SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

京都編(4)

 アキちゃんと出会って二週間目に突入した。そして、年末年始進行にも突入していた。
 大掃除をする言うて、アキちゃんは朝っぱらからキッチンを片付けまくっていた。寝起きからちょっと気持ちいいことしようなんて、そんな甘い話はぜんぜん無かった。
 何で掃除なんかすんのと、俺が訊ねると、アキちゃんは起き抜けからいきなり喧嘩腰で、大晦日だからや、お前は大晦日も知らんのかと、まだ裸で布団にこもって、ぬくぬくしていたい俺を、風呂に叩き込んだ。
 もちろんそこでも、ちょっと気持ちいいことをしようなんて、そんな甘い話はぜんぜん無しや。
 アキちゃんはどうも、川原で俺といちゃついたことを、相当に後悔しているみたいやった。近寄るとバイ菌でもうつるみたいな潔癖さで、あっちいけと俺を拒み、お前は風呂の掃除をしろと命令口調やねん。
 それをどう思う。俺は、つれないと思う。
 そして、風呂の掃除をさせるところが、無神経やと思う。
 居候なんやし、真面目にお掃除くらいさせていただこうかなあと気合いを入れ、排水溝の掃除をしたら、にょろーっと長い女の髪の毛が出てきて、俺はそれだけで相当に萎えた。いろんな意味で。
 アキちゃんはここに半年もの間、あの姫カットの女と半同棲状態だったらしいから、そりゃあほんの一週間と一日前に別れた女の髪がここにあったって、別に変やない。
 金持ちのくせにケチなのか、アキちゃんは清掃業者を部屋に入れるのを嫌がってて、いつも自分で掃除をしていたらしい。それでも、バーで酔いつぶれたアキちゃんを俺が連れて帰ってきてやった時、この部屋はかなり綺麗だった。
 けど今はどうも、惨憺たる有様らしい。掃除なんかしてへんかったからや。
 お前は日中ここにいて、いったい何をやってたんやと、アキちゃんは掃除してない自分のことは棚上げで、俺に説教した。それはどうやら、俺がアキちゃんの留守の間に、掃除しとけば良かったんちゃうかという話のようだった。
 俺に掃除しろ言うやつは生まれて初めてや。
 正直なところ、俺にはちょっとショックやった。やっぱりアキちゃんは俺のこと、下僕やと思ってる。お役に立ってナンボやと、思われてるのかもしれへん。
 だったらヤバいんちゃうか。掃除も料理も洗濯も、生活に必要なあれこれは、みんなアキちゃんがやっていた。俺はそういうことが全然できないわけやない。ただ怠けてただけ。だって俺、アキちゃんのお客さんやもん。それにアキちゃんは俺のことが好きなんやから、俺に尽くしてくれるはず。そういう気でいたんや。
 人はみんな俺に尽くしてくれるものというのが、俺の基本的なスタンスやった。だって実際そうやったから。通常、誰かが俺を好きということは、喜んで俺の足でも舐めるということやった。にこにこ笑って、ちょっと付き合ってやれば、大抵のやつは何でもしてくれたし、一晩シーツの間で一緒に暴れれば、金でも戸籍でもなんでも用意してくれた。
 現代の日本は、IDのない奴には住みにくい世の中や。だから俺は保険証も持ってるよ。免許は持ってへんけど、それには訳がある。俺は写真に写らへん。鏡とか、ビデオカメラにも駄目なんや。だから写真の要るIDは作らせたことない。
 名前も適当なでっちあげで、戸籍を作ってくれたおっさんが考えた。本当の名前が他にあったか、もうよく憶えてへん。亨という名で、かなり長いこと通してた。それも自分の名だという自覚が、実はあんまり無かったんやけど、この一週間、アキちゃんが俺の名を呼ぶのを聞いていて、俺にも人間らしい名前があって良かったと思った。
 なんかこう、満たされる。アキちゃんが、イクときに、俺の名前を呼ぶのを聞くと。
 うふっ、と思って、俺はまたひとりでデレデレしていた。そしたら、バーンと風呂場の扉が開いて、鬼みたいな顔をしたアキちゃんが立っていた。
「サボってたやろ、亨」
「さ、さぼってた……ごめん。でもな、アキちゃん、排水溝の掃除してたらな……」
 俺は怖くなって、しどろもどろに言い訳しようとした。
「言い訳すんな。ちんたらやってる暇ないで。俺は今夜は実家に帰らなあかんのや。松の内は嵐山に居るから」
 松の内。それって、七日までってことやんね。最近の人やから。まさか、旧暦で十五日までとかじゃないよね。どっちにしろ俺は、その間、どうしてたらええの。
「お前はどうするんや。どっか帰るところがあるんか」
 アキちゃんは、むっとしたようなしかめっ面で、訊きにくそうに訊いてきた。
「ないよ、そんなん。俺、ここに居っていいんとちゃうかったん」
 またその話に戻るのかと、俺はちょっと青ざめてきた。喜んだと思ったら、またどん底まで叩き落とされんのか。アキちゃんの芸風は激しいなあ。
「居ていいよ。でもな、掃除してて突然気づいたんや。お前、ひとりで十五日も暮らせるか?」
 十五日!
 俺は唖然として、あわあわ喉を喘がせた。
 なんで旧暦なん、アキちゃん。お前ほんまに現代人か。今時の世の中、正月なんて、三が日過ぎたら仕事やで。コンビニなんか元旦から開いてるんやで。みんな正月そっちのけで働いてるんや。
 それなのにアキちゃんは、十五日まで正月気分を貪って、俺をここに放置していこうっていうんか。その間、一目も会われへんのか。それでアキちゃんは平気なんか。なんて薄情なやつや。
「し、死ぬんちゃうか、俺は……」
 本気で涙目になってきて、俺はかすかに鼻声になってた。アキちゃんはそれに神妙な顔で頷いた。
「そうやなあ。さすがに十五日はな。お前は料理もできへんのやろ。うっかりしてたわ。これから食料とか水の買い出しに行ってきてやるから、お前は真面目に掃除してろ」
「ちょっと待ってアキちゃん、そうやないで、そういう話やないやろ」
 風呂場のドアを閉めて行こうとするアキちゃんにびびって、俺はドアに取りすがった。アキちゃんは全然分かってない顔で、怪訝そうに立ち止まって、けっこう必死な俺の顔と向き合った。
「寂しくないの、俺と十五日も会われへんのやで。十五日言うたら、アキちゃんと会ってから今までより長いんやで」
「そうやけど……」
 アキちゃんは照れを隠してるような曖昧な顔をしてた。脈があるんかと思って、俺は期待して言葉を待った。
「まあ、平気やろ。俺、絵描かなあかんし。三が日明けて大学が開いたら、帰りに時々寄るから」
「来るんやったら俺も連れて行ってくれたらええやん。アキちゃんが絵描いてる間、おとなしくしてるし」
 昼間だけでもと、俺はドアノブを握っているアキちゃんの手を握った。
「あかん。お前が来ると、邪魔やから。家でおとなしくしてるか、行く宛があるなら、どっか行ってたらどうや」
 アキちゃんは本気らしい口調で、そう言った。俺はますます、あわあわしてきた。
 俺は、本当なら、どこにでも入れるはずやった。鍵がかかってても関係ない。だけど何でかこのマンションには入られへんねん。何か結界みたいなのが張り巡らしてあって、最上階のアキちゃんの部屋を守ってる。その結界に、俺は異物と思われてるらしい。
 だからアキちゃんと手を繋いでじゃないと、出たり入ったりできへんみたいや。アキちゃんは相当鈍いんか、それには気づいてない。俺が単に恋しくて手を繋いでると思ってるらしい。まあ、それもあるけど、でもうっかり外か中に取り残されて、目には見えない壁みたいなのに引っかかってジタバタしてるところを見られたら、ほんまにヤバい。アホかと思われるだけじゃすまへんで。
 中にいるとき、俺は実質、ここに閉じこめられてるんや。アキちゃんが連れ出してくれへんかったら、たぶん干上がってしまうよ。食いもんや水なんかあっても、俺には関係ないねん。美味いもん食うのは好きやけど、でもそれで命を繋げるわけやない。人の精気を吸わなあかんねん。
 えらいことになった。正直に話さなかったばっかりに、まさか死ぬような目にあうなんて。
「ほんまに、来てくれる? 十六日まで一回も来ないなんてこと、ないか」
「わからへん。集中したいねん、今描いてる絵に。もうちょっとで仕上がるわ。たぶん松が取れる頃には。そしたらお前にも見てもらいたいから」
 そう言うアキちゃんは、なんとなく恥ずかしそうだった。何か仕込んでるらしい。何やろ。すごく気になるけど、俺が今いちばん気になるのは、それを見ることもなく自分が散り果ててるんやないかという嫌な想像やった。
 それが、猛烈に怖い。自分が消え失せるんやないかと、考えたことはあんまり無かったけど、でも怖くはあった。それで永遠に命の尽きないように、いつも誰かを貪ってきたんやで。有り余るほど力を付けても、それでもまだ怖いような気がして、もっともっとって、いつも貪欲やったんや。
 せっかくアキちゃんが、ずっと居ていいって言ってくれたのに、それがたったの一週間やったら、どうしよう。俺は死んでも、死体なんか残らへんと思う。綺麗さっぱりいなくなった俺が、どこかへ出ていったんやと思って、ここへ戻ってきたアキちゃんは、また傷つくやろう。
 そんなん、あんまりや。
 しかもそれが、たかが年末帰省のためやなんて。アホか。アホすぎる。
 俺はいっそ、言うべきなんやないかと、脂汗が出てきた。
 アキちゃん、俺は実は人間やないねん。人の精気を吸ってる妖怪みいたなもんです。だから十五日もここに閉じこめられたら死んでまう。お願いやから時々えっちしに来てください。欲を言えば連れてってください。実家に泊めるのが無理やて言うなら、俺はどっかのホテルにでも泊まってるから。
 と、そこまでシミュレーションして、やっと気づいた。そっか、そうやった。俺も外泊すりゃあええんや。アキちゃんに追い出されたくないばっかりに、この部屋の自縛霊化しかけてたわ。
「あのな、アキちゃん。ちょっと待ってて。俺、電話してくるし」
 そそくさとアキちゃんの横をすりぬけて、俺はもの凄い早さで脱衣所を走り抜けた。洗面台のあるそこには、でかい鏡があるからだ。それに俺が写らないことを、アキちゃんに気づかれるわけにはいかへん。いつも上手く誤魔化してきたけど、かなりスリルある。そうまでして一緒に風呂入りたいというのも我ながらどうかと思うんやけど、それはまあ仕方ない。アキちゃんが、やってるとこ鏡で見たいなんていう趣味の持ち主じゃなくて、ほんまに助かった。
 濡らさないようにリビングに置きっぱなしにしてあった携帯電話をとって、俺は山ほど登録されてる名前の中のひとつに電話をかけた。しばらく呼び出し音が続いたが、相手は必ず出るはずやった。
 やがて電話から、耳に覚えのある五十代くらいの男の声が出た。
「こんにちは。藤堂さん。先日はどうも」
 愛想よく挨拶すると、電話の向こうの相手は、ポカーンみたいな息詰まる沈黙だった。
 どこにいるのかと、藤堂さんは訊いてきた。それは秘密ですと俺は答えたけど、調べようと思えば調べられるんちゃうやろか。
 藤堂さんは、例の、アキちゃんが姫カットに振られたホテルの支配人や。そこのエントランスから、俺はぐでんぐでんのアキちゃんを連れてタクシーに乗った。それだけなら珍しくないことなのかもしれないけど、俺の顔は目立つし、それに、その目立つ顔が、バックミラーに写らなかったことを、運転手さんは気がついたやろう。クリスマスの怪談やなんて、無粋やったけど、アキちゃんが離れたくなさそうやったから、俺だけ助手席に乗るわって訳にもいかへんかった。だって可哀想やん。
「また急で悪いんやけど、今夜から十五日まで泊めてくれへん? 別にどんな部屋でも贅沢言わへんよ。この時期の京都で部屋に空きがないのは承知してます。無理を承知でさ、そこをなんとか」
 調子よく頼んでみたけど、藤堂さんの返事は鈍かった。それでも空きを調べてはくれてるらしかった。内線と話しているような声を、電話が拾っていた。
 十一階は無理だと、藤堂さんは済まなそうに言った。そこはインペリアル・スイートだ。そんなんかまへん、普通の部屋でええよと、俺は答えた。だけどまあ、できればダブルベッドの部屋にしてよ。クリスマス・イブのすっぽかしの、埋め合わせをしろという事なんやったら。
 つい、いつもの軽口で、俺がそう言ったら、後ろでかちゃんと何かが落ちる音がした。
 振り返ってみると、床に落とされた車のキーだった。
 アキちゃんが出かけるつもりで、鍵を取りに来て、それで落としたんや。
 電話の向こうで藤堂さんが何か喋っていた。でもそれは俺にはよく聞こえなかった。呆然とした無表情でこっちを見ているアキちゃんと向き合った、自分の心臓の音がうるさくて。
「アキちゃん、いたんや。冗談やねん、今のは」
 俺はとっさに言い訳してたが、嘘をついてた。冗談というわけじゃなかった。
 藤堂さんは、俺が好きらしい。でもそれは、俺と寝ると元気が出るからやねん。藤堂さんは癌でな、ほっとくと死ぬらしいで。でもそれが嫌やから、俺に貢いで、ちょっとばかし延命させてもらってるような次第やねん。アキちゃんとは、全然違う。俺も藤堂さんは優しくて好きやけど、アキちゃんを好きなのとは、全然違うんやで。
 あの夜、俺はただボケッと待ってるのも退屈やから、藤堂さんの仕事が終わるまで、バーテンごっこで暇つぶししてたんや。だけどアキちゃんが寂しそうすぎて、とてもやないけど置いていかれへんかった。後先考えもせず、ここに来たんやで。ほんまは俺がアキちゃんに惚れて、口説いたんかもしれへん。そのほうがずいぶん、自然な話や。
 でもアキちゃんはあの時、ほんまに自分から言うたんやで。お前は綺麗やなあ、触ってもええか、って。どろっどろに酔っぱらってたから言えたんやろうけど、そうやって頬に触れてきた手が気持ちよくて、俺は蕩けそうやった。
 それからずっと、ここにいる。アキちゃんが追い出すから、仕方なく、よそに行くんやで。それに、お互い様やん。アキちゃんちの風呂の排水溝からだって、長い髪の毛出てきたで。
「行くか、一緒に」
 アキちゃんは、まだ呆然としたまま、ぽつりと訊いてきた。
「行くってどこへ。買い出しなら、もうええよ。アキちゃんが戻ってくるまで、俺もなんとなく生きとくから」
 ホテルっていうのは、俺みたいなのが寄生するには、いいところやで。人も入れ替わり立ち替わり、いろんな人がやってくるし、一人旅のやつは一人で飯を食う。ベッドもいっぱいあるし。それに、チェックアウトしたあとの客が、どこぞの竹林で死体になってても、それはホテルの責任やない。よくある話や。傷心旅行して、嵯峨野で自殺、みたいなさ。俺も時々、猛烈に腹の減る時があるねん。
 でもそんなやつが、アキちゃんみたいなやつと、一緒に暮らそうというのが、そもそも贅沢かな。
 夢見たり、夢から醒めたり、ほんま忙しいわ。アキちゃんといると。
「そうやなくて。嵐山に、お前も一緒に行くか」
「なんで。お母さん、びっくりしはるやろ」
 俺は怖くなって、それを隠そうと必死で微笑していた。
 このマンションの結界を張ったんは、たぶんアキちゃんのお母さんやで。可愛い一人息子に悪い虫がつかへんようにかな。だけどまさか手繋いで入ったら通れるなんて、お母さんにも盲点やったんやろか。アキちゃんにはそれだけの力があるらしいねん。
「びっくりするやろか」
 ぼんやりとしたような口調で、アキちゃんは呟いていた。
「でも、いつかはバレると思うねん。前の女のことも、いっぺんも話してへんのに、おかんは知ってた」
 アキちゃんはふと、苦笑して俺を見た。
「盗聴とか盗撮とかは、されてないはずなんやけどなあ。誰も部屋に入れてへんし。誰か入ってきてたら、俺には分かると思うねん。そんなんされてたら、ヤバいで、ほんまに。特にこの、一週間は……」
 自嘲したような顔で、ため息をひとつついて、アキちゃんは落としてた車のキーを拾った。
「行こか。掃除は、もうええわ。街で遊んで、それから嵐山に行こう。何やったら、街で年越しそば食ってからでもいいし、お前が嫌なんやったら、どこか別のところへ走ってもええんや」
 その話をしているアキちゃんは、すごく苦しそうに見えた。なんて答えたもんやら分からず、俺はぼんやりと黙っていた。手に握ったままでいた携帯電話は、ふと気づくと、まだ通話中の表示になっていた。俺は深く考えずに、その通話を切った。
 藤堂さんは、死ぬんやろうかと、ちらっと思った。俺がおらんようになったら、あの人はもうすぐ死ぬんやろうか。それは俺のせいか。ただの運、不運やないか。
 仮にも情の通じ合った人の生き死について、そんなふうに思うのは、あまりに薄情という気はした。
 だけど俺も死ぬと思う。アキちゃんに振られたら。お前とは、もう終わったって、そう言われたら、俺も消えてしまうやろう。あの、姫カットの女みたいにさ。
 アキちゃんが絵を描いてた、あの部屋から出てきた時にも、あの可愛い女の子は、まだじっと部屋を睨んでた。
 うちは、あの絵が欲しかったんやないの。暁彦君が欲しかってん。せやけど、どうにも無理やった。生きてるうちでも無理やったやろけど、死んでもうたら、もう無理なんやね。せやから代わりにせめて、あの絵だけでも欲しかってん。うちの気持ち、分かってくれはるやろ。
 はんなりと儚げなように喋る女やった。
 ついてきてくれと言う女に連れられて、アキちゃんが行くなと言った裏手の竹林に行ってみると、建物のすぐ下に、恐ろしく降り積もった竹の葉の、すっかり枯れ果てた深いしとねがあって、その奥底のあたりで、女は骨になっていた。
 綺麗な骨やなあと褒めてやると、女は恥じらって、肉のある時にはブスやったんえと、困ったように言った。それが元でかは、曲がりなりにも男のなりをしている口からは訊ねなかったが、女は世をはかなんで作業棟から身を投げたらしい。誰もそれを見つけなかった。その割に、幽霊が出るとか、死体があるとか、変な噂が流れたのは、人の持つ勘というものやろか。
 女はいつも、絵を描いてるアキちゃんを見てたらしい。惚れっぽいやつや。また面食いの男に惚れて。その同級生の中でいちばん可愛いにとりついた。それでまんまと最上階の部屋ペントハウスに凱旋したんやけども、取り憑いた娘をしだいに食らいつくすうちに、悪霊と化してきて、おかんのホームセキュリティに引っかかるようになってきた。アキちゃん自身も眩しすぎた。たかが一介の幽霊ちゃんで、ただ恨んで死んだというだけの身では。
 可哀想な話やった。
 今生の別れに、いっぺんお前の本当の姿を見せてやったらどうやろ。ほんまはどんな相手と半年暮らしたか、アキちゃんは知りたいかもしれへん。そう言って俺は励ましたけど、女はいややと言った。うちはほんまにブスやねん。どうせお別れするんやったら、綺麗な女やったと思っててもらいたいんやもん。
 そうか。成仏しろよと、声をかけてやると、憎い男と、怨霊は呟いた。そして取り憑いていた可愛らしい顔の女ごと、ほどけるように霧散して、どこかへ消え去ってしまった。
 地獄へ行ったかもしれない。人ひとり呑んでいったのだから。
 それともまだどこかを彷徨っているのか。
 もしかすると俺もそんなふうにして、生まれたんやろかと、薄暗い竹林の、葉擦れがざわざわ鳴る中で、そう思えた。綺麗な顔やなあとアキちゃんが褒めると、いつも胸が疼いた。
 これがほんまの俺の顔やろか。醜かったらアキちゃんは、触れたくなかったろうか。
 そうでないといいと思う。もしも、もう、自分でもどんなだったか忘れてしまった、芯のところにある本当の姿を見ても、それでもあの人が俺の名を愛しく呼んでくれたらと、そういう夢を見てる。あるいはその姿が、醜くなければいいがと。
 綺麗に浄化されたら、影も形もなくなってしまうような、呪われた身だろうか。
 そんな体で、アキちゃんのお母さんとこ行って、生きて戻れるんやろかと、ほとほと心配になった。
「アキちゃん、俺、怖いわ。お母さんはなんて言わはるやろ。もし俺に、よそへ行け言わはったら、アキちゃん一緒に行ってくれるか」
 心弱くなって頼むと、アキちゃんは黙って、頷いてくれた。俺はそれに、微笑むことができた。作り笑いではない芯からの笑みで。
「でもその前に、せっかくやから街で遊んで、蕎麦食っていきたい。今生の名残を惜しんどく」
「大げさやな。おかんがお前をとって食うわけやないやろ。嫌やったら帰りゃええねん」
 怒ったみたいな口調のアキちゃんに、俺は慌てて頷いていた。でもやっぱり怖い話やで。もしも俺が人ならぬ身でなくても。お母さん、お母さんのことをお母さんと呼んでいいですかというのはさ。
 俺にこんな日がくるなんて、長い長い生涯でも初めてのことや。
「アキちゃん、抱いて、キスしてくれへんか。朝からいっぺんもしてへん。俺、寂しいねん」
 正直に頼むと、アキちゃんは不機嫌なような、妙な顔をした。恥ずかしいらしかった。
 それでも、つかつかとやってきて、無造作なように俺を抱いた。その腕はやけに強かった。アキちゃんは長身の男で、抱き合うと俺の瞼のあたりに唇がきた。
 ためらってるのか、アキちゃんはすぐには唇を合わせなかった。ただ、俺の瞼のあたりに顔を擦り寄せてきて、亨、と俺の名前を呼んだ。
 俺にも名前があって良かったと、またそのことを思った。あの姫カットの女は、なんて名前やったんやろう。アキちゃんが抱くとき呼んだ名は、そっちの可愛いのほうので、中にいたブスのほうは、きっと悲しかったやろう。あの子は気の毒に、アキちゃんにいっぺんも名前を呼んで貰えなかった。
 猫でも飼うかなあと、抱かれながらぼんやり思った。あの子の名前をなんとか調べてやって、猫におんなじ名前をつけてやったら、面倒見のいいアキちゃんは、きちんと世話してくれるやろう。いなくなったら名前を呼んで、エサも食わして、時には抱いて撫でてくれるかもしれへん。
 俺はそれには妬けるやろけど、それもひとつの罪滅ぼしだ。まだ戻れたかもしれへん、あのから、戻るところを奪ってしもた。人殺しの罪を犯すと、畜生道に堕ちるとか言うで。そうやって前世の罪を購うんやって。だから猫にでも、生まれ変わってきたらええよ。
「アキちゃん、俺、アキちゃんのことがほんまに好きや。でも俺はここにいてもええんやろか。大勢の人を呑んできたような気がするけど、そんな俺でもアキちゃんは好きでいてくれんの?」
「アホか、お前は。ほんまに……なにを言うねん。俺を殺す気か」
 何を思ったんか、アキちゃんは俺を抱いたまま、天井を仰いで悶絶したような声だった。
「お前がどんなやつか、俺はまだよくは知らへん。そんなんは、どうでもええねん。でも、俺と居るときは、俺だけにしてくれ。頼むから……亨、俺だけにしてくれ」
 喘ぐようにそう言って、アキちゃんは俺の顎を掴み、熱いキスをした。それはいつになく激しかった。アキちゃんも、こんなことできるんやと、俺はうっとりしながら強く抱かれていた。
 触れあったところから体が溶け合って、ひとつになるような心地がした。アキちゃんが俺を、綺麗にしてくれる。そんなような気がして、俺は朦朧とした。熱くうねる奔流のような力が、アキちゃんから俺に、流れ込んでくるようだった。
 それはベッドで抱き合って、汗まみれで達する時と、よく似ていたけど、それよりももっと純粋な何かだった。
 亨、と、アキちゃんが俺を呼んでいた。耳で聞く声だったか、それとも心に聞こえる声だったか、それは良く分からない。アキちゃん、大好きと、俺は心で答えたけど、それはたぶん聞こえていなかっただろう。言葉を尽くしても、その気持ちは伝えきれない。ただ黙って抱き合って、貪り合うしか、その情念を教える方法がない。
 アキちゃんは何も言わなかったけど、言葉ではない何かで、俺が好きだと言っていた。その強い腕で、燃えるようなキスで。
 激しく貪られながら、俺は幸せやと思った。
 幸せや、ずっと離さんといてと、そう祈っていた。


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