうたん?
 ワンパターンやな。そう思えて、俺が苦笑していると、怜司兄さんも照れたような、苦笑いやったわ。
「でもな、亨ちゃん。ほんま言うたら、神になれるかなんて、それもな、どうでもええねん……」
 かつて我が身を捨てて、ヒロシマを救おうとした神が、どうでもええねんと言うていた。怜司兄さんは神になりとうて、それをやったわけやない。俺にはそれも、なんでか、よう分かっていた。その気持ちが。
「暁彦様、俺のこと、ときどき、雀ちゃんて呼ぶねん」
 二人っきりのときだけな。アホみたいやろ。でもそれが、可愛いねんて。怜司兄さんは、照れくさそうに言うていた。ほんまは俺と兄さんの、内緒の話なんやけど、皆にはしゃあない、教えるわ。
「来たで、雀ちゃんて、あいつが戸口に立ってんのを見ると、幸せやってん。それを待ってさえいれば、イイ子にしてられた。ただそれが、ずうっと続けばええなあと、思ってただけで。大義とか、神とか、そんな難しいことは、俺にはわからへん。ただずっとあいつと、いっしょに居りたかってん。俺のお月さんと」
 それがそんなに、悪いことやったんやろか。
 そう言う怜司兄さんは、自分がいま不幸なのは、自分に罪があったせいやと、思ってるようやった。俺のせいやと。自分が悪かったんやと。
 でも、それは、そうやろか。果たして誰かが悪かったんやろか。
 そういう時代やったんどすと、いつも言うてた秋津のおかんのことが、ふと俺の頭をよぎって消えた。
 そうやな。おかん。時代が悪かったんやなあ。誰かのせいでこうなった訳やない。
 そんな時代でなかったら、一体、どうなっていたんやろう。そう思って、失われた時が戻るわけやないけど。それでもまだ希望はあるんやないか。
「亨ちゃんは先生と、ずっと一緒に居りや」
 にこりとして、怜司兄さんは俺をそう、励ました。
 俺はただそれに、こくりと頷いただけやったけど、内心ではふつふつと、こう思っていた。
 まだ終わりやない。諦めるのはまだ早い、兄さん。これで終わりと思うなよ!
 俺は幸運の蛇さんや。俺はもちろん俺とアキちゃんを救うけど、ついでにお前も救うたる。水煙も、しゃあないからついでにワンワンも、救ってやるぜ。宛はないけど、何とかしたる。皆、黙って俺について来い!
 というふうに、とりあえず決意はしたけどやな。問題は具体的にどうするかやないか。そこや。そこが一番肝心なんや。
 どないしよ?
 えっ。亨ちゃん実は何かアイデアあるんやろうって?
 ないよ。ないて言うてるやん。ありません。ノー・プランやからマジで。ヤバいかなこれ。
 けど、ほら。蔦子おばちゃま言うてるし。蛇が鍵やって。俺がアキちゃんを救ってやれるんやって。それはつまり、ハッピーエンドってことやん。
 俺さえいれば大丈夫。これはもう運命なんや。なんというても的中率99%くらいの予言者、海道蔦子がそう視たんや。間違いない。
 俺はそう、信じることにした。
 きっとみんな、丸く収まる。絶対に諦めず、少しでも明るいほうへと、這い進む根性汚さで、いつかはきっと、幸せになれる。俺もきっと、とうとう幸せに。
「なに言うてんの怜司兄さん。そんなん当然やから。お前も影薄いけど大丈夫か。死んだら負けやで。絶対にあかんで。これは命令やしな。今は俺のほうが偉いんやろ。ご主人様も同然や。その俺様が言うんやからな、絶対従え。なにがなんでも生き延びろ。絶対、俺がなんとかしたるから……」
 ポチを毟《むし》りながら、俺がくどくど言うと、怜司兄さんは笑った。力無いけど優しい、ぼんやり霞む朧月《おぼろづき》のような、綺麗な白い顔やった。
「ええ子やなあ、お前は」
 しみじみと、そう褒めて、怜司兄さんはそれきり黙った。
 俺に言いたいことは、もう無いらしかった。
 そこどいてって、俺に席を替わらせて、仕事に戻った。
 なんせ今夜は宴会で、眠気覚ましの歌比べ。のど自慢の神様たちの、カラオケ大会やねん。
 明日をも知れん身の上やのに、ようそんなアホみたいなことするわ。それでも明日をも知れん身やからかな。この異界にお集まりの皆様は、今夜の酒食と歌を、ほんまに楽しんでいるようやった。今生最後の大宴会や。せいぜい飲んで食って、歌うとて、踊って騒いで楽しんで、心残りのないように。
 なんと賞品も出るから。霊振会会長・大崎茂が独断と偏見で選んだ優勝者には、アキちゃん謹製・京都タワー型霊水飴がもらえちゃうから。食いにくい事この上ない。せやけど、なんというても霊力の塊や。食いでがあるわって、外道ども大喜びやった。
 とにかく騒いだ。みんなアホになったように。
 猛烈な勢いで温泉卓球してる人らもいたし、猛烈な勢いで百人一首やってる人らもいた。腕が三セットもある漆黒の肌の美女なんか美少年なんか謎な、外国の精霊っぽいやつが、バリ島のダンスみたいなんを踊りまくり、狐の舞妓はこの世の未練を断ち切るために、浴びるほどいなり寿司を食っていた。
 怜司兄さんが犬に無理矢理「ハクション大魔王」を歌わせ、今度こそほんまに酔っぱらっていたらしい遥ちゃんが、お前もなんか歌えと言われて、少年時代からヴァチカンの聖歌隊で鍛えた喉で、ハレルヤを絶唱していた。
 みんな歌が上手かった。さすがは神や妖怪どもや。ローレライの魔女っぽいやつに、うっかり歌わせてもうて、みんな朦朧としたりするハプニングもあった。あかんあかん、寝たらあかん。魔女、急遽退場。
 でもそれは、魔女のせいばっかりやない。日付が変わる頃ともなると、皆待ちくたびれて、昼間の疲れもあって、うとうと眠る姿もそこかしこに現れだしていた。
 怜司兄さんもめっちゃ眠そうやった。なんせアキちゃんのせいで徹夜続きや。ろくろく寝てない。伏し目がちな目の、長い睫毛が重そうに見えた。
 怜司兄さんはもう自分が歌う気はないんか、DJブースは空にして、みんなが寛ぐ赤いソファ席のほうに来ていた。竜太郎が直衣《のうし》姿のまま、袖をくちゃくちゃにして、怜司兄さんに凭れて眠りこけ、蔦子さんも度々の予知の疲れか、起きてんのか寝てんのか分からんような、ぼうっとした横顔をしていた。
 犬は水煙になんか言い聞かせられていたんか、黒い犬の姿になって、アキちゃんの足下で、眠ったようなふりをしていたし、当の水煙も、人型でいるのがしんどいとか言うて、物言わぬ剣の形に戻り、アキちゃんの手元にあった。
 俺はアキちゃんの隣に、ぴったりくっついて座ってた。アキちゃんが段々無口で、段々と緊張しているふうに見えたんで、なるべく傍に、ぴったりくっついて居りたかったんや。
 おとんも俺を傍から離すなって、言うてたやん。せやし不謹慎やないで、ここでベタベタしとっても。
 もっともアキちゃんは無言で、ずうっと絵を描いていた。誰のとも知れへん、綺麗な歌声が、次から次へと聞こえてくる中、真新しいスケッチブックに、アキちゃんは黙々と鉛筆を走らせて、そこらじゅうにある異界の、美しい異形の者たちの姿や、朧気に霞んで見える、この中庭の宴席の風景を、さらさらと素描していた。
 俺はただそれを、アキちゃんにくっついて見てるだけ。
 それでも何か、幸せなような。豊かな時間がゆっくりと、流れているような気がして、この時がずっと、終わらんかったらええのにと、心の隅で思ってた。
 でも、スケッチブックの紙が尽きてもうて、アキちゃんは描くのをやめた。一冊全部に、ぎっしりと、鉛筆だけで描いた絵が詰まっていて、スケッチブックはずしりと重いように見えた。
「紙なくなってもうた」
 小さくため息をついて、アキちゃんは描き疲れた指の、黒く煤けた鉛筆の粉を、濡れたタオルで拭き取っていた。
「狐に新しいの出してもらうか」
 もっと描くかと俺が訊くと、アキちゃんは首を振って、車座の向かいのあたりを視線で指した。
 そこでは大崎茂が腕組みをして、ソファに腰掛けたまま、目を閉じていた。寝てんのか、それとも起きてんのか、わからへんのやけども、寝てんのかもしれへんかった。もし起きてたら、まだ舞妓さんの格好したままの秋尾が、先生の肩にもたれて眠っているのを、振り払ったかもしれへん。その割には、起きてるような息遣いやねんけど、ここはちょっと、寝てたってことにしといてやろうか。天下の大崎茂やし、人様のいてはるとこでは、狐といちゃついたりせえへんねん。
 邪魔しちゃ悪いか。俺もそう納得して、もう絵は描かへんというアキちゃんに、グラスに注いだ京都の水を飲ませてやった。
「待ってると、なかなか来えへんもんやな」
 苦笑いして、アキちゃんは水を飲んでいた。確かにもう、運命の日が始まって、三時間も過ぎている。いったいいつ、鯰《なまず》様は起きるんや。まさか予言がハズレてたなんて、そんな甘いことはないんやんな。このまま何事も起きず、あれえ不発やったねえって、皆で笑って解散なんて、そんな事には。
「おとんと、おかん、いつ戻ってくんのやろなあ」
 ごそごそと、アキちゃんの脇にもぐって、腕をからめつつ、俺は訊いた。
「戻ってきても、お前を龍の生け贄になんて、俺は絶対せえへんから」
 俺に安心しろというふうに、アキちゃんはひそめた声で、断言していた。
「水煙ならええの」
 なにげないふうに、俺が訊くと、アキちゃんはぐっと詰まった。すぐ手元には、寝てるみたいに黙りの、ご神刀・水煙様があり、そんな話になってても、やっぱり何にも言う気配はなかった。
「ええことないなら、何か考えんとあかんのとちゃうの?」
「もう、ええねん。お前は心配せんでもええよ。俺は覚悟を決めたから」
 そう言うて、アキちゃんは確かに、何かを覚悟したような顔やった。それで絵描いてたんかと、俺は納得した。アキちゃんは何か、悩んでいる時、大抵黙々と絵を描いている。頭ん中を整理したい時に、絵を描いて、自分の中でいろいろ考えているんやろう。
 山ほど絵描いて、アキちゃんが出した結論が、なんやったんか、俺は訊かへんかった。俺の口から、どないして水煙を諦めるのか、訊くのも酷いと思えたし、いくら俺でも、その件は、アキちゃんと水煙の問題やった。蛇が口はさむような事やないと、俺には思えたんや。
「亨」
 アキちゃんは真面目腐った顔で俺を呼び、抱き寄せた俺の頬に触れてきた。
「お前、歌上手いなあ。さっきのあれ、フランス語? なんでそんなん、喋れんのや」
 なんでもない世間話のように、アキちゃんはそう訊いて、うっすら笑っているみたいやった。
「なんでって、昔ちょっと居たことあるねん。フランスに」
「そうなんや。その話、まだ聞いたことなかったな。よう考えたら、俺はお前のこと、ほとんど何も知らんのやもんな」
 残念そうに、アキちゃんが言うんで、俺は困った。なんやねん、今さら俺の素性の詮索か、アキちゃん。知りたくないって、いつも言うてたやん。おとんに言われて、急に気になってきたんか。
 俺はそう思て、嫌そうな顔でもしたんかな。アキちゃんはまた、困ったように笑っていた。
「今年のクリスマス、何しよか。亨。お前と会うて、それでやっと一年やろう。まだ一年、経ってへんのやもんな。なんやもう、ずうっと昔から、一緒に居ったような気がするけど……」
 そうやなあ。アキちゃんとは、ずっと昔から、一緒に居ったみたいな気がするわ。ほんまはまだ、たったの一年足らずやのにな。
「なんか欲しいもん、あるか?」
 アキちゃんは俺の手を握り、にこにこそう訊いていた。クリスマス・プレゼントか? 気ぃ早いでアキちゃん、まだ夏やないか。
「ないけど……。俺にも絵、描いて。トミ子には去年、絵描いてやったんやろ」
 俺が強請るとアキちゃんは、去年のクリスマスのことを思い出したんか、さらに苦笑した。
「そやな。お前の絵か。また描きたいな……」
「そういや、トミ子にやろうとしてた、ガワのほうの女の絵、どないしたん」
「捨てた。腹立ったから、破いてホテルのゴミ箱に捨てといたわ」
 アキちゃんは恥ずかしそうに、そのことをゲロった。
 俺は、アキちゃんがキレて、絵を破いて捨ててるところを想像して、面白なって笑った。
「物悲しいなあ、アキちゃん。アホみたいやわ」
「そうやな。餓鬼くさかったわ、我ながら。他にもいろいろ。今もそうやけど。俺は結局、ずっと餓鬼のままなんやろな。大人になる暇、なかったわ」
 苦笑のまま、アキちゃんが悔やんでそう言うのを聞いて、俺は微笑のまま、自分を抱き寄せるアキちゃんの顔を、困って見つめた。
 誰も見てへん訳やないのに、アキちゃんはそうっと、俺の唇にキスをした。ただ触れるだけの淡いキスやったけど、俺は少々びっくりして、アキちゃんを見つめ返した。
「亨。いろいろ考えたんやけど、俺はやっぱり、大人にはなられへん。アホかもしれへんけど、龍の生け贄に、水煙をやるわけにはいかへん。俺が行く。堪忍してくれ」
「アキちゃん……」
「ちゃんと生きて、お前に絵描いてやりたかってんけど。もしも無理でも、俺のこと、許してくれ」
 俺を抱きしめて、耳元に囁いているアキちゃんに、俺は不思議な納得感があり、やっぱりそうかと思ってた。アキちゃんが水煙を、捨てられるわけあらへん。おとんもそう、言うてたやないか。あの青い人を龍に食わせて、アキちゃんがその後、呑気に絵なんぞ描いてられるわけない。アキちゃんは水煙のことが好きなんや。たとえそれがお家のためでも、三都を救うためであっても、水煙を見殺しになんて、できるわけない。
「俺も連れて行って」
 アキちゃんの抱擁に応えながら、俺は頼んだ。それくらいは俺の権利や。そうやないかって、言いたくて。
 アキちゃんはそれには何も言わず、ただ小さく頷いていた。その頷くアキちゃんの頭を、俺は必死で掻き抱いた。嘘やないよなアキちゃん。俺に嘘なんか、ついてないよな。アキちゃんは俺に嘘なんて、ついたことない子やもんな。これも嘘やない。
「好きや、亨。こんなことになって、ほんまにすまん」
「アキちゃんのせいやないやんか」
「そうやけど……去年のクリスマス、俺がお前に会わへんかったら、お前もこんな目に、遭わんですんだのに。他にもお前には、しんどいことばっかりやったやろ。俺と居るより……例えば中西さんとか。他の誰かと、幸せになってたほうが、きっとお前のためやった」
 本気らしい声で、アキちゃんは俺に謝っていた。
「そんなことないよアキちゃん」
 俺は困って、アキちゃんの顔が見たくなり、強く抱いてる腕を逃れて、うつむくアキちゃんの顎を上げさせた。
「そんなことないよ……幸せやったよ、俺、アキちゃんのとこで」
「そうか」
 嬉しそうに、でもちょっと寂しそうに、アキちゃんは言うた。
「ありがとう。俺も幸せやった」
 にこりとして、アキちゃんはそれが結論みたいに、俺に感謝していた。
 アキちゃん、なんで急に、そんなこと言うの。やめて、そんなん、なんかこう、ちょっと不吉やないか。まるでもう、俺らこのまま、お別れみたい。
 なんでなん。今もこうして、すごく近くで、抱き合うてんのに、なんでそんなこと、言う必要があんの。
「瑞希、目を醒ませ」
 足下で眠っていたらしい犬に、アキちゃんは強い声で呼びかけた。そして手元にあった水煙の柄《つか》をとり、膝に乗れと促した犬が躊躇うのを、強引に引っ張り上げた。そしてアキちゃんはそのまま、三人まとめて抱いた。そんなこと、逆立ちしてもできる男やなかったのに。
「大崎先生、来ます。地震やで!」
 アキちゃんは離れた向かいの席にいる、腕組みした大崎茂に、そう呼びかけた。すると大崎茂は、ぱちりと目を開いた。灰色のような、妖しい緑色の異彩を放つ、異形の目やった。
「蔦子さん、朧《おぼろ》、竜太郎!」
 眠気にぼんやりしている連中を、叩き起こすような声で、アキちゃんは呼びかけ、最後にフロアに座っている、狩衣のやつらを見渡した。
「信太!」
 呼びかけると虎は、眠ってはおらんかった。ぐったり弱っているふうな、鳥さんを抱き寄せてやったまま、信太はしゃんとして座り、アキちゃんに頷いて応えた。
 そして、ぐらりと揺れた。
 ずしんと地の底から叩き上げ、何もかもを揺るがすような鳴動が来て、それが始まりやった。ぐらぐらと世界が揺れた。テーブルの上にあった酒器が倒れ、打ち合わされたグラスがしゃんしゃんと、けたたましく鳴った。
 アキちゃんは強く、俺を抱きしめていた。
 アキ兄、こわいようと、竜太郎が言う声がして、それを縋り付かせたアキちゃんが、大丈夫やと怒鳴るように言うた。蔦子さんはか細い悲鳴を上げて、朧《おぼろ》に抱き寄せられ、ひそひそと、俺には何か意味のわからない言葉で祈った。
 びしびしと、ものすごい音をたてて、俺がアキちゃんの袖ごしに見上げた先の、なにもないはずのところに、稲妻のような形の亀裂が走り、ぼろぼろと、何かが崩れ落ちてくるのが見えた。
 たぶんあれは、壁やないやろか。瑞希ちゃんがヘタ絵を描いていた辺りやった。本来やったらあのへんが、ヴィラ北野の中庭の、外壁なんや。今は怜司兄さんの魔法で、この中庭は、現世からちょっと離れた別の位相に位置してる。せやけどもしも、そんな魔法なんぞなくて、普通にホテルの中庭に居ったとしたら、俺らはひび割れ崩れ落ちる建物を見たろうし、崩落してきた外壁で、怪我人かて出たやろう。
 しかし落ちてきた何かは、俺らにかすりもせず、半透明に薄れた幻のようになったまま、ずしんと地を打った。
「やばいな先生! もうちょっと遠い位相へずらそうか?」
 焦ったふうに怜司兄さんが、アキちゃんに聞いてきた。でも、そんなん訊かれても、アキちゃんにわかるわけない。ぼんくらやねんから!
「持ちこたえろ、朧《おぼろ》。あの糞支配人が、普通の客も泊まらせとんのや。現世から遠のきすぎて、何ぞ障りが出たら元も子もない」
 糞支配人て言われてる。藤堂さん。
 一般人《パンピー》にとっては、神隠しにあうのにリスクもあるらしい。それで大崎先生は、一般人《パンピー》泊めろて藤堂さんが頼んだ時に、それを渋ったんやな。
 だが幸いというか、当然というか、でかい神の手でひっつかまえられて揺さぶられるような、その激しい揺れは、ただ激しく揺れたというだけで、俺らには何の被害もなかった。ものすごい地響きも、壊れた建物が崩壊していくような、おっかない軋みも、ただ怖いというだけで、何の害もない。
 それは俺らが霊振会の手による堅固な結界の中に居ったからやし、別の位相の中にいたせいや。一種のシェルターの中に、匿われていたわけや。
 けど、そんなところに逃げ隠れしていられるのも、この時が最後。
 俺らには、仕事があるんや。
 揺れはしだいに収まった。腹に響く地響きが、やがて静まりかえり、怖ろしいような静寂になった。からころと、瓦礫の落ちる静かな音が、どこからともなく聞こえるばかり。
 ゆっくりと俺は、アキちゃんの胸から顔を上げた。
 蔦子さんが祈る、ひそやかな声は、まだ続いていた。オバチャマは、眉間に皺寄せて熱心に祈り、そして突然、両腕を天に向けて掲げた。
「天地《あめつち》よ、天照《あまて》らす大神よ、御光を、差し向け給え」
 蔦子さんがそう祈ると、真っ暗闇やった夜の天空に、突然まばゆい光の玉が、現れた。最初小さい玉やったそれは、次の瞬間、一気に爆発し、夜の闇を押しのけ、真昼の太陽のような一条の光を、暗黒に落ちた神戸に投げかけた。
 それは天の穴やった。あたかも黒雲にぽっかり開いた穴から陽がさすように、夜の空にぽっかりと、異界への入り口が開いていた。
 ただの虎キチのおばちゃんやと思うていた蔦子さんが、ほんまにどえらい巫女さんやった。さすがは秋津の末裔や。蔦子さんは祈り、そして真夜中の神戸に、真昼の光を召喚したんや。それは大地震で、停電しているやろう街に、灯りをもたらすためでもあるが、ただそれだけやない。太陽の光には、強い魔除けの効果があるんや。
 なんでそんなもんが必要やったんか。それは前からずうっと、言われてきたことやんか。
 死の舞踏や。地震とともに、死の舞踏が現れる。やつらは鯰《なまず》に命をとられた亡者どもで、骨になっており、それでも冥界へは旅立てず、迷うて生きている者の命を奪おうとする。殺すしかない。もう鬼や。ぶっ殺してやって今度こそ、冥界へ。そして次の一生へと、送り出してやるのが、せめてもの情け。
 明るい光を正視できずに、思わず顔を背けている皆の頭上で、再び溢れるような光の爆発が起きた。それと同時に、甘く花をつく、百合と薔薇との芳香が、温かな白い光とともに、あたりを包んだ。
 これは! この匂いには覚えがあるで。天使や。天使が降臨するときの匂いやで。
 トミ子!!
 俺は、あのブスの登場を予感して、眩しいのを堪え、闇と光の鬩ぎ合う神戸の空を、必死で見上げた。果たしてドブスはそこにいた。ハープを抱いて、ひらひらの白いローブをまとい、くるっくるに縦ロールした長い黒髪を靡かせ、足痩せに大成功した白い生足を晒して、ルネッサンス絵の中の天使のように、キメキメで天空に舞っていた。もちろん顔は見えへん。まぶしい光に包まれていて。
「見よ、異教の子らよ!」
 朗々と響く神聖なる声で、トミ子はあたりに呼びかけた。
「神の戸の、岩戸より、死の舞踏が現れた。力ある者は備えよ。剣持て戦い、悪魔《サタン》の僕《しもべ》どもより人々を守るのだ。神はこの聖戦を祝福しておられる。御心に適う者には栄光を! 聖霊の祝福が汝らに常に倍する霊力《ちから》を与えるであろう。主を誉め讃えよ《ハレルヤ》!」
 トミ子が女神のごとくそう絶叫すると、それを待っていたように、神戸の全天を取り囲む輪のように、白く輝くひらひらした何かが、激しい光とともに現れた。
 主を誉め讃えよ《ハレルヤ》と、そいつらは合唱した。数知れない、妙なる美声で。
 あんぐりとして、俺らは空を見た。
 天使の群れが現れていた。千や二千じゃきかへんで。ひらひら、生足、白ローブ。金髪《ブロンド》、赤毛に、暗褐色《ブルネット》。直毛、巻き毛に、ドレッドヘアまで。肌の色かて様々な、ヤハウェが集めた随神《ずいじん》たちが、神戸の空に舞い、ご主人様を讃える賛美歌《ゴスペル》を、声高らかに歌い上げていた。
 どいつもこいつも呆れるような、美貌の若者やった。美少年だらけやった。むしろハーレムみたいやった。しかもこれ、天国コレクションのごくごく一部ですから。
 ヤハウェ。……ぜったい顔で選んでる。瑞希ちゃんもまさか、あの合唱団に、入る予定やったん?
 俺がそう思い、ついチラリと犬を見ると、すらりと引き締まった体つきの、黒い猟犬《ハウンド》は、めっちゃ気まずそうに俺からサッと目を逸らした。
 しかしその恥ずかしいハレルヤ唱は、ただの歌やなかった。それこそがヤハウェの垂れる奇跡や。天使たちの歌声は、光る粉になって降り注ぎ、俺たちは光の雨を浴びた。それを浴びるとものすごい、霊力《ちから》が漲ってくるようやった。
 これがスポーツ・バーでトミ子が予言していたアレや。正念場につき大サービスで、霊力二倍のお約束や!
「トミ子ぉーーーー!!」
 俺は思わず、天空に舞うドブスに呼びかけていた。ほんのちょっと会うてないだけやのに、なんやえらい、懐かしいて。ブス恋しなってもうて、ついつい甘えたような、嫁に逃げられた旦那っぽい声になってもうた。
 でも俺の声は、あいつのとこまで届くんやろか。ちょっと見ん間に、またえらい天使っぽくなってもうて、キラキラ輝きながら空を飛んでる、でかい一対の翼を生やしたあの女に。
 もちろん届いた。トミ子はキッと、俺のほうを見た。そして声高らかに言うた。
「トミ子やのうて、聖スザンナ。ス・ザ・ン・ナやて言うてるやないの! 何遍言うたらわかるんや、あんたはぁ!!」
 はいすみません。亨ちゃん、怒られたわ。
 とうとう戦いの火蓋が、切って落とされようとしていた。大崎茂がすっくと立った。
「戦《いくさ》や、皆の衆。俺の太刀《たち》出せ、秋尾!」
 はい先生と、狐が答えた。いざ、出陣の時やった。

《つづく》

ベータ公開にお付き合いくださった方々、誠にありがとうございます。
こっから推敲しまして正式版にしますが、イベント内容的にはほぼ変わりません。
読み直していただく必要はない予定ですので、ご安心ください。
ちなみに(26)βは、236048文字(原稿用紙換算590枚)でした。お疲れ様でした!
ご感想など頂戴できますと、励みになります。お暇がありましたらお願いします。



--------------------------
←Web拍手です。グッジョブだったら押してネ♪

作者あてメッセージ送信
Name: e-mail:  

-Powered by HTML DWARF-