SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

神戸編(15)

 神楽さんは俺の友達やった。たぶん、そういうことになるんやと思う。
 恐ろしい話やけど、そうとしか考えられへん。
 親しく付き合ってて、何か用事あったら携帯に電話かけてきたりメール送ってきたり、困ったことあったら相談したり、ピンチになったら助けたり。そして、お互いその相手に恋愛めいた下心がなければ、それは友達ということやないか。
 その観点からいくと、神楽さんは間違いなく俺の友達ということになる。霊振会でも同期入会やし。同じメルマガで顔出しさせられた仲やしな。
 しかし俺には神楽さんが自分の友達というのがどうも不思議でならない。何でそういうことになってもうたんか。
 どっちか言うたら好みの系統の人のはずやった。顔はあんな女顔やし、いつも何となくの憂い顔して、ふらふら弱っちそうやし。守ってやらなあかんみたいなタイプで、背も俺より低いんやで。
 まあ、それを言うたら、俺は自分より背高い奴には滅多にお目にかからへん。虎すら俺よか背は低い。中西支配人もかなり長身やけど、それでも俺のほうが高い。自分と並ぶ目の高さから話しかけてくるやつは、俺のおとんだけや。
 背の高低は実は関係ないんか。
 ほんなら歳かもしれへん。神楽さんは一歳だけやけど俺より年上で、キャリア的にも上やった。とっくに大学二回も卒業してて、すでに働いている。つまり社会人。俺から見たら先輩で、俺は自分を見下ろす奴に惚れる性癖はない。
 どっちか言うたら俺を頼って縋り付いてくる奴が好きやねん。それがストライクゾーン。たぶん、そこやろ。歳のこと言うたら、亨なんか俺より何千年レベルで年上なんやし。それでもあいつがアキちゃん好きやて、うっとりしたような上目遣いで、胸に縋ってくるのが可愛いわけです。
 水煙もそうやろ。剣の時にはそうでもないが、人型してたら、ぐんにゃり力無い弱々しさで、抱いて運んでやらんと、どこにも行けへん。それが心のツボに来るんやろ。ど真ん中やねん。
 勝呂はあんなんやしな。先輩先輩言うて俺を立てて、隅にも置かへん。あいつ、俺の絵見ていちいち、すごいなあ、すごいなあ言うんや。大したことないて謙遜してみせても、それが気持ちようない奴なんか居るわけないやろ。お世辞で言うてるわけやない。あいつは本気で褒めてるらしかった。そういうのが可愛くないわけがない。
 つまりな、その話の結論は、俺は顔さえよけりゃ何でもええわけやない。神楽さんは、確かに美貌の男やけど、初対面からして、俺はあの人に借りがある。免停から救われたという。
 それでいて、助けてやったんやという上から目線では来ない人やった。
 神楽さんは、自分が偉いと思っていない。自分が持ってる超常の力も、神が与え給うたもので、我がものではないし、人に奉仕するのは当たり前。お役に立って嬉しいですって、そういうノリやねん。傲慢さの欠片もない。
 だからかなあ、いつも同じ目線の高さにいる感じのする人や。
 それがな、俺の心のツボを外してるところやねん。幸いにしてな。
 せやから、俺を頼ったらあかんねん、あの人は。微妙になってまうやろ。ストライクゾーンに入ってきてまうやんか。
 それは困るんや、もし万が一、その球を俺が打ち返したくなったらヤバいやろ。そんなんしてもうたら、また中西さんと、ややこしい関係になるやないか。
 今でもすでに充分ややこしいけども、でも何となく円満なところに落ち着いてる。俺はそう思ってる。その平和な気持ちを、敢えて今さら掻き乱されたくないねん。
 俺は内心、亨と出会ってからの約八ヶ月間、藤堂さんなる人物の存在を知った瞬間から、ずっと片隅にそのことが、痛い棘みたいに引っかかっていた。絶対に負けたらあかん相手として、見ず知らずの誰か知らんおっさんと張り合っていた。
 しんどいねん、そういうのは。自然体でいたいねん。いちいち張り合おうとする性格が間違ってるんやろけど、俺は虎ですら、実はしんどいんや。自分にとって、もはや確実にどうでもええはずの鳥さんを巡って、あいつと張り合おうとしてまうねん。男のさがみたいなもん。どうしようもないんや。
 そういうのをな、もう中西さんとやりたくない。なんというか。勝ち目がない気がするから。負けたなあって思っても、それが心地いいような関係に、なんとか落とし込みたい。
 せやから神楽さんは俺の友達で、俺は頼られると困る。持ちつ持たれつの範囲を超えないようにしてほしい。
 せやのに頼られると助けなあかんと思うのも、俺のさがやった。
 まずは水族館の続きから話をしよう。その一連の出来事の起点にあたる時、俺はそこにいた。須磨の水族館の、見上げるような高い天井まで続く、薄暗く青い大水槽の部屋に。
 イルカの絵を描くという竜太郎に付き合って、肝心の水族館のほうは、ほとんど見ないで入ってた。絵も描けたし、帰る前に一目くらいは、大水槽を拝んで行こうかということで、入り口すぐにあるその広間に立ち寄った。
 竜太郎と亨と、水煙は俺が抱いてやってた。なんでか剣に戻らへんねん。海水に浸かったせいやろうと、水煙は話してた。水気が乾いても、海の潮気があるせいで、戻らなくても保つらしい。戻ろうと思えば戻れるけども、っていう話やったけど、なんとなく、ほな戻ればっていう雰囲気やなかった。水煙はなんとなく、人型のままでいたいようやった。
 それを押し切ってまで、剣に戻れという理由もなかった。ほんま言うたら、そのほうが、まだしも運びやすい訳やけど、鞘無いし、人型のほうが危なくない。抱いても別に重いわけやない。亨といっしょで、水煙は重かったり、軽かったりするし、この時も軽かった。首に抱きつかれ、横抱きにした体を支えはするけど、重いって気はしなかった。
 むしろ別の危なさがある。なんかな、気持ちいいねん、抱っこしてると。ひんやりしてて、むにゅっとしてて。しかも水煙はうっとり気持ちよさそうに俺の肩にしなだれかかり、亨はむちゃくちゃご機嫌斜めやった。
「車椅子借りてきたろか、アキちゃん」
 画材入れを肩にからげて持ってやりながら、亨は何となく疲れた様子の竜太郎を気遣ってやってるみたいやった。珍しくも気が利く。お前にもとうとう年少者を気遣うという、人並みの心が湧いてきたんか。なんでやろ。イルカに心を癒やされたせいか。
「もうええよ。駐車場まで行くだけやから。また返しに戻ってくるほうが手間やで」
「変やで。他の人には見えへんのやから、何抱いてんのって感じなんやで」
 そうやなあ。ほぼパントマイム。実際、この人なにを抱えてんのやろという目でじろじろ見られてて、かなりつらい。それでも水煙に、降りてくれへんかと言うのがつらい。
 空っぽの車椅子を押しているほうが、まだしもマトモや。確かに亨の言うとおりなんやけどな、なんかこう。抱いといて、みたいなテレパシーを感じるんや。水煙からな。無視できない放射量で。
 しかしそれに答え続けるのはまずい。危ない世界になってくる。車椅子ってどこで売ってんのやろって、俺はぼんやり考えていた。うちの備品として、そういうのも今後必要になってくるんやないか。水煙が、剣より人型のほうがええわっていう気でいるんやったらな。何でも買います、水槽でも車椅子でも。それでお前がちょっとでも気分良くしてられるんやったらな。
「なんで、人によって見えたり見えへんかったりするんやろ?」
 俺が抱いてる水煙を見上げて、竜太郎が夏休みらしい、なぜ・なに感で訊いてきた。それは自由研究の課題として不適切やけど、俺も気になる。
 水煙を見ることができるのは、多少なりと霊能力のある奴だけや。式神たちには普通に見えるらしい。俺や、蔦子さんや、竜太郎にも当然見える。神楽さんにも見えていた。ホテルのフロントの綺麗なお姉さんにも。
 せやけど大水槽のある部屋を行き交う、残りの夏休みを楽しむ子供とおかんの二人連れとかには見えず、俺はその人たちに、変なお兄さんやから見たらあきませんみたいな態度をとられる。
「神には位階があるんや」
 水煙は俺に抱きついたまま、うっとりぼんやりと話した。
「言うても分からんやろけどな。死んだら普通の人間には見えんようになるやろ。霊が見える奴もおるけど、それは特殊や。生きてる人間と、死んで魂だけになった人間とは、隣り合った別の層に居るんや。目のええ奴が、遠くまで見えるみたいに、隣り合った別の層が見える目のやつも居る。言うなれば俺は、その隣の層に居るわけや」
「レイヤーみたいなもん?」
 俺は、ものすごく分かりやすい例として、その話を出したつもりやったけど、竜太郎からも亨からも、水煙からも、何言うてんの分からへんみたいな眉間に皺寄せた顔をして、なにそれレイヤーって、と言われてもうた。
 わからんか。そうか。
 パソコンで画像ソフト使うときにある概念で、透明なフィルムを何枚も重ねたような状態で絵を描いていき、後で消すかもしれへん部分は別のフィルムに分けておく。服の色を赤にするか、青にするか、決めてへんときに、あるフィルムには赤で描き、別のやつに青で描く。それをとっかえひっかえして悩むわけやけど、そのフィルムのようなもんのことをレイヤーっていうねん。レイヤーケーキのレイヤーや。
 何やそれか。説明するだけうるさいですか。もう言いません。どうせ誰も聞いてへんかった。ふうん、て亨が遠い目をしてた。聞いてへんときの生返事やねん。ほんまお前は聞きたい話しか聞いてへんな。全然興味ないんか。無いんやろな。無いって顔してるもんな。
 これが勝呂やったらこの辺の話はなんの解説も要らずツー・カーなんやけどな。それがあいつの楽なところやねん。レイヤーみたいなもんか。ああなるほど、で話が済むんや。
 俺のそんな内心のぼやきまで聞こえてんのか、水煙はうっふっふと咎めるように皮肉に笑った。
「まあええ、何みたいでもええわ。とにかく俺は普通の人間とはちょっとズレた、隣の位相に存在してる。そういう神も居る。天使を侍らす奴かてそうや。遠い高次の位相に居るから姿が見えへんし、デカくなりすぎて、この位相には降りてこられへん。しゃあないから、霊的な位階の低いしもべを使ってコンタクトをとってくる。それが伝令の天使や」
「社長とヒラ社員みたいなもんか」
 亨が口を挟むと、水煙は、そうやと言うた。
 ロマンもなんもない。
「天使も年期の入ったやつになると、人界まで降りてくるのが難しいらしい。人界に顔出すやつは下っ端や。位相を幾つも超えたり、多次元に渡って存在するのは、それなりに難しいねん。目に見えてる隣に進出するくらいなら大したことではないけどな」
「勘弁してよ、そんなSFくさい話。脳みそ痺れてくるやんか」
 何の興味もございませんという口調で、亨はうんざり言うていた。
 でも俺はその水煙の話に、ものすごい引っかかりを憶えてた。
「それ、どういう意味や? 普段は見えへんもんでも、やる気を出せば、人間の世界に姿を現せるってことか?」
「そうや。幽霊かて、霊力が強ければ、人界に出張ってきて、普通の人間にも見えるようになるやろ。位相を越えてきてるんや。あの犬かてそうやんか。現れたり消えたり。天界から人界へ渡ってきてる。こっち側に居る時だけ見えてるんや。白い光が見えたやろ、あれは天界の光やで」
 あたかもSFみたいな話を、水煙は当たり前みたいに語って聞かせてくれた。皆には意味がわかったやろか、このSFジャンルの話。わかっても、わからんでもええねん。ここで重要な、俺が訊きたかった事は、もっとすごく単純で、実際的な事なんや。
「水煙……お前、もしかして、普通の人間にも見えるようになれるんか」
 だってそうやんか。亨や他の式神たちは、普通の人間にも見えてる。
 亨は大学で他の学生とダベったり、苑先生の研究室にちょっかいかけに行ったりしてる。店で買い物もできるし、ひとりで流しのタクシーも拾えるんや。誰にでも見えてる。そうやなかったらヤバい。俺は亨と飯デートするとき、レストランでふたりぶんの飯を食い、ひとりでずっと喋ってる危ない人になってまう。
 水煙が普通人に見えへんのは、幽霊みたいなもんやからやっていう話やろ。せやけど幽霊が普通人に見えることもあるんやろ。霊力が足りてれば。その霊力が、水煙には足りんということなんか。
「なれるよ、やろうと思えば。でも、見えたら見えたでまずいやろ」
 けろっとして水煙が言うんで、俺はびっくりしたわ。
「なんで見えへんようになってんのや」
「深い意味はない。俺はお前のおとんのいる位相に合わせてただけや。別に不都合ないやろ。お前には俺が見えるし、触れるんやから」
 それはまあそうや。せやけど、普通人には見えない相手と喋ってるという、この状況は少々キツい。しかしこの水煙が人目に触れるのは、それはそれでキツい。この物語が一瞬で宇宙モノになってまう。須磨に宇宙人が現れたって、あっと言う間に大騒ぎになる。
 でも、もっと人間ぽい姿やったら平気やろ。
 そういうの、できへんもんかと、俺はずっと考えていた。もっと人型水煙。もっと地球っぽい水煙。『スター・トレック』の世界やったら、今の姿のままでも宇宙連邦に所属できる地球人のお友達と思うけど、でも現実世界ではまだまだ無理。まだまだ二十一世紀やから無理。もっと科学技術が進歩して、人類が未踏の宇宙に飛び出していくような時代でないと無理すぎる。
 見えない相手を抱っこして喋ってる男のほうが、まだしも現実的。異常やけど、遠巻きにされる程度で、大騒ぎにはならん。
「とにかくな、見えてる世界で全部という訳やないって事や。お前らが思ってるよりも、宇宙はもっと大規模やねん。人間どももな、昔は霊的な直感によってそれを多少は把握してたけど、だんだんアホなってきたな。目に見えるもんしか信じられへんようになった」
 自分を見てない他の客たちをちらりと見渡し、水煙はそう批評した。
 アホや言われてる。俺もアホやったんや。人間界から見ると、俺はどんどんアホで異常になってきてるんやろけど、水煙から見ると、ちょっとずつ賢くなってきてるって事なんか。怖い。世の中、価値観しだいで真逆やで。
「まずい状況や。人界からの霊力を吸い上げて生きてる奴らも多いんやけどな。人界での信心が薄れると、弱ったり、消えたりする神もいる」
 たとえば、これとか、と言うて、水煙は亨を指さした。
「えっ、なんで俺!?」
 亨はめちゃめちゃ驚いていた。
「憶えてへんのか。お前はきっと、そこそこ経歴の古い神やで。えらい落ちぶれてもうて。ヤハウェにやられた口やろ」
「ヤハウェって何」
 舌噛みそうなその名前を、亨は険しい顔をして、水煙が言うてたとおりに繰り返してた。
「天使を飼うてる神のひとりや。うちの新入りの犬の、前の社長やないか。ヤハウェや。元は地方神やったけど、営業が得意でなあ。えらい出世したもんや。みるみるシェア拡大して、今やもう、あまりにデカくて人界に姿顕すこともない。隣近所の神の縄張りをガンガン食うてもうて、元いた神は吸収合併されて天使として仕えるか、悪魔サタンとして追われた。お前もきっと、そういうのやろ。昔の名前は忘れたか」
「嘘お。忘れたで。過去は振り返らんことにしてんのや」
 亨はものすごサバサバした口調で、そう言うてた。ほんまに忘れたようやった。
 なんでそんなんが京都のホテルに居るねん……。
 俺は正直ぽかんとしたが、聞き流した。知ってもしゃあない。亨の過去なんて。聞くのに一生かかる。だって、その過去話、何千年分あんのや。仮に二千年ぐらいとして、一日にさらっと一年分ずつの総括ダイジェストを聞くだけでも、二千日かかるねんで。五、六年かかる。ダイジェストでもやで。そして現実問題、この、クリスマスからこっちの、たったの八ヶ月を語るのに、どんだけかかってる?
 こいつも憶えてないて言うてんのやから、思い出させるな。きっと俺が何百回も気絶するような恐ろしい話も混ざってる。見つめよう、これから二人で歩む未来だけを。お前の神話はこれから作られるんや。俺がその神官やしな。
「まあええわ。それも、どうでも。俺はそんな権威主義には興味ない。経歴関係ないからな、水地亨。どんなご大層な名前があったとしても、今、秋津の役に立たんようなら、ただのヘタレの亨やで」
 水煙は意地悪く笑い、そう締めくくった。
「ヘタレ!」
 唖然としたふうに、亨は繰り返していた。そこまで言われたことないわって顔やった。
 俺はそれに苦笑した。
 もしかしたら亨も大昔には、立派な神殿でもあって、そこで崇め奉られて、毎日ええこと言うてもらってた神さんやったんかなあ。神社で神主さんが、そこの祭神に毎日祝詞のりとあげてるみたいに。あれって、神さん褒め倒してるんやん。口説きやで。
 俺ももっと、こいつにええこと言うてやらなあかんのかなあ。ヘタレ呼ばわりはちょっとさすがに、あんまり可哀想やもんなあ。
「何笑ってんの、アキちゃん。なんとか言うてえな。俺が下手したてに出てると思て、この宇宙人言いたい放題やないか。俺ってヘタレ?」
 亨は物悲しく俺に縋る口調やった。せやけど抱きつこうにも、もう水煙で満員なってる。
「そんなことない。美しい美しい。すばらしい神や」
「情感籠もってへんわあ……」
 ぼやく声で言い、亨は自分がもたれてた、大水槽の中の青い薄暗がりを振り返って見た。その凹んだような横顔はやっぱり綺麗で、褒め称えなあかんような気はしたけども、今さら言うのも恥ずかしい。絵にもいっぱい描いたし、もう見慣れてもうたわ。
 それでも見るたび綺麗なんやけどな、いちいち言うのは照れるやんか。言わんでええねん、そんなのは。言わなくたって分かるやろ。
 それとも分からへんのかな。青いガラスにうつってる、亨の物憂げな横顔を眺め、俺は内心気まずく照れた。
 そして気づいた。あれ。なんでやろ。なんで亨が、写ってんのやろ。わざわざ写ることにしたんかな。別に俺と手を繋いでる訳でもないし、鏡に映る理由がないような気がするんやけどな。なんか特殊な鏡なんかな。
 そう思って眺める水槽に、妖しくうろこを光らせる魚の群れが、また回遊してきていた。
 次々と、流れ去るように泳いでいくでかい魚の鱗の色は、幻想的な七色やった。なんていう魚なんや。こんなのがこの世に居るんやって、思わず見とれる俺の前を、ぶあついガラスと海水の層を隔てて、微笑む女の顔がいくつか、泳ぎすぎていった。
 あっけにとられて、俺はそれを見た。
 人魚やった。たぶん人魚。
 上半身が人間の女みたいで、長く漂う黒髪に、花みたいなもんを挿している。それは見たこともないような海の植物で、真っ赤で肉厚の貝のようにも見えた。まるで血が通ってるみたいな、鮮やかな赤い肉をしてる。
 青白い肌を飾るように、きらめく貝がこびり付いていた。それは別に、世の中のありがちな絵にあるように、彼女らの、淡い乳房を隠すようではなかった。美しい裸体を恥ずかしげもなく晒したままで、青や緑の鱗に覆われた魚体をくねらせ、楽しげに人魚たちは泳いでた。
「に……人魚がおるで」
 驚いて、俺は皆に言うたけど、誰も驚いてへんかった。
 普通の人らには見えへんらしい。大水槽に張り付く親子連れや、宿題らしい絵を描くために、画板を持って床に座り込んでる子供らは、ぜんぜん平気眺めてて、かつおさめが泳ぐのを、いかにも凄そうに追う目をしてる。
 そんなもんより、他にもっと見るもんあるやろ。よくよく見れば、どう見てもただモンやない魚が混ざってた。ちょっと部分的に人くさいやつもいる。気色悪い。人魚のほうがいい。美しいから。
「気づいてへんかったんか、アキちゃん。鈍いわあ、相変わらず……」
 感心したように亨が俺を褒めた。褒めてるみたいな口調やった。
「ずっと居ったで。最初からずっと居た。なんで気がつかへんの」
 不思議そうに言われ、俺はこっちを見てる竜太郎の顔と向き合った。こいつも全然、驚く気配がないねん。
「見えてんのか、お前にも」
「見えてるよ。でも別に、今初めて見たわけやないもん。さっきコーヒー買いに行くときに見たんや」
 今さら驚かへんわと、そんな口調で竜太郎は話していた。
 しばらく泳ぎ回っていた人魚は、俺が見たのに気づいたか、くるくる遊ぶイルカみたいな泳ぎ方をして、近くに集まってきた。全部で五匹いた。五人ていうんか。
 人魚は水煙に似た、白目のない宝玉のような目をして、七色に揺らめくその目で笑うような表情をした。指さすような仕草をするが、それは内側から大水槽のガラスをつついているだけかもしれへん。それとも俺を指さして笑ってんのか。
 美しいけど、意地悪そうな女どもやった。けらけら笑って、何か話しているけども、声は全然聞こえへん。
 水煙だけが何か聞こえたふうな顔をして、にやりと苦い笑みやった。
 その唇がなにか答えてやっているのを、俺は間近に見下ろした。人魚と話す水煙の声は、俺には全く聞こえなかった。唇を読もうとしても、どうも日本語ではない。人間の言葉とは違うんかもしれへん。だって人魚って何語で話すんや。
「なんて言ってんのや」
 亨も聞こえないらしく、水煙にそう訊ねた。
「まあ、いろいろや……乳ある奴らは無駄口が多い」
 苦笑のままの顔で愚痴って、水煙は抱きついたままの間近から俺の顔を見た。
「ジュニアに話があるらしい。水槽に耳当ててみ。奴らの声は海水の中しか届かへん。空気中ではお前には聞こえへんのやろ。ガラスあるけど、まさか割るわけにはいかへんし、耳押し当てれば、なんとか聞こえるやろ」
 聞いても意味わかんのかな。
 そうは思うけど、水煙の言うことやしと、俺は素直に亨の隣にもたれにいって、分厚いガラスに耳を押し当てた。ひやりと冷たい水面に触れたような感触がして、俺の耳に何かが聞こえた。
 イルカの声みたい。きゅうきゅう鳴くような甲高い音が、いくつも絡み合って聞こえた。
 もちろん意味は分からへん。イルカの話がわかる奴なんか居らんやろ。
 それでも俺は目を閉じて、試しにその声に聞き入ってみた。
 人魚のひとりが、すいっと泳いでやってきて、俺が耳を押し当てたあたりのガラスにとりつき、五十センチはあるかという分厚い向こう側に、薄青く見える唇を押し当てるのが分かった。
 何も見てないはずやねんけど。白い歯と舌が、ひそひそ何かを話すのが見える気がする。
 耳打ちをする切れ切れの女の声で、混線した電話か、いまいち局が合ってないラジオみたいなノイズまじりの話が聞こえた。
 探していると、人魚は教えた。
 探している。東海トムヘの海の王。古い龍が。ぎょくを探している。
 いいこと教えてあげましょう。お前は可愛いから。東海トムヘの王に会ったら、ぎょくを探しているのだろうと答えなさい。謎々の答えはそれよ。
 お役に立ったら何くれる。皆に優しい口付けを。ひとりにひとつずつ。蕩ける心地になるまでよ。
 そこまで聞いて、目を開いて見ると、歌うように話していた人魚は、ガラスの向こうでふと沈黙して、ゆったりと笑い、白い舌で舌なめずりをした。
 その舌に見覚えがあった。そっくりやねん。水煙のと。
 俺はついつい、抱いたままでいた水煙の唇を見た。
「えらいことやなあ、ジュニア。海のモンと取引したらあかんで。海に引っ張り込まれるわ。やつらはなんでか、おかの男が好きでなあ……」
 同じ白い歯と白い舌で言う水煙は、俺の耳にひそひそと耳打ちする声で話してた。触れる息がくすぐったいような声やねん。何か、堪らん感じと、俺には思えて、慌てて水煙を引き離した。
「何て言うてたか、アキちゃん、わかったか?」
 自分も耳を当ててみてたらしい亨が、なんもわからんかったわという顔をして、俺を見上げた。
東海トムヘの海の王がぎょくを探してて、それが謎々の答えやと言うてた」
「意味わからんな……東海トムヘってなに?」
 耳慣れないその単語を、亨は顔をしかめて繰り返したが、俺も知らんかった。竜太郎はまだガラスに耳を当てていた。こいつにも何か聞こえるのかもしれへん。俺の親戚やしな。
東海トムヘは、日本海のことやで」
 物知り水煙が教えてくれた。
「昔はそういう名前やった。今もそうとも言える。こっち側から見たら日本海。あっち側から見たら東海トムヘ。人間は海に名前をつけるけど、岸辺にはいろんな国があるからな。海には幾つも名前があるんや」
「どれがほんまの名前なん?」
 竜太郎は真面目に聞いたが、水煙は可笑しそうに笑った。
「海に名前があるかいな。人の世界やないんやで。こっちから見たら日本海、あっちから見たら東海トムヘや。他にも名前があるやろけどな、海神わだつみは気にはとめへん。それでも名付けて呼べば、その言霊に縛られる神もおるやろ。名前にふさわしい姿を顕す。龍やて言うなら龍なんやろ、その、東海トムヘの王は」
「関係ないやろ、日本海。神戸の海って、瀬戸内海やで?」
 しょうもない話を聞いたって、亨はそんな顔してた。お前ほんまに聞いてへんな、自分の興味ない話は。関係ないやろって、関係あるかもしれへんやんか。一応聞いとけ、何事も。これも何かの縁かもしれへんのやから。お前が言うてたんやないか、世の中には縁の作用があるって。
 ほんまにあるわ。そんな力があるような気がする。だって全然関係ないコースを歩いてきたつもりが、なまずがらみの道筋の上に、お前の藤堂さんが現れるなんて、俺には全く予想もついてへんかった。それこそ人の縁てやつやないか。
 人やないけど、この人魚の姉ちゃんたちも、何かの縁で出会ったんかもしれへんで。案外すごく重要キャラかもしれへんのやで。
 にこにこしてる青白い人魚が水の向こうで、エロティックに身をくねらせて、ちゅっと投げキッスを発射してきた。どうも俺に向けて発射されてるようやった。
「うわっ、なにあれ! アキちゃんモテてるわ! 久々で女にモテてる!」
 ものすご汚らわしいという顔で、亨は塩でも撒きそうな勢いで言い、ほんまに飛んできてるわけでない何かを、びしびし払い落とすような仕草をした。ああ、人魚の投げキッスが大水槽の藻くずに……。
「あかんで、ほんま。外道にモテモテ! もう連れて帰ろ。うちのジュニアが人魚に犯される」
 俺の腕をぐいぐい引いて、亨は水煙の口ぶりをパクってた。水煙はそれに、面白そうに笑い、俺の肩にやんわりともたれ掛かってきた。
 亨はそれを恨めしそうに見たけど、何も文句を言わへんかった。
 なんで言わへんのやろ。ちょっと前まで文句たらたらやった。そんな変化が不自然に思えて、俺は心配になった。亨はまた、勝手にひとりで変なこと悩んでんのやないやろか。
 べらべら何でも言うようでいて、こいつは肝心なことは話さへん。大抵ひとりで悶々としてる。
 そういうの、もう止めへんか。お前の悪い癖なんやで。
 きっとそれで、行き違うてもうたんやで。お前の藤堂さんと。向こうもそうかもしれへんけど、ちょっと言うたら済むことを、腹に溜めてるストレスで、変な風になってまうんやで。
 そういうの、物言わざるは腹ふくるる、って言うんやで。昔の人もそう言うてはる。黙ってたら悪いもんが腹に溜まるんやって。言うたほうがええらしいで。
 そういう俺も口下手やから、あんまりお前のこと、とやかく言われへんのやけどな、でも、黙ってられて、それで変な方向に行くのは嫌やなあ。スプリンクラー攻撃とか、そういうのな。
 そやけどここんとこ、亨とゆっくり話す機会もなかった。
 考えてみると、こいつとゆっくり話したことない。
 二人っきりでゆっくりする時間ができると、大抵そのまま、あっち方面やから。心と体で話すことは多々あれど、言葉で話したことがない。
 なんせ、趣味も興味も合わへんし、俺はこいつと熱心に話し込んだことがない。
 今の亨のマイブームは阪神タイガース。せやけど俺は野球には興味ない。熱く語られても、ふーん、みたいな。右の耳から左の耳に、ざらざら話がこぼれ落ちてる。
 亨は亨で、俺が絵の話とか映画の話しても、ふーん、みたいな。そんなん話してへんとキスしよかみたいな。そんなノリやからな。
 これはまずいか。それとも、それでええのか。それで上手くいってるっていうなら。
 車の後部座席に竜太郎を乗せてシートベルトを締めさせて、その隣に乗せた水煙にも、念のためにシートベルトしてやった。
 鳥さんと事故って以来、俺はますます優良ドライバーやで。死ぬからな、シートベルトしてへんまま、万が一事故ってもうたら。水煙死んだら困るから。事故ったぐらいで死ぬんかどうか、俺は知らんのやけどな。
 助手席に先に乗ってた亨が、暑いわあと憎そうに文句を垂れていた。もう晩夏とはいえ、炎天下に駐めてあった車内はむんむん暑くなっていた。
 エンジンかけて、エアコンをつけ、何となくの思いつきでカーステのラジオをつけると、前に聴いたまんまになっていた神戸の地方局の番組が流れ出た。KISS FM KOBEやで。
 なぜラジオがキスするのか。深い意味はない名前なんやろけど、よう分からん神戸。
 暑いわあって、冷えるまで運転する気も湧かず、聴くともなく俺は、そのラジオを聴いていた。
「早いとこ戻らなあかんなあ。蔦子さん、もう待ちくたびれてるやろ……」
 送風口からの冷たい風を喉に浴びつつ、俺は自分を叱責してた。暑くてだるいとか言うてる場合やないよという意味で。
「もう帰らなあかんのか……僕も妖怪ホテルに泊まりたい」
 竜太郎は名残惜しげにくよくよ言うた。妖怪ホテルという呼び名がなにげに広まっていっている。なんでや。その言葉が実体を的確に表現しすぎているからや。どう見ても妖怪ホテルやもん。ヴィラ北野より妖怪ホテルのほうが実像に近いもん。
「戻っておかんに強請れ。部屋あれば泊めてもらえるかもしれへん」
 サイドブレーキを解除して、俺は車をバックさせた。そのために後部座席を振り向くと、竜太郎はしょぼんとしていた。
「アキ兄の部屋に泊めてくれたらええやん」
「寝るとこない。ベッドが一個しかない」
「一緒でええやん。蛇と水煙とは一緒に寝てんのやろ」
 それが何でもないように、竜太郎は急ににこにこ愛想よく言うた。俺はもちろん、それに吹いてた。
「ないない、それはない。要らんこと言わんといてくれ。事故るから」
 焦ってそう言い、駐車料金を払うため、券をくわえて窓開けて、俺はゲートで車を停めた。
 快調に流れている車道に入ると、ラジオからは軽快に喋る男の声がしていた。高すぎず低すぎず、ええ声やった。耳心地がいい。話口調も綺麗やし、軽い神戸訛り。品はあるけど、お高くはなく、親しみやすい。ちょっと聞こかと人に耳を傾けさせる力を持った声やった。
 そんなんやからラジオのDJなんかやってられるんやろ。
 そんな明るい声やのに、喋ってる話は怪談やった。夏やからかな。リスナーからの投稿で、怖い話を集めて紹介してるんやとの解説が、前置きでついていた。
 怖い話って、俺は嫌いや。怖いからやない。どっちかいうたら引き込まれるからやねん。怖いことは怖いんやけど、怖いモン見たさというのか、それはほんまかと確かめに行きたくなるんや。
 遠い異国の怪談やったらええねん。それにはなんか現実味がない。
 でも、たとえば学校の怪談的な、ちょっと行けばそこが現場やという、そいうのが苦手。ほんまやったら困るやないか。
 俺にはな、見えるんや。ほんま言うたら昔から、俺には幽霊とか人外の、怪異が見えてた。見えてたけども、こんなもん見えるわけないわって、自分を騙してきたわけや。それでも実は見えてんのやから、怖くてたまらへん。
 怖いだけならまだええねん。取り憑くようなやつやとヤバい。触らぬ神に祟りなしや。
 それでも血筋の本能か、霊の仕業の怖い話には、首突っ込まずにおれん性分なんやろか。俺はラジオが話す怖い話なるもんを、結局聞いてもうてたわ。
 震災で亡くなった妻子の霊が出ると、そんな話やった。
 友達の友達から聞いた話なんやけどと、そんなありがちな前置きで始まる話。
 ある男が、最近できた彼女を家につれてきた。震災からもう十年が過ぎ、そろそろ立ち直って結婚しよかと思ったらしい。そして誰も居ない家の戸を開いたら、赤ん坊の泣き声がして、死んだはずの妻がいる。お帰りなさいあなたと、赤ん坊を抱いて呼びかけてくる。
 でもその母も子も、骨やねん。スケルトン。骸骨やねんて。
 男は十年目にしてできた新しい恋人を諦めた。そして自殺した。その家には今では、三つの骸骨が出るらしい。おとんとおかんと赤ん坊。三人家族のスケルトン。
 怖いですねえと、DJは何でもないように話した。死者が呼んでいる。おいでおいで、一緒に眠ろうみたいな。そんな話じゃないですかと結んで終わりで、次の話。
 俺はそれに渋面になっていた。そんな嘘くさい話あるか。
 ほんまにそんな霊が出たとして、おかしいやないか。なんで旦那が死ななあかんねん。せっかく助かったんやで。生きてるんや。生きていったってええやんか。生きてりゃ恋もするやろ。新しい相手ができたって、別に罪やない。悲しくてつらいけど、それが生きるということや。
 その霊は、鬼になってる。突然死んで、つらかったやろ。無念もあったろうけど、でも、なんで思えへんかったんやろ。旦那は死なんでよかったわって。元気で生きててよかったなあって、そう思うのが愛やないか。
 他人やねん。結局。どんなに愛してても、自分の死に相手を付き合わせる権利はない。生きてる人間は、生きていかなあかんねん。
 それを阻む鬼は、可哀想やけど、斬るしかないねん。もはや悪霊と化している。
 何とかせんとあかんかったで、その怪談、ほんまにほんまの話なんやったら、誰か何とかできたはず。そんな力のあるやつが、どこか近くに居ったらなって、俺はちょっと悔しい気になり、そして自嘲した。
 職業病って、こういうのかな。
 まるで神楽さんみたいやな。悪魔サタンを見たら、放置でけへん。助けなあかん、祓わなあかんて、そんなことで頭がいっぱい。
 あの人、今ごろどうしてんのやろって、ふと思い、それがいわゆる虫の知らせやった。
 パンツのポケットから出して、ダッシュボードに置いてた俺の電話が鳴った。誰か知らん番号やった。
 それでも敢えて出てみたら、それが神楽さんやった。
『本間さん。今どちらですか』
 切羽詰まったような声で、それでも努めて冷静ですという気配を漂わせ、神楽神父はいきなり訊いた。いつも通りの標準語やった。
「須磨です。親戚の子を水族館に連れてきて、その帰りです」
『来ていただけないでしょうか。六甲の、教会へ。剣はお持ちでしょうか』
 鞘を返すということかと、俺はぼけっと考えた。そんなん、もう、後でええねんけどな。水煙も、割と機嫌良く後部座席に納まっている。竜太郎となにか話してる。いかにも子守りという付き合い顔やけど、それでも不愉快そうではない。
 急いで剣に戻して、鞘に収めようかという感じでもない。
「鞘なら、神楽さん、次にお会いした時でいいですよ。お忙しいやろから」
 冷やかすつもりやなかったんやけど、そういう含みが自分の声にあるのを聞いて、俺は少々参った。この世界観、相当板についてきてる。世間的に見て、全然普通でない男同士の恋愛に、なんの拒絶反応もないんやけど、それでええんか俺は。
『忙しいです。実は今、教会の納骨堂に居りまして。そこに悪魔サタンが現れるのですが、全く勝ち目がありません』
 真面目に言うてる神楽さんの声に、俺は自嘲的ににやにやしたまま思考停止した。
 えっ。それ。ピンチ?
『どうも無理なようです。治癒能力は消えませんでしたが、悪魔祓いエクソシストとしての力は、もう全く無いようです。私が聖句を唱えても、悪魔サタンは全く畏れる気配もありません』
 それで。どうなったんですか?
『聖水で、結界は張りましたが、時間の問題かと思います。それで、どうしようかなと思いまして、ふと思いついたのが、本間さんしかいなかったので』
「なんで、俺の番号知ってはるんです?」
『訊いたんです。ホテルに電話して。すぐるさん……ではなく、中西支配人に』
 すぐるさんでええから。もはや今さらやないか。往生際悪い。教会行って我に返ったんか。ほんで、そこで大ピンチか。なにをやってんのや神楽さん。
『あのう。大変申し訳ないのですが、もしできましたら、増援に来ていただけないでしょうか』
「誰か……他にいます?」
 つまり増援ということやで。他にも居るんですよね、悪魔祓いエクソシストの人。
『いません』
 いないらしい。
「ほな、もし、俺が行かへんかったら、どうなるんです? 神楽さん」
『死にそうです』
 すごくまじめに神楽さんは答えてくれた。
 なんかもう。なんやろこの人って思った。
 ギャー、とか、何かないの。助けてえ、みたいな。もっとピンチであることが克明に伝わってくるような何か。俺が焦って今すぐアクセル踏み込むような何かがあるべきやんか。
「行くの?」
 亨が助手席から訊いてきた。
 行くんやろうなあみたいな、だるそうな言い方やった。なんやねん、そのジトっとした目は。行くに決まってるんやんか、それが人の道やろ。
「六甲教会」
 カーナビを指さして、俺は亨に操作するように言った。それはついつい癖で命令口調やったかもしれへん。それを聞く義理は亨にはもうない。それでも何も言わんと、言うこと聞いといてくれた。すまん。今度からちゃんと、お願いしますって言うから。
 目的地まで、約、二十分ですと、カーナビが俺に教えた。
「神楽さん、十五分で行くから……」
 頑張ってくださいねって、言おうかと思ったら、電話が切れていた。つうつう言うてる通話終了の音に、俺は一瞬ぼやっとして、それからゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
 しゃあないな。制限速度は目安や。虎がそう言うてた。それって。神戸ルール。きっと違うんや、京都と神戸やと、道路交通法が。俺は京都で免許とったし。神戸では、違うんやろう。
「どこ行くの……アキ兄」
 急に速度をあげた車に、びっくりしたらしい竜太郎が、シートから体を起こして訊いた。
「六甲や。悪いけど、つき合うてくれ。飛ばすから、口閉じとけよ」
 急ブレーキで、舌噛むかもしれへんから。
 俺はそのつもりで忠告したんやけど、そんな必要なかったわ。
 信号が、一回も赤にならへんかった。邪魔やな避けろと思った車は全部、道を譲った。まさに飛ぶようなスピードで、車は疾走していた。
 途中で見かけたスピード違反狙いのお巡りさんも、ちょっとすいません見逃してと俺が心で頼むと、その気持ちを分かってくれた。
 ようやった。俺も理力フォースの使い方がちょっと分かってきた。
 今こそ借りを返さななあかん。ロレンツォ・遥・神楽・スフォルツァに。俺を免停から救ってくれた男。その結果として、自分を救った男。もしも俺が免停食らってたら、絶対にこの時、助けに駆けつけられへんかったんやからな。
 まったく、情けは人のためならずや。なんでも自分に返ってくるで。おかんの言うてた通りやわ。昔の人はいいこと言うてる。
 車は六甲の坂を駆け上がり、タイヤを軋ませて、白い教会の建つ敷地の駐車場に滑り込んだ。俺って運転上手いなと、その時ちょっと驚いた。こんな無茶苦茶な走り方、やればできるもんなんや。
 めちゃくちゃ走る人々の、気持ちが全然分からへん。スピード出して何になるねんて、免許をとった直後から、ずっとそう思ってきたけど、なんで無意味にアクセル踏み込む奴がおるんか、今ちょっと分かった気がする。
 けっこう気持ちええやん。
「降りろ、亨」
 竜太郎どうしようと悩みながら、俺は運転席を出て、後部座席の水煙の、シートベルトを外しにかかってた。
「いや、無理。絶対ありえへんから」
 亨がシート越しに後部を振り返ってきて、怒鳴るようにそう答えた。
 命令口調が嫌なんか。こんな時にそんな細かいこと言わんといてくれって、俺は焦った。
「お願いします!」
「お願いされても無理やから。教会やでここ。絶対行かへん。これはトラウマやから。行かへんで俺は!!」
 亨はシートに齧り付いていた。俺はぽかんとそれを見た。
「な……なんで?」
「俺は蛇やで、アキちゃん。教会やら神父やらには悲しい思い出がたっぷり詰まってる。論外論外! 駐車場の時点ですでに論外やから!」
 別に全然平気そうやのに、亨は必死でそんなことを言うてた。平気そうやで、お前。めちゃめちゃ顔色ええやんか。行ってみたら行けるって。食わず嫌いみたいなもんやで。俺は悪魔サタンやない、蛇神やから、ちょっと通りますよみたいなノリでバーンと行ったらええやん。なんであかんの。
 せやけど亨を引き剥がして連れて行く間も惜しいぐらいやないかと思えて、俺は諦めた。
「水煙、剣に戻れ」
 俺の命じる言葉を聞いて、水煙は一瞬で剣に戻ってた。空気の抜けた人形が、しゅるっと引き戻されるような、目にも止まらぬ一瞬があって、きらきら輝く白刃を持つサーベルが、俺の手に収まっていた。
 その柄を握りしめ、俺は車のドアを閉じてロックをかけた。
「アキ兄、僕は!?」
 窓に張り付いて、竜太郎が焦って訊いたが、それを振り返る間もなく俺は教会の扉を目指して坂を駆け上がっていた。亨がおるんや、あいつに任せとこ。
 駆け込んだ礼拝堂の中で、にこやかに現れたこの前の神父さんに挨拶をして、俺は納骨堂はどこかと訊いた。神父さんはにこやかに教えてくれた。礼拝堂の地下にあると。
 でも、そこは今ちょっと立ち入り禁止であると、にこやかに言う神父さんには、水煙が見えてへんかった。神父や言うても、皆が皆、神楽さんみたいにはいかへんのやろ。
 電話で神楽さんに呼ばれたんやと言い置いて、ついてくるなと俺は神父さんを止めた。どうなってるやら分からんのやし。まさかと思うが、すでに神楽さんが生きてない可能性もある。その時どうなってまうんやと、一瞬嫌な予感がしたけど、それでも迷っている場合でもなかった。
 十字架の飾りのある木の扉をあけて、地下へ続く細い螺旋階段を駆け足で降りていき、そこにまたもう一枚あった扉を開くと、異界が俺を待っていた。
 神楽さんはそこに入るとき、戸口に蓋をしていたらしい。
 俺が遠慮無く開いた扉のせいで、封じられていた結界が破れ、中にあった暗い空気が、あっというまに漏れていこうとした。
 それはあかんと咄嗟の気合いで、俺はそれを引き戻した。どうやってやったんか、自分でもわからへんけど、漏れ出ていった暗い紫色の煙みたいなもんが、するする巻き戻されるように引き戻されてきて、俺の背後でばたんと扉が閉じた。
 似たような暗い紫色の渦が、ずらりと石のロッカーみたいなもんが並んでる部屋に充満していた。
 その、コインロッカーみたいな棚のひとつひとつには、人の骨が入っているらしい。つまり、ここは墓なんや。
 なんで遺骨がロッカーに入ってるんやろかと、俺は一時ぽかんとしてた。なんで墓の下に入れとかへんのや。そういうもんやないか、墓って。キリスト教の人って、死んだら石のロッカーに入ることになんのか。不思議や。いろんな世界がある。
「神楽さん!」
 感心している場合ではない。俺は電話してきた男の名を呼んだ。
 返事は返ってけえへんかった。
 もう死んでんのかと、背筋に嫌な汗が湧いた。
 落ち着けジュニアと、剣が話しかけてきた。その声を聞き、俺はちょっと平静さを取り戻した。
 奥やろ。何か骨のようなモンが居る。神楽遥も生きている。早う行っておやりと水煙が語り、俺はそれに頷いて、暗い障気がますます暗くたれ込めるほうへと足を進めた。
 骨のようなモンは、確かにそこにいた。
 神楽さんは、納骨堂の壁際の、かすかに光る水の輪の中に膝をついていた。怪我をしてるなと、見た目にも分かった。
 今日は最初に見た時と同じ、黒い僧服を身につけていて、胸には銀の十字架が、あることはあったけど、白いカラーが真っ二つに裂け、そこから始まる傷がずっと腹のほうまで開いてた。僧服が黒くなければ、それが血染めなのが分かったやろ。
 でかい爪で一閃されたような怪我やった。まるで神楽さんの前に立つ、ちょっと小柄な骸骨が、骨だけになった手を伸ばしてきて、神楽さんを捕まえようとしたような傷や。
 たぶんその通りなんやろう。骸骨の右手は血に染まってた。骸骨が血を流すはずはない。神楽さんの血なんや。
「神楽さん」
 もう一度呼ぶと、朦朧としたような表情で、神楽遥は俺を見た。ただもう跪くだけで、なにか戦ってるようには見えへんかった。何をしても無駄やったんか、まるで死ぬのを待ってるみたいや。
「そいつを斬ればいいんですか」
 どっから行こかって、俺は間合いを考えつつ、水煙を上段に構えた。
 場所は狭い通路で、石のロッカーの合間みたいなところやからな。壁までびっしり棚になってる。長いサーベルを振り回すような空間はない。剣を切り返せないから、一刀で頭から、一撃で決めなあかんかな。
 こいつは強い敵なのかと、俺は水煙に訊いた。
 いいや。大した敵やないと、水煙は答えた。
 お前にとっては、何でもない敵やと。
 これはただの、いかれた死者やと、水煙は俺に教えた。
 死んだ人間が、残した想いによって、化けて出てるだけ。一緒に死のうと誘っているだけのことやから、一刀浴びれば霧散する。そう強い怨念やない。苦い心残りみたいなもんや。
 せやけど鬼は鬼やから、切り捨てて浄めてやらな仕方がないと、水煙は俺にすすめた。迷わず行けと。
 そやから俺は斬ろうとしたんや。見ず知らずの死者やった。俺にとっては。勝呂を斬るのとは訳が違う。見た目は骨やし、どう見ても悪モンやったしな。迷いも薄い。
 ただひとつ、気になったのは、これは子供やないかということやった。背格好が、小さいし、竜太郎よりちょっと育ったくらい。まだ中学生か、高校入りたてくらいの背に見えた。
 なんでこんな幼い奴が、化け出てもうたんやろか。可哀想にと、俺は思った。神楽さんもそんな、哀れむ目をして悪魔サタンを見てた。悲しい、済まない、許してくれって、そういう顔をして。
 しかし手はない。一気に斬ろかと俺が踏み込みかけたとき、骸骨が口利いた。
ようちゃん……』
 明るいような声やった。
『なあ、どうしたん、遥ちゃん。なんで黙っとうんや』
 親しい友達みたいな声で、骸骨が神楽さんに話してた。もしも骨に肉がついてたら、きっとにこにこ笑ってるやろうみたいな声や。
『帰ってきたんやなあ。なんで俺んとこ、もっと早く来てくれへんかったんや』
 切なく責めるような口調で言われ、神楽さんは苦しいという顔をした。傷が痛むみたいやけど、心も痛い。そんなふうにな。
『なんで行ってもうたん。俺に意気地がなかったからか。それでイタリア帰ってもうたん?』
 切なそうに、骨は訊ねた。
「帰らなあかんかったんや。僕は病気やったんや。悪魔サタンが憑いてて、それで変やったんや」
 言い訳めいた畳みかけ方で、神楽さんは骨に詫びてた。詫びてるような言い方やった。それには神戸の訛りがあって、ちょうど気さくに語る骨と、親しく口を利くにふさわしい、地元の子供同士みたいやった。
 俺には想像がついた。この教会に毎日曜やってくる信者の家族。上の礼拝堂に並ぶ使い込まれた木のベンチで隣り合う家の子供同士が親しく話す。ちょうど今みたいに。
 それが片方、神父になってて、もう片方は骨になってる。それだけのこと。
『変ってなにが。ようちゃん、どこか変やったか。俺が好きやったこと? 鐘楼で、キスしたこと? それとも、他のこと?』
 けたけたと、骨が笑った。
 もう、斬ろうか、神楽さん。俺は聞いたら、まずい話やろ。骨と話しても、しょうがないしな。これはもう、鬼やし、斬るしかないねん。待っても今でも、結果的には同じやで。
悪魔サタンのせいやねん、ほんまにごめん。好きは好きやったけど、でも、自分の意志とは違うたんや。許してくれ」
 神楽さんにはもう、戦う気合いはないようやった。平謝りや。
『手紙も出したやろ……ようちゃん。読んでくれへんかったんか。死んでもうたんやで、俺は。地震で死んだ。それも知らんかったんか。薄情やなあ、ようちゃん。お前が口説いてきたんやないか?』
 首を傾げて聞く骸骨に、神楽さんは目を閉じていた。とても正視できへんと、そんな感じの苦痛の顔をして。
「斬りますよ、神楽さん」
 声をかけた俺に、神楽さんは、うんとも、あかんとも返事せえへんかった。ただ頽れるように床にへたりこんでいた。
 それの代わりに骸骨が、くるりと俺を振り向いた。
『斬らんといてくれ。ようちゃん迎えに来ただけやねん……』
 骨の顔の、何もない眼窩は、ただのがらんどうやった。俺はそれと見つめ合った。
「そうか。可哀想やけど、お前はもう死んでるんやしな。もう一緒に行かれへん」
 話したらあかんと思ったんやけどな、ほんまに餓鬼くさい声やったんで、俺はつい答えてやってた。
 神楽さんが神戸を離れたのは、確か、十歳の頃やと話してた。その時こいつは何歳ぐらいやったんやろか。十歳言うたら、小学生やで。それが悪魔サタンに取り憑かれて、口説いた相手が中学生か、それとも高校なりたてか。そんな無茶な話があるんや。
 それは親が慌ててイタリア帰るはず。家具を売ってる場合やないわって、おとんもビビってもうたんやろ。
 それでも悲しい話やな。自分は知らん、悪魔サタンの仕業やて言われて、ぽいっと捨てていかれたら。お前は別に正気やったんやもんな。
 敢えて問わへん。神楽さんには。でも思うんやけどな、神楽さんが十歳のとき、ほんまに悪魔サタンはいたんか。実はそんなもん、おらへんかったんやないか。強いて言うならこの人が、小さい悪魔サタンやっただけのことなんやないか。
 それを親や周りがビビってもうて、これは悪魔サタンの仕業やと、小さいようちゃんに教えた。お前は怪我や病気を治せるけども、それは神の奇跡やて。お前は男を誘惑するけど、それは悪魔サタンの仕業やて。偉いローマの坊さんに、そう教え込まれて、素直に信じたんやろ、神楽さん。そうでないと、生きていかれへんて、あんたもビビってもうたんか。
 それでも多分、あんたは元々、そういう人やねん。ずっと気づいてないふりしてただけで、ほんまはそういう奴やったんやって。男が好き。我慢してたんや。そうやなかったら、たった一夜で化けるはずがない。ちょっと抱かれて喘いだくらいで、また元の通りの悪魔憑きに戻った。そんなん変やろ。ほんまは元々、好きやったんやないんか、中西さんのこと。
 いずれにしても結果は同じ。もう戻らへん。過ぎ去った時も、死んでもうた者も。
ようちゃん連れて帰らせて』
 俺は鬼に頼まれた。これ欲しいって、神楽さんを指さして。
「お前が連れて帰ったら、この人も死んでまうんやで」
『なんであかんの。なんであかんの。なんであかんの』
 かたかた鳴るような声色で、骸骨は繰り返し俺に訊いた。なんであかんのかな。俺にもよう分からんのやけどな。
 でもたぶん、俺があかんと言わへんかったら、神楽さんは連れて行かれる。殺すなら殺せって、そんな顔して堪えてる、青ざめた顔を見てると、そういう予感がするんや。
 この人はたぶん、罪の意識があるんやろ。裏切って逃げた、そんなつもりで心が痛んで、この骸骨といっしょに行ってやったら、それで許されるような気がしてる。
 でもそうかなあ。果たしてそうか。それなら何で、俺に電話してきたんや。助けてくれって。それは何のためやねん。
 いろいろ頭の中で巻き戻してみて、俺は考えた。なるべく一瞬で。頭の中を猛烈なスピードでいろいろ過ぎった。今朝見たホテルの庭にいた神楽さんの、好きやっていう目。めろめろみたいな、そんな動転した顔で中西さんを見たときの、切なそうやった息遣い。
 あかんやろそれは。それで逝ったらあかんと思うで。だって、あんたは生きてんのやし。こいつは死んでる。あんたが殺したわけやない。なまずが殺った。地震のせいや。それは天地あめつちの仕業やで。誰の罪でもない。せやからその罪滅ぼしに、あんたが死んでも意味がない。
 それに俺に電話する前、あんたはまずあっちに電話したんやろ。すぐるさんに。助けてくれって言えばよかった。俺の電話番号なんか、のんきに訊いとらんと。今すぐ来てくれって泣きつくとこやろ。なんで俺やねん。それで正解やったけど、それでも俺のこと、好きでもなんでもないくせに。この骨のこと、死ぬほど好きでもないくせに、なんで心中しよかなんて、そんな適当なこと思うとんのや、神楽さん。逃げたらあかんやないか。そんなの全然、罪滅ぼしにならへんからな。
「死んでもええんか、この人が」
 俺は訊ねた。骨は動揺せんかった。それでも無理もない。餓鬼に分かるわけない。こいつにも罪はないやろ。ただ好きで、執着してた。それで化けて出てもうたんやから。
『かまへん。一緒にいたいんや。ようちゃん……一緒に死んで』
 骨は甘く誘うような呪いの言葉を吐きかけた。神楽さんはそれに、頷いたように見えた。
 これはもう鬼になってる。可哀想やけど、斬るしかあらへん。
「あかんで、許さへん。それはな、愛とは違う。ただの怨念や。恨むんやったら、俺を恨め」
 それでも好きは好きやったやろ。
 俺は振り上げた剣を握る手に力を込めた。骨は飛びつく勢いで、神楽さんの首を掴んだ。それが何をしようとしたのか、結局わからん。食らいつこうとしたのか、それとも抱こうとしたのか。でももう骨になってもうてる。キスしようにも唇がない。それが死んだということなんや。大多数の普通の人間にとって。
 水煙は一撃で骨を霧散する灰色の霧に変えた。闇にも輝く鋭利な白刃が、ばっさり肩から神楽さんの体も一閃したが、それは一滴の血も流させへんかった。神楽さんはまだ人の身で、水煙には斬られへん。それとも許さんかっただけかもしれへん。水煙も。
 飛び散るように振りまかれた骨の残骸を、水煙は吸い取りはしなかった。それは晴れ始めた紫色の濃霧を割って、天井にある明かり取りの窓から差し込む午後の陽に、きらきら光って溶けるように消え失せた。
 食わへんのかと、俺は訊ねた。
 食うたら恨まれそうやから、やめといたわと、水煙は答えた。怖い怖い。それにもうどうせ、とっくに死んでるような奴やから、食うとこないわと言う。骨だけになってるわ、って。
 それはたぶん、水煙の情けやろ。大阪では容赦なく食うてたで。こいつは優しい神さんではない。腹が減ったら飯を食う。鬼でも人でも何でも食らうんやけど、ほんのちょっとの気まぐれで、時々優しいことがある。
 きっと同情したんやろ。口ごもったまま死ぬしかなかった気の弱い餓鬼に。もうちょっと大人になるまで生きてたら、違う未来もあったかもしれへんのになあ。
 とにかく死んだ。突然死んでもうたんや。ぐらっと揺れて、突然死んだ。ほんで、それきり人生が終わりやったんや。無念やったやろ。納得なんかいくはずないわ。
 それがなまずという神のもたらすものの中で、一番恐ろしいところやった。突然の終末。大勢が一時に死ぬ。悪意のない自然のなせるわざやけど、それでも戦うしかない。こっちも大人しく死ぬわけにはいかへんのやから。生きてる限りは、明日も生きなあかん。
「帰りましょうか、神楽さん。怪我してる。病院行きましょうか」
 険しい顔してへたり込み、呆然としてる神楽さんに、俺は膝をついて視線を合わせようとした。どこ見てんのか分からんような青い目やけど、この時、神楽さんはほんまにどこも見てへんかった。ぼうっとしてた。
「どうすんのや、神楽さん。ずっとここに座ってるわけにはいかへんで」
 肩を揺さぶって、説教声で耳に話すと、はっとしたように青い目が俺を見た。なんで俺が神父に説教せなあかんねん。普通はこっちが説かれる立場やで。俺は悪魔サタンしもべになってて、あんたは悪魔祓いエクソシストで、俺を助ける言うてたんやから。
「どうしたらいいか分かりません」
 泣きそうな目で、神楽さんは俺を見た。可愛かった。若干な。
「どうしたらって、したいようにしたらええやないですか。帰りましょうか。なんで自分の傷は治せへんのですか。治せるやろ。俺も治せるけど、嫌やし。舐めなあかんから、そんなん嫌でしょ。俺は絶対嫌やから」
 くよくよ言うて、俺は神楽さんを立たせようとした。でもな、ほんまに腰抜けてたらしいわ。よっぽど堪えたんやろな。
「ええ……もう、担いでいこか。世話焼ける人やな、あんたは」
 なんで俺がそんなことせなあかんのやろ。赤の他人やし、俺のツレやないんやけどなあって、ますますくよくよしてきて、見るからに痛そうな胸の傷を見るにつけ、この際舐めとく? みたいな気がした。傷が痛くてへたってんのかなと思って。
「舐めます? 嫌やけど。あんたも嫌やろうけど……」
 どうしようかって、俺はほとほと困った目で訊いた。水煙がそれに、くすくす笑ってた。どうしようもないなジュニアと思ってたんかな。それともこの後の展開を察知してて、それで可笑しくて笑ったんやろか。
「舐めんといてくれませんか、人のもんなんやから。君には亨をやったやろ」
 めちゃめちゃ面白そうに言われて、俺はぎょっとした。
 中西さんやった。いつの間に来たんや、あんた。
 振り返ってみると、納骨堂の薄暗がりに、今朝見たスーツの男が立っていた。
「何か嫌な予感がしてなあ。飛んで来たんや。来てみてよかったなあ。本間先生に舐められるところやった」
 うっふっふと含み笑いして、中西さんはへたってる神楽さんの前に片膝をついた。
「どうしたんですか、神父様。えらい怪我してはりますけど。俺も怪我治せるらしいんですけど、試しに舐めましょうか」
 からかうような口調やった。もしかしてこの人も、実はけっこう照れ屋かと、俺は危ぶんだ。
 神楽さんが青い顔して、わなわな来てたからやねん。
「そんなん言わんとき。意地悪やなあ、そんな男やったっけ」
 亨の声がして、俺はまた、がばっと振り向いた。
 ああもう絶対嫌や、一刻も早く出たいという怖気だった顔をして、亨が石のロッカーの合間に立っていた。
 よかった。舐めんでよかった。神父舐めてるとこ見られたら、どんだけ怒られたやろって、俺はビビった。水煙舐めてたのも怒ってたしな、こいつ。ほんまは分かってたんやで。でもあれは俺のせいでできた傷やし、亨怒るし無視でええかみたいなのは、あまりにもひどいやろ。せやから治したんやけど、神楽さんの怪我は俺のせいやないから。それにもう一人、舐めていい人来たから。その人にお任せで!
「どしたんや、よう。痛くないんか」
 小声で中西さんは訊ねた。それに神楽さんはまだ真っ青な真顔をしていた。
「仕事どうしたんですか」
「どうって、ほったらかしやないか。早く戻らな怒られる」
 仕事の鬼は切なそうに答えた。
「じゃあ、なんで来たんですか」
 なんでって、と、誰もが思うことを神楽さんは訊いてた。それともそれは誘い文句で、答えてほしかっただけかもしれへん。
「お前が心配やったんやないか。その怪我どうしたんや。痛いやろ?」
 優しく訊かれて、神楽さんは顔を歪めた。そして何かに詫びるような、頭抱えた苦悩の姿で、やがて小さく、呻くように答えた。
「痛い……」
 甘えたような声やった。それにもう、カッチカチの標準語ではない。神楽さんはまるで、ちびっこい餓鬼みたいやった。そうやなあ、たぶん十歳くらいやないか。
 その幼げな、埃まみれでぼろぼろなってる灰じみた黒服の背を、よしよしみたいに撫でて、中西さんは宥めた。
「泣くな、俺が治したろ」
 神楽さんは、黙ってそれに頷いたけど、泣いてたかどうかまでは、俺には分からん。泣くほど子供やないからな。泣いていいなら泣くやろけど、それは今やのうて、もっと別の、他人の目のないところでやないか。
 そこでゆっくり時は巻き戻されることになる。十二年分の間違ったコースをバックで戻り、またやり直す。ほんまもんの人生を。神父でもなく、悪魔祓いエクソシストでもない、悪魔サタンしもべのコース。
 めちゃくちゃわざとらしく、亨が咳払いをした。
「行こか! アキちゃん! 俺は猛烈に胸くそ悪い。むしろ吐きそうや。きっと教会なんか来てもうたからや。ホテル帰ってめちゃめちゃやろか! お熱く抱き合って組んずほぐれつしよか! アキちゃん好きやて、めちゃめちゃ喘ごうか!」
 あてつけてるつもりらしかった。
 でもな。全然聞いてもらえてないと思う。中西さんは笑っていたけど、少なくとも亨のほうから眺めて、聞いてるようには見えへんかったやろ。
 さあ行こうって、亨はわざわざ俺の腕を引っ張りに来た。それに逆らう理由もなくて、俺は亨に連れられて、抜き身の水煙をぶらさげたまま、ずかずか階段を上らされた。
「ぐわあ十字架! 死ぬう!!」
 階段室を出たところで見えた礼拝堂の祭壇を眺め、亨は憎そうに叫んだけど、なんともないみたいやった。
「なんともないわ! 恐れて損した!」
 ぺって唾吐く仕草をして、亨は祭壇に背を向けた。
 そんなんしたらあかんのと違うか。悪魔サタン癖抜けてない……。
「あのおっさんな、突然来て、礼拝堂に特攻するんやんか。やめとけって俺は止めたんやで。死ぬかもしれへんやんか。俺ら悪魔サタンなんやで。十字架見ただけで、映画の吸血鬼とか、ぐわあってなってるやんか。あんなんなったらどないすんの。せやからやめとけって言うたんやで。でも行くらしいねん。心配なんやって、破戒神父が。仕事無視して来るやなんて……俺のためにそんなんしてくれたことない……」
 くよくよ悶えながら言って、亨は俺を礼拝堂から引っ張り出した。外はまだ明るい夕方の時刻やった。
 まぶしさに、俺は目を細めた。
「ほんま振られた。ほんまに振られた。悔しい。振られたことなんかないのに……」
 泣きそうな顔して、亨は俺に愚痴った。愚痴んな。俺も泣きたいわ。
「泣くな。俺が居るやろ。それで足りへんのか」
 泣きつく気分で、俺は亨に訊いた。亨は痛恨の顔やった。
「足りんことない。お腹いっぱい。アキちゃんがいてほんまに良かった。俺のこと抱いといて。何でか知らん、切ないねん」
 切なそうに言って、抱きついてきた亨を、俺は教会を背にしてぎゅうっと抱いた。俺も切ない。この浮気者。たぶんお互い様やけど。部屋に戻ったら、ぎったんぎったんにせなあかん。お仕置きせなあかん。お前が、もう死ぬって思うまで。今のこの、切ない気持ちが消え失せて、すっかり幸せになれるまで。
 抱き慣れた体の、甘いような肌の匂いがかすかに感じられて、俺はふっと安らいだ。亨もほっとしたような息で、俺の首に頬を擦り寄せてきた。
「アキちゃん……俺って……」
 なんやろ、キスしよかって、俺は亨の唇を探した。
「俺って最近ちょっと、恋のキューピッドさん?」
 情けなそうに言いながら、亨は俺とキスした。教会の鐘がリンゴン鳴っていた。平和そのもの。誰も見てへん。ああ、やれやれみたいな水煙と、車のそばでガーンてなってる竜太郎以外。それは誰も見てへんとは言えへんか。
 でも俺も、亨に甲斐性あるとこ見せようかって、思ったんやと思うわ。
 そうでもせんと勝たれへん。中西さんには。
 俺が助けたんやで。俺が助けたのに。なんでラストで全部持って行かれるんやろ。ほんまに悔しい。せやからせめて、話の最後は、うちのほうのキスシーンで締めようかなみたいなな。
 しかし戦いはまだまだ続く。まだまだ始まったばかり。
 神楽さんはこの後すぐ、教会に破門を願い出たらしい。それってつまり神父をやめるってことやで。退職届や。理由はもちろん、外道と結ばれるためやないか!
 せやから最初の結論なんや。神楽遥は俺の友達! そういうことやろ!
 教会はそれを許した。ただしなまずをやっつけて、予言された一連の出来事を見届ける仕事を全部やりとげたらという条件つきで。
 せやからハッピーエンドはまだ先やった。まだまだ先。まだまだ先や。これで終わりと思うなよ!
 解説は本間暁彦でした。論証終わり。いやあ友達っていうのはほんまにええもんですね。涙出てきます。それではまた次回、お会いしましょう。俺がこのモヤモヤ感から再起動したころに、また。


--------------------------
←Web拍手です。グッジョブだったら押してネ♪

作者あてメッセージ送信
Name: e-mail:  

-Powered by HTML DWARF-