SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

大阪編(7)

 とにかく俺は朦朧としてた。
 寒いのと痛いのと苦しいのとで、細かい事はあんまり憶えてへん。
 あいつに殺られかけたんは憶えてる。勝呂瑞希すぐろみずきや。あの犬畜生。とうとう正体あらわしやがって、汚らしい犬っころの分際で、俺のアキちゃん食おうとしよった。骨の髄まで疫病えやみに食われてもうて、並みの人間食らうくらいやと保たん、アキちゃん食いたいて思うたに違いないわ。
 俺は初め、そうなんやと思ってた。
 でも違うみたいやったで。あいつはどうも、本気でアキちゃんに惚れとるわ。心中しようと思ったんや。噛みついて病気うつして。
 いや、それもほんまは違うんかもしれへん。ただ、キスしてもらいたかっただけなんかもしれへん。自分がもうすぐ死ぬって分かって、どうしてもそれが心残りやったんやろ。
 分かるわ。その気分。俺も今回は若干死にかけた。あいつには、ほんまに散々やられたで。俺、ヤバいんちゃうか。実はこれ、マジで死ぬんやないやろかという予感がして、怖くて震えてくると、それでどうなるかなんて事は全然頭になくなって、キスしてくれってアキちゃんに頼んでた。
 怖くて寂しいねん。アキちゃんに抱かれてたい。死ぬんやったら、それはしゃあない。でも怖いし、悲しいから、俺が死ぬまで抱いといてほしい。死ななあかんのやったら、アキちゃんの腕ん中で死にたい。
 それはずいぶん贅沢やけど、惚れた身の本音のところやろう。
 あいつもそうやったんちゃうか。あの犬も、もう死ぬて思えて、怖かったんやろ。アキちゃんに、身も世もなく泣きついとったで。抱いてくれ言うて。俺も愛してくれて言うて。
 俺にはあいつが演じるお涙頂戴の愁嘆場が、全部聞こえてた。アキちゃんの声もや。聞こうと思えば俺は地獄耳なんやで。ご主人様のお言いつけどおり、コーヒー買いにパシらされながら、ぷんぷん怒って階段降りつつ、それでもどうにも心配でたまらんで、ずっと聞き耳立ててたわ。
 アキちゃんが俺を、好きやって言うた。
 そんなこと、他の誰にもたぶん今まで言うたことない。アキちゃんにとって、それは恥なんや。
 せやのに言うたで、あいつには。亨が好きやから、お前を抱かれへんて、そう返事してた。
 あいつはそれで、逆上したんやろ。もう殺さなあかんて、そりゃそう思うわな、俺のことを。
 殺しても、しゃあないんやで、勝呂瑞希。俺を殺っても、アキちゃんはお前のモンにはならへん。アキちゃんが好きなのは、俺やねん。俺を愛してる。お前やのうて。
 可哀想になあ、つらいやろ。俺もアキちゃんが俺やのうて、お前を愛してたら、どんだけつらいやろ。
 あいつにズタボロにされながら、俺はそういう哀れみと、勝利感に酔ってた。
 戦えって、アキちゃんは俺に命令せえへんかった。逃げろて言うてた。せやけど、あいつは俺を逃がしはせんかったで。アキちゃんやのうて、俺を食おうとしたんや。まあそれも、ひとつの手やな。人やのうて、他の物の怪を食うやつもおるわ。それ自体、命懸けやけど、もしも食えれば、ずいぶん精が付くやろ。
 せやけどそれも、俺の買いかぶりか。あいつはただ俺が憎うて、殺したかっただけかもしれへん。あいつは俺を、食いには来んかった。お前が憎いて言うてたわ。お前さえおらんかったら、アキちゃんとキスできたのに。抱いてもらえたかもしれへん。もしかしたら、愛してくれたかも。
 そうかもしれへん。アキちゃんはたぶん、あいつが好きやった。あいつが病気やのうて、人食いなんぞやっとらんで、ただあの可愛げのある顔で時たまにこにこするだけの犬やったら、アキちゃんはあいつのことも、自分のしきとして捕らえておこうかと思ったんやないやろか。
 それで時たま気の向いた時には、俺やのうて、あいつを抱いてやったかもしれへん。お前が好きやて言うてやったかも。いつか俺よか、こいつのほうが可愛げあるわて思うようになったかもしれへん。尻尾振ってついてくる犬が可愛いて、お前は亨より可愛いなあ瑞希って、名前呼んでやったかもしれへん。
 俺はそれが嫌やった。あいつに負けたくない。誰にも負けたくないんや。
 アキちゃんが俺以外のやつと抱き合うのは、絶対に許せへん。
 そうなるんやったら、しゃあない。アキちゃんがそうしたいんやったら、どうしようもないって、今まで自分に言い聞かせてたけど、けど現実に、そういうことを目の当たりにすると、耐えられへん。大人しく消えようなんて、これっぽっちも思わへんかった。
 ぶっ殺したる、犬畜生が。お前を殺して、アキちゃんも骨まで全部食うたるわ。誰にも盗られんように、最後の一欠片までアキちゃんを全部俺のもんにする。そんなことしたら、俺はきっと死ぬほど後悔するやろ。それでも、誰かに盗られるよりマシや。我慢でけへん。アキちゃん殺して俺も死ぬ。そういう狂気やで。
 でもそれを感じたんは、一瞬だけやった。一瞬あれば罪になるには充分かもしれへん。けどそんな醜い俺を、アキちゃんは好きやて言うてくれてたで。亨が好きや。大の苦手な蛇でもかまへん。お前のことは好きやけど、抱かへんて、あいつを拒んだ。抱いてやったら、俺より可愛いしきかもしれへん、可哀想にがたがた震えてたあいつを、拒んだんやで。
 俺は勝った。あいつに。
 体のほうはズタボロにされたかもしれへんけどな。それでも、あいつに勝ったと、俺は思ってた。あいつがどんだけ吠えようが、負け犬の遠吠えや。
 アキちゃんは、めちゃくちゃ痛めつけられて逃げ隠れしてた死にかけの俺を、ちゃんと探しに来てくれた。俺の正体目の当たりにしても、しっかりしろ亨、死んだらあかんて言うて、抱きしめてくれたで。そのまま抱いて、俺を連れて帰ってくれた。お前を助けるためやったら、死んでもかまへんて言うて、いくらでも血吸わせてくれた。
 俺は心ゆくまでアキちゃんを貪った。俺を愛してくれてるアキちゃんの血は、途方もなく甘い。それでのうても、アキちゃんは相当に力のあるげきなんやから、その血には旨味があったやろ。それがその上、俺を愛してるて囁いてくれる。最高の甘露やで。
 俺はアキちゃんの血を吸いながら、がたがた身震い来てた。ずっとイキっ放しみたいなもんやで。めちゃくちゃ気持ちいい。最高に幸せ。痛めつけられて流れ出た分の精気が、満ちてくる感じがする。
 今まで、いろんなやつの血を吸った。肉も食らったやろし、骨の髄まで舐め尽くしたやろ。それやとまずい、ほんまもんの化けモンになってまうと怖くて、空きっ腹をなだめながら、抱き合って我慢するので長い時間を過ごした間に食ろうてた、いじましいような愛も、全部流れ出たような気がする。
 そうしてできた空洞を、俺はアキちゃんの血で埋めた。俺は愛されてる。アキちゃんは俺を、本気で心底愛してくれてる。そういう力で満たして、俺は生き延びようとした。
 死にとうなかってん。アキちゃんが死ぬなて言うてくれた。俺を愛してる目で、ずっと見つめてくれた。その目と一瞬でも長く、見つめ合ってたかったんや。生き延びて、一日でも一時間でも長く、アキちゃんと抱き合ってたい。
 俺はそればっかり思って、それはもう、必死やった。必死でアキちゃんに縋り付いてた。
 水飲むか、なんか食うかてアキちゃんは心配して訊ねてくれたけど、そんなもん要らへん、抱いといてくれ、アキちゃんの血吸いたいて、俺は我が儘にそればっかり強請ってた。
 はっと我にかえったんは、三日後やったらしい。三日三晩そうしてたって、アキちゃんが言うてたから、そうなんやろ。
 何度目かの短い眠りから覚めて、アキちゃん好きや、血吸いたいて首を噛もうとして、気がついた。アキちゃんが弱ってんのを。
 そんなん、普通に考えて当たり前やった。血を吸う化けモンがとりついて、三日三晩も貪りつづければ、並みの人間やったら死んでるわ。アキちゃんが生きてたんは、力のあるげきやったからや。俺はアキちゃんから血を吸うてたけど、アキちゃんも何かから力をもらってた。それで生きてられたけど、それでもアキちゃんにとってそれは、朝飯前ってわけやなかった。
 今まで巫覡ふげきとしての修行らしい修行なんかしてへんねん。生来の才能だけの力業やったんや。俺を死なせたくない一心で、無茶して頑張ってくれたんや。
 気がついたらアキちゃんのほうが、よっぽど病人みたいやった。俺を抱いて、朦朧と眠ってたで。
 このまま続けたら、遅かれ早かれアキちゃんは死ぬ。そして俺だけ生き残るんやって、俺は遅まきながら唐突に悟った。きっと共倒れやで。
 そんなん嫌や。俺は死にとうない。でもそれは、アキちゃんと生きていきたいからやねん。アキちゃん死なせて生き延びても、意味ないんやで。
 トミ子おらへんのか、トミ子て、俺はあのブサイクな猫を呼んでた。自分もまだベッドから起きあがれんくらいやったけど、アキちゃんよりマシかと思えた。だって全然起きへんかったで、俺が腕の中で叫んでても、平気でぐうぐう寝とったわ。
 トミ子はもちろん家にいた。猫やしな、ひとりでフラフラ出かけたりはでけへんわ。
 そういえばお前も三日三晩もの間、誰にもエサも水ももらえんで、フラフラなんちゃうかと、俺はその時今さらながら心配になって、どんな恨みがましい猫が現れんのかと、内心不安やった。
 まさかと思うけど、もう死んでたりせえへんやろな。出がけにエサやっといたしと、そんなこと考えてると、寝室のドアがすうっと開いて、トミ子が入ってきた。
 地味な萌黄もえぎ色のかすりの着物着た、割烹着姿で。
 俺はその、猫やない、一応は人間の姿した、めちゃめちゃブサイクな太った女の格好のトミ子を、正直ドン引きして見た。
 お前。なんというブスやねん。言うたらあかんと思うけど、めっちゃブサイクやで。俺が今までの長い生涯で目にした女の中でも、超弩級のブスやわ。
 そら死ぬわ、世を儚んで。ブスやというだけの理由で自殺なんかする奴がおるかて、内心お前を理解してへんかったけど、これは死んでもしゃあないわと、俺はトミ子に同情した。
 お前、その顔で、面食いのアキちゃんと半年も半同棲したんか。犯罪やで。アキちゃん可哀想やと思わへんかったんか。姫カットの皮なんかかぶっても、あかんやろ。恥ずかしないんか。そんな本性隠して、アキちゃん騙したりして。
 俺は口を慎めない奴でな。その話をつい全部口に出してたわ。
 それでもな、ブスのトミ子は、フン、て、俺を小馬鹿にしたような鼻息ついただけやったわ。
「あんた人のこと言えるような立場やないわ。なんやのん、あの蛇は。うち、びっくりしたわ。暁彦君が大蛇抱えて帰ってくるやなんて」
 ぐったり眠ってるアキちゃんを、心配げに見下ろして、ブスは俺らの枕元に立った。ホラーやでこれは。ベッド血まみれやしな、こっちは裸の男ふたりで、立ってるのは割烹着でたすき掛けのブスやで、ホラー級かつ微妙な笑いもとれる絵づらやで。
「ほっといてくれ。蛇んときでも、割烹着姿のお前よりか、俺のほうがマシやで。むしろ美しいぐらいやと、今はじめて自信が湧いたわ。おおきにありがとうやで、トミ子」
 いつもの猫とやりあう調子で、俺は毒づいたけど、言い過ぎやったかなと、さすがに後悔した。なんせブスでも相手は女やからな。そんなん言うたら傷つくんとちゃうやろか。
 せやけどトミ子は俺の罵詈雑言にはもう慣れっこやったんか、ふふんと笑っただけやった。怖いから笑わんといてくれ。殺人鬼みたいやで。お前の笑ってる顔見ただけで、ショックで人死ぬで。
「暁彦君に、なんか食べさせなあかんえ。三日も、水も飲んでへんのやから。うちが持ってきたるさかい、あんたが食べさせてあげ。うち、姿見られとうないし」
「そうやろなあ……」
 俺は悪口のつもりはなく、同情して相づち打ったんやで。アキちゃん死ぬで、お前の姿見たら。
「そうやろなあ、や、ないわ。ふてぶてしい蛇やなあ、あんたは。三日も暁彦君閉じこめて、死ぬほど血吸うて、それでよく、アキちゃん大好きやなんてデレデレ言うわ。独りよがりなんやから」
 独りよがり部分を、トミ子はむっちゃ強調して言った。うるせえ。お前まで言うか。俺がうるさい件について。気にしてんのやで、これでも一応。せやけど我慢でけへんねん、アキちゃん上手すぎて。そんな話聞きたいか、聞きたいんやったら三日三晩でも惚気のろけ続けてやるで、俺は。
「せやけど、今さらでも気ついてくれて、よかったわ。ほんまにこの部屋に入られへんかったんえ。あんたが蓋してて。扉開くのは、あんたが死ぬ時やろと思て、うち嫌やったわ」
 ホラー顔をしかめて、さらにホラー度を増した憂い顔で、トミ子は可愛げのあることを言った。
 お、お前。可愛いやん。これでもし美少女やったらな、俺でもちょっと胸キュンやったで。目閉じて付き合えば、お前ってもしかしたら可愛い女なんとちゃうんか。
「そら、すまんかったな、心配かけて。でももう今すぐくたばる感じではないわ。足腰立たんでフラフラやけど、でも今日明日死にはせんわ。明後日にはどうか知らんけどな」
「そうか。しぶといなあ、蛇は。生皮剥いでもまだ生きてるて言うさかい、生き汚いんやろうなあ」
 むっちゃ嫌そうにトミ子は言った。どっちやねんお前は、俺に死んでてほしいんか、生きてほしいんか。
「アホなこと言うとらんと、アキちゃんに、なんか食うもん持ってきたってくれよ」
「まずは何か飲まなあかん。重湯おもゆ作ってあるし、ほの温いの飲ましてあげ」
 くるりと背を向けて、トミ子はしずしず出ていった。
 そして、キッチンで準備万端整えてあったらしい食い物を盆に乗せて寝室に運んできて、自分はとっとと姿を消した。ぱたんと扉が閉じて、にゃおんと猫の鳴く声がしたから、猫に戻ったんかもしれへん。
 あいつ、そんな隠し芸が。人の姿に変転できたんや。猫やないやないか。しっかり化けて出とるんやないか、トミ子。お前も大概しぶといで。もはや人間やないで。顔は元々そうかもしれへんけど、お前の存在自体も、もはや立派な化けモンや。
 せやけど、そんなツッコミ入れてる場合やない。
 俺は自分を抱いてるアキちゃんを、やんわり揺り起こした。強く揺さぶるつもりやったけど、へろへろすぎて、結果やんわりやってん。アキちゃんは簡単には起きへんかった。それでも執念ぶかく、ゆさゆさしてると、やがてうっすらと目を開けた。
「どうしたんや、亨。腹減ったんか。俺が寝てても、気にせんと血吸ってええんやで。なんかな、眠いねん……」
 貧血なんやろ。アキちゃんは白い顔して、また目を閉じそうやった。
「もう血吸わんでええねん、アキちゃん。俺、元気になったわ」
 なんや説得力のないフラフラ声やったけど、俺はアキちゃんを安心させようと思って、できるかぎり元気そうに、そう言った。それにアキちゃんは、うっすら笑った。
「そうか、よかったな」
 むっちゃ影薄いで、アキちゃん。その力ない微笑に、俺は猛烈に焦ってきた。死なんといてくれ、アキちゃん。死にそうやで。どう見ても死臭キャラやで、今のアキちゃんは。そんなんあかん。死んでる場合やないで。
「重湯あるし飲み。なんか食べへんとあかんわ。水も飲んでないんか。あかんでアキちゃん、人間なんやから」
「お前が離してくれへんかったんや……」
 お前それは、めちゃめちゃ励んでもうた日の朝かみたいな事を、アキちゃんは弱々しく言った。
「起きられるか。俺が抱えてやろか」
 心配して俺が訊くと、アキちゃんは苦笑した。
「なんで俺がお前に看病されなあかんねん。逆やろ」
 せやけど客観的に見て、アキちゃんのほうが介抱される側やでっていうような様子で、アキちゃんは自力で起きた。
「なんで裸なん、アキちゃん」
「お前が脱げって言うたんや。寒いから、裸で抱いてほしいって」
 そんなこと頼んだんか、俺は。
 確かに部屋のクーラーは切れていた。むちゃくちゃ暑いんやないやろか。アキちゃんはじわっと汗をかいてた。それでも俺は、ちょっと寒いような気がして、ほんまはアキちゃんとくっついてたかった。
 せやけど抱き合うてたら、飯食われへんからな。
 俺は我慢して、ベッドの脇の椅子にあった、おかんがくれたバスローブを羽織った。なんでこんな時にお役立ちやねん。ただのタオル地やのに、それは暖かい気がした。
 アキちゃんも、素っ裸はどうかと思って、俺がバスローブ着せてやった。
 大人しく着せられてたアキちゃんは、ものすごく頭痛いという顔してた。今まで着たことなかったんや。嫌やったんやろ。恥ずかしいて。でも今は、やめろて振り払う気力もないんやろ。
「自分で食えるか。手伝ったろか」
 俺はそんな弱々しいアキちゃんが可哀想になってきて、おかん並みの過保護口調やった。
「いらんわ。自分で食うから」
 アキちゃんは嫌そうに拒んで、重湯の入った椀をとった。湯気の立ってないそれは、別に熱くはないみたいやった。ひとくちぶん腹に入れてから、アキちゃんはため息ついてた。たぶん美味かったんやろ。
「お前も飲めよ」
 俺を心配してんのか、アキちゃんは椀を回してきた。俺が飯食う必要ないの、忘れてるんかな。
 要らんて言おうかと思ったけど、アキちゃんは心配そうやった。それに、それはどうも命令っぽかったんで、俺は黙って飲んだ。
 喉が焼けるように痛んだ。とても飲めたもんやない。
 俺はその痛みに顔をしかめて、アキちゃんに椀を返した。
 なんやねんこれ、トミ子。毒でも入れてあるんとちゃうやろな。
「どしたんや。熱くはないやろ」
 喉を押さえてうなだれてる俺に、アキちゃんはぼんやりと、心配そうな声で訊いてきた。
「喉痛うて飲まれへん」
「風邪でもひいたんか……」
 うっすら顔をしかめて言って、アキちゃんは黙り、そしてさらに険しい顔になった。
 それを見ながら、俺も眉間に皺やった。
 そうや。忘れてた。あいつ、狂犬病なんやで。その病気の犬に、俺は噛まれた。せやから俺も感染したんや。その後、どうした。俺、アキちゃんにめちゃめちゃキスしてもらったで。あれって、いつ頃から他人にうつるようになるんや。アキちゃんにもうつしてもうたんか、結局。
「やばいな。でも、とりあえず、食うもん食おか」
 アキちゃんはしかめっ面で、実際的なことを言うた。腹減ってるんやろ。
 ゆっくり黙々と、アキちゃんはトミ子が作った重湯を飲みほした。
「お前な、寒い寒いて言うてたわ。出血のせいやと思いこんでた。今も寒いか」
 からになった椀を盆に返して、アキちゃんは訊いた。
 俺はアキちゃんには嘘がつかれへん。仕方なく、こくりと頷いた。
 アキちゃんは、それに頷き返してきて、ベッドに座ったまま、俺を抱き寄せた。
「心配せんでええで。俺がなんとかしてやるからな」
 肩にもたれさせた俺の頭を撫でて、アキちゃんは守るような口調で俺に囁いた。アキちゃんの体も、熱くはなかった。不吉な感じに冷えた、ほのぬくい体温やった。
「人を食ったらええのか。俺を食うてもええんやで」
 アキちゃんは真面目に言うてるらしかった。思い詰めてるらしい気配がして、俺は胸がつらくなった。
「食うても無駄やで。ちょっと生き延びるだけや。病気治さへんかったら、遅かれ早かれやで。それにアキちゃん食い殺してまで、生きとうないわ」
「どうしたらええんや……」
 俺の顔を上げさせて、アキちゃんは悩んでるふうに、じっとつらそうに俺の目を見た。俺の頬を撫でるアキちゃんが、キスするつもりやないかと思えて、俺は顔をそむけようとした。
「キスしたらあかんで、アキちゃん。俺、病気みたいやから」
「もう今さらや」
 逃げ腰の俺を引き寄せて、アキちゃんはキスしてくれた。触れた唇は温かかった。
 そのキスに、案外長く唇を貪られながら、俺は幸せやった。
 そして、ふと思った。あいつもきっと、こういう気分になりたかったんやろう、って。アキちゃんに抱きしめてもろて、キスしてもろて、心配いらんで俺が助けたるって、言うてもらいたかった。
 あいつ今ごろ、どうしてるんやろ。どっかでもう、死んでんのか。それとも、まだ生きてて、死にかけてんのか。ひとりで。
 あいつは相当に、弱ってたと思う。可愛い顔に出てる、アキちゃんには見えてないらしい死相を眺めて、俺はいい気味やと思ってた。ほっといてもこの犬は死ぬ。遅かれ早かれ、俺の勝ちやって。
 思えばそれは、ひどい考え方やったな。
「亨、死なせへんで。お前を抱きたい」
 うっとりしてる俺の首を優しく揉んで、アキちゃんは力なく口説いた。
「でも今は、ちょっと無理やな。また後で……」
 切なげに苦笑して、アキちゃんはまた俺を抱き寄せ、唇を開かせて舌入れるキスをした。それが物凄く官能的で、俺はうっとり陶酔して震えた。寒いのに、アキちゃんに抱かれてキスされてると、まだ自分の体のどこかに熱があるような気がする。
 早く元気になって、アキちゃんに、めちゃくちゃ激しく抱いてもらいたい。アキちゃんができるんやったら、今でも別にええんやで。激しく混じり合いたい。夢中になって抱いてほしい。俺の中で気持ちいいって言うて悶えてるアキちゃんに抱かれたいねん。
 なんでそんなこと思うんやろかと、俺は恥ずかしかった。ほとんど死にかけまで弱って、今だって実際元気ないのに、その、まだ脆そうな体で、俺はぼんやり欲情してた。
「抱いてほしい、アキちゃん……」
「抱いてるやん、今も」
 唇を触れあわせたまま、アキちゃんは俺を諭すような口調やった。
「俺の中に、入れてほしい。もっとくっつきたい」
 幻惑する声で囁いて、俺はアキちゃんの体に触れた。そこはもちろんまだ、興奮なんかしてへんかったで。そんなことするような気分じゃなかったんやろ。疲れて、弱ってて。
 そこを何とか頑張ってくれっていうのは、俺の我が儘や。俺っていっつも我が儘やねん。アキちゃんは嫌やて言うてんのに、抱いてほしいてなったら、もう我慢でけへん。アキちゃん欲しいて迫って強請って、無理矢理にでも抱かせようとする。なんでそこまでお前はやりたいねんて、アキちゃんはいつも不思議がってた。
 なんでやろ。俺も別に、毎度やりたいわけやないんや。迫って強請ると、アキちゃんが、しゃあないなて言うこときいてくれる。アキちゃんも俺が欲しくなって、強く抱いてくれる。深く押し入られて、それがすごく気持ちいい。そうやって抱き合ってると安心する。その感じが欲しいだけやねん。
 責められると気持ちええんやけど、極まりそうになると、いつも我慢してる。もう終わるんかて、寂しくなってきて、もうちょっとだけって、引き延ばしたくなる。ゆっくり長く抱いててほしい。永遠に終わらなくてもいい。ずっとアキちゃんが俺の中にいて、気持ちいいのを我慢して、それでももうこらえられへんて言う、その瞬間が、ずっと続けばいいって、俺は思ってる。
 でもその時はほんの一瞬やねん。せやから何回もやりたいんや。その瞬間をもう一度味わいたくて。
 アキちゃんに自分を押し倒させて、俺はキスしながら、アキちゃんの体をなぶった。嫌やとは言わへんかったけど、アキちゃんは乗り気では全然なかった。そうやけど、俺にはたぶん、人を誘惑する力がある。俺が欲しいて、みんな思うらしい。
 俺の指に口説かれて、アキちゃんはかすかに興奮した息遣いやった。キスやめんといてて頼んだら、ちゃんとキスしてくれた。
「無理やで、亨。今はやめたほうがええよ。お前も弱ってるんやし、無理やで……」
 無理やって、拒む口調やけど、アキちゃんは少し、欲情してきてた。その手応えが嬉しい気がして、俺はもっと執拗にアキちゃんを責めた。
「弱ってるから、したいねん。俺のこと好きなんやったら抱いて」
「めちゃくちゃ言うな、お前はほんまに……我が儘な奴や」
 苦笑して言い、アキちゃんは俺の手加減のない愛撫に呻いた。
「入れるだけでええねん、アキちゃん。どうしても無理やったら、別にいかへんでええねん。交わって、抱き合いたいんや」
 それが出来るようになるまで、もう一押しやと思った。
 血を吸えば腹は満ちるけど、それだけやと満たされない飢えが、俺にはある気がする。他のやつなら別にいい。血吸えれば美味いし満足する。足舐めてご奉仕してくれたら、別にそれでええんや。俺が気持ちよければ、それでよかってん。
 でも俺は、藤堂さんが本気でちょっと好きやったで。アキちゃんに会う前やしな。誰か本気で俺を愛してくれるやつはおらへんのかって、寂しかった。みんな欲から俺を抱きたいだけで、本気やない。俺に操られてるだけ。打算があるだけ。人より運が欲しいだけ。そういう欲に付け込んで、人を下僕に仕立てるんが、俺の性分らしいから、そこに文句言うのはおかしいんやけど。
 なんで藤堂さんは俺を、抱いてくれへんのやろ。愛してるってめちゃくちゃ突いて欲しい。なのになんでこの人は病気なんやろ。俺を抱きたいって思うこともあるけど、体がついていかへんのやって。
 そんな情けない下僕を、俺は憎んでた。俺は舐めると御利益のあるご神体か。実際そうかもしれへんけどな、俺にも心はあるんやで。俺も寂しいんやないかって、誰も心配してくれへんのか。
 するわけないわな。俺に踏みにじられて。それでも欲しいご主人様で。有り難みはあっても、他人やねんもんな。他人というか、お前はしょせん化けモンやろていう、そういう事やな。みんな人間の家族がいて、そっちのほうがええんや。
 藤堂さんにとっては、俺は生命維持装置。よく効く薬で、その効き目に味しめて、ハマってただけ。どうでもええねん、ほんまのところは。俺やのうても、同じ効き目の薬があれば。俺でないといやか、って訊ねたら、そうだというやろけど、俺はそれを信用できない。どうせ嘘やって思ってた。
 けど、たぶん、今まで悪かったんは、全部俺のほうやったんやろ。お前はどんだけ俺を愛せるんや。何を貢げるんや。血でも肉でも差し出せるかって、ぶんどることばっか考えてて、自分が相手に何かしてやりたいって思ったことなかった。
 アキちゃんが初めてや。抱いてほしい、寂しいて、飢えてたところに現れて、慣れてなくても激しく貪ってくれた。それが気持ちよくて、抱かれると安心できて、ずっと傍にいたかった。
 突き詰めるとそれは単に、アキちゃんの血筋の力かもしれへん。物の怪をとっつかまえて使役する、そういう力なんや。
 けど、それにとっつかまえられて、俺は幸せやった。なんも悩まずに、アキちゃん好きやって、デレデレしてられた。抱いて欲しいて、そればっかり思って、深く考える余裕もなかった。
 恋しててん。月並みやけど。ご奉仕させてって、骨抜きにされて、キスしてもらっただけで嬉しいて震えてきて、そういう気持ちが、胸に熱かったんや。その熱に、ずっと酔ってた。なんで好きなんか、その理由が、だんだん関係なくなってくる。ただもう、ひたすら好き。そういう自分の感情に、涙出そうになる。
 アキちゃんはそれに応えてくれて、照れながらでも、俺に惚れさせてくれる。お前が好きやて言うてくれる。何の力があるわけでもないと信じてた、普通の人の俺を、何の見返りもなくても、愛してくれる。どう見ても人間やない、化けモンみたいな俺でも、平気で抱いて、血まで吸わせてくれる。心配せんでええよって、抱いて撫でてくれる。戦わんでええから、逃げろて命令してくれる。
 そこまでしてくれた人、今まで長く彷徨ったけど、アキちゃんしかおらへんかったわ。
 そんなアキちゃんを、俺は貪りたい。そして、そんなアキちゃんに、貪られたい。だから抱いて欲しいんや。一体になって、貪り合いたい。永遠にずっと。
「入れて、アキちゃん。ちょっとでええねん。できるやろ」
 アキちゃんの喉元に顔を埋めて、俺は力一杯甘えた。
「できるやろ、って……しんどいわ、俺は。すでにもう死にそうや」
 俺にめちゃめちゃ虐められて、アキちゃんは困ってた。体力なくて我慢が効かへんのか、アキちゃんはもう震えが来てるらしかった。
「入れて平気なんか、お前は。こんなんで死んだら、アホそのものやで。救いようないで」
「大丈夫や、俺は。アキちゃんに抱いてもろたほうが力が湧くんや。それにアキちゃんも、俺の飲んだら精力つくで。もう一回やろかって思うぐらいかもしれへんで」
 耳元で囁いて教えてやると、アキちゃんは痛恨の表情をした。
「そういうことか……」
「無理かもしれへん。まだそこまでパワー回復してないかも。でも試してみる価値はあるやろ。もし上手くいったら、気持ちええし、元気は出るしで、一石二鳥やで」
 俺はちょっと本気でそう思ってた。
 アキちゃんは黙ってた。それでも抱き合って、俺が誘惑するのを拒まへんかった。
 冷えてた体が熱いような気がした。裸で抱き合いたくなって、俺が脱いでると、アキちゃんは愛しそうに俺にキスをした。
 アキちゃんも脱がせてやって、そのままキスして愛撫してると、アキちゃんはしばらくして、ものすごく熱い、呻くような溜め息をついた。
「……なんでつんやろ。ほんまにしんどいのに。俺ってどこまで好きやねん」
 自虐的に言って、アキちゃんは苦しそうな顔で、俺の首筋に唇を寄せた。
「しゃあない、それは俺の力やからな。俺が本気で誘えば、死にかけ男でもむらむらするんや」
 因業なんやでと、耳に囁いて教えると、アキちゃんはその息遣いも、ぞくぞく来るらしかった。
「お前は悪い蛇や。俺を死ぬほど心配させて。ちょっと元気出たら、すぐこれか」
 感じるところを責められて、アキちゃんは眉間に皺やった。つらそう。でも気持ちいいはずや。たまらんて、そういう顔してたけど、それでもアキちゃんはしばらく耐えてた。
 けど、それも、ほんのちょっとの間のことや。
「入れたい、亨」
 囁くような小声でねだって、アキちゃんは俺を抱きしめてきた。
 俺は震えた。嬉しくなって。
「どうやってやろか、アキちゃん。しんどいんやったら、俺が上に乗ったろか」
 やる気ないアキちゃんと無理矢理にでもやりたい時には、俺はいっつもそうしてた。跨って犯してでもアキちゃんとやりたい。そういう切ない時が時々あってん。
「そんなんせんでええねん。疲れるやろ」
 説教臭く渋々言って、アキちゃんは俺に、背を向けさせた。横たわった背に、アキちゃんが体を合わせた。触れる肌がもう熱い。それに俺は、うっとり来てた。気持ちいい。
 俺の首筋にキスしながら、アキちゃんは俺の体を開かせた。切なくなってきて、俺は喘いだ。早う、ひとつになりたい。
「アキちゃん、好きや。もう入れて」
 俺は誘惑したけど、アキちゃんは耐えた。痛い目みせたくない言うて。
 やっと入れてもらえた頃には、俺もじっとり汗かいてた。愛されてる気がして、体に細かい震えが走った。アキちゃんが俺の手を握っててくれた。
「平気か、亨。苦しいことないか」
「苦しい。気持ちよすぎて……」
 ほんまに苦しかった。愛し合うのって、体力要るんやて、その時初めて知ったで。早く元気になりたい。
「やめとくか」
「やめんといて」
 身を退こうとするアキちゃんの手を強く握って、俺は引き留めた。
「突いて、アキちゃん。俺のこと、愛してくれ」
 激しくやってほしい。俺がそう頼んでも、アキちゃんはしばらく迷ってた。きっと俺を、心配してくれてたんやろ。アキちゃんは優しい。俺を抱くとき、そんな心配してくれる奴はおらへんかった。みんな欲に目がくらんでて、独りよがりに貪る奴ばっかりやったで。
 それが嫌やて、ずっと思ってたのに、アキちゃんにはそれを、やってほしかった。お前が欲しいてたまらんて、むちゃくちゃ激しく愛してほしい。
 アキちゃんが、無事でよかった。あいつに連れていかれなくて、ほんまによかった。
 首をそらせて、キスを求めると、アキちゃんはキスしてくれた。身を悶えさせて、行為を求めると、アキちゃんは迷いながらでも、ちゃんと抱いてくれた。
 アキちゃんが甘く呻く声を、俺は耳元で聞いた。それは何より感じる愛撫やった。はあはあ喉が喘いで、焼けるみたいに痛んだけど、俺はそれを隠し通した。つらいて言うたら、アキちゃん止めてしまうやろ。
「あかん……俺、弱いみたいやわ。良すぎて、もう我慢でけへん」
 それが恥かしいみたいに、アキちゃんはつらそうに俺に頼んだ。自分だけいくけどいいかって。
「我慢せなあかんで、アキちゃん。俺もいかせて……」
 いつもみたいに。
 アキちゃんはそう言う俺に頷いたけど、朦朧としかけてた。愉悦が極まってきてて、苦しいみたいやった。日頃は声をこらえるアキちゃんが、堪えきれへんのか、切なそうな息を漏らしてた。
「あかん、もう、ほんまに無理や。ごめん」
 アキちゃん、あかんでと、俺は囁いたけど、アキちゃんはもう聞こえてへんかった。あかんでと、自分の口の中でだけ繰り返したけど、アキちゃんに激しくやられて、俺も朦朧としてきてた。
 アキちゃんの夢中の腰使いに、うっとり来たんや。実はちょっと、気が遠くなりかけてたかもしれへんけど、激しく貪られて、それはそれで幸せやった。アキちゃんが喘ぐのが、嘘みたいで、いつもこなんふうに、夢中で抱いてくれればええのにって思った。
「ああ……もういく。亨、愛してる、死なんといてくれ」
 譫言みたいに喘いで、アキちゃんは感極まった。ああ、あかん、ひとりでいったら、俺はまだやでって、突き上げられてのけぞりながら、俺は泣きそうやった。気持ちよくて。アキちゃんが俺の中で震えてるのを、うっとり酔って感じてた。ものすごく気持ちええんやって分かるような、アキちゃんの声を聞きながら。
 でもこれで、また終わってもうた。もう一回て頼んだら、アキちゃんは無理やって拒むやろ。いくらなんでも、もう終わり。
 それが嫌やて、ぼんやり切なくなってた俺の首筋に、まだ震え続けたまま、アキちゃんがキスしてきた。
「あかん、あかんわ、我慢でけへん……」
 呻くみたいな陶酔した声で、アキちゃんが言った。なんのことやろって、俺は振り返ろうとした。
 そして首筋に鋭い痛みを感じて、俺は悲鳴をあげた。痛かったからもある。でもそれ以上に、ものすごい快感やってん。アキちゃんが、俺の首に噛みついてた。噛んでる。なんで噛んでんのって、俺は震えながら思った。
 アキちゃんが俺の、血を吸ってる。そうとしか思えへんかった。
「あぁ……やめて」
 俺は啜り泣いて喘いだ。正直こん時の声は自分でも恥ずかしかったで。よくそんな可愛い声出るわみたいなな。我ながら、ようやるよ。
 けど、それくらい、気持ちよかってん。アキちゃんが、血を吸われるのは案外気持ちいいって言って、全然嫌がらずに吸わせてくれてたけど、それがなんでか、その時わかった。めちゃくちゃいんや。汗まみれでイくのとは、またちょっと違うけど、とにかく腰抜けるような快感なんやで。しかも俺はちょっと、感じやすいほうらしい。
 俺、こんなん初めて。血吸われるなんて、想像もしてへんかった。
「アキちゃん……やめて、俺、もう、死んでまうよ」
 ほんまに死ぬかもしれへんて、俺は思った。それくらい気持ちよかったし、ヤバかった。だって、こっちはやっと回復したところなんやで。献血するほど元気やないで。
 アキちゃんはその声で我にかえったんか、慌てたみたいに、俺の首に突き立ててた牙を抜いた。そして口元を覆って、ベッドにくずおれてた。気持ちよかったんやろ。血の味も、すごく甘くて、うっとりしてたんやろ。分かるよ、それ。俺もアキちゃんの血吸うと、恥ずかしいくらい陶酔してる。
「ごめん、俺、今お前に何したんや……」
 口を覆ってた掌を見て、そこに血がついてるのに気づいたアキちゃんは、まだ小さく震えてた。
「血吸ったんや。別にええよ。この際、そのほうがええから」
 俺はアキちゃんを励まそうと思って、なるべく大したこと無いみたいな口調で言った。
 でもそれは、どえらいことやった。人間が人の血吸うわけない。アキちゃんには牙なんかなかったやろ。俺にもないけど、血吸いたいって極まってくると、勝手に伸びてくんねん。
「アキちゃん、この三日の間に、俺の血舐めたんか」
「分からへん。憶えてないけど……連れて帰ってきた時に、お前が血吐いて、そのままキスしたかもしれへん」
 俺から顔をそむけたまま、アキちゃんは動揺した声で答えてきた。
「そうか……それは、迂闊やった。もう、あかんわ、アキちゃん。めちゃめちゃ混ざってもうてるわ」
 もはやお前は蛇の眷属やで。
 どないしよ。アキちゃん怒ったら。こんなんいやや、耐えられへんて、悩んだら。
 俺と同じになって、ずっと一緒に生きるんやと、アキちゃんは嫌か。
「顔見せて」
 まだ繋がってた体をほどいて、俺はアキちゃんのほうに寝返りを打った。見られたくないような、見てもらいたいようなっていう、怖いもん見たさの顔で、アキちゃんは困ったふうに俺と向き合った。
 どんな顔してるやろって、俺は怖気立つほど緊張してた。
 でも、アキちゃんの顔見て、俺は思わず、淡い笑みになってた。
 いつもと大して変わらへん。いつもの難しい顔や。俺の大好きなアキちゃんのままやった。
 それでも俺を見つめる目だけが、金色に光ってた。蛇みたいに細った、針みたいな瞳の。アキちゃん欲しい、愛してるって、感極まって血吸いたい時の俺の目と同じ。
「どうしたんや。どんなふうになってんねん」
 アキちゃんは嫌な予感がするっていう顔になり、なんも言葉が出てこんようになってにやにやしてる俺を押しのけると、ベッド脇にある目覚まし時計をとって、その鏡面を覗き込んだ。
 そして、うっ、と呻いたけど、それはちょっと、寝坊してもうたみたいな声やった。
「何やねん、これは」
 やってもうた、みたいに、アキちゃんはまた呻いて、目覚まし時計をナイトテーブルに戻すと、くよくよした表情で、俺を抱きに戻ってきた。
「ヤバいで、これは。ほんまにヤバい……」
 大事そうに抱いた俺の背を撫でてくれながら、アキちゃんはぶつぶつ悔やんでた。
「何がヤバいんや、アキちゃん。ごめんやけど、俺にももう、元に戻してやられへんで。けど、死ぬわけやない。て、いうか、どっちかっていうと、簡単には死なれへんようになったんやで。成功してたら、俺と同じで、ちゃんと自己管理してる限りは半永久保証ライフや」
「お前って……いわゆる吸血鬼なんか」
 知らんかったんかという質問を、アキちゃんは今さらしてきた。鈍いわ。今はじめて、それ思ったんか、アキちゃん。
「そういうふうに呼ぶやつもおるな。けど、血吸うやつは珍しないで。まあ基本やから。吸うても、それで即死はせえへんやろ。牧場の牛の乳絞るみたいなもんなんとちゃうかな」
「牧場の牛……」
 呆然と、アキちゃんは繰り返した。まあ、なんや、俺に日々、いろいろ搾り取られるからな。気が遠くなったんやろ。
「あかんかな……アキちゃん。俺と永遠に、一緒に生きていくのは、嫌か」
 恐る恐る、俺は訊ねた。訊きたいと思ってたことを、やっと訊いた。
 アキちゃんは、頭の中でそれをシミュレーションしてるみたいに、しばらく抱き合ったまま黙っていた。ずいぶん長い考え中やったで。いったい何年分、計算してるんやろ。
「嫌やないけど」
 アキちゃんは口ごもった。嫌やないけど、何なんや。
 俺は焦れて、抱擁をゆるめさせ、アキちゃんの顔を見た。トホホみたいな顔やった。
「嫌やないけどな、亨。俺きっと、おかんにめちゃめちゃ怒られるんやで」
 何言うてんの、アキちゃん。
 俺はちょっと、ぽかんとした。
 それ、重要な問題なんか。おかん怒る事が、人間やめることより重要か。
 えっ。なにそれ。アキちゃんて、マザコンやなあって思てたけど。ほんまに猛烈にそうなんとちゃうんか。おかん怒るかどうかが人生の基準か。
 俺。やっぱり俺は、あのおかんとも戦わなあかんのか。アキちゃんは俺のもんやって、あの、おかんと?
 ……それは無理やろ。怖すぎやで、あの人。絶対勝たれへんで。
 そう思って震えてきた俺は、同じくビビリ顔のアキちゃんと、どないすんねんという目で見つめ合った。
 そして、コンチキチンと電話が鳴った。
 うわあと隠しようもなくビビった声で、俺とアキちゃんは叫んだ。
 おかんや! おかんの着信音!
 どこや、俺の電話どこなんや。ごめんなさい、怒られる。やってる最中やのうて良かった。トラウマになんで。アキちゃん二度とたへんようになる。
 そんな訳わからんことでアタフタしながら、俺は床に落ちてた血まみれの服ん中から、祇園囃子を鳴り響かせてる自分の電話を拾い上げた。それも血まみれやったけど、もう赤黒く乾いてて、まるでシャア専用状態。けど壊れてないらしい。だって鳴ってるしな。
「も、もしもし?」
 思わず、いい子声作って、俺は電話に出た。
『亨ちゃんか。あんたは何をしてますのんや。どないなってますのん、三日も四日も連絡つかへんと』
 明らかに怒ってる声で、おかんはビシビシ言った。受話器から漏れてくる声だけで、アキちゃんは顔面蒼白になってた。貧血のせいやないで。血吸った後は、顔色良かったんやで。おかんにビビってんのや。
『アキちゃん出しておくれやす。いるんですやろ。無事なんか。舞を何遍もそっちに遣ったんえ。それでも最上階に入られへんいうて、泣いて帰ってくるんどす。電話も今の今まで、ちいとも繋がらんかったんえ』
「そ、そうなんか……」
 アキちゃん、代わってくれって、俺は目で合図したけど、アキちゃんは無理やていう顔で、ふるふる首を横に振った。あかんて、代わってよ、アキちゃん。逃げてもしゃあないやん。ていうかお前はそんな情けない男やったんか。さっきまでの甲斐性ありそうなお前はどこへ消えたんや。
「あああアキちゃんな、今ちょっと……トイレかな。電話に出られへんねん」
 しどろもどろに誤魔化す俺に、おかんがムッとしたような気配を送ってきた。
『隠し立てしても無駄どすえ。あんたら三日前に京都駅に行きおしたやろ。人が落ちたて、えらい騒ぎどす。どっちが落ちたんや。あんたやろな、アキちゃんやないやろな。はっきりお言いやす』
 返事する間もなく問いつめてるくせに、さっさと返事しろて、おかんは激怒してた。
 おかん、ほんまは知ってんのとちゃうの。人が落ちたて噂に聞いて、それが俺かアキちゃんやて思うのって、変やんか。誰か全然知らんような赤の他人かもしれへんて、普通は思うもんやろ。つか、俺やったら落ちてもええんか。鬼や、おかん。
「俺やけど、全然平気やないんやで、おかん。死にかけやったんやで。今かて元気ってほどではないんや。まあ、なんつか、おかんには言いにくいような理由で、今だいぶ回復してはいるけど、一時的やで、たぶん。俺な、病気うつされてもうてん。可哀想やろ。俺のことも心配してえな」
『あんたが鈍くさいだけどす』
 きっぱりと、おかんは怒った声で言った。
 ひいい。なんの優しさもない。
 俺、アキちゃんのしきでよかった。おかんに使役されて永遠に生きたりしたら、地獄そのものやで。
「アキちゃん、アキちゃん助けて。俺、おかんに、自業自得やみたいに言われてる」
 ベッドに身を起こしかけたまま固まってるアキちゃんの青い顔に、俺は助けを求めた。
『やっぱり居るんやないの。暁彦に代わりなさい』
 ピシャーンとおかんは命令口調で言った。これはもう逆らえへん。巫女姫さまのご命令やで。いくらご主人様やのうても、こんだけ強いやつに頭ごなしに命令されたら、俺かてフラフラんなるわ。
「無理や、亨。お前が話せ」
 完全逃げ腰態勢で、アキちゃんは命令してきた。
 ええ。そんな。板挟みやんか。
 おかんも並みやないけど、アキちゃんのほうが強かった。なんせ俺のご主人様やし。
 それでしょうがなくなって、俺は半泣きで電話に戻った。
「あのな、おかん。アキちゃん今話せへんねんて……」
『なんでですのん。あんたら今、どういう状況なんどすか。正直にあらいざらいお言いやす』
 うちのほうが強いえみたいな気合いを見せて、おかんは電話越しにまた命令してきた。
 正直にあらいざらいか。言ってええのか。
 俺は半泣きのまま口を開いた。
「どう……って。京都駅行ったらな、勝呂瑞希すぐろみずきが居ってな、やっぱりあいつが犬やったんやで。アキちゃんとふたりで話すて言うから、俺はいややて言うたんやけど、アキちゃんがお前はコーヒー買うてこい、あっちいけて命令するもんやから、俺もしゃあなかってん。それで急いでコーヒー買いに行ったけどな、店が混んでたんや。しゃあないよ、それは、俺のせいやないもん。横入りするわけにいかへんやん? それで戻ったらな、アキちゃんが勝呂瑞希と抱き合うててな、今にもキスしますみたいな感じになっとんねん」
 俺が正直にあらいざらい話してるのを、アキちゃんは、ぎゃあやめろみたいな顔で真っ青になって見てた。でも無理やで、これは。俺の意志やのうて、使役されてるんやもん。嫌なら何か言うて、おかんに対抗しろ、アキちゃん。ぱくぱくしとらんで。
「ほんで俺も慌ててもうてな、やめろて言うてん。そしたら勝呂瑞希がキレて、俺に襲いかかってきよったんや。せやけど、アキちゃんが戦えて言うてくれへんもんやから、俺も棒立ちになってもうて、それで、コテンパンに伸されたんやで。ボコられたうえ、おまけに駅ビルから突き落とされるしやな、散々やったんや。ほんまに死にかけたんやで、おかん」
『でも今、元気やないの』
 あっさり流すおかんは引き続き鬼やった。
 俺は心で泣きながら頷いた。
「う、うん……まあ、今はちょっと元気やけどな。さっきまでは元気やなかったんやで。アキちゃんと一発やったんで、なんか元気出てるねん。しんどいなりに、三日ぶりやったからかなあ、アキちゃん、めちゃめちゃ溜まってたみたいやったで。ものすご一杯出てな、満腹満腹ごちそうさまやったわ」
 電話と話しながら、俺は、アキちゃんてこんな、今にも死にますみたいな顔できるんやて、冷や汗だらだらかいて思ってた。死にますていうか、お前を殺すっていう顔やったんかな。ちょっと前に死なんといてくれて言うてた、優しいアキちゃんはどこへ行ったんや。ベッドの下に落ちてんのか。
『あほらし。そんだけ元気がおありやしたら、うちが心配するようなこと何もないわ。ほんなら、何も変わりはないんどすな』
 ぷんぷん拗ねて、おかんは訊ねてきた。
 俺はまた、ああ、どないしよて思ったけど、あらいざらい話せていう命令は、まだ有効やった。
「変わりはあんで。あのな、おかん、怒らんと聞いてや。アキちゃんな、俺の仲間になってもうてん」
『なんやて』
 おかんの声が豹変してた。
「俺の血がな、体に入ってもうたんや。それでな、ちょっとなんて言うか……人間やめかけてる? もう、やめてる? みたいな?」
『はっきりお言いやす!』
 がつんと強く言われて、俺は、はいはいと泣きながら返事した。
「アキちゃん、俺の眷属になってもうてん。ごめんやで、おかん。堪忍してや。でも見た目は普通やから、さっきまで目の色が金色やったけど、今はもう元通りやで。俺のこと、いまいち愛してないみたいや。顔、真っ青なんやで。これ、ビビってんのかな。それとも、めちゃめちゃ怒ってんのかな。両方かな。おかん、どう思う?」
 アキちゃんが完全に無反応やったんで、俺は泣く泣く、おかんに訊いた。
『そら、嫌われても仕方あらしまへん。せやけど、まあ、よろし』
 まあええんか、おかん。息子が人間やめてもかまへんのか。
『元気なんどすな、ひとまずは。それなら、よろしおす。あんたの病気はどうなんや、亨ちゃん』
 急にちょっと、優しいような声になって、おかんは訊ねてきた。まるで俺のおかんみたいやった。
 今までガミガミ言われた反動か、俺はそれに猛烈にほろりと来た。
「喉痛い。寒いし。しんどいわ、おかん。俺、どうなるんやろ。ほっといたら死ぬやろか、勝呂瑞希みたいに? 頭おかしなってきて、人食うようになるんかな。そんなん嫌やで。なんとかしてえな」
 めそめそ泣きつくと、おかんは電話口で、おお、よしよしと言った。
『うちが今からそっちへ行きますよって、心配せんでよろし。舞にやったみたいに、うちを締め出したら、もう親でも子でもないて、アキちゃんに言うといておくれやす』
 さあ、話は終わりましたえと、おかんは電話を切る様子やった。俺は頷いて、話を終えた。
 電話が切れて、ツーツーていう終了音が繰り返されてる中、俺は呆然通り越して抜け殻みたいになったアキちゃんに目を戻した。
「アキちゃん……おかんがな、もう親でも子でもないて、言うといてて」
 俺は、おかんの最後の指令を全うした。
 それを聞いて、アキちゃんは頷いた。いや、うな垂れたんか。頷いたまま、戻って来いへんし。
「亨……」
 シーツを見たまま、アキちゃんはやっと、低く籠もった声でつぶやいた。
「なんや、アキちゃん」
 恐る恐る、俺は答えた。
「俺はな、お前が好きや。それはな、変わらへんで。でもな、今ほどな、お前を殺したいと思ったことはないわ」
 うつむいたまま話してるアキちゃんが、どんな顔してんのかなって、俺はビビった。もしかして、般若みたいな顔なんとちゃうか。鬼やで。
「さっきお前が死にそうやて言うてたときに、気絶するまでやっときゃよかったな。可哀想やて思ったんが、運の尽きやったわ。今後はお前、気失うまでやるからな。覚悟しとけよ」
 いやあん、そんな、どういう意味やろ。
 なんて、思おうとしたけど、どうも甘いような意味やないで。
 俺、お仕置きされるんとちゃうの。なんかそういうニュアンス感じたで。そこまでやったら愛しすぎみたいなのか。それは楽しみやけど、アキちゃん。めっちゃワナワナしてんで。大丈夫か。
 あんぐりして、俺がベッドについてた手を、アキちゃんが急にがしっと掴んできた。
 そしてじっと俺を見上げ、ふうっと長い静かなため息をついた。
「元気なんか、亨。ひとまずは」
 険しい顔で、アキちゃんは俺を見てた。
「う、うん……ひとまずは。今すぐ死んだりせえへんよ」
「そうか……良かったわ。ほんまに良かった。俺、ちょっと、疲れたし寝るわ」
 ほんまに疲れた。限界まで疲れて、ほっとしたみたいな顔を、アキちゃんはしてた。がくっと力尽きて、ベッドにまた横になると、それがそのまま寝顔になってた。
 もしかして三昼夜、寝てなかったんちゃうかと思った。眠ってるように見えてたけど、どっかで気張ってて、寝てるんやなく、気失って朦朧としてただけなんちゃうか。
 すうすう寝てる顔見てると、アキちゃんは子供みたいやった。
 どうしようかと思ったけど、俺はアキちゃんに布団かけてやって、寄り添って横になった。
 アキちゃんが今、暑いのか寒いのか、わからへんかった。俺は寒かったからや。
 ああ、良かった、おかん来てくれるんやわって思ったら、急にまた強い寒気がしてきた。アキちゃんはじっとり寝汗かいてて、たぶん暑いんやろう。真夏の京都で、クーラー切ってんねんから。ほんまは暑うてたまらんはずや。
 それでも、ぶるぶる震えてくるぐらい寒気がしてきて、俺は必死でアキちゃんにくっついてた。そしたら、ぼんやりした力が漏れてるみたいで、寒気が紛れた。
 アキちゃんの胸に擦り寄って、俺は丸くなって眠った。眠りながらでも、それがもう癖なんか、アキちゃんは俺の体を抱いてくれた。暑いし離れろなんて、文句言わへんかった。
 寒いなあて、俺は心細かったけど、それでもぼんやり幸せでもあった。アキちゃんが、抱いててくれるからやろ。
 寝室の扉が、すうっと開いて、黒いブサイク猫が入ってきた。
 俺はそれを目では見てへんかったけど、化けモンどうしや、気配でわかる。
 あんた、死にかけてんのとちがうかて、黒猫が俺に訊いた。
 そうかなあ、ブスはそう思うんかて、俺は訊いた。
 そら、さぞかし、ええ気味なんやろ。俺が死んで、お前はアキちゃんとふたり、この部屋に棲む。猫やけど、抱いてはもらえるやろな。アキちゃん、猫好きやろし。俺がおらへんようになったら、代わりにお前がこうして、抱いて寝てもらえるかもしれへんで。
 せやから、はよ死ねて、ほんまは思ってんのやろ。足掻いとらんと、さっさと弱って死ねばええのにって、指折り数えてんのやろ。
 俺は寒気に震えて、アキちゃんに縋り付きながら、そんな恨み言を猫に語りかけてた。
 ブスは黙って、それを聞いてたけど、やがて答えてきた。
 うちはなあ、亨ちゃん。勇気がなかったんや。暁彦君に、ほんまのこと言おうなんて、全然思わへんかった。どうしたら嘘がばれへんやろ、暁彦君好みの可愛い綺麗な女として、ずっと取り憑いてられるやろって、そのことばっかり思ってたんえ。
 せやけど、結局そんなんは続かへんかった。人様の体借りて、嘘ついて、そんなんして愛されようなんて、甘いんやわ。
 言うてみればよかったわ。あんたみたいに。うち、ほんまはブスやねんて。それでも好きやて、泣いて頼めばよかったわ。振られたかもしれへんけど、振られへんかったかもしれへん。
 そうやろ。
 ブスは、俺に同意を求めてきたけど、俺は笑って答えた。そうやろか、って。お前はそうとうなブスやで。アキちゃん気絶したかもしれへんで。通信不能で、振られたんか、振られてへんのか、わからん状態になったかもやで。
 俺がそう言ってからかうと、ブスはうっふっふと笑った。
 そうやねえ、そうかもしれへん。とにかくもう、終わった話やわ。今さら後悔しても、後の祭りえ。せやけど亨ちゃん、あんたに情けがあるんやったら、いつか折見て、暁彦君に伝えてくれへんやろか。大学のな、倉庫に、うちが描いた絵の軸が、あるはずやねん。その絵を、見てもらいたいのや。
 うちは、自分がブスなもんやから、綺麗なもんが好きやった。せやから、綺麗な絵ばっかり描いててん。それが浅い、小娘の描く絵やて悩んでな、あほやったわ、うちは。自分がいいと思ったもんを、信じて生きればよかった。なんにもなくても、うちには絵があったのに。なんでそれを忘れてもうたんやろ。
 ブスのトミ子が、どんな絵描く女やったか、いつか暁彦君に見てもろてほしい。よろしゅうお頼み申します。
 そう言うて猫は、眠りに入る俺に、ぺこりと頭を下げた。猫ってお辞儀できるんや。
 それにお前、なんやそれ、遺言みたいやんか。何回死ぬんやトミ子。最初は自殺して、次は姫カットもろとも雲散霧消。次は猫のお別れか。二度あることは三度あるってやつか。やめとけ、そんなん。三度目の正直やったら、どないすんねん。
 まさかまた自殺でもするんか。命を粗末にしたら、あかんのやで。
 俺、お前にかまわず、アキちゃんといちゃいちゃしすぎたか。もしそうやったら、ごめんやで。これからはお前にもちゃんと気遣うし、怒らんといてくれ。お前ももう、俺とおんなじで、ここの家族やないか。俺がおらんようになるかもしれへん、この時に、お前までおらんようになって、どないすんねん、トミ子。アキちゃん可哀想やて思わへんのか。
 俺はけっこう必死で呼びかけてやったんやけど、猫は答えへんかった。
 それで仕方なしに、俺は眠った。今はとにかく眠って、力を蓄えるべき時や。少しでも長く、アキちゃんの傍にいられるように。
 寄り添って眠ると、暖かかった。せやけど、着実に何かが自分を蝕んでる気配がした。それがじりじり正気を食らう。いつか俺も、そう遠からず、アキちゃんを傷つけるような羽目になるんやろかと、俺は思った。もしそうなら、出ていかなあかん。
 なんとかしてえな、おかん。早う来てくれ。アキちゃんから俺を、とりあげんといて。
 ぼんやりした夢の中で、俺はそう願った。


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